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意識の志向性より存在の矛盾性へ(三)-香川大学学術情報リポジトリ

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商工健檻溶二研究 弟入奄第四戟へ宗鑑︶

高 階

順 〓 人間の摘心性より癒鹿の矛盾聴へ ︵二︶ 五 さて以上の場合に於て主観と考へちれるものはいふまでもなく人間的現存在であり、これに封し七客観的意味 を有つものほ他々の存在者としての事物、即ち道具である。それ故にこの場合には明かに主観が容靭を超越する こと1なり、客観は主観の遜越によつて和めて存在者たり得ること1なるが故に、竜親が主となり、客観が従と なる関係とならねぼならぬ。如ちこの場合の開係のみについて研察する時は、我々の只今の問題範域に於て、.ハ イデッガーに於てもやはりフツセールの場合に於けるが如く、我々は毒親木位の設に常耐せざるを待ぬであらう 意舐の志向性より存在の矛屑性へ

意識の志向性より存在の矛盾牲へ ︵三︺

︵こ九こ

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第八巻 第三蛮

︵二九二︶ こ ︵前々既凶五頁︶。何となれぼこ1に於ても主観的なるものが客兢的なるもの1存在を可能ならしめてゐるからで ある。かくて我々はフツセールに於ける主観尊雷の立場忙濾胞し待ずしてハイデウガ一に移少、その中心概念た る現存在の検討をなしてこ1に至り、再びフツセールに於けると同じ結論に到達せることに失望を感ぜねぼなら ぬかの如くに思はれる。けれども果してこれがハイデッガーに於ける眞嘗の主客関係であらうか。 人間的現存在はまさしく個々の存在者を超越し、それに封して上位に立つ。それは個々の存在たる寄物即ち造 兵に封してはその存在棍嬢ですらもあり得たのである。然らば剛鰐現存在が仙の可能的仝腰的存在者として個々 の存在者に封しこれを存在者たらしめ得る程にしかく力あるものとして存在し得るのは何に依ってゞあらうか。 現存在は個々の存在者に封して自らその存在の根掠たることが出来た。けれどもそれは自己自らの存在を根捺づ けることができるであらうか。勿論それが個々の存在者を道具として存在せしめることはやがて自らの存在を硯 賓的に轡不せしむるたかのものには外ならなかつた。けれどもさうした個々の存在者の存在は以て現存在の存在 ′ 根操たり得るに十分なものであらうか。こ1に於て現存在は今や自己自らの存在根掠を吟味されねぼならぬ事情 に際脅する。かくてハイデッガーに於ける客観的なるもの、それが今叫慶新しい畑野に放て見直されなければな らぬこと1なる。 我々は今までハイデッガーに於ける毒観的なるもの即ち人間的現存在に相封立する客観的なるものとして、個 々の道具としての存在者を考へ滞った。けれどもそれは結局可能的傘膿性としての現存在自らの自己粗悪によ′つ

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て轡不せしめられた道具性ではなかったか。然りとすれぼそれは現存耗自らの顆硯的様相とも見られ、随つて眞 の意味の客観とはいへぬことl∼もなるではなからうか。まさしく個々の存揮者はその語の示す如く個々の存在者 であつて粂膿としての存在者ではないが故に、常に重雄的存在者として存在する現存在に封立するものとしての その風の客観着たるⅦは堪え碍ぬものであつ驚けれどもまたさればとて我々はこれら佃々の存在者を措いて他 に或る全問的なる眞の客観を見出し得るであらうか。こゝに於て我々は各々の存在者に即して而も個別的存在者 ならざる或る仝濃的存在者を見出さなければならぬ。即ち存在者のすペてを各鰹に於て眺め、その金牌に於Ⅵる 存在者が於てあるところの様態そのものを仝存在者に即して求めなけれぼならぬ。かくして求め出されたもの、そ のものこそ眞の意味の客観でなけれぼならぬ。然るにハイデッガーに於てか1る様態︵W芭または状態︵Nu昔已︶ そのものはまさに世界と呼ばれるものであつた︵く.W−d・G.−S●∞e。こ1に於て主観としての硯存在に封立する眞 の意味の客観はせ界でなければならぬことが明かである。そしてま忽輿の意味の超越過程も嘗は、ハイデッガー も明言する如く︵<.W.d.G、.S.層︶\、金慣性︵GaコZheit︶に於て初めて生起するものである。随って眞の意味の超越 関係は、現存鹿と個々の存在者との問に存するもので偲なくLて、常に金牌としての親滞在と粂鰭北濃ける存凝 着のその於て存する様態としての世界との問に初めて可能であるといはねばならぬ。かくてハイデッガー北於け る主観客胡の関係も、この人間的現存在と世界との問にその眞賛の姿を露呈するものと見られねぼならぬ。然ら ばその関係とは如何なるものであらうか。 忠誠の志向性より存在の矛盾性へ ︵二九三︶ 三

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︵二九四︶ 四 弟八馨 第三況 我々は発きに人間的現存在の超越性は南棟に解絆されねばならぬことを述べ、超越に於ける︵言存在者である といふ場合には、自ら超越せらるべき運命の下に存すると解すぺきであることを見た︵前眈三九頁︶。現存衣が か1る運命の下に立つのは賛に世界に封せる時である。即ちそれは世界1内1存在といふ魂存在自らの本来の基 本組織に於て一ゞある。現存在は個々の滞在者に封しては自らその偏在板摸と汝少、これをすべて道具たらしめ、 結局自ら劇つの﹁世界﹂を構成t出すほどに力あるものであつた。けれども郡って、その多鰹に於ける存在者の於 て存する様態としての世界に封する時、それは無力︵OhコヨaCht︶にもそれによつて初めてその存在租掠を恩寵づ けられ、それの中に投げ入れられることによつて漸く自らの存在を保詮せしめられる全くの運命の子となるので ある。即ち個々の薄物に勤して全能忙振舞った現存在は、世界に判する時、それに受持せられることなくして揉 存在し得ぬところの無力老となるのである。こゝに現存在としての人間の両面性があ鳥、二兎性がある。即ち咄 方に於て紳の如く強く、他方に於て葦の如く弱きものが、如嘗なる姿の人間そのものである。個々の存在者に封 して和らしく振舞った人間的現存在は、今や世界に勤しては自らその中の山つの存在者としてその前に脆挿せね ぼならぬこと1なつた。さうしてそれが彼自らの造命に於てゞある。人は︵イデッガ一に於て、入聞はむしろ射 き葦にも比せらるべき原罪的無力者として表面に硯はれ解ることを、次の叙述から庵明か把見ることができるで あらスノ0 人間的現存衣の基本組織が世界1肉†存在であり、この基本組織に於て初めて硯存在が頒布鹿としてその賓存

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在性︵ExisteコN隻t繋︶旦観ち縛るとすれぼ、現存衣はまさしく世界に1内−存在することによつて、さうしてそ れによつてのみ自ら叫の存在者たり得るであらう。かくいつでも勿論それは例へぼ着物が軍笥の申に在るとれ ふが如き内部性︵lコWeコd質eeに於てゞはなく、むしろ現存在自らの世界性︵We菓chke⋮t︶に於てゞあらう。故 忙それは内部性ではないが、併しまた容間性︵R賢ヨ芳h訂it︺なしではない。その故は基間は世界−内!存在の構 成要素︵St夏t弓∋。ヨeコt︶であり、せ界性といふも驚は巷間性に外ならぬからである。﹂この姦問性の故に現存在が 世界に於て存し、それの側に在り、それに接偶Lてゐ、それに交渉を有つことができ、以て自己自ら一の存在者 としてその貰布衣性を磁ち得てゐるであらう。こ1に現存在が世界を自らの存在根掠としてそれに借り耕らね ぼならぬ所以の事情がある。現存鹿は自らを存在者として規定するといへるのも、それは個々の存在者を自己自 らに関係ある限りに於て秒み存在せしめ得るためではなく、むしろ自ら全館に於ける存在者の様態としての世 界に於て存し、その側に、それに接燭してゐるからであらう。けかくて現存在はいつでも既に教見せられてゐる世 界︵snh。コeコtdeckteWe−t︶の中に位置づけられ、それによつて存在者たらしめられてぁる。故に世界は現存衣に 封して常に発行的なる存在の坤盤であり領域である。かくいつても勿論また世界は現存在をその中に布衣せしめ ることなくしては自ら世界としての存在を完うすることができぬであらう。せ界はその中に存在者としての現存 ︳tヽ 衣がいつも既に在った︵war︶ところのものであり、またこれに向つて常に現存在.の締りゆくところのものであ る︵S.u.N.W S●讃︶。 忠誠の志向性より存在の矛盾性へ ︵二九五︶ 五

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︵二九六︶ 大 第八巻 笥三波 我々は兜きに個々の存在者が人間的現存在によつてその存在性を巌ち得てゐることの朋以を見、その間の関係 を佃々の存在者が現存在によつて超越せられてゐるものとして規定した。そのわけは叫が他によつてその存在性 即ち炭魂性を根深づけられてゐるときは二が他によつて超越されてゐると呼ぼれ得るからである︵↓raコSZeコdeコN とは存産二般を可能ならしめるUe訂rst訂旧であるとハイデッガーはいりてゐる︺。然るに今や我々は、これと同じ関係を 現存加と世界との聞に見出すのである一路って硯偏在の存在根撼はせ界の超越であり、さうしてこれは熟するに 世界−内−存在といふことの眞魂に外ならぬ。 超越するものは超越されるものに封しての存賓N与Seiコ︶であり、それに向つて進む︵N手篭コ山︶ものでぁる。超越 するといふことは、存在⋮綬を可能ならしめると同時に、また巷間に於て自ら動くこと︵S誉・bewe笥コ・計・Rauヨe︶ を可能ならしめる超越の過程であつた︵く●W.n.G.㌫.00こ。これらの関係は人間的現存在が個々の存在者として の事物に向つて存在してゐたことに見ても明かである︵前既囚二貢︶。こ1に於て世界が現存在を超越するといふ とき、それが現存在にN宇Seiコし笥コ山し、それに於てその布衣性を根接づけてゐるものと見るこ声ができる。 かくの如く世界によつて色々に働きかけられることによつて現存在の獲得せしめちれた存在性とは如何な右もの であつたか。それが即ち関心︵SOr罠と呼ぼれるもので、ある。世界内存的事物は現存在の働敷かけによつて使用 性︵Br臥un吉arkeeなる道具性を附興せられ造兵として始めて存在者たることができたが、現存在は世界の働きか げの故に関心を有つべく運命づけられ、関心者として初めて存在者たるを得てゐるのである。まさしく乙の関心

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こそ世界1内1存在としての人間的存在の.根本性格︵Gヨコdnkarか語r︶である。それ故に現存衣の布衣は関心とし て明かにされ得べきである︵N・B・㌫・u■N㌫・当こ∞・︶、N金etcし。かくて世界1内1存在としての現存在の組織全 濃の仝慣性は幽心として明かになり、その関心の中に現存在の布衣が決定されてゐる︵S.u.N.㌫.Nuごこと1な る。こ1に於て関心は、客観としてのせ界のために験儀なくも運命づけられた主鶴としての現存在の根本的性格 と慮られるのである。人ほこ1に客観を主とし尭親を従とする、謂はゞフツセールに於けるとは全く逆の関係に .立つ主客関係を見ないであらうか。命これを明かにするために我々は関心そのもの1存在論的構造を解明しなけ れぼならぬ。 未 発づ超越するといふこと埜父渉︵Uヨ笥コ思することであり、さうして現存在の超越に妓二つの様式が考へられ た︵前統二元頁︶るが故に、現存在の交渉もまた嘗然二方面に於て考へられねぼならぬ。それが世界に於ける交渉 ︵こ∃笥コ山iコ計rWe︼t︶とせ界内存的存在者との交渉︵Uヨ笥コ山ヨit計コiコnerWeltニcheコSe訂コdeコ︶とセあるといへよ ぅ。後者に於ては現存泰が事物に使用性︵Bra宍罫arke吉を附興し、これを造兵たらしめたが、前者に於ては現存 在に世界が細心︵S。r笥︶を翳し、関心者として初めてこれが在在を可能ならしめたと見られるのである。故に使用 性と関心性とは共に交渉によつて生ぜしめられた布衣者の存在煙と見ることができる。即ち雨着は結局同一類の 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵〓▲九七︶ 七

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第八巻 罪三渋

︵こ九八︶ 八 ものと考へられるごハ使用性は個々の世界内存的事物の存在性であり、細心性は世界1内−痴森としての現存在

の存在性たるところに相異があるのである。個々の事物の使用性は人間的現存泰に封してのものであつたが、

現存在の関心性は本来はせ界に封してのものである。併し世界といつてもそれは個々の存在者を離れては存在せ

す、それは個々の存産着すべての、即ち秦野に於ける存在者の於て存する様態に外ならなかった。それ故に現存

在の配慮︵F賢sOr聡︶はせ界陀封するものでありながらまた個々の存在者に封するものであり得る筈である。即 ち配慮に二つの様相が考へられること1なる。ハイデッガーが﹁配慮はその積極的なる様相に関して二つの極 端な可能性を有つ︵S・u・∼・㌫﹂NN︶﹂といひ、その言、跳び込んで行って支配する︵eiコSPriコ習旨川herrscheコde︶ 配慮と呼び、他を、跳び出て来て自由にするハく○−SPr息eコ吉富eコd2︶配慮と呼ぶとき、個々の事物に封するもの

は主として前者であり、世界に封するものは後者であると考へられる。そしてその自由にする配慮こそ本質的に

本来わ関心︵e質量cheS。﹁芭といはれ得るもの.で遜らう巧 かくてハイデッガーは闘心を存在論的に詮明して最も明かに次の如く定義する、即ちそれは﹁︵世界丙存的に鱒 適しっ1ある存在者の︶側に在るものとして︵せ界の︶中に既に前以って自ら存在してゐること︵S−亡.N.㌫.−ざ N金︶﹂︵S享くOrW2甲SChOコ象コ争へJ2r・Wel−←a−sSe冨2i︵ぎ2rWe−芳hbe選コ2コ許ヨ叫s2i2コd2コ︶︶である。然るに関心 は現存在の根本状態︵Gruコdくer牒uコ巴である。それ故にこの定義はやがて現存在の存在の基本的性格を現はすも のとなる。即ち前以て自ら︵Sich毒W2巴はその嘗存在︵Ex落コ∼︶を、既に︰⋮あ申に存在してゐるへschOコ・Seぎぎ⋮・︶

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はその事蜜性︵Fa芸N壷︶を了:⋮⋮の側に在る︵Seぎbe㌻⋮・︶はその頑靡性︵くer空言妄嘉してゐる。かく関心の中 Ⅵ周信凝の基本的性格が明革せられ得るのも、現存在は閲心にょって初めて存在者として存在し得るからであら う。そしてての摘心は現存凌が世界忙よつ七忽癒せられたがた牒に生起したものであつた。然る・にハイデッガー に於ては存在者に封するすべての態度が志向的といはれ、鳴って志向性は只超越の根撰の上にのみ可能なものと ぎれる︵宰W・笹G・−S・尋。こ1に於て関心と志向性とは共に超越の根接の上に立てる、存在者への二つの態度 と解される。さうして内存的封象に封する意散の態度が志向性であけ、世朗に封する人間の態度が関心であると 見られるのである。そして超越の根掠の上に革つことはやがてその存在性を、優ってまたその本質を接待するこ とであつた。かくてフツセールの意識の志向性は終封的存在としての純粋意識の存在性即ち太質たることを得、 ハイデッガーの人間の関心性は世界−内−存在としての人間的現存在の存在性即ち本質たることができるのであ る。それ故に関心はこれを人陶的現存泰の志向的性質とも見ることができるであらう。けれども我々はこ\にを れがフツセールの意識の志向性に於けるとは全く相次する性質のものたることを見逃し得ぬのである。それは志 向性に於ては客親藍息味づける主観の積極的態度が見られたる︵前々耽︶に反し、関心性に於てはむしろ容偶のカ によつて脅威せられつ∼ある主観の防禦的態度が見られるからである。即ち意識の志向性と人間の関心性とは雨 着共に超越の根接の上に立つ毒観の客観に封する態度と見られるが、その主客の関係に於ては雨着全く相反する 様相に於て存することが看取されるのである。戯らばその故は何か。 意識わ志向性より存在の矛盾性へ ︵こ九九︶−九

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寛人怨 第三威

︵三〇〇︶ 叫○ 現存在の存在性は踊心として明かになるが、その現存在の存在可能性︵Seざ∃宣ichke山t︶としてまた不安︵雷管︶ が奉げられる。その不安はその中に野不された現存在と合濃し、現存泰の横瀬的垂存凄性の明かなる祀綻に勤し て現象的鱒零を提供する′ものである︵S・亡・N・uS・︼00・︶︺。侍いはゞ不安は硯存在をその本源的存在様相に於て顕現せ しむるところの根本状態性とも解される。然るに現存在の存在性は関心として明かになるが政に、関心は不安の 現象に外ならぬことが明白である。不安は何か他の顛規定的なるものによつて脅威されてゐる状態である。この 不安が主観としての人間的現存在の存在を可能たするのである。何か他のものに封して︵<Or︶またそのものゝた めに︵u∃︶不安を飴俵なくされてゐる主観の態度を人は能動的・有力なる存在様相と解し得るであらうか。これハ イデツガ一に於ける主観が受動的・防契約態度のものと見られねばならぬとする所以である。 然らば叫鰭その不安とは何であらうか。これを検索することによつて我々はハイデッガーに於ける主観各級の 関係に於て存する右横の存在様相を明かにすることができるであらう。先づ不安︵∋占裟︶は明かに恐怖︵Furcht︶で はない。尤も雨着は普通常識的には全く同性質のものとせられ﹁恐怖たるものが不安と呼ぼれ、不安の性質を有 / っ・ものが思怖と名づけられでゐる︵S・u・N・㌫﹂00Ⅷ︶﹂が、併し﹁不安は恐怖とは鹿本的に相異してゐる。我々はこ 、、、 ヽヽヽ の或はかの仙定の事柄に閲して脅威するところのこの或はかの剛定の存在者に封しては常軋恐怖する。⋮⋮・:に ヽヽ︳ ヽ︳ヽ 倒しての恐怖はそ紗那度或る一定のもの1ために思怖する。恐怖にはそのそれについてのまたそれのためのとい 、− ︳’tヽ 皐限定が本来的である故に、恐怖者及び臆病者は彼の存在するとこみによつて囚はれる。⋮⋮⋮併し不安は常町

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︳ヽヽ ⋮⋮⋮に封する不安であるけれども、併しこれに封するとか参れに封するとかのものではない。⋮⋮⋮に封して の不安は常に⋮・⋮:のための不安である。けれどもこれとかあれとかのための不安ではない︵W・﹁M・uS・︼か︶。﹂か くて不安にはその不安を惹起せしめる特殊なる或ものが明かにせられてゐない。如ち﹁それに封して不安の生ず るもの︵WOくOrder彗旦︶は全く無規定である︵S.u−N●−S﹂00e。﹂併しそれは規定を快くことではなくして規定の / 不可能な㍗とを示してゐる。これに反して忍怖にはこれが明瞭である。不安はその虞相の分明せぬ或ものによつ て何となく落ち付きなくされることである。その柏手の分明せぬ所以は、それに封して不安の生するそのものが 現存従自らがその中に存在してゐ、そしてその故にこそそれ自らの存在が可能となつてゐるところのそのせ界 そのものだからである。即ち﹁それに封して不安の生するものは世界そのものである︵S.u・N・㌫.︼00J。﹂このせ界 そのものが人間的現存在に時々の脅威︵BedrOh弓巴を輿へるのである。この脅威の故に人間は不安に駆られ、関心 を傲儀なくされるのである。勿論不安ならざる恐怖も脅威によつて起るものと見られるであらう。﹁脅威は唯一 の惑怖され得るものたることができ.また恐怖に於て哉見される︵S・u・N・−S・−00革︶﹂ものだからである。それ故に 単にそれだけでは不安は恐怖と同じ現象である如くに思はれる。けれども恐怖のそれに封して坐するものは決し て世界ではない。﹁それに封して思怖の生するもの︵WOくOr計rFu﹁︹ht︶はまさしく世界内存的存在者である′︵S・宇 ・N.S.︼∞ど。﹂個々の世界内存的存在者は決して世界そのものではなかった。現存泰はこの他界内存的存在者によつ て思怖はせしめられても決して不安は生ぜしめられない。反封にせ界によつては恐怖せしめられず忙不安にせら 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵≡○こ 一一

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第八巻 第三渋

︵≡〇二︶一二 れるのである。即ち﹁それに封して不安の生するものは決して個々の世界内存的存在者ではない︵S.u.NこS﹂嘗ウ﹂ ﹁それに封して不安の感ぜられるそのものは、世界1内卜存蒸そのものである︵S・u・S﹂男。﹂それに封し・て不 安の生するものが無規定であるといつたのも、それが現存在自らの存在性たるせ界1内−存在といふことだか

らであり、、世界そのものだからである。その故は世界は現存在を規定するものではあつてもそれによつて規窟さ

れるものではないかちである。規存在の、規定し得るものは個々の世界内存的存在寧である。然る賢れ竺般

に恐怖を惹き起す脅威とはなつても不安を惹き起すものとはならない。即ち﹁世界の内部に現質的にまた旦別に

存在するところの庵の巧決してそれに於て不安を惹き起すものとはならない︵S・u・N・佃S●摩のである。それ故 ヽヽ’ヽヽ に不安を惹き起すべく脅威するものはと1に在るとかかしこに在るとかの蒜の場朗の指摘をなすことができな

ヽヽ

ヽヽ

いし、またこれであるとかあれであるとかの・その姿を指摘することもできない。そのわけはそれがか1る特殊的 限定を許さないせ界そのものだからである。か1る限定の可能なるものは個々の存在者であつて、決して金曜忙

於ける存在者の於て存する康態即ち倣誓はない。﹁脅威するものが何ものでもないといふこ漬それに射し宗

/ 安の生ずるもの∼特徴である。不安に感ぜられるそのものが何であるか﹃知られない﹄のである。﹃何ものでもない﹄

といふことは併し何馬無いといふこ之藍息味するものではない、むしろさういふことの中に場所表が存してみ

る︵S︰亡・NこS﹂嘗。﹂随つて不安に於ては脅威するものが軸足の場所から段々接近して来るやケなものではない旬 寧ろそれは今こ1に既に﹁現に﹂ある︹es藍scト○コ﹁Ja﹂︶。生濾レ息吹を吹きかけつ1ある。けれども何ものだか

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解らぬのである。そのわけはそれは世界そのものであり、さうして﹁世界に全てめ癒意味性といふ特性へ賢charak・ terく筆写Uコbede亡tSaヨke⋮tを有ち︵S.u.N.、S・︼ま︶﹂結局それは無︵コ告ts︶に外ならぬからである。﹁無は不安 に於て粂鱒に於ける存在者と一緒に生起する︵W.i●らご∽.︼00︶。﹂そしてこの粂憾に於ける存在者の於て存する様態 が世界搾外太らぬ。かくて無は賓にせ界そのもの1存在性と賜いへるであらう。一切の存在者を存在せしめでゐ 一/ る無の存在として世界は初めて存在し得るのである。′Iか1る無としての世界に直面しそれに脅かされるが故に人 間的現存在は常に気味意く︵uコhe宣i︹h︶感ぜられる。香現存在が無とtての世界の内に存在することをその本質 とするが故にそれは﹁無の中に引き入れられてゐる︵w・叫.声uS●Ne﹂ともいへる。存在者が非存在としての無・の 中に蝕してゐるとすれば、どうして不安の念に駆られすに居ることができようか。さうしてその不安が細心であ り、その関心が現存在の存在を可能ならしめてゐる。かくて常に何ものとも定かならぬ謂はゞ無によつて脅威を 飴儀なくせしめられ、根本的なる不気味さ︵Uコhe宣ichke吉の中に在りて何とはなき不安に箪はれ、不断の関心 によつて落ち着きなくされることは、世界−円1存在としての人間的魂存在にとつては、全く本質的なものとい は薇けれぼならぬ。 ヽヽヽ 以上ぎ宣くOrについて述べたことはそのま丁二ゴ広監亡ヨ についてもいへる。何故ならば何々貯封しての不安 ヽヽヽ 及び恐怖は常にまた何々のための不安及び恐怖でもあるからである。︵W.﹁芦㌫・︼n・勿論厳密にいふならば両者の 間には匠別があるかも知れない。ハイデッガーもWOくOr計rココ∽Stは計s笥WOr訂コeざder・We芋seiコであり︵S・u・NこS 忠誠の志向性より存在の矛盾性へ ︵三〇三︶一三

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第八巻 第≡渋

︵三〇鱒︶ 品四 lぎ計s亨der≒elt・Seぎse一bs什である︵少く・N・−S−N巴︶が、W。﹁u∃der彗鼠はd試ぎ旨・W賢seiコ.kぎコeコであ り︵S・u・N・−Sこ望︶dasSeiコk彗コeコdesDaseiコS明nh−echthぎ︵S・亡.N・加S・N崇︶であるといつて区別してゐるから◇けれ ども今の蓼合はとの蹟別を盈変成する必要はない。︶ ﹁不安の全き旗象はかくて事質的に資存する世界1内−有益としての現存在を示す︵S.u.N.㌫.︼苫ものである が、この存在者の基本的存在論的特性として、ハイデッガーは質存性・寮費性・胡厳性の三つを挙げてゐる︵S.亡. Z・︶S﹂盟︶。そしてこれらにはすべて無性︵芳ht質eit︶が透徹してゐると見られ得る。現存在が存在者として常に不 安に隋らねぼならぬのはこの無性の放であるともいへる。然るに不安は関心であり、硯布衣は関心着としての布 衣である。さればこそこの三特性は現存在の存在の基本的性格としても数へ得られたのである︵本紀八−九頁︶。 不安はかくせ界そのものゝ漠然たる脅威によつて生するものであり、関心とは無性の無的根接︵計sコ蔓官 Gru。訂eぎeぎer芳h茸keeに外ならぬが、これに反して恐怖は個々の世界内存的存在者によつて惹き超され.渇も のである。﹁憩怖のそれに封して起されるものは常に仙つの世界内存的存在者であり、それは未だ釆てはゐなくと もよいが∵定のところから段々近くへ、やって来る有事の存春着である︵S.≠N.−S.︼00u︶。﹂.不安のそれに封して生 ずるものは甥存在の於て存在する地盤であつたが、恐怖のそれに封して生ずるものは現存在自らが頑厳性に於て これを避けるものである。この場合も勿論脅威を感するが、併しこの脅威は不安の場合と興って世界から来るも ヽヽヽ●ヽヽヽヽ のではなく、常にこのものかかのものか定まつた︼つの他界内存的存在者から来るものなのである。

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以上に於て我々は不安と思怖とゐ根本的に相異るものであることの所以を知ることができた。恐怖のそれ濫封 してまたはそれのために坐するものば、近づき氷る或る一定の有害着であるが故に、恐怖に於て人間は囚はれた り︵訂st号a一teコ︶安定を失つ允り︵uコS告erコ︶思旛を失ったり 於てはそれを生ずるものが凝早眈に現にそれに於て存するとてろの無であるが故に、人間としてそれから免れる ことができず、略つて却ってこ1に二椒の朗らかな諦めが生じ、その諦念の故に不安はむしろ安静︵Ruhe︶を讃 すものとなる。不安と思怖とはかく相異るものであるが、それが共に配慮︵F莞sOr笥︶であることは同じであら う。それ故配慮について考へられた二つの可能性の様相は︵本統八頁︶賓はこの思怖を厨すものと不安を源すも ゐ上の二つであつたのである。然らばこの不安と恐怖とは、人間にとつて何れがより根源的なものであらうか。 この間題忙封する解答は既に人間の存在性そのもの1中に自ち包有されてゐるといへる。 傭は個々の世界内存的存在者との関係によつて生じ、ま夜その不安は世界−内1存在たるの性格即ち世界その ものに封する交渉によつて塵奄するものであるが、前に於ける関係は後に於ける交渉を侠ってその上把初めて 成立し得るものなるが華彗換言すれぼ現存在が個々の存在者と関係することはそれが既に現存在の虞只申に存 在することによつてのみ可能であるが故に、雷然不安が恐怖よりもより根源朋であり、恐怖は不安を板柾とする ことによつて、初めて生起し得るものたることが明かなのである。謂はゞ不安が恐怖を可能にするともいへる。 さうしてその不安が即ち関心である。随って人間的現存在にとつては関心は何よりも根源的であり、本質的であ 意識.の志向性より存在の矛盾性へ ︵三〇五︶一畳

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発八巻 第三或

︹三〇六︶ 二ハ るといはねぼならぬ。賛に﹁閲心は根源的なる細織全慣性として賓客在的兜天的に現存在の各事賓的﹃態度﹄ ヽヽ ︵くe音l宮山︶及び﹃状態﹄︵﹁a芭の﹃前監即ち常にもうその中に存してゐる︵S.u.N.−S.︼拐︶﹂ものたるのである。 かくてせ界−内1布衣としての人間的現存泰には関心はまさしくその存在性であり、それは重く宿命的なもので ぁる。即ち但東二内1存在をその基本組織として有する以上、現存在は必療的にせ界忙就いてまたそのために関 心せねばならぬ。随つてまたその存凝着たる他人に封しても関心せねばならす、さうしてまた自己自ら咋封して も関心せねばならぬ。この関心なくして現存在は共衣L得ない。それ故人間的存在を意義づけるものとして﹁理 論及び蜜疎も、その存在が踊心として規定せられねぼならぬところの存在者の存在可能性たるのである︵S主.Z.. S.︼巴︶。﹂ 七 以上の如く関心が不安であるといふのは、それが本来現存在の無力の感に根ざしてゐるものたるが放であらう。 即ち人間自らのカによつては如何ともすること能はぬせ界金牌の或る不定なる力によつて常に脅威せらるべく運 命づけられてゐる現存在の無力︵OhコヨaCht︶そのものが、それを底なしの不安にまで投げ入れるものであらう。 こゝに於て無力が現存在の存廃性を規定してゐるものといへる︵く・W.n.P㌫.ご○︶。かくてハイデッガーに於け る宅親的なるものは明かに客観によつて脅かされつ1常に落ち着きなく動推しっゝ布衣せねばならぬところの閲

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心着であると見られるのである。即ち我々は客観によつて威塵されてゐるところの主観をこゝに見る。廃るにこ の脅威を幽へる客観者としてのせ界は本釆無規定なるものであり、をれはむ⊥ろ無とも糾せらるべきものであつ た。 ぼ死︵d川r↓Od︶に於て蟹見する′であらう。 ﹁死厄世界1内1存在の終末である︵S・仁・N,S●N山e。﹂この終末が布衣可能性とLての現存在にまで屈し∵現有 在の可能的金牌性老限局しまたそれを規定するのである。亘れ故に現存奄としての人間には死は途に免れ得ざる ものである。硯存在はまさに死の蔭にあり、.生は死への存在︵S2ぎ∼uヨTOde︶、死ぺの前走︵く○−iaureコNu∃↓○甘︶に 外ならぬ。かくて我々の﹁日常性はまさしく生誕と死との間の存在である︵S.≠N・−S.田山︶。﹂死はむしろ撮も贋 い意味に於ける、即ち有の存在の生命現象をそれに於て可能ならしめてゐるところの無の布衣の生命現象であ とさへもいへるのである。 死に向つて走りつ1あるものは、何時かはその死に到達せねぼならぬ。何が確賛であるといつ七も、人間が途 には死に出魯はねばならぬといふこと程確蜜なことはない。しかく確嘗であるとレふことは併し勿論それが時阻 的に何時であるかの決定を意味してゐるのではないbもしそれが決定してゐるものとせぼ、それは不安を滑すの ではなくして恐怖を督すものとなるであらう。来るてとは絶封に確賃であるがそれが何時であるか解らぬところ 把恐怖ならざる不安の感ぜられる所以があるのである。けれどもこの修き生に於てそれは飴りにもあわたゞしく 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵三〇七︶ 仰七

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︵三〇八し 仙人 第八巻 第三 渋 また飴りにも早く、今もう直ぐ遭遇せぬぼならぬやうなものである。香、死は賓に何時か来るものではなく、も ぅ今現にこ、に釆てゐる。最早我々の面上にそのうす気味の藩い息吹を吹きかけつゝある。我々の生励は今規忙 死の虞只ヰにあるのである。﹁人間は生れるや否や同時に死すべく最早十分に年老いてゐる︵S.u・N.−S.営u︶。﹂死 ヽヽヽヽヽ︳ヽ ぬこと︵Sterben︶は現存在が死に封して存在するその布衣様相である︵S・亡・N・−S・鳶︶。然るに現存衣の基本細波 は溺心に於ける布衣といふことであつた。さうしてこの存在に些こつの根本性質が存在してゐた。即ちそれは現 存性・寄資性・頚應性であつた︵S.u.N.−S・︼望∴其〓.︶。随ってこの三性質はまた死の現象に於ても明かにせられ る藩がらである。 然らば﹂魔人間が自ら死に於ける存在︵Seぎiヨ↓○計︶として既定されてあることはいかにして立詮されるであ らうか。それは日常﹁般の生活に於て人々が死を慣れてノこれから逃れようとしてゐるといふ事晋によつて許掠立 てられる。﹁現存在の終末としての死は、最も虞賓にして無頓着な、確賓な、さうしてか∼るものとして不定な、 打ち超え挫き現存在の可能性でぁる。死は現存在の終末として、その終末に向へるこの存在者の存在の申に存在 してゐるのである︵S.u.N.−S.賊00fし。﹂ 由存在の根本組織としての関心が、この存在者の汲も著しい可能性としての死と囲聯する偏に、.現存在α可能 的全存在の問題が正しく成立する。かくて﹁死にまでの存在は賛に関心の中に根ざしてゐる︵S.u.N.、S.ば豊﹂とい へるのである。随つてまたこれは現存麗としての人間の本性その場のであり、免るべからざる蓮命なのである?

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かくて死は常に現存在を脅威し塵迫する。それ故に現存在は不安を飴儀なくされるのである。か∼る死の塵迫が 何故たその不安を飴俵なくせしめるのであるか。それは死によつて現存在がその本性た.るせ界−内守存在たるこ とを失はねぼならぬからである。死は現存在がせ界し内卜存在たるととから叫ることである。死者は最早既に我 々の世界にはない。人間の死は人間が世界L内−存在から況して、世界内存的事物と化するの謂である。現存在 が現存在として存在し得なくなることである。即ちそれは現存在の自己破滅である。不安ならざらんとしてもで きることであらうか。この死によつ七人問がせ界内存的事物として机やペンなど∼同じ存在として始まる時は、 それが解剖畢や宗教的儀式の封象とはなり得るが、せ界1内−存在としての我々の存准ではなくなるのセある。 との世界の内に残された人々は、この世界を出ることによつてのみ初めて死者と剛緒になることができる。けれ どもその時人は既に人間ではなくなる。死は現存在の終末として、現存在がこの世界から出ることである。現存 在が世界−内∵⊥仔在たることを失って牡界内存的存在者として始まることである。郎ち現存在の自己破滅であ る。やがて自己を破壊すべく運命づけられてあるもの、をれが人間的現存在である。 現存在はかくて、彼の有限的なる選樟の前に︵vO才e忌reコ会ch川コWahi︶即ち彼の運命の下に︵ぎseぎeヨSch貧saC 分散しゆく可能性内にのみ存在し得るものと.小へるのでるる︵く.W∵m.G.㌫﹂8︶。勿論人間には自由︵Fre芳註︶が ないわけではない。人イデツガーもいへる如く自由は根掠の根採ともいへる︵く.W●d■G.YS・︼$し。けれども自由 は現存在にとつては底なし︵語垣uコm︶の根揚であつた︵く一W.d.G..S.︼S︶。それは何等の栗縛︵切iコ旨コ巴を有せぬ 藩識の志向性より存在の矛盾僅二 ︵三〇九︶ 仙九

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︵三劇○︶ 二〇 第八巻 弟三成 ことではなくして、却って現存在の根粒に無の性格︵三︹ht告e芳harakt仲r︶が浸潤し、現存在の本質が徹頭徹尾有 限であることを明かに了解せしめる庵のに外なちなかつた。か1る人間の限りなき有限性の自覚は人間をして底 なしの不安に突き落さすして止まうか。されば自由は造命かちの脱却を約束するものにあらす。むしろ却つ七人 問を底知らずの運命に飲まり込ましめるもので潜る。自由に行動せりとの所謂自由の感情は、自己自らへの安住 特籍をいよ′1多からしめて自発の念をいよ′∼繋からしめる以外の何物でもない。自由に意志し行動せりと息 ふ倭庭偲限の寂蓼を感するのもこれがためであらう。.無際限の自費の念と無限界なる寂蓼の感とは所謂の自由人 を内面から打ち虐げ、絶射的運命の威力の如何ともすべからざるの粗を如資ならしめるのである。こ1に於て心 の清く鋭く感じの強く細かき鴻のは、無拘束の境に生きつ1限りなき基漠の感、渡しなき頼りなさの感に如何も もすること能はず、理論的にはた蜜蹟的に、威知れぬ不安寂蓼の故に身塙世もあらぬ思ひに浸らざるを得ぬので 為る。こゝに我々は限りなく射せ原罪的人間を見る。頼らんとする心は痛々しくも打ちひしがれ、望みの乎は排 ひのけられて、永劫なる沈倫を違命づけられてゐるもの﹁それを我々は人間的現存在に於て見る。 そのもの1姿であり、むしろそれがこの﹁私﹂なのである。 併しながら人間たるが故のか1る運命への繋滞偲決して苦悶を件ふものではない。不安は赦して恐怖で捧なか らた︵ズY⊥二男︶。恐怖でな小ものに苦悶や痛苦の件ふヱとはない。随ってこの人問的不安には、囚はれること ︷Fest讐haぎコ巴や不安定︵UコSicher訂it\や恩旛を失ふこと︵誉p〓OS−隻eit︸などはあり得ない。むしろそこに蜂鵬程

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の潮かな諮らめがあり、二堺の蓮命への忍従の強さがある。﹁不安には或る特異なる安慰が浸潤してゐる︵W.i. 芦−S﹂の︶﹂のである。一つの縛られた安慰︵eぎe笥ba∃teRuhe︶︵W●i●デS.︼eがこ.∼にはある。不安は﹁創造 的なる憧憬の朗らかさや和やかさと密やかな組合をなしてゐるのである︵W.﹁MごS.営。﹂かくて人間の蓬命への 如嘗なる諦観には、罪なくして配所の月を見るの清†しさと、物めあわれに充ち満てる大自然とのいみじくもわ びしき合鰭さへも患まれてあるのである。その放はそこに生する.〓別の人間的不安の根接が世界そのものであり﹂ その世界は無として人間的現存在を脅かすものではあ eれコerbe裟ヨヨtenき︷屋lichke叫t︶を有つものではなく︵朝・u・刊・㌫・︼00e、却ってその現存在の存在を保詮してゐるも のだからである。かくて人間的不安に徹すること昼虞なる意味のせ界との合鰹を意味し、如賓なる世界の全把捉 は、生きつゝある自己自らを無に徹せしめることによつてのみ可能なのである。かくて例へぼ無常感が直ちに詩 歌突文の内容となり、また例へぼ鵬首側句の中に全世界を躍動せしめることも可能となるのである。 八 さて、我々の今までの叙述は山鰹何のなめであつたかっそれはハイデッガーに於ける主観客胡の脚係を明かに するためのものではなかつたか。然りとすれば人は以上に於て果して如何なる様相の主客紺係を理解し得たであ らうか。フツセールのそれに於ては全く尭親が客朔豊息昧づけるところの主観本位のものが存してゐた︵前々統︶。 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵ニ二 こ 二叫

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第八巻 第三渋

︵三脚二︶ユニ 併しハイデッガーに於ては我々はこれとは正反封に、客観によつて運命づけられた主観、随つて主観を宿命的に規 定する容儀を見、謂はゞ客観本位の思想をそこに明かに認め得ないであらうか。勿論ハイデッガー自らは認識に摘 ⊥てそれは﹁主観の世界との取引︵C。ヨヨerCiuヨ︶から生ずるものでもなくまた主勧に封する他界の影響︵E百官言uコ巴 から生するものでもない︵S・u●N・㌫●昏﹂ことを明言してゐるほどでもあつて、こ1に客観が主観を超扱すると か主観が客観によつて超紛せられるとかいふ言ひ方は程々の誤解を招くに十分であるでもあらう。さうしてまた ’ヽヽヽ︳ 特に客観が葺観を超越するといふことは、現存衣を主観と解する時客観的のものとしては世界と址ハに個々の存在 者をも考へられるといふことによつて、叫屏疑はしきものとされるに十分なものとなるであらう。何となれば今 ヽ▼ヽヽ︳ もし個々の存在者をのみ客観的の庵のと解する時には、却って主観が客観を超越するもの、さうして世界は主観鴻 客観も共にこれを超越する超主観超客観者として考へられるに至ると思ふからである。併しながら我々は既に十 分の胡由を以て世界を或る客観的なるものとし七索へ来った。そしてもしもそれが許されるとするならば、硯循衣 ヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽ 偲世界によつてその雁泰が根掠づけられてゐるが故に、硯雁在が世界によつて、随つてまた主勧が容胡によつて 超越せられてゐる㌧といふ主張にも十分の眞珂性が認められると思ふのである。関心といふのはまさしくかくの如 痘痕力にして先行的なる客観としての世界にカ弱くも酎接して存在せる主観としての人間的現存在の根本状態に 外ならなかったのである。かくて.ハイデッガーに於ては仙般に客観重税の思想が基調をなしてぁると、いつても敢 て不常ではないであらうJ命このことは﹁硯存在は溺嘗上質存してゐるが故にまたその故のみに世界−内−存在

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tヽ であるのではなく、むしろ戊封に、現存在の本質状態が世界−内−存在に於て存するが故に、現存在は只賛存す ヽヽヽtヽ るものとして、由ち現存衣として存在し得る︵く.W.d−G.﹀S.璧︶﹂ものなることを見ても明かであらう。ノ即ち主 観的存在之してb現存在が賓存する故に世界−内﹂存療としてその客観性を有つので腋なく、反封に客観的存在 としての世界の内に存在するが故に、即ち客観性を有つが故に初めて現存衣として主観的存在たることが可能な のである。そして賛のところハイデツ嘉−に於ける﹁世界一内寸存在の解明もそれは、世界なくしては単なる童 親︵誓書ssesSubjekt︶はまづ﹃存在してゐる﹄こともまた輿へられることもないといふことを示したも賢s・u・ N.∼S.1㌫︶﹂に外ならなかつたのである。即ちハイデッガー笹於ては主観は全く世界即ち客故に依存し、主観 は客観の布衣によつて初めて存在せしめられるものである。さうしてこの寄情が摘心を成立せしめ、その関心 が現存鹿の親木状態であり、またその﹁現存在の世界−円仁存在に於て底礎づけられてゐる様相が認識である ︵S・U・N・ⅦS・缶fし﹂が故に、人は十分の信念を以ゼハ=イデツガーの立場を客観本蚊のものといへると思ふのであ る○ ヽt︳︳ヽヽ 然らばか1るハイデツガ・−の容碗重蔵の立垣に於ける人間の関心性と、フ㌢セールの章鶴尊衰の立場佗於ける ヽヽヽ︳ヽヽ 意識の志向性とは、嘲腰如何なる紺係に於て存すると見らるぺきか。 フツヤールに於てはノェシスが主観的なるものでありノエマが客観的なるものであつた。さうしてノエシスは 常に意味づける作用としてノ亨マを自ら構成し、それを自らの相関着たらしめるものであつた。随つてノエマは 忠誠の志向性より存在の矛層性へ ○ニニニ︶ 二童

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僑入金 弟三班

︵主﹂由︶・二四 億にノ;スに封するものではあるが、併しそれへの封向は自ら替動的のものではなく、寄ら所動的に、只ノ孤 シ下によつて語向せちれてゐるが故にそれへの相関者として封向tてゐるものに過ぎなかつ篭こ1にフツセ!

ルに於ける主観が客観よりもより磯動的であり、現前的であり、有力である朗以が存したのである。然るにハイ

デッガーに於・ては主観的なる現存在はいつでも既に客観的なるものとしての世界の中に存在し、さうしてそれに

於てのみ、即ち世界1内−存在としてのみ存在の可能なるものであつた。謂はゞせ卵によつて超越されるが故忙 常に関心の朗有的とし七存癒し縛る牒のであつた。こ1に於て我々は主観を超趨する客観を見、より襲動的にし

て脅威的なるものを容親的方厨に於て見択したのである。即ちフツセールに於ては客観は妾観によつて意味づけ

られ構成される之とによつて存在するものであつたが、ハイデッガーに於ては逆に主観が春樹によつて超越せら

れ、鹿嫁づけられるこせにょつて存在するものと解されるのである。然らばか1る反封的立場が如何にして生じ− またその関係は如何に考へらるべきであらうか。我々はこ1にフツセールが純粋意識の太質的構成要素とし・てノ ;スとノエマを分ち︵前々撃=ハー二七頁︶、殊にそのノエシスを更にヒーレーとモルペーとに分ったこと︵前 鬼撃二五黄︶に重要なる意味を見出しつ1想起せねばならぬことを感中るのである。

壷フツセール濫於けるヒーレーとはいかなるものであつたか。それは言ベーとしてのクエゼをしてノ寓ゼ

特有の働きをなさしめてゐる首のものではなかつたか。もルペーとトてのノ芸がノエゼとして十分自らの作用

を遊行する⋮ができ、それによつて自らのノ⋮スを構成する嘗のものとして純粋意識内に最重婁の地位を占

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め蘭たの巧仝′くヒーレーの基礎的な働きによつてゞは頂かったか。謂はゞヒーレ﹂はノエゼを底礎づけてその存 廃を保詮す局と共に、その作層を途行せしめつ∼ある内助着ではなかつたか。然りとすれぼフツセールに於てノエ シスが/土マ藍息味づけつ1それを構成する蘭に、その幼心暦奥溌きせころに於てヒーレーがモルぺ﹂を根接づ けてゐるといふことが必要なものとして考へちれるであらう。勿論ヒーレーがモルペーなしには存在し得ぬこと はいふまでもない。併しその何れがより根粒的であるかを考へる時、我々はヒーレーがモルべーの於て存する坐 であると考へざるを得ない。これは叫般に、現象畢的考へ方に於ては論理的なる新カン▼ト畢次の主張とは反封に、 普通資質的なるものを形式的なるもの1土姦に考へぬぼ怒らぬといふ事態があることからのみではなく、七−レ −は単に存在し得るもので寄ら存在することをその本質とするが、モルペーは単に存在するだけではなくノエゼ として志向的作用をなさねぼならす、その作用するとい ならば⋮般灯事態の存在論的解廟に於ては、存在してゐるといふことが作用することや働くことの前になけれぼ ならぬと解されるからである。然りとすれぼヒーレーはフツセール陀於てその位笹づけがなされてゐる以上に重 層な眉味を看つものとして考へられねぼならぬことが明かであるり換言すれぼヒーレーがノエゼを薦礎づ・け、そ れ北よつてノエゼがノ声マを意味づける乞とが可能であると考へられるが故に、ヒーレーが志向的倍験としての 純瀞意識の最鴻虞栖に打弾む最初の根接とも見られるのである。こゝ掟我々はフツセールに於けるヒーレーがノ ェゼに封して有する囲係は、ハイデッガーに於ける政界が現存在に封して有する関係と同じ意味を有つものであ 忠誠の志向性よ亘存在の矛盾性へ ︵三︻五︶ 〓五

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ることを考へ得ると思ふのである。 以上のことから私は、フッセールに於けるヒーレーがハイデッガーに於ける世界の如き意味を有ち、そめノエ ゼがその現存在に、さうして更にそのノエマがその個々の道具としての番物に相雷するが如き意味を有つもので はないかと考へる。かく考へる時、純粋意識の中核的太質をノエゼと見、ノエシス・ノエマ的構造を以て純粋意 簡の本質とするフツセ﹂ルの立場が、今叫歩探められてそのノエゼの存在様相の如何が間はれ、それがヒーレ一 朗庖るものによつて初めて存廃し得るものたることの寄態を究めゆく七すれぼ、そこにハしイデツガーの立場が現 はれ来る・のではなからうか。フツセⅠ・ルはノエシスとノエマとの関係を主として見たのであるが、ハイデッガー ほむしろノエシス的なるもの1存在その掲のを問ひ、それがヒーレー的なるものと関係することによつて初めて 存衣し得る桝以の事態を突きつめたものと鴻見られるではなからうか。随ってまたその反封に■ハイデッガーに 澱ける現存在上欄々の世堺内存的存在者上の問の閲係をノエシスとノエマとの関係に雷て1考へて見、・それのみ 老優く見て、渦布衣はせ界−内−存在として初めて存在し得ることの所以を憲識的なもの1中に於て見なかつた のが、フツセールの立場と解L得るやうに恩放れるのである。 以上化せつて、フッセールの構球的現象嬰では純粋意識を絶封的布衣として傲幼から認容tその存在そのもノの 凄問題上しなかつた所以も明か成せられ、ハイデッガーの傑繹的現象興が覚妃この存在そのものを奨きつめて全 く激し小錦潜を開拓⊥粥、つたといはれる所以協伴黙するやうに思はれる。ハイデッガーは純粋意識及び意識山般

弟入寧 第三額

︵ニこ六︶ こ六

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を詳論して、これらの理念は﹁硯質的な竃主観性のアブサオサを包有することが甚だ少いがた、めに、七れらは硯存 在の馬資性及びその存在状態の存准論的性質を跳び越えてしまつてゐ、或は叫般にこれを見てゐない︵S・亡・N・㌦ S−N一eといつてゐるが、それはこれらのものがノエゼ的なるもの1布衣の根穣づけそ叫般に逸も去ってゐる所以 を難じてゐるものと解しても善愛ないで遜らう。かくて我々は、客観的なるノエマを意味づけるものとしての主 観的′エゼを立て、それらの関係を見んとするフツセールの立場を蒐に探く掘り下げ、その底にある客観的ヒー レ﹂の領域を意味探く表面に持ち釆し、むしろそのヒーレーとノエゼとの関係と見られるものを重要成する立坂 としてハイデッガーの客観重祀の立場を考へ得るであらうと思ふ。即ちハイデッガーに於ける現存賓は、毒戟的 ㈲在者として、個々の存在者に封してはこれを客観として自らこれに造兵性を附興し﹂更に世界に勤しては自ら を存在せしめてゐる客観としてこれに従ふべく飴儀なくされてゐるものと思はれる。かくて要するに、フツセー ルの主観舎垂の立場の奥に、ハイデツガ﹂の客観重税の立場が存在せねばならぬことゝなるのである。そしてそ の瀾洩は以上によつて各々明かにされたことゝ恩ふ。 九 かくの如くハイデッガーの解繹的現象塾が客観を主とし主観を経となす立場に於て存するとしても、併しその ことは決してその辟が尭親的なるもの⊥鮮明よりも客親的なるものゝ鮮明に於て〓曙優ってゐるといふことを意 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵ニ〓克︶ こ七

(28)

弟八巻 第ニ︷既 ︵ニ〓八︶ こ八

味するものではない。壷寄資はむしろその反封に、客観的立場に自らの立脚鮎を磨くが故に却って幸観そのもの

1泰を明かに見ることノができ、随って主観的象鱒の具鰭的記述佗於てより壷優れたものを有ち得たのである。 このことは一見道義的に見えて而もその然らざる所以の事情は、フツセールに於ける︵前々耽四三貢︶場合の反封

を考へることによつて自ら明らかにせられることゝ思ふ。併し単なる記述はフツセールの場合に於けるが如くす

べてを客親化し去るの嫌ひがある。それ故に主観そのもの1畢的頼示のためには主鶴自らをして十分自己を語る

ことを得せしめねばならぬ。即ち現存在は自己叙述即ち自己解繹によつてのみ初めて自己を十分拳的に攣不する

七とができる。さうしてよく自己を語ることのできるためには自2をよく知るものたるを要し、そのためには例

へぼ自らをよく見るために明るき鏡を要するが如く、主観的なるものに十分の自己叙述をなさしめ得る如き或る

客観的立場を確立して窓く必要がある?解繹的現象螢の客親的立場はかくてまた常然のものであるともいはなけ

ればならぬ。

さて以上に於ける私の諭旨は、脾に主客の関係より考察する時、ハ、ィヂツガ一に於ける人間の関心性は、フツ

セールに於ける意戯の志向性とは反封に、客観重税のものたらねぼならぬといふにある。かくて主観の作用を

畳んする鮎でフツセールには多分に癖姦判第壷忙於けるカント的要素が多く介在心、これに反して客観的絶

封力を登ふする鮎で人イデツガ一には多くのスコ\ラ主義的色彩が搬針成されてゐる。さうして主観本位の畢は雷

然客観記述の撃となり、客観体位の蓼は却つて主胡解繹の畢となることも以上に於て明かであらう。今恨りにこ︰

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れを宗教的見地に富て1考へる時、フツセールの立場は自力本朗に苦り、ハイデッガーの立場は他力本備に嘗る といへる。自力本膳のものは却って他者の征服へ上意して破邪をその主眼とし、他力本厩のものは却って他によ る自己救済へと目指して辟正を叫筋なる歩みとする。併しながらかく尭観客初の何れか一方のみを重んじて他を 比較的に軽んすることは、児して展に蓼的に正常不偏な託場といひ得るであらうか。我々は今劇歩を進めて自他 共々に救はれる如き、謂はゞ平等一如を主眼とするが如き立場を考へる必要のあることを感する。即ち人によつ て紳が柴える如き自力本願的立場や、紳によつて人が救はれる如き他力本願的立場の外に、紳も柴え人も救はれる 如き、謂はゞ自力即他力ともいふペき絶封の立場がなけれぼならぬ。この立場に於ては主観も客観も平等にその 存在樺利が認められ、主観を主とすれば客掴も壷となり、主観を従とすれば客観も従となる如き事態が考へられ ねばならぬ。かく主観客胡を平等に見るため忙はその各々がそれに於て同等の地位の確詮される第三の地盤の如 ヽ’ きものが認められねばならぬ。さうしてそれが即ち存在そのものでなければならぬ。即ち主潮も客観も同じく共 た存在であるといふ鮎で、さうして恐らくその瓢に於てのみ、全く同等の地位を確儀し得るものであらう。そし てまたこの何等なる主客の関係に於てのみ、人は始めて虞賓の存在解繹を期符し得るといはねぼならぬ・1こ⊥に ヽヽ ヽヽ ヽヽ 於て純粋意識の奥他に人間的現存在が考へられねぼならなかったと同様に、その人間の奥に眞の意味の存 自身が考へられねばならぬ。人間も意識も共にその存在を根粒として、否むしろ各々それ自ら∵つの存在として 取扱はれねばならぬのである。かくて我々蜂純粋意識の兼向低から人間的現存鹿の関心性に移り、その移らねば 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵主−九︶ 二九

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第八巻 発三成

︵ニ≡○︶ ≡○ ︳︳ヽヽヽヽヽ︳ヽヽ ならなかった所以の動機を厳に押し進めて、最後に存在そのもの1存在性を見ることにまで進まねぼならぬこと ヽヽヽ を感するのである。さうして私はその存姦そのもの﹂存在性としては、矛盾性なる名稀を以て呼び得るものが鱒 暮し得られると思ふのである。こゝに於て我々の次の歩み恩義、存在の矛盾性とは何かといふ問題の槍茶にま で進められねばならず、その道程に於ては主として、尭親の中に客観を見ると共に客観の裡に尭胡を観じ以七有 無相即の珊を挽くヘーゲル的存在解繹の吟味が中心とならねばならぬと考へる。併しそれらについての論適はこ れを他の梯愈に譲らねぼならぬ。︵完︶

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