ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第45巻 第2号. 平成7年3月. l i Sec i t t fEduca do Un i i fHokka i t lo on( onIA)Vo ver s Journa .2 yo .45 , No. March , 1995. ロ シア ・ヨーロ ッパ における音 楽交流と発展の歴史. 水. 田. 香. 北海道教育大学岩見沢校音楽教室. 1. はじめに 近代までのロシア音楽史には, 必然的発展を積み重ねてきたヨーロッパ音楽史とは大きく異なる特徴が見 られる‐ 1つはその時代の支配者が特定の音楽を取り入れ, 大きな方向転換を行った事である‐ もう1つの 特徴は, その都度, 民族固有の音楽が廃除された事である‐ ヨーロッパ音楽への従属 という点で長い間ロシ ア は後 進 国 であ っ た が, 19世紀 末 か ら20世紀 の初 め に は対等 と なり, つ い にヨ ー ロ ッ パ 音 楽 に 影響 を与 える. 程の存在になり得たのである‐ こ の 論文 はそ の 様 な 関係 に 至る ま で のロ シア・ ヨー ロ ッ パ の 音 楽 交流 の 事 実 と, そ の 影響 による 音 楽上の. 変化, 民族音楽の継承に焦点を置き, それに付随する政治的, 社会的, 文化的な背景についても言及したも のである. ロシアに関する資料は必ずしも十分ではなく, 特に革命後の音楽事情に関しては不明な点が多い のでこの点についての言及は避けた. 文化の交流には, 当然の事ながら複雑な要素が様々に絡み合っ ており, 単純に結論付けられない事も多々ある‐ また, 音楽交流の実態については全ての事実を述べる事は不可能で もあり必ずしも必要なことではないので, 取捨選択の上で取り上げた.. ロ. □シア民族音楽とギリシャ正教の音楽 より支配の交代が繰り返された‐ 紀元前9-8世 この広大な土地は紀元前1 000年頃から種々の部族国家に. 紀に黒海北岸を支配していたスキタイ人の一種族の東スラヴ人がロシア人の祖先であると言われている‐ 1‐ □シアにおける民族的な伝統音楽 民謡は農耕に即した様々な年中行事や祭り (収穫祈願, 感謝祭, 復活祭) , あるいは婚礼の際の叙情歌, 葬式の哀歌等, 儀式用に作られた特別なものと, 日常生活で歌われる労働歌, 恋愛歌, 自然の景色を称えた り, 鳥や動物の様子を表したものとに大別できる‐ これらはプロチャージナヤと呼ばれるメリスマ的な様式 で歌われた‐ 又, 独特な地声で非常に狭い音程を行き来しながら歌うものもあり, ヴォ ルガ河流域には東洋 的な五音々階も見られる. 代表的な民族楽器は管楽器 (ソペーリ, ジャ レーイカ, トルバ) と弦楽器である‐ 金属弦を弾いて音を出す箱型の機弦楽器 (グースリ) はリズム的・和声的伴奏や独奏 に使われ, 弓を使う擦 弦楽器 (グドーク) は主に旋律を奏でる役目を受け持っ た‐ 周辺諸国にも別名の同族楽器が見られる. 2. ギリシャ正教の音楽 こ の 地 方 に最 初 の 統 一 国 家 が建 設 さ れた の は862年, ノ ル マ ンの バリ ャ ー ギのノ ヴ ゴロ ド公 に よる も の で 105.
(3) . 水 田. 香. あ る‐ 882年, 同 公 国 主 によ り キエ フ 公 国も 建 設 さ れた. キ エ フ はロ シ ア の 政治, 文 化 の 中心 と な り, 中 世. ヨーロッパ諸公達と頻繁に交流を行い, 様々な国からも商人, 外交官, 建築家等がこの地を訪れた‐ ビザン チ ン皇 帝と の接 触 によ り, 989年 に ギリ シ ャ 正 教 がキ エフ の 国教 に定め ら れた. (1) キエ フの 時代. 教会ではビザンチン教会音楽の伝統がそのまま取り入れられた‐ ビザンチンの演奏家も招かれ, 聖歌を演 奏していた様である. 聖歌は単旋律によるもので, その唱法にはズナメニ (記号による旋律表現の方法) と, コンダカルニ (記号による旋律装飾や演奏技巧の方法) がある‐ 後にキエフの分裂と地方の独立により, 地 域や教会毎の独自性が尊重される様になり, 教会歌にも地域特有のラスペーフと呼ばれる節回しが生み出さ れる結果となった. 一方それまで行われていた異教の習慣, 世俗的娯楽に関連した音楽の演奏, 楽器による 伴奏は堅く禁止された‐ 日常生活では国家的な儀式, 祭礼, 行事等の場面で音楽は重要な役目を果たした‐ 教会の禁止にも関わら ず, キエフの宮廷では楽士が雇われていた‐ そのメンバーの中にはロシア人の他に外国人もいた様である. 貴族の家庭音楽は伝統的な習慣を受け継ぎ, 貴族が歌手や器楽奏者の保護に当たった. スコモローフと呼ば れた人々はスラヴの古代からの芸術的伝統を持ち, ロシア国内を旅しながら始終祭りや貴族の家庭の宴席等 に参加し, 仮面をつけて多才な芸を披露した. 彼らは時に応じて音楽家, 役者, 舞踏家, 魔術士, 道化等, 様々な役を演じた民族音楽の重要な伝承者であったが, 正教会からは民衆を惑わす罪人として敵視された‐ 彼らは歌と語りからなる朗唱風な音楽で, 反復される短い旋律がリ ズムの変化と共に自由に演奏される英雄 叙事詩をもとにしたブィリ÷ナを演奏したが, その方法は現在までも伝えられている. 民衆の間では以前と 同じ様に哀歌 (隠壕を含む民謡的な詩) や英雄的賛歌が伝えられた. カリキ・ペレホージェはキリスト教聖 地へ旅する盲人の巡礼者を指したが, 放浪歌人として外国と交流を行いながら伝統の音楽スタイルを取り入 れて, 多く の宗 教歌 を作 っ た‐ 前代 に引 き続 き, グースリ や ソ ペー リ の他 に異 国の楽 器 と して はオ ル ガン や. 東洋のザムラも宮廷で演奏された様である. トランペッ トは教会に認められた唯一の楽器であった. 1 1世紀後半になるとキエフは後継者問題から諸公による権力争いの末, 多数の公国に分裂した‐ 3世紀に ,1 は蒙古人が侵入 しキプチャク=カン国の支配 ( 1238一1462 ) を受けたが, その苦難な時代においても地理的 な理由により, あまり影響を受ける事なく繁栄したノヴ ゴロ ドは, 国力の衰えたキエフから古くからの伝統 ▼ . ・: ・ . ・ を受け継ぎ, それを発展させる役目を担った‐ 12世紀に交易でカーを得た商人らの力により, 経済的には勿論 の事, 政治的にも国力が増大した. 彼らは海上交通を利用して遠くイタリア, 東方の国々と交易を行い, 他 のロシアの都市の人々と共に多くの外国人と交わりを持った‐ その恵まれた商業生活の中で, 祭りや祝典が 盛んに行われ, 音楽もそれにつれて発展した. (2) ノ ヴ ゴロ ドの 時代. 教会歌の分野ではノヴ ゴロ ド楽派が, 作曲, 演奏, 理論において優れた仕事をした. イタリアの宗教劇に 似たものも行われた. 教会で用いられた鐘はその鳴らし方に高い技術を競う様に‐ なり, それぞれの教会で独 自の様式が生まれた‐ キエフ時代と同じようにスコモローフが重要な役割を果たし, 特にロシアの人形芝居 を発達させた. 民族楽器はキエフに引き続きグースリが頻繁に用いられたが, .その形は3種類に変化し演奏 技巧 も 発達 した‐ペ ル シ ャ の媛 弦楽 器によく 似 た ドーム ラ や グ ドーク 等もス コモ ロー フ によ っ て使用 さ れた‐. この頃のブィリーナは, ‐日常生活やおとぎ話的性格を取り入れて活発で愉快な踊りの要素を持つ も のへ と変 化 した.. {・. 106. ′ 、 ●.
(4) . ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. 2. □シア・ヨ-□ツバの音楽交流 (1) ヨ ー ロ ッ パ 音 楽の 導入 に関する 事情. ‐. 14世紀 に勃 興 した モス ク ワ はカ ン 国との 争 いの 末, 15世紀後半 に独立 し, 東北 ロ シアとノ ヴ ゴロ ドを統 合. した‐ その後 ビザンチン皇帝と縁戚となり, 自らツァーリと称したイワン三世は, 騎士制度に基ずく封建制 を確立し王権を強化した‐ その結果, キエフやノヴ ゴロ ドで発展した様々な文化はモスクワが継承する事に 1533一1584 ) の 全盛期 には, 権力 の 中心 であ な り, ロ シア の 政治, 文 化 の 中心 と な っ た. イ ワ ン雷帝 時代 ( る 教 会や宮 殿 が建 設さ れ, ロ シア 国 内の他 に, ボロ ー ニ ャ, イ タリ ア か らも 文化 が集 め ら れた‐. 〈モスクワの音楽〉 教会で歌われた聖歌は旋律的に豊かに装飾され, 表現方法も大胆になっ た‐ ズナメニは15一1 6世紀に頂点 を極め, 旋律も旋法も装飾を施され, 大変に華やかなものに変化し, 世俗的な教会歌, デメストヴェンノエ も存在した‐ 教会音楽に多声音楽が取り入れられたのは1 6世紀半ばの事で, ポーランドのカトリ ック教会の 多声音楽がウクライナによって紹介された‐ 通常は2-3声体のものであっ たが1 7世紀に入り4声体でも行 わ れ始 め た‐ 後 に発 達 した 合唱 ポリ フォ ニー はや がて ト ゥツ ティ ー とり ピ エ ー ニ か らなる コ ンチ ェ ル ト形式. に発展する事になる‐ 宮廷での音楽活動も盛んに行われ, 皇帝はスコモローフ達を雇い, 、 合唱団を結成する 等, 常 時そ れらの芸 を楽 しんだ‐ イ ワ ン三世の 時代 にイ タリ ア からオ ル ガニス トが訪 れたり, 1586年 にイ ギ リ ス の宮 廷 からク ラ ヴィ コー ドが贈 ら れる 等, ヨーロ ッ パ の 音 楽 の 影響 も強く 受 ける よう にな っ た‐ 民 衆 に. よる歌には様々な種類が見られる. ブイリーナに替わり, 皇帝を称える歴史歌が17世紀まで盛んに作られた‐ カントは17世紀後半に発展した非宗教的なもので, 長調または短調で作られた単純な有節歌謡である‐ モスクワは領土を拡大し農奴制と王権の強化に務めたが, 民衆の不満による一撲や貴族同士の争いから国 内 は動 乱期 を迎 え た‐ そ の後1613年 に貴 族ミハイ ル= ロマノ フ によ っ て始 め ら れ たロマノ フ王朝 が再 びロ シ ア を統 一, 1917年 の 革 命ま で18代 に渡り, 約300年 間支 配 し続 ける 事 になる‐. 1 7世紀後半になると民衆の反乱が続き, ロシア民謡も社会情勢を反映し, 農奴制 に反発するコサックの歌 や反乱軍の指導者を称える劇的で物語風なものが多く作られる様になった. その他には日常生活を題材にし た叙情的なものや世の中を批判する風刺的なものも好まれた. 民謡を変奏したり旋律を連ねたものを多声で 演 奏する 様 式 もあ っ た‐ 17世 紀 後半 に当 時 の皇 帝ミハイ ル・ フ ョ ー ドロ ヴィ チ によ っ て, ス コモ ロー フ は 弾. 圧され辺境の地へ追放された‐ 彼等によって使用された民族楽器の焼却すら行われた. その一方で宮廷には ヨー ロ ッ パ か ら フ ルー ト, ク ラリ ネ ッ ト, トロ ン ボー ン奏者等 が招 か れヨー ロ ッ パ の音 楽 による 改 革 が試 み. られた‐ 1 67 2年から僅か数年間であったが, モスクワ宮廷劇場が開設され, そこでは翻訳された外国の戯曲 の他 にロ シア 人の 作 品 も上 演 さ れた‐ 1682年 に即 位 した ピ ョ ー トル大 帝 は1697一98年 に行 わ れた ヨーロ ッ パ 旅行 を契 機 にロ シア 近代 化 の必 要 性. を感じ, ヨーロッパの科学技術や様々な文化を積極的に摂取すると共に, 産業の育成や教育の改革にも力を 注 い だ‐ ピ ョ ー トル とヨ ー ロ ッ パ 音楽 と の 出 会 いは,′1698年2月15日 にロ ン ドンで彼 の ため に催 さ れたコ ン. サートであったが, それは彼にばかりではなく, ロシアの音楽の発展にも大きな影響を与えた‐ その後, 音 楽の主導権は教会から宮廷に完全に移され, ヨーロッパ音楽との交流は盛んに行われる様 になった‐ (2) 中世 ヨ ー ロ ッ パ の音 楽 状況 ロ シ ア と 同様 に 中世の ヨーロ ッ パ にお い ても 音楽 や 音 楽家 は教 会や 宮 廷 に属 してお り 一 般民 衆 に と っ て ,. の音楽の価値は慰めや舞踏のために使われる実用的なものにすぎなかった. ‐ 音楽が芸術的価値を持つ様にな っ たの は15世 紀 に入 っ て か らの 事 で, 最 初 はネ ー デルラ ン ドやイ タリ ア にその 傾 向 が見 ら れた. 北イ タリ ア. の動向は音楽家に対する積極的な支援で, 15 60年頃に作られた 「貴人のアカデミア一 等の知識階級の活動の ず 環と して始め ら れた‐ この 結 果 ”芸術のため” の演奏活動が可能になり, 芸術性を重んじた 「音楽作品」 107.
(5) . 水 田. 香. という考え方が始まったのである. やがて音楽の擁護者は地方自治体へと移り, 都市が市民に対して祝祭日 の音楽会を催す様になる. 初期の頃の音楽の形態は16世紀に生まれた 「コンチェルト」 (音楽の演奏という 意味) で声楽と器楽との共演であった. その器楽奏者達はミムス (都市楽師) と呼ばれ, やがて声楽から独 立した器楽作品の発展に寄与した. 1 600年頃からネーデルランドの諸都市では教会のオルガン演奏が一般市 民の楽しみのために公開される様になったが, その事は教会音楽家が娯楽のための演奏家へと変化を始める 「 きっかけともなった. 17 , 8世紀に歌と楽器演奏を目的に創られた音楽愛好家のサークルは コレギウム・ ム ジクム」 と い わ れ, プロ テス タ ン トの 諸都 市 で見 ら れた‐ イ ギリス の音 楽ク ラ ブと並 ん でフラ ンス のサ ロ. ンも同様の集まりであった. 会費やチケッ ト代を払う音楽演奏会が始まりコンサートが自立して行ったのは 17世紀 半 ば以 降で, ネー デル ラ ン ドや パ リ, イ ギリ ス で行 わ れた‐ そ こで は声 楽, コ ンソー ト (器楽 合奏), 独奏 等 が行 わ れ, ヴ ァ イ オリ ン, フ ルー ト, オー ボエ等 の 楽 器 が演 奏 さ れた. 1660年 頃からロ ン ドン での コ. ンサート会場としては個人の家の他にタヴァーン (居酒屋) があった. 中産階級の市民が聴衆として参加し 始めたのも大きな変化である. 作曲家の自主公演, 上流階級のための社交的コンサート, 庶民のための無料 演奏会等, 形態も様々であっ た. 170 0年以降, 音楽愛好家達はコンサートの企画を行う一方で, 自らプロの 音 楽家 と共 に活動 する 団体 に参加する こ と で音 楽 の普 及 に貢 献 した. 1705年 にス コ ッ トラ ン ドで 「エ ジンバ. 3年にはアウグス ブルクで 「音楽演奏者協会」 が創られた. 市民の音楽活動が活発 ラ音楽ソサエティ」 , 171 になる事で 「定期演奏会」 も開かれ, 市民生活の中に音楽 が欠かせないものとなり, 公開のコンサートの社 会的評価が高まった. 18世紀 か ら19世紀 に於 ける ヨー ロ ッ パ 音 楽の演 奏 活動 の 中心 地 はロ ン ドン, パ リ, ウィ ー ンや ドイ ツ の各. 都市であったが, 各国で事情は少しずつ異なっ ていた. 8世紀半 王室, 貴族階級での音楽会は相変わらず行われていたが, 市民階級での演奏会の数が増えたのは1 ばで, 特 に1750年 以 降1790年 頃ま で の 間 に はイ ギリス, フラ ンス, ウィ ー ン等 の都 市 での演 奏 会 は頻 繁 に開. かれた. しかし19世紀に入ると最初の十数年間はナポレオン戦争の影響と国家の統制により, 極端に減少し てしまっ た‐ しかし, 戦後, 経済が安定し, 王侯貴族に変わっ て市民階級が大きな勢力を持つ様になると, 生活水準の向上と共に楽器, 楽譜の販売がブームとなり, 家庭内での音楽活動や音楽教育も活発になっ た. ウィーンやロンドンでの音楽協会の設立をきっかけとして演奏会組織が安定し, 演奏会の商業化も図られる 様になり, 各都市での市民による音楽活動は飛躍的な発展を遂げる. 音楽の教育機関であるコンセルヴァ ト ワ ー ル がヨーロ ッ パ の 主 な 諸都 市 - パ リ, ボロー ニ ャ, ミ ラノ, プラ ハ, ブリ ュ ッ セ ル, フィ レン ツ ェ, ウ ィ ー ン, ワ ル シ ャワ,.ロ ン ドン, ライ ブツ ィ ヒ ÷等 に創 設さ れ た.. 9世紀まで絶える事なく作曲された‐ 器楽 イタリアでは16世紀末に劇と音楽の融合から生まれたオペラが1 はオペラから派生した管弦楽, 通奏低音による室内楽の発達を見せた‐ ヴァイオリンとチェンバロが多く使 も発明され, やがて ドイツに引き継がれて行っ た. われたが1 8世紀初めにビアノー ,ウ ィ ー ンで は17一18世紀 に教 会音 楽, イ タリ アオ ペ ラ が盛 んであ っ た‐ 器楽作 品 は交響 曲, 協 奏 曲, 室 内. 楽曲が数多く作られ, 古典的なソナタ形式の原理を確立し, オーケストラの編成を完成した. ドイ ツでは17世紀に単声音楽と多声音楽が共に発達し, イタリア風オペラ, 歌曲, オルガンやチェ ンバロ のための多声音楽が作られ, J. S‐ バッハで頂点を極めた. その後, イタリアの影響で古典的なソナタ形 式 が確 立 さ れ, 交響 曲, 室 内楽 曲も多く なり, ベー トー ヴ ェ ンの 時代 に はヨー ロ ッ パ 音 楽 の中心 地 とな っ た.. 1 9世紀のロマン主義の時代にはピアノ, ヴァイオリン等で演奏技術の高度な作品や, 物語や感情を表現した 小品, ドイツ歌曲等が多く書かれた. ヴァーグナーは壮大な楽劇を創作しヨーロッパ各地に大きな影響を及 ぼ した.. イギリスでは16世紀には声楽, 鍵盤音楽の分野で隆盛を極めたが, それ以後は外国からの影響を大きく受 108.
(6) . ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. け, 独自の音楽形成ができにくい状況に陥り, 音楽界は主に外国からの作曲家達によっ て保たれていた. ド イ ツ 人 のヘ ン デル, J‐ C‐ バ ッ ハ, オース トリ ア 人のハイ ドン, イ タリ ア 人のク レメ ンテ ィ 等 が代 表 的で あ る.. - ー. ノ. フラ ンス にお い て も 外 国人作 曲家 の活 躍 は顕著 で, オ ペ ラ ・ コミ ッ ク が音 楽の新 たな ジ ャ ンル とし て誕 生 した 後, オ ース トリ ア 人の グル ッ ク の手 によ り グラ ン ドオペラ の確 立 へ と 向 かう‐ 器楽の 分野 にお い ても パ. リを中心に多くの外国人作曲家が集まった. すでに前世紀から行われていたが, 貴族の邸宅でのサロンコン サ ー トは1830年 に入 り, は っ きり と した一つ の ジ ャ ンル と して 形成 さ れた‐ そこ で演 奏 さ れた楽 器 は主 に ピ アノ で, 活躍 した の は外 国 か ら移 り 住 んでい た作 曲家 達, 例 え ばポー ラ ン ド人の シ ョ パ ン, ハ ン ガリ ー 人の リス ト, オース トリ ア 人のタ ー ル ベ ルク 等 である‐ フラ ンス 人 の ベ ルリ オ ー ズ の 交響 的作 品 は交響 曲やオ ペ ラ とい っ た ジ ャ ンルを取り 払 っ た独 特 で壮 大な芸 術 を目 指 したも の で, フ ラ ンス ばか り ではなく ヨー ロ ッ パ 音 楽 の 中でも 特別 な 存在 であ る‐ や が てオー ケス トラや 室 内楽 も盛 ん にな り, サ ン=サー ンス のよう に, 自. 国の伝統を受け継いで澄明で簡潔な表現を求める流派と, ベルギーから移住してきたフランクを中心とする ドイツ的で複雑な音の組合せを追求する流派ができた. サン=サーンスとフランクは国民音楽協会の活動を 通 じて協力 し合い, フ ォ ー レと ダン ディ が作 曲や 教育 を通 して多く の 後継者 を育 てた. 19世紀の ドビュ ッ ソ ー, ラ ヴェ ルの 近代 にお ける 活躍 と フラ ンス の 新 しい音 楽 様 式の 確 立 は1870年 か ら90年 ま での地 盤作り の 上 に 立 っ て いる‐ ‐ (3) 18世 紀の ロ シア宮 廷 による 音 楽改 革 とヨー ロ ッ パ 音 楽 と の 関わ り ピ ョ ー トル の 命令 によ っ て 3 人の 貴 族 トルス トイ マ ト ヴェ ー エ フ ク ラ ー キ ン が音 楽の 視 察の ため に , , ヨー ロ ッ パ に派遣 さ れた の は17世紀 末 である. 彼 らが見 聞き した したも の は ヴ ェ ニス の 音楽 的祝典, ロー マ のオ ラトリ オ, パリ のサ ロ ン音 楽, アムス テ ル ダム の 「コ レギウム ・ム ジク ム」 等 であ っ た‐ 彼 らのパリ や. ヴェニスに対して抱いた感慨は, それらの都市の活発な音楽活動が市民生活の豊かさの源であるという事で あっ た. 彼らの報告は皇帝に大きな影響を与え, 音楽を中心にすえた社会改革が始められたのである. ロ シア宮 廷 で は ヨー ロ ッ パ 音 楽 の演 奏 に務 め た. そ こで はオ ーケス トラ により 外 国の舞 曲, メヌ エ ッ ト,. ガヴォッ ト, アルマンド, サラバンド等が常に演奏され, 皇帝の命令で市民の教育のために毎週音楽会が開 か れた‐ 演 奏さ れた の は コ レルリ, ヴィ ヴ ァ ル ディ 等 のイ タリ ア音楽 である. 貴 族の家 庭 でも 専属 の オー ケ. ストラが雇われ, また輸入されたクラヴィコー ドが音楽教育の手段として普及して行った. やがて貴族の中 には領地内の農奴を音楽の勉強のために留学させたり, 外国人教師を頻繁に招く者もいた‐ 大きな国家行事 の際に演奏される器楽と声楽による栄光に満ちたカントの和声的様式や行進曲風なスタイルは以後のロシア の音楽に大きな影響を与えた. 170 2年の ドイツの劇団による音楽劇場の開設は, 一般市民の音楽に対する関心を非常に高めた. そこでは 器楽伴奏付アリア等も演奏された. しかしその後オペラの多くはイタリアからもたらされたものである‐ 女 帝ア ンナの 時代1731年 にフラ ンチ ェ ス コ・ ア ラ ヤ のイ タリ アオ ペ ラ 団 がモス ク ワ を初 め て訪 問 し, 1733年 に ′ペ テ ル ブルク でも 公演 した‐ 後 に宮 廷 楽長 に任 ぜら れた彼 は1755年 に初 め てのロ シア 語の オペ ラ を上演 し は た. こ れは 「ツ ェ ー フ ァ ルと プロクリ ス」 と いう ギリ シ ャ 神 話 をも と に したオ ペ ラ で, ロ シア人 の俳優 によ. り演じられた‐ エカ テリ ー ナ2 世 の 時代 にイ タリ アの 作 曲家 達 が宮 廷 楽長 と してロ シア に滞在 した‐ バ リ ダッ サー レ. ガ ル ッ ピ, ジ ュ ゼ ッ ペ ・ サ ルテ ィ も そ の 中 にい た‐ ジ ョ ヴ ァ ンニ ・ パイ ジ ェ ッ ロも1776年 か ら8年間滞在し. ,. 「セ ビー リ ァ の 理髪 師 を初 演 して いる ドメ ニ コ・ チ マロ ー ザ は1787年 から4 年 間滞在 し ナ ポリ 王 国大 」 ‐ ,. 使夫人の葬儀のために 「レクイエム」 を作曲した. これらの作品がロシア人作曲家達に与えた影響は大きく, 初期 の段 階にお い て は彼 ら によ っ て もイ タリ ア風 オ ペ ラ が書 か れた が, や がてロ シ ア語の 歌詞 を用 い, 自 国 109.
(7) . 水 田. 香. の民族的な題材を取り入れる事によってその独自性を主張し始めるのである‐ その中にはパ シケー ヴィ チ, ミハ エル・ ア レク セー ヴィ チ ・ マティ ンス キー, フ ォ ミ ン等 がいる. 18世 紀 後半 のオ ペ ラ の特 徴 は農 民 の虐. げられた生活を批判したり, 風刺をする喜劇的性格のものが多く見られる事である. マティンスキーは, 主 人と共に外国旅行をしたりイタリアでの生活を経験する中で音楽を学んだ農奴出身の音楽家であっ た. フォ ミンはボローニャで音楽の勉強をした作曲家である が, 彼の作品に見られる重要性はイタリア風な様式 とロ 178 7年) シア的要素を総合している点である.農奴制を問題にしたロシア語によるオペラ「郵便馬車の御者」( はイ タリ アの ベ ルカ ン トとロ シア の プロチ ャ ー ジナヤ, 自 由な即 興歌 と 結 合させ たもの である. ペ テ ル ブルク の 「ロ シア劇 場一 の創 設 は1756年 で, モス ク ワ に も 同 様の もの がそ れ に続い て建 て ら れた が,. そこでの音楽活動を支えたのは特別な教育を受けた農奴による劇団とオーケストラであった. 18世紀の器楽作品の中で特徴的なものは様々な舞曲, 室内楽, それにクラヴィーアや ピアノのための作品 であった‐ 都会では家庭音楽としてメヌエッ ト, カ ドリーユ, ワルツな どが演奏され, 楽譜の出版も行われ た‐. 18世紀末に普及し始めた鍵盤楽器はクラヴィコー ドと ピアノである. その作品の多くは民族音楽や流行の 歌をもとにした変奏形式であったが, 他に舞曲や編曲された作品も見られる‐ ロシアに滞在中の外国人作曲 家達は当時ヨーロッパで確立されたソナタ様式を取入れた作品等を発表したが, ロシア人作曲家にもその影 響が見られる‐ ボルトニャーンスキーは ピアノ曲や室内楽等を多く手掛けたが, ウィーン古典派に見られる 様な明快な形式や和声となめらかなメロディー線を持った作曲家として知られている‐ 彼はチャイコフスキ ー, グリンカに大きな影響を与えた‐ 室内楽の分野ではヴァイオリンと ピアノを組み合わせた作品が多く書かれる様になり, 社交界や家庭音楽 会等 の場 で盛 ん に演 奏さ れた が, ハ ン ド‐ シ ュ キ ンは特 に ヴァ イ オリ ン作 品 の 分野 で ヴィ ル トゥ ー ゾ的作 曲 家 と して知 ら れている‐. 15世紀末にイタリアで発祥したバレーは, フランスにおいて発展し, 各国の芸術に大きな影響を与えたが, ロ シア の劇 場 にお い ても, 「独 立 した音 楽作 品」 と して次第 に重 要な 分野 になりつつ あ っ た‐ (4) 19世紀 にお ける ロ シ ア とヨー ロ ッ パ の音 楽 交流 19世紀 の ロ シア とヨー ロ ッ パ との 交流 の 特徴 は音楽 の 中心地 が ドイ ツ, フラ ンス に移動 した事 と, 次第 に. 宮廷と関わりなく音楽家同士による自由なものになって行った事, 楽譜の出版が盛んになり, 遠隔地に至る まで間接的な影響を及ぼし合うことが可能になった事である. ピアノ, 交響曲, オペラ, バレーの分野にお ける交流が盛んであった事は当時の音楽の状況をそのまま反映している‐ ① ヨー ロ ッ パ 音 楽家 のロ シア 来訪 と そ の 影響 19世紀 は ピ アノ の 発達 と完成 によ り, イ ギリ ス, ウ ィ ー ン, ドイ ツ, フ ラ ンス を中心 と して多く の ピ アノ. ・当時の重だっ た ピアニスト 曲が作曲され, 演奏技巧の向上と共にピアニストの活躍 が目立っ た時代である. ▼ ス カ ルラ ッ ティ ヘ ン デル等 の がロ シア を 訪 問 している. ク レメ ン ティ はロー マ に生ま れ, コ レルリ, A‐ ,. 作品から音楽を学びD. スカルラッティ, バッハ父子の作品の影響を受けた作曲家である が, 後にイギリス で活躍し, 演奏家, 教師, 出版業者の他にピアノフォルテの製造業者としても有名であった. 彼のロシアと の 関 わり は1781年 パ ウ ル大公妃 の前 で行 わ れたモー ツ ァ ル トと の ピ アノ フ ォ ルテ の コ ンテス トであ っ た. ヨ ー ロ ッ パ 各地 で成功 を修め た彼 は1802- 3年 に ペ テ ル ブルク を訪 れ ピ アノ 演 奏 を行 っ ている が, 当 時 は彼 に. 対する宮廷の待遇も, 彼のロシア音楽に対する印象もはかばかしいものではなかった. しかしこの間にロシ アにおいて ピアノの指導を受けた者が数人いた様である. ロシアの ピアノの分野に, より直接的で多大な影 響 を 与え た音 楽家 は, ク レメ ンテ ィ がイ ギリ ス から 同行 した弟 子 の フィ ー ル ドであ る. 彼 の ピ アノ の レ ガー ト奏 法 は ヨー ロ ッ パ で高く 評価 さ れてお り, 彼 のノ ク ター ンは シ ョ パ ンの作 品 に受 け継 が れて行 っ た‐ 彼 は 110.
(8) . ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. マ ル ク ロ フス キー 将軍 の住 み 込 み音 楽 教 師の職 を得 てロ シ ア に残 っ た‐ 農 奴 の 身 分 であ っ たA‐ グリ リ ョ ー ス ク ワ で ピ アノ 教 師を しな が らロマ ンス, ) は フィ ー ル ドの 指 導 を 受 け,1830年代 になる とモ・ 1802一1856 フ( マ ズ ルカ, ワ ルツ, 変 奏 曲な どの ピ アノ 小 品 を作 曲 した‐ グリ ンカ も フィ ー ル ドに学 び彼 のス タイ ル でノ ク ター ン風な小 品 を 作 曲 した. A‐ ゲリ ケ は フィ ー ル ドに学 び, 更 にカ ルク ブレンナー やモ シ ェ レス の 指導 を 受 けた 後 に, ピ アノ 教 師と してチ ャ イ コフス キー, ム ソ ル グス キー 等 を育 て た‐ 彼 はリス ト, シ ュ ー マ ンと ) がペ テ ル ブルク で演 奏 を行 っ た‐ 彼 は 1778一1837 も 交流 を している‐ 1822年 にハ ン ガリ ー 人 の フ ンメ ル ( モー ツ ァ ル トに教え を受 け, ウ ィ ー ンで 認め られた作 曲家, ピ アニス トであ っ た がロ シアの 批評家 達 か らの. 賛同は得られなかった. 同年に作曲家であり ピアノ演奏家と してフィール ドと並び称せられていたポ」ラン ド人のM. シマノフスカがペテルブルクを訪れた‐ 彼女は宮廷 ピアニストの称号を与えられてその地に定住 し, サロ ンでの活 動 を通 じて グリ ンカ に影響 を与 え た. リ ス トは1840年代 にヨー ロ ッ パ 各地 - パ リ, ロ ン ド ン, ドレス デン, ライ ブ ツィ ヒ, ブリ ュッ セ ル, ベ ルリ ン, ウ ィ ー ン, プラハ, その 他一 で ピ アノ の ヴィ ル トゥ オー ゾと して 比類 のない 活躍 を してい た が, 1842年, ペ テ ル ブルク, モス ク ワ で初 め て演 奏 し, 1843年 には ペ テ ル ブルク で6 回, モス ク ワ で6 回, 1847年 に はウク ライ ナ, キエ フ にお いて多 数の ピアノ の演 奏会 を行 っ てい る‐ 1844年 に は シ ュ ー マ ン夫妻 がニ コ ライ 1 世 の 時代 に4週 間の滞在 を した. 彼 ら が関わり を 持. っ たのは宮廷とそれをとりまく一部の貴族達で, クララの演奏は好意を持って迎えられたが, まだイタリア オペラの勢力の強い頃であり, それに対するロベルトの不満が彼の当時の手紙から知ることができる‐ ポー ) がペ テ ル ブルク に移り住 み, ペ テ ル ブルク 音楽 院 1830一1915 ラ ン ドか らは1852年 にも レシ ェ ティ ツ キー ( ) は後 にモス ク ワ音 楽 1852一1918 の ピ アノ 教授 と して多く の ピ アニス トを育 て た‐ 彼 の弟 子のサ フォノ フ ( 院長 と してス クリ ャ ー ピンを は じめ, 多く の ピ ア ニス ト, 音楽 教育 者の 指導 者とな っ た‐ 1864年, 75年 にノ、 ンス ・ フ ォ ン・ ピ ュ ー ロ ÷ がペ テル ブルク と モス ク ワ に ピ アノ の演 奏 旅行 に訪 れ た‐ 64年 には無視さ れた彼 も75年 に は多く の 聴 衆 の 支持 を得 た. 独 奏 の プロ グ ラ ム には バ ッ ハ の 「半音 階的幻 想 曲」 , ライ ン ベ ル ガー, 「 「 ベー トー ヴ ェ ンの 「変ホ 長調 ソ ナタ」 , シ ュ ー マ ンの 子守歌」 , リ ス トの 2つ のエ チ ュ ー ド」 があ っ た‐ 1800年代 半 ばに, 交 響 曲や オ ペ ラ の ジ ャ ンルを越 えた 壮 大な 作 品をロ シア に紹 介 したの は, ベ ルリ オー ズ と ヴ ァ ー グナー である. ベ ルリ オー ズ がロ シアを 訪 問 したの は1847年 で, 前年 に完成 さ れたコ ンサ ー ト形式 によ る オ ペ ラ 「フ ァ ウス トの劫 罰」 が, ヨ ー ロ ッ パ の 音 楽家 達 の 評価 を 大きく 分 け てい た 頃 であ る. 「幻 想 交響 曲」 ( 1830年) はそ の 特異 性 によ り パ リ で す で にセ ンセー シ ョ ン を引 き 起 こ して い た‐ オ ペ ラ が伝 統 的 であ っ た フラ ンス にお い て, 交 響 曲 にフ ァ ンタ ジー の概 念 を取 り 入 れたこ の作 品 は画期 的な も の であ っ た. 彼 はペ テ ル ブルク で5 回, モス ク ワ で1 回の演 奏 会 を 開き 一 般の 人々 には熱 狂的 に歓迎 さ れた. しか し彼 に 対する チ ャ イ コ フ ス キ ー の評価 は, ヴァ ー グナー, R. シ ュ ー マ ンと 同様 に否 定的な も の であ っ た‐ そ の 論. 点は自由奔放で過度な表現方法と, 形式的なまとまりや必然性の欠如にあっ た. しかし彼の標題的構成と管 弦楽の音色はロシアの国民主義音楽家ム ソルグスキーやリムスキー=コルサコフの音楽に受け継がれた. ム ソ ル グス キー の 中 でそ れは ‘シ ュ ー マ ンのリ ズ ム の 対照 性’ や, ‘リス トの哲 学的な思 考と伝統 的な和 声 を. 大きく越えたロマン的進行’ と共に統合され新しい音楽へと向かうのである‐ 18 63年, ヴァーグナーは音楽愛好協会の招きでペテルブルクに赴き, 自作品の紹介と指揮活動を行った‐ 当 時の 大 公 妃 であ っ た ヘ レー ネ ・ パ ヴロ ー ヴナ の前 で, 「ニ ュ ル ンベ ルク の マイ ス タ ー ジ ン ガー」 と 「二 ‐ ベ ル ン グの 指 輪」 を披 露 した‐ ペ テ ル ブルク で3 回, モス ク ワ でも3 回の 公演 を行 っ ている が 「ロー エ ン グ リ ン」 で は 聴 衆 の 数は3000か ら4000人 とも 言 わ れて いる‐ 「ニ ー ベ ル ン グの 指 輪」 は1885一89年 にも ドイ ツ 歌劇 団 によ りロ シ ア公演 が行 わ れた‐ チ ャ イ コ フス キー は ヴ ァ ー グナー の楽劇 につ い て “交響 曲の手 法 によ っ て 声楽 が殺さ れて いる” と批 判 的 であ り, バ ッ ハ, ハイ ドン, モー ツ ァ ル ト, ベー トー ヴェ ン, メ ン デル ス ゾー ン, シ ュ [ マ ン, グリ ンカの 純粋 な 芸術 性 と比 較 して,“衆目 を集 めよう とする 偽り の思 想 の持ち 主 だ” , 111.
(9) . 水 田. 香. と 厳 しい批判 を行 っ た.. チャイコフスキーはドイ ツ的伝統を継承する音楽院の指導者であり, ロシア音楽界の中心的人物であった が, 音楽 的暗 好 は フラ ンス 風な作 品 にあ っ た 様 である. 1875年 にサ ン=サー ンス がロ シア音 楽協 会 (A. ル ー ビンシ ュ タイ ンによ り1859年創 設) の招 き でペ テ ル ブルク を 訪問 し, 自作 の指揮 と ピ アノ 演 奏を行 っ た‐ サ ン= サ ー ンス はチ ャイ コ フス キー に, パ リ でコロ ンヌ のオ ー ケス トラ による ロ シア作 品 の演 奏会 を提 案 し て いる が, こ れ は当 時 す で に ヨー ロ ッ パ がロ シア音 楽 に対 して 多 大 な 興 味を 持ち 始め てい た 事 を示 して い る. チ ャ イ コ フス キー は翌年 そ れ に答え, パ リ に滞 在 してい たタ ネー エ フ を仲 立ち にサ ン= サ ー ンス と 交 渉. を図る‐ チャイコフスキーが提案したプログラムの内容は彼自身の作品とタネーエフの作品を中心としたも のであ っ た‐ コ ンサ ー トの プロ グラム は変 更 さ れた が1878年 に実現 して いる‐ フラ ンス か ら19才の ドビ ュ ッ シー が1881年 と翌年 に ド・メ ッ ク 夫 人 を訪 れ, ロ シア に滞 在 した. 彼 はこ の . ポロ ディ ンの 歌 曲 リ ムス キ ー= コ ルサ コ フの オペ ラ グリ 間, 多く の ロ シア の作 品, チ ャ イ コ フス キ ー, , , ンカ, バ ラ キ レフ の作 品 に接 した‐ 彼 とチ ャイ コ フス キー は ド・メ ッ ク 夫 人を通 じて 間接 的 に交流 があ っ た‐ ドビ ュ ッ シー の 「ボヘミ ア 風舞 曲」 は形式 と, 統 一 性 に欠 ける 軽い 曲 だと して チ ャ イ コフス キー か ら酷評 を 受けた 1 890年に出版された 「バラー ド はロシア民謡を扱 た変奏形式の作品で もとは ”ス ラ ブ風の”. ‐ という形容詞が付けられていた.. っ. 」. ,. ② ロ シア 人音 楽家 のヨー ロ ッ パ 遠 征 と その 影響 国民 主義 音 楽の創 始者, グリ ンカ と, 続く ダル ゴム ィ ー シス キー はヨー ロ ッ パ 音 楽 を 基礎 と し, ロ シアの. 伝統的音楽と精神の融合を図り, 1840年代後半になるとヨーロッパ に働きかけを始めた. グリンカの国民音楽主義は, 幼いときに親しんだロシア民謡に端を発している が, それに留まる 事なく, 後 に接 した 外 国の 音 楽, ス ペイ ン, 東洋, パ レス トリ ー ナや ラ ッ ソ ー の多 声 音楽 の 中 にす らロ シアの 民 族音 楽 と の共 通点 を見 い だ し, そこ に基盤 を置 い ている. 彼 の 活動 は, ペ テ ル ブルク のサロ ンにお ける ピ アニス トと して 始め ら れた が, イ タリ ア, ベ ルリ ンで作 曲の勉 強を重 ねた 後, 1830代 に 隆盛 とな っ てき たロ シア文 「 学の プー シ ュ キ ン, ジ ュ コー フス キ一 等 と の 接触 によ り, 国民 オペ ラ 「イ ヴ ァ ン・ス サ ー ニ ン」 , ルス ラ ン. とリ ュ ドミラ一 等を次々と完成した‐ これらの作品は国内ではほとんど評価されなかっ たにも関わらず, 1844年 か ら45年ま で滞在 して い たパリ で は, ベ ルリ オー ズ によ っ て演 奏さ れた上, 非常 に高 い評価 を 与え ら. れた‐ 彼は1 852年再びパリに行き, グルックのオペラを研究した. グリンカの器楽曲の素材には民族音楽が 取り入れられたものがあり, その展開の方法には核になる1つの旋律から新しい旋律を次々と生み出すとい う独特なロシア民謡のやり方が見られる. 彼は彼自身も認めている様にパリの聴衆が注目した最初のロシア ) は フラ ンス のロマ ン主 義 文学 に傾倒 し, 1844年 か 1813一1869 人作 曲家 といえる. ダル ゴム イ ー シス キー ( ら45年 にか けて パ リ でフ ラ ンス オペ ラ の研 究 を した末にフランス音楽の軽さに馴染めず, ロシアの国民芸術. と文化の認識をした作曲家であり, グリンカ と共に国民主義音楽の道を歩んだ‐ しかし国内ではなかなか認 め ら れなか っ た. ) はヨー ロ ッ パ古 典 音楽 1820一1871 ドイ ツ の 音楽 と 結 び付 き を深く したの は 次の二 人である. セ ロー フ ( の研 究 から 出発 し, オ ペ ラ作 曲と 音楽 批 評家 と して 活躍 した が, ヨー ロ ッ パ 旅行 で ヴァ ー グナー と出 会 い, ) は ピ アニス ト, 作 曲家, 指揮 者, 1829一1894 彼の オ ペ ラ 改 革の 支持者 とな っ た. A. ルー ピンシ ュ タイ ン ( 音楽 教育 者 と してロ シ ア に大き な 影響 を与 え た‐ ピ ア ニス トと しての レパー トリ ー は広 く, フ ンメ ル, ク レ メ ンティ, リ ス ト, タ ー ル ベ ルク 等 で1870年 か ら80年 にか けての ヨーロ ッ パ, アメ リ カ 演 奏 旅行 の プロ グラ ム に は シ ョ パ ンの 「ソ ナタ. 「 第2 番」 , 練習 曲. 「 イ 短調」 , シ ュ ー マ ンの 謝肉 祭一 等 の 大作 が見 られる. 又,. 「 さ れた‐ 1840年 に パ リ に出 か け シ ョ パ ンの 「幻 想 曲」 , シ ュ ー マ ンの 幻 想 曲」 は彼 に よ っ て ロ シ ア で初 演 た の をき っ か けに, その 後, オ ラ ン ダ, イ ギリス, ドイ ツ, ス カ ン ディ ナ ビ ア等 で音楽 会 を 開い た が,・シ ョ 112.
(10) . ロシア‐ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. パ ン, シ ュ ー マ ン, サ ン= サー ンス も 彼 の演 奏 を聴 き, 高 い評価 を与 えて いる. 作 曲は ベ ルリ ンで 学 び, 古. 典的な伝統音楽を修得し, オペラ, オラトリオ, 交響曲, 歌曲, ピアノの大作から小品まで書いたが, リス トか ら批判 さ れた 様 に非常 に多 作 す ぎる 作 曲家 であ っ た‐リ ス ト と の 出 会い はウ ィ ー ンにお いて であ っ た が, 以 後2 人の 交流 はリ ス トが死 ぬま で続い た. ルー ピ ンシ ュ タイ ンは1859年, ロ シア 音 楽協 会 を組織 し, エ レ ー ナ・ パ ヴロ ー ヴナの 保 護 を受 けな がら定期 的 なコ ンサ ー トを 開催 した. 彼 は多く の ヨ ← ロ ッ パ の 交響 曲 を. 62年に創られた音楽教室は, やがてペ 紹介する一方で, ドイツ風な専門音楽教育を行う施設を創設した. 18 テ ル ブルク の高 等 音 楽 院にな っ た‐ 1878年, パ リ 博 覧 会 での 第1 回ロ シア音 楽演 奏 会 にお いて, ニ コライ ・ ルー ビ ンシ ュ タイ ン がチ ャ イ コフス キ ー の ピ アノ 協 奏 曲 を演 奏 した‐ この 地 では 同年 に4 回のロ シア音 楽演. 奏会が開かれている. チ ャ イ コ フス キ ー は ルー ビ ンシ ュ タイ ンのも とで ドイ ツ 的な 音楽 教育 を 受 けな がら, フラ ンス 音楽へ の 興 味と親 交を 深 め た音 楽家 であ っ た. 1887年 にチ ャ イ コ フス キー は初 め て 外 国演 奏旅行 を行 っ た. ライ ブ ツィ 「 ヒ での ”チ ャ イ コ フス キ ー 記 念演 奏 会” で は 「三 重 奏 曲」 , 四重 奏 曲. 「 第 1 番」 , 《オ ネー ギ ン》 の 主 題 に. よる 舟 歌 と幻 想 曲一 等 が演 奏 さ れた‐ 1888年 にはハ ン ブルク, プラハ, パリ で ”チ ャ イ コ フス キー 記念演 奏 「 会” が開か れ, 自作 による 演 奏 会 を指 揮 する‐ そ こ で は 「ピアノ 協 奏 曲 第 1番」 , , ヴァ イ オリ ン協 奏 曲」 「序 曲1812年」 「弦 楽セ レナー ド」 等 が演 奏 さ れ た ロ シア 人 で パ リ 音楽 院の学 生 であ っ たD‐ A‐ チ ェ ル . , え を 状 次の様 ている は当 時の 況 に伝 ジコ ル ノモ フ ‐ パリ に暮 らす ロ シアの 若 者の多く がロ シアの 音楽 につ い て ほと ん ど知 識 を 持 っ て いな か っ た 事, フラ ンス の音 楽 界でロ シア の 音楽 を知 っ てい たの は ごく 一部 の 人達 「 であ っ た 事, グリ ー グがそ の演 奏 会 の成功 を喜 んでい た 様子, 曲目 は弦楽 合奏 「セ レナー ド」 , 組曲第3 番. 「 と 主題と変奏」 , ピアノ 作品 幻想曲」 等で, 評価は, 音楽が理解し易く, 新しい言葉による音楽である す る擁護者と, 民族的意義がないとする批判者に分かれた事である‐ いずれにしてもフラ ンス人にロシア音楽 家 の 質の 高 さ を示 す 結 果 とな っ た‐ その 後も ロ ン ドン, プラハ で自作 の演 奏 会が行 わ れた‐ その 間 に ブラー ムス, グリ ー グ, ドヴォ ル ザーク 等 と知り 合 っ た‐ 1889年 に はケ ル ン, フラ ンク フ ル ト, ドレス デン, ベ ル リ ン, ジ ュ ネー ブ, ハ ン ブルク, ロ ン ドンへ 第2 回の 外国演 奏 旅行 を行 っ ている‐. バラキレフグループの活躍はヨーロッパ音楽の国内普及と積極的な国外遠征・ロシア音楽の紹介である‐ その 結成 ( 1862年) はバ ラ キ レ フ と ポロ ディ ンと の 出 会 い がき っ か けであ っ た. キ ュ イ, ム ソル グス キー の 他 に1861年 に はリ ムス キ-= コルサ コ フ, 1862年 に は ポロ ディ ン が加 わ りス ター ソフも 参加 した‐ 彼 らは 伝. 統を重んずる既存のロシア協会と対立していたが, 両者の主な相違 点は, ルー ビンシ ュ タイ ン側 が ドイ ツの 伝統的な音楽の継承と普及に務め, それ以外の音楽に理解を示す事が少なかったのに対し, バラキレフ側は グリンカの音楽を発展させ, 民族的なロシア芸術音楽の創造を目指した点にある. 彼らは民族的なテーマと 民 族 的旋 律 を用 い, 1860年 に は ボル ガ河流 域 の 民謡 や 民 話 の収 拾を行 っ た. 1862年 には ルー ビ ンシ ュ タイ ン. の高等音楽院に対抗して無料音楽学校を始め, 付属の演奏集団を創り, 活発な演奏活動を続けた. 都市のい ろ いろ な 階層 の 人々 を音 楽 に親 しま せる 目 的で 始め ら れ たこ の コ ンサー トでは, リス ト, ベ ルリ オー ズ, シ ュ ー マ ン, グリ ンカ, ダ ル ゴム ィ ー シス キ 一 等 の ヨー ロ ッ パ と ロ シ ア の 作 曲 家 の 紹 介 と 普 及 が行 わ れた‐ 1867年 か ら68年 にか けてリス ト, シ ュ ー マ ン, ベ ルリ オー ズ, グリ ンカ, ダル ゴム ィ ー シス キー, バ ラ キ レ フ等 の作 品 を 取り 上 げて演 奏 し, ペ テ ル ブルク の シ ンフ ォ ニー コ ンサ ー トの指揮 に, ロ シア音 楽協 会 と して ベ ルリ オ ー ズ を招 い た‐ 1866一1867年 バ ラ キ レ フ が プラハ で グリ ンカ の オペラ 「ルス ラ ンとリ ュ ドミ ラ」 の. 公 演 の指揮 を した‐ こ れ はロ シアの 人の オ ペ ラ を初 め て 外 国に紹 介する と 共 に, ロ シ ア音楽 の普 及の き っ か 60年代のロシア社会全般に見られたロシア民族意識の高まりと, スラブ的, 民族的なものへ けとなった‐ 18 兎展のためにロシアを訪問したスラブ諸民族代表団の の関心は, 音楽にも認められる. 1867年, ロシア諸民族 「 為 の コ ンサ ー トで は, バ ラ キ レフ の 「チ ェ コ小 管 弦 楽 曲」 , リ ム ス キ ー = コ ルサ コ フ の セ ル ビ ア幻 想 曲」 113.
(11) . 水 田. 香. が演奏された‐ ム ソ ル グス キー ( 1839一1881 ) の受 けた最初 の 音楽 的影響 は母親 の弾く ピ アノ であ っ た が, 古い貿易都 市. であっ た故郷のトロペーツもその音楽性に間接的に寄与している. それは異教徒時代の遺跡や西側との戦闘 の歴史, 民衆に伝えられてきたロシア民謡や踊り, 風刺的な人形芝居等である. 彼はフィールドとつながり のあったペテルブルクのA. ゲルケの学校で ピアノ演奏を学んだ. そこではドイ ツ的で厳格な音楽教育が行 わ れて い た が, そ れ に対 して彼 は 後 に痛 烈 な 批判 を行 っ て いる‐ 1857年 にム ソ ル グス キー が出 会 っ たノ ヴ ゴ ロ ド出 身の バ ラ キ レフ は, その 地の 室 内楽 団 に所属 し, ピ アニス ト, 監督 兼 コ ンサー トマス タ ー を務め てい た が, 1855年 にペ テ ル ブルク に移り音 楽 活動 を始め た‐ そ こ で は グリ ンカ や ダル ゴム イ ー シス キー から高く 評価 さ れ, ロ シアの 新 しい音楽 の 担 い手 と して期 待 さ れた‐ ム ソ ル グス キー はバ ラ キ レフ から作 曲の 指導 を 受 けな がら, ヨー ロ ッ パ の 作 品- シ ュ ー ベ ル ト, ベ ルリ オー ズ, シ ュ ー マ ン, リ ス ト等÷か ら 形式, 手法, オー ケス トレー シ ョ ンを 学 び, 一方 で グリ ーク, モ ー ツ ァ ル ト, ベー トー ヴェ ンのソ ナタ等 の研 究 を した‐ ム ソ ル グス キー と キ ュ イ と は1857年 に出 会い, ベー トー ヴ ェ ン, ンュ ー ベ ル ト, シ ュ ーマ ンの作 品 に共 鳴 し ている 事 を確 め 合 っ ている‐ 彼 はイ タリ ア オペ ラや モー ツ ァ ル トの 「ドン. ジ ョ ヴァ ンニ」 を知 っ てい た が, ダル ゴム イ ー シス キー と の 出 会い をき っ か け と してロ シ アの 現実 的な 題材 を用 い た音 楽芸術 の創 造 へ と 大き. く傾いて行っ た‐ 当時, ムソルグスキーの芸術的思考の中心は標題を持ったものにあり, 特に文学や絵画等 とも一体となった総合芸術としてのオペラに関心があっ た‐ 1860年代から70年代には画家ペロフとの共通性 が, 「ポリス . ゴ ドノ フ」 の 時代 に は印象 派の画家 と の 共通 性 が見 ら れ, 「ロ シア主 義 的リ アリ ズ ム」 へ と進 んで 行く‐ 1880年代 か ら90年代 のロ シア ではま だム ソ ル グス キ ー の作 品は ほ と ん ど知 ら れる 事 がな か っ た‐ しか し1874年 にサ ン= サー ンス がパリ へ 持ち 帰 っ た 「ポリス ・ ゴ ドノ フ」 の ピアノ 譜 に よ っ て, 彼 はま ずフ ラ ンス で評 価 さ れた‐ 1893年 にP. デ ュ カス・はロ シア 音楽 に関する 論文 を発 表 し, 彼 の 「ポリス ・ ゴ ドノ フ」 は, ロ シアの バ ラ キ レフ グルー プの 目指 す 最も 進 ん だ表現 と して, 評 価 している. 1896年 に発 表 したム ソ ル. グスキーとそのオペラに関する論文では, 形式を越えて音楽がそれ自身から生み出すドラマ性について述べ てお り, 言 葉のリ ズ ム, イ ン トネー シ ョ ンと密 接 に結 び付 けら れた作 曲上 の統一 性 につ い て言 及 している. 1889年 に ド ビュ ッ シー も このオ ペ ラ に注目 した‐ 1913年 には, こ のオ ペ ラ のリ ハ ー サ ルと本番 に参加 して いる. この年 はパリ で, ロ シア の 国民主 義作 曲家 の作 品 が2 回, オー ケス トラ で演 奏さ れた が, ドビュ ッ ソ ー も聴 い て いる. 彼 は1901年 の 論文 で, ム ソル グス キー の音 楽 に見 ら れる 繊細 な感 覚と, 伝 統 的な も の に縛. られずに簡素な手法で音楽の本質に迫るやり方を, 高く評価していた. 彼の作品には多くの関心が寄せられ, レク チ ャ ー コ ンサー トが開か れた. ) は ピ アノ を習う こ と から音楽 の勉 強 を始 めた. ピアノ 1833一1887 ア ジ ア系 の 祖先 を持 つ ポロ ディ ンは ( で親 しん だ の は, サ ロ ン風 な小 曲, ロシ ア民 謡 をテー マ と した幻 想 曲, タ ー ルベ ルク, シ ョ パ ンの 練習 曲等. であった. 彼が大きな影響を受けた音楽は, 1840年代から始まったペテルブルク大学のコンサートで演奏さ れたヨー ロ ッ パ の作 曲家 達-ハイ ドン, モー ツ ァ ル ト, ベー トー ヴ ェ ン, ンュ÷ ベ ル ト, メ ン デルス ゾー ン 等÷の 交響 曲や, 1850年代 に触 れた グリ ンカ の 音楽, 1850年代 の半 ばから ペ テ ル ブルク 大学や パ ブロ フス ク 駅 での コ ンサー トで 取り 上 げら れたロ シアの作 曲家- ダル ゴム ィ ー シス キ ー, ルー ビンシ ュ タイ ン, バ ラ キ レ フ ーの 作 品で ある. 後 に, ドイ ツ でリス ト, ヴ ァ ー グナー の 作品 の演 奏 に触 れ たり, ピ アニス トA. プロ トポー ポ ワ を通 じて, シ ョ パ ン, シ ュ ー マ ンの 作 品 を知 り 大き な影響 を受 けた. 作 曲 は独 学 であ っ た が, ド イ ツ の音 楽 理 論文 献 で フ ー ガや ソ ナタ 形式 を 学 んでいる. 1877年 にワイ マ ー ルで始ま っ たり ス トとの 交流 は. 5年にベッセリから送られてきた多くの楽譜 彼のみならず, ロシア音楽に多大な影響を与えた‐ リストは187 か ら, す で にロ シア 人の 作 品 を知 っ てお り, 中でも ポロ ディ ンの 「交響 曲. 第1 番」 に大きな 関心 を 寄せ て. ・ム ス キー = コ ルサ コ フ にも 興 味を示 し 当 時の ドイ ツ音楽 と比 較 し ロ い た. 彼 は バ ラ キ レフ, キ ュ イ, リ , , 114.
(12) . ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. シア音楽の新鮮さ, 独自性, 大胆な革新性を高く評価した‐ その上, ポロディ ンの 「交響曲 第2番」 を自 ら演奏している. 188 0年, リストの提案によりバー デンバー デンの音楽祭 (全 ドイ ツ音楽連盟主催) で演奏 されたポロディンの 「交響曲 第1番」 は大きな反響を呼びヨーロッパ各地に彼の音楽を広めるきっかけと な っ た. 1883年 ライ ブ ツィ ヒ の 音 楽 祭 で 「交響 曲. 第 1 番」 が演 奏 さ れ た 後, 「中 央ア ジ ア の 草原 にて」 が. ペス ト, ドレス デン, イ エ ナ, ウィ ー ンで 取り 上 げら れ, パ リ でも1884年 に初 演 さ れ, いず れも 成功 を 修め た‐ 1885年, ベ ル ギー のリ エー ジ ュ で はリム ス キ ー= コ ルサ コフ, ム ソル グス キー, グラ ズ ノ フ, ダル ゴム 「 イ ー シス キー, キ ュ イ の作 品と並 ん で ポロ ディ ンの 「交響 曲 第1 番」, 「眠れる 王女」 , 中 央ア ジア の草原 にて」 も演 奏さ れた. こ の年 に パ リ のフ ラ ンス 音 楽家協 会を訪 れた 際, サ ン= サー ンス と親 しく なり, 彼 に 講演 の 保 証 人を引 き 受 けて 貰 っ たほ どである‐ ポロ ディ ンは同年, ア ン トワー プ博 覧 会 でのロ シ ア音楽 コ ン サー トに招 かれ た が, 3 回の演 奏 会 にはリ エ ー ジ ュ, ブリ ュッ セル, ヘ ン ト高 等 音 楽 院の 教授 達, オラ ン ダ,. フランスの音楽家達, 音楽愛好家が集まっ た‐ この大成功によりポロディ ンはロシアを代表する作曲家とし てヨ ー ロ ッ パ にそ の名 を広 める 結 果 とな っ た‐ 1886年リ エー ジ ュ で行 わ れた ロシ ア 音楽 の連 続コ ンサー トに キ ュ イ と共 に出 か け た. その 際ア ン トワー プ, ア ル ジ ャ ン トでも演 奏 会 が開か れた‐ 彼 の作 品 は19世紀末 か. ら2 0世紀はじめのフランス音楽 に大きな影響を与えた‐ ) はノ ヴ ゴロ ド出 身の 音 楽家 である‐ 彼 はロ シア民 謡 の研 究, 古 い リ ム ス キー = コ ルサ コ フ ( 1844一1908. 異教時代に遡っ た音楽や, ブィリーナにもとずく民族的な題材, 民謡, 舞曲, 構成を取り入れる一方でJ. S‐ バ ッ ハ の研 究も した‐ 1881年 にマク デ ブルク で 「ア ンター ル」 が演 奏 さ れ, ポロ ディ ンがそ の成 功 を伝 え た. ) が年 少 の 頃 に親 しん でい たの はモ ー ツ ァ ル ト, シ ャ ブリ エ, シ ュ ー マ ン, ウ エ ー 1875一1937 ラ ヴェ ル ( バー, シ ョ パ ン, メ ン デルス ゾー ン, リ ス ト, グノ ー, サ ン= サー ンス の他 に, リ ムス キー ニ コ ルサ コ フ, ム ソ ル グス キー, ポロ ディ ン等の ロ シア の作 品であ っ た. 1889年 の パ リ 万 国博覧 会 でリ ムス キー = コ ルサ コ フ の 音 楽 を初 め て聴 き, 1898年 に同名 の 管 弦 楽 曲 「シ ェ ラ ザー ド序 曲」 , 1903年 に は オー ケス トラ 伴 奏付 き 歌 曲 「シ ェ ラ ザー ド」 を作 曲 して いる. バ ラ キ レ フの 「イ ス ラメイ 幻 想 曲」 は 東洋 風な名 人芸 的作 品 である が, ラ ヴェ ル が1908年 に作 曲 した 「夜 の ガス パー ル」 の 中の 「ス カ ル ポ」 は, 当 時の ピ アニス ト達 か ら恐 れ ら れてい た 「イ ス ラメ イ」 の困 難さ を 越え よう と して書 か れた作 品 であ っ た. 1872一1929 ディ ア ギ レ フ ( ) は, 20世 紀初 め に自 国ロ シア の 音 楽 を フラ ンス に広 める と共 に, かなり 意 図. 的にロシアとフラ ンスの作曲家達の大がかりな交流を図り, その結果, ヨーロッパ音楽の発展に多大な貢献 を した. 彼 は1907年 に バ ラ キ レ フ グルー プを フラ ンス に紹 介 し, 1908年 に はム ソ ル グス キ ー の 「ポリス ・ ゴ ドノ フ」 をパリ の オペラ 劇 場 で 上演 した‐ シ ャ リ ア ピ ンを主 役 に行 わ れた こ のオ ペ ラ はパリ に衝 撃 を与 え た‐ フラ ンス で は特 にラ ヴ ェ ル が ディ ア ギ レフとの 交流 を深 め, そ れ は20年 余り にも 及 ん だ‐ ディ ア ギ レ フ は, ラ ヴェ ルとス トラ ヴィ ンス キー の オー ケス トラ の 響 きやリ ズ ム 感 に, 共通 性 がある こ と をいち 早く見 抜き,. 音楽上における 2 人 の接触 を 図 っ た‐ ディ ア ギ レフの興 味ある 提 案 は, ス トラ ヴィ ンス キー と ラ ヴェ ルの 合 作 で, ム ソ ル グス キ ー の 未 完 の オ ペ ラ 「ホ ヴ ァ ン シチ ナ」 ( 1872一80 ) の オ ー ケス トレー シ ョ ンを行う こ と. であった. この仕事は2人の積極的な協力 にもかかわらず, 順調には運ばなかっ たが, その交流は思いがけ ない 結 果 をも た ら した. ラ ヴ ェ ルはス トラ ヴィ ンス キー と の 共 同作 業 の最 中 に, 彼 のも と で室 内楽 伴 奏付 ソ プ ラノ 独 唱 曲 「日 本の 3 つ の 短 歌」 ( 1912一13 ) を知 る 事 が でき た‐ こ れ は オース トリ ア 人 の シ ェ ー ンベ ル ク によ っ て 作 曲 さ れた 「月 に悪 か れ た ピ エ ロ」 ( 1912 ) の編 成 に影響 を 受 けた 作 品 で あ る. ラ ヴェ ルも 又 シ 1913 ) を作 曲 した. ェ ー ンベ ルク と ほ ぼ同 じ編 成 で 「マ ラ ルメ の詩」 ( しか しディ ア ギ レフ の貢 献 は特 に バ レー の 分野 で顕 著 である‐ バ レー は フラ ンス か らロ シア に持ち 込ま れ たオ ペ ラ に結 び付 けら れてい た 分野 で あ っ た. 1847年 か ら1903年 にか けてロ シア帝 室 舞踊 劇 場 で は, チ ャ イ 115.
(13) . 水 田. 香. 「 コ フス キー の 「白鳥の湖」 , 眠 れる 森の美女」 が上演 さ れた. 活 躍 した 舞踊 家 ・ 振付 け 師はフラ ンス のマリ ウス ・ プチ パ ( ) で, こ れはロ シ ア バ レエの 黄 金 時代 を創 る き っ か け とな っ た. 1822一1910 19世紀末 の ロ シ アの “芸術 世 界” の 活動 は, 文 学, 音 楽, 美 術 を統 合 し, ロ シアと近代 ヨー ロ ッ パ の文 化 を結 び付 けよう とする A. ブノ ア (ドイ ツ, フラ ンス, イ タリ ア 人の 混血 で ペ テ ル ブルク 生ま れ) の 理想 に よ っ て推 進 さ れた. そ のメ ンバー の 1 人が ディ ア ギ レ フ であ っ た が, 1898年 か ら1904年 にか けて発行 さ れた 雑 誌 「芸術 世界一 に掲 載 さ れたの は, ロ シア ・ヨー ロ ッ パ の画家 の紹 介, フラ ンス や ロ シアの 象徴主 義 と い わ れた詩, そ してス クリ ャ ー ピ ンの 音楽 につ い ての 論文 等 であ っ た. 1907年 のロ シア 国内での バ レー 公演 の 成功 により, パリ での ロ シア音 楽 に よる オ ペ ラ, バ レー 公演 を計 画する こ と にな っ た‐ 1909年 にシ ャ トレ座 でロ シア バ レエ 団 (バ レエ ・リ ュ ス) の初 公演 が行 わ れた が, その興業 主 は ディ ア ギ レ フであ っ た. ニ ジン ス キ ー, フ ォ ー キ ン, フ ェ ド ロ ヴ ァ 等 の 舞 踊 家 達 に よ り, 「レ ・ シ ル フ ィ ー ド」, 「ポ ロ ヴ ツ 踊 り」, 「シ ェ フ. 「 「 「 ズ ゴ ザー ド」 , 眠 れる 森 の美 女」 , イ ー リ 公の踊 り一 等 が上演 さ れ, そ の色 彩, リ ム, 音 響 , 胡 桃割 人 形」 の 新 しい感 覚 でフラ ンス にセ ンセー シ ョ ンを巻き起 こ した. フラ ンス 人のミ シ ャ ・ エ ドワ ー ルの 援助 は経 済. 的なものにとどまらず, ロシアの芸術家を彼女のサロンの常連だったフランスの芸術家と引き合わせる事も 行 っ た. ラ ヴ ェ ル, ド ビ ュ ッ シ ー, ス ト ラ ヴ ィ ン ス キ. 等 の 音楽家 の他 に, 画家 の ピカ ソや, ジ ャ ン・ コク. トー等 も い た. 彼 らの協力 を得 て, ロ シア の バ レー は, 偉 大 な 総 合芸術 と して フラ ンス 人の 人気 を集 めた. ロ シアの 画家 の バ クス トは舞台装 飾 に貢 献 した‐ ドビ ュ ッ シー はム ソ ル グス キー か ら, ラ ヴ ェ ル は ポロ ディ ンか ら精神 的, 語 法的な 影 響 を受 けて いる. こ の後も ディ ア ギ レフは パ リ でス トラ ヴィ ンス キー の 作 品 を 次 「 ・ わ 々 と 上 演 した. 1910年 に は 「火 の 鳥」 , 1911年 に は ペ トルー シ ュ カ」 が上 演 さ れ た が, 特 に1913年 に行 れた 「春 の 祭典」 の 公演 には ドビュ ッ ソ ー, ラ ヴ ェ ルを は じめ 多く の音楽 家達 が 集ま り, 賛否 両 論の 激 しい. 論争を闘わせた. 1910年, ディ ア ギレフ がラ ヴ ェ ル に バ レー の作 曲を 依頼 した こ と により, ロ シア と フラ ンス の芸 術 は高 度 な 交流 を経 験する こ と になる. 振付 け師フ ォ ー キ ンの筋 書 き によ り 出発 した 「ダフニス と クロ エ」 は完成ま. でに様々な困難が克服されなけれ ばならなかった. その1つは舞台美術を担当したロシア人バクストのもつ 古代 ギリ シ ャ のイ メ ー ジと, フラ ンス 人の ラ ヴェ ル が描く 色 彩豊 かな ギリ シ ャ の イメ ー ジと が噛 み 合わ ない こ と であ っ た が, 様々 な衝 突 を乗り 越え て 「ダフニス とク ロ エ」 は完 成 さ れ, 1912年 に, ニ ジ ンス キー の ダ フ ニス 役 によ り シ ャ ト レ座 で初 演 さ れた. 「ラ ・ ヴ ァ ルス」 も ディ ア ギ レ フ がラ ヴ ェ ル に注 文 した作 品 で あ っ た‐ 1909年 ディ ア ギ レフ が パ リ に伴 っ た舞踊 家ロ シア系 のイ ダ・ル ビ ンシテイ ンの ため に ドビュ ッ ソ ー, ダヌ ン ツィ オ, オ ネ ゲル, ス トラ ヴィ ンス キー が彼 女の ため に作 曲 した‐ ラ ヴェ ルの代 表作 「ボ レロ」 も そ の 一 つ である‐. 皿. □シア・ヨ-□ツバの音楽交流に関する考察 近代までのロシアとヨーロッパの音楽交流を考える場合, 3つの大きな転機について十分に留意する必要 がある. なぜならロシアの音楽の歴史は, 例えばヨーロッパ各国の様に, 時代と共に音楽が必然的に進展し, 他国との交流の結果, 自然な変化を遂げたのとは全く異なる歴史を持つからである. それはその時代の権力 者によっ て強制的な方向付けをされてきたものであった‐ 第 1の 転機 は ギリ シ ャ 正 教へ の改宗 である. も とも とロ シア は多民 族 国家 であ り, ス ラ ブ, トルコ, 東洋. との交流から, 各地方では独自の音楽, 楽器が見られたが, 宗教改革の結果, 音楽で認められたのはビザン チン聖歌のみで, 民族音楽は公には廃除されてしまった‐ ビザンチン聖歌はヘブライ聖歌とギリシャ音楽, そ れに シリ ア, ア ルメ ニ ア等 の 東方 の音 楽 が混 合さ れたもの で, ア ・カ ペ ラ で行 わ れた. 単 声 と, 同旋律 の 116.
(14) . ロシア・ヨーロッパにおける音楽交流と発展の歴史. 合唱が交互に歌われる交唱や, 旋律を装飾によっ て引き延 ばすやり方はそれまでに民衆に伝えられてきた歌 唱法に共通するものであった‐ やがて聖歌はギリシャ語からロシア語に訳され, 教会の民衆化と共に民謡の 中にも溶け混んでいき, 独特の音楽も生まれた. 現在に伝えられている労働歌の中にも聖歌と非常 に類似し たものが見られる‐ 楽器の演奏は禁じられていたため, 民族楽器は, 大きな改良や発展を見る事なく衰退す るか, ロシアから離れた地域で民衆の中に秘かに温存された‐ 単声音楽の時代が長く続いた事はロシア音楽 の 発展 に大 きな 影 響 を及 ぼ した. ロ シア が音 楽 的 に国 を閉 ざしている 間, ヨー ロ ッ パ で は9 世紀 頃 に発 生 し. 12世紀に確立された多声音楽が, 大きく発展し, ルターの宗教改革を経てコラムル歌曲へと移行, ルネッサ ンス運動の影響で器楽の発達をみせ,やがて多声音楽の時代の終わりと共に調性音楽の確立が行われていた‐ ロ シア周 辺 に多 声 音楽 が全く 無 か っ た わ けで はない‐ 12 , 3 世紀 に かな り高 い 文 明 を持 っ て い た グル ジ ア 地. 方には, 多声による合唱や交互唱による音楽形態がみられた. 又, 隣接するポーランドでは14世紀から16世 紀にかけて多声音楽が発展していたが, ロシアとは宗教を異にしていたために伝えられる事が無かった‐ ロ シ ア に多 声 音楽 が伝 え られたの は17世紀 で, 教会 の力 が弱 ま り 出 した 頃であ る‐ 従 っ て ヨー ロ ッ パ 音 楽 史の. 観点から, ロシア音楽の歴史の中でバロック時代の欠落と形式の弱さが指摘されるのである‐ しかしその結 果, 限られた単純な形式の中で如何に音楽の変化と発展を考えるかというロシア音楽の1つの美意識が生ま れた とも い えよう.. 第2の転機は17世紀後半から始まっ た宮廷の西欧化政策である‐ 宮廷が音楽の実権を握り, 音楽改革の指 導者としたイタリア人音楽家は後にロシア音楽の大きな発展のもととなるオペラを伝え, そのベル・カント 唱法と共に器楽, オーケストラ音楽も伝えた‐ 当時の音楽の留学先はイタリアで, 身分の高くない者が派遣 された‐ 18世紀後半にロシア人作曲家に生まれた, 外国音楽に対抗する意識と, 自国に対する民族意識が結 び付き, ロシア人のロシア語によるオペラが生まれた‐ 宮廷の政策は厳しい民族音楽の弾圧を伴なったため, ロ シア古 来 の民 族音 楽の 継承 者, ス コモ ロ ー フ は度重 なる 抑圧 とロ シア か らの 追 放 によ っ て, ほと ん ど絶滅. に近い状態に陥っ た‐ 彼らの音楽的復興は, 19世紀後半のバラキレフのグループの民謡収拾の活動で, その 存 在価 値 が認 め ら れる ま で, 1 世紀 半 も 待 た ね ばな らな か っ た‐ バ ラ キ レフの グルー プの ほと ん どのメ ンバ ー はロ シア以 外 の 地 方 出 身者 で, 古代 の ロ シ ア・の 中心 地ノヴ ゴロ ドに関係 している 者も い た‐ この成 果 はや がて19世紀 のり ムス キー = コ ルサ コ フのオ ペ ラ-「サ トコ」 (ノ ヴ ゴロ ドのス コモ ロー フ が題材 にな っ ている) や, 20世 紀 のス トラ ヴィ ンス キーの バ レー 「ペ トルー シ ュ カ」 の 人 形使 い とな っ て現 れて いる‐ ロ シア が フラ ンス と接 近 しだ した19世 紀初 め, フラ ンス 音 楽 の 中心 はや は り オペ ラ であ っ た が, 1750年代 のイ タリ ア, フラ ンス 音 楽 の優劣 を 競う ブフ ォ ン論争 の結 果, 宮 廷 オペ ラ, オ ペ ラ. バ レー が一 衰 退を見 せ, 一 方 でオ ペ ラ・ コミ ッ ク の創 造, グル ッ ク の改 革 による グラ ン ドオペ ラ 様 式の確立 が行 わ れた時期 であ っ た‐ 彼 の 「台 本 のこ と ばの ニ ュ ア ンス の 重 視 と そ れ にふ さ わ しい音 楽, 単 純 な作 曲技 法」 は, 後 にム ソ ル グス キ. ーがオペラの制作の際, 腐心した点である. 第3の転機はロシア革命である. これによる国内の混乱と国家の芸術への介入は多くの音楽家の国外流失 を招き, 国内での創作活動は厳しい制限を受けることになる. 以上の様に政策的に音楽の発展が促されたり妨げられた事とは別 に, 19世紀には音楽家同士の自由な交流 が見られる. それは政治的, 社会的な面での関係が音楽交流の発展に影響を及ぼした結果でもある‐ 当時は ヨー ロ ッ パ 音 楽 にと っ て も 大 きな 転機 であ っ た‐ 18世紀 ま で, 教会 や宮 廷 に所属 し, その 中で制 限を 受 けな. がら, ある意味では保護されていた音楽家達も, その体制の崩壊と共に自由になり, 芸術的に自立すること が可能となったが, それは新しい勢力である市民階級の中で独自に活動を行い, 自ら音楽市場の開拓を余儀 なくされた事も意味するのである. 従って交通の発達と共に音楽家達は非常に広い範囲の演奏旅行の計画を 立てては各国を頻繁に廻る様になっ た‐ 彼らの演奏旅行の計画の中にロシア, 特にペテルブルクが入り出し 117.
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