「克
己 復 礼
」
― 人 間 雑 学 事 始 I ―
私 は `いちお う'と書 くとき,普通 なみに `一応' と書 くのを避 けて `一往'と書 くこ とに している。 これは勿論,私の趣味で もあるが,私 な りの根拠 もないわけではない。身近 な ところで "広辞苑" をみ ると, いち ・お う [一応]一往に同 じ。 いち・お う [一往]① ひ ととお り。 ひとわた り。 大略。(診一度0- 回。「- も二往 も」
とある。一往が どうや ら優先 しているらしいのは よい として,`ひ とまず'といった語釈のないのが 心ゆかない。そこで もうひ とつ "角川漢和中辞典" をみ ると, 一応 いちおう すべ てOいっさいふく国〉ひ とと お り。ひ とまず。 とにか く。◎一往。 一往 いちおう(わう) ひたす ら。ひ とす じに。 く国〉 一度。一回O とあって, いずれ もく国〉,す なわち,熟語で,国 語特有の もの として,"ひ とまず,取 りあえず"の 意味で私 ど もが `いちお う'を使 っているこ とが 示唆 してある。しか し,私のほ しい `ひ とまず ・と にか く'は一応の方に出 してあるので,国語 とし ては,やは り `一応'の方が よ り普通なのか も知 れ ない。私の知 っている限 りでは,"今昔物語"では `一往'である し,吉川幸次郎博士 も `一往'を使 っ てお られる。 私 の考 えでは仏語の往相 (おうそう),還相 (げんそう) に引 っかけ,弁証法の単 なる否定 では,言お うと す るところが必ず しもはっきりしない。或る事 を 一往否定す る,その否定によって当面の一事態は 排除 し去 られ るが, その事態以外の可能性はすべ て解放 ・温存 されて野放 しになる。かえって, あ あで もある, こうで もあると無限定が表面化 して長谷川鑛平
含 意 としてはむ しろあい まいにな るの では ない か。そこで, もう一度,限定 -否定 を加 えると, 一往解放せ られた諸可能性に或 る形での限界が画 され ることになって,問題のあ り場所が ともか く もよ り明確化す るであろ う。An-sick[即事]の事 態は一往否定す る。す るとFueトSichの事態が浮 き出 して くる。 それは まだ 魯 気楼の ように心 も とないか も知れない。 そこで, それに更に否定 を 加 えると,Ding-an-sick[物 その もの]がAn-u nd-fuer-si°h[即向 日] となって露呈 しきた り,事態 は よほ ど明確化す る。哲学青年であったかつての 私 には `否定の否定'とい う虫ずの走 りそ うな措 辞が, 当時は大へん気に入 っていた ちの らしい。 それを一知半解の仏語に引っかけ,往相 だけでは 事 態は十全 には把捉 され ない。 もう一度現場 に 帰 って来て (還相),再吟味 を加 えると, ようや く 初めて事態はややはっきりして くる。往相 だけで は所詮弱 く,あいまいなので, そこに還相が重ね られて初めて, ようや く事態把握ない し問題解決 の端緒が,得 られるのだ, とい うわけである。竜 宮 に招かれた浦島太郎 には招 かれ るだけの事 は あった。竜宮にあって浦島太郎は一往,思 いがけ ぬ大 きな幸福 を体験す る。措定-An-sich即 日態。 しか し,やがて何 とな く満 たされない もの を感 じ 始め ると,見捨てて きた故郷がむ しょうに恋 しく なった。即 自態の動揺。 そこで乙姫の諒解 を取 り つけて,一往,故郷 に立 ち帰 ることになった。 乙 姫は先行 きを危ぶんで 〈玉手箱) を持 たせ る。第 -の否定-Fue一-sich向 日態。せ っか く故郷 に立 ち帰 った浦島には, この世 とあの世 の時間のずれ で,故郷は失われて しまっていた。 そこでまず, もう一竜宮へ帰 ってみるべ きところを,堪 えられ - 123-ず,衝動的にタブーの玉手箱 を開いて しまう。そ のため還相 は とたんに破綻 して実現不 可能 とな り,幸福の夢ははかな くも雲散霧消 して しまった。 An-und-fue一-sich即向 日態は成就 しなか ったので ある。 しか し, 民話は, こうい うとき, まことに 残酷で,夢破れた浦島太郎にその場 での死 を用意 してや らないで,一瞬に白髪化 して余命 い くぱ く もない,よろめ く老 いぼれ漁夫 を,helplessの境 涯の さ中に突 き離 して しまう。 その場で死なせ ら れなければ,せ めて狂気で も用意 しておいてやれ ば,浦島 も一往 は,扱われたであろ うのに。 * 長長 と一往論 を展開 してきたが, その動機は実 は 『論語』の `克己復礼'とい う語が,私の見 ると ころ,往相 と還相 とを備 えて,格 言 としては十全 である と,前前か ら考 えられていたか らである。 ともか くも一往,私意 ・私欲の克服において第一 次の否定 を遂行 し,その上で礼に復す るとい う第 二次の否定 を加 えることによって,往相 は還相 を 待 ち得て,An-und-fuer・sich即 向 日態は成就 し, 理想の `仁'は成立の端緒 を与 えられ る。まことに 座右の銘 として最上の ものであ ると,今で も依然 私は考 えている。
*
とこ ろ で私 の妄 用 した往 相 ・還 相 に つ い て ちょっ と触れな くてはなるまい。仏教には `回向' (廻向, えこ う) とい う重大な概念がある。 自分 の修めた功徳の結果 を, 自分だけの利益 (りやく)に しないで,他 に も回 らし及ぼ して, 自他 ともに仏 果 を成就 しよ うと期す ることを言 うo親鷲(117 3-1262)は, 自力 を排す る他力主義の立場か ら, こ の `自身の善根 の功徳 を他に施す'とい う回向を, 自力回向 とし, これに対 して他力回向を説 き,阿 弥陀如来の故済の絶対性 を強調 した。衆生 を一人 も洩 らさず浄土に救い取ろうとい う阿弥陀如来の 本願によって,幸いに衆生が浄土に往生す ること を往相 とし,浄土に往生 して仏になった ものが, 再 びこの世 に還 ってきて,利他救済のはたらきを して,今度は他 のなかなか往生 できなか った人人 と相携 えて往生す る, これ を還相 と称 した。つ ま り,回向に,往相 と還相 との二種の回向があ り, いずれ も如来の方か ら救いの手 を差 しのべて下 さ るのだ, としたのである。私 ども俗人にはなかな か理解 しに くい考 え方 であって,例 の …広辞苑" に も, 往相 ワウサウニ往相 回向 (仏)自分の功徳 を以て一 切の衆生にめ ぐらし施 して,共に浄土に往生で きるように願 うこと.云云。 還相 回向 ケンサウヱカウ浄土門回向の一。浄土に往 生 して後,桟土(えと)に還来 して一切衆生 を教化 し共に往生す ること。云云。 とあ る。弥 陀の他 力本願 に もとづ いての往相 回 向 ・還相 回向 とい う考 え方は, ともか くとして, 私 は,往 って還 る,二重限定 をす る, ない し否定 の否定 をす るとい うところに,結果 をよ り具体的 にす る重大な契機があると考 えて,`一往'とい う 文字遣 いを固執 しているわけである。いささか論 弁めいて, じくじたるものがあるのであるが, こ とさらなる紙面の浪費 をゆ るされたい。 さて * `克己復礼'であるが,克己, 己れに克つだけで は一往,往相の片務的成就 に止 るこ とになるわけ であって,着実性に乏 しい。そこで, 己れに克っ て一往 白紙に立ち帰 った ところで,更に自ら礼に 復す ることによって,初めて還相 も成就 し, ここ に初めて道義的人間 として,十分の資格 と責任 を もって,道義の根元である `仁'にあずか ることも で きる.と私 な りに考 えて 「克己復礼為仁」
-
「己 れに克ちて礼に復(かえ)るを,仁 と為す」というF論 語』顔淵第十二冒頭の一句 を,孔子の訓えの真髄 を端的に言い表わ しているもの として,私は従来 敬重 して今 日に至 っているのである。 ここに `礼'というのは,漢字 としては「旧字体 `示豊 ',神の意 を表わす示 と,盟(れい)とか ら成 る。 豊が音 を表わ し,ふみ行 な う意の語原 (履〔り〕)か らきている。神に向か って儀礼 を履行す る意。ひ いて,一般に,儀礼の意 となった」とある(r角川漢 和中辞典j)。字義 としては もともと(》 「人がふみお こな うべ き外形上の秩序の儀式。の り」であって, ひいては②儀式。作法。③ れい もつ (礼物)0④お じぎ。あいさつ。すべて敬意 を表す るあいさつ。 「敬礼」。⑤敬意 を示す贈 り物。 となった(同上)。 礼文 ・礼典 ・礼制 ・礼節 ・礼義 ・礼法 ・礼式 ・礼 楽 ・礼教 ・礼譲-- と,叙上の意味 を反映 してい る熟語は少な くない。 F論語lでは,特に礼をテ-マ としてい る文章の多い `八倍第三'をは じめ,礼 はか な りしば しば論及 されている。 そ してその含 意は,す こぶ る広範囲にわた り,単 なる儀礼 ・礼 義 ・礼式 ・エチケ ッ トに尽 きるものでないことは, す でに明 らか であろ う。朱 子 (朱票,南末の大信, 113011200)の 『論語集注』には,礼は 「天理の節 文, 人事の儀則」 と注 してある由。 これはかれの 理気性命の形而上学,いわゆる性理学に引 っかけ ての ことであろう。「礼 とい う語は,その文字か ら 見 る と, もとは呪術宗教的な儀礼の義に用 いられ ていた ものの ようであるが,後には,世間的の儀 礼 を もそれに含 ませ, また一般的な社会生活の規 則 を もこの語 に よっていいあ らわす こ とになっ た, と解せ られ る。 そ うして,そ うい う規制は, いか なる社会 に もおのずか らで きて来 るものであ り, それのあ ることによって社会生活がな りたつ のであるか ら,その規制 を守 ることがすべ ての人 の道徳的義務 とせ られる。道徳 を説 く儒家が礼 を 重んずるのは, この意味に於いてさもあるべ きこ とであ り,従 って孔子 もまたそれにつ いて何 ごと か を語 ったように伝 えられていた, と見 られるの である」 と,津田左右吉博士の F論語 と孔子の思 想
』(
全集 第14巻.226頁)にある。いずれにせ よ, その含意はひろ く,神霊 を前に しての儀礼 ・作法 か ら始めて,社会の秩序 ・規範, さては政治上の 法制 ・憲法 と, 日常の礼譲生活 ら,道義 ・道徳の 範囲 を越 えて政治体制にまで及ぶ,まこ とに広 い, 余 りに も広 い, と言 よりもむ しろ時に捉 えように 窮す るほ どあいまいな概念である。吉田賢抗 もそ の著 『論語』 (明治書院刊,新釈漢文大系1,昭和37)に おいて,
「礼 は宗教的儀式か ら始 まって,人 と人 と の間柄 を円滑にす る恭敬の行為 とな り,社会的準 則 となる。天地の理法につ なが る条理 で もある。 法律の強制的であるのに対 して,道徳的であ り, 真理 の理想化 で もある。孔子はそ うい う `礼'を尊 んで,周の礼- 周の文化に傾倒 した」 (37頁)と 注 し,また,
「礼は最初は人が神 につかえ祭 った儀 式であったが,だんだん人 と人 との間に秩序 をつ け,相互の関係 を円滑にす る倫理的 な もの となっ た。更に国家組織が完備す ると,君主は己の権勢 を誇示す るために,礼 を法律化 し,制度化 して, 君臣の分 を定め,人民 を統制 した。『周礼
』
『儀礼』 r礼記』 などの文献はか くて成立 したo Lか し, 礼の本質は心の持 ち方であって,形式の儀式に価 値 はない」 (61頁)と注 して い 、る。*
ここで私はまず,`克己復礼'の出て くるF論語j 顔淵第十二の冒頭の章 を,全章引用 し,訓読 し, そこか ら改めて考察 を再出発 させ たい と思 う。 顔淵間仁。子日, 克己復礼為仁。一 日克己復 礼,天下帰仁蔦。為仁由己,而由人乎哉。顔淵 日,請問其 目。子日,非礼勿視,非礼勿聴,非 礼勿言,非礼勿動。顔淵日, 回錐不敏,請事斯 語 失 。 顔淵仁 を問 う。子日 く, 己に克 (か)ちて礼 を 復 (ふ)む を仁 と為す。一 日己に克 ちて礼 を復 めば,天下仁に帰す。仁 を為すは己に由 りて, 人に由 らんや と。顔淵 日 く,其の 目(もく)を請 い問 うと。子日 く,非礼視 るこ と勿 (なか)れ, 非礼聴 くこと勿れ,非礼言 うこ と勿れ,非礼 動 くこと勿れ と。顔淵 日く,回不敏 な りと維 (いえど)も,請 う斯 (こ)の語 を事 とせ ん と。(吉 田賢抗 F論語j253頁) ところで訓 (よ)み方であるが,人に よって若干 の異同がある。貝塚茂樹は 「己れに克 (か)ちて礼 に復 (かえ)るを仁 と為す」 と訓み,
「請 う,その 日 (もく)を問わん」 と訓んである (世界の名著 r孔子・ 孟子」242頁)。そ して吉田が 「非礼」で済 ましてい るところを 「礼に非 (あら)ざれば」と訓む。これは どちらで もよかろ う.岩波文庫新版 F論語1で金 谷治は 「己れ を克 (せ)めて礼に復 (かえ)るを仁 と為 す」(156頁)と訓んでいる。これはその師-武内義 雄博士の岩波文庫 旧版 F論語』での訓み を踏襲 し た もののようである。 しか し, その次の 「一 日克 己復礼,天下帰仁蔦」が, 旧版 では括弧で包んで ある。 とい うのは,一 日の 日を日 (いわく)の誤 りと 見て,
「一に日 く,己を克めて礼に復れば天下仁に 帰す」と訓んだか らであろう。そ して 「請問其 目」 ち,
「請ふその 日 (かなめ=要)を問はむ」 と訓み,文 末 も 「請ふ斯の語 を事 (つと)めむ」 と訓んである。 武内義雄博士の訓点にはいろいろ著 しい特色があ る。もう一人,吉川幸次郎博士の訓点 に触れれば, これは 「己に克 (か)ちて礼に復 (かえ)る」と尋常に 訓んである (朝日新聞社販・新訂中国古典選 r論語」下, 65頁)。 - 125-素 人は気楽 であるが,専 門家 ともなると大変 で, 克己復礼の, 克につ いて も若干の異同があ り,復 につ いては,立 ち帰 る とい うの と, 履行実践の意 味に とって復 (ふ)む -践む とす るの とに分 れ,吹 いで 「仁 と為す」 と普通 は定義的に受け とってあ るの を,林道春 (-羅山,1583-1657)では, 克己復 礼 とい うや り方 で仁 を実行す るとい う意味で
,
「為 仁」 を 「仁 を為す」 と訓んである由。 そ して武内 博士が 「一 日克 己復礼,天下帰仁蔦
」の 日を日の 誤 りと見て,
「一に日 く」と, あたか もF日本書紀』
に 「一書に日 く」 とあ るのにな らったような訓み 方 をして, これ を括弧 で くくったこ とは,す でに 言及 しておいた。一個 人が一 日 (とい うのは一度 ド)克己復礼に成功す ると,泰然 として天下万民 が仁に帰す, とはいかに も大げ さで,且つ いかに も性急に過 ぎるので, この ような扱 い方 をしたの であろ うか。 `目'を吉 田賢抗 は `条 目'とし,貝 塚 博士 が `実 践要項'と解 し,吉 川博士 も `項 目' と して い るが,金 谷博 士 は 旧師 の `目-か なめ (要)'を踏襲 して `要点'と釈 してあるが,
「`目' を条 目細 目とみ るのがふつ う。`目'を要の意味に み るのは劉宝楠の説」 と注が加 えてある。 ついでに英訳を見てみ ると,JamesR.Wareは 「顔淵Ej.詰問英日」を"Whataretheconstituent partsofself-controlandthereturntotherites'としている(TheSayingsofConfucius,1955,Mentor ReligiOusClassic)
が
,D.C.Lauは "Ishouldlike youtolisttheitems" と項 目扱いしている ( Con-fucius:TheAnalects,1979,PenguinBooks)0そ もそ も 「仁 を行 な うのは 自分 しだいのはずで あ る。どうして人だのみで さよ うか
。
」その個 人段 階 での克己復礼が, どうして 「天下仁に帰す」 と い うような桁はずれの大げ さなこ とに相渉(わた)り 得 るのか,金谷治は言及 していないが, 貝塚茂樹 は簡単 なが ら触 れてい る。- F論語』の中で,仁 につ いての問答 で, これほ ど理論的 な ものはない のであって,孔子は 「狭 い 自我 を乗 り越 えて,大 きい社会的 自我 に 目ざめ,礼の規則に 自覚的に服 従す ることが,仁の徳の本質 だ」 と言 ってい るの であろ う, とあ る。礼,す なわち社会の規律 とす る と,それは客観的に妥 当 し,個 人の外に, もし くは上に存在す る価値 乃至規範なので, 当然 その 機能 は社会か ら個 人へ と他律的方向にあるはずで あ る。 しか も, それに縛 られ るのではな くて, 自 発的に服従す る。律せ られ てす るのでな く, 自覚 的にそれ を敬重 し,それに則 って行為 をつつ しむ。 「七十に して心の欲す る ところに従 って矩 (のり)を 拾えず」 とい うあの境地, 自律即他律の 自主 自由 の境地 を言 うのであろ うか。 されば 「仁 を為 すは 己に由 る,而 して人に由 らんや」とこ とさらに断 っ てあるのではなか ろうか。 それに して も 「一 日己 れに克ちて礼 に復れば,天下仁 に帰す」 とは,余 りに大げ さ過 ぎ,飛躍 し過 ぎる。 ところで私 は 「仁に帰す」 とい うの を, これ ま で何 とな く分 ったつ もりで きたが,ふ と気がつ く と具体的に どうい うこ となのか不安 になった。 吉和 「もし,人がただ一 日だけでも,その克己復礼 で仁を行なうことが出来たら,その影響は広 く行 きわたって,天下の人々が皆仁徳に帰服するよう になるであろう。
」 仁徳に帰服するとは,いった い, どういうことであるか。 貝塚 「一 日でも自己にうちかって礼の規則にたちか えることができたら,天下rPの人がこの仁徳にな び き韮まるであろうC」 なるほど一一一一㌔ 吉川 「そのこと [克己復礼]を,ただ一 日だけでも, 実践するならば,世界中がその人の愛に,なびき よるであろう。」ちなみに吉川博士は仁 を愛の実 践, ヒューマニズムの徳 としておられるo JamesR
.Ware の "TheSayi ngsofCon-fucius" (MentorReliiogusClassic,1955)を見 る と,同 じ個所が
Ifforone dayyou achieveself-controland returntothepracticeoftherites,theworldwill acknowledgeyouasMan-at-his-best.ちなみ にJ.R.Wareは 1955年 当時,--ヴア- ド大学の AssociateProfessorofChineseで,中国文化に関 しては権威 であった, とあ るが,かれ は `仁'を `Manhood-at-its-best'と英訳している。 `人間 性の極致'というのであろう。 要す るに, た とい一 日で も 「克己復礼」 を実践 すれば,些少 な りといえ ど も, それだけの効果実 績はあるはず で,やがて世 の中一般 の人人 も, そ れ をみ とめ, そ ういう実 績 を挙げた者 を敬重 し, 帰服す るに至 るはずだ,とい うこ とと解せ られ る。 日本語や 中国語では,主語 が明示せ られてな くて も文章は成立す る。ふ と英訳本 を見てみたの も, 実は主語 一繋辞 (Copula)一 目的語 (補語)とい う
文法的構造 を必須 とす る英語で
,
「一 日克己復礼, 天下帰仁駕
」をどう処理 してあるか,見てみたか っ たのである。Theworldwillaknowledgeyouas Man-aト its-best・`仁に帰す'を, `人間 [性] の極致 を極め た人間 としてみ とめ る'と解 してあ る。 なかなか要領 を得ている。 もう一人,私の寓 目した 『論語』の英訳者D,C, Lauは,"
Ifforasingledayamancouldreturnto theobservanceofthe ritesthrough ove r-coming himself,the whole Empire would considerbenevolencetobehis."と 訳 し て い る。前 掲 Ware が `仁'を `Manhood-at-its-best'と工 夫 を凝 ら した扱 い 方 をしているのに, D.C.Lauは "bene vo-一ence"[仁慈,慈恵]と, あっさり処 置 してい
る。 ちなみにD.C.Lauは香港の出身らしく,
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年以来, ロン ドンのtheSchoolofOrien・ talandAfricanStudiesで中国哲学 Chinese philosophy を講 じ,1
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年 にロン ドン大学の ProfessorofChineseになった人で,
『論語』 のほか,老子の F遺徳経』 と 『孟子』 を翻訳 し ている。それに して も, `全帝国が仁慈 をその人 の もの と見放す'とは, `天下帰仁蔦'の英訳 と しては, か な り要領の よい ものだ とは思 うが, 具体的にはやは り理解 できない。何のこ とが肺 に落 ちる ものがない。 だいたい 『論語』は中国の春秋か ら戦国時代 - かけて の士階級- 当時の都 市 国家 の支 配 者 ・統率 者であった王侯貴族 (-君子)に雇用 されて, その政治活動に奉仕 した (ない し,秦 仕すべ き立場にあった)士大夫の階層 -知識層 に対 して説かれた教説なので,行為者 ・与える 者はつねに為政者 ・指導者 (君子)であ り,与 えられ る者 は被治者 ・一般人民大衆であった。 そ うい う前提があったので,特に主語 を明確に 示 さな くて も,意味す るところは,誤解 され る ことな く, わか って しまったのであろ う。 そこで,後世の注釈家 (例 えば清の藩維城『論 語古注集等』
)
には, この章 を, これに続 く「仲 弓問仁」の章 とつ なげて,
「孔子は政治の主権者 として, あ るいは大臣 として,国家 を統治す る 者の立場 か ら仁の徳 を論 じているのだ」 と論 じ-1
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-ている向 きもある由である。それに して も, い ささか牽強附会の感 を私はやは り免れない。仁 の立場に立 って政治 を行 なえば,天下の民がこ れに帰服す るとい うのは,とりも直 さず,後の, 少な くとも2
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年後の孟子 (前3
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もしくは前3
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生れ,享年66-7歳)の `王道論'の論法である。貝 塚博士は,
「これは,春秋未の孔子の もとの考 え 方に,戦国初期の孔子の孫弟子たちの, とくに 子恩たち以後の時代の儒教思想の解釈が,付加 されていると見 られ る」と,やや控 え目なが ら, 言ってお られる (前出F孔子 ・孟子j243頁)0*
そ う言われて,改めて立 ち帰 って `克己'を再 考 してみる必要 を感 じる。『春秋左氏伝』昭公十 二年の ところに「仲尼 日,古也有志,克己復礼, 仁也O信善哉,楚霊王君能如是,量其辱於乾浴」(
仲尼 日 く,古に志(しる)す こ とあ り, 己に克ち て礼 を復む [復 る]は仁な りと。信 (まこと)に善 いかな。楚の霊王若 し能 く是 (かく)の如 くんば, 呈其れ乾裕に辱め られんや) とある由。 ところで 『春秋』は,中国最初の史書 とされ, 五経の一つにかぞえられ る。魯の隠公 1(前7
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2
)
年か ら衷公1
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(前481)年 までの2
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2
年間の,礼 子の祖国-魯の国を中心 としての各Elの史実 を 編年体で簡潔に記述 してある。孔子が魯の史記 によって一字一句の表現に賞罰の意 を寓 し,王 法 を示 した もの とされ る。 ちなみに `春秋の筆 法'とい う語はこ うい う書 き方に由来 し,春秋 時代 (前7
7
0-4
0
3
)
とい う語 もこれに由来す る とされ る。 その 『春秋』がはた して孔子その人 の編逆か,私には分 らないが, これには三種の 注釈書がある。孔子の高弟子夏の門人,公羊高 の 著 と され る 『春 秋 公 羊 伝 くくようでん)
』
,同 じく子夏の門人,穀梁赤の著 とされ る 『春秋穀 梁伝 (こくりiうでん)
』
,及び孔子の同時代人,左丘 明の著 とされる 『春秋左氏伝』である。左丘明 は,孔子の 『春秋』の正 しい意味の失われ るこ とを恐れて, この F左伝』 をつ くった と言われ るO また 『国語』 とい う書物 も彼の著 わす とこ ろ と伝 えられる。 しか し,実際は,後の漠代の 学者が『国語』その他の伝承 史料に よ り,
F春秋』 の編年 と合わせ て編集 した もの と,今は考 えら れている由.F春秋』の背景 となっている当時の史実 を暢達 な文章 で記述 し, これに義例 を加 え て倫理道徳の教 えが展開 してある。 F左伝』は三 伝 の うち一番 後 に出来 た もの ではあ るが
,
F春 秋』の正伝 として,世 に行 われた由 o F論語』 では 「克己復礼,為 仁」 とあ るのが, F左伝』 では 「克 己復礼,仁也」 となっている が,
F左伝 』の 「古也有志」 を,
「いに しえに シ ルス こ とあ り」 と訓み, または 「いに しえにフ ミあ り」 と訓むに して も, ともか くこれ を信 じ れば,克己復礼 は孔子のオ リジナルではな くて, 孔子時代,す でに レデ ィメー ドのそ うい う成語 があ った, とい うこ とに な る。 少 な くとも孔 子 の オ リジナ リテ ィには疑 いをさ し は さむ 余 地が あるこ とになる。*
津 田左右吉 も, この 「克己復礼」 につ いては か な り詳 し く論評 を加 えてい る。博士 は, この 成句 には孟子の性善説 と苛 子の性悪説が相 当色 濃 く反映 している, とされ るのであ る。従 って 「克己復礼」篇 は,孔子後2
0
0
年の孟子の時代, とい うよ りも,む しろ孟子以後の時代 に作 られ て, 当時 す でに行 われて いた `原論 語'に追加 編入 された ものであろ う, と結論 されている。 「自分 自身の私欲 を克服 して, 人間生活の法 則 である礼 に復帰す るこ と, それが仁 である。」 (仁 が何 であ るか は,孔子の思想において極め て重大 な問題 であ るが, この重大問題 には,今 は,立ち入 らないこ とに して),これは宋儒 の解 釈 である。 「`天理'す なわち 自然法 は,つねに 善 であ り, 人間 もまた [`性'として この]天理 を賦有す るが,衝動 的にお こる私欲,す なわち 宋儒 の言葉 に よれば `人欲'に よって,人間の中 にあ る天理 [-性]が, おおいか くされ る。だ か ら私欲 を克服 して,天理 [ない し性]の表現 であ る礼 の法則に復帰す るの こそ, 人間の道 で ある愛の道徳 だ, とい うのである。
」
(
--Lf.・'川幸次郎 『論 語」下,66頁) 私 は `天理 'を `性'と同一視 す る者であ り, 従 って F中庸l首章の 「天命之謂性。率性之謂 道。修道之謂教。
」(天の命,これ を性 と謂 い , 性 に率(したが)う, これ を道 と謂 い,道 を値 め る, これ を教 と謂 う) を連想 し, これ こそ 自然法の 原理 をいみ じくも言いあててい るもの と思 う も C7)であ る。 「道は須 火 (しばらく)も離 るべか らず。 馳 るべ きは道 に非ず」 と続 く。 これ もまこ とに よい言葉 として,
「克己復礼」と共に私 の従来か ら敬重 していることばである。 こ うい うもの を 経 て, 来信 の理気性命の形而上学 が生 まれて き たのであろ うと私 は考 えるが,今 は触れない。*
ところで津 田左右吉 は, この「克 己復礼為 仁」 には, この性の観念がひそんでい るのではない か と言 っている (前出 r論語と孔子の思想」全集第14 港,140頁以下)0「克己復礼」云云 とい う孔子の こ とばは,仁 を,一方,礼 に関連 させ て説 くと共 に,他方,広 い世 間 (天下) に関連 させ て説 い てあ るが,この前者の方は,
F論語』においては, 特 異の考 え方 である,とされ る。「このばあいの 礼は,道徳的意義 におけ る 日常生活の規範 とも い うべ きものであるらしいが, その礼 に復 ると い うのは,礼 を人のこころの内にあ るもの, ち とか ら人に具 わ っているもの, としての こ とで あろ うか ら, そこに性 の観念が潜んでい るよう に見 られ る」 とい うのである。 そ して 「性 を説 くこ とばのほ とん ど無い といって もよいほ どな 論語 に, こ うい う孔子の こ とばのあるのが問題 となるのである」 とある。 `性'とい うこ とばの見 えるのは,
F論語jでは, 「陽貸第十七」の 「子日,性相近也,習相違也」 と,
「公冶長第五」の 「子貫 目,夫子之文章,可 得而聞也,夫子之言性与天道,不可得而開也」 と,だけである。「人間の生 まれつ きの素質はそ んなに差 がある ものではない。生 まれてか ら後 の 習 慣 に よって互 い に遠 く稚 れ るので あ る」。 `夫子の文章'の `文章'は, いわゆ るs
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で ある。子貢が 「先生の文化 につ いてのお考 えは うかが うこ とがで きましたが,先生が人間の本 性 と天の道理 についてお っしゃることは,つ い ぞ うかが うこ とがで きませ んで した」 と, ひ と りごとしたのであろ う。子貢は,見た,見たこ とがない, とは言わないで,聞いた,聞いたこ とが ない, と言 っている。 当時の学塾では, チ キス トを読む よ りも,先生の言動 を親 し く見,開 きして, 己れの人間形成に培 (つちか)ったのか も知れない。天道 とは自然の法則性であると共 に,人間の,人間社会の運行の法則で もあった。 孔子 も,そ うい う自然 と人間 を一貫す る自然法 の ような もの を意識 していた らしいが, それに つ いては多 くを語 らなか った。 多 く語 らなかっ たのは,性 と天道について全然思索す るところ がなか った ことを意味 しない。天道必ず しも正 義 に与(くみ)せ ず,時に不正義の まのあた り横行 す るのを見 ないわけには行かず,天道,是か非 か と,心の底でにがにが しく深刻に思索 したで あろうこ とは,臆測で きる。「子怪 ・力 ・乱 ・神 を語 らず」(述而第七)。子路が鬼神の取扱いにつ いてたずね たのに,「未だ人に事えること能わず, いず くんぞ能 く鬼に事 えん」 とは ぐらか し,千 路 が更に敢 えて死についてたずね ると
,
「末だ生 を知 らず, いず くんぞ死 を知 らん」 と, これ ま たは ぐらか して しまった (先進第十一)。しか し, そ うい う重大問題が孔子 の心の奥でフツフツ と 発酵 していたであろ うこ とは,臆測 してよいで あろう。 ただ,弟子たちの中に,孔子の内心に まで踏み込 んで,そ うい う微妙な問題 について, 孔子のいつ わらぬ答 えを引 き出し得 るだけの力 のある人物 がいなか ったのであろ う。 ところで 後年の朱子は, この文章 をむ しろ逆 説的に解 して,子貢は,孔子が 日ごろ容易に述 べ ようとしない性 と天道についての見解 を, こ の とき初めて聞 くことを得た,その稀有の喜 び を, この文章は表わ しているのだ, としたよう であるが,朱子 としては,采学の大問題である 性 と天道 に関す る理論が,祖師孔子にその片鱗 だ もなか った とあっては困るので,宋学の主張 す るところは,孔子が, あか らさまには言わな か った として も, その心の底のどこかに確かに 秘めていた理論 を, ちょっとばか り子貢にかい ま見させ た もの を, 自分 (朱子 )が再発見 し,発 展 させ たのだ として, 自分の理説 を権威づけた か ったのであろう。 しか し, この ような理論 は 具体的には F論語』にはやは り見出されない。*
ところで津 田左右吉は, この 「克己復礼,為仁」 を,孔子 を離れて客観的に見て,復礼 として復 と い うことば を用いてあるところに,性の観念が潜 んでいるとせ られる。 とい うのは,礼 を内在化 し て,人の心の内に もとか ら具 わっているもの とし ない と,礼が外か ら人間 を縛 るものになって しま うか らである。それで困るのは孟子で,孟子はい わゆる性善説の立場か ら,礼 を内在化すれば,即 ち性 と同一視す ることができるようになる。孟子 にあの有名な `四端の説'というのがある。すなわ ち, 1,人は生 まれなが らに他 人の心 を付度 し, 人の不幸 をみす ごす ことのできぬ側隠の心, 2
, 己れ並びに人の不善 をに くむ蓋悪 (しゅうお)の心,3
,他人 を崇敬す る辞譲の心,4
,善悪 を弁別す る是非の心,心 とならないまで もその端緒 となる もの, をもっている。それが,すなわち四端の心 とされるものであって,従 って耳 目 (-官能)が 外物に触発 されて起す欲心 (-私欲) によって, この心が曇 らされることな く,固有の この四端の 心 を見失わないで育て上げ,拡充 して 自覚的に己 れの もの とす るとき, それが取 りも直 さず仁義礼 智の徳 となるのであると言 う。孟子においては礼 はわれわれの心 に内在す る。少 な くとも見失 わな いで拡充すればその まま十全の礼 とな るものが, 四端の一つ としてではあるが,すでに昧与 されて いるのである。 ところがこの 「克己復礼,為仁」 では,孟子で は同 じ地位に, いわば並列にならんでいるとされ る仁義礼智の四の中か ら,特に礼だけ を選 び出 し て, その礼に復帰す る, もしくはその礼 を履行実 践す る, そのことが取 りも直 さず仁の実現である とす る。 その礼が仁の実現であるとされるところ には,性善説に立つ孟子に対立す る苛子 (前298 -前235)の,他律的原理 としての礼 を重 んず る性悪 説的思想が,ほの見えている。苛子は礼 を外か ら 与 えられた生活の規範 とす るのであるか ら, `復' を `復帰'とす るのはまず い, そこで `復'を `履 行'o`実践'とすれば,他律的原理 を受け入れて, それに随順す ることになって辻稜は合 う。仁は し か し内在的な心情的徳操であるので, そこへ他律 を持 ち込んでは, おのずか らその情操性が傷つけ られて しまう。孟子 としては何 とか内在論理 を貫 かな くてはならぬ。つ ま り,克己復礼 には,相対 立す る孟子の性善説 と苛子の性悪説 とが共に影 を お としているとされ る所以である。 津田左右吉は,
「克己復礼,為仁」は,苛子の思 - 129-想が世に知 られた後になって,初めて言い得 られ るものである, とされ るのである。孟子が,孔子 よ り約
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年後 に,曽子 ・子息 とい う孔子の弟子・ 孫弟子 を経て,孔子の思想 を継承発展 させ た もの とされ,石 子は,孔子の弟子の子夏 ・子遊の流れ をうけ,孟子 よ りも更に約半世紀後れて活躍 した 思想家で,礼楽,特 に礼 を重視 し,性悪説 をとな え,孟子に対立 した。苛子は,性 を,人間に生 ま れついたままの心の 自然の状態 と捉 え,人間は生 れつ きさまざまの欲望 をもっているので, その ま ま放置す るときは必ず乱に及ぶ もの とした。そこ で古の先王 である聖 人が人道 として制定 した礼 に則って人欲 を抑制す る と共 に, その 人欲 を礼 に則 って善養 して無難な もの とし, もって天下の 秩序 を確立維持 しなければならない。礼 は聖人の 作為 になるもので,時 として人の本性に逆行す る こともあるか ら,人は絶 えず努力 して礼 を学び, また絶 えず努力 して実践 しな くてはならない。 こ の苛子の重礼思想が弟子の韓非子 を経て,君主絶 対 を唱えて法律 を重視す る法家思想に発展 した。 このことは通説 となっている。礼にはそ うい う方 向に発 展 す る素地 もあったのである。 私の年来敬重 して きた 「克己復礼」 を追求 して ここまで来 ると, どうもこれは孔子 自身の ことば では な くて,孔子が没 して2
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年 も3
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年 も経 っ て後 に,孟子の性善説よ りもむ しろ苛子の性悪説 の土壌の上 に,美 しく花開いた もので, それがそ の当時, 儒教学派でテキス トとして受用せ られて いた F論 語』に,補遺ない し参考 意見 として追加 採用 され, それがいつの間にか本文 とい うことに なって しまった もののようである。*
そこで私 はさかのぼ って F論語』 その ものの成 立事情 を洗 ってみな くてはならな くなった。早 く わが伊藤仁斎 (1627-1705)が F論語J
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篇 を上下 の二つに区別 し,前半10篇 を上論 として特 に尊重 した と言われ る。近 くは武 内義雄がF論語之研究l
(昭和14年札 岩波)においてF論語』のTe
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(原典批評) を行 なってす こぶ る妥当な結論 を出 したo和辻哲郎(188911960)の F孔子J
(大教育家文 庫1,昭和13年,岩波)は,武内博士の原典批評に同 調 して,且つ和辻博士 らしく F論語lの内容 をも 精読 して,説得力のある結論 を出 してお られ る。 小 さなものではあるが,
指し子』は稀 に見 る好著 で ある.私は中国語 を解せず,漢文 もろ くに読みこ なせ ない素人ではあるが,今 日容易に入手できる F論語』注釈書 をあれこれ読み,その うちか ら「克 己復礼」を 当面のテーマ として取 り上げ,叙上 の ような朽役 をやや執物 に試 み た次 第であ る。 Fブ リタニカ国際百科事典Jでは木村英一の執筆 で F論語』の成立がほぼ下の ように まとめてある。 紀元1世紀の記録である F漢書j
「芸文志」には, F論語』は,孔子が弟子や時人に応答 し, また弟 子が先生か ら聞いたことを互いに語 り合 った言葉 の集成 とあ り,後漠の F論衡j
「正説篇」には,弟 子 たちが共 に孔子の言行 を記録 した ものだ とあ る。 しか し,誰が, いつ, どの ように して編集 し たかについては定説がない。 ところで孔子 を `子' [先生] と呼び,弟子は子路 ・子夏のように字 (あ ざな)で呼んである記事が F論語』の大部分 を占め ている。 これは孔子の晩年に開設されたその学塾 におけ る弟子たちの言葉づかいの反映であろ う。 その中に曽子 ・有子 ・再子 ・閃子の ように,魯に 在住 した孔子の直弟子たちに,子 をつけて師匠扱 い してある記事が まぎっている。 この点か らみて F論語』の主要部分 は,孔子晩年のその学塾にお いて弟子たちが語 り伝 えた ものか ら出てお り,そ れ を孫弟子たちが,亀において記録 し,補足 を加 え,編集 したのであろ う(戦国初期,つまり前4世期初 期)。当時の魯におけ る儒学の中心勢力は曽参 (普 千)の弟子たちであったらしい。 これ を始め とし て続集や補訂が続け られ,やがてそれが斉の国に 流伝 して, そこで も若干の続集 ・補訂が行 われた。 だか ら戦国末 (前3世紀末)には,魯 ・斉には, それ らを取集めた大同小異のテキス トが両三種成立 し ていたらしい。漠代に伝 わった F論語jが これで, それに魯で孔子の旧住居の壁中か ら掘 り出された いわゆる F古論語i (戦国末テキス トとされた)と いうのがある。だか ら当時,
F魯論語』とF斉論語j とこの F古論語』 と,三種 あったわけである。そ れ らが後漠か ら貌 ・晋 までの間(1-3世紀)に何度 かの校定 を経て,結局一つにま とまったのが現在 の F論語」であろうとされ る。現存 F論語』では 約5
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章が2
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篇に編成 されてお り,章の分 け方に 多少の異同はあるが,通行の朱子集注本 では482 辛,2
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篇 となってお り,篇の順序 も一定 している。* 武 内義 雄 の 批判的研 究の結論を摘 記する と , 芸 芸芸
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]斉魯二篇本 薙 也第三 公 冶長第四 為 政第五 八倍 第六 一里仁第七 述 而第八 泰 伯第九 河間七篇本 子 竿 第十 一河問七 篇本に 後人が附加 した 部分 先進第十一 顔淵第十二 子路第十三 憲間第十四 衛霊公第十五 ○季氏第十六 〇陽貸第十七 微子第十八 子張第十九 裏目第二十 〇子張問 第二十一 ちなみに現行 F論語j 下論11篇の うち,
O 印を 付 した4篇を除いた7篇 は別に独立 した孔子の語録 で 「斉論語」の原始形であ ろう。
○印を付 した4篇は 後に追加されたもの らしい。 十巻 は次の よ うに編成 され てい る。 第-巻 学而第一 ・為政第二 第二巻 八倍第三 ・里仁第四 第三巻 公冶長第五 ・薙也第六 第四巻 述而第七 ・泰伯第八 第五巻 子竿第九 ・郷党第十 第六巻 先進第十一 ・顔淵第十二 第七巻 子路第十三 ・憲問第十四 第八巻 衛霊公第十五 ・李氏第十六 第九巻 陽貸第十七 ・微子第十八 第十巻 子張第十九 ・裏目第二十 上論 下論 「子張問第二十一」 は省略 されている。 成立の順 序 か ら言 って,武 内博士 は次の ように 解 説 している-1
. 河間七篇本 魯の人曽子 を中心 とした『論 語』 で, 曽子 ・孟子の学派の伝 えた孔子語録 で,恐 ら く F論語jの最 も古い形であろ う。2.
斉論語七篇 子貴 を中心 とした F論語』 で,恐 ら く斉人の伝 えた孔子の語轟 であろ う。3.
斉魯二篇本 この内容及び用語か ら推 し て斉魯の儒学,す なわち子貢派 と曽子派 とを 折 申 した学派の集成に出た もの らしく,恐 ら くは孟子が斉 に遊んだ後に作 られた もので あ ろ う。4.
李氏 ・陽貸 ・微子 ・子張問 ・子竿 の諸篇 は後人が種種の材料 よ り孔子の語 を拾 い集め て孔子語額 の補遺にあてた もので, その内容 は雑駁 で,年代 も部分 によって異 なるが,最 も新 しい部分 は戦国末 まで下 るであろ う。 そこでこの順序に よって も儒教 の中心が時代 と 共 に推移 したこ とがわか る。河問七篇本 では,礼 子 の理想は魯の建 国の始祖周公の礼楽 を復興 す る こ とにあったが,単に礼楽の形式 を復興す るので は な くて,その精神 を活かそ うとした ものであ る。 そこで孔子は `仁'を主唱 したが,その仁 は忠恕 に ほかな らない と教 えられている。*
里仁第四,15.「子日 く,参よ,吾が道は-以て これを貫 く。曽子日く,唯。子出ず。門人問 うて 日く,何の謂いぞや。曽子日く,夫子の道は忠恕 のみ。」 これに対 し,下論七篇,即 ち斉論 では,礼楽 の 形式が よ り重要視せ られてい る。そこで孔子は顔 回に対 し 「克己復礼」が仁だ と論 ず るこ とになる。 そ して更 に 「己の欲せ ざる所 は人に施す ことなか れ」 と附け加 えてあ るのは,一見 「忠恕」の教 え と似てい るが,衛霊公篇では,仁 を行 う方法 とし て単 に `恕'だけが 説かれている。 斉論 では仁 の 実践方法 としては `恕'だけ を重 じて,`忠'が欠け てお り,その代 りに `礼'が重ぜ られて来 た。云云。 この ような原始の諸論語が現在の形の ものにな る経路 としては, まず斎魯二篇本 と河問七篇本 と が併合 され, それに子竿篇が補足 されたのが古論 の上論 で, その篇次 を修正 して郷党篇は最後 に廻 したのが魯論 の上論 である。 そ してその上論の後 に斉論語七篇 とその補足的部分 とを合 わせ て十篇 とした もの を下論 として附け加 えた。 それが現在 の F論語』二十篇である, とされ る。*
こ う調べて くる と,
「克己復礼」のあ り場所 とそ の あ りようが何 とな くわか って くるよ うであ る。 それに して も和辻博士 の考察 はいみ じくも青 紫 - 13 1-を射ているよ うである。 F論語j二十篇の うち,前 十篇 を上論 とし,後十篇 を下論 とす るこ とは,宜 しい として,上論十篇には或 るまとま りが読み取 れるが,下論十篇には,何 とな く二番煎 じの感 を 禁 じ得 ない ものがかな りある。 そこで和辻博士が 上論各篇の間に重複す る文句のない篇 をかぞえて みた ところ,一方に学而 ・郷党の二篇があ り,他 方に為政 ・八倍 ・里仁 ・公冶長 ・薙也 ・述而,一 つ飛んで子等 の,ほぼ連続 した七 篇が見 出 され た。 この七篇相互の問には重複 した文句は全然見 出されないが, しか し, これ らと学而 ・郷党二篇 との間には重複がある。 とい うことは, もともと 前2篇 と後7篇 とは,それぞれが別個に,互 いに 関係 な く,集録 された ものであるこ とを物語 って いるのである。 さきに武内博士が上論 を,斉魯二 篇本 (-学而 ・郷党) と河間七篇本 とに類別 した のに符合す る (但 し,和辻博士のは武内博士の河 間七篇本か ら泰伯第九 をはず して,代 りに子等第 十 を入れて ある)0 そ して学而篇の目頭第一があの有名な 「子日, 学而時習之,不亦説乎 --」である。 そ してその す ぐ次に 「有子日,其為 人也 ・-
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」が続 く。孔子 が子-先生 と呼ばれ るのは当然 として,弟子の有 若が有子-有先生 として, まるで先生の孔子 と同 格 に扱 ってある。有子ばか りでな く,孔子晩年の 弟子である曽参 さえ, 曽子 として先生扱い してあ り,子夏や子貢 ・子禽は字 (あざな)で呼んである。 ということは, このことを暗示 している。有子や 曽子 を先生 と呼ぶ人人,つ ま り孔子か らいえば孫 弟子に当る人人が この文章 を書いたのでないか, とい うことと, その執筆当時,孔子の社会的地位 はまだ大 して高 くはな く,学園外の一般社会か ら は,傑出 した弟子たち とほぼ同 じ程度に見 られて いたであろ うとい うこと。孔子が聖人に祭 り上げ られたのは, もっとず っと後のことで,儒教がひ とり諸子百家の間か ら斬然頭角 をあ らわ して 大 帝国漢 の国教 となってか らのことであろ う。 そこで和辻博士の結論 を摘記す ると,学而 ・郷 党の二篇は斉魯二篇 として F論語Jの最 も古い層 であるが,河間七篇 もほぼ同様に古い もの と見て よい。 この点,武内博士の,斎魯二篇本 を孟子が 斉に遊んだ頃の製作 とする説 と食いちが う。 そし て学而篇は,孔子学徒 に示 された 「学園の綱領」
であって,孔子の思想 を叙述 しようとした もので ない。従 って学而篇は, その編集方針に基づ き, 学問の精神や人倫の大綱 に関す る孔子の語 を, き わめて簡略に採録 したに過 ぎない。そ して郷党篇 は,孔子の弟子 との問答や 孔子の思想な どには殆 ん ど触れ るこ とな く,もっぱ ら `仁'の実践者 と しての孔子の面影 を語っている。 この二篇はいわ ばi
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で あって, 次いでよ り具体的に孔子の言行や,孔子 を取 りま く弟子たちの言行の採録 されたのが,河間七篇で あろう。 それにいま-篇 (和辻博士 は泰伯篇,武 内博士 は子等篇) を導入 し,且つ郷党篇 を最後に 過 して上論全体の締め くくりとした。 とい うので あ る (前掲 r孔子1103-4頁)。*
私はこの辺でこの稿 を終 わ りたい と思 うのであ るが,古典 で も F論語』の ように言葉数の まこ と に少 ない ものは,注釈者に よってまるで異なった 受け とり方がされ る。素 人の私 としては驚 くばか りであるOそのサンプル として,学而篇冒頭のあ の 「子 日,学而時習之--
」に言及 したい と思 う。 ほかで もない,貝塚茂樹著 F論語- 現代 に生 き る中国の知恵j (講談社現代新 書13,1946年) か ら, 但 し文体 は,`であ ります'を `である'に した。 子日く,学びて時にこれを習 う,亦た説 (よろ二)ば しか らずや。朋 (といあ り,遠方 よ り釆たる,亦 た楽 しか らずや。人知 らず Lで 温(うら)みず,亦 た君子ならずや。 これはふつ う,次の よ うに解釈 されている。 まず「学問の楽 しさ,これは先生か ら学んだこ とを ときどき復習 してみ る。そ してお さらいす るたびに,何か新 しい意味 を発見す ることだ。
」
しか し,学問はひとりで本 を読んで楽 しんでい るだけでは独 りよが りになる恐れがある。、そこ で同好の友だちと互いに 自分の意見 を話 し,請 じ合 ってみて,初めてほん とうの進歩が可能 に なる。「遠方か ら友だちがや って きて,学問のこ とを互いに論 じ合 う, それはひ とりで復習 して いるのに比べて,いちだん と楽 しいことではな いか。」最後に 「こうい う学問 をや っていること は,それだけで楽 しいので,自分の学問 を,人に 自慢 した り,人に知 られたいために してい るの ではない。だか ら,別に社会 に知 られない としても,不満 は少 しもない,それで平気 だ とい う心境 になれ る人 こそが,君子,つ ま り本 当の学者,ほ ん とうの 人間, といえるのではなか ろ うかO」 こ うい うのが,普通の解釈 であ るが,そ もそ も 孔子の生 きていた紀元前五,六世紀の中国の歴 史的社会 では,書物 はまだそん なに普及 して い なか った はずである。だか ら`学ぶ'とい うの も, 今 の ように先生 につ いて本 を読む こ とではなか った。「学 んで時 に習 う」の `時に'とい うのは, 元来は四時,つ ま り四季の こ とで, 田李 には年 中行事 として先 祖や社神 (土地の神)に対 して い ろいろの祭礼が行 われ る。こ うい う行事 の際,弟 子 たちは これに参列 して,かねて先生か ら教 わ っている礼儀作 法 を実習 してみ る。この実習の 楽 しさは,教室 での学習に比べ て格別 であった ろ う。 そ してこ うい う行事 には,賓客 として, 他 家 ・他村 の人人が招待 されてや って くる。 「朋 あ り,遠方 よ り来 る」わ け で,お客 さんたちは , もてな しを受 けて大満悦, それ を眺めて主人側 の喜 び もひ としお, とい うわけ。祭礼や行事 に はそれぞれ職務 の分 担が あ る。式場 の表に立 っ て晴れの役 をうけた まわ る者があるか と思 えば, 裏 の方で,炊事 当番 など, ちっ とも目立 たず, その くせ 骨 ばか り折れ る役 廻 りに廻 る者 もあ る。 こ うい うか げで働 く人がなければ,華や かな舞 台 もうま く回って くれない。 そんな役 目をだ ま って,手 も抜かずに こつ こつ と果 たす人たちこ そ, まこ とに君子 とよぶべ きではないか- 。 貝塚博士 は清朝の学者 ・劉宝楠の F論語正義』 の解釈の民俗学的知識 を取 り入れて,思 い切 って 拡張解釈 してみた ものだ と断 ってあるが, ほん と うの ところは, こんな ところであろ うか と私 は内 心す こぶ る感心 したので,敢 えて長長 と紹介 した。
*
ところで もうーっ。上論 の最後,
「郷党第十」の 最後 は 「色斯挙兵,胡而複葉0 日, 山梁雌雄,時 哉 時哉。子路共之,三嘆而作。」であるが, これは 極めて難解 の文章で, さすがの朱子 も,恐 ら く閑 文 があるのであろ うと言 って敢 えて解釈 しなか っ た由。大抵の注釈書は古注 魂の何畳の 『論語集 解』)に従 って, 色みて斯 (ここ)に挙が り,瑚 りて而 して後集 (とど) まる。日わ く,山梁の雌経,時 なるか な時 なるか な と。子路 これ を共す。三 たび嘆 ぎて作 (た)つ。 と訓んであ り, 鳥が人の様子 を見て飛び上が り,空 中をかけ め ぐって,適 当な ところへ さっ と舞 い降 りる。 孔子が これ を見て,「山の橋 のあた りのめす堆 よ,時 を得 た ものだ なあ,時 を得 た ものだな あ」 と嘆息 された。 これ を聞いた子路が,礼 子の意 中を誤 り察 して, その経 を捕 えて, こ れ を食膳 に供 した ところ,孔子は 〔折角の料 理 なが ら,子路の心 な きしわ ざに〕三たびそ の臭 い をか いただけ で,料理 に手 をつ け ず 立 って しまわれた。 と解釈 した ものがあるのであるが,これはひ どい。 武 内義雄の岩波文庫 旧版 では 〔孔子山に行いて雌雄を見る〕,色斯 (-色然)(おど ろ)きて挙 (bが)り翻って複葉 (くだ)る.日 く,山梁 の雌雄,時 (-善)(よい)かなよいかなと。子路之に 共(むか)-ば,三たび具・(はねひろ)げて作 (た)つ。 と訓んである。何の ことか よ く分 らない。 和辻博士 はこれ をほほえましい詩 的の一場面 と して受 け とって 「これは孔子が子路 と共に山に行 って雌雄 を見た 時の話である。孔子が近づ くと,一度は驚いて飛び 立ったが,少 し掬ってからまた孔子のあた りへ下 り て くる。それを見て孔子が善いかな菩いかなと云っ た。ところが子路がその姓の側へ寄ろうとすると, 経は飛ぼ うとして止め,また飛ぼ うとして止めた が,結局三度 目に飛びあがってしまった。この情景 は,鳥 さえも孔子だけにはなついた とい うことを 語っている。こういう描写を郷党篇の最後に置いた ことは,編者に対 して幾分の心に くさをさえ感ぜ し めるであろう。
」
と結んである。難解 な古典 の受 け とり方 にこの よ うな甚だ しい距 りのあるこ とに,素 人の私 はびっ くり仰天 した次第である。 ついでに英訳本 をのぞいてみ ると,彼 らもや は り処置に困った らしく,次の ようになっている。 JamesR.Ware:Seeingthegroop,abirdflewoutofreach,andafterflittingaboutforatime cametoperch.Confuciusthenremerked,"The femalebirdmereontheridgecertainlyknows howtoadaptitselftocondition!"Wh enYen Yen [子路 ?] triedtocatch it,ituttererd threecriesandflewaway.
-D.C.Lau :Startled,thebirdroseupandcircled roundbeforealighting.He[Confueius]said,
`Thefemalepheasantonthemountainbridge, howtimelyheractionis,howtimelyheraction is!' Tzu-1u[子路] cupped onehandinthe otherinagestureofrespecttowardsthebird which,nappingitswlngSthreetimes,flewaway. 読み比べてみて,同 じものが どうしてこんなにま で造 って翻訳 されるものか,誰 しもただただ驚 く ほかないであろ う。 * 稿 を終 って,私は 「克己復礼」 というのが、中 国におけ る先頃の文化大革 命運動 の一端 として の