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中華人民共和国建国初期における ミチューリン理論の学習とその影響 東北農業科学研究所を中心に

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はじめに

本稿では中華人民共和国建国初期に推進されたミ チューリン理論の学習について,東北人民政府農林 部農業科学研究所(本稿では便宜上,東北農業科学 研究所と称す)で起きた変化を中心に考察する.対 象とする期間は 1949 年から 1956 年(「百花斉放百 家争鳴」運動の開始と「青島遺伝学会議」開催)ま でである.東北農業科学研究所は「満洲国」(以下, 括弧を省略)期においては満洲国立公主嶺農事試験 場(本場)であり,満洲国の農業政策を支える「東 アジア屈指」の研究機関であった(1).満洲国の崩壊 後,ソ連と中華民国が公主嶺農事試験場を接収,管 理したが,1948 年秋の国民党軍の公主嶺敗退によっ て,共産党軍が接収し,現在におけるまで中華人民 共和国が管理している.1950 年代初頭,中国では ソ連との蜜月関係が維持され,農業科学分野におい ても,先端技術をソ連から学ぼうという姿勢がみら れていた.筆者が本稿にてミチューリン理論の学習 に着目するのは,政府がこの学習を通して社会主義 国家建設に「貢献」する人材を育成しようとする意 図が読み取れるからである.東北農業科学研究所は ミチューリン理論の学習によって,技術者に生物学 への認識の変化を促していたのである. 東北農業科学研究所は中国東北地域の中心部(吉 林省公主嶺市)に位置しており,現在,吉林省農業 科学院として東北農業科学技術の先端基地に指定さ れている(2).以下の表- 1 は研究所の変遷である. 東北農業科学研究所は,満洲国立農事試験場にて 勤務していた日本人留用者 6 名のほかに,万里の長 城以南の技術員や共産党軍の占領地域(北満洲)か ら来た中国人技術員などによって構成されていた. 1950 年時点の職員数は 318 人で,うち事務職が 30 人,技術員が 116 人,その他のスタッフ(技術補 助 員 と 農 作 業 補 助 員 ) が 172 人 で あ っ た( 陳, 1950,491 頁).研究所には農産系,病虫害系,農 芸化学系,畜産系,農業経営系のほかに資料室と行 政管理室が設置されていた.日本人や中国人技術者 の一部は日本やアメリカにて留学経験があり,満洲 国や中華民国の農業機関で学んだ者も多かった.彼 らはメンデル・モルガン理論を中心に学び,満洲国 期においてはとりわけ品種開発や専門分野の調査分 析を積極的に行っていた(湯川,2011). ミチューリン理論は,ソ連の育種家であったイ ヴァン・ミチューリン(1855-1935)によって生み 出された理論で,遠隔地の果樹を接ぎ合わせること で強靭で多収穫の性質が生まれることや,植物に春 表−1 東北農業科学研究所の変遷 成立(改称)年 名称 管理者 1913 南満洲鉄道株式会社産業試験場公主嶺本場 満鉄による管理 1918 南満洲鉄道株式会社農事試験場公主嶺本場 1938 満洲国立公主嶺農事試験場 満洲国による管理 1945-1946 ソ連により接収 ソ連による管理 1946 中華民国農林部公主嶺農事試験場 中華民国による管理 1948 中華民国農林部東北農事試験場 1949 東北行政委員会農業部公主嶺農事試験場 中華人民共和国による管理 1949(8 月) 東北人民政府農林部公主嶺農事試験場 1950 東北人民政府農林部農業科学研究所 1953 東北行政委員会農業局東北農業科学研究所 1954 東北行政委員会農業部東北農業科学研究所 1958 中国農業科学院東北農業科学研究所 1959 吉林省農業科学院 (出典) 『吉林省農業科学院簡史』編輯委員会,1988,より作成. 1953 年 2 月に東北人民政府は再度東北行政委員会と称した .

中華人民共和国建国初期における

ミチューリン理論の学習とその影響

   東北農業科学研究所を中心に   

湯川 真樹江

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化処理をすることによって耐寒性の強い性質が生ま れることなどを発見し,その獲得形質は後世に伝わ ると主張した.この理論はルイセンコによって唯物 論と合流し,ソ連政府によって支持されていった. そしてミチューリン理論に敵対するメンデル・モル ガン理論は,1948 年の全ソ・レーニン農業科学ア カデミー 8 月会議によって徹底的に否定された.メ ンデル・モルガン理論においては,遺伝子が形質を 決定し,環境条件による獲得形質は遺伝しないと考 えられていたからである. 中華人民共和国は建国初期からミチューリン理論 の学習を勧め,1955 年には「ミチューリン誕生 100 周年紀念会」が開かれるなど,国家を挙げてミチュー リン理論を推進していた.しかしながら,ルイセン コの失脚や,各地の育種家による疑問の声が大きく なったことにより,中央人民政府は 1956 年 4 月か ら「百花斉放百家争鳴」運動を提唱し,8 月に「青 島遺伝学座談会」を開催した.これにより,ミチュー リン学派とメンデル・モルガン学派の学者同士の議 論が白熱したが,1957 年の反右派闘争によってそ の議論は中断した.そして再びミチューリン理論が 支持されはじめ,中国社会は大躍進へと進んでいく. こうしたミチューリン理論の流行について着目し た論文には,主に以下のものがある. 蒋世和は 1949 年から 1956 年までのミチューリン 理論の輸入と興隆,衰退までを追い,ソ連の影響を 分析した(蒋,1990).方舟子はミチューリン理論が 政治的に支持されたことにより,モルガン学派の専 門家が批判され,科学の衰退をもたらしたと主張し た.方はミチューリン学説の欺瞞性を指摘し,その 理論を唱える人々の内容が軽薄であったことを述べ た(方,2000).王海迪は 1949 年から 1952 年までの 間に,国家がミチューリン理論を通して如何に大学 に介入してきたのかを明らかにした(王,2015). とりわけ北京農業大学で起きた「農大問題」に着目 し,ミチューリン学会の初代会長であった楽天宇と同 大教授であった李景均の争いの結果,学科や授業の 開設と閉設には教育部の許可が必要になったことを 指摘した.李佩珊らは「青島遺伝学座談会」開催の背 景とその後の展開を詳細に述べ,中国における遺伝 学の議論がルイセンコの失脚など,ソ連の動向と密 接に関わっていたことを明らかにした(李ほか,1985). また日本では,壬生雅穂や柳下登などの研究があ げられる.壬生は長野県下伊那地方におけるミ チューリン農法の受容と衰退について検討した(壬 生,2008).柳下は日本ミチューリン会とその運動 の歴史を精力的に明らかにした(柳下,1977).なお, 日本ミチューリン会が 1957 年に東北農業科学研究 所や北京農業大学を訪問し交流を進めていたことは 興味深い(3) 一方で,当該期の東北農業科学研究所に着目する 研究には,山本晴彦の『満洲の農業試験研究史』が ある(山本,2013 年).山本は試験場の全体像を明 らかにし,日本人留用技術者の動向にも言及してい るが,ミチューリン理論には触れられていない. このように多くの先行研究は,ミチューリン理論 の受容と展開に着目しており,個別の研究所におい て如何なる影響があったのかはほとんど明らかにさ れていない.前述のとおり東北農業科学研究所は日 本人がその基礎を作り上げた施設を利用しており, 戦前においては満洲国の農業技術を先導する重要な 機関であった.1950 年代初頭,中国東北地域は中華 人民共和国とソ連の友好事業を体現するモデル地域 であり,ここでの変化は帝国主義の「残滓」を取り除 き,新たな社会主義建設の成功を示すうえで重要で あると考えられていた.ミチューリン理論の導入は, 農業面での革新技術として期待されていたのである.

1.中国におけるミチューリン理論の導入

と展開

本章では,中国におけるミチューリン理論の導入 と展開について説明する. 中国においては 1949 年に,石家荘にて中国米ミチュー邱 リン 学会が初めて組織された.学会の雑誌『米邱林 学会彙刊』はミチューリン理論の紹介や称賛が中心 で,理論を応用した論文はほとんどみられない.米 邱林学会の発起人となったのは,楽天宇(初代会長), 陳鳳桐,祖徳明などで,彼らは 1950 年代初頭,中 国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』にも積極 的に寄稿していた. 中華人民共和国建国初期,中央人民政府は冷戦下 においてソ連との密接な外交関係を構築し(「向ソ 一辺倒」),ソ連や社会主義国家との技術協力や人材 交流を積極的に進めた.先行研究によると,1950 年から 1956 年の間にソ連から中国に来た専門家の 数は 5092 人に達していたという(楊,衣,2010, 72 頁).中央人民政府や各機関はこうした専門家と 協力し,1951 年末から「三反五反運動」を進め, 旧社会の思想を一掃するために社会主義改造を行っ た.そして 1952 年には「知識分子思想改造運動」 が始まり,知識分子への批判がなされた.農業科学 技術分野においては,1952 年 6 月の『人民日報』 にてミチューリンを学び闘争を進めていくとの方針

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が明記され,モルガン学派は「反動的」で「唯心主 義的」であるとされた(執筆者不明,1952 年 6 月 29 日).さらに翌日には華北農業科学研究所副所長 であった戴松恩の自己批判文が掲載された(4).この 内容は,当時の科学者の認識を知る上で参考となる ため,以下にその一部を引用する. 今日,私はミチューリンの外側だけを被りなが ら,モルガン理論に基づいて研究しており,そ の危険性が大きいことについては想像できな かった.私はミチューリン生物科学を学びなが ら,育種試験にこだわり,栽培試験は重視して こなかった.また労働模範の経験を総括するこ ともなく,理論上の研究ばかり行っていた.そ のため,技術を導く力を失ってしまっていたの である.育種試験について,私は誤った交雑育 種法や純系分離法を用い,本来の性質を把握す ることもなく,その発育を管理することもな かった.また,植物の栽培条件にも注意せずに, 完全に機会主義の思惑のなかで育種試験をして いた(戴,1952,473 頁). この文章は,中国科学院が刊行する『科学通報』 にも掲載されており,技術者らにも自己批判を促す 目的を有していたとみられる.戴の文章からわかる ことは,技術者に求められたのは,メンデル・モル ガン理論を徹底的に批判し,ミチューリン理論を正 しく理解することであった.また育種試験の偏重が, 技術者の功名心を生み出すために,彼らのなかにあ る機会主義を批判すべきと考えられていた. 『人民日報』に掲載されたミチューリン関係の記 事には次の表- 2 に示すようなものがある. 『人民日報』の記事数から,ミチューリン理論は 1952 年と 1955 年に記事が多かったことが確認でき 表−2 『人民日報』におけるミチューリンに関する記事 作者 タイトル 日時 1 彭慶昭 茅草が小麦に成長―ミチューリン学派の紹介と読者の疑問に答える 1949.03.11 第 4 版 2 (執筆者不明) 華北農場等にてミチューリン学会を組織 1949.04.02 第 2 版 3 学燧 ミチューリン―偉大な自然の改造者 1949.07.16 第 4 版 4 陳鳳桐 中国の科学研究者は如何にミチューリンを学習すべきか 1950.01.25 第 5 版 5 祖德明,戴松恩,葉篤荘 ミチューリン紹介 1950.01.25 第 5 版 6 P. N. 雅可夫列夫,舒貽上訳 『ミチューリン選集』序 1950.01.25 第 5 版 7 葉篤義 書評 『原理と方法―ミチューリン 50 周年 業務の総括』張宗炳訳 北京師範大学刊行 1950 年 5 月初版 1950.07.12 第 5 版 8 (執筆者不明) スウェーデンで国際植物学大会が開催,ミチューリン学説が議論される 1950.07.30 第 4 版 9 呉征鎰 『ミチューリン選集』の紹介 1951.10.13 第 3 版 10 周建人 ミチューリンを学ぶ―ミチューリン逝去から 17 周年を紀念して 1952.06.07 第 3 版 11 (執筆者不明) 生物科学のミチューリン学説を堅持し闘おう 1952.06.29 第 3 版 12 戴松恩 私はミチューリン生物科学に対して誤った態度をとっていた 1952.06.30 第 3 版 13 高士其 微生物科学の中のミチューリン学説―ミチューリン誕生 97 周年を紀念して 1952.10.27 第 3 版 14 華恕 ミチューリンの種を伝える人々―ソ連農業専門家はこのように我々の業務を助けてくれる 1952.11.09 第 4 版 15 陳鳳桐 ミチューリン生物科学の旗は新中国の大地の上に立てられた―ソ連生物学者による我々への助力に感謝する 1952.12.14 第 3 版 16 (執筆者不明) 生物科学のミチューリン路線を貫徹し,反動的な唯心主義の影響を排除する―北京農業大学ミチューリン遺伝学講座 3 年間の業務総括 1952.12.26 第 3 版 17 裘維蕃 ミチューリン学説とソ連微生物学を学んで 1954.11.26 第 3 版 18 祖德明 創造性に満ちたミチューリン学説 1955.10.27 第 3 版 19 尼 · 齊津 イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリン―自然科学における唯物主義路線のために闘った戦士 1955.10.27 第 3 版 20 (執筆者不明) 我が科学界がミチューリン学説を学び成果を得た 1955.10.27 第 1 版 21 童欣 『ミチューリン全集』の紹介 1955.10.28 第 3 版 22 梁正蘭 我が国がミチューリン学説を運用して得た初歩的な成果 1955.10.28 第 3 版 23 (執筆者不明) 各界人民が初めてミチューリンの誕生 100 周年を紀念 1955.10.28 第 1 版 24 (執筆者不明) 首都にてミチューリン 100 周年紀念会が開催される―郭沫若と李四光がソ連科学院と農業科学院に祝賀の詞をおくる 1955.10.29 第 1 版 25 童第周 わが国の社会主義建設のために,ミチューリン学説を創造的に研究し運用しよう 1955.11.01 第 3 版 26 (執筆者不明) 首都開催のミチューリン誕生 100 周年紀念会が閉幕 1955.11.01 第 1 版 27 (執筆者不明) ミチューリン学会西安分会が「遺伝物質の基礎」問題について熱く議論 1956.11.14 第 7 版 (出典)『人民日報』より作成.

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る.当時の研究によると,1949 年から 1955 年 7 月 までの 6 年間でミチューリン理論に関する書籍は 123 種,うち 1949 年から 1953 年までに 84 種,1954 年に 27 種で 9 万 720 部が刊行された.また 1955 年 1 月から 7 月までに 12 種,5 万 3350 部が刊行された. 123 種の書籍のうち,多くはロシア語版を翻訳した ものであった(朱,1955).そして 1955 年の時点では, 中国米邱林学会の分会が各省に設置されていた.

2.東北農業科学研究所におけるミチュー

リン理論の導入

本章では,ミチューリン理論がどのように東北農 業科学研究所に導入されたのかを明らかにしたい. 東北行政委員会農業部資料室は 1949 年 4 月に雑 誌『東北農業』を刊行した.この雑誌の目的は東北 の農業政策や,研究機関の技術と知識などを農業関 係者や技術者に伝達することであった.創刊から 5 か月後(1949 年 9 月)に『東北農業』で初めてミ チューリン理論が紹介され,同年 11 月にミチュー リン特集が組まれた.『東北農業』において,ミチュー リンと題するタイトルは 6 期から 17 期までの間 (1949 年-1950 年)に,17 回掲載されており,こ の時期に理論の紹介が盛んであったことがわかる. 1951 年以降ではミチューリン理論の紹介はなくな り,かわりにミチューリン理論に関する栽培法や増 産経験,ロシアの農業紹介などの記事がみられた. 中国米邱林学会旅大分会は 1950 年 10 月 23 日に正 式に成立しており,その組織活動は東北にまで波及 していた. ソ連の専門家は,中国東北地域においても大きな 影響をもたらしていた.1951 年 8 月にソ連の専門 家イワノフ(А. П. Иванов/中国語表記は,伊萬諾夫) らは『東北農業』に「農作物の選種方法と品種の特徴」 を初めて寄稿した(伊萬諾夫ほか,1951,7 頁). この時期には「群衆性良種評選運動(大衆による良 種の評価,選出運動)」が全国的に行われていたため, 東北農業科学研究所の技術員は農村に行き,品種の 検査と良種選択のための指導をしていた.イワノフ の寄稿文はこの運動を意識したものと思われる. 1952 年 7 月には,イワノフが実際に東北農業科 学研究所を訪問した.「中央農業技術考察団」はイ ワノフを顧問として,中国科学院,華北農業科学研 究所,北京農業大学などが共同で立ち上げた考察団 であった.この考察団は,1952 年 4 月下旬から 8 月上旬まで河南,武漢,広東,江西,浙江,上海, 南京,山東,山西,河北,綏遠,瀋陽,公主嶺,黒 龍江,遼東など中国各地を訪れていた(執筆者不明, 1952,656 頁).東北農業科学研究所にて,イワノ フは育種について次のように述べている. 帝国ロシアの時代,わが国の生物学界はメンデ ル・モルガン学派が優勢を占めていて,当時の 良種繁育事業は現在の中国の状況に似ていた. 1935 年にようやくミチューリンへと向かって いき,1948 年 8 月会議以降,ついにメンデル・ モルガン学説を徹底的に覆した.そしてあらゆ る生物科学と農業科学部門はミチューリンを求 めるようになり,育種の理論と実践内容が変化 し,農業人材の育成課程についても再度審査が 行われるようになった.1948 年に農業生物学 の書籍が新たに出版され,ソ連の多くの学者が 関連研究に着手したことは大きな到達点であっ たといえる.このわずかな期間において,ミ チューリン学説は理論上においても実践上にお いても大きな成功を得たのである.ミチューリ ン生物学は真正なる科学であり,人類が自然に 打ち勝ち切り開いた広大な前途なのである.そ してソ連人民が偉大なスターリン改造自然計画 を実現するのをサポートし,彼らにも豊富な生 産物をもたらしてくれる.社会主義から共産主 義社会へと向かって,新たな社会制度が新たな 科学を生み出していくのである(東北農業科学 研究所編,出版年不詳,14-15 頁). イワノフはメンデル・モルガン理論を否定し,ミ チューリン理論を「真正なる科学」と述べていた. また,「新たな社会制度が新たな科学を生み出して いく」点を指摘し,社会主義に合致した理論である ことを主張した.イワノフはさらに研究所の改善点 を次の表- 3 に示すように指摘した. イワノフは,東北農業科学研究所に対し育種事業 の偏重を指摘し,栽培試験の重視を要求していた. 総じて,ミチューリン理論に基づいていない研究内 容を厳しく批判したのである.またこの時,イワノ フに同行した東北人民政府農業部副部長の楊顕東は, 研究所の育種事業が業務の 3 分の 2 から 4 分の 3 を占めていることを指摘したうえで,次のように意 見していた. 我々は「育種万能」の見方に反対する.増産も 育種,病気を治すのも育種,耐乾性や耐寒性を

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備えるのも育種が解決するとされている.これ では技術の改良が全く軽視されてしまう.大部 分の時間や労力を育種事業に費やし,また何の 結果も出すことができていない.これは我々が かつて有していた「育種至上」主義の誤りであ る(東北農業科学研究所編,出版年不詳,192 頁). このように農業行政に関わっていた楊も,東北農 業科学研究所が育種事業に偏りすぎていると批判し ていた.彼は元々育種事業の奨励を行う立場であっ たが,この場で過去の認識を否定し,自ら反省の言 葉を述べていたのは興味深い. さらにイワノフは,ミチューリン理論の習得には 唯物弁証法の学習が必須であることを主張し,技術 者に「新たな宇宙観」の確立を要求していた(東北 農業科学研究所編,出版年不詳,201 頁).イワノフ の指す「新たな宇宙観」の詳細は不明だが,彼は生 物が遺伝子ではなく環境によって変化していくとい う認識を基軸に,世界(宇宙)の現象を理解すべき であると考えていたとみられる.イワノフはミチュー リン理論をもって農業問題を解決し,産量を増やす ことを主張していた.こうした動きと連動して,各 地では農民の増産経験が積極的に紹介されており, 生産現場と密接に関わることが求められていた. イワノフを伴った中央農業技術考察団が現地を考 察した後,各地からの要望を受けて中央人民政府農 業部は,1952 年 10 月から 1953 年 2 月までの間に「米 邱林農業植物選種及良種繁育講習班(ミチューリン 農業植物選種及び良種繁殖講習班)」を設けた.イ ワノフらソ連の学者はこの講習班に招聘され,講演 した.また,東北農業科学研究所の技術員も集団で 北京に赴き,講習班で学んだ. この講習班では通訳時間を除く 100 時間の講義 のほかに,座談会,小グループでの討論会,ソ連の 「ゼミナール学習制度」によって系統的に行われて いた.そこでの成績は,参加者が唯物弁証法を受け 入れたいという思いの強さの程度によって決定した という(中央農業部米邱林農業植物選種及良種繁育 講習班編訳,1953,1-2 頁).講習班に参加した人々 はミチューリン理論を学ぶと同時に,「資産階級的 偽科学観点」を批判した.さらにメンデル・モルガ ン理論などの「反動学説」の影響に対して厳しく自 己批判を行った(執筆者不明,1953,100 頁). 前述のように,従来の遺伝学であったメンデル・ モルガン理論を学んできた技術者にとって,ミ チューリン理論の受容は価値観の大転換であった. 政府の官僚や一部の技術者がミチューリン理論を熱 烈に支持したのは,それがソ連由来で,優生学を批 判していたことが主な理由であった.優生学はドイ ツのファシスト主義を発展させ,また帝国主義の植 民地統治を肯定するものとみられていた.その優生 学の影響を受けたのがメンデル・モルガン理論で, 遺伝子が代々後世に引き継がれていくことで人々の 優劣(ひいては貴賤)を決めると考えられていた. そのため社会主義国家であるソ連や中国は,ミ チューリン理論を推進したのである.

3.東北農業科学研究所における変化

東北農業科学研究所では 1950 年代,ロシア語学 表−3 イワノフによる東北農業科学研究所の改善点 指摘内容 1 実践からかけ離れている 2 資産階級の偽科学を応用理論の根拠にするのは誤っている.我々は必ず生産実践と密接に関連させ,前進を阻害する偽科学を放棄しなければならない 3 先進的な農業科学の研究が不十分である 4 栽培技術を重視せず,育種事業に偏っている 5 外国からの品種を重視しすぎており,国内の地方品種を軽んじている 6 群集の選種運動が科学的に指導されていない 7 実地試験の方法が不正確で,試験結果の信頼性が低下している 8 良種繁育事業が進められていない 9 豊産試験が重視されておらず,先進的な経験が吸収されていない.いまだに名実ともなった先進農場になっていない 10 各部門の事業が相互に協力できていない 11 病虫害防止事業が「おさめる」ことに偏ってしまっている 12 草地の利用について改善すべきである 13 青年同志に素養を身に着けさせ,先進的科学理論によって武装すべきである,など 注)東北農業科学研究所編,出版年不詳,64-70 頁より作成.

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習講座のほかに,ソ連農業科学分野の翻訳,出版, 図書の購入に力を入れ,所内には翻訳課も設置され ていた(『吉林省農業科学院簡史』編輯委員会編, 1988,26 頁,および陳,1950,492 頁). 東北農業科学研究所には 1950 年からソ連の専門 家が,1953 年ごろから北朝鮮,ブルガリア,チェ コスロバキアなど社会主義国家の技術者や学生が来 訪していた(『吉林省農業科学院簡史』編輯委員会編, 1988,14,26,39 頁)(5).1956 年までにソ連の技 術者が 4 回,その他の社会主義国の技術者や学生が 7 回以上訪れている.また研究所からもソ連などに 幹部や技術員を派遣しており,社会主義国家間の技 術者交流が盛んであったことがわかる.かつて,研 究所では国民政府管理期にアメリカ合衆国との交流 が行われていたが,建国初期においては管見の限り みられない.そして,1953 年には留用者が大量に 帰国していた.上の表- 4 は日本人留用技術者の職 位と帰国(または残留)時期についてまとめたもの である. 日本人留用技術者は 1950 年ごろより各部門の副 主任以上の高待遇を受けていたが,そのわずか 3 年 後にはほとんどが帰国していた.前述のとおり, 1952 年には「知識分子思想改造運動」による技術 者批判がなされ,1953 年ごろにはミチューリン理 論が流行していた.この時期の日本人の帰国は,日 中間の取り決めによる集団引揚げにあわせてのもの ではあるが,研究所の方針において元満洲国立農事 試験場の日本人技術者の知識が必要でなくなった面 も否定できない.またこの時期,混乱期に受けてい た農業被害も満洲国期の水準まで回復していた.こ うした要素が重なり合ったことにより,政府から留 用解除の許可が出され,日本人技術者が帰国したも のと考えられる. また研究所では,イワノフらに厳しく批判されて いた育種事業を完全に中止することはなかったが, ミチューリン理論が推奨する春化,照光試験をあわ せて行っていた(吉林省農業科学院科技情報研究室, 1980,45-46 頁). そして 1955 年には北京で「ミチューリン誕生 100 周年紀念会」が開かれた.紀念会には各界人士が祝 電を送るなど,ミチューリン理論は国家的な盛り上 がりを示していたが,1956 年 4 月に「百花斉放百 家争鳴」運動が始まったことで,これまで沈黙して いた技術者らは一転して自らの意見を公の場で表明 した. 同年 8 月に開かれた「青島遺伝学座談会」では, 東北農業科学研究所の徐豹がミチューリン学派の立 場から,小麦の生活条件を変えて得られた特徴が第 4 代まで遺伝したことを報告していた.しかしなが ら政府公認の「自由」な議論が認められていたこの 座談会では,徐の報告に対して批判的な意見も出さ れた.ある者は,彼らが採用した実験材料が純系で はなかったために,多数が枯死し少数のみが生存し たのは,品種選択の作用が表れていること,ある者 は,ミチューリン学派は獲得形質が遺伝すると考え るが,すべての植物の獲得形質が遺伝するとは限ら ないことを指摘していた(呂,1956 年 8 月 21 日).「青 島遺伝学座談会」においてミチューリン理論に批判 的な技術者は,ミチューリン理論が考える獲得性質 の遺伝は,他の要素が関係したものであると考えて いたのである.彼らは染色体に関する研究の蓄積を 重視しており(呂,1956 年 8 月 19 日),ソ連への「盲 目的」な追従やアメリカなどの西側国家で誕生した 科 学 を 排 斥 す る こ と に 反 対 し て い た( 李 ほ か, 1985,48 頁). さらに,東北農業科学研究所では 1950 年代後半 から,育種事業の「成果」である水稲品種が複数誕 生していた(湯川,2013).水稲「公交 10 号」は 1950 年に巴錦と青森 5 号を用いて交雑,育成した 新品種であったが(6),そのほかにも外国(日本)由 来の品種を用いて新品種が生み出されていた.これ らの品種は従来の奨励品種の能力を上回り,東北地 域の農業発展に寄与するものと期待されていたので 表−4 日本人留用技術者の職位と帰国 技術者名(所属・身分/就任年) 帰国年ほか 板野新夫(農芸化学系主任/ 1950 年) 「新中国の増産に尽す」ために帰国せず.1956 年に転出 石山哲爾(病虫害系副主任/ 1950 年,同主任 1951 年 1 月) 帰国(1953 年 6 月) 土山哲夫(病虫害系副主任/ 1950 年) 帰国(1953 年 6 月) 石川正示(農産系副主任/ 1950 年) 帰国(1953 年 6 月) 永野義治(農産系副主任/ 1950 年) 帰国(1953 年 6 月) 大平哲二(図書室副主任/ 1952 年) 帰国(1953 年 6 月) (出典)『吉林省農業科学院簡史』編輯委員会編,1988,199 頁,および山本,2013,174 頁より作成.

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ある.研究所の呉鴻元は,1949 年から毎年行われ た水稲新品種の試験結果を具体的に紹介するという, い わ ゆ る 従 来 の 研 究 内 容 を 発 表 し て い た( 呉, 1958 年,1 頁)(7).こうした状況は,技術者らが個々 の考えに従い研究を進めていたことを示すとみられ る.それらの「成果」は東北農業科学研究所刊行の 『東北農業科学通報』において発表されており,彼 らはミチューリン理論に限定されない専門的な知識 の交流を求めていたのである(8)

まとめ

以上本稿では,東北農業科学研究所におけるミ チューリン理論の学習とその後の状況について考察 した.ミチューリン理論は 1949 年以前に中国に輸 入され,政府とソ連の専門家,中国米邱林学会など によって積極的に推進されており,中国東北地域で は 1949 年にすでにミチューリン理論が紹介されて いた.こうした動きは中ソ蜜月関係のなかでおきた 「向ソ一辺倒」政策の影響とみられる.この時期, 中国にはソ連の専門家が多数訪れており,イワノフ が東北農業科学研究所を訪れたのは 1952 年夏で あった.イワノフは研究所の技術員に新たな「宇宙 観」の確立を求め,また,東北人民政府農業部副部 長であった楊もこれまでの育種事業を否定し,栽培 試験に重点を置くべきであると主張していた.彼ら はミチューリン理論に沿わない研究を厳しく批判し たのである. 1952 年に北京で行われた講習班では,東北のみ ならず各省の技術者が一堂に集い,ミチューリン理 論を学んだ.彼らはそこでメンデル・モルガン理論 を否定し,自己批判を行った.そして「向ソ一辺倒」 政策の推進とミチューリン理論の学習によって,研 究所に以下の変化がみられた.一つ目はソ連の学術 書を読むための学習会の開催や翻訳課の設置であっ た.二つ目は社会主義国家間の技術者交流の増加で あった.三つ目は日本人留用者の大量帰国であった. そして四つ目は春化,照光試験の開始と拡大であっ た.こうした変化は,中華人民共和国が社会主義国 家建設を進めるなかで,研究所全体が方向転換を行 う重要な契機であったということができる. また,東北農業科学研究所では,徐豹のようにミ チューリン理論に熱心な者がいた一方で,依然とし て呉鴻元のように独自の専門研究を進める者もいた. 1950 年代後半には外国(日本)由来の品種を親に 用いた水稲交雑育種の「成果」が生み出され,呉は これらの品種の特徴を『東北農業科学通報』におい て報告していた.『東北農業科学通報』は東北各省 の技術者の要望によって刊行されており,彼らはミ チューリン理論に限定されない専門的な知識の交流 を求めていたのである. こうした技術者の活動は,後の反右派闘争によっ てさらに批判されることになるが,それについての 分析は多岐にわたるため,別稿にて検討したい. ⑴ 中華民国国民政府の東北特派員であった潘簡良に よる評価.潘は 1946 年 6 月に満洲国立公主嶺農 事試験場の接収に携わった.「35 年東北区特派員 辦公處経費表報」,『農林部檔案』,『農業復興委員 会』,中央研究院近代史研究所檔案館蔵,20-16-242-03. ⑵ 吉林省農業科学院は,2004 年に吉林省政府と中 国農業科学院に委託されて「中国農業科技東北創 新中心」としての役割が付与された. ⑶ 松浦は日本ミチューリン学会訪華代表団団長とし て,1957 年 5 月に北京農業大学で講演した(松浦, 1957). ⑷ 戴松恩は 1931 年に南京金陵大学を卒業し,1936 年にアメリカのコーネル大学にて博士学位を取得 後,中華民国の中央農業試験所にて勤務した. 1955 年には中国科学院生物学部委員に選任され ている(楊,2017). ⑸ 他にも,ミチューリン理論の推進に積極的であっ た北京農業大学と交流が複数回行われていた. ⑹ 「公交」は公主嶺の交配種というような意味であ ろう. ⑺ 興味深いことに呉は,1950 年に「華北農業技術 会議」に参加し,東北農業科学研究所にミチュー リン学説の推奨をしたことがあった(呉,1950 年, 1 頁). ⑻ 『東北農業科学通報』は 1955 年 6 月に刊行され, 1958 年末に停刊した(『吉林省農業科学院簡史』 編輯委員会編,1988,33 頁). 引用文献 (日本語) 壬生雅穂(2008)「下伊那地方におけるミチューリン 農法の受容と衰退」『飯田市歴史研究所年報』6 号. 柳下登(1977)「日本ミチューリン会とその運動の歴 史」『日本の科学者』12 巻 3 号. 山本晴彦(2013)『満洲の農業試験研究史』農林統計 出版. 湯川真樹江(2011)「満洲における米作の展開

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1913-1945 -満鉄農事試験場の業務とその変遷」『史学』 80 巻 4 号. 湯川真樹江(2013)「中国東北地方における「満洲国」 の農業遺産接収過程と水稲品種の変遷―中国共産 党による接収と再建を中心に―」『社会システム 研究』26 号. (中国語) A. п. 伊萬諾夫,и. A 席佐夫合(南文元訳)(1951)「農 作物的選種方法和品種特徴」『東北農業』29 期. 中央農業部米邱林農業植物選種及良種繁育講習班編訳 (1953)『米邱林遺伝選種及良種繁育学』中国科 学院,第1集. 戴松恩(1952)「我対米邱林生物科学採取了錯誤的態 度」『科学通報』7 期. 呉鴻元(1950)「介紹華北農業技術会議試験研究小組 会議結果」『農業技術通訊』1 巻 1 期. 呉鴻元(1958)「東北的水稲新品種」『東北農業科学 通報』2 号. 方舟子(2000)「“从絶不推退却” 到 “百家争鳴”―遺伝 学痛史」『書屋』11 期. 吉林省農業科学院科技情報研究室(1980)『吉林省農 業科学院 科技成果匯編』出版社不明. 『吉林省農業科学院簡史』編輯委員会編(1988)『吉 林省農業科学院簡史』吉林省農業科学院. 王海迪(2015)「国家権力如何介入学術―米丘林遺伝 学在新中国的興起(1949-1952)」『教育学術月刊』 7 期. 李佩珊 , 孟慶哲 , 黃青禾 , 黃舜娥(1985)「青島遺伝学 座談会的歴史背景和基本経験」『自然辯証法通訊』 4 期. 呂新初(1956 年 8 月 19 日)「在青島挙行的遺伝学座 談会 討論無性雑交能否産生雑種問題」『人民日 報』. 呂新初(1956 年 8 月 21 日)「獲得性能不能遺伝 遺 伝学座談会初歩結束対這個問題的討論」『人民日 報』. (執筆者不明)(1952 年 6 月 29 日)「為堅持生物科学 的米邱林方向而闘争」『人民日報』. (執筆者不明)(1952)「中央農業部技術考察団考察報 告」『科学通報』10 期. (執筆者不明)(1953)「“米邱林農業植物選種及良種 繁育講習班” 勝利結業」『科学通報』5 期. 蒋世和(1990)「“米邱林学説” 在中国(1949-1956): 蘇聯的影響」『自然辯証法通訊』12 巻 1 期(総 65 期). 朱唐(1955)「米邱林学会在中国的伝播」『農業科学 通訊』11 期. 陳在権(1950)「科学界動態―東北農業科学研究所工 作報導」『科学通報』第 7 期. 東北農業科学研究所編(出版年不詳)『中央農業技術 考察団 対東北農業試験研究工作提供的意見(内 部参考材料)』.出版は 1953 年頃とみられる. 松浦一(1957)「日本米丘林生物科学運動的情況」『生 物学通報』8 期. 楊延霞(2017)「戴松恩:献身祖国大農業」『今日科苑』 9 期. 楊志剛主編(2008)『吉林省農業科学院志』吉林科学 技術出版社. 楊慧,衣保中(2010)「建国初期蘇聯対我国東北地区 農業技術援助的研究」『農業考古』4 期. (筆者・中央研究院近代史研究所(台湾)訪問学人)

参照

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