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弘法大師と善通寺-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

玉藻よし 讃岐の困

クスコカゲ

日を薇ふ 欄樺の横蔭に

サヅ アゴ 生れませる 珍のまな子よ ヨ タフホモノ 名にしおふ 世の虞物 〓 九重の 郡に、出で1 弘法大師と善通寺

弘法大師ミ善通寺

様々の 教は聡けど フ、1 クサグサ

軽々の 書は見つれど

ココP

大方は 意に満たず

三 タカネ

天等の 鎖す高嶺に

オモヒ 終∵りては 念を凝らし

波荒の 寄する岬に

三五九

澤 周 安

(2)

高怒高等南米畢校開校十周年記念論文集 足ぐみては 行ひましつ

海の外に 道を求めて

度盛合邦の 敷ことどと

サツ カ′

瓶の水 洗すが如く

カヘリヰ サケツク

承侍へ 辟釆ませり

五 シソク クへ

筆の穂の 雫も妙に

′、し ワト ク

撃の痕 笥しきぼかりか

クツ

雨講へぼ 龍も現れ

山躇めぼ 犬も導く

都なる 院

ニ〓ハ○ フ・lソ′

文の苑 華喚きを1り

ヤ ′ フル サト

敵郷の 篤農の大池

綾の水 湛へて弘し 七

朝日さす 東の寺に

ミ ′.ツ ウタ 春の鳥 御韓を謳ひ 筈披く、南の山に 秋の月 既得てり 八

郷数は 基より高く

・ちノグミ

御徳は 湛より探し

トコシ タフ一 反へに 仰ぐも尊 南無大師 遍照金剛

(3)

は し が き

諺にも大師は弘法、太閤は秀普、黄門は光因と申す如く、我が弘法大師は単に本邦眞青菜の開組たるに止まら す、聖徳太子以後に於ける大日本文化の大恩人として、某敢界は固より、教育に文畢に草道に、美術にエ塾に、 或はエ本に鼎暦療に、其の他百草百能を叫身に具備し、燦然たる功業事放の数々枚蓼に追なきは今璽ゴロはすもが なである。斯る大偉人が我が輩蚊の地に出現せられたのは、資に郷土の誇として農仰措く能蜂ざる桝である。本 年は恰も其の叫千二百年の御遠忌に相常すれぼとて、高野山東寺をはじめ、眞言宗の奇々は勿論、其の他に於て も、此魔彼虚正大小の弦脅を勤修し、叉それにつき各新聞雑誌上にも、高僧碩畢達が大師の徳を畜へられた名論 卓説も数多捕載せられてあるから、今は多くを語らす。菟には善通寺と大師との関係、其の他異詮ある数件に就 いて、柳か卑見を述べる寄と致した。 ∵⊥筆禍ビ云ふ文字の読方 ’ヽ 大師の俗名は展魚、後併門に入って教海、如塞、無益など1補し、最後に基悔と改められた由。此の基梅の二 コカイ 字は誰も唐クウカイと謹んで何等異議も舶⋮いが、類琴二代格には御丁寧にも其の爾傍に茎梅と仮名を附け、叉更 コ カイ クカイ に別の箇所に基海と振仮名がしてある。之を見ると或る時代には斯棟な誠方をしたものか。伺同書忙は大師の師 弘法大師と善通寺 三六血

(4)

ヽヽヽヽヽ 大師の御誕生臼は賓砲五年六月十五日なりとは、大屋慮遊郭療華抄其の他の書にも見えてをるとの事である が、手近い朗では、紳皇正統記にも六月十五日とあり、盛添壇蛮抄や如産院年代記等も同様である。併し古きに 測って見ると、貿砲五年甲寅とのみあつて、月日を記してないものが多い。其の申に弘法大師行化記には

寧砲葦朗⋮⋮⋮⋮璧膵潤

︳︳ ヽヽ として其の苧酉が何月のかを記して無い。然るに是の年に辛酉の日のあるは奇数の月のみで、即ち正月二十仙日 三月二十二日、五月二十三日、七月二十四日、九月二十五日、十叫月二十六日の六回であつて、六月には宰酉の ヽ︳ 日無く、其の十五日は壬牛であるから、六月十五日詮には吻合せぬ。︵併し辛菌の方が間違かも知れぬ︶此の賛鞄 ヽヽヽヽ 五年六月十五日︵唐の大歴九年︶と云ふ日は、恰も大師の師、忍果阿開梨の其の叉師の不肇二戒が、長安に於て入 滅せられた日であるので、.世に大師を同三蔵の後身とする研から、此め改も生れたであらうと首はれてをる。併 し六月十五日把非すといふ確かな反澄も無いから、何か接があるものと見て、此の日を大師の御誕生臼として置 いて然るべきであらう。︵賓砲五年六月十五日を陽暦に換算すると、七月三十叫日に普る︶ 高松高等商業畢校閲校十周年記念論文集 三六こ 寄せられた一人曲線︵普通ゴンサウと読む︶にもキンヒウと漢音で設備名が施してある。︵とはサの別牒︶ 〓 誕 Hロ

(5)

大師の御誕生地は 、つき秤々の記録侍詮等を案ずるに、 1 多 郡 度 裏梅恰郡俸、磨大僧正峯海和上侍記、大師御行状集記、兄事繹書等、何れも単に多度郡の人︵今の仲多度郡の 一部︶とするのみで、其の郷名等を記して無い。

2 多度郡方 田 郷

次に弘法大師行妖記及び高野大師御高俸引︵朋の大同三年六月十九日附の太政官符には 本政官符 應鬼謀役魔窟仙人

留若志朗州詣鵬鯛離籍紹鰐触

右待治部省解偶。被太政官去薙暦廿四年九月十一日符偶。去廿四年凹月七日出家入唐宜依︵例舵欺︶得度之 者。仇今年夏季應鬼謀役中途者。省宜承知。依例。︵克之股歎︶符到奉行。 大同三年六月十九日 弘津大師と普通寺 三 誕 三六三

(6)

とあり、叉梅園笥賞に載せられた石山寺にある基海の慶牒といふものも、右と同じく方田郷となつてをる。此 の方田郷とは今の何れの地なるか。和名抄︵二十巻本︶に掠れぼ、多度那には、弘田、仲村、長田、生野、菅原、 ヽ 葛原、ニ︰井の七郷あるが﹂其の中に田の字の附くのは弘田、艮田︵後の菅田︶二郷のみで、芳田といふ郷名は見え

ヽヽヽヽヽヽヽヽ

ヽ ヽ ヽ ぬ。裁ては弘拍の弘の字を俗に方偏にムと書く寄もあぁから、︵善通寺文書にも見えてをる︶方は払の暑字で、方 田即ち弘田であらうとの改もある。︵弘田は善通寺の北約二男︶或は長田の虔の字の草鰭を方と誤ったであらうと ヽヽ も云ひ、叉今の大本山善通寺の西北に隣って片田と云ふ小字が現存してをるから其の連であらうといふ人もあ る。芸出来た弘法大師借由蛮顧盲云ふ本には﹁諜智慧年甲寅、晶禦師讃岐闊多度郡弘田郷屏風捕二警 ス﹂と断定的に記してあるが、倫研究の飴地がありはせぬか。仲多度郡撃岡村の乾千太郎氏は、多年大師の研究に 波頭して居られる人だが、聞く所に掠れぼ、同氏は、﹁大師の時代には今の善通寺遊山帯の地を方田といふ郷名 で呼んで居た﹂といふ確詑を得て居られて、速からす畿表せられるとの囁であるから、之を待ちわびて居る。此 の方田が乾氏の詮の如く大本山善通寺の地であるならば、最早議論⑥何も無いが、よしや方田が弘田であつたと しても、其の焉に大師が弘田で生れられたとは速断し難いものがある。それは大師得度の年r得度の年にも異詮 があるが、延麿二十四年設に従ふ︶即ち延暦二十四年頃には、何故か佐伯直道長︵大師の伯父であらうとの詮あ り︶の戸口即ち家族となつて居られたから、常時戸主道長が弘田に任して居た事は申すまでも撫いが、それに依 って其の三十〟年前に、田公の子たる眞魚即ち大師が、同朋で生れられたとは断言し免ねるのである。 高寧日剛等商薬拳校開校十周年記念論文集 ≡六四

(7)

風 3 屏 ヽヽヽヽ 阿波幽太龍寺縁起︵筏辞書類従所収︶に﹁右太龍尊者1高粗大師之致草創也1是則賓鞄五年甲賞受生歪州多度部 屏風浦﹂とあるを、屏風浦の文字の初見とする欄が多い様である。此の縁起は東和三年︵大師示寂の翌年︶大師の 甥で高弟たる眞然師の物せられたものとなつて屠る。魔が容海上人た大師舵を勅註せられたのは、聾竺一十一年 であるから、轟然師如何に高恰なれぼとて、八十飴年前忙之を琢知して大師と書く寄は冴かしく息はれる。其の 上高温といふ語も疲後程なく用ひたるは早きに過ぎる感があるから、此の縁起は焼く御預りにして、次に鳥羽天 皇の元永元年に威つた高野大師御頗侍に、多度郡屏風浦人とあり。叉六條天皇の永嵩元年害鳥の奥書のある七大 寺年表にも、同様に見えてをる。焚贋発年に道範阿闘梨が抄出した弘俸略怨抄も之に従払、其の外金剛峯寺建立 ヽヽヽヽヽヽヽヽ 修行記をはじめ、屏風浦に御誕生云々としたものは掘る多い。但し屏風浦が何郷なるか何虚なるかは、何れも定 かに記して屈ない。眈に屏風浦が大師の御誕生地であけ、蓉通読が大師の御誕生地である以上、普通尊の所在地 即ち屏風浦の内となるべき甥である。然るに之を同二桝と書いたもの、古きには見常らない。︵行遍挟弘法大師 行化記には、五山即ち五番の麓を屏風浦と見て、以此五山之浦名辞風捕とあるが、これは綬群書類従牧むる例の 行化託とは別の本である。︶但し通知阿閣梨は之を同所と認めたか。同師は文麿元年其の著弘俸略頒抄に御厨侍 を引いて﹁讃岐図多度郡屏風浦人也﹂と書き、それより八年後仁治国年商海流浪記に 抑普通之寺ハ大師御免組俗名即馬奇問−1破壊之閲大師修造建立之時、不被改本紙欺。金堂之西有一直路仙町 弘法大師と普通寺 三六五

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高松高等商染筆校閲校十周年記念論文集 三ハ六 七反許者。則自寺申蓼御誕生瑚之路也。則参詣蒋之スレバ、慮御誕生朗ニハ石高ク廣盛クリ!七盈石塔有 レ 之。大樹少々有之。葬見之間。顧去恭敬。催傾億。 レ と記し、更に自ら大潮過となつて、誕生院の縁起を書き﹁右箇所者弘法大師御誕生虚也云々﹂と特筆して、〓百も 前後相違に疑を挿んで居ない朗を見ると、善通寺肝を屏風満と宕倣したものゝ楼である。但し屏風浦が何虚を指 したかと云ふ事と、大師の御誕生地が何魔であるかと云ふ事とは、自ら別問題で、よしや屏風浦が他肋であつ ても、御誕生地の善通寺たるは、容易に動かすべからざるものがある。 4 白 方 村 大師の御誕生地を仲多度郡白方村の旛岸と心得て居るものが、可なり多い楼である。同村海岸寺には大師御誕 生朗と辞して産湯の井戸など云ふものもある。文化年中善通寺海岸寺間に御誕生地の挙が起.り、紛辞を盈ねて公 裁を仰いだ寄があつたが、結局善通寺例の膠訴となつたと聞く。彼の八陣守茸本城の作者として、相常に知られて 、、、、、1、−ヽ、 ヽヽヽヽヽ 居る佐川藤太め戯曲、弘法大師いろは物語︵大近松のいろは物語とは公然別個のもので、作は劣ってをるが讃岐 としての地方色は濃厚である︶の出たのも其の頃で﹁麦は四囲の片糾合、讃州多度の郡屏風が浦の白潟に﹂などゝ 語り出して、自方諭に油を添へてをるかに見受けられる。但し自方詮には未だ晶ぞと信頼すべき文献は見首らぬ。 先年固定教科書高等小勢讃本巻初の弘法大師を語為備にー多度津の西、風光明媚なる屏風浦に生る云々巨と いふ文句があつたが、多度津の四では海岸寺と聞えるから、余は常時高等小串読本存疑といふ拙稿中にこの事を レ

(9)

も加へて、二三の雑誌に掲載して居いたが、其の後訂正せられ・た楼であつた。 5 多度津︵仲多度郡︶ ヽヽ▼ 明治より火正昭和に亙って出版せられた大家の著書の申に、東師の御誕年地を多度謹としたものが往々ある。 ヽヽ これは多度郡と多度津とを同二税せられた助から米た誤で、彼此諭するまでも無い。 寺 ′ 通 6 普 大師の御誕生地を今の大本山善通寺の寺内とする匹敵元三年八月の璧且に 右彼尊者弘法大師降誕之窪地。佐伯普通建立之道場也。 茅疎元年四月の應宜に 右善通寺者弘法大師御降誕之地。秘密上東流布之庭也。 覚書元年五月の弄斯宮下文に ヽヽヽ︳ヽヽヽ 謹考啓貫。善通寺者弘法大師御誕生之窪地也。− 巳奪組帥桑梓之遺跡焉他人之領。− 寛治三年三月の靡富に 抑富者著大師降誕之露地。魯崇可異他之梵字也。 後事多法皇の御遺骨︵国賓、大盤寺文書︶に 可興隆沓通虔茶羅同寺及誕生院縁起第十八。 弘法大師と善通寺

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高奄高等商染拳校開校十周年記念論文集 ノ ここハ八 右四州雉庚楽壇在日本。諸国雌多高組生謹州。所謂玉藻桝鐸之嶋槽樟磁日之浦是也。此繭寺者焉父母建立之 ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽ 精舎也。大師手近乎今相遺。山院高組誕生地。故得此耽。沐甘露論潤之人誰不蹄仰。巨 など資料頗る豊富である。盛に武家例の記録を見れば、吾婁鏡に善通寺の事を記して !是弘法大師御誕生之地ひ長日不過御所博之柑也。︵安貞二、四、叫三︶ とある。叉西行法師は此の蛾を大師の御誕生所と見て、寺傍に小庵を結び、︵西行と善通寺との踊係は別に云ふ べし︶道範阿閣梨もこ1に釆て、御娼蹟を挿して誕生院の縁起を物したのである。其の外此の地を大師の御誕生 朗と記した公私の文書数ふるに追なき経である。兎にも角にも前記の如く公にも認められ、然も其の古文書難の 現存するもの許多ある上は、此の地が御誕生地たる寄を澄明して飴ありと謂ふべきである。 国 父 母 大師の御父は佐伯直田公、御母は阿刀氏とのみで名は侍はつてゐない。御父の賛名が田公である事は、三代茸 鋒貞敬二奉十一月十両日、讃岐闊多度郡の人故佐伯直鈴佼麿等十山人に佐伯荷稲の姓を賜はつた傑に、佐伯直盛 雄の言葉として − 田公大僧正父也。︵周安云野犬僧正基海︶ぎと見えて疑なき事である。︵其の外にも田公を父 アクピウヂヽカバネヽヽ と記したものが多くあるが、一々奉げす︶然るに弘法大師御俸に父佐伯直氏とある直を姓と知らず、直氏を名と ー、 マサウヂ ヨヨシミチ 瞑ってナホウヂと訓み、更に直聖典に誤り、選民としたなどは、寧ろ滑稽と申すべきである。叉この田公を華通

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ヽヽ︳ヽ︳▼ としてをるものが多い。これは海人藻芥に﹁讃岐図書通寺弘洩大師父ノ寺也。英資名謂普通。則用寺携﹂とあるな ヨシミサ どから粥たものと思はれるが、︵此の事は後の善通寺の條で申さう︶ふ人にして田公と普通と資名が二つあるのも ヽヽ 許しい。普通を音読して田公の法名とする詭に従ふべきか。︵これも後に云ふペし︶此の普通ぬしに敬稀を添へて ムヰ 普通卿など解する向もあるが、卿些二位以上の人︵大臣を除き︶の敬栴である。普通ぬしはさる高位の人とも恩は ’ヽヽヽ れず。︵勿論公卿補任にも其の名が見えてゐない︶弘安四年の耕官下文に功徳天領と記されてをるがー︵少領とし ヽ たものもある︶大領は郡司の長、即ち多度郡長である。但し郡長と申しても近代の郡長と違って、・常時国司には 中央の官吏を任命し、郡司忙は地方の豪族から採用する風であつたから、其の勢力資産等から見ても、傭然と地 方に置きをなして居たもの\1様である。御浜億等其の父組を語る備に、 − 少時御名眞魚。其父日田公。田公父男足。男足父桝渡部。桝波郡父外従八位上大人。大人父伊能也。伊 ヽ ヽヽ 能之父紺燕所見。央洗骨随倭武命社宅人功動蓋世。賜土地於讃岐閻。因宏之。子孫相次鶴瓶各奏。 と盾る願食も、現今の願知事放ではなくて、文部での願令、本邦の郡長位の夙に雷るものと見るペきであらう。 ヽヽ 此の外大伴氏の系図の或るものにi田公−諾意T⊥挙海として田公を大師の浦父、道長を父としたものもある。 此の道長といふ人は、高野大輔御贋俸の註に﹁今築造長大師伯父也﹂とあるが、伯父か長兄か、これも葡研究すべ きである。とにも角にも大師の御父が田公である番は、前記三代賛錬で明瞭である。 ヽヽ︳ヽ さて御父の名は前述 弘法大師と番通寺 ニ〓ハ九

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ヽ 高松高等商染聾校開校十周年記念論文集 ヽ 三七〇 してをれどその出所が確かで無い。然るに名の分らぬといふは何か物足らぬ感じがするので、彼の養老の孝子 ヽヽ が、兎正天皇の御代の人であるからとて源丞内、鉢木の億世の寿が、降積る雪に因んで白妙と呼ぼれるに至った ヽヽヽ 様に、此の母君も大師の玉藻よる例の嶋云々と云はれた語から、王位御前の名をおふせたらしく思はれる。 氏 五 佐 大師の姓氏は佐伯直とあり。佐伯氏には皇別と紳別とあつて、新撰姓氏録に揺れぼ、前者は景行天皇の皇子軍 曹入彦命の裔で佐伯直と柄し、後者は大伴氏の支流で佐伯荷稲と柄してゐた。であるから佐伯直たる大師の豪は 前者に属する棟であるが、右に就てはいろく詮もある事で、天長琵年大師の聡件按察平茸事赴陸府詩並序に ヽヽヽ − 絹素区別伴佐昆季Fとの語がある。︵平薯専は参議の膚名、常時参議で陸奥出羽掟察使となつてゐたは伴 国道である。件は元の大伴氏、浮和衷睾の諒を避けて伴氏と解する事となつた。佐は佐伯氏︶即ち大伴佐伯開氏 は兄弟の関係であるとの意であるじ之に壊れぼ大師の家の佐伯氏は紳別の佐伯となる。峯梅檜那倖はじめ詔書に ︳−■’ ﹁源出天倉﹂とある天命は天つ紳とも天皇とも解せられるが同書の﹁吹浦督促日本武容征毛人有功﹂とあるは、大伴 の支流たる審を物語るものである。加之手代賛銀貞観三年十鵬月十一日の備に、佐伯直に関する記事があるが、 其の大意を申せば、 是の日讃岐園多産郡故佐伯直鈴位麿以下故人今人合計十一名︵何れも佐伯底姓︶を際して佐伯荷稲姓を賜ひ、

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殖を移して左京職に謀屠せしめられた。これは是より以前、佐伯氏等の総本家ともいふべき中納言伴蕃男の 奏言に基かせられたもので、其の奏富には − 書博士佐伯直盛雄の申し状に、昔々共の先組大伴健日蓮、景 行天皇の御世に倭武命に随って東城を平定し、勤功によつて讃岐圃を賜って私宅となし、其の子孫倭故連、 允恭溺畠の御世に、始めて讃岐幽迫に任ぜられた。これが盛雄等の別組である云々。然るに我が同族層持 ︵或云虞持︶正雄は何れも京職に隷属して、眈に宿棚姓を賜はつて居るのに、唯出公の門流のみは、未だ其の 恩典に預ってゐない。元来直持正雄等が相性致したのは、賛意・道雄爾大法帥等が、基海大僧正に養成せら れたに困るものである。而して田公は大修正の父であるに拘らず、その門流が梅宿欄になつてゐない。現今 大侭那眞雅、久しく加造に侍し、盛雄亦書道の小輩ながら∵拳館の末員を恭ぐしてをるのであるから、何卒 吾乍叫門も、疲等同様楕欄姓を賜煉りたい−﹂・ と、斯様に中居りますと申上げたのである。 伐て 之を日本後紀に牌し見るに 慮和凶年†月契丑左京人従七位上佐伯直長人正八位上同姓慮特等。賜姓佐伯宿欄 茅絆二有七月乙酋讃岐図人大膵少進従七位上佐伯直正雄 賜姓佐伯宿瀾 とある。思ふに直持、正雄は佐伯氏の申で、賛意・道雄二高檜に血縁近く、豊雄等は田公の門流の人だつたので あらう︵虞雅は大師の弟︺。以上に依って紳別の佐伯氏には、菟釆宿欄と直とあつて︵姓氏鋒には洩れたれど︶其の 弘法大師と聾逸事 三七T

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高松高等商薬聾校閲校十周年記念論文集 直の方も、後に昇格して宿欄となつた事を知るべきである。 六 善通寺の創建ご其の名稀 善通寺の創建は M 大師の先組の建立とするもの 大師先組於讃岐闘建立善通寺︵弘法大師御俸︶ ヽヽヽヽ 善通寺者是弘法大師尭紺之伽藍適意之後致五百飴歳︵長冤二年普通免茶羅両帝解状︶ 何れも其の先組は詭を指すか詳かでない。但し長寛二年より五首年前は、天武天皇の御代の頃になる。 何 位伯蓉通の連立とするもの 右彼寺宥弘法大師降誕之蛮地、佐伯蓉通建立之道場也。︵寧空拳瞥且︶ 雷寺者功徳大領馨通之建重石々。︵弘安凶年左桝宮下焚︶

刊 大 師 の 建 立

右雷尊者弘法大師之草創、図申無埜之精舎也。︵嘉線元年騰宣︶ 高組生讃州所謂玉藻所願之嶋、槽樺薇日之溝是也。此丙尊者︵周安云蕾退勢茶羅雨寺︶馬父母建立之精舎也。 ︵後学多法皇御題督︶ 三七二

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㈱ 大 師 の 修 造

抑普通之寺ハ大帥御免組俗名即薦寺披焉破壊之間大師修造建立之時、芥被改本能欺。︵南海流浪記︶ 右の如く、善通寺の建立者は様々に俸へられてをるが、何れも佐伯氏以外の人にはなつて居ない。恩ふに今の伽 ヤウ 藍所在地には、大師以前から、佐伯氏の氏専様のものがあつたのを、大師の時に至って修造、又は檜築して大成 したものであらうか。︵誕鎮院は御麻後に建てられたのであらう︶ さて叉、善過と云ふ名稲についても彼此の扱がある。

川 大師党甜の俗名

抑善通之寺は大師御発組俗名即薦尊既︵南海流浪記︶ 其の兜組は散なるか、今日世に侍ふる佐伯氏の系譜には、之に該蕾する人名を見出し得ない。

拘 大師の父の俗名

讃岐図書通尊者弘訟大師父ノ寺也。英資名謂蕾通。︵海人遜芥︶ 勒 大師の父田公の法名か 善通寺は大師の父名を普通︵佐伯田公の法名欺︶と日へるに取ると︵大日本地名辞書︶ 姑く此の例の詮に従ひ慣き、他日の研究を待つべきか。 綱 弘法大師と善通寺

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七 入定か入 滅 か

承和二年三月二十叫日︵陽暦四月二十六日︶大師は高野山にて入定せられたとは、御俸記類多く之を俸へて居 る。又、=大師入定後、肉身其の健に存してゐて、観資恰正が、其の窟を敬いて見奉ったなど1御行状集記などに も書かれてゐるが、中にも紳皇正統記の文は読み易いから左に掲げる。 この伶正︵額資︶は高野に詣で1、大師入定の窟を開きて、御髪を剃り法服など著かへ申Ll人なり。その弟 子淳蕗相伴ひけれども、終に見奉らず。師の愴正その手を取りて御身にふれしめけりとぞ云々。 これで見ると、入定せられた事を許せられるけれど、大師御終焉の際、浄和上豊から賜はつた御弔苔の申に ヽヽ 膵闘僻在。凶聞鹿俸。不能使者奔赴相助茶屋。言之焉恨。惧恨局巳 との御言葉を藷し奉ると、火葬にせられた様に見受られる。尤も入定入滅の諭は古くからあつたものか。弘法大 師入定勘次記に 間。大師於南山高野峯而入違考英軍蒜。答富之。有二訟。嘉入城詮。二者入定詮也。納雛軌摘説入 定詮著書詮也云々。 とあつて、此の下に入定詮について膵々述べてある。入定入滅何れにせよ、法身の大師は遍照金剛の文字通に、 永久にましませぼ、之が偽に其の光を増減するもので無いから、さのみ諭ずる要もなからうと思ふ。 商奄高等商業畢校開校十周年記念論文集 三七四

(17)

几 奇 蹟 其 他

大師の御俸記は頗る奇蹟に富んでをる。是は大師ばかりでなく、古来聖賢偉人の俸は、概ね奇蹟が附きものと

なつて居る。思ふに大師の如きは、其紆智識技能の程度普時の義人より懸絶して造に高きに居られたので、其

のする寄なす寄、凡人より見ては、摩詞不思議に思はれ、更に尊敬の念の高ま牒ま1に禰、尾鰭を添へて幾多の

奇蹟談が生じたであらう。之を見ても大輔の大を知るべきである。叉無名の人の手に成った俳像等も、大師の一

刀三組の作と俸ふれば敬はれ、寺院の由緒不明のものも、大師の開基慧と云へ掛信者の巡拝多く、量子数、賛

語数、いろは歌の如きも、とかぐの議論はあれど、大師の作と稀せらる1為に長く国民教育上に効果を収めて来

たので、率先的考詮は別として、炭義に見て大師の作といふも此の意味に於て敢へてさし支無からう。誓へぼ、

堀揮其の製作としてはせ八の議をも得ざる品物も主に三越のレッテルを貼れぼ、忽ち発行よく、しかも其の

晶が購買者に益を輿ふる事多ければ、之を三越の製品墓呼んでもよき様なものである。とは云へ釆塵の憶でない

もの、時代の相違せるもの、又は蓼著聞に大師の作にあらすとの定評あるものまでを、艶ひて大師の御作なりと

力病変れるに潰ぼぬ雪雲う。大師の大師窓用施にいくらも大き驚のが有るのでは無いか。備中上

げたい寄もあれど、さまではとて蟹を凋く。

弘法大師と善通寺 三七五

(18)

附 去る五月九日大阪時事新報放生倣南海高島屋第七階に於ける﹁普通寺を語る﹂といふ座談曾の席上で、本文︵三︶の刷忙ある屏 風浦の條太髄中線起中、高祖大師云々の文字に疑義を蹄んだ慮、琴良市山前香教師は、右の談が大阪時事紙上忙載せられたの を見て、同新報証宛次の啓蘭を法られた。 食社主倣弘法大師の誕生析を語る曾記事中、高松高商嘱澤氏の費富申、左記の如く愚考します鮎ありますから鮒寸御知らせ します。眞然師の阿波大鶴寺線適中の大師なる文学は、決して後世k於ける大師渋の大師k非ずLて、世不世k於ける偉大 なる導伽即ち悌陀を意味するものである。故に醍醐帝勅賜の大師肪では決してない云々。 と着火阪時事記者岩津点から回迭せられたから、次の如く申しておいた。 山前氏よりの御津患有難く拝見致しました。大師云々の件、座誹曾の飾にも或る寺院のカからほゞ同様の御祝を承りました が、大師といふ語は元来悌陀・の専科たる事は、小崖も承知致しては居りますれど、あの文の如く高麗大師とつゞけた肝は、 やゆり其のカでは無い様な嵐がします。但しこれはお互に解繹の相違であるから、敢て自説畢固守せず、大方の列断に任せ る事と致し、敦に山前氏に対して其の如好意を謝しておきます。 ○

日を薇ふ樺の木蔭に涌き出で ゝ

弘く流る 1法の水かな

︵昭和九、六、叫玉稿︶ 感鹿高等商薬畢校開校十周年記念論文集

参照

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