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近代的生産力における労働の社会力 : 『経済学批判要綱』の生産力認識(2)

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56

近代的生産力における労働の社会力

一r経済学批判要綱』の生産力認識(2)

鋭  夫

工 労働の社会的生産力

 あたかも孤立人を想定するかのごとき「単純な生産過程」論が生産力論の直

接的出発点たりえないことは,まえにみた。たしかに「自然」は「いっさいの

生産力の帰着点」(43g)であり,そのことが「人間」に課す根源的制約は最大

       

限に強調されて然るべきであるが,しかし「自然」や「人間」なるものは決し

て無規定の存在ではありえず必ずや「社会」によって媒介され規定されてい

       の

る。それのみか「人間」や「自然」とは理性的には「社会」そのものである。

「ひとりの個人の所産としての言語は不可能事である。ところがそれは所有に

ついても同様に言えることである」(390)とはよく知られているが,同じこと

はさらに生産力についても言えるのであって,『要綱』は生産力の本質的に

「社会」的な性格をこう語る。

  土地所有者自身は……大地の子供らを彼らが生いそだってきた母親のふと

  ころからひきはなし,こうして,その本性上直接の生存源泉として現れる

  土地耕作さえも,社会的諸関連(gesellschaftliche Beziehungen)に純粋に

  依存している媒介された生存源泉に転化する。(……自然(Natur)によっ

  て規定されたものとしてのではなく,社会(Gesellschaft)によって措定さ 1) 前稿「『単純な生産過程』における人間と自然」(本誌第203号)参照。        む     2)「『人間』とは,実は,特定の一社会であり,歴史的に与えられた社会形態である。」   ノ  (E.BALIBAR, Cinq 6tudes du mat6rlalisme historique, Maspero, Paris 1974, p.  184.今村仁司訳『史的唯物論研究』新評論,1979年,194頁)

(2)

近代的生産力における労働の社会力  57

  れたものとしてのいっさいの諸関係。)だがこのことによってはじめて科

  学の応用が可能となり,そして十全な生産力が発展する。(187−8)   「社会」 「社会的諸関連」に媒介されてはじめて「科学の応用」も可能とな

り,総じて「十全な生産力が発展する」のだという基本認識が,ここにはあ

る。ところでこの「社会」自体,さらにいえば労働のなんらかの共同的ないし

社会的な性格それ自体は,たしかに近代に固有のものではない。 r要綱』も,        む

「より原始的な交換段階」以降の「生産のあらゆる諸段階に,労働のある種の

       む

共同性,その社会的性格等が存在してはいる」ことを確認している。しかしこ

れに直干して,「のちになって社会的生産力(gesellschaftliche Produktivkraft)

等が発展する」(302)と念を押しているように,労働の社会的性格がほかなら

ぬ「社会的生産力」を形成しそれが労働総体のなかで基層的な地歩を築くの

は,まさに近代資本制生産においてである。近代的生産力とはすぐれて労働の

社会的生産力を構造的基層とするものであり,逆に労働が社会力,社会的生産

力を形成してはじめて,近代的生産力はもちろんおよそ生産(諸)力なるもの

       の

が論議の対象となりうるのである。マルクスの近代的生産力認識の根底には労

働の社会力への注目が,社会的労働としての労働認識が,横たわっているので

ある。

 ところでr要綱』は,この社会学を表現するのに「労働の社会的生産力」

3) Auf den produktivern Stufen des Austauschs(Gr 30!−2)一→Auf den primit・  ivern Stufen des Austauschs(MEGA,]王/1−1,306), MEGAに依った。 4) 次を参照。 「生産力には,各生産要素のそれぞれに関する個別的・客体的な生産諸  力という意味の他に,それらの生産諸力を主体的に綜合して現実の生産過程を結実さ       コ  コ   コ  の   リ  コ   コ  せる労働の社会的生産力というヨリ重要な意味があって,生産力を後老の意に解して  はじめて,生産力の発展が労働の自己疎外からの解放をめざす人間にとって有する意  義を評価することができる……。」(杉原四郎『マルクス経済学の形成』未来社,!964  年,!07頁)「労働の生産力もまた……人間的=社会的な労働の生産力である。そして  この社会的生産力としてはじめて,労働の自然的生産力が実現するのである。」(平田  清明「マルクスにおける生産諸力の概念について(1)」『経済論叢』第122巻5/6号,  1978年11/12月,15頁)

(3)

 58 (603,604),「労働の社会的諸力」(7!6),「生産の社会的諸無能」(47g)など,さ

まざまな用語を使っている。とくに労働のこの社会力が長年の歴史的経過をへ

て新しい世代にとっては所与の力として前提されてくるとき,この歴史的に蓄

積された社会力は「社会的労働の自然諸力(Naturkr5fte)」(304,417)と呼ばれ る。「社会的労働の自然諸力は,すべてそれ自体歴史的産物であり」(304),「総

生産における社会的編成から生じる一般的生産力は(歴史的産物ではあるが)

社会的労働の自然の贈り物(Naturgabe)として現れる。」(587−8)社会力が自

然力とみなされるわけであるが,その根拠には,上程のように社会力の歴史的

与件化という超歴史的意味のほかに,資本にとってのこの力の無償性という特

         ら  殊歴史的意味もある。

 このようにr要綱』は,近代的生産諸力の基底に「労働の社会的生産力」

「社会的労働の自然霊力」を見出し,これを構造的に展開しようとするもので

あった。ではその展開の内容はどのようなものであったか。『資本論』相対的

剰余価値生産論が協業一分業一機械細大工業のトリアーデのうちに資本制的

生産諸力の構造論理を描いてみせたのとはちがって,r要綱』にそれを期待す

ることはできない。戒めなければならないのは,『資本論』的トリアーデを自

明の前提の側に置いてしまい,ここからr要綱』の該当する諸記述をピック・

アップして事足れりとする手法であって,これでは中期マルクスに固有な思考

の基線が全く明らかにならないのみならず, 『資本論』形成上の問題的焦点も        の

かすんでしまう。われわれとしては,社会的生産(諸)力の発展あるいは成

5) 資本にとっての無償性としての自然力の指摘は,例えば次の一文にみられる。 「人  ロの増加は支払われない労働の自然力である。」(304) ついでながら『資本論』では  この無償性規定の方が前面に出る。 「協業および分業から生ずる生産骨力は,資本に  とっては何らの費用もかからない。それらは社会的労働の自然諸力である。」(長谷部  文雄訳『資本論』(3>J青木文庫,631頁)一般に自然力の無償性については次稿参照。 6) R. RosDoLsKy, Zur Entstehungsgesehichte des Marxschen >Kapital〈, Europla’ische  Verlagsanstalt, Frankfurt a. M.1968.時永淑他訳『資本論成立史』全4冊,法政大  学出版局,1973一一74年,は,総じて『資本論』でもって『要綱』を外在的に裁断する  方法をとっているが,その「第17章相対的剰余価値の生産方法(協業,マニュファ

(4)

      近代的生産力における労働の社会力  59

長・増加の諸要因にかんして『要綱』が折にふれて指摘する幾多の短文に即す

ることから,内在的検討をはじめたい。

  それ〔古い土地所有者が近代的借地農業者と近代的土地所有者を兼ねそな

  える役柄に転化すること〕は,生産様式(農業)そのものの総体的な改革

  を想定しており,したがって工業と商業と科学,つまり生産二二の一定の

  発展に立脚している諸前提をもっている。(ユ88)

  社会的生産諸力のあらゆる増加は,科学,発明,労働の分割〔分業〕およ

  び結合(Teilung und Kombination der Arbeit),交通手段の改善,世界   市場の創造,機械等の結果として生じてきたものである。(2ユ5)

  分業,より低廉な原素材をつくりだす商業,科学等の結果である生産諸力

  の成長……。(452)

  われわれが生産力と交換の発展の諸条件を考察するならば,ふたたび分

  業,協業,多数の頭脳からのみ生じうる全面的観察,できるだけ多数の交

  換の中心,一すべてが人口の成長と一致する〔のを見る〕。(502)

 いずれをとっても,生産二二の構成諸要因がカテゴライズされて配列されて

いるというよりも,むしろかなりアト・ランダムに列挙されている。しかしこ

れが『要綱』のすべてではない。r要綱』は「生産諸力の発展」を内容づけて

「〔1〕自然高力および機械の使用と〔2〕また社会的労働の自然諸カー労働者

の集結,労働の結合および分割〔分業〕のような一の発展」(417)と大別す

クチュア,機械)」は,このタイトルにこう付注している。「これまでは,章の配列に おいて,『草案』〔『要綱』〕そのものの叙述に従うことができた。だが,これからは, そうしたことは不可能であろう。というのは,考慮される論題がマルクスの手稿の種 々の部分に分散して取り扱われているからである。」(ibid., S.278.前掲邦訳(2),356 頁)「協業,マニュファクチュア,機械」について,「分散」している諸記述をロス ドルスキーのように一箇所に集めたところで,トリアーデ的論理ができあがるわけで もないし,まして資本制的生産力の構造認識がみちびかれるわけでもない。Pスドル スキー的方法の不毛性を指摘することは容易であるが,重要なのは「分散」をとおし て語られている独自『要綱』的生産力構造論の稜線を内在的に再構成することであ る。

(5)

60

る試みを残しているのである。この大局的視角を勘案するならば上記諸要因

は,(1)科学,発明,全面的観察,機械,(2)協業,分業,労働の分割と結合,と

して類別することができ,さらにこれら二面に収録させきれない諸要因とし

て,㈲商業,多数の交換の中心,交通手段,世界市場の一群を挙げることがで

きる。㈲の開門を一語で言いかえれば,社会的分業であろう。とすれば(2)の諸

項は,より多く工場(作業場)内の協業・分業を意味しているものと考えられ

7)

る。そしてr要綱』マルクスにとって,労働の近代的・社会的な生産力の基本

条件と考えられたのはこの(2)であって,逆に(1)はあくまで(2)⑧の発展的帰結で はあってもその基因ではない。したがって(1)匠ついては次稿にまわして,まず       8) は(2)に分析の主眼をおこう。 7) この三類別は『要綱』の叙述としても見いだせるのであって,次節初頭に掲げる引  用文における,(1>「科学」,②「労働者のアソシアシオソー労働の生産性の基本条  件としての協業および分業  」,⑧「職業分割として,またそれに照応する交換とし  て現れるところの,分業」(479)の三類別を参照されたい。また『資本論」も次のよ  うに要約していたことを想起されたい。「労働の生産力の発展の原囚となるものは,  結局つねに,〔2〕活動させられる労働の社会的性格であり,〔3〕社会内の分業であ  り,〔1〕精神労働ことに自然科学の発展である。」(『資本論」(8),145頁,番号は本文  中のそれらと照応)。 8) (3)の社会的分業について以後固有にふれる機会はあまりないが,労働の社会的生産  力とは,②の工場内分業;協業の生産力のみならずこの(3)の諸力でもあり,その意味  で「幾重にも重層した社会的生産力」(平田清明,前掲論文(2),前掲誌第123巻1/2  号,1979年2月,9頁)であることを確認しつつ,ここでは社会的分業にかんする『要  綱』の記述を摘記するにとどめておこう。 「生産者の利益の完全な孤立化と社会的分  業」(76),「新しい質的に異った生産部門,新しい欲望を充たし生みだす生産部門」  (3!2),「労働の種類と生産の種類がたえず拡大し包括的となっていく体系の発展」  (313),「諸欲望の体系と諸労働の体系」(427),「職業分割として,またそれに照応す  る交換として現れるところの,分業」(479),「交換のうえにうちたてられた分業」  (526),「ある生産部門における労働を他の生産部門における共存労働によって維持す  ること」(588),「さまざまな労働諸部門の交換,それらの絡みあいと体系形成,生産  的労働の共存」(603),「諸労働相互の社会的関係」(604),「大規模な発展をとげた交 通の〔大きさ〕,大量の交換取引の〔大きさ〕,市場の大きさ,そして同時的労働の多 様性。通信手段等」(635),「労働部門の無限の多様性」(656),等々。

(6)

       近代的生産力における労働の社会力  61  『資本論』が「協業(Kooperation)」をもって「資本制的生産の出発点」「資

本制的生産様式の基本形態」と意義づけ,資本制的に社会的な労働の独自的生

産力を分析する論理的基点に据えているのにくらべるとき,『要綱』の少くと

も「協業」なる用語にはそのような概念的内包はない。それどころか「協業」

の語が登場すること自体が稀であり散発的である(cf.77,479,502,506 etc.)。よ り多くは「労働の結合(Kombination der Arbeit)」「結合労働(kombinlerte Arbeit)」であり,また「労働〔者〕の結集(Verelnigung)」という表現がこれ

に充てられている。これら諸表現によって『要綱』が事実上の協業認識を含ん

でいることは否定できないとしても,いま少しく内在してみるとき,それら諸

表現はじつは「分業」と並列的ないしは混在的に登場するケースが多い。既引

の文章にもあったように,われわれは「労働の結合および分割〔分業〕(Kom・

bination und Teilung der Arbeit)」(215,304,417,651,656,660)というワ

ン・セットの表記にしばしば出会うのであって,『要綱』の特徴的傾向はこの

ような協業と分業との即自一体約把握一どちらかというと分業に重点が置か

れているが一という点にある。またこの協業=分業の総体を「労働者のアソ

シアシオン(Ass oziation der Arbeiter, association des ouvriers)」(479,484) とも呼ぶ。

 これらの用語法および認識水準のうちにr要綱』が問うた社会的労働の独自

的生産力とは,何であったのか。道路建設についての一文を例にとってみよう。

  社会すなわち結集した諸個人は道路を建設するために剰余時間をもつこと

  ができるが,それはただ結集しているときだけである。結集(Vereinigung)

  とはつねに労働力能の一部の加算(Addition)のことであり,各個人はそ

  の労働力能を彼の特殊な労働とともに道路建設に使用することができる。

      り  の     り        リ  コ  ロ  ロ       む     り

  だがそれはたんに加算だけではない。彼らの弾力の結集が彼らの生産力を

  増加させているかぎり,彼らは数的には労働力能を全部合計したものを占

  有しているとは一一彼らが協働(zusammen arbeiten)していないとすれ

         ば,したがって彼らの労働力能の総計に,彼らの結集労働,結合労働(ver−  einigte, kombinierte Arbeit)によってだけ,またそのなかでだけ存在す

(7)

 62

  る剰余(Surplus)がつけくわわらないとすれば一けっして言うことが

  できない。(427)  諸労働の結集・結合はそれらの単純な「加算」 「総計」をはるかにこえて,

ある「剰余」をうみだす。つまり生産力を増加させる。上の文は狭義の結合労

働(協業)による社会的生産力の創造のみを語っているともとれようが,しか

し協業と分業をすぐれて同時的に把握する『要綱』の主流は,労働の分割篇結

合(分業=協業)による独自社会的な生産力創造の指摘にある。いわく, 「労 働の分割と結合に立脚する生産力の増加」(660),「人口の増加は労働のより大

きな分割とより大きな結合等を可能にすることによって,労働の生産力を増加

させる」(304),と。かくしてわれわれは,近代的生産下穿の構造的基層をなす        ゆ   コ       ロ      ロ

労働の独自的社会力の内容が, r要綱』において,協業と分業の同時・同位的

な総体のうちに定礎されていたことを確認しうる。『要綱』が「労働の集合力

       9) (Kollektivkraft)」というときにも,このような協業=分業的社会力が含意さ 9)集合力(forces collectives)といえば,ブルードンが創唱者ではないにしても彼に  よって有名であるが,なぜか『要綱』は彼を引照しない。代ってウェードが引かれて  いるが(ef.479),ウェードは集合力としての資本についてこう言っている。 「資本  は『巨人的な労働者』とよばれてきた。たしかに資本は長大な腕と強力な腱をもって  いて,地球の端から端を結び,谷間を埋め山々を崩してしまう。/経済学者たちは,  役にたつ仕事のでぎる成人を蓄積された資本の一部分と考えている。というのは,彼  の扶養・養育・教育に支出された全額は将来の労働によって払い戻されるだろうし,  幼年期に支出された資本は成人後に返済されるだろうからである。こうして資本は,       む  む     む        新しいそれ相当の形にまで自己を展開するよう定められた,蓄積された勤労である。  つまり資本は集合力(collective force)であり,この集合力はあたかも物体の運動量  のように,消尽されてみずから他物のなかに再生産される。」(J.WADE, History of  the Middle&Working Classes, London 1833, Reprints of Economic Classics, New  York 1966, p.162)こういう文脈でのウェード的集合目論が,マルクスにとってはた  してどこまでブルードン的集合力論以上の実質をもっていたか,疑問が残らないわけ  でもない。『哲学の貧困』(『マルクス・エンゲルス全集』第4巻,大月書店,117−  8頁)および1861−63年草稿(資本論草稿集翻訳委員会訳『資本論草稿集4,経済 学批判(1861−1863年草稿)1』大月書店,415−6頁)におけるサドラー(M.T.  SADLER, The Law of Population ……,3vols・, London 1830)の場合と同様,『要

(8)

      近代的生産力における労働の社会力  63

れているのである。1850年代のマルクスは近代的生産諸力を構成する個別的諸

      の

要因の悠意的列挙に終始していたのでは決してなく,まさにこの「協業および

      ロ   コ 分業」ないしは「労働の結合および分割」をもって生産力の「基本条件」(47g) として確定したのであった。

 このことはしかし逆にいえば,『要綱』が「協業」を独自に抽出し概念化し

てはいないということであり,「協業」をもって資本制的生産様式の「基本形

態」として措定できなかったということでもある。『資本論』が「協業」 「分

      ユの

業にもとつく協業」……と協業を基軸として生産力構造論を論理展開している

のと対比するとき, 『要綱』の「協業および分業」という同位的把握は,それ

自体マルクス生産力認識の発展における一里程ではあるものの,やはり生産力

構造のトリアーデ的展開に直結するものではなかった。r資本論』的生産力構

造論形成上の問題三一焦点はじつに「協業」の理論的体系的発見にあったこと

 綱」でのウェードは,マルクスによってブルードン集合力論の先駆者とみなされてい  るようであるが,マルクスの内面におけるブルードンとの距離がどんなに遠いもので  あったとしても,集合力概念にかんするかぎり,やばりマルクスはウェードよりもよ  り多くブルードンから摂取し,そして批判したと考えるべきであろう。この点,前掲  平田論文②のほか,ブルードン集合力泳とマルクス生産力論の「明確なアナロジー関  係」を主張するオプマン(P.HAuBTMANN,“Forces productives”et“Forces collec−  tives”: De 1’affinit6 des concepts sociologiques chez Marx et Proudhon, Cahiers  fnternationaux de Sociologie, Vol. IV,1948)を参照されたい。彼は,「『社会的なも  の』の特殊的性格はブルードンにおいてより一層強調されているように思われる。他  方マルクスにおいては『生産諸力』は自然の気力と関連したものとして示されてい  るが,ブルードンにあってはそうでない。これは重要な相違である」と指摘してい  るが,「社会的なもの」の強調がマルクスに弱いとは考えられないにしても,「自然  の諸力」認識をめぐる両老の相違の一端を示していて興味ぶかい。しかしオプマン論  文がブルードン分析に偏しマルクス分析に薄いこともあって,初期マルクスの内容ゆ  たかな生産諸力概念が以後急速に「経済的物質的財貨の生産諸軍」しか意味しないも  のへと狭隙化してしまったと言い捨てている点は,納得しがたい。 10) 「労働の社会的生産力の発展は大規模な協業を前提とするのであって,この前提   〔大規模な協業〕のもとでのみ,労働の分割および結合が組織される……。」(『資本  言命』 (4), 969頁)

(9)

 64         11) が,推察されよう。

皿 結合労働と労働の目的疎外

 協業=分業的な社会的労働の形成はこのように生産諸力発展の基本条件をな

す。社会的労働の形成はしかし,たんに集合的生産力をうみだすのみならず,

一方で人間を個別化し個体化するとともに,他方でその諸個人をして個体的制

         . . . . 12)

限を脱して一つの類鼻塞能を発展させる。というよりも社会的・集合的生産力

の形成とは,本来,人間の二上潜勢力と類的潜勢力との二つながらの展開と相

即不離のものである。そこにはじめて,自由な目的意識的な活動の能力と場が

       13)

拓けてくる。人間の類的性格はこの自由な意識的活動にこそあるからである。

       14)

この意味で生産力論は類的存在論と不可分である。ところで近代資本制社会は

11)協業の理論的発見と体系的措定は,やがて1860年代の諸ノートにおいて果される。  ところで,「その単純な姿態においては協業は……資本制的生産様式のある特殊的発  展時代の固定的・特徴的な形態をなすものではない」 (『資本論』(3),561頁)のであ  り,このかぎりでは協業そのものは歴史時代的概念というよりも,すぐれて論理的概  念(「資本制的生産様式の基本形態」)と考えられる。そこに1850年代のマルクスが,  分業とは区別して協業そのものを独自的カテゴリーとして析出しえなかった一根拠が  あるようにも思われる。 12) 「人間は文字どおりの意味で社会的動物である。たんに社交的動物であるばかりで  なく,社会のなかでだけ自己を個別化することのできる動物である。」(6)「労働老は  他の労働老たちとの計画的協力において,彼の個体的制限を脱して,彼の三三力能を  発展させる。」(『資本論』(3),553頁) 13) 「生命活動の様式のうちには,一種族の全性格が,その類意性活が横たわってい  る。そして自由な意識的活動が,人間の類的性格である。……意識的な生命活動は,  動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ,人間は  一つの類的存在である。」 (城塚・田中訳『経済学・哲学草稿」岩波文庫,95−6頁)。 14)次の指摘を参照せよ。「この社会的生産諸力は,ここ『草稿』では,さしあたって,   『類的本質』……として表現されている。」(平田清明「マルクス主義の生成と構造」,  同編『社会思想史』青林書院新社,1979年,319頁)「マルクスにおける『生産諸力」  概念は,Gattungswesen論から再検討されなければならない……。」(工藤秀明「原・  経済学批判としての1844年『草稿』分析序説一マルクス「生産諸力』概念の研究   (序)一」(下),『経済科学』第26巻4号,1979年4月,120頁)

(10)

      近代的生産力における労働の社会力  65

類を疎外するのと同様に,否その必然的内容として,生産力を疎外する。この

生産力疎外を近代的生産力の本質的な内容構造として把握しなければ,生産力

の永久免罪論におちいるであろう。「労働の社会的生産力」「労働の集合力」は

「資本の生産力」「資本の集合力」へと転化され疎外されるのであって,本節で

はそれを社会的労働からの目的意識的活動の疎外に焦点をあてて摘出しよう。

  〔2〕労働者のアソシアシオンー労働の生産性の基本条件としての協業

  および分業一は,すべての労働の生産諸力と同じように,すなわちアソ

  シアシオンの内包的集約度およびそれゆえその外延的実現度を規定する労

      む         

  働の生産諸力と同じように,資本の生産力として現れる。したがって労働

      り  り  ゆ        り

  の集合力すなわち社会的労働としての労働の性格は,資本の集合力であ

  る。〔1〕科学も同様である。〔3〕職業分割(Teilung der employments)   としてまたそれに照応する交換、として現れるところの分業〔社会的分業〕   ∼』同様である。(479二番号は本稿59−60頁の(1)∼(3)に照応)

 いうまでもなく近代市民社会における労働者のアソシアシオソ(協業および

分業)は,労働者の自由かつ主体的な意識的活動の所産ではなく,資本が諸労

働を結合し編成しかつ指揮することの結果として形成されたものである。この

労働結合の主体はあくまでも資本であって,労働者はむしろその客体である。

資本は「労働の社会的な力を創造する統一体」(481)として現れ,それゆえに

社会酌労働の独自的生産力は資本の生産力として現れる。それどころか「労働

の生産力は,それが資本の生産力であるかぎりで労働の生産力であるにすぎな

い」(247)のであって,資本制社会では資本の生産力として存在するのでなけれ

ば労働の生産力なるものは無である。こうして近代的生産力のもとでは,個々

の労働者はみずからの生産物から疎外されるのみでなくて,結合労働そのもの

に対しても他人のものとして関係することになる。『要綱』はこう続けていた。         ポテンツエン      コ   ワ コ ロ    

  生産の社会的諸力能はすべて資本の生産諸力であり,したがって資本はそ

  れ自体この社会的諸十能の主体として現れる。だからまた労働者のアソシ

  ァシオンは,それが工場で現れるぼあい,労働者によってではなく資本に

  よって措定されている。労働者の結集は,労働者の定在ではなくて資本の

(11)

 66

  定在である。個々の労働者に対しては結集は偶然的に現れる。労働者は,

      プ レ

  ほかの労働者と彼自身との結集,ほかの労働者との協業に,これに無縁

   ムト         ロ    ロ   〔他人〕のものとして,資本の作用様式として関係する。(47g)

 労働者が社会的労働(結合労働)に対して他人のものとして関係するという

       アウサロ

ことは,とりもなおさず,資本が「労働に対立して労働者の外部に生ずる統一

体」 「多数の労働力能の外部に自立的に実存している,労働力能の統一体」

(484)として存在するということである。集合労働者の統一体は集合労働者自

身のうちになく,その外部に対立的に存在する。ここには,資本の側での「多

数の生きた労働力能の一つの目的への集積」(484)が,労働の側での「自己目

的をまったく外部的な目的のために犠牲にすること」(387)が,内包されてい

る。労働者が結合労働から疎外されることと,結合労働者が目的定立(精神労

働)から疎外されることとは,同じ過程の二面であって,かの「単純な生産過

程」でみた労働の合目的性はここに資本の合目的性にとって代られる。 「労働 の社会的精神は,個々の労働者の外部にひとつの客観的存在をうけとる。」(428)

資本の生産力のもとでの結合労働の形成とは,このようにして同時に,結合労

働者からの目的定立(精神労働)の剥奪であり,自由な意識的三二活動の疎外

であり,つまりは精神労働と肉体労働の分裂と対立である。近代的生産力のも

とでは,結合労働の形成は労働からの目的疎外であることによって,結合労働

そのものの疎外であるほかない。 「合目的的活動」と「社会的精神」が二つな がら労働から剥奪されるのである。

  実際,資本の生産過程においては……労働は一つの総体一諸労働の一つ

       フレ

  の結合(Kombination)一であり,その個別的構成諸部分はたがいに無

  ムト

  縁であって,その結果,総体としての全体労働は個別的労働者の制作物で

  ぱないことになり,また種々の労働者が能動的結合者(Kombinierende)

  として相互にふるまうのでなく,被結合体(kombiniert)であるかぎり

  で,彼らがいっしょになったただそういう制作物ということになる。こう

       フ レ   ム ト

  いう結合においては,労働は他人〔無縁〕の意思と他人の知能に奉仕し,

      む      またそれに支配されるものとして,その精神的統一体(seelenhafte Ein一

(12)

       近代的生産力における労働の社会力  67

  heit)を自己の外部にもっているものとして,現れる。……だから結合労働

       

  は,二重の面からみて即目的〔=未発展〕な結合である。それは,〔1:

  相互的には〕協働する諸個人が相互に〔自由かつ主体的に〕関連しあうこ

  ととしての結合でもなければ,また,〔2:対自然的には〕労働の特殊的

  または個劉的な機能であれ,労働の用具であれ,それらへの〔合目的的〕

  統括としての結合でもない。したがって労働者が彼の労働の生産物にたい

  して無縁なものとして関係するのであるならば,これにおとらず労働者の

  結合労働にたいする関係行為も,無縁なものとしてのそれにたいしてであ

  る。ちょうど労働者が彼自身の労働にたいして,たしかに彼のものであり

  ながら,彼にとって無縁な強制された生命発現として関係するように…

  6’oQ (373−4)  労働が「被結合体」 「即自的な結合」しか形成しえないということは, 「諸

個人が彼ら自身の社会的諸関連をつくりだしていない」(79)ということであ

る。諸個人が「被結合体」から「能動的結合者」へと転換し,したがって「強

制された抑圧的なアソシアシオン」ではなく「自発的で公正なアソシアシオ

ン」(484)を結成するとき,そのときはじめて彼らは目的疎外のない生産力構

造をつくりあげる道を見いだしていくであろう。そのためにも生産力のカテゴ

リーは,労働と目的設定との連関を,すなわち精神労働と肉体労働との分業の

問題を,自己のうちに包摂するものとして構成されねばならない。

N 「工業と商業と科学」規定をめぐって

 われわれはr要綱』生産力認識の基層を上記のように労働の社会的生産力の

認識に見定めるものであるが,r要綱』の生産力概念をめぐってはすでに山之

      ユう 

内靖氏の問題触発的な研究があるので,本節では氏の所説の検討をとおして問

題を深めたい。マルクス・エンゲルスにおける世界史像の変革をめぐる山之内

!5)山之内靖『マルクス・エンゲルスの世界史像』未来社,1969年。以下,山之内氏か   らの引用はとくに断りなきかぎり,同書最終章「1け旧史像の変革と経済学」中の第二  節「生産力概念の発展」からのものである。

(13)

 68

      

氏のすぐれた分析の内容と結論についてはここでは一切省略して,直ちに問題

点にはいる。私の疑問は氏が,世界史認識の変革と相即座に,r要綱』からr資

本論』にかけて「生産力概念の発展」がみられるとして,次のように述べると

ころにある。

  資本制生産様式のブルジョア的統轄機構とひとまず切り離して,大産業の

  及ぼす客観的歴史変革力を強調していたr経済学・哲学手稿』やrドイ

  ツ・イデオロギー』の論点は,その後,1857−8年にかけて書きあらわさ

  れ, 『資本論』の原型的草稿たる位置を占めたあの『経済学批判要綱』に

  あっても,なお完全には払拭し切れないで残されており,随所にそうした

  思考の表現形態を認めることができる。この点は,『資本論』と比べた場

  合, 『要綱』における労働過程論や絶対的・相対的剰余価値の生産につい

  ての認識が,なおきわめて未成熟で形式論理的であることと無関係ではな

  いであろうし,また『要綱』の全体的構成が,著しく流通主義出門ュアン

  スによっていうどられていることとも深くかかわっていると思われる。

  『要綱』のなかでのマルクスは,例えば第一編「資本の生産過程」のなか

  のく資本と近代的土地所有〉を論じた箇所で「工業と商業と科学,つまり

  生産旧衣の一定の発達」というような,やや不用意な生産力概念を表明し

  〔ている〕……。

  これに対し,『資本論』における生産力概念のあり方が,いきなり「工業

  と商業と科学」としてではなく,すぐれて「労働の社会的生産力」として

  とらえられるようになるということは,いまさら典拠をあげて論ずるまで

  もないであろう。生産力概念を表現する仕方・様式にかんするこのような

  変化のなかにも,すでにこれをメカニックな物的体系としてとらえようと

  する志向が稀薄化し,すぐれて人的=社会的体系として把握しようとする

  言忍言哉がうかがわれる・…・・。

 強調点を付した箇所はr要綱』にかんする特徴づけである。生産力について

16)拙稿「マルクスにおける資本一般概念の転回」『彦根論叢』第194号,1979年2月,  参照。

(14)

       近代的生産力における労働の社会力  69

の山之内氏の主張を要約するならば,(1)r要綱』からr資本論』にかけてマル

クス生産力概念の中心視点は,「メカニックな物的体系」誕「工業と商業と科学」 から「人的=社会的体系」=「労働の社会的生産力」へと発展する,(2)『要綱』

的な「物的体系」中心の生産力概念は,同じくr要綱』の理論的未熟性(労働

過程論・剰余価値生産論が「未成熟で形式論理的」であること,全体的構成が

「著しく流通主義的ニュアンス」であること)と関連している,の二点にまと

められよう。マルクス解釈を離れて一というかその延長線上で一氏自身の

積極的立場が,生産力をすぐれて「人的;社会的体系」において捉えるところ

にあり,さらには「全体的に目的意識化された結合労働」を主体的に形成しう

るような「厳しい人間的変革」の聞題として再考するところにあることば,次

稿でもふれるように大いに首’肯できるばかりでなく,生産力概念の反省を迫っ

て鮮烈でもありまた先駆的でもある。私の疑問はひとえに氏の『要綱』評価に

かかわる。といっても氏はすでに「『要綱』ばイギリメ経験論・功利主義の立

       ユわ

場にかなり傾斜した著作だ」と,これまた鮮烈で雄大な思想史的位置づけを用

意しているので性急な発問はさし控えて,r要綱』生産力論に直接かかわる上

記α)の論点に限定したい。

 疑問点は,氏がr要綱』的生産力概念を「工業と商業と科学,つまり生産諸

力の一定の発展」(!88)なる一句で代表させ,これを「物的体系」視角からす

る「やや不用意な生産力概念」と性格規定していることである。『資本論』と

ちがって『要綱』には,たしかに「やや不用意な」用法が見えかくれしている

とも言えよう。「生産力(生産手段)と生産関係」(29)と書くときなどがそう

である。しかしr要綱』に「不用意な」用法が存在することとr要綱』的生産

力概念の基本を「不用意な」用法に求めることは別事であって,上来詳論し

てきたように『要綱』は「不用意」や未整序のなかで,近代的生産力をはっき

りと「労働の社会的生産力」認識の基礎のうえに捕捉しているのではなかろう

か。もちろんその「労働の社会的生産力」認識の深さにおいてr要綱』はr資

17) 山之内靖「書評・杉原四郎『社会科学の道標』」  1978年2月,101頁。 『甲南経済学論集』第18巻3号,

(15)

 70

本論』に譲るところ大であるとしても,生産力の「基本条件」を社会的労働力

に明確に見据えた経済学的展開はむしろ『要綱』をもって噛矢とすべきであろ

う。r要綱』と『資本論』との間の相違の基本は,生産力把握の「物的体系」

視角か「人的=社会的体系」視角かではなく,同じ「人的=社会的体系」視角

の深浅ではなかろうか。

 これと関連して『要綱』中の数多い規定のなかで,山之内氏がなぜ「工業と

商業と科学」なる一句でr要綱』生産力概念を代表させているのか,私にはわ

からない。たしかに氏においては代表させているというよりも,初期的思考が

「なお完全には払拭し切れないで残されて」いる例として出されているのであ

って, r要綱』を「工業と商業と科学」=「物的体系」の一色で塗りつぶそう

とされているわけではない。しかし「残されて」いる例を挙げるのなら,反対

に新しく胚胎した認識の例をも挙げなければ,r要綱』総体の評価はできない

はずであるが,氏はこれ以外の諸規定を顧みてはいない。しかしr要綱』の実

際に即してみるならば,同様な形で生産力諸要因を列挙するケースは他に数箇

所みいだされ(第1節参照),そこではいずれも「分業」「協業」など労働の社

会的体系にかかわる要因を挙示することが忘れられてはいない。のみならず

r要綱』生産力認識の基本構成そのものが労働の社会的体系を基軸に展開され

ていることは,すでに述べたとおりである。また山之内氏が正当に注目する人

的体系=「厳しい人間的変革」にかんしても,近代的生産力の前提として「一

般的な勤勉が新しい世代の一般的財産として発展すること」(231)や「社会的

な人間のあらゆる性質の陶冶」(312)を想定していたのは『要綱』であった。

したがって「工業と商業と科学」云々の一句でもって『要綱』生産力概念を代

表させることは,『要綱』に即してみて不適当ではなかろうか。代表する一句

をあえて選びだすとすれば,私としてはむしろ,「生産資力の発展,すなわち,

自然田力および機械の使用と,また社会的労働の自然諸カー労働者の集結,

労働の結合および分割〔分業〕のような一の発展」(417)を取りだしたいと

思う。

 さらに関連して,「工業と商業と科学」の規定を生産諸力を構成する個々的

(16)

      近代的生産力における労働の社会力  71

諸要因の「やや不用意な」列挙だと言うことはできても,それをただちに生産

力を「メカニックな物的体系」として捉えるものだとは言えないのではなかろ

うか。まして『要綱』総体の生産力概念を「物的体系」と特徴づけるときには,       ア ンラ  ゲ たとえば「主要生産力たる人間自身」(325),「享受の能力は個体的素質〔構想〕

の発展,生産力である」(599)というような生産力規定について,その位置づ

けを定めておかないと説得的ではなかろう。『要綱』はまた「富」概念をめぐ

っても,近代市民社会では「富は物的姿態で現れる」が,しかし「偏狭な市民

的形態を一皮むけば,富とは,普遍的交換によってつくりだされるところの,

諸個人の諸欲望,諸能力,諸享受,生産諸力等の普遍性でなくて何であろう

?」(387)と反問していた。われわれがここに,富が「物的体系」において一i

義的に規定される近代社会と,そのなかでの富のブルジョア的=「物的体系」

的な表象=概念との,両面批判を志向していたマルクスの姿を見るのは,はた

して誤謬であろうか。

 以上は,山之内氏の壮大で示唆的な体系のなかでは相対的に小さな問題であ

って,氏をして細かい議論にひきずりこむ意図はもちろんない。また上述の点

が氏の世界史像研究の高い到達点を微動だにさせるものでもない。のみならず

一般に,マルクスにおける世界史認識と経済理論との強い因果関係について

は,私も積極的に肯定したいと考えている。しかし一点「工業と商業と科学」

       

規定の評価をめぐっては疑問を禁じえないので,ここに呈示した次第である。

18) じつは他に,「『要綱』の全体的構成が,著しく流通主義的ニュアンスによっていう  どられている」との指摘にも疑問はのこる。『資本論』とくらべた『要綱』の体系展  開の基礎視角が資本概念のすぐれて〈世界市場一一恐慌〉論的構成にある,またそれと  関連してく蓄積;循環=回転〉論の同時展開の観点が強い,とは言えるが,はたして  いわゆる〈流通主義〉とまで言えるのだろうか。しかしこれは生産力論をこえて全体  的構成にかかわる問題なので,ここでは問わない。なお森田桐郎「資本主義の世界的  体系」『講座マルクス主義8,資本主義』日本評論社,!970年,296頁も山之内氏へ  の疑義を呈示している。

(17)

72

〈補論〉 生産力・生産諸力・生産性の用語法

 マルクスの生産力認識にかかわる用語として一般に,「生産力(Produktivkraft)」の ほか「生産諸力(Produktivkrafte)」および「生産性(Produktivitat)」が登場すること は,よく知られているところである。実際これら三つの類義語はマルクス研究においてっ とに注目されているところであり,またそれらのニュアンスを確定しょうとする試みも古 くからなされている。(必ずしもマルクス解釈に限定されないが次を参照。原光雄「生産 力の概念」,大阪市大『経営研究」第20号,!956年2月。高島善哉「生産力理論の問題関 心」『経済系』第116号,1978年6月。行沢健三『労働生産性の国際比較』上文社,1976 年J4−7頁)近年においてはとくに,従来もっぱら単数形の「生産力」において抽象的 かつ量的にのみ理解されてきた生産力認識を反省し,対するに,生産力のさまざまな構成 諸要因の具体的かつ構造的な総体としてこれを再把握しようとする努力が重ねられてお り,そのさい複数形の「生産諸車」がこの具体的総体を含意するものとして積極的に援用 されている。 (森田桐郎・望月清司『講座マルクス経済学1,社会認識と歴史理論」日本 評論社,1974年,108−9:頁。高島善哉『マルクスとヴェーバー』紀伊国屋書店,1975年, 268−9頁)  しかし,これら用語の相違が生産力認識の水準ないし局面のどのような相違と因果関係 をもつかをマルクスそのものに即していま一歩仔細に検討するとき,結論は必ずしも単純 明快ではない。『要綱』においても他の諸勢においても,これら三つの概念についてマル クス自身は明確な定義をあたえてはいないし,必ずしも厳密に系統だった一貫性のもとに 使いわけてもいないからである。そこでこの補論では,『要綱』が「生産力」「生産諸力」 「生産性」の三語を,それぞれ主にどのような含意ないし文脈において使用しているか, その傾向性を推定しておこう。これら三語がいかなる形容語および述語と連節されている か,その用例を統計的に追跡してみようという次第である。もちろん,この用例統計的な 外的接近のみでは上記三語のニュアンスを確定できるものでなく,最終的には理論的な内 在的接近をまたねばならないであろうが,その理論分析のおおよその方角と射程を定める ためにも,ここでこれらの用語の外堀を埋めておきたい。  『要綱』においてこの三語はそれぞれ全く単独に用いられるケースも少くはないが,多 くの場合,何らかの形容語または述語をともなっている。まず形容語との関係を一瞥して おこう。形容語として代表的なのは「労働の……」「資本の……」および「社会的……」

(18)

      近代的生産力における労働の社会力  73 であるが,「労働の」「資本の」の大部分は「生産力」「生産性」にかかっていて「生産 諸力」にかかる用例は少い。他方「社会的」の多くは「生産力」「生産諸力」にかかって おり,「生産性」にかかる用例はごくわずかである。つまり「社会的生産力」 「社会的生 産学力」はありえても「社会的生産性」なる語はほとんどない。では「生産性」に固有に かかる形容語は何か。「労鋤の」「資本の」以外には,「平均的……」「時間の……」 「同 一面積での……」などが挙げられ,逆にこれらの形容語を「生産力」「生産物力」と結び つけた例はない。この最後の点から推測できるのは,「生産性」は他に比してより多く量的 規定性を示す概念だということであるが,三者のニュアンスをもう少し分別するために, さらに述語との関係を調べてみよう。  述語といっても多種多様であって,なかには「……の対象化」「……の蓄積」といった JFj例も見出しうる。けれども圧倒的多数を占めるのは,「生産力」「生産諸力」「生産性」 の何らかの変化を示す述語であり,「……の発展(Entwickエung)」「・…・・の成長(Wachs・ tum, Wachsen)」「……の増加(Vermehrung)」がその代表例である。そこで問うべき は,「生産力」 「生産諸力」 「生産性」と「発展」「成長」「増加」とはどのような連節 関係にあるかである。用例統計をとってみると,(1)「生産性」は「増加」「成長」などす ぐれて量的変化を示す用語と結合して使用されており,「発展」を述語とする例は存在し ない,(2)「生産力」も多くは「増加」「成長」を述語としているが,「発展」を述語とす るケースも一「生産性」の場合とは異って一少からず存在する,(3)しかし「生産諸 国」は「発展」という量的大小に尽きないものを示唆する語と結びつけられる例が圧倒的 に多く,「増加」「成長」などの量的述語との連結例はきわめて少い,ということが判明 する。つまり頻出する用語群は,一極に「生産諸力の発展」,他極に「生産性の増加(成 長)」であり.両老の中間に「生産力の増加(成長)1一「生産力の発展」もないわけで はない一がある。これが『要綱』での主述連節の基本的傾向性である。ここから「生産 力」「生産丁田」「生産性」の三語のニュアンスについて,次のように推定することがゆ るされよう。  第一に「生産諸力」。これが多分に,量的変化を含むとしてもそれ以上のもの一質的 変化および広い歴史的視野一を暗示するところの「発展」なる述語と結合されて登場す ることからもわかるように,「生産引力」とはすぐれて,いわゆる生産力の構造や歴史的 性格への問いを含みうる概念である。事実,近代市民社会における資本の自己矛盾を指摘 したり,富概念を反省したり,近代社会を広大な歴史的パースペクティヴのうちに包摂し

(19)

 74 たりするときのように,『要綱』で近代的生産力が歴史的に相対化される文脈においては, 必ずといってよいほど「生産諸国」が使われている。例えば, 「資本は生産勢力の普遍的 発展につとめ,こうして瓢しい生産様式の前提となる」 (438),「偏狭な市民的形態を一 皮むけば,富とはJ普遍的な交換によってつくりだされる諸個人の諸欲望,諸能力.諸享 受,生産財此等の普遍性でなくて何であろう?」 (387).「生産関係,範疇一ここでは 資本と労働一の特殊の規定性は,特殊の物質的生産様式の発展および産業的生産諸力発 展の特殊段階の発展とともに.はじめて真実なものとなる……」(204−5),等々。このよ うに「生産母鳥」は,それがまさに複数形であることによって,一定社会の生産力なるも のを規定する多様多層な諸要因を特定の観点から抽象化して数字のうちに疎外するのでな く.それらを具体的な生きた連関総体のうちに捕捉しようとする概念であり,生産力を規 定する具体的諸モメントを表象しつつこれを大きな歴史的女脈のうちに性格づけようとす る概念である。  第二に「生産性」。これは「生産諸力」と対極的な概念であり,生産力の一定の質や性 格は所与の前提としたうえで,もっぱらその量的変動を一しかも多くの場合その個別的 要因に即して一測定するための概念である。さきにあげた「平均的生産性」「時間の生 産性」「同一面積での生産性」などの用例からも推測しうるように「生産性」は一「生 産諸力」とちがって一一定の質の枠内での生産力の大小を何らかの比率的数字で示そう とするものである。ところで一般に生産性なる概念には,何を何と対比するかによって多 数の定義がありうる。(生産性の詳細な諸定義をめぐっては次を参照せよ。L. ROSTAS, Comparative Productivity in British and American lndustry, Cambridge University Press,1948.田辺振太郎『技術論』青木書店,1960年,第10章。原光雄「生産性の概念に ついて」『経営研究』第56号,1961年9月。原「労働生産性について」同誌第58号,1962 年!月)しかし「要綱』では,労働の生産性が主要に問題となっていることは言うまでも ないとしても,その労働を何と対比するかの具体的記述はほとんどない。このように『要 綱」において「生産性」概念は,それほど緻密化されてはいないけれどもJすぐれてその 「増加」 「成長」あるいは「低下」という量的大小において測定されるべき概念として想 定されていることには間違いない。  第三に「生産力」であるが,これは二義的であって,一方で「生産性」と同じくもっぱ ら量的変動を示すために使われており,他方で「生産諸力」と同じく質的発展を含意する ものとして用いられている。用例数として多いのは前者であるが,後者として用いられる

(20)

      近代的生産力における労働の社会力  75 ときには.おそらく,具体的な「生産諸力」の総体を再び一個の集合名詞として総括的に 把握しようとの含意があるものと思われる。ついでながら,「生産力」=「生産諸力」 「生産性1の用例頻度比は,ほぼ4:2:!である。  参考までに『資本論』について一言するならば,次の諸点を指摘しうる。(1)三語中,用 例の圧倒的多数を占めるのは「生産力」であり,「生産性」がこれに次ぎ,逆に「生産諸 力」は激減する。「生産力」:「生産諸力」:「生産性」は約4:1:2である。「生産 諸力」の減少と「生産性」の増加は,『資本論』が『要綱』に比べて,資本制的市民社会 の内的運動法則を一層緻密に定式化しようとする傾向が強くなることの所産と考えられ る。出ただし「生産諸力」の減少は,この概念の放棄を意味するのでもなく,また生産力 の歴史的性格への問題意識の稀薄化を意味するのでもない。この語の使用が特定の理論領 域に限定されてくるのであり,その特定領域とは主として,利潤率低下論(第3部第3 篇),信用の役割(第3部第27章).収入批判論(第3部第7篇)など,すぐれて資本制社 会を歴史的:文脈のうちに反省しようとする篇章である。この点からも,「生産諸力」が歴 史的パースペクティヴをもった概念であることが判明する。㈲その「生産主力」は『要 綱』と同様,述語としてぱ大剛分「発展」をともなっていて,「増加.1「成長」をともな うことはまずない。働他方,「発展」が「生産諸力1とともにのみならず「生産力」とと もにも用いられていることは『要綱』と同様であるが,ただし『資本論』に顕著なのは 「生産力の発展」の用例が「生産諸撚の発展」よりも多いことである。そしてこの「生産 力の発展」の意味するところは,生産力の質的変化のみならず,量的変化を示す場合も少 くない。(5)けれども「生産力」の語自身についていうと,「発展」と結合されるよりも, 「増加」「一L昇」「変動」……など量的規定性を意味する述語と組合わされることの方が ぽるかに多い。ただし量的変化を指示する単語としては,『要綱』ではVermehrung, Wa chstumが多用されていたのに対して,『資本論』ではそれらがほとんど消滅して,代っ てSteigerung, Erh6hung, Wechselなどが頻出する。これは「生産性」についても同じ である。㈲結局『要綱』から『資本論』にかけて,「生産力」「生産諸力ゴ「生産性」の 基本的含意は変らないとしても,次第に「生産力」により重要性があたえられ,この語は 文脈によって「生産心力」(質)と「生産性」(量)の双方を,またいずれか一方を,指 示するものとして汎用されていくのである。  ただし,以上の用例統計分析はあくまでも用例上の多数値からの推定であって,マルク スのうちに例外の存在を指摘するのは比較的容易である。なお,この問題をめぐる理論的

(21)

 76 かつ形成史論的な最近の一論として,ルフェーブルの研究がある(J.一P.LEFEBvRE, Les deux sens de<forces productives>chez Marx,」艶郷66, N。207,0ctQbre 1979)。 この 論交はまず,『ドイツ・イデオロギー』の複数形の「生産諸力」概念のうちに,(1観念論 的歴史観を批判して歴史に唯物論的・実体的説明をあたえること,(2歴史的運動の決定的 要因であること(これは後の『経済学批判』「序説」で明確に定式化される),の二機能 を検出し,総じて「生産諸力の概念は歴史を足で立たせる」ものだと言う。次いでルフェ ーブルは単数形の「生産力」概念を問題とし, 『要綱』以降これが「生産性」概念に収敏 されていくように,「生産力」は歴史哲学的カテゴリーというよりも,むしろ資本の価値 増殖をあらわす経済的カテゴリーとして彫琢されていくのではあるが,しかし最後に『資 :本論』第3部では,「生産力」概念を一媒介として「歴史の唯物論的把握とマルクス主義 的資本理論との接合」がなされ,そのさい「生産力」概念は一あの『ドイツ・イデオロ ギー』および「批判』「序説」にみた一「『実体的』含意」と「歴史的パースペクティ ヴ」を再獲得するに至る,と結論づける。このルフェーブルの議論は,『ドイツ・イデオ ロギー』のProduktivkrafteとProduktionskraftの問題については無反省であり(この 問題については,廣松渉『マルクス主義の成立過程』至誠堂,!968年,117一・9頁,およ び望月清司『マルクス歴史理論の研究』岩波書店,1973年,204,208一 9頁,参照),ま た他にも留保したい論点が存在するのではあるが,「生産諸力」を唯物史観的概念,「生 産性」を経済的概念として把握し,「生産力」はその両義を含みうる概念として事実上呈 示している点において示唆的である。

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