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不可視の桜 : 平安文学の想像力

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不可視の桜 : 平安文学の想像力

著者

奥村 英司

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

49

ページ

21-33

発行年

2012-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000027

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

(2)

不可視の桜 二一

不可視の桜

││平安文学の想像力││

奥 

村 

英 

古来日本人が愛好する花の代表とされるのが桜であるが 、現代において 、 その主流はソメイヨシノである 。だが 、 ソメイヨシノは、江戸末期に東京の植木屋が売り出したのが由来とされる新しい品種であって、古典文学が題材にし てきた桜とは別種ということになる。では、平安時代の王朝人たちが愛好した都の桜は何であったか。それはソメイ ヨシノに慣れ親しんだ現代の我々の感覚とはどのように違うのだろうか。本稿ではまず、桜の品種について歴史的な 考察を行い、実際の作品を通して桜にどのようなイメージが与えられてきたかを考えてみたい。

一 

南殿の桜

﹃源氏物語﹄ ﹁花宴﹂巻冒頭は 、﹁二月の二十日あまり 、南殿の桜の宴せさせたまふ﹂であり 、 南殿すなわち宮中の

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二二 紫宸殿に植えられた桜の下で盛大な宴がとりおこなわれる。内裏の正殿というべき紫宸殿の南階下に桜と橘が植えら れ 、﹁左近の桜﹂ ﹁右近の橘﹂と併称されたのは有名であるが 、元来桜ではなく梅が植えられていた 。﹃古事談﹄巻第 六の一話は以下の通り語る。   南殿の桜の樹は、本は是れ梅の樹なり。桓武天皇遷都の時、植ゑらるる所なり。而して承和年中に及びて枯れ 失せり 。仍りて仁明天皇改め植ゑらるるなり 。其の後天徳四年 九月二十三日 、内裡焼亡し了んぬ 。仍りて内裡を造 る時 、重明親王式部卿家の桜を移し植うる所なり 。 件の木は 、本は吉野山の桜の木 、と云々 。 橘の木は本自生へ託く所な り。遷都以前、此の地は橘大夫の家の跡なり。 桓武天皇が遷都の折りに植えた梅の木が、承和年間︵八三四∼八四八︶に枯れ、仁明天皇によって改めて植えられ た。その後、天徳四年︵九六○︶内裏焼亡の折りに焼け、重明親王が自宅の桜を移植した。その木は吉野山の山桜だ ったという。 この文脈では 、仁明天皇が ﹁改め植﹂えたのは梅の木のように読めるが 、山田孝雄 ﹃桜史﹄では 、﹃続日本後紀﹄ 承和十二年 ︵八四五︶二月一日の記述に天皇が紫宸殿で侍臣に酒を振る舞った際 、﹁殿前の梅の花に攀りて 、皇太子 及び侍臣らの頭に挿し 、 以て宴楽を為す﹂とあり 、また同二十三日の記述にも ﹁紫宸殿の前の梅花﹂とあることか ら 、この時まではまだ梅の木であり 、﹃ 日本三代実録﹄貞観十六年 ︵八七四︶八月二十四日の大雨で 、﹁ 紫宸殿前の 桜、東宮の紅梅、侍従局の大梨等、樹木の名有るもの皆吹き倒れぬ﹂という記述から、このときには桜であったのは 明白とする。さらに﹃禁秘御抄﹄ ﹁ 南殿桜﹂の項に、貞観年間にこの木が枯れた時、根から出た芽を坂上瀧守が守り、 再生させたという記事も紹介し 、﹃古事談﹄の記述は梅を桜に ﹁改め植﹂えたものと結論している 。ただし 、苗木か ら見栄えのする大きさになるまでには相当の年数がかかると思われるから、焼亡に備えてあらかじめ用意されていた

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不可視の桜 二三 ものか 。﹃古事談﹄にも ﹁移し植﹂とあったが 、南殿に小さな苗を植えたということではなく 、 ある程度の大きさの ものを移植したのであろう。 いずれにせよ九世紀半ばに 、 南殿の梅は桜に改められたということになるが 、その理由はしかしよくわからない 。 外来種の梅から固有種の桜へという転換が、国風文化隆盛の象徴と解せられることも多いが、これは﹃万葉集﹄にお いて梅を詠んだ歌が桜を詠んだ歌よりも多かったものが 、﹃古今集﹄では逆転していることとも対応させて考えられ ている。だが、桜井満は、歌数だけを言えば梅は百二十首ほど、桜は四十余首だが、萩は梅を上回る百四十首ほどの 歌数であり、梅よりも萩が愛好されたという結論になるはずで、歌数だけを比較して梅が桜より愛好されたとするの は単純すぎる議論だという。南殿の梅が桜に変更された事情は不明とするほかないが、それを唐風から国風への嗜好 の転換の象徴と捉えるのは、後代の見方であり、植え替えの当時にはそのような意識があったとは断言できまい。

二 

王朝の桜の品種

日本の桜には多数の自生種と、改良によって生まれた園芸種とが存在する。平安京の桜はどのような品種だったの だろうか。 現代では 、桜の自生種は 、﹁カンヒザクラ群﹂ ﹁エドヒガン群﹂ ﹁ヤマザクラ群﹂ ﹁マメザクラ群﹂ ﹁チョウジザクラ 群﹂などに分類されている 。さきの ﹃古事談﹄で 、南殿に植えられた ﹁吉野山の山桜﹂は 、このうち ﹁ヤマザクラ 群﹂に属すると思われる 。現在の吉野山の桜は 、大部分が白花の ﹁ヤマザクラ﹂である 。文学作品等の ﹁山桜﹂が 、 大きく山に咲く花の意なのか、品種としての﹁ヤマザクラ﹂を指すのかはにわかに決しがたいが、平安時代において 最も標準的な桜は、この吉野の山桜とみてよかろう。

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二四 修験道の祖、役小角が吉野のある大峰山系で修行中、金剛蔵王菩薩が出現し、この菩薩像を桜の木で彫ったことか ら神木とされ 、以後金剛菩薩に祈願する際吉野に桜を植樹する風習が生まれたという 。﹁ サクラ﹂の語源は種々ある が 、桜井満は 、﹁サは田の神 ・稲の神を表す古語であり 、クラは神座の意であろう﹂と説く 。桜の季節が農耕の開始 と重なり、その咲き具合や散り具合がその年の稔りを予告する。農耕儀礼との結びつきが桜を神格化し、役小角の逸 話にも繋がったのだろう。南殿の桜も、国風文化への回帰という文脈より、むしろ神木としての性格をみてとるべき ではないか。 さて、品種としてのヤマザクラは、花の色は白色で、花と葉が同時に展開する、という性質を持っているが、それ 以外に桜には、ソメイヨシノのように花が咲いた後に葉が展開する種、ミヤマザクラのように葉が展開した後花が咲 く種もある。現代においてソメイヨシノがひろく愛好される要因の一つとして、まず枯れ木同様の状態から木全体に 花だけが咲くという見栄えの良さがあげられるだろう。野生種の桜の中では、オオヤマザクラが、花が葉に先行して 開くという性質がある。花色は赤みが強く、ソメイヨシノ以上の華やがあるが、比較的標高の高い場所に自生するの で、これは平安京での主流ではなかったろう。 ﹁ヤマザクラ群﹂は 、 サトザクラと総称される栽培種の原種ともなり 、 日本の野生種の主流とみられるが 、もうひ とつ﹁エドヒガン群﹂も、日本に広く分布する。エドヒガンも、花が葉に先駆けて開き、花の色は淡紅色から白色で ある 。また 、枝垂れるものが多く見られるのも特徴である 。 ヤマザクラやエドヒガンは寿命が長いことでも知られ 、 樹齢千年を超えるものが現存している。また、ヤマザクラ群のオオシマザクラも広く知られているが、その名の通り 伊豆諸島など暖地に自生したもので、平安の都での主流ではなかったろう。 平安京の桜は 、ヤマザクラを基本としながら 、エドヒガンなど様々な種類が混在し 、花色や開花の仕方 ・時期も

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不可視の桜 二五 様々であったとみるべきで、現代のように花見の対象がソメイヨシノに限られ、時期も数日というのではなく、長期 にわたり楽しむことができたと推測される 。 概ね時間の推移に即して歌が配列されている ﹃ 古今和歌集﹄に於いて 、 桜を詠んだとおぼしき歌が、春上巻の二六番歌から、春下巻末の一三四番歌に及んでいることからも、そのことが理 解されよう。 なお、 ﹃徒然草﹄一三九段に、   家にありたき木は、松・桜。松は五葉もよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多くなり 侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねぢけたり。植 ゑずともありなん。 とあり、この通りであれば京の都には八重桜はあまりなかったことになる。兼行の時代でも、桜の代表は吉野の桜と 左近の桜であることはうかがい知られる。

三 

﹃古今集﹄の桜

さて、以下文学作品に即して平安の桜を考えてみたい。 ﹃古今和歌集﹄巻一の四八番歌までは 、﹁花﹂の表記もあるが概ね ﹁梅﹂を詠んだものてあり 、本格的な桜の歌は 四九番歌からとなるが、まず次の歌をとりあげる。 五一   山桜わが見にくれば春霞峰にも尾にもたちかくしつつ や、紀貫之の、 五八   誰しもかとめて折りつる春霞立ちかくすらむ山の桜を

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二六 のように、春霞に隠される山桜が詠まれるが、山桜の開花は平地より遅いから、これらは実景ではあるまい。特に貫 之の歌は詞書に﹁折れる桜をよめる﹂とある。実際には目にできない霞の向こうに桜を幻視する、この時桜は現実世 界の花ではなくなるだろう。 一方で次のように、 六四   散りぬれば恋ふれどしるしなきものを今日こそ桜折らば折りてめ のように、散る前に桜を折り取ってしまおうという発想もある。ここに女性のイメージを重ねて恋の歌と考えても良 いのだろうが、咲いている桜よりも散る桜の歌が多く収録されているのも﹃古今集﹄一つの特徴といえる。 ﹃古今集﹄では、桜の満開の様を詠むより、桜を散るものとして詠む歌の方が多いように思われる。紀有朋の歌、 六六   さくら色に衣は深く染めて着む花の散りなむのちの形見に は、散る前に衣を桜色に染めて形見にしようというもの。下巻の、 七一   残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はての憂ければ は、桜の散る見事さを無常観に重ねた観念的な歌で、紀友則の、 八四   ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ のように、花の散る理由を知りたいという方が自然な感情であろう。 霞に隠れ、風に散る桜は、その盛りを愛でるよりも、幻想の彼方に咲く花とみるべきかもしれない。すでに見たよ うに、実際の平安京の桜は、種類が混在し鑑賞期間も長かったはずだからである。例えば春上巻素性の、 五六   見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり は、実景ではなく、想像力によって再構築された図であり、伊勢の、

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不可視の桜 二七 六八   見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし は 、﹁まし﹂という反実仮想が用いられているが 、 実際に山里の桜は里よりも遅れて咲くはずだから 、 これは遅れて 咲くことへの希望ではなく、誰にも見られることなく咲いている桜を幻視するところに主題があるとみるべきだ。 霞に隠され、すぐに散ってしまう桜のイメージは、実景そのものというよりも和歌という言葉の中で醸成された虚 構の桜なのであった。それは、虚構の物語世界において更なる性格が付与されていくことになる。 見えない風景を詠むとは、和歌表現が実景にとらわれず自由な表現が可能になったことを意味する。実景としての 都の桜を、文学作品から復元することは不可能といえよう。想像の光景としての桜は、物語においてさらに独自の展 開をみせる。

四 

﹃伊勢物語﹄の桜

歌人としての在原業平の個性的な詠みぶりは 、桜を題材とした作品にも表れている 。﹃古今集﹄にも採録されてい るが、ここでは、 ﹃伊勢物語﹄にとられた歌を考えてみたい。まず、八二段の序盤をみよう。   むかし、惟喬の親王と申すみこおはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの 桜の花ざかりには 、 その宮へなむおはしましける 。その時 、右の馬の頭なりける人を 、常に率ておはしましけ り。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと 歌にかかれりけり。いま狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝 を折りて、かざしにさして、かみ、なかしも、みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる。   世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

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二八 となむよみたりける。また人の歌、   散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき とて、その木のもとは立ちてかへるに日暮になりぬ。 いわゆる惟喬親王関係の章段で 、水無瀬での花見の一幕である 。﹁世の中に∼ ﹂の歌は ﹃古今集﹄春上巻に在原業 平の歌として採録されており、ここでの﹁右の馬の頭﹂は業平を指すことは明らかだが、語り手は﹁時世経て久しく なりにければ 、その名忘れにけり﹂と韜晦する 。﹃伊勢物語﹄においては 、他の人物が実名であっても 、主人公だけ はその名を朧化する事が多いが、そこには、忠実に基くか否か、という点を超えて虚構化が行われているという意味 を見出すことができる 。 歌自体は 、反実仮想で桜というものがなければ春をのんびりと過ごせるのに 、桜がいつ咲 き、いつ散るかが気になって落ち着かない、という位の意味合いで、桜に翻弄される人の心を逆説的に表現している わけだが 、﹁ たえてなかりせば﹂と 、桜の全く無い春の光景を連想させる 。二首目の ﹁ 散ればこそ∼ ﹂の歌は 、桜が 散るのを賛美し、無常観と結びつけるもので、さきの﹃古今集﹄七一番歌と同様の発想の、類型的な詠みぶりといえ る。 桜の消滅を詠む一首目に対して、桜は散るから素晴らしいと応じる二首目は、唱和としてみるとズレがあるように みえる 。﹁桜のなかりせば﹂は 、 花が全て散るというのではなく 、桜の木そのものが全く存在しない 、ということで あろう。本来無関係の歌が、物語の中で併置されるのはよくみられることで、この位相差も作品成立の事情と考える こともできるわけだが、ここでは、さらにその二首のズレを、物語の読みにつなげてみたい。 この八二段は 、続く八三段と併置され 、ありし日の惟喬親王と周囲の貴族達との ﹁君臣和楽﹂というべき光景と 、 一転して出家の末に雪の小野に隠棲する親王の零落ぶりが対照されているわけだが、二首目の﹁この世に何か久しか

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不可視の桜 二九 るべき﹂は、そうした親王の運命を予告したものとも読める。同様に、一首目の﹁桜﹂を、座の中心たる親王とみれ ば 、﹁たえて桜のなかりせば﹂も 、親王という存在がなければ 、 あれこれ気苦労をすることもない 、という寓意をみ てとることもできる 。同時に 、この日のような華やかな宴の席も 、 親王の存在あってのことであり 、﹁ のどか﹂な心 とはまた、 ﹁桜﹂=﹁親王﹂を失う無聊の日々とも言える。 一対としてみればややズレを感じさせる二首も、そこに親王の零落という寓意を読めばここにおかれた意味も納得 されよう。 ﹁たえて﹂この世から消えてしまうことを期待され、 ﹁散る﹂ことが賞賛される﹁桜﹂の存在の不穏さがこ こに浮上する 。かくしてその名を忘れられた右の馬の頭は 、 桜の華やかさとは無縁な小野の雪中に佇立するしかな い。 次に九七段。   むかし、堀河のおほいまうちぎみと申す、いまそがりけり。四十の賀、九条の家に    てせられける日、中将 なりけるおきな、   桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに 藤原基経四十の賀で 、﹁中将なりける翁﹂が詠んだ歌は 、﹁散る﹂ ﹁曇れ﹂ ﹁老い﹂ ﹁まがふ﹂といった不穏な語を鏤 めた賀の歌で、言葉自体のもつ祝賀性を本性とする賀の歌としてはきわめて異例といえる。内容的に老いの到来を桜 が散ることで妨害するという意味にはなるが、擬人化された﹁老い﹂の忍び寄る不気味さは消えない。 桜が人を迷わすほどに散るという歌は、 ﹃古今集﹄春下の貫之の歌、 一一六   春の野に若菜つまむと来しものを散りかふ花に道はまどひぬ があり、桜吹雪で道に迷うなどということは現実にはあり得ないから、これも想像上の景として誇張された表現とみ

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三〇 るべきだろう。あるいは﹁桜花∼﹂の歌を意識しているか。 散る桜によって演出される現実離れした異界のイメージは 、甘美でありながらその彼方に迫り来る ﹁ 老い﹂ 、 さら には死を秘めている。 ﹁ 絶えて﹂ ﹁ 散る﹂といった不穏な言葉の力によって実景から飛躍した桜に、物語が滅びや死の イメージを付与しようとしている 。﹃伊勢物語﹄の ﹁昔男﹂が 、単純に藤原大臣家を賞賛するはずかないという暗黙 の了解が、この章段の不穏さを増幅してもいる。

五 

﹃源氏物語﹄の桜

前引の、南殿の桜の前で光源氏が春鶯囀を舞うのは、 ﹁ 花宴﹂巻であった。 かうやうのをりにも、まづこの君を光にしたまへれば、帝もいかでかおろかに思されむ、中宮、御目のとまるに つけて、春宮の女御のあながちに憎みたまふらんもあやしう、わがかう思ふも心憂しとぞ、みづから思しかへさ れける。   おほかたに花の姿を見ましかば露も心のおかれましやは 御心の中なりけむこと、いかで漏りにけん。 前巻 ﹁紅葉賀﹂と重層しながら 、藤壺の複雑な心中を叙述する一節である 。光源氏の雄姿を目の当たりにしなが ら、まず弘徽殿女御がこの源氏を憎悪していることに思いを寄せ、そこから光源氏に心を寄せてしまう自身のありか たを自省する 。﹁ おほかたの﹂の歌は藤壺の心中だけのことで 、本来余人が知りえないことだという草子地が付加さ れることから、この歌の重要性が強調される。第三者的に﹁花﹂=﹁光源氏﹂を見ることのできないがゆえの苦悩を 表出するが、それは光源氏にすら知られることのない藤壺の恋慕の情を意味するのでもあった。この場面専ら人物の

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不可視の桜 三一 叙述ばかりで、肝心の桜について触れられることはない。一座の﹁光﹂が、桜を圧倒しているのでもあり、また藤壺 にとって﹁花﹂は光源氏その人でしかない。 その藤壺薨去を語る﹁薄雲﹂巻でも、桜が効果的に使われていた。 二条院の御前の桜を御覧じても 、花の宴のをりなど思し出づ 。﹁今年ばかりは﹂と独りごちたまひて 、人の見と がめつべければ、御念誦堂にこもりゐたまひて日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あら はなるに、雲の薄くわたれるが鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。   入日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる 人聞かぬ所なればかひなし。 ﹁今年ばかりは﹂は﹃古今集﹄哀傷歌、上野岑雄の、 八三二   深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け の引用であり 、これも現実にはありえない ﹁墨染﹂色の桜を現出させる 。﹁山際の梢﹂に ﹁鈍色﹂の雲がかかる光景 は 、まさに ﹁墨染﹂の桜の景である 。紫雲が極楽往生の象徴であるとすれば 、﹁鈍色﹂の雲は 、華やかな桜の色を受 け容れられない悲嘆の象徴であり 、 色のない死の世界 、冥界の光景でもある 。かくして 、﹁墨染に咲け﹂という現実 にはあり得ない絶唱が機転となって、ここでは桜が詩の世界に臨界する。 和歌の世界では﹁桜﹂=﹁散る﹂の結びつきが、無常観を喚起するという類型であった。だが、ここでは桜は散っ ているのではない。色を﹁墨染﹂とすることで死の世界を現出させている。 ﹃伊勢物語﹄では、 ﹁老い﹂に近接した桜 が、ここにおいてついに﹁死﹂のイメージを抱え込むことになった。 遡れば、 ﹃万葉集﹄巻十六の桜児伝説が、桜と死を結びつけた先例ともいえる。

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三二 三七八六   春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも 三七八七   妹が名にかけたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに 特に三七八六は、桜の﹁散る﹂という属性が桜児の死に直結している。桜の花は散ってもまた翌年咲くのだから、桜 が散るのは ﹁死﹂ではない 。 桜児の死という物語を下敷きにして 、 初めて ﹁散る﹂ことが死を表象するのである 。 ﹁桜﹂が﹁死﹂に接近できるのは、物語の想像力によってであると考えておきたい。 平安京の桜を実景として再現することは、文学作品を通しては不可能である。景が言語化によって虚構化され、デ フォルメされる 、そこにこそ文学的想像力の本質がある 。さらに和歌表現から物語表現への飛躍の中で 、﹁桜﹂は ﹁死﹂を孕む花となる。西行の有名な歌は、そうした文学史の末裔とみるべきだろう。   ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃 注  ﹃古事談﹄書き下し文は岩波新日本古典文学大系によった。 ﹃続日本後記﹄ ﹃三代実録﹄本文は国史大系により、私に書き下した。 その他作品の本文は小学館日本古典文学全集によった。 桜に関しては 山田孝雄   ﹃櫻史﹄ ︵講談社学術文庫・原書は昭和一六年刊︶ 桜井満   ﹃万葉の花﹄ ︵雄山閣・昭和五九︶ Kuitert Wybe   ﹃サクラの文化史および分類学的研究について﹄ ︵﹃ ランドスケープ研究﹄二○○七年一一月、七一巻︵三︶ 号、日本造園学会︶

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不可視の桜 三三 大場秀章・川崎哲也・田中秀明解説   ﹃新   日本の桜﹄ ︵山と渓谷社・二○○七︶ を参照した。

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