龍馬「ニッポンの少年の“ベンチャー”と“イノ ベーション” 」
第 37 章 龍馬「黒船が運んできた産業革命、そして、ニッポンのイノ ベーションが始まった。」
37‐1.19世紀の産業革命から20世紀の資本主義、そして、21世紀 の金融産業革命、22世紀への新しい明日へのイノベーション 37‐1‐(1).17世紀のヨーロッパ、アメリカでの産業革命によるイノベーショ ン
37‐1‐(2). 江戸幕府から明治維新へのイノベーション 37‐1‐(3).20世紀の日本産業のイノベーション
37‐2.「ものづくりベンチャー」と「基礎研究ベンチャー」が、19世紀 から20世紀のニッポンのイノベーションを創出し、ニッポンの 驚異的経済成長の原動力となった。
第 38 章 龍馬「近代ニッポンの少年ベンチャーとイノベーションの担 い手達」
38‐1. 少年「ものづくり」による科学技術イノベーションをなしたニッポ ン「ものづくりベンチャー」
38‐1‐(1).新日鐵の近代高炉を生んだ大島高任のベンチャーとイノベーション 38-1-(2).島津源蔵のベンチャーとイノベーション
38-1-(3).渋沢栄一のベンチャーとイノベーション 38-1-(4).豊田佐吉のベンチャーとイノベーション 38-1-(5).松下幸之助のベンチャーとイノベーション 38-1-(6).立石一真のベンチャーとイノベーション 38-1-(7).村田昭のベンチャーとイノベーション 38-1-(8).堀場雅夫のベンチャーとイノベーション 38-1-(9).稲盛和夫のベンチャーとイノベーション 38-1-(10).永守重信のベンチャーとイノベーション
第 11 編目次-1
38‐2.「基礎研究で科学技術イノベーション」をなしたニッポンの「基礎 研究ベンチャー達」
38‐3. スポーツと魚で科学技術イノベーションをなしたニッポンのベンチ ャーたち
38-3-(1).貴乃花のベンチャーとイノベーション 38-3-(2).イチローのベンチャーとイノベーション 38-3-(3).さかなクンのベンチャーとイノペーション
第 39 章 龍馬「イノベーションとは・・・。何か?」
39‐1.「アントレプレナーシップ」のシュンペーターのイノベーショ ン
39‐2.高校野球の「女子マネのイノベーションの指導者」となった ドラッカーのイノベーション
39‐3.後藤晃のイノベーション「日本のイノベーションをどう変え ていくのか」
39‐4.銀行マン:中村明の「ベンチャーの創造なくして日本の再生はな い」
39‐5.内橋克人のイノベーション「共生の大地」に向かって「もう ひとつのニッポンは可能か」
39‐6.松島克守のイノベーション「動け!日本」から「動け!ふるさと 村の少年へ」
39‐7.宮崎夏海の「高校野球のマネージャー」が「やがて、高校野球に 一大旋風を――よって、イノベーションが産業となる。」 39‐8.龍馬「少年よ!!ワシのベンチャーとは?そして、イノベーション
とは?」「少年よ!!価値を高めよ・・・そして、成長せよ!!」
39‐8‐(1). 静的(潜在的)イノベーションとは 39‐8‐(2). 動的(行動的)イノベーションとは 39‐8‐(3). 龍馬の「ワシの失敗・苦労のベンチャー」
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女子マネ:「龍馬さん、江戸に行った時、ニッポンで、初めて黒船を見たのネ。」 龍馬:「そうじゃ。日本人で黒船を見たのは、ワシが最初の方だった。江戸は大騒
ぎになった。」
女子マネ:「黒船というのは、蒸気で動くのですね。」
龍馬:「そうじゃ。17世紀の産業革命がヨーロッパで起こった。そこで、石炭と いう新しいエネルギーと鉄を大量に作る高炉という技術ができた。そして、
その大量の石炭から、水を高温の蒸気として、その高温の蒸気をピストン の新しいエネルギーにかえるイノベーションが起こった。」
女子マネ:「それが、産業革命ですネ。」
龍馬:「やがて、産業革命は、ヨーロッパからアジアへと伝わっていった。そして、
その新しい産業革命の鉄と蒸気エネルギーで世界に進出したヨーロッパの 国は、まだ、鉄もない、蒸気機関もない後進国を次々と植民地にしていっ た。」
女子マネ:「江戸時代に来た黒船は、ニッポンを植民地にしようとしてきたのネ?」
龍馬:「そうであろう。ニッポンは、まだ、鉄を大量に作り、蒸気で走る蒸気船も なく、強力な大砲も作らない後進国であったから。」
女子マネ:「すると、ニッポンには、まだ、産業革命の新しい科学技術イノベーション がなかったのネ。」
産業革命とは、科学革命に基盤を置く技術革新を、前資本主義経済体制において、
蓄積された財、すなわち「資本」と、農業革命により過剰となった農村人口を都市 が吸収した「労働力」を利用することにより、爆発的に生産力が向上した歴史的事 実を言う。
これらの要素が、自然に関連し、自発的に産業革命が起こったのはイギリスのみ であり、その他の国においては、イギリスからの大量の工業製品に対抗する形で、
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37‐‐‐1‐111‐‐‐(2). ‐(2). (2). (2). 江戸幕府江戸幕府江戸幕府江戸幕府からからからから明治維新明治維新明治維新への明治維新へのへのへのイノベーションイノベーションイノベーションイノベーション
女子マネ:「龍馬さん、明治維新は、まさにイノベーションが始まったのネ。」 龍馬:「そうじゃ。浦賀にやってきた黒船、そして、長崎や長州や薩摩の周辺海域
に先進ヨーロッパの黒船がニッポンを威嚇した。開国しろとな。」 女子マネ:「ニッポンも黒船の大砲で威嚇されたのネ。」
龍馬:「そうだ。長州藩は、1863年と1864年に英 仏 蘭 米の列強軍に黒船 から大砲を打ち込まれ、あっという間に長州藩は負けてしまった。」 女子マネ:「その黒船の勢いでいくと、ニッポンの土地は、みんなやられてしまうのネ。」
龍馬:「そうだ。ワシは、それを心配して、脱藩してから、勝海舟の海軍塾に入っ たのじゃ。」
女子マネ:「龍馬さん、海軍塾に入ったの?」
龍馬:「そうだ。勝海舟先生の下で、ニッポンの新しい蒸気船の船を動かすという 海運技術を学んだのじゃ。」
女子マネ:「龍馬さん、それは、明治の黒船という科学技術イノベーションネ。」 龍馬:「そうじゃ。それが、明治維新の後のニッポンの産業革命につながったのじ
ゃ。」
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(イイイ)イ)))江戸末期江戸末期江戸末期江戸末期のものづくりのものづくりのものづくりのものづくり、、、、科学技術科学技術科学技術イノベーター科学技術イノベーターイノベーター達イノベーター達達 達
江戸時代の新しい科学技術というのは、鎖国政策のために、ほとんど、長崎の出島か ら入る蘭学を通して入るものであった。そして、江戸幕府の末期になると、大島高任は、
医師である父の後を継ぐために蘭医を学びに、長崎に留学し、そこで、大砲をつくるた めの“新しい鉄鋼技術”“高炉”に関する書物に接し、この“高炉”に取り組んだので ある。これが、明治政府となって、近代鉄鋼技術に開花し、富国強兵政策と相伴って、
軍艦や大砲の近代鉄鋼技術への引き金となった。
また、佐久間象山は、西洋砲術を学ぶために、蘭学に傾倒し、1847年には、その 知識を生かし、耐薬品性の硬質硝子製造に着手し、医学用、理化学用のガラスの先駆者 となった。
また、緒方洪庵らとともに蘭学を学んだ川本幸民は、1851年、義父にあたる青地 林宗が記述した『気海観瀾』を大幅に増補し、物理学だけではなく、化学や天文学にも およぶ『気海観瀾広義』の第 1 冊目を刊行し、幕府における化学の第一人者となった。
1855年、蘭医であった飯沼慾斎は、顕微鏡を使った植物の研究を行っていたと伝 えられている。この顕微鏡が、国宝第一号とも推察されている。
幕府は、化学のほとんどが遠く長崎にあったため、江戸幕府のおひざもとである江戸 37-3
における化学教育の貧弱さを心配し、江戸に舎密局、すなわち、オランダ語の chemie(セ イミ)という化学の拠点を江戸に移転しようと考えていた。しかし、1853年のペリ ーの黒船来航の後、倒幕運動とそれに続く大政奉還によって、成し遂げることができな かった。
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維新の新政府は、富国強兵、殖産興業を国民に掲げ、そのためには、近代科学技術を 広く世界に求めた。
(1) 日本人留学生をアメリカ、欧米に人材派遣をする。
(2) 欧米の化学技術を日本に教師として招く
(3) 舎密局(化学技術研究所)を設置し、日本の化学技術の発展を奨励する。
専売特許制度の導入 などを矢継ぎ早に、新政府は手をうった。
その中で、1869年に大阪舎密局が設置された。舎密局とは、化学を意味し、オラ ンダ語の chemie(セイミ)という音に舎密という漢字をあてた。これは、明治元年(18 68年)、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、戦乱を避けて学校の設備を大阪に移転 し、ここに理化学学校を設立することが決定された。場所は、大阪城西の大手通(現在 の中央区大手前3-1)に新校舎が建設された。
1869年6月10日、オランダ人の化学教師ハラタマを教頭とした理化学学校の開 校であった。この大阪舎密局は、第3高等学校(京都大学の前身校)の源流となった。
続いて、1870年、大阪舎密局でハラタマに学び京都府に出仕した明石博高により 京都舎密局が設立された。京都舎密局は、学校というより、新しいものづくりの製造指 導や薬物検査などを行った。ここで、ドイツ人のゴットフリートワグネルが、西洋の科 学技術、ものづくりの指導者として、京都舎密局で3年間の講師として招かれていた。
ワグネルが指導したものづくりの技術は、石版印刷、ガラス、陶磁器、七宝焼、石鹸、
清涼飲料の製造、合金、旋盤、電気メッキ、理化学機器の製造など、多岐にわたり、島 津源蔵などのニッポンのものづくりベンチャーの先駆者たちに大きな影響を与えた。
このようにして、江戸末期の蘭学から、明治維新の舎密局(化学技術研究所)設立によ って、(第京都大学3高等学校)や京都のものづくり軍団に大きな影響を与え、これが、
京都の島津源蔵や立石一真、村田昭、堀場雅夫、稲盛和夫、永守重信など、京都のもの