一
か行︵二︶
かくりつけいぐん
鶴立鶏群
嵆紹 ︵ 253 -304 ︶は 、字が延祖という 。父親は竹林七賢の一人で 、 有名な嵆康である。ある人は王戎に﹁昨日人群の中にはじめて嵆延祖 を見かけた。 彼は堂々として鶏群に立っている鶴のようだ。 ﹂と言った。 王戎は﹁あなたはまだ彼の父親を見ていないだろう。 ﹂と答えた。 ︻出典︼ ㍯ Ш ᆍᔬ⾌ Ш 内 ѣᮙཝཡᓭҁᆆҕЕ Юѣ⮛Я㍯ခޛ⍑ Ш ᡌ 䄸⧁ᡄᴦ Ш ᱞ᯲ざӰѣခ㿁㍯ Ш ❬ྸ䠄只ҁ൞叺㗙Еᡄᴦ Ш ੑᗟᵠ㿁ެ⡬ 㙩Е Ц ・ ᡵ⦺喗ㅿМ᱿ᴮНভޡॷғ Ш ࡍ۩ㅢӊॷғ Ч ᴿӰ䃔⧁ᡄᴦ Ш ᔬ⾌উউྸ䠄只ҁ൞䴔㗙Е ㆊᴦ Ш ੑ ᵠ㿁ެ⡬㙩Е Ц ᵓᇁ ・ ࢿ㗟ឬМь䃠᯦䃔Нভс Ш ᇯ↘ㅢॷ Ч ︻作例︼ ﹁晋太尉忠穆嵆公紹﹂ ︵清・王齢撰、 任熊繪﹃於越先賢像傳讃﹄巻上、 咸豊六年[ 1856 ]刊本︶かくりゅう
郝
隆
郝隆は七月七日に日当たりのところで横になった。ある人は彼にそ のわけを聞くと、 ﹁私は書物を曝している。 ﹂と。また、郝隆が桓公の 南蛮参軍になった頃、三月三日に曲水の宴が行われた。詩を書けない 人に罰として酒を三斗飲まなければならない。郝隆が最初書けなかっ たので、 罰を受けた。 酒を飲んだ後、 早速筆を手に取り、 ﹁娵隅躍清池。 ﹂ ︵魚が透き通った池水から躍り出た︶ という詩句を書いた。桓公は ﹁娵 隅とは何か 。﹂と尋ねた 。﹁魚の蛮名だ 。﹂と答えた 。桓公は ﹁詩を作 るのに 、なぜ蛮語を使うか 。﹂ と聞くと 、郝隆は ﹁遥々あなたのとこ ろにやってきて、やっと蛮府参軍になったので、蛮語を使わないわけ にはいけない 。﹂ と答えた 。あるとき 、人が薬草を桓公に献上した 。 中には ﹁遠志﹂という名前の薬草があった 。桓公は遠志を手に取り 、 謝安に﹁この薬草はまた小草ともいう。なぜ一つのものに二つの名前 があるのだろうか。 ﹂と 、謝安に尋ねた。 謝安はすぐには答えられなかっ た。すると、その場にいる郝隆は﹁これは簡単だ。種の時に大志を抱 いていないから 、生えてくると小さな草となる 。﹂と大声で言った 。 謝安は顔が真っ赤になった 。桓公は謝安を見ながら笑って 、﹁ 郝参軍 の過ちは悪くない。よくできたな。 ﹂と言った。 ︻出典︼ 䜓䲼йᴾйᰛ࠰ᰛѣԦ㠛 Ш Ӱ அެ᭻ Ш ㆊ ᴦ Ш ᡇᴢᴮЕ䅓ޢခᴿᶧኧ ҁᘍ Ш ᗂ ೪ળኘ㠱 Ш घу⦨ᐨ Ш ခቧẉޢਮ俢ЕӄᱸӰᴿ伿ẉޢ㰛㥿 Ш日本における中国画題綜覧︵五︶
A
Compendium of Chinese Painting
Themes in Japan
︵
5 ︶
張
小
鋼
Zhang Xiaogang日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 二 ѣᴿ䚖ᘍЕޢԛஅ䅓 Ш ↚㰛৾ቅ㥿 Ш ж⢟㙂ᴿӂでЕ䅓ᵠㆊЕ ᱸ䜓䲼൞ᓝ Ш 㚨ㆊᴦ Ш ↚⭐᱉䀙 Ш 㲋 ࡽ⡨䚖ᘍ Ш ࠰ ࡽ⡨ቅ㥿Е䅓⭐ ᴿ㢨 Еẉޢⴤ䅓㙂ㅇᴦ Ш䜓৹䔃↚䚄ѹу ШӜᾫᴿᴹ Е Ю ѣ⮛Я 䜓䲼⡨ẉޢ㹱৹䔃Епᴾпᰛᴹ Ш ֒䂟Еу㜳㘻 Ш 㖦䞈пᯍЕ䲼ࡓ ԛу㜳㖦 Ш ᰙ 伨 Ш ᭢ㅼ֒жਛ Ш Ӈ Ш ၫ䲻䓃⊖Еẉஅ Ш ၫ䲻ᱥ ⢟Еㆊᴦ Ш 㹱 冐⡨ၫ䲻Еẉޢᴦ Ш ֒䂟ԛ֒㹱䃔Е䲼ᴦ Ш ॹ 䠂 ᣋޢ Ш ခᗍ㹱ᓒ৹䔃 Ш 䛙ᗍу֒㹱䃔ҕ Е Цᵓᇁ ・ ࢿ㗟ឬ Мь䃠 ᯦䃔Нᧈ䃵ㅢӂॷӊ Ч ︻作例︼ ﹁郝隆﹂ ︵橘有税﹃繪本故事談﹄巻六、正徳四年[ 1714 ]序、稱觥堂 刊本︶ ﹁郝隆﹂ ︵馬場信意﹃分類畫本良材﹄巻三、正徳五年[ 1715 ]刊本︶ ﹁郝隆﹂ ︵文鳳駿聲 ﹃文鳳漢畫﹄ 、享和三年 [ 1803 ] 吉田新兵衛等刊本︶ ﹁郝隆﹂ ︵武者周栄筆 ﹃古畫要覧﹄ 、安永九年 [ 1780 ]刻成 、文化九 年[ 1812 ]求版︶
かくりゅうさいしょ
郝
隆
曬
書
↓﹁郝隆﹂ ︻作例︼ ﹁郝隆曬書﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄初編巻四、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かくれんりゅうせん
郝
廉留錢
郝廉は大変貧しいが、 人に迷惑をかけない。姉のところで食事をし、 金を残して帰った。また彼はいつも井戸の水を飲み、いつも一銭を井 戸に投げ込んだという。 ︻出典︼ 仞؍䙐 Ш 䜓ᆆᓿ侇уᗍ伕Еለуᗍ㺙Ежԁу䄮ӰЕᴴ䚄က伥 Ш ⮏ 䥘ᑣс㙂ৱЕ∅㺂伨≪ Ш ᑮᣋж䥘ӋѣЕ ・ ᶄ♐М㫏≸Н ︻作例︼ ﹁郝廉留錢﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄二編巻三、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かげんさ
河源槎
無名氏の ﹃無雙譜﹄ に ﹁ 張騫﹂ という画題の絵がある。その絵に ﹁騫 は漢中の人である。建元の頃、郎という官職に就き、大宛への使節に 応募した。騫は河の源を遡ろうとして、いかだに乗ってあるところに 行った。そこに織姫が石で織機を支えているが、 騫を見て石を与えた﹂ と記している。 ︻出典︼ Ҏ ৱ䴙 Ш 倆 Ⅸ㿉⋩ⓆЕㄕ䙽 Ш ㄕ䙽㒊ྩּ Ш ᗍ᭥ₕ⸩ Ш ղ ẻᇙᡵດޤ⊰у↘ Ш уᗇດ⋩ⓆഔЕ Ц ・ 䠇ਚ㢥㐞㒠М❗䴏䆒Н Ч ︻作例︼ ﹁河源槎﹂ ︵ 清 ・ 金古良編繪 ﹃ 無雙譜﹄ 、康煕二九∼三八年 [ 1690 -1699 ]刊本︶かこう
何侯
何侯は堯の頃蒼梧山に隠居し、長生きを羨望していた。舜帝が南に 狩猟した際、何侯の家に泊まった。その時、天帝五老がやってきて舜 帝に﹁昇天の日にちが決まった﹂と告げた。翌日、 五帝が迎えに来た。 そこで舜帝が白日昇天した。禹帝の頃、五帝が薬を何侯に与え、酒に 入れるよう指示した。一族三百人余りが飲んでも、 飲みきれなかった。 余りの酒を家屋にかけると、家屋ごとに昇天した。何侯が太極仙人と なった。今、嶷山に何侯廟があり、舜廟の側にある。金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 三 ︻出典︼ ץ㘻 Ш ᱸ䳧㫲ờኧЕឋ䮭⭕ Ш пⲴ低ਙⲼ㙋㙎Е㡒⤟ Ш ↘ץ ᇬ Еཟᑓӊ㘷ּ䄸㡒ᴦ Ш ᰽㠿ᴿᵕ Е㘂ᰛ Ш ӊᑓс䘄 Ш㡒ⲳᰛ᰽ཟ Е ཅᱸ Ш ӊ ᑓԛ㰛жಞ㠽ץ Шֵᣋ䞈ѣ ЕжᇬпⲴ低ਙ Ш 伤уㄣ Е ԛ低䞈⚇ኁᆽШ ᤊᆻр᰽Еփ⡨འᾫԏӰЕԀᏭኧᴿץᔕШ ൞㡒ᔕ ڪЕ Ц᱄ ・ ⧁ь䋔Мᴿ䊗ࡍԏޞ۩Нভж Ч ︻作例︼ ﹁何侯﹂ ︵明 ・王世貞撰 ﹃有象列仙全傳﹄巻一 、萬暦二八年 [ 1600 ] 刊本︶ ﹁何侯﹂ ︵寂照主人月僊寫並題﹃列仙圖賛﹄一、天明四年[ 1784 ]寂 照寺蔵板︶
かこうこう
夏黄公
夏黄公は四皓の一人である。 ↓﹁四皓﹂ ︻作例︼ ﹁夏黄公﹂ ︵滝澤清畫 ﹃潛龍堂畫譜﹄人物之部 、明治一五年 [ 1882 ] 求古堂梓︶がこうこう
娥江行
↓﹁曹娥﹂かこうげん
夏侯玄
夏侯玄 ︵ 209 ∼ ? ︶、字は太初といい 、沛国 譙 郡 ︵ 安徽省亳︶の人 である。 若い頃から名声があった。 弱冠にして散騎黄門侍郎になった。 かつて夏侯玄が明帝に謁見した際、 皇后の弟毛曾と並んで座っていた。 そのため、夏侯玄が恥を感じ、顔に現れた。明帝が彼を怨み、羽林監 に左遷した。正始 ︵ 240 ∼ 249 ︶ の初め頃、 曹爽が国政を運営していた。 夏侯玄は曹爽の父親方の叔母の子であり、曹爽と従兄同士である。そ のため、夏侯玄は順調に出世し、散騎将軍、中護軍、征西将軍を歴任 した。曹爽が殺された後、夏侯玄は大鴻廬、太常に左遷された。後に 中書令李豊等と共謀して反乱を起こそうとしたが、情報が漏れ、夏侯 玄が李豊等とともに処刑された。年は四十六歳であった。処刑される 前に、夏侯玄は落ち着いて、顔色も変わらなかったという。 ︻出典︼ ⦺ᆍའࡓЕቇ⸛ Ш ᕧߖ⡨ᮙ偄哹䮶׃䜄Е్䙨㿁 Ш 㠽ⲽᕕ∑ᴴќ ආ Ш ⦺᚛ҁ Ш уᚻᖘҁ᯲㢨Е᱄ᑓҁ Ш ᐜ䚭⡨㗳᷍ⴙЕ↙ခࡓ Ш ᴯ ⡳䕊᭵ Е⦺ Ш ⡳ ҁဇᆆҕ Е㍥䚭ᮙ偄ᑮ׃ Дѣ䆭䔃 Е Юѣ⮛Я丹ҁ Ш ⡨ᖷ㾵ሽ䔃 Ш ٽㇶ䜳䴃Д⏲ᐔ䄮䔃ӁЕ㠽ᴯ⡳ާ㠾倧䉭ҁᖯ Ш ᱸ Ӱ 䆅ҁ Е⡳䂻 Ш ᗫ⦺⡨ཝ危㠐 Ш ᮮ ᒪᗏའᑮ Е⦺ԛ⡳ᣇ㍶ Ш ޝуᗍᝅ Е ѣᴮԚᶄ䊆䴌ᇵ⡨ཝሽ䔃ਮ俢Ქ⧁ᡶ㿠ᖻ Ш ❬ ⿷ᗹ൞⦺ Ш 䙸㎆ⲽ⡬ ݿ⾵ཝཡᕫ㐓 Ш Ⅸ䄶ԛ⦺䕊᭵Е䊆ᰘޝᨗ⅀᷺ Ш ᆆ ቐޢѱ Ш ৾㠽㐓ا 俤㘀Ӱ Ш ᭻㐓ؗҁЕ䊆䲦Ԛᕕލᐔࡰਨ㘲≸ޛᵓ Ш Ⅸֵሽޫޛ Ш ᒬ ࣑ 䎭 Еᴹ㘲≸ᵓ Ш у 㚳 Е ిᒩޣᒪӂᴾ Ш ⮬ᤒ䋪Ӱ Ш 䊆ㅿⅨഖᗗ㠞䔈 Ш 䄮䮶ᴿ䲑ޫ Ш 䂻 ཝሽ䔃 Ш ԛ ⦺ԙҁ Ш ԛ㐓⡨偹偄ሽ䔃Е䊆ᇼ䃔哹䮶ⴙ 㰽䪖 Д≮ም㖨Ԛ‸ᮜ Дᆸᗔ܋ሺࢿ䌘ㅿᴦ Ш 䄮Ӱቻޝ Ш ཐᴿу⌋ Ш ཝሽ䔃೪⇻ Ш ㍥ԛ⡨䀶 Ш ᕫ⮬ਥԛ⡨䃗Е䪖ㅿⲼ䁧ԛᗔળЕཝሽ䔃ᗤ 㚔ެ䄶 Ш 䄁䊆㿁 Ш 䊆у⸛㙂ᖶ Ш ⇰ҁЕӁсᴿਮ Ш ᭬⦺Д 㐓Д 䪖Д ᮜД䌘ㅿ䘷ᔭሿЕ Юѣ⮛Я᯲ᱥ䊆Д⦺Д㐓Д䪖ДᮜД䌘ㅿⲼпᰅ Ш ެ低㿠ኢᗏ‸⎠䜗 Е⦺Ṳ䠅ᕎ☕ Ш 㠞 ᯢᶧᐸ Ш 亅㢨у䇀 Ш 㠿ऋ㠠㤛 Ш ᱸᒪॷޣЕ Ц᱿ ・ 䲩༳МпുᘍНভғ Ш 内 ᴮ ・ 䄮ཅץᴯ۩ㅢғ Чかこうこきょうおう
花項虎
龔
旺
龔旺は ﹃水滸伝﹄の中の一人の豪傑で 、綽名は ﹁花項虎﹂という 。日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 四 ⡨ῤЕခओ∅䅑ᦾ Ш ᑮ䄸䄮⭕ᴦ Ш ༡⯻у᱄㏉㺉Е㏉㺉㤕᱄ Ш ެ䶈 ㍡ྸؑᤴ൦㣛Еᆮ㏉у᱄ Ш уྸ↮㙋Е ・ ᶄ♐М㫏≸Н ︻作例︼ ﹁夏侯拾芥﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄二編巻五、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶
かこうじゅん
夏侯惇
夏侯惇、字が元譲といい、沛国 譙 ︵安徽省合肥︶の人であり、夏侯 嬰の末裔である 。十四歳の頃 、師に学ぶ 。ある人が師を辱めたので 、 惇はその人を殺してしまった。そのため、気性が激しい人として有名 になった。魏の太祖曹操が最初軍隊を率いて討伐の際、惇は常に副将 としてついて行った。後に太祖は惇を司馬、折衝校尉、東郡太守に任 命した。彼は呂布を討伐した際、左目が流れ矢に撃たれた。さらに陳 留、済陰の太守、建武将軍、高安郷侯になった。魏の文帝が即位した 後、惇を大将軍に任命した。数ヶ月後、亡くなった。諡は﹁忠侯﹂と いう。 ︻出典︼ ཅ ץ Шᆍ ݹ 䇉 Ш⋑ ു 䆏Ӱ Еཅץᅦҁᗂҕ Е ᒪॷ Ш ቧᑡᆮ Ш Ӱ ᴿ䗧ެᑡ㘻 Ш ⇰ҁ Ш ⭧ᱥԛ⛾≙㚔Еའ⾌ࡓ䎭 Ш ᑮ⡨㼞ሽ Ш ᗔ ᖷ ՆЕའ⾌㺂ྤ↜ሽ䔃 Ш ԛ⡨ਮ俢 Ш ࡛እⲳ俢 Ш 䚭ᣎ㺓ṗሿ Ш 乎ᶧ䜗 འᆾЕའ⾌ᖷ䲬䅏 Ш ⮏ᆾ☤䲳Еᕫ䚾䘄ᐹ Ш འ ⾌ᇬ൞䜺ค Ш 䕋䔃ᖶ䎪 Ш 䚟㠽ᐹᴹ Ш ӚᡦЕᐹ䘶䚺 Ш 䙸ޛ☤䲳 Ш 㾨ᗍ䔃䕒䠃 Ш 䚙 ሽܔ䲃 Ш ާอᤷ Ш 䋢ԛሬ䋞 Ш 䔃ѣ䴽ᚆЕሽ三⎟ѹईޫእ⠕ 䮶 Ш ਢ䔃䄮ሽ Ш ⲼṾ⭨⮬䜞уᗍऋ Ш 䄮⠕ѹᇐЕ䙸䂙ᡶ Ш ਧᤷ䌠 㘻ᴦ Ш ⊓ㅿࠬ䘼 Ш ѹᮘอ࣡ཝሽ䔃 Ш ᗟⅨᵑ⭕䛠Еъੴળ䁄䌀 Ш ም 㜳ԛжሽ䔃ҁ᭻ Ш 㙂㑧⊓҄Еഖ⏋⌙䄸ᴦ Ш ⮬ཾു⌋Еਢޫᬀ ᤷ䌠㘻 Е ᤷ䌠㘻ᜬ䚳ਟ乣䀶 Ш ᡇռⅨҔ䋽⭞ৱ㙩 Е⎟ᮮ䋢 Ш Ⲽ ᯢҁ Е もとは東昌府の武将であったが、後に梁山泊に入った。 ︻出典︼ ਠ㿁ⲳओࢃּ䃠 Ш ⴝ㗟ৱᢉᶧ᱂ᓒ Ш 䙙䕮Ҽޟ䲙Еคѣᴿㆽ⥑ሽ Ш ဉᕫ Ш ᱥᖦᗭᓒӰ Ш 㲄 偄࠰䓡Еᴹ休⸩ᢉӰ Ш ⲴⲲⲴѣ Ш Ӱ લ⡨⋈㗳㇣Еᢁсޟଗࢥሽ Ш жㆽௐڐ㣧主㲄嗊ᰰ Ш ⑴䓡рࡰ㲄ᯇЕ 㝌主р㲄乣 Ш 俢рᴹֵ休 Ежㆽௐڐѣ㇣㲄зᗍᆡ Ш 䶘书䙙主 Ш 䜳ᴿ⯚Ⰻ Ш 俢рᴹֵ休Е ЦⲴӂॷഔᵢМ≪┮۩Нㅢйॷഔ Ч ︻作例︼ ﹁龔旺﹂ ︵清・陸謙畫﹃天 㴧地 煞 圖﹄不分巻、天保六年[ 1835 ]和刻 本︶ ﹁花項虎龔旺﹂ ︵葛飾前北斎爲一筆 ﹃繪本水滸傳﹄ 、文政一二年 [ 1829 ] 序、萬極堂梓︶ ﹁花項虎龔旺﹂ ︵仮名垣魯文標記 、一雲斎国久畫 ﹃肖像水滸銘々傳﹄ 前編下、弘化五年[ 1848 ]不朽堂刻本︶ ﹁花項虎龔旺﹂ ︵江境菴花川編、 月岡芳年筆﹃繍像水滸銘々傳﹄初編、 慶應三年[ 1867 ]序、大橋堂梓・蔵板︶かこうしゅうかい
夏侯拾芥
夏侯勝は、字が長公といい、東平︵山東省︶の人である。若い頃勉 強が好きである。太后尚書、太子太傅を歴任した。彼は弟子たちに講 義した際、 いつも﹁士にとって、 経学を究明できないことが恥である。 もし究明できれば、高官の地位や高禄を取るのは芥を拾うようなもの である﹂と、話していた。 ︻出典︼ ࢃ╘ ཅץओᆍ䮭ޢ Ш ᶧᒩӰЕቇླᆮЕ⡨Ӱ䌠ᆾ↙ Ш ㉗᱉ӗ့ܶЕ ᇙᑓᱸ䚭འᆆའڻЕ䂊ቐᴮ 䄌䃔䃠 Ш 䌒哹䠇ⲴᯚЕᒪғॷঈᇎЕ ࡓओᦾའቐᴮЕ᭻䌒䥘ӂⲴ㩢 Ш ㍖ᵃӊᰛ Ш ԛᑡڻҁЕ݈㘻ԛ金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 五 ᰙރ Ш འ ⾌㚔ҁ Ш 䄸⎟ᴦ Ш ↚ਥ⡨㩢ь⌋Еѹ㪍Ԛ Ш 㠠Ԁᐨᗂᴿ ᤷ䌠㘻 Ш Ⲽ⮬ᒬᬀव亝䌠Е⭧ᱥ࣡䌠㘻䙸㎋Еའ⾌㠠ᗆᐔ䚺 Ш ᗔᖷ ᐹ Ш ⡨⍷⸘ᡶѣ Ш ۭ ᐜⴤЕᗟ乎䲩⮏Д☕䲦འᆾ Ш ࣖᔰ↜ሽ䔃 Ш ሷ 儎ᆿ䜿ץ Е Ю ѣ⮛Яӂॷᒪ Ш འ ⾌䔃ᬀᐹ䔃᯲䱸 Ш ਢᑮ㠽 ੂ䔿 Ш ⢯ 㿁㿠䠃Е࠰ޛ㠛ޝ Ш 䄮ሽ㧡ᗍ∊ҕЕᤒࢃሽ䔃 Ш 䄮䔃䚺༳ ᱛ Ш ᗏእਢ䲫 Ш ᮽ ᑓ⧁փ Ш ᤒཝሽ䔃 Ш ᮮᴾ㯞Е䴌൞䔃 Ш 㿠 䘄ᑡᾣЕᙝܿ Ш ᴿ 低䋗䕈ԛ࠼᯳ Ш у䏩䋽ҁ᯲ᇎ Ш у⋱⭘ᾣЕ䄗 ᴦᘖץЕ Ц᱿ ・ 䲩༳МпുᘍНভғ Ш 内 ᴮ ・ 䄮ཅץᴯ۩ㅢғ Ч ︻作例︼ ﹁夏侯惇抜矢啖晴﹂ ︵﹃ 李卓吾先生批評三国志﹄第十七回 、明末建陽 呉観明刊本︶ ﹁夏侯惇﹂ ︵百二十回本 ﹃繪圖三国演義﹄ 、光緒一六年 [ 1890 ]上海 図書集成局刊本︶ ﹁夏侯惇﹂ [笠翁筆] ︵法眼春卜一翁集 ﹃畫史會要﹄巻二 、寛延四年 [ 1751 ]須原茂兵衛等刊本︶
がこうじょえい
娥皇女英
舜の二人の妃は、堯の二人の娘である。長女は娥皇といい、次女は 女英という。舜は堯の帝位を継ぎ、 娥皇は皇后となり、 女英は妃となっ た。天下は娥皇女英を称賛した。舜は南を視察した際、崩御した。二 人は悲しくて泣きやまない。その涙は竹に落ち、 沢山の斑点となった。 故に﹁斑竹﹂という。また﹁湘妃竹﹂ともいう。二人は遂に湘江に舜 の後を追うように身を投げた。そのために皆娥皇女英を﹁湘君﹂と呼 んでいるという。 ︻出典︼ ᴿ㲔ӂྐྵ㘻 Ш ᑓ ӂྩҕЕ䮭ၛⲽ Ш ⅗ྩ㤧Е㡒⡬乇∃Е⡬㲕ⷳਕЕ ᕕᴦ䊗 Еۨ䚀᯲ᄐ Ш 㡒㜳䄝Ḋҁ Ш ᢵӁⷳਕԛᆓ Е Ю ѣ⮛Я㡒ᰘఙփ ⡨ཟᆆЕၛⲽ⡨ Ш ྩ㤧⡨ྐྵЕሷ䊗᯲ᴿᓩЕӁⷳਕ⥬㤛✿Еཟсで ӂྐྵ㚦᱄䋔ӷЕ㡒䲕ᯯЕ↱㫲ờЕ㲕䠃㨥Еӂྐྵ↱⊕⒎ҁ䯉Е؍䄸ҁ ⒎ੑ Е Ц ╘ ・ ࢿ ੇ Д ᱄ ・ 㤻ක㼒 М᯦䩡໔㼒ޞ܅䂋᷍ਚԀࡍྩ۩Н ভж Ч ⒎ᐓ䁎 Е㡒ᐗ⤟ Ш ᯲፟㫲ờҁ䠄 Еၛⲽ ྩ㤧ӂྐྵᛨ⌙у䕕 Еԛ␐ ⚇ㄯ Еㄯⴗᡆᯇ Е㠩Ԁ㲕⒎ྐྵㄯ Е Ц ・ ᶄㅖ㗷 М㣛ᆆൈ⮡۩Н 䳼ভ Ч ︻作例︼ ﹁娥皇女英﹂ ︵清 ・王 翽 繪 ﹃ 百美新詠﹄圖傳十八 、嘉慶年間 [ 1796 -1820 ]刊本︶ ﹁娥皇女英﹂ ︵﹃呉友如畫寳﹄第三集上 ・古今百美圖 、中国古畫譜集 成第二十一巻、山東美術出版社、 2000 年︶ ﹁娥皇女英﹂ ︵後素軒橘有税 ﹃繪本故事談﹄巻四 、正徳四年 [ 1714 ] 稱觥堂刊本︶かさん
華山
華山は五嶽の一つで、 西嶽ともいう。華山は弘農の華陰県︵陝西省︶ にある。華とは花という意味で、万物が成長して西方に花として現れ る。また、華山の山頂に池があり、池に千葉蓮華が生えており、人が その蓮華を服用すると仙人になって羽化する。故に華山という。 ︻出典︼ 㾵ᯯፁኧ Ш ፁ 㘻 Ш 㨥ҕ Ш 㩢 ⢟━⟕ Ш 䇀㨥᯲㾵ᯯҕЕᔕ൞ᕎ䗨㨥䲦㑙Е Ц╘ ・ ࣣМ仞؍䙐㗟Нভж Ȗ Ш ѣ 㨥ᴮቶ Ш жғޡжᒪ Ш й丷 Ч 㨥ኧӊᏳҁ㾵Ᏻҕ Е൞ઞᇎ 䊡ᐔ Ш ެ䧣ኧᴦ㨥ኧ Е㨥ኧ䁎Ӈ Ш 丸 ᴿ⊖ Ш ⭕ ॹ㩿㬤㣧 Ш ᵃҁ㗳ौ Ш ഖᴦ㨥ኧЕ ᱄ ・ ⧁൱Д ⧁ᙓ㗟Мп ᢃൌᴹН൦⨼ޡভ ︻作例︼日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 六 ﹁華山圖﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄地理八巻、萬暦三七年 [ 1609 ]刊本︶ ﹁華山﹂ ︵寺島良安撰 ﹃和漢三才圖會﹄ 巻五十六、 正徳二年 [ 1712 ] 序 、 杏林堂蔵板︶ ﹁華山﹂ ︵橘有税圖畫﹃唐土訓蒙圖彙﹄巻二、享保四年[ 1719 ]寶文 堂刊本︶ ↓﹁華嶽﹂
かさんごせん
華山五仙
崋山五仙とは衛叔卿、許由、巣父、洪厓先生、王子晋である。 ︻出典︼ ﹃列仙傳﹄というが、未詳。 ︻作例︼ ﹁崋山五仙﹂ ︵後素軒橘有税 ﹃繪本故事談﹄巻二 、正徳四年 [ 1714 ] 稱觥堂刊本︶かしこく
可只國
可只国は西番国の宝物の産地である。 ︻出典︼ ਥਠു Д㾵⮠࠰ሬ⢟㲋 Е ᱄ ・ ⧁൱ Д⧁ᙓ㗟 МпᢃൌᴹНӰ⢟ॷ пভ ︻作例︼ ﹁可只國﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄人物十三巻、萬暦三七 年[ 1609 ]刊本︶ ﹁可只國﹂ ︵橘有税圖畫﹃唐土訓蒙圖彙﹄巻五、享保四年[ 1719 ]寶 文堂刊本︶かじゅんじゅそう
賀循儒宗
賀循 ︵ 260 -319 ︶は 、字は彦先といい 、会稽山陰 ︵浙江省紹興︶の 人である。言行が礼儀正しく、いつも人を譲った。太子太傅、太常な どを歴任した。朝廷が時々循の意見を諮るが、循がいつも儒家の経典 と礼儀に基づき答える 。当世の儒宗として尊ばれたという 。︵ ﹃ 晉書﹄ 巻六十八︶ ︻出典︼ ᱿ᴮЕ䋶ᗠᆍᖛݾШ ᴹびኧ䲦ӰЕᬃቐ儎২Ш ㄛ喈 ᴿ࠶ у㗚Е䀶 㺂䙨↘ Ш ᗻԛ䇉 Ш ↜ࡓ⛰ѣᴮԚ Ш ࣖᮙ偄ᑮ׃ Ш ര 䗣 Ш ᭯ᤒའᑮ Ш ᵓᔭ┥Ⲽ䄤ҁЕ ᗠࡽד㏉㙂ቃ Ш ⛰ьᇍ݈Е ・ ᶄ♐ М㫏≸䳼⌞Н ভр ︻作例︼ ﹁賀循儒宗﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄初編巻五、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かじょうこう
河上公
河上公の姓や字はよく分からない。漢の文帝の頃、河上公は川辺で 草庵を建てて住んだ。文帝は老子の経を好み、諸王や大臣たちに皆読 むよう命じた。分からないことがあれば、使者を派遣して河上公の草 庵に行く 。河上公は言った 。﹁道は尊び 、徳は貴い 、使者を派遣して 質問してはいけない。 ﹂と。帝が仕方なく自ら草庵を訪れ、質問した。 帝は﹁天下の土は、すべて王の土であり、その土に住んでいる人間は すべて王の臣民である。域の中には四つの大きいものがある。王はそ の第一を占める。あなたは道があるが、なお私の臣民である。どうし てその頭を下げないで 、格好をつけるのか 。﹂ と言った 。すると 、河 上公は早速手を合わせて座ったままでゆっくりと空中に浮揚した。地金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 七 面から数丈を離れて、帝に向かって答えた。 ﹁私は上には天に至らず、 中には人の邪魔をせず、下には地に住まない。どうして臣民と言える だろう 。﹂ と 。そこで帝が下車し 、謝った 。河上公は帝に素書を二巻 与えて 、言った 。﹁ よく読んでください 。この経についての疑問への 回答はすべて中にある。これ以上言う必要がない。私はこの経に注釈 して以来 、千七百年になる 。およそ三人に伝授した 。帝が四人目だ 。 どうかそれ以外の人に見せないでください 。﹂ と 、 言い終わると 、姿 をくらました。しばらくして雲や霧で空が暗くなり、天と地が一体に なったようである。帝はその書物を大切にしていた。また、河上公は すなわち老子のことであるという説もある。 ︻出典︼ ⋩рޢ㘻 Ш 㧡 ⸛ެဉҕ Е╘ ᆓᮽᑓᱸ Ш ㎆ 㥿⡨ᓫӄ⋩ҁ☧ Еᑮ䆶 㘷ᆆ䚉ᗭ㏉Еᱸᮽᑓླ㘷ᆆҁ䚉 Ш 䂊ળ䄮⧁ޢДཝ㠙Дᐔ⢝Д൞ᵓ ༡ⲼԚ䃜ҁЕу䙐㘷ᆆ㏉㘻 Ш уᗍ䲔ᵓЕᑓ᯲㏉ѣᴿ⯇㗟 Ш Ӱ㧡㜳䙐Е ׃䜄㼪ᾭ྅Ӈ Ш 䲓ᐔ⋩рᴿӰ䃜㘷ᆆЕ䚙䂊ֵ䌐ᡶ⯇㗟அҁЕޢᴦ Ш 䚉ቀᗭ䋪 Ш 䶔ਥ䚏அҕЕᑓ個ᒮ䂙ҁЕޢ൞ᓫѣу࠰ЕᑓֵӰ䄸ҁ ᴦ Ш ⓛཟҁс Ш 㧡䶔⧁ൕЕ⦽ൕҁ☧ Ш 㧡䶔⧁≇Еตѣཝ Ш 㙂⧁ቻ ެжЕᆆ䴌ᴿ䚉 Ш ⥬ᵋ≇ҕЕу㜳㠠ቾ Ш ѹ儎҄Еᵋ㜳ֵ≇ሂ䋪䋝 䌚举㠴Еޢᤀᧂආ䓃 Ш ൞グ㲑ҁѣ Ш ৱ൦Ⲵ低ተ Ш 㙂 ↘᯲㲑グЕ 㢥ѻ Ш ؑ 㙂ㆊᴦ Ш ֏ру㠩ཟ Ш ѣ у㍥Ӱ Ш суቻ൦ Ш ≇ҁᴿ✿ Е ੑᇒ㜳Ԛ֏ሂ䋪䋝䌚҄ Еᑓཝ傐ᛕ Ш ⸛ ᱥ⾔Ӱ Ш ᯯ с䕜び俌䅓ᴦ Ш ᵋԛу㜳ᘓᢵݾᾣ Ш ᢃ ቅԱཝ Ш ី ᯲у Е㙂ᘍཿ䚉ᗭ Ш ԛᱝ Е ཐᡶуҼЕ᜕于䚉ੑමᝃ Ш ᴿԛᮏҁЕ⋩рޢᦾ㍖ᴮ㘷ᆆ䚉ᗭㄖਛ ӂভ Ш 䄸 ᑓᴦ Ш ⟕ ⹊ガҁ Ш ᡶ⯇㠠䀙 Е֏㪍↚㏉ԛּ Ш ॹ йⲴ低ᒪ Ш ࠗ۩пӰ Ш 䙙 ᆆ⸙ Еव⽰䶔Ӱ Еᑓᤒ䐠㏉ Е䀶⮘ Ш ޢཧᡶ൞ Е 䙸᯲㾵ኧㇿ㠰ᵑҁуᗟ㿁⸙Е䄌㘻ԛ⡨ᮽᑓ䴌㙳ቐཝ䚉 Ш 㙂ᗹᵠ㍊ؗЕ ᭻⽰⾔䇀 Шԛᛕᑓ ЕᝅⅨᡆެ䚉 ЕᱸӰഖ㲕ᴦ Ш⋩рޢ Е Ц ᱿ ・ 㪑⍠ И⾔ԏ۩Йভޡ Ч ⋩рޢЕ㘷ᆆ ╘ᮽᱸ⡨⋩рޢЕ Цᇁ ・ 䲩ݹ䶐МӁ᷍ᔙ䁎Нভޣ Ч ︻作例︼ ﹁河上公﹂ ︵﹃事林廣記﹄巻六、元禄一二年[ 1699 ]和刻本︶
かじょうこく
訶條國
︻出典︼ 䁬ồുШ 䠇 䚲ኧᔕᴿ⸩唿 Ш ྸӰ伨伕ሽⴗ Ш ੇ 唿㺂 Ш ࡽ伨伕ᚿޭЕ ᱄ ・ ⧁൱Д⧁ᙓ㗟МпᢃൌᴹНӰ⢟ॷভ ︻作例︼ ﹁訶條國﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄人物十四巻、萬暦三七 年[ 1609 ]刊本︶ ﹁訶條國﹂ ︵橘有税圖畫﹃唐土訓蒙圖彙﹄巻五、享保四年[ 1719 ]寶 文堂刊本︶かしょうし
何尚之
何尚之︵ 382 ∼ 460 ︶、字は彦徳といい、廬江灊︵安徽省合肥︶の人 である。祖父は南康太守であった。父親は官職に就かなかった。尚之 は子供の頃、不良少年で、双六などの賭博がすきであった。大きくな ると、人ががらりと変わり、高尚な節操を以てよく知られる。丹陽尹 を務めた際、南郭の外に家を建て、玄学校を設け、学生を集めた。東 海の徐秀、 廬江の何雲、 黄回、 頴川の荀子華、 太原の孫宗昌、 王延秀、 魯郡の孔恵宣など、 皆憧れて遊学に来た。いわゆる﹁南学﹂であった。 尚之は多くの官職を歴任したが、最後に侍中、左光禄、開府儀同三司 になった。大明四年、病に倒れ、在任中亡くなった。七十九歳であっ た。死後司空の官職を贈られた。諡は﹁簡穆公﹂という。 ︻出典︼日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 八 ቐҁᆍᖛᗭ Ш ᔢ ⊕ ⚀Ӱҕ Еᴴ⾌Ⓦ Ш 儎 ቐуᗫ䗕 Е⾌ᜊ Ш ᓭ འᆾ Е⡬ਊᓜ Ш ᚣ䅯ᴿ㺂ᾣ Еသ䚟⋑䜗 ࢿ⫟ Ш 㠽 ਊᓜ∃ᝑ⭐㈚ Ш ਊᓜ∃㳚ঈ Ш ཿ သᴿ㤛ᡶ⭕Еသӗ Ш ᵊᵑᗻᖶ㠪 Ш ᒬ䁣⾣ྖ Ш 伕 ќ ⨃᯦Ш 䓢㠠㠞㿌Е㤛ᵊᵑᴿޢӁШ ࡽݾ䚙䘷⾣Ш Ⲽᢁ㠠ᯏ㉗Ш ⍷⏋ ቃҁ Ш ޢӁ⮘ Ш ᖶ㠪 Ш ԛ↚⡨ᑮ Ш 㠩пᒪᵃㄕ Е Ю ѣ⮛Яᗂ⡨䠇 ㍡ݿ⾵ཝཡ Ш ੩䜗འᆾ Ш ࣖ〟ѣӂॹ⸩Еའؓ⧁ᕎでެ䓡▊ᐧЕݹ ిޡᒪ Ш ঈЕቐҁቇᱸ乍䕋㮺 Ш ླ ᪪㫨Еᰙ䮭ᣎㇶ䑾䚉 Ш ԛ ᬃ㿁でЕ ⡨䲩䜗 䅓ᡶ⸛ Ш 㠽ҁ䚀㲋Еᇬ䋝 Ш 䎭⡨㠞⍛ԚЕ儎⾌乎ᖷ㾵ሽ䔃 Ш 㼒ᓒѱ㉵ Еᗔᖷ䮭ᆿ Ш ԛޢӁރ Ш 䚺 䜳 Е ഖᛙऔ⯴ゃᒪ Ш 伨 ႜӰҩ Ш ѹᗍᐤ Еԛᗔᖷҁऔ Ш 䌒 ⡫䜳䜿ץ Еቇᑓփ Ш ⡨ᔢ䲫⧁ 㗟ⵔ䔀偄 䄤䆦৹䔃 Е㗟ⵔ㠽ਮᗈᗆ㗞ҁ ДቐᴮԚڻӤㅿуঊ Ш ∅ᴿуᒩҁ䀶 Ш ቐҁ䄡ᡈ Ш у ㍃Е㗟ⵔ㻡ᔘ Ш ޛ ⡨ѣᴮ׃䜄Еའ⾌փ Ш ࠰ ⡨㠞ᐓޝ ਨ Ш ޛ⡨哹䮶׃䜄 Ш ቐ ᴮ䜞䜄 Ш ᐜ㺔ሽ䔃Е⡬ីৱ㚭 Ш ᵃ䰁Еᗟ⡨ ᐜ㺔 Ш 乎 འᆆѣᓬᆆЕቐҁ䳻ླᮽ㗟 Ш ᗔᇯ䌔ᴹ Ш ⭐⡨འ⾌ᡶ⸛Еॷ ӂᒪ Ш䚭׃ѣ Ш ѣ ᓬᆆྸ᭻ Еቁ᭯乎⑮ᬀሽ䔃 Еॷпᒪ Шᖣค⧁ 㗟 ᓭⅨԛਮᗈᐜ䮭ਨࢿᯂ⡨ѯ䲳ቯ Ш ру䁧Еѹԛቐҁ⡨ቯ Ш ᆻ䜣 ཌ Ш 㖤⦺ᆮ Ш 㚐⭕ᗈЕᶧ⎭ ᗆ⿶Дᔢ⊕ Д哹ഔД╷ᐓ 㥶ᆆ㨥Д འ ᆡᇍ᱂Д ⧁ᔬ⿶Д 冥䜗 ᆊᇙ Ш ќឋ䚉ּ䚀 Ш 䄸 ҁᆮЕ Юѣ⮛Я ӂॷӂᒪ Ш 䚭 ቐᴮ܋ሺ Ш ࣖᮙ偄ᑮ׃Еᱥ↨ Ш 䙖 ⦺↜⒌ Ш рⅨ⒌ѣ ᯯо Д㬢㩀 Д♑⍨п⾔ኧ Дቐҁര䄡ѹ↘ Е Ю ѣ⮛Яཝ᱄ӂᒪ Дԛ ⡨ᐜݿ⾵Д䯁ᓒܶੂпਮ Ш ׃ ѣྸ᭻Еቐҁ൞ᇬᑮ㪍咵ⳤᑳ Ш ᤒ䯁 ᓒ Ш ཟᆆ㠞䔈 Ш Ⲵ ܐ䲠փ Ш ⊾ឬҁ᯲⇵ᔭᡨҁᴦ Ш Ԁᰛу㪍咵ⳤߖЕ ឬҁ㍥䗣⡫ળ Ш ᵓᔭᮜम⭐㈚ Ш ቐ ҁ䄸ᴦ Ш ѱр㲑ᠭڪᑣ Ш 䂄 ᇒര䗣Е ឬҁᴦ Ш ⊾ޢу࣯ޢ Ш ৱ㙂ᗟ䚺ҕЕቐҁᴿ㢨Еᝑቐᮽ㗟 Ш 㘷 㙂 уՇ Ш 㠽འᑮ亅ᔬҁ䄌䆦ᖶਃ Ш ۩᯲ьЕ䓡㉗㌺ Ш 䔀 ᵃ⦽㍖ Ш ӗ уၬ Ш ৾ ❗ဢЕ㺗⮬ᵓ Ш ⮅䚖⅀᷺ Ш 㿠ᡐ᭻㡀 Ш ж ❗㯜㠿 Ш ᰙԛ 㠪ᙞ Ш Ӝԛ↚㿁でЕᗟԛᵢᇎ乎ѣᴮԚЕᒪ Ш ⯴ ㈚ Ш 䂊䚙׃ѣ⊾ᠭ ᮽД哹䮶׃䜄⧁䠍அ⯴Е㯞ӄփ Ш ᱸ ᒪйॷғЕ䘳䌾ਮグ Ш ׃ ѣДѣ ᴮԚྸ᭻ Е䄗ᴦ㉗ぼޢ Е Ц ặ ・ ⊾㌺ МᇁᴮНভޣॷޣ Ш ࡍ ۩ㅢӂ ॷޣ Ч ︻作例︼ ﹁何尚之﹂ ︵橘有税﹃繪本故事談﹄巻七、正徳四年[ 1714 ]稱觥堂刊 本︶
かしょうし・えんえんし
何尚之・顔延之
何尚之 ︵ 382 ∼ 460 ︶と顔延之 ︵ 384 ∼ 456 ︶は二人とも背が低い 。 尚之は延之を猨と称し、延之は尚之を猿を称す。ある日、二人は一緒 に太子西池を遊覧し、途中道の人に延之が﹁二人はどちらが猿に似て いるか﹂ と尋ねた。道の人は尚之を指しながら ﹁似ている﹂ と言った。 延之が嬉しそうであった。しかし道の人はさらに﹁彼は猿に似ている が、君こそ真の猿なのだ﹂と付け加えた。 ︻出典︼ ቐҁᝑቐᮽ㗟 Ш 㘷 㙂уՇЕ㠽འᑮ亅ᔬҁቇླ⤄ Ш ӂ Ӱќ⸣ቅ Ш ቐ ҁᑮ䄸ᔬҁ⡨⥞Еᔬҁⴤቐҁ⡨⥪Еੂ䚀⑮འᆆ㾵⊖ Ш ᔬҁஅ䐥ӰӇ Ш ੴӂӰ䃦ղ⥪Е䐥Ӱቐҁ⡨ղЕᔬҁㅇЕ䐥Ӱᴦ Ш ᖲղ⥪㙩 Ш ੑ ѹⵔ⥪Е Ц ・ ᶄᔬ༳МਨНভпॷ Ш ࡍ۩ㅢӂॷ Чかしわぎのたね
栢樹子
﹁祖師の西来の意は何だろう 。﹂ と質問 。師は ﹁庭前の栢樹子 。﹂ と 答えた。曰く、 ﹁和尚は境を人に示さないでください。 ﹂と。師は﹁私 は境を人に示さない。 ﹂と答えた。 曰く、 ﹁祖師の西来の意は何だろう。 ﹂ と。師は﹁庭前の栢樹子。 ﹂と答えた。 ︻出典︼ அ Ш ྸᱥ⾌ᑡ㾵ּᝅ Еᑡᴦ Ш ᓣࢃṘᆆ Е ᴦ Ш ૂቐ㧡ሽູ⽰Ӱ Е金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 九 ᑡᴦ Ш ᡇуሽູ⽰ӰЕ ᴦ Ш ྸᱥ⾌ᑡ㾵ּᝅЕ ᑡᴦ Ш ᓣࢃṘᆆЕ Цᇁ ・ Ფ☕Мӊ⟾ᴹݹНভ Ш ⋿于ᑡ⌋ఙ Ч ︻作例︼ ﹁栢樹子﹂ ︵橘宗重著 、長谷川等雲繪 ﹃繪本寶鑑﹄巻五 、貞享四年 [ 1687 ]刊本、文政 1 年[ 1818 ]再刊本、平埜屋清三郎等梓行︶ ﹁栢樹子﹂ ︵某岡之繪﹃繪圖の林﹄巻下、元禄二年[ 1689 ]刊本︶
かしんだんき
軻親斷機
↓孟母断機 ︻出典︼ ਚࡍྩ۩Ш 䝈 ᆕ䔱∃ Ш ެ㡃䘇້Еᆕᆆቇᄿ䚀 Ш ⡨້䯈ҁӁЕᆕ∃ᴦ Ш ↚䶔ੴᡶԛቻ㲋ᆆҕЕѹৱ Ш 㡃 ᐸۃЕެᄿᡨѹ䋾Ӱ㺈䌙ҁӁЕ৾ᴦ Ш ↚䶔ੴᡶԛቻ㲋ᆆҕЕᗟᗏ㡃ᆮᇎҁۃЕެᄿᡨѹ䁣䉼Д ᨌ䇉䙨䘶Е ᆕ∃ᴦ Ш ⵔ ਥԛቻੴᆆ⸙ Е䙸ቻ Еᆕᆆᰙᆮ㙂↮ Ш ᆕ∃அᆮᡶ㠩 Е ᆕᆆᴦ Ш 㠠㤛ҕЕᆕ∃ԛ࠶ᯭެ㒊ᴦ Ш ᆆҁᔘᆮ Ш 㤛ੴᯭᯥₕҕЕᆕ ᆆᠲ Ш ᰜ ཋचᆮуᚥЕᑡӁᆆᙓ Ш 䙸ᡆ݈Еੑᆆ䄸 Ш ᆕ∃⸛⡨Ӱ∃ ҁ䚉Е ・ ᶄ♐М㫏≸Н ︻作例︼ ﹁軻親斷機﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄初編巻八、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かせんこ
何仙姑
何仙姑は八仙人の一人で、広州増城県︵広東省増城︶の何泰という 人の娘である。生まれててっぺんに六本の髪の毛しかない。唐の則天 武后の頃、何仙姑は雲母渓に住んでいた。十四、五歳の頃、何仙姑は 神人の夢を見た。神人は﹁雲母粉を服用すれば、体が軽くなり、不老 不死だ 。﹂と教えた 。目が覚めてからもはっきりと覚えている 。そこ で何仙姑は服用した。遂に嫁がないことを決心した。よく山谷の間を 行き来し、飛ぶように歩いていた。毎朝出かけて、夕暮れに戻ってく る。いつも山の果実を持ち帰って母親に渡す。後に修行のために徐々 に食事を口にしなくなり、言葉も異常となった。則天武后は使者を派 遣して迎えに来たが 、途中で行方不明となった 。景龍 ︵ 707 ∼ 709 ︶ 年間、何仙姑は白日昇天を果たした。天寶九年︵ 750 ︶、麻姑壇で現れ た 。 五色の雲の中に立っていた 。大暦 ︵ 766 ∼ 779 ︶年間 、広州の小 石楼でまた姿が現れた。刺史高翬がこのことを朝廷に報告した。 ︻出典︼ ԏဇ Ш ᔙ ᐔ ໔ค㑙 ⌦ྩҕЕ⭕㙂丸ᴿޣ∡Е ↜ᱸ Ш օ 䴨 ∃ⓠЕᒪॷӊ Ш མ⾔Ӱᮏᴦ Ш 伕䴨∃㊿ Ш ⮬ 䕋䓡у↱Еམ᱄⭐ Ш ഖ 佂ҁ Ш 䙸 䃉уჷЕᑮᖶּኧ䉭 Ш ެ 㺂ྸ休Е∅ᵓৱ Ш ᳤ ࡽᤷኧ᷒↮䚰 ެ∃Еᗂ╮䗕ぶ Ш 䃔䀶⮦ᑮЕ↜䚙ֵਢ䎪䰋ѣ Ш 䐥 ᗟཧৱЕᲥ嗃ѣ Ш ⲳᰛ᰽ԏЕཟሬғ䔿 Ш 㿁 ӄ哱ဇ Ш ӊ㢨䴨ѣЕཝѣ Ш ৾ ⨴䓡᯲ ᔙᐔ ቅ⸩⁉Е ࡰਨ儎㘢рެӁӄᵓЕ Ц᱄ ・ ⧁ь䋔 Мᴿ䊗ࡍԏޞ۩Н ভޣ Ч ︻作例︼ ﹁何仙姑﹂ ︵明・王世貞撰﹃有象列仙全傳﹄巻六、 萬暦二八年[ 1600 ] 刊本︶ ﹁何仙姑﹂ ︵明・洪應明撰﹃仙佛奇踪﹄巻二、萬暦三〇年[ 1602 ]刊 本︶ ﹁何仙姑﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄人物十一巻、萬暦三七 年[ 1609 ]刊本︶ ﹁何仙姑﹂ ︵林守篤編述﹃畫筌﹄巻四、正徳二年[ 1712 ]序、享保六 年[ 1721 ]刊本︶ ﹁何仙姑﹂ ︵渡邉瑛編﹃邊氏畫譜﹄ 、文化三年[ 1806 ]序刊本︶日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 一〇
かそうけんい
賈琮
褰
帷
後漢の賈琮は、字は孟堅といい、東郡聊城︵山東省聊城︶の人であ る。漢霊帝 ︵ 168 −189 在位︶ の頃、 賈琮が冀州 ︵河北省︶ の刺史であっ た。規則によると、刺史が驂駕︵添え馬の付き︶の馬車に乗ることが できる 。その馬車が赤い帷が垂れて中の様子が見えないようになる 。 しかし 、賈琮がいう 。﹁刺史の仕事は各方面の意見を聞き 、悪いこと を糾弾することですので、なぜ帷を下ろすでしょうか﹂と。御者に帷 を巻き上げるよう命じたという。 ︻出典︼ ᗂ╘ 䋾⩤ᆍᆕ Шᶧ䜗 㚀คӰЕ䵾ᑓᱸ⡨ᐔࡰਨЕ㡀ޮШ ۩䔀偸 個 Еම䎚ᑭ㼩 Ш 䘄 ᯲ᐔ⮂ Е⩤ҁ䜞 Ш ॽ䔀䀶ᴦ Ш ࡰ ਨ⮬䚖㿌ᔙ㚳 Ш ㌴ሕ㗄Еᴿਃමᑭ㼩 Ш 㠠ԛ᧟ດ҄Еѹળᗗ㘻㽦ҁЕⲴค㚔仞ㄜ 䴽 Еެ䄮㠝䚄㘻 Ш ᵑ仞䀙দ㏢ৱ ЕࡓӚ䏴እޫਃ Еᴿਮ㠿⩤⡨ࡰਨ Е ⩤ࡦ䜞䁀ެਃ⣶Е૮䀶䌜᮸䚄䠃 Ш ≇у㚀⭕Е᭻㚐⡨ⴒ䌀Е⩤⽰ Ш ֵᆿެ䋽ᾣ Ш ᤑ㦈ᮙ Ш ・ ᶄ♐М㫏≸Н ︻作例︼ ﹁賈琮褰帷﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄二編巻四、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かだいじんにいほうをうけるづ
華陀異人に醫法を受ける圖
︻作例︼ ﹁華陀異人に医法を受く﹂ ︵橘守国 ﹃繪本直指寶﹄巻三 、延享二年 [ 1745 ]刊本︶かだごきん
華陀五禽
華陀が考案した﹁五禽戯﹂という健身方法である。すなわち虎、 鹿、 熊、猿及び鳥といった五つの長寿の動物の動きを真似て、体を動かす ということである。 ︻出典︼ ᗂ╘ 㨥֍ᆍݹौ Ш ⋑ു 䆏Ӱ Е䙐ᮮ㏉ Ш 佀ᙝҁᮮ ЕᒪъⲴ↨ Ш ⥬ᴿ༥ᇯ ЕᱸӰԛ⡨ԏ Е㋴᯲ᯯ㰛 Ш 㲋 ࣇу䚄ᮮつ Е䠓⚮у䚄ᮮ㲋 Е 㤛Ⲳ⯴㎆᯲ޝ Ш 䠓 㰛ᡶу㜳㘻 Ш ѹ Ԛݾԛ䞈ᵃ哱⋮ᮙ Ш ᰙ䞿❗ᡶ㿰 Ш ഖࡩ㞯㜂 Ш ᣳࢨゃ㚐Е㤛൞㞮㛹 Ш ࡽ ᯭᡠ⒊⍍⯴ Ш ᰙ㙂㑡ਾ Ш ڻ ԛ⾔㟅ЕӊᰛࢫⲈ Ш жᴾ䯈ᒩᗟЕ⡨Ӱᙝ Ш ъ᚛ԛ䟡㿁ᾣЕᴯᬃ ㍥ᴮલҁ Еᮮᴾуਃ Еㄕ⇰ҁ Еᔙ䲫 ੩Ფᗔ֍ᆮ Е֍䄸Ფᴦ Ш Ӱ 儊 Ⅸᗍऔऋ Еռу⮬ֵᾫ㙩 Еऋᩌࡽぶ≙ࡽ䣭 Ш 㹶㜾⍷䙐 Ш ⯻ у㜳⭕ Е 䆢⥬ᡬ⁔ Ш ㍸ уᵳҕ Еਚҁԏ㘻⡨ቄᕋҁӁ Ш ⟀ ㏉单亝 Ш ᕋᥳ㞦儊 Ш ऋ䄮䰒ㇶ Ш ԛ≸䴙㘷Еੴᴿж㺉Еӊ⿳ҁᡨЕжᴦ㲄 Ш ӂᴦ咵 Ш п ᴦ⟀ Ш ᴦ⥞ Ш ӊ ᴦ匛 ЕӜ䲚⯴ Ш 䒅䏩 Ш ԛ⮬ቄᕋ Е儊ᴿуᘡ Ш 䎭֒ж⿳ҁᡨ Ш ᙗ 㙂⊍࠰ Еԛഖ㪍㊿ Ш 䓡儊䕋㙂឴伕 ЕᲤ᯳㺂ҁ Ш ᒪғॷ低 Ш 㙩ⴤ㚦᱄ Ш ⢏喈ᇂЕ ・ ᶄ♐М㫏≸Н ︻作例︼ ﹁華陀五禽﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄二編巻四、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶がだてんそく
畫蛇添足
楚の国で人が祭祀を行った。終わった後、主人がご褒美として舎人 たちに一杯の酒を賜った 。舎人たちは相談した 。﹁ 数人で飲むには足 りないが、一人で飲むには余裕だ。地面で蛇を描こう。先に完成した 人が飲む 。﹂ と 。ある人は先に完成した 。彼は左手に盃を持ち 、酒を 飲みながら、右手で続けて蛇を描く。 ﹁私は蛇に足を描ける。 ﹂まだ完 成していないうち 、もう一人が絵を完成した 。彼の盃を奪い 、﹁ 蛇は金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 一一 もともと足がないのに、 あなたはなぜ足を描けるだろうか。 ﹂と言った。 遂にその酒を飲んだ 。蛇のために足を描いた人は結局酒を失ってし まった。 ︻出典︼ ᾐᴿ⾖㘻 Ш 䌒ެ㡃Ӱᐫ䞈Е㡃Ӱ䄸ᴦ Ш ᮮӰ伨ҁу䏩 Ш жӰ伨ҁᴿ 低Е䄁⮡൦⡨㳽 Ш ݾᡆ㘻伨䞈ЕжӰ㳽ݾᡆ Ш ᕋ䞈ъ伨ҁ Ш ѹᐜᢁᤷ ᐫ Ш ᢁ⮡㳽 Ш ᴦ Ш ੴ㜳⡨ҁ䏩Еᵠᡆ Ш жӰҁ㳽ᡆ Ш ྠެᐫᴦ Ш 㳽 ര❗䏩 Ш ᆆᆿ㜳⡨ҁ䏩Е䙸伨ެ䞈 Ш ⡨㳽䏩㘻 Ш ㍸ӗެ䞈Е Ц МᡦുㆌН ভғ Ш 喀ㆌӂ Ч ︻作例︼ ﹁畫蛇添足﹂ ︵橘宗重著、長谷川等雲繪﹃増補繪本寶鑑﹄巻一、享保 年間[ 1716 ∼ 1736 ]刊本︶
かたんほこうのず
荷擔歩行圖
︻作例︼ ﹁荷擔歩行圖﹂ ︵信天翁月岡法橋雪鼎纂﹃和漢名筆金玉畫府﹄巻六・ 補遺、明和六年[ 1771 ]大野木寶文堂梓︶がちしょう
賀知章
賀知章 ︵ 659 ∼ 744 ︶は会稽永興 ︵浙江省紹興︶の人である 。子供 の頃から詩文がよくできる。科挙の試験に及第して進士になった。最 初は国子四門博士に任命され、さらに太常博士に栄転した。唐の玄宗 帝の開元十年︵ 722 ︶、兵部尚書張説の要請で、共同で六典及び文纂な どを編修したが 、何年が経っても完成できなかった 。開元十三年 ︵ 725 ︶、禮部侍郎 、集賢院学士 、皇太子侍讀に任命された 。後に太子 が亡くなった。挽郎を選抜された際、 賀知章は公平でないと主張して、 梯子を持って壁を登って抗議した。そのため工部侍郎に移された。知 章は詩文だけではなく、 草書や隷書も大変得意である。 彼の性格はあっ さりしていて、談笑が得意である。晩年にもっとやりたい放題で、自 ら﹁四明狂人﹂を号とし、また﹁秘書外監﹂という。玄宗帝の天寶三 年︵ 744 ︶、知章が病気で意識恍惚の状態に陥り、上奏文をだして故郷 の自宅を道観にし、自分も帰郷して道士になりたいと願い出た。帝が これを許し、知章が帰った後、間もなく病死した。 ︻出典︼ 䋶⸛ㄖ Шᴹび ≮㠾Ӱ Ш འ ᆆ⍍俢ᗭӷҁᰅᆡҕ Еቇԛᮽ䂔⸛ Ш 㠿 䙨༡ Еࡓᦾുᆆ䮶ঐ༡ Ш ৾䚭འᑮঐ༡ Ш Ⲽ䲮䊗ݾ൞ѣᴮᕋ㯜ҕ Е 䯁ݹॷᒪ Ш ޫ 䜞ቐᴮᕫ䃠⡨响↙⇵ؤᴮֵ Ш ྅䄁⸛ㄖ⾋ᴮଗཌⴙᗆ Д ⴙሕᗗਨ䏏ߢᴜⲼޛᴮ䲘 Ш ੂޣޮᮽ㈗ㅿ Ш ㍥ ᒪ Ш ᴮㄕуቧЕ ᗂ䕿འᑮቇ Е Ю ѣ⮛Яॷпᒪ Ш 䚭 䜞׃䜄 Ш ࣖ 䳼䌘䲘ᆮ༡ Ш ৾ ݻ ⲽའᆆ׃䆶Еᱥ↨ Ш ⦺ ᇍሷᶧᏳ Ш ᴿ䂊㺂ᗔ㗙㠙 Ш ќ⮏᯲䉭ਙ Ш р ⦞㠽ᇦ㠙ཌ㺂Ӂᇎⲱ᯲Ᏻр喁ᇤҁᡶЕࡓ Ш рԛ䵾ኧ▊ Ш у Ⅸ 㑷 Ш ਢ ⸛ㄖ䅑ᇐܶ⌞ Ш ഖ ྅ᴦ Ш ᱀ཟрᑓੑփ Ш ӊᯯ䄮ᑓ㠙փ Ш ᑓ 㲕䴌ੂ Ш 㙂ੑ㠙⮦փЕ䲑сӡੑփ᯲ኧр Ш 㗙㠙⽶㠙փ᯲ኧс Ш 䃖 䏩 මㇺּ㩿 Ш ⡨ 䇀ҁཝ㘻ҕ Е❬ᡆ᯲п⦱ Ш Ӕ㍸ਾ᯲ж㲋 Ерᴦ Ш ᵋ↙Ⅸྸᱥ Ш ᭻ அ㙩Е᯲ᱥᮋ Ш п ⦱᯲ኧр㺂Ӂ Ш ӊ ᯯᑓ䄮⾔ᓝ ᯲с㺂ӁЕኢᮽའᆆ㯞 Ш ᴿ䂊䜞䚮ᥳ䜄 Ш ⸛ ㄖᦞ䶔ݷ Ш ⡨ 䮶䲦ᆆᕕ䁪⳾ᓣЕ⸛ㄖ᯲ᱥԛụⲱ Ш 俌࠰⊰Ӂ Ш ᱸӰ૮చҁ Ш ⭧ ᱥ᭯ᦾᐛ䜞׃䜄 Ш ⾋ᴮⴙੂ↙ଗ Ш ד㡀ݻ䳼䌘䲘ᆮ༡Е䚭འᆆ䌉 ᇘ Д䢶䶈ݿ⾵ཝཡ↙ᦾ⾋ᴮⴙ Е Ю ѣ⮛Я⸛ㄖᙝ᭴ᴖ Ш 䃽ㅇ Ш ⮬ ᱸ䌘䚊Ⲽ۴ឋҁЕᐛ䜞ቐᴮ䲮䊗ݾ Ш ⸛ㄖҁᰅဇᆆҕ Ш 㠽 ⸛ㄖ⭐ 㿠Е䊗ݾᑮ䄸Ӱᴦ Ш 䋶ݺ䀶䄌ْݱ Ш ⵔਥ䄸仞⍷ҁ༡Еੴ㠽ᆆᕕ䴘 䰀 Ш 䜳уᙓҁ Ш жᰛу㿁䋶ݺ Ш ࡽ䝏⭕⸙Е⸛ㄖᲐᒪቚࣖ㑧䃋 Ш ❗ ᗟ㿅⃘ Ш 㠠㲕᱄⣸ᇘ Ш ৾で⾋ᴮཌⴙЕ䚞䚀䠂ᐭЕ䞿ᗂኢ䂔 Ш ऋ ᡆ ভ䔮 Ш ᮽуࣖ唔 Ш ૮ᴿਥ㿶Е৾㥿䳮ᴮ Ш ླӁ㘻בެ⢁㘦 Ш ∅㍏у日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 一二 䚄ᮮॷᆍ Ш ާ۩ሬҁ Е Юѣ⮛Яཟሬп䔿 Ш ⸛ㄖഖ⯻ᚃᜐ Ш ѹ р⯅䄁 ᓜ⡨䚉༡ Ш ≸䚺䜿䠂 Ш ԃᦞᵢ䜿ᆻ⡨㿶Ер䁧ҁ Ш ԃᤒެᆆޮ䁣䜄ᴴ ⡨ᴹび䜗ਮ俢 Ш ԃԚ׃佀Еᗗ䂟ԛ䌾㺂 Ш ⲽའᆆᐨс૮ቧอ࡛Е㠩 䜿❗ᒴ༳㍸ Ш ᒪޡॷޣЕ Цᗂ᱿ ・ ࢿᱡㅿМ㡀ᴮНভжⲴғॷѣ Ш ࡍ۩ㅢжⲴॷѣ Ч ︻作例︼ ﹁唐禮部尚書賀公知章﹂ ︵清・王齢撰、任熊繪﹃於越先賢像傳讃﹄巻 上、咸豊六年[ 1856 ]刊本︶ ﹁賀知章﹂ ︵﹃任渭長畫傳四種﹄於越先賢傳、中国古畫譜集成第四巻、 山東美術出版社、 2000 年︶
かちゅうくんし
花中君子
周 溓 渓の ﹃愛蓮説﹄ に、 ﹁蓮は花の君子である。 ﹂ という記述がある。 ︻出典︼ 㣧Еઞ◸ⓠᝑ㬤䃠Е㨀 Ш 㣧ҁ䳧䙮㘻ҕЕ⢗ѯ Ш 㣧ҁሂ䋪㘻ҕЕ㬤 Ш 㣧ҁੑᆆ㘻ҕЕ Ц᱄ ・ ᕫዧМདྷ㡠㡯Нভॷޣ ・ ὃ⢟䜞 Ч ︻作例︼ ﹁花中君子﹂ ︵葉九如編﹃三希堂畫譜大観﹄草蟲花卉大観、中国古畫 譜集成第十九巻、山東美術出版社、二〇〇〇年︶かつえんらげんしょうしち
活閻羅阮小七
活閻羅阮小七は﹃水滸伝﹄の中の豪傑の一人である。活閻羅は彼の 綽名である。阮小七はもともと石碣村の漁師であったが、後に梁山泊 に入った。 ︻出典︼ ੩⭞䚉 Ш 䙏 пㆽӰᱥᕕݺпㆽ Ш ൞☕ᐔ ặኧ⌀䛀⸩⻙ᶇօ Шᰛᑮਠ ᢉ冐⡨⭕ЕӜᴴ൞⌀ᆆ㼅ڐ⿷ऴ⮬Еᵢ䓡ဉ䱤 Ш ᕕ ݺпӰЕжㆽௐ ڐ൦འ↨䱤ቅӂ Ш жㆽௐڐ⸣ળӂ䜄䱤ቅӊ Ш жㆽௐڐ⍱䯱㖻䱤ቅ й Е Юѣ⮛Я䙏䱤ቅй乣ᡪж丸䚤ᰛ唇㇢ㅖ Ш 䓡рサㆽἀᆆᐹ㜂ᗹ Ш 㞦㒁㪍жồ⭕ᐹ㼏 Ш ᣀ䛙䳱㡯ⴠ㪍அ䚉 Ш ӂ ଛ Ш ֖ቁӊଛڐ⭐哲Е੩ ⭞ਡж㚨 Ш й 䜄 Ш ቅ⭕⢯ּཤ֖ه䃠䂧Е䱤ቅй䚉 Ш ᮏ ᦾᚋ㖠Еླ ᒴᱸуᴴ㿁Е ЦⲴӂॷഔᵢМ≪┮۩Нㅢॷӊഔ Ч ︻作例︼ ﹁活閻羅阮小七﹂ ︵明 ・陳洪綬繪 ﹃水滸葉子﹄ 、天啓六年 [ 1626 ]頃 の刊本︶ ﹁阮小七﹂ ︵清・陸謙畫﹃天 䟔地 䙰圖﹄不分巻、天保六年[ 1835 ]和 刻本︶ ﹁活閻羅阮小七﹂ ︵葛飾前北斎爲一筆 ﹃繪本水滸傳﹄ 、文政一二年 [ 1829 ]序、萬極堂梓︶ ﹁活閻羅阮小七﹂ ︵仮名垣魯文標記、 一雲斎国久畫﹃肖像水滸銘々傳﹄ 前編下、弘化五年[ 1848 ]不朽堂刊本︶ ﹁活閻羅阮小七﹂ ︵柳水亭種清著 、葵岡北渓畫 ﹃水滸畫傳﹄ 、安政三 年[ 1856 ]序、甘泉堂板︶かつげん
葛玄
葛玄、 字は孝先といい、 号は葛仙公という。丹陽句容︵江蘇省句容︶ の人である。左慈に師事して﹃丹液仙経﹄を授かった。かつて客と食 事中で変化のことに言及した 。客は曰く 、﹁ ぜひ先生にやっていただ きたい。 ﹂と。玄は曰く、 ﹁あなたはまさか慌てて見たいではないね。 ﹂ と 。すると口の中の飯を咳で出した 。皆大蜂になり 、約数百匹いる 。 客の身にくっついたが 、人を刺さない 。しばらくして玄は口を開け 、 蜂たちが再び口の中に戻った。噛んだら前の口の中の飯であった。ま た、石の人形を指すと歩かせる。蝦蟇や昆虫類や燕や雀を指すと踊ら せる。皆人間のようである。或いは客を招待し、冬は落花生、瓜、棗金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 一三 を出し、夏は氷を出す。また数十銭を人に井戸に投げさせ、器を持っ て井戸の上で銭を呼び出す。となると、先に投げた銭は次々と飛んで くる。客と酒を飲み、誰も盃を回さないが、盃が自ら回る。そして酒 を全部飲まないと、盃も動かない。 晋の武帝 ︵ 265 ∼ 290 在位︶は葛玄を招き 、﹁ 国民は雨がほしいが 、 あなたはできるか 。﹂と尋ねた 。葛玄は ﹁簡単だ﹂と答えた 。そこで 廟の中で符を書いた。しばらくすると、大雨が降り始めた。 葛玄はかつて呉の主君に仕え、別々船に乗り出発した。しかし三江 口のあたりで風に遭遇した。多くの船が沈没してしまい、葛玄の船も 行方不明となった 。呉の主君はため息をしながら 、﹁ 葛玄が道の術を 持っているのに 、やはり免れないか 。﹂ と呟いた 。突然葛玄が水面を 歩いてきた 。酔っぱらい姿で主君の前に来て 、﹁昨晩伍子胥に無理や り留められて酒を飲まされた 。それで陛下を待たせた 。﹂ と謝った 。 ある日、会稽をぶらぶら回ったところで、ある商家が海から帰って来 た。一つの神廟を通り、廟の主事が一通の手紙を葛玄に渡すように頼 んだ。言い終わると、 手紙を船に投げ、 帰ってからすぐ葛玄に渡した。 葛玄は手紙を開けてみると 、すなわち東華山童君の手紙である 。﹁ 太 極左官仙書﹂と書いてある。葛玄はかつて西峯の石壁の石臼で薬を擂 り、一粒の粟をこぼしてしまった。丁度一羽の鳥が通り過ぎて、粟を 食べた。その鳥も不老不死となった。今でも夜静かになったとき、そ の鳥はまた擂で臼を叩くような鳴き声をする。名付けて﹁搗薬鳥﹂と いう。 仙人琴高は葛玄が道を得たのを聞き、二匹の鯉に乗って東海から会 いに来た。葛玄と酒を飲んで、 二人とも酔っぱらい、 白雲に寝てしまっ た。目が覚めると、二匹の鯉は石になってしまった。代わりに葛玄は 琴高に二羽の鶴を贈り、帰した。鯉の石は今日でも残っている。 かつて客が葛玄について舟の旅をした。嚢の中を見て、十数の符が ある。 客は ﹁この符は効くだろうか。 ぜひ見せてください。 ﹂と言った。 そこで葛玄はすぐ一つの符を取り出して、水中に投げた。符は水に流 れて行った 。客は言った 。﹁ 普通の人が投げたら同じようになるだろ う 。﹂と 。葛玄はもう一つの符を取って投げた 。今回は符が水の流れ に遡って行った。 ﹁今度はどうだ。 ﹂と葛玄が言った。客は﹁今度は違 うね 。﹂と感心した 。葛玄はさらに一つの符を取り出して投げた 。そ の符は下りもせず、上りもせず、しばらくすると、先の二つの符は中 流に集まり、最後に、三つの符がそろって葛玄の手に戻った。 また、 水辺に大きい魚を売っているのを見た。葛玄は主人に頼んだ。 ﹁私はこの魚を借りて河伯のところに行かせたいのだ。 ﹂と 。 主人は ﹁魚 はすでに死んだ 。﹂と言った 。﹁かまわないよ 。﹂ と 。 すると 、丹書を 魚の口に入れて、水に投げた。魚は生き返って泳いで行った。 ︻出典︼ 㪑⦺ Ш ᆍ ᆓݾ Еᗔᐜݹ᭴ғѯ⏨ԏ㏉ Е㠽ᇘቃ伕䀶 Ш 䇀ौҁӁ Ш ᇘᴦ Ш Ӂ ⮘ Ш ݾ⭕֒жӁ Ш ⢯ᡨ㘻Е⦺ᴦ Ш ੑᗍ❗Ⅸᴿᡶ㿁҄Еѹ ళਙѣ伥 Ш ⴗ䇀ཝ㴸 Ш ᮮⲴⲼ䳼ᇘ䓡 Ш Ӝ у㷡Ӱ Еѻҁ Ш ⦺ ѹᕫਙ Ш 㴸Ⲽ休ޛЕ⦺ೲ伕ҁЕᱥ᭻伥ҕЕ৾㶜㷼䄮㺂㸨⠋䳶ҁኢ Ш ֵ 㡔 ㇶྸӰ Еߢ⡨ᇘ䁣⭕⬒Ἅ Ш ཅ㠪≭䴠 Е৾ԛᮮॷ䥘ֵӰᮙᣋӋѣ Е ⦺ԛжಞӄӋрલҁ Ш 䥘жж休ᗔӋ࠰Е⡨ᇘ䁣䞈 Ш ❗ Ӱ۩ᶥ Ш ᶥ 㠠 㠩ࢃЕྸᡌуⴗ Ш ᶥ уৱҕЕ్㠽੩ѱආ⁉р Ш 㿁 ֒䄁䴞ൕӰ Ш ᑓ ᴦ Ш Ⲵဉᙓ䴞 Ш ምਥᗍ҄Е⦺ᴦ Ш 䴞᱉ᗍ㙩Еѹᴮㅜ㪍⽴ѣЕ丹ࡱ䯉 Ш ཟ ൦Ნߛ Ш ཝ 䴞⍷Еᑓᴦ Ш ≪ ѣᴿ冐҄Е⦺ᗟᴮㅜᬨ≪ѣЕ举㠴ᴿཝ 冐ᮮⲴ乣 Ш ֵӰ⋱ҁЕ Ц᱿ ・ ᒨሬМᩒ⾔䁎Нভж Ч 㪑⦺ Ш ᆍ ᆓݾЕѯ䲳 ਛᇯӰЕ㲕ᴦ Ш 㪑ԏޢЕᗔᐜѯ⏨ԏ㏉Е Юѣ ⮛Яԏޢ్ᗔ੩ѱ㡯㺂Е㠩п⊕ਙ䙽仞Е㡯ཐ┸⋈Еԏޢ㡯Ӝу⸛ ᡶ൞ Е੩ѱ఼ᴦ Е㪑ԏޢᴿ䚉у㜳ރ↚䑦ᇵ Еᘳ㿁ԏޢ≪р↛ּ Е ᰙ㠩 Ш ቐ ᴿ䞈ខ Е䅓ᴦ Ш ᱞ Ճᆆ㜛ᕭ䚶⮏伨 Ш ᱥԛቾ䲑с Е Ц ᱄ ・
日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 一四 なった。その秘術を以て弟子鄭隠に伝授した。葛洪はまた隠に師事し て、その道術を身に付けた。後に南海太守上党鮑玄に師事した。玄は 内学に長ける。洪を大変気に入り、娘を嫁がせた。葛洪は玄の学問を 広げながら、医者の業をしていた。著書は内容が豊富で、文章が精密 である。晋の成帝 ︵ 326 ∼ 342 在位︶ の咸和 ︵ 326 ∼ 334 ︶ の 初めごろ、 司徒王導が葛洪を主簿に任用した。 後に散騎常侍などに抜擢されたが、 皆付かず、交趾に丹砂が出ると聞き、自ら句 屚 令になりたいと申し出 た。帝は洪が高位の官僚のため、許可しなかった。洪は﹁名誉のため ではなく 、彼の地に丹砂が出るからです 。﹂と説得し 、帝はようやく 認めた。洪は早速子供たちを連れ、一緒に行った。広州に着くと、刺 史鄧嶽が洪を留めて行かせない。仕方なく洪は羅浮山にとどまり、丹 薬を作ることにした。羅浮山に七年間滞在して、悠々自適で、著書に 専念し、 内外篇を完成した。凡そ百十六篇になる。名付けて﹃抱朴子﹄ という 。ある日 、突然鄧嶽に手紙を送り 、﹁当分の間遠いところに放 浪して師を訪ねる 。即刻出発する 。﹂という 。嶽は慌てて別れに行っ たが、洪は日当たりのところに座り、眠るように亡くなった。八十一 歳であった。 ︻出典︼ 㪑⍠ Ш ᆍぐᐓЕѯᾀ ਛᇯӰҕЕ⾌㌱ Ш ੩ཝ危㠐Е⡬ᛂ Ш ੩ᒩᗂޛ᱿ Ш ⡨䛫䲫འᆾЕ⍠ቇླᆮ Ш ᇬ 䋝 Ш 䓢㠠Ն㯠 Ш ԛ 䋵㍏ㅼЕདྷ䕈ሡᴮ䃜㘈 Ш 䙸ԛ݈ᆮ⸛ЕᙝሗⅨ Ш ❗ ᡶᝑ㘡Еу⸛ἀቶᒴ䚉 Ш ᪪ 㫨喈Е⡨Ӱ ᵞ䁛 Ш уླῤЕ䮿䮶ᦹ Ш ᵠ ్Ӛ⑮Е᯲低ᶣኧ㿁ᒲ䚉Д 䜣ᮽᬝ Ш ⴤᬀ㙂ᐨ Ш ❗ᡶ䀶Еᱸᡌቁᴮஅ㗟 Ш у䚖ᮮॹ䠂 Ш ፄᎽ߈⎿ Ш ᵕ ᯲ ᗻᗍ Е䙸ガ㿳ޮ㊃ Ш ቚ ླ⾔ԏቄ佀ҁ⌋ Еᗔ⾌⦺ ੩ᱸᆮ䚉ᗍԏ Ш 㲕 ᴦ㪑ԏޢЕԛެ䦀ѯ⾋㺉ᦾᕕᆆ䝣䳧 Ш ⍠ቧ䳧ᆮ Ш ᚿᗍެ⌋✿Еᗂᑡ Ӂ⎭འᆾр唞 凇⦺ Ш ⦺ Ӝޝᆮ Ш 䘼খሽּЕ㿁⍠䠃ҁ Ш ԛྩ⍠Е ⍠۩⦺ᾣ Ш ㏒㐪䟡㺉Еࠗᡶ㪍 Ш Ⲽ㋴㾾ᱥ䶔 Ш 㙂ᢃㄖሂⷱЕ Юѣ⮛Я ⧁ь䋔Мᴿ䊗ࡍԏޞ۩Нভ Ч ︻作例︼ ﹁葛玄﹂ ︵明 ・王世貞撰 ﹃有象列仙全傳﹄巻四 、萬暦二八年 [ 1600 ] 刊本︶ ﹁葛孝先﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄人物十一巻、萬暦三七 年[ 1609 ]刊本︶
かつげんめしをはいてはちをつくる
葛玄吐飯作蜂
↓﹁葛玄﹂ ︻作例︼ ﹁葛玄吐飯作蜂﹂ ︵保井恕庵編述 、大森捜雲子筆 ﹃畫本福寿海﹄ 、享 保十九年[ 1734 ]銅駝坊書堂泉屋等刊本︶かつげんなみのうえをあゆむ
葛玄歩濤上
↓﹁葛玄﹂ ︻作例︼ ﹁葛玄歩濤上﹂ ︵橘守国﹃繪本鶯宿梅﹄巻三、元文五年[ 1740 ]植村 藤右衛門刊本︶かつこう
葛洪
葛洪︵ 284 ∼ 363 ︶、字は稚川といい、句容︵江蘇省句容︶の人であ る。子供のころから勉強が好きで、自ら薪を伐採して紙や墨と交換す る。夜は習字や朗読などをする。遂に儒学を以て名声を上げた。欲が 少なく、遊ぶのは好きではなかった。一人でぼうとしていて、名利に は興味がない。閉じこもって社交したことがない。時には書物を探し たり、討議したりする。どんなに遠くても必ず探しに訪ねて行く。と りわけ神仙の道術が好きである 。祖玄に師事して道を学んで仙人と金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 一五 ᒨሬ㿠ਁ Ш 㯜⍠ᢃുਨЕ䚮⡨ᮙ偄ᑮ׃ Ш 乎ཝ㪍֒Е⍠ര䗣у ቧЕԛᒪ㘷Ⅸ❿ѯԛ⽾䚆༳Е㚔Ӛ䏴࠰ѯ Ш ≸⡨ਛነԚЕᑓԛ⍠䋽儎 Ш у䁧Е⍠ᴦ Ш 䶔Ⅸ⡨ῤ Ш ԛᴿѯ㙩ЕᑓᗔҁЕ⍠䙸ሽᆆဠا㺂 Ш 㠩 ᔙ ᐔ Ш ࡰਨ䝝Ᏻ⮏у㚳ৱЕ⍠ѹ↘㖻⎤ኧ䦀ѯЕᏳ㺞㼒ᶧᇎའᆾ Ш ৾ 䗣 уቧЕᏳѹԛ⍠ݺᆆᵑ⡨䁎ᇚ৻䔃Е൞ኧゃᒪ Ш ݠ䚀䯈佀 Ш 㪍䘦у䕕Е ެ㠠ᓅᴦ ШЮ ѣ⮛Я ь݈ᗈ⸛ᵃ㟰ઞᆊ Ш 㧡ؗ⾔ԏҁᴮЕуռཝ㙂ㅇҁ Ш ৾ሽ䅍⇶ⵔ↙ Е᭻Ҿᡶ㪍ᆆ䀶哹ⲳҁӁ Ш ᴦޝㇽ Еެ低俷䴒䙐䠁 Ш ᴦཌㇽЕཝࠗޝཌжⲴжॷޣㇽЕ䴌у䏩㰅䄮ኧ Ш ъⅨ㐎ҁ䠇१ Ш ԛ⽰䆎㘻 Е㠠㲕ᣧᵪᆆ Ш ഖԛᴮ Е Ю ѣ⮛Яᗂᘳ㠽Ᏻ⯅Ӈ Ш ⮬䚖㺂 ቁᑡ Ш ࢁᵕⲲЕᏳᗍ⯅ Ш ⤲⤳ᖶ࡛Е㙂⍠ආ㠩ᰛѣ Ш ݶ❬㤛㙂ঈЕ Ᏻ㠩 Ш 䙸у㿁ЕᱸᒪޡॷжЕ㿌ެ亅㢨ྸ⭕ Ш 儊ӜḊ䔕Еᬝቮޛἰ Ш ⭐䕋 Ш ྸグ㺙 Еьԛ⡨ቮ䀙ᗍԏৱ Е Ц ・ ᡵ⦺喗ㅿ М᱿ᴮНভй ॷӂ Ш ࡍ۩ㅢॷӂ Ч ︻作例︼ ﹁葛洪﹂ ︵清・任熊繪﹃列仙酒牌﹄ 、咸豊四年[ 1854 ]刊本︶ ﹁葛仙煉丹﹂ ︵王念慈編﹃当代名畫大観﹄初集第三冊、中国古畫譜集 成第十五巻、山東美術出版社、 2000 年︶
かつせんばおうていろく
活閃婆王定六
活閃婆王定六は ﹃水滸伝﹄の中の一人の豪傑である 。﹁ 活閃婆﹂は 綽名である。もとは父親と一緒に揚子江の畔で居酒屋を営んだが、後 に梁山泊に入った。 ︻出典︼ уཐᱸ Ш ᗂ䶘䎦࠰жㆽᗂ⭕ּ Ш ⵁᕫ丼ᤒ䚉 Ш ቅӰѻ㚔ଛଛཝ Ш ਠᱥ❗㐙уᴴᤒ䆎 Ш ቅӰဉ⧁ Ш ᧈ㺂ㅢޣЕഖ⡨䎦䐩ᗍᘡ Ш Ӱ 䜳ௐቅ Ӱڐ⍱䮹ၼ⧁ᇐޣЕ ЦⲴӂॷഔᵢМ≪┮۩Нㅢޣॷӊഔ Ч ︻作例︼ ﹁王定六﹂ ︵清・陸謙畫﹃天 㴧地 煞 圖﹄不分巻、天保六年[ 1835 ]和 刻本︶ ﹁活閃婆王定六﹂ ︵仮名垣魯文標記、 一雲斎国久畫﹃肖像水滸銘々傳﹄ 前編下、弘化五年[ 1848 ]不朽堂刻本︶ ﹁活閃婆王定六﹂ ︵泉龍亭是正編、月岡芳年筆﹃繍像水滸銘々傳﹄三 編、大橋堂梓、小田原屋又七板︶かつほうしきょ
葛豐刺擧
前漢の諸葛豊は、 字が少季といい、 瑯琊︵山東省瑯琊︶の人である。 性格が剛直で、自分の思考をもって行動する。そのため、漢元帝︵前 49 −前 33在位︶が彼を司隷校尉︵検察官︶に抜擢した。彼が犯罪者を 検挙するのにどんな人にも遠慮しなかった。帝が彼を評価し、さらに 彼に加俸したという。 ︻出典︼ ࢃ╘ 䄮㪑䊆 Ш ᆍቇᆙ Ш ⪥⩀Ӱ Еԛ᱄㏉⡨䜗ᮽᆮ Е⢯ Еݹᑓ ᬘ⡨ਮ䳮ṗሿЕࡰᬝ❗ᡶ䚵ЕӢᑡ⡨ҁ䃔ᴦ Ш 䯈䰀 Ш 䙘䄮㪑Ерి ެㇶ Ш ࣖ〟ݿ⾵ཝཡЕ ・ ᶄ♐М㫏≸䳼⌞Н ︻作例︼ ﹁葛豐刺擧﹂ ︵下河邊拾水圖解、 吉備祥顕考訂﹃蒙求圖會﹄初編巻四、 享和元年[ 1801 ]序刊本、河内屋等發行︶かつゆ
葛由
葛由は、羌人である。周の成王の頃、よく木彫りの羊を作って売っ た。ある日、 羊に乗って蜀に入った。蜀の王侯貴族が彼を追いかけた。 彼は綏山に上がった。綏山は峨眉山の南西にあり、極めて高い。つい て行った人たちは二度と戻らなかった 。皆は道を得て仙人となった 。 山の上に桃がある。故に﹁もし綏山の桃を得れば、仙人になれなくて日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 一六 も十分自慢できる 。﹂ということわざがある 。山の麓に建った祠は数 十か所ある。↓ 葛由仙人 ︻出典︼ 㪑⭧㘻 Ш 㗂ӰҕЕઞᡆ⧁ᱸ Ш ླࡱᵞ㗀䌙ҁЕжᰛ偄㗀㙂ޛ㾵㴶 Ш 㴶 ѣ⧁ץ䋪Ӱ䘳ҁ Ш р㏅ኧЕ㏅ኧ൞ጞⴿኧ㾵 Ш 儎 ❗ᾫҕЕ䳞ҁ㘻у ᗟ䚺 Ш Ⲽᗍԏ䚉Е᭻䠂䄰ᴦ Ш ᗍ㏅ኧжṹ Ш 䴌 уᗍԏ Ш Ӝ䏩ԛ䊠Еኧ с⾖ᮮॷ㲋ӇЕ Ц╘ ・ ࢿੇМࡍԏ۩Нভр Ч ︻作例︼ ﹁葛由﹂ ︵明・王世貞﹃有象列仙全傳﹄巻一、萬暦二八年[ 1600 ]刊 本︶ ﹁葛由﹂ ︵林守篤編述﹃畫筌﹄巻四、正徳二年[ 1712 ]序、享保六年 [ 1721 ]保壽堂・養心堂刻本︶ ﹁葛由﹂ ︵寂照主人月僊寫並題﹃列仙圖賛﹄一、天明四年[ 1784 ]寂 照寺蔵板︶ ﹁葛由﹂ ︵﹃雅興筆意畫圖絶妙﹄上 、安永三年 [ 1774 ]序 、明和九年 跋刊本︶ ﹁葛由﹂ ︵葛飾爲斎繪﹃萬物圖解爲斎畫式﹄二帙、元治一年 [ 1864 ]序、寶集堂蔵板︶
かつゆせんにん
葛由仙人
↓﹁葛由﹂かつら
桂
桂は 梫 木の一種である。数種類がある。 ︻出典︼ Ṹ Ш ỡᵞҕЕᮮ Ш ᡌ ⲳᡌ哹 Ш ᡌ㌻ᡌ㍡Е哹㘻㜳㪍ᆆ Ш ↚㣧࠰ᡌ ӊ࠰ Ш ᡌ䠃㠰Еᗇӂп࠼ Ш ⬙Е৾ᴿжつᆙ㪍㣧ЕӜᴿ∅ᴾж䯁 㘻 Ш Ӝᴿᱛ㙂㪍㣧㘻 Ш俏Ⲽу᯲、 Е Ц ᱄ ・ ⧁൱ Д⧁ᙓ㗟 Мпᢃ ൌᴹН㥿ᵞॷӂভ Ч ︻作例︼ ﹁桂花﹂ ︵明・王圻、王思義撰﹃三才圖會﹄草木十二巻、萬暦三七年 [ 1609 ]刊本︶ ﹁桂﹂ [鄭培筆] ︵副孟義編 ﹃宋紫石畫譜﹄巻下 、明和二年 [ 1765 ] 序刊本︶かてき
貨狄
貨狄は黄帝の臣下で、舟を発明した人物である。 ︻出典︼ ᱉ᴦ Ш ࡩᵞ⡨㡕 Ш ᵞ⡨⃓ Е㡕⃓ҁ Ш ԛ ☕у䙐 Еьᵢᴦ Ш ާ 啉 Д 䋞⣺֒㡕Еާ啉Д䋞⣺ 哹ᑓӂ㠙Е Ц ・ ↆ䲳䂘М㰓ᮽ五㚐Нভй ॷж Ч ︻作例︼ ﹁貨狄﹂ ︵橘宗重著、 長谷川等雲繪 ﹃繪本寶鑑﹄ 巻四、 貞享四年 [ 1687 ] 刊本、文政 1 年[ 1818 ]再刊本︶ ﹁貨狄﹂ ︵某岡之繪﹃繪圖の林﹄巻上、元禄二年[ 1689 ]刊本︶かとう
賈島
賈島︵ 779 -843 ︶、 字は浪仙といい、 范陽︵河北省涿州︶の人である。 島は和尚であった。一説は、初めは和尚で、無本という戒名であった が、東都に来た時、僧侶を禁ずる法令があるので、午後になると外出 禁止であった。そのため、島は詩を作り悲しんだ。韓愈が彼を不憫に 思い 、作文を教えた 。遂に僧侶を辞め 、科挙の試験を受けたという 。 もう一説は島は最初都にやってきて科挙の試験を受けたが、うまく行 かず、和尚になった。戒名は無本といい、法乾寺に住み着いて、無可 とよく唱和した。島は詩吟の時に、まわりの事に気が付かず、ある日金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 一七 驢馬に乗って詩句を考えている最中、対面から京兆尹劉棲楚の行列が やってきた。島は回避するのを忘れ、ついに警察沙汰になった。一晩 牢獄で過ごし翌日に釈放された。それよりもっとも有名な逸話は﹁推 敲﹂である 。島が驢馬に乗って ﹁鳥宿池中樹 、僧敲月下門 。﹂との詩 句を得たが、また﹁敲﹂ ︵ノック︶より﹁推﹂ ︵押す︶の方がいいかも しれないと思い、身振りをしながら迷っている最中、京兆尹韓愈の行 列とぶつかった 。島が韓愈の前まで引き連れられ 、わけを聞かれた 。 となると、韓愈は﹁敲﹂の方がよろしいとアドバイスをした。さらに 韓愈は島を連れて帰った。二人はともに詩を議論し、数日も滞在した という。 なお、玄宗帝が法乾寺を私服訪問に行った際、島が鐘楼の上で詩吟 していた。玄宗帝がそれを聞き、鐘楼に上がった。島は腕を組んで帝 を睨んで、詩集を手に﹁あなたはなぜこれができるか﹂といった。帝 が鐘楼を降りてから、島ははじめて玄宗帝だと分かった。慌てて降り て帝に謝罪した。帝は島を遂州の長江簿に任命した。そのため後に島 はよく﹁賈長江﹂と呼ばれるようになった。島は最後に普州司倉在任 中で亡くなった。年は六十五歳であった。 ︻出典︼ ጬᆍ⎠ԏШ 㤹䲳ӰЕࡓ⡨⎤ኖШ ❗ᵢЕּᶧ䜳ᱸШ ⍑䲳Ԛ⾷ܝШ ॾ ᗂуᗍ࠰ Еጬ⡨䂟㠠ۭ Ш ំҁ Ш ഖᮏެ⡨ᮽ Е䙸ৱ⎤ኖ Ш 㠿䙨༡ Е ⮬ެ㤜 Ш 䴌 䙘ٲޢ䋪Ӱ Ш Ⲽуҁ㿰ҕЕжᰛ Ш 㿁 Ӣݼቯ Ш 䐞 傘у 䚵 Ш ే䂦ҁ Ш ѻѹᗍ䠁Е㍥㠿уѣㅢ Ш ᮽᇍᱸ Ш ආ 休䅍 Ш 䋬䮭⊕ѱ㉵Е ᴹ᱂ࡓ Ш ԛᲤᐔਮؿ৹䔃䚭ਮᡬᵠળ Ш ঈᒪޣॷӊЕ Цᇁ ・ ᇁ⽷ М᯦ ᴮНভжⲴйॷޣ Ш ࡍ۩ㅢжⲴж Ч 䋾ጬ Ш ᆍ䯢ԏЕݹૂѣ Ш ݹ ⲳቐ䕋 Ш ጬ⦞䇀Ṳޛܱ Ш ԛ ᅂ⎤㢭Е䴌 㺂ආ⎮伕 Ш у䕕Е్䐞傘ᕫ㬁 Ш ₡ᡠཟ㺘Еᱸ、仞↙২ Ш 哹㩿ਥ ᦹЕጬᘳᴦ Ш 㩳㩿┵䮭ᆿЕᘍ䠃ެ⋌ਙ㠪 Ш ≸䏩ж㚥 Ш ᶩуਥᗍ Ш у⸛䓡ҁᡶᗔҕЕഖҁシཝӢݼࢿἨᾐ Ш 㻡 㒡жཋ㙂䠁ҁЕ్৾䙽 ↜ᇍⲽᑓ᯲ᇐ≪㋴㡃 Ш ጬ ቚ㚼פ Ш р 䁓ҁ ЕԌᰛᴿѣᰞ Ш Ԛ㠽жᇎ Ш 䅡ৱѹᦾ䮭⊕㑙ሿ Еぃ䚭Ფᐔਮؿ㙂ঈ Е Ц ・ ⧁ᇐؓ М䅬䀶Н ভॷж Ч ︻作例︼ ﹁賈島﹂ ︵明・天然撰﹃歴代古人像讃﹄ 、弘治一一年[ 1498 ]刊本︶ ﹁賈島﹂ ︵明 ・王圻 、王思義撰 ﹃三才圖會﹄人物六巻 、萬暦三七年 [ 1609 ]刊本︶ ﹁賈島﹂ ︵橘宗重著、 長谷川等雲繪 ﹃繪本寶鑑﹄ 巻二、 貞享四年 [ 1687 ] 刊本、文政一年[ 1818 ]再刊、平埜屋清三郎等刊本︶
かに
蟹
↓﹁無腸公子﹂ ︻作例︼ ﹁蟹﹂ [狩野養拙筆] ︵信天翁月岡法橋雪鼎纂 ﹃和漢名筆金玉畫府﹄ 巻四、明和八年[ 1771 ]大野木寶文堂梓︶ ﹁蟹﹂ [守政筆] ︵法眼春卜一翁 ﹃和漢名畫苑﹄ 五巻、 寛延二年 [ 1749 ] 序、大野木寶文堂梓︶ ﹁蟹﹂ ︵﹃ 繪本初心柱立﹄ 一、 正徳五年 [ 1715 ] 新板、 寶暦一一年 [ 1761 ] 再刻、小林喜右衛門等刊行︶がび
畫眉
畫眉は鶯に似ているが、 やや小さい。その眉が描いたようで﹁畫眉﹂ と呼ばれるわけである。鳴き声がいい。 ︻出典︼ ⮡ⴿղ句㙂ቅ Ш 哹唇㢨 Ш ެ ⴿྸ⮡ Ш ᭻ᴦ⮡ⴿЕᐝ᯲֒㚨ྸⲴ㡂Е Ц᱄ ・ ⧁൱Д⧁ᙓ㗟МпᢃൌᴹН匛⦮ӂভ Ч日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 一八 ︻作例︼ ﹁畫眉﹂ ︵明 ・王圻 、王思義撰 ﹃三才圖會﹄鳥獣二巻 、萬暦三七年 [ 1609 ]刊本︶ ﹁畫眉﹂ ︵﹃繪本初心柱立﹄二 、正徳五年 [ 1715 ]新板 、寶暦一一年 [ 1761 ]再刻、小林喜右衛門等刊行︶
がびさん
峨眉山
峨眉山は嘉定州の峨眉県にある。峨眉山は三つの山があり、いわゆ る大峨、中峨、小峨という。大峨は雲の中まで聳える。仏典による と、普賢大士の現れるところである。 ︻出典︼ ጞⴿኧ൞ᆿ㑙⮂ Ш ৱᡆ䜳ॹ䠂Е❬、ᰛ► Ш ᵑ 㿁ޟኧጏ Ш ྸ ጞⴿ✿Е Цᗂ内 ・ 䝾䚉ݹМ≪㏉⌞Нভпॷޣ Ч ጞⴿኧ൞ిᇐᐔ ጞⴿ㑙Еጞⴿᴿпኧ Ш ⡨жࡍЕᴦཝጞ ѣጞ ቅጞЕ ѣጞД ቅጞⲼ۩ᴿ䚀㘻ЕԀуᗟᴿ䐥Е᜕ཝጞެ儎䴺Е⡨֑ᴮᡶ䁎Е Ფ䌘ཝ༡⽰⨴ҁᡶЕ Ц᱄ ・ ⧁൱Д⧁ᙓ㗟МпᢃൌᴹН൦⨼ভॷж Ч ︻作例︼ ﹁峨眉山圖﹂ ︵明・楊爾曽﹃海内奇観﹄巻八、萬暦三七年[ 1609 ]刊 本︶ ﹁峨眉山圖﹂ ︵明・王圻、王思義﹃三才圖會﹄地理十一巻、萬暦三七 年[ 1609 ]刊本︶ ﹁峨眉﹂ ︵﹃名山圖﹄ 、崇禎六年[ 1633 ]墨繪斎刻本︶ ﹁峨眉山﹂ ︵橘有税圖畫﹃唐土訓蒙圖彙﹄巻二、享保二年[ 1719 ]寶 文堂蔵板︶がびさんげつかのず
峨眉山月歌圖
﹁峨眉山月歌圖﹂は唐の李白の七言絶句 ﹃峨眉山月歌﹄によるもの である。 ︻出典︼ ጞⴿኧᴾঀ䕠、Еᖧޛᒩ㗂⊕≪⍷ЕདྷⲲⓠੇпጳЕᙓੑу㿁с ᐔЕ ЦᶄⲳКጞᎁኧᴾↂЛ Ш ᱄ ・ ᶄᬶ嗃М䂟䚮Нভй Ч ︻作例︼ ﹁峨眉山月歌意﹂ ︵渡邉瑛編﹃邊氏畫譜﹄ 、文化三年[ 1806 ]刊本︶ ﹁峨眉山月圖﹂ ︵晩香散人内藤道有撰、 橘守国繪﹃和漢新圖扶桑畫譜﹄ 巻三、享保二〇[ 1735 ]植村藤右衛門梓行︶ ﹁峨眉山月歌﹂ ︵鈴木芙蓉繪﹃畫本唐詩選﹄二編巻一・七言絶句、寛 政元年[ 1789 ]自序・跋刊本、文化一一年[ 1814 ]再刊、嵩山房刊 行︶かひしきょう
下
邳
圯
橋
↓﹁張良﹂ 、﹁黄石公・張良﹂ ︻作例︼ ﹁下 邳 圯橋﹂ [かひしきょう] ︵玉翠斎藤原義包圖﹃畫圖撰要﹄ 、明和 三年[ 1766 ]須原屋三郎兵衛等刊行︶かびん
花瓶
︻作例︼ ﹁花瓶﹂ [徐煕筆] ︵法眼春卜一翁 ﹃和漢名畫苑﹄ 初巻、 寛延二年 [ 1749 ] 序、大野木寶文堂梓︶かふうさんしゅく
華封三祝
堯は華という地方を視察する。華封の人は﹁あ、聖人だ。お祈りさ せてください。聖人が長壽できるように﹂ と言った。堯は ﹁辞退する﹂ と答えた。 ﹁では聖人に富ができるように﹂と。堯はまた﹁辞退する﹂金城学院大学論集 人文科学編 第16巻第 1 号 2019年 9 月 一九 と答えた 。﹁では 、聖人に男の子が沢山出来るように﹂と 。堯はやは り﹁辞退する﹂と答えた。封の人は﹁壽、富、男の子は皆が欲しいも のだが、なぜあなただけが欲しくないのか﹂と聞き、堯は﹁男の子が 多いと 、恐怖も増える 。富が多いと 、トラブルも増える 。長壽だと 、 恥も増える。この三者は徳の修行にはならないので、辞退した﹂と答 えた。封の人は﹁はじめにあなたは聖人だと思ったが、 実際は君子だ。 神様が民を生み、必ず仕事を与える。男の人が多いと、仕事を与えて 何が怖いのだ。富が多いと、人に分けて何がトラブルになるのだ。聖 人が素朴な生活をして、天下が安定であれば、万物が皆栄える。天下 が混乱であれば、徳を修業する。千歳になれば、仙人となり白雲に乗 り、天帝のところに行ける。そうなると、患いもないし、禍も及ばな いだろう 。なぜ恥が増えるだろうか 。﹂と言い 、去って行った 。堯は 後ろを追いかけて聞きたかったが、封の人は﹁お帰りなさい﹂と言い 残した。 ︻出典︼ 㿶҄㨥 Ш㨥ሷӰᴦ Ш Ш㚌Ӱ Ш䄁⾓㚌Ӱ Шֵ㚌Ӱ༳ Еᴦ Ш䗣 Е ֵ㚌Ӱሂ Еᴦ Ш 䗣 Еֵ㚌Ӱཐ⭭ᆆ Еᴦ Ш 䗣 ЕሷӰᴦ Ш ༳ Дሂ Д ཐ⭭ᆆ Ш ӰҁᡶⅨҕЕྩ⦞уⅨ Ш 䛠Еᴦ Ш ཐ⭭ᆆࡽཐᠲ Ш ሂ ࡽ ཐӁ Ш ༳ ࡽཐ䗧Еᱥп㘻 Ш 䶔ᡶԛ佀ᗭҕ Ш ᭻䗣ЕሷӰᴦ Ш ခ ҕ Ш ᡇ ԛྩ⡨㚌Ӱ䛠ЕԀ❬ੑᆆҕЕཟ⭕㩢≇ Ш ᗻ ᦾҁ㚭 Ш ཐ⭭ᆆ㙂ᦾҁ㚭 Ш ࡽᠲҁᴿЕሂ㙂ֵӰ࠼ҁ Ш ࡽ ӁҁᴿЕཡ㚌Ӱ县ቻ㙂叽伕 Ш 匛 㺂 㙂❗ᖦЕཟсᴿ䚉 Ш ࡽ 㠽⢟Ⲽ᱂Еཟс❗䚉 Ш ࡽ ؤᗭቧ䯈Еॹ↨ৣь Ш ৱ㙂рԏЕҎᖲⲳ䴨 Ш 㠩 ᯲ᑓ䜿Епᛙ㧡㠩 Ш 䓡ᑮ❗↹ Ш ࡽ䗧ҁᴿЕ ሷӰৱҁ Ш 䳞ҁᴦ Ш 䄁அЕሷӰᴦ Ш 䘶ᐨЕ Ц М㧀ᆆНভп Ш ཟ൦ㅢ ॷӂ Ч ︻作例︼ ﹁華封三祝﹂ ︵﹃ 圖像合璧君臣故事句解﹄ 巻一、 寛文一二年 [ 1672 ] 跋 、 延寶二年[ 1674 ]和刻本︶ ﹁華封三祝﹂ [葦の繪で、陸放翁の詩﹃題新竹﹄あり] ︵大原民聲編、 浅野思成筆﹃名数畫譜﹄天、文化六年[ 1809 ]序、南嶺館蔵板︶
かまきり
蟷螂
蟷螂は斧のような前足を持っている。蟷螂は之有、不過、蟷 垿、莫 䊸 䢝、石蜋、拒斧などの名前を持っている。また天馬といい、走る際 馬のような走り方をする。蝉を捕まえるのが得意である。その子は 䢪 蛸といい、三、四月中、一枝に数百匹の小さな蟷螂が誕生される。 齊の荘公は狩猟に出かけた際、一匹の虫が両足を高く挙げ、車輪を 止めようとした 。荘公は ﹁それは何の虫だろう 。﹂ と御者に尋ねた 。 御者は﹁これは蟷螂だ。虫なのに、進むしか知らない。自分の力を高 く評価する一方、 敵を軽く見る。 ﹂ と 答えた。荘公は ﹁人間ならば、 きっ と勇武絶倫だろう。 ﹂と言い終わって、馬車を遠回りにして避けた。 ︻出典︼ 㷩㶸 Ш ᴿ ᯝ㸨ДҁᴿДу䚄Д㸭㹦Д㧡䊾㴇Д⸩㵁ДᤈᯝㅿЕ৾䄸 ҁཟ俢Е傚俌ྤ㟸 Ш 乮䮭㙂䓡䕋Еެ㺂ྸ休 Ш ᴿ俢ҁ䊗Е᭻Еቚᐛ ᦋ㸢 Ш อ㘩㠠㭳 Ш ㄜ 㞦㠿࠹ Ш ᪬㙂ҁЕެᆆ㵧㴮 Ш 㸭㹦ফҕЕ㸭㹦 䙘䕈⭘ެফ Ш Ⲽ 䙙㏪ Ш ཐ൞ቅẇрਘἎ䯉ЕпᴾѣЕ∅ᷓ࠰ ቅ㷩㶸ᮮⲴЕжሾЦ㸨ᆍۃ Ч 㸣Еᵢ㥿ࡽ䄸ҁẇ㷫㴮Е Ц᱄ ・ ⧁൱Д ⧁ᙓ㗟МпᢃൌᴹН匛⦮ޣভ Ч 喀㧀ޢ࠰⦫ Ш ᴿж㸨㠿䏩ሽᩅެ䕠Еஅެᗗᴦ Ш ↚㸨ҕЕቃᴦ Ш ↚ ᡶ䄸㷩㶸㘻ҕ Еެ⡨㸨ҕ Ш ⸛ 䙨㙂у⸛ Ш у 䠅࣑㙂䕋᮫ Е㧀ޢᴦ Е ↚⡨Ӱ㙂ᗻ⡨ཟсࣽ↜⸙Е䘪䔀㙂䚵ҁЕࣽ↜㚔ҁ Ш ⸛ ᡶⴗ↱⸙Е᭻ ⭦ᆆᯯ䳧ж㘷俢 Ш 㙂内ു䔿ҁЕ喀㧀ޢ䚵ж㷩㶸 Ш 㙂 ࣽ↜↮ҁЕ Ц М  ᆆНভॷޡШ Ӱ䯉䁉 Ч ︻作例︼日本における中国画題綜覧(五)(張 小鋼) 二〇 ﹁蟷蜋﹂ ︵明 ・王圻 、王思義撰 ﹃三才圖會﹄鳥獣六巻 、萬暦三七年 [ 1609 ]刊本︶ ﹁蟷螂﹂ ︵橘有税﹃繪本故事談﹄巻六、 正徳四年[ 1714 ]稱觥堂刊本︶ ﹁蟷螂﹂ ︵﹃職巧雛型錦袋畫叢﹄ 、文政一一年[ 1828 ]新鐫︶ ﹁蟷螂﹂ ︵鮮斎永濯繪 ﹃萬物雛形畫譜﹄二編 、元治一年 [ 1864 ]序 、 寶集堂梓︶ ﹁蟷螂﹂ ︵滝澤清畫﹃潛龍堂畫譜﹄人物之部、明治十五年[ 1882 ]求 古堂梓︶