著者
金川 由紀
著者所属(日)
平安女学院大学国際観光学部
雑誌名
平安女学院大学研究年報
巻
8
ページ
37-44
発行年
2008-03-31
URL
http://id.nii.ac.jp/1475/00001261/
観光英語についての一考察:観光英語とは
金川
由紀
はじめに
80 年代にマスコミを騒がせた「国際化」というキーワード、そしてこの数年で日本の大学の世界 でいわれている「観光」の重要性、このふたつが鍵となり「国際観光」学部が平安女学院大学に誕生 した。筆者は EFL 環境下における英語教育、英語教授法について研究を行ってきているが、観光と は何かについて筆者なりの考えを述べ、その枠組みから英語教育を見つめなおすことに意義があると 考え本稿に現在の考えをまとめることとした。「観光」と「英語教育」を含むことばの教授との関連 性や教育における意義について本稿では考察を行いたい。1.観光とは
日本において今日的な「観光」という言葉が使用されたことおよびことばそのものについて概観する。 北川(1993)によると、日本において今日的な「観光」という言葉が使用されたのは 1920 年こ ろからであり、当初は国際観光を意味するものであった。当時、国内観光の意は、「漫遊」、「遊覧」 などの語をもってあらわされていた(注1)。 また、そもそも「観光」ということばは、北川(上掲)によると、 「観光」の語源となるものには、中国の周の時代(B.C.11 B.C.3)に行われた易学の書『周易』の風 観にある「観国之光利用賓于王」(国の光を観るものはもって王に賓たる利あり)を出典とする。(中 略)その国の光であるところの、素晴らしい人物に出会うとの意から「観光」の語が生まれ、のち 「一国のすぐれた風光や文物を観る」という視察の意味と「観」の字には、「みる」とともに「しめ す」の意もあるので、一方では「観光」とは国の光を他国にしめすという解釈も成り立つようになっ てきた。 観光はそもそも「すぐれた風光や文物を観る」という視察の意味と「しめす」という視点から外へ 向けて提示するという両義の意味があることばである。そこにものを介在とした他者との交わりがあ ることに着目したい。 さらに、観光にはいくつかのポイントがあるだろう。つまり、 「見力(みりょく)」=観光ポイント。世界遺産などがあれば、「見力」の視点からは満点の観光地で あるといっていいであろう。 「泊力(はくりょく)」= 宿泊するにたる施設の完備。必ずしもホテルである必要はないが、質と量 がどの程度確保されているかが基準となるであろう。 「胃力(いりょく)」= 郷土自慢の料理の有無。他にその土地独自の食材なども含め、あわせて認知 度の視点も入れて評価したい。 「観光」の魅力はこれら三つの総合力で決まってくるのではないだろうか。 例えば、国際観光都市京都を例に考えてみると、「見力」という項目では世界遺産もあり、他に観 光のポイントとして多くの独自性のある建物が存在しており、満点のつけられる都市であるといえよ う。「泊力」はというと旅館、ホテル、ペンション等がさまざまな価格帯でそろっている。質量とも 合格といえるであろう。「胃力」の観点からも、京料理なるものが存在し、京風をうたった料理があ ることからも十分に魅力的である。このように考えると、京都が国際観光都市といわれることに納得 がいく。2.観光力とは
観光については概略を述べた。独自性があり、一見の価値があるものがあることは重要なファクター であるが、ただそれだけでは観光は機能しないといえるのではないだろうか。なぜなら、上述したよ うにそれをどのように示すかということをしないと観光には繋がらないからである。筆者はそれをさ らに推し進めて、「観光力」ということを提唱する。 外国からの観光客が日本に来ていちばんとまどうのは何だろうか。言葉が通じないことであろうか。 いや、そうではないと考える。なぜなら、初歩的な英語(中学程度の英語)を駆使して相手に伝えよ うとする人は日本にあふれているし、その外国からの観光客も言葉が通じないことで腹を立てること はまれであると考えられるからである。そもそも、日本にもっとも多くの観光客を送り出している国 は韓国と中国であることも忘れてはならない。現実には受け手である日本は、この非英語ネイティブ の国々の人と、「中学生英語」、日本語あるいはノンバーバルな手段を駆使してコミュニケーションを とっているのである。これ自体は非常にほほえましい事態だといえよう。 すると、外国からの観光客が困るのはなんだろうか。筆者は「習慣の差異」に端を発するものなの だと考える。食習慣、入浴の習慣、睡眠の習慣、言い方を換えれば、すべてが「文化人類学」の研究 対象となる文化の違いによってさまざまなあらわれ方をとるものなのである。しかもそれらが人間の 営みの中でもっとも基本的なものであることを忘れてはならないだろう。食べる、入浴するなどといっ た、ごくふつうの生活習慣が、日本と距離的にさして離れていないといえる韓国や中国と比べても、 まったく異なっているのである。文化的にも最も近いはずのこの両国とでさえも生活習慣に差異が生 じているのである。 たとえば韓国を例にとろう。韓国での歴史的な入浴習慣は「汗蒸幕」(ハンジュンマク)と呼ばれ る「サウナ」である。もちろんまったく湯につからないというわけではないだろう。しかし、韓国で の入浴習慣は、日本の入浴のように湯につかることを「前提」とするものとはまったく別次元のもの なのである。また、温泉に関しても韓国では「薬水」(ヤクス)といって、地から湧き出る水を飲む ことをとても好む。そのため、温泉を飲むというのはふつうの行為なのである。韓国は大陸であるた め、日本のように高温度の良泉は少なく、むしろ体温と同じかそれ以下の鉱泉が多い。これを韓国で は「薬水」と喜び、それを飲むのである。 飲むという事例を巡っては、次のようなことも日本と韓国では異なっている。韓国の山寺では、手 洗い用の水がしつらえられているが、当然韓国の人々はそれを飲む。日本の神社での風習と比べてい ただきたい。韓国では寺はほとんどが山の上にある山寺である。修行するのにその方がいいからとい う意味もあるが、李氏朝鮮時代に儒教に圧された仏教が都会に勢力を求めにくかったという面もある ようだ。当然、山寺には手を洗うところがあり、そこには湧き水=薬水があふれているため、手を洗 うだけでなく、韓国の登山客はそれを飲むのである。韓国人が日本に観光に来て神社にある手洗い用 の水を思わず柄杓で飲んでしまうのは、このような韓国の文化的背景に起因しているのである。韓国 人に神社を訪問するような観光コースをつくって紹介するときに、もしも彼らが水を飲もうとしたら、 単にダメだというのでは「観光力」ある助言とはいえないであろう。むしろ、「韓国の風習では湧き 水を薬水として飲むのは知っているが、日本の神社ではこういう文化的背景がないので、口をすすぐ のにとどめるべきだ」ということをきちんと外国語で伝える(誤解のないようにする)ことこそが、 国際観光で求められることであろう。ましてや、「韓国の人は神社の水を飲んでいる、不作法だ」と 思うことなど、観光の思想とは逆行する「排除の思想」になってしまうことを忘れてはならない。 このようなことを考えると、「トイレはどこにありますか?」「あちらです」のような英語を勉強す ることに大きな意味があるように思えなくなってくる。そんなことを勉強しても、さまざまな状況に対応できるようなボキャブラリーは得られないのである。 例えば中学時代に習う英語の一例として
It is a banana, isn’t it?(これはバナナではありませんか?)
というものがある。この英文を覚え言えるようになったとしても、具体的に使うときはあるのかと 問われれば、おそらくはないといえる。それと同じで、いっさい使い道がないがもっともらしい英語 を学ぶのが「観光英語」だとしたら、それは「観光」というものをあまり理解していない証拠ではな いだろうか。 「国際観光」学部で身につけたい語学力とは一体どのような語学力といえるのであろうか。「観光」 と「英語」を有機的に結び付けるには以下のような 3 つの視点が必要であると考えている。一つ何を 英語で伝えるのか、二つどのように伝えるのか、三つ何のために伝えるのか、である。「観光英語」と は、他文化を背景とした人に、その文化の格差を理解した上で、どうしたら日本の風習を伝えられる か、その「思索力」を基礎とした英語なのだ、と考えたい。そして、このような文化のギャップにつ いて理解し、相手に伝えようと考える力、それこそが「観光力」なのだと定義する。 「観光力」はさらに以下のような二つの属性を有している。 属性その一は、観光力は地域社会全体に関係するもので、ゆえに地域社会の力として認識する必要 がある。これは要約力、読書力、英語力や教育力などとは違い、観光力は「個人」のものではなく、 より地域社会に根ざした性格を有するものであるということである。 属性その二観光力は意識化しなければ発揮することは難しい。言い換えると観光力はただあるだけ では力にならない。たとえば宇都宮市は「餃子の街」として知られるが、これは市役所の職員が餃子 屋の多さに気づき、調査し、他の町と比較したことから端を発した町おこしとなった。まさにこの「気 づき」によってはじまっている。「気づき」がなければ「観光力」は発揮されず、まさに「宝の持ち 腐れ」となってしまうである。 こういった事例は他にも多々ある。姫路市では、戦後の闇市以来生姜醤油で食べるおでんがあるの だが、つい最近までそれを名物として認識していなかった。昨今のおでんブームで名古屋の味噌味な どに対抗し、姫路の名物として売り出そうという動きが市民からわき上がり、名物に乏しいと考えて きた姫路の行政も積極的に支援するという状況が生まれている。これは五十年以上にわたって食べら れてきたものが「意識化」されなかったことの例であり、逆にいうとこれによって意識化された「地 域社会」は、おでんという名物=結節点を持ったといっていい。まさに「観光力」誕生の瞬間だ。こ れを延長していくと、姫路は国宝の姫路城がある大藩の城下町であり、地域独特の食文化と産業、そ して名勝旧跡を擁する「古都」であるという認識を持つことさえ可能なのである。姫路が金沢のよう に「古都」を自称するか、あるいは単に名物誕生で満足してしまうのか、注目される。 以上のようにこれら二つの属性を生かして、地域社会発展の核となるのが「観光力」である。土地 により独自性のある生活様式や文化があるとする。しかし、それがあるだけでは観光とはなりえない。 独自性に気づいたとき、それをどのように発信していくのか、これが観光力となるものである。ある 場所に潜在的に存在してきた「観光資源」を意識化させることで「観光力」化させる。そして「観光 力」が発揮されると地域発展が発生する。これこそが筆者が提案する「観光力」の中身である。観光 力には外へのアピールという面だけでなく内なる地域社会活性化をもたらす両義的な「力」なのであ る。
3.観光力をささえる言葉とは
観光、観光力という考え方で「外国語」を捉えていくと、次のようなことに思いが至る。 『これは日本では当たり前だけど、それは他の国の人にとっても当たり前なのか、考えなければな らない』 という、ある意味で当たり前な問いを発せられるかどうかにかかっているのである。上のような問 いができない人というのは、すなわち、「客観的」に日本の文化を考えられない人である。こういっ た人は、ひどく「自虐的」に日本文化を卑下したり、あるいはその正反対に「日本文化を特殊ですば らしいもの」と考えたりする。これを「対外的な卑屈」と「対外的な尊大」という日本人が近代以降 に経験してきた典型的なパターンに当てはめて考えてみる。 日本人は近代以降、西洋化しなければならないという強迫観念から、寺や仏像を壊し(廃仏毀釈)、 浮世絵などの美術品に一顧だにしなかったのである。(これがフェノロサをはじめとしたお雇い外国 人に再発見されることで、その「西洋人の見方」をまねして日本を再発見するのが、日本人の近代以 降の来し方)これが先に挙げた「卑屈」といえるだろう。 それに対する「尊大」とは、そのコンプレックスをアジアの国々に対してぶつけ、日本が先に近代 化したことを(その実は長くても何十年か早いだけなのだが)自慢し、アジアの国を見下すという行 為としてあらわれてしまったのである。これに対しては異論がある方もいるかもしれない。しかし、 いずれにせよ東洋の国々を日本と対等な立場だと考えていれば第二次世界大戦の時のような日本と中 国をはじめとした東洋諸国とのゆがんだ関係はありえなかったと考えている。 昨今、「自由主義史観」なる思想が広まり、戦後の日本の歴史観を「自虐史観」とレッテル貼りし ているが、上のような視点で考えると、どちらも「ゆがみ」があるという点ではまったく同じ位置に あることがわかる。しかし、日本をほんとうに知ってもらいたいと思うのなら、 『これが日本だ、理解しなさい!』(尊大)も現実の外国からのお客さんを迎える立場としてはおも てなしの心にかけており、 『外国ではこのような風習がないから、日本の古い風習を棄てて、相手にあわせましょう』(卑屈) という態度も、いっけん客側の立場に立っているようで相手に「日本に触れさせない」という点でむ しろ失礼なのがわかってくる。 「観光」と「外国語」を考えることとは上記のようなことを考えていくことだと思っている。つま り、ギャップはギャップとして理解し、それを卑屈に相手の文化にあわせるのではなく、ましてやこ ちらの文化を理解せよとばかりに押しつけるのでもない、そんな真の意味での異文化交流としての観 光 =「国際観光」こそが、求められていると信じるのである。 温泉を例にこのことを少し掘り下げて考えてみよう。温泉といえばかつては「団体客=宴会=色 町」という図式があった。バブルの崩壊から、窮地に陥った温泉街は生き残りをかけて路線変更を 行った。つまり、「女性客=かわいらしいおみやげと湯の街情緒」へである。さらに昨今ではプラス 「天然温泉」へと変化し、われわれのイメージも変化しつつ共有されている。しかし、これは日本国 内の話であって、これを海外でそのまま通用すると考えるのはあまりにも早計である。 となりの国であり多くの日本への観光客を排出している韓国に焦点を当ててみよう。たとえば『名 勝・珍味につられ 韓国温泉紀行』(ユン・ジョンドク著、サンソガク出版、2004 年)では、温泉の 由来や開発の話はほとんど載らず、各地の名勝旧跡、観光ポイント、料理などについてより多く写真 入りで紹介されている。もちろん、温泉についても紹介はある。しかし、温泉の楽しみ方、外湯、湯 の街散策、温泉の由来などといった記事はまったく見られない。おそらく、日本とは異なる生活習慣、 温泉への考え方をもつ韓国の読者にとって、日本人がもつ温泉の楽しみ方、外湯といった話題は退屈なものなのではないだろうか。観光ポイントがあって、泊まるところとして「ちょっと違った」旅館 =温泉を求める。これが韓国の温泉ブームなのだといわざるをえない。だから、日本の温泉の情緒な どは韓国ではとりあえず考えていないのだということを前提に、それなりに楽しんでもらったあげく、 それでも「日本には湯の街情緒っていうのがある」ということを少しでも知ってもらうよう伝えてい く。これが国際観光での温泉の位置なのではないだろうか。 海外からの観光客はどのような温泉観を持っているのか。彼らとのギャップをきちんと把握し、そ のギャップを埋めるべく外国語でコミュニケーションをはかり、最終的にはできるだけ日本の湯の街 情緒をわかってもらおうとする。これが国際観光の世界で求められる外国語なのである。
4.観光英語とは
「観光英語」とはなんだろうか。こころみに「観光英語」と名のつく書籍類をあたってみよう。筆 者の知る限り、「観光英語」というキーワードにより検索できる論文は、以下のふたつである。一つ は、前川(1998)、あと一つは喜田(2000)である。このうち喜田(2000)は観光に関する英文のテ キストや専門書に現れる観光用語についての解説をしたものである。前川(1998)は、大学生の英語 学習への動機付けを高めるために「観光英語」は適しているとした論文である。そのなかで、「観光 英語」という語について以下のように記している(注2)。 外国旅行での英語や日本に来た外国人に対する道案内や観光案内で使う、いわゆる観光英語を題 材として英語を学びたいという希望は 66 件と断然多かった。 さらに、 観光英語というジャンルは一般化されていないかもしれないが、ここでは次のような場合に使わ れる英語を意味する。 1)海外旅行中の空港カウンター、ホテル、税関、土産品店、駅などで使用される英語。 2)空港待合室や飛行機内でアナウンスされる英語。 3)外国旅行中の観光案内等で話される英語。 4)観光案内パンフレット等の英語。 5)外国旅行中に生じる様々な場面における会話。 6)国内で外国人に道案内をするときの英語。 7)日本を旅行している外国人に自分の住んでいる地域の施設や名所旧跡を案内する時の英語。 8)国内の観光地についてのパンフレット等の英語。 9)日本の食べ物、習慣、祭り、宗教などを説明する英語。 10)日本や特定の地域についての情報−人口、気候などを質問・説明する英語。 このように、観光英語というと、いまのところとくに定義はなく、日本語日本文化を母語・文化と しないひと=いわゆる「外国人」に観光の便宜をはからうときに使う英語ぐらいの意味で使われてき た嫌いがある。すなわち「観光英語=観光(業)で使える英語力」とまとめられるだろうか。しかし、 これでは独立した学問とはなりえないだろう。すなわち、高等教育で扱うにたる問題ではなく、むし ろホテル業務などに就いた人間が個人的に解決すべき、あるいはそのホテルなどが直接社員教育で解 決すべき問題であるといわれても仕方あるまい。 これに対して、筆者は上述したような考え方に基づき『観光英語とは、観光力ある英語』であると いうことを提案する。「衣・食・住」といった生活習慣の違いに現れる文化の違いに着目し、それぞ れの独自性を尊重しながら差異を伝え合うことを目標として使う英語を考えていきたい。観光英語を大学において学ぶ意義はなんであろうか。前川(上掲)では、工業大学で英語を学習す る学生に対してアンケートによる調査を実施している。その中で英語の授業の題材として取り上げた いトピックを質問している。その質問には選択肢が付されている。選択肢は、自分の専攻分野に関し たトピック、環境保護に関するもの、最近のニュース、スポーツ、観光案内(外国人への道案内、名 所、旧跡の案内など)、日本と他国の文化の違いを扱ったもの、外国旅行の英語、日常生活・大学生 活の英語、アメリカ文学・イギリス文学など、その他が想定されていた。結果、観光英語を学びたい と回答した学生数がもっとも多かった。この結果から、前川は、学生たちの学習意欲を高めるための 一つの試みとして、観光英語の導入がより効果的であるとしている。その理由として、以下のような ことを指摘している。観光英語を授業に取り入れる利点として、第一次資料を探すことが容易である こと。観光英語を教材とする場合、名所旧跡の絵や写真を見せながらそれについてのガイドブックを 読んだり、地図を利用して道案内の練習をするなど、目の前にある身近な物を教材として利用するこ とが多いので学習者の理解は早く、英語習得の道も早くなると考えられること。教材が実際の場面で 使用される実用性と他の類似場面で応用できる応用性を兼ね備えていること。教材を観光英語の第一 次資料から選ぶ場合、テキストの形式が多様であることため、これらが 4 技能全てのスキルの向上に 使用でき、学生のニーズに細かく対応することができること。 教壇にたって英語を教えているもののひとりとして、学生が興味を持っている題材で英語を教えた いという思いは常にある。英語の授業でとりあげてもらいたいトピックとして「観光案内」がもっと も支持を得たのは、学生たちの日常の中で外国人との関わり合いが生じる場面として道や観光名所を 尋ねられたりする場合が多いことを反映していると考えられる。必要性があることが求められている のではないだろうか。 上述したように前川は観光英語を教える利点の一つに第一次資料を探すことの容易さが挙げている。 筆者は 2006 年に勤務する大学と同系列の高校生を対象に「観光英語」の授業を行った。そのとき題 材選びがもっとも重要なファクターになると考えた。検討を重ねた結果、取り扱う題材として京都御 所を取り上げた。なぜなら、受講生たちが通う学校にもっとも近い場所にあるからである。 実際の授業をどのように行ったかについて概略を述べる。京都御所の英語の案内文を素材として、 教材を作成した。案内文はネイティブスピーカーに録音をお願いして音声教材を作成することにした。 テキストや写真、図や絵など視覚を惹きつける素材と音声の素材を使う教材ができあがった。そこで 授業もコンピュータを用いて行うこととした。案内文にある語彙からキーワードを選択した。キーワー ドはコンピュータの機能を使い、音とスペル、意味を同期させて提示し、学習できるようにした。 授業の流れは、最初に案内文のリスニングを行い、内容の把握をさせた。音声を数回聞かせ、メモ をとってもよいこととし、どのようなことがいわれているのかを考えさせた。受講生から理解できた ことを発表させ、おおまかな内容を全員が理解できたことを確認させた。次にキーワードについて視 覚と聴覚を用いて学習させた。キーワードの学習後、案内文を再度聞かせ、英文の定着を図った。そ のあと、時間を十分にとって英文を読みこなさせた。読みの練習後、英文と日本語を対照的に書いた プリントにより、英文の理解を深めるようにした。目標としては、京都御所の英語案内文を参考に、 学習者が各々興味をもっている場所をとりあげ、案内文を作成するなどのプロダクティブな活動をさ せたかった。しかし、時間の関係でそこまでには至らなかった。このことが残念であったが、受講生 からの授業後の感想からは好評であったようである。それは受講生たちが知っている身近な場所を題 材にしたことで、親近感をもたれたことが大きく作用したと考えている。教材作成者側からは、前川 の指摘にもあるように、一次資料が入手しやすいことも時間の制約のあるなかでの教材作成には有効 に働くことを実感できた。コンピュータを使うことにより、視覚と聴覚の両方にうったえることがで きた学習方法も新規性も手伝い受講生にはインパクトを与えたのであろう。授業の流れに書いたよう
に、テキストや授業方法を組み合わせることにより 4 技能全ての学習も可能である。あとは、異文化 との差異といった情報をどのように組み込むかにより、学習者の興味や関心を喚起することができる と考える。 観光をとおして英語を学習するということを考えるとき、表層的なことがらのみを学習することに 終始するのではなく、ある事柄が日本独自のものなのか、あるいは、人類に共通の事項なのか、といっ た視点を常にもち、文化を伝えていきたいものである。
5.むすび
観光英語とはなにか、それを考えているうちに、上のようなことを考えることになった。これは国 際観光という新しい時代の流れの中で、日本の立場をどう主張するのかという問題と重なるものだと いえよう。 経済力や軍事力を背景に自国の立場を他の国に押しつけ、あまつさえその経済力や軍事力のない国 をコントロールしてしまう「大国」= 覇権と一直線でつながるような「尊大」さは当然破棄すべきだ ろう。これは日本だけではない、中国も、アメリカもしかりである。 それに対して、欧米に対して、あるいはお金を持っている個人に対しても、卑屈に対応するのは、 日本を知ってもらう際に、あるいは京都を知ってもらうのに、むしろじゃまなものでしかない。 「観光英語」とは「観光力のある英語」であると宣言しよう。それは、自らの文化と他文化とのギャッ プをギャップとして(「文化の高低」ではなく「文化の差異」として)理解し、自文化(日本、就中 京都)をどのようにすれば理解してもらえるか、それを考える力を根底とした英語が求められている。 そこにあるのは「英語関連試験での点数の高い英語」ではなく、むしろ「中学生英語」でありなが ら、おもてなしの心にあふれたコミュニケーションなのだと筆者は信じるのだ。 海外旅行をすると、今まで当たり前と思ってきたことがまったくそうではないということに気付か される。確かにことばができなくても買い物や道を教えてもらうことができることも体験として知っ ている。しかし、やはり訪れた先の国のことばできれば、もっと多くのことを深く知ることができる はずである。コミュニケーションの手段の一つとしてのことばと、ことば以外のコミュニケーション というものに魅かれる昨今である。 参考文献 注1)北川宗忠 1993 『観光入門』近代文藝社 p.7 注2)前川智子 1998 「学習意欲を高めるための教材を求めて−観光英語の導入に関する一考察−」 長崎総合 科学大学紀要第 38 号第 2 号 pp.243−254 喜田慶文 2000 「観光英語ターム研究」 観光産業 第 17 号 pp.59−70 ユン・ジュンドク 2004 『名勝・珍味につられ 韓国温泉紀行』サンソガク出版A Study of English Education in Tourism
Yuki KANAGAWA
The aim of this study is to look into the relationship between tourism and language education for the opportunity for setting up the International Tourism Department at our university. This paper proposes the English education which is needed in real communication for sightseeing. There are a few theses about tourism English and there is no definition of tourism English. Tourism English is used and needed for foreigners who visit Japan to enjoy their stay and sightseeing. This paper suggests that tourism English has a power more than that. When Tourism English would be able to report the difference between Japanese culture and other cultures, the foreigners could be aware of the true value of each culture. 国際観光学部設置を機に「国際観光」というものとことばの関わりについて考察する。本稿では観 光力のある英語というものを提唱したい。従来、観光英語というものには特に定義はなく、日本語を 母語としない人、日本の文化を自分の文化としない人たちを対象に観光の便宜をはからうときに使う 英語ぐらいの意味で使われてきたようである。観光英語とは観光力のある英語、であるということを 提案する。生活習慣の違いに現れる文化の違いに着目し、異なる文化の独自性を尊重しながら差異を 伝え合うことを目標として使う英語を考えていきたい。