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森安孝夫著『東西ウイグルと中央ユーラシア』

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書 評

森安孝夫著『東西ウイグルと中央ユーラシア』

橘堂 晃一

本書は,中央ユーラシア史研究を牽引してきた森安孝夫氏の処女論文から最新の論考までを収め た,まさしく集大成といえる論文集である。収録された論考はいずれも中央ユーラシア史に新たな 視点や枠組みを提供するものばかりである。扱われる地域,テーマは多岐にわたり,そして資料言 語も突厥語,ウイグル文字の古テュルク語資料を中心に漢語,ソグド語,チベット語など,中央ア ジアから出土した資料が,ほぼ網羅されていて読む者を圧倒する。そしてその浩瀚な内容は本書の 構成からみてとれる。 序文 第一篇 東ウイグル・唐・吐蕃鼎立時代篇 第二篇 西ウイグル・敦煌王国・河西ウイグル時代篇 第三篇 シルクロード篇 第四篇 マニ教・仏教史篇 文献目録 索引(総合索引,アルファベット索引,出土文書索引) 以上の四篇に19 論考が収められる。本書に収載されなかった論文には , 本書に相応しいものも 多くあり,菊判で842 頁という分量から,著者がその選択と分類に腐心したであろうことは容易に 想像できる。 本書所収の論考は,原文主義を旨とするが,出版にあたって増補したものやフランス語,英語で 行われた報告原稿の一部を日本語に翻訳したもの,あるいは複数の論考をまとめて新たに書き下ろ したものも含まれる。また原註とは別に「補記」を脚註に示し,さらに論考ごとに「書後」が加え られており,最新の学説,研究動向を知る上で有益である。 ところで評者は著者と同じく古代ウイグル語資料を扱うが,とくに仏教文献を専門としており, 本書全体の価値を正しく伝えることは評者の能力を超えている。したがってここでは第四篇「マニ 教・仏教史篇」に限って評することを諒解されたい。すでに歴史学の立場からの書評は,山下将司 氏によって提出されているので,そちらも参照されたい(『唐代史研究』18 号,2015 年 8 月,170-179 頁)。 さて周知のとおり東ウイグル帝国は牟羽可汗の治世中にマニ教を受容した。そして帝国が瓦解し た後,天山山脈東麓に移住し,そこで仏教へとシフトする。第四篇に配当された論考は,マニ教か

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ら仏教へという流れがわかるように配列されている。評者が古代ウイグル語の仏教文献を読む時, 頭の片隅にあるのは著者の次の言葉である。「「ウイグル = マニ教史」の研究と題する本稿が,実は 「ウイグル仏教史」としての側面も持っている」(「ウイグル = マニ教史の研究」『大阪大学文学部紀要』 第31・32 巻合併号,1991 年,5 頁)。このことを如実に物語るのが,著者が提唱する仏教 = マニ教 二重窟(寺院)の存在である。マニ教から仏教へという流れが,連続する一つの線ではなく,重層 的に折り重なった現象として把握されるべきことを提唱するものであろう。本篇に通底している観 点であることは言うまでもない。以下,第四篇に収められた6 論考の内容を紹介し,評者が気づい た点を指摘しておきたい。 ・論文14「東ウイグル帝国マニ教史の新展開」 近年,東ウイグル = マニ教史に関する新資料が陸続と紹介されるに及んで,これまでの学説を見 直すべき時期を迎えているという。そこで著者は,まず研究史を俯瞰し,東ウイグル = マニ教史の 重要なトピックについて再考する。 まず東ウイグル国第3 代可汗,牟羽可汗のマニ教改宗時期が取り上げられる。従来,シャヴァンヌ, ペリオ両氏によって提唱された762/763 年が定説であったが,L. クラーク氏は,トルファン出土マ ニ教冊子断簡であるU IIIa(T II D 180)に uluγ bašlaγ atlïγ yïlnïng ikinti yïlïnta「偉大な始原という名 を持つ年」とあるのを上元二年(761 年)とみて,この年をマニ教公伝とみる説を出した。著者は, クラーク氏が論拠として挙げる資料を批判的に検証しつつ,763 年以前に改宗していたとする考え には同調する。ただし根拠が弱いことは著者も認めている。

次 に 近 年P. ツィーメ氏によって発表されたモンゴル時代のウイグル語マニ教史文書断簡 (81TB10:06-3a)が紹介される。著者は,その 4 行目を uč mošak-ni il orqun-qa öḍünü ïdtï-lar(ウッチ の慕闍(možak)をオルホン国に招請し終えた)と読み,マニ教東方教区の中心地がウッチ,即ち 現ウッチ = トゥルファン(温宿),もしくはカラシャールを中心とする「四トゥグリスタン」にあ ったと推測する。なお,81TB10:06-3a について吉田氏はカラバルガスン碑文の漢文面と同じ事件 を記した一節を見出している(吉田豊「新出のマニ教絵画を理解するために:教義の概説と東方マ ニ教史概観」『中国江南マニ教絵画研究』臨川書店,2015 年,41-42 頁)。 最後に「ブクハン問題」が取り上げられる。ブクハンとはモンゴル時代の東西資料に残るウイグ ルの始祖伝説である。ブクハンを牟羽可汗と見る説は,安部健夫氏によって斥けられ,懐信可汗説 が定説となっていた。ところがクラーク氏が牟羽可汗説を再燃させている。これに対し著者は,ク ラークの論拠に無理があることを示した上で,ボクグ可汗とは牟羽と懐信を合体させたイメージで あると結論する。 ・論文15「西ウイグル王国時代のマニ教隆盛 ―マニ教寺院経営の実態―」 本論文は,黄文弼が発掘した「マニ教寺院経営令規文書」の訳注研究である。P. ツィーメ氏によ る部分的な解読,耿世民氏による全テキストと翻訳が既に発表されていたが,表装段階で誤った復

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元のあることが確認され,著者によって正しく復元され,文書に対する理解が飛躍的に進展した。 テキストと翻訳は本稿が最新のものとなるが,訳注については『ウイグル = マニ教史の研究』(1991 年)とそのドイツ語訳Die Geshichte des uigurischen Manichäismus an der Seidenstraße. –Forschungen

zu manichäischen Quellen und ihrem geschichtlichen Hintergrund. (Studies in Oriental Religions 50),

Wiesbaden, 2004. を参照する必要がある。

本文書は,10 世紀中葉,西ウイグル王国政府がマニ寺に宛てて発布した公文書であり,著者は これを「マニ教寺院経営令規文書」と定名する。その目的は経済活動を許されないマニ教寺院と僧 侶に代わり,国家が財政と経営を担当し,寺院を保護することであったとみる。

この文書の中で顕著な働きをしているのが,iš ayγučï と xroxan と呼ばれる職掌である。iš ayγučï の原義は,古代ウイグル語で「仕事や用件を命令する人」であり,著者はこれを「幹事」と翻訳する。 一方のxroxan の原語は中世ペルシア語 xrwh(x)w’n「呼び声を響かせる者、説教師、伝道師」であり, 『摩尼光仏教法儀略』で「教道首」と説明される「呼嚧喚」にあたる。xroxan が固有名詞をもって

表記されていないのに対し,幹事は固有名詞も併記されていることから,著者は,幹事を政府から 派遣された役人とみる。iš ayγučï と xroxan はマニ寺に配当される食糧,衣類,そして田畑の管理など, 日常生活全般に関する事柄を運営する役割を担っていた。 テキスト83 行目にみえる songun を森安 1991(82 頁)では葱葷の音写語とみて,これを『新唐書』 などで,日が暮れてから水を飲み,葷を食べると伝えられるマニ教徒たちの食習慣と対比する点は 興味深い。ただし唐代より葱は仏教寺院経済を支える商品として栽培されていたという指摘もあり (岩本篤志「貝葉形本草考―敦煌における本草と社会」『唐代の医薬書と敦煌文献』角川学芸出版), マニ教寺院でも商品作物として栽培された可能性も考慮しておく必要があるだろう。つづく文章で 耕地の有効活用を促している点とも符合する。 次に著者は,「令規文書」からわかる実際の職掌に基づき,「法儀略」第五節「寺宇儀」の再解釈 と復元を試みる。「寺宇儀」には讃歌頭たる阿拂胤薩(< Mid. Pers. āfrīnsar)と呼嚧喚と月交替制で 供物や布施を管理する遏換健塞波塞(< Mid. Pers. *aruwānagān ispasig),の三人が寺の尊首によっ て任命されると記されている。しかし「令規文書」の呼嚧喚の職掌は,「法儀略」の遏換健塞波塞 の職掌に一致しており,両者が混同されていると分析する。その理由は遏換健塞波塞の業務が呼嚧 喚に一本化されていて,「法儀略」では,こうした実態が影響して,書写の段階で錯誤があったの ではないかと推測している。 また,マニ寺の規模についても,支給される小麦の分量から計算して,少なくとも200 人近くの マニ僧がいたと推測する。著者は,これにふさわしい遺構として高昌故城の遺跡K を候補として 挙げている。 ところで令規文書の末尾には,医者であるyaqšï ačari(=薬師阿闍梨)ら仏僧がマニ寺に常駐す るよう指示されている。いささか奇異に感ずる令規ではあるが,そもそも仏教において医学は僧 侶が身に付けるべき学問(五明)の一つとされており,医方に明るい僧がいることに何ら不思議 はない。ウイグル語の医学文献の存在が傍証となる(P. Zieme: Notes on Uighur Medicine, Especially

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on the Uighur Siddhasāra Tradition. In Asian Medicine 3, 2007, 308-322;Cf. D. Matsui: A Sogdian-Uigur Bilingual Fragment from Arat Collection.『語言背後的歴史:西域古典語言学高峰論壇論文集』上海, 2012 年,123 頁)。西ウイグル国におけるマニ教寺院と仏教寺院の交錯する存在形態を示唆していて, 評者には特に興味深く感ぜられた。 ・論文16「西ウイグル王国におけるマニ教の衰退と仏教の台頭」 著者の見通しによると,マニ教は10 世紀中葉までは国教としての地位を保っていたが,10 世 紀後半には仏教と拮抗するようになり,11 世紀に入るとしだいに仏教に圧倒されて衰退していく。 ドラスティックな改宗を想定する研究者もいるが,著者は共存時代を経て,緩やかに仏教にシフト すると想定している。11 世紀半ばのマニ教徒の活動を示す資料として,ウイグル語マニ教写本(T II D 171)が挙げられる。 本書の口絵を飾る美麗なT II D 171(MIK III 198)の年代は,これまで 840 年の東ウイグル帝 国崩壊直後と見る説と西ウイグル国時代(11-12 世紀)と見る二つの説があった。当該写本に は,マニ教東方教区の最高責任者である大慕闍(možak)の名としてマール・ワフマン・ヒヤー ル・ヤズドと読まれてきた箇所がある。著者はこの人名をマール・ワフマン・フワルシェードMR WXMNX(WRXŠ)Y(D) と読み改めた。著者の読みの正しさは,本書所収の写本の拡大写真によって 確認できる(595 頁)。 このように読むことにより,中世ペルシア語讃美歌(MIK III 8259)とキルギス国のタラス河上 流域のクランサイ渓谷とテレクサイ渓谷で発見された岩壁銘文群に現れる同一名の慕闍を同一人物 と見ることが初めて可能となった。岩壁銘文の一つはヤズデギルド暦で「394 年,ネズミ歳,12 番 目の月」と記されているので,一連の銘文も西暦1025 年頃に比定される。したがって同一人物の 名を持つT II D 171 の年代も 11 世紀前半と確定する。 また,本文書に現れるアルグ国(arγu uluš)とは西部天山北麓の地域を指しており,カラハン朝 領内にマニ教徒の親ウイグル勢力が存在していたことを示しているという。この勢力を著者は,東 ウイグル帝国が四散する過程でセミレチエに逃れていった集団の末裔とみる。 マニ教 = 仏教共存時代(11 世紀前半),マニ教は生き残りを図り,様々な方策を講じたようである。 例えば,仏典特有の貝葉形式のフォーマットを持つマニ教写本は,仏教へのすり寄り,そして仏教 画をマニ教画に仕立て直した幡(MIK III 4606)は対抗措置を示しているという。 なおT II D 171 のテキストと翻訳の一部は,付録として本書に採録されているが,全体について は『ウイグル = マニ教史関係資料集成』(『平成26 年度近畿大学国際人文科学研究所紀要』2015 年 3 月)を参照する必要がある。 ・論文17「トルコ仏教の源流と古トルコ語仏典の出現」 本論文は,マニ教から仏教へと改宗したウイグルが,仏典を母語である古トルコ語に翻訳し始め たのは何時頃か,そしてどこの仏教がウイグルに影響を与えたのか,という基本的な問題に明確な

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筋道を提示する。 ウイグルが仏教を受容する以前,『北斉書』によると突厥の佗鉢可汗(572-581)が仏教に帰依し たことを示す記事がみえる。それを裏付けるようにブグト碑文にソグド語で「新しい僧伽藍を建て よ」と読まれる一節がKljaštornyj と Livšic により報告された。これらは突厥第一帝国における仏教 崇拝が存在したことの証左とみなされ,それを仲介したのがソグド人であったと想定された。これ を承けてJ. P. ラウト氏は,言語的に古層に属するウイグル語(ñ/n- 言語)仏教文献に使用される仏 教用語がソグド語を仲介した形式であることに注目し,ウイグル仏教とはソグド人によって伝えら れた,突厥時代の仏教の伝統の上に成立したものと考えた。このラウト氏が提唱したシナリオを「ソ グド仮説」という。 これに対して著者は,古トルコ語(ウイグル語)仏典を生み出した源流はトカラ仏教であるとし, 「トカラ仮説」を提唱する。そのアウトラインは本書未所収「チベット文字で書かれたウイグル文 仏教教理問答(P. t. 1292)の研究」(『大阪大学文学部紀要』第 25 巻,1985 年)で示される。 著者は「ソグド仮説」への反証として次の2 点を指摘する。まずウイグル語仏典で用いられる いくつかの基本的な仏教用語,すなわちサンスクリットśikṣāpada に淵源をもつ čxšapt(戒律),ギ リシア語nomos に遡る nom(法),そして nizvani(煩悩)は,それぞれマニ教ソグド語の čxš’pδ, nwm,nyzβ’ny に由来することを指摘する(本書では waxšik(聖霊)も新たに加えられる)。つま りウイグル語の宗教概念や文化語彙を表す用語はマニ教ソグド語を土台としていることを主張す る。 第二に『北斉書』の記録やブグド碑文が突厥の仏教伝播あるいは信仰を証言するものであったと しても,突厥の仏教信仰は一時的なものであり,またそれはソグド仏教ではなく,中国仏教もしく はインド仏教であったとみるべきと主張する。そもそもソグド地域に仏教が根ざしていたことを示 す確実な記録は存在しない。ウイグル語で僧侶を表すtoyïn は,5-7 世紀の敦煌やトルファンの漢 文仏教文書に頻出する「道人」に由来し,その時期に中国仏教を受けて成立した語彙であろうとす る。なお,補註には示されていないが,ブグド碑文の問題の一句は,著者自身が主宰した調査によ り「法の石」と訂正されている。これが縦書きのブラーフミー文字の銘文も刻したブグド碑文その ものを指すことは,ほぼ確実である(吉田豊・森安孝夫「ブグト碑文」『モンゴル国現存遺跡・碑 文調査研究報告』中央ユーラシア学会,1999 年,122-124 頁)。 こ の よ う に 著 者 は「 ソ グ ド 仮 説 」 を 退 け て, 古 層 の 古 ト ル コ 語(n/ñ- 言語)の仏典には, Maitrisimit や Daśakarmapathāvadānamālā など,トカラ語から翻訳された仏典の存在とトカラ語を 経由して古トルコ語に定着したインド来源の語彙が多数含まれていることを重視して「トカラ仮説」 を提唱する。古トルコ語の仏典が出現した時期について,本稿では早くとも9 世紀前半,本格化す るのは9 世紀後半から 10 世紀との見通しが示されているが,補註 20 において第 18 論文の成果を 踏まえて,9 世紀前半の可能性があらためて排除されている。 書後2 によると,トカラ仮説は我が国と中国の学界では認められているが,欧米学界では全面的 に受け入れられているとは言い難いという。ソグド仮説にとって最も弱点となるのは,ソグド語仏

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典から翻訳されたウイグル語仏典が確認されていない点であろう。ただし近年,ソグド語に精通し たウイグル仏教徒が書写したソグド語仏典が確認されており,ソグド仮説も容易に排除されるべき ではないとの指摘もある(吉田豊「トルファン学研究所所蔵のソグド語仏典と「菩薩」を意味する ソグド語語彙の形式の来源について ―百済康義先生のソグド語仏典研究を偲んで―」『仏教学研究』 第62・63 合併号,2007 年;Cf. Matsui 前掲論文)。しかし本論文で示されたウイグル仏教の歴史的 展開を大きく見直す必要はないだろう。 ・論文18「西ウイグル仏教のクロノロジー ―ベゼクリクのグリュンウェーデル編号第8窟(新編 号第18窟)の壁画年代再考―」 ここで著者が言う「西ウイグル仏教」とは,ウイグルのみならず西ウイグル王国に支配されるこ とになった前代以来の居住民,すなわちトカラ人や漢人で行われていた仏教の総称である。初期の 古トルコ仏教(=ウイグル仏教)の源流はトカラ仏教であったが,それだけでなく中国仏教もその 一つであった。近年,トカラ語仏典,仏教壁画の研究の進展は著しく,彼らが(根本)説一切有部 を奉じていたことが明らかにされている。一方で『天地八陽神咒経』などのウイグル語訳は,中国 仏教なかんずく敦煌地域の仏教との繋がりを示す。西ウイグル王国は,大きく二つの異なる仏教的 伝統をその基盤としており,それは僧侶の称号からも看取される。漢語「都統」に由来するトゥ トング(tutung)とトカラ人高僧を指すケシ = アチャリ(keši ačari)という称号がそうである。一 方でこれとは別にシャジン = アイグチというウイグル語で“commander or minister of the (Buddhist) doctrine”を意味する称号も確認される。『元史』などで「沙津愛護持」と音写されるこの称号は, ウイグル仏教界を統括する最高指導者に与えられたと考えられる。本論文は,この称号が出現する 歴史的背景を明らかにする。 まずトゥトゥングについては,敦煌出土の漢文手紙文書P. 3672bis の研究「敦煌と西ウイグル王 国 ―トゥルファンからの書簡と贈り物を中心に―」に対する著者の研究が重要である(本書所収 第7 論文)。この手紙の送り主は「賞紫金印検校廿二城胡漢僧尼事内供奉骨咄禄沓密施鳴瓦伊難支 都統大徳(国王より紫衣と金印を賞賜され,二十二の城邑にいる胡人・漢人の僧侶・尼僧にかかわ る事を検校し,宮廷内の道場を司る,クトルグ = タプミシュ = オゲ = イナンチュという名称をもつ 都統である大徳)という長い称号を持つ西ウイグル国の僧侶である。手紙には「恩賜都統」と読ま れる朱印が押印されており,これが称号にもある「金印」そのものを指すとみられている。これに より著者は10 世紀の西ウイグル仏教界の最高位は「都統」であったと主張する。ただし都統は一 人ではなく,各区域(北庭,高昌,ハミ,焉耆,亀茲)に都統一人が任じられたと推測している。 一方のケシ = アチャリは,トカラ語仏典をウイグル語に翻訳した人物,あるいは寺院の建立に携 わった人物として仏典の識語に確認され,学識の高いトカラ人僧侶に対して用いられた称号である。 k(ä)ši はトカラ語 käṣṣi “master” からの借用語,ačari はサンスクリット語 ācārya のソグド語経由の 借用語であり,合わせて「尊師阿闍梨」と翻訳される。とくにケシ = アチャリが現れる第三棒杭文 書の銘文は,著者によって1019 年に比定されており,先に紹介したトカラ仮説と併せると,トカ

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ラ語から翻訳されたMaitrisimit の初訳本も 10 世紀と考えることが可能となるとする。 10 世紀後半から 11 世紀にかけて仏教が支配者層に浸透し,ウイグル人僧侶も増加してくると, 仏教界の最高指導者をウイグル語で表す必要性が出てきた。そうした背景の下に「教義総統」を 意味するシャジン = アイグチは出てきたというのが,著者の描くシナリオである。そしてシャジ ン = アイグチに関する新資料,すなわちベゼクリク石窟のグリュンウェーデル編号第8 窟(現 18 窟)の寄進者像に付された銘文を手掛かりに,シャジン = アイグチが現れる時期を探る。解読され た銘文によると,この石窟を重修したのはシャジン = アイグチたる三宝奴(sambodu)の一族であ り,袖壁に描かれる合掌する僧形の人物が三宝奴に比定される。重修の時期について,著者は銘文 のパレオグラフィー上の特徴は,西ウイグルでも遅い時期かモンゴル時代(13-14 世紀)であるこ とを強く示唆するとしながらも,「地獄図」になされたカーボン14 の測定結果(西暦 1140±30)に より12 世紀が妥当とする。また,シャジン = アイグチが現れるウイグル語文書(U5304,U5319) の文字が半楷書体であること,そして第三棒杭文書の不明瞭な部分もシャジン = アイグチと同義の šazin [ayïγ]l[ï] と復元できることを提案し,シャジン = アイグチの出現時期を 1019 年からそれほど 遅くない時期であったと結論づける。シャジン = アイグチの登場以後,トトゥングはウイグル仏教 徒の名前の一要素となっていく。 評者は本論文に導かれて,ベゼクリク石窟の供養僧の名前を記したブラーフミー文字銘文につい て考察したことがあり,トカラ僧が帯びる称号gurūr-ācārya をケシ = アチャリの透写語とみた。そ の後,敦煌莫高窟148 窟に描かれる西ウイグルのトカラ僧は,P. 3672bis の都統と同じく「金印」 を授けられていたことが判明し,トカラ僧も都統のように最高指導者の立場に立つことがあった可 能性を指摘した(橘堂晃一「ベゼクリク石窟供養比丘図再考 ―敦煌莫高窟の銘文を手がかりとし て―」,『アジア仏教美術論集』第三巻,中央公論美術出版,近刊)。そこで得られた知見は,本論 文で示されたシャジン = アイグチが出現する背景の傍証となるであろう。

以下,ケシ = アチャリについて気づいた点を列挙しておく。U5320 の 2 行目の僧名 čïxbadri kši ačari(665 頁)は,サンスクリット語起源トカラ語経由と想定すれば,činabadri(< Skt. jinabhadra) とする方が適切である。U5304 の 2 行目 punyabadri kši [ačari](665 頁)は,ベゼクリク第 20 窟の トカラ僧gurūr-ācārya puṇyabha[---](Le Coq 1913, Tafel 16)と同一人物の可能性がある。ケシ = ア チャリの例として,SI 2Kr 5 の kalyančay siti kši ačari < Skt. kalyānajaya-siddhi と batr(a)y(a)nčay siti kši ačari < Skt. bhadrayānajaya-siddhi を付け加えておく。

・論文19「西ウイグル王国史の根本史料としての棒杭文書」 1974 年に発表された研究ノートと 2001 年の英語改訂版を基礎として,最新の成果と知見を踏ま えた書き下ろしである。 棒杭文書とは,長さ約80cm の八角錐形の木柱に寺院建立の功徳・縁由と建立に関わった人々の 名が記されたものをいう。棒杭には,弥勒がこの世界に下生した時に,その法会(龍華三会)に値 遇して救われたいという寄進者の願いが記されている。近年出土したものを含めて4 本が知られて

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いるが,本論文が扱うのはプロイセン探検隊将来にかかる3 本である。棒杭文書を初めて研究した F. W. K. ミュラーに従って,これらを第一棒杭(ウイグル語),第二棒杭(漢文),第三棒杭(ウイ グル語)とする。 第二棒杭には「歳次癸未之載五月廿五日辛巳」とあり,これを983 年とみることで一致していたが, 他の2 本の年代は定まっていなかった。第一棒杭には「土の元素を持つサル(猿)の歳,第九月の 二十四日に,Pūrva-phālghunī 星座の時に」と記され,年代特定の手がかかりとなる。著者は,占い などで用いられる六十干支の第二式が西ウイグルで用いられているとするL. バザンの提唱を承け, 第一棒杭を1008 年と定め,「己という火の元素を持つヒツジ(己未)の歳」の第三棒杭を 1019 年 に比定した。1974 年に提唱されたこの年代比定は,以後の著者のウイグルマニ教 = 仏教史に係る すべての議論の支柱となっていることからも明らかなように,西ウイグル仏教史にとって大きな意 義をもつ。 ウイグル文の第一棒杭と第三棒杭のテキストに関しては,2001 年の旧稿と比較すると転写方式 に若干の相違はみられるものの,基本的な変化はない。ただし本書には語注が含まれておらず, 2001 年の英語論文を参照する必要がある。一方,漢文の第二棒杭については,基本的に旧稿を踏 襲しつつも,仏教学の見地から解釈し直された点を中心として大幅に加筆されている。 これら棒杭文書の使用目的について,仏教寺院・僧院を建立するにあたり,塔基を定めるために 大地に刹木を打ち込む儀式に用いられたと指摘する。これを「打刹」という。加えて,棒杭は「生 命の樹」を信仰の対象とするマニ教を奉じていたウイグル人にとっては受容しやすい観念であり, また打刹には仏塔の中心軸を定め,伽藍建設予定地を清め,悪魔を封じる目的があったとする新た な見解を提示している。 以上,第四篇に収められる論考を概観した。しかしここで紹介できなかった論考にもマニ教 = 仏 教史にとって重要な論考が収録されている。「ウイグルから見た安史の乱」(論文1)は,ウイグル 語写本Mainz 345 が,マニ教ウイグルの歴史文献であることを論証し,そこからウイグル民族史の 世界史上における意義を論じている。「ウイグルと敦煌」(論文6)と「敦煌と西ウイグル国 ―トル ファンからの贈り物」(論文7)では,棒杭文書,石窟の寄進者像,石窟の銘文,漢文の手紙文書 などを駆使して,『遼史』にみえる敦煌の「沙州回鶻」の実態が,西ウイグル国の傀儡政権であっ たことを提唱する。これに対し中国の学界では「沙州回鶻」を独立王国や甘州回鶻とみる反論が展 開されている。それらに反駁を加えたのが「沙州ウイグル集団と西ウイグル王国」(論文8)であ る。著者の論考は十分に説得的だが,近時,敦煌地域の石窟に残る銘文や絵画資料によって補強さ れつつあることを付記しておく(松井太「敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文に関する劄記」『人文 社会論叢(人文科学篇)』2013;橘堂前掲論文)。「元代ウイグル仏教徒の一書簡」(論文 13)もまた, 元朝期のウイグル仏教徒の活動とウイグル語仏典の翻訳史に一石を投じた好篇である。 マニ教と仏教は,ウイグル史において見逃すことのできない重要な役割を果たしてきた。それは また,ウイグルを「中央ユーラシア型国家」と位置付ける著者の立場からすると,一国家の宗教と

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いう枠組みに留まらない意義を有している。これまで漠然としか認識されなかったウイグルの宗教 の歴史的変遷に,明確な歴史観と年代観を提示したことの功績は計り知れない。 本書が上梓されてより間もなく『ウイグル = マニ教史関係資料集成』(『平成26 年度近畿大学国 際人文科学研究所紀要』2015 年 3 月)が出版された。本書の資料集としての性格も持ち合わせて おり,関心の向きには併せて参照すべき書であることを申し添えておきたい。 (2015 年 1 月,名古屋大学出版会,菊判,864 頁,16,000 円+税) (きつどう こういち,龍谷大学仏教文化研究所客員研究員)

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