• 検索結果がありません。

第一次大戦前ドイツにおける青年労働者と余暇

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "第一次大戦前ドイツにおける青年労働者と余暇"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第一次大戦前ドイツにおける青年労働者と余暇

著者

幸田 亮一

雑誌名

熊本学園商学論集

24

1

ページ

1-23

発行年

2020-01-27

URL

http://id.nii.ac.jp/1113/00003280/

(2)

第一次大戦前ドイツにおける青年労働者と余暇

幸 田 亮 一

論文要旨  今日、世界でもっとも短い労働時間ともっとも長い有給休暇制度を実現しているのがドイツである。 本稿の課題は、第一次大戦前のドイツの青年労働者に焦点を当てて、余暇がどのように形成されてきた のか、そしてその中身はいかなるものだったのかという問題を解明することである。  本稿で明らかになることは以下のことである。第一に、第二次産業革命期にあたるこの時代の産業技 術の発展は、生産過程の合理化により労働強度をもたらすとともに生産性を向上させ、折からの労働運 動の発展と相まって労働時間の短縮を引き起こした。第二に、自由時間の増大は、並行して進展した賃 金の上昇と相まって労働者の余暇活動を変質させた。第三に、その変質の中身を見ると、居酒屋での飲 酒中心から、ハイキングやスポーツなど身体を動かすスポーツ活動へ、そして急速に勃興しつつあった 映画へ、と転換しつつあった。  これらの動きは第一次大戦後のワイマール期に本格的に展開することになる。 < 構成 > はじめに 1 労働者と余暇  (1)労働者の状態  (2)時短と余暇の誕生 2 青年労働者の状態  (1)青年労働者の増大  (2)大企業の養成工 3 アルコールからスポーツ・映画へ  (1)労働者と飲酒  (2)トゥルネン、スポーツの普及  (3)映画の登場 おわりに < キーワード >: 余暇史 労働時間短縮 労働者スポーツ トゥルネン 映画誕生

(3)

はじめに

 労働と余暇についての研究は汗牛充棟といえるが、大きく 2 つに区分できる。すなわち一 方に、ヘーゲルとマルクスの流れを受けつぎ労働を人間形成の過程と捉える観点があり、他 方に、労働を苦痛とみなし遊びこそ人間の人間たる所以であるとみる観点がある1  人間の本質を労働におくか遊びにおくかの議論は、社会関係を抜きに抽象的に人間と自然 との物質代謝過程に絞った場合のことであるが、もう一歩進んでここに生産関係視点を取り 入れると多くの人間労働は強制労働としての性格を濃厚にする。とりわけ 18 世紀末からの産 業革命を転機に、工業化にともない工場労働者が増大し一日 12 時間以上の労働が広がり賃金 奴隷制とも呼ばれる状況が出現すると、労働時間問題は社会の重要課題となり、労働時間短 縮運動が展開することになる。  欧米では 19 世紀半ばより時短運動が展開し、とりわけドイツにおいては長年にわたる労働 運動と社会政策の展開により、今日では先進国の中でもっとも短い労働時間が実現している。 ドイツ人の間ではウアラウプ(Urlaub:休暇)という用語が日常会話の中で行き交い、富裕 層だけでなく庶民に至るまで長期休暇が最大の関心事となり、現在、ドイツは世界に冠たる 「ツーリズム大国」と呼ばれている。そのドイツにおいて、マスツーリズムの出発点と言える 労働者のツーリズムはいつ頃生まれたのかを扱った拙稿(幸田(2012))では、「労働者ツーリ ズム」をキーワードに検討を行い、それは第一次大戦前に求められることを、労働者のハイ キング組織「自然友の会」の活動を中心に明らかにした。  本稿は、それを踏まえ、引き続き第一次大戦前のドイツをとりあげ、労働者、なかでも青 年労働者に焦点を当てて余暇がどのように形成されてきたのか、そしてその中身はいかなる ものだったのかという課題に、2 つの仮説を立てて取り組む。すなわち、第二次産業革命期 にあたるこの時代の産業技術の発展は、労働だけでなく余暇にも影響を及ぼしたのではない か、さらに、労働者の自由時間の増大は、とりわけ青年労働者の余暇活動を変質させつつ あったのではないか、という仮説である。なお、本稿では青年労働者を広義に用い、14 歳か ら 30 歳くらいまでの労働者を対象としている。当時のドイツの統計では 14 歳から 18 歳まで を、少女も含む広義の少年 Junge としているが、ここではその世代を含めておおよそ 30 歳く らいまでの青年層を対象とする。 1  労働の本質についての論争については、さしあたり、大沢(1994)、鷲田(1996)を参照。マルクス 労働論の影響もあり、わが国ではこれまで労働重視の観点が強かったが、近年、「怠ける権利」を重視 する動きも強まっている。いくつかあげると、ラファルグ(2008)、ラッセル(2009)、小谷(2018)な どである。さらに、余暇を労働との対対比で「私的」なものとしてだけでなく、さらに「公共」の観点 を加えるべきであるとの河合(2015)の指摘は傾聴に値する。

(4)

 本稿は一次資料をもとに分析する研究ではなく、ドイツや日本における経済史や経営史、 技術史、労働史、スポーツ史などの先行研究に依拠しつつ、仮説の検証を行う研究である。 筆者は長らく経営史と産業技術史を中心にドイツを対象に研究してきたが、本稿はこれまで の研究方法に加え労働史やスポーツ史の成果を取り入れ、学際的な形で、これまでわが国に ほとんど知られていないドイツ民衆史の一面を提示しようという試みである2  なお、ドイツ語圏においては Freizeitpädagogik という言葉が 19 世紀末に登場する3。こ れは自由時間教育、余暇教育と訳せるだろう。この時代、教育関係者を中心に、若者の自由 時間の増大が飲酒や怠惰な時間を増大させるのではないかと危惧する人々が増え、その結果、 健全なスポーツやハイキング、読書などに若者を誘導しようと様々な組織が生まれることに なったのである。

1 労働者と余暇

(1)労働者の状態  プロイセンが中心となって 1871 年に成立したドイツ帝国の人口は約 4100 万人であった。 これが 1890 年には約 5000 万人、1910 年には約 6500 万人に増大している。総じて 1865 年か ら 1900 年にかけての時代は、出生率は高い水準を維持するなか死亡率が低下し、人口増加率 が 10 パーセントから 15 パーセントという、近代ドイツ史のなかで人口成長がもっとも著し い時代であった(桜井(2001)、81、96-98)。  こうした人口動態の背後には、急速な工業化の進展にともなう工場労働者の増大があっ た。19 世紀半ばまでは季節労働者や単身男性労働者が中心だったが、その後、次第に労働者 は都市に定着し労働者家族を形成していった。この傾向はドイツにおける都市化の進展と産 業別就業人口の変化で裏付けることができる。すなわち、就業人口の内訳を見ると 1882 年に は農業部門に 42 パーセント、工業部門に 35 パーセントだったのが、25 年後の 1907 年には 2  本稿に関連する研究史を大づかみに整理すると以下のようになる。まず、余暇についての先駆的研究 として 1970 年代に Nahrstedt(1972)や Reck(1977)、労働者スポーツ史に関して Ueberhorst(1973) が出ていた。その後、1980 年代に Huck(1980)や Giesecke(1983)によって労働者の余暇についての 本格的な研究が始まり、1990 年代に飲酒の社会史を扱った Spode(1993)やルール地方を事例に労働者 の日常史を詳述した Abrams(1992b)、青年労働者のスポーツ史を扱った Stiller(1991)などの労作が 登場した。さらに 21 世紀に入ると社会民主党 150 周年をスポーツ史で振り返ったクリューガー(2013) が出ている。さらに、スポーツ空間の広がりを歴史的に研究した Dinckal(2013)、さらにスポーツと労 働に関する最新の研究として Hau(2017)が出版されている。わが国の研究史では、小原(2011)がド イツ特有の身体文化といえるトゥルネン運動を帝国形成との関連で詳しく分析している。労働者スポー ツ史に関しては唐木(1975)の先駆的研究に、労働運動と酒場に関して原田(2016)に教えられた。 3  教育史研究者の観点からこの問題を詳細に解明したのが Nahrstedt(1972)である。

(5)

農業が 30 パーセントに低下し、工業が 42 パーセントへと逆転したのである(桜井(2001)、 114)。  工場労働者の最初の世代は農村との血縁関係を持っていたが、世代が交代する中、19 世紀 末には祖先の地と疎遠になる労働者が多くなった。彼らは都市の劣悪な住宅環境の中で暮ら すことを余儀なくされ、家族が狭い住宅にひしめき、病気が蔓延する状況に置かれた。  このような状況において、多くの労働者を必要とするルール地方の大経営は労働者の定着 を促すための住宅の建設に乗り出した。例えばエッセンのクルップ社(Krupp AG)におい ては、労働者確保のために疾病・年金金庫の整備と合わせて、まず 1850 年代に 200 人収容の 寮の建設を皮切りに、1860 年代には 8 棟連続の 114 戸の労働者向け社宅の建設を始め、1870 年代に本格化していった(田中(2001)、246-248)。もう一つルール地方の代表的な鉱工業都 市の一つであるボッフムを取り上げると、1874 年までに 400 住宅と 1200 の寮が建設されて いたが、さらに住宅建設は続き 1912 年までに雇用者の 35 パーセントが会社によって住宅を 与えらる状態だった。これらの住宅は、ビリヤードや読書室、ボウリング場、集会場などの レジャー施設を含んでいた(Abrams(1992b), 25)。さらにルール地方ではないが、化学工 業の事例を紹介すると、マンハイムのベー・アー・エス・エフ社(BASF: Badische Anilin- & Soda-Fabrik)は、1866 年に 4 戸の住宅を建設したのを皮切りに 1871 年には社宅として小 団地を建設している(加来(1986)、55)。もう一社、ベルリーンの老舗の機械製造会社のボ ルジヒ社(A.Borsig AG)を取り上げると、同社は 1900 年初頭までに、職員と労働者家族向 けの 1411 戸を収容する 113 棟の住宅を提供するとともに、430 人が収容できる独身者向けの 寮も建設した(Borsig(1902), 121)。  しかしながらこのような事例はドイツ全体から見ると例外的なもので、大多数の労働者は 劣悪な住環境を余儀なくされた。プロレタリアートの住宅事情を研究した経済学者ゾンバル トは、1 部屋に 6 人以上または 2 部屋に 11 人以上が居住するという過密住宅がベルリーンに 3 万、ブレスラウに 7000、ケムニッツに 5000 も存在していたと指摘している(Ueberhorst (1973), 40)。  そうした大都市の劣悪な地区に住む労働者の間では同胞としての新たな連帯意識も生まれ、 社会主義思想の浸透と相まって「労働者に固有の社会的な生活環境」、すなわち「ミリュー」 (Milieu)の中で独自の文化を築いていった(斎藤(2007)、29)。  このような社会問題を憂えた、シュモラー(Gustav Schmoller)やヴァーグナー(Adolf Wagner)らの「講壇社会主義者」と呼ばれた経済学者たちが中心になって、1872 年 10 月 6 日にアイゼナハにおいて社会政策学会が設立された(大河内(1936)、211-213)。社会

(6)

4  ボルン(邦訳 1973)、141-142 頁を参照。ただし一部訳を変更している。

政策学会はビスマルクにも影響を及ぼし、社会主義者鎮圧法と引き換えに社会保険関係法 の制定、女性と児童の労働時間の制限を推し進めたことは周知のとおりである。このよう な流れのなかで、ビスマルク失脚直後の 1890 年 5 月に、「新航路」政策を推し進めるプロ イセン商務大臣ベルレプシュ(Hans Hermann von Berlepsch)によって営業条例改正法 (Gewerbeordnungsnovelle)が帝国議会に提出、可決され、1891 年 6 月 1 日より施工された。 ボルンに従うとその要点は以下のとおりであった。  ・ 鉱山や塩坑、選鉱場、採石場および坑、工場、作業場、建築現場、煉瓦製造所、あらゆ る種類の建設現場に対して、日曜、祭日の労働が禁止される。商業に対しては日曜、祭 日の労働時間が最高 5 時間に制限される。  ・ 労働者を生命、健康の危険から保護するために、十分な照明、十分な換気、作業中に発 生した埃やガス、臭気、屑の除去に注意することが、企業に義務づけられる。さらに機 械との危険な接触から労働者を守る安全装置を機械には取り付けねばならない。  ・ 13 歳未満の少年は上記の企業で労働することをすべて禁止される。13 歳から 14 歳まで の少年に対しては 1 日最高 6 時間、16 歳未満の少年に対しては最高 10 時間労働が確定 される。16 歳以上の女性労働者の 1 日の労働時間は 11 時間を超えてはならない。女性 と少年は夜間労働をさせてはならないし、さらに女性労働者においては坑内労働が禁止 される(Born(1957), 98)4  このように労働時間短縮と監督官庁の権限強化が図られた帝国営業条例改正法は、労資双 方に大きな影響を及ぼした。  まず、労働者の自由時間の増大を憂えた資本家とブルジョワはさまざまな活動を行った (Giesecke(1983), 29)。たとえば労働者福祉中央協議会によって 1892 年 4 月 25 日から翌日 にかけて開かれた会議がそのひとつである。この会議において、労働者の余暇についての実 態調査をもとに、同協議会会長で経済学者のベーメルト(Karl V. Böhmert)が基調報告を 行った。ベーメルトは、家以外での労働者の余暇の例として、工場祭やクリスマス、職人の 集い、夏のハイキング、旅行(温泉湯治、海水浴、博覧会)、労働者施設(集会所、菜園、女 性の家、徒弟の家など)、図書館、クラブ(スポーツ、音楽、読書)、国民集会所などをあげ ている(Centralstelle (1893), 1-3)。これらは主に経営側の観点から整備された余暇活動や余 暇施設であった。いわば、次第に増加する労働者の余暇時間を経営側が囲い込もうと試みた 方策であったといえよう。ここに労働者の余暇をめぐる階級対立の展開の一端を読み取るこ とができる。

(7)

(2)時短と余暇の誕生  西洋中世においては、キリスト教とゲルマン文化の伝統のもとに日曜以外に各種の祝日が あり、一年のほぼ半分が休日であり、この状態は 18 世紀に至るまでカトリック地域ではほぼ 維持されていた。それが宗教改革によりプロテスタント地域で大幅に削減され、さらに啓蒙 国家は祭日を「放蕩と怠惰の温床」とみなして削減したため、日曜・祭日は年間約 70 日に縮 小されたのであった(下田(2009)、59-60)5。こうして長時間労働と休日短縮の時代が到来し たのだが、19 世紀後半になると再び労働時間短縮と休業日の増大の方向に変化し余暇時間が 形成されてくる。  余暇が誕生する背景は大きく二つあった。一つは、工場制度の変化である。第二次産業革 命の展開とも関連し、生産過程の合理化が進んだ。工業は大きく二つに、すなわち組立型工 業と装置型工業に区分できる。前者において工作機械の発達と互換性生産の進展により、折 から登場していた電動機によって工作機械の柔軟な配置が可能となり一連の加工組立ライン の整備に向かって合理化が進展し、後にこれが自動車工業ではフォードシステムに繋がって いく(中山(1979)、149-164、幸田(1994)、第 5 章)。他方、装置型工業においても、石炭 乾留の副産物のタールから合成染料が発見されたことを契機に有機化学工業が生まれ、連続 加工プラントが発達していたが、さらに 19 世紀末には石油精製という新しい技術が加わり、 化学工業分野での自動化が進んだ(中山(1979)、175-178、加来(1986)、第 1 章)。このよ うな変化にともない、従来と比べて労働者の筋肉労働の要求は減少した反面、大経営は労働 者に「より速く考え、より速く判断する」ことを求め、労働時間中に気を休める余裕がなく なった(Hübner(1988), 80-81)。これにより労働者は、以前に比べ緊張に満ちた神経・精神 労働の支出を余儀なくされ、労働強化の結果、労働力商品としての回復力を労働時間の短縮 によって確保することが必要になった。  この時代の、技術発展にともなう労働強度の増大と労働時間短縮の関係について、もっと も明瞭で先駆的な事例を提供するのがジーメンス・ハルスケ社(Siemens & Halske, AG)で ある。1847 年に電信機の製造のためにドイツ最初の電機工場としてベルリーンに創設された 同社における当初の労働時間は、朝 6 時始業で夕方 19 時終業で、それから昼休み 1 時間を 差し引いた 12 時間であった。これが 1858 年から朝 7 時始業となり 1 時間短縮された。さら に 1870 年代初頭には 1 日 10 時間(土曜日 8 時間)、週 58 時間半(6 日)になったのに続き、 1873 年には 1 日 9 時間、週 54 時間に短縮された。この背景には「アメリカ式専門工作機械 5  マルクスは「プロテスタントは、伝統的な休日をほとんどすべて仕事日にしたことによっても、すで に資本の発生史の上で一つの重要な役割を演じている」と指摘している(マルクス(邦訳 1968)、362)。

(8)

6  『資本論』の中で当時のイギリスの労働時間について次のように書かれている。「現在(1867 年)も有 効な 1850 年の工場法は、週日平均 10 時間を許している。すなわち、週初の 5 日は朝の 6 時から夕方の 6 時まで 12 時間であるが、そこから朝食のために半時間、昼食のために 1 時間が法律によって引き去ら れて、10.5 労働時間が残り、土曜は朝の 6 時から午後 2 時まで 8 時間で、そこから朝食のために半時間 が引き去られる。残りは 60 労働時間で、週初の 5 日が 10.5 時間、週末の 1 日が 7.5 時間である」(マル クス(邦訳 1968)、311)。 の導入やそれにともなう工場内分業の進展」によって過重労働が労働能率を低下させるとい う事態が進展していたことがあった(今久保(1995)、520)6  さらにもう一社、ボッシュ社(Robert Bosch)の事例を取り上げる。機械工の修行の後、 米英での遍歴修業を終え帰国したロベルト・ボッシュは 1886 年にシュツットガルトにおいて わずかな工作機械と職人一人、徒弟一人の小規模な作業場を設置し、誕生したばかりのガソ リン機関用の点火装置の製造を開始した。この事業は自動車工業の発展と比例して急成長を 遂げ、設備も従業員も急増し、1910 年には従業員数は 3000 人になった。この間、ボッシュ は設備投資と労働時間短縮を積極的に推し進め、1894 年には 9 時間制、1906 年には 8 時間制 を導入し、「赤いボッシュ」と他の経営者たちに警戒の念を持って見られるようになった。さ らに 1910 年には 50 万台目の点火装置製造を記念して土曜午後を休業にした。これにより、 労働者は、一方での月曜から土曜午前までの集中した労働と他方でのハイキングや家庭菜園 を楽しむ週末とを明確に区分できるようになった(Bosch(1961), 28-30)。  ここに紹介した 2 社は電機工業と自動車工業という新興部門で急成長した企業で、ともに 部品加工と組立の工程を持つ、広義の機械工業に属する。この機械工業こそ、19 世紀末か ら、一方でのタレット旋盤や自動旋盤などの登場に代表される機械体系、他方でのテイラー システムに象徴されるマネジメント、これら両面でイノベーションが集約的に展開した部門 であることは先に触れた通りである。イノベーションの進展と合理化が相まって作業速度を 上げ労働強化をもたらし神経を消磨させ、心身の回復により長い時間を必要としたのである。 ここで注目すべきは、合理化を推進した大企業において労働時間短縮が利益増加につながっ たということである。例えば、南ドイツを代表する機械会社のエム・アー・エヌ(MAN)社 においては 19 世紀末から経営を率いた企業家リーペル(Anton von Riepel)によって、設備 投資や労働時間短縮、育成工教育で先駆的な方策が推進されたが、表 1 が明瞭に示すように、 労働時間短縮にもかかわらず会社の利益は増加したのであった(Eibert(1979), 181)。

(9)

表1 MAN 社の売上高・労働者年収・週労働時間の推移(1898 年度〜 1913 年度) (出典:Eibert(1979), S.368)  労働時間短縮を進めたもう一つの要因は労働運動である。労働運動は産業革命の母国であ るイギリスから始まり、19 世紀半ばには選挙法改正と社会公正を求めるチャーティスト運動 とも相まって展開し、1846/47 年「チャーティスト運動と十時間運動とが頂点に達した」と 指摘されている(マルクス(邦訳 1968)、372)。その後、各国での工業化の進展にともない 世界に広がっていった。そういうなかで 1886 年 5 月 1 日にアメリカ合衆国のシカゴを中心に 労働組合が 8 時間労働を要求する統一ストライキを行った。これがメイデーの起源で、8 時 間制要求は 1890 年 5 月 1 日の最初の国際メイデーから 1918 年までの労働者の示威行動を決 定づけた(Nahrstedt(1972), 270)。  こうして、技術変化を土台とする生産過程の変化と労働運動の広がりの中で、19 世紀末 から 20 世紀初頭にかけて労働時間は短縮していった。資本主義の下での労働者の状態を詳 細に研究したクチンスキーはその大著の中で、第一次大戦前の 4 分の 1 世紀の間の鉱工業部 門の労働時間の推移に関して、それぞれの期間の平均として、1887-93 年が 11 時間、1893-1902 年が 10 時間半、時間、1893-1902-1914 年が 10 時間、1914 年が 9 時間半と推計している。ここから 1887 年から 1914 年にかけて 1 日あたりの労働時間が 2 時間半も減少していることがわかる (Kuczynski(1967), 389)。  他方、収入の方はどのように変化したのだろうか。労働者にとって余暇支出の増大に繋が る問題であったが、はたして労働者にそのような余裕が生まれたのだろうか。実は、第一次 大戦前の労働者実質賃金の上昇の時代であった。すなわち、1871 年から 1914 年にかけて労 働者の実質賃金は上昇傾向にあった。クチンスキーなどの数字を比較したリッターらの研究 によると、1895 年を 100 とした場合の 1913 年の実質賃金の指標はもっとも低い数字で 112、 もっとも高い数字は 128 と見積もっている(Ritter/Tenfelde(1992), 492)。  労働時間は短縮し、賃金は増大する。このような背景をもとに、労働者の「自由時間」あ るいは「余暇」への関心が高まったのが、第一次大戦前の 20 年間であった。それ以前は、早 朝から夜遅くまで働かされる労働者は終業後には疲労困憊で居酒屋に立ち寄って一杯飲まな いと家に帰れない状態で、とても余暇活動どころではなかったが、労働時間が短縮される中 で帰宅後も余力が残り、菜園の手入れや薪割り、家族との散歩ができるようになったと指摘 年度 1898 1903 1908 1913 売上高 ( 百万マルク) 19,534 23,719 38,192 63,992 労働者年収 ( マルク) 1,050 1,102 1,630 2,061 週労働時間 60 59.5 57 56

(10)

されている(Abrams(1992b), 22)。  では、当時の労働者の余暇はどのようなものだったのだろうか。19 世紀末まで、男性労 働者の余暇でもっとも大きな役割を占めたのは、居酒屋で仲間と飲んで歓談する時間で、そ の他には、時たまの祭り、家庭菜園くらいだった。労働者の妻は家族の世話に追われ、「レ ジャーとは歩くことと話すことであった」と言われるほど余暇活動と無縁だった。さらに ルール地方のクルップ社などの大経営で働く労働者の妻子は、工場で働く労働者に昼食を運 んでいく慣習もあった(Lüdtke(1980), 102-121)。ただし、労働者と言っても一律ではなかっ た。都市の上層労働者の中には、ブルジョワの影響を受けてスポーツや観劇、旅行などを楽 しむ人々も出てきた(Abrams(1992b), 169ff.)。  ここで労働者の余暇活動と伝統とのつながりを見ると、キリスト教に基づく様々な祭りは 余暇に関する議論を喚起した。当時の祭りは飲食だけでなく見世物など多くの内容を含んで おり、地域の伝統的な祭りの日に労働者たちが飲んで騒いで参加する機会でもあった。なか でも西部のルール地方において、農村出身の労働者が集まることにより「農村での伝統を引 き継いだ労働者文化」が生まれ、これは「キルメス Kirmes(教会堂開基祭)」と呼ばれ、多 くの労働者が参加した(原田(2016)、264)。このように、農村的・地域的生産の世界から 近代的な商工業生産の世界へと労働者の生活の場が変遷するのに応じて、19 世紀末の祭りは 内容が変質していったのである。  その後、20 世紀になると労働者の余暇活動は活発化し、質的な変化をともない余暇の大衆 化が進むことになる。とりわけ 20 世紀最初の時代は、都市の電化や市電整備、繁華街の形 成により、とりわけ大都市での労働者の余暇活動の転換期といってもよい。すなわち、20 世 紀最初から第一次大戦前までの間に都市の娯楽活動は、伝統的な居酒屋に加えミュージック ホールやダンスホール、映画などが登場することにより活発で刺激的なものになったのであ る。これらのなかで、商業資本の対象として急速に発展して労働者の余暇時間にも食い込ん でいく映画ついては後で詳しく取り上げて検討する。  ここで労働者の余暇に寄与したもう一つの産業技術の発展に言及しておかねばならない。 それが先にも触れた電化である。1891 年にフランクフルト国際電気博覧会が開催され、ドブ ロウォルスキー (Michael von Dolivo-Dobrowolsky)の三相交流の長距離送電の実験が大成功 を収めたことにより交流電気の時代を迎えた。フランクフルト市ではさっそく市街鉄道の電 化を進め 1901 年には既存路線の電化を完了した。その結果、利用者が急増し、年間の乗降客 数は 1900 年の 4114 万人から 1913 年には 1 億 1490 万人へと 3 倍増し、第一次大戦前夜まで に市電は住民の足になった(森(2009)、127-134)。公共交通機関の発達は、通勤時間や移動

(11)

時間の縮小を通じて間接的に労働者の余暇時間の拡大につながったのである。  以上のことをまとめると、19 世紀の労働者の余暇は、仲間と過ごす居酒屋で時間、時折の 祭り、散歩や家庭菜園など、居酒屋を除くと非商業的な余暇が中心だったが、20 世紀に入る と大都市において電車網が整備され、繁華街が形成され、映画などの商業資本が参入するこ とになったのである。労働者の余暇活動の本格的な展開は第一次大戦後になるが、余暇産業 の萌芽は第一次大戦前におおかた出そろったといってよいだろう。

2 青年労働者の状態

(1)青年労働者の増大  すでに述べたように、19 世紀末はドイツ近代史の中でもっとも人口が増加し、経済が成 長した時代であり、ドイツにおける大規模な人口移動が見られた時代であった。ドイツの就 業人口の推移を見ると 1875 年に約 1860 万人だったのが、1900 年に 2550 万人、1914 年には 3130 万人に増加している(桜井(2001)、20)。  そして一方での高い出生率と他方での死亡率低下により人口増加率が高くなったが、それ はドイツ帝国の年齢構成にも反映されている。すなわち 1871 年に 14 歳以下が 34.3 パーセン トを占めており、1900 年でも 34.8 パーセントと、どちらの時代も全人口の 3 分の 1 強を占め ていたのである(桜井(2001)、107)。1900 年について計算すると、全人口は 5637 万人だっ たので、14 歳以下は約 1960 万人ということになる。  それでは、一体どれほど多くの 14 歳から 18 歳までの少年労働者がドイツにいたのであろ うか。プロイセンについては表 2 および表 3 のデータが教えてくれる。ここからわかるよう に、1895 年に 350 万人強だったのが、1907 年に 430 万人強までに増加しているし、産業部 門別では鉱工業に就業する少年労働者が特に増加していることがわかる。これをもとにドイ ツ帝国全体の少年労働者数の概要を推定してみよう。1910 年時点で帝国全体の人口の中でプ ロイセンの占める比率は約 62 パーセントだった。それを元に単純に計算すると、帝国全体で 1895 年に約 565 万人、1907 年に約 694 万人の少年労働者が存在していたと推計できる。  こうして 20 世紀初頭に 600 万人台から 700 万人台の人数に達した少年労働者の置かれた環 境は決して楽なものではなかった。すなわち未だ成長期にある 14 歳から 16 歳の少年が 10 時 間も機械の前で働かされたし、16 歳から 18 歳の年代を含む大多数の少年は大企業において も厳しい労働環境に置かれていた。さらに小営業においては 14 歳からの少年も含む数十万人 の若年層が法律の保護外で制限なしに搾取される状態にあった。それでも彼らは機械が休止 すると休むことができたため、手工業徒弟に比べるとましであった(Korn(1922), 18)。手

(12)

工業徒弟の中には、時計もない作業場において専制的親方の下で長時間働かされている少年 も多く、これはしばしば「徒弟虐待」と呼ばれた。

 そういうなかで 1904 年 6 月にベルリーン郊外のグリューネヴァルトにおいて打撲傷とみみ ず腫れのある若者の死体が見つかった。これは徒弟虐待の結果だったことが判明し、怒れる 青年労働者の組織化のきっかけとなった。

 こうして「ベルリーン徒弟・青年労働者連盟」(Verein der Lehrlinge und jugendliche Arbeiter Berlin)が 1904 年に結成され、会員は最初 24 人から始まり後に 500 人に急増し、 1905 年元日には新聞を発行し、青少年労働者の経済的・精神的な団結を訴えた(Korn(1922), 31-36)。この運動は北ドイツ各地に広がり、翌 1906 年にはベルリーンにおいて「ドイツ自由 青年組織連合」(Vereinigung der freien Jugendorganisationen Deutschland)が創設され、そ れは 1908 年半ばには 36 組織、5431 人の会員を持つまでに急速に増大し、青少年保護、教養 形成、教育を要求して運動を展開した(Giesecke(1981),40)。 表2 プロイセンの少年労働者(1895 年) 単位:人 表3 プロイセンの少年労働者(1907 年) 単位:人 (出典)Korn[1922], S.16. (出典)Korn[1922], S.16. 年齢層 性別 鉱工業 農林業 商業 ・ 交通 公務員 職員 徒弟 14 歳から 16 歳未満 男 364,342 318,795 49,217 23,091 11,033 701,033 女 95,376 232,370 23,497 166,562 728 16 歳から 18 歳未満 男 469,619 322,097 66,997 28,702 22,135 女 142,432 267,200 44,127 215,831 2,874 小計 1,071,769 1,140,462 183,838 434,186 36,770 701,033 総計 3,568,058 年齢層 性別 鉱工業 農林業 商業 ・ 交通 公務員 職員 徒弟 14 歳から 16 歳未満 男 469,842 333,218 65,809 22,013 25,799 809,286 女 149,780 332,759 38,632 171,583 6,256 16 歳から 18 歳未満 男 575,948 316,829 86,228 31,366 45,949 女 212,082 343,637 61,076 209,683 18,530 小計 1,407,652 1,326,443 251,745 434,645 96,534 809,286 総計 4,326,305

(13)

(2)大企業の養成工  このように手工業徒弟は劣悪な環境下にあったが他方で新しい動きも出てきた。すなわち、 機械工業や電機工業、自動車工業、化学工業など、いわゆる第二次産業革命を主導した工業 部門においては事情が変化しつつあった。  これらの工業部門においては 19 世紀末から生産過程の合理化が進み、工業原価計算が制度 化され、労務管理においても親方を通じた間接管理から会社職長を通じた直接管理へと工場 管理の近代化が急速に進んだ。これらの動きと並行して、次の時代を担う基幹工を育成する ための工場養成工制度が生まれたのである。このような動きをいち早く取り入れた企業とし て、ジーメンス社やボッシュ社、レーヴェ社(Ludwig Loewe)、エム・アー・エヌ社などが 知られていた。  なかでも、工作機械メーカーとして急成長を遂げた、ベルリーンのルートヴィヒ・レー ヴェ社は先駆的な工場養成工の教育制度を整備したことで先頭に立っていた。すなわち、同 社は最新工場を建設したことを契機に、懸案であった基幹工の育成に乗り出したのである。 当時、まだほとんどの大手機械工場においても、工場徒弟の育成は現場まかせになっており、 職長の裁量に委ねられていたのだった。しかし第二次産業革命の進展にともない機械が高度 化し複雑化するなかで、現場を担っていく基幹工の育成のために養成工学校の制度が必要に なっていた。  このような状況を踏まえレーヴェ社は、1899 年に機械製造部門の経営技師であったシュ レージンガー(Georg Schlesinger)に、技術・事務職員の中から教師を選抜し、80 人程の養 成工をクラス分けし、企業内養成工学校を設置することを委嘱した。それを受けて翌 1900 年 に 3 クラスで養成工学校が始まり、座学として数学、物理学、化学、機械工学、幾何学、製 図、簿記、ドイツ語を教え、あわせて体系的な技能実習が行われた。最初は夕方 4 時から 6 時までの時間帯であったが、後にはさらに早朝 7 時から 8 時も追加された。その後、プロイ センにおいて補習学校制度が義務化されたとき、ドイツで最初に認可されたのがレーヴェ社 の養成工学校であった。この後の 30 年間に養成工教育は大きく進化しスポーツも加わって いった。さらに、年代は不明であるものの、その後、養成工のために球技や徒競走のための スポーツ場が整備され競技会が開催され、教師の指導のもと各地を回り自然を知るためのハ イキング旅行が企画された(Loewe(1930), 138-140)。

(14)

7  3 種の区別を教えられたのは原田(2016)論文であり、Roberts(1980)を確認した上で訳語としては 原田訳に従った。 8  居酒屋問題と政治の関係について、居酒屋主人という仲介者をいれて別の目でみてみたい。彼らは その支援者との関係から労働運動の信任者の地位を得ており、実際、社会民主党の国会議員のなかで、 1890 年代には 35 人中 4 人、1906 年には 81 人中 6 人が居酒屋の主人だった(Spode(1993), S.237.)。

3 アルコールからスポーツ・映画へ

(1)労働者と飲酒   労 働 者 の 余 暇 と の 関 連 で 重 要 な 役 割 を 果 た し た の が 飲 酒 で あ る。 ロ バ ー ツ に よ る と、飲酒はその形態から 3 つに区分できる。すなわち栄養摂取としての「手段的飲酒」 (instrumentales Trinken)、仲間意識醸成のための「社会的飲酒」(soziales Trinken)、そし

て自分を忘れるための「麻酔的飲酒」(narkotisches Trinken)である7  19 世紀末のドイツの労働者においては特に社会的飲酒の役割が大きかった。労働者と飲酒 の関係については、シュポーデによる力作が出ている(Spode(1993))。そこでは、歴史的 な経緯から、20 世紀に至るまでの、労働と飲酒に関する多様な側面が解明されている。産 業革命後のアルコール問題に関しては、長時間労働に由来する疲労を麻痺させるために強 い酒が飲まれたこと、その後「聖月曜日」のような飲酒慣習の問題が広がったことはよく知 られている。他方では、とりわけ 1871 年から 1890 年までの社会主義者鎮圧法の時代に、社 会民主党系の労働運動の活動拠点としての役割を居酒屋が担ったという歴史も無視できない (Spode(1993), 237-240)。  社会的飲酒の場である酒場は、ブルジョワにとってのカフェと同じように、労働者にとっ ては他の労働者と交流する場であった。当時、38 歳の金属工は「多くの労働者は残念ながら 家で楽しみを見出せない」と述べて居酒屋の楽しみを強調している(Reck(1977), S.143)。 劣悪な居住環境のもと労働者がくつろぐ場所がなかった時代にあって居酒屋は労働者にその 場所を提供したのであった。  さらに、酒場は単なる歓談の場ではなく、プロレタリア闘争のための集会場の役割を果た し、「党酒場」(Parteiwirte)という言葉も生まれた8。こうして労働者が集まった居酒屋の もつ政治的潜在力をもっとも有効に活用したのが社会民主党と自由労働組合であった。労働 者は半ば自発的に半ば強制的に居酒屋に集まり、労働時間外という意味での自由時間を利用 して政治に関与することになった。居酒屋での政治はとくに選挙活動やストライキにおいて 大きな役割を果たした(Roberts(1980b), 139)。  社会主義者鎮圧法のもとでは、社会主義運動が非合法化されたため、居酒屋を拠点に「革 命とアルコール」が一体となって活動が展開した面があったが、1890 年に同法が撤廃される

(15)

と問題は一挙に表面化した。飲酒問題は社会民主党の機関誌 Die Neue Zeit 紙上で議論の対 象となり、党本部の姿勢が攻撃された。党本部への批判は二面的なもので、一方で党本部は アルコールとともに革命を煽ると非難され、他方では党本部は革命をアルコールで溺死させ ると非難された(Spode(1993), 236-246)。そういう中で、社会民主党のリーダーであったカ ウツキー(Karl Kautsky)は酒場擁護論を展開している。その要旨は、資本主義の弊害と本 来のアルコール文化を分けるべきだとの内容で、原理主義的な反アルコール主義、禁酒運動 を批判したのであった(原田(2016)、255-256)。総じて、アルコール問題について社会民主 党は、一方では飲酒抑制に賛成しつつも、他方では禁酒を強く要請はしなかったのであった。  ここで一つ注意すべきことは、この時代の労働運動は男性労働者、しかも熟練工中心の運 動であったことである。労働運動、社会政策、生産過程合理化、これらが相互に関連しあい ながら 19 世紀末から第一次大戦前にかけて労働時間が短縮されていった。これに対して、資 本家とブルジョワは危惧の念を抱き、中間層による様々な改良主義的運動が展開し、禁酒運 動9とも連携しながら酒場の攻撃を行った。さらに労働者の妻の家事能力向上なども支援し ながら、男性労働者と酒場の結合を断ち切ろうと試みた(Roberts(1980b), 137)。  こうして、一方での労働時間中の飲酒に対する非難キャンペーンの展開、他方での高い集 中力を要する仕事の増大の中で、工場労働者の飲料のなかでアルコール分の高いブランデー から低アルコール飲料のビールへの転換が 1880 年代に進んだ。この結果、第二帝政期に全 アルコール消費の 3 分の 2 を占めていたブランデー消費量は全体の 3 分の 1 へと減少してい る(Spode(1993), 255)。合わせて、コーヒーや紅茶、レモナードなどを食堂に用意し、低 価格または無料で提供する工場も出てきた。例えば既述の機械製造会社ボルジヒ社は、勤務 中の飲酒防止のために 19 世紀末にコーヒー飲み場(Kaffeeküche)を提供し 1901 年には 4 万 6000 リットルのコーヒーを労働者に無料で提供した(Borsig(1902), 123)。  第一次大戦前に書かれた記事によると、アルコール問題はこの数年来、多くの関心をひく 社会問題になっているとのことである。そこでは、貧困層での家計支出に占める割合の大き さ、大手醸造会社の策略、犯罪との結びつき、代替飲料(レモナード、炭酸水、水、コー ヒー)との関連、汚い酒場、共同生活による飲酒の弊害などが指摘されている(Dix(1911), 539)。 9  飲酒は労働者階級にとって多面性を持つ大きな問題であったが、ここで余暇問題との関連に絞って一 つの歴史的エピソードに言及しておく。イギリス産業革命の時に誕生した旅行代理店のトーマス・クッ ク社がもともとは労働者の禁酒運動からスタートしたこと、それからもうひとつ、ウィーンで始まった 「自然友の会」も禁酒運動から始まったこと、この 2 つを歴史的に重要な出来事として指摘することが できる。

(16)

 飲酒問題は青年労働者にとっては、成長期の飲酒の害に加え、教育上の悪影響、暴力や反 社会活動との結びつきなど、壮年労働者と比べて独自の問題性を含んでいた。青年労働者に とって、余暇産業が生まれる以前の時代にあっては給与の使い道が酒以外にほとんどなかっ たため、余暇とアルコールの結びつきはより鮮明なかたちで青年労働者に現れたのであった (Roberts(1980a), 237)。 (2)トゥルネン、スポーツの普及

 教育者のヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)は、ナポレオン支配下のプロイセンの若者の 教育のために愛国教育と体操を結合したトゥルネン(Turnen)を考案し、後に「ドイツ体 操の父」と呼ばれるに至った。トゥルネンは器械体操を中心に陸上競技や水泳を含む複合種 目としてドイツでは身体訓練技法として、ブルジョワの中で生まれ展開していった(唐木 (1975)、447)。そして 1863 年にドイツ最初のスポーツ団体の組織としてドイツ・トゥルネン 連盟(Deutsche Turnerschaft)が結成された。なお、トゥルネンは日本語の「体育」とは異 なるところもあるので、近年のわが国の研究動向に従ってそのままカタカナで表記する(釜 崎(2017)、26)。  ではドイツにおいて「スポーツ」という言葉はいつ頃から使われるようになったのであろ うか。硏究史によると 19 世紀の後半のことのようである。少なくとも 1890 年代には、ドイ ツの代表的百科事典であるマイヤー百科事典とブロックハウス百科事典のどちらにも Sport が登場した。後者では英国から来た概念と指摘されているが、どちらの百科事典も、スポー ツとは「自由」に行われる楽しみという点が指摘されているとのことである(Dinckal(2013), S.29)。スポーツという用語の普及は、当時のドイツに広く普及していたトゥルネンと区別す る意味も含んでいた。  ここで、産業技術史とスポーツの関係について言及しておく必要がある。もっとも重要な 影響を及ぼしたのがゴム技術の発展である。ゴムの木からゴムの塊を作り出し遊びやガムと して利用したのは中米の住民たちだった。それをコロンブス達がヨーロッパにもたらしたが 最初はただ珍しい土産にしか過ぎなかった。天然ゴムは冬には固まり夏には溶けるという性 質があり、これを改良すべく、多くの人々が取り組んだ。苦心の末それに成功したのが、米 国人のグッドイヤー(Charles Goodyear)であった。彼は、様々な実験を重ね、1839 年につ いにゴムに硫黄を混ぜて加熱し、耐熱性を持つゴムを開発した。グッドイヤー自身は特許問 題に悩まされ貧困の中で失意のうちに亡くなったが、別の形で彼の名前をつけた会社が今日 に至っている。さらに、スコットランド人のダンロップ(John Boyd Dunlop )が 1887 年に

(17)

空気入りタイヤで特許を取得し、その後の自転車や自動車の発展を促したことについてはよ く知られている。スポーツとの関係で画期的なことは、それまでの動物の膀胱を用いたサッ カーボールや木を用いたゴルフボールなどの素材に、19 世紀後半に改良ゴムが組み込まれ、 テニスを含めて球技の質を一挙に向上させたことである。これにより、球技を楽しむスポー ツ人口が急速に増大した(佐藤(2018)、第 8 章)。労働者との関連では、サッカーや自転車 の登場によって労働者のスポーツ活動を広げたことを指摘しておくに留める。  ここで本題に戻ると、ドイツにおいて工業化が進み、労働者階級が増えるとともに労働時 間が短縮する中で、集団の中で身体を鍛錬することに関心を持つ労働者が増えて、ドイツ・ トゥルネン連盟に参加するようになった。しかし、同連盟はもともとブルジョワと中産階級 が中心の組織であり、活動時間や会費などで両者の間に軋轢が生まれ大きくなっていった。 社会主義者鎮圧法が施行されていた 1878 年から 1890 年にかけて、同連盟が皇帝を支援して いたことも社会主義を支持する労働者の反発を買っていた。  この結果、同法撤廃後の 1891 年から、社会民主党の指導下に 1893 年 5 月、ゲーラ(Gera) において労働者トゥルナー連盟(Arbeiterturnerbund)が設立された。当初、この組織は社 会民主党、自由労働組合に続き、ドイツにおける「労働運動の第 3 の柱」になると意気込み、 ブルジョワとは違う労働者独自の余暇活動の可能性を追求した(Stiller(1991), 13)。こうし て労働者トゥルナー連盟は、新聞の発行や学校運営、指導者育成など精力的に活動を展開し た。労働運動が体育を重視していたことは、19 世紀半ばに誕生し世紀末には社会民主党と連 携して活動していた「ドイツ労働者教育協会」(Arbeiterbildungsverein)が、計算、筆記な どと並んで、19 世紀末にはトゥルネンを労働者の教養科目に加えていたことからも窺い知る ことができる(Krüger (2013), 有賀訳(2013), 167)。  当時、ドイツのトゥルネンやスポーツの世界においても、資本家・ブルジョワと労働者の 対立が激化し、苛烈な闘争が展開した。すなわち、ドイツ・トゥルネン連盟は、内部の社会 民主主義的勢力の排除に力を入れたのに対抗して、社会民主勢力は労働者トゥルナー連盟の 育成という対抗措置をとったのであった。  なぜ、体育・スポーツにおいてこのような先鋭な階級対立が生まれたのだろうか。その背 景として、当時のドイツにおいてはまだ学校教育の中に体育が含まれていなかったという事 情があった。そのため、14 歳から 21 歳までの青少年の体育教育はドイツ・トゥルネン連盟 や労働者トゥルナー連盟に委ねられていたのだった。前者においては、ドイツの帝国主義的 政策に従順に従うとともに兵士調達の源泉として健康な青少年を必要としていたのに対し、 後者においては労働現場で頑健に働くとともに社会主義を実現するための屈強な青少年を必

(18)

要としていた。まさに、階級対立が体育・スポーツの世界に顕現していたのだった(唐木 (1975), 459-462)。  両者の苛烈な闘争は、1908 年の帝国結社法によってさらに加速された。これは、埋もれて いた様々な法律を根拠に引っ張り出して、労働者によるトゥルネンやスポーツ関係の組織を 弾圧するために制定されたものだった。このような中で、両者ともに全国的な組織強化を図 り、ブルジョワの方は 1911 年に青年ドイツ同盟(Jungdeutschland-Bund)を結成し、それに 対抗して労働者側は 1912 年に労働者スポーツ体育中央委員会(Zentralkommision für Sport und Körperpflege)を結成した(唐木(1975)、459)10  このような政治的背景も濃厚に持ちつつ発展した労働者スポーツの中でどのような種目が 人気で、組織化はどのように進んでいたのであろうか。それを示すのが表 4 である。ここか ら、多くの労働者スポーツ組織が 1890 年代から 1900 年代初頭に誕生したこと、第一次大戦 前の数年間に会員数が 34 万人弱から 43 万人弱へと 9 万人近くも増大していることがわかる11 表4 中央委員会加盟団体会員数およびクラブ数 (出典)唐木(1975), 462. 10  労働者のスポーツ活動史については、成田(1977)や Hau(2017)、Krüger(2013)などを参照した が、問題の所在を簡潔に整理しているのは唐木(1975)論文である。なお、19 世紀末のスポーツに関 しては「アマチュアリズム」に言及しておく必要がある。これは西洋において産業革命の後、社会的 な支配者層になったブルジョワジーが、支配層として旧来の貴族に代わって「余暇」を享受する特権 を独占するために、日頃から身体を動かす労働者を「身体活動のプロ」として排除するイデオロギー として誕生したのである(玉木(1999)、26 頁を参照)。19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてのドイツ におけるスポーツをめぐる階級対立はまさにこのようなイデオロギー対立を反映している。 11  この表にサッカーという名前は出ていないが、これは一番上の労働者トゥルナー連盟に含まれてい ると推定できる。なお、ドイツサッカー協会は早くも 1905 年末に 433 クラブと 2 万 5000 人の会員が いたとのことである。著名なゲルゼンキルヘンの FC Schalke 04 は 1904 年の創設時にわずか 16 人の 会員で出発し、10 年後には約 90 人に急増している(Abrams(1992b), 171)。 1911 年 1912 年 1913 年 会員数 クラブ数 会員数 クラブ数 会員数 クラブ数 労働者トゥルナー連盟 (1893 年創設 ) 169,308 2,025 183,383 2,222 186,707 2,409 労働者自転車連盟 (1896 年創設 ) 133,928 3,230 143,369 3,609 175,000 3,800 労働者陸上競技連盟 (1905 年 ) 2,500 108 6,000 200 10,000 300 労働者水上スポーツ連合 (1897 年創設 ) 5,999 43 6,650 42 8,060 45 労働者救急協会 (1909 年創設 ) 2,172 47 3,760 66 5,000 100 自然友の会 (1895 年創設 ) 16,299 - 21,985 102 30,000 300 国民健康連合 (1890 年創設 ) 9,500 60 11,200 60 12,000 64 計 339,706 - 376,347 6,301 426,767 7,018

(19)

(3)映画の登場  先に述べたように労働者、特に、金銭的に余裕のある若い労働者を含む大衆の余暇時間と して重要な役割を果たすようになるのが映画である。映画はスポーツや移動遊園地、日帰り 旅行、その他の余暇活動と一体となって大衆の余暇活動の中に急速に入っていくことになる。 まさに「キルメスから映画への転換」は自由時間の転換を意味した(Abrams(1992a), 33)。  ここで 19 世紀の映画の技術史を整理しておく必要がある。光学技術と電気技術の新しい 結晶である映画は 20 世紀の大衆の余暇生活を大きく変えていく技術となった。その出発 点となる写真技術は 1839 年にフランス人のダゲール(Louis Daguerre)によるダゲレオタ イプと呼ばれる銀板写真の発明を嚆矢として、1870 年代に写真乾板が登場していた。その 後、米国でマイブリッジ(Eadweard Muybridge)が連続写真により馬の疾走の動きを動体 写真という形で記録することに成功し、動画への道が切り拓かれたことにより、発明王エジ ソンも参加して世界中で開発競争が白熱化した。そして 1889 年に米国のイーストマン社が セルロイドの映画フィルムを開発したことにより大きく前進し、ついに 1895 年にフランス 人リュミエール兄弟(Auguste & Louis Lumiere)が撮影・映写を行う複合機シネマトグラ フ(cinématographe)を開発し、パリで初めてスクリーンに動画を映し出すことに成功した (出口(2004)、12-14)。ここに映画の時代が誕生し、第一次大戦までの約 20 年間に映画会 社、映画俳優、初期アニメなども生まれ、一大産業として世界的に発展していったのである。  映画は、生産面での大量生産に呼応する、消費面での大量消費を象徴するもので、マスメ ディアという新しい経済活動分野を生み出し、これから後、労働者を含む大衆の消費市場に 貪欲に参入していくことになった。長らく第二帝政期ドイツの映画史についてはあまり知ら れていなかった。しかし近年の研究の結果、1895 年から 1906 年までが「出現と実験の初期 時代」、1906 年から 1910 年までの「拡大と強化の段階」、そして 1910 年から 1918 年までの 「長編映画を生み出した規格化の過程」と 3 区分できるほどの急速な発展の時代だったことが 明らかになってきた。しかも、常設映画館の整備および上映フィルムの週ごとの更新により 急速に普及し、多くの労働者や職員などの大衆の心を映画がつかんだのが第一次大戦直前の 時代だったのである。それを裏付けるように 1913 年の 1 年だけでドイツ国内で 350 本以上の 新作映画が制作されたのであった(ハーケ(2010), 19-26)。  第一次大戦前のドイツにおいて映画がどのように普及したかは映画館の数から推し量るこ とができる。ドイツには 1912 年に約 1500 館の映画館があったのが、1914 年 8 月に第一次大 戦が勃発する直前には約 2500 館に急増しており、この時点で 1 館あたり平均 200 人の観客席 を持っており、すでに 1000 人を収容できる大規模映画館も登場していた。都市別では、それ

(20)

より 4 年前の 1910 年の数字であるが、ベルリーンに 139 館、ハンブルクに 40 館、そしてエッ センにも 21 館があった(Abrams(1992b), 171-173)。最後の事例は特に示唆的である。すな わち、クルップ社の城下町でドイツを代表する工業都市に第一次大戦前にこれほど多くの映 画館があったことは、中産階級や職員層だけでなく労働者が余暇時間として映画鑑賞を楽し むようになったことを示しているからである。

おわりに

 本稿から導き出されることは、第一次大戦前の平和な時代に、技術史的にも文化史的にも 大きな転換が進んでいたということである。その背後には、労働者を中心とする大衆の形成 があった。この時代の労働者たちは、手工業者と異なり生産手段を持たず、劣悪な住宅・生 活環境のもとで独自の労働者ミリューを形成した。労働者たちは労働者街を拠点に労働運動 にも参加し、賃金と時短を柱とする要求運動を行ない、それが実質賃金増加と労働時間短縮 に繋がった。それだけではない。農民とは異なり、労働者は労働力商品の対価として受け 取った賃金で食品や日用品を店舗で買い求めることにより大衆消費市場の発展に貢献したの である。これが娯楽産業の消費にもつながることは言うまでもない。  ここで、この時代に見られたアルコール度数の強い酒の消費減とスポーツ協会の増大とい う現象を、最初に掲げた仮説と関連づけてまとめておきたい。  まず、産業技術の発展は労働だけでなく余暇にも影響を及ぼしたのだろうかという問題を とりあげよう。第二次産業革命の進展にともなう産業技術の発展は、工場でのテイラーシス テム的な合理化を促し、労働強度を高めるなか、ジーメンス社やボッシュ社の例に見られる ように労働時間の短縮をもたらした。いわば労働時間短縮と労働強度増大が一体的に進展し たのである。さらに電気機械や内燃機関などの産業技術の発展、ゴム技術の改良による球技 スポーツの発展、セルロイドの発明や映像技術の改良による映画産業の登場をもたらし、特 に大都市に住む労働者の余暇生活に影響を及ぼし始めた。  第二に、自由時間の増大は労働者に身体鍛錬を目的としたトゥルネンや競技スポーツ、ハ イキングへの参加を促した。とりわけ青年労働者において「飲酒からスポーツへ、映画へ」 へという大きな変化が生まれたと言うことができる。  最後に、第一次大戦前の 20 年間という時代の重要性に触れて稿を閉じたい。よく知られ ているように、ワイマール期のドイツは様々な文化が一挙に花開いた時代だった。だが、そ の時代に開花した映画や演劇、スポーツなどの文化の萌芽はすでに第二帝政末期、特に 19 世紀末から第一次大戦前の 20 年ほどの間に形成されていたのだった。この 20 年間は、余暇

(21)

という概念が労働者階級にも知られるようになった時代であり、時間と金を工面すれば、ブ ルジョワが楽しんできた旅行やハイキングに手が届くようになってきた時代だった。実際、 1895 年にウィーンに誕生した「自然友の会」は着実に広がっていった。さらに、大都市の新 たな娯楽が誕生したのも第一次大戦前だった。映画や大衆劇場、運動公園、スポーツ施設な どが登場したのである。なかでも映画は第一次大戦前の十年間に急速に大衆の娯楽産業に成 長したのであった。すなわち、労働者の余暇時間への商業主義の侵入がすでに第一次大戦前 に始まっていたのである。  本稿で対象とした青年労働者について言えば、量的に見た場合、人口構成の中でも青年層 の比率が増えるとともに、質的にも余暇という要素の役割が大きくなるという、質量両面で の変化が進行し、スポーツの重要性が身近になってきたのがこの時代だった。ブルジョワ的 なドイツ・トゥルネン連盟に対抗して労働者トゥルナー連盟が生まれ、多くの若者がそこに 参加していったのだ。さらに 14 歳から 18 歳までの青年労働者だけでなく、可処分所得の高 い独身男性労働者、独身女性労働者を加えると、これらの若い労働者層が、登場しつつあっ たスポーツや映画に、時間と金を支出し始めたことの意義は大きい。さらに、大企業での青 年労働者の養成課程の近代化とスポーツ活動の取り入れも、このような動きを加速させる役 割を果たしたと言える。  これらの動きは第一次大戦で中断された後、ワイマール期に本格化することになる。

(22)

< 参 考 文 献 > 今久保幸生(1995)、『19 世紀末ドイツの工場』、有斐閣。 大河内一男(1936)、『獨逸社会政策思想史』、日本評論社。 大沢 正道(1994)、『遊戯と労働の弁証法』、紀伊国屋書店。 小原  淳(2011)、『フォルクと帝国創設- 19 世紀トゥルネン運動の史的考察』、彩流社。 加来 祥男(1986)、『ドイツ化学工業史序説』、ミネルヴァ書房。 釜 崎  太(2017)、「近代ドイツの身体文化と『規律訓練』権力-トゥルネンからスポーツへ」、『明治 大学教養論集』、通巻 526。 唐 木 國彦(1975)、「ドイツ労働者スポーツ運動の展開 : 労働者スポーツ・体育中央委員会(ZK)の創 設について」、『一橋論叢』、 74(5)。 河 合 信晴(2015)、「余暇史研究における『公』と『私』-ドイツ・独裁体制研究を例に」、『三田学会雑誌』 108(1)。 幸田 亮一(1994)、『ドイツ工作機械工業成立史』、多賀出版。 幸 田 亮一(2012)、「第一次大戦前のドイツにおける『労働者ツーリズム』の誕生」、『熊本学園商学論集』、 17(1)。 小谷  敏(2018)、『怠ける権利 ! 過労死寸前の日本社会を救う 10 章』、高文研。 斎藤  晢(2007)、『消費生活と女性-ドイツ社会史(1920-70 年)』、日本経済評論社。 桜井 健吾(2001)、『近代ドイツの人口と経済』、ミネルヴァ書房。 佐藤健太郎(2018)、『世界史を変えた新素材』、新潮社。 下田  淳(2009)、『ドイツの民衆文化:祭り・巡礼・居酒屋』、昭和堂。 田 中 洋子(2001)、『ドイツ企業社会の形成と変容-クルップ社における労働・生活・統治』ミネルヴァ 書房。 玉木 正之(1999)、『スポーツとは何か』、講談社現代新書。 出口 丈人(2004)、『映画映像史』、小学館。 中山秀太郎(1979)、『技術史入門』、オーム社。 成田十次郎(1977)、『近代ドイツ・スポーツ史 I 学校・社会体育の成立過程』、不昧堂出版。 原田 昌博(2016)、「第二帝政期ドイツにおける酒場と『政治』」、『鳴門教育大学研究紀要』、31。 森  宜人(2009)、『ドイツ近代都市社会経済史』、日本経済評論社。 鷲田 清一(1996)、『だれのための仕事 労働 vs 余暇を超えて』、岩波書店。 ハーケ、ザビーネ(2010)、『ドイツ映画史』、鳥影社。 マルクス、カール(1968)、全集刊行委員会訳『資本論 第 1 巻第 1 分冊』、大月書店。 ラッセル、バートランド(2009)、『怠惰への讃歌』、平凡社ライブラリー。 ラファルグ、ポール(2008)、『怠ける権利』、平凡社ライブラリー。

A brams, Lynn(1992a), “Zur Entwicklung einer kommerziellen Arbeiterkultur im Ruhrgebiet(1850-1914),“ Kift, Dagmar(Hrsg.), Kirmes-Kneipe-Kino: Arbeiterkultur im Ruhrgebiet zwischen Kommerz und Kontrolle (1850-1914), SS.33-59.

A brams, Lynn(1992b), Workers’ Culture in Imperial Germany: Leisure and Recreation in the Rhineland and Westphalia, New York: Routlege.

(23)

B orn, Karl E.(1957), Staat und Sozialpolitik seit Bismarcks Sturz. Ein Beitrag zur Geschichte der innenpolitischen Entwicklung des Deutschen Reiches 1890-1914, Wiesbaden:Steiner. ボルン著・鎌田武

治訳(1973)『ビスマルク後の国家と社会政策』、法政大学出版局。

B orsig(1902), A. Borsig, Berlin 1837-1902 : Festschrift zur Feier der 5000sten Lokomotive, Tegel, 21. Juni 1902, Berlin: Borsig AG.

Bosch(1961),75 Jahre Bosch, 1886-1961 : ein Geschichtlicher Rückblick, Stuttgart : Robert Bosch. C entralstelle für die Arbeiter-Wohlfahrt (1893): Die zweckmäßige Verwendung der Sonntags- und

Feierzeit, Berlin: Karl Hermanns Verlag.

D inckal, Noyan(2013), Sportlandschaften:Sport, Raum und(Massen-)Kultur in Deutschland 1880-1930, Göttingen:Vandenhoeck & Ruprecht.

D ix, Arthur(1911), ”Alkohlismus und Arbeiterschaft, “Zeitschrift für Socialwissenschaft, NF”, 2.Jahrgang, SS.531-556.

E ibert, Georg(1979), Unternehmenspolitik Nürnberger Maschinenbauer (1835-1914), Stuttgart: Klett-Cotta.

G iesecke, Hermann(1981), Vom Wandervogel bis zur Hitlerjugend: Jugendarbeit zwischen Politik und Pädagogik, München: Juventa-Verlag.

G iesecke, Hermann(1983), Leben nach der Arbeit: Ursprünge und Pesrpektiven der Freizeitpädagogik, München: Juventa-Verlag.

H au, Michael(2017), Performance Anxiety: Sport and Work in Germany, University of Toronto Press, Toronto/Buffalo/London: University of Toronto Press.

H übner, Manfred(1988), Zwischen Alkohl und Abstinenz: Trinksitten und Alkohlfrage im deutschen Proletariat bis 1914, Berlin: Diez Verlag.

Huck, Gerhard (Hrsg.) (1980), Sozialgeschichte der Freizeit, Wuppertal: Peter Hammer Verlag. K orn, Karl(1922, 1923, 1924), Arbeiterjugend-Bewegung Einführung in ihre Geschichte, Teil.I-III, Berlin:

Arbeiterjugend-Verlag.

K rüger, Michael(2013), 150 Jahre SPD – 150 Jahre Arbeiterturn- und Sportbewegung, Deutschland Archiv Online, 16.12.2013, (http://www.bpb.de/175085)。クリューガー 著・有賀郁敏訳(2013)「SPD150 年 労働者トゥルネン・スポーツ運動」『立命館産業社会論集』49(3)。

K uczynski, Jürgen(1967), Die Geschichte der Lage der Arbeiter unter Kapitalismus, Band 4: Darstellung der Lage der Arbeiter in Deutschland von 1900 bis 1917/18, Berlin: Akademie-Verlag.

L oewe(1930), Ludw. Loewe & Co. Actiengesellschaft in Berlin, 1869-1929 : im Jahre 1930 herausgegeben zum sechzigjährigen Jubiläum der Firma von der Gesellschaft für elektrische Unternehmungen, Ludw. Loewe & Co. Aktiengesellschaft. Berlin: Gesfüel Ludwig Loewe.

L üdtke, Alf (1980), “Arbeitsbeginn, Arbeitspausen, Arbeitsende. Skizzen zu Bedürfnisbefriedigung und Industriearbeit im 19. und frühen 20. Jahrhundert, “Sozialgeschichte der Freizeit,” Gerhard Huck (Hrsg.), Sozialgeschichte der Freizeit, Wuppertal: Peter Hammer Verlag, SS.95-102.

(24)

N ahrstedt, Wolfgang(1972), Die Entstehung der Freizeit: dargestellt am Beispiel Hamburgs:ein Beitrag zur Strukturgeschichte und zur strukturgeschichtlichen Grundlegung der Freizeitpädagogik, Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht.

R eck, Siegfried(1977), Arbeiter nach der Arbeit. Sozialhistorische Studie zu den Wandlungen des Arbeiteralltags. Gießen: Focus-Verlag.

R itter, Gerhard A. / Tenfelde, Klaus(1992), Arbeiter im Deutschen Kaiserreich 1871 bis 1914, Bonn: Verlag J.H.W.Dietz Nachf.

R oberts, James S.(1980a), Der Alkohlkonsum deutscher Arbeiter im 19. Jahrhundert, Geschichte und Gesellschaft, 6, SS.220-242.

R oberts, James S.(1980b), Wirthaus und Politik in der deutschen Arbeiterbewegung, Gerhard Huck (Hrsg.), Sozialgeschichte der Freizeit, SS.123-139.

S tiller, Eike(1991), Jugend im Arbeitersport: Lebenswelten im Spannungsfeld von Verbandkultur und Sozialmilieu 1893 - 1933, Münster/Hamburg: Lit Verlag.

S pode, Hasso(1993), Die Macht der Trunkenheit : Kultur- und Sozialgeschichte des Alkohols in Deutschland, Opladen: Leske+Budrich.

U eberhorst , Horst (1973), Frisch, frei, stark und treu : die Arbeitersportbewegung in Deutschland 1893 – 1933, Düsseldorf : Droste.

参照

関連したドキュメント

事前調査を行う者の要件の新設 ■

この問題をふまえ、インド政府は、以下に定める表に記載のように、29 の連邦労働法をまとめて四つ の連邦法、具体的には、①2020 年労使関係法(Industrial

 映画「Time Sick」は主人公の高校生ら が、子どものころに比べ、時間があっという間

の主として労働制的な分配の手段となった。それは資本における財産権を弱め,ほとん

⑥法律にもとづき労働規律違反者にたいし︑低賃金労働ヘ

さらに国際労働基準の設定が具体化したのは1919年第1次大戦直後に労働

労働者の主体性を回復する, あるいは客体的地位から主体的地位へ労働者を