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ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る : 紹介と期待

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Academic year: 2021

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(1)ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る 一紹介と期待岩. European Coffee. Coffee. and. 正. 切. 介. Encounter. with in the Orient. Houses. Masaaki. IwAKIRI. 1ヨーロッパ人のオリエント旅行とコーヒー見聞 -オリエント-の好奇心. 1. 2. ラオヴオルフの旅行記. 3. フうントの旅行記. 4. テヴノーの旅行記. 5. 期待の薬として. ヨーロッパ人のオリエント旅行とコーヒー見聞-オリエントへの好奇心 15世紀から18世紀にかけておよそ600. ヨーロッパ人の手になるオリエントの旅行記は,. 点,うち17世紀には200点以上を数えるという。(1). 17世紀は,とりわけ,旅行の時代であっ. たらしい。そのなかで,オリエントのコーヒーに触れているものがある。ドイツ人ラオヴ ォルフの『東方諸国への旅』. (1582),イギリス人プラントの『レヴアントへの旅』. (1636),それからフランス人テヴノーの『レヴアント旅行』. (1665)である。そこには,. 当時オスマン・トルコの支配下にあった中近東地域のコーヒーやカフェの模様の他に,ワ インやボザ,シャーベットなどこの地域の噂好飲料についても記されている。コーヒIば 1600年には,イスラム圏一円で広く飲まれており,これがヨーロッパ一円に広まり始める のは,およそ1650年頃であるo -∪ツ/、)-Jつり匂J-」--T/J. オリエントのコーヒーに触れたテヴノー等の旅行記は,ヨ /エ哩肝V). rJ・1iiV-′よつ/」.. ijでらヽ穎ク昔はt)-ノ」・j岳/jlノ′ー. であろう。イメージや理解の基本の枠組みを提供したといったほうがいい位であるo 2. ラオヴオルフの旅行記 ドイツのアウタスブルクの医者・植物学者ラオヴォルフは,オスマン・トルコのコーヒ. 1573年9月にマル ーとカフェについて,ヨーロッパ人として最初の情報提僕者となったo 1576年2月にアウタスブルクに帰着。そ セイユを出発, 11月にシリアのアレッポに着く。. の旅行記は1582年にラウインゲン[アウタスブルク近くのド-ナウ河畔の町],ついで同年.

(2) 86 岩. 切. 正. 介. フランクフルトで出版された.中継貿易都市アレッポの風俗を述べる八草で,コーヒーと カフェに触れている。なにか食べよう・飲もうとすれば,店がある。そこにインクのよう に黒いハウベ(Chaube)という飲み物がある。人々は地面か座席に座って一緒に飲む。当 地では,朝この-ウベを飲む習慣がある。各は,深く丸い茶碗(カップ)である。できる だけ熱いものを飲む。. -ウベはとくに胃の虚弱によい。. る。みんなよく-ウベを飲むので,バザールには,. -ウベの実は月桂樹の実に似てい -ウベを飲ませる店や豆を売る店がた. くさんある。(2) 詳しい記述は次のようになっている。 「さらに,なにか食べたいか,水とは別の飲み物が欲しい時には,ふつう,広く開いてい る店にはいって,かれらは一緒に地面にすわるか座席に座って一緒に飲み物を飲む。この 種の店で飲める飲み物のひとつにかれらが-ウベ(Cbaube)と呼ぶ良い飲み物がある。か れらはこの飲み物を高く評価している。この飲み物は,インクのように真っ黒で,とくに 胃の虚弱に効き目がある。人々は朝この飲み物をそれぞれ家の前の戸外で何はばかるとこ ろなく飲む習わしである。かれらは,. -ウベを丸くて深い土製あるいは陶製の器から,耐. え得るだけ熱いものを飲む。かれらは車座になって座り,. -ウベをすこしすするとすぐに. 隣の者に器を回す。この飲み物は,土地の者がブンヌ(Bunnu)と呼ぶ実から作られる。 大きさと色からすると,この実の外観は,月桂樹の実に似ており,薄い皮に包まれている ように見える。かれらの古い言伝えによると,この実はインドからやってきたものである。 この実の周りには一本の筋がついており,内部には2つの殻があってそれぞれ一個づつう す黄色の種子(豆)が入っている。この実について詳しく知るまで,私は長いこと,名前 と外見から, BunchoAuicおよびBuncaRhasisadAlmansだと思っていた。. -ウベという. 飲み物は,かれらの間では非常に一般的で,バザールには-ウベを飲ませる店や豆を売る 店が少なくない。かれらは,ちょうど我々が我々のにがよもぎ酒や他の薬草酒について考 えるように, -ウベというこの飲み物を健康に良いすばらしい飲み物だと思っている」。(3) ラオヴォルフは,アレッポの人々が,ワインも飲むと次のように語っている。かってス レイマン大帝下では,ワインが許容され,人々が毎日集まってワインを飲んでいた。次代 のアムラト帝になって一転して厳禁となり,罰金,免職,足裏たたきなどの厳罰がくださ れるようになった。アレッポのパシャが宮殿から町-出ようとするとき,酔っ払った従者 を見つけ,その場で打ち首にした。しかし人々の渇望は厳禁に反比例する。星間は我慢し, 夜になると集まって飲む。イスラム教徒と違って,キリスト教徒にはワインが許されてお り,美味しい赤ワインを飲んでいる。ワインは,アレッポ周辺の産地から運ばれてくる。 ぶどう栽培農家もワイン商もキリスト教徒が多い。アルメニア国境近くのニシス(Nisis) やダマスカスのワインがよい。非アルコール飲料では,パ-マツ(Pachmatz)がある。蜂 蜜のような濃い果液で,水で薄めて飲む。蜂蜜のようにパンと食べることもある。. -サフ. (Hassaph)という甘い飲み物もあるo赤い葉栗(ペリー)であるBrustbeerleinを材料に したもので,果汁に蜂蜜を加え煮て作る。やはり渠果Erbsichbeerleinの果汁から作るベル ベリス(Berberis)という飲み物もある。チェルベート(Tscherbeth)という,蜂蜜と似. た飲み物があり,我々の蜂蜜酒[ゲルマン人がよく飲んだ]に似ている。大麦あるいは小.

(3) 87 ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る. 安から作る飲み物もあり,我々の農民がビールを飲む時のように,トルコ人は,シャルマ. イ[木管楽器]やコルネット[金管楽器],ティンパニー[太鼓]に合わせ楽しく陽気に大 声で歌って飲む。以上述べた飲み物はすべて大きなバザールにある店で飲むことができる。 夏の間,店には,大きな雪塊が用意され,飲み物に雪をいれてくれる。こうして飲むと, 全身,足の先まで冷える。(4) (1535-1596)は,アウタスブルクの. レ-オンハルト・ラオヴオルフLeonhartRauwolf. 生まれで,チエ-ビンゲン大学からフランスのモンペリエ大学(医学部)に転じて,医学 と植物学を学んだ。モンペリエ大学は,医学が盛んで高名でもあり,医学に不可欠な薬草 園も整っていた。ここで,ラオヴォルフは,徹底した教育を受け,ヒポクラテス,ガレノ ス,アヴイケンナ,とくにデイオクリデスなど,ギリシャ,ローマ,アラビアの自然科学 者・医者の説を学び,モンペリエ周辺近くまた遠く-出て植物採集の指導を受けた。博士. 号(医者の資格)を得るのは,さらに転じたバランス[フランスの町。ソ-ヌ河畔]大学 においてである。アウタスブルに戻る帰路,北イタリア,スイスを経て,熱じ、に植物採集 1571年に,アウタスブルクの官医となっ. をした。アウタスブルクの都市貴族の娘と結婚, た。オリエント旅行に出ていたのは,. 1573年5月18日から1576年2月12日。この旅はシリ. アとチグリス・ユーフラテス流域の往復路を範囲とし,約33ケ月にわたった。エルサレム にも寄った。アウタスブルク帰着後は,再び官医を務め,かたわらペスト施療院で働いた。 持ち帰った種子で植物園を作り,また持ち帰った植物標本を整理し,友人(医者)たちの 求めで, 「名声・栄誉のためならず,事物の有益と楽しさのために」,植物図譜を含む旅行 記を出版することになった(1582)0 ラオヴォルフはプロテスタントであった。アウタスブルクの新旧の宗教対立に巻き込ま れ,. 1588年,官医の報酬支払い停止の処分を受け,オーストリアのリンツへ移った。これ. も1588年である。ここでやはり官医となり,. 1596年,オーストリア軍の従軍医者としてハ. ンガリーへ行き,ブダペスト北方バーツで,同年,赤痢のために,死ぬ.飲み水が原因で あった。. ラオヴオルフのオリエント旅行は,植物採集・薬草探しであった。書物では知っていた がまだ目にしていない多くの植物・薬草が,ギリシャ,シリア,アラビアにあったので, その地へ行き,観察・採集する。あわせて,住民の生活,習慣,社会,宗教を観察したい。 これがラオヴォルフの目的であった。 オリエント旅行の後援者は,アウタスブルクの商人,義兄のマンリヒであった。マンリ ヒは,マルセイユ経由のレヴアント貿易を営み,シリアに複数の支店を置いていた。ラオ ヴオルフは,店員相手の医療を行い,同時に,植物と薬草を調査することとした。ラオヴ ォルフのマルセイユ出発は,前述の通り,. 1573年の9月。向かうところはシリアのトリポ. リ。同行者は,マンリヒ商店の新任の代理人クラフトであった。トリポリに数週間滞在し て植物採集。成果は良好であった。. 11月,アレッポに向かう。翌年の1574年まで,. アレッポに滞在。詳しいアレッポの観察を残す。. 9ケ月,. 8月,商人に身なりを変え,オランダ人. をひとり同行者とし,バグダッド-向かう.この時,ビレジクからフエルガーまでユーフ ラテス川を船でくだる。川下りの様子を述べ,左右の岸の景観を描写。下船して,陸路,.

(4) 88. 岩. 切. 正. 介. チグリス川に臨むバグダッド-至る。義兄マンリヒの破産の知らせをここで受け,インド 旅行を断念.. 1574年12月,バグダッドから帰途につく.チグリス左岸の陸路をとってモズ. ルへ至り,ビレジクを経てアレッポ,さらにトリポリに帰る。これが5月である。近くの 修道院や杉林,さらに聖地エルサレムを訪れる。この間,マンリヒ商店の借金のために捕 らえられていたクラフトの救出を試みるが,不首尾。. 1575年の末,トリポリを出帆,ヨー. ロッパに向かう。 ラオヴォルフの旅行記は,観察の幅が広く,服装,食べ物,秦,トルコの浴場などの生 活文化,商いや手工業,通商,都市の様子(トリポリ,アレッポ,ラッカ,バグダッド), さらに都市の住民の構成やキリスト教各派,ユーフラテス河岸の山上の砦や廃嘘,ア-ナ の果樹園,レヴァノンの森,小鳥の声,オスマン・トルコの中央集権制や役人の腐敗など に及ぶ。イスラムの医者たちの知識の乏しさや無能,また徳性の低さも指摘。アへンを含 む10あまりの薬を記述.しかし,中心は,植物で,トリポ1),アレッポ,ユーフラテス流 域,レヴァノンで採集した約二百の植物を述べ,. 33種の新種を紹介している。自ら観察し. 体験したものだけを述べたラオヴォルフの旅行記は,旅行記としてオリジナルな性格を持 ち,. 16世紀のヨーロッパのオリエント学(研究)の重要な文献となった。植物採集記とし. ても先駆的なものである。 3. プラントの旅行記 プラントの旅は,ヴェネチアに発し,コンスタンチノープルを経て,カイロに至り,再. びヴェネチアに帰着する11ケ月,. 5000マイル,オスマン・トルコ支配下の九領国を巡るも. のであった。プラントは,すでにフランス,イタリア,スペインを見聞した旅行人であっ た。イギリスの貴族の子弟の行う大陸教養旅行なら,パリ,フィレンツェ,ローマあるい はヴェネチアまでを通常の範囲とした。プラントの好奇心が,さらにオスマン・トルコに 向かった点がそれと異なる。プラントの旅行記は,順をおって旅の途次の具体的な体験や 見聞を述べ,最後に,オスマン・トルコの軍隊,宗教,司法,それから風俗・習慣の4項 目を立てまとめて記述している.なお,旅の途中,プラントは,ギリシャ・ローマの神話 や古典にゆかりの地を思い出す他,カエサル対ポンペイウスの古戦場に思いを馳せ,グロ ット(庭Bl洞窟)考を繰り広げるなど,その旅行記に盛られた文化連想はイギ1)ス近世の 教養人としての側面を偲ばせる。筆は庭園や園亭にも及ぶ。 プラントは,ヴェネチアで,ユダヤ人商人の率いる隊商に加わり,ヴェネチア対岸のロ ヴイニオに渡り,陸路,バルカン半島をコンスタンティノープルに向かう。隊商は,トル コ人とユダヤ人からなり,プラントひとりヨーロッパ人(キリスト教徒)であった。隊商 に加わったのは,道中出没する盗賊から身を守るためである。 ベオグラードからソフィアに向かう途中で,たまたま,ドナウの川べりでオスマン・ト ルコのパシャ(軍司令官)の遠征軍の宿営地と隣合わせた。プラントが怖いもの見たさに 近づいて行くと,パシャの小姓がプラントを見つけ,異国の人というのでシャーベットを 一杯くれた。シャーベットは遠征隊の常備品で,欲しい者は誰でも飲める。プラントはそ のお礼に,それから仲良くなるために,小姓に,ポケット鏡を与えた。イギリスではウェ.

(5) 89. ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る. ストミュンスター・ホールで4あるいは5シリングで売られているような品で,それには 楠もついており,小さな象牙の箱に入っていた。. /ト姓は,よろこび,かけて行ってこれを. パシャに見せた。パシャはプラントをテントに招いて,座らせると,コーヒーを出し,目 の前で飲むように勧めた。そして,イタリア語の分かる者を呼んで,プラントの身分,旅 の目的,国籍を尋ね,我が軍に仕えないかと聞いたという。(5) プラントの述べるもうひとつのコーヒー体験は,カイロのものである。ある高官の館へ 招かれた。行くと,広間には客がおり,上座にあぐらをかく主人が,プラントを近くに手 まねく。プラントは皆もするように靴を脱ぎ,何度かトルコ風のお辞儀をしながら近づき 座る。広間には接待のために控える小姓が10人あまり。小姓たちは深紅の服をまとい,曲 がった短剣を差していた。その館での歓待の順序は,まづ香である。小姓のうちの四人が, タフタをプラントの頭上に広げる。. 1人が,金の香炉を捧げもち,香を炊くと,くゆる香. がしばしタフタの下にたゆとう。香の道具が運び去られると,次に2人が甘い香りのする 水をもって釆てプラントに振りかける.これが終わると,. 1人がコーヒーを運んでくる.. コーヒーは陶器に入っている。プラントが飲み干すと,次はすばらしいシャーベット.儀 式のような歓待が終わると,アラビア語の通訳を介して会話が始まる。プラントが歓待と いっているのは,香,コーヒー,シャーベットを組み合わせたもてなしのことである.ブ ラシトは,このトルコ風のもてなしをすばらしい(excellent)というo(6)プラントの語る 旅の途中でのコーヒー体験は,この2つである。なお,プラントはカイロでは,ヴェネチ アの富紳セゲッツイ家に滞在し世話になった。上流階級の旅では,知人や友人のもとに滞 在宿泊するのが一般的だったからである。(7) プラントは,旅行記の最後の4項目のオスマン・トルコ論の所で,さらにコーヒー,コ ーヒー-ウス,シャーベットについて述べている。オスマン・トルコの艦隊のひとつに,. 黒海からエジプトにまたがる海域を担当するボスフォラス艦隊があり,海戦の他に,通商 も行っており,黒海からアレキサンドリア-,ロシアの蜂蜜,蝋,木材,奴隷を運び,ア レキサンドリアからは,亜麻,砂糖,シャーベット(複数),栄,つづれ織り,穀物などを 積んでコンスタンティノープル-戻ってくるというo. これによれば,エジプトのシャーベ. ットが,地中海を渡るのである。(8)プラントは,また述べる。オスマン・トルコでは,じつ はワインが盛んに飲まれ,酔っ払いもいる。一晩中,死後天国-行けるようマホメットに 執り成しを叫ぶ酔っ払いがいた。ワインは本来,禁止だが,キリスト教国(ヨーロッパ) より安く手にはいる。食事の時には,ワインは飲めない。代わりに,ウザフ(usapb)を飲 む。これは,干しブドウを発酵させた飲み物で,蜂蜜をから作ることもある。食事の時の 最適飲料は,シャーベットとされている。さらに,レモン,桃,アプリコット,スミレそ の他の花のジュースもよい。ジュースは,ふつう乾燥され,飲むとき水に溶かれるo ら,ジュースはふつう戦争にも持っていかれる。 食事以外の時に飲まれるものが,コーヒー(cauphe)である。これは,苦い味がする。 できるだけ熱いまま飲む。一日のうちいつ飲むのもよいが,とりわけ朝と夕方が適する時 刻である.コーヒーは古代スパルタ人も大いに飲んだとか.コーヒーの効果は,胃病の原 因となる体液を乾かすことにある。脳を快適にするのも,効用のひとつである。醜酎その. だか.

(6) 90 岩. 切. 正. 介. 他悪影響は引き起こさない(9)。コーヒーは,仲間との付き合いに役立つ. コーヒーを飲むのに適した朝と夕方に人々はコーヒー-ウス(cauphe-houses)に行 き,コーヒーを飲んで2,. 3時間おしゃべりして過ごすo. コーヒー-ウスは,オスマン・ コーヒ. トルコ全土にたくさんあり,イギ1)スのイン(宿屋)やエール-ウスよりも多いo ーハウスには,高さがおよそ半ヤード(45センチ)の台があり,敷物がしかれている。客. コーヒー. は,その上にあぐらをかいて座るo客の数は二,三百人ほどであることが多いo ハウスでは,音楽が奏せられているが,すばらしいとはいえない。トルコの音楽はそもそ も一つの旋律しかなく,二弦のフィドルで奏でられる。旋律は一つなのに,だれひとり二 度と同じようには弾けない(10)0 プラントの旅行記の副題には,旅のコースが記されている。ヴェネチアを経てダルマチ ア,スラヴオニア,ボスニア,. -ンガリ-,マケドニア,テッサリア,トラキア,ロード. ス島,エジプトを通り,カイロ-至る,である。内容については,とくに,当代トルコ人 および帝国下の緒国人の状況について観察するところ,と記されている、。このうち,旅の コースについて,いくらか補足する。コンスタンティノープルの滞在は,. 5日間,エジプ. ト-は海路を取り,途中トロヤ,ロードス島に寄り,エーゲ海を下ってアレキサンドリア に着き,カノブス(ロゼッタ)を経て,カイロに滞在。ピラミッドや市中,ナイル川など を見物して,帰路につく。再びカノブスを経てアレキサンドリアに戻り,地中海を渡って シシリー島のシラゴサに着き,メッシーナ,バレルモを経由してイタリアのナポリ,さら にローマ,フィレンツェ,ボローニヤを通って,出発地点のヴェネチアに戻ったのである。 へンリ・プラント脚SirHenryBlount. (1602-1682)は,チャ-ルズー世に仕え,ピュ. ーリタン革命の時は,王党派に属した。ロンドンでコーヒー-ウスが生まれるのは,この ピューリタン革命の最中で,以後およそ一世紀半量要な社会文化施設として栄える.プラ ントはロンドンのコーヒーハウスの有名な常連となった。プラントが,トルコ帝国の慣習 や風俗を紹介したのは,ひとつに,イギリスやヨーロッパ以外の地域での善悪の違いを知 らせることにあったようだ。トルコは,凶暴の国で,我イギリスでは高貴で国の基礎を脅 かすこともない諸徳も,トルコではそうでなく,帝国の基礎を危うくするのだという。プ. ラントは,旅行記を,善と悪をともに知る知恵の木[創世記の図像]が心のなかに植えら れなければ,その心は完全な天国ではない,という言葉でむすんでいる。善悪の見方の幅 を広げたかった,というのであろうか。旅の目的が,実利でなかったことは確かである。 4. テヴノーの旅行記 フランス人のテヴノーが旅行記に一節を設けて「トルコ人の食べる物,飲む物,眠り方」. で述べているコーヒ-等の説明は,プラントより詳しいoトルコ人は主に米と肉で作った ピラフを食べるが,食事の間は,何も飲まない,という。食事が終わってから,水を飲む。 食事以外の時の普通の飲み物は,水である(ll)。ワインを飲む者も多い。ワインは,コーラ ンで禁止されているが,こちらの人々は,それは戒律ではない,禁止は見解か勧めである, という(12)。とはいえ,人々はワインを公共の場では飲まない。公衆のなかでワインを飲む のは,恐れをしらない近衛兵士(jannissaires)だけである。トルコ人はワインを多量に飲.

(7) 91. ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る. む。眠り込むまで飲む。ヨーロッパ人のように水で割ることはしない。水でわる飲み方は おかしな飲み方とされ噸われる.コンスタンチノープル周辺とエーゲ海で良質のワインが たくさんできる。ビールの味に似たボザ(boza). [ボザーブザ。乾しブドウやナツメヤシ. の実の焼酎。シリア,イラクのアラク,エジプトのビープ,トルコのラク,ギリシャのウ. ゾ-.プラントはウザフといっていた]という飲み物もあるo試してみたがとてもまずか った。大麦か粟が焼料で,非常に安い。これは,庶民しか口にしない。アルコール飲料だ から,飲めば酔う。トルコのごく一般的な飲み物は,コーヒー(cahv壬)である。トルコ人 は,コーヒーを一日中いつでも飲んでいる.鍋(coqumar)で湯を沸かすo沸騰すると, コーヒーの粉を入れるo. かソプ三杯の湯に対しコーヒーの粉はスプーンー杯の割合oふた. たび沸騰すると,吹きこぼれないように火から降ろすかかきまぜる。この作業を10回から 12回線り返す。こうしてできたコーヒーを陶器のかソプにいれ,できるだけ熱いまま飲む。 やけどをしないように少しづつ飲む.コーヒーは,黒く,苦く,焦げた匂いもする。コー ヒーは,蒸気が胃袋から頭-上っていかないように防ぐoそのため頭の病気あるいは不調 を治す効果がある。同じ理由で,眠るのを妨げる.コーヒーは,また,胃を強くする.消 化を助ける。トルコ人によれば,コーヒーは,とにかくすべての病気によい。チャと同じ 効用を持っている(13)。我がフランスの商人も,手紙をたくさん書かなければならず,徹夜 で仕事をしようとするときは,夕方に一杯か二杯のコーヒーを飲む.味は,. -,二度のめ. ば,慣れる.トルコでは,コーヒーに丁字とカルダモンを加えて飲む者もいる。また,砂 糖をいれる者もいる。ただし,これらの添加物で,口当たりはよくなるが,コーヒーの効 用は低下する。オスマン・トルコが支配する国々では,コーヒーは大量に飲まれている. 貧富を問わず,一日,少なくとも二,三杯飲まれる.夫は妻にコーヒーを与える義務があ るとされるoカフェ(cabaretspublicsdecahv6,. cavehanes)では,コーヒーが大鍋で. 作られる。カフェにはあらゆる種類の人々がやってくる。宗教や身分の区別はない(sans distinction. de. religionni. de. quarit6).カフェに入るには,何の恥もいらないo. ここへお. しゃべりに行く者もいる。店の外の席もある。石造りのベンチで,ゴザが敷いてある。通 行人を眺めるために,または,戸外の空気に触れるために,客は外の席に座る(14)。カフェ には,ふつう,ヴァイオリン奏き,フルート吹き,それから歌手がいる。一日中,演奏し 歌っているoこれは,客引きのためである(15).コーヒーは熱いうちに,それもやけどに注 意して,少しずつ飲まなくてはならないので,快い音楽を聞きながら飲むのである。店に 知り合いがやって来ると,主人におれのおごりでコーヒーをやってくれというのが,礼儀 にかなう。 ところで,テヴノーによると,イスラム教の定めるラマダーンの間,トルコ人は,畳と 夜を逆にして過ごし,夜,好きなだけ飲みかつ食べる。この期間,カフェもー晩中開いて おり,店も通りも人々で賑わう。人々はカフェからカフェへ渡り歩く(16)。そのカフェに は,操り人雅邦市と楽師がやって釆て客を楽しませ,お金をもらうo. これらの芸人はふつう. ユダヤ人である(17)0 シャーベットはすばらしい飲み物で,エジプトで作られる。原料は,砂糖,レモン汁, 爵香,龍誕香,バラ水である(18).来客のもてなしには,コーヒー,次にシャーベット,そ.

(8) 92. 岩・切. 正. 介. れから香を出す。香のもてなし方は,奴隷か小間使いが絹のナプキンを持ってきて,客の 頭の上に広げる,別の一人が大きな香炉を持って来て客の顔と髭の下に当てる。客は,絹 のナプキンのとらえる香を好きなだけかぐ。この三点セットでもてなせば,厚い礼儀を尽 くしたものと考えられる(19)。自分は,フランス大使(コンスタンチノープル),ムフテイ, 大守の館で,このようなもてなしをよく目にした。もてなしは,三つそろわず,二つまた は一つの時もある。フランス大使には,コーヒーとシャーベットの二つだけで,香が出さ れることはなかった(20)。. テヴノーの旅行記が出版されたのは,. 1665年である。テヴノーは,これを手にすること. はなかった。テヴノーは2回目のオリエント旅行に出ており,ペルシャとインドを見ての 帰途,ペルシャで死去する。テヴノーは,この時,. 34歳である。テヴノーを旅行に駆り立. てたものは,プラントなど多くの同時代人と同様の好奇心であったと思われる。テヴノー は,学問,「芸術,自然などの領域のすばらしい物事を実際に自分の目で見たいと思ったと いう。多くの人が,この思いを満たしたくて旅に出る,自分もそうだ(21)。自分はまずイギ リスを訪れ,次いでオランダとドイツをまわり,その次にイタリア-やってきた。ヴェネ チアをみて,ローマ-きた(22)。ローマで東洋学者のデルプロ(dherbelot)からオリエント 旅行に誘われた。デルブロは,しかし,出発間際に家庭の事情が急変して出発を延期。テ ヴノーは一人オリエントに向かう.ローマを出たのは,. 1655年の5月.マルタ島を経てコ. ンスタンチノープルに着くのが12月。滞在は9ケ月。エーゲ海を通って,エジプトに着く。 これが1657年である。エジフoトにはおよそ2年滞在した。その間にエルサレムに行く。そ れが1658年の3月から6月にかけてである。アレッポやダマスカス-は行っていない。そ こを訪れるのは,. 2度目のオリエント旅行の時である。. スに帰国o すぐ旅行記に取り掛かるo. 1659年にチュニスを経て,フラン. ただし対象はオリエントに限るo. なぜなら,ヨーロ. ッパの事情は,すでにフランでは知られているからである。当代は,旅行者の数も多く, ここ20年は,旅行記も多い,だから,ヨーロッパの旅行記はあえて記す必要がない,とテ ヴノーはいう(23).テヴノーは旅行記を書き上げるとすぐに1663年10月,さらに遠く2度目 のオリエント旅行に旅立った。 テヴノー個人Jean. Thevenotのことはあまり知られていない.. 年にナヴァル(navarre)のコレージュ[中等教育学校。入学は,. 1633年の生まれで, 8,. 1651. 9歳,卒業は,. 6歳。大学所属のものとイエズス会所属のものがあり,ラテン語教育が主」を出ると,盟 年に,ヨーロッパ旅行に出た.だから旅に過ごした短い人生だったといえるのだろう(24)o ペルシャとインドの旅行記も17世紀のうちに,それぞれ1674年と1684年に,出版された。 3つの旅行記をあわせた英訳本がでるのは,. 1687年である(25)0. テヴノーの旅行記の特色は,テヴノーひとりの観察に止まらず,多くの旅行記などを参 照して記述し,オリエント事情の標準的な要約になっている点である,という.コーヒー やカフェの記述が,プラントより詳しいのは,そのためである。むろん,滞在も長かった。 イギリス人プラントにとって,. 17世紀前半のトルコとは,イギリスの有望な通商相手国と. して時代の脚光を浴びていた国であった。他方,フランス人テヴノーにとって,オスマン. ・トルコは16世紀初め以降,長くフランスの友好国であった。地中海の通商をめぐって,. 15,.

(9) 93. ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る. ヨーロッパの勢力は,二手に分かれ,オスマン・トルコと組んだフランスは,他方のスペ イン,オーストリア,ドイツと対抗してきた。この枠内で,エーゲ海の島々では,ヴェネ チアとオスマン・トルコがせめぎあいを続けていた。. 17世紀半ばとなれば,かって栄えた. 東西通商路は,新しくポルトガルやスペインが開いた航路にくらべ,地位は著しく低下し, 各所でとだえていた。オスマン・トルコ自体が,すでに停滞の時期を迎えていた。エジプ トも同じで,エジプトを通る国際商品は,スーダンの金,イエメンのコーヒー,エチオピ アの奴隷だけになっていた(26)。コンスタンチノープルにはフランスの大便がおり,エジプ トには,領事がおかれていた。テヴノーにとって,レヴアントは,親しみやすかったはず である。エジプトととくに関係が深かったのは,マルセイユで,カイロの領事にはマルセ イユ出身の有力者が就き,カイロのフランス人コロニーもマルセイユ出の人達だったとい う(27)。香辛料は,すでにこのマルセイユからエジプトにもたらされていた。流れが逆にな っていたのである。 5. 期待の薬として ラオヴォルフ,プラント,テヴノーの三人は,イスラム世界を訪れ,じかにコーヒーと. カフェを見て,情報をヨーロッパにもたらした,という点で際立っているが,他にも,ヨ ーロッパでイスラム世界のコーヒーやカフェについて知識を得ていた人々も少なくない. イタリアではとくにヴェネチア人,そのほかフランス人,イギリス人,オランダ人,ドイ ツ人,ウィーン人などが,ほぼヨーロッパ全域であい前後してコーヒーとカフェの情報を え,あるいは実際に飲用を試みている。情報の流れは,ほぼ,ヴェネチア,パドア,マル セイユ,パリ,ウィーン,アムステルダム,. -ン. --グ,ロンドン,オックスフォード,. ブルクなど,ヨーロッパの貿易都市と大学都市に集中している。 大学都市が,とくにコーヒーやコーヒーの知識の流通のひとつの経路だったのは,ヨー ロッパでは遊学が普通あるいは盛んで,それがコーヒーを知る機会を提供することになっ たからである.ヨーロッパに入ったコーヒーは日常飲料として走者する一方で,薬効が追 究された。この点を見ておこう。コーヒーの薬効に着目したのはとりわけ当時の医者たち である。ヨーロッパの中世と近世(絶対王制)は,アルコール社会で,エール,ビール, ワイン,火酒などを,大量に消費した。朝から飲む。仕事の区切りや一服に飲む。もてな しに出す。祝いや催しに飲む。おごりあって飲む。酔い潰れるまで飲む。社交飲酒施設の ワインやビ. エール-ウス(イギリス),宿屋,居酒屋,キャバレ-(フランス)が栄えたo. ールは私的にも家庭で飲まれる日常飲料としてよく飲まれた。このうちビールは別格で, アルコール飲料と意識されず,健康と栄養のための飲料とされた。医者たちは,通風,脂 化不良,頭痛などさまざまな病気の原因にこの飲酒の様を思った。ヨーロッパでもコーヒ ーは,イスラム世界のイメージのままに,薬でもあるとされたo. イスラム世界でみれば,. コーヒーの薬効は,種々挙げられたが,消化を助ける,胃を強める,眠気を覚ます,頭を 明噺にする,活発にする,不調や頭痛を直すなど,胃と脳に集中していたo. ヨーロッパで. は,未知にして新来のオリエントの飲み物に期待を込めた分,薬としてのコーヒーのイメ ージは膨らみがちだった。ただ,鵜呑みにしたとは言えない。血液循環の原理を発見した.

(10) 94 岩. 切. 介. 正. (実証した)イギリス人W.--ヴイは,パドア遊学でコーヒーを知り帰国後も愛飲し,み ずからその効用を確かめ,効用を説いた。弟子のJ.M.ラムズィもTh.ウイリスも経験的検 証を重ねてから,薬効を説き,薬として用いた。たんにアラビア医学の受け売りの姿勢で なかったところに科学革命を切り開いていった時代精神が見える.. E.ポーコックもコーヒ. ーを薬として役立てようとし,『コーヒーとコーヒー豆の性質について-アラビアの医師 の述べる』 (1659)を翻訳出版した。 この17世紀に,コーヒーの薬の側面に着目した出版物は,ロンドンの他に,ヴェネチア, ローマ,リヨン,パリ,ウィーン,. --グなどで出された.フランスでは,コーヒーを販. 売した薬種商デュフールや医者プレニが著している.なかでもオランダの医者でドイツで 活躍したC.デッカ-. (ボンテコ-)は,茶とともにコーヒーを万能薬と称え,広範に使用 (1699)である.. した.著作の代表は『茶,コーヒー,チョコレート』. 19世紀の末頃. コーヒーの薬効をさまざまに発見する試みは,次の18世紀にも継続され, までこの範噂の医学論文の刊行が見られる。. 1721年には,例えば,. R.プラドレ-の『コー. (ロンドン)があり,あのフラン. ヒーの効用と利用法-ペストおよび伝染病に関連して』. 19. スの啓蒙文化の華『百科全書』にも,コーヒーの薬理と効果が詳しく述べられている.. (シター, 1859,パ1)). 世紀では,たとえば『衛生および治療におけるコーヒーについて』. (ラングリ. 「肝臓病,胆石せん痛および糖尿病に対する生のコーヒー豆の新しい治療特性」 「防腐剤としてのコーヒー」. 1888,モンペリエ),. ルコ,. 「培煎コーヒーの防腐効果について」. (-イム,. (パピエ, 1881,アルジェ1)ア),. 1886,ミュン-ン)などがみられる(28)oい. まだ夢さめぬ人々,といえば,言い過ぎであろうか。専門家の生真面目か。コーヒーが導 入当初に背負った薬イメージの強さがそこに見られる。. 参考文献 a,. Th6venot,. b.. Rauwolff, Graz,. c.. d.. du. Jean: Voyage Leonhart:. Aigentlicbe. 1971. (originally published. Ukers,. William. Heise,. Ulla:. Ⅲ.: All about Kaffee. Levant,. Paris,. 1980. (originally published. Beschreibung. in Lauingen Coffee.. und. Kaffeehaus.. Voyage. into. der. Raiss. inn. die. in Lyon1665). Morgenlaender.. 1582).. New. York,. 1935.. Eine. Kulturgeschichte.. Hildesheim/Ztirich/New. York,1987. e.. Blount, published. Henry: in London. A. the. Levant.. 1633).. 注 1.a5 2.blO2,103. 3.blO2,103. 4.blO5,106. 5.e37.. Amsterdam/New. York,1977.. (originally.

(11) 95. ヨーロッパ人がコーヒーとカフェを知る. 6.e40,42. 7.e56. 8.e72,73. 9.elO9. 10.elO6. ll.a77,78. 12.a78. 13.a78. 14.a79,80. 15.a80. 16.alOl. 17.a83. 18.a80. 19.a80. 20.a80. 21.a31. 22.a6,7. 23.a31. 24.a6,7. 25.a26. 26.a18. 27.a13. 28.c772..

(12)

参照

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