清
田 文
武
一 鴎外の句 と虚子
明治3
3
年 (1
9
0
0
)7
月初旬、鴎外 は勤務の地小倉 で、 きみだれの句 を吟 じている。 本稿 では、従来あま り論 じられなか った高浜虚子 とのかかわ りを主 に視野 に入れて(1)、その詩 境 を観察 してみたい と思 う。 鴎外 はこの時初めて句作 したわけではな く、明治二十年代後 半 に正岡子規一派 との交遊で作 っていたか らである。 子規 と浅か らぬ交友のあった鴎外 は、病床 に岬吟苦 闘 しなが ら俳句 ・和歌革新の歩 を進 める斯界の この先達の名 を挙 げ、明治の俳語が一時代 を築 くに至 ったのは子規 に過半 を負 うている、 とその業績 を九州の地か ら新聞紙上で称 えている(2)。そ うい う俳 人の門弟の虚 子 とも鴎外 はすでに俳句 を介 して交際 していた。 もっ とも、遡 れば虚子の方で も、 『国民 之友』(明治2
3・1
)付録で他の文学者の作品 とともに鴎外の 「舞姫」
を読み、作家 になる とい う希望 を抱 いた りした。田舎の書店で 『しが らみ草紙』 を手 に し、 『水沫集』(春陽堂、 明治25・7)を終いた りするな ど、鴎外-の文芸的関心か ら弟子入 りを子規 に相談 したこ ともあった。二 人の初 めての面暗 について虚子 は定 か に思 い出せ ない ように語 ってい る が(3)、一方では「明治二十八年、二十二歳の頃、は じめて先生 を団子坂 に訪ねて面会。 『め さまし草』
を発行 され るや うになっ てか らことに親 しくなった。
」とい う回顧 も残 してい る(4)。 この雑誌 は明治2
9
年1
月に発刊 されてお り、俳語関係で虚子 を頼 りに した とい うわ けであった。 虚子 は、 この年2
月2
0
日、病 を養 う兄 を松 山に省 した折、携行 した 『水 沫集』の翻訳作 品二、三 を挙げ深 い感銘 を受 けたことを鴎外宛書簡で記 してか ら、 「人のすむ明石の城や 春の月」、「礎や葎 な ど茂 り雑の声」 とともに 大 根 の 花 紫 野 大 徳 寺・ 虚子 の句 を書 き添 え、叱正 を乞 うている。 月改 まった3
日、鴎外 は 『め さま し草』巻三発行の ことで虚子 に原稿 の応援 を求めてか ら、一句 について、 「俳句 卜云 フモ ノハ斯 ウモカ ヲ費 ヤサズ シテ面 白キ コ トヲ言ハル 、モ ノカ ト驚 申候」 と書 き送 った。助辞の切字 を用いず、 すべ て名詞の配列 ・取合せ によって風景 を叙 していることに一驚 を喫 し、極力省略的表現暁星論叢第56号(2005) をとる俳句 とい うジャンルについて改 めて考 える ところがあった もの らしい。この作 は『自 選類題虚子句集
』
(
『ホ トトギス』く大正3・1
)付録) に収 め られたが、奈良鹿郎 に よる と、 掛詞的手法 をも織 り込 んだ談林式の古 めか しい ものである とい う(5)。子規 の 『分類俳句大 観』によれば、形式的 に平仮名のない句 では、芭蕉 に「奈良七重七堂伽藍八重桜」(『泊船』
)
、 爾木 に 「壁枕腰張会時鳥」
(
『雑 巾』
)
、可遊 に 「太夫桜太鼓熊谷笛敦盛」
(
『太夫桜』
)
等が見 え る とある。鴎外の 目に留 まっていた平仮名一字の句 では、 『蕪村句集』 に 「二村 に質屋一 軒冬木立」
があ り、二字の句 としては、鴎外 も言及 した ことのある素堂 にも著名 な 「目に は青葉 山時鳥初鰹」
(
『あ らの』
)
がある。 俳句 を十七字詩 とも呼 んでいた鴎外 は、形式的 に は同様 に明治3
3
年1
1月 「稲妻や要塞地帯第幾標」
と詠 じてお り、後 に日露戦争 における陣 中での作 品を集め、和歌 は佐佐木信綱、俳句 は虚子 の選 を経 て出版 した詩歌集『うた 日記』 (春陽堂、明治40・9)には、 きちか うや 紫帽子 あねい もと (実子扶伎子 の絵葉書 をお こせ し友 に) 冬寵 冬休父子 閑話かな (学年試験 をは りし友 に) といった作が見 える。 体言 だけを配 し、切字 を用いていて も、いわば動名詞的語 を用いて いる後者 に対 し、気 品のある花の桔梗 を上五 に置いた前者 は文字 どお り名詞 を連 ね、虚子 の上掲作 の句法 に近い。小 説 「羽鳥千尋」(『中央公論』大正元 ・8)では、主人公 になっ た青年の実作 には斧正 を加 えて、次の前の句 を後の句 の ように したのであった。 か げ る山照 る山見 るや稲 の をち 千尋 陰 の 山 日 向 の 山 や 稲 の 果 千尋 「をち」(遠 ・彼方) を 「果」(はて) に したのは解 しやすい。前句 は動詞 を3
語 も用いてい て散文的で平板であ り、後句 ではこれ を名詞的に表現 し、 「見 る」の語 を省いていて、添 削の方向はよい として も、なおそれほ ど切れ味 を感 じさせず、平弱 を免 れない。後年の「観 潮楼 閑話」
(
F帝国文学』大正6・1
0)
には若 き日の虚子 の 「蛇穴 を出て見 れば周の天下 な り」(子規編 『春夏秋冬 春』 ほ ととぎす発行所、明治34・5) を引いているほ どであるか ら、上掲句 を詠んだ り、羽鳥の この句 に筆 を入れた りした時、 「大根 の花紫野大徳寺」
の 句法が脳裏 を掠めたのではなか ったか。 『うた日記』 には戦地 を移動す る際の心事 を、明 らかに虚子 に示唆 されて 「蛇穴 を 出でなん として 卜に間ふ」(明治38・2) と俳味 を交 じえ詠 んだ もの もあるので`ぁる。 「大根 の花- 」についての鴎外の書簡のことは虚子 に も思い出が深かか った ようで、後 に触 れるところがある(6)。上の小説 については大正元年(
1
91
2) 8
月1
0
日虚子 は鴎外 に 「唯今羽鳥千尋拝読 、みた ことのあるような名前 だ と思 ひ-2
0
-候処 ほ と ゝJぎす の投 書家 な りし事 を明 に致 し申候 。サ ウシテ ソ ンナ俊 才 な りしか と驚 か れ 申候
。
」と したため、 「雲 の ミね に響 きてかへ る午砲哉」
の句 を書 き添 えてい る。 ところで、明治29年4月鴎外 は父 を喪 った。 この こ とを少 し遅 れ て知 った虚子 は、お そ ら く西行 を響 かせ て句 で弔意 を表 し、喪主 も9月 に 「憶亡 父」
と して句 作 したが 、やや時 を経 てい なが ら も、 これ に応 じる気持 ち もあ った に相 違 ない。 花 の こ ろ 仏 と な らせ 給 ひ け り 虚子 傍 や つ く ば ひ 覗 く あ き の 水 鴎外 澄 み切 って空 を映す庭 の路 の水 面 を覗 いた 自分 の顔 に一瞬逝 った父 の面影 を見 る思 いが したのであろ う。 もっ とも鴎外 の句 は、軟石 の 「三方 は竹緑 な り秋 の水」、虚子 の 「黒谷 や 蓮 の台 の秋 の水」、肋 骨 の 「野 の くぼみ石塔 立 ちて秋 の水」な どとともに、 『め さま し辛』(明 治29・9) に 「秋 の水」
の吟 と して載せ た もので、句作 の前 に これ らに 目を通 していた と す る と、虚子 や肋 骨 の作 もモチ ー フで刺激 になったか も しれ ない。一句 は 自 らも 「菱取 り て里 の子去 りぬ秋 の水」 を出詠 した時 の ものであ る。 虚子 は 『め さま し草』 の3月、4月それぞ れの号 に載せ る前 、鴎外 に神仙体 の句 「怒 涛 岩 を噛 む我 を神 か と腿 の夜 」 や 「海 に入 りて生 れ更 らう腿 月」 の吟 も示 した ことが あ った。 一体若 い ころの この俳 人 には、子規 も評 した ように、 同門の碧梧 桐 と比べ る とき、いわゆ る理想 的、空想 的 な作風 を示 す ところのあ る こ とを一つ の特色 とも してお り、 『め さま し 草』(明治29・2)に寄せ た もので も、 「春 の雨衣桁 に重 し恋衣」、漠 の武帝 の妃 につい ての 「春 雨 や李 夫 人お きず香 煙 る」
とい った作 が兄 いだせ る。 鴎外 が読 んでいたか どうか走 か で は ない けれ ども、上 の ような浪漫 的 な詩情 を湛 えた一句 と して新 開 『日本』(明治3
0・1
・23)に掲 げた句 を、鴎外 の明治41年秋 の作 と並記 す る と、 ・三 三三 ‡ と思 ふ 廃 寺 に 月 を見 つ 虚子 に来 て又 この塔 にの ぼ ら ば や 鴎外 後句 は、友 人の新居 を訪 れて祝 った一種 の挨拶 の句 で、その家 にあ る珍 しい塔 に登 って 楽 しもうと した折 か ら雨 の ため に情 を満 たす こ とがで きなか った時 の作 で あ る。 鮭 に題材 を採 った句 で は、鴎外 が軍 医学校 の罫紙 に筆写 した蕪村 の 『新 花摘 』 に 「鮭 お して しば し 淋 しきこ ゝろか な」、 「節 の石 に五更 の鐘 の ひ ゞきか な」ほか8
句 を収 め るが (7)、蕪 村 の句 は もとよ り、下 に挙 げ る虚子 の句 とと もに、これ らは握 り鮮 で はな く馴 れ酢 であ った。『蕪 村句 集』及 び 『め さま し草 』(明治29・7)か ら引 くと、次 の ようで あ る。暁星論叢第56号(2005) な れ 過 た 鮭 を あ る じの 遺 恨 哉 鮒 ず Lや 彦 根 が 城 に雲 か か る 早 酢 や 東 海 の 魚 背 戸 の 夢 昼 の 蚊 や 鮭 を圧 した る 石 暗 し 百 韻 の 巻 完 う して 節 な れ た り 鮎 節 や 生 きて よ し野 の 瀧 の 魚 村 村 規 子 外 外 蕪 蕪 子 虚 鴎 鴎 虚子 の 「鮒節や膳所の城下 に浪々の身」(上原三川 ・直野碧玲瀧編 『新俳句』民友社、明 治
3
1・3
)の句 も鴎外 は読 んでいた と考 えられ、子規の吟 に見 える早節 は一夜節の ことで あろうか。第5
句 について言 えば、前年夏鴎外 は一軍医 と歌仙一巻 を巻いていた。 「鮎節 や- 」
の作 は掛詞式表現 を取 り入れてお り、 こうして、時 に子規 ら 「日本派」 の人たち によって俳語への心 を直接 間接 に動 か されることがあった と想察 されるのである。鴎外 の 蔵書 もこの間の事情の一端 を示 してお り、当時幻の書 として入手 し難か った 『蕪村句集』 も子規の手 を経 て書写 していたのであった(8)。 二 さみ だれの句 鴎外 は明治3
2
年夏、子規 ・虚子のいる東京 を離れ、第十二師団軍医部長 として西下す る。 それまでの多忙 な生活 とは違 って多少の時間的余裕 もで き、高手ではなか った ものの、独 り住みの生活の中で、 「夢成 らず蚊帳近 く聞 く雨の音」(明治3
2・8・
3
1
)
を手始めに、時 に句作す る楽 しみ も得 た らしい。足掛 け4年のいわゆる小倉時代 である。 その ような生活で、雨 に降 り込め られた 日など、気散 じのためや、またかつての句会 ・ 句作の ことが思われ(9)、その余勢 もあずかって俳句 を作 った とい うことであろう。 地方巡 回の旅 で句 を詠 じ、 また素行で苦慮す る下女 もいた小倉住 まいの中で も、信頼 を置 く女中 が嫁いだ時 に、 「まめな りし下女 よめ らせ て冬 ごもり」
の ような佳句 を得 たこともある。 「夕立 を小坊主覗 く塙子かな」 といった物語的一場面 を想像 させ る句 も捻 っていた。それ らの中で後 に掲 げる日記 の ように、五 月雨 ・きみ だれ を連続 的 に吟 じた作 品が 目に留 ま る(10)。それ まで これ を題材 に した ことはなか ったけれ ども、芭蕉 や、特 に好 んだ蕪村 は もちろん、子規 ・虚子の この方面の作 に も接 してお り、全 くの手探 りとい うわけではなか ったはずである。 『め さま し草』(明治2
9・6
)に寄せ た ものを引 くと 五 月雨や戸 をおろ したる野の小店 か ち渡 る 人 流 れ ん と,す 五 月 雨 五 月 雨 の 雲 に灯 うつ る 峯 の 寺 五 月 雨 や 水 を見 に行 く出 町 橋 規 規 子 子 子 子 虚 虚 22芭蕉 にきみだれの時の最上川の句があ り、同 じく蕪村 に家二軒 を詠んだ句や 「五月雨や アヲウミ ツク 鎗海 を衝濁水
」
(
『新花摘』
)
等があることは記す まで もないであろう。 鴎外が小倉 に着任 したのは6月19日降 りしきる雨の 日であった./ト説 「鶏」
(
F
スバル
J 明治42・8)の冒頭 は、門司 に着船 した場面か ら始 まってお り、 「雨が どつ どと降ってゐ る。」とある。 任地 に着いた翌 日の天候 も 「雨が降ってゐる。」と記 し、鍛冶町にあるとい う 借家 を見 に行 った時の通 りの様子 を 「砂地であるのに、道普請 に石炭屑 を使ふので、薄墨 色の水が町を流れてゐる。
」と写す。借家 については、 「生垣で囲んだ、相応 な屋敷である。 庭 には石炭屑 を敷かないので、椅麗 な砂が降る丈の雨 を皆吸 ひ込 んで、濡れたとも見 えず にゐる。真申に大 きな百 日紅の木がある。 垣の方 に寄って爽竹桃が五六本立ってゐる。」と 描写 している。鴎外 はこの家が気 に入 って住 むことになった。1年後の33年6月11日の 日 記 には 「入梅。」と見 え、7月に入る。月曜 日に当たる2日か らの1週間をそのまま引 こう。 二 日。 小林正輝 といふ もの向鴫弘福寺再建のために財 を捨てんことを請ふ。五年賦 の法 に従 ひて可な りと云ふ。小林 は檀越諸人を代表するものに して、麹町区紀井町六 番地 に任す。 三 日。 雨。 四 日。 雨。 五 日。 雨。 六 日。雨。午 より雷。夕 より風。 七 日。 雨。夕 より又風。 動員令 五月雨の徴発駄馬 を今や引 きみたれの畳 くほむや肱枕 花蜘珠の軒 に幾 日をきみたる 、 さみたれにかへ しそこね し卵哉 長 浜 磯 はたや蟹木 に上 る五月雨 八 日。 晴。嶋根県人岸本治平 といふ もの米町四丁 目に住め り。 是 日書 を寄せて、嶋暁星論叢第56号(2005) 根県人懇親会の事 を言ふ。村岡来 りて日は く。今月十四 日午後二時企救郡教育支会総 会 を郡役所楼上に開 く。 願 は くはこれに荏みて演説せ よと。 川嶋来 りて、 日田に在 り し時、千原藤一郎 を訪 ひて、書画 を観 しことを話す。藤一郎は夕田の甥な り。 往 日予 も亦招かれ しか ど、公事の為めに往 くことを果 さ ゞりき。 千原蔵す る所の掛軸中陳継 儒の書あ りと云ふ。晩福 間を其鳥町の新寓に訪ふ。是 日日曜 日な り。 夜月雨。 「きみだれ
」
が陰暦5
月の長雨 を指す こと言 うまで もないが、連 日の降雨である。7
日 夕方母宛の手紙 には、 「五 日間少時 もや まず大雨に候只今 は大風雨」としたためている。 この間 日記 には特 に記す こともなかったかのごとくである。7
日の記事 として書いた俳句 を、 この 日一 日で得たのか、その前か ら句案 していた ものか どうかわか らないが、2
日と8
日との間に挟 まれた 日並みの記の紙面は、その余 白か ら受ける感触 もあ り、 日常性 を突 如突 きやぶって出現 した、不思議 な言語的空間を感 じさせ、 『小倉 日記』 を播 く者の目を 引 きつけず には置かない。上の一節 は、第三者 による浄書 も関係 したのか、 日毎の区切 り のある具注暦形式の市販の 日記帳ではないこともあずか り、詩人平出隆が まさに、 「鴎外 の 日記 に明滅す る詩」 と呼 んだ ような言語空間でなければな らない(ll)。平 出は 「詩歌の 方では俳句が、時の仕切 りに際 して無辺の相 をとらえることが多い。
」と主張す る。そう論 ず る際 に上の条 を挙げているわけではないが、前後の生活的記事 と言い、連続す る 「雨。
」
だけの文字 と言い、並ぶ句 と言い、それ らの関係の中で姿 を現す表現 と時間空間 とは注 目 して よい ものがあろうと思われる。 「動員令」
と前書 きのある第一旬 五 月 雨 の 徴 発 駄 馬 を 今 や 引 鴎外 軍医 として 日清戦争 に出征 していた鴎外であったか ら、徴発 された馬の働 きには身近で 接 したことがあったであろう。 ここは戟場ではないけれ ども、軍務 にかかわる非情 な突然 の動員令が下 ったための人馬の姿、それが降 りしきる雨の中を引かれる駄馬だけに、別れ の情 もか らんでいっそうあわれをさそ う。 さまざまな音響 も、煙 って見 える雨の中に吸収 されているお もむ きであるが、これ らの馬は どこ-送 られ、 どの ような運命 をた どるので あろうか。鴎外の目には触れていなかった として も、子規 に明治2
6
年夏の 「五月雨や箱根 にか ゝるちんば馬」(F寒 山落木 巻二』)の句稿が見 え、天下の険の労役 に従 うあわれな動 物の さまを吟 じているのに対 し、 こちらは軍都での-光景。 き み た れ の 畳 く ほ む や 肱 枕 鴎外-2
4
-外 出 もままな らぬ長雨。内心独 りで無柳 をか こつ人が想像 されるが、誰 もが時 に感ず る その ような心理状態でのひ とときを捉 えた もの と解 される。畳 は折か らの湿 り気 のため弾 性 を失 い、横 臥 しての肱枕 を解 いて も、で きた窪みは容易 に元 に戻 りそ うにない、そんな 家居 での一助が思 い描かれる。霧雨 は普段 に比べ て欝陶 しさも感 じさせ 、部屋 を心持 ち薄 暗 くしているのであろ う。五 月雨の時期 の生活の機微 に触 れて、深みはないか もしれない が俳味 を湛 え、掬すべ き句 になっている。 鴎外 に も小倉 では前年の秋、庭先の菊畑 を眺め た一事 もあって、 日記 に 「南の縁端 に冗座 して 日暮 に至 る。」と記す ようなこともあ ったの である。 ふ と屋外 に視線 を転 じる と、軒の小景が 目に入 って来 た。 花 蜘 妹 の軒 に幾 日を きみ た る ゝ 鴎外 きみだれの続 く単調 な時 間の中、軒先 で網 を張 らず に獲物 を幾 日も待 っている小動物 を、 近景 として捉 えた作 である。 花蜘昧 だけは妙 に鮮やか に姿形 を示 して、時間には無頓着 な さまを感 じさせ る。波弓 には、 「蜘珠 の子 の雨 にぬれけ り古扉
」
(
『鵜弟』
)
があ り、雨 に濡 れる微物 を、勃 んでいる扉 に見つけた作者の視線 の温か さをも感 じさせ るのに対 し、鴎外 の場合 は降 り込 め られてい る折 であっただけに、あたか も花蜘珠の、 シ ョーペ ンハ ウア-の哲理 にい う生へ の 「盲 目的意志」の ような もの まで も感 じさせ る気が して、 「何 とまあ」
とあ きれ、軽 い驚 きの情 を漏 ら した ことを思 わせ る ものが あ る(12)。 けれ ども、 自然界 の 姿 として、これ を静か に見守 る心 だったであろ う。翌年 「五 月雨や上野の山 も見 あ きた り」(
『ホ トトギス』明治34・6) と無造作 に吐いた観 のある子規 の句が思 い合わせ られる。 借家 には百 日紅 ・爽竹桃 ・蜜柑 の木が植 え られていた。あるいは近隣の屋敷か師団構内 の樹上の ことであ ったのか、いず れにせ よ次 の句 は五 月雨 における上の ような庭樹 の巣 に 時期 を過 ぎて もその ままにある卵 を詠 んだ作物 と解 して よい と思 われる。 さみ た れ にかへ しそ こね し卵 哉 鴎外 暁台 には 「鳥の子 の卵 出 しよ り五 月雨」が ある。 この時期急 に冷 える、いわゆる梅雨冷 えがあるが、鴎外 の方 は、長雨0)ため酵せ なか った鳥の不運 を吟 じたのである。 物 みなを 腐 らせ る とい うきみだれの もた らした 日常での心弾 まない小事件であった。関森勝夫 はこ の作の句境 について、 「雛が誕生 していれば気分爽快 になったのだが、期待外 れ とな り陰 密 な天候 にい ?そ う重 く暗い気分 にさせ られたのだ。」と読み、動物 に寄せ る作者 の 「や さ しい眼差 し」
を捉 えてい る(13)0 『蕪村句集』の 「きみ だれや仏 の花 を捨 て に出 る」の一 句 は、降 り続 く雨 のため仏前 の花 も取 り替 えることがで きない密陶 しさを詠み込 んでいて、 如上の鴎外 の一連 の句 の情景や気分的背景の理解 の参考 になる ところが あるであろう。暁星論叢第56号(2005) 磯 は た や 蟹 木 に 上 る 五 月 雨 鴎外 「長浜」 の前書 きのある句 である。前年
8
月2
0
日日乗 には、 「日曜 日に丁 る。天始 て晴 る。薄暑雷雨。夜 月明。開 く今宵長浜 に盆踊 あ りて夜 を徹す と。小倉男女の高 く笑 ひ高 く 歌 ひて門を過 ぐる もの暁 に至 るまで絶 えず。」と見 え、31日には、 「夕 に長浜 に至 る。漁家 の男女舟 を陳ね燈 を張 りて月の升 るを待つ。所謂二十六夜待 な り。
」と記 している。鴎外 に とって、長浜 は少 し離 れた所か ら、 日常生活 に時 に刺激 をもた らす海浜であった らしい。 そのほぼ 1年後の この句 に よれば、当 日磯端へ出かけたのか、あるいは この ころ目略 した 光景 によったのであろ うか。蟹 については 「鶏」 の一節 に裏庭 の ことに及 んで、 「円石 を 畳 んだ井戸があっ て、 どの石の隙間か らも赤 い蟹が覗 いてゐる。」とあ り、種類 としては同 一で、同 じ大 きさであったか もしれないが、海岸であることか らす る と、緑がか った黒 っ ほい蟹 も考 えられない ことはない。一句 の捉 えるような蟹 の様子 ・習性 は、続 く降雨の時 に木 と言 わず岩 と言 わず よ く見 られ る ところで、 『寒 山落木 巻四』 に も 「五 月雨や蟹 の 這 ひ出る手水鉢」(明治2
8
・夏) と詠 まれている。 見 る角度 によっては、水際の木 を登 るこ の小動物 の足 の高 さまで も印象鮮明 に想像 させ る作物 で、前掲句 とともに状況脱離 を望 む 心 を響 かせ た観 もな くはない。 しか し、 きみだれの句 では、前掲諸家の ような大観的構 図 を示 した もの を、句案時の こ ともあ ったのか兄 いだせ ない。節 を詠 んだ場合で も同傾 向は 見 え、句作者 としての限界 を現 した ところがあるように思 われ る。 上 に引いた とお り7月 3日か ら 7日までは天候 と俳句 とだけを記 し、 日記 としてはポ ッ カ リと空 自を作 り、何 も書 いていない と言 って よい。果 た して書 くことが なか ったのであ ろうか。 この間 どうい う状況 にあったのか。その点で注 目される二つの事柄が挙 げ られる。 一つ は、2
日母 に宛 てた手紙 (前侠)で、清 国での義和 団の蜂起 による、いわゆる北清 事変勃発 について書 き送 ってい ることである。 す なわち太活 ・天津 ・北京三都市 の地理的、 距離的関係 を図示 して各国公使存亡不明の状況 を記 し、第五師団 (広 島)出兵の可能性 の 問題 に触 れてお り、翌 日には親友賀古鶴所 に も北京の実況の不 明の ことや、第五師団派遣 の過不足 に言及 してい る。 鴎外があずか り知 らぬ枢機 ではあって も、6日には混成一個 師 団の清 国への増派が閣議決定 され、8
日には英国代理公使が青木外相 に、 日本軍が増派 さ れれば財政的援助 も辞 さない と通告 して来 てお り、 日本政府 も日本軍総計約2万
2千 に達 す る と各国公使 に通告 したの も、7月24日の ことであった。やが て8月14日、 日本軍 は英 独仏露等7か国の連合軍 と共 に北京 に進入 して公使館 区域 を救援す るこ とになる(14)。 日 記 に見 える動員令 は、大陸七近 い条件 もあってこq)事変 にかかわる ものだったのではない か。翌年の暮れには小倉借行社 で 「北清事変一面の観察」 と題 して述べ る鴎外 であった。 他の一つは、鴎外 の東京帰任 の問題 である。前年12月19日弟潤三郎宛書簡 には、近 い人-2
6-事 に関係 して期待す るところのあることを灰めか しつつ も、一方少 しは永 く小倉 に置かれ て も困ることはない と打 ち明けていた。 しか し、
5
月3
0
日に落合泰蔵が、 「君の第一師団 に転ず ること、応 に近 きに在 るべ し」と寄せ た書 によ り、東京への心 もまた動いた もの と 思 われる。 6月13日には東京美術学校 の大村西崖 に宛てて、 「帰京之内命 あ り未だ辞令書 に接せず中腰之姿 に御座候」 と書いている一事 も目に留 まる。 小倉 に赴任 してやがて 1年、 帰東の望みのなお強い もののあった ことは、西崖への書簡に も記す とお りであった。 しか し、 「雨。
」とだけ記 し始めた 7月 3日には賀古 に、 「母上小生の帰京 を待居 し故 中止 とな り気の毒 に存候」
としたため、軍医部の人事 の動向 と問題 とについて報 じ、当面東京-の 復帰の消 えたことを記 さなければな らなかった。一連 の句 はそ うい う直後の作品だったわ けである。1
2
日の 日記 には、「新聞紙落合の第-師団の地位 を占むるを伝ふ。
」とあ り、「是 に至 りて、予の帰東の途絶 えた り。
」と書 き付 けている。 悲痛の文字 とす るには大げさか も しれないが、その時の心事 を窺わせ る ものがあろう。翌 日には隣人の親戚の娘が 日中止 ま ず糸車 を回 していることを、梅雨 も明けたかの ように、 ひ る 寝 せ む け ふ も 隣 の 糸 車 鴎外 の句 に してお り、心 中一つの区切 りを付 けたごとくであ る。15日付母宛書簡 には、前侯の 00000000 0000000000 ため必ず しも明確ではないけれ ども、 「-、軍が出来て出るか二、戦争 のすむ迄小倉 に据 000000 ゑ置かれんか此二つ に候」 とあ り、出兵 に関 しては、それほ ど緊迫 した筆遣い を感 じさせ ないが、第十二師団派遣の可能性や 自身に も及ぶ問題 に触れていると読み取 ることはで き る。 東京帰任の問題 については、月末の24日、やは り賀古 に対 し、人事の件で、帰京 して 苦労す るよ り、 「今少 し此地 に在 る方妙 と存侯」
と打 ち明けた後、糸車の一句 を書 き添 え たのであった。前掲子規 に関する批評が新 聞に掲載 されたのはこの 日であった。鴎外の目 は、 もっと遠 くを見 ていた感 じがす る。 ここに至 って、いわゆる小倉左遷 の問題 は(15)、 当面状況 に任せ、焦 る心 を吹 っ切 った感があ り、以後 この件 についてはそれほ ど心 を煩 わ す こともな くなった ようである。 こう観察 を進めて来 るとき、上掲期 間の 日記の空 白は続 く雨天のためであったにせ よ、 必ず しも書 く事柄がなかったわけではない ことになる。軍機 に関す ることか らすれば、葺 かなか った として も不 自然ではないであろうが、人世 を意識す る心 とは少 し異 なる次元で 詩的言語空間を作 ろうとす る心理的機微がはた らいていなかった とは言 えまい。そ うい う 生活の時間の中で、鴎外 は馬や小動物 に対す るあわれみの眼差 しを示 した句 を作 ってお り、 身近 な自然 における生命的な もの-の心の動 きの存 したことを思わせ る。 それ らの句境が 折か らの状況の中、 きみだれに降 り込め られた自身の心中 と響 き合 うところはあったに違 いない.特別の心理的時間 と気象的空間 とにおいて一連の句 は生 まれ、 こうして 日記の紙暁星論叢第56号(2005) 面 に詩 的世界 を現 出 させ る こ とにな ったので あ った。 注 (1)子規 との関係 については清田文武著 r鴎外文芸の研究 中年期篇」(有精堂、平成3)11 4-119頁参照。 (2)千八の署名lキよる 「心頭語