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帰ってきた竜馬 第五編

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(1)

140年ぶりに

帰ってきた龍馬

「少年よ、ベンチャーとなれ!!

人と地球の共生のための

第0次的産業の創出を!!」

第5巻

く少年龍馬のベンチャーとイノベーシ

ョンがニッポンの危機を救うの巻)

【京各大学教授、 VBL(ベンチャーゼジネス・ラボラトリー)搬長〕

著者工 学博 士 久米 正一

(2)

維新前夜、近江屋から突然姿を消して、

以来140年ぶり、京に

帰ってきた龍馬

旧土佐藩邸(現在、京都大学農学部)より

松重の作った新しいイノベーション

太陽光電気自動車に乗って

久し振りに新緑の香りがする都の街へ

大きく変動したニッポンを眺めつつ

松重に語りかけた。

「ニッポンの少年よ!

ベンチャーになれ!!」

そして、

「ニッポンを今一度

せんたく(洗濯)いたし・・・」

(3)

帰ってきた

ってきた

ってきた龍馬

ってきた

龍馬

龍馬

龍馬

京都大学 大学院工学研究科 教授 VBL施設長 松重 和美 科学技術や産業・工業の分野で飛躍的な進展があった20世紀に続き、現在21世紀 は、環境・エネルギー、そして人・生命の時代と言われる。地球温暖化の問題、そして 爆発的に増加する人口と、これまで人類が経験したことが無いような複雑な要因を伴う 諸課題に対する解決に、我々は立ち向かって行かなくてはならない。どのような考え方 で、どこから・どこを拠点に、そして誰が行なうのか、現状を分析し、先見性・信念を 持ち、そして個々人が具体的に行動を起さなければ、世の中は変わらない。 このところ日本を取り巻く環境、我が国の世界におけるプレゼンス、そして世界その ものが大きく変化し、いろんな階層でパラダイムシフトが起こっている。先述の地球規 模の諸課題の解決には、単に科学技術に留まらず、世の中の仕組み、そして我々人間の 考え方における発想の転換など、より良い社会の実現に向けた変革を目指すイノベーシ ョンが必要である。それには、なによりも新たな分野にチャレンジする人材、ベンチャ ー精神に富んだ若者の存在が不可欠である。 最近の世の中を変えるような事例を幾つか挙げてみよう。アップル社のiPod(携帯音 楽プレーヤー)、iPhone(携帯端末), iPad(タブレッド型情報端末)といった一連の 製品群はその代表例であろう。これらは音楽や情報通信機能をより見近に感じる事が出 来るようにし、ユーザー目線でユーザーが望むものを実現したデバイス(電子機器)で あリ、世界にその製品は注目を持って迎えられている。それらの開発の立役者は、アッ プル社創業の一人であり、現在CEOのスティーブ・ジョブスである。彼は20歳台で起 業し、Apple computer、パソコン(Mac)やコンピューターソフトに加え、上述のような 情報機器に新たな視点を加え、最先端技術を融合して、こうした製品を世の中に出して きている。既存の組織、製品の改良ではなく、ゼロからのスタートでベンチャー企業を 創り、短期間に世界有数のグローバル企業に成長させ、こどもから老人まで多くの人々 が感動する製品を作り出してきているのである。 次に、最近改めて注目を集めているものとして、電気自動車がある。電気自動車その ものは、モーターとバッテリーと車体から構成されるもので、現在普及しているエンジ

(4)

が要望されている車である。実は、ガソリン車と電気自動車、これらは駆動方法が違う だけでなく、現在大きな産業となっている自動車の産業構造そのものを変革する可能性 がある。エンジンを中心とした“すりあわせ技術”を中核として,部品・車体・システ ムを統合する製造会社、更には販売・整備の系列会社も含むような垂直統合。ピラミッ ド型の現在の巨大組織・ガリバー企業から、今後はモーター・バッテリー等の主要部品 を、高性能で、より低価格の部品を世界から寄せ集め、組み立てるような中小企業、ベ ンチャー企業が台頭する事も想定される。正に、図に示すように、電気自動車産業は先 に述べたiPadのような水平的な産業構造となる可能性がある。事実、世界一の生産.販 売国となった中国ではそうした事態が起こりつつある。そこには、これまでの常識とは 異なる動き、人々の考え方・取組みがある。 車の分野ではこうした製造方法・産業構造の変革の他にも、人・社会と車の関係にも 新たな取り組みも出てくるであろう。表紙の写真にもある竹型電気自動車“Bamgoo(バ ングー)”は、自然素材・伝統工芸を活用して、筆者らのグループで製作した環境・人 に優しい車である。竹という自然素材を用い、これまで装飾品など主に室内用製品を造 るのに発展してきた竹工芸技術を、車のボデイーという外装品に活用したものであり、 衝突しても車の方が変形し(修復可能)、むしろ相手(人など)へのダメージが少ない という現在の車優先の思想とは異なるものでもある。更に、電気自動車を普及させるに は、充電設備などの社会インフラの整備が必要であり、これまでのようなガソリンステ ーションから、図に示すような太陽電池の屋根を持つような充電ステーションが誕生し、 巻頭言-2

(5)

新たなサービス産業が登場するなど,21世紀のグリーン・イノベーションが現実のも のとなってくるであろう。 さて、本書『帰ってきた龍馬』は、財団法人科学技術振興育英財団理事長の久米正一 工学博士が現況の日本を鋭く分析し、人・環境を主役とした新たな産業(第0次産業) 創成を、地域から、そして特にこれからの日本・世界を背負って行く若者に期待を込め、 熱く呼びかけたものである。明治維新の立役者、坂本龍馬がもし現在の日本,京都に戻 ってきたならば、彼が感じるであろう事柄、例えば現況への憤慨などを表したり、この 世の中の変革をして頂きたいとの願いを若者に語るという“仮想の語り”を各章の頭に 冠したユニークな本の構成となっている。停滞する日本の現状を政治・経済・社会の面 から独自に分析し(一部、異論を抱く読者もあるかも知れないが)、今後老齢化が進む 日本を如何に活性化するか、そのエッセンスを具体的事例、そして詳細なデータととも に提示した異色・意欲あふれる内容となっている。その願いは、主に10歳台の若者に 向けられている。これで、現状とは異なる新たな価値観、社会・経済のあり方を、まさ にベンチャー的精神で切り開くことを期待し、“現在の坂本龍馬”の出現を願ったもの である。 平成22年6月18日

(6)

帰ってきた龍馬は、電気自動車の車中で、長崎での160年前のことを思い出してい た。写真は、龍馬が、1865年に、長崎の亀山で薩摩藩などの援助により、長崎・伊 良林に同士と組織した日本最初のカンパニーといわれる亀山社中である。亀山社中は、 海運業を中心とした商業活動のほか、薩長同盟を基軸とした倒幕運動に参画。幕末維新 史において重要な役割を果たした。 出島は 1634 年から 2 年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長 崎の有力者に命じて長崎に築造された人工島である。

第 10

10

10

10 編

少年龍馬

少年龍馬

少年龍馬

少年龍馬の

の芽生

芽生

芽生え

芽生

え、

、成長

成長、

成長

成長

、そして

そして

そして

そして、

、脱藩

脱藩

脱藩ベンチャー

脱藩

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

龍馬

龍馬

龍馬

龍馬の

の明日

明日

明日への

明日

への

への

へのイノベーション

イノベーション

イノベーション

イノベーション

長崎港図 長崎港図 長崎港図 長崎港図ににに描に描描かれた描かれたかれた出島かれた出島出島。出島。江戸時代。。江戸時代江戸時代江戸時代ののの銅版画の銅版画銅版画 銅版画 亀山社中 亀山社中 亀山社中 亀山社中

(7)

第 10

10

10 編目次

10

編目次

編目次

編目次

少年龍馬

少年龍馬

少年龍馬

少年龍馬の

の芽生

芽生

芽生え

芽生

え、

、成長

成長

成長、

成長

、そして

そして

そして

そして、

、脱藩

脱藩

脱藩ベンチャー

脱藩

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

龍馬

龍馬

龍馬

龍馬の

の明日

明日

明日への

明日

への

への

へのイノベーション

イノベーション

イノベーション

イノベーション

第 33

33 章

33

33

少年龍馬

少年龍馬の

少年龍馬

少年龍馬

の芽生

芽生

芽生

芽生え

え、

、成長

成長

成長

成長・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・静的

静的

静的

静的イノベーション

イノベーション、

イノベーション

イノベーション

、そして

そして

そして、

そして

脱藩

脱藩

脱藩

脱藩

“ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー”

33 33 33 33‐‐‐1‐111...母.母母の母の死のの死死、死、、、いじめでいじめでいじめでいじめで不登校不登校不登校不登校になったになった龍馬になったになった龍馬龍馬龍馬はははは、、、、乙女姉乙女姉乙女姉さんに乙女姉さんに鏡川さんにさんに鏡川鏡川に鏡川にに投に投投投げげげ げ 込 込 込 込まれてまれてまれて、まれて、、自治自主、自治自主自治自主自治自主にに芽生にに芽生芽生え芽生ええ、え、江戸、、江戸に江戸江戸にに飛に飛飛飛びび立びび立立立つつつつ 33‐1‐(1). 龍馬の泣き虫・ハナタレ幼少時代 33‐1‐(2).「ワシが12歳のとき、楠山庄之助塾に入ったが・・・」 33‐1‐(3).「ワシが12歳のときに母が亡くなり、悲しい日々であった。そし て、母親代わりの乙女姉さんからは、しごきを受ける毎日であっ た。」 33‐1‐(4).「ワシが13歳のとき、不登校になり、とうとう、楠山庄之助塾を 辞めてしまった。」そして「独学」へ 33‐1‐(5).「ワシが13歳のとき、継母(ままはは)の事業:下田屋に行き、 猪三郎から世界地図や輸入品など西洋のことを聞かされたのじ ゃ。」 33‐1‐(6).「ワシが14歳のとき、日根野道場に入門して、気質は“一変”、 剣の腕がみるみる上達し、鍛えたのじゃ。」 33‐1‐(7).「ワシが20歳のとき、河田小龍に会って、アメリカのことを聞い たのじゃ。」 33‐1‐(8).「ワシが21歳のとき、西洋式砲術訓練に参加して、目標物に命中 させたのじゃ。」 33‐1‐(9).「ワシが25歳のとき、西洋砲術と西洋に関する事柄を学んだのじ ゃ。」 33 3333 33‐‐2‐‐222....江戸江戸江戸で江戸でで新で新新新しいしいしいしい明日明日明日明日の時代ののの時代時代時代のののの“科学“““科学、科学科学、、、思想思想思想、思想、、起業、起業起業起業””””へのへのへのへの「「「「静的静的静的静的イノベイノベイノベイノベ ーション ーション ーション ーション」」」」をををを学学学学ぶぶぶぶ

(8)

33‐2‐(3).「ペリーが浦賀に来航し、警備に当たったのじゃ。」 33‐2‐(4).「佐久間象山先生に入門し、西洋砲術について学んだのじゃ。」

第 34

34 章

34

34

脱藩

脱藩

脱藩

脱藩

“ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー”

ベンチャー

「前

前」

」の

の龍馬

龍馬

龍馬の

龍馬

の静的

静的

静的(

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思考的

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思考的

、潜在的

潜在的

潜在的)

潜在的

イノベーション

イノベーション

イノベーション

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―Static

Static

Static

Static イノベーション

イノベーション

イノベーション

イノベーション

34 34 34 34‐‐1‐‐1.11...脱藩脱藩脱藩脱藩「「前「「前前」前」」」のののの“科学技術“““科学技術科学技術”科学技術”””のののの「静的「「「静的静的静的イノベーションイノベーションイノベーションイノベーション」」」」 34‐1‐(1).江戸にて佐久間象山から新しい“科学技術”の西洋砲術とそのため のオランダ語を学ぶ 34‐1‐(2).高島流徳弘孝蔵砲術に入門し、七町(約700m)先にある目標物 に命中させ、新しい“科学技術”の必要性を・・・ 34 34 34 34‐‐2‐‐2.22...脱藩脱藩脱藩脱藩「「前「「前」前前」」」のののの““““起業起業・起業起業・・創業・創業創業創業””””のののの「静的「「「静的静的イノベーション静的イノベーションイノベーション」イノベーション」」」 34‐2‐(1). 龍馬、楠山庄之助塾に入って、生きていくための“起業”の勉強を 始める 34‐2‐(2).龍馬、勉強ができず、いじめにあって不登校になり、“起業”への 挫折 34‐2‐(3).姉乙女と浦戸湾を船で渡り、土佐藩の御船蔵のあった川島家で、世 界地図とヨーロッパの商品の輸入品を見て、世界への“起業”に目 覚める。 34 3434 34‐‐‐‐3333....脱藩脱藩脱藩脱藩「前「「「前前前」」」」のののの“思想政治“““思想政治思想政治思想政治””””のののの「静的「「「静的静的イノベーション静的イノベーションイノベーション」イノベーション」」」 34‐3‐(1).黒船の砲艦が幕府とニッポンに開国を迫る。 34‐3‐(2).河田小龍から、ジョン万次郎が体験をした世界の話を、聞き、龍馬 は感銘し、眼は世界の“思想政治“へ 34‐3‐(3).アヘン戦争で中国(清王朝)倒れる。強力な大砲と蒸気船のないニッ ポンはピンチ…。龍馬、開国か攘夷か。 34‐3‐(4).土佐藩の武市半平太の「勤王運動」と、吉田東洋の「公武合体」の 土佐の“思想政治”運動に参加 34‐3‐(5).長州尊王運動の久坂玄瑞から諸国の新しい“思想政治”運動を教わ り、脱藩へ・・・。

第 10 編目次-2

(9)

第 35

35 章

35

35

脱藩

脱藩

脱藩

脱藩が

が龍馬

龍馬

龍馬の

龍馬

“ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー”

、すなわち

すなわち

すなわち、

すなわち

明日

明日

明日

明日

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への

への

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“新科学

新科学

新科学

新科学

技術

技術

技術

技術、

、新起業

新起業

新起業

新起業・

・創業

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創業

創業

、そして

そして

そして

そして

明日

明日

明日

明日

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への

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“新政治

新政治

新政治

新政治”

への

への

への

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タートアップ

タートアップ

タートアップ

タートアップ”

35 35 35 35‐‐‐1‐111....薄暗薄暗薄暗い薄暗いいい檮原村檮原村の檮原村檮原村ののの森森森の森の中のの中中中をををを走走りぬけた走走りぬけたりぬけたりぬけた。。。。振振り振振りり返り返返返るとると土佐るとると土佐土佐土佐のののの城下町城下町城下町が城下町ががが見見見見 えそうだった えそうだった えそうだった えそうだった。。そして。。そしてそしてそして、、、また、またまたまた、、暗闇、、暗闇暗闇の暗闇のの茂の茂茂茂みをみを竜馬みをみを竜馬は竜馬竜馬はは走は走走走ってって脱藩ってって脱藩脱藩した脱藩したした。した。。 。 35 35 35 35‐‐‐‐2222...脱藩.脱藩脱藩脱藩がが龍馬がが龍馬龍馬の龍馬ののの““““ベンチャーベンチャーベンチャーベンチャー””、””、すなわち、、すなわちすなわちすなわち、、、、明日明日明日明日へのへのへのへの““新科学技術““新科学技術新科学技術新科学技術、、、、 新起業 新起業新起業 新起業・・・・創業創業創業創業””””、そして、、、そしてそしてそして明日明日明日明日へのへのへのへの“新“““新新政治新政治政治政治””””へのへのへのへの““スタートアップ““スタートアップスタートアップスタートアップ””” ”

第 36

36 章

36

36

脱藩

脱藩

脱藩

脱藩ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

「後

後」

の龍馬

龍馬の

龍馬

龍馬

動的

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動的

動的

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行動的

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、起業的

起業的

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起業的

イノ

イノ

イノ

イノ

ベーション

ベーション

ベーション

ベーション

―Dynamic

Dynamic

Dynamic

Dynamic イノベーション

イノベーション

イノベーション

イノベーション

36 36 36 36‐‐‐1‐111...龍馬.龍馬龍馬龍馬のののの““““科学技術科学技術科学技術”科学技術”””におけるにおけるにおけるにおける「「「「動的動的動的イノベーション動的イノベーションイノベーション」イノベーション」」」・・・・・・・・・・・・新蒸気船新蒸気船新蒸気船、新蒸気船、、 、 新航海技術 新航海技術新航海技術 新航海技術、、、、新新新しい新しい大砲しいしい大砲大砲大砲などなどなどなど

36‐1‐(1). 龍馬は脱藩後、江戸に向かって勝海舟に会い、新しい蒸気船の技術 を知る。 36‐1‐(2).勝海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭で参加。新しい航海術技術を学 ぶ。 36‐1‐(3).勝海舟は、幕府から「神戸海軍操練所」の許可を受けた。そこで、 新しい大砲の軍事技術を学ぶ。 36‐1‐(4). 海軍塾の資金不足で、福井藩主松平から松平春嶽に5000両の借 金を申し込み、新しい防衛技術の海軍塾の存続 36‐1‐(5).京都池田屋事件で海軍塾の取り潰し、龍馬は・・・・・

36‐1‐(6).ホームレスの浪人の海軍塾の塾生を連れて、薩摩藩の支援で、何と か長崎にたどり着く。そこで、欧米の新しい“科学技術”に接触 36‐1‐(7).長崎には、当時の世界最先端をいく“科学技術イノベーションバレ ー”があった。 36 36 36 36‐‐‐‐2222...龍馬.龍馬の龍馬龍馬ののの““起業““起業起業起業・・創業・・創業創業創業””””のののの「動的「「「動的動的イノベーション動的イノベーションイノベーションイノベーション」」」」 36‐2‐(1).薩摩藩の支援を得て、航海塾を用いた商業活動を長崎の小曾根家、 下関の伊藤家、そして、京都酢屋に事務所をおいて商業活動を開始 36‐2‐(2).亀山社中の初仕事は武器を薩摩藩から長州藩への密売

(10)

36‐2‐(4).薩摩藩の資金援助が鈍り、亀山社中の商業活動がピンチ、龍馬は金 に困った。 36‐2‐(5).土佐藩後藤が、土佐藩への支援を要請、龍馬の海援隊がベンチャー 起業としてスタート 36‐2‐(6).薩摩藩校の洋学校「開成所」で、「あらゆる事物を開発し、あらゆ る事業を成就する」という「開物成務」を学ぶ。 36 36 36 36‐‐3‐‐333....““““思想政治思想政治”思想政治思想政治”””のののの「「動的「「動的イノベーション動的動的イノベーションイノベーションイノベーション」」」」・・・・・・・・・・・・幕府幕府に幕府幕府ににに変変変わる変わるわるわる新政府新政府新政府新政府 36‐3‐(1).脱藩した龍馬は、長州、下関、薩摩、そして、大坂、京都を経て江 戸へ、そこで、新しい政治の流れ 36‐3‐(2).龍馬、久坂玄端、武市半平太、高杉晋作らと万年楼にて一献し、ニ ッポンの新しい政治を議論 36‐3‐(3).龍馬、福井藩主・松平春獄に謁見し、新しいニッポンの姿を聞く 36‐3‐(4).勝海舟の刺殺に行った龍馬は、海舟の世界情勢と開国論に・・・ 36‐3‐(5).勝海舟に従い「順動丸」にて、神戸から伊豆下田を経て品川へ、ニ ッポンの開港と防衛 36‐3‐(6).龍馬、幕臣大久保一翁と会い、徳川幕府に変わる新しいニッポンの 姿を教わる。 36‐3‐(7).福井藩で横井小楠に面談し、船中八策の基本を教わる。 36‐3‐(8).将軍家茂、幕府軍艦「翔鶴丸」にて上洛。勝海舟、蒸気船8隻の大 艦隊を率いる。その後、龍馬、海舟と共に九州へ向かう 36‐3‐(9).1864年、池田屋事件で勝海舟、軍艦奉行罷免され、龍馬ホーム レスとなる。 36‐3‐(10).ホームレスとなった龍馬が小松帯刀、西郷隆盛の援助で商船活動 を開始 36‐3‐(11).長州藩との取り引きで、亀山社中大活躍 36‐3‐(12).龍馬!!念願の薩長同盟成立へ 36‐3‐(13).第二次長州征伐、長州藩と江戸幕府との戦い。龍馬、海戦図を添 えて兄へ手紙を送る。 36‐3‐(14).船中八策で新しい国家体制のしくみづくりへ 36‐3‐(15).江戸幕府倒幕へ。長い歴史に幕を下ろす。龍馬の船中八策が 大政奉還の原案となる。 36‐3‐(16).龍馬が暗殺され、龍馬のイノベーション、ここで途切れる。 第 10 編目次-4

(11)

第 33

33 章

33

33

少年龍馬

少年龍馬の

少年龍馬

少年龍馬

の芽生

芽生

芽生

芽生え

え、

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成長

成長

成長・・・・・・

・・・・・・静的

・・・・・・

・・・・・・

静的

静的

静的イノベー

イノベー

イノベー

イノベー

ション

ション

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、そして

そして

そして

そして、

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脱藩

脱藩

脱藩

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ベンチャー

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33

33

33

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11

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いじめで不登校

いじめで

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不登校

不登校

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になった

龍馬

龍馬は

龍馬

は、

、乙女姉

乙女姉

乙女姉

乙女姉さんに

さんに

さんに

さんに鏡川

鏡川

鏡川

鏡川

に投

投込

込まれて

まれて

まれて、

まれて

、自治自主

自治自主

自治自主に

自治自主

に芽生

芽生

芽生

芽生え

え、

、江戸

江戸

江戸

江戸に

に飛

飛び

び立

立つ

33

33

33

33‐

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11

1‐

(1).龍馬

(1).

(1).

(1).

龍馬

龍馬の

龍馬

の泣

泣き

き虫

虫・

・ハナタレ

ハナタレ

ハナタレ幼少時代

ハナタレ

幼少時代

幼少時代

幼少時代

女子マネ:「龍馬さんの幼少時代は、どのように過ごされていたのですか・・・?」 龍馬:「ワシの幼少時代は、臆病で意気地の無く、10歳になっても、寝小便をす る癖が直らなかったハナタレ小僧であった。」 女子マネ:「近所の子供達からは、何と呼ばれていたの・・・?」 龍馬:「『寝小便たれ』と呼ばれ、からかわれていたのじゃ。」 女子マネ:「子供達に何か言い返したの・・・?」 龍馬:「気が弱くて、何も言い返すことができずに、泣かされてばかりいたのじゃ。 それも、べそべそとワシが長泣きをしながら、家に戻ってくるので、城下 では『坂本の泣き虫』と言う呼び名がつけられていたのじゃ。」 龍馬は、1835年11月15日、家老福岡家の預かり郷土・坂本八平直足と幸 の間に生まれた。龍馬という名前の由来は、龍馬が生まれる前、父の八平は黄金の駒 が天から駆け下りて懐に入る夢を見、母親の幸は龍が雲に乗って火を吹きながら体内 に入る夢を見た。そして、龍馬が生まれた時に、顔中一面に黒子があり、背中には馬 の鬣に似た毛が密生していたので、龍馬と名づけた。 龍馬家は、母・幸と郷土の御用として藩の仕事をしている父・八平、21歳の兄 の権平、3人の姉の千鶴、栄、乙女がいた。龍馬は、臆病で意気地の無い子供で、1 0歳になっても寝小便をする癖が直らないハナタレ小僧だったので、近所の子供たち から「寝小便たれ」とからかわれていた。気の弱い龍馬は言い返すこともできずに、 いつも泣かされてばかりいた。時々、近所の子供達にまじって、すぐ近所の築屋敷(地 名)の河原などで遊んだりすることはあったが、たいていは泣かされて帰ってきた。 それも屋敷までの間、二丁も三丁もべそべそと長泣きをしながら戻ってくるために、 城下では誰でも「坂本の泣き虫」と言えば「ああ、本町筋のハナタレのことか」とい

(12)

33

33

33

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11

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(2)

(2)

(2)

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「ワシ

ワシ

ワシが

ワシ

が12

12歳

12

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歳のとき

のとき

のとき

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、楠山庄之助塾

楠山庄之助塾

楠山庄之助塾

楠山庄之助塾に

に入

入ったが

ったが

ったが

ったが・・・

・・・

・・・

・・・」

女子マネ:「龍馬さん。12歳の時に、塾に入ったのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシは、『楠山庄之助塾』に入塾したのじゃ。」 女子マネ:「どのようなことを勉強したの?」 龍馬:「習字や漢字の勉強をしたのじゃ。」 女子マネ:「塾の勉強に、ついていけていたの・・・?」 龍馬:「塾に入って、習字や漢字などを教えてもらってはいたが・・・頭で容易に覚 えることができなくて、勉強が進まず、あくびや鼻をほじったりしてい た。また、通学途中で、塾生からからかわれていたりしたのじゃ。」 女子マネ:「からかわれて泣いて帰ったの・・・?」 龍馬:「そうじゃ。泣きながら、家に帰ったのじゃ。塾に行っても、泣かされて いたのじゃ。」 1846年、龍馬が12歳の時、ひとなみに父は龍 馬を学塾に入れた。城下では、藩の上士の子が上町の島 崎七内塾に通い、軽格の子弟は、主に車瀬の池次作、大 繕町の楠山庄之助塾に通ったが、龍馬が入塾したのは、 この楠山塾である。当時、楠山塾は、生徒数120人、 先生は塾長の楠山庄之助を含めて2人で、習字や漢学 (躾を含む)などを行っていた。 しかし、龍馬は、文字を教えられても、頭で容易に覚えられない様子で勉強は 進まず、あくぴをしたり鼻をほじったりしていた。また、通学途中で学友にから かわれては泣いて家に帰っていた。 ついに、ある雨の夜、師匠の楠山庄之助が坂本家に訪ねてきて、「あの子は、拙 者には教えかねます。お手もとでお教えされた方が、……。よろしかろう」と見 放されつつあったのである。 33-2 高知桂浜

(13)

33

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12

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亡くなり

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くなり、

、悲

悲しい

しい

しい日

しい

日々

々で

であった

あった

あった

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であった。

女子マネ:「龍馬さんが、幼かった時に、母親を亡くされたそうですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシが12歳の時じゃった。ワシの母親が、病気で亡くなり、 ワシは、寂しくて毎日毎日泣いていたのじゃ。」 女子マネ:「母親が亡くなった後、誰が龍馬さんの面倒を見てくれていたの・・・?」 龍馬:「ワシの姉の乙女じゃ。乙女姉さんは、ワシを夜中に起こして、寝小便を 注意したり、朝になると習字を学ばせ、また、午後になると剣術をした りと、まるで、先生のようじゃった。ワシは、乙女姉さんによって鍛え られたのじゃ。」 「楠山庄之助塾」へ入塾した1846年6月10日、龍馬が12歳の時、龍馬の 母・幸が病気で亡くなった。龍馬は、毎日毎日悲しくて泣いておった。 母の死後は、姉乙女が龍馬の母親代わりとなって龍馬を育 てた。龍馬は乙女によくなつき、親友であり、同志のような 存在であったという。 乙女は、「坂本のお仁王さま」のあだ名を持っており、体 が大きく男勝りの性格で、剣術の腕前は切紙、馬術、弓術、 水泳をこなす武芸に優れた女性だった。さらに、四書五経、 和歌、絵画を学び、琴、三味線、舞踊、謡曲、浄瑠璃などに も長けた多趣味の持ち主でもあった。 坂本乙女 乙女は、夜中に龍馬を起こしては寝小便を注意し、朝になると習字を学ばせ、古 今集、新葉和歌集などを読み聞かせた。午後には、自ら竹刀をとって剣術に仕込んだ り、龍馬を紐でくくり、鏡川に投げ込み、水泳の練習をしたりして、厳しく龍馬を鍛 え上げた。

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辞めてしまった

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女子マネ:「龍馬さん『楠山庄之助塾』での勉強についていけずに、苦労したでしょう。」 龍馬:「そうじゃ。苦労した。」 女子マネ:「龍馬さん。塾で喧嘩とかあったの?」 龍馬:「あった。ある日、ワシと堀内が口論となり、堀内が怒って、刀を抜いて斬 りかかってきたのじゃ。ワシは、文庫の蓋で受け止めて、大事には至らな かったんだが・・・。」 女子マネ:「それで、どうしたの・・・?」 龍馬:「堀内は、退塾となり、ワシもお父さんによって、塾を辞めさせられたのじ ゃ。」 女子マネ:「龍馬さん。その後、他の塾などには、行ったの・・・?」 龍馬:「イヤ。行かなかった。ワシは、独学で、中国の古典を読んだり、和歌の道 を学んだりしたのじゃ。」 1847年、龍馬が13歳の時のある日、楠山庄之助塾内で上士の子(堀内某)と 口論となり、怒った堀内が刀を抜いて斬りかかってきたところを、龍馬が文庫のフタ で受け止めたという騒ぎを起こした。塾友の協力で大事には至らなかった。この一件 の報告を聞いた楠山は、「非は堀内にあり」として堀内を退塾処分とした。ところが、 それを聞いた父・八平は「龍馬にも罪がなかったとは言えまい。」として龍馬を自ら 退塾させた。その事件以降、龍馬は、正規の学間を受けることはなかったが、父の影 響で歌の道を学び、中国の古典を読むなどして独学に励んだという。この多感な少年 時代に朱子学を学ばなかったことが、封建的な思想から離れ、龍馬の自由で独創的な 発想を育んだのである。 33-4

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のことを聞

聞かさ

かさ

かさ

かさ

れたのじゃ

れたのじゃ

れたのじゃ

れたのじゃ。

女子マネ:「龍馬さん。どのようして、西洋のことを知ったのですか?」 龍馬:「ワシの母親が亡くなって、1 年後に、後妻が入り、川島家から伊予が来たの じゃ。ワシは、乙女姉さんと一緒に、伊予の里である川島家へ遊びに行っ た。そこで、主である猪三郎から、長崎や下関等の珍しい土産話を聞いた り、世界地図や望遠鏡などの数々の輸入品を見たりして、西洋のことを知 ったのじゃ。」 女子マネ:「猪三郎さんに可愛がられていたのネ。」 龍馬:「そうじゃ。猪三郎さんは、西洋のことに詳しくて、遊びに行っては西洋の ことを聞いて帰ってきたのじゃ。」

母・幸が病死して、翌年頃(1847年頃)、父・八 平の後妻として種崎の川島家から来た伊予は、九反 田の御用人・北代家から種崎の廻漕業下田屋を営む 川島家に継ぎ、夫が早世した後も長く下田屋を切り 盛りしていた。聡明な人で教養もあり、龍馬に対し て「1.相手にやられたらやり返せ。」「2.自分から進 んで手を出したらいかん。」「3.男は強くて、やさしくないといかん。」という3か条 の教訓を与え育てて、少年期の龍馬に大きな影響を与えた。 龍馬は、伊予によくなつき、乙女が船を漕いで鏡川から浦戸湾に入って、時々伊 予の里である種崎の下田屋(川島家)に遊びに行った。当時の下田屋の主である猪三郎 は、なかなか趣味の広い教養人で、付近一帯の浦人から「ヨーロッパ」と呼ばれるほ どの静養通だった。龍馬は、この猪三郎に大層可愛がられ、長崎や下関等の珍しい土 産話を聞き、また、世界地図や望遠鏡などの数々の輸入品を見たりして、海洋や世界 への関心を深めた。 33-6

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えたのじゃ

えたのじゃ

女子マネ:「龍馬さん。道場に通われていたそうですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシは、勉強ができなかったので、14歳の時に、剣術を習い に日根野弁治が教える日根野道場に入門したのじゃ。」 女子マネ:「そこで、何を学ばれていたのですか?」 龍馬:「和術や剣術、槍、長刀、水泳術など、いろいろ学んだ。」 女子マネ:「勉強ではついていけなかったけれども、この道場ではどうだったの・・・?」 龍馬:「勉強においては、劣等性であったが、剣術の修行を必死に打ち込んだら、 臆病で気の弱かったワシの性格が、変わったのじゃ。」 女子マネ:「剣術によって、龍馬さんの性格を変えてくれたのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。剣術は、ワシにとって性格を変え、さらに、自信をつけさせて くれたものじゃ。」 1848年、龍馬が14歳の時、城下築屋敷に小栗流の道場を開く日根野弁治に入門し た。日根野道場では、和術(柔術や拳法を組み合わせたもの)や剣術、槍、長刀、水泳術 などを教えていた。勉学においては劣等生であった龍馬 が、剣術の修行に打ち込むようになった。 ある雨の日に龍馬は高知城下で師匠の日根野弁治にば ったりと出会った。日根野がどこに行くのかと龍馬に問 うと、龍馬は「川まで泳ぎに行く」と答えた。これを聞 いた日根野は驚いた。泳ぐのは晴れた日というのが常識 であるのに。龍馬は「川の中に入れば、結局濡れるので すから、どうでも良いと思いまして」と師匠に言い放った。 その常識を覆す言動から、龍馬が将来大物になる器であると 感じた日根野は、龍馬に稽古をつけるようになった。 龍馬は師匠の期待に応え、必死に道場の稽古に励んだ。この道場の稽古により、臆病 で気が弱かった龍馬の気質は“一変”した。剣の筋は良く、みるみる強くなり、自信を もった龍馬は熱心に修行に打ち込み、驚くほどの上達をみせた。 そして、1853年3月、龍馬が19歳の時、師匠日根野から初 伝目録にあたる「小栗流和兵法事目録」を授けられた。 日根野道場跡

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女子マネ:「龍馬さん。河田小龍先生の所へ会談を申し込まれたそうですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシが20歳の時じゃ。河田小龍先生から、アメリカの政治体 制や文化、操練技術、通商航海の必要性などを教わった。」 女子マネ:「アメリカのことを河田小龍先生から教わったのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。この出会いが、その後のワシの亀山社中や海援隊へとつながっ ていくのじゃ。」 1852年、出漁中に遭難した土佐の漁民である中浜 万次郎(ジョン万次郎)が11年余に及ぶ滞米を終え、帰 国した。土佐藩では、長崎で蘭学を学んでいた河田小龍を 起用し、取調べにあたらせたが、日本語を忘れているため 遅々として進まない。河田小龍は、ジョン万次郎を自宅に 連れ帰り、起居を共にしつつ万次郎に読み書きを教えなが ら、聞き取り調査を進めた。同時に万次郎からは英語を学 んだ。そして、万次郎が語るこの11年余の滞米生活に挿 絵を加えて小龍が書き綴ったものを「漂巽紀畧」と言い、これを藩主に献上した。 1854年11月頃、龍馬が20歳の時、高知城下築屋敷に住む画家の河田小龍 を訪ね、会談を申し込んだ。しかし、小龍は、自分はただの絵描きに過ぎないと応じ る様子がなかった。だが、龍馬の熱意に動かされ、アメリカの政治体制や文明のこと を知り、操船技術の習得、通商航海の必要性などを説いた。また、「外国の汽船を買 い求め、同志を集めて乗組員とし、旅客や官私の荷物を東西に運搬して、その運賃を 得ながら同時に航海術を練習することが富国強兵への道である。」と拙論した。この 構想を聞いた龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若い頃から剣術を好んできたが、剣では 所詮一人の敵しか相手にできない。外国に勝つためには何か大業を成さなければ、志 を果たすことは難しいと思っていた。君の意見は僕の考えと一致する。これからは互 いに協力しよう。」と固く盟約を結んだという。この小龍との出会いが、その後の龍 馬の亀山社中や海援隊へと繋がっていく。 33-8 ジョン万次郎 河田小龍

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西洋式砲術訓練

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させたのじゃ。

女子マネ:「龍馬さん。『浜稽古』に参加されたのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシが21歳の時じゃった。ワシは、『浜稽古』で、約700 m先にある目標物を命中させた。」 女子マネ:「龍馬さん。すごいワ。」 龍馬:「そうじゃろう。これを機会にして、砲術の勉強を始めるのじゃ。」 長崎で高島流砲術を学んでいた徳弘孝蔵は、やがて江戸に出て、高島流砲術を学 んだ下曽根金三郎の下で修行を行い『高島流砲術秘書』を伝授されて土佐に戻ってき た。 そして、1855年11月6日と7日の二日間、龍馬が21歳の時、仁井田浜に おける西洋式砲術訓練(「浜稽古」)に参加した。龍馬は、十二ポンド・カノン砲を操 り、発射のための火薬二百七十目を使い、仰角を三度にして、導火線一寸三歩に火を つけ、七町(約700m)先にある目標物に命中させた。 西洋式砲術 高島流砲術伝書

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女子マネ:「龍馬さん。徳弘孝蔵砲術に入門したのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシが25歳の時じゃった。」 女子マネ:「そこで、何を学ばれたのですか?」 龍馬:「大砲を打つ技術や西洋銃を打つ技術、オランダ語の習得などを学んだのじ ゃ。」 女子マネ:「西洋に関することを学ばれたのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。西洋と立ち向かうために、西洋の軍艦と西洋の砲術が必要なこ と、それを対応するために、交易を行い、産業を興すことを理解し、深め ていったのじゃ。」 1859年9月20日、龍馬が25歳の時、土佐藩に伝えら れた高島流の砲術を学びに、徳弘孝蔵砲術に入門した。高島流 砲術とは、単に大砲を撃つ技術だけではなく、ゲヴェール銃と いう西洋銃を撃つ技術、戦争隊形の転換などの仕方、指揮をす る際のオランダ語などの習得などを内容としたものあった。 ここで、龍馬は西洋砲術とオランダ語を学んでいった。西洋 と立ちむかうためには、西洋の軍艦と西洋の砲術が必要なこと。 それを手に入れるためには、交易を行い、産業を興すことが必 佐久間象山 要なこと。そういったことの理解を、龍馬は、佐久間象山の蘭学、徳弘孝蔵父子の西 洋砲術(蘭学)などから、深めていった。 33-10

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女子マネ:「龍馬さん。江戸に行かれたのは、なぜなのですか?」 龍馬:「ワシの剣術に打ち込む姿勢と上達振りを見た父が、剣術修行のために江戸 に行く許可を取ってくれたのじゃ。そして、ワシは、もっと剣術を鍛える ために、江戸に19歳の時に行ったのじゃ。」 女子マネ:「お父さんから何かもらわなかったの?」 龍馬:「『修業を第一に。無駄遣いをしないこと。国家の大事を忘れないこと。』を お父さんが書いて、ワシに渡したのじゃ。それをワシは、紙に包んで『守』 の一字を書き、肌身離さず持っていたのじゃ。」 龍馬の剣術に打ち込む姿勢と上達振りを見た父・八平は、所属している家老福岡家か ら、剣術修行のために江戸に行く許可をとった。1853年3月17日、龍馬が19歳 の時、いよいよ江戸に送り出すにあたって、父・八平は3か条の教訓を書いて龍馬に渡 した。教訓の内容は、「片時も忠孝を忘れず、修行を第一とすること」「諸道具に心を奪 われ、無駄遣いしないこと」「女性に心を移して、国家の大事を忘れ、心得違いがあっ てはならないこと」であった。龍馬は、これを紙に包んで「守」の一字を書き、後々ま で肌身離さず持っていた。 33-12

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えられたのじゃ。

女子マネ:「龍馬さん。江戸における剣術の師匠は、誰にしたの?」 龍馬:「江戸の三大道場の一つである北辰一刀流の千葉定吉を師匠にしたのじゃ。」 女子マネ:「そこで、剣術の修行に励んだのネ。」 龍馬:「そうじゃ。4月に江戸に到着してから、翌年の6月までの約1年弱、剣術 の修行でお世話になったのじゃ。」 龍馬が、江戸における剣術の師匠に選んだのは、北辰一刀流の千葉定吉である。 定吉は、江戸三大道場の 1 つ北辰一刀流の開祖千葉周作の実弟であり、周作の「大千 葉」に対し「小千葉」と呼ばれていた。 1853年4月中旬頃、龍馬が19歳の時、江戸に到着し、築地の土佐藩中屋敷 に寄宿した。そこから定吉の桶町千葉道場に通い修行に励んだ。 ただ、定吉は鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し抱えられていたので、長男の重太 郎が、師範代として指導にあたった。このとき重太郎は30歳であり、龍馬とは、兄 弟の様に親しかったという。 龍馬は、1854年6月に帰国するが、1856年、龍馬が22歳の時に再び千 葉道場へ学びに行った。

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警備

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たったのじゃ

たったのじゃ

たったのじゃ。

女子マネ:「アメリカの黒船が、最新の科学技術を用いた黒船4隻を率いて、浦賀に来 航してきたのですネ。」 龍馬:「そうじゃ。ワシが、今までに見たことのない大砲や軍艦があったのじゃ。 驚いたぜよ。」 女子マネ:「龍馬さんも、海岸警備のために、招集されたの?」 龍馬:「そうじゃ。自費遊学していたワシも、臨時御用の名目で招集され、品川の 警備にあたったのじゃ。」 龍馬が江戸で剣の修行を始めた直後の1853年6月3日、 アメリカの東インド艦隊総司令官ペリーが、4隻の黒船を率い て、突如浦賀に来航した。ペリーの目的は、鎖国を続ける幕府 を開国させることにあり、要求を受け入れない場合には大砲と 軍艦を差し向ける砲艦外交で迫った。 同年6月6日、幕府は江戸湾岸に藩邸を持つ諸藩に対して、 海岸警備のための動員を命じた。このため、土佐藩は藩邸のあ る品川を警備することとなり、江戸詰めの藩士が下屋敷に集められた。この時、自費 遊学中で剣術修行をしていた龍馬も臨時御用の名目で召集され、9月まで品川藩邸に 勤めていた。 33-14 ペリー 浦賀の様子

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「佐久間象山先生

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、西洋砲術

西洋砲術

西洋砲術

西洋砲術について

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学んだのじゃ

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んだのじゃ。

女子マネ:「黒船を見て、何か変わったことでもあったの?」 龍馬:「黒船の脅威を目の当たりにして、ワシは、西洋砲術を学ぶ必要性を感じた のじゃ。」 女子マネ:「どこかの砲術塾にでも入塾したの?」 龍馬:「西洋兵学の佐久間象山先生の砲塾に入門したのじゃ。」 女子マネ:「そこで、何を学ばれたのですか?」 龍馬:「火薬の名前や西洋砲術を学ぶためのオランダ語を学んだのじゃ。」 女子マネ:「龍馬さん。その砲塾にどれぐらいの期間いたの?」 龍馬:「4ヶ月という短い期間だった。塾が閉鎖してしまって・・・。」 沿岸警備の任務をとかれた龍馬は、築地の藩邸に戻り、千葉 定吉の道場で剣術修行を再び開始した。しかし、黒船の脅威を 目の当たりにした龍馬は、西洋式砲術を学ぶ必要性を感じて、 1853年12月1日、龍馬が20歳の時、西洋兵学家の佐久 間象山の砲術塾に入門をした。ここで龍馬は、弾丸に詰める火 薬の名前や、実戦隊列の組み方などを、オランダ語で学ぶ必要 があったので、西洋砲術とそのためのオランダ語を学んだ。 吉田松陰 なお、龍馬が佐久間象山から砲術を学んだのは、わずか4ヶ月という短い期間で あった。これは、1854年4月に、佐久間象山が弟子の吉田松陰の密航事件に連座 し、自宅謹慎を命じられ、塾が閉鎖してしまったからである。

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第 34

34

34

34 章

脱藩

脱藩

脱藩

脱藩

“ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー

ベンチャー”

「前

前」

の龍馬

龍馬

龍馬の

龍馬

静的

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、潜在的

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イノベーション

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脱藩

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「前

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“科学技術

科学技術

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科学技術

「静的

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静的

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西洋砲術

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そのための

そのための

そのための

そのためのオランダ

オランダ

オランダ語

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学ぶ

女子マネ:「江戸でどのような科学技術を学んだの?」 龍馬:「そうじゃなぁ。黒船が来てから、西洋の科学技術の必要性を感じ、剣術 以外にも西洋砲術を佐久間象山の塾に入塾して学んだのじゃ。」 女子マネ:「どんなことを学んだのですか?」 龍馬:「丸に詰める火薬の名前や、実戦隊列の組み方を学び、それらを学ぶため のオランダ語も学んだのじゃ。オランダ語が理解できないと、西洋砲術 が学べないから、必死で勉強したのじゃ。」 1853年4月頃に、龍馬は江戸に到着し、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流 の千葉定吉道場の門人となった。そして、小千葉道場で剣術修行を始めた直後の同年 6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した。自費遊学の龍馬も臨時招集 されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。 同年12月1日、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である松代藩士佐 久間象山の砲術塾に入熟した。ここで龍馬は、弾丸に詰める火薬の名前や、実戦隊列 の組み方などを、オランダ語で学ぶ必要があったので、西洋砲術とそのためのオラン ダ語を学んだ。しかし、佐久間象山が翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係 したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

参照

Outline

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