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中琉関係に影響を与えた核心的理念「仁義」について : 清琉関係を例に: 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

劉, 毓興; 大城, 洋介

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 179-194

Issue Date

2017-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/22078

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中琉関係に影響を与えた核心的理念「仁義」について

―清琉関係を例に―

中国第一歴史檔案館保管処副処長 劉 毓興 翻訳:大城 洋介 はじめに 「中国古代の対外関係史上、客観的に言えば、琉球の中国との関係は同時代のいかなる 国家との関係も比較にならない」 (1) 。隋史の記載に始まり清末における日本の琉球占領まで、 中国と琉球との関係は悠久かつ代々友好的であり、とりわけ明清両時代には頂点に達した。 それは、政治における進貢と冊封の一貫した保持、経済における貿易と贈与による持続 的繁栄、社会における災難救助の継続、教育における官生と勤学の実施等の点に表われて いる。明の洪武五年(1372)より清の光緒五年(1879)までの 500 年余り、琉球は東方唯 一の大国と長期にわたって平和的に交流したことで大きな変革と未曾有の利益を得て、長 らく政治的安定、経済発展、社会的寛容性、文明進歩を保持することができた。その由縁 を総括的に検討すると、地理的に恵まれた条件(地縁)、歴史的機縁の合致(時縁)、人々 の物質的要求(物縁)以外に、中央政府の寛容な交流政策(政縁)とその背景にある思想 文化の要素(文縁)が浮かび上がる。それは終始中琉交流の中に隠れていたが、最も注目 すべきその役割を埋没させることはできない。とりわけ中琉双方の思想的理念、特に中国 統治者のそれは主導的、ひいては決定的な作用を発揮した。「柔遠懐仁」という詞は、明 清檔案の外交関係の文書では、特に珍しくもなく、頻出する語彙である。しかし、筆者は この考え方こそが、中央(皇帝の政策決定)と政府の公式活動及び長期的な外交政策に影 響を与えた「仁義」という不変の中核的理念を内包していると考える。この分野における 分析は先達の研究成果で明確に指摘しているところではあるが、ただし、それらは主に具 体的な交流や制度等に集中しており、外交という行為に現れる文化的な心理状況、つまり 思想的理念の価値観についての研究は多くはない。ここで筆者は浅学ながらも、清代の檔

LIU Yuxing, transl. OSHIRO Yosuke:On Renyi, a Critical Concept in the Sino-Ryukyuan Relations: a case study of

cultural and diplomatic intercourse between Ryukyu and the Qing Empire

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案に基づいて琉球との関係を例に挙げ、中琉の外交関係の中で数百年続いた中核的理念で ある「仁義」について、僅かながらも分析を試み、ご在席の方々にご教授を賜りたいと思う。 一 「仁義」の概念について 「仁義」とは中国の伝統文化の重要な概念であり、また東アジア文化圏の重要な理念で もある。それは、中国封建社会の結晶であり、儒学伝統の大きな要であり、また東方の皇 帝権力体制のあり方をも左右した。 『礼記・中庸』は次のように言う。「仁は人なり。親 しん を親しむを大なりと為す。義は宜 ぎ なり。 賢を尊ぶを大なりと為す」。宋代の大儒、朱熹は言う。「仁は心の徳、愛の理なり。義は心の制、 事の宜しきところなり」。要するに、仁義はすなわち仁愛と正義を意味するのである。 中国の悠久の封建社会の中で、「仁義」は伝統道徳の最高基準であり、それは知識人が 一生をかけて追い求める精神的規範であり、仁義に背く行為は礼儀に背くものとして世間 の受け入れられないところであった。この人間性や理性を磨き、輝かせるといった考え方 は中国で二千年以上受け継がれてきており、最高位の「真龍天子」と称された皇帝たちで さえもその規範から逃れることはできなかった。 康熙帝は「自ら執筆」した『日講四書解義序』で次のように述べている。「朕惟うに天 生の聖賢は君を作し師を作す、万世道統の伝は即ち万世統治の繋る所なり。(中略)孔子 以て民未だこれ有らざるの聖として生まれ、列国の君、大夫、及び門弟子と、政と学を論ず。 天徳王道の全て、修己治人の要は倶に『論語』一書に在り。『学』(『大学』)、『庸』(『中庸』) は皆孔子の伝なり。……孟子に至りて、聖を継往して学を開来し、邪を闢 しりぞ きて、正人の心 を以て説く。性善、仁義の旨は天下に於て著明なり」(2)。 後に康熙帝は自ら作成した孟子廟碑文の中で次のように述べている。「王跡、春秋に熄 や みてより、聖人の道或は泯びんめつ滅に幾ちかし、卒ついに之れ晦くらかれども復た明るく、千百の世を歴るも 敝 やぶ らざるは、恃むに孔子あり。孔子没して百と余年有り。浸仮戦国に於て及び、楊墨の塞 路、禍尤も曩時に烈す。子輿氏起こりて之を闢く、是に於いて天下の人、始めて孔子を誦 法するを知りて、仁義に率 し た が 由う」 (3) 。康熙皇帝は古今を縦断する視点と高所から俯瞰する学 識を以て学統の大筋である「春秋に至りて礼楽は壊れ、晦かれども復た明るく、孔子を恃 みて、楊墨を劈るは惟仁義のみ」の意味を明確にし、孔子・孟子を聖人としてみなし、開 天闢地の如く仁義を唱えたその偉大な功績を称賛した。そして邪を退け伝宗、正心の理を (2)『大清聖祖仁皇帝実録』巻 70、康熙十六年十一月至十二月。 (3) 同上巻 130、康熙二十六年四月至七月。

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明らかにした「仁義に率し た が由う」道理を精密かつ開拓的に総括した。雍正帝は父康煕帝と同 じく、何の迷いもなく「仁義」の思想を学習、継承した。彼は内閣へ発給した上諭の中で 言う。「帝王の国経・政治を体して施す所は、ただ道理の至当に准なぞらい、寛厳の賞罰は各其 の宜しきを得ればなり。若し一たび利・弊の二字に渉 かかわ れば便 すなわ ち私に入らん、是を以て孟子 の『仁義』と云うのみ。何ぞ必ずしも利と曰わん。蓋し仁の所以は休養・安全にして、義 の所以は裁 さいせい 成・化導なり」 (4) 。 この論述は「個人修養」の規則を「国家理念」にまで引き上げ、「仁義」の二字を用い て国家を治めることをはっきりと提示している。その後雍正帝は再び内閣と九卿へ上諭を 発した。「『易経』に云く、立天の道を陰と陽と。立地の道を柔と剛と曰う。立人の道を仁 と義と曰う。仁義は分かつと雖も其の理は則ち一つ、天下の人、ただ仁は慈に主 つかさど り、義は 断に主り、仁は寛に主り、義は厳に主る。以て仁義、各其の用有るを為し、其の相資相済 を知らざるも、須臾も離るべからざるものなり。蓋し仁有れども義無くんば則ち姑息の愛 なり、事理に合わざるは当然の則なり。孔子曰く、惟だ仁は能く人を好くし、能く人を悪 しくす、蓋しその好くする所悪しくする所は、必ず事理に合わずべきの宜にして後天下は 仁人の福を享す、と」(5)。この解釈は『易経』の「立人の道を仁と義と曰う」の語を引いて、 仁・義の理を明らかにするだけでなく、「仁」と「義」の相互補完性と、密接不可分の関 係性、そして「仁義」が事理に合致し天下の道理に利することをも証明している。 二 「仁義」理念の中琉関係における具体的体現 1.平和的交流の中の仁義の体現 「洪武五年(1372)正月、明の太祖は楊載を派遣し琉球に詔諭をもたら」し、「同年十二月、 琉球国中山王察度は弟泰期を派遣し、表を奉じて入貢した」 (6) 。以後、光緒五年(1879)の 日本の琉球併合までの 500 年余りの間、中国と琉球の交流は一度も干戈を交えたことはな く、流血も見たことはない。その間、中国は南北に分立し王朝交替が起こり、琉球国もま た分裂から統一に向かったが、交流は終始友好的に行われ平和的に継続した。そこには、 明の太祖朱元璋の勲功著しい親善の始まりである琉球人の渡海の便のために抜群の技術を 誇った造船集団「三十六姓」の派遣があった。その外交政策が四方を海に囲まれ、比較的 後進弱小の島国にとっていかに重要であったかは想像に難くない。そこには後代の為政者 (4)『大清世宗憲皇帝実録』巻 50、雍正四年十一月。 (5) 同上巻 84、雍正七年閏七月。 (6) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』124 頁。

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が一貫して実践せざるを得ない「仁義」の理念があった。清朝が中原を平定してまもない 順治初年は、満族統治者にとって天下は未だ靖まらず政権は不安定であり、また中原の主 流文化も未だ満族統治者へ深く影響を及ぼしていなかった。しかし清政府は依然として琉 球国に向けて友好の信号を発した。「朕、中原を撫定し、天下を視て一家と為す。念 おも うに、 爾琉球、古より以来、世世中国に臣事し、遣使して朝貢すること、業すでに往例有り。今、故 に人を遣わし勅諭す。爾国は若し能く天に順い理に循 したが えば、故明の給する所の封 ふうこう 誥・印勅 を将て、遣使して齎し送りて来京すべし。朕も亦た旧に照らして封錫す」(7)。天変地異の時 局の変化に対して、清朝の統治者は事実に則して道理を説き、「文を以て交わりを結んだ」。 清朝は終始一兵一卒も動員したことはなく、まして都市の人々を虐殺し尽くした話は聞か ない。これは世界の外交関係における模範であり、多様な法が乱立した古代の国際社会に おいて奇跡というべきだろう。言うまでもなく仁愛と正義がその中に含まれていた。 2.進貢冊封の中で体現された仁義 進貢と冊封は中琉関係の主眼の一つであり、終始貫徹された。それは中琉双方の政治的 要求から始まったものだったが、中琉関係の友好的発展に支障をきたすことはなく、逆に それをさらに強固にした。この点に関して西里喜行氏は比較的客観的かつ的確な論述をし ている。 「中華帝国体制とか冊封進貢体制などと称されている近代以前の東アジアの国際秩序は、 中国王朝を中心として形成された『集団安全保障体制』としての側面を具備していた。つ まり、中国王朝は周辺諸国の『安全保障』に責任を負い、周辺諸国は中国王朝の防壁=『藩 屏』として期待されていたということである。他方で、中国王朝と周辺諸国との二国間関 係は宗主国と藩属国との関係(宗藩関係・宗属関係)とみなされ、政治的には支配・被支 配の関係、即ち主従関係としての側面を帯びていた。とは言え、宗主国は原則として藩属 国の内政・外交に干渉せず、藩属国は事実上『自主の国』として位置づけられ、主体的対 応を容認されていた。宗属関係を支える二本のレールは冊封と進貢であった。冊封とは宗 主国の皇帝が藩属国の首長を国王として認知する叙任儀礼であり、藩属国の首長は冊封を 経てはじめて自らを国王と称することができた。進貢とは藩属国の国王から宗主国の皇帝 へ特定の物品を定期的に献上して政治的忠誠を表明することで、その見返りとしていわゆ る進貢貿易がみとめられたことは、周知の通りである。……琉球国王の場合について言え ば、沖縄諸島に統一政権を樹立した尚巴志から、王国の滅亡とともに退位した尚泰まで、 夭折などの諸事情で冊封されなかった若干の王位継承者を除き、二十一名の王位継承者(国 (7)『大清聖祖仁皇帝実録』巻 32、順治四年五月至六月。

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王)はいずれも頒封方式で冊封されている」(8)。 上記から中琉関係は政治的には宗属関係であるものの、事実上宗主国が入り込む権利は なく、ただ表面的或いは礼節上の主従関係であり、宗主国は藩属国の内政、外交いずれに おいても干渉することはなかった。この状況からみると、中国は琉球という藩屏を必要と しており、琉球もまた中国という後ろ盾を必要としていた。清朝は琉球の名義上の臣服が 必要であり、琉球国王もまた名義上の冊封を必要としていたのだ。中琉両国はある種表面 的不対等の関係であったが、実際には非常に平等な「盟友」関係であり、かつ相手国の政 治に干渉せず、さらには第三国の利益を損なわない正真正銘の平和友善的国際関係であっ た。 経費に関して言えば、清朝の支出は巨額であった。「琉球使節の北京滞在の期間中、まず、 清廷から非常に豊富な生活物資が供与され、しかもその全ての費用が免除され、同時に炊 事やお茶の当番、蘇拉(雑役夫―訳者注)等各種の雑役も無償で提供されたことで、琉球 使節の生活はこの上なく厚遇されたものであったといえる。……以上引用した檔案の記 載から、同治四年(1865)十二月の進京使節接待の総費用が、白銀 7381 両 9 銭 6 分・銭 1687 串であることもわかったが、その中には直接関係部署から受領した絹織物・布地・石 炭・蝋燭及び米の価格はまだ含まれていない。このことから、清廷が毎次琉球の進京使節 を接待した費用は、膨大な額になったと推察される」(9)。しかし、これらもやはり福建や沿 海各省の館駅等における使節への待遇費用は含まれていない。「事実上、その他の檔案文 献資料から言えることは、中国に来た琉球使者は非常に手厚い待遇を受けていたことであ る」 (10) 。この一文からも清朝が仁を以て隣国を待遇していたことが容易にわかるだろう。 交通に関していえば、山を越え波を渡りやってくる使者にはありとあらゆる困難が伴い、 大変な苦労の上に一家の命運もかかっていた。「ある文献には『浮翼を設け、水帯を造り 載棺に至りては銀牌を棺首に系ぐ、書に云く某使臣の棺、見る者に収めしめ之を瘞うずむ。』(徐 孚遠『明経世文編』巻 460、李文節公全集、中華書局影印版)と記載されている。さらに、 使節団は『耕作用具を携帯』して、『帰ることができない、いずこの島への漂着』に備え ていたのである」 (11) 。なぜ冊封・進貢使節たちは大きなリスクを冒し、危険な旅とされた航 路を数百年やめることなく歩み続け、中琉両国は終始平和的関係を維持できたのだろうか。 そこには様々な原因があるが、精神的な要素と文化的作用がなければ実現できない。「洋 (8) 西里喜行「明清交替期の中琉日関係に関する一考察―尚賢・尚質・尚貞の冊封問題とその周辺」『第八 回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』(沖縄県教育委員会 2007 年)25 ~ 26 頁。 (9) 呉元豊「清代の琉球来華使節の進京及びその待遇について」前掲『第八回琉球・中国交渉史に関する シンポジウム論文集』19 ~ 20 頁。 (10) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』50 頁。 (11) 同上 150 頁。

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上往返とも七日であった」(12)伝説的な冊封使斉鯤の著書には、中琉関係に深くしみこんだ仁 義を垣間見ることができる。 斉鯤(1770 ~ 1815)、字は鵬霄または北瀛、福建の候官人。清嘉慶六年(1801)進士と なり、翰林院庶吉士に選ばれ、後に編修を授かった。嘉慶十三年(1808)冊封正使に任ぜ られ、副使の工科給事中費錫章と共に琉球に出使した。例の如く中国の特産物を積んで貿 易の利を得ることもできたが、斉鯤はこれを固く禁じた。琉球に到着すると、国王は慣例 にならって七宴を開き多くの金銀を送ったが、斉鯤は婉曲に断った。斉鯤は琉球の経済負 担を減らすため、三ヶ月前倒しで帰国の途に就いたのである。「京城を出発して琉球に滞 在するまで、斉鯤は感じたことを記した。皇帝に献上した詩は百近くにのぼり、帰国後は『東 瀛百詠』を編集」 (13) して、副使と共に『琉球国志略』を編纂した。斉鯤は『東瀛百詠』の「詩 集の後ろに『致中山王箚稿』を附し、たびたび謝絶した宴金(琉球国王の賞賜金)の理由 を述べている。曰く『前者、宴金を屡 たびたび 々却けるは彼に他腸あるに非ず。諒 まこと に貴国、供億に 疲れん。臨別、皇上中諭再三、凡事尤も体恤を加えよとあり。今に至るも謹みて識し忘る ること勿し。聖諭に違いて私 し の う 囊を潤すは、惟だ安んぜざる所を寸衷し、亦た実に神明不祐 の所に非ず。惟だ王、曲諒す』(14)」。斉鯤は自身の冊封使という身分であるがゆえに、琉球 国王がしばしば送ってきた物品を「屡 たびたび 々」婉曲に断った。その理由は「臨別、皇上中諭再三、 凡事尤も体恤を加えよ」とあったからである。斉鯤自身の清廉潔白な性格と忠誠の品行の みならず、清国皇帝の「藩属遠人」に対する仁愛の意思が斉鯤の琉球出使にも終始貫徹し ていたことが彼の言葉からあふれている。 心理的な角度からみれば、清朝統治者にとって「礼」は「臣服」であり、尊厳と面子であり、 天下太平を謳歌する万国来朝への精神的な満足であった。清朝は本末転倒して義を捨てて 利を追求したことはなく、また決してそれを望むこともなかった。この点は、漢代に始まっ た宮廷絵画の「職貢図」が時を久しく経てもなお色あせないことから証明できる。「唐代 に確立した『職貢図』から清朝乾隆期の『万国来朝図』まで、皇室は職貢図を題材にした 作品を重視し、代々模倣していた。それは根本的な目標としての『万国来朝』が象徴する 四海の帰属であり、政権永続の理想であった (15) 」。これからうかがえるのは、封建社会にお ける中国の最高統治者の精神的な欲求と理想社会の追求である。ただし、歴史的かつ客観 的にその帰結を追えば、この「唯我独尊」的で「兼利万方」的な皇帝の精神構造は他国か (12) 糸数謙治「冊使斉鯤について」『第四回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』(沖縄県教育 委員会 1999 年)59 頁。 (13) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』44 頁。 (14) 同上 48 頁。 (15) 楊暁萌「従『職貢図』看歴史上万国来朝的盛世栄光」、微信(Wechat)公衆号:古籍 weiguiji、2006 年 9 月 11 日。

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ら見てもある種の「大義」と仁愛に他ならない。 糸数兼治氏は、冊封・朝貢体制に対して独自の鋭い指摘をしている。「朝貢冊封体制は 和平共存を基軸とする明初の対外政策と不可分の関係にあり、それは儒教の統治理念にも とづく伝統的な支配方式への復帰ではないかと考える。力による支配におのずから限界が あることは前朝元の滅亡がこれを実証しているし、またその余裕もない。しかしながら元 の版図はなおこれを維持ないし拡大したい。このためには『武』を見限って『文』による 支配に転換する必要があったのであり、権力の頂点に立つ皇帝は『聖』であり『神』である。 すでに『聖』であり『神』である以上、『遠人』を柔らぐることは当然の帰結でなければ ならない。朝貢冊封体制はなお華夷上下の秩序意識を根幹とするが、『柔遠之至意』が清 代を通じてあまねく貫徹していたことは、正使斉鯤の冊封の事実経過に照らしてもおおむ ね了解できることである」(16)。総じてそれは一種の相互に必要としつつも互いに干渉しない、 互恵的で礼節ある関係であり、その精神的本質はやはり仁愛と道義であった。 3.貿易贈与の中に体現された仁義 貿易は中琉関係の中で非常に大きな比重を占めており、中琉貿易は主に冊封貿易と朝貢 貿易の二つを包括する。双方の貿易から見ると、清国側の船舶は後に解禁され冊封貿易(冠 船貿易、封舟貿易、評価貿易とも称される)となるのだが、時には積み荷の評価額が非常 に低く、全体的に頻度も少なく、種々の制限を受けていた。厳密に言えば、それは公式貿 易ではなく、ただ「船主の船賃や兵役(兵士と役人)の旅費不足を補うために、清朝は冊 封使に同行した官兵に一定量の貨物を携帯して貿易することを認めていた」(17)にすぎない。 これに対し朝貢貿易(正貢船、加貢船、接貢船、冊封や褒賞への謝恩船等)とは琉球の対 中国貿易であり、往来船舶の頻度や数量、貨物の種類やその量、ひいては厳格な禁輸品目 やその価格に至るまで圧倒的に清国側を上回っていた。さらに、「清朝は貿易を行うため にやってきた琉球船に対して、一律に免税政策をとっている。そのほかに土糸、大黄など 輸出禁止の品物に関しても、優遇措置をとってい」 (18) た。つまり、「対中国貿易が琉球国の 経済と国民の生活にとって大変重要である」(19)と言えるだろう。様々な条件から当時の琉球 の産出品はごく限られたものであった。「明に朝貢した貢物の多くは東南アジア諸国から 調達したものであり、東南アジアに運びこむ貨物の多くは中国、特に福建から調達したも (16) 前掲糸数兼治「冊使斉鯤について」『第四回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』61 ~ 63 頁。 (17) 秦国経「乾隆時代の中琉関係について」前掲『第四回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』 13 頁。 (18) 同上 13 頁。 (19) 同上 19 頁。

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のであった」(20)。しかし、中国はこれまで対外交流で獲得する利益を重視していたわけでは ない。すべては「仁義を遠播する」ことを第一とし、ひいては長らくこれを唯一無二の目 的とし、上下均しく人々の心に深く影響を及ぼしていた。非常に積極的、主体的に進貢貿 易を行う琉球に対し、中国側は「厚 こうおう 往薄 はくらい 来」に基づき大量の下賜品を贈与し、「最恵国待遇」 を与えて「自由貿易」にまかせた。中国は明代初期より清朝末期に至るまでこのような姿 勢をほとんど改めることはなかった。 別の角度から琉球の対清貿易の重要性と依存度を見てみよう。道光十九年(1839)三月 二十四日、道光帝は琉球等の藩属国の「貢献頻仍」の遠路跋渉の苦労を思い、内閣に次の ように命じた。「向来、越南国は二年に一貢なるも、四年に遣使、来朝一次にして、両貢 を合わせて並進す。琉球国は間歳に一貢し、暹羅国は三年に一貢す。各該国に在りては抒 誠効順して、敢えて告労せず。惟ただ念おもうに、遠道馳駆し、載塗雨雪なるに、期や較促やちかく貢献 頻たるは、仍 な お殊に以て体恤を昭らかにするに足らず。嗣後、越南・琉球・暹羅は、均し く著して改めて四年に遣使、朝貢一次と為さしめ、用て朕の藩服を綏懐するの至意を示さ ん」 (21) 。 興味深いのは、道光帝の朝貢を四年に一回に改める愛護体恤の処置に対して、これまで 一貫して恭順であった琉球国王が遵わなかったことだ。道光二十年(1840)琉球はなおも 旧例の二年一貢に照らして耳目官向国鼎、正議大夫林常裕を貢使として北京に派遣した。 その原因はどこにあったのだろうか。琉球国王の福建布政司に宛てた、旧制回復を要請し た切実な文言の咨文からそのヒントをうかがうことができる。琉球は「福建布政司に督撫 両院に転詳して旧に依り二年一貢に奏請せんことを請う」たが、それは次のような理由か らであった。 「弊国は弾丸の荒服にして、人は愚、俗は陋なり。全く間歳に朝貢し、朝の徳化に仰沐 して、以て略ほぼ君父の道を知るを得るに頼より、国治おさまり民安らかにして、永く太平を享く。 ……又、弊国、地は海辺に処り、最も多風を患う。惟だ朝貢するに時を以てすれば、則ち 風調雨順なり。……又、弊国、進接貢船の入閩に値る毎に、例として天朝の時憲書を頒賜 するを蒙り、一王の正朔に遵う」「東海一隅の宵旦を正すを得られたし」「而して海隅の 節候は常に有り。時に因りて事に趨くを以て、農桑の庶務は皆早晩の宜しきに合うを得 る。……又、弊国、薬材を産せず、叨 かたじけ なくも天朝の買いて回船に装載するを准 ゆる さるるを蒙 る。薬材は乃すなわち命脈の関わるところにして、藉りて以て養生すれば人に老寿多し。……又、 弊国の航海して入貢するは、全て針法の精詳なるに頼る。必ず諳習する者一人を遴選して (20) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』150 頁。 (21)「軍機処上諭檔」道光十九年三月二十四日第1条。

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看針せしめ、更に敏捷なる者数人を択びて学習せしめ、輪流更換するに、疎虞無きに庶ちかし。 ……又、本朝定鼎するや、弊国効順するをもって先と為す。祖宗より以来、皆二年一貢して、 敢えて期を愆あやまる無し。……今独り微身に及んで四年に朝貢すること一次となれば、則ち上 は志を継ぐを慚 は じ、下は忠を教えるを愧 は ず」 (22) 。 実際には、無視し難く至極重要な理由として「四年一貢が琉球に経済的な損失を与える だろう」 (23) ことである。最も明白な経済的原因は、琉球の対清国貿易は国内の用を満たすた めだけではなく、中継貿易によって大きな利益を得られたからであった。しかし、この琉 球に有益な環境は次のことに由来する。 「明初に朱元璋が賜与した操船に長け航海技術に通じた三十六姓の子孫の存在と、清朝 政府の貢船の携帯貨物に対する免税政策が、貢船が出入港する福州の港で朝貢貿易を行う ことを可能にした。購入した中国の貨物を琉球へ運び、国内の用を満たしているのはもち ろん、中継貿易を行い利益を獲得し、これを国家の経済発展の根本理念とした。……琉球 は清朝政府の属国で定期的に清朝皇帝に朝貢し冊封を受けていたが、琉球も結局は一つの 主権国家であり、このように臣と称して服従し進貢することも、ある意味においてはお互 いに理解しあい交流するという一種の外交スタイルだったのである。尚育はこのように詳 しく説明することで、二年一貢が琉球にとって重要なのだということを道光帝に理解させ たのである」(24)。 最終的に、道光二十年(1840)十一月二十二日、皇帝は内閣に諭旨を下した。「呉文鎔(福 建巡撫兼署閩浙総督)の奏せる、琉球国、使を遣わして閩に来たらしめ、旧に照らして間 年に進貢するを籲請するの一摺あり。向来、琉球国は間歳に一貢するも、上年旨を降して 改めて四年に遣使、朝貢一次と為さしむるは、原もとより外藩を体恤するが所以なり。茲に該 撫奏するに拠るに、該国王、使を遣わして閩に来たらしめ、旧に照らして間年に進貢する を請い、情詞は極めて真摯たり。著して請う所の如く行わしめよ。所有の該陪臣の子弟四 名は、其の貢使に随同して北上し、入監して読書せしむるを准 ゆる す。余は著して議する所に 照らして辦理せよ」(25)。このように道光帝は一度下した命令を撤回し、同時に琉球が引き続 き官生を派遣して中国で学問することを許可した。そもそも皇帝が勅諭を発した理由は「遠 人」を体恤することであったが、これを自ら撤回した理由もまた「遠人」への体恤であり、 皇帝の下した「一言九鼎」を撤回させ、その「金口玉言」を「食言」させたのも全て「遠人」 (22) 朱淑媛「道光帝が琉球の四年一貢の諭旨を撤回した原因についての私見」前掲『第八回琉球・中国交 渉史に関するシンポジウム論文集』110 ~ 111 頁。 (23) 同上 111 頁。 (24) 同上 112 ~ 113 頁。 (25)「軍機処上諭檔」道光二十年十一月二十二日第 8 条。

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を体恤するためであった。その原因、思想的根源はやはり「仁義」の理念であった。 さらに注目すべきは、中国は明清両朝を通じて厳格な海禁政策により、経済目的の対外 貿易はほとんど禁止していたのだが、別の見方をすれば「明代の海禁は琉球の中継貿易が 隆盛を極めた歴史的条件」 (26) であった。「明朝の 277 年もの長い統治期において、中国は琉 球へ 20 回余り使者を派遣したが、琉球が明朝に使者を派遣した回数は 300 余りに上った。 頻繁な中琉の往来は琉球の中継貿易をめぐる問題を引きおこした」 (27) 。清代の状況もおよそ 同様であり、「道光帝が位を継いでから道光十九年(1839)までの 19 年間に、琉球国によ る使節の派遣は 23 回」 (28) であったが、清代を通じて皇帝が琉球国王を冊封したのは僅か 8 回にとどまる。このような高い頻度、多大な優遇政策、膨大な取引貨物、その長い期間を 計算すれば、琉球の対清国貿易の差額は計り知れず、天文学的な数字であったに違いない。 その長期的で円滑な運用を保証したのは、琉球の経済や社会的要求と先見に富んだ国王の 願望のほか、まさしく清国皇帝の仁愛と「仗義」であった。 4.災難救助の中に体現された仁義 清国と琉球国は一衣帯水の隣国であるが、両国のあいだには一つの隔たりがあり、当時 の人々からすれば軽視できないものであった。「其の国、海道の浪は山の如く大きく、波 は矢の如く迅し。風濤洶湧、極目連天なり」 (29) 。その原因は次の通りである。「琉球列島及 び我が国の東南海一帯は、毎年夏季には太平洋熱帯暖流の影響を受けて東南の風が吹き、 5 ~ 10 月は台風が頻繁に発生し、特に 7 月~ 9 月は台風が最も多い時期である。毎年その 時期になると、暴風雨が荒れ狂い、沿海岸には高潮・高波が打ち寄せる。冬季にはまたシ ベリア高気圧寒流の影響を受けて、常時西北の風が起こる。これは航海にとって極めて大 きな脅威となり、海難事故が多発する。このため、歴史上中琉両国の漂流船の相互救助に 関する記載は少なくない」 (30) 。 また、「日本の学者赤嶺誠紀氏の著書『大航海時代の琉球』の統計によれば、1390 年か ら 1876 年までの 500 年の間、中琉間の航路における各種船隻の遭難は調べられる案件だ けでも 645 件あり、その死亡者は約 3300 人余りであった」(31)という。赤嶺守氏は『清代福 州における琉球漂着民の撫恤について―加賞を中心に―』の統計資料で、「一般船舶の中 (26) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』205 頁。 (27) 同上 203 頁。 (28) 前掲朱淑媛「道光帝が四年に一貢の諭旨を撤回した原因についての私見」『第八回琉球・中国交渉史 に関するシンポジウム論文集』106 頁。 (29) 徐孚遠『明経世文編』巻 460、『李文節公全集』、前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』192 頁。 (30) 兪玉儲「清代における中国と琉球の貿易についての再論―並びに中琉の漂流難民船救助活動について ―」『第二回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』(沖縄県立図書館 1995 年)120 頁。 (31) 前掲謝必震・胡新著『中琉関係史料与研究』150 頁。

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国沿岸への漂着に関しては、これまでの先行研究で順治年間から同治年間にかけて『清実 録』『歴代宝案』および『中山世譜』等の漂流・漂着記載により 324 件(乗船者数 5470 人、 死亡者数 660 人)の漂着件数が確認されている」(32)という。 いずれの統計においても、ある共通した問題が浮かび上がる。すなわち、中琉間の航路 では危機や災難が頻発していた事実である。清国の規定によると、中国沿岸各省に漂着し た琉球難民はみな福州に送られることになっていた。「清国へ漂着した琉球国難民の場合。 漂着地の地方当局によって衣食住を提供され、事情聴取の後、漂着地から福州琉球館まで、 通過する各省の責任において護送される。福州において原船修理の上帰国させるか、原船 沈没の場合には帰国する進貢船や接貢船へ便乗させる。救護費用・福州までの護送費用は すべて清国側の負担で、清国滞在中、漂着難民一人に付、一日米一升・塩菜銀 6 厘を支給 され、帰国の日には一月分の旅行中の食糧を支給される外、清国滞在中に賞給された物件 を現金に替えて与えられることもある」 (33) 。「清国へ漂着した琉球国難民に対して、清国は 宗主国の立場から『遠人を懐柔するの至意』を示すために漂着船の修理や買取り、あるい は積荷の買取りなど手厚い救護措置を採った」 (34) 。 具体的な撫恤内容は時代によって多少の変化はあるものの、清朝の琉球難民に対する待 遇や撫恤は他国へのそれに比べて極めて手厚く、康熙期から乾隆期に定例化した。「乾隆 四十一年官撰の『戸部則例』(江蘇省布政使衙門蔵版)では、漂着民が福州琉球館に到着 安頓する『停泊の日』より毎日、毎名『口糧米』1 升、『塩菜銀』6 釐、帰国に際して『行糧』 1 ヶ月、さらに賞賚品として布 4 疋・棉花 4 斤・茶葉・生烟・灰麺各 1 斤、40 人毎に猪 2 口・羊 2 牽・酒 2 埕、40 人に満たない場合は猪 1 口・羊 1 牽・酒 1 埕、人数が少ない場合 には毎名猪肉・羊肉・酒各 4 斤といった賞賚品の発給が規定され、こういった撫恤規定が 乾隆期に確定し、清代を通じて定例化されている」 (35) 。しかしこれもやはり各省の駅館を通 る際の賞恤は含まれていない。皇帝の諭旨を記録した『上諭檔』には、琉球の難船の処理 に関する指示がある。「今年夏秋の間、小琉球国中山国、粟米・棉布花を船二隻に装載し て、颶風に遭するに値たり、桅を断じ舵折れ、浙江の定海象山地方に飄至する有り。随い で経に大学士嵆曾筠等、人数を査明して衣糧を資給し、所の貨物を将て一一交還す。其の 船隻・器具は修整して完固にし、咨して閩省に赴きて附伴して帰国せしむ。朕、沿海地方 (32) 赤嶺守「清代福州における琉球漂着民の撫恤について―加賞を中心に―」『第七回琉球・中国交渉史 に関するシンポジウム論文集』(沖縄県教育委員会 2004 年)65 頁。 (33) 西里喜行「清代光緒年間の〈琉球国難民〉漂着事件について」前掲『第二回琉球・中国交渉史に関す るシンポジウム論文集』27 頁。 (34) 同上 84 頁。 (35) 前掲赤嶺守「清代福州における琉球漂着民の撫恤について―加賞を中心に―」『第七回琉球・中国交 渉史に関するシンポジウム論文集』67 頁。

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を思うに、常に外国の船隻の遭風して境内に飄至する者有り。朕、胞与して内外を懐くを 為し、並 た えて外邦人民を岐視する無し。既に中華に到れば、豈に一夫も之れ所を失わしむ べけんや。嗣後、如し此の似ごとく被風飄泊の人船有れば、該督撫に着して有司を督率して意 を加えて撫恤し、存公銀両より動用し、衣糧を賞給し、舟楫を修理し、並びに貨物を将て 査還して本国に遣帰せしむべし。以て朕の柔遠の人を懐柔するの至意を示せ。此れを将て、 永く着して例と為せ」 (36) 。清朝とその最高統治者である皇帝の礼や情に基づく代価にこだわ らない救護行動は、200 年を経た 21 世紀の国際社会における先進国ですらみることはでき ない。皇帝の仁愛の心、清国の仁義の挙は火を見るよりも明らかで、論争の余地はない。 5.官生、勤学の中に体現された仁義 文化交流は両国間のさらなる深層次元の交流であり、一種の関係が長期的に発展した交 流である。封建時代の東アジア文化圏において、農業社会が早熟した中華文明に比べ、相 対的に弱小で後進であった琉球国は「文化や教育を羨望して」中国に留学生を派遣した。 それは中国文化の魅力によって引き寄せられるところであり、琉球国の英明の策でもあっ た。 「琉球官生が国子監に入学するという制度は明代の洪武二十五年から始まり、清代の同 治十二年まで続いた。この制度が五百年にわたり実行され、琉球国のために国を安定させ、 世の中を治めるような人材を育成し」(37)た。「例えば、雍正時代に国子監に来た鄭秉哲が国 師として招聘された。康熙時代に国子監に来た蔡文溥と阮維新が、道光時代に国子監を卒 業した阮宣詔と東国興らが、紫金大夫或いは正議大夫として任命され、前後して、進貢使 者として中国に来たといった例もある。彼らは国家を支える人材となり、琉球国のエリー トとなり、歴史上における琉球国の発展と進歩のために、重要な貢献をしてきた」(38)。 琉球国の「虚心向学」の英明策に対する中国側の行動は支出のみで収入のない「元手が とれない商売」のようなものであった。「勉強のために中国に来た琉球官生に、清政府は衣、 食、住から学習用品まで、すばらしい待遇を与えた。これにより、琉球官生は住み心地よ い、安定した生活をし、勉学という任務を円満に、かつ、りっぱに果たした。……このよ うな完璧な制度は清朝の末期まで実行された。……官生が卒業するとき、皇帝は例に倣い、 賞賜を厚く加える。賞として賜わった綢と緞はいずれも皇宮内に保管されている珍品であ る。康熙二十八年十月に康熙帝が勅諭を以て『外国に賞として賜る場合は、実利をあげね (36)「軍機処上諭檔」乾隆二年閏九月十五日第 1 条。 (37) 泰国経「清代国子監の琉球官学について」『第一回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』(沖 縄県立図書館 1993 年)151 頁。 (38) 同上 152 頁。

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ばならぬ。これをもって遠国を懐柔する意を見せる。戸部倉庫の緞の質が皇宮内倉庫の緞 にかなわないから、琉球国王に賞として賜る緞はずっと(質のよい)皇宮内倉庫から出す ように』と命令した。その後、これが定例となり、琉球国王と官生に賞として賜る綢と緞 のすべてはずっと皇宮内倉庫から出し続けた。……官生が帰国する前、礼部が例にしたが い、官生のために宴会を主催する。その後、駅令を発し、進貢使者とともに帰国させるの である。……中国に来た琉球官生のほとんどが学業を終え、成果をもって帰国したが、し かし、不幸なことに病気のため死亡した官生も、少数ではあるが、いたのである。死亡し た官生に対し、清朝はいつも、恩恤を厚く加えた。普通は白金 300 両を賜るのだが、その 中の 200 両を以て死亡した官生の家まで進貢使者に持っていかせ、後の 100 両を礼部の官 吏に渡し、棺を購入し、北京付近の張家湾という所に埋葬させる」 (39) 。 琉球が中国に派遣した留学生は「官生」だけではなく、「勤学」も存在した。官生とは 王府が派遣した比較的地位の高い優遇された学生で、学習するのは『四書』『五経』といっ た国家を安定的に統治するための経世致用の学であった。これに比べ、勤学は比較的地位 が低く個人の出費による場合が多かったが、学習するのは社会的に急務で生活に必要な「教 科」であった。官生は一般的に王子や世子(王位継承者)および選抜された高級官吏の子 弟からなり、中国側の許可を経て正貢の際に進貢使節に随行し、中国の最高学府である国 子監で学んだ。その学習や生活の一切は中国側が負担した。「官生が国子監入学後、国子 監が指名する専門教官により教育が行われる。一般に学習期間は 3 ~ 5 年で、長い者で 7 年にもなる。主な課程は孔子、孟子、朱熹などの儒家経典である(40)」。勤学は王府が派遣した、 或いは自ら志願して福州に渡り「読書習礼」、もしくは技能を学んだ琉球人であり、官費 生と自費生の二つに分かれるが、多くは個人の出費により中国で学んだ。ここから、琉 球人(久米村人や三十六姓の末裔にかかわらず)の見識と目的を知ることができる。「勤 学生の学習内容はとても豊富で、ある者は地理・暦法を学び、ある者は医学を学び、また ある者は冊礼・律書及び中国音楽等々を学んだ。これらの学生は師を乞うて学を修め、刻 苦勤勉に師と起居を共にして、短い者で 3 ~ 5 ヶ月、長い者は 3 ~ 5 年と、学習期間に は厳格な規定はなかった。琉球の家譜資料の中には多くの琉球人が福建に来て勤学した史 実が記載されている。これらの勤学は中琉両国の文化交流の架け橋となり、中琉文化交流 の友好の使者となった」 (41) 。また学問は多岐にわたった。「康熙四十七年(1708)二月初七 日、琉球人蔡温(蔡氏十一世)は王命を奉じて地理を学ぶことになった。……康熙五十一 (39) 同上 145 ~ 146 頁、150 ~ 151 頁。 (40) 陳宜耘「清代琉球人の赴閩勤学を『琉球家譜』から見る」前掲『第七回琉球・中国交渉史に関するシ ンポジウム論文集』2 ~ 3 頁。 (41) 同上 3 頁。

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年(1712)蔡温は国師に任命され、雍正六年(1728)、法司官に昇った。乾隆四年(1739) 十二月初七日、蔡温は王命を奉じて『匠人に始めて測影を造らしめ漏器物を定め』た(『那 覇市史』家譜資料 ( 二 )「久米村系」372 頁―筆者注)。蔡温は琉球の傑出した政治家であ り科学者となった」 (42) 。 官生と勤学が琉球の政治文明、経済発展、社会進歩、生活改善にいったいどの程度貢献 したか正確かつ具体的な史料はないが、文化の社会全体に対する影響や作用は「地味」で はあるものの、いかに「重要」であったかは疑う余地はない。ある意味、文化は一つの民 族の特色であるのみならず国家のソフトパワーであり、ひいては社会の様々な「雛形」で あった。琉球がこれらの措置を実施できたことは、清朝や明朝が「以て柔遠の意を見る」 ことと密接不可分であり、そこには明らかに大愛と仁義が浸透していた。 結語 「仁義」という語彙は元来道徳領域の思想範疇に属し、「務虚」の詞、「修性」の理であるが、 まさしく雍正帝の言う如く、「仁の所以は休養・安全、義の所以は裁成・化導なり」であ る。外交の領域や世間の目には、国と国との間には利益以外のものはないと映るかもしれ ない。しかし決して遠くない過去において、中国とその周辺小国の間では自己の利益のた めではなく、まして国益の最大化を追求することのない、「仁義在る所、人は相親しむべし、 国は相安んずるべし、大理は存せり、大道は化せり」という考え方があった。私見によれ ば、人類社会の文明進歩は法律と制度のみならず仁愛と正義が必要不可欠だ。法律や制度 が一部の人間の願いや利益に即して設置、廃止されるものだが、仁愛と正義は太陽と水の ような生きとし生けるものに必要な光と潤いなのである。根本的に人類は弱肉強食や強者 のみが食すような自然法則を遠ざけたければ、仁愛と正義から寸時も離れることはできな い。中華文明が寛容で長らく続いたことは十分にこの点を説明している。しかも、ひとた び仁義の理念が文化という血液の中に浸透すると、それは瞬く間に社会という細胞の中に 広がった。明清両朝の封建社会において、皇帝と官僚層がこの理念を実行することで、国 家全体の外交とその在り方はすべて変わった。中国と琉球の 500 年余りの友好交流史には ほかでもなくこの理念が実践されており、それは国際法が欠如していたり、それが全く機 能していない状況にあったとしても、友好的な国際関係を追求するために有意義な考え方 である。21 世紀の今日の複雑な国際関係において、この点は大きな歴史的意義を備えてい るだけでなく、より深い現実的な意義をも含んでいる。 (42) 同上 8 頁。

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※本稿は 2016 年 11 月 11 日(金)、平成 28 年度沖縄県歴代宝案編集委員会において、 中国第一歴史檔案館の劉毓興保管処副処長が行った報告「浅析影響中琉関係的核心理念— “仁義”—以清朝与琉球関係為例」の翻訳である。

平成 28 年度沖縄県歴代宝案編集委員会(2016 年 11 月 11 日)

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