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絵と言葉 : 新たなエクフラシスに向けて

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Academic year: 2021

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(1)井面 絵と言葉一新たなエクフラシスに向けて. 絵と言葉│新たなエクフラシスに向けて!. 面. イ 丁. 少なからぬ人々がそのように感じ、考えていると思われ. 絵を鑑賞するのに言葉は不要なのではないか今日、. そう促進されることになった。そしてさらに、現実と何. を断ち切り、抽象芸術が生み出されたことによっていっ. しかし、このように絵と言葉とは異なったメディアで. のかかわりもなくサイバースペースの中で増殖する電子. あって、両者の聞には架橋しがたい裂け目があるという. メディアによるデジタル画像がそれに拍車をかけている. るのであって、そもそもから絵を言葉に置き換えること. 考え方が生まれたのが、芸術の自律性と純粋性が明確に. る。絵は直感的に受容されるべきものであり、感じられ. など不可能なのだl こ の よ う な 考 え 方 、 す な わ ち 絵 は 沈. 形をとるようになってからのちのことであるとすれば、. るがままに存在していればそれで十分なのである。それ. は異質の事柄を表現しているという思想は、現代におい. (神話、宗教、政治、イデオロギーなど)に支配されな. このような状況の背後には、芸術は芸術以外のもの. と 、 逆 に 言 葉 の 世 界 を 直 観 的 な 像 1の 世 界 に 置 き 換 え る. 葉の関係は密接な関係にあり、絵を言葉で説明するこ. ざるをえない。事実、古代ヨーロッパにおいては絵と言. それはようやく近代になってからのことであったと言わ. い独立性を保持しているとする芸術の自律性あるいは純. ては広く人々に浸透していると思われる。. 黙 の 言 語 な の で あ っ て 、 オ l ラル言語が表現するものと. ともいえる。. い。この確信は、芸術が現実世界との模倣的な結びつき. 粋性についての確信が横たわっていることは疑いがな. 井 ばかりか、絵は言葉では記述できないことを表現してい. 序.

(2) この小論の目的は、論文集﹃記述の技術芸術の記. L 4と い う 論 文 を 寄. 述﹄に収められた諸論文を導きの糸として、絵と言葉の. せている。. ﹁像記述像と言語の限界について. ロッパ諸言語の中にはっきりとは生き残っておらず、現. という概念に見出すことができる。今日、この語はヨー. 関係の変遷についてその大まかな烏敵図を一不しつつ、近. その証拠を、古代ギリシアのエクフラシス巾F G耳白色印. ことはごく当たり前のこと考えられていたのである。. 在の英語、仏語、独語の主要な辞書にも収録されてい. 代において亀裂を生じた両者の関係を再考し、両者の新. エクフラシス. OR32ωω ﹃. たな関係の構築を示唆することにある。. owuyE印日印は動詞島日)FENOEの 名 詞. ないようである。. EN2ロは前綴りow(日。同)﹁外へ﹂と動 である。共同︺F EN包ロ﹁はっきりと一示すしからなる。したがって、 詞℃U 岳匂FENOEは﹁外に向けて(完全に)はっきりと一不す﹂. 一 │﹁詩は絵のごとく﹂∞. 2. という意味になる。すなわち、エクフラシスは、古代ギ. 古代世界においては、桧と言葉はごく近しいものと考. リシアにおいては、修辞学の一部円であり、絵の形象世 界を言葉によって明確に記述する技術のことを意味する. えられていた。紀元前五世紀のシモニデスの﹁絵はもの. 絵画と視覚情報を提供できない言葉は互いに他を補完し. 言わぬ詩、詩は語る絵﹂という言葉は、すでに沈黙する. このエクブラシスを再考することを通して、絵と言. 合うものと考えられていたことを示している。したがっ. 20. 葉の関係について新たな可能性を探ろうとする試みが、. エクフラシスの古い例を、ホメlロスが﹁イlリア. い、当たり前のことと見なされていたことになる。. ス﹄(第十八書)の中でアキレウスの楯について記述し. て、絵を言葉に置き換えることは、何ら疑問の余地のな. 5F2nF55己口町呂田 ) 3に お い て 展 開 さ れ て い 同. た一節にみることができる。一部分を以下に引こう。. G・ ベ i ムと H ・プフォテンハウア l の編纂による論文. ラ シ ス ﹂ と い う 副 題 が 付 け ら れ て お り 、 ベ l ム自身も. る。このアンソロジーには﹁古代から現代に至るエクブ. 集 ﹃ 記 述 の 技 術 芸 術 の 記 述 ﹄ ( 日2525EMmmwE 互. 号 ∞2Gtoへと流れ込んでいる. 専門用語だったのである。そして、この語はラテン語の. 2. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(3) ︹へ│パイストスが︺まず手初めにこしらえたのは、大楯の. 一方、市民は広場に集る、今しそこでは争いごとが. 伝令使が出て、皆の者を制止にかかる、また一方では. まちびとふ. つくなしろ. 持ち上がっていた、二人の男がうち殺された男のための. たくみこ. がっしりしたのを、. 償い代ゆえ口論しあう、一方が確かにみな支払ったと. 付お. 四方八方技巧を凝らして、周囲には輝かしい縁をつけた、. 市人中に触れて廻れば、他方は何も貰わぬという。. C. 三重をなしきらきらするのを、銀‘つくりの提緒でつるして。. して両方が裁きにかけて決着させるといきまき立つと、. かわそのものえ. しろがねえ. さて五側に楯自身の重ねがなってる、その楯の上に. (まわりの)人は二つに別れて、それぞれの側を声援するのに、. たくさんでだれく﹂つえきざ. そこには大地や、また大空、あるは海原、また疲れを知らぬ. さば. 沢山美事な飾り模様を熟練の工夫で鎧って刻んだ。. おとなわかた. とかわかわさば. しゃくじようささたも. 長老たちが、神聖な円形の中の磨いた石の座にすわり込み、. み. 太陽ゃ、また満ちわたる月(影)が設けであった、. さて次々にその杖を執り、突っ立ち上がって、交る交るに裁き. 声を張りあげる伝令使らの勿杖を(借り)手に捧げ保ち、. ほくと. きんおもり. その真中には黄金の錘が二つ置いてあり、みんなの中で. を述べた。. また大空をぐるりと取巻く星座の数をすべて尽くして、 すばるあまほし. かたき. もっとも正しい裁きを述べた者に授けることになっていた。. るで実況中継のように楯に描かれた個々の対象物を指示. の図像を生き生きとイメージできるようにするため、ま. ホメ 1 ロ ス の 記 述 に お い て は 、 聴 衆 が ア キ レ ウ ス の 楯. 5. 昂 の 七 つ 星 や ら 、 雨 屋 や ら 、 荒 々 し い オ lリlオlンや、 熊の星とて、世間で人が北斗とよぶもの、この星座は. ただ一つだけ極洋の水へ浸りに没らないという。. オケアノスひたはい. 同じところをぐるぐる廻って、オlリlオlンを目の敵にし、. (次には)物思う人間どもの三つの都を中に造った、 立派な町の、中では今しも婚礼と饗宴のもよおし、 花嫁どちを奥の間から輝く松明の下に伴ない連れて、. する言葉がつなぎ合わされている。目に見えぬ楯の姿. たいまつもととも. 都大路を渡ってゆけば、おびただしい祝婚の歌が湧きあがっ. みやこおおじめあい. た 。. は、一言葉によって命を吹き込まれ、直観的に思い浮かべ. めく. 若者どもは、踊り手と見え、旋って舞えば、その真中に、. ることが出来るイメージを聴衆の意識の中に結ぶのであ. たてふえ. とくちにようほっ. 。 ヲ. 竪笛ゃ、手にもつ琴がひびきわたると、それぞれ家の 扉口に立った女房たちが、感にうたれてこれを眺める。. 3. 井面 絵と言葉新たなエクブラシスに向けて.

(4) ZE ℃02-mL。 そ れ に 続 け て 、 ホ ラ テ ィ ウ ス は 次. ラティウスの次の言葉がある。日く﹁詩は絵のごとく. ガンとしてしばしば引用されるものに、ローマの詩人ホ. このような絵と言葉との親近性を端的に表したスロー. 史 家 と 言 っ て よ い ヴ ァ ザ 1リ の よ う な 人 に よ っ て 、 多 く. されたままルネサンス時代に流れ込み、世界最初の美術. との聞に隔たりがあることを意識しない記述法は、維持. このようなエクブラシスの伝統、すなわち、絵と言葉. 60 こ の 言 葉. 一度しかよろこびをあたえないものもあれば、十回見て. とで見られることを望んで、批評家の眼力も恐れない。. らえる。あるものは薄暗い所を好み、あるものは光のも. 引きつけ、あるものは離れれば離れるほどの人の心をと. スは、単にイエスが水の上を歩くことではなく、ペテロ. 奇跡の様子を描いたものである。この話のクライマック. 二三一節i 三 三 節 に 記 さ れ て い る 、 イ エ ス が 湖 の 上 を 歩 く. である。︽ナヴィチェッラ︾は﹁マタイ福音書﹂十四章. 画︽ナヴィチェッラ︾︹小船︺(図版1) に つ い て の 記 述. 取り上げることにしよう。それは、ジオットのモザイク. ベl ム の 指 摘 に 従 っ て 、 ヴ ァ ザ 1リ の 記 述 の ひ と つ を. の作品が記述されることになった。. 豆官庁. は、詩つまり言葉と絵とが異なったメディアであるとい. がイエスに導かれて、彼もまた湖の上を歩く場面であ. のように述べる。﹁あるものは近づけば近づくほど人を. う意識を前提にしたものではなく、むしろ、言葉による. もよろこびをあたえるものもあるだろう﹂. 表現と絵によるそれとは、その構成の点で同じようにあ. る 。. ﹁主ょ、あなたでしたら、どうか私に命令して、水の上を歩. るべきだということを教示するためのものであったとい える。すなわち、詩において、近景に置くべきものと遠 景に置くべきものとの区別、詳細な記述に適したものと. いしとイエスが言われた。ベテロは船から下り、水の上を歩い. いてあなたのところに行かせてください。. たため、おじけがつき、沈みかけたので、﹁主よ、お助けくだ. てイエスの所に行った。しかしいま一足という所で強い風を見. ﹁こちらに来なさ. 軽く触れるべきものとの区別は、絵におけるそれらの区 る。したがって、ホラティウスにおいても、絵と言葉の. さい﹂と叫んだ。イエスはすぐ手を伸ばし、ベテロをつかまえ. L. 別と同じなのだということを主張するものだったのであ. とになる。. 差異性ではなく同一性が彼の詩論の前提となっていたこ. -4ー. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(5) ﹂そして 二人 て言われる 、 ﹁信仰の 小 さい人よ ! なぜ疑うのか 。 が船に乗ると 、風は やんだ﹂ 0 7. こ の 聖 書 の 場 面 を 描 い た ジ オ ッ 卜 の モザイ ク 画 に つ い. て、 ヴ ァ ザ l リ は 、 次 の よ う に 記 し て い る 。. ジ ォ ッ ト は ま た ︽ナヴィチェッラ ︾ として知られているモ. ザイク画を制作した 。 そ れ は サ ン ピ エ ト ロ 寺 院 の 中 庭 に 面 し た. ポルテイコの 三 つの入口の上にある 。 誠にすばらしい作品であ. 口向く称賛されるにふさわしいもの り、制世味を解する人々の間で 一 である 。構想の索精らしさはいうまでもないが 、 使徒たちが見. 事に焔写されている 。 彼らは、それぞれに嵐の真っただ中で. 闘っている 。 その 一方で 、帆は風で膨らみ 、 まるで実物の帆で. あるかのようである 。 しかも 、 ガラス片をつなぎ合わせてこの. ることは至難の業であり、絵筆を使い 、 非常な努力をはら っ. 大きな帆の明るい部分と陰の部分をこれほどに本物らしく形作. て、 ようやくこのモザイク画に匹敵するものを作ることができ. るほどのものである 。 さらに 、こ こにはまた釣竿をもって岩の. 上 に 座 っ て い る 漁 師 が 表 さ れ て い る 。 その態度には漁師に相応. しい忍耐強さが 、 その顔には魚を捕ろうとする期待と欲求とが 現れている 。a. -5ー. 井面 絵と 言葉一新たなエタフラシスに向けてー. 3 0 5一1 3 図版 l ジオット 《ナ ヴ ィ チ ェ ッ ラ ) 1 サン ・ピエトロ寺院、ロー マ.

(6) ヴァザ lリの記述の目的は、この絵を見る人達のため に、あるいはこの絵を見ていない人達のために、単に図. 可-フゴ. l. ネ. レオナルド・ダ・ヴインチの. しかしながら、ルネサンス時代にすでに絵と詩の差. ﹁諸芸術の比較﹂. いわば絵に命を与えて、生き生きとした印象や感情的な. ることはできない。それはレオナルド・、タ・ヴインチ. 異を問題とした特異な芸術論が存在したことを無視す. 像の有様のひとつひとつを知らせることだけではなく、. る。とくに、物語の個々の出来事を説明することにもま. (ZoE丘E 5ロEE巴155) による﹁諸芸術の比較﹂. テロの行為にはまったく触れず、むしろ心理学的要素を. し、絵と詩の聞には想像と実体の関係に等しい差異が存. 絵も詩も共に﹁真実さ﹂をもって作品を表現する。しか. はっきりと際立たせる。レオナルドによれば、たしかに. レオナルドは絵画と詩を比べて両者の差異と対立を. である。. のこのような記述法にはエクフラシスのひとつの重要な. がもたらすものは﹁影ある物体﹂である。この関係がそ. のまま絵と詩の差異に当てはまる。すなわち、絵は我々. 在している。想像がもたらすものは﹁影﹂であるが、実体. の感覚器官に向かって事柄を﹁実在的にし、言い換えれ. ては、後段において再び触れることにする。 いずれにせよ、絵と言葉とは古くから近しいものと見. ば映像として表現するのに対して、詩はその映像をもた. らすものを我々の想像力にむけて表現するのである。レ. は眼の不自由な人に働きかける学であり、絵は耳の不自. オナルドもまた、シモニデスの言葉を念頭において、詩. EE町民同)でなけ. リアレ. に、一言葉を必要としたし、逆に言葉は、説得力をもつた ればならなかったのである。. めには、絵のよう(造形的、具一体的. なされてきた。絵は、その潜在的な意味を解放するため. 性格が現れていることを指摘しているが、そのことつい. 強調していることからも分かる。ベ 1 ムは、ヴァザ lリ. の中心的場面として取り上げられるべき湖の上を歩くペ. 重きが置かれている点に特色がある。それは、この物語. して、絵の全体的な効果や人物の感情を描写することに. 効果を観賞者にもたらそうとすることにあると考えられ. 3. 由な人に働きかける学である、と述べている。しかしな. 6. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(7) 高級な感覚であると確信している。それゆえ、その分だ. がら、レオナルドは、諸感覚器官の中で視覚がもっとも. 対する空間の芸術の優位を主張したとみなすことができ. 間芸術と時間芸術の区別の先駆けをなし、時間の芸術に. このようしてレオナルドは、近代美学が定式化した空. レオナルドにとっては絵画が諸芸術の中で最も優れた. い。すなわち、レオナルドの場合、当然のことながら、. しかし、次の点について留意しておかなければならな. ザ令。. 芸術である。詩は、ある瞬間に一つの叙述しかなすこと. まだ芸術の自律性は理論の前提とはなっていないことで. いことになる。. け、眼に訴える学である絵画は詩よりいっそう価値が高. ができない。つまり言葉は﹁生まれるにつれて片っぱし. 周知の通りレオナルド・ダ・ヴインチは、解剖学、光. ある。. 9で あ る 。 そ れ ゆ え 詩 人 の 学 問 に は 全 体 の 関 係 が. から死んで行き、生まれるのも死ぬも同じように迅速だ から﹂. 示して空間の中に存在し続ける。レオナルドは、﹁﹁絵. 画は、時間の変化には依存せず、一瞬のうちに全体を提. 不明確なものになってしまうのである。それに対して絵. の流れの中で順次消滅し、全体の印象は極めて不完全、. めに継続的時聞が必要であるが、それゆえに言葉は時間. らの﹁万能﹂による探究の成果が最終的にすべて絵画へ. りは、立派な画家たりえぬと知らねばならぬ. あらゆる種類の形態を模造する万能な先生にならぬかぎ. ﹁画家よ、君は自分の芸術をもって﹁自然﹂の産み出す. に求めた条件でもある。彼は画家たちにこう警告する。. である。しかし、﹁万能﹂はレオナルドがすべての画家. 果を残している。けだし﹁万能の天才﹂と呼ばれる所以. 学、色彩学、遠近法等々、さまざまの自然科学的領域を. 画﹂は一瞬のうちに視力をとおしてものの本質を君に一不. と収飲するとき、あらゆる人間の仕事に勝る﹁絵画﹂が. 同一の瞬間にもたヨりされる司能性がない、とレオナルド. す﹂刊と述べている。この一瞬のうちに、全体を構成す. 達成されることになる。したがって、レオナルドにとっ. 探求し、近代自然科学の先駆といってもよい数多くの成. る諸部分の調和的均衡つまり美が作られる。詩や音楽の. は批判する。すなわち、詩は、対象の全体を表現するた. 美はつかの間に消滅するのにたいして、絵画の美は空間. て、絵画は、近代的な意味での﹁芸術日﹀ユ﹂ではな. L H o これ. の中で永遠に存在し続けることになるのである。. 7. 井面 絵と言葉一新たなエクフラシスに向けて.

(8) く、自然研究のために欠くことのできない学問日科学で. そしてもし君が鏡というものは輪廓と光と影の力をかりて事. る。いずれもその面から盛上っているように見える。. 物を浮上るように見せるということ、ならびに、上手に混ぜ合. あった。それゆえ、レオナルドにおいて芸術は自然から 独立した自律的営みではなく、古代ギリシア以来の伝統. せることさえできれば間違いなく、君は君の顔料の聞に鏡のそ. したならば、君の絵もまた大きな一枚の鏡に映っている自然の. れよりさらに有力な光と影とを有っているということをば認識. の延長線上にある。そのこと. L. を端的に一不すのが、画家は鏡を師とするべきであるとす. 的理論である﹁模倣理論. る発言である。. レオナルドは、鏡が自然を映し出す有様を手本として. 物象のごとくに見えるであろうou. て、それに実物を映し、この映ったものを君の絵と比較したう. 象とすっかり合致しているかどうか検ベる場合には、鏡をとっ. の効果を導きの糸とすれば、二次元平面上に現実を﹁浮. 自らの芸術を検証するよう芸術家たちに勧めている。鏡. どうして鏡は画家の師匠であるのか!君の絵が写生された対. え、実物とその映像とが相一致しているか否か深く考うべきで. き上がるように﹂、つまり生き写しのごとく模倣する手. 立てを画家は手に入れることができるのである。この点. けられているといえる。これを敷一制すれば、レオナルド. 就中、鏡、つまり平面鏡を先生にすべきである。というのは. ある。. においては詩的形象もまた自然と地続きになっていると. において、レオナルドにとって自然形象と絵画形象とは. すなわち、君は平板なものの上に描かれた絵が浮上っている. 言わざるを得ない。すなわち、詩もまた自然研究のため. 鏡面では物象が多くの点において絵画と相似た姿を呈するから. ように見えるものをあらわしているのを見るだろうが、鏡も平. 一続きのものであり、両者は共通の法則によって結びつ. 面の上に同様な作用をする。絵画は単なる面にすぎぬが、鏡も. の学なのであり、﹁言葉だけをさながら自然そのままに. である。. 同様である。絵画は、円く突出したように見えるものでも手で. 聴覚に伝える﹂犯のである。. したがって、レオナルドにおいては、 絵 画 と 詩 は と も. 握りえない点で触知不可能なものだが、鏡も同様である。鏡も 絵も、光と影とによってかこまれた物象の映像を示すものであ. 8. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(9) に客観的実在としての自然の﹁真実しを捉えるための学 問であり、両者ともいわば芸術的形象世界の根拠を客体. H U E -包B ﹁2∞-DmpH4NC. ∞ ご の ﹃ ラ オ コ l ン﹄. 一七六六年に著されたことである。. 同. レッシングの﹃ラオコ l ン﹄は、いわゆる空間芸術と. には﹁絵画と文学の限界について﹂という副題があり、. 時間芸術とを一般的なジャンルの問題として初めて論じ. ︽ラオコ l ン群像︾(図版2)f乞手掛かりとして、それ. としての自然に負っていることになる。そして、この点. レオナルドからフィードラ l へ、しかし、このプロセ. た芸術のカテゴリー論であった。すなわち、この書物. スの途中で、新たに設立された学問である﹁美学﹂日の. まで常識とされてきた、絵と言葉の親近性を否定し、造. に、のちに述べる近代芸術学リフィードラ l の芸術論と. 領域において、空間芸術と時間芸術、言い換えれば形の. であったのである。. 形芸術と言語芸術との差異を明らかにしようとするもの. の根本的差異が露呈されているといえる。. 芸術と言葉の芸術との区別がしだいに明確に意識され、. 形芸術は空間における形と色を、文学は時間における言. な手段ないし記号を使うかで異なっている。すなわち造. 絵画すなわち造形芸術と文学は、表現のためにどのよう. レッシングの考えはおおよそ次のようなものである。. 問題の姐上にのるようになる。その代表例が、十八世紀 のレッシングの業績である。. 近代における絵と言葉の章離1. た。すなわち、自明であったはずの絵と言葉の関係が、. 絵と言葉の手離の問題は近代になって萌芽を見せ始め. の対象は、時間の中で生起する出来事である。したがっ. 来の対象は空間の中に存在する事物であり、文学の本来. 象つまり行為しか表現できない。すなわち造形芸術の本. つまり物体しか表現できず、一方、分節音は継起する対. 葉(分節音)を用いる。そして形と色は並存する対象物. 十八世紀になって失われ始め、現代においてはすっかり. て、造形芸術は、同時的な構図を作ることがその特色で. レッシング. 喪失されてしまったかのように見えるところまで進んで. あり、したがって、行為のただ一つの瞬間しか利用する. 1--. 50= の 歴 史 的 根 拠 が あ る 。 そ れ は 、 レ ッ シ ン グ ( の2. 9. が. きたのである。十八世紀に始まったというのには、一つ. 4. 井面 絵と言葉一新たなエクブラシスに向けて.

(10) 3)。 口 を 大 き く 聞 け て 狂 乱 状 態 で 絶 叫 し て い る の で は. ら惣像されるほど荒々しくは表現されていない(図版. J. ラオコ ー ンの顔に浮かんでいる苦痛は 、 激 烈 な 苦 踊か. ている 、 と い う わ け で あ る 。. グ に 従 え ば 、 今フオコーン群像 ︾ は そ れ を 見 事 に 表 現 し. を 選 ば な く て は な ら な い の で あ る 。 そうして 、 レ yシン. と 後 続 す る も の と が も っ と も 明白になる、 含 蓄 あ る 瞬 間. ことができない 。 そ れ ゆ え に 造 形 芸 術 は 先 行 す る も の. 図版 2 {ラオコーン群像}紀元前 2世紀か ら紀元後 l世 紀. なく 、 微 か に 円 を 聞 き 、 苦 し み に 耐 え 忍 ぶ 抑 制 さ れ た 表. 情は 、 単 に 肉 体 の 脊 痛 を 写 実 的 に 表 現 す る だ け の も の で. はなく 、 同 時 に 魂 の 偉 大 さ を 表 現 し て い る 。 ギ リ シ ア 精. 神においては、 造 形 芸 術 の 表 現 は 常 に 美 と 調 和 し な け れ. ばならなか った。 苦痛 と か 醜 さ と か 無 既 な 姿 勢 と か 美 を. れたのである 。 高 貴 な単純さと偉大なる静誼とがギリシ. 消してしまうような要素は、 美 と 調 和 す る よ う に 抑 制 さ. -1 0一. ア彫刻の神髄なのである 。し たが って ︽ラオコ ー ン群 像︾. の作者もまた 、 肉 体 的 脅 痛 を 表 現 す る と い う 状 況 に お い. 図版 3 {ラオコー ン群像}部分. 2 0 0 8.9 2 0巻 l号 文学 ・芸術 ・文化.

(11) 巨大な輪を海上に横たえ、もろともに岸辺へと進んでくる。. (これを語るにさえわが身はふるえる)二匹の大蛇が、. ても最高の美を追求した。しかし、激しさの極に達した. 彼らの胸は波聞に立ちあがり、. されど見よ、テネドスのかたより静かな海を渡って、. れは苦痛の極に達する前の瞬間の表情である。この表情. 群像︾の作者は苦痛を緩め、叫びを岬きに緩和した。そ. 血なまぐさいその首を巨浪の上にあらわし、. 、甲︼ Lf O. において我々の観照は深まり、想像力は自由に羽ばた. あとの部分はうしろの海面に筋を曳き、巨大なその背を輸につ. 苦痛は肉体を歪め、美を損なう。それゆえ︽ラオコ l ン. の持続を与えている、とレッシングは考えるのである。. 込己、. 泡立ち砕ける海はとどろと鳴りひびき、やがて彼らは陸に着. くる。. く。︽-フオコーン群像︾はこの唯一の最高の瞬間に不変. 一方、文学は、その継起的表現を余儀なくされるた. い。したがって文学は、物体のさまざまの面から最も感. め、物体のただ一つの性質しか利用することができな. しゅうしゅうと鳴る口からは炎のような舌がのびる。. 燃ゆるがごとき目にはいちめんに血と炎とをたたえ、. い 。 ウ ェ ル ギ リ ウ ス は ﹃ ア エ ネ l イス﹄の当該箇所で、. これを見てわれらは血の気を失って逃げ、たした。. 覚的な姿を呼び起こすような性質を選ばなくてはならな. ラオコ 1 ン の 苦 悩 を 次 の よ う に 表 現 し て い る 。. おのおのきりきりとまといついて、哀れな子らの子足を噛みく. まずその男の子↓一人の小さなからだに巻きっき、. 彼らはただひと筋にラオコオンを目ざして突き進み、. ど 一 、 ,ナト-o ナ わ. そのとき、また別にそれよりも大きくかつはるかに恐ろしい光 景が、. それから、子らを助けようと投槍を手にしてかけつけた彼その. 大きな捲輸で彼を縛り、その胴中を二重に巻き、. 人を捕え、. PLU. した。. 哀れなるわれらの前にあらわれ、思いもかけぬわれらの心を乱. 議によってネプトゥヌス(ポセイドン)神の司祭と定められた. 鱗立つ背で彼の喉のあたりを一↓巻きしてから、. ラオコオンは、 仕え慣れた祭壇のほとりで、大いなる牡牛を刺し殺そうとして. 1 1ー. 井出 絵と言葉新たなエクブラシスに向けて.

(12) その頭とそびえ立つうなじとを彼の上高く差しあげた。 彼は、額の飾紐を汚血と黒い毒液に浸し、. 詩人の手柄であった﹂げとレッシングは主張するのであ. 一大にもととけと怖ろしい叫びをあげた。. たことなど、今日の芸術学の観点から見て容認しがたい. て﹁瞬間﹂の表現を指定して﹁運動﹂の表現を締め出し. レッシングの造形芸術論は、例えば、造形芸術に対し. Qo ヲ. その声は、祭壇をのがれ出て、狙いはずれた斧を、. 問題をはらんでいる。しかしながら、ともあれ、ここで. 両手で結び目を解こうともがくとともに、. その首からはらい落とした子負いの牛の肌え声に似ていた。日四. え、その叙述を唯一の瞬間に集中する必要もない。出来. 詩人の筆は視覚に訴えるためのものではない。それゆ. ができ始めたという事実である。. 関心がもたれ始め、絵画と言語芸術との聞に徐々に距離. りも、それぞれの芸術ジャンルの固有性の方により強い. ことは、十八世紀以降、芸術の相互関係や相互比較性よ. 1 2. レッシングの﹃ラオコ l ン ﹄ を 巡 っ て 確 認 し て お く べ き. 事の変化の一つ一つは造形芸術にとっては、それぞれが. 十九世紀になって、この間題はますます先鋭化される. │へ lゲルとフィードラ l. 近代における絵と言葉の軍離2. 作品になる可能性を持っているが、詩人にとってはただ の一筆にすぎない。しかし、その一筆は、先行部分に よって準備され、後続部分によって調整されて、みごと な全体的効果を発揮する。ウェルギリウスのラオコーン になってもがきつつも、苦痛が徐々に高まり、その耐え. ことになった。すなわち、絵と言葉の距離がますます広. が絶叫するのは、迫り来る危険に抵抗しようとして必死 がたい苦しさが極みに達したことを我々の聴覚に伝える. がるようになったのである。それについては、二つの面. と、絵の方から言葉に対して距離を広げた側面とが認め. から、つまり言葉の方から絵に対して距離を広げた側面. グは考える。﹁ラオコオンに絶叫させなかったのは造形. られるように思われる。. コl ン に 恐 ろ し い 叫 び 声 を あ げ さ せ た の だ 、 と レ ッ シ ン 美術家の子柄であったが、同様に、彼を叫ばせたのは. ためである。それゆえにこそ、ウェルギリウスは、ラオ. 5. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(13) 事実は、何よりもへ lゲ ル の 美 学 に お け る 芸 術 を 巡 る 言. まず第一に、言葉の方から絵に対して距離が取られた. れたのである。︽ミロのヴィーナス︾や︽サモトラケの. に美しいものは何もあり得ないし、生じ得ないと考えら. 芸術は理想にかなった美の王国の完成であり、これ以上. しかし、キリスト教の成立とともに、第三一の芸術形式. ろう。. ニケ︾はこの形式を具体化した作品だと考えられるであ. 説にあらわれている。 へlゲルにとって、真の意味での芸術美は、﹁形態﹂ において現れた﹁理念﹂つまり﹁理想﹂となって現れる のであるが、その統一の仕方に基づいて芸術の形式は三. であるロマン的芸術形式が生まれる。キリスト教にその. と高まることに、すなわち精神がその目標を自己自身の. 象徴的芸術形式はいわば真の芸術の準備段階に当た. しているがゆえに、この形式の中で直観される美は内面. 神の絶対的自由、自己自身との絶対的融和を根本原理と. 基盤をおいたこの新しい芸術形式は、精神が自己自身へ. 1. 象徴的芸術形式一オリエント芸術 2. 古 典 的 芸 術 形 式 一 ギ リ シ ア 芸 術. 内部に求め、見いだすことから生まれてくる。それは精. つに区分されることになる。. 3. ロマン的芸術形式一キリスト教ヨーロッパ芸術 る。つまりここでは理念がまだ未決定であり、現象の中. よっては完全には実現されないものとなる。そして、こ. の点に同時に、へ lゲルが、芸術はもはや過去のもので. 的なもしくは精神的な美であり、もはや外面的手段に. 例えばエジプトの芸術にあらわれている。ピラミッドや. ある(芸術の過去性・芸術終需論)と断言する理由も存. に具体化されることを求めて理想が模索されている段階. スフィンクスは、いわば理念が形態に追いつかず、その. 在しているわけである。. なのである。それは具体的には古代オリエントの芸術、. 意味をはっきりと表明できないまま、謎となって意味を 古典的芸術形式とは、古代ギリシアの芸術のことであ. る﹂というへ lゲル自身の美の規定と矛盾することにな. 現するとすれば、それは﹁美は理念の感性的顕現であ. ロマン的芸術形式が人間の内面的精神そのものを表. る。ここでは内容と形式とが、言い換えれば理念と形態. る。なぜなら、キリスト教を基盤としたこの芸術形式に. 隠しているのである。. とが完全に一致調和し、理想が達成されている。古典的. -13-. 井面 新たなエクフラシスに向けて. 絵と言葉.

(14) るようになるためには受肉しなければならない。. て い る 。 し か し 、 神 H ロゴスは、我々がそれを受容でき. すなわち物質的素材という形式を身にまとわなければ、. ある。それがキリスト教的ロゴス中心主義の根拠となっ. マン的芸術の時代においては、感性を媒介とする芸術の. 我々が見たり聞いたりすることはできない。芸術はまさ. おいては、理念は精神美として現れるのであり、感性的. 役割は既に終わってしまっている、とへ lゲルは断言す. にそのようなもの、つまりロゴスが受肉したものと見な. 現象の世界を離れてしまうからである。したがって、ロ. 1ゲルの﹁芸術の過去性﹂、﹁芸術終. されることになる。それはちょうど、神が処女マリアか. 代)はもはや過去のものだというわけである。キリスト. 要悪である。だから、芸術は言語に劣ることになるので. がって、肉体つまり物質的素材は、ロゴスを汚染する必. ら肉体を受けて人間になったのと同じことである。した. る。これが周知のへ るという芸術が最高の使命を果たしていた時代(古典時. 需論﹂である。人間の精神が芸術によって理念を把握す. 教的近代という我々の時代は、感覚的なものによっては. へlゲルがロゴスリ言語の側から芸術に引導を渡した. もはや表現され得ないような理念のいっそう深い実存が. とすれば、それとは逆に、絵の方から言葉に向かって距. ある。. ある。したがって、現代は芸術を崇拝する時代ではなく、. あり、それは宗教と哲学によって把握されるべきもので むしろ芸術について哲学的な反省を加える時代だとへ l. 離を取ることを正当化する理論が、十九世紀の末に現れ. このようなへ lゲルの芸術哲学の全体的構想かヲりすれ. ゲルは考えるのである。. の 芸 術 理 論 で あ る 。 そ れ ゆ え 、 フ ィ ー ド ラ l の理論は、. ラ1 ト ・ フ ィ ー ド ラ l 同C D E巳 司522(-∞ 白 1 ︼∞担). た。それは、近代芸術学の始祖と見なされているコン. キリスト教的ロゴス中心主義への鋭い批判と見ることも. ば、芸術が言葉から切り離され、しかも言葉には追いつ くことのできない媒体に庇められてしまったことは必然. フィードラ l に従えば、芸術活動とは、言語というメ. 的な結果であったとも言える。芸術の終罵は、キリスト. ディアとは全く異なった、眼と手というメディアによっ. できる。. くる。キリスト教の根源には、神のロゴスリ言葉があ. 教に基づくロマン的芸術形式においてはじめて生まれて る。なぜなら、神はロゴスによって宇宙を作ったからで. 一1 4. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(15) 態が何らかの物質的素材を媒体としてひとつの形式を獲. フィードラ l の 考 え る 認 識 と は 、 混 沌 と し た 意 識 の 状. 同時に現実が所有されたことを意味する。言語はその. て世界を認識する活動のことである。この活動を通して、. 現実所有のひとつの形式、ひとつの産出物に過ぎない。. 人聞は言語的真理とは全く別の視覚的真理とでも呼ぶべ 体系的に組織整備された言語は、我々にとって日常的. 得することである。そして、そのような形式の成立が、. にはもっとも簡便な表現メディアであると同時に、へ-. ヴィトゲンシュタインの言語論を想起させるフィード. きものを獲得するようになる。. ゲルに倣って言えば、単なる感覚的表象による表現を超. ラl の言語論は、人間の現実把握/認識に対して、一言語. いる。詩的(美的)言語は措くとして、日常的/散文的. によるそれとは別の可能性が聞かれていることを示して. 言語はコミュニケーションという必要性のための﹁無意. ための高級なメディアである、と通常考えられている。 言語によって表現できないものはなく、逆にあらゆる思. 識的妥協﹂に満ち満ちている。意識の内容の一切をひと. 克した我々の理性的教養の精神が思考と反省を実行する. ニケーションが中心軸となって、我々の社会の秩序は維. 想は言語による表現を求める。実際、言語によるコミュ. のできる絶対的表現メディアを人間は持っていない。言. つの落ちこぼしもなく、絶対的形式へと結日間させること. しかし、言語が万能の表現メディアでないこともまた. 語によっては展開されない、別の道を通って発展する別. 持されているように見える。 事 実 で あ る 。 フ ィ ー ド ラ l言語観は、次のことばにはっ. の現実所有が人間には聞かれている。そのひとつが﹁視. 画家の描くという活動は、単なる再現描写ではなく、. ること﹂から始まる造形芸術活動なのである。. きりと表されている。 言語というこの驚くべきものが持つ意義は、それがある存在. い現実を産出する活動である。ただし、この現実は、徹. 身体の活動(絵筆を持つ手の働き)と一体となって新し. 頭徹尾、眼に見えるものとなった現実、可視的現実であ. ことである。そして、言語の形式で生成してくるものは、この 形式以外では存在しないのであるから、言語はまた常に自分自. る。したがって、芸術活動においては、今度は逆に言葉. を意味するということではなく、言語がひとつの存在だという. 身をしか意味することはできないのである。日目. 1 5. 井面 新たなエクフラシスに向けて. 絵と言葉.

(16) き、世界は純粋な可視的世界となり、そこから描くと言. るようになった幼児のような無垢の眼で世界を眺めると. まり芸術活動から一切の言語を排除し、初めて眼が見え. が絵を汚染することになる。その汚染源を断つとき、つ. のである。いわゆる芸術の﹁純粋化﹂が促進されたわけ. はなく、表現﹀己. Eロm5 ggtoロで 律的となり、再現描写口問団芯] ・ ℃耳目. いった物語世界につながる糸をすべて切断し、完全に自. 倣的)な結び付きを放棄し、さらに神話、宗教、歴史と. の 過 程 の 中 で 、 絵 は 現 実 世 界 と の ミ メ l シス的(再現模. 一 同 日. aE のFFO)225ロがテ l マとなった. う活動を通じて、可視的現実世界が生み出される。それ. 元されてしまうのではなく、芸術的形象と言語との関係. しかし、この﹁純粋化しは、単に形式主義の問題に還. である。. が絵の世界なのである。したがって、絵においては、言 葉によっては決して認識されることのない、眼に対して る 。. だけ妥当する真理が達成されていることになるのであ. して距離がとられたのではなく、むしろ絵の方から言葉. -16ー. から読み替えられる必要がある。. フィードラ lが描いて見せた造形芸術のあるべき姿に. フィードラ!の芸術理論は、抽象絵画の出現を予言す. に絶縁状を突き付けるという方がふさわしいように見え. おいては、へ lゲ ル の 考 え る よ う に 言 語 の 方 か ら 絵 に 対 るものであったと言える問。そして、ここにおいて、こ. る。したがって、二十世紀のアヴァンギャルド芸術以降. 造形の論理│言語への挑戦/挑発. の小論の出発点であった、﹁絵を鑑賞するのに言葉は不. ピカソの絵は、 よく﹁分からない﹂と言われる。. り上げよう。. その一例として、 ピカソの ︽泣く女︾(図版4). きると思われる。. むしろ絵の方から言葉を挑発するものと見なすことがで. の芸術は、絵と言葉の関係を対象化するもの、あるいは. の成果は、印象主義もしくはセザンヌの絵画であると み な さ れ る こ と が 多 い 。 そ れ ら の 絵 画 は 、 二O 世紀に 入ってからマチス、ピカソのアヴァンギャルド芸術へと 展開し、さらに抽象絵画の出現へと至ることになる。こ. し. を 取. も. フィードラ!の芸術理論と響き合う実際の芸術活動. 要なのではないか﹂という問いへと戻ることができる。. 6. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(17) その大きな理 由 が、 この﹁暴力的﹂ と言 ってよいほどの デフォルマシオンにあることは容易に推測がつく 。 確か. 泣 く 女 ︾ も ま た ﹁分 か ら な い ﹂ と言 わ れ る と す れ ば 、 ︽. 輪郭を形作っている 。 口と手│ ハンカチを嘩えた口と顔. るはずの爪什は 、 あるべき場所には見いだされな い。 位 置. る か の よ う で あ る 。 そ の お 椀 の 脆 か ら 涙 が 筋、 鉄 の 棒. の部分から明確に区別され 、全 体 の 鮮 や か な 彩 色 と は 対. を 覆 う か の よ う な 手、 こ の 部 分 は 太 い 輪 郭 線 に よ っ て 他. が大きくずれ 、横顔と 一体 と な っ て 顔 の 向 か っ て 右 側 の. のような軌跡を残して頬を伝う 。 鼻 │左右の般の間にあ. に、 久が泣く同僚子が描かれていることは直ちに直観でき る。 しかし 、言葉 が 指示 するものと像が表現しているも のとは 、 日常的 な意味統一の点では容易に重なりあわな い。 限ー腿 毛 が 周 囲 を 取 り 巻 く 栗 の い が の よ う な 眼 は 顔. 照的に モ ノク ロー ム に よ っ て 表 現 さ れ て い る 。 しかし 、. ま ったく把握できず 、 口は両眼が正面観で描かれている のと矛盾して 、 たくましい顎とともにプロフィ ー ルで描 かれている 。. すなわち 、 これらの歪められた形のさまざまは 、 言語. 的指示にぴったりとは対応しないように拙かれている 。. これが険 ?. これが. つまり 、 ここでは形と 言葉の聞にずれが存在していると. 言 わ ざ る を え な い 。﹁ これが眼 ?. 鼻? なぜ ・・・ ? 我々はこのずれに直ちには対処 。 ﹂ できないまま 、 歪 め ら れ た 形 の 世 界 を じ か に 突 き つ け ら れ、 戸惑 ってしまう。 そして 、 思わず ﹁ 分からない 、 理. 解できない ﹂ と言葉を漏らすことになる 。. 我 々 は 、 なぜこの形と 言 葉 の ず れ に 対 応 で き な い の で. -1 7ー. 手 の 指 の 一本 一 本 が ど の よ う な 位 置 関 係 に あ る の か は. テート ・ギ ャ ラ リ ー 、 ロ ン ド ン. から飛び出し、 険はお椀のようになって 、 右目は下か ら、 左目は横から眼球を こぼれ落ちないように支えてい. ピカソ 《 泣 く友) 1 9 3 7{ f : 図版 4. 井面 絵と言葉一新たなエタフラシスに向けてー.

(18) の中で当たり前に見いだされる知覚的(視覚的)現実の. イムダlルに従えば、﹁事実の現実﹂とは、日常生活. ずに混同され、取り違えられてしまうことに求めたいと m o v 田b つ. 鑑賞の際﹁事実の現実﹂と﹁表現の現実﹂とが区別され. あろうか。その原因を、 M ・イムダlルに倣って、絵画. の発言を根拠付けている前提が一つある。それは、十七. することが可能となる﹂と述べているnoこのトドロフ. てみれば描かれた対象が文字通りに意味するものを強調. ﹁日常的な仕草の美しさを発見することによって、言っ. 我々は抵抗なく絵の世界に入り込むことができる。例え. 、、、、、、、、 われる。この前提が日常的に疑問なく充たされていれば、. ば、十七世紀オランダの風俗画について T ・トドロフは. 再認識として絵の中に確認できる事実的意味のことであ. 世紀オランダ風俗画が﹁事実の現実. と﹁表現の現実﹂. る。︽泣く女︾の場合であれば、眼、険、涙、鼻、口、. とを地続きにする描写方法、誤解を恐れず端的にいえば. L. 子など、実在物として言葉で指示できる現実のことであ. 実しと﹁表現の現実﹂との聞に大きなずれがないこと、. をその例として挙げておこう。. いことになる。ホーホストラlテンの︽静物︾(図版5). 外的世界を単に指示する作用を原則として超え出ていな. 1 8. 写実的2巳に描かれているということである。. ば、﹁事実の現実﹂と﹁表現の現実﹂との聞に落差は生. 絵画が自然を写実的に再現描写することに専念すれ. じない。その場合には、﹁表現しの問題には全く無関心. O. それに対して、﹁表現の現実﹂とは、眼によって眼の. に、ただ﹁存在の形. と言い. 換えることもできる幻. ためだけに妥当する形の体系のことである。すなわち、. れるだけだからである。そこでは﹁表現の現実しは直接. という見. の模倣的イリユ│ジョン化がなさ. この体系は線、面、形、色彩、光、影、空間など造形の. L. 諸要素を通じて構成される純粋な視覚的表象世界、つま. に﹁事実の現実しを指し示し、トドロフの﹁描かれた対. L(. L. いわば両者が地続きで自由に往来できることを、たとえ. 方が可能となる。この場合には、イリュ 1ジョン化は、. 象が文字通りに意味するものを強調すること. 無意識であるとしても前提をして絵に対面するように思. 我々が日常において絵画を鑑賞する場合、﹁事実の現. い ヲ 。 。. り﹁作用する形. ヒルデプラント)として成り立って. L. 2 0 0 8 .9 る。それをヒルデプラントに従って﹁存在の形. 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(19) {静物) 1 6 6 6-6 8 図版 5 ホーホストラーテン. しかし 、 絵 画 は 指 示 作 用 に の み 奉 仕 す る 記 号 で は な い。 記号が手段として機能し 、 目的が達成されると共に. 機能を失ってしまうのとは異なって 、 絵画は目的に奉仕. するための単なる媒体ではない 。 絵 画 が そ の 固 有 の 価 値. や意味をはらむのは 、 その指示作用によってではなく 、. 表現作用によってであるといわなければならない 。 この. 点に﹁表現の現実﹂の意味合いがある。 絵画における. ﹁ 表現の現実﹂は 、絵の外にある実在物を指示するもの ではなく 、 その形を通じてしか表現できない何物かを表 しているのである。. 泣 く 友 ︾ の 顔 に 描 き 出 さ れ た 限、 脆、 一 ︽ 仮、 品 、 口、. 手 │ そ れ ら の ど れ も が 極 度 に 変 形 さ れ て い る 。 このデ フォルマシオンは 、 この絵の中心課題が実夜する物その 、、、、 ものの忠実な描写ではなく 、 それらの実在物の現れの構. 造であることを示している 。 この構造は 、模 倣 的 価値を 担 う も の で は な く 、 実 在 物 の 束 縛 か ら 解 放 さ れ て 、視 覚 、、、、、、、、、、、、、、、、、 的に自律し 、 内 在 的 に 規 則 付 け ら れ た ﹁ 像 ﹂ の 構 成 を 目. 指しているのである 。 したがって 、 このデフォルマシオ. ンは 、決して形の解体や非美的なものにおいて機能して. いるのではなく 、 美的なるものの表現の積極的手段であ. ると理解しなければならない 。. -1 9-. ) 1 恒 絵と 言集一新たなエクフラシスに向けてー. タンストハレ 、 カ - Jレスル ー エ.

(20) えるデフォルマシオンは、﹁事実の現実﹂と﹁表現の現. このように、︽泣く女︾に見られる﹁暴力的﹂ともい. のかが十分に捉えられず、戸惑いを覚えるような作品、. 前にしてももはや何に共感し、何に感情移入するべきな. されていることの原因があると考えられる。オルテガ・. 差が大きす、さることに、︽泣く女︾が大衆の無理解に曝. していると言える。そして、既に述べたように、この落. 感情移入の問題にとどまるものではなく、根本的には、. 係は、単に﹁人間的﹂か﹁非人間的しかの問題、つまり. しかし、近代の芸術と大衆の無理解とのこの落差の関. つまりアヴァンギャルド芸術は、﹁理解できない﹂作品 ということになってしまうお O. 実しとの聞に意識的に大きな落差をつけることを目的と. イ・ガセットは、二O世紀初頭に現れたアヴァンギャル. れるべきものである。. ﹁言葉﹂と﹁像. の聞に横たわる裂け目の問題に還元さ. ド芸術(オルテガは﹁新芸術﹂と呼んでいる)が﹁非人. 合、その責任はいつも像すなわち絵の方に負わされてき. 言葉で指示できるもの H ﹁事実の現実﹂が像という形. L. 間化﹂に向かっていることを指摘して、それらを﹁非大. たように思われる。物語や出来事の伝達子段ということ. 衆的しあるいは﹁反大衆的﹂と特徴。つける。すなわち、 はなく、﹁理解できないしものとして評価される、とオ. になれば、形象言語である絵は、言語テキストに比べれ. の体系 U ﹁表現の現実﹂の中に明確に指摘できない場. ルテガは考えるのである。それらが﹁理解できないし理. ばその信頼度の点ではるかに劣るからである。しかし、. アヴァンギャルド芸術は、大衆にとって好きか嫌いかで. ている精神的態度、すなわち人間としての感受性を持. ︽泣く女︾は、この言語と像の聞の裂け目をむしろ﹁挑. 由は、大衆は、自分たちが日常生活において普通に取っ ち、隣人の苦しみゃ喜びに共感したり、執着したり、熱. いるのだとみなすことができる。すなわちまさしくここ. には、造形的現実を言語と像との隔たりの中で反省する. 発的にし暴き出し、像の側から言語の側へ戦いを挑んで. ことを迫るモダンの絵画の新たな存在層が露出している. いえば鑑賞者が素直に共感でき、感情移入できる物語を 含んだ作品を﹁理解できるし作品であるとみなしている. と考えることができるのである。. 狂したりする態度でかかわることのできる作品、端的に. るか、あるいは希薄になってしまっているために、絵を. からである。それに対して、画面から物語性が消えてい. 2 0. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(21) 絵と言葉の裂け目を反省せざるを得な い状況を 、観賞 者にもっと鮮烈に意識させる絵がある。マグリットの ︽これはバイプではない ︾ (図版6) は、 絵が 言葉の介入 に対してどのようなバリアを張り巡らし 、 ど の よ う に 抵 抗するかを探る実験装置であるように思われる 。 ここで は、 日常的な意味合いでは 、像という 言 語以前の現実と 命題という言語 的な現実との聞に関係を取り結ぶこと は、 失敗に終わっている。つまり 、言葉は絵の内容を 言. - 21-. い当ててはいない 。 つまり、誤った指示をしていること になるのである 。 しかし 、 命題は 、 ﹁これは実際のパ イ プそのものではなく 、 パイプを 描いた絵だ ﹂ と言 う意味 合いで﹁これはバイプではな い﹂と言っているのかもし れない 。 あ るいは 、 像は 言 語 的 現 実 を 越 え た と こ ろ で 、 │ バラの花の名前が 何と変わろうとも 、色と香りに違い はないように │自律的に存在するものであることを示し ているのだ 、 と見なすこともできる 。 さらにまた 、全く 別々の場所にあ った像と命題とが 、 たまたま同 一平面上 で出会 ったに過ぎないのかもしれない 。 いずれにしても 、 マグリットのこの絵には 、絵と 言葉 との聞には 一筋縄では解決のつかない問題が横たわって いることを 、 剥き出しのまま我々に突き付けているよう. ではな い) 1 9 2 9年. これは パ イプ ロスア ンジェルス市立美術館. 図版 6 ルネ ・マグリ ッ ト 《イメ ー ジの裏切り. 井面 絵 と 言 葉 一 新 たなエ クフラシス に向けて.

(22) に思われる。. 結び│新たなエクフラシスに向けて. 両者は一見互いに離れて行くように思われたのである。. 近代芸術に加えられる言語による哲学的反省は、﹁死に. へl ゲルの芸術終罵論を敷延して、皮肉っぽく言えば、. 絶えたものを学問的に埋葬しようとする﹂ J行為に過ぎ. しかし、このような状況は、作品の言語記述の技術に. ないといえるかも知れない。. とって一つの転機を与えるものであると見ることもでき. 絵 の 場 合 の 差 異 は 、 イ コ ニ ッ シ ュ 跨CERF(像 的 ) な. る。ヒントは、絵もまた言語能力をもち、差異の体系か. 差異もしくはコントラストであるという点にある。そし. とつのことに多く読者が気づかれているに違いない。そ. なされてきたということである。そんなことは当たり. らなっているということにある。ただし、重要なことは、. 前と言えば当たり前のことである。しかしながら、この. て、イコニッシュなコントラストと言語的コントラスト. でのこの小論が、絵の解釈を含んですべて言葉によって. 当たり前の事実は、絵と言葉の隔たりの問題について、. との響き合いの中に、記述の技術の新しいきっかけがあ るように思われる。. ここで、もう一度ヴァザ l リ の ︽ ナ ヴ ィ チ ェ ッ ラ ︾ に. ペテローーを語るよりも、湖の嵐│漁師の平静さ、帆の明. さらには神話、宗教、歴史との関係を断ち切って以来、. るい部分│陰の部分、使徒たちの苦闘│漁師の沈着さな. ついての記述を思い起こそう。すでに示唆したように、. の出現によって、それまでは像を背後で支えていたはず. ヴァザ 1リ は 、 物 語 の 劇 的 場 面 湖 の 上 を 歩 も う と す る. の実在性は空虚となり、それと同時に、絵と言葉は、共. ど、言語的コントラストを作り上げることに関心をもっ. ラシスは無効になってしまったように見える。抽象絵画. 通の交差点を失うことになってしまった。それ以後、絵. ていた。すなわち、ここでは、言葉は、再認識可能な実. 絵を言葉に翻訳する伝統的な記述の技術、つまりエクフ. 自律的となった芸術が現実との模倣的再現的関係を、. 我々にいくつかの反省を促すことになる。. れ は 、 絵 と 言 葉 と の 距 離 を テ l マとしながらも、これま. の様相を取り上げてきた。しかし、この時点で、既にひ. ここまで、絵と言葉との聞に横たわる距離のいくつか. 7 は絵で、言葉は言葉で、それぞれ独自の道を歩み始め、. -22-. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(23) けるイコニッシュな差異を捉え、追創造するために働い. 在物を指示することに奉仕しているのではなく、絵にお. くのである。. 的空間を超えたところに新たな可視的現実世界を切り開. 視的世界において自己実現する視覚であり、既知の経験. る。再認するための視覚ではなく、視るための視覚は司. 、. ているといえる。そして、ルネサンス時代にはまだ意識. このようなフィードラ l のいわゆる﹁純粋可視性﹂の. 的ではなかったヴァザ lリのような差異の記述は、十八 世紀に至って意識的に行われるようになり、十九世紀の. 次 々 と 言 葉 U概念に変換し、そのことによって再認識の. るために機能するものである。この働きは視覚データを. 日常的な視覚作用であり、対象物を確認もしくは再認す. 人間の視覚の視る働きを二つに区別している。ひとつは. 、 ラーによって準備されたものであった。フィードラ lは. この差異の記述の理論的基礎付けは、やはりフィード. ことになるからである。他方、純粋な造形言語の構築を. るか﹂を、絵の外に、つまり物語の原典の中に指示する. ぜなら、この場合、記述は像が描写するものが﹁何であ. 葉が記述する場合、記述は像を超越せざるをえない。な. ストと結びつけられるのとは全く別に、純粋な造形言語 、 、 の構築の問題として捉えられる。絵が描きだす物語を言. 話、宗教的事蹟、歴史的出来事といった物語のコンテク. 含まれていた。フィードラ i の理論に従えば、絵画は神. 理論の中に、記述の技術とって一つの転機となる契機が. 作業が終わった瞬間にその役目を終える。例えば、テー. 記述することは、像内在的に像が﹁如何にあるか﹂を記. 近代芸術学の成立と共に完成されていくようになる。. いう言葉に置き換えれば、それで我々はその対象物を概. 述することになる。どのように形が組み上げられている. ブルの上に赤い、円い果物を見て、それを﹁リンゴ﹂と 念的に認識したことになり、それ以上リンゴを見つめる. つどの絵から引き剥がせないばかりか、そのつどの絵そ. か、どのように空間が構成されているか、どのように色. のものであると言わざるをえない。そして、像が﹁如何. 彩が配列されているかこれら造形言語はすべて、その. 視 る 働 き は 、 視 覚 デ lタを見ること以外の別のメディア. にあるか﹂の記述は、必然的にイコニッシュな差異を記. る。それは﹁視るために視る﹂眼の働きである。画家の に譲り渡さず、視覚過程の連続的発展として新たな可視. 必要はない。しかし、画家の視る活動はこの後から始ま. 的現実を生産すること、すなわち像の創造へと通じてい. -23ー. 井面 絵と言葉新たなエクフラシスに向けて.

(24) 述することに収数するであろう。 す で に 示 唆 し た よ う に 、 フィ ー ド ラ l の 理 論 は 抽 象 絵 画 の 出 現 を 予 言 し て い る か の よ う で あ る 。 し か し、 実 際 のところ、 彼 の 理 論 は す べ て の 時 代 の 芸 術 に 妥 当 す る 普 遍性を持っているといえる。 最 後 に 、 フィ ー ドラ l の 理 論 を 基 礎 と し て 、 イコニツ シ ュ な 差 異 の 記 述 を 実 践 し た 優 れ た 成 果 の 例 と し て、. A ・リ ーグ ル の 記 述 を 示 し て お こ う と 思 う c リ ーグ ル の 膨大な業績からごくわずかの部分を引用するのは危険で あ る こ と を 承 知 で、 一部を取り上げよう。それは、 ラ ヴ ェ ン ナ の サ ン ・ヴ ィ タ l レ聖堂の 、 ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス. いての記述である。. と マ ク シ ミ ア ヌ ス が 描 か れ た モザ イ ク 画 ( 図 版7) につ. ユステイニアヌスとマクシミアヌスが儲かれた儀式の場面 のモザイク函(帰図臼)を取上げてみよう。平面コンポジショ ン。 しかも集中式である 。 すなわち 、 あからさまな愛直(輪 郭、織、装飾に見られる 。納性はマクシミアヌスだけかすかに 和らげられている)と水平(頭部の線、足と着衣の裾の線、腕 の線)が見られる 。空間コンポジション 。すなわち 、人物たち は、全体として正面観で空間から観立者に向かって歩み出てく. -2 4一. モザイク. 図版 7 サン ・ヴィタ ー レ聖堂 6世紀 ラヴェンナ. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文 学 ・芸 術 ・文 化.

(25) るようであり、まっすぐに見つめる視線は観賞者に向けて固定. などのイコニッシュな差異が言語的コントラストとして. 空間コンポジション、垂直線│水平線、並列│重なり、. 精轍に記述されている。すなわち、リーグルにおいては、. されている。それにもかかわらず、主要人物群は平面内で部分 的に重なりあい、五人の護衛の集団は前後三列になってひとつ. ねたものではなく、眼差しに手を貸し与えて、眼差しだ. けでは尽きてしまい、場合によっては像を超越する陶酔. 言葉による絵の記述が、印象批評的、主観的な言葉を連. に堕してしまいかねない道に、さらなる方向性を与える. のきっちりとまとまった(平坦な)量塊に押し込められてい. は残されていない。足が浮き上がった格好をしていること、そ. 役割を果たしているのである。. る。その結果、人物全体のあいだに隙聞はほとんどはっきりと. のくせ前の人物が後ろの人物の足を踏みつけているという(す. ソシュ l ル が 言 語 を ﹁ 差 異 の 体 系 ﹂ と 規 定 し た こ と に. でにより進んだ様式をもったロ l マ 市 製 初 期 キ リ ス ト 教 石 棺. 倣えば、絵はイコニッシュな差異から成る形象世界であ. ている物語に引きとめられている限り、イコニッシュな. に見られる)特徴的な現象が、何度も繰り返されている。こ. 差異は見えてこない。それが見えてくるのは、形の意味. のことは、平面内での結合(この場合は、足の面とそれに接す. を同定するのではなく、形の相互作用の中から形が動き. るといえる。しかし、絵を見る眼差しが画面に表現され. もない証拠である。鍛は線で描かれている(それは彫刻作品に. 立させることが芸術家にとって重要であったということの紛れ. 始め、活性化する有様を発見するときである。しかし、. る床面との結合)を犠牲にして、個別形象を空間的に完全に孤. おける刻まれた織に対応している)が、援を付けることへと向. その行為を導くのは言語的コントラストの創造である。. それゆえ、絵を見る行為は、言葉による記述において初. る)。この状況には、細身で縦に引き伸ばされた、竹馬に乗っ. めてアクチュアルなものとなるということができるであ. かう兆しをみせている(とくに二重線がそのことをうかがわせ. モザイクの際立った様式的指標とみなされる末期ヒザンツ様式. ろう。. たような身体のプロポーションと同様に、主として、通常この との親近性がある。叫叫. ﹂のわずかの部分においても、平面コンポジション. 2 5. 井面 新たなエクブラシスに向けて. 絵と言葉.

(26) ー王. ﹁像しは門HaEEの 訳 語 で あ る 。 ド イ ツ 語 のE Eは﹁絵、 図、画像、写真、光景、表象、観念﹂など多様な意味を持つ が、ここでは、﹁芸術活動によって新たな現実を生産するも の﹂を意味するかぎりで、日本語としてやや熟さない印象が あるが、﹁像﹂と訳す。. oF5 Ha. ﹀ロ己 rmF口一回白血門町コニσ戸口﹄内出}凶ロロ回一-. のS円巴内守山田町ロぽ岡山口ZZE口問己2. エクフラシスの起源と歴史については、以下の論. 文を参照 0白江戸口四回口︹同町. 日 同. 1. CZロ宮山己2JFEm-. YB- 国土自己片句同 O巾. 印 門 町 円 白 日σ戸 関口口印片σ巾 h F ω 坦 坦 印 F白戸口門町内ロ・∞ 口m・ 。。H Hご 巾門同ロ H. ∞ 巾 閉 山 門 町 ﹃ 巴σ戸口問印宵己ロ印片貝ロロ印同σ m m n U2 σ ロDm一 開r H )げ﹃山田2 ﹁ 口会凶円﹀口昨日}片目立凹 NEH.。ぷ門司口当日ユ-S 40 印 の02守門司(︼∞。巾F5・ EEσ 白出口町円m σ 己記・・ d σ 巾﹃門出巾の﹃巾ロN mロ. ω ω ω 口出ニ己己ロ己∞円)司印門町巾噂。℃n H H・ 40 ・ 同 ﹃ ホメ l ロ ス ﹃ イ 1 リ ア ス 下 ﹂ 呉 茂 一 訳 、 岩 波 文 庫 、. 一三三頁以下。(︹︺は筆者) ホラ l テ ィ ウ ス ﹃ 詩 論 ﹄ 松 本 仁 助 ・ 岡 道 男 訳 、 岩 波 文 庫 、 ﹁ 福 音 書 ﹄ 塚 本 虎 二 訳 、 岩 波 文 庫 、 マ タ イ 十 四 章 二 三 節1. 二五一頁。. 三三日即. c足立 O︿山田白コ・吋}︼巾﹁ ︿ 。H 巾 印 C内庁宮司司白{ロ円. 前掲書、一九六頁. L. 門 的 印 ロ 門 田 ∞ 門 戸 己 目 )HO. m u叶mr. の 成 立 は 、 ド イ ツ の 哲 学 者 ア レ ク サ ン ダ 1 ・ゴツ. 嘆した、と一一一口われる。. o プリニウスに. 一五O 六年一月十四日、. o 発掘現場に駆け. ウ ェ ル ギ リ ウ ス ﹃ ア エ ネ l イス﹄第二巻、. 一九九1 二二四. つけたミケランジェロはこの作品を見て﹁芸術の奇跡﹂と感. ロl マのエスクィリ 1 ヌの丘で発掘された. トゥス帝の宮殿にあったとされる。. ロ1 ド ス 、 ア タ l ノロ l ド ス の 三 人 で あ り 、 ロ 1 7のテイ. よ れ ば 、 作 者 は ロ ド ス 島 出 身 の ハ lゲ l サンドロス、ポリュ. 前二世紀から紀元後一世紀の幅で諸説がある. 日ギリシア、ヘレニズム期の作品。制作年代については紀元. を発する。. (-ご品毘)が一七五O 年に﹀252R白 を 著 わ し た こ と に 端. トリ lプ・パウムガルテン﹀宮岡山口巳句。o HE巾 σ∞白戸ヨ岡山ユ叩ロ. U ﹁美学. 回前掲書、一九五頁. ロ前掲書、二二二頁以下. 日前掲書、二一一頁. ω. 波文庫、一九六頁. 9 ﹃レオナルド・ダ・ヴインチの手記上﹂杉浦明平訳、若. 一 一U mロケ日由由ω℃ ﹀H n F H H巾 n g -円、。ロ己 O口 ・ 叶ω ・ ﹃ 同. 8 c o. -26一. 2 3. 4. 5 6 7. 2 0 0 8 .9 2 0巻 I号 文学・芸術・文化.

(27) 行。岡道男、高橋宏幸訳、二O O一年、京都大学学術出版会. おオルテガ・イ・ガセット﹁芸術の非人間化﹂、﹃オルテガ著. に反する、という意味ではない。それは﹁非日常的﹂の意味. オルテガのいう﹁非人間的﹂という概念は、人間性や道徳. 作集3﹄神吉敬三訳、白水社、一九七O年、三五頁以下。. に近く、﹁生命ある形態への嫌悪感﹂を表すものとみなされ. N C印 Oロ門白色﹃円巾己-mHJωnFコ丘町ロ N己﹃同己ロ印ゲ-由斗f∞-. た。一般に、抽象絵画は、一九一 O年のカンディンスキーの. 印フィードラ│は一八九五年に不慮の事故によって亡くなっ. ている。また、オルテガは、ァウァンギャルド芸術に対して. 凶同. 口レッシング﹃ラオコオン﹄斎藤栄治訳、岩波文庫、五二頁. 作品がその最初だとみなされている。. る二つの動物群の特徴を記述するように、両芸術︹新芸術と. 反対の立場を取っているのではなく、寸動物学者が相対立す. 58. いると見ることができる。. 1 ゲル的歴史観に立って、ア. ヴァンギャルド芸術の出現に関してある種の必然性を認めて. 書四七頁)と述べているが、へ. 十九世紀の旧い芸術︺﹂の相貌を記述しているだけ﹂(前掲. 却玄--自己阿佐﹁︿門司﹁﹀印円)巾}内ZNZBH)吋。豆町自己RBHF22nymロ. ・ 仏 町 田ω 呂 町 λ山. ・ 。門司ロNロσ2・由円}耳目立己口問一ロ色町H σ口己目ロ己巾ロ関口口出品JHEHVO巾ZF内. H H F内ωyam- ︿Oロ ロ. H N .﹄ 巴門戸仏国巾﹃B2H巾戸H 日Ha--u. おける形の問題﹄加藤哲弘訳、中央公論美術出版、. ∞ 幻 参 照 。 ア 1ドルフ・フォン・ヒルデプラン∞ ト﹃造形芸術に ヒルテプラントに従えば、﹁存在の形﹂とは実在する対象. おアロイス・リーグル﹁末期ロlマの美術工芸﹄井面信行. MC. BLE♀・ω5 ・. 物に、いわば数学的定数として帰属する形のことであり、そ. と﹁作用. yティス﹃ラオコ. 1 ン﹄芳賀京. σ の白]}巾﹃可C同﹀ユ UHG一¥¥老若者・者ぬ白宮戸¥宮色町同者巾. サルヴァトlレ・セ 子、日向太郎訳、三元社. 図版2. EB-. 図版 l. a v図版出典一覧. 訳、平成十九年、中央公論美術出版、二O 二頁以下。. ・回C刊訂. れを直接に得るためには視覚ではなく、触覚によらなければ ならないものである。それに対して﹁作用する形﹂は、諸条. L. 件によって変化する我々の視覚表象おける形の様相のことを 指す。日常における我々の形の把握は﹁存在の形. する形﹂との聞を揺れ動く。芸術活動は、この動揺を視覚直 観のために固定することにある。. 一二四頁以下. 辺ツヴェタン・トドロフ﹃日常礼讃﹂塚本昌則訳、白水社 二O O二年、. ~27 ー. 井面 絵と言葉新たなエクフラシスに向けて.

(28) 図版3 。ロロロ巾司呂田印印. 前掲書. 525. Z G一¥¥若者宅-者間印-Fロ¥5巳叩凶-. CHUBBnHZG・¥¥匂-E印由。・S 百戸内乱ロ¥. 図版4 ℃円円山田町O¥. 西洋編 7 小 学 館. U C口 三 可 否 刃向口四冨由同司王叩︼ロ汁宮町﹁ O∞﹀ロ閉山丘町田(. 巾σ の色]司﹃可 O﹃﹀ユ 図版 5 者. EB} 図版6. 世界美術大全集. 。同﹀ユ己主出σ 白血凸. 図版7. 2 8. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

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参照

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