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ピカロとしてのクルル : 『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』

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(1)

ピカロ としての クルル

― 『詐欺 師 フェー リクス・ クルルの告 白』―

三 枝 圭 作 (1994年 6月21日受理) I 『詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白』(以下 『クルル』 と略す

)が

,

トーマス・ マ ンの長年 に わたるたびか さなる執筆 中止 を経て

,結

局断編 の まま未完 に終 ったことは周知 の通 りである。マ ン が『クルル』に着手 したのは1909年 の ことであるが

,当

時彼 の創作 の中心 には まぎれ もな く「市民」 と「芸術家

Jの

問題 があった。従 って,『クルル』 は当初,『 トーニオ・ クレーゲル』 と『ヴェニス に死す』 との間のいわばサテュロス劇(1)で あった と言 えよう。 マ ンは長い間

,彼

のサ テュロスたる詐欺師の

,

ピカロ との類似 にあまり気がついていなかった。 しか し

,彼

が中断 を くり返 しなが ら『クルル』 の仕事 を続 けているうちに

,次

第 に主人公 の悪漢 と の近親関係 を意識す る ようになる。ヴィース リングによれば,マ ンが1947年 10月 10日付 でアグネス・ E・ マイヤーにあてた手紙 には

,当

時の彼 の仕事 の計画 として次 の言葉がある。 今 日の貴人用 馬車時代 を舞台 とす る悪漢小説へ の クルル・断編の拡充 また

,同

年11月 25日のヘ ルマ ン・ヘ ッセあての手紙 にも次の文面が見 られる。 昔の 『フェー リクス・ クルル』 の断編 を書 き足 して老後 の楽 しみに

,本

格的な悪漢小説 に仕

立てるというのはどうでしょうか。

(2) これ らの手紙 によれ ば

,マ

ンは執筆 開始 か らかな り後 になって,『クルル』 をピカ レスク小説 に仕 立て ようとした ことがわか る。彼 はその後 も何度か冒険・悪漢小説のことを話題 に している。例 え ば

,1951年

10月 10日付 のオス カル・ザ イ ドリンあての手紙 には , それは「第

1次

世界大戦前 の後期市民社会時代 の一種 の冒ωtlヽ説で しょう。『ジンプ リツ ィ ウス・ ジ ンプ リツイシムス』がはるかな手本 とされるような素朴 な回想録です。

J0

とあ り

,同

じ年の11月 19日付 のヘ ンリイ・ハ ッ トフィール ドあての手紙の冒頭 は次の ように始 まっ

(2)

ている。 リアリズムについてのあなたの論文 は大へ んす ぐれた ものです。早速

,非

常 に面 白 く拝見 し ました。特 に意 きつ け られたのは『ジンプ リツイシムス』 と悪者小説 についての論述 ですが, これは

,い

まち ょうどまた「 ピカ レスク風」 の手す さびに取 りかか つてい るとい う私 の個 人 的な事情 のせいです。e) マ ンは40代に『ジンプリツイシムス習 に親 しんだもの と思われるが

,50代

の彼がいまここで『クル ル』の主人公 フェーリクス・クルルの手本にしているのは,ピカロの元祖スペインのラサ リーリヨ・ デ・ トルメスとい うよりは

,

ドイツの ピカロ

,ジ

ンプリツイウス・ジンプリツインムスだったので ある。 2 ジンプリツィウスとフェーリクスの人生は一見 して異なっているようにも見 えるが

,基

本的には かなり共通点が多い。彼 らは冒険を好み

,旅

をこととして定住せず

,職

を転々 として落着かない。 互に放 らつに生 きているにもかかわ らず

,彼

らには幸運がお とずれる。 とくに両者のパ リにおける 姿は象徴的である。一方は馬丁 として

,他

方はエ レベーターボーイとしてパ リ生活を始める。二人 は美声や端正な容姿 に恵 まれて人 目をひき

,共

に似 たような幸福 を手 に入れる。前者が俳優 として ボー・アルマン(美しい ドイツ人)と呼ばれるほどになれば,後者 は俳優 にこそならなかったものの, その美 しさをヘルメスの彫像 と比較 される。パ リの女たちは

,上

流下流 を聞わず彼 らをめ ぐって競 いあうのである。ジンプリツイウスはある老婦人によつてパ リのあや しげな「ヴイーナス山」に誘 われる。ベ ッドのなかか ら若 く美 しい女が彼 に声 をかける。 「い らして

,ム

シウ 。ボー・アルマ ン

,一

緒二寝テ

,ワ

タシノハー ト

,束

,ソ

バニ束テ!」 老婦人がそれ らの ドイツ語 を教 えておいたらしかった。私 はどのようにお相手 をしたものか と考えてベ ッドに近寄つた。ベ ッドのそばに立ったとたん頸玉に抱 きつかれ

,接

吻の雨で歓 迎 され,火の玉の ように熱 した相手の歯が下唇 に噛みついた。相手は私の寝室衣のボタンをも どか しそうに外 し,私の下着 を引 き裂かんばか りに性急 に押 し開き,私の体 をぎゅっと引 き寄 せ

,狂

気 じみた情熱に燃 え立ち

,警

えようもない身悶えをした。「 ソバニ茶テ

,ワ

タシノハー ト

Jと

いう ドイツ語が喋れるだけであったので

,そ

の他 はすべて身ぶ りで要求 してきた。 “ ) 20世紀の今 日

,こ

の場面 はマ ンによって再現 された。 ウプ レ婦 人 はパ リのセ ン ト・ ジェイムズ・ ア ン ド・アルバニー・ホテルのベ ッ ドのなかで

,エ

レベー ターボーイの フェー リクスに言 う。

(3)

ピカ ロと しての クルル 「 さあ

,脱

いで

,

とって

,そ

れ を脱 いで

,そ

れ も

Jと

彼女 の声がせ きたてた。「脱 いで

,捨

て て

,お

前が見 られるように

,神

の姿が見 られ るように。はや くして。時刻が迫 っているのに, お前 った ら

,ど

うして御聖堂 に行 く準備がで きていないの。脱 いで よ

,は

ゃ く。焦 れったい わ。婚礼 の衣裳。神 の ようなお前の身体 を私 はこう呼ぼ う。お前 を最初 に見 た ときか ら, こ れが見 た くてわた しは渇いてたんだわ。ああ

,こ

うだったのね。ああ

,

この姿。神聖 な胸, 肩,う っとりす る腕。 とって よ

,ぃ

ぃか らそれ も一― お う

,ラ ,ラ

,こ

れで こそ騎士道だわ。 束 て

,恋

しい人

,私

の ところに束 て」(Ⅶ 442)“) この きわ どい件 は

,マ

ンが 中断 していた『クルル』 の仕事 を再開 した後 に書かれてお り

,

ピカロ小 説 としての 『ジンプ リツィシムス』へ の彼 の傾倒 ぶ りの一端 を示 している。 以上 の ように

,彼

らの女性体験 は極 めて類似 しているが

,精

神 の面での彼 らの冒険 は どうであろ うか。次 にそれ を見 てみ よう。好奇心 の強い ジンプ リツ ィウスは代父の案内で森 の奥のム ンメル湖 にメルヘ ンの旅 をす る。彼 は水 の精 に伴 われて湖底 に安着 し

,地

底 の暴力のない平和 な国の姿 に目 をみはる。太守や王様 との会話 を通 して

,彼

は肉体 と精神

,宗

教 と自然

,上

と下

,菩

と悪 などを超 越 した世界 を知 る。は) 一方

,フ

ェー リクス・クルルは今世紀の住人で

,ジ

ンプリツィウス・ ジ ンプ リツィシムスの よう に地底へ の旅 をす るわけにはいかない。精霊 たち と話 をすることもで きないが

,彼

に語 りかけて く れるのは古生物学者の クック ック教授 である。教授 はフェーリクスに学問的に或 は思弁的に地質学, 生命の誕生

,人

間の進化

,宇

宙空 間な どについて高度 な話 を聞かせ るのであ る。 この ように見 て くると

,ジ

ンプ リツィウス もフェー リクス も

,共

に人生の講義 を受 けていること がわかる。従 って

,こ

の面で も『クルル』 は『ジンプ リツィシムス』 の影響 を受 けていると言 える ようである。 しか も

,両

者 に共通 していることは

,い

ずれの講義 も彼 らの人生 に役立 っていない と い うことである。ジンプリツィウスが

,湖

底 での体験 によって精榊 的 に生れ変 り

,そ

の後悪漢生活 をやめた形跡 は全 くない し

,同

様 に

,古

生物学者 の質の高い話が フェー リクスの教養 に寄与 した と も思 われない。フェー リクスの精神 的詐欺師ぶ りは相変わ らずである。そのことは

,い

わゅる「ク ッ クック対話」 よ り少 し後 の章で, フェー リクスが ク ックック夫人やその娘ズーズー とかゎす会話 , 及 び彼 の彼女 たちに対す る相 も変 らぬいか さまな態度

,な

どを見 て も明 らかであ る。 グリンメルスハ ウゼ ンの冒険・悪漢小説 『ジンプリツィンムス』 は

,構

成 において もマ ンの 『ク ルル』に影響 を与えている。つ ま り

,訳

方の主人公 の旅 には計画性が欠 け

,ま

とま りと統一が ない。 これは冒険小説一般 に特有の現象のひ とつであるが

,物

語 においては

,主

人公 の多 くのエ ピソー ド がば らば らにつなが ってお り

,人

物 と場所が突然 に現 れてはすみやかに消 えてい くのである。従 っ

,こ

の種 の小説のあわただ しくて移 ろいやすい有様 は

,メ

ルヘ ン風 で さえあ る。マ ン自身,「『ク

(4)

ルル』の場合には

,作

品の世界が幻覚的なもので もよかったと思 う。(Ⅸ 160)」 と述べているが, そこでは時間と空間とがいささか混乱 していて,すでにこの言葉通 りになっている。フェーリクス・ クルルは

,回

想録で自分の人生のデー ターを展開する際 に

,そ

の若 き日々の体験 を年代順 に並べて 見せるとい うよりは

,そ

れ らを勝手 に混ぜあわせて見せ るのである。 ドイツの教養小説の主人公が 次第に自己を発見 し,内 面的形成 をとげるに至 るまで向上するのに対 して,ピ カロ小説の主人公 は, 連なる出来事 にいつまで もただもまれているだけである。つまり

,悪

漠小説は発展的に完結するこ

とがない。はてしなき連続である。

トーマス・マンはあるインタビューに答えて

,そ

の理由を次の

ように述べている。

更に

400ペ

ージだけ書き続ける時間と気分が私に与えられても

,断

編は多分依然として風変

りな本 の ままで終 るで しょう。 この本 はい うまで もな くそれを書 き上 げ ることにね らい を定 め られてはい ませ ん。 この本 はつねに更 に書 き続 け られ

,創

作 し続 け られ ることがで きるの です。それはすべ ての可能 な ものが掛 けておかれることので きる足場 であ り

,思

いついた り, 人生が運 んで くるすべ ての もの を しまってお くための叙事 的な空間なのです。私 が この本 に ついて言 うことので きる最 も特徴 的なことは

,恐

らくこの本がいつか 中断 され

,中

止 され る で しょうが

,決

して完成 されないだろ うとい うことです。それはそ うと

,

この本 はその原形 が 『ジンプ リツイウス・ジ ンプ リツイシムス』 であるところの ピカ レス ク小 説

,冒

険小説 の タイプ と伝統 に属 してい ます。(Ⅸ-530) ところが

,こ

れに反 してジ ンプ リツイウスは晩年 は隠者 とな り

,一

応人生 を完成 した諦念の境地 に至 る。これはピカロとしては例外 的ではなか ろうか。一方の フェー リクス も刑務所 の中 とはいえ, 回想録 の執筆者 として安泰の境過 にあるのは事実である。 しか し

,フ

ェー リクスがいつかジ ンプ リ ツイウスの ような自己克服者 になるであろ うとい うことは考 え られない。 この こ とは先 の引用 か ら も容易 に察せ られるだろう。 この点で

,教

訓か ら学ぶ こ とので きない男 フェー リクス・ クルルは, ジンプ リツイウス・ジ ンプ リツ イシムス よ り以上 に悪漢小説の原形の タイプに近 い と言 えそ うであ る。 3 フェー リクス・ クルルは

,

もともと市民 と対立す る芸術家 たち

,

トーニオ・ ク レーゲルや グス タ フ・ アシェ ンバハの兄弟の一人 として生 れた。 しか し

,フ

ェー リクスはこれ らの兄弟 たち とは違 つ た意味での極 めて風変 りな芸術家である。その経歴 は

,生

い立 ちか ら数 々の冒険 に至 る まで

,彼

ら のそれ よ りは ピカロのそれ とはるか に多 くの共通点 を持 っている。 この ことは

,

フェー リクスが悪

(5)

ピカロとしての クルル 漢 ラサ リー リョ・ デ・ トルメスの400年 後 に生 まれたい とこ(3)でぁ るこ とを示 しているので はなか ろうか。そ こで

,こ

のい とこたちの類似点 をまず生家 の姿か ら見 てみ よう。 彼 らの父親 はいず れ もあや しげな商売 を営 んでいる。 フェー リクスの父 はシャンパ ン酒 を醸造 し ていたが,「少 な くともエ ンゲルベル ト・ クルル商会がその埋 の外側 を

,専

門的 にはコワフュール と呼ばれるあの仕上 げの装飾 を,たいそ う重 く見 ていた ことは確かだ。ね じりこまれたコルク栓 は, 銀線 と金 を塗 った糸 とで しっか りと押 え られ

,そ

の上 を真 っ赤 な封 ろ うで封 じられていたが

,

さ ら に特別 に教書や古 い国家文書 に見 られるような,荘重 な円封印が金モールの先 にぶ ら下が っていた。 慢の首 には きらきらした錫箔がたっぶ りと着せ られ

,胴

には

,己

の名付親の シンメルプ レース ター が商会のために考案 した

,黄

金色 の唐草模様 で飾 られた レッテルがいか にも派手 に貼 ってあ って, この レッテルにはい くつかの紋章 と星

,金

文字 で印刷 された己の父親 の署名 と『ロルライ・エ クス トラ・キュヴェ』 とい う商標 のほか に

,腕

輪 と首飾 りだけを身につけて岩の頂 にすわ り

,

脚 を く み

,腕

をか ざ して

,波

打 つ髪 を くしけず ってい る女 の姿が見 られた。 ところで

,こ

の葡萄酒 の品質 は

,こ

う した まばゆいばか りの外装 と完全 に一致す る ものではなか った らしい

J(Ⅶ

-267/268)。 の場合,シ ャンパ ン酒の埋 の中味 よ り

,壕

の レッテルのデザ イ ンな どが問題 にされているのである。 ラサ リー リョの父の場合 には

,そ

れは小麦粉 の袋であったが

,い

ず れにせ よ詐欺であるこ とに変 り がない。彼 らの コワフュールには非の うち どころが ない。しか し

,結

果 は破産である。ラサ リー リョ の父は火刑 に処せ られ

,フ

ェー リクスの父 は ピス トル 自殺 をする。 彼 らの死後

,残

されたエ ンゲルベル トの妻 や ラサ リー リョの母 も

,こ

れ またそれぞれの夫 たち と 同 じようにあや しげな商売で露命 をつな ぐ。彼女 たちは都 会へ移 って旅館業 を営むのである。 クル ル夫人 は

,生

来の客好 き

,料

理の腕 を生か して又貸 しの賄 いつ き下宿屋 「ロー レライ荘」 を開 く。 宿屋 は繁盛す るが

,下

宿人たちは女主人の料理 の腕 よ りも

,魅

力 的な彼女の別の面 を期待 している ふ しがある。 また

,ラ

サ リー リョや フェー リクスの出生地 について も見逃 されてはな らない。前者 は トルメス 河で生 まれているが

,後

者 は ライ ン河畔の小都 市 に生 れている。「 これはライン河が マイ ンツ近辺 で描 く彎 曲部 のやや西 よ りにあって

,シ

ャンパ ン酒醸造 で名高 く

,ラ

イ ン河 を上下 にいそ ぐ汽船 の 主要碇泊地であ り

,人

口お よそ四千 をかぞえる。 だか ら

,あ

のお もしろおか しいマインツ もす ぐ近 くなら,タ ウヌスの上品な温泉場

,ヴ

イースバ ーデ ン

,ホ

ンブルク,ラ ンゲ ンシュヴァルバハ

,シ

ュ ランゲ ンバ ー トに も遠 くはな く

,シ

ュランゲ ンバ ー トヘ行 こうと思 えば

,狭

軌鉄道 に半時 間 も乗 れ ば よか った。好 ま しい季節 には

,己

たち

,両

親 と姉 のオ リュ ンピア と己 とは

,船

に乗 り

,馬

車 を駆 り

,汽

車 に揺 られて

,東

西南北 あ らゆる方角 に

,い

くど遠 出を試みた ことであったろ う。 いたる と ころに自然 と人間の機智 とがつ くり出 した歓楽境があ り

,名

所 旧跡があって

,己

たちを誘 ってや ま なかった」(Ⅶ-266/267)。 ライン地方 は

,

ドイッで は歴史的に古代 ローマの地中海世界 と最 も関係

(6)

の深い地域である。フェーリクスとは全 く別の道を歩む英雄的文士 グスタフ・アシェンバハは

,水

の町ベニスで破減するが,このことは,水 との関連で言えば,河 のほとりに生れたアンチ・ヒーロー の将来 を暗示 しているのか もしれない。いずれにせ よ

,快

適でめ ぐまれたこの地帯は

,カ

トリック の地で もある。フェーリクス・クルルは トーマス・マンが生んだ唯一のカ トリックの主人公である が

,こ

のカ トリックの地 こそが

,カ

トリックの地スペインのピカロの後裔 を育むのに一番ふ さわ し いところだったのではなかろうか。 4 ラサ リー リョや フェー リクスは

,共

に不利 な出生 の補填 とい う共通 の 目標 の もとに

,旅

と冒険 を 友 にきままに生 きている。元来

,

ピカロの暮 しは偶然が相手であ り

,そ

の生 き方 には明 日の安定が ない。彼 は違法 な手段 で ときに幸運 を手 にす ることがあ って も

,彼

には家族 もなければ

,財

産 もな い。 この根 な し草 は

,故

郷喪失者 に して

,人

生のアウ トサ イダーである。 トーマス・マ ンの初期 の 作 品『 トーニオ・ ク レーゲル』 には,「なん と言お うとわれわれは緑色 の車 に乗 つた ジプ シーで は ない。 われわれは きちん とした人間なのだ。領事 ク レーゲルの一族

,ク

レーゲル家の人間なのだ。J (Ⅷ

275)と

い う箇所があるが

,ジ

プシーの仲 間に加 わ り

,海

賊 と結 び

,旅

芸人の一座 に身 を投 じ, 或いは売春婦 の ひ もになった りする ピカロは多 い。 ここでは

,

トーニオが 自分 はあ くまで この よう なアウ トサ イダーではない と主張 しているのであ るが

,上

述の フェー リクスは

,完

全 にアウ トサ イ ダー, ジプシー側 の人間である。 しか も

,ア

ウ トサ イダーは冒険や 自由を満喫 してい るが故 に

,孤

独 とい う代償 を支払 わなければ な らない。 この点 はこつけい味あふれる主人公 の一番切 ない ところである。 ピカロは

,そ

れが友情 であれ恋愛 であれ

,人

間関係 を生みだす能力が ない。つ ま り

,誰

に も属 さない 自由人 に

,属

して く れる奇特 な人間が現 れるはず はないのである。 ラサ リー リ ョや フェー リクスは異性関係 において も 孤立 してい る。前者の若 い妻 は実はある金持 ちの男 の もので

,そ

の男が彼女 をラサ リー リヨに押 し つけていたことが後 になって判明す るのだが

,後

者 の最初 の性 の出合 いの相手である 自分 の生家 の 小 間使 の女 ゲ ノフェー ファも

,実

はある小駅 の駅長 とず つ と前か ら婚約 していたのである。彼 らは 経 済上 の理 由で結婚 を延 ば していたの に過 ぎない。Betrugerであ るはず の フェー リクス は

,der

Betrogene° )だったのだ。彼 は彼女 に とっては駅長 の代用 品 に外 な らない。 この ように

,

フェー リ クスは性 の陶酔 のなかで孤独 を余儀 な くさせ られている。トーマス・ マ ンは「『ファウス トゥス博 士』 の成立」 のなかで,「孤独 のモテ ィー フ

Jを

自分 の小 説の出発点の ひ とつ に挙 げているが

,そ

れ は, フェー リクス・ クルルにおいてはユーモアあふれ る犯罪的な形で

,グ

ス タフ・アシェ ンバハ や アー ドリアー ン・ レー ヴァーキュー ンにおいては悲劇的運命的な形で結実 したのである。 しか し

,前

(7)

ピカロ としての クルル の孤独 において も

,そ

のおか しみ に もかかわ らず

,何

か悲劇 的な調子 が感 じられるの もまた事実で ある。 「孤独 のモテ ィー フ」 は

,更

,悪

漢小説 に特有 の主人公が第

1人

称で語 る とい う自伝 的形式 と 関係があると思 われる。主人公が孤独 な人生 を告 白する場合

,こ

れ は極 めて適切 な形式である と言 えよう。あ らゆる権威

,あ

らゆる社会的規範 を拒否 した孤独 な人間にとって

,個

々のエ ピソー ドを 有機的に統合す る手立 ては第

1人

称 の Ichし かない。個 々の体験 は もはゃ客観的事実ではな くて , 主人公の主観的判断 に まか される。 トーマス・マ ンの作品のなかで

,厳

密 な意味で この ような自伝 的形式 をとっているのは 『クルル』 だけである。 「己が筆 をとって

,隠

棲 の 日々の暇 にまかせ て一一 それはそ うと己は健康 だが

,た

だ疲 れている , ひどく疲 れてい る…」(Ⅶ 265)。 『クルル』 の冒頭 は この ように始 まっているが

,こ

れはすべ ての ピカレスク小説の冒頭 に も適用で きるであろ う。いや,世界文学 の最大の 自伝,かの聖 アウグステ ィ ヌスの 『告 白』 にさえもあてはまるか もしれない。なぜ な ら

,自

伝 にはまず語 り手が全場 しなけれ ばならないか らである。その多 くは世間か ら身を引いた隠者であ り

,彼

は深 い森 の奥 で過去の 自分 の人生 を回顧す る。従 って

,彼

の人生 は

,現

に目の前で起 こっている ものではな く

,す

でに起 こっ た ものであ り

,今

ある ものではな く

,あ

った ものである。語 り手のIchは事 の後 にあ り

,事

の中に はない。彼 の人生 はつね に過去 に存在 しているのである。 ところで

,こ

の隠者

,つ

ま りIch―Erzahlerに は

,過

去 を語 りなが ら

,好

んで道徳 的訓戒 を垂 れ るとい う特徴が見 られ る。 これは

,悪

漢小説の著者 による

,当

時 の権力者や異端審間の 目をごまか す ための試 み

,否

,ひ

とつ のcaptaiO benevttenhae(1の と考 え られ て い るが

,こ

の場合

,captaio

benevOlendaeに お け る作者の イロニーが見 て とられなければな らない ことは言 うまで もない。 イ ロニーは

,不

道徳 でいかが わ しい ピカロの悪行 を語 りなが ら道徳 を説 くためには不可欠 な手段 とな る。 イロニーについては後で述べ る。 さて

,こ

の ような次 第で

,物

語のなかでは

,教

訓が主人公 によって提示 されていることは勿論で あるが

,一

方で

,物

語 は主 人公 を教 育す る教 育係 を必要 と してい る こ とも当然である。 ラサ リー リョ・デ・ トルメスの教育係 は盲 目のル ンペ ンであ り

,ジ

ンプ リツィウス 。ジ ンプ リツィシムスに あっては森 の隠者であ る。 しか しこの場合

,ラ

サ リー リョの意地悪 の こ じきの教育係 とは趣がちが い

,隠

者 は無知 な男 に敬虔 な精神 を教 える。 フェー リクス・ クルルには

,何

かあや しげな ところの ある男

,名

付親の シンメルプ レース ターが登場す る。彼 は「かな り名高い芸術家で

,…

故郷 の小 さ な市ではみなに『教授』 と呼ばれていた ものの

,こ

の立派 な望 ま しい称号が公式 に彼 に送 られたこ とはなかったようだ」(Ⅶ-265)。 彼 は窃盗 の罪 を犯 して監獄 で死 んだギ リシャの彫刻家 フィデ ィア スの故事 を持 ちだすの を好 む。

(8)

「フイデ イアスは」 と彼 は言 つた。「 ファイデ イーアス とも呼tゴれてい ますが

,容

易 に端侃す べか らざる才能の士 だ ったのです。彼 は窃盗 の罪 を犯 してアテーナイの獄 につ ながれたが, この事実がすで に彼 のオ能 を証明 してい ます。女神 アテーネーの像 を依頼 された彼 は

,預

け られた材料 の金 と象牙 を横領 した。彼 のオ能の発見者であるペ リク レスは彼 を牢獄 か ら逃が してや りま した(この ことで

,ペ

リク レス とい う識者 は

,芸

術 ばか りではな く

,そ

れ よ りも はるかに重 要 な こ とですが

,芸

術家 の本性 に も理解 を もってい たこ とを証 明 したのです)。 それか ら, フイデ イアスあるいはフアイデ イーアスはオ リュ ンピアに行 きま したが

,こ

こで は

,金

と象矛 とでゼ ウスの巨像 をつ くるように依頼 された。彼 は どうした と思い ます。 また して も盗 んだのです。そ してオ リュ ンピアの監獄 で死 にま した。オ能 と盗癖 とは奇妙 な組合 せですね。……」(Ⅶ…283)。 シンメルプ レース ターは

,そ

の名前か らしてすでに彼 の役割 を示 している。彼 自身の説明 による と, 「 自然 は腐敗 と 徴 以外 のなに もので もない。 ところで

,こ

のわた しは 自然 の 司 祭 に任ぜ られて いるのだ。だか らわた しの姓 はシンメルプ レース ター

,徴

の司祭 とい うわけだ。 もっ とも

,な

ぜ わ た しの名が フェー リクスであ るか

,そ

れは神様 だけが ご存 じだろ う

J(Ⅶ

283),とい うことになる。 この徴 の司祭 は 自分の代子 フェー リクスに人生の脇道 を次の ように教示す る。 わた しの意見 では

,肝

心 なのは何 よ りもまず

,こ

の子 に人生へ の

,学

校 のお偉方が誤解か ら この子 にはそれへ の名誉 ある入 口を与 えてや るわけにはいか ない と考 えた

,あ

の人生への道 を拓いてや るこ となのです。 まず この子 を外 に出 してや りさえすれば

,波

は きっ とこの子 を 乗せ て

,わ

た しの確信 どお り

,美

しい岸辺 に逗 んでゆ くで しよう。そ こで

,ホ

テルの経路, 給仕 とい う経路 こそ

,彼

の場合 には もっ とも好都合 な見込み を示す もの と思 われ ます。 これ は

,一

生 この仕事 ですすむ として も(この方向 をとれば非常 に立派 な身分 になるこ ともで き ます

),左

右い ろい ろの道 にそれ

,不

規則 な脇道 にま ぎれ こむ と して も好都合 な見込 みのあ るものですが

,脇

道 といえば

,そ

れはこれ まで も数多 くの幸逗児 のため に

,普

通の大道のほ かに幾本 も開かれていたのです。(Ⅶ 333) この教 えが

,将

来の フェー リクスの詐欺師 としての人生 に決定的な影響 を与 えた ことは

,容

易 に推 測 される。そのほかに

,シ

ンメルプ レース ターは弟子 の心 に SelbsHiebeや Eitelkdtを 養 い育 てる。 彼は

,フ

ェー リクスの父 の死後

,

自分 の後見人の母や姉 に対 して も

,彼

女 たちの人生への助言 を与 えている。 フェー リクスは人生の岐路 に立つたびに

,徴

だ らけの師の教 えに従 うのであるが

,そ

こ には母や姉の姿 はない。

(9)

ピカロと しての クルル 5 ピカロ小説 に見 られる教訓・訓戒が イローニ ッシュに理解 されなければな らない とい うことにつ いてはすでに触 れたが

,

フェー リクス・ クルルはイロニーで もって

,こ

の道徳 的お しゃべ りの仮面 を見事 には ぎ取 って見せ て くれ る。 このいか さま師は

,獄

中の身なが ら

,

自己 の Schelmereienの 回想記 をあえて「告 白」 と称 し

,か

の聖 アウグステ ィヌスやル ソーの感動的な記録 を連想 させ るこ とによって

,犯

罪者の改悛 の風 をよそおいなが ら

,皮

肉な笑み を浮べ ている。何 とい う恥知 らず, あつか ま しさであろ うか。 ここには

,あ

らゆる ま じめな もの

,誠

実 な ものへ の不敵 な挑戦

,ち

ゃか しがある。女 中ゲ ノフェーファとの彼 の情事 の告 白は

,次

の ように始 っている。 未見 の読者 よ

,は

じめ に流暢 な筆 をかたわ らに置 き

,

しば し沈思黙考 して心 を鎮 めた うえ, い まや己は

,誠

実 な心が命ず る ままに

,こ

こに

,己

が これ までの告 自のなかで もすでにいろ いろ と触 れて きた領域 に入ろうと思 う。そ うは言 って も

,己

がふ しだ らな口調 をつかい

,み

だ らな冗談 で も言 うか と期待す る ものは幻 滅 を味 わ うであろ うことを前 もって断わってお く。己はむ しろこれか らさきの文章では

,こ

の手記 の冒頭で約束 した真率 さに

,道

徳 と礼節 とが命ず る

,か

の抑制 と真面 目さとを注意深 く結 びつけるつ もりなのだ。 それ とい うの も , 己には一般 の人び とがあの ように猥談 を慰みにするのが どうして もわか らない し

,国

の放埒 をいつ ももっともい まわ しい もの と思 っているか らだが

,こ

れは軽薄 この うえない もので, 情熱 を理 由に弁解す ることはで きないのである。(Ⅶ 276) この気 ど りの背後で

,フ

ェー リクスが舌 を出 しているのは明 らかであろう。他方

,彼

は周到 に も, うえの ような抑制 と真面 目さを無視すべ き許可証 もひそかに手に入れてお くのである。 己は

,こ

の回想録 を主 と して

,か

,第

一 に己 自信 の慰み

,退

屈凌 ぎに綴 っているのだ と , 前のほ うで幾度 も断言 は した ものの

,こ

の点で も真実 に敬意 を表 して率直 に白状する と

,

じ つは

,こ

れ を書いてい る間 じゅう

,己

はひそかに

,い

わばH艮のすみか ら読書界 をうかがい見 ているのであって

,読

書界が関心 をもって くれる

,喝

条 して くれる とい う希望 に鼓舞 され な かつたな ら

,お

そ らくこの仕事 を現在 の ところまで進 めるだけの根気 さえ持 てなか っただろ うと思 う。己は

,生

涯 の秘密 を

,全

くあ りの ままに

,た

だ謙虚 に

,率

直 に告 白す るこの回想 録が

,作

家 の虚構 の作 品 と張 り合 うことがで きる ものか どうか

,つ

ま り読者 の愛顧 を争 って 張 り合 うことがで きる ものか どうか とい う疑間 を

,わ

れ とわが身につ きつ けてみ なければな らなか ったが

,読

者 とい うものは

,奇

矯 な虚構 の芸術作 品によって どれほ ど食傷 し

,鈍

感 に なってい るか と考 えて も

,そ

れは考 えす ぎではないのである。(Ⅶ 322)

(10)

イロニーの最後の例 として

,フ

ェーリクスが徴兵検査の場面で

,身

ぶ りたっぷ りに仮病 を使 う自分 の行為 を正当化 しようとする箇所 を引用する。 判断力のある読者 よ, この瞬間に己の眸 にこもっていた痛 ま しい訴 えは

,計

画 された

,下

心 あっての ものではあったが

,そ

れで も己は

,決

して嘘 をついていたので はなか ったのだ。 な ぜ な ら

,嘘

とか偽善 とかの宣告が くだ されなければな らないのは

,む

ろん

,あ

る感情 を不正 に模倣 した場合 だか らである。そ うい う場合

,表

面 にあ らわ した感情 は

,真

実 を も持 たず真 の体験 を も欠いているため に

,結

果 はあ さま しくもまた必至 に

,醜

悪 と拙劣 に終 るのである う。 しか し

,わ

れわれの貴重 な体験 の表現 を自分 の好 む瞬間に

,あ

る目的 を もって使 うこと は許 されていいのではなかろ うか。(Ⅶ 361) 読者 は

,か

くも巧妙 な決議論(11)を つ きつ け られて は判 断 に迷 って しまうので は なか ろうか。 とに か く

,フ

ェー リクスの面前で

,軍

当局 の権威が笑いの対象 にされている。 フェー リクスは軍 に敢然 と

,立

ち向かっているのだが

,そ

れは抵抗 に よつてではな く

,服

従 と礼節 によつてなされている。 原則 を攻撃す ることによつてではな く

,原

則 を信 じることを表明す ることによつて

,原

則 の虚偽が あばかれている。 この意味で

,悪

漢小説 は風刺文学の頂点 に立 っている と言 え よう。悪漢の世界 で は

,既

存 の秩序 における代表者 たちは裸 にされる。読者 は ピカロの破廉恥 な行為 に喝条 を送 り

,彼

の欺I浦が成功 し

,冷

酷 な聖職者

,い

ば りち らす政治家

,腐

敗 しきった免罪符販売人が断罪 されるこ とを願 うのである。 以上の ように

,尊

敬すべ き世 間の価値 を笑い に供す るのが ピカロの使命であるが

,そ

こに生ず る フモールや ウィッ トの本質 は

,

ピカロの滑稽 な芸 当にあるのではな くて

,彼

に よってあばかれ る と ころの権威 とその仮面の下 にある愚劣 との間における矛盾 にある。 仮病使 い フェー リクスの巧妙 な自己正当化 については先 に引用 した通 りであ るが

,他

の箇所 で も 彼が

,意

志 の力 で 自分の塙気 を作 り出す能力 について述べ ている。 己はこの病的徴候 をつ くりだ した。そ して

,

この病 的徴候が己の手 をか りず に 自然 にあ らわ れた ときに持つ ことがで きるの と全 く同 じ効果 を発揮 させ た。己は 自然 を改 良 して

,一

つの 夢 を実現 した。一一誰 に しろ

,無

か ら

,事

物 の まった く観念的な知識 と直感 とか ら

,つ

ま り 空想 か ら

,お

のれの身 を大胆 に働 かせ て

,異

論 の余地のない有効 な現実 を創造す ることがで きた人 な ら

,当

時己が

,

自分 の創造 を終 えて休 む時 に感 じた

,あ

の不可思議 な夢 の ような充 足 の気持がわかるはず だ。(Ⅶ-302) 以上の二つの例 のいずれの場合 に も

,崇

高 な 目的のためには さしもの肉体 も

,意

志 の力 によって負 か されることが謳 われている。つ ま り

,

トーマス・マ ンが

,こ

こでイロニーや フモール を駆使 して

(11)

ピカ ロと しての クルル

361

示したものは

,現

実の陳腐 に対する精神の勝利だつたのである

.。

(1)OskaF Se1111■ :Vo■ Goetlle ztt ThOmas Man■,VandeIIIOeck&Rupゃtit in Gbttinge■ 196ョ,s.16a

)ヘ

ッセ=マ ン往復書簡集 井手責夫・青柳謙二IHR(筑摩書房)1975年 P,171. (3)ThOmas Man■ :Briefe 1948■1勇i&FittheF VёnagI Frankfult al M1 19es,s,223.

14)Ebd.,S.231.な お,マ ンの作品からの引用につぃて

ti邦

訳「 トーマス・マン全集」(新潮社)1972年

.に

訳文

がある場缶 それを借用している。

(働

Hmsぬ

に。b chH・istoFel GrimmolShause■ ,Der abe■に■●れたと.e Sm01iCiSsimぃ,Ⅳ Ellcれ

,a―Kap.阿呆物 語 中 (岩

波 文庫

)S157.

)ト

ー マ ス,マンの 者 作 の底 本 と して は,Tれ omas Main t O■麺 血dte Werたo drdzel● Baiф■.FraniFiri an Mが■1974,を用いた。本文中のラl用にはその巻数とページを(Ⅲ 442)の形で記している。

(7)Halls Jakob Cれ●軒offe1 0rimmeislla,sen,Dげ 4benteuerl■he ttn01iciSslaltt v Buch,121-1■ Kap

(81 osLar Seidll■ i V6,Goethe,■ Thoねats Main Vandenhoeck&RIpFCcit h Otttinge■ 1988,S.164. (9)Ebd,S 171.

l101 Ebd,S.1741

10 Guido Sttin:Thomtt Marl■ ,Belteantnisse des Hochttaplett Fcl KruI I(11胡er■ .Ko■ёdiant Padel・bom l Mun

(12)

参照

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