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〔資料〕燒佚餘録(一)―森哲四郎氏の生涯と良寛書蹟研究―

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全文

(1)

〔解

題〕

平成五年三月十五日、九十七歳の高齢で長逝された森哲四郎氏は、良寛

の書蹟研究家として、またその書蹟鑑定者として、研究者間には周知され

た人物であり、その誠実、篤厚な人柄とともに抜群の記憶力の下に蓄積さ

れた該博な知識は、面晤する人々に崇敬の念を抱かせずにはおかなかった。

しかし、哲四郎氏本人が、著述をあまり好まれず、書蹟、字迹の分析、研

究に傾倒、専心することが常であったため、その行実は周囲の人々にその

一部が知られるのみであった。

哲四郎氏の良寛の書蹟研究は、実作、原蹟を自らの眼で精査することを

第一としていて、書蹟の所蔵先への長期間滞留やそこでの模写、撮影など

の実施、また自ら各種各様の書蹟原品を研究の実資料とすべく、金銭を惜

しまず購求、保存し、これを朝夕に披き見て、双鈎を採りつつ字形の分析

をはかるなどのことを行い続けていたが、こうしたことを全身全霊で支え

られたのはその夫人と三男五女の家族の方々であった。

筆者は、昭和三十年代末より良寛和尚の為人と詩歌作品に魅かれ越後通

いを始め、国上山中の五合庵下の寶珠院のご住持板屋光範和尚



つる夫人

の顧愛を得て実の子の如くして頂き、そこを自家同然にして時となく信宿

し、良寛和尚ゆかりの地を巡りその地の方々の温かな心に触れさせてもら

ったことであった。この間、同山中の本覺院のご住持澁谷啓阿師にも親昵

し、共に与板の森哲四郎氏宅に伺い、同師の開眼供養した本覺院伝来の良

寛乾漆像を拝したこともあり、さらに恩師飯田利行博士のお供で森氏宅で

の歓談に陪席させて頂き、その後、森氏宅にしばしば伺い、哲四郎氏とと

もにご夫人節氏、次女貞氏、三女長

つね

氏ほか森家の方々に深い恩遇を頂き、

お宅に長く宿泊させて頂いたことなどもあって、ご家族の方々の並々なら

良寛和尚への敬

とその書蹟研究への

に知ったことであった。

哲四郎氏は、ご家族の支

と共に

交流

を深めた

者、

芸術

家、

宗教

家、

師、

財界

人、実

家の

善意



れる

を得て、自らの

う良寛の書蹟研

究の

を全うさせたことであるが、その

業績

す蔵品、書蹟、書作品の

一部が、森家と

やかな親

をしていた

地の



与板

石黒

一夫

を中心にした方々によって、哲四郎氏逝

後一年

たる平成

年九月

日から

二週

間に

って、

郷里

与板の

歴史民俗

資料

陳列

展観

されるに

った。

この

は地方でのものとは

え、き

めて

盛会

で、

越から

学 苑 資料 紹介特集 号 第九一三 号 二 五四 ~ 二 九 〇( 二 〇 一 六 一一 )

燒佚餘





森哲四郎氏の

生涯

と良寛書蹟研究



哲次郎



〔資

料〕

森哲四郎翁の平素 箱書き中の森哲四郎翁 平成 4年 歓談中の森哲四郎翁と長氏 平成 4年

(2)

ス仕立てで来観する一団もあり、在地の新聞、テレビでも報道されている。

森哲四郎氏の業績の一斑がこうして一地方を越えつつ周知され出したわけ

であったが、哲四郎氏逝去後十八年目にあたる平成二十四年一月二十九日

未明、哲四郎氏の助手となっていた三女の長氏宅すなわち哲四郎氏の故宅

で失火による火災が発生、母屋とともに後方に建造されていた土蔵が罹災

し、きわめて貴重な原資料を含めた一切の資料が火中して烏有に帰してし

まい、これを営々と保存して来られた長氏もその妹陽子氏と共に痛ましく

も亡くなられてしまった。

与板歴史民俗資料館に出陳した肉筆資料類と共に哲四郎氏が全家族の支

援の下に身代を傾け尽くして蒐集した膨大な原資料、貴重な良寛の真筆原

蹟や、江戸期の宗教思想、文化芸術、文学を研究する原資料、またこれに

関わる近



現代の学術、文化、芸術人士の重要な遺品がほぼ全て焼亡して

しまったのである。

さて、こうして焼亡した膨大な遺品については、不幸中の幸いにも哲四

郎氏の次男で郷土史研究家の哲次郎氏が控えのためにその主要資料の半ば

をビデオ撮影していた。そこで、哲四郎氏の業績の実像を知り、また貴重

な良寛研究原資料の実態を把握し、哲四郎氏が念じ続けておられたように、

これを研究者間に提供する目的で、森哲次郎氏と共に、撮影映像の個々を

抽出し、これに出来る限りの録文を添え、本誌に連載して掲出することと

した。

今回本誌に掲出するものは、焼亡した哲四郎氏愛蔵の良寛ゆかりの遺品

と巻子、巻軸、色紙等々各種各様の良寛書蹟研究に関わる人士の書画、お

よび哲四郎氏自身の学書由来の書作である。

なお、

(二)

以降には、

確認

可能な哲四郎氏愛蔵の良寛書蹟を順次掲出していく予定である。

ところで、森哲四郎氏の経歴、略伝については、先述の石黒秀一氏の数



良寛の書

研究

哲四郎

与板 町 教 育委員会『 与板の人びと と与板の人 物 誌 』p 104~ 106、平 17  3

良寛の書 体 研究 七 十 余 年

森哲四郎の回想

良寛 「 行灯 自画像 賛 」 全 国 良寛 会『 良寛 』 16号 、 p 54~ 62、平成 元  12 森哲四郎展開催記事 (新潟日報 中越版 平成 6年 9月 30日) 森哲四郎展風景 会場入口 (平成 6年 9月 26日~10月 10日 於 新潟県三島郡与板町与板歴史民俗資料館) 森哲四郎展企画、実施尽力者与板町 教育長 石黒秀一夫妻 森家全焼記事(平成 24年 1月 29日出火、住宅及び土蔵全焼) (朝日新聞 新潟版 平成 24年 1月 30日)

(3)

追悼 森哲四郎先生

弔辞」

全国良寛会『良寛』 23号p 58~ 59 平 5  5

良寛の書蹟研究七十余年

森哲四郎

(九十七)

翁の回想」

青山帖物語 全 国良寛会『良寛』 23号p 60~ 69 平 5  5

良寛の書蹟研究家

森哲四郎翁の回想」

「塩ノ入峠の良寛歌碑について」 全国良寛会『良寛』 30号p 60~ 69 平 8  11

があるが、筆者がご家族、殊に長氏から伝聞していた事柄などを含め、こ

こでその概略を記述しておくこととしたい。なお、後掲する石黒氏の誌録

した稿を補訂、加筆した哲次郎氏重編の「年譜」も参看して頂くこととす

る。

森哲四郎氏は、

明治二十八年九月十三日に新潟県中蒲原郡鳥屋野村

(現、 新潟市)

の富家櫻井家に唯三郎、

ジュンの四男一女の四男として生まれ、

明治三十五年一月、縁故があった新潟県三島郡与板町の村七呉服店森博資、

ヤイの養子となった。養父は石油会社「寶田」の創設にも関わった実業家

でもあり、村松藩に由縁をもっていた人物であった如くで、開業していた

呉服店の屋号「村七」も村松屋七左衛門を略した呼称であったと伝わる。

哲四郎氏は当時新潟から川蒸気船に乗って与板に至ったと言われる。

この後哲四郎氏は明治四十二年四月に県立新潟商業学校

(現、 新 潟県立 新潟商業高等学校)

に入学し勉学するが、

養父から

「商人は字が下手だと

お客さまに信用されないから手習いに励むように。

と言われ、

また習字

担当の教師の影響もうけ書道に関心をもつに至った。養父が本与板の石丸

好古から借用してくれた巻菱湖書『小倉百人一首』の臨書に励み、さらに

艸書の習得にも心を尽したのはこの頃である。

大正三年に上記商業学校を卒業した後、家業の呉服商に従事するが、養

父が愛好する書画にも興味をもち、家蔵されていた良寛書に関心を深めた。

大正五年新町

谷川石松

披見

筆書

( 髑 髏 画 賛 )

を一

借用して臨書、

れを

契機

に良寛書

傾倒

がは

まった。

大正十一年養父の

死去

により呉服店の店

となり、店

での呉服

自転車

での

近隣

の富家

商も

い、

いを

みまた

和漢

帖を手習いし、良寛の

墨集

にして時となく良寛書の

魅力

を追究した。

先の

家で良寛の

会うと、商

そっちのけで

を借

い、

双鈎

等も

み、資

料蒐

とその

蓄積

没頭

した。家人はその

情熱

され

挙げ

てこの研究に

するようになった。

二年

健康

し家業を家人に

委ね

らは

治と

に良寛書の研究

に励

だ。

五年には森家の

菩提寺

長明

住職

で学究者の

前波善學

紹介

により

糸魚

川に

相馬御風

氏を

面晤

、そして

御風

氏から良寛研究

の先学で日本画家の

靫彦

紹介

され、

神奈

川県大

田画

に師事するに

だ。

その後

八年、

鈴木

家に四日

間通

けて

蔵の良寛書

の巻子の披見を

され、これを

筆で臨書し、ご当

鈴木宗久

氏の

でこの巻子に

詩句

って「青山帖」と

名付

け、この後

宗久

氏の信

を得てこれを

覆刻

するに至った。この

の事

は、哲四郎氏の

述にも

く石黒

一氏の「青山帖物語」の

詳細

られているので一

いたい。

この年

、「

本」

「九

帖」の研究に

有願

庇護

者であっ

た新

(現、 白根 市)

野家で長



有願

野氏の書蹟の研

究を

めた。

十年には

田青

、良寛書を

談論

交流

を深

めた。その後画

来泊

しては書画を

即写

しこれを哲四郎氏に

っている。

十三年、与板

光西

住職

界雄

師と

義兄弟

の高野

辰之

来泊

本」

について

わし、

牧ケ花

良家に

道、

良寛の

を実見、博

は哲四郎氏の

精密

な研究に

感動

し、

らの信

沢温泉

別荘

での研究を

めたがこれを

辞し、

郷里

での研究を

けた。

そうして

十四年に至り、長年師事していた

相馬御風

氏より、

後は

ら良寛書の

鑑定

をするよう

められ、

氏愛蔵の

溪硯

与された。

年には歌人

氏が

来泊

を深めたが、この

年の

十七年に、

御風

氏とともに良寛研究の先

として

敬慕

、師事していた

靫彦

から、

「もう

田に

ることはない。

で良寛の書を

見るように。

」と

立を

された。

この後、

二十五年には新潟県中蒲原郡

横越

村大字

北方

館館

長の

氏の

けて、

画した

八一博

とした良寛

後百二十年

紀念展

の開

に尽

した。この

復員

して

(4)

館学芸員となっていた東京帝國大學国史学科出の若手の宮栄二氏との写真

借用に関してのあらぬ出来事や、先輩原田勘平氏とともに閲覧した伊藤文

吉氏提示の『百人一首』の審定に関わる事情については、後年哲四郎氏が

口述し石黒氏が筆録、孔版印刷した資料が筆者の手元にあるので、これを

本文末に附録することとしたい。それによれば、哲四郎氏が傲岸な者の間

に如何に苦汁を嘗め犠牲を払いながら、独力でそのひたすらな研究を拓き

来たかが知れることである。内外を問わず研究者を自称する人々は、権威

誇示と自己業績の累積を先とすることが多く、哲四郎氏はこうした中で謂

われなく受ける侮蔑を払い除けながら、しかし善意



れる高士の温かな援

けをも得つつ自己の願う道を一途に歩んで来られたわけである。

財界人であり実業家でもあり米国への長い留学経験もあった伊藤文吉氏

は、哲四郎氏の熱意と人柄を愛しみ、北方文化博物館に永住し研究をする

よう勧めたが、哲四郎氏はこれを辞退、故地与板での研究生活を続けた。

この年に与板町の有志と共に塩之入峠に良寛歌碑を建立した。この歌碑は、

翌年良寛遺墨の鑑賞に来訪した吉川英治、杉本健吉両氏が観覧し、その刻

書の美を絶賛した。

こうした中、こしの千涯画伯が来訪し、以後頻繁に哲四郎氏宅に現れ月

の半ばを過して画業に専念、哲四郎氏に賛書させるといった合作も多数制

作した。昭和二十九年健康を損ね病臥、家計の故あって

蒐蔵

の良寛書の大

半を

譲渡

、しかし後にそれらの

てを

回収

し研究の資を

確保

してい

る。昭和

年には、良寛書『

心經

』の

印に関わった

法輪寺

貫主

井上慶覺師

が来町、哲四郎氏と

歓談

の後、

良への

住研究

援を

し出る。

寺寺主

と共に

援したいとのことであったが哲四郎氏はこれ

を辞退した。

この後、昭和

年には東京

都港区南青山

根津

館での良寛

依頼

を受けて

京、の

根津

一郎氏の

きで長氏を

帯同

館内で四年四か月

滞在

、東京方

の良寛遺墨の研究に専

した。この間、

書家で中国

石学者の

西

氏に書

指導

を受け、哲学者で

教育

者の

倍能成

氏、国学者

林甕雄

画家

林武

かの

家と

交流

した。昭和

四十年哲四郎氏が

帰郷

するに

し、

氏は自らの

鎌倉

別荘又

は東京

ンション

での研究を勧めたが哲四郎氏はこれも

辞、故地に

した。

その後健康

良となり、長

央綜

合病

で入

院暮

しをし、この

、地

元長

の大

相互銀行頭取

駒形

十吉氏より物

の多大な援

を受け

つつ、良寛書の研究を続け、昭和

十一年、中国

音韻

学者で

文学の大家

利行

博士と共

で『

良寛和

智偈頌

』を

した。

昭和

年には『良寛書百人一首』の

複製発刊

画しこれを

ていたが、

事情によりこれを

念した。筆者が

仄聞

したとこ

によると、

事情とは、哲四郎氏の願い、

純粋

に良寛書の研究に資する

有で

出の

『良寛書百人一首』

複製刊

し研究者間に提

しようとしていたにもか

かわらず、

朝日新

者が

世評



事を書き、

力を

依頼

された

編集

の方

曲げ

かねぬ

状況

を出来させかけたことであった、とい

う。

なことにこの

貴重

この

ない『良寛書百人一首』の原本は、平

二十四年一月の

火災

により

焼亡

したと

られ、現

その

焼残

片紙

も遺されてはいないが、

僥倖

なことに

力者となっていた

大学

名誉

授加

一氏の手元に

定の

求龍堂

撮影

した一

写真が

されていて、これをもって

監修

のもとに、本年平

事業

から

の写真

され、

て哲四郎

氏がその

価値

した原

に知られることとなった。この

書に

は、

監修

藤氏の

十年の

空白

をこ

した

文と、

氏の

大学

教育

紀要

(第 24巻第 1 号)

出した

論考

良寛百人一首

とが

せられているが、この原書を提示した伊藤氏に

し原田勘平氏がつ

よく

く中、

哲四郎氏がは

めて良寛書と

めていたことや、

伊藤氏が

かに良寛書の研究のために哲四郎氏にこれを

無償

与し

た情

がきわめて

蒙昧

られて

り、如何にも

監修

者の

が先出されて

いる印

がもたらされるとこ

がある。本来、

の書は、

小字

では

あっても、

哲四郎

とでも

きものであるように

のは筆者

けであ

うか。

哲四郎氏が昭和

十年

半ばに口述していた

定書への

を後年石黒

一氏が筆

して孔版印刷した後

人一首の

の一文をこの

書と共に

読む必

があるようで

ある。

(5)

さて、昭和五十六年九月には曽て好誼をもった西ドイツの良寛研究家ヤ

コブ



フィッシャー氏一行が来訪、歓談、これ以降、台湾の書家歐豪年氏、

書家小泉秀観氏ほかの人びととの交流を続け、家に在っては各種の良寛遺

墨集の刊行に協力を惜しまず、良寛書の研究を進めながら諸方から依頼さ

れる良寛書の鑑定を行った。こうした中、平成三年に至って、良寛の書蹟

研究を通してその遺徳を顕彰し町文化向上に寄与した功により、与板町長

からの表彰を受けるに及んだ。そうして平成五年三月十五日、入院先の長

岡中央綜合病院に於いて永眠された。森哲四郎氏の一生は、永く温かな家

族、知友に見守られながらの一途な生涯であった。なお、森哲四郎氏は早

くは

「ひとふでのや」

(一筆舎)

と号し、

のちには

「双葉」

と号し書作を

遺されている。

(田熊 信之) 『良寛筆 百人一首』記事 浜田亮平 「あった! 良寛さん 直筆の百人一首」 (朝日新聞 全国版 昭和 56年 1月 7日) 加藤僖一 「話題追跡」記事 「・良寛筆百人一首・を調査して」 (書道美術新聞 第 69號 昭和 56年 2月 1日) 徳田秀一 「良寛の百人一首」 (『藝術新潮』 昭和 56年 2月 1日) 森哲四郎口述、石黒秀一筆録 印刷 「良寛書 百人一首の話」 (昭和 62年 7 月)

(6)

〔掲出図版、録文〕

〔凡

例〕

一 本 稿での所掲図版は、 森哲四郎氏が所蔵していた良寛書蹟研究関連資料の写 真の一部である。 二 所 掲図版は、 森哲次郎がビデオ録画していたものから抽出して印刷したもの である。 三 所 掲図版は、 森哲次郎と田熊信之が内容を勘案して部類別に配列したもので ある。 四 所 掲図版のもとは、 不慮の火災によりほぼ全て焼亡しているため、 必要があ れば、映像不鮮明で色調不良のものでも掲出することとした。 五 所 掲図版に関する録文については、 紙面の関係で当該図版下には表記せず、 別頁で一括して表示することとした。 なお、 原文の長大なものはその一部を 表記するに留めた。 六 所掲図版に関する録文は、森哲次郎と田熊信之が共同でこれを行った。 七 本 稿及び所掲図版の録文等は、 人名への付称、 敬称等を出来る限り省くこと とした。 * 本 稿執筆、 作図、 編集等にあたり、 元新潟県三島郡与板町教育長石黒秀一氏 の文稿に多大な学恩を頂き、 森 哲四郎翁のご遺族及び関係の方々、 殊に長岡 市在住の森ヨリ氏ほかに温かなご支援を賜った。 文末ながら記して心からの 感謝を申し上げたい。 参考資料 ※文中の太「 」は原印刷物の改ページを示す。

良寛書

百人一首の話

(昭和六十二年七月)

哲四郎

「 私は今年九十二才になります。神品とも称すべき良寛の書に魅了されてこれを学 び続け、 いつか七十余年が過ぎました。 この間、 私が目を通した遺墨はその数を 知りません。私もひと頃は二百余点を所蔵していたことがあります。その間には、 良寛研究家と称する人、 愛好家と称する人、 ひたすら敬慕心酔する人等、 多くの 先輩や友人と親しく交際させていただきました。 また研究の上で、 直接指導を仰 いだ人や資料提供の便を与えていただいた方々も枚挙に遑がありません。 健 康 に 恵 まれなかったために、 物心 両 面から支えていただいた 擁護者 の恩 義 、と り わ け 昭和五年 糸魚川 の 相馬御風 先 生 から大 磯 の 安 田 靫彦 先 生 を 紹介 され、 面接をいた だいて 以 来 師事 し、 常 に指導をいただいた 御 恩は 終生忘 れることができません。 こ う して良寛の書を学び、 研究している うち に、 いよいよその人と書の神 韻 に 打 たれ、 これを 自分 の心とからだに 沁み こませなければならないと 悟 りました。 良 寛の書を 見 ていると一 切 の 妄念 が 晴 れ、 病弱 の私にとりましては、 まことにあり がたい 酸素吸入 のよ う なものであります。 良寛によって、 良寛の書によって 生 か されている  これが今の私の心 境 であります。 私 が 初 めてこの百人一 首 を目に したのは、 昭和二十五年のことです。 新潟県中 蒲 原郡 横越村 大 字沢海 の 財団法 人 北 方文 化博 物 館 に 於 て、 良寛 禅 師 百二十年 忌 記 念 展 が 開催 された 時 でした。 北 方 文 化博 物 館 、 新潟県教育 委員会 、新 潟 日報社 の共 催 で、 新潟市の 小 林 百 貨店並 び に 南浜 通りの 北 方文 化博 物 館 分 室 及び 北 方文 化博 物 館 本 館 が、 その 会 場 でありま した。 博 物 館 の 館 長は、 豪農 の 館 の 主第 七 代伊藤 文 吉 氏であります。 記 念 展 は 早 稲 田大学名 誉 教 授 、新 潟 日報社社 賓 の 会 津八 一 博 士 が 顧問 で、 良寛研究家原田勘 平 氏と、 東京 の 根津美術 館 副 館 長 酒井千尋 氏が 参 画され、 博 物 館 の学 芸 員 宮栄 二 氏等が遺墨の 蒐 集に 努 められたとい う ことであります。 当 時 私は五十六才。 三十 数年に 亘 って良寛の書 跡 研究に 没頭 してきましたが、 健 康 を 損ね たのでひたすら 家に 籠 って、資料の 整理考証 に 専 念 していま 」「 した。 そんなある 日 、 伊藤 館 長さんが原田氏を 帯 同して与板へお出でになりまして 「 日 本一 権威 のある良寛の遺墨 展 にして み たいから、 あ なたからも 是非 博 物 館 に来て

(7)

手伝いをしてもらいたい」 と のことであります。 私は、 この状態でとても健康が 許さないからとお断りをしたところ 「森さん、 あなたは身も心も良寛に打ち込ん でいる人と聞いています。 身体が弱いということもよく知っています。 だから博 物館の客分としてこの機会にゆっくり静養しながら勉強してください。 蒲 団など も一切こちらで用意するし、 親戚に医者もいます。 あなたの健康は、 私が責任を もちます」 と重ねて懇請されるのでした。 私は思わず 「そんなことができるはず もありません」 と言ったところ、 すかさず原田氏が 「森さん、 館長さんは慶応大 学を出てアメリカへ八年間も留学されたお方です。立派な良識のあるお方ですし、 あなたの事情も十分に御存知の上でこうおっしゃっているのです。 お任せしてお いでになったらどうですか」 と とりなして下さいました。 館長さんは私の生まれ が、 横越村に近い鳥屋野村 (現、 新潟市) であることやその桜井家の状況について も十分御存知のようでした。 また館長さんには、 私とかねてから眤懇であった根 津美術館の酒井氏が話をして、 推挙してくれたようでした。 私は館長さんの御好 意に感激して気をとりなおし、 博物館へ行ってお手伝いをさせていただくことに しました。 これはあとで聞いたことですが、 私 が招かれたのは、 出品予定の数点 について酒井氏と原田氏の間で意見の相異するものがあるので、 そ れについて私 に判断を求めるためのようでした。 遺墨展は五月三十一日から六月四日まで新潟 市、 六月六日から会場を移して二十五日まで北方文化博物館で催されました。 私 ははじめ三日間ほど新潟市に滞在していたが、館長さんから使いがきた 」「 ので急 遽沢海の博物館へ出向きました。 参観者も多くたいへんな人気をよんでいたようでした。 到 着すると館長さんがわ ざわざ出迎えて下さって、 部屋に通され、 挨拶もそこそこに 「森さん、 すぐに休 みなさい」 と自分で蒲団を敷き始められたのです。 これを見て原田氏が 「旦那さ ま、 何をなさるんですか」 と言うと 「いや、 森さんは疲れているから休ませねば ならないのだ」 とおっしゃるのです。 就寝前には私を便所に案内して、 蓋をとっ てみせたり手洗水の出し方にまで気をくばって下さるのでした。 風 呂場へもつれ ていって 「原田さん、 よくめんどうをみてやって下さい」 と至れり尽せりの心づ かいに、 私は思わず頭が下がるのでした。 ここでは四畳半の部屋で原田氏と起居 を共にすることになっていました。 博物館へ来て三日目のことでした。 この日は 割りに参観人も少なく会場は静かでした。 私はノートを持ち、 万年筆には布を巻 いて心くばりをしながら一点ずつ時間をかけてその 特徴 を 記 録 していました。 そ の時、 会 場の 端 から 掛 け物を 並べ 替 えてきた 若 い 係員 が、 私の 姿 を見るや 「森さ ん、 何をしているんです。 ペン ですか、 筆ですか。 やめて下さい」 と大 声 で 駆 け 寄 ってきたのです。 私は 「はい、 この通りです」 と手にしたものやノートも見せ ました。 彼 は 不 機 嫌 そうな 顔 をしながら 戻 ったのです。 私は 突然 のことであり、 ずい ぶ ん 失礼 なことを言うものだと思いましたが、 あとで聞くとこの 初対面 の人 は、 博物館の学 芸 員 宮栄 二氏ということでした。 せっかくの機会を 与 えていただ いたので、 ゆっくりと 調 べ るつもりでしたが、 こんなことではあともうまくいき そうもないと 考 えました。 そんな思いでいる時、 原田氏が 「この遺墨の 中 から 百 点を 選 んで 写 真 にする 計画 があるから、 あなたも 宮 君 に話をして原 価 で 頒 けても らったらどうか」 と話してくださいました。 」「 せっかくの御好意ですから、 その 旨 を 宮 氏に話し 焼 き 増 しを 願 ったところ 「 今 までの遺墨 集 はみんなまちがいが多 いのです。  安 田さんが 監修 された遺墨 集 もそうです。 大体 安 田さんは好事家 でしかないのです。  」 と 、 そんな話を立て 続 けにしてから 「 今度 はほんとう のものを 作 ります。 東 京 の博物館の三人が 主 となってこの会場の 中 から 百 点を 選 定して、 権 威 のあるものを 作 ります」 と自 信 たっ ぷ りの話でした。 私が長年 安 田 靫彦先 生に 師 事していることを知っていて 故 意に言うのか、 若 さの 故 か、感 情 む き出しのことばが 続 くのでした。 その上に私の 願 いについては 「 素 人のあなたに は、 フィルム を 貸 すことはできません」 ということです。 私は フィルム を 貸 して ほしいなど一言も 申 していません。 それにしても 安 田 先 生を好事家でしかないと いうことばは、 私 の 胸 にはたまらなく 痛 かったのです。 極 めて 不 愉快 でした。 売 りことばに 買 いことばということでし ょ うか、 私 も 「わかりました。 写 真 はいた だかなくとも 結構 です。 ここで 研究 させていただけることは、 まことにありがた いと思っていたのですが、 致 し方ありません。 この会場に出品してある遺墨の所 蔵 者はみんなわかりますから、 このあと一年半くらいで私はす べ て見ることがで きます。 写 真 はいりません」 。そして「私が出展したものは 写 真 にとらないで下さ い」 と 申 入 れておきました。 こうして私の心は 決 まり、 その 夜 館長さんを 訪 ねて 「せっかくの御好意をいただきましたが、 与 板 から急用の 電 話がありました。私の 役 目も 済 んだようですから 明朝 すぐ 帰 らせていただきとう ご ざいます」 と 申 しあ げ ると 「そうか、 急用であればいたし方がない。  一 週 間 位 でまた来てくれる

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か」 「いや、健康も自信がありませんので、これでお別れさせて下さい。ありがと うございました」 と心をこめて御挨拶をしました。 この時です。 館長さんはこと ばをあらためて 「実は新潟で酒井君にも話しておいたが、 あなたと酒井君の二人 だけに 見 せる 秘 蔵 の 良 寛 が あるのです 」 とおっしゃったのです 。「 何 んでしょうか 」」 「「百人一首です」 と一言おっしゃっただけでした。 思わず 「ほんとですか。 良寛 さまの百人一首。それはまるで夢の国へでもいったようなお話にきこえますが」 。 そんなことを口走ったようでした。 この話の筋というのは次のとおりです。 新潟 で館長さんが酒井氏に 「君と森君だけに見せる秘蔵の良寛がある。 今は新潟の分 館にしまってあるが、 森君が来たらいっしょに見せよう」 と私の出港をお待ちに なっていたのです。 ところが私が新潟会場へ三日遅れて出かけ、 酒井氏はまた用 務のため帰京したため、二人がついに顔を える機会を失してしまったのでした。 館長さんは、 「今は東京からの来客も多い。今晩九時頃まで待っていなさい」と言 われました。 このことは原田さんには関係のないことと思いましたが、 同居させ ていただいている先輩に敬意を表して 「夜遅くなるようですが、 ごめいわくでも いっしょに拝観を」 とおすすめしておきました。 九時を過ぎた頃、 館長さんは新 聞紙に包んだものを持っておいでになりました。 小 さな机を中にして三人が坐る と、 館長さんは包みを解いて私の前に黙って置かれました。 茶漆がボロボロに  げた表紙が目に入りました。 左の端に題簽が貼ってあり 「良寛老翁書 百人一首 全」 とあります。 私は胸の高鳴るのを押さえながら、 それを側の原田氏に渡しま した。 この道の先達に敬意を表したつもりでした。 原田氏は無言で受け取ると、 指に唾をつけながら一枚一枚めくって眺めていました。 食 い入るように二十分位 も見ていられたでしょうか。 私もその間、 横から見ることができたのです。 原田 氏は見終ると、 これを閉じ 「旦那さま、 これは良寛ではありません。 偽物です」 と言いながら、 それを私の前に押しよこされたのです。 意外の言葉に思わず出よ うとした 」「 言葉をのみこんでしまいました。館長さんは何もおっしゃいませんで した。 拝観の作法は安田先生を見習っています。 一 礼して両手でいただいてから一枚ず つ丹念に目を配りました。 先程からも横からこれを見ていますが、 これはまさに 良寛の真筆に相違ないと思うのです。 直感するだけの素養はもっているという自 負もありました。 余談になりますが、 小倉百人一首については、 既に十才の時、 養父から買ってもらって親しんでいます。 明 治三十八年東京日吉堂発行になるそ れは、 今も愛蔵しており、 また本与板の書家石丸好古氏から巻菱湖の石版ずりの 百人一首を借用して臨書したのは大正七年頃でした。 養父がそれを見て激賞して くれたことを、 なぜかこの時思い出していました。 原田氏の言葉もありますので 発言をひかえ、 丁 重 におしいただいて館長さんにお 返 ししました。 館長さんは無 言のまま、 居ずまいを正し、 それをいただいて新聞紙に包まれました。 これは 貴 重 な 宝 物だと思いました。 三 十 数 年に 及ぶ 良寛の書 跡研究 で 判断 できなかった 疑 念が、 一 気 にかき 消 される思いがしました。 新しいよろこ び と自信がこみ 上 げて きたようでした、 それでも 逸 る 気 持を押さえながら坐りなおし、 原田氏には失礼 にならないように 気 をくばって 「旦那さま、 百人一首ですから 仮名 が 主 となって いますが、 先ず作 者 の 字 について 申 しますと、 これだけでもりっ ぱ な 草 書のお手 本になるものです。 かりに一人を三 字 ずつとしても百首ですから三百 字 になりま す。 書家にとっても 貴重 な 資料 になるはずです。 次 に 仮名 についてですが、 今ま で見てきたものはす べ て 写 真に、あるいは 雙鈎 にとったりして 整理 しておきます。 これを 拡 大し、 比較 して 考証 を 続 けてきたつもりです。 また良寛の書を 理 解する ためには、 古今東 西 の 諸 大家の 墨 跡 を 集 め、 これと 比較 してみることも 極 めてだ いじな作 業 でありました。 私がいちばん関心をもっていることは、 良寛の真筆と して 評価 が 定 まっているものは別として、 そ の真 価 がなかなか一 般 に 認 められな いものを 」「 いかに解明するかということです。それを 証 明するための 具体的 な 資 料 を 求 め 続 けているところでした。 只 今お見せいただきました百人一首は、 まさ にその 鍵 を解くための 得難 い 資料 であると思います。 大きな自信を与えていただ きました。 旦那さま、 もし 我 がままをお 許 しいただけるものなら、 これを十日間 ほ ど お 貸 し 願 いたいのです。 大 塚 の ママ 巧芸社 で 写 真にとらせていただき、 朝夕 なが めて 研究 の 資料 にしたいと思います。 また秘蔵 品 であるなら、 秘 密 は 絶対 に 守 り ます。 」私は一 気 にしゃ べ り 続 けていたようでした。時 刻 はもう十二時を過ぎてい ました。 それでも先 刻 の原田氏の話もありましたので、 この百人一首について真 偽ということばは、 意 識 してつかわなかったつもりです。 館長さんは 「わかりま した。 只 それは私の一 存 では 決 められない。 明日 午 前中に 返 事 をします」 と言わ れました。 床 に入っても 興奮 がおさまらなくて、なかなか 寝 つかれませんでした。 さて 翌 朝 、帰 宅 の 準備 を 済 ませていると、 十時頃館長さんは私を別 室 に 呼 ばれま

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した。 そして 「ゆうべはあまりにも熱心なのに驚いたが、 君、 あれが欲しいので すか」 とおっしゃるのです。 私が求めたいと思われたらしいのです。 当時の金で 二、 三百万円はするだろうと思いましたが 「とんでもありません。 そんなだいそ れたことは考えもしません。 昨晩もお願いしましたが、 大塚巧芸社で原寸法の写 真をとらせていただきたいのです。 そして朝晩眺めて心を清め、 更に勇気を得て 勉強を続けたい。 た だそれだけでございます」 と申し上げました。 館長さんは 「よくわかりました」とうなづいておいででした。私は与板へ帰る前に、新潟市の 古物商川島氏を訪ねました。 良寛を 」「 通じての知友あり、北方文化博物館へ案内してくれた人です。辞去する に至ったいきさつを話すと「あなたに宮君のこと を話さなかったのは、 私が 闊 でした。 せっかく与板から出てきたことであり、 私がよく話をするからもう一度 もどってみないか」 とすすめてくれたが、 もう引き返す気がしませんでした。 と ころで博物館で計画した遺墨の写真は、 巧芸社の田中菊三氏をはじめ、 関係者の 御厚意で、 私もそれを手にすることができたからおもしろいものです。 昭和二十 五年。 この年は七月から八月にかけて天候が極めて不順で、 そのために出展した 遺墨の返却も遅延していたようです。 やがて館長さんから遺墨返品の際に、 約束 した百人一首を持参するという手紙を頂戴しました。 九月一日、 第四銀行の倉品 義治氏 (与板支店長) が希望されたので、 歓 待のために同席をねがって心待ちにし ていました。 各地の所蔵者へ返品を終えてようやく午後四時頃、 原田勘平氏と共 に到着されました。早速二階の部屋へ通したが、遺墨展の話がいつまでも続いて、 百人一首の話はいつになっても出ません。 私 は階下へきて料理作りに忙しい妻に 「例の話はいっこうに出ない。だめなのかな。心配でたまらない」と不満をこぼし ながら二階へ上ると、 私の顔を見て気がつかれたようすで、 鞄の中から新聞紙の 包みをそっと取り出し、 小脇にかくすようにして階下へ行かれました。 何かみや げでも家内に渡されるのかと思っていると、 妻が呼びました。 館長さんは茶の間 に坐ってお待ちになっていました。 包 みをとり出しながら、 二階を指さし、 口に 指をあてて 「約束のものを持ってきました。 これはあなたの研究資料としておあ げします」 とおっしゃるのです。 私は思わず 「とんでもないことです。 とてもい ただくわけにはまいりません。 半月ほどお貸し下さるだけでありがたいのです」 と辞退すると 「私は、 君が持っていることが良寛さまにとって一 番 いいことだと 思うから 今 日持ってきたのです。  不 用 ならお貸せ ( ママ ) することにしよう」 」 「「 旦那 さま、 まことに 失礼 しました。 お 許 し下さい。 どうか前 言 を取り 消 させて 下さい。 謹 んで頂かせてもらいます」 。思いもよらないおこと ば 、そして 温 かいお 気持に 胸 が 迫 り、 しどろもどろになってお願いやらお 礼 をくりかえしたのです。 そして 「このお 礼 は朝 夕 研 鑚 を 積 み、 将来必 ずこの百人一首を天下に 発表 させて いただきます」 と申し上げたことでした。 館長さんはまた口に指をあてながら 「みんなに 黙 っているように」と 言 いのこして二階へいかれました。私は妻と顔を 見 合 わせながら、 階 段 を上る館長さんの 足音 を聞いていました。 し ば らくは 言 葉 が出なかったのです。 おかえりの時、 お 礼 の心をこめて 山 田 杜皐 (与板の 豪 商、 良 寛と 親交 、 俳 人) に 宛 てた良寛の 書簡 「 暖 気 之節 」の りを 差 し上げました。 百人 一首を手にしたことは館長さんとの約束ですから、 誰 にも話したことはありませ ん。 歌 人で良寛を 敬愛 した 吉 野秀雄 氏もよく 来 泊 されたが、 これを話したことは ありません。 箱 書 きをしていただいた 安 田 靫彦先 生 にお見せしたのも後年のこと でした。 ただ館長さんに引き 合 わせてくれた 酒 井千尋 氏には、 いきさつもあり友 諠 上、この日のうちに手紙で 報告 をしました。 「私だけが得をさせてもらったよう で 恐縮 です。 あなたにだけは、 お 伝 えします。 館長さんとの約束ですから内 密 に ねがいたい」 と。 酒 井 氏から 折 りかえし 電 話があって 「あなたがもらった百人一 首は、 もと 刈羽郡西 山 町石 地の 素封 家内 藤久 寛さんが所蔵されていたもので、 聞 くところによると内 藤 家の十八 才位 の 娘 さんのために、 良 寛が 書 いて与えたとい われているものです。 会津 八一さんが、 恩師坪 内 逍遥 先 生 の熱 海 の 別荘 、 雙柿舎 額面 の 揮毫 を 依頼 された際、 良寛の 書 から 集字 をしようとして、 柿 の 字 をさがし て内 藤久 寛さんにねがったという エピソード のあるものです」 と知らせてくれま した。 酒 井 氏が話してくれた エピソード というのは、 次 のようなことです。 」 「 良寛遺墨から「 雙柿舎 」の三 字 を 拾 い 集 めたいということであったが、 雙 と 舎 の 字 はあったが、 柿 の墨 跡 が見つからなかったということです。 この間の 消 息 につ いて、 会津 八一 全 集 第七 巻随筆 中に 次 のことがあります。 随筆 「 雙柿舎 の 額 」より 「  内 藤久 寛氏のところに良寛上人の百人一首があると聞いたのは、 其 の後間も 無 いことである。 柿 本 人 麻呂 の 柿 の 字 がなけれ ば なら ぬ 。 それで市島 春城翁 を 介 して内 藤 さんに願つたところが、 内 藤 さんは 自分 で手づから 雙 鈎 にとつて 示 され

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た。 これで一ト先づ良寛の手に成れる雙柿舎の三字が つたわけだ。 しかし集字 の常として此の三字が何うしてもうまく釣合はない。 そんな事でたう  良寛は やめにして、 いつそ私が筆を揮ふといふことになつて仕舞つた。  」な お 大 正 九年四月二十五日、 七月三十一日付の逍遥宛書簡にもこのことについて述べてあ りますので、 大正九年頃には良寛の百人一首が内藤家に所蔵されていたことはま ちがいありません。 」 「 良寛がよく内藤家を訪ねていたことを証する資料があります。 財界人、 政治家として活躍し、 引退後は藤原工業大学を開いた藤原銕次郎氏の熱 海別荘新築祝いに、 内藤久寛氏が良寛の書を贈った書簡 (昭和二年四月六日付) があります。 春暖之候益 御清穆奉拜賀候 然ハ熱海御別荘新成之御祝 ニ良寛和歌小軸入貴見申候 是ハ上人常時郷里石地宅ニ 来り認められたる由にありしものに候 (略) この小軸和歌は次のものであります。 この園の柳のもとにまどゐして遊ぶ春日は暮れずともよし また私も今まで内藤家旧蔵の 風をはじめ、多くの良寛遺墨を拝見していますが、 すべて逸品 え ママ で、 特にその六尺六曲 風には次のように鑑定した記憶がありま す。 「右ハ良寛上人の眞跡也 良寛は勿論 古来草書中孤峯絶妙 絶妙の姿なり」と。 ただこの百人一首が、沢海の伊藤家に移った事情については、定かでありません。 後に娘の長子 ママ をして杉並区高井戸にお住いの久寛氏の息、 久一郎氏 (平成元年十 月二十日死去) を訪問、 直 接おあいして確かめさせたが、 久一郎氏はそのような 記憶はないとのことでありました。 一年半の後のことです。 館長さんは、 良寛画家こしの千涯氏を通じて 「楽しく見 せてもらいました。 これはあなたのだいじな研究資料ですから」 ということばを 添えられて、先におあげした杜皐宛良寛の書簡を返してよこされました。 伊藤館長さんは、このような高潔なお方でした。 以上が良寛書百人一首を、私が手にした経緯であります。 さて話は変るが、 昭和二十七年のことです。 新 潟 市 の 萬松 堂 書 店 の二 階 で、 有名 画家 展 が開かれた時、 千涯氏も 出 かけたとこ ろ会場 の テーブル を 前 にして 腰 かけ ておいでの伊藤館長さんが見つけて 」 「「千涯さん、ここ へ かけなさい。 相 変らず良寛ですか」 「はい、 精進 しています。 与板 の 森 さんのとこ ろ で良寛の書を見ながらかいています」 。その頃、千涯氏は訪 ねてくると、半月 位 は家 族同様 に 寝起き して 絵 をかいていたのです。 「それは 結構 です。とこ ろ で 森君 の 健康 は」 「はい、それが 寒 くなると 身 がち ぢむ思 いがすると 言 っています。 冬 うちだけでも暖かな 国 へ 行 き たいなどと申しています」 「そうか。 よしわかった。 家 族 と 相 談 して み よう。 江ノ島 でもいいが、 ひ と先ず私のとこ ろ へ 来ないかと 伝 えてくれ。 二 階 の 畳部 屋 がいい。 只飯 だけは 下 へ 来て 食 べてもら う。 蒲団 も 貸 せるし、 医者 の方も一 切 引 き 受 ける。 よかったら私のとこ ろへ 来て 研究を 続 けるように話してくれ」 。こうして館長さんの 使 いとして千涯氏が来てく れました。 私はとてもそのようなことは 許 されるものではないと 辞 退したが、 再 度 千涯氏が館長さんの 招請 を 伝 えに き てくれました。 館長さんの 度重 なる御 恩 情 に、 私は 感謝 の 気持 ちでいっ ぱ いでした。 早速 このことを家 族 に 伝 え、 理想 的 な 環境 の中で良寛の書跡研究がで き ることのよ ろ こ び をこめた家 族 一 同 の 感謝 状 を 携 えていくつもりでした。またその頃は、良寛の遺墨を 相 当数 所 持 していたので、 その 適 切 な 措置 も 講 じなければなりません。 私は二 男哲 次郎を 帯 同 して沢海を訪 ねました。 たまたま館長さんは所 用 のため上 京 中で、 副 館長の伊藤 越夫 氏にお 会 いして事情を話しましたが 「私は 兄 から何も 聞 いていない。 第 一そのような 費用 もないはずです。 何れ 兄 が 帰 ったら 伝 えてお き ます」 と、 まことに 素 気 ない返事 でした。 や む なく 雑 談 のあと、 話が良寛や良寛研究家などのことに 及 ぶと、 こ ん どは 副 館長さんの方から次 々 と問いかけがありました。 安田靫彦 先 生 に 師 事して いること、 相 馬 御風、 佐 藤 耐雪 、 津田青楓 、 吉野 秀雄 、 吉 川 英 治、 原 田 勘 平 各 先 生 方のこと、また私が 」「 今まで三十 数 年の研究など問われるままに 逐 一お話をし ました。 副 館長さんもすこぶる 興 を 覚 えられたようでした。 やがて中 食 、 暫 時 午 睡 のあとでした。 副 館長さんは 前 とうって変わって 「先 ほ どの話を 聞 いたら、 私 の方があなたをここにお 招 き したくなった。 私が 承知 いたします」 とおっし ゃ る のです。 おねがいをして 邸 内をくまなく見せてもらったが、 空 いている 土 蔵がい くつもあります。 これなら遺墨の 保管 もうまくいくし、 ひ そかに 期 するものがあ りました。 とこ ろ がその頃のわが家の内情は、 到底 私のねがいを 許 さなかったの

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です。 事実私は家業は勿論、 親戚知友の冠婚葬祭すらもすべて家族まかせで、 ひ たすら良寛書跡に没頭していたため、 深刻な経済問題に当面していることを知り ませんでした。 それどころか、 その整理のためには良寛の遺墨もほとんど手離さ なければならない状態に陥っていたのです。 それでも将来のことも考えて、 この 好機を逃してはならないと何回もすすめてみました。 いつも身を粉にして私を支 えてくれ、 従順で最もよき理解者であったはずの妻も、 この時だけはかたくなに 反対して、 館長さんへの感謝状はとうとう書かなかったのです。 私はついに北方 文化博物館にいくことを断念しました。 と ころで私がこうして良寛の百人一首に 接してから幾星霜。 日夜これを座右にして考証の結果、 あらためて確信を得るこ とができ 、恩師安田靫彦先生 からもこれを 良寛真筆 と し て 箱書 を い た だきました。 」 「 分水町牧が花の解良家にも、百人一首中、次の一首(天智天皇)を良寛が書いた ものが所蔵されています。 あきのたのかりほのいほのとまをあらみわがころもではつゆにぬれつつ 但し下の句を良寛はわがころもでにゆきはふりつつと書いておりますがこれも一 つの資料でした。 昭和四十三年五月BSN新潟放送テレビが、 私の良寛書跡研究 の姿を収録してこれを放送したことがありました。 当 時私は病臥中でしたが、 娘 の長子 ママ の介護を得ながらも、 研究に専念していました。 局員が三日間に亘って資 料を調査して構成しましたが、 この中で百人一首についてもその研究の一端  良寛、 行成、 空海の三人の書体について比較考証、 ま た前記解良家の一首との比 較についても収録しております。 もっともこの時点では、 これを良寛の百人一首 とは申していなかったのです。 この時の録画、 録音等はすべて贈与を受け、 今も 大切に保存していますが、 私 を評して 「指先と心で良寛の書の扉を開いた」 と い うことばが、 今もなおこの耳にのこっています。 それにつけても豪農の館の主、 第七代故伊藤文吉館長さんの御恩顧は、 片時たりとも 忘 れたことはありません。 そして、 この百人一首にまつわる良寛研究の先 達原 田 勘平氏 も、 盟 友 酒井千尋氏 も、 そして博物館の 学芸 員であった 宮栄二氏 も、 今はすべて故人となってしまい ました。 当 時のことを次 々 と 思 い 返 し、 世 の 移 ろいを 沁々 と感 じ るこの 頃 であり ます。 ご 恩をいただいた館長さんとの 約束 もあり、 往 時を回 想 してその経 緯 を 明 らかにし、 聊 か感 懐 を 述 べて、良寛書百人一首を 世 におくることにいたします。 」 柳本雄司 「にいがたの一冊」記事 (『新潟日報』 2016年 8月 21日 26頁) 刊行された『良寛百人一首』 外箱表 (加藤僖一監修『良寛百人一首』 新潟日報事業社 2016年 6月 29日)

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〔年

譜〕

はじめに

「俺は大成功したんだ。 これ以上いうことはない。 欲はかかん。 」 と言い、 自ら の我儘を許し、 協力、 支援を惜しまなかった家人と、 良好な環境を整えて下さっ た数多くの知友への謝念を示しながら、 歳九十七で逝った父森哲四郎は、 虚弱な ながら、もともとこのような一生を送る道筋を授けられていたように思われる。 「我以一貫之」といったその一筋の生涯は、一面固陋なところもあり自己満足に傾 くところもあったが、 情誼に篤く極度に欺瞞を嫌った澹清なものであった。 こう した結果、 自らの願うところは、 不思議にも見る人、 交流をもつ人に理解され、 幾多の困難があっても、 願うままに成就されることが常であった。 研究の対象と した良寛の肉筆原書蹟もその関連資料も、 思 うままに自家のものとすることが出 来ていた。 明確な記録を欠いているが、 自 家の土蔵中には、 恐らく総数数百を超 えるものが保管されていたと見られる。 その各々は、 父の助手としてその身辺に 在った姉の長が写真映像を含めて丹念な記録を留めていたが、 それらもすべて火 中して今に残されるものがない。 曽 ての主要蔵品と共に父の一途な歩みの跡かた を垣間見ることができるのは、 筆者が父のもとで、 その主要な蔵品を父と姉の言 い付けのままに、 細々と撮影していたビデオ映像ほかである。 本稿は、 こうした 映像を研究者間の共有の資料とすべく逐次抽出して提示することを目的としてい るが、 森哲四郎の生涯を一 して頂くため、 そ の略年譜を下掲することとした。 なお、この年譜は、父と親交を累ねていた石黒秀一氏が取り纏めたものをもとに、 不足するところを付加、補訂し新たなものとしたものである。 (森 哲次郎) 良寛書蹟研究七五年

森哲四郎

略年譜

年 年 齢 研究事歴

明治二八

1

九月一三日、

中蒲原郡鳥屋野村

(現、 新潟市)

に櫻井唯三

郎、ジュンの四男として生まれる。

三五

7

一月八日、川

蒸気船

で新潟から

り三

与板町

村七

呉服

資、

ヤイ

養子

となる。

四二

14

県立

新潟

商業学校

、書道に関

をもつ。

19

家の

呉服商

従事

する。

家には

諸名

家の書

画及び

の良寛の書が

蔵されていた。

21

好家

持参

の良寛書に

かれ、一

晩借用

して

書する。

これが良寛書との

対面であった。

一一

27

死去

、村七

呉服店

主となる。かたわら

和漢

法帖

う。良寛

遺墨集

はすべて二

冊求

め、一

は解

して

中に

して

いの途次、研究する。良寛

遺墨

にあうと

借用

、写真

撮影、

双鈎等

い資料

没頭

する。

がて一家

挙げ

て協力するようになる。この

から

頂上に

良寛

碑建

を念願する。

32

健康

し家

を家人に

ね、

治と良寛書の研究に

没頭

する。

35

長明

寺住職

で篤

者の

波善學師

紹介

によりはじ

めて

糸魚

川に

相馬御

氏を

ねる。

氏より良寛研究家

安田靫彦

紹介

され、以

後安田

する。

38

稿「

本」

(一八九 )

を良寛の真筆と

めその研究に

ち込む

(現、 吉 田 町 )

鈴木

家へ四日間

蔵の良寛書

書する。

鈴木

主の

めでこれを

青山

」と

ける。

39

「九

」に

りあう。

これを

有願の書とする

あるが、良寛の真筆と

め一連の研究に

没頭

する。

分水

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