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万葉思しのひ草 十五 -解釈迷執「珠裳の裾に潮満つらむか」(人麿「留京」歌)

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万葉思

しの

ひ草

十五



解釈迷執「珠裳の裾に潮満つらむか」

(人麿「留京」歌)



升田淑子

持統天皇六年三月六日から二十日にかけて行なわれた伊勢国行幸は、 『日本書紀』 の記載事情から見て、 特異性の際立ったもの であったことが分る。この計画に対して、二月十九日に中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂が上表文をおこして、行幸を誡めている。 そして、出発の三日前の三月三日にも、高市麻呂は冠を脱ぎ職を して、再度、農事の妨害になると言って誡めている。この時の 高市麻呂の行動には祭祀に関わる旧豪族三輪君氏の思惑が関与していたという見方もあるが、天皇は忠告を無視して強硬に伊勢行 きを決行した。柿本人麿はこの時行幸に従駕せず、都に留まっていた。その時作ったのが、次の「留京」三首である。 伊勢国に幸しし時に、京に留まれる柿本朝臣人麿の作れる歌 巻一―四〇 嗚呼見の浦に船乗りすらむ 嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか 四一 くしろ着く手節の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ 四二 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を 都に居ながらにして一行の中の、 「 嬬ら 大宮人 妹」 の今の様子を思い描く歌には、 経験者でなくては分らない視覚的な具 体性がある。強く印象付けられる三首の地名は旅の移動を暗示し、それぞれの処での「船乗りする 嬬ら」 「玉藻刈る大宮人」 「船 に乗る妹」の姿が推し測られている。人麿の遥遥として見えぬ伊勢を幻視する目は、しかし虚ろでは無く、確然とした歌の輪郭と 衒いの無い言葉で、澄明に豪快に詠う。一首目と三首目の「らむか」の響きは強い感動の余韻を曳き、生き生きとした人麿の朗誦 学苑 第八四〇号 二八~五〇(二〇一〇 一〇)

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が聞こえて来るようである。 一首目の、 従駕歌にも劣らない構図の大きさは圧倒的である。 解釈には、 「嗚呼見の浦」 はどこか、 「船乗り」 の目的は、 「 嬬 ら」は誰を指すのかなどの問題が提示される。 「嗚呼見の浦」には、巻十五で遣新羅使たちが誦詠している当該歌に「安胡乃宇良」 (三六一〇) と表記があるところから、 「英虞湾」 と見る説もあるが、 巻十五のは伝承上の詠い替えと考えられ、 沢瀉久孝氏が、 次 の答志の崎との関連から鳥羽湾の西に突き出た小浜の南部をあてている (『万葉集注釈』 ) のが参考になる。 「船乗り」 は 祭祀の神事  祭としての船遊び、あるいは純然たる船遊びに大別されるが、神事と見る方が大勢である。 「 嬬ら」は、大方の指摘する「官女」 と見てよかろう。以上は、いずれの解釈においても論理的に理解の届くものである。しかし、一首目の最終二句「珠裳の裾に潮満 つらむか」は、 「裳の裾が潮に濡れる」と訳すことも可能ではあろうが、 『万葉集』では「裾に潮が満ちる」と言った例はここに一 首しか見られないこととも相俟って、理論的に受け入れられない。感覚的な違和感が払拭出来ず、歌一首を景物の総体として描き 切ることが出来ないのである。遣新羅使たちは、この歌の「珠藻」を「赤裳」に言い替えているが、集中この一例のみであるにも かかわらず、 「裾に潮満つらむか」はそのまま詠っている (『万葉集』では、衣に関する「裳」やあるいは「袖」にも「濡れる ひづ (漬  湿) 」を使う) 。「裳の裾に満つ」という表現が人麿固有の発想からであり、改変出来ないようななにか心理的な威圧感が働いていた ということなのかもしれない。この歌の、最も人麿的と考えられる「珠裳の裾に潮満つらむか」を解釈することで、人麿が籠めた 魂の言葉を喚び起こすことが出来るかもしれない。言葉が組み立てられて歌が成ったのか、どこかに母体となる基盤があって、そ の器の中から黄金の一滴を み上げて歌を創出したのか、考えてみたい。 人麿の「留京」三首の構造に、全て「らむ」が使用されていることはすでに指摘されている。上野理氏は、 「山路越ゆらむ」 「今 日か越ゆらむ」 「独りか寝らむ」 「庵せるらむ」 などの歌の例を挙げて、 留守の妻が 「旅の難儀を思いやる歌を詠む習慣が存在した」 と述べ、 「らむ」を「留守の歌」の型であると説く。人麿の「留京」歌の発想も「留守歌」の型を承けているとした (1) 。 現在を推量する 意味 を表わす 助動詞 「らむ」 の用例は 保坂弘司 氏によると、 『日 本書紀 』孝 徳天皇 の 白雉四年是歳 の 条 にある 「 鉗 つけ」 の 天皇 の歌 謡 ( 後 述) や 仏足石 歌まで ることが出来 る (2 ) 。『万葉集』 に は 約 一 九 〇 回 強 の使用が 認 められる。 その 内 巻十  十一 十二 十 四 (この中では巻十に最も 多 く 約 三〇例) の 作者 不明 歌が 合 わせて 約 七 〇例と 多 く、 広 く 庶民 たちの 間 にも 浸透 して いた表現 様式 であったようである。次に巻十五に二〇例出現する。この巻は、 前半 が遣新羅使たちの 航 路 途 次の歌、 後 半 が越 前武

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生に配流となった中臣宅守とその妻狭野弟上娘子との贈答歌で構成されている。 家 族や恋人を偲ぶ旅の歌と別離の歌が、 「らむ」 を基調としていることはよく理解出来る。 離れて相思う人たちの哀切が恋歌の主題となる時、 「らむ」 は、 最も悲しく優しい感情 の表出となるからである。よし、 「らむ」を「留守歌の型」と見定めるならば、人麿の三首の発想は確かに同型であると言えよう。 ただここで、三首の内の一首目と三首目は、 「らむ」に疑問の助詞「か」を伴って「らむか」の形であることに注意したい。 『万葉 集』には「らむか」の使用が存外に少なく、特殊な感情表現であった可能性が高い。 『万葉集』にある「らむ」約一九〇回強の使用の中で、 「らむか」の形をとるのは一三例 (本論は講談社文庫本の訓みに従うため、巻 十―二一六七の 「声聞くらむか」 は 「声聞けむかも」 と訓む) 。その内訳は、作者不明五例 (巻九に一例、 巻十一に二例、 巻十六に二例) で、 他の八例は三方沙弥の一例、 大伴家持の二例で、 残る五例は人麿の歌である (遣新羅使の誦詠した歌および或る本の歌を含む) 。右 の 数字は人麿に多く、これらの例が万葉後期に多いということを考慮すれば、初期では人麿に偏在したと言ってもよいかもしれない。 これは、人麿の作歌意識に関わって、 「留京」歌の解釈の上に影響を残すと思う。 ①作者不明 巻九―一六九六 衣手の名木の川辺を春雨にわれ立ち濡ると家思ふらむか 巻十一―二六三一 ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか 巻十一―二七三六 風をいたみ甚振る波の間無くわが思ふ君は相思ふらむか 巻十六―三八二二 橘の寺の長屋にわが率寝し童女放髪は髪上げつらむか 巻十六―三八二三 橘の光れる長屋にわが率寝し童女丱に髪上げつらむか ②三方沙弥 三方沙弥の園臣生羽の女を娶きて、いまだ幾の時を経ずして病に臥して作れる歌三首 (の内) 巻二―一二三 たけばぬれたかねば長き妹が髪この頃見ぬに きいれつらむか ③大伴家持 十一日に (注 天平五年一月) 、 大 雪の落り 積 ること 尺 に二 寸 あり。 因 りて 拙 き 懐 を 述べ たる歌三首 (の内)

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巻十九―四二八七 鶯の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪に移ろふらむか 巻二十―四三一九 高円の秋野のうへの朝霧に妻呼ぶ雄鹿出で立つらむか 右の歌六首は、兵部少輔大伴宿 家持の、独り秋の野を憶ひて、聊かに拙き懐を述べて作れり。 (の内) ④柿本人麿 巻一―四〇 嗚呼見の浦に船乗りすらむ 嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか 巻一―四二 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を (右二首は「留京」歌三首の内) 巻二―一三二 柿本朝臣人麿の石見国より妻に別れて上り来し時の歌二首 せて短歌(の反歌) 石見のや高角山の木の際よりわが振る袖を妹見つらむか 巻二―一三九 (右の歌の、或る本の歌) 石見の海打歌の山の木の際よりわが振る袖を妹見つらむか 巻十五―三六一〇 安胡の浦に船乗りすらむ少女らが赤裳の裾に潮満つらむか 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、網の浦 又曰はく、玉裳の裾に 右が 「らむか」 の用例であるが、 全て短歌である。 集中では、 係の助詞として 「か―らむ」 「や―らむ」 を一般的な形として用 いているが、こう分割せず、 「か」を「らむ」に接続して「らむか」とすることにより、一層詠嘆の意を強くする。山崎良幸氏は、 「らむか」について論じ、人麿の歌にも言及して、 「らむか」は作者の動揺を一層増幅させると説いている (3) 。①の作者不明五首の内、 巻九の例は、旅にあって家人を偲ぶ上に、春雨に濡れる辛い姿を嘆く歌である。巻十一の例は、 「黒髪を敷いた手枕」 「相愛」に対 して、 「らむ」 であってもよいところを、 推量の域を超えて切ない嘆磋の息を吐く。 そして、 戯笑歌、 物づくし、 物語性のあるも のなど、 変化に富んだ 「由縁ある」 歌を集めた巻十六の二首は、 「古歌曰」 としてあって、 ②の歌と類似の関係にある。 二首には いずれも露骨な笑いがあり、詠って聞かせる物語が透けて見えている。②は三方沙弥であるが、題詞によれば、新婚にしてまだ間 もない時三方沙弥は病に見舞われてしまった。そこで、しばらく会っていない幼いあなた (妻 ) は、髪も伸びてもう大人びただろ

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うかと思いを巡らしながら贈った歌で、 時間軸を持つ、 き わめて物語風な歌である。③家持の二首は、 共に 「拙懐歌」 である。 「拙懐歌」は集中に三首で、もう一首も家持が天平勝宝七年二月十三日に作った、長歌と反歌二首で構成される歌である (巻二十  四三六〇~四三六二) 。長歌は 「天皇の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひ つつ 懸けまくも あやに畏し 神ながら わ ご大王の」 で 詠い起し、 「山見れば 見のともしく 川見れば 見の清けく 物 ご とに 栄ゆる時と 見し給ひ 明らめ給ひ」と、宮廷歌人の吉野行幸歌や宣命の詞章を思わせる表現をとりながら、海上豊かに賑 わう 「貢」 の船を歌う。そして、 「ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも」 と結ぶのである。紛う方無き讃歌である。晴れの 言葉を多用し粉飾した歌であるにもかかわらず、 「陳私拙懐」 と題したところに、 家持の屈折した心理が窺える。第一首目は、 大 雪の降った日に詠んだ二首の内の一首で、その一首目は「大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し」 (四二八五) という、瑞祥を寿ぐ讃歌であり天皇の聖政を称える歌である。家持が、因幡の国庁で饗宴を飾った『万葉集』最後の歌「新しき年 の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」 (四五一六) ときわめて近似する発想があり、落魄の際にある豪族のプライドが輝きを残 す痛恨の趣がある。 「拙」 の字は、 家持が防人歌を収集採録する際に用いた 「拙劣歌」 に見られ、 ③の 「拙懐歌」 がこれら防人歌 群の直後に位置付けられているのも皮相である。 「梅この雪に移ろふらむか」 (四二八七) には、 歴史的な 「時」 の経過を内に込め た、曲折した「私懐」があったことを考えさせる。④人麿の歌は、 「石見相聞歌」と「留京」に二分される。 「石見相聞歌」は、任 期が終了して都へ帰還する男 (人麿) が、 別 れてきた 妻 を思い、 山中で詠んだ 悲 別 歌である。長歌は、 石見の 単 調 で 寂 しい海 岸線 を 悲 しみの心 象 として 序 にし、 聞く 者 を 悲 の 境涯 に 引 き込む。最後は 「 夏草 の思 ひ 萎 えて 偲 ふらむ 妹 が 門 見む 靡 けこの山」 (巻二 一三一) と、起こり 得 ない 奇跡 に 全身 を 委 ねる。この長歌を 受 ける第一反歌が、 右 の「わが 振 る 袖 を 妹 見つらむか」である。 長歌の言葉が発する エネルギー は、時に 序 が 冗 長であるという 非 難を 受 けつつ、それを 欠点 とせず、反歌へと げ て行く。人麿は、 反歌 如何 で 招 く長歌の 崩 壊 をむろん知 悉 していたと考えられるから、反歌の最後を「 妹 見つらむか」と歌ったことは、人麿の心に 長歌を 受 けて 確 かな表現として 響 く最上の詞であったはずである。一方の「留京」二首は、行幸に 従 っていたかもしれない 自 分を 思いながら、 羨 望 と懐 顧 とで心を 燃 やす。 「らむ」 で詠う 「留 守 歌」 の 型 を 超 えて、 人麿表現の 燃焼 があったと思う。人麿の 「石 見相聞歌」の 劇 的に 組 み 立 てられた言葉の 技 、こうした歌は「晴」の歌の 範疇 からはみ 出 た、新たな 文芸 の 様 相を持つ。 『万葉集』 以前 の歌 謡 では、 『日 本書紀 』 孝徳 天皇の 白雉 四年 是歳 の 条 に一 例 を見ることが 出 来 る。これは、 先 に 触 れた「らむ」 の 古 い 例 である。したがって、 「らむか」の 使 用 例 としても 源 と見ることが 出 来 よ う。

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鉗着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか 右は、 孝徳天皇が大和への遷還を切望していたにもかかわらず、 中大兄皇子は、 天皇を難波に残したまま皇祖母尊 (皇極天皇) と妹である間人皇后を奉じ、大海人皇子その他公 大夫、百官を率いて飛鳥河辺行宮に引き上げてしまった。その時、天皇が間人 皇后に贈ったという歌である。鉗には、小枝、馬の首に着ける道具、馬小屋の出入り口に横に渡しておく棒などの説があり、外に も出さずに大切にしている馬あるいは自由の無い馬の意味にとっている。話の背景から、 「馬」は間人皇后を、 「人」は中大兄皇子 を譬えていると解釈できるが、 橘守部 『稜威言別』 は 「深く咎め給ふなり。 」 と言い、 武田祐吉 『記紀歌謡集全講』 は 「 その大切 にしている駒を、 人が引き出して見ているだろうという恨み」 とし、 土橋寛 『 古代歌謡全注釈 日本書紀編 』に は「 そ の にばか りいる駒を人々が見てしまったろうか、言い替えると自分の今の状況を人々は見知ってしまっただろう、もう天皇としての体面を 失ってしまった、 」 と 解している。 古 典大系本 『日本書紀』 頭注には 「 間人皇后が中大兄皇子と心を合わせて大和へ去ったことを 嘆じた歌。 」 と しており、 若 干の相違はあるものの、 いずれも、 憂 慮すべき事態の出来と、 孝 徳天皇の煩悶と恨悔の思いを読み取 るものである。こうした天皇の怨嗟の響きが立ちあがって来るのが、歌意の全てを収斂する最終句「人見つらむか」によってであ って、ここに、 「らむか」という言葉と表現の深旨な力を見るのである。孝徳天皇を始めとして、三方沙弥、人麿、家持の歌には、 内面で激しく 藤する心が「らむか」という三音に委譲され、歌を聞く者に物語に出会ったような衝撃と共感を与える。これは、 劇場的な 「聞かせる歌」 の一つの型と言えるであろう。 これに属する歌を二首もかかえる人麿の 「留京」 歌は、 「留守歌」 では括 れない深い発想の源淵があったにちがいない。 『万葉集』 の中には、 夫や恋人が行幸や賦役、 その他の 旅 で家 郷 を 離 れている時、 家に留まる家人の歌が 数多 くある。 また、 当 時の 生活形 態から 離 れ 離 れになっている夫 婦 や恋人たちの歌も 多 い。 互 いに 案 じ合う心に、 平穏 や 愉 楽 は無い。 常 にその人の難 儀 に心を 砕 き、 孤独 に 耐 え、 寝 ることさえ出来ない ほ ど 袖 を 涙 で ぐ っし ょ りと 濡 らしながら 泣 き 明 かすという。それが歌の 抒情 の 世 界 である。この 不安定 な日々が、 愛 や恋という 甘 やかな土 壌 を失わない 限 り、歌は 文芸 性 を 確実 に 帯び て来るものである。 『万葉集』の 題詞 によって、 明 らかに「留守歌」と 判 別できるもの、また 情 況によってそれと 認識 出来る歌を 左 に 挙 げてみた。

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( 1 )巻 四 五〇〇 碁檀越の伊勢国に往きし時に、留れる妻の作れる歌一首 神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅宿やすらむ荒き浜辺に ( 2 )巻 四 五一一 伊勢国に幸しし時に、当麻麿大夫の妻の作れる歌一首 わが背子はいづく行くらむ奥つもの名張の山を今日か越ゆらむ ( 3 )巻 四 六二一 西海道節度使の判官佐伯宿 東人の妻の、夫の君に贈れる歌一首 間無く恋ふるにかあらむ草枕旅なる君の夢にし見ゆる ( 4 )巻 一 四三 当麻真人麿の妻の作れる歌 わが背子は何処行くらむ奥つもの隠の山を今日か越ゆらむ (右は、人麿の「留京」につづく。 ( 2 )と同一歌) ( 5 )巻 二 一一二 額田王の和へ奉れる歌一首 大和の都より奉り入る 古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きしわが念へる如 (右は、 「吉野の宮に幸しし時に、弓削皇子の額田王に贈り与へたる歌一首」に応えた歌) ( 6 )巻 二 一一三 吉野より蘿生せる松の柯を折り取りて遣はしし時に、額田王の奉り入れたる歌一首 み吉野の玉松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく (右は、 ( 5 )につづく) ( 7 )巻 三 二八一 黒人の妻の答へたる歌一首 白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原 ( 8 )巻 九 一六六六 崗本宮に天の下知らしめしし天皇の紀伊国に幸しし時の歌二首 (の内) 朝霧に濡れにし衣干さずして独りか君が山道越ゆらむ ( 9 )巻 九 一六八一 後の人の歌二首 (の内) 後れ居てわが恋ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ (右は、 「大宝元年辛丑の冬十月に、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸しし時の歌十三首」につづく)

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以上、 ( 4 )のように留守をする官女の歌に擬えたと言われるもの、 ( 9 )のような後に男の手によって作られたらしいものも含 まれるが、全て女あるいは女の立場からの歌である。記録性の高さから題詞によったが、その意味でこれらの歌の中に或る規範が 見えてくると考えるのである。 見ると、 ( 1 )「旅宿やすらむ」 、( 2 )「名張の山を今日か越ゆらむ」 、( 3 )「恋ふるにかあらむ」 、 ( 4 )「隠の山を今日か越ゆらむ」 、( 7 )「君こそ見らめ」 、( 8 )「山道越ゆらむ」 、( 9 )「白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ」 と、 多く「越ゆらむ」を基調に、短歌七音で区切る音節として見られるような複合語的な表現が特徴として目に付く。右以外の歌に汎 渉するとさらにその用例は増してきて、 「留守歌」の型が、 「らむ」を伴って複合語化した形で成立しており、それがあたかも旅の 概念のようになっていたことを知る。無論、必ずしも「らむ」を使用するというわけではない。額田王の歌に「らむ」が無いのは、 弓削皇子と対峙する贈答歌の性質が強いからであろうか、あるいは「留守歌」に分類しない歌かもしれない。 題詞によって、記録性の見えるもの、つまり「留守歌」と認識されていたと考えられる歌を挙げたが、人麿の「留京」をあらた めて見ると、 人 麿の歌にはそれらとは異質な視界が拓けているのが感じられる。 「嗚呼見の浦に船乗りすらむ 嬬らが珠裳の裾に 潮満つらむか」は、万葉で好んで歌われた「珠裳の裾」 (「玉裳の裾」が四例、 「赤裳の裾」が一〇例、 「裳の裾」が一七例) が、 「潮満つ」 で一気に海洋の上に融蕩して行く。 「裳裾に潮満つ」 という表現は集中にここ一例しか無いことはすでに述べたが、 人麿の視界は 「留守歌」を遥かに凌駕して、抒情を抜けて物語性へと時空を拡げている。 「裳裾に潮満つ」 の訳を、 「潮にぬらす」 とする鹿持雅澄 『古義』 は 、「なれぬ旅路やなにこゝちすらむと想像憐みてよめるなる べし」と評釈し、また山田孝雄『講義』は「船にのらむとて且つは打興じ、且つは手間取る程に」潮が満ちて来たと言う。 「満潮」 ととる金子元臣 『 評釈』 は 「 満潮にあわてゝゐる、 賑かな、 しかも楽しげな様子」 、 窪 田空穂 『評釈』 も 「感動的」 と 評する。 橋 本達雄氏はその上に、 「嗚呼見の浦で巡航の無事を祈る神事の儀礼が行なわれたと思われ、 人麻呂はそれを想像して」 詠ん だ と 説 いてい る (4 ) 。 さらには 真下厚 氏の、 「 聖 性に 係 る特 別 な 部 分に 豊穣 のしるしが 顕 われる」 こと だ とする 説 があ る (5 ) 。 また、 土屋文明 『 私注 』、中 西進 『万葉集』には、 原文 そのままに「潮が満ちてくる」 「潮が 豊 かに満ちている」と訳す。しかし、 「裳裾に潮満つ」 という表現そのものに 違和 感を感じ、それを「古 代 の 違和 」と呼んで 注 意を 向 け論 及 したのは、古橋 信 孝氏である。古橋 信 孝氏は、 「裾が外界と 接触 することを 象 徴する場 所 」であって、そこが「 濡 れる」というのは、 「外界と 接触 することの表現」である。外界 とは 常世 を 代 表とする異 郷 で、 「潮が満ちる」とは「 常世 の 霊威 をもたらすこと」と 説 き、 「裾に潮満つ」は「航海してもいいとい

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う海の神の許可の標」と論じた (6) 。氏の卓見は、人麿の歌を理解する上で重要であり、古代の読みのあり方を示唆するものとなる。 その上でもう少し言い及びたいことは、 「裳の裾」は神の依りつく「場」ではあるが、 「裳裾」自体が発揮する呪的威力を人麿は観 じていなかったかということについてである。 それは、 「らむか」 と詠った、 感動を籠めた想念のありかを知ることに がって行 くと考えるからである。 『万葉集』 では、 「裳の裾」 に 対しては、 雨 や川の瀬、 波、 露、 雪解け水などに 「濡れる」 あるいは 「ひづ (漬 湿) 」 と 表現す る。 こうした中で 「赤裳」 「玉裳」 に関して言えば、 「引く」 と言う例が 「 赤裳」 十 二例の内六例、 「玉裳」 が五例中二例に見え、 「裳」 に は無い。 それに比して 「濡れる」 「ひづ」 の例は、 「赤裳」 には一二例中四例、 「玉裳」 が五例中一例と少なく、 「玉裳 赤 裳」 に特別な裳を想起する時には、 多 く 「 引く」 と 歌ったことが窺われる。 山部赤人の歌で、 「大夫は御猟に立たし少女らは赤裳 裾引く清き浜廻を」 (巻六 一〇〇一) というのがある。 「御猟に立たし」 という敬語の表現から、 「天皇君臨の賛美がある。 」(講談 社文庫本) と解される。 赤人は、 少 女らが清らかな浜辺を赤裳の裾を引きずりながら歩いているかに詠って清らかで気持ちの良い 浜辺を叙景しているが、少女らが赤裳の裾を引いて行くことによって浜辺が払い清められたというのが、その呪的原義ではなかっ たかと考える。 「引く」の例で最も印象的なのは、 『出雲国風土記』意宇郡の「国引き」の詞章であろう。八束水臣津野命の唱える「童女の胸  取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒 くるやくるやに、河船のもそろもそろ に、国来々々と引き来縫へる国は」という呪言は、 「引く」呪力を発動せしめるためのものであるが、 「国を引く」という稜威の重 さが伝わる不思議な詞章である。他国の余所を綱を掛けて自分の国の狭所に引いて来て縫い合わせるという行為は、神の絶対的な 霊威によってのみ成されるものであったが、 「引く」 は、 たとえば 「矢を放つ」 というところを 「弓を引く」 と言い替えられるよ うに、 非常に能動的な呪の行為であったと考えられる。 そしてそれは、 「梓弓弦緒取りはけ引く人は後の心を知る人そ引く」 (巻二  九九) と、人の心を引く (誘う) とも詠んだように、自分の方に寄せる強力な呪術が含まれていた。そこから 敷衍 しても、 「赤裳  玉裳」の「裾」には、 何 かを引き寄せる 超 自 然 的な強大な力を観想していたことを考えさせる。したがって、裳裾に「 満 つ」と言 ったその「 満 つ」にも、能動的な裳裾の呪 性 を表わす意 味 があったと観 測 するのである。 裳裾の呪力は、神 功 皇 后 の 半島遠征 の 途次 、 戦勝 を 占 って裳の 糸 を 抜 いて 鮎 を 釣 る伝 説 (『 日 本 書紀 』神 功 皇 后摂政前期 『肥前 風土

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記』松浦郡) 、三輪山型説話での、男 (三輪山の神) の襴に糸を着けてその所在を知る話など、裳裾の呪に類する話があるが、 『万葉 集』の次の歌も参考になる。 勅して従四位上高麗朝臣福信を難波に遣し、酒肴を入唐使藤原朝臣清河等に賜へる御歌一首 せて短歌 巻十九 四二六四 そらみつ 大和の国は 水の上は 地行く如く 船の上は 床に坐る如 大神の 鎮へる国そ 四の船 船の舳並べ 平安けく 早渡り来て 返言 奏さむ日に 相飲まむ酒そ この豊御酒は 反歌 四二六五 四の船はや還り来と白髪著け朕が裳の裾に鎮ひて待たむ 右は、勅使を発遣し、 せて酒を賜へり。楽宴せし日月は詳審にするを得ず。 右は、入唐使藤原清河等に贈った、孝謙天皇の歌である。四艘を組んで渡る船団の航海の無事と早期の帰国を願う言葉を長歌に 叙述し、反歌では具体的に行なう呪法を示して、遣唐使たちに安穏な航海であることを約契する。それが「朕が裳の裾に鎮ふ」で ある。裳は、女帝であり巫女でもあるから「玉裳」であったに違いない。孝謙天皇がなによりも願っていたのは、長歌の詞章に言 う「大和の国は 水の上は 地行く如く」であり、全船が「平安けく 早渡り来」ることに尽きている。その為に天皇の裳裾が聖 なる呪的領域となって船に良き 「潮」 の 「時」 を招く呪力を幻想させる。 折 口信夫は、 「瑞」 の語原は 「 水」 で、 さらにそれ以前 は 「 禊ぎの料として、 遠い浄土から、 時を限つてより来る水を言うたらしい。 満 潮に言ふみつも、 其 動詞化したものであら う (7) 。」 と説いている。 浄土 (常世) から 「時を限つてより来る水」 「満潮に言ふみつ」 は、 回帰する神秘な事象から得た 「時」 の概念で ある。 「潮」が、常世という異界と共に観想される神話的なありようから、 「珠裳の裾に潮満つ」がきわめて古い思想に立つのを想 像する。人麿の中の嗚呼見浦は、潮満つ幻想の世界となり、ひたひたと覆う「潮」を待っている。このうごめく「潮」の本性こそ が、人麿をして宇宙的規模の世界を詠 出 させる原動力となっている。 記 紀 神話に見る海に 関係 する神の 誕生 については、 伊邪那岐命 伊邪那美命 が河海に 別 けて 生 ん だ 神の中に 沫那芸 神 沫那美 神、 那芸 神  那美 神がある (『古事記』 ) 。 宣 長はこれらの神を、 「「 那芸 」 は 「水上の和 ナギ たる 意 なるべし。 」、 「 那美 」は「 水 上の 騒ぐ を 云 言にて、波と 云名 もそれより 出 たるなるべし、 」 (『古事記 伝 』) と説いている。 『日本 書 紀 』では、 第 二 段 一 書 第 二に、天万 尊 が

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沫蕩尊を生み、 沫 蕩尊が伊奘諾尊を生むとある。 岩波大系本補注に、 「アジアに、 波の泡から、 最初の神が生れたという伝承があ るが、あるいはそれに類する伝承が、日本にも嘗つて存在して、その断片が、このような形で伝えられているのではなかろうか。 」 と解説しているが、 いずれにしても、 凪 波 波の泡と関係する神のことであるようだ。 一方、 「潮」 の誕生については記紀共に 語っていない。 『古事記』に潮 (潮 塩) が最初に登場するのは、伊邪那岐命 伊邪那美命二神による「国生み」の始まりを語る「二柱の神、天 の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩許々袁々呂々邇画き鳴して引き上げたまふ時、其の矛の末より垂り 落つる塩、 累なり積もりて島と成りき。 是れ淤能碁呂島なり。 」 とある段である。 しかしこれは、 塩 (潮) の誕生を語るものでは ない。 「塩」 は、 国の初発から立体的な空間を持つ容れ物と認識されており、 それは生命体を生む原古の容積体であると観じて描 かれている。 それ故に、 島という個体を生成することが出来た。 また神名として 「塩椎神」 の存在があるが、 『日本書紀』 に 「 塩 土老翁」とも書くように、ここにも個体化された霊威あるものとしての知覚がある。天皇の祖先を導く常世の神として、彼岸への 憧憬 信仰があったことは言うまでもないが、 「塩」を、 「いっぱいになる」意の「満つ」と表現出来るのは、この立体的な容れ物 観を見ないではあり得なかったであろう。 火遠理命が、失った兄の鉤を探しに海神の宮を訪問するいわゆる海幸山幸の神話では、山幸が地上に帰還する際に海神から授か ったのが「塩盈珠」 「塩乾珠」 (以上は記の表記。紀では「潮満瓊」 「潮涸瓊」 ) であったが、ここにも、潮を「珠」に象徴する容積体と して捉える観想が見えている。この性質は、天之日矛が、 走した妻を追って行った多遅摩国から持ち帰ったという玉津宝の「浪 振比礼」 「浪切比礼」と比較してみると、 「波」が平行 平面でとらえられており、 「潮」との違いが鮮明になるであろう。 「潮」と 「波」 との違いを端的に表わすのが動詞 「満つ」 と 「 寄す」 で ある。 『万葉集』 においてもそれは (例外が一例 「 志賀の浦に 沖 つ 白 波 立ちし来らしも」 巻十五 三六五四 が、 一 云 で 「満ちて来 ぬ らし」 となっているのがある) 、 表現を明 確 に 使 い 分け ている。 いくつか例を 挙 げると、 巻十三 三 二 四三 ( 略 ) 朝 な ぎ に 満ち来る潮の 夕 な ぎ に寄 せ 来る波の ( 略 ) 巻十 七 三 九八 五 ( 略 ) 朝 凪 ぎ に 寄する 白 波 夕 凪 ぎ に 満ち来る潮の ( 略 ) 巻十 九 四 二一一 ( 略 ) 朝夕 に 満ち来る潮の 八 重 波に 靡 く珠 藻 の ( 略 )

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巻七 一一六五 夕凪に漁する鶴潮満てば沖波高み己が妻呼ぶ などのように歌う。人麿も 「 波」 には 「夕はふる 浪こそ来寄せ」 (巻二 一三一) と表現するが、 次のような歌からは、 「潮が満 つ」相がきわめて具体的なものとして観されていたのを読み取ることが出来る。 巻十七 三八九一 荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時かわが恋ひざらむ 巻三 三八八 海若は 霊しきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻らし 座待月 明石の門ゆは 夕 されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ (略) 巻四 六一七 葦辺より満ち来る潮のいやましに思へか君が忘れかねつる 巻十二 三一五九 湖廻に満ち来る潮のいや益しに恋はまされど忘らえぬかも 巻十八 四〇四五 沖辺より満ち来る潮のいや増しに吾が思ふ君が御船かも彼 は、潮の干満によって「時」の推移を数え、それに乗せて作者の切ない恋の時間も流れている。 は、海神が「波」をもって 淡路島を中に伊予をぐるりと囲み、 「潮」 は 明石の門から朝夕に干と満とを繰り返すと歌っている。ここでも二つの霊威には明確 な区別があり、 「波」は水平に、 「潮」は上下の動きを見せる。 「座待月」は「明石」の枕詞であるが、歌う観念の中では、 「潮の時 を待つ」 海 上交通のありようが根幹にあったと考えられよう。この、 「月」 と 「潮」 との関係が明石の門において壮大に詠われて いるのを心に留めておきたい。   は、 「満ち来る潮」 を 「 増す」 と いう言葉で表現し、 時 毎に変化を遂げる潮の状態と恋が募 って行くのを、 「時」 の 経過に乗せて等価に歌ったものである。自分の意識よりもはるかに強い何者かによって突き上げられて来 る思いに、 「潮」の営みは添ってくれている。 「潮」は豊かに海を満たしめ、永遠の時を繰り返す。神話的なこの「時空」が海神の 宮の存在を幻想させたのであろう。そしてさらに、 「潮」が周期運動という驚異の威力を見せることによって、 「時」という「永遠 に繰り返すもの」の観念が生まれた。そして、 「潮」と同じ周期運動をする、天に輝く「月」が視界に入って来るのである。 「月」 と 「潮」 とを歌った筆頭歌は、 額田王の 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」 (巻一 八) であ

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る。 『万葉集』では月が、 「世間は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち闕けしける」 (巻三 四四二) 、「隠口の泊瀬の山に照る 月は盈昃しけり人の常無き」 (巻七 一二七〇) 、「 照る月も満ち欠けしけり 」(巻十九 四一六〇) と詠まれている。 万葉後期の 歌ではあるが、 人の命の儚さを表現する素材として月の動態が歌に息を吹き込んでいる。 その動態を、 「潮」と全く同じ言葉で表 現しているのである。尾崎暢殃氏、中西進氏は、古代では天も海も「アメ アマ」と呼んで同一に見ていたことを説いている (8) が、 たとえば、記紀の、天を航行する「鳥の石楠船神」 「天鳥船」 「天羅摩船」などの存在を語る神話によってもそのことは明らかであ ろう。三貴子の分治で、月読命は「夜」を、須佐之男命は「海原」を治める神として各々分掌したが (記) 、『日本書紀』第五段一 書第六では、月読尊に「滄海原の潮の八百重を治すべし」と、異なる分治が言い渡されている。これも「天」と「海」とを同一に 観想した証とすることが出来る。 それのみならず、 一書にある 「潮の八百重」という表現には、 「潮」の重厚な、 立体的重量が見 えていて興味深い。 「潮」と「月」との世界観が同じであるならば、 「潮と裳裾」に類する「月と裳裾」が観されていてもおかしく はない。そのような例があるとすれば、 「裳裾」がより神話的に、壮大な宇宙を観想することになろう。エリアーデは、 「ヒエロフ ァニー的時間」ということを言っており、 「時」は「儀礼によって回復される時間」であり、 「時」は「神話的祖型を有する行為を 単にく 、 り ことによって実現される時間」であると説明し、 「最後にこの時間は宇宙的リズム (たとえば月のヒエロファニーのよ うな) をも意味する (9) 」と語っている。すなわち「月」が「時」の概念を持ち、回帰する時間によって神話化されることをも説いて いるのである。 『古事記』 景行天皇条は、 そのほとんどが倭建命の説話で占められている。 その中の東征譚に、 遠征を了えて大和に帰還する倭 建命が、 尾張の美夜受比売のもとに立ち寄る話がある。 往路でも寄っているが婚姻のことはなかった。 再 会した倭建命が、 大 御食  大御酒盞を捧げる美夜受比売と交わす、つぎのような歌謡がある。 爾に美夜受比売、 其 れ意須比の に、月 経 著 きたりき。 故 、 其 の月 経 を見て御歌 曰 みしたま ひ しく、 ひ さかたの 天の 香具 山 利鎌 に さ渡る  弱細 手弱腕 を 枕 かむとは 我 はすれど さ 寝 むとは 我 は 思へ ど 汝 が 著 せ る 襲 の裾に 月立ちにけり とうた ひ たま ひ き。爾に美夜受比売、御歌に 答へ て 曰ひ しく、

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高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く 諾な諾な諾な 君待 ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ といひき。 右の歌謡は、 『尾張国熱田大神宮縁起』には、倭建命 (日本武尊) の歌謡の最後が「汝が着せる 襲の上に 朝月の如く 月立ち にけり」 と なり、 美夜受比売 (宮酢媛) の歌謡は 「諾な諾なしもや 我が着せる 襲 の裾に 朝 月の如く 月立ちにける」 となっ ているが、 こちらの方は、 古記を参考に作られた貞観十六年のものを基にしてさらに手を加えた、 時代の新しいものである。 「朝 月の如く」という比喩的表現は記歌謡には無い。 右の歌謡は、 襲 の裾に 「 月立つ」 と女性の月経 (月水) を歌ったもので、 その題材の特異さから、 い ささか研究者を戸惑わせて いる。 契沖 『厚顔抄 (下) 』 は 「月トハ月経也、 和名集云、 月水 俗云佐 波利 」「月将 レ起ヨナリ」 と、 月経の始まったこととしているが、 橘守部『稜威言別』は、 「汝が着せる 襲の襴に」を「速帰来て 見むと思ひつゝ、あまたの月日経に来」の序と考えた。そして、 「後世の婦人だに慙 ヂ 慎て、 をさ  然る穢しきわざは為ざるを、 況て上古、 神に近き人の上におきてをや。 もし又実に着て有けむ と然か詔はゞ、 其はいみじき耻を、 與へ給ふものにして、 比売は立所に身を投つべし。 」 と 、 諭旨している。 本居宣長は 「月は天 ソラ なる月なり、 」として、 「たとへば、花の落 チリ たるを見て、雪ふりにけりとよみたらむが如し、さればこゝの都紀 ツキ とある詞に依て、上 の月経をツ 。 キ と訓 ム は、 ひがことなり、 」 (『古事記伝』 ) と、 比喩に解している。 西 郷信綱氏も 「 唐突で意外の感をまぬがれない」 と 言ったが、しかしそこには「古事記独自の文脈が通っていると思う。 」と述べ、それは、 「ミヤズヒメ(美夜受比売)という名を、 ミアハズ (見合はず) ヒメと語源解釈」したため (紀に宮 簀 媛、熱田縁起が宮酢媛といずれも 清 音 に記す) と考えた。氏は「ミヤズはミ ヤ ス (宮 主 ) の 転 」で あ ろ うとし、 それが 「 古事記では美夜受媛となり、 そ れがさらにミアハズヒメへと 説話 的に 進化 した。 」と 、 別の解釈を下す ( ) 。 土橋寛 氏は宣長の比喩 説 をとり、その上に「月 ( 空 の月、月水) 立ち (現れる) にけり」と、 掛 詞として解釈して いる (『古代歌謡 全注 釈 古事記 編 』) 。 一 つの特 殊 な言語事 象 によって、この歌謡が意 味 するとこ ろ の方 向 性を見 失 うことがあるかもしれない。宣長のように比喩と見 るのも、 土橋 氏のように 掛 詞と解するのも、また、比喩ととる武田 祐 吉 氏が「 今 人には下 品 に感じられるかもしれないが、古人は あかるく 興 を 催 したであ ろ う。 」 (『記紀歌謡集 全 講 』) と大らかに 容 するのも、 また、 西 郷氏の、 古事記独自の文脈ととらえた 説

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話説にも、 まだ比考の余地が残されているように思う。 それは月経に封印をするのではなく、 「天の月」 も 「月水」 も 「月」 と呼 ぶように、二つの大きな宇宙を重ねる古代の観想を直視することではなかろうか。なんと言っても、互いの問答の核となる詞は倭 建命の「襲の裾に 月立ちにけり」であり、美夜受比売の「襲の裾に 月立たなむよ」であって、これを僻言としてしまえば歌謡 の核は崩壊するであろう。 美夜受比売の歌謡は、 「高光る 日の御子 や すみしし 我が大君」 と、 天皇讃歌の詞章で歌い起しており、 倭建命に応えたも のとしては少し距離がある。 『古事記』 が、 美夜受比売を 「尾張国造の祖、 美夜受比売」 と位置付けているところからも、 後の壬 申乱にも功のあった尾張氏の、服属儀礼の歌謡の転用であった可能性もあるが、歌は「あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く」 と 続けて終曲へと向かう。 こ の詞章は、 年と月との来歴が互いに関わり合っていることを的確に表現しており、 「時」の推移がどのようになされるかを語る、あたかも年月の起源を解く神話のような趣がある。 「月」が「時」を支配するという 観想は、 『筑前国風土記逸文』 (神名太宰官内志) に、 仲哀天皇の崩御後、 半島遠征の指揮を執る臨月の神功皇后に、 月の神が現れ て子を産む日を遅らせる呪法を啓示する、いわゆる「鎮懐石」の伝説にも窺うことが出来る。 美夜受比売の歌謡は、 さらに 「諾な諾な諾な」 を挿んで「君待ち難に」 へと続く。 「待ち難に」 を万葉の恋歌に多く見られる 「待つ」 「待てば」 に言い替えてみると、 「待つ」 は 「時」 の経過そのものであり、 美夜受比売は辛く苦しいまでに貴方を待ってい たという、 恋の時間を抱え続けてきた女であることが、 物 語のように明かされて来る。 それを歌謡に顕して見せるのは、 やはり 「我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ」しか無い。 この歌謡には、 程度の差こそあれ、 ある意味での忌避の心理が働くのは否めないであろう。 さらには、 「襲の裾」 が月経のリア ルな写照を誘うのもはっきりしている。しかし、それでも語りの地の文と倭建命の歌詞には明確に「月水」を歌っているのである から、美夜受比売の「月立たなむよ」も月水ととるのが基本である。これを天の月とのみするのは、かえって古代の歌謡に弄巧を 下すことになりかねないであろう。 西郷信綱氏は、 露 骨で 野 性的な 八 千矛之 神の歌謡に 一脈通じ るとして、 「 饗宴 のさい 滑稽卑猥 な 所作 を 以 て 演じ られたものに 相違 なく ( ) 、」 と 説いているが、 むしろ本 質 を 衝 いていると言える。 さま ざ まに解 釈 される美夜受比 売の歌謡であるが、しかし、この歌謡は古代の呪の 根元 を顕している重 要 な歌謡であったと考えられる。すなわち、女の月経は本 来 秘 儀であり、それに 触 れることは 禁 忌であった。我 々 に 若干 の忌避の心理が働くのは、 遺 伝子の 中 に 深 く 組 み 込 まれている我 々 の 中 の古代の 故 ではないかと思う。美夜受比売の歌謡に理 由 の 如何 を問うにはあまりにも 遥 遠であるが、しかし、大 胆 にも 禁 忌を

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破ったその実体は重い意味を持っていたはずである。故に、襲の裾の「招く」 「待つ」秘儀は、 「待ち難に」という対極によってゆ るやかに回避される印象を持つ。 美夜受比売の歌謡は、 時を経て、 『万葉集』 の 「玉裳 赤裳」 や 「裳」 の裾が 「濡れる」 という 文学的な表現へと変容を遂げて行ったのである。 「裳裾」 の呪的信仰は、 美夜受比売の歌謡に顕してしまった秘儀を継ぎつつ、 連 綿と女たちの中を生きてきたのだと思う。月経を「月」と呼ぶ理由は他にも考えられるとしても、まさに「時」を抱く故に、天の 月と同じ呼称で結ばれている。 これは、 額田王の熟田津の歌に目を向ける重要な起想としても生きてこよう。 「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今 は漕ぎ出でな」の「待てば」の呪的時間帯はまた、美夜受比売の「待ち難に」にも通じる。これらの「待つ」行為は特殊な神の時 間帯であって、ただひたすら待ち続けるという恋のそれとは異なるものである。額田王には「裳裾」そのものは詠われていないが、 熟田津に停泊している大船団に向けて、 白村江への出航を促した神事の歌とする大方の説を受ければ、 なお一層、 「月 潮」 を招 き呼びつつその 「時」 を 待つという呪性が強くなる。 「今は漕ぎ出でな」 の 「今」 は 、 呪 の最も威力ある聖なる時であり、 「神の時」 である。 額田王の 「待てば 今は」 が 宇宙的な規模でこうも力強く響くのは、 「月 潮」 を呼ぶ強烈な呪の世界からの牽引があっ たからであろう。このような「時」の み方は神話の領域に属するが、孝謙天皇の裳の裾は潮の「時」を招き、美夜受比売の襲の 裾は「月水」の「時」を招いた。そして額田王も「月と潮」を招く。三人の巫女たちの裳の裾は観念の中で濡れて赤く発色し、美 しく光っているのである。 さらに言い及んでおくと、 美夜受比売の 「月立たなむよ」 は、 「なむ」 が 「 立つ」 の未然形に接続しているので願望の意となっ て、倭建命に応える言葉としては相応わない。守部は「立 タ ざらめやはと云 フ 勢ひ」だといって、活用など狭き論にこだわらないほう がよいと言っているが、 他の解釈は次のようである。 宣長は契沖に同じ、 「立ちなむ」 の古い語法とし、 武 田祐吉 『 記紀歌謡集全 講』 はこれにならう。 「未来の推量と見るべき」 として、 「立ち」 が音韻変 化 によって 「立た」 になったとする説 (相 磯 貞 三『 記 紀 歌謡全 註 解』 ) 、「立タ ラムヨ 」の「 ラ 」 完了 の 助動詞 未然形) が「 ナ 」 に音韻変 化 したという考え ( 阪倉篤義 「「古 代 歌謡集」 読後覚 え 書 」『万葉』 二六号 ) 、「立たり (立ちありの 約 ) なむよ」 の 「 り」 が 脱落 した形 ( 土橋寛 『古 代 歌謡全 注 釈』 ) などがある。 そ して、 「月 が出るで ご ざいまし ょ うよ。 」 (『全講』 ) 、「月水がついたので 御 座 いまし ょ うよ。 」 (『全 註 解』 ) 、「 私 の 着 ている襲の裾に月が立って いるのは、 あたりまえで ご ざいまし ょ う。 」 (『全 注 釈』 ) といったように 訳 されている。 こうした文法の 問題 を 踏 まえながら、 これ まで見てきた神話、 幾分 かの 物 語 風 な解釈をあてて見ると、 原 文の通りで 本 来の形が 成 立するのを、一つの 読 みとすることが出来

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ると思う。倭建命が、会えることが叶うことになったのに貴女の月の障りで会えないと詠ったのに対して、美夜受比売は、 「 (ほん とうにほんとうにほんとうにね) 私の襲の裾に月 (「時」 ) を招き寄せて 私の襲の裾に月が依り付いて立ってほしいものですよ」 と詠う。倭建命の弁解めいた口ぶりに「お望みならそういたしましょうか」 (招いてみせましょうか) 」と、揶揄のような皮肉のよう な言い返しをしたもので、これは、実際の月水に結びつけなくてもよいし、こだわる必要もない。二人が贈答した歌謡には、その ような古代の歌闘いの様相が見てとれる。 青 木周平氏は、 「 年月が経った ことを 「ねえそうでしょう」 と肯定的にうけつつ、 「月が立ってほしいですね」 と新しい暦月が始まることを願い」 、 共 寝をしたいという心情を吐露した願望と解釈し、 さ らに、 「御 合」 によって服属が果たされると説 く  。 これにより、 土橋氏が月の障りのために会えないと言った歌謡に続く文が、 「故爾に御合 したまひて」となっているのは「不審」であると述べているのも、解消するであろう。 一本の糸から織り出される布への信仰と畏怖の念は、 比礼 (領布) 袖 紐そして裾、 大きなものでは旗物へと働いている。 振 る、 結ぶなどの呪的行為によって、 そ れらは招魂 祓 結魂などの呪能を発揮する。 「赤裳 玉裳」 には 「引く」 という表現が用 いられており、 そこに 「引き寄せる」 「招く」 呪能のあったことを述べたが、 ここの 「襲の裾」 の 「 立つ」 も同様に特別な呪能を 意味している。 「立つ」 と言った言葉の底にある視覚的な色の美しさは、 つまりは 「目立つ」 ことであり、 古代人が目立つ所を神聖視したこと は、言うまでもない。 『出雲国風土記』総記、意宇郡に、八束水臣津野命と大穴持命が、出雲を「八雲立つ出雲」と詔る話がある。 また『古事記』須佐之男命大蛇退治の後の段には、 「初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。 」とある。これは、 出雲国の誕生に深く関わる伝説であり、雲が「立つ」とは、神々の発動であり鎮座を示す場の霊的現象であった。そして、天皇の 国見では、 「埴生坂 わ が立ち見れば」 (記、応神天皇) 、「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国みれば」 (記、 仁徳 天皇。地 の文に 淡路島 とある。 ) 、「大 和 には 群山 あれど とりよろ ふ 天の 香具山 登 り立ち 国見をすれば」 ( 万 葉、 巻 一 二) 、「 吉 野 川 激 つ 河内 に 高殿 を 高知 りまして 登 り立ち 国見をせせば」 ( 万 葉、 巻 一 三 八人 麿 ) など、 儀 礼に 臨む 天皇の立ち 姿 と、 必 ず その場を 明 記している。これらは、聖なるものが立つことによって、 自ず から場の聖 性 が 証明 されるという相 乗 の意味がある。 こうした古代相は、 「襲の裾に月立つ」 も 例外 では 無 く、 立つ 処 すなわち 「襲 (裳) の 裾」 の聖 性 によって 「月」 は 「 襲の裾」 に 立つ。その 標 が倭建命と美夜受比売の歌謡には、 仮 象ではなく、月経という 客観 的な現象として、 描 かれていたのである。

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「時」 が永遠に回帰する標は、 闇から還る太陽の朝陽 夕陽の光であり、 月の満ち欠けによる光と陰の推移であり、 同じ周期の 月経による赤である。これらは回帰するが故に、天岩戸神話に象徴されるように、呪の威力によって招き出すことを可能とする、 逆転の神話的発想を生むのである。これらの中の月経のみが唯一、人と直結し得るものであり、おそらくそれを中心として放射状 にひろがる呪の世界観を持っていたのだと考える。裳裾、襲の裾は、人間側からの最も中心に置かれる呪物であった。 古代の人が鋭敏に感応した、 光 と色に対する感覚を読み切ることによって、 「裳裾に月 (月水) 立つ」 と詠っている美夜受比売 の裳裾が、輝く赤に染まっていることをはっきりと感じ取ることが出来る。それが古代を読むということに がるのだと思われる し、 『万葉集』に「赤裳 裳」が「濡れる」という表現が何故多いかという問題にも敷衍して行く。 「赤」は「赤土」 「赭」 「丹」な どの塗 顔料を含めた色で、呪的、霊的、神話的な力があると信じ、畏怖の念を抱いたが、その美しさはあたりに映発し、視覚に 鮮やかにうつるとい う  。 そ の 「 赤」 は、 「濡れ」 てその色を際立たせ、 日 常から非日常へと聖性を高めて行くのを観じさせる。 人 麿が今思い描いている「 嬬ら」は赤い裳裾が光り輝くように発色した姿で立っており、その姿は人麿を神秘な「神の時間」の中 に導き入れている。それはかつて額田王が歌にした世界と同質なのである。 今あらためて、額田王と人麻呂の歌を並べてみることにする。 巻一 八 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 巻一 四〇 嗚呼見の浦に船乗りすらむ 嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか 二首の歌には、 驚 くほど共鳴し合う言葉の響きがある。 その 「時」 を待つたたずまいは、 気高いまでに凜然としている。 「熟田 津に船乗りせむ」 として月を待つ額田王一行の船は、 月も潮も充ちて、 「今は」 という時を迎えている。 人 麿は京に居て 「嗚呼見 の浦に船乗りすらむ」と、乗船した「 嬬ら」を遥か幻影のように思い描き、額田王が「月待てば潮もかなひぬ」と詠ったのをう けるかのように、 「潮満つらむか」 と感動の 「時」 の連鎖を歌う。 人麿の 「らむか」 が、 息を潜める幽かな呼気のようにまた荒々 しく叫ぶ歓喜のように、揺らぎつつ余韻を 引 く。額田王には「裳の裾」が 無 い。人麿の歌には「月」も「待てば」も 無 い。しかし、 両者 は 明 らかに 海上 を 霞 のように 流 れる「時」を見ており、珠裳に 依 り 着 く「潮」の神話的幻想は、さらに赤く光輝を放つ裳裾の 「今」 へ と 濃厚 な時 空 を 拡げ て行った。 これが、 歌の生 命 だと思う。 作 歌の 過程 を る 上 で、 宮廷 歌人人麿の感覚と能力を充 分 に

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刺激出来たのは、額田王しかいなかったと思えて来る。 森朝男氏が、 「人麻呂は 時間 を描くことに成功した、 おそらく最初の詩 人  」 と言ったのは正しく、 その論は深い。 人麿は、 「時」 を 見ることにおいて真に詠う人であった。 しかし、 額田王は、 まだ少女の頃、 七番歌で 「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇 治の京の仮廬し思ほゆ」と回想する過去の「時」を明確に「今」の上に手繰り寄せることのできた歌人であり、八番歌熟田津の歌 の額田王は、 月の運行、 潮 の満ち干を 「時」 の 祝祭にあげつつ、 「今」 を 見る巫咸であった。 人麿の詩性は、 迢 迢たる 「 時」 の 営 為に亡びという負の主題を導き出したが、それには、額田王という先人の、心の言葉に帰依するところが大きかったと思う。橋本 達雄氏は、 「嗚呼見の浦で巡航の無事を祈る神事の儀礼が行なわれたと思われ、 人 麻呂はそれを想像して、 額田王の詠作歌に近し い歌い振りの「呪歌」を詠じたと考えられる ( ) 。」と述べている。 額田王の熟田津の歌が、 伝承歌として折々に詠い継がれていたことを、 次 の歌によって知ることが出来る。 「山部宿 赤人の伊 予の温泉に至りて作れる歌一首 せて短歌」 (巻三 三二二 三二三) という題詞をもつ長歌で、 長歌は 「皇神祖の 神の命の」 で 始まり、 「遠き代に 神さびゆかむ 行幸処」 でとじた讃歌である。 これの反歌が 「ももしきの大宮人の飽田津に船乗しけむ年の 知らなく」とあって、額田王の、熟田津で船乗りした大宮人を想念の中に入れているのが見える。また、巻十二の作者不明歌にも 「柔田津に船乗りせむと聞きしなへ何そも君が見え来ざるらむ」 (三二〇二) と見えて、 赤人同様の伝承事情を み取ることが出来 る。しかし、人麿には、こうした後人のような形式的な継承による言葉の形骸化は無く、額田王の内から出る言葉の力に肉迫して おり、華やいだ物語性は他の歌の比ではない。 人麿の、 「嗚呼見の浦に船乗りすらむ 嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか」 を以上のような発想の背景を ってあらためて読みな おすと、 そこには観念では描ききれない女の世界が現出する。 それは、 「赤」 の 幻想と言ってもよいかもしれない。 神話の闇の中 から極光のように輝き出てくる、 「時」を巡る女の呪の世界である。森朝男氏は、 「みやび」という理念で人麿の様式性をとらえ、 それに到り 着 こうとする宮 廷 の様式 志向 の 顕 れであると述べてい る 。 みやび というのは 古 代 和 歌のやがて 目指 して行く世界で あるが、人麿の「赤」の幻想は、まだ 荒 い 研磨 の 跡 が見える、激しく 燃 える「赤」の 魅 力である。それは、人麿が現 実 の 向 こう 側 にあるものを 常 に 透視 し、 霊威 を 放 つ言葉の 生 命 体 と 拮抗 する歌人であったからであろう。中 西進 氏は、人麿に「 記紀 の神話力が ある」と言って、人麿が神 秘 な神の力を 感 じ、それが歌を作り上げる時の 重要 な 要素 となっていると 説 いている ( ) 。 筆 者もそのよう

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に考えるのであるが、 「神話力」 という言葉を借りれば、 人麿の神話力は、 歌に立体的な 「時空」 を現出し、 そこに光も色も風も 音もそして匂いに至るまで、言葉の賦活力によって生命体としての輝きを与えるということである。 人麿を継承しつつも、そこから乖離して行く次代の宮廷歌人に、山部赤人、笠金村、車持千年等がいる。その中の金村に次のよ うな歌がある。 神亀元年甲子の冬十月、紀伊国に幸しし時に、従駕の人に贈らむがために、娘子に誂へらえて作れる歌 一首 せて短歌 笠朝臣金村 巻四 五四三 大君の 行幸のまにま 物部の 八十伴の雄と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉襷 畝火 を見つつ 麻裳よし 紀路に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ 親し われは思は ず 草 枕 旅を宜しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙然もありえ ねば わが背子が 行のまにまに 追はむとは 千遍おもへど 手弱女の わが身にしあれば 道守の 問は む答を 言ひ遣らむ 術を知らにと 立ちて爪づく 反歌 五四四 後れゐて恋ひつつあらずは紀伊の国の妹背の山にあらましものを 五四五 わが背子が跡ふみ求め追ひ行かば紀伊の関守い留めてむかも 右は金村が、京に留まる娘子からの依頼で、行幸従駕の人に贈る為に作った歌というのが、題詞から分る作歌事情である。金村 は、聖武天皇の吉野離宮、難波宮、播磨国印南野行幸に従駕し歌を献じている、いわゆる宮廷歌人である。右の歌は、金村自身が 留まったか否かは問題ではなく、作歌動機の基本は「留まる者」にある。歌は一読して知られるように、長歌は人麿の「泣血哀慟 歌」 (巻二 二〇七~二一六、 或る本を含む) の 「天飛ぶや 軽の路は (吾妹子が 里にしあれば) 」「玉襷 畝火の山に」 「すべをなみ (妹が名喚びて) 袖そ振りつる」 (二〇七) 、「黄葉の散りゆくなへに」 (二〇九) を取り入れて、 歌の構想の中心に人麿を置いてい る。 そして、 「真土山 越ゆらむ君は」 と一般の 「留守歌」 の表現を踏んで歌の担う意味を明確に意識しながら、 第 一反歌では、

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持統天皇代に詠われた穂積皇子と但馬皇女の 「悲恋歌物語」 (中西進 講談社文庫本 『万葉集』 ) の 「 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ 及かむ道の阿廻に標結へわが背」 (巻二 一一五) という皇女の歌に擬えている。長歌と第二反歌はそれぞれ、集中に金村しか使用 していない「道守 関守」 (集中では全て「関」 ) が見えていて、これとも相俟つ形で、物語化がこの歌を作る最大の指標であったこ とを窺わせている。いずれも、人麿など持統朝の歌にならっており、歌の評価は別として「留守歌」が文芸志向をもってここまで 成熟して来ていることを感じさせる。人麿の「留京」歌はその先駆として、新たに晴れから褻へ、儀礼の場から宴へと受容の場を 拡げて行く道を拓こうとする、 「聞かせる」歌であった。 『日本書紀』は、持統天皇六年の伊勢国行幸時における「留守官」の名を明記している。そこには、 「浄広肆広瀬王 直広参当摩 真人智徳 直広肆紀朝臣弓張」の三人の名があがっているが、それまでの記録で「留守官」として名の見えるのは、斉明天皇四年 十月十五日から翌五年一月三日までの紀の牟婁温湯行幸の際の、蘇我赤兄臣のみである。赤兄は、天皇の留守中に起った、古代史 に名高い有間皇子の謀反事件に深く係わっていた (赤兄の奸計によって謀反の意思を表わしたか) 人物である。赤兄の場合が制度とし ての「留守官」であったのかどうかは不確実であるが、持統六年伊勢国行幸に関しては、福沢健氏が「浄御原令の公布 施行を中 心とする律令体制の整備の中で、新しい天皇行幸として企画されたもの ( ) 」と、律令の体制作りとの関連を指摘している。 「留守官」 については、 『律令』 の 「公式令 第廿一 ( 44)」 「儀制令 第十八 車駕巡幸条」 に規定があり、 主として鈴契 (駅鈴と関契) のこ とを管掌し、 巡幸の際の辞迎も免除されていた。 『令集解廿八』 「儀制令」 に、 「執掌の長官の留り守る者、 たとえば 監 国の 太 子、 もしくは契を執る公 の 類 なり。 」( 『令 義 解』 「公式令」 ) とあるのは、 留守官の 位置付 けの高さを物語っており、 それ相 応 の人物 があてられて 責 任 と 権限 を 委譲 されていたことが 分 る。 広瀬王は、 『万葉集』 に 「 小治田 広瀬王の 霍 公 鳥 の歌一 首 」 という 題詞 を持つ歌 「 霍 公 鳥声 聞く 小野 の 秋風 に 萩咲きぬ れ や声 の 乏 し き 」 (巻八 一四六八) を 残 しており、 万葉歌人の 列叙 に 入 っている。 しかも 注目 されるのは、 天 武 天皇の十年三月四日の 詔 「 帝 紀及 び上 古の 諸 事を記し定 め る」を受け、その 録にあたっていることである。 『古事記』 や 国史の 編纂 事 業 に参画した 構 成 要 員 の中には、天智天皇の皇子 川嶋 皇子、天 武 天皇の皇子 忍 壁 皇子らが 加 わっており、この プロジェクト を 通 して、 宮 中に皇子を中 心とする一大文化 圏 が 築 かれていたことが 推測出 来る。 川嶋 皇子は 『万葉集』 に二 首 、『 懐 風 藻 』に 漢詩 を一 首残 しており、 皇 子 薨去 (持統天皇五年 九 月) の際には人麿が、 川嶋 皇子の

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妻泊瀬部皇女とその兄忍壁皇子に挽歌を献上している。忍壁皇子と人麿の関係は、仙人の形を歌に描いて皇子に説いて見せる「と こしへに夏冬行けや裘扇放たぬ山に住む人」 (巻九 一六八二) があるなど、知的で自由な文化的雰囲気を想像させる。 人麿の、巻 三の持統天皇讃歌 「大君は神にし座せば天雲の雷の上に廬らせるかも」 (二三五) は、左注では忍壁皇子に献ったとある。 忍 壁皇 子は大宝律令の 定に加わり (任にあたった中には、 『懐風藻』に詩一首、持統天皇三年六月に 善言司に ばれている伊余部連馬養が居る。 馬養は、 『丹後国風土記逸文』によると、 「水江浦嶋子」の伝説を書き記した人物) 、大宝元年七月に多治比真人島の弔賻使となっている。 丹治比島は人麿の庇護者とも考えられており、たとえそれを措いても、皇子達を通して人麿と広瀬王の文芸的交流を充分に推測す ることが出来る。 他の二人の「留守官」 、当摩真人智徳は持統天皇の大葬に皇祖等の騰極次第の誄を奏上、文武天皇の大葬にも誅を奏上している。 また、紀朝臣弓張も文武天皇崩御時に殯庭に民事の事を誄しており、この二人も天皇の歴史や伝記、 間の説話に精通していたも のと考えられる。 広瀬王をはじめとする三人の「留守官」に宮廷歌人人麿を加えると、そこに醸成される文化的環境が、行幸の場をはるかに凌駕 する華麗なものであったことを想像させる。人麿の作歌意欲は触発され、従駕の場と異なる内廷型の新たな発想の興趣を開いてい たであろう。神話に依る発想基盤は、行幸従駕という表舞台で詠われる長歌体の讃歌で歌の思想を支えたが、同じ基盤を蔓引しな がらも、 「留京」 歌は表舞台のそれではない。 神話は、短歌の中に 単 一な言 葉 となって 現 れながら、そこから歌 全 体への 融合 を 果 たして、思想 性 を神話化して行 く 。それが「留京」歌第一首 目 の 主題 を 起 すのであり、人麿の 譲 らぬ「 玉裳 の 裾 に 潮満つ らむか」 という表 現 の真 実 であったと思う。 離 れていてこそ 籠 められた「らむか」への 傾斜 は、人麿の 心 を 燃 やす。それは、 遥 かな 額 田 王 た ち 女の歌の中の 美 しい「 赤 い 裳 の神話」であり、 今 まさに持統女 帝 を 頂 上とする 海 の神話の 啓示 であった。 参考文献〉 ( 1 )上 野理 「第 十 九 章 留京三首 留守歌の 系譜 と流 離 の歌 枕 」( 『人 麻呂 の作歌 活動 』 平 成 十 二年三月 十 五 日汲 古 書 院 ) 「留京三首における人 麻呂 の 方法 留守歌の 系譜 と流 離 の歌 枕 」( 『国文 学研究 』第七 十 五 集昭 和 五 十 六年 十 月五 日 ) ( 2 ) 保坂弘 司「 推 量 古 典語 らむ」 (『国文 学臨 時 増刊 助 動 詞 のす べ て 古 典語 と 現 代語 』第 九 巻 第 十 三 号昭 和 三 十 九年 十 月二 十

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日) ( 3 ) 山崎良幸 「第二章 人麿作歌の研究 四 四〇番歌の歌意」 (『万葉集の表現の研究』昭和六十一年九月十五日 風間書房) ( 4 ) 橋本達雄 「Ⅰ作品を読む 留京三首」 (『柿本人麻呂 全 』平成十二(二〇〇〇)年六月六日 笠間書院) ( 5 ) 真 下 厚 「第一章 柿本人麻呂留京歌群の発想と構成」 (『万葉歌生成論』 平成十六年九月十日 三弥井書店) ( 6 ) 古橋信孝 「日本の詩歌 珠裳の裾に潮満つ 規範としての歌 」( 『国語通信』三〇八 一九八九年四月 筑摩書房編) ( 7 ) 折口信夫 「水の女」 (『折口信夫全集 第二巻』昭和四十年十二月二十日 中央公論社) ( 8 ) 尾崎暢殃 「天の安の河 川屋 」( 『万葉集とその周辺』昭和五十八年八月二十五日 明治書院) 中西 進 第四章 宇宙の水( 『古代日本人 心の宇宙』日本放送出版協会 二〇〇一(平成十三)年四月十五日) ( 9 ) ミ ルチャ エリアーデ 「第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話 147時間の不均質性」 (『聖なる空間と時間 エリアーデ著作集 3 』 一九八一年三月十日 せりか書房) ( 10) 西郷信綱 「ヤマトタケルの物語」 (『古事記研究』一九七九年二月十五日 未来社) ( 11)( 10)に同じ ( 12) 青木周平 「Ⅱ古事記の歌と説話 第一章 日の御子 像と歌 2 倭建命」 (『古代文学の歌と説話』 古代文学研究叢書 5 二〇〇〇年十 月三十一日 若草書房) ( 13) 伊 原 昭 「上代の赤 顔料を主に 」( 『増補版 万葉の色 その背景をさぐる』二〇一〇年三月三十一日 笠間書院) ( 14) 森 朝男 「朝 阿騎野遊猟歌の 時 」(『古代文学と時間』叢刊 日本の文学 6 一九八九年九月三十日 新典社) ( 15)( 4 )に同じ ( 16) 森 朝 男 「第二章 柿本人麿をめぐる和歌史 1 白鳳の祭政構造と詩 様式としての人麿 」( 『古代和歌の成立』 平成五年五月二十日 勉誠社) ( 17) 中 西 進 「Ⅷ和歌 物語と神話力 3 人麻呂歌と神話力」 (『神話力 日本神話を創造するもの』平成三年十月三十日 桜楓社) ( 18) 福 沢 健 「柿本人麻呂留京三首と伊勢行幸」 (『美夫君誌』第 50号 平成七年三月) (ますだ よしこ 日本語日本文学科)

参照

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