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大伴旅人における中国的志向(3)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 大伴旅人における中国的志向(3). Author(s). 石田, 公道. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 24(2): 71-83. Issue Date. 1974-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4021. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A ) ‐. 昭和49年1月. 大伴旅人における中国的志向 3 石. 田. 公. 道. 北海道教育大学国語国文学研究室. ’ Kod6 1SH・DA: ○tomo‐no-Tabito s Approach to Chinese W’ays o P f Thinking , ar 3.. 今日大伴旅人の作品は, 約80首の歌とその前につけ られた若干の序文が 『万葉集』 の巻3, 4, 5, 6, 8 に散見するが, その中で長歌は1首だけで他はすべて短歌である. その外には 『懐風 藻』 の中に漢詩1首を残 している. 長歌は彼の 作品の中でも最も早い頃に作 られたと思われるがそ れ に は 次 の よ うに 詠 ぜ られ て い る.. 暮春之月, 幸芳野 離宮時, 中納言大伴卿, 奉勅作歌 井短歌 未連奏上歌 みよし野の. 芳野の宮は. 長く久しく. 変 らずあ らむ. 反. 1首. 山柄し 貴かるらし 川柄 し 清けかる らし 天地と 行幸の宮. (万葉 351). 歌. 昔見し象の小川を今見ればいよいよ 清けくなりにけるかも. (万葉 316). 暮春の月とあるだけではこの作品がいつ頃作 られたかを確かめることができないが, 『続日本紀』 によ ってほぼこれに該当する行幸の記事を求めてみると, 養老7年5月葵酉と, 神亀元年3月庚申 の2回芳野行幸の記事がみ られる。 暮春の月という語感か らして, それは神亀元年3月の場合であ 0歳である. 天皇は即位早々芳野に行 るように思われる. 時の天皇は聖武天皇で大伴旅人はこの時6 幸せ られているわけである. 大伴旅人の作品ではこれが最も早い作品で, それ以前のものは知るこ と が で き な い。. 大納言大伴卿歌. 1首. 未詳. 奥山の菅の葉しのきふる雪の消なば惜しげむ雨な降りそね. (万葉 299). この歌は従来大伴旅人の作といわれていたものであるが, 契沖以来これを疑い, 今日では彼の父 ) である大伴安麻呂の作とせ られている1 . 従って前記の長歌は現存の旅人の作品中では最も古いも のの一つで, 旅人は齢60にして始めて歌を詠んだのかも知れない。 斎藤茂吉氏は上記の長歌を評 して 「旅人はこの頃までに, この程度の歌が詠めるよ うになってい. - 71 一.

(3) . I VO .24 No ,2. i ido Un ive i i journal of Hokka ty of Educat rs on I A) on (Sect. january ,1974. ) たのである2 」 とみてい られるが, 実際に彼が歌を詠んだという証拠は見当 らない. むしろこれ以 前の作品が伝え られていないということは, 彼がまだ詩歌に対して積極的な情熱を抱いてはいなか っ た こ と を 示 して い る と 思 う.. 『万葉集』 が今日のような形で伝え られていることについては, 大伴旅人の長男である大伴家持 の力に負うところが多いといわれているが, 彼がも し若年の頃か ら作歌の道に志していたな らば, 若干の作品は残 っていたであろうか ら, その子の家持がそれをも らすとも考え られない. 前記の長 . 彼は晩年に 歌もいわば儀礼的の歌であり, その行幸がなければ当然存在しなか った歌であるか ら, 至るまで作歌の経験はなか ったものとみるべ きであると思う. 大伴旅人の歌を考察する場合にこれ はきわめて重要な問題で, 彼の作る歌 がいわば素人じみた稚拙な趣をたたえているのもここに原因 の 一 つ が あ る と 思 う.. 当時は人麻呂や赤人のようにいわゆる宮廷歌人と後世の 人々か ら言われている人々によ って, 宮 廷における諸行事や葬祭等の儀礼の際にその場に応じた詩歌が詠ぜ られ, またその場に出席した高 位高官がその折の所感を述懐するというのが, 詩歌の作 られる場であり, 旅人の作品が伝えられて いないということは, 大伴旅人がそのいずれにもあずかる機会がなかったことを意味している. 彼の現存する唯一の従駕の作には 「いまだ奏上を経ざる歌」 という注がつけられている. このこ とについて諸家の解釈は必ずしも統一せ られてはいないが, 私はそれが勅命によって作 られた作品 ではあるけれども, 実際には公式に日の目を見ることのできなか っ た作品で, それがそのまま大伴 家に残 っていたものが 『万葉集』 の編さんに際 して収録されたものではないかと考える. 清水克彦氏は, 旅人は漢籍の語を活用 していることの外に 『宣命』 の用語を援用 しており, また その内容は耳にきくだけでなく, その文字を目でみるのでなければ, その意味を充分に理解するこ とはできない作品であるという. つまり旅人は宮廷歌人としては適当ではなか ったと せ ら れ て い ) る3 .. 私は旅人が晩年に至るまで歌人としての経験を持たなか ったということの外に, 彼の歌に対する 意識が一般の人々と傾向を異にしていたということが, 儀礼的な長歌を作 っても, 諏詠に適しなか っ た と い う こ と で は な い か と 思 う. と こ ろ が 彼 が 大 宰 帥 と して 九 州 に 下 っ て か ら, そ の 死 に至 る 数. 年間のうちに, 彼の作歌に対する情熱は爆発的に燃えあがるが, これはきわめて特異な現象でその 理由は単純には考えるべきでない. 大伴旅人が大宰帥に任ぜ られたのは 『続日本紀』 に記載がないのでよくわか らない. 恐 らく神亀 の未年頃大宰帥に任ぜ られ, 天平2年冬11月大納言に任ぜ られ, 大宰帥は兼官として都に帰るが, 天平3年7月には早くも薫じているので, その作品の大部分はおそ らく筑紫の地で作 られていると みなければな らない. これまで作歌の経験の乏しかった彼がこのように多くの作品を残すその契機 と な っ た も の は い っ た い 何 で あ ろ う か.. 彼が筑紫に下 ってか ら発生した大きな不幸はその妻, 大伴郎女の死であろう. 『万葉集』 巻8に はこれに対して弔問 した石上堅魚の歌及びこれに対する大伴旅人の返歌が収め られている. 式部大輔石上堅魚朝臣の歌. 1首. ほととぎす来なきとよもす卯の花の共にや来 しと問はましものを. ) (万葉 14 72. 右, 神亀五年戊辰, 大宰帥大伴卿の妻大伴郎女, 病に遇ひて長逝す. ここに, 勅使式部大輔石 上朝臣堅魚を大宰府に遣わして, 喪を弔ひ井せて物を賜ふ. その事すでに畢り, 駅便と府の諸 卿大夫等と共に記夷城に登りて望遊する日に, 乃ちその歌を作る.. -7 2-.

(4) . 第 24 巻 第 2 号 大宰帥大伴卿の和ふる歌. 昭和49年1月. 北海道教育大学紀要(第一部A) 1首. 橋の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日 しぞ多き. 73 ) (万葉 14. 石上堅魚の朝臣というのは 『続日本紀』 によれば, 養老3年正月, 従六位を授 け られ, 神亀3年 正月に従五位上, 天平3年正月, 正四位下, 8 年正月, 四正位上に任官しているこ と が 知 ら れ, 『万葉集』 にはこの1首だけを伝えている。 石上堅魚の弔問を受けた旅人は, 遠路わざわざ弔問 し てくれたその労を謝 して, 一日を記夷城, すなわち今日の基山に案内してもてなしたも の で あ る う。. この事例は, 大伴旅人が当時正三位中納言という高官であったために都 からわざわざ勅使が派遣 されたのであ るが, 旅人としては慰労の気持があったのである. この作品は宴遊の歌ではあるけれ ども, 場合が場合だけに挽歌的発想となったのはやむを得ない. しかしこれらの歌で注 目すべ き点 は個人の感懐を吐露した応答がなされているということでそれが 都を遠く離れている大宰府の地で 試 み られ て い る こ と で あ る.. このことは神亀5年のことで, 旅人は時に64歳, 恐 らく大宰帥として筑紫に下って間もない頃の ことであろうと思われる. 従 って 『万葉集』 巻5の冒頭にある作品は通説によればそれに先立 って 詠 ま れ て い る こ と に な る.. 大宰帥大伴卿, 凶問に報ふる歌 1首 禍故重畳し, 凶問累集す, 永く崩心の悲 しびを懐き, ひとり断腸の涙を流す. 但だ両君の大助. に 依 り, 煩 命 わ ず か に 継 ぐの み. 筆の言を尽さざるは, 古に今に嘆く所なり。. よのなか. 世間は空しきものと知る時し, いよいよますます悲しかりけり. (万葉 793). 以上のうち 「大宰帥大伴卿, 凶問に報ふる歌1首」 とある部分はもちろん後人によ って加え られ たものであるが, 「禍故重畳」 以下の序文は旅人自身によ ってつけ られたものとみて よ い で あ ろ う。 この序文の中の語句の中で 「凶問」 については古来諸説があ って今日なお定説をみるに至 らな し・。. 契 沖 は 「大伴 卿ノ 妻 大 伴 郎 女 死 去 セ ラ レタ ル ラ 聞 テ 都 ヨ リ 弔 ラ ヒ 聞 エ ケ ル 人 二 答 テ ョ セ ル, 歌 ナ. ・神亀五年春夏ノ 間ヵ。 第八夏部, 石上堅魚朝臣ヲ御弔ノ勅使二下ツ給ヒテ贈物ナ リ, 郎女ノ死去ノ ド給ハリケル時, 堅魚ト大伴卿ノ贈答ノ歌四五月ノ間ト見ュ レバ ナリ. 今歌後注二六月廿三日トア ) ルハ, 私ノ 弔ノ・勅 使 ヨ リ モ 遅 ク, 返 事 モ 便 二 随 フ故 ナ ル ベ シ4 」 と 述 べ て い る.. ) 」 という説を出 この説は広く 一般に行われていたが, 井上通泰氏が 「凶問は凶事の報せである5 されてか ら必ずしも旅人の妻の死に対する弔問ではないという考え方がおこり, 小島憲之氏もいく ) そうなれ ばこ れは必 つ か の 例 を挙 げ て, 凶 事 の 報 せ と い う 意 味 に用 い て あ る こ と を 示 さ れ て い る6. ずしも旅人の妻の死に対する感慨であるとばかり言 いきることはできず, 沢鳩久孝氏は rこ れ は こ ) 」 の歌の意味や次の憶良の挽歌などか ら憶良の妻の死と認めた方が穏当でないかと考えたのである7 と述 べ て い られ る。. しかし私がこの序文の中で最も関心をよせるのは末尾の 「筆の言を尽さざるは, 古に今に嘆く所 なり」 と附記せ られている部分である。 この部分は果 して一体誰がつけ加えたのであろうか。 もし これが旅人自身の文章であるとすれば, この当時か ら筆によ って自己の意志を伝えるということが 次第に盛にな って来ている証拠で, 文字による詩歌というものが新 らしく発生しつつあることを示 したものできわめ て貴重な資料といわなければな らない. - 73 一.

(5) . VOI .24 No .2. ion (Sec i i t lof Hokka ido Univer t on I A) t journa s y of Educa. January ,1974. このようにこの歌が作 られた動機については諸説 があ るが, この歌のできばえについては大きく 評価せ られている方々が多い. この歌をもって旅人の作品の中で最もす ぐれたものの 一つであると ) す るのは土田杏村氏である8 . ま た 斎 藤 茂 吉 氏 は 「こ の 歌 に は, 仏 教 が 入 っ て い る の で, 空 しき も の と 知 る と い う だ け で も, 当. 時にあっては, 深い道理と感情を伴う語感を持 っていただろう, とその新鮮性を強調し て い ら れ ) る9 .. 土展文明氏は5巻の諸作品が山上憶良の家より出たものであり, この序文も憶良の案文になるも o ) のであろうとしてい られるl .」 が作品そのものについては 斎藤茂吉氏とほ ぼ同 じ位の評価を与え てい られる. また土屋氏は, この末尾に 「神亀五年六月 二十三日」 という日付 がある こ と に よ っ て, 都よりの弔問に対する返翰であろ うとみてい られるのに対 して, 沢渡久孝氏は返翰であるとみ 1 ) る に は 旅 人 の 妻 の 死 か らみ て あ ま り に も お そ す ぎ る と み て い られ る1 .. 私はこの歌に対する斯界の権威者の評価を否定するわけではないが, この歌がすぐれているとす れば, それは素人じみた新鮮さにあると思う. この歌には 「空 しき」 「いよいよ」 「ますます」 「悲 しかりけり」 というような抽象的な用語が連ね られている. これがかえって素朴で率直なひびきを も た らして い る と い う の が 諸 家 の 共 通 した 評 価 と な っ た の で は な い か と 思 う.. もしもこれが柿本人麻呂のような専門の歌人であれ ば, このように抽象的な用語を連ねることは しなかったに違いない. 旅人の歌が平明でおお らかな情感をたたえているといわれるのは, むしろ その表明 しようとする心境をなん ら技巧をこ らすことなくすなおに 表現しようとしたか らではなか ろぅか. 彼は本来 が政府の高級官僚であり, 而も彼の家柄は古代豪族で代々武を以て大王家に仕え ていたという伝統を家の誇りとしていた一族であったので, いわば素人の歌人であ ったということ ができよう. 素人であれば自分の意志や感 情をすなおに吐露することができ ればそれ で 充 分 で あ り, おおぜいの前で節をつけて流暢に詞詠 する必要もない. 殊に晩年に至 って詩歌の道に志 したと いう事情には特別な理由も考え られ, その作品は多分にその座に居合わせた人々に示すという だけ のものではなく, 後世の人々に対 して自分の志を書き残そうと考えたところに大きな意義があ った よ うに考える. この点では大宰府で彼の下僚であ った筑前守山 上憶良についても同様なことが言える. 現存する 彼の作品の大部分は彼が筑前守に任ぜ られて九州に下向して か ら以後のものが多い. 今日彼の残 し 0首余りの作品の中で最も早い頃のものとして次の歌が伝え られている. た8 いざ子 ども早く大和 へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬ らむ. ) (万葉 63. この作品の前には 「山上臣憶良在大唐時, 億本郷作歌」 という前書きがつけ られているので, 彼 が遣唐使の随員として中国に渡った折のものであることがわかる. 彼が栗田朝臣真人を遣唐執節使 ) 栗田真 人 2 とする一行に, 遣唐小録として 中国の地をふんだのは長安3年10月 のことであった1 . 706 ) の の一行は約2年近くを中国の地で過して 帰途につくことになるが, 上記の歌が慶雲3年 ( 志貴皇子の歌の前に排列されているところか ら, 沢潟久孝氏は執節便栗田真人と一緒の船で帰 って 3 ) そ う す れ ば 前 記 の 歌 は46歳 か 8 歳 で作 っ た と い う こ と に な る. 来 た の で あ ろ う と み て い られ る1 ,. それ以前の作品として伝え られているもの があっても真偽は不明である. またこれ以前の作品 が殆 ん ど伝 え られ て い な い と い う こ と は, 彼 が い わ ゆ る 歌 人 で は な か っ た こ と を示 して い る.. 彼が本格的な作歌活動に入るのはその晩年, 大宰府において大伴旅人の下に筑前守として在任し たということが大きな契機をなしたように思う. 要するに当時は一般に歌人と称する者がい るわ テ. ー 74 -.

(6) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. ではなく儀式や宴席の場で詞詠するのが歌であり, その席に臨んでも歌を議する必要がなければ歌 は作 られなかったわけで, 大津皇子のような衝撃的な運命に遭 った場合に, その才能のある者によ っ て の み 可 能 で あ っ た よ う に 私 は 思 う.. つまり大伴旅人や山上憶良は共に歌人という意識によっ て作歌活動に従事したわけではなく, 土 大夫であるか らにはそれにふさわしい詩文の教養が必要であるし, それによっ てその人と志とを後 世に伝えなければな らないという中国士大夫の土人意識に啓発されたものであろうと考 える. 山上 憶良が晩年重患にかかっ た時, に藤原八束は河辺朝臣東人を遣わして病状を慰問せ しめた折に, 憶 良 は そ の 心 境 を つ ぎ のよ う に 述 べ て い る.. 士や も空しかるべき万代に語りつ ぐべ き名は立てずして. 78 ) (万葉 9. ここで憶良が 「万代に語りつぐべき名」 と称しているのは, 彼の歌 人としての名声ではなく, 中 国の土大夫が念願とした身を立て道を行い名を後世に揚ぐという, 土大夫の功業を指していること はあき らかである. これは詩歌をこれまでの宮廷の儀礼や, 宴席の座興としての役割りか ら解放して, これに新 らし い意義と価値とを与えようとしたもので, ここに 筑紫歌壇の新 らしい性格がある. またこのことは 都を遠くはなれた, いわゆる 「あまざかるひな」 であっ たか らこそ, 可能であっ たかも知れない。 旧い伝統もなく, 束縛もなく, また都への対抗意識というものも彼等の作歌意識を強烈にしたかも 知 れ な い.. 大宰府は当時わが国の出先機関として最も重要なところであっ たが, この地の官僚に任ぜ られる ことは矢張り一種の左遷として印象づけ られ人々の好むところではなかっ たのである. 当時偶然と はいいなが らこの地に山上憶良, 大伴三依, 葛井大成, 沙弥満誓等文雅の人士が多く集まっ ていた ことは, 彼等の作歌活動を活発にする契機となっ たのは確かであると思うが, 彼等の心の中には大 宰府の在任を, 中央への栄転を前提とした 一時的な地方官勤務という意識よりも, 中央 政界の圏外 に放置せ られているという一種の敗北意識が流れていたものと思う. 56) (万葉 9. やすみししわが大君の食す国は大和もふふも同じぞと念ふ. この歌は大宰少武石川朝臣足人が, 大宰帥大伴旅人の家に招待せ られた時に, 駅使 (はゆまづか い) 藤井広成に歌を詠むように勧めたので, 広成が代っ て 「さすたけの大宮人の家と住む佐保の山 をは思ふやも君」 (万葉 955) に 対 して, 旅 人 が和 え た 歌 と い わ れ て い る. この事例は当時詩歌が儀礼的な諏和応酬の具として重要な役割りを 果していたことを示す好い 例 であるが, 旅人の作品には, その表面の意味とは反対に悲痛な望郷の心情がこめ られているように 思う. 隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の滝になおしかずけり. 60) (万葉 9. この歌は大伴旅人が, 吉野の離宮を遥かに思ひて作る歌, という前置きがあり, 儀礼的な意味を 持っ て詠まれたものであることは確かであろうが, この中には彼が都に対する心情がこめ られてお り, 前 の作品が彼のやせ我慢であることを示 している. 音が盛また変若めやも々 まとほとに奈良の都を見ずかなりなむ. - 75 -. (万葉 331).

(7) . vo ー ,24 NO .2. l。 idO Un iver i f Hokka i i Journa 七 on (sect s on I A) y of Educat. January ,1974. これは 「帥大伴卿歌五首と」 題せ られて詠まれた中の一首でであるが, 彼は若き日に返ることの 不 可 能 あ る こ と を 嘆 き, こ の ま ま 奈 良 の 都 に 帰 らな い ま ま で 死 ん で し ま う の では な い か と 悲 しん で い る.. これ らの作品の中で, 前者が公式の場における意志の表明であるのに対し, 後者はいわゆる私懐 である. また青春は再び返 ることはできないと述懐 していること中国的な発想にもとずくものであ るかも知れない. このように個人の感慨 を詩歌の中に吐露するということは大宰府の歌人たちの一 つ の 特色 と い う こ と が で き よ う.. 敢布私懐歌 3首 天 ざかる罰に五年住 ひつつ都の風習忘 らぇにけり 0) (万葉 88 斯く のみや息衝 き居 らむあ らたまの業種, 1) 住く年の限知 らずて (万葉 88 吾が主の御 霊賜ひて春さ らば奈良の都に召さけ給はね (万葉 882 ) これは大伴旅人が大納言に昇進 して都に帰ることになっ た際に, 憶良がこれを送っ た歌である. これ らの作品の中には後に残された者の悲哀と共に, 大宰府における歌壇の風潮が, 都におけるそ れ と は ま た 異 っ た も の で あ る こ と を 誇 示 して い る よ う に 私 に は 感 じ られ る.. かつては都に住む生活に馴れていた文化人たちが, 都を遠く 離れた九州の地に赴任して来て, そ こで生活す るということになれば, 都での習慣にあやかり時にふれ, 折にふれ文雅の催しが行われ 文化人であることを誇示 しようとする傾向があっ たろうことは想像できる. しかしまた彼等の心の 中に共通 した敗者意識と望郷の情は都の風習にあやかろうとする意識の反面に, また都の風潮に反 椴しようとする意識も生じ, 独自の新 らしい傾向の歌を発生せ しむる結果となっ たのであろう. 都を遠くはなれた九州の地は天皇もいなければ皇族や貴族も その他大勢の高級官僚も住んでい な い世界である. 都か ら赴任して来 た官人たちが最高の文化人であっ たわけである. また九州という 土地柄も古い文化的な伝統を持たないところである. 従っ てここでは伝統的な儀礼や習慣にわず ら わされる必要もなければ, 形式的な枠にこだわる必要もない. いわ ば開放さ れた世界であり, 自由 な創作活動を可能にす る素地がある. 憶良が 「みやこの手ぶり忘 らえにけり」 と謙遜した表現の中 には, 都とは異っ た歌の性格を主張Lようとす る意気 ごみが秘め られているように思う. このような環境の中で歌の会合を催す場合, 歌壇の中心となっ た大伴旅人や山上憶良の個性が大 きな影響を与え る結果となることも当然ななりゆきであろう. 両者の作歌に対する資質の上ではそ の傾向か らみて大きな相違があるように思うが, 詩歌に対する意識, 詩歌の持つ社会的な役割等に つ い て は こ れ ま で と は 別 の も の と して 考 え て い た ら しい 点 で は 共 通 して い る. こ れ は 両 者 が 共 に 中. 国士大夫たちの詩歌に接 し, 彼等の作品か ら多くの影響をうけ, 特に彼等の作歌意識に対する認識 については大いに共感す るものがあっ たにちがいない. 旅人や憶良が活躍した8世紀の初頭には紙が筆記用具として次第に 普及する傾向にあっ たけれど も, 誰でも自由に入手してこれに詩歌を書きつけるということはあまり行われていたとは考え られ ない. ま して自分が書いた詩歌を相手に示 して批評を乞うということも珍 らしい例ということがで きよう. 当時の詩歌は詞詠 したり披露したりす る特別な場があり, その席上での効果を期待しながら作ら れるということが多く, それを記録して後々の人々, ま してや不特定の他人にまで示すということ は全く考え られてはいなかっ たと思われる. 旅人や憶良より以前の人々の作品は, 記録によっ て後 世に示すためのものではなかっ たというのが一般的な傾向であっ た. 従っ て記録する環境が整備せ 6- 7.

(8) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 9年1月. られない時代では口謙によっ て後世に伝えるより外に方法はない. また詩歌を文芸として高く位置 づけようとする意識が台頭しなければ, 詩歌を記録しようとする傾向もおこ らないことになる。 更 に詩歌を必要とする儀礼や行事が盛大にな らなければ, 詩歌に情熱をそそぐ歌人たちも発生しない し, また勃興の機運も生じないであろう。 今日宮廷歌人といわれている柿本人麻呂や山部赤人の作品が後世に残 ることができたのは, 当時 の宮廷の環境や貴族社会における作歌機運に乗ずることができたということの外に, より重要なこ とは単に詞詠するにとどまっ ていた詩歌に対する価値と意義が次第に 高く評価されるようになっ た 結果, 記録して伝えるということが始まっ て来たか らに外な らない。 記録による文芸の伝達という 大きな文化環境の変化を大きく指摘 しなければなるまい. 大伴旅人や山上憶良の場合は, いわゆる宮廷歌人と称せ られる種類の人々ではなかっ たし, また 共に若い頃か ら詩歌の道に励んでいたわけでもなかっ た。 従っ てその作るところのものが詞詠に適 するか否かは問うところではないわけで, 旅人の作 るところの長歌が謙詠に適当でないと思われる 4 ) のも む しろ 当 然 で あ ろ う1 .. しかしなが ら記録というこれまでの手段と異っ た表現方法が開かれてくると詩歌は 好むと好まざ るとにかかわ らず別の目的や用途のために新 らしい分野を開拓してゆくことになる. 書くというこ とは読む人を想定 しなければな らない。 従っ てどのように表示するかということを工夫 しなければ な らな い. そ れ は 耳 に 聞 き, メ ロ デ ィ に よ っ て 内 容 を 理 解 す る の で は な く, 表 示 さ れ た 文 字 に よ っ. て意味を理解するという行為によっ て詩歌を鑑賞するということになる. このように消滅 しない方法によっ て詩歌を作る方法が可能になっ て来ると, 自分を知 らない 人々 や後世の人々に対しても 自分の意志や感情を伝えることが可能になっ てくる. 殊に志を得ないまま 空しく一生を終 らなければな らない者にとっ ては, 詩歌は自分の心境や文芸的能力を伝え る絶好の 武器となる. 私は当時における大宰府の歌人たち, ことに大伴旅人の心を領していたのはこのよう な著作意識ではなかっ たかと思う。 6 .. ところで詩歌というものを, 土大夫の志, つまり 「私懐」 を吐露するものとすれば, 5o 7. 5. 7 .7というきわめて短かい詩形を用いてどのよ うにして目的を達するかということ が 問 題 と な 1音か ら成る短歌という表現形式はまとまっ た思想を表現することので る. このわが国に発達 した3 きる最も短かい詩形といわれているか らである. ところが土大夫たろ者がその志すところを叙述し ようとする場合には, その内容が複雑であれば, 短歌という形式では表現することが 困難なものも お き て く る.. 中国の場合も述志の詩が最初か ら発達したわけではない。 六朝に発達する古詩は, 漢代に盛行し た楽府が, 時代の流れと文運の興隆によっ て徒詩として独立 したものだといわれている。 楽府は元 来音楽が中心であり, 歌詞をどのように歌うか, その節廻しが重要であっ て, それにつけ られてい る歌詞はそれほ ど大切ではなかっ た. しかしなが らいつも同 じような歌詞を楽器に かけているので は変化に乏しく 新鮮味に欠けるところか ら, 次第に新作が要求され るようになり, ここに新 らしい 作詞家を要求するようになる. そして楽府の作詞家が新 らしい歌詞の創作に努力した結果, 音楽の 伴奏を借りなくても歌詞 だけで独立した立派な文芸へと成長してゆく, これがいわゆ る 古 詩 で あ る。 しかしなが ら古詩が音楽の伴奏や謙詠か ら独立 して歌詞だけでリズムを構成 しなければな らな くなると, 文字の配列によっ て韻律を構成することが必要になっ て く る. 平 灰 に よ っ て リ ズ ム を 作 りだ, し, 押韻によっ て独特の声調を構成することになる. - 77 -.

(9) . Vo l .24 No .2. i l of Hokka i ido Uni i t t Journa ver t on IA) s on (Sec y of Educa. january ,1974. 押韻や平灰の発達は, 単に詩歌だけの問題で考えることは適当でなく, 当時隆盛におもむきつつ あっ た仏教の伝播や布及とも関係が深いともいわれている. 仏教を弘布する場合にいろいろな方法 があるが, 仏典を詞読する場合に節をつけて上手によむためには, 文字を巧みに排列して耳にここ ろよく響くように しなければな らない. 仏典は散文であるが, 楽府か ら発達 した古詩の場合にも, 仏典を謙読する方法が応用せ られて, 平字と灰字との組合せによっ て独特のリズム を作りだ し, 韻 によっ て声調をととのえ詩的な美 しさを強調することができる. また同じ韻をふむことによっ てど の よ う に 長 く で も 続 け て ゆ く こ と が で き る.. このように してこれまでは余興の具として しか考え られなかっ た 楽府か ら古詩をへて独立してゆ くようになると, 土大夫がその抱負と感情とを托すべき文芸と して大きく発展を遂 げ る よ う に な る. また耳にきく要素を減殺 して, 目で読む文芸へその性格が変化すると, 平灰と押韻がきわめて 重要な役割を果すことになる. 時代が下るにつれて作者が表明 しようとする題材や内容によっ て古詩の外に, 絶句, 律詩, 排律 等の種類ができ, 詩形にも五言と七言にわかれるようになる. これは土大夫が自己の思想や感情を 托す べき文芸作品となれば, これまでの五言の形式を中心と した方法だけでは多種多様な思想感情 を表現するには充分であるとはいわれない. 七言の詩形の発達は土大夫にあ らゆる分野の思想感情 を充分に述べ尽すことを可能に したわけである. 東晋の陶淵明は, 五言, 七言の外に四言の詩があ り, 古詩の外に, 辞, 賦というような表現形式によっ ているが, これは自分の表現 しようとする内 容によっ て表現 の詩形を適応させているのである. ところがわが国の短歌は,15・7・5・7・7という計31音か ら成る表現形式が中心となり, 例 外と して長歌と施頭歌という表現形式がある. そしてこれらはいずれも5・7音のくり返 しによっ てリ ズムと声調を構成するようにできてい る. これはきわめて簡単な方法であ るので素人でも形の 上ではすく歌を作ることができるわけである. ところが詩歌の内容に複雑な内容を盛り込んだり, その内容にふさわしいリ ズムやメ ロディ を構 成 しようとすれば, 五音と七音のくり返 しだけでは単調平凡になりかねない. ことに大伴旅人や山 上憶良のように, 中国士大夫の志向 したものを詩歌の世界で表現 しようとする場合には非常に困難 な事情が存在する. わが国の歌集で 『万葉集』 は, 雑歌・相聞・挽歌の部類となっ ているが, 『古今和歌集』 以下, 和歌の主題は主として春・夏・秋・冬の自然と恋を主題と したものが中心となっ ている. このよう に題材の範囲が個定化 してくると, 作者も読者もそのような条件を頭において作っ たり鑑賞 したり する結果となり, 制作の条件がきまっ ているので歌の長さもおのずか ら一定 していたわけである. しか しなが ら内容に複雑な主題を盛り込もうとしたり, 叙事的な事柄を歌に しようとする場合には わずか31音という短かい詩形で表現 し尽すことは不可能になっ てくる. 憶良や旅人のようにわが国における伝統的な題材によ らず, 中国士大夫の意識によって詩歌を作 ろうとする場合には, 当然表現す べき詩形の点で困難な問題がおこっ て来る. 山上憶良はこの問題 を解決するために長歌形式を中心と し, 大伴旅人は短歌を並べ るいわゆる連作形式という方法を採 用 している. そして作品の冒頭に序文をつけるということは両者ともに共通 している. 自分の思想や感情を表現 しようとする場合, その内容や規模によっ て短かい形では表 現 しにくい 場合がおこっ てくる. 長い題材の場合, 長歌形式にすれば簡単であるが, それではリ ズムが単調に な り, 内 容 に ふ さ わ しい 格 調 を と と の え る こ と は で き な い.. わが国の長歌は当初儀礼用 と して発達 したものと思われるが, 諏詠や楽器 の伴奏によっ て生命を 維持 して来たが, 人麻呂や赤人のような抜群の才能を持っていた歌人だけがわずかに後世に残るよ - 78 -.

(10) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. うな作品を記録することができただけで, 後世憶良と家持がこころみたけれ ども, その後は完全に 姿を消 して しまう. これは憶良や家持の志向 したものがいわゆる述志の文学であり, 押韻や平伏の 規定を持たない日本語の場合, 5音・7音のくり返 しだけではリ ズムに変化が乏しく, 声調もまた 平板に流れ詩歌としての迫力を表現することが容易でなかっ たのが原因の一つではなかろぅか. 朝廷の各種の儀礼や葬祭の折に用い られる長歌は, 単に捧呈されるだけではなく, その行事の進 行過程の適当な場面において詞詠されたものと思われる. そのためにこそ長歌は存在の意 義があっ たものと思 つれ る, も ち ろ ん そ の 間 に は 楽 器 に よ る 伴 奏 が あ っ た で あ ろうし, 長歌はそれであるか らこ そ同 じ リ ズ ム のく り 返 し で あ っ て も 間 に 合 っ た の で あ る.. つまり長歌の存在意義は音楽や独自の謙詠の節廻 しによっ て ささえ られていたのではないかと想 像する, ところが詩歌が謡詠する文学か ら記録する文学へ大きくその性格を移行させてゆくにつれ 次第に衰滅の運命を辿 らなければな らなかっ たのではないかと考える. それはこれまで行われて来 た朝廷の儀礼や葬祭の儀式が, 仏教儀礼の参加やその他の理由によっ て長歌の謡詠せ られる機会が 少くなっ てきたということが大きな原因ではないかと考える. 山上憶良は彼の抱懐する思想, それは中国士大夫の心境に通ずるものであっ たが, それを長歌の 形式によっ て表現 しようと試みたわけであるが, それは本質的に詞詠を意図したものではなく, む しろ記録して当時の人または後世の人たちに示 すことを目的としたものであっ た結果, 充分にその 効 果 をあ げ る こ と が で きな か っ た の で あ る. つ ま り 日 本 語 の よ う に 平 灰 の な い 音 を 連 ね, 5 0 7 音. のくり返 しの変化 だけで詩歌としてのリ ズムを構成 しようとしても 充分のもりあがりを期待するこ と は 困 難 であ っ た の であ る。. ことに憶良のように過去に おいて作歌経験の乏しい人にとっ ては, 詩歌のリ ズム感を体得するこ とは困難であったと思われるのでその作るところの ものが散文的であり, 詩情を欠く結果となっ た の は や む を得 な い こ と で あ る.. 大伴旅人の場合, これを連作という新 らしい形式によっ て解決しようと試みている点で注目すべ きであろう. さきにもあげた 「讃酒歌」 は13首で構成せ られているが, 彼がかなりの影響をうけた と思われる醜の玩籍には 「詠懐詩」82首という連作があり, 酒の詩人として有名な陶淵明には 「飲 酒」20首という連作が残されている. 腕籍の場合は, 残された作品のすべてが 「詠懐詩」 と題され 作られてはいないようである が, 陶淵明の場合, 20首 ているので, 厳密には連作という意識の下に′ の作品は必ずしも作 られた順序に従っ て排列されているとは思われない。 また飲酒と題しなが ら, 酒を歌わない詩が収め られている 点でも異色である。 前後20年間に作 られた作品の中か ら選んで, 5 ) 全体を構成 して 一連の作品とした雄大な構想を持っ たものであることが想像される1 . 大伴旅人に 「讃酒歌」 の作があるのは, 中国における飲酒の達人としてその名を残 しているこの 2大詩人の生活と思想に影響を受けることが多かっ たであろう. その人生に処する方針と しては玩 籍に, 作品の形式としては陶淵明に, より多くの影響をうけているように思われる. 旅人の作ると ころの 「遊於松浦河序」 が, その形 式を張文成の 「遊仙窟」 に拠っ ているということは早くか ら説 かれているところである. しかし詩歌に文芸的な構想をもた らしたという点では, 彼は陶淵明の方 法 を 学 ん だ も の と い わ な け れ ば な らな い. こ の 点 に つ い て は 稿 を 改 め て 説 く こ と が あ ろ う.. 旅人が連作という方法を用いた理由の一つとして, 旅人の持つ素直で飾らない表現の方法は, 長 歌というような, 5・7の音をくり返 し重ねて行くという 方法はあまり適当でないということを, 旅人自身がよく気付いていたか らではないかと考える。 彼の歌風か ら考えてそれ ぞれ1首として独 立した作品を並列 した方が, 全体としてはより迫力を出すことができると彼は考えていたのではな いだろうか, ようやく晩年になっ て自分の志を後世の人々に伝えなければな らないというので, 作 - 79 一.

(11) . Vo l .24 No 2. lof Hokka i ion (Sec ido Univer i Journa t s t on I A) y of Bducat. January ,1974. 歌に情熱をもや した旅人としては何か新 らしい機軸を工夫する必要があっ たろう し, 彼の用いる言 葉が平明で, 表現の方法も単純素直であり, しかも音楽の伴奏による応援もなく, 詞詠 の技術によ っ て効果をあげることもできない記録を中心とした歌の場合では, 複雑な内容, ことに思想的な内 容を持つものである際には, 連作という方法はその平板さを救う唯一の方法であると考えたのであ ろ う.. 「遊於松浦河序」 と題せ られた作品の後には, 蓬客と美女との問答の歌, 各1首ずつ が収め られ ているが, 更にその後に は次の連作が収め られている.. 蓬客等 更に贈れる歌. 3首. 娘子等. 3首. 更に報ふる歌. 後人の追和の歌. 3首. 帥老. こ の よ う に 3 首 の 歌 が 連 作 の か た ち で 作 られ て い る こ と は 注 目 す べ き で あ る. こ れ ま で も 問 答 の. 歌の例は少くない. 詩歌の発達過程か らみて, 歌に問答形式のものがあるということは怪 しむに足 りないが, 3首ずつやりとりする例というのは珍 らしい. これは1首だけでは作者の意図を尽すに は充分ではないと考えたか らである. さ らに 「後人追和歌 三首 帥老」 とあるのは, 一見すると 最後の3首だけが旅人の作品のように見せかけてある. しか し全体の構想が旅人の手に な る も の で, 「帥老」 として最後の3首だけを旅人の作に見せかけたのは構成上の技巧とみるべきである. 彼がこの作品の原典としたといわれている 『遊仙窟』 の場 合, 問答に用い られて い る 詩 は, 絶 句, 律詩, 古詩とその場面場面に応じた詩体が用い られている. ところが短歌の場合は1首の単位 が31音であるため, 1首だけで意を尽すことができない場合もおこる. そこで独立 した短歌3首を 並 べることによっ て効果をあげ, 更に 「後人追和歌」 というかたちで全体をまとめようと考えたも ので, 全体が1篇の作品として企画されたものとみるべきである. 「後人追和」 というかたちはここだけではない. 「梅花歌」32首, の後にも序文の後に, 大猷紀 卿, 小武小野大夫, 少武栗田大夫, 筑前守山上大夫, 豊後守大伴大夫, 筑後守葛井大夫, 笠沙弥等 来賓と思われる人々の歌を列ね, その後に 「吾が苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるか 22 ) と自作の歌をかかげている. そして更にその後に 「員外, 故郷を思う歌 両首」 も」 (万葉 8 「後に追ひて和ふる梅の歌, 4首と」 いう作品群が収め られているが, 私はこのいずれもが大伴旅 人 の 企 画 に な る も の で あ る と 思 う.. 更に彼の祖先である大伴狭手彦と松浦佐用姫の伝説を詠んだ作品でも冒頭に序文をおき, 次のよ う な 形 の 連 作 を も の して い る.. 遠つ人松浦佐用比売夫恋いに領中振りしより負える山の名. (万葉 871). 後人追和 山の名と言ひ継げとかも佐用比売がこの山の上に領中振りけむ. (万葉 8 72). 最後人追和 万代に語り継げとしこの獄に領中振りけ らし松浦佐用比売. (万葉 873). 最々後人追和 海原の沖行く船を帰れとか領中振 らしけむ松浦佐用比売 行く船を振り留みかね如何ばかり恋 しくありけむ松浦佐用比売. 一8 0一. (万葉 8 74 ) (万葉 8 ) 75.

(12) . 第 24 巻 、 第2号 方. 、.旭孝 月 学紀要( 一口 A) 北海道教育大 第一部A 子′ ・. 昭和49年1月. これ らの作品は作者の署名がないというの で 作者に ついてはいろいろな見解があ て一定しな , っ い。 旧 説 では, 序文と第1首だけを山上憶良の作としていた が 契沖が大伴旅人の 作ではな いかと ,. いう提案をしてか ら, 武田祐吉氏もこれに賛成 してい られる1 ) 6 . 沢潟久孝氏は最後の2首は用字の 使用 法 か ら山 上 憶 良 の 作 で は な い か と し1 7 ) ) 8 , 清 水 克 彦 氏 も こ れ に 賛 して い られ る1 。 こ の 問 題に つ い ては 今日 ま でま だ定説 を得る に 至 て はい ない よ う であ る が っ , 序文 と第 1首 に つ. いては大伴旅人 の作であることは承認 してよいであろう この歌の題材とな た大伴狭手彦は大伴 。 っ 一族にとっ ては祖先の1 人であるし, 旅人としても関心を持 て然るべき題材である 山上憶良が っ 。 実際に松浦の地に足を運んだことがあるかは疑問があるが 大伴旅人がこの地を訪れたことは 「遊 , 於松浦河序」 によっ ても確実である。 当然のこととして旅人が自分の祖先 の ロマンスに彩 られた領 巾振山に興 味を持つことは大いに可能性のあることである 。 また序文の中に 「嵯此別易, 歎彼会難」 とあるのは 『遊仙窟』 の 「所恨別易会難 去留罪隔」 , , によっ て書かれていることは確か であるの で 歌も序文 も共に同一作者の手になるもの とみるのが , 常識的であろう. ところで旅人はこの序文と歌を作っ て人に示 し それに対して追和さ れた歌を収 , 録 して, こ の よ う な 形 に 排 列 した の で は な い か と 私 は 考 え る 。 「梅 花 歌」 の よ う な 形 に しな か っ た. のは, 一堂に会 して作っ た歌ではなく 記録した歌を収録したか らである , 。 「最々後人追和 二首」 というのは山上憶良の作るところであるという説があり 或は旅人の作 , る所ではないかも知れない。 しか しこのような連作形式に編集したのは大伴旅人自身ではないかと 思う. 私が重要視するのは 「松浦佐用 姫」 や 「梅花歌」 のように 同一主題に対 して多数の作品を , 並列 して効果をあげようとする 手法である 自己の作品を他人に示 し それによ て更にまた 歌を 。 , っ 作るということは, 中国の土人たちの間にもよく行われたことで 詩歌が完全に詞詠的性格を 失っ , て, 記録せ られた文字によっ てその内 容を理解する 歌に大きく 転換 してきていることを知るこ とが で きる.. 名門大伴家の統領, その地位は従三位大納言と して 世間一般の人々か らみれば羨まれるような , 環境の中にあっ て67年の生涯を終っ た大伴旅 人ではあ たが 彼自身の心境としては 最晩年大伴 っ , , 一門の 将来に不安な 影がさし始めた頃に 彼の作歌意欲が勃興 していることについては 大 、に注目を し すべきであろう. 詩歌が盛に なるためには, 詩歌に対する社会的な認識が向上することが第一の要 件でなければな らない。 またそのような文運の勃興 を助けるためには 文化的な 条件 たとえば筆紙 や 文 字 の 普 , , 及, さては書籍の 渡来によ る外来文化の影響がこれを助けることになろう 大伴旅人の 出現があた . かもこの 時代にあたっ ていたことは確かであるが 特に重要なこ とは詩歌の内容としてもり込むべ , きものについて, これまでの題材とは異なっ たものを材料と し しかも歌を作る意識の上 で大きな , 転 換 を示 して い る こ と で あ ろ う 。. たとえば彼よ り古い人物で, 彼より地位の高い身分の者で 『万葉集』 に歌を残している者は藤 原 鎌足だけであるが, その一つに次の作品がある 。 われはもや安見児得たり皆人の得難てにすとふ安見児得た り. (万葉 9 5 ). この歌は鎌足が妥女安見児を賜わっ た折に 感激して作 た歌とい われているが 鎌足のおお らか っ , なスケールの大きな人柄を示 した歌として評価されている しか しこれが 中国の土大夫 階級の者で 。 あれば, 絶対にこのような性質の歌を後世に残すことはあり得ないことである このような 歌は余 。 興の場に おいてのみその存在が許されるものであり 後世に伝えるということを意識 して作 られた , 「 81 一.

(13) . 1 Vo ,2 ,24 No. i i i on (sect on I A) ido Uni t l of Hokka vers y ofEducat Journa. january ,1974. も の で は なし・.. これまでの詩歌は自分 の自発的な意志を以て作る歌はま れであり, こ のような座興や 即興的なも の のが殆ん どであっ た. そのような性格のものを, 土大夫の文芸へ と大きく性格 を転換せ しめたも する意識は , 家 が大伴旅人であっ たと言えよう. このようにその人とその志とを後世に 伝えようと の 門の危機を意識 した時, または自分達の境遇や思想 が反体制の側に在っ た折に 強くおこっ てくる は東西撰を 一に した現象である, 大伴旅人の場合もこれに似た環境 は既にととのえ られていたように 思われる. 『万葉集』 の成立 について大伴家が大きな役 割りを果したことにつし ては契沖以 来説かれているところであるが, あ るいは 大伴家の衰微にともなう危機 意識 が 『万葉集』 編さんの一つ の理由となっ たのではないかと 思う. のが 中国における文芸意識発展の経緯を調べてみると, 文芸の作者 が主に反体制の側にあっ たも て きわめて多く, 彼等 が自分の志を伝えたり, 憤ま んのはけ口を詩歌に求めるという結果になっ い る場合 が多い. 建安文学の中心となっ た曹植に しても, 竹林の名士といわれた玩籍にしても, 社会 的な地位はともかく, 心情的には失意の中に生涯 を終えた人物である. 東晋 の陶淵明に至っては一 0篇余 の作品に托 して知己を後世に求 介の農民と して灘陽 郊外に 生涯を朽ち果てたが, その志を13 め よ う と して い る.. 2 0篇 の作品 を伝えている が, そ の中には大津皇子 や長 『懐風藻』 はわが国最初の漢詩集と して1 の人柄を叙して 屋王等悲運の最後を遂 げた人々の作品を多く収録し, より同情的な筆致をもっ てそ のが至当であろ いる. これは文芸にたずさわる人の心に, 彼等に共感する心情が働いていたとみる う・. またこのような条件を醸成するに至っ た事情については, これまではあまり説かれて はいないけ れ ども文芸 の表現の用具 として筆や紙が登場して, 作者みずか らがこれに思想感情 を托するという ことが可能になっ て来たという事情も見逃すことはできない と思う. 紙は後漢の中葉, 禁倫によっ て実用化 されたといわれている. しかしわが国の場合は詩歌のたぐ が貴 いを紙の上に記録して伝 えるというこ とは殆んど行われてはいなかっ たようである. これは紙 重品であっ たという 理由の外に, 漢字をもっ て歌を表記する ことがきわめて困難なこ と で あ っ た し, また記録された作品を読んで鑑賞することのできる人もきわめて 少なかっ たか らである, のような文 従っ て歌を作る場合に 作者は どのような言葉を用いるかは意識 していても, これをど 字で表示するかは意識 していなかっ たように 思われる. たとえば 「柿本朝臣人麻呂作歌」 とあるの は, 柿本人麻呂が作っ た歌という 意味ではある けれども, そこに表示された文 字は柿本人麻呂自身 と注せ られた作 によっ て表示されたものであることを示して はいない. 「柿本人麻呂歌集に出ず」 られている文 品群 の中に も多く人 麻呂の作品 が収め られている と説かれている けれども, その用い 主としたもの 麻呂の作品は詞詠を つまり人 字によって人麻呂の作品を決定することは困 難である. で, 文字で どのように表示するかはその意図するところではなかっ た らしい. らい わが国の古代詩歌は漢 代に発達 した辞賦の 影響を受けているといわれているが, 辞賦はがん 諏詠 する文芸と して発足する. しかし後には 辞賦の作家たちは, その使用 する言葉に どのような文 の エ ビ ソ ー トに 字 で表 現 す れキズよ い か と い う こ とに 心 血 を そ そ い で 努 力 し た こ と は, 史 上 い く つ か よ っ て 明 らか で あ る.. が 記録 わが国の場合は, 中国渡来 の漢字をもっ て歌を表示 しなければな らなかっ たという事情 , に する文芸の発 達をおく らせた ということは否めないことであろう. しかしな が ら大伴旅人の作品 呈した事例がみ ら は, 自らが作品の前に序文 をつけたり, また自 らの作品を藤原房前や吉田宜に贈 一 82 -.

(14) . 第 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和49年1月. れるのは, 謙詠の文芸 から記録した文芸 へ詩歌の性格を大きく転換 せ しめたもので 大宰府歌壇 の , 性 格 の 一つ は こ こ に あ る で あ ろ う。 註 1 ) 2) 3) 4). 契沖:万葉代匠記, 巻3, 斎藤茂吉:万葉秀歌上。 清水克彦:旅人の宮廷儀礼歌, 万葉論集. 契沖:万葉代匠記 巻5,. 5 ) 井上通泰:万葉集雑考 6) 7 ) 8) 9 ) 1 0) 11 ) 1 2) 1 3) 14 ) 1 5) 1 6) 17 ) 1 8 ). 小島憲之:万葉語の解釈と出典の問題, 万葉集大成訓話篇上 . 沢潟 久孝:万葉集注釈, 巻第5. 土田杏村:大伴旅人 斎藤茂吉:万葉秀歌 上, 土屋文明:万葉集私注, 巻5, 沢潟久孝:万葉集注釈, 巻第5, 旧唐書, 巻1 99 0 朝貢の記事による。 . 東夷伝, 冊府元亀巻97 沢潟久孝:万葉集注釈, 巻第1. 清水克彦:旅人の宮廷儀礼歌, 万葉論集. 拙稿:飲酒20首について. 武田祐吉:万葉集全注釈, 巻5. 沢潟久孝:万葉集注釈, 巻第5. 清水克彦:憶良作品考続紹, 万葉論序説 .. 「8 3一.

(15) . Vo 1 ,2 .24 No. i i i do UniVer lof Hokkai t t t on IA) s Journa on (Sec y of Bduq三. January ,1974. 新古今和歌集哀傷歌の巻の構造 小. 林. 和. 彦. 北海道教育大学札幌分校国語科教育研究室. f d The Kazuhiko KOBAYASH工: The Structure o ’ l sh6ka’ Shinkokin-Wrakashn Vo .8, Ai. 新古今和歌集巻第 八哀傷歌は, 歌数100首, 読人不知1首を含み, 作者73名の歌を収める, ここ では, この巻の構造を見ようとするのであるが, まずひろく新古今集の巻々の構造の問題として考 え られる事 が らを列挙してみよう. づ 1 . 集全体の部立の中における位置 け 2 . 撰歌の素材源 (出典) 3 . 所収歌人の時代的構成 4 . 所収歌の排列構成 5 . 巻頭歌と巻頭歌人 (あるいは巻尾についても) 6 . 所収歌の撰者と撰歌状況 7 . 切継時代における切出歌・増補歌 8 . 隠岐本における除棄歌 9 . 所収歌の表現の特 質 これ らについての諸問題は, 和歌史特に撰集史との関連において, また新古今集の基礎的・実証 的研究の成果の上に他の巻々との関連において, 考究 されなければならないものであり, すでに先 学の御論考に接 することもできるのである が, いまは, 歌の排列構成を中心に, 他の事項をできる だけこれに関連付けながら, 1巻の構造と して, 私なりにと らえ得たものの一端を報告する. 以下の叙述中, ( ) 内算用 数字は, 国歌大観番 号であり, 新古今集よりの引用 本文は, 佐々木 信綱校訂 『新訂新古今和歌集』 (岩波文庫) によ った. また, 統計的数値は, 特にことわ らない限 り, 『国歌大観』 の本文を基礎と して算出したものを用いた.. 「哀傷歌」 は, 歴史的には万葉集 の 「挽歌」 につながるもの であるが, 後者の公的・叙事的性格 に対して, 私的・汗情的性格を帯 び, 多く死を主題と し, また無常を詠じた歌を含む. 古今集に1 巻の名目と してたて られて以 来, 二十一代集のうち12のもの が1巻をこれにあてており, 重要な地 位を占めていたかと思われる. ところ で, 哀傷歌には, だれが (作者) , どんな時に, どんな気持を , だれの死について (対象) 々の場面が見 られる 詠んでいるかによ って, 詠作の契機と しての種 . - 84 一.

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