人吉藩の水陸連携魚輸送1球磨川舟運から椎葉山ヘー
はじめに 本稿は、近世から近代にかけ展開された、肥後八代から人吉を経て、球磨川上流地帯更には日向椎葉にまで至 る、海魚の水陸連携輸送について、述ベるものである。 かかる鴛設定をしたのは、平成八(一九九六)年の夏休みに、椎葉村下福良滝を訪れた際、明治四十(一九0 七)午生まれの女性から、﹁白分が若い時、椎葉の者は﹁魚は球磨が美味しい﹂と言っていた。﹂と、聞かされてい (1) るからである。言うまでもなく、球磨郡は海に接していないから、この話は地理的には正確ではないのだが、タイ プとしては、越中禦信州では飛騨鯆と呼ぱれた、三陸海岸から盛岡ヘ送る魚が遠野荷と呼ぱれたと、同類の伝承 ととらえることが出来る。ここには、前近代的交通体系下において、海から遠い消費地の人々が、沿岸漁獲地では なく、内陸の輸送経由地名で、海儒翁乢識する所があったのが、示されている。生鮮食品の生産地表示にこだわる 現代人に対し、﹁球磨の魚.飛騨鯆・遠野荷﹂というネーミングの内に潜むものは何なのか、興味をそそられるの、 0 、、(4):
である。おかげさまで、飛騨鯆は辞典掲載項目にまで出世して、存在を知られる場を得ているが、 その同じ範疇 に、椎葉.遠野という二つの歴史的地名を、事例として追加することには意義がある。以下において、一方の椎葉胡桃沢勘司
1写真1 相良頼景館跡 の様相を、出来るだけ具体的に見てみたい。 課題の前提となるのは、前近代的交通体系下における 5 椎葉の魚食状況で、これは、﹃椎葉村史﹄にょれぱ、左記 のどおりであった。 三九二頁千筍は、自家用の残りは、行商人のイリコ や昆布と交換したり、肥後ヘの駄賃つけの ついでに馬に付け、塩・塩鰯・皮くじら等 と交換した。 九三四頁夏の郷士料理に﹁ぽうだらの煮つけ﹂があ る。 九三八頁正月には﹁するめ・昆布﹂を食ベる。 九三九頁盆の膳の煮しめには﹁皮くじら﹂が入る。 煮魚は﹁干鱈﹂である。 田植の食の煮しめには﹁皮くじら﹂が入る。 ここからは、ハレの日を中心に、椎葉の人々が魚を食 べていたのが読み取れる。﹁魚は球磨が美味しい﹂に該当 するのは鰯や鯨だろうが、肥後・日向国境の不士野峠を 肥後側に下った古屋敷では、椎葉から来た馬子は、茶店 で、焼鰯を添えた昼食をとるのが楽しみだったと、伝え 2
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亀、 写真2 相良長頼の墓願成寺(人吉市) (6) ている ケの日でも食ベることがあったわけだが、重労働に基づく、﹁血貝重な機会﹂であったのは、ハレと変わり 一一'筆四、 Jyゞ" 一王 がない。先行研究が語る海魚は珍品なのであり、これが どのように運ぱれたかを追うことになるのである。 相良氏と椎葉山 近世米良山と椎葉山は、日向に在りながら、肥後の (7) 人吉藩・相良氏に支配されていた。相良氏は、建久午間 8 に球磨郡に入り、廃藩置県までこの地を支配している。 武家政権の全時代を通じ、一帯に君臨していたことから、 まずは相良氏の歴史を見るところから始めたい。 相良氏は、建久四午、相良頼景が、遠江相良荘から球 磨川上流地帯の多良木ヘ移った時に始まるが、球磨川右 岸の蓮華寺の遺跡Π士豪屋敷地が彼の館跡と伝えられる。 服部英雄は、九州に下向した相良氏が、多良木に定着し たのは、ここが郡内交通の最上位にあるからだ、と指摘 (川) する。建久八年、頼景は、源頼朝の御家人になっており、 翌九年には、多良木を所領としたと推定されている。頼 景の息子長頼は、頼景の多良木移住後も相良荘に居たが、 3建久九午球磨郡臼問荘"人吉荘を得て移り住t夕]。長頼は、元久二午源実朝から、人吉荘の地頭職ιネイされ
]0 ぼ、、原、ら、口荘の地頭職に補壬
た0 安貞二年、頼景は、多良木の所領を長頼に譲る。長頼は、頼景が没すると、多良木を第二子頼氏に与え、これ が上相良を称するようになる。寛元二午には、人吉荘で下地中分が行われ、領主化しナキ良氏ι、し六い1勢力を 拡大していった0 室町時代、多良木と人吉は争いを繰り返し、文安五年、多良木第八代のキ良頼観ι、人吉勢ι工H よ・- 0 爰こ、い二 LベΞこっ、はL となるが、明応二年相良
められ、頼氏以来の上相良は滅んでしまう。二十年後に応仁の乱が起こって、世は乱世となるが、明応二年ホ良 を定めている。しかし、戦国時代、相良氏の支配地域は、南の島津氏 為警、七力条から成る壁書(相良家法度) (M) と北の大友氏に挟まれ、領士保持は困難を極めたのである 天正十五年、豊臣秀吉の九州出兵の際、相良長毎は、当初島津氏に味方したが、やがて秀吉に従し玉磨郡を安介)、(玲)0 、・は、隶に也、行れ、村の再編成Π寸刀り
堵される0 天正十八年の石高は一八000石である。球磨郡では、文禄五年に検地が行われ、村の再編成Π木切り がなされた0 慶長五年の関ケ原の戦いでは、長毎は、西軍に属したか、徳川家康に内通していナナめ、望イー領を 安堵されている0 寛永十一年、長毎は、徳川家光から、球磨郡四一ケ村Ξ工 00石の朱f状を拝令する2 寛永十 二年の﹁郷村高辻帳﹂にょれば、本田高はΞ三六五石、新田高はΞ 0七六石七斗であっナ2 居城の人吉城惣曲 輪は、慶長から寛永の間に出来たとされるが、球磨川と胸川の合流点に在って、舟運にょる物資翰送じ最適の1戸 である0 相良氏領は、中世以来島津氏との共通点が多く、地理的な親近感もあって、肥後藩よりはむしろ蒔摩藩と 近い関係にあった0 相良氏は、在地構造を中世的なそれを近世になっても改変出来ず、家中構造が不安定で藩 主と、一門.重臣が抗争を繰り返す。寛永十三年に長毎が死去すると、幕府の助力を受け、寛永十七年ιキ良戸兵仟 何とか藩主権力を確立するが、これを安定させることは叶わず、幕末に至るまで御家摩動が止む 以下を排斥して、 (2) 幕末の藩論は、薩摩の影響を受け、公武合体から倒幕ヘと傾いてゅく2。明治二年の版符奉還で藩 ことは無かった。 主頼基は知藩事に任命されるが、同四年の廃藩置県にょり、頼基が東京ヘ去った後は人吉県となりキ良氏の支配 4(部) は終爲を迎えた。 椎葉山は、秀吉の朱印状を受けた那須弾正が統率していたが、慶長八年、延岡藩に組み込まれるものの同十八 (記) 年に藩主高橋氏は改易されてしまう。大坂の陣の頃から那須一族の頭領たちは内紛を起こすが、これを見た幕府は 相良長毎に鎮圧を命じる。元和五午、長毎は、頭領達を呼び出して討ち取り、山中に残った者たちも平定した。椎 西) 葉山は、天領となって、阿蕨家が管理したが、明暦二年、相良家に支配が任されることとなる。幕府が把握してい (部) た肥後から椎葉山ヘの道は、江代越・韮草越・湯山越の三つとされている。新たな支配者となった相良氏は、この 地を長年無年貢としていたが、享保二十年から杣山運上とし、延享三年には人口・士地・産物等の調査を行って、 (詑) (迅 年貢を上納するよう椎葉横目役に指示をした。横目は、庄屋の補佐役である。椎葉山からの年貢は、全て銀納で、 山茶を売った代銀が充てられる。延享三年、人吉藩は、椎葉山の茶の生産高を﹁七五五六斤程﹂と幕府に報告し (鈴) ているが、茶は、貢納のためだけでなく、塩・魚・衣料等を求めるためにも、大切な生産物とされていた。藩は、 (誕) 椎葉山に代官を派遣することはなく、必要があれぱ山役人を人吉に呼んで、用件を伝えている。安永三年の人口は (3) 四四八三人で、百姓が三五四人であるのに対し、郷士は三三0二人と、郷士の割合が高かった。人吉藩には、村 (3) に住む郷士が多く居たが、生活は百姓と大差なく、苗字帯刀、傘・足袋の使用が、許されたくらいである。寛政四 年閏二月七日、高山彦九郎が、人吉・多良木から米良山・椎葉山ヘ向かう道に在る湯前で、﹁在中帯刀の人多フ (部) し﹂と尻紫日記﹄に書き留めているのも、郷士が多かったからなのだろう。椎葉山は、明治四年七月の廃藩置県 (3) の際は人吉県に属したが、同年十一月、人吉県が八代県に併合される際、美々津県ヘ移管され、日向の国ヘ一戻るこ ととなつた。 5
2 椎葉山の魚事情 椎葉の魚食は﹁はじめに﹂で紹介したとおりだが、これは民俗として伝えられたものと思われる。本稿の課題に 応えるには、魚の姿が時間的にどこまで遡れるかを文字で確認しなけれぱならないが、分析に使える近世史料は、 管見の限り、一点しか見出すことが出来ていない。その虎の子も、年代測定に向いたタイプではないのであって、 作業は変則的な形を採らざるを得なかった。﹁虎の子﹂の史料1について断っておきたいのは、内容が源平争乱時 の伝説であるから、そもそもこれ自体は課題究明の検討対象とはなしえない、ということだ。では、何故これを持 ち出したのかと言えぱ、筆者は、現地の説話を近世に書き遺した人問の﹁認識・文言の使用﹂に基づき史実を抽出 出来るのが、この史料の魅力だと考えるからである。言えぱ、視点を、描かれた内容ではなく、描いた人に置いて 見る、試みなのである。 (諦) 史料1 (表紙) ﹁文化十五戊寅年二月吉日 椎葉山由来 不士野村 奈須仲右衛門﹂ (前略) 一其後御兄弟日向江御帰宅被成候ヲ、飫肥より大勢押懸り生取被成獄屋二壱ケ月余 り被召置候、然処二右下向之刻城之内二知音之女有之候、此女手廻しヲ以御膳之まわ 6
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....
リニ鰯を被差上候、いわしにせき之小刀弐本入上候田右小刀二而獄屋ヲ破損被成 大手之御番ヲ討取奈須平八兄弟獄屋ヲ破損し只今罷出候、此城内江人於有之は付て 見よと御名乗り被成夫'細島江御着船'都江御帰宅被遊候と承候事(傍点胡桃沢) 史料所在地の不士野は、前述の不士野峠を日向側に下った所で、肥後との接点に位置している。椎葉山のなかで は、球磨川上流地帯との接触がしやすい場所であった。年代は、表紙には﹁文化十五年﹂と書かれているが、これ を掲載する﹃{呂崎県史史料編近世6﹄は﹁寛延二年力﹂七需する。寛延二年に書かれたものが、文化十五午 に写され、伝来していると見たのだろう。寛延二午は延享三年の三年後にあたるから、この史料は、椎葉山が年貢 を上納するようになった直後に、書かれた可能性を有するのである。書いたのは表紙に名前が記される奈須仲右衛 門だろうが、寛延二午成立の原本を写したものであるならば、仲右衛門は写本作成者という立場になって、元来の 書き手は分からない。遡れる年代には、早けれぱ寛延二年・一七四九年、遅ければ文化十五年・一八一八午と、約 七十午の落差が認められるのである。この事をおおいに気にしつ?注目すべきは、書き手が、椎葉山在住の者で ありながら、﹁鰯﹂﹁いわし﹂を文言として書き記していることだ。史料文では、四が出現する舞台は日向沿岸部 と思しき所で、椎葉山"人吉藩ではない。よって、椎葉山の者は、鰯を、呼称としては知っていても、現物を見て いない可能性は皆無ではない。ただ、その描写は、鰯は﹁小刀弐本﹂を隠し入れる寸法が有るのを承知しており、 具体的であって、縛実態を知る者でなけれぱ、なしえないのではなかろうか。書き手総識から史実を抽出出来 ると前提するならぱ、山役人の書き手をはじめとする、、一部の者に限られるかもしれないが、早ければ近世の中 期、遅くとも後期には、椎葉山の者は、鰯という海魚の存在を正確無識し、これを食ベていたと、判断して間違 いは無いと思われるのである。鰯は、先行研究からは、椎葉ではポピユラーな海魚であったのが伺われ、註6に挙 げた﹃峠の村ヘ1山里の履歴量白﹄は、鰯を﹁トゥジンボウ﹂と呼んだ七述ベている。これに対し、史料1では、 7日 ,、 口 目 お(で 、J 一]'π 'ま.米 こ. はら・ と 、、 塩・ 肴・
い(を
る@食
0 、 る(白 が飽身 L れ玖 イ、 月 八 ーー「 ,、 漢字の﹁鰯﹂だけでなく、﹁いわし﹂と平仮名表記もされている。発音をまることが出来るのι有難いが、、、、 ンボウ﹂とは記されていない。﹁トゥジンボウ﹂は民俗語章で、当時から有ったとしても、文書でし、人吉の者1 分かりやすくするため、共通語を用いたことが想像される。﹁せき之小刀﹂の﹁せき﹂が美1の関であるナじ、 小刀は切れ味鋭い名刀ということになるが、これを隠せる鰯の大きさとはどれほどのものガつナのガろうか。 を知る術は無いが、﹁鰯﹂と書いたのは不士野の者であったから、ここの者が食ベる海魚ι、幾っか六るキ, 易ルートのうちの球磨[りから移入されたと断定出来る。﹁魚は球磨が美味しい﹂と言われナのし、近世ι遡る考 えて良いだろう。 を肴とした時は﹁鮎﹂と明記していることから、長左衛門の﹁塩肴﹂の肴は、﹁まガら﹂に同じく、1魚と考えて いだろう0 すなわち、﹃筑紫日記﹄の巽は、椎葉山に同じく海から遠い米良山で、寛政改革期、 r人1海の魚を 供することが出来ていたのを、教えてくれるのである。この魚が、肥後.日向のどちらから移入されナかιン﹁. H六 が、彦九郎が塩肴を食ベたのは、湯前を発ったその日のうちだから、肥後に近い所であり、更1ここが人吉藩の支 配地域であるのを併せると、﹁球磨の魚﹂だった可能性が高くなる。天明三年のこととして、古川古下車が西 雜記﹄に述ベるところを見てみょう。 (" 史料2 米良山の事を聞しに、人吉より山道十三里にて五ケの庄よりも遠し。止地は日向.大F 8 彼も と、翌九つゞきし深山の中にて、廣大なる事はかりなし。求摩郡の者にても御領主の御ゆるしな くては行事ならず。 すなわち、米良山ヘ入るには、領内の者であっても藩の許可が必要とされたのであり、実際彦九郎は﹁米良ヘ入 (妨) る事の願済ミて﹂から、出発をしている。許可が必須となれぱ、人吉藩庁に近い者は得やすいが、遠い日向の者が (46) 得るには手間隙がかかる。加えて、人吉藩は、﹁旅人の御領内を委しく見る事ならぬ﹂の政策を採っていたから、 領外の者はより不利になる。米良山ヘ魚を供給していたのは、立入り許可が得やすい、球磨郡の商人である可能性 が高いのだ。立入り許可が必要なのは椎葉山も同じで、文化四年十一月の史料が、これを物語る。 (迎 史料3 一、江代領ハ、椎葉山五家所境山続二西燕巣筋不士野筋往来有之場所故居住之番人 申付候上ハ、第一常ミ締方之儀家族并村方之者共江も申教昼夜無油断念入可相 勤若異変之儀於有之ハ、早速可注進事 (中略) 一、椎葉山ヘ相越候者ハ、町夫三行之出判無之ものハ、何通二よらす不可通事 附、人吉役所仕出之村次物并二山中之者御領内に而相調持帰候品ハ、無判可差 通事 人吉藩は、江代・古屋敷に番人を駐在させ、不士野方面ヘの往来者を厳重に取り調ベていたのが分かるが、地元 商人の通行まで厳しく制限していたかについては一考の余地が有る。というのは、元和五年四月十八日付けの相良 .. ... 文書に、﹁椎葉山之もの共出入之様子、当町もの商二罷越承候通申上候﹂﹁商人なと遣やうす聞可有候﹂との一文が、 (48) 見出されるからである。前述のとおり、元和五年は、相良長毎が椎葉山を平定した年だが、それに際し、まず必要 9
写真3 不士野峠 - 10-とされたのは、現地を知るための情報収集だろう。作業 のために、武力蜂起を企てている所ヘ向かうのは命懸け だが、この危険な役目を引き受けたのが、人吉の商人 だったのである。商人が適任とされたのは、日頃から商 売に椎葉山ヘ出向いていて、士地の事情に詳しいうえ、 住民とも顔馴染で怪しまれないとの判断が働いたから ではなかろうか。﹁註48﹂は、彼らが隠密としてもたらし た成果に基づき、成立した文書なのである。商人の活動 が役に立っのを知った支配者が、これを差し止めるわけ が無い。地元商人は、引き続き、椎葉山ヘ商いに赴くと ともに、情報を人吉ヘの士産にしていたと思われる。す なわち、椎葉山ヘ﹁鰯﹂が届くには、米良山に同じく、 地元商人が介在していた可能性が高いのである。宿題の 史料1の鰯が、寛延二年か文化十五年かを判定する決め 手は無いが、高山彦九郎が教えてくれた米良山の状況を 踏まえるならぱ、少なくとも文化十五年より遡る確率は 高いと考えて良い。元和五年を前提とするのが許される なら答は寛延二年となるが、思い起こすべきは、寛延二 年は椎葉山が年貢を上納するようになった延享三年の三年後にあたる、ということだ。前述のとおり年貢は銀納
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3 一Ⅱ一 で、山一余を売った代銀が充てられたから、銀は必ず入手しなけれぱならな1 促は貨幣ご、ら、れに よう仕向けられた者は、貢納の余分を使って買物が出来るようになる0 寛延二午は、 椎葉山の者が、外界からの物 資調達がしやすくなった時期であって、 人々硲を食ベていたとしても不思議は無いのである。年貢納入が消費の 活発化を招いたとするならぱ、椎葉山の魚食は、前近代における、人々の暮らしに及ぼす年貢.入の三響の を、物語る事例と位置づけられるのかもしれない0 人吉の魚事情 椎葉山ヘの鰯の中継地とされた人吉の魚を扱う商人が史料に見えるのは近世後期であ(る四0 安政三年の﹁ 夫土行え﹂では、﹁肴店其外共張出し、往来之邪魔に相成候儀決テ致問敷侯﹂と、申し渡されこ0 この一文は、魚屋 が売物を並ベる際、 敷地から店が道路ヘ張り出すのが常態化していたのを伺わせる。文字通り通子人によく﹁見 せ﹂ ようとしていたのかもしれないが、彼らの具体的な数が分かるのは、明治も十\年になって、らで、生塩{ の、 缶声商は二、小売商は十三と、示されている。専業の魚商人が前近弌から居たのは寉、、こ1 外ソ、に よるならぱ、海魚を豊かに供給出来ていたわけではないらしい。古川古松チに同じく、天月三年に、.こ 南谿は、﹃西遊記﹄に﹁山中の人は魚肉なけれぱ常に芋、大根の類のみを食す0 もし年台、節句、其外兄、日、 えども、富める者も繞かに塩肴乾物には不過。﹂と記している。これに呼応するように、古公于は、﹃Ξ で﹁諸品の中に海魚不自由のみにて、外の品は何に一つとして不足なく﹂と述ベて、(る態0 椎葉山で海魚が珍品だっ たのは前述のとおりだが、状況は、人吉も似たりよったりだったようである0 そのようななかでも、移入が途絶え れぱ領民は不自由驫じていたのを伝える、寛政四年の史斗を見てみょう0- 12-(熨) 史料4 五月七日東伊右衛門殿'御達先達島原大変二付、︹島原大地震︺ ,、 彼也并肥後ノ内流死之者多、依之肴物右死骸二付候杯申事、、肴物稜敷 1、に τも口調候者無之段相聞右之通二而者其肴當地i可相越候問新塩切之肴ハ留方 二申付候様被仰渡候事 肴物拂底之段御承知被成候、拂底k{何そ差支ハ有之 一、八月二日、被仰渡候趣ハ、 一塩肴ハ御留方被仰付置候、最早日数も相立
間敷候ヘ{島原変後肴桟敷相聞
丹蔵森申上候趣ハ、肴屋共'も御免被下候様 候事二付、御免可被成哉之旨被仰下、 八代表も肴物稜 願出候ヘと、御上より御留被置候間見合罷在候様申渡召置4、 尚又吟味仕可申旨被申上候處日数も相 敷御触御座候由姿其時分'相用申候、立候二付、御免可被仰付旨被仰渡候事イ小机1
寛政三年十月から四年四月にかけ、島原半島および周辺の海域で地震.噴火.津1が心、ι,
を受けた50 海に多くの溺死者が漂ったことから、ここで獲れた魚を、当畔の人々ι{、、﹂、司、、,人吉藩が移入を禁止したのは五月七日だから、高山彦九Rがルニ月に食ベナ魚ι、文 r 、、、
もしれない。刀田方二申寸﹂られたのは﹁新塩切之肴﹂だか、もしも﹁塩切,シオギリ﹂ヨωナιιι
れた、文字にょる﹁塩切﹂に初めて出会ったこととなる。新発見であり、興奮せずιιいナいがチキ
に関わる飛騨鯆の発送地は北陸で、ここで塩鯆製造の経験者から﹁シオギリ,塩17をが、この盲葉との最初の出会いであった。シオギリは壱岐島.五島列島でも確兪さが、魚 1 、"
13 -合いも共通系、全て口頭の世界のものである。よって、これは、海岸部の水産加工業者の問で言い伝えられる業 界用語で、使用が一般には広がらず、文字編される機会も無かったと思い込んでいたから、今回﹁塩切﹂の二文 字を見た時は、一瞬我が目を疑った。﹁塩切﹂発見は幾つかの意義を有するが、第一は、何と言っても、民俗語暈と 言って良いこの言葉が、文字に書き留められていることである。第二は、文字表需よって、寛政改革時まで遡っ てこの冒葉の使用が認められ、年代確祭出来ることである。第三は、文字に記された所が、海岸部ではなく山間 地帯の人吉で、この一言葉が、生産地のみでなく、消費地でも使われていたのが、知られることである。第四は、書 き手が武士、それも町奉行という支配者層の者であり、階層に関わりなく通用した可能性を持つことである。総体 的には、時問・空間・人の全てにおいて、使用の模様がより鮮明に描き出されたと、言えるだろう。史料との出会 いを喜びたいが、﹁新塩切之肴﹂そのもののの実態が如何なる姿なのかは分からない。留方の対象が、二つ目の一 つ書きでは﹁一塩肴﹂と書かれているのを併せ見るならぱ、文字通り一塩がなされた魚であったろう。ただし、季 節が、旧暦五月・八月と、暑さを伴う時季だったのを踏まえれぱ、塩加減はキツくするのが常道である。一塩とは 言うものの現代人の舌には辛く感じる塩量が、すり込まれていたのかもしれない。高山彦九郎は、寒さが残る閏 二目に、単に﹁塩肴﹂と記しているが、これと﹁一塩肴﹂は伺じなのか違うのかを含めた﹁塩切﹂自体の具体像の 究明は、更なる検討の機会を模索しなけれぱならないのである。 史料4の書き方は、留方の対象は、﹁新塩切之肴﹂﹁一塩肴﹂と、専ら塩魚に限定されているように見えるが、こ れは他の魚は移入しても良いのを意味するのだろうか。南谿にょれぱ人々は乾物も食ベているが、その移入禁止を 示す記述は見出されない。椎葉で、イリコ・するめ・ぽうだら等の乾物が、食ベられていたのは前述のとおりであ る。椎葉ヘの中難だった人吉には、これらは当然有ったと考えて良いが、經蝦夷地から送られて来る魚で、ハ 代の近海で漁獲されるわけではない。他のものも、乾物は日持ちがするのを生かし、遠方からの送付品が含まれる
- 14-可能性は高い。﹁黒不浄﹂驫当しない海産物を差し止める理由は無いから、搬入織続されたのだろう。すなわ ち、品薄になったのは塩魚だけと思われるが、乾物は乾物屋で販売されただろうから、塩魚を扱う魚屋にとって留 方は正に死活問題だったのである。にもかかわらず、措置を決めた藩の上層部は﹁拂底にても何そ差支ハ有之間敷 候﹂と考えていた。彼らが、事態を深刻に受け止めなかったのは、日常態が古松軒が言う﹁海魚不自由﹂で、生活 必需品とは籾駿していなかったからだろう。たとえぱ日向から移入するといった、対応策は採らずにいたようだ が、拂底が長引けぱ、領民の我慢も限界に近づいてくる。生活を抱える魚屋たちは、留方の後移入解禁を願い続 けたらしいが、すぐには叶わず、ようやく三力月後に﹁御免﹂となった。魚屋は、前掲安政三年の﹁覚町奉行 え﹂には﹁肴店﹂、史料4では﹁肴屋﹂と表記されている。一方、﹃熊本県文化財調杏叛告第船集熊本県歴史の道 調査1球磨川水運1﹄掲載の史料には、﹁大魚問屋﹂の文言が見える。比ベるならぱ、﹁肴店﹂﹁肴屋﹂と記されたも のは、問屋ではなく小売りを指すと判断される。消費者と直に接する小売りの魚屋からの要栗、藩の上層部を動 かしたと見られるが、実は、この移入禁止期間には、大事なハレの日が位置しているため、その際魚を入手出来な かった消費者の不満が、魚屋を突き動かしたと、想定される。大事なハレの日とは五月の田植と七月の盆で、椎葉 の魚食では共に煮しめに﹁皮くじら﹂が入るとおり、田植魚・盆魚としての海魚を欠かすことは出来ない。その大 切な魚が、五月・七月と二回続けて入手出来ないのは、庶民にとって一大事なのである。南谿は﹁繞かに塩肴、乾 (認) 物には不過。﹂と、やや見下した賑をしているが、その塩肴・乾物が山問地帯の節日には必須の品だった。魚屋 からの嘆願が書き留められた八月二日は、七月半ぱの盆から半月後で、人々の﹁魚よこせ﹂が頂点に逹した頃では なかろうか。史料4は、前近代、山問地帯の海魚の需要にはハレとケの間に落差が有って、ハレの際の希求の強さ は相当なものであったのを、伝えているように思われるのである。慮るに、ハレとケの噛み分けが出来なくなり、 生活りズムが崩れつつぁると言われる現代日本人にとって、経済事象にも伝統的生活りズムが色濃く反映されてい
- 15-4 た史実は、思い起こしてみる価値が有るのではなかろうか。 交通環境と輸送機関 道筋と里程 ① 史料4は人吉の海魚が﹁八代表﹂から移入されたことを示しているが、八代1人吉問を球磨川舟運によって物資 翁) 運搬出来るようになるのは、林正盛の工事が行われた寛文年間以降のことである。それ以前はと言えば、鎌倉時 代、京進の年貢米を送る際は、人吉から球磨川を遡上して多良木で陸揚げし、猪鹿倉越(米良越)を通って日向ヘ 至り、沿岸から海路で都ヘ運ぶ、ルートを採っている。戦国時代、八代と人吉を拠点とした相良氏は、八代から海 (印) を船で南下して佐敷に上陸し、ここから山越えのうえ一勝地ヘ出て、人吉を目指す経路を重視した。 米良山の道を高山彦九郎が歩いているのは鼎のとおりだが、佐敷経由については古川古松軒が﹃西遊雜記﹄で 述ベている。様子が分かるのは有難いが、気になるのは、彼が﹁人吉は佐敷より山道八里と道中巽外の板本にも (田) しるしあれども、三十六町道につもりては凡十五里も有ベし。道はさしてあしからず。﹂と、指摘していることだ。 この指摘は﹁地元では八里と言うが、自分が承知している、一里Π三十六町で計算すれぱ十五里にもなる。﹂と解釈 出来人吉藩は一里・三十六町ではなかったことが連想される。疑問に答えてくれるのは彦九郎で、﹁玖摩四十八 (62) 丁を以テ壱里とす﹂なのである。ただ、佐敷1人吉間を、八里とする﹁八X四十八町・三八四町﹂と、十五里とす る﹁十五X三十六町・五四0町﹂との間には、かなりの開きがある。試みに﹁二八四町÷三十六町N十一里弱﹂と なるから、一里・三十六町に慣れた者が﹁八里であるわけが無い﹂と思ったのは自然だろう。古松軒は﹁道はさし てあしからず﹂と書いてはいるが、山道は勾配で朱ノ行速度が遅くなるから、意外に時間がかかって、﹁長い道のり﹂
16 -と感じたのかもしれない。一里が三十六町でないのは遠野でも経験したか、支配者が中世以来の者であるのと、 ﹁中央﹂から離れた所であるのが、共通項である。 2 球磨川舟運 里程を心得たところで、近世を通じ、椎葉山ヘの物資搬入は、必ず陸路に拠らなけれぱならなかったことを思い 出そう。﹁海魚不自由﹂は同じでも、寛文期以降の舟運を獲得した人吉とは、そこが決定的に違うのである。とは 言うものの、椎葉山ヘの輸送は、海岸地帯から目的地まで、一貫して陸上輪送機関か担っていたわけではない河 川舟運からの引継ぎが前提とされていたから、まずは舟から荷物を受け取るりレー地点を探らなけれぱならないの である。交通史研究で手薄な水陸連携と向き合うことになるが、手順としては、第一走者の舟運から始めるのが、 正攻法というものだろう。 (融) 舟運の舞台となる球磨川は、最上川・富士川と並び、日本三急流の一っに数えられる河川である地元での呼称 は近年まで﹁オオカワ﹂で寛政元年の史料には﹁大川筋﹂と記されている。舟運の大勢が、寛文以前は人吉から 上流地帯ヘ向かったのに対し、以降は河口との間を結ぶものになったのは、前述のとおりでご言わぱ舳先の逆転現 象が起きている。河国で海運と接続するのが本格的な河川舟運だとするならば、球磨川のそれは、川名登の指摘の
(6)、、、、、
とおり近世からということになるのだろう。一方で、服部英雄の研究から教わる中世の様相は、局地的と見なすレ ベルとは思えず、白身の関心が椎葉山に繋がる上流地帯に有るのと相俟って、誠に魅力的に目に映る相良氏が関 わる球磨川舟運は上流地帯で始められたのを念頭に置く身には、上流の舟運に関わる近世の年代で先行研突が注目 するのが寛政元年であるのが引っ掛かるのである。寛政元午に目が向けられるのは、この年、藩から禁止されてい (韶) た人吉の上手の一武村より上準の川舟にょる午貢米輸送が、多良木まで腎られるようになるからだ。結果とし^^^^ 写真4 球磨川上流地帯(多良木町) - 17ー こ智.、一 (卵) て、米一俵の運賃が駄送より五割近く下がった所も在る (四 から、額面どおりに受け取れぱ、年貢米輸送の解禁は藩 の﹁御茲ぎを示すものとなる。寛政元午が印象強く 残って、これ以降舟が上流地帯ヘ遡上出来るようになっ たと受け止められても止むを得まいが、この時解かれた 禁令の対象はあくまで年貢米なのである。彦九郎の寛政 四年閏二月七日の﹁玖摩川城下'四里半斗り川上なる多 介) 良木迄小舟上る﹂は、多良木まで舟が遡上したのを裏付 ける。﹃人吉市史第一巻﹄七八四頁にょれぱ、遡上は宝 暦六年には行われ、藩内の舟だけでなく、許可を得た他 領の舟も、共に荷物を運び上げていたという。上流地帯 の人々が、長年舟に親しんできた経緯を踏まえるならぱ、 年貢米以外は寛文年間以降も引き続き運ばれていた可能 性が高く、﹁寛政元年﹂にとらわれる必要は無い。椎葉山 ヘ運ぶ荷の舟運から陸上輸送機関ヘのりレー地点は、 人吉城下ではなく、中世以来の上流地帯に在ったと考え る。 陸上輸送機関との接続地を探るには上流地帯の見聞が き、出、、一 必總が、昭和六三年三月現在、多良木町内では舟着場跡が複数以上確曹れている。しかし、平成二七午九月の (花)
18 -筆者の現地歩きにょる限り、痕跡が見られる所は存在しない。実見したのは三ケ所で、くま川鉄道の多良木.東多 良木駅近くに位置している。一ケ所目は、訪ねた中では最上流の蓮花寺橋下手で、溝之口の舟着場と呼ぱれてい る0 熊本県教育委員会の調査にょる地元の人の話では蓮花寺橋付近の川筋は幅が広く淀みになってぃたので給 岸辺には店が並んで繁 とされ、上球磨の舟着場とされていた。人吉からの高瀬舟が積んで来た物資が荷揚げされ、 荷舟にもこれが充てら 昌したという。大正九年六月から、川舟に発動機を付けた客舟が運航されるようになるが、 れたかは確認出来ない。大正十三年三月に、人吉1湯前問の鉄道が開通すると、貨客共にこれを利用するように なっで、川舟は衰退したと思われるから、高瀬舟の活動は大正年間頃までだったと推定される。熊本県教育委目会 の調査は昭和六二(一九八七)年度だが、伝承者の生午が書かれていないのが惜しまれる。計算をすれぱ、調査当 時八十歳の人は明治四十(一九0七)午生まれだから、大正十(一九二じ年前後の記憶は留めているだろう ﹁地元の人の話﹂は、大正前・中期頃の様相を示していると、判断されるのである。そんな溝之口の舟着場の賑わ 時代的にどこまで遡れるのかは不明だが、ここから少し川下には東の前と呼ぱれる相良頼景館跡が在る A与 いが 真1)0 今は耕地となっているが、多良木町指定文化財である。前述のとおり、遠江から来た頼景は多良木を拠点 (6) 舟着場風の遺構が出士しだ。この構えを見て想起されるのは としたが、発掘調査では、館が川に向かって開かれ、 物資出入口とされている。水ノ手門は球磨川に面しているか 、 1 人吉城の水ノ手門で、城の舟着場として設けられ、 ら、人吉城の基本構図は頼景館と同じで、﹁川に面して﹂は、一貫した相良氏の本拠地造りの発想七言えるのかも しれない。ニケ所目は、頼景館から下流の小椎川との合流点に近い、球磨川右岸の崖の上に位置する里城で、船 溜は崖下に在っだ。里ノ城橋の下の河川敷に下りてみたが、朽ちた舟が放置されているのが目に留まっただけであ
こ0 "口Ⅱここべ、万こ;ヌ、 X 目こ田まつこ゛こけ゛
る。三ケ所目は、訪ねたなかでは一番下流の牛島で、八日との間に架かる天子橋の上手が船溜とされていた。荷物(9)、、
発動機船が来たこともあるという。舟着場であったのを偲ぱせるものは発 運送の高瀬舟が発着し、帆掛舟は勿論、掛 "^ユ訂 ^鬼^^^ ^ ^.^ 写真5 人吉城水ノ手門 艇ヂ封 出証一 " n-、 1-1'・.?き1_『ーユ". t三一 選 写真6 牛島の中州 玉 - 19-男:C 見出来なかったが、ここには中州が在ることから、船溜とするのに適した所だったと思われる。以上、三ケ所を見 蓄
.;"'、 -20-写真フカワフネ "辺". た限りでは、何処が彦九郎の﹁多良木﹂なのかは不明だが、椎葉山ヘ向かう陸上輸送機関にとって最も便利なの より上流の溝之口の舟着場だから、ここでりレーし 、 は たと見るのが常道と、判断されるのである。 訪ねた三ケ所は、熊本県教育委員会の調査当時には、 難 一.一.一.一. 士手から船溜ヘの道が残されていたようだが、今回筆者 は全く見出すことが出来なかった。道を見るのが叶えら 苓= れたのは八代の球磨川右岸で、萩原堤の上流の肥薩お れんじ鉄道(旧鹿児島本線)の鉄橋の上手である。八代 市指定文化財の相良義陽の墓の近くから川の方ヘ下って 行くが、説明書きにょれぱ、義陽は長毎の父で、天正九 年に甲斐宗運と戦って討死した。義陽公のお導きだった 、.、、、、、 のだろうか、運良く船溜で鮎漁師(六五歳)に出会い、 手漕ぎの舟は力ワフネと呼ぶのを教えてもらう。目前の 一一 1' 黒 慧謬 カワフネは、二十年程前の建造であるという。錨は、大 きなものは海で、小さなものは川で、それぞれ使うそう である。併せて力ワフネにも出会えたわけだが、舟に対 し、人吉藩は、たとえぱ次のような規制をかけていた。 (即) 史料5 一、舟壱艘二三人乗之極二候得共水次第弐人乗にて ー、一
- 21-も可相濟と見及候節ハ、弐人乗にて積下之儀可為勝手次第事 (中略) 丈夜舟乗之儀ハ御停止之事候間是又気ヲ附、見當次第呼寄相改、右同様可取計事 河口近くで聞かれた﹁力ワフネ﹂は、球磨郡の近世史料に﹁川舟定法﹂と表記されていることから、上流地帯に おいても同じ呼称が用いられていたと思われる。史料の別のところに﹁舟師﹂と記される乗員は、規定は三人だ が、川が穏やかな時は二人で良いとされていた。人吉より下流は激流が多いのに比ベ、上流はさほどではないか ら、二人乗りで問に合うことが多かったろう。﹁{女永三午甲春改参歳以上人高﹂には﹁水主五百三拾八人、船頭・楫 (別) 取・船大工・八代・当地共諸士之事﹂と記されている。舟師の操船等气舟が川を往来する具体相は、人吉から (貌) の上りを知ることは出来ないが、下りは橘南谿の描写が有るのを言っておこう。
③陸上輸送機関
舟から荷物を引き継ぐ陸上輸送機関は、安政三午四月の﹁足軽以下取締方申渡声にょれぱ、牛馬および担夫で ある。 (部) 史料6::::.(ママ)
弌牛馬を長綱ニテ章歩行中二は傘を指ながら牽候者有も之且又於町家店先に狸二 ... 繋置往来之妨共相成、労以不埒之事二候、町家店先ニテ荷物附卸之節暫時たりと も往来之障りニ不相成様可致候、町家御定之繋場所其外共二繋ぐにおゐて<往来 .... ... 之障りニ不相成様厳重二可繋置、牛馬を牽又ハ荷を持候者ハ是又往来之障二不相 成様念入通路可致候、尤癖馬之儀八行逢之仁に相断、念入可牽通候(傍点胡桃沢)-22-これは、安全確保のため、藩が、関係者に活動の心構えを申し渡したものと思われる。注目すべきは﹁店先ニテ 荷物附卸﹂で、ここに出てくる牛馬が物資運搬に充てられていたのを、ズバリと言い表している力えて﹁牛馬を 雫又八荷を持候者﹂にょり、畜力のみならず、人力にょる運搬業者も存在したのを知ることが出来る。両者に よって、人吉藩の陸上輸送は行われていたと、断定出来るのである。なお、﹁牛馬を牽﹂者を、﹁牛方.馬方﹂と表 記した人吉藩の史料は確認出来ていないが、この言葉は、﹃日本交通史辞卵﹄の項目とされており、梗準呼称と見 なされることから、以降は﹁牛方・馬方﹂を使って記述を進めたい。 文中からは、更に輸送機関の実能讐祝み取れるが、第一として牛馬が共に用いられていたことから見てみょう。
(冶)、゛、ヌ゛、、、
椎葉の伝承で、牛馬両者を使役していたのは承知しているが、文字の力で、これが藩政時代ヘ遡るのかる言路来ナ のである0 領中の牛馬頭数は、﹁{女永三"春改参歳以上人高﹂にょれぱ、﹁馬数壱万千弐百六拾七疋牛数七千百弐部、゛ベ、 0 よヌ、ヌ甬一小゛こ゛、、馬ベを回るのは、物資
拾六疋﹂と、馬が多くなっている。西日本の農耕用家畜は牛が多いのが讐だが、馬の数が牛を上回るのは、物資 運搬に馬が多く充てられたからだと思われる。併用されたのは事実だが、速度がより速い馬が多用されていたのだ ろう0 筆者白身、椎葉で象多く使われたと聞かされたが、雌雄はほとんど牝か選ぱれている。牡は力は強しか気 (町) が荒くて使いにくいのに対し、牝はおとなしくて扱いやすいからである 第二は牛方.馬方が傘を差しながら歩いている光景で、いささか驚きを覚えている。牛方.馬方は百姓身分が通 例で、傘の使用が許されるわけは無いからだ。史料6は﹁足軽以下取締方申渡圭凹﹂だか、足軽の大音分は郷士であ る80 前述のとおり、人吉藩には郷士が多く居て、彼らは傘の使用が許されていた。となれぱ、牛方.馬方の身分 は、百姓ではなく、郷士だったということになる。降雨の際、牛方・馬方は蓑.笠を使うのが一般的で、雨旦で手 を塞がれることは無いから、たとえぱ﹁癖馬之儀八行逢之仁に相断、念入可牽通候﹂といった事態にも、迅速な文 原可能である。ところが、傘は手を使わなければ差せないから、万一牛馬が暴れ出せぱ、片手ではとっさの文応- 23-が不十分となる。史料文の書き出しが、﹁制御しにくい長い手綱を用い、傘を差して、牛馬を牽くのはけしから ん。﹂と読めるのは、交通事故を避けたい﹁お上﹂の懸念を伝えていると言えるだろう。改めて諭されずとも、こ れくらいは承知していたはずの牛方・馬方が敢えて傘を差したのは、彼らの誇りに根ざしているのではなかろう か。傘を差すことにょり、自らが名字帯刀を許された者であることをアピールしていたと思われるのである。こ こで想起しなけれぱならないのは、前掲﹁安永三午甲春改参歳以上人高﹂に﹁水主は諸士﹂と、書き留められている ことだ。宝永七午八月の﹁御三使様御家来衆庄屋町人共応対之覚﹂に、﹁水主の類在郷よりは出し不申候﹂と有る (舶) のは、﹁水主は諸士﹂に合致する。これはすなわち、舟師も名字帯刀だったのを、示している。人吉藩で交通労働 に従ったのは、水陸共に名字帯刀の者たちだったのである。これに気づいた時は、彦九郎から﹁出市刀の人多フし﹂ を、正に喉元に突きつけられたような気分に陥った。というのも、今更書名・内容を挙げるまでもない、藤木久志 の帯刀に関わる研究を、これまで、自身の作業にさほど関係が有るとは思っていなかったからである。しかし、 ﹁魚は球磨が美味しい﹂に深く関わった人々が、実は帯刀者であったことから目を背けるのは許されない。学ぶべ きは、交通史専攻者は、その担い手が、ある地域において、如何なる立場の人であったかに向き合わなけれぱなら ない、ということなのである。 (9。) 第三は人力輸送機関Π担夫が居たことだが、その活動は、幕末を越え、明治になっても継続されている。担夫が 必要とされた理由は幾つか有ろうが、米良山・椎葉山ヘの輸送との関わりで言えぱ、山間地帯には、牛馬の歩行が 困難な区間が在ったのである。彦九郎の、椎葉山大河内から湯前ヘ向かう道中の描写を見てみょう。 (田) 史料7 川を一本橋にて渡る手摺有り昨日の川にて是レは村所ヘ流る、川也、山を登るの、く び下りて藤にてつりたる橋を渡る木の枝ヘ藤づるにてつり奇也、橋ははしごの如し十四
写真8 馬返 - 24-五間是レを板屋がうといふ、少シ行きて星が谷又夕川を橋にて渡る手摺有り手木橋といふ この道の渡河地点には、橋が、一本橋もしくは梯子状 の吊橋だった所が在ったのだ。一本橋には手摺りが付い ていたから、人はこれに掴まれぱ安全を確保出来るが、 牛馬にそれは出来ない。また、吊橋は、藤蔓を木の枝に 結わえたものだから、強度が弱く、人の数倍の体重が有 る、牛馬の重みに耐えられたとは思えない。かかる所が 在る道では、牛馬は水流を渡ることが出来ず、物資の畜 力運搬は不可能で、担夫に依るしか無かったのである。 とは言うものの、椎葉ヘ向かう物資が、舟との接続地点 から担夫で運ぱれていたかは、考える余地が有る。彦九 郎が﹁馬返ヘし是レ'湯ノ前の内也﹂と記しているから である9。馬返は、湯前から球磨川上流ヘ遡った所に在っ (鯵 て、幸野溝の取水口近くに位置している。﹁馬返﹂は、一 般論として、﹃広辞苑﹄には﹁登山路で、道がけわしくな リ、乗ってきた馬を返して徒歩になる地点。﹂と、解説さ れている。球磨川畔の馬返が、解説どおりの所であるな らぱ、ここは、積んで来た荷物を担夫に託し、馬が引き 返す場所であったのが、地名として残されていることに
人吉藩の水陸連携魚輸送一球磨川舟運から椎葉山ヘー
答 -25-なる。すなわち、椎葉山ヘの物資送付は、舟から馬に引き継がれた後球磨川最上流地帯で担夫にりレーされると の形が、採られていたのかもしれないのである。 自身が導き出した右記の想定には、正直なところ、いささか動揺を覚えている。というのは、魚をはじめとする 搬入物資の椎葉山ヘの最終走者が担夫だったとするならば、﹃西日本庶民交易史の研突﹄第三編第二章の内容との 間に、趨齢が生じてしまうからである。拙著では、椎葉と外界との交易は、﹁駄賃っけ﹂と呼ぱれる馬輸送にょっ て行われていることを、伝承に基づき報告した。一三世紀を目前にした時代に、前近代的な馬背輸送の模様を詳細 に聞くことが出来た喜びは、今でも鮮明に記誓残されている。留意すべきは、伝承が語るのは大正から昭和期に かけてと、時代がズレていることで、近世史料を検討してみたところ、十八世紀に馬が使われていたとは思えない 状況を、自ら描き出すこととなったのである。伝承が、大正以前からの継続であるのは確かだろうが、彦九郎の記 述を踏まえれぱ、寛政年間に遡ることは無い。この間を詰めてゆかなければならないのだが、その前提として、馬 の使用について教えてくれる延享三年六月の史料を見てみょう。 (94) 史料8 一勘七郎様被仰聞候ハ、椎葉山之内二荷を付候馬致往来候所有之候哉と御尋二付 椎葉山Υ荷付馬致往来候所ハ、松尾村と申候所ハ荷付馬等牽越申候、右之松尾村ハ ?マ) 日州神門方'之人口之所二而少々之荷馬ハ致往来申候、其外之所ハ一切荷馬杯致 通路候所ハ無之旨申上候 延享三年は、県のとおり、椎葉山が年貢を上納するようになった午だが、前年の延享二年倫川家重が将軍に なったことから、巡見使が人吉藩にやって来たものと思われる。勘七郎は、御徒士目付の伴勘七郎で御三吏の、一人^ 26 -(怖) だが、史料文のような質問をしたのは、直前の寛保年間には中馬の活動が活発化していたのが、彼の頭に有ったた めかもしれない。おかげさまで、椎葉山における荷付馬の使用状況が書き留められたのだが、その様相は﹁松尾村 から神門ヘ行く馬のみ﹂というもので、各地に駄賃つけが居たのとは、かなりの落差が認められるのである。先の 想定と併せれぱ、﹃西日本庶民交易史の研究﹄に納めた伝承は、松尾だけは寛政を越えて延享以前に届く可能性を 有するが、ここ以外の所のそれが遡れる時代は比較的新しいと考えるべきだろう。では、椎葉中で駄賃つけが行わ れるようになるのは何時からかと言えぱ、柳田國男は﹃後狩詞記﹄(明治四二年三月)に﹁百年此方﹂と述ベてい (6) る9。明治四二(一九0九)年から百年前は文化六年だが、文化六年から三十年後の天保九年になっても、馬は七一 (町) 疋牛は四二疋と、その数は多くない。ということは、天保午間になっても、様子は、延享年間と似たりよったり だったということになるだろう。天保九年から明治末年までの七十年余りの何処で、椎葉の主力輸送機関が担夫か ら駄賃つけへと転換したのか知りたいところだが、今はここまで絞り込むのが精一杯なのである。 おわりに 前近代的交通体系下の時代、椎葉ヘの魚輸送は水陸連携で行われていたわけだが、交通史研究で扱われることが 少ないこの形態をお復習いして、本稿を締め括ろう。物資は、川舟←馬背←担夫の順に引き継がれたが、結論から 言えば、りレーのあり方は、より前の段階を担当する輸送機関の事情に根ざしていると、判断されるのである。 第一走者の川舟の、遡上限界点が多良木とされたのは、ここまでは、おおよそ舟が安全に遡れるのに加え、舟溜 が確保出来馬背との接続がとれる、地形条件が整っていたからだと思われる。舟が通える確実な所との評価が、 多良木を水陸接続地点にしたとの見方だが、これは、一果を返せぱ、引き継ぐ馬背は﹁一Lこまで来い﹂ということに
- 27 ー なって、川舟の都合を優先しているとの構図になる。機動性が馬は舟より優れるから、譲歩は止むを得まいが、馬 方の本音は﹁更に上流まで舟が来てほしい﹂だっただろう。ただ、活動時間帯から見れぱ、白由度は舟より象高 かった。史料5に﹁舟の夜間通航は禁止﹂と書かれているのに対し、史料3に﹁不士野筋往来﹂の﹁締方之儀﹂は ﹁昼夜無油断念入可相勤﹂と記されているのは、陸路は夜間通行がなされていたと読み取ることが出来るからであ る。史料5の規定に従えぱ、川舟は、朝人吉を出て、昼過ぎから夕方に多良木に着き、馬背に荷物を引き継いだ と、推定される。馬背は、活動時間帯は白由と言えぱ聞こえは良いが、多良木を何時出るかは舟運次第との制約が かかるから、結局これも川舟が優先されていることになる。多良木の出発が夕方になれば、馬返到着は紛れもなく 夜間になったのである。 夜行となれぱ、馬は暗闇でも目が見えるから、馬方は尾につかまって歩いたというが、進める限界点に達すれ ば、荷物を担夫に託して引き返す。担夫が椎葉を目指して歩き出す時は馬背次第との図式は、多良木での接曾同 じ論理と見なされよう。仮にりレー地点を馬返とすると、徒歩で古屋敷を経て不士野ヘ着くには、一日を要したの ではなかろうか。駄賃つけは不士野1古屋敷間を日帰りで往復したが、未明に出発帰着は日没後という厳しいス (卯) ケジユールであった。これを目安にすると、馬返1古屋敷間の直線距離が、古屋敷1不士野間のそれより短いのを 勘案しても、馬返1不士野問の片道走破には、不士野1古屋敷問往復と同じ時問を要したと、計算されるのであ る。椎葉山ヘ魚が届くには、膨大な手問と時間がかかっていた。 この輸送形態で見逃してはならないのは、後の段階を担当するものほど、輸送力が低くなることである。安政六 年の達しによれぱ、上球磨からの年貢米は、三斗俵を一艘に二六俵積むよう指示されていた。二六俵を馬背で運ぶ となれぱ、一頭に三俵付けても九頭の馬が要るから、舟の輸送力は馬の九倍ということになる。一方、担夫は通例 一人一俵だから、馬の三分の一しか運ベない。連携輸送を検討する際は、輸送力の落差ヘの着目が必争あるの
-28-を指摘しておこう。 エ、ロ 拙著﹃西日本庶民交易史の研突﹄四四七頁平成十二年十二月 1 2 拙著﹃牛方・ボツカと海産物移入﹄七頁二00八午四月 拙稿﹁﹃遠野物語﹄の中の近世1交通・一父易伝承を中心に1﹂﹃民俗文化﹄二五号九五頁平成二五年七月 3 4 ﹃日本民俗大辞典﹄下巻二000年四月解説者は胡桃沢 5 平成六年三月 6 飯田辰彦﹃峠の村ヘ1山里の履歴き一四六頁一九九四年二月 7 松本寿三郎.吉村豊雄編﹃街道の日本史五一火の国と不知火海﹄二二頁二00五年六月 8 ﹃人吉市史第一巻﹄三七頁昭和五六年三月 9 ﹃多良木町史﹄三三頁昭和五五年一月 ﹁空から見た人吉庄・交通と新田開発﹂﹃史学雑誌﹄八七編八号四三頁昭和五三年八月 1 ﹃多良木町史﹄三二四・一三六頁 1
松同右ξモ頁
玲同右一六0頁
H 同右三五・一三三頁 巧同右二二0頁玲同右三九頁
-
29-Π同右二五二頁
W 同右二五六頁 W 同右二七二頁 幼同右二六五S二六六頁幻同右二六七頁
﹃人吉市史第一巻﹄四八九S四九一頁 2 2 3 ﹃街道の日本史五一火の国と不知火海﹄一一八頁 2 4同右三二頁
2 5 同右六五S六七頁 2 6 同右一五五頁 2 7 ﹃人吉市史第二巻﹄六八頁平成二年二月 2 ﹃街道の日本史五火の国と不知火海﹄二四頁 8 2 9 ﹃多良木町史﹄二六七頁 2 ﹃椎葉村史﹄四九一頁 0 3 田﹃人吉市史第一巻﹄六八一頁 噐尾方保之﹃概説・相良藩1領民の暮らしと政治1﹄七九頁二00八午十一月 認﹃椎葉村史﹄三八0頁 N 同右一一八頁 肪﹃人吉市史第一巻﹄八9 頁- 30-49 48 関﹃多良木町史﹄二九三S二九五頁。郷士については﹃概説・相良藩1領民の暮らしと政治1﹄が詳しい 千々和實.萩原進編﹃高山彦九郎日記(日記編)第四巻﹄一八三頁昭和五三年十月 7 3 人吉球磨の交通史編纂委員会編﹃人吉球磨の交通史﹄七頁平成六年十月 8 3
椎葉村不士野那須家文書﹃宮崎県史史料編近世6﹄七三八頁平成九年三月
9 3 ※引用文の﹁一其後御兄弟﹂の﹁御兄弟﹂は、源平争乱時の奈須平八・平七兄弟を指す。(前略)の音分1 ﹁二人は椎葉ヘ来た﹂との記述が有る。 ﹃椎葉村史﹄四九六頁 4 ﹃高山彦九郎日記(日記編)第四巻﹄一八四S一八五頁傍点胡桃沢 U 寛政四年閏二月三日同右、一七九頁 2 4 寛政四年閏二月四日同右一八0頁 3 4 編纂代表者本庄榮治郎﹃近世社会経済叢書﹄第九巻一二OS三三頁昭和二年二月 4 4 妬﹃筑紫日記﹄寛政四年閏二月七日﹃高山彦九郎日記(日記編)第四巻﹄一八二頁 ﹃西遊雜記﹄﹃近世社会経済叢書﹄第九巻三七頁 6 4 ﹁覚江代口番人﹂﹃相良家史料﹄第三十九巻熊本県立図書館所蔵湯前から米良山ヘ向かう道に在る湯山の 4 ﹁覚湯山口番人﹂も、ほぼ同じ趣旨である。 ﹁椎葉山先年出入之様子江戸二而御申上被成候条々﹂﹃宮崎県史史料編近世6﹄八五二百傍点胡桃沢 熊本県教育委員会編﹃熊本県文化財習報告第鯛集熊本県歴史の道調査1球磨川水運1﹄六四百舮ネ六二 年三月 熊本女子大学郷士文化研究所編﹃熊本県史料集成第十四集人吉藩の政治と生活﹄一九二百昭ネ三四年十月 5- 31-肌﹃人吉市史第二巻﹄六五一頁 宗政五十緒校注﹃ワイド版東洋文庫二四九東西遊記2﹄五二頁二00二年九月 2 5 ﹃近世社会経済叢書﹄第九巻一一七頁 3 5 54 ﹁新宮庄太夫行雄覚書﹂﹃相良家史料﹄第三十五巻熊本県立図書館所蔵﹃人吉市史第一巻﹄七一三頁にょれぱ、 新宮庄太夫は人吉町奉行である。 騎﹃人吉市史第一巻﹄七三九頁 ﹃牛方・ボッカと海産物移入﹄三0四頁 6 5 拙著﹃近世海運民俗史研究﹄一四0・一八六頁二ot 亙一月 7 5 8 これについては柳田國男﹁田作りまな祝ひ﹂(﹃食物と心臓﹄昭和十二午)を参照。 5 ﹃熊本県文化財調査報告第羽集熊本県歴史の道調査1球磨川水運1﹄九一S九二頁 9 5 ﹁空から見た人吉庄・交通と新田開発﹂﹃史学雑誌﹄八七編八号四二S四五頁 0 6 ﹃近世社会経済叢書﹄第九巻一、一七頁 1 6 ﹃筑紫日記﹄寛政四年閏二月二十三日﹃高山彦九郎日記(日記編)第四巻﹄二0四頁 2 6 ﹁﹃遠野物語﹄の中の近世1交通・交易伝承を中心に1﹂﹃民俗文化﹄二五号八二頁 3 6 4
﹃築県文化晶査報告第四集築県歴史の謂査1球磨川水運1﹄五頁
6 ﹃人吉球磨の交通史﹄一七一頁 5 6 6 川名登﹃近世日本の川船研究下1近世河川水運史1﹄八八七頁二00五年三月 6町同右八四九頁
認同右八八六S八八七頁81 80 79 -32-脚人吉藩は三斗入である。﹃人吉球磨の交通史﹄一八一頁 円﹃近世日本の川船研究下1近世河川水運史1﹄九二二頁 ﹃筑紫日記﹄﹃高山彦九郎日記(日器)第四巻﹄一八二頁 1 7 ﹃熊本県文化財翌報告第的集熊本県歴史の道翌1球磨川水運1﹄の地図にょる。 2 7 同右二六S二七頁 3 7 N ﹃湯前町史﹄六0八頁昭和四三午十一月 同右六三二頁 5 7 ﹃熊本県文化財調杏叛告第冊集熊本県歴史の道調査1球磨川水運1﹄二五S二六百 6 7 ﹃人吉球磨の交通史﹄二二0頁 7 7 ﹃熊本県文化財調査報告語集熊本県歴史の道調査1球磨川水運1﹄二八頁 8 7 同右二九頁 文化四年十一月﹁川舟定法﹂﹃相良家史料﹄第三十九巻熊本県立図書館所蔵 ﹃熊本県史料集成第十四集人吉藩の政治と生活﹄五四頁 ﹃西遊記﹄﹃ワイド版東洋文庫二四九東西遊記2﹄四二S四四頁 2 8 ﹃熊本県史料集成第十四集人吉藩の政治と生活﹄一九四頁 3 8 二00三年九月解説者は、牛方・深井甚三馬方Π丸山尭成 4 8 ﹃峠の村ヘ1山里の履歴書﹄一四六頁﹃西日本庶民交易史の研究﹄四四0頁 5 8 部﹃熊本県史料集成第十四集人吉藩の政治と生活﹄五三S五四頁 釘﹃西日本庶民交易史の研突﹄第三編第二章
33 -認﹃概説・相良藩1領民の暮らしと政治1﹄九五頁 ﹃熊本県史料集成第十四集人吉藩の政治と生活﹄四九頁 9 8 ﹃人吉市史第二巻﹄六五六頁 0 9 ﹃筑紫日記﹄寛政四年閏二月二十一日﹃高山彦九郎日記(日記編)第四巻﹄二0二頁 1 9 兜﹃筑紫日記﹄寛政四年閏二月二十三日同右二0四頁 ﹃多良木町史﹄三三0頁 3 9 泓﹁椎葉山御巡見使応対并万覚﹂﹃宮崎県史史料編近世6﹄九九0頁 古島敏雄﹃信州中馬の研究﹄昭和十九年十一月﹃古島敏雄著作集﹄ニモ頁一九七五年十二月 5 9 ﹃定本柳田國男集﹄第二七巻七頁昭和三九年四月 6 9 ﹁御料御巡見使椎葉山万御書上下地合冊﹂﹃宮崎県史史料編近仙6﹄九0二頁 7 9 蛤﹃西日本庶民交易史の研九九﹄四三五頁 四同右四三七頁以下の﹁球磨目﹂を参照。