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「汝自身を知れ」 : 人間とは何か(その1) : 序論

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(1)Title. 「汝自身を知れ」 : 人間とは何か(その1) : 序論. Author(s). 西岡, 孝治. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 41(1): 1-14. Issue Date. 1990-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4210. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第4 1巻 第1号 lof Hokkaido Universi i i ty ofEducat Jouma t on(Sec onI A) Vol ‐41 .I , No. 平成2年9月 Septembe r ,1990. 「汝自身を知れ」 -- 人間とは何か -- (その1). 西. 岡. 序論. 孝. 治. 「ぼくは あの デルポイ の社の銘 が命 じている われみずから を知 るという こと (γシあり似 る”α飾るヮ )が , , いま だに できない でいる。 それならば, この肝 心の事柄に つ いてま だ無知 であり ながら, 自分に 関係の な } いさま ざまのことにつ いて考えをめく らすのは笑止千万 では ないか と, こう ぼく には 思わ れるの だ.」1 「目に見える世界か 神の言 葉か 自意識のある 人間のいず れかを信 頼しなけ ればならない/ しか し , , i もっ とも信 頼の できない, 当てに なら ないのは, むら気な 人間 である。 そこ で残る選択は, 自然的世 界(d e l i l t ) と, 聖書の伝 承によ る神, すなわち世 界の 外なる神のいず れかにするほかない. ところ natnr che一We が, その神は信 じられる だけ で見られも知 ら れも しない し, 哲学は知ろう とするもの であっ て信 じよう と. 2 ) するものではないから, 神と世界の二者選一は可視の世界に限定されて来る。 」. ( 1 ) カ ン トの 問 い いうまでもなく, 人間は古来, 哲学を含めて種々の文化や文明を創造し, 伝達し, 発展させて来 た‐ 例えば, ソクラテス以前の哲学者と呼ばれる 人々は, 彼等の残された断片を見る限り, 眼前の 自然 (小もα ) や, 自然的世界 (たろd 〆o ) に つ い て 多く の こ と を 語 り 伝 え て い る. しか し, そ の 彼 等にしても, ピュ タ ゴラスを初めとして, 決して人間自身について無関心 であっ たわけではない。 )と 言 い 放 つ の で あ る が 他 方 で は 「す 中 でも, ヘ ラ クレ イ ト ス は, 「私 は, 自 分 自 身 を 探 求 し た 一3 , ,. べての道を進んで行っ たとしても, 君は魂の限界をみつけることはできないだろう‐ それほど深い. )と も 言 っ て い る こ こ に は 人 間 の 自 己探 求 の 強 い 意 識 と 同 時 に ロ ゴ ス を 魂 は 持 っ て い る の だ.」4 。 , , ,. その探求の困難さの意識とが暗示されているように思われる. 人間の自己探求の意識は, その後, ソクラテスに至って一つの頂点に達するのである. それまでの人々 が, 自然や世界の探求, あるい は, 社会的, 政治的, 宗教的な人間の集団的活動に主として関心を持っ ていたとすれば, ソクラテ ス は, 人間 自 身 に ま ず 関 心 を 向 け る の で あ る. 「ぼく は,一と 彼 は 言 う, 「若 い こ ろ, 自 然 の 研 究 と よ ば れ る あ の 知 識 を 求 め る こ と に, そ れ は も う, た い へ ん に 熱 中 し た こ と が あ っ た 何 と す ば ら し い ‐. 知識だろう と, ぼくには思えたのだ -- ひとつひとつのものの原因を知り, それぞれのものが何に よっ て生じ, 何によ っ て滅び, 何によって存在するかを究めるということ/ (-う さらにまたぼく は, それらのものの消滅について考えたり, 天空地上の諸現象を研究したりしたわけだが, そう し た研究のあげく, 結局最後に思いいたっ たことはといえば, 自分がこの種の研究には, 生まれつき 1 1.

(3) . 西 岡 孝 治 )と では ソ クラ テ ス は どれ ほ 全く と い っ て い いく ら い, 不 向 き な 人 間 だ と いう こ と だ っ た の だ.」5 , .. ど満足のいく人間知を得る ことができたであろうか. 我々は, プラトンを中心に, クセノポンやア イスキネス, 小ソクラテス派の人々の書き 残したものから, ソクラテスの人間観を推測することが できる. それは, 素朴で簡潔, かつ主知主義的な人間観である. 特に プラトンの描くソクラテス像 は, 一つの人間の典型的理想像 である. いかにもソクラテスならではの, 個性的な人間像ではある が, 誰でも容易に真似をすることができるというものでは ない‐ プラ トン自身, や がてこの事を痛 感するに至って, 理想像とは別に現実的な人間観, 人間の本性 (自然) を考えている. このソクラ テス的かつ プラトン的な人間観は, 今後も絶えず引き合いに出され続けられるであろう。 ただし, その人間観が他に 比べて最も適切 であるか否かは問題 である.17世紀の信仰の人パスカルは,「もし 人間がまず第一に人間自身を研究するとしたら, それを越えてさらにさきへ 進むことのいかに不可 能であるかを知るであろう.(…)万物の諸部分はそれぞれお互いに或る関係或る連鎖を保っており, 一を知ることは他及び全体をよそにしては不可能だと私はおもう。 例えていえば人間は人間の認識 するあらゆるものと関連している. (-づ人間は, 人間自身にとっ て自然における最もふしぎなる対 象である. なぜなら人間は身体とは どういうものであるかを考えることができない. 精神とはどう いうものであるかはさらに考えることができない. 身体が精神といかにして 結合しうるかは全然考 えることができない. ここに彼の困難は絶頂に達する. しかもそれが彼の固有の 存在の仕方なので. )と 言う こ こ に パ ス カ ル の 言 を引 い た の は 彼 と 共 に 人 間 探 求 を あ き ら め る た め では な い あ る.」6 . , .. 西洋哲学が,‘自己も含めた世界全体の意味’を研究するとするならば, ソクラテスの時代に, 自然的 世界と人間自身という二つの対象が明確になっ たことと, しかもこれらの二つが相互関係を持っ て いることを確認するためである.「人間のいないところに哲学は ない. 哲学は, 当面の対象を人間以. 外のものに置くときでも, 必ずそれを追求する人間自身への問いにかえっ てくる‐ しかし人間は自 然と社会そして一定の文化構造の中にあってはじめて人間となるのであり, またこの人間を歴史の 7 〉 世界から切り離して, それだけで把握しようとしてもできない相談である.」 i t s皿口p onon Probata) と とすると, 考えようによ っては, 哲学の探求は, 論点先取の虚偽 (As いうことになりかねないが, 単純にそう決めこんであきらめることはできない. 我々は, もともと どちらか一方をまず十分に認識した上で, 他方を研究するということはできそうに ない. 有限であ り, 先見の明にも乏しいわれわれ人間にとっ ては, 両面 、作戦と相互関係の検討という手続きを継続 していくしか道はないであろう. 実際, ソクラテス以後の プラトンやアリ ストテレ ス等の哲学大系 は, 世界論と人間論とそれら両者の相互関係論からなると考えられよう. 近世において最も自立うのは, カントである. 彼の関心を引くものが二つあっ て, 「わが上なる星 8 }がそれであるという言葉も周知の通り であるが ハイ デガーの の輝く空とわが内なる道徳的法則」 , 9 ) 引用以来 , 多くの人々によっ て引用されてきたもう 一つの言葉がある‐ 彼は 「純粋理性批判」 にお 0 ) 「私の理性のすべての関心 (思弁的ならびに実践的関心J は 次のような三つの問いにまと いて1 , , めあげられる‐ すなわち, ) ch wi ssen? 1. 私は何を知りうるか. (Wa skamli ) 2. 私 は 何 を な す べ き か。 (WasSoni chthun? fi h h d W ) s ar c offen? 3 私は何を希望してよいか。 ( a. .. b l l b l 第 一 の 問 い は も っ ぱ ら 思弁的 ( 1 3 Speku i t ) であり (…) a v OB o , 第二はもっ ぱら実践的 ( i )であり(…) s ch prakt , 第三は, なすべきことを私が今なす時に, 私は何を希望 してよいか?とい i i i う 問 い で, 実践 的 か つ 理 論 的 (prakt sch zugl e ch) で あ る.」 と し て い る が, 別 sch und theoret 2.

(4) . - 人間とは何か -(その1) 序論. 1 } 「世界市 民的意味での哲学の分野は 次の四つの問いに帰着す る として前の三つの問 の二書で1 , 」 , いと並べて, 次の第四の問いを加えている. 4. 人間 と は何 で あ る か. (Wr asi ) stder Mensch?. 彼によれば, 第1の問いに答えるのは形而上学, 第2は道徳, 第3は宗教, そして第4は人間学. であ る‐ さ ら に, 「根 本 に お い て は, こ れ ら す べ て の 問 い は, 人 間 学 一 つ に 数 え る こ と が でき る で あ. ろう, なぜなら, 初めの三つの問いは最後の問いに関係するからである。」 と言われる . これらの問いに関して, ハイデガーの解釈とは別に, カントには人間の問題に対する強い実践的 関心があっ たことを見逃すわけにはいかない. 彼は二種の哲学をあげる 先の 「世界市 民的意味で . 1 2 こ対して 「スコラ的意味での哲学 を区別 して 後者は前者に役立つ限りで意味をもっ の哲学」 」 , , と す る の である.. 「スコラ的意味での哲学は 単なる器用性(Ge i l i i t )にかかわるが, 世界市民的意味で s ch ck chke ,. 2 } i i の 哲 学 は, 有用 性 (Nut t ) に か か わ る.」1 zl chke 「哲学者は 理性の技術家 ( de l tkuns t ) と は, 区別 さ れ な け れ ば な ら な い 後 者 は rVemunf er , . ,. 我々の理性の使用規制を任意の目 的に対して適用する。 即ち, 彼は単に 思弁的な知にのみかかわ るのであって, その知がどれほど人間的な理性の究極目的に貢献するかという ことを考慮しない i l のである. 実践的な哲学者こそ, 本来の哲学者である (De igent l i te sche Phi rprakt osphi s ch. 3 ) Ph i losoph ).」1 ‐ 「人 間 的 な 上 に も 人間 的 で あ る と いう こ と こ れ だ け が私 の 誇 り で あ る 1 4 ) , .」 「私 は 六 翼 天 使 (Seraphim) であ り た い と い う 野 心 を 持 て い な い 1 4 } っ , .」 こ の よう な カ ン トの 哲 学 に つ い て, ジ ャ ン ・ ラ ク ロ ワ は 言 う,. 〈人間にとっ て本質的な問題は, 創造に際しておのれに指定された場 所を, いかにしてそれに ふ さわしく 占めるかを知り, かつ人間であるためには何をなさねばならないかを理解することであ る‐ この哲学の全体は, まさしく 限界の哲学であり, カント自身 『遺稿』 のなかで, 形而上学を 「人間理性の限界の学」 として定義 している それが有限性の哲学であ るか ぎりにおいて この哲 . 1 5 } 学は人間の 観点からの哲学なのである‐〉 6 } 〈ス ピ ノ ザ が神 に 語 ら せ る の だ と す れ ば, カ ン ト は 人間 に 語 ら せ る 〉1 .. 〈この有限性の哲学は, 結局のところ, 人間の条件からする, つまり創造のなか での人間の地位. 7 ) か ら す る 哲 学〉 で あ る1 ‐. 従っ て, 神の観点から, 神に語らせるた ぐいの哲学に比べて, カントの 思想には模範的な謙虚さ が認められる‐ ただし, カント主義の弱点は, あまりにも形而上学を道徳に還元しす ぎたところ , つまり知的生活と道徳生活の過度の区別をしたところにあり, 〈もしカントが, 単に道徳性の分析だけではなく, 人間行動の全体の分 析をも行なっていたなら ば, 思弁的理性と実践的理性の関係をもっ とよく捉え 信念の本性 つまり 認識によっ てはそ , , , の内的な豊かさを 汲み尽く しえぬような存在や真理に与えられている理性の n賛同″ を完成して くれるところの, 精神的であると同時に生命的な n同意″ を明らかにするにいたったこと であろ 8 }と 結 論 して いる う。〉1 。. 3.

(5) . 西 岡 孝 治 「そ の 次に 生 じた の は 人 間 の 思 索 の 歴 史に お い て お そ らく こ れ ま でに 存 在 し た こ と の な い よ , ,. うな, 人間学的問題提起からの徹底的離反であっ た. 私のいうのは, ヘー ゲルの体系のことであ る‐ つ ま り, 一 時 代 の 思考様式の上のみならず, その時代の社会的政治的行為の 上にも決定的な 影響を及ぼし, 具体的な人間的人格と具体的な人間 的共同体とに代わっ て, 世界理性とその弁証 法的発展及び客観的形態を支配的地位につけるような傾向を生み 出した, かの体 系のこと であ 9 } る.」1. とマルティ ン・ ブーバー は言う. 彼によれば, 青年時代におけるヘーゲルは, カントの人間学的問 題提起を受け入れ, 真に人間学的に思索をすすめながら, 「全体的人間の統一性」へ到達しようと努 力したが, 後の体系家ヘーゲルは, もはや若きヘーゲルのように人間から出発するのではなく, 世. 界理 性 か ら 出 発 す る. な る ほ ど, 『エ ン チ クロ ペ ディ ー』 の 中 に は, 「人 間 学」 の 項 目 が あ る け れ ど. 0 ) も, 我々は 人生の現実と意義とにかかわる問いと結びつけることができないのである2 . 以上は, 「人間とは何 であるか」 という問いと, その答え, 即ち, 人間の自知 (自己認識) に関し てカントを中心にして, その前後を任意に検討したのであるが, ヘーゲルという当問題に対する消 極派が出て来たところで, 次に, 以後の時代の消極派と積極派をそれぞれ任意に考えてみよう‐. 2 ( ) 消極派の人々 「人 間 と は 何 か」 と いう 問 い は 伝 統 的 に は 人間 の 本 性 (humnannature the ) と か, 人 間 の 本 質 ( , ) は, 人 間 の 本 性 を 問 う こ と は (Hannah Arendt 2 1 ) ion t ) hmnancondi 人間自身が答え得ることではないとして,これを 断念する ‐彼女は,人間の条件(. fman) に かかわ る. essenceo. ハン ナ・ア レ ン ト. t ) とを区別する. 生と死, 出生と可死性, 生命それ自体, 世界性, と, 人間 の 本 性 (humanna ure Vrhatare 多数性 などを人間存在の諸条件として あげるが これらは 「われわれは何 であるか」( ,. ,. ,. )と ) ということを説明することもでき ないし, 「われわれは何者であるか」 (Who are we? we? いう問いにも答えることができない. 2 2 }は 個 人 の 「人間 の 本性 に 関す る 問 題 つ ま り ア ウ グ ス チ ヌ ス の い う ‘私 自 ら を 対 象 と し た 問 題’ , ,. 心理学的意味においても, 一般的な哲学的意味においても, 解答不可能なように 思われる. 自分 以外のことなら, まわりにあるすべての物の自然的本質を知り, 決定し, 定義づけることのでき る私たちが, 自分自身についても同じことをなしうるというのは, あまりありそうにないことで ある.それは自分の影を跳び越えようとするのに似ている.(…)かりに私たちが本性と本質をもっ ) て い る と して も, そ れ を知 り 定 義 づ け ら れ る の は, 明 ら か に 神 だ け で あ る.」沈. 「哲学においていわゆる 人間学的問題を提起した最初の人物であると称さ れるアウ グス チヌ ス ‘ ‘ Vr hatamIP VVhoam lr (qui ) と‘ ssum ? は こ の こ と を ま っ た く よ く 知 っ て い た 彼 は, ‘ ,. .. i ds ) という問いを区別している. 第一の問いは人間が自分自身に 向けるもの である. ( um? qu (…) 第 二 の 問 い は 神 に 向 け ら れ て い る.. 『私は私を私自身に向け 私にいう 汝 汝は何者であるか? ( i t ) 私は答えた, 人間 ses? u ,qu , . , であ る と.』 『では わ が 神 よ 私は何であるか?私の本性は何であろうか? (Qu i d ergo smn, Deus meus? , 4.

(6) . ー 人間とは何か -(その1) 序論 3 } Quae natura sum ? )2 』. 人間そのもの である『大きな深淵』の中には, 『人間の精神が知らない人間にかんする何かがある. ‘VVhoam1 3 } しか し, 人 間 を 造 り 給う た 主 は 人 間 に つ い て の 一 切 を 知 っ て い る』2 (…)要 す る に,‘. t に対する答えは簡単である.『それが何 であろうと, お前は人間である』ということになる.“VVha amIP と いう 問 い に た い す る 答 え は た だ 人 間 を 造 っ た 神 だけ が 与 え る こ と の でき る も の で あ る.. 人間の本性にかんする問いは神の本性にかんする問いと同じく神学上の問いである‐ つまり, い 2 3 } ずれも神によって啓示さ れた答えの枠の内部でしか決着がつかないのである.」 t ) も, 人 間 の 本 性 に 対 し て 消 極 的 な 一 人 で あ る. 1940 年 と 1944 オ ル テ ガ (josもonegay Gasse 「 i IReason)凋 を 見て み よ う‐ オ ルテ ガは, 1933 年, 50 才 to 年の連続講演集 歴史的理性」 (Hi r ca s. にしてディ ルタイの存在を初めて知っ て,「ディ ルタイを知らなかっ たことは,わたしの人生の約10 年を浪費したことを意味する」 と述懐したと言われている. 本書においても, この両人に共通な生 の哲学の生命主義と歴史主義とが強調されている‐ ’ でも て 始 ま た そ れ 「西 洋 哲 学 の 歴 史は プ ラ ト ン の 言 う “巨 人 族 の 戦 い (giantomachy)’ っ っ ‐ , l i tus of Ephesus ) と, パ ルメ ニ デ ス (Parmenides of E1 は, ヘ ラ ク レイ ト ス (Herac ea) と い. う二人の 思想的巨人の間の恐るべき斗争であっ た‐ タレスに始まるこれらの二人以前の一切は, i l まだ哲学とはいえず, ギリシャ 人自身は, それを自然学 ( o o phys ≦評) とよんでいる. 自然学は, 2 5 } 哲学のための準備過程, 序文にすぎない.」 オルテガによれば, 精神を持っ ている人間が直面する問題は, 「そこに何があるのか?」 である. それは結局, そこにあるものを, 厳密な, 即ち哲学的な概念で表現できる方法を発見するという課 題を持つことになる‐ 眼前に, 私は一つの石を見る‐ しかし, その石が投げられる時には, 空間に おける運動をも見る‐ 眼前に, 私はソクラテスを見る. しかし, ソクラテスが饗宴で酒を飲む時に は, 彼の顔色が初めは赤味を帯びていたのが, だんだんと青味がかっ て来るのを見る‐ いやそれど ころか, もう少し長い時間にわたっ て観察するならば, 単に顔色の変化だけではなく, 昨日は若い 身体をしていたが, 今日は成熟した身体を, そして明日は老いた身体を持ち, 老衰し, やがては屍. ingsF であ り, こ れ と な る の を 見る だ ろ う. こ の 二 つ の 例 では, “石” と ”ソ ク ラ テ ス” は, “物( th “ ’ ’ ら二つのものは, いずれも量的あるいは質的な 変 化 (change) を す る. こ れ ら の ”物” と “変 化”. l とは, 共に実在的で( )である. しかし, 等価値的な実在であろうか? r ea. 物の方は常に存在して. l f ident i l お り, 直 接 に 眼 で 見 る こ と が で き る, つ ま り, そ の も の と して あ り, 自 己同 一 的( )で se ‐ ca. ある. これに対して, 変化や運動は同一的ではなく, 常にそれ自身とは異なっている. この相反する特徴があるにも拘らず, 先のソクラテスの例にみられるように, 屍は分解して, 更 i heident ty) や に骨も塵となっ て空中に四散してしまう だろう‐ その結果, ソクラテスの同一性 ( t l f 自 己同 一 性(se )は, 何 一 つ 残 ら な く な っ て し ま う だろ う‐ つ ま り, 自 己同 一 に と どま っ ‐ sameness. ていると思われる “物”も, じっくり観察し, よく考えれば, 運動や流動を免れえず, 変化している‐ lux‐ i 万物は流動している (Eve ) の で あ る. 従 っ て, ほ ん と の 意 味 で あ る ( thereal ) si nf r y th ngi のは, 不断に通過し, 決して永久に留まることのない流れのようなものである. 同一的 で永続的な 安定などというものは, 単なる一時的な視覚上の幻想に過 ぎない‐ オルテガによれば, 以上がヘラ クレイトスが哲学の誕生期, つまり, 西洋思想史の初めにおいて認めたすばらしい直観 であっ た. しかしながら, 運動や変化というものは, 目で見て理解するのは易しいが, 概念的に把握するのは に J.

(7) . 西 岡 孝 治. むつ かしい‐ 特に, 西洋思想の最初の不安定な時代, 萌芽期においては, 知的工夫も不十分であっ たからなおさらのこと, ヘラクレイ トスの試みは失敗する運命に あった. かくて,もう一方の巨人であるパ ルメニデスが,ヘラクレイ トスとは反対の方向へ西洋思想のコー スを定めることに なっ た‐ 彼は, 徹底的にすべての変化や運動や流動を否定して, これらをすべて, 安定した存在, 自己同一的なものへと還元する. パルメニデスによれば, 変化などというものは, ” 単なる感覚上の幻想にすぎないのである. この, “存在するものは自己同 一性を持つ という教説, 00年間にわたっ て支配し続けることになった. では, この エレア学派的存在論 が, 西洋思想を約27 長年の 思想史の経過の後, 現代の状況はどう なっているか? オルテガによれば, 知性あるいは理性の要塞, 殿堂を構成している三つの基本的な学問として, 物理学, 数学, 論理学がある. これら三つの学問こそ, 人類が (特に過去二, 三百年間) 当てにし て来た堅固な 土台であっ た. ところが, 最近30年間に科学が異常に発展した結果, 実は, これらの三つの 学問は, それほど堅 i s c ence 固ではないことがわかっ てきた‐科学あるいは学問自体が自信を失ってしまっ たのである.( i l f denceini l fhaslos t i ) こ の 思想的地震は, 単に学問的あるいは理論的理性において tconf tse se ‐. のみならず, 実践的理性においても同 時に起こっ た. つまり, 道徳や法の普遍性が失われてしまっ たのである‐ いや, もう少し正確に言おう. デカルトの 「方法序説」 以来, 理性は人間の一切の諸 問題を解決すると約束したものだが, 確かに物質的対象に関わる諸問題は誰も予想しなかっ た程に 見事に解 決した一方で, 残念ながら厳密に人間的な諸問題は, 扱い損ねてばかりいるのである. こ こに至っ て, 我々の周知の理性は実は, 理性の全体ではなくて, 自然学的あるいは自然主義的理性 にすぎない事を我々は 気付いたのである‐ この部分 的理性は, もともと, 常に同一で不変性を持っ ている概念や数学的実在を 当初から研究して来たものだから, 物体が変化することを認めても, そ の変化の中にあって何か不変なものを発見しようとしないわけにはいかなかっ た. この何かが, 物 t )“と呼ばれた. 実際, 物理学, 化学, 生物学等は現象の中の不変なもの, つまり の ”本性 ( na u re “本1空’を求めた そして 失敗したの である , . . ましてや人間は, 自然法則内で変化するばかりではなく, もっ と重要でもっ と自由な独特の変化 をする‐ 人間は, これと特定されないものであり, 次々と弁証法的に諸経験を続けながら, 不断に 自らを再創造していくのである. 要するに, 「人間は本性など持たないのであり, その代わり に, 歴. 6 ) オ ル テ ガに よ れ ば 人 間 の 研 究 tory tead )」 の で あ る2 s 史を持つ (manhas no nature . , ,ins ,ahi . i t vereason)に よ っ て お こ な わ れ る の であ り, 後 者 は ま た, は, 純粋理性に代って叙述的理性( na r ra i i lreason ) と も 呼 ば れ る. tor 歴 史的理 性 (h s ca. なお, エレアの存在論を反省して, いわばイオニアの運動 論あるいは 生成論を大いに復活させよ うとするオルテガは, 人間と世界についても, 次のように本書で述べている. 「古代の実在論 ( i i i hereal t t ) は, 世界の実在は人間の思惟に 左右されないと考え t sm ofan y qu deal i た に 対 し, 近 代 の 観 念 論 (moderni sm) は, 思 惟 が 世 界 と は 独 立 し て い る と 考 え て いる. 私. に言わせれば, 人間の思惟から独立している世界も, 世界から独立している人間の思惟も, そん なものは存在しないのである. それらは, 単なる仮説, 二つの理論的構成物であって, 実在では thecoexi tenceof man and s な い. 原 初 的 で最 も 純 粋 な 形 であ る も の は, 人間 と 世 界と の 共 存 ( lexi tence ) こそ正 the mutua ld) で あ る 人 間 と 世 界, 世 界と 人 間, こ の 両 者 の 相 互 存 在 ( s wor .. にあるものである. 両者は古代のギリシャやローマの 宗教に出て来る一対の, 誕生と死を共にす 2 7 ) べく運命づけられている神 的存在に似ている.」.

(8) . ー 人間とは何か 一(その1) 序論. 「デカルトは 人間の物との第一次的な素顔の共存 失廿性以前の関わりを考慮 しないで 思惟を , , , 基本的な実在であると官言した. (…)しかし, 今や, 物について単に考える代りに 時々刻々に , 物 と 交 流せ ざる を 得 な い と いう 事 態 こ そ, 我々 の 言 う “生 き る” こ と 人 間 的 生 (humanl i fe )で ,. ある. 自然の背後には思惟, 理論があり, そのまた 思惟の背後には我々 の素地の具体的で劇的な 生がある. 即ち, 我々の一人一人の生があって, これが考えたり, 理論化するように我々に働き かけるのである. (…)我々の普段の毎日の生, 各自の生こそ基本的実在であり 理 生の原理 であ , 8 ) り, 生 け る 理 性 で あ る.」2. 本書の後期のオルテガの立場は, フランスの無神論的実存主義のサルトルの立場にあと一歩と思 えるほどに, 近接しているようにみえる‐ 周知のように, 「実存は本質に先立つ」 の であり, 「人間 は 彼 が 自 ら つ く る も の に 他 な ら な い (じhomme 灯es i tr lsefa i t )」 と は サ ル en 寸aut requeceqdi ‐. トルの言葉である‐ ただし, 両者を比べ ると, オルテガには, 彼の 「歴史的理性」 に対する未来へ の大きな期待が込められていて, サルトルのようなニヒリスティ ックな気分は感じられない あた ‐ か も かっ て の ニ ー チ ェ のよう に オ ルテ ガは 言う ,. 「私の説によれば 人生には不可分の結合あるいは相互に総合されるべき二大真理がある キリ , . スト教的真理と異教的真理である. 前者によれば, 人生は涙の谷である. しかし, 後者はそれを. スポーツの競技場 ( f a stadion for sports) に す る. ハ イ デ ッ ガー は 人 生 と は 苦 悩 な り (Li e as i h ) 言 と 生 an s た だ が 人 i は た ま ( t ) き狽 っ ‐ , , 事業 anen erprse で も あ る. (…) 苦 悩 を 感 じる た めにも, 私は生きている必要がある. 死ん でしまえば, 苦悩も生も消 え失せる 私がここにこう ‐ して生きているという事は, この苦痛と苦悩にみちた課題を引 き受けていることを意味する そ ‐ して, 苦痛の伴う努力を進ん で引き受けるということこそ, 運動競技の努力 ( h l i t t a e cstriving) 9 ) そ の も の で あ ろ う‐一2. 「人は新しい啓示を必要とする その唯一の源は 歴史的理性 である 3 0 ) . , .」. ( 3 ) 積極派の人々 1 }を あ げ ね ば な る ま い フ オ イ エ ル バ ハ と 言 え ば 従 カ ン ト以 後 では, ま ず フ ォ イ エ ル バ ッ ハ3 ッ , .. 来マルクスとエンゲルスの側からの批判的摂取によっ て, 彼等に乗り越えられるためにのみ存在し ていたかのように理解されていたと思われる. それはしかし, フオイエルパッハの一つの解釈ない i し発展であろう‐その他の解釈や発展も考えられる.例えば,ブー バー(Mar t nBuber)や レ ー ヴィ ッ IL6 h \曜t ト(Ka )がす ぐ思い出される‐ この点に関しては後に触れることにして, まず, フォイエ r ルバッハ自身の 思想をまとめておこう.1823年,19才の彼は神学を学ぶためにハイ デルベ ルグ大学 に進んだ. レー ヴィ ッ トによれば, ドイツ観念論のすべての哲学者と同じく, フォイエルバッハも また プロテスタント神学から出発したの である‐ しかし, まもなくそこの神学に嫌気がさして, ベ ルリン大学に移りヘーゲルについて哲学を研究することになる. 一時はヘーゲルの直弟子と自らを 任じていたが, ここでもまた, ドイ ツ観念論の神尾を飾る今を時めくヘー ゲル哲学に反発し批判を 開始することになる‐ 批判すると言っても勿論彼は, 一つの思想や哲学について完全で一切の暇癖 ヒ を免がれていることを要求するが, 自らは主張すべき何らの思想も哲学も持ち合わせていない類の 人間 ではなかっ た. 彼は以前より彼の内に発酵していた独自の思想を持っ ていた‐ ある人はそれを フォ イエルバッハの 「自然的人間学」 と言っている‐ 以上の経緯を彼の言葉に即して辿れば, 次の 7.

(9) . 西 岡 孝 治. ようになる. 2 3 ) 「神が私の最初の思想であっ た 理性が第二で 人間が私の第三にして最後の思想であっ た 」 , . . 3 } 「神 を 恐 れ る こ と は 知 恵 の 初 め で あ る し か し 知 恵 の 終 わ り で は な い 」3 , . .. 3 3 ) 「無宗教 これが私の宗教である 」 , . 3 4 ) 「神学の秘密は人間学である 」 . 「あなたは 大地が人間の定住の場所であることを決して疑っ たことはない 最も深い意味にお , . いて 清廉無欲の性格を持っ て いたあ なたは, 決して 天国を切望 したり哀惜 したこ とは なかっ 5 ) た‐一3. 3 4 ) 「思弁哲学の秘密は 神学一思弁的神学一である 一 , ‐ 「ヘー ゲル哲学は見失われ没落したキリ スト教を哲学によっ て再び回復しようという 最後の大 , 6 〉 規 模 な 試 み であ る.」3. 「自然 即ち実在が理念によっ て措定されているというヘーゲルの学説は 自然が神によって(…) , , 3 6 ) 創造されたという神学説の合理的表現にすぎない‐」 3 “ 「感性を持たない思惟は無であり 逆に思惟を持たない感性も無である 」 , . 「ヘーゲルは人間を頭 で立たせ 私は人間を彼の 〈地質学の上に安定 している両足〉 で立たせ , 7 ) る.」3. 「存在はなんら 諸事物から引き離されることができる一般的概念ではない 存在は存在してい . , 3 8 ) るものと一体である. 存在は単に間接的に思惟されることができるにす ぎない.」 「ヘーゲル哲学は自我の本質を自我の外に措定し 自我から引き離し 実体として・神として対 , , 8 ) 象化 し た.」3. 「理性の実在態および理性の主体はもっ ぱら人間である 人間が思惟するのであっ て 自我や理 , . 3 9 } 性やが思惟するのではない‐一 「新しい哲学は 人間の土台としての自然を含めた人間を 哲学の唯一の対象・普遍的な対象・ , , 4 0 } 最高の対象にする. 新しい哲学はしたがって自然学を含めた人間学を普遍学にする.」 「真理は唯物論でもまた観念論でもなく 生理学でも心理学でもない 真理はただもう 人間学で , . ある. 真理はもっ ぱら感性, 即ち直観の立場である. とうのは, この立場のみが, 私に全体性と 4 1 ) 個別性を与えてくれるからである.」 「人々が諸概念-理性一般一に到達するのは ひとりでではなくて もっ ぱら二人でである 人 , , . 間の産出には-精神的人間の産出にも物理的人間の産出にも同様に-二人の人間が必要 である. 4 2 } 人間と人間との協同は真理と一般性との第一の原理 であり第一の規準である‐」 「真の弁証法はなんら孤独な思想家が自分自身と行なう独語ではない 真の弁証法は我と汝との . ) 3 間 の 対 話 である.」4. 上述の後半の部分にフォイエルバッハのいう「新しい哲学」 , 即ち人間学の二つの要素が現われて ” } いる . 第一の要素は, 感覚性である. これには, 思惟を確証するものとして自然をも含む‐ 第二は, 同胞性, 即ち思惟を確証するものとして, 我に対する汝である. フォイエルバッハの思想を以上のように要約して終るのは, 非常に不本意であるが, 彼の後期 思 想をも含めて詳述は別の機会に譲りたい. 8.

(10) . - 人間とは何か -(その1) 序論 フ オ イ エ ル バ ッ ハ の『キ リ ス ト 教 の 本 質』 (1841 )に つ い て, エ ン ゲ ル ス は 次 の よ う に 書 い て い る ‐. 「この本の解放的な作用を想像するには 自分でそれを体験して みなければならない 誰も彼も , . 感激した. 我々はみんな一瞬に してフオイエルバッハの徒になっ た. いかに熱狂的にマルクスが その新しい見解を迎え, いかに 多く(…)それから影響を受けたかは, 『聖家族』を読むとわかる‐一 これによると, マルクスやエンゲルスが, キリスト教や, その合理化版であると言われるヘーゲ ル哲学を批判するにあた って, いかにフォイエルバャッハに共鳴したかが想像される. この他にも, マルクスの有名な言葉の 多くが, フオイエルバッハの言葉の変形版であることが確かめ られる. 影 響は予想以上き大きかっ たであろう. しかしながら, マルクス達がフオイエルバッハに物足りなくなって, フォイエルバ ッハ批判を展 開したことは周知の通りである. 1958年のディ ー ツ版マルクス・エンゲルス全集の編者は, この点 を次のように要約している. 「彼らの唯物論的世界観をつく りあげてゆくさい マルクスとエンゲルスは その批判の鉾先を , , まっさきにヘーゲルの客観的観念論と青年ヘー ゲル派の主観的観念論にむけた‐ 観念論との闘争 のなかで, マルクスとエンゲルスは, フオイエルバッハの唯物論哲学の真髄を擁護するとともに, またフオイエルバッハの唯物論の一貫性の欠如, 制限性およ び形而上学的性格を徹底的にあばき 5 ) だ した.」4. このマルクス主義側の要約も含めて, マルクスが最も不満に感じた点も周知のことである. 彼は 書 い て いる,. 「フオイエルバッハの警句集は 自然についてはある余る ほど言及しているのに 政治について , , はほんの少ししか言及していないという点だけが, 私には正しいとは思われない. しかし, 政治 4 6 } こそ今日の哲学が真理となりうるための唯一 の結節点である.」 「これらの哲学者たちのだれひとりといえども ドイツの哲学と ドイツの現実との連関 彼らの批 , 4 7 ) 判と彼ら自身の物 質的環境との連関を問おうなどとは思いもよらなかっ た 」 . 「われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである 4 3 ) .」 「批判 ではなくて革命が宗教 哲学その他の理論の歴史をも推進する力なの である 4 7 ) , .」 「人間同志の関係にかんするフ オイエルバッハの推論のことごとくは結局 人間たちはお互いを , 必要とするし, またいつ も必要として きたことの証明に尽きる 彼はこの事実についての意識を . 確立しよう とし, (…)ある現存の事実にかんするある正しい意識を生みだそうとするだけなので あるが, ほんとうの共産主義者にとっ ては, この現状なるものをくつがえすことが肝心の仕事な 7 } の で あ る‐一4. 「問類は現存する世界を覆えし 既成の事態と実践的に取り組ん でこれを変えることにある フ , . オ イ エルバッハに時にそのような 見解がみられることがあっ ても, それはばらばらの漠とした想念 4 7 } 以上に出るためしはなく (…)」 「彼は〈人間の人間に対する〉〈人間的関係〉としては愛と友情 しかも観念的に美化された愛と , 9.

(11) . 西 岡 孝 治. 4 7 } 友情をしか知らない. 今日の生活状態については どんな批判も与えてくれない.」 以上のような言葉をもとにして, マルクスが目指していたものは何 であっ たか, その際, 人間は どのよう なものとして考えられていたかを推測してみよう. 青年ヘーゲル派は, ヘーゲルにおいて現実に対する哲学の迎合をみ た. ゆがんだ現実に対する反 抗は従っ て, まずこのヘーゲル哲 学とそれに関連しているキリスト教の批判として始まっ た. フオ イエルバッハの批判論と彼の人間学はその代表であっ た. マルクス達はまずフォイエルバッハに共 鳴した. 両者の根本的な相異はどこにあっ たか. 恐らく, マルクスが実践的思想家であっ たのに対 して, フォイエルバッハは非観念論 的思想家であっ たろう. 後者も原理的には実践を重視している. 「かっ て私にとっ ては思惟が生活の目的 であっ た. しかし今は私にとっ て生活が 思惟の目的 であ 8 } 「哲 学 を 人類 の 本 題 に す る こ と - そ の こ と が 私 の 最 初 の 努 力 で あ っ た. しか し い っ た ん こ の 道 る.」4. を切り開く者は, 最後には 必然的に, 人間を哲学の 本題にし, 且つ哲学そのものを廃棄するところ まで来る. なぜかといえば哲学が人類の本題になるのはもっ ぱら, 哲学がまさに哲学であることを 4 8 ) 「哲学はたしかに人間の学校ではある が, しかし人間の生 やめることによって であるからである.」 9 ) 活 で は な い.」4. つまり, フォイエルバ ッハにおいては観念論に対する反発として実践や 生活が強調されている. これに対してマルクスにおいては, 更に進んで, 原理としての実践重視, 即ち意識における変革 と いう生温い段階に留まっ ていることができなかったのである. 現実の変革, 即ち革命を目指すため には, 原理としての実践重視から進んで具体的な実践論が考えられなければならない. しかも, 労 働者が人間としてでは なく, 「労働者という奴隷 階級」として生きている 社会, 人間の幸福では なく 富の獲得を目的としている 産業社会においての実践は, 資本家に対する斗 争という形をとら ざるを えない‐ そこには 「観念的に美化された愛と友情」 の代わりに, 「容赦のない憎悪」 が基本的人間関 5 0 } 係にされる危険がある. 更に, 「現実性においては, 人間性とは社会的諸関係の総体である.」 と言 われる時,確かにフオイエルバッハの人間学にはない人間性の重要な一面を教えてく れるけれども, 「 これだけでは再び一面的な人間規定になりはしないだろうか. レー ヴィ ッ トによれば, 歴史的に生 きて自分の世界をつくり出すといわれる人間は, また 歴史の中に決して解消し尽されぬような本性 1 }の であ る を も っ て いる.」5 .. マルクスの言う通りの人間性であっ たならば, 革命はとかく 激し い憎悪と多くの犠性を併うもの であるが, 一度成就したならば社会制度が変革されて, 以後は人間自身も人間らしくずっ と生きて いけるというこ とも予想される. このよう な確信があればこそ, 少々の犠性を払っ てでもやむをえ ないとの推進力が作り出されるのでは あるまいか‐ 人間は時には 危険を賭けても決断し, ある行動 をとらねばならぬ場面があっ て不思議はないが, 思い違いや間違いのために 危険を冒すのは賢明な ことでは あるまい. 我々は先のマルクスの人間性の規定を, あまりに単純に解釈するのはまちがい かもしれない‐ フロムによれば 「政治的強制力は, 予め社会的かつ 政治的過程における準備がない ものには何も生み出すことができないと, マルクスは考えていた‐ 従って, それは仮に 必然的であっ たとしても, いわば実際的に既に起っ ている発展へ の最後の一押しに過 ぎないのであり, 決して真 に新しいものを何も生み出すことはない三強制力は 新しい社会を学んでいるすべての古い社会の世 2 ) 話 をす る 産 婆 で あ る. ” と マ ル ク ス は 言 っ て い る‐」5. 革命の後も”容赦のない憎悪”を基本的な人間関係として社会を維持発展させていけるだろうか. この 点は事実に語っ てもらうのが最善であろう.. 10.

(12) . - 人間とは何か -(その1) 序論 「 ブ ー バ ー (Mar in Buber t ,1878~1965) は, 我 と 汝」 (1923) に よ っ て 有 名 で あ る が, こ の 彼 の. 思想はかっ てのフォイエルバ ッハの一つの発展とみなすことができよう ‐ もっ とも, ブー バーはユ ダヤ教の神学者 でもあるし, 更に我と汝はフォイエルバッハよりもはる か昔のソクラテスの対話にま で遡るとすれば, フォイエルバ ッハのみに帰するのは言い過 ぎになる かもしれない‐ 少なくともブーバーによれば,「人間にかんする現代の 思索にとって 特に重要な- , つの事項」をフォイエルバッハに負っ ている‐ 「フォイエルバ ッハは, 彼が哲学の最高の対象とみな した人間を, 個人としての人間とは考えず, 人間と共存しつつある人間 我と汝との結合と 考えて , いた‐ (…) フォイエルバッハはこの命題を後期の書物においてさらに展開するには至らなかっ た ‐ マルクスは, 彼の社会概念の中に (…) 我と汝との間の事実的な関係要素を取り入れず まさにそ , の結果として現実とは無縁の個人主義に対して, 同様に現実とは無縁の集団主義を対立させたの で あ る‐ し か し, フ ォ イ エ ル バ ッ ハ は, マ ル ク ス を 越 え て 彼 の 命 題 に よ っ て (…)現 代 の 思 想 に お , ,. ’あるいは “観念論の自我-発 見に 匹敵するところの重大 な結果をはら ける ”コ ペ ルニクス的行為’ ” ” み デカルトによっ て創始された近代哲学の限界を越える・ヨーロッ パ思想の第二の出発点へと導 ’ “根元的出来事”とよばれた あの汝-発 見を導入した のであり 「 くにちがいない’ 」 , , 彼は, 私自身 3 にも, す でに青年時代に決定的な刺激を与えてく れたのである 一 と言われる5 1 更 に, ‐ ブーバーによれば, カントが遺産として我々に残した 「人間とは何か?」 という 問いに答えるた めには 「精神」 と 「自然」 と 「共同体」 の三つに問い合わせる必要があるが 現代の哲学的人間学 , の最も重要な代表者た ちすらも, 最後の 「共同体」 には 未だ問いかけたことがない しかし 「この , ‐ 問いかけなく しては, 他の二つの問いかけは単に断片的認識へと導くのみ でなく まだ必然的に質 , 4 ) 彼は更に ハイ デガーとシェーラーの理論を人間学的問い 的に不完全な認識へと導く」とされる5 . , かけに対する現代の 試みとみなし, それぞれ主として人格 とそれ自身との関係 人格の中における , 精神と衝動との関係 等を取扱うにす ぎぬ個人主義的人間学 であり 結局のところ 「人間本質の認識 , , へは導きえない」と総括する‐ 「世界の家に住んでいるという 感情を つまり宇宙論的保障を喪失し , 「 た近代人」 , 自然から遺棄され, 同時に人格としては, 荒れ狂う 人間世界の真只中に他人から隔絶 されて立っていると感じて いる」近代人が, 「この新しい無気味な境位を認識しようとする精神の最 初の反応が, 個人主義であり, 第二の反応 が集団主義である 」 (これらは 個人主義的人間学と集 , ‐ 団主義的社会学に対応する‐)前者は, 自然によ って遺棄され, かつ他者とも結合せ ぬモナ ドこそ最 高次の個として自らを経験し称賛する 孤立化することによっ てともすれば陥りがちな絶望から逃 ‐ れるために 「人間は孤立を賛美するという苦肉の策に訴える」 のであるが このような現代の個人 , 主義は本 質的に虚構された基礎の 上に立っ ているので 挫折せ ざるをえない なぜなら 「虚構は , , ‐ , 5 5 ) 与えられた状況を事実について 克服する力をもたないから である 」 . 後者は, 集団的組織の一つの中に自己を完全に埋没せ しめることによ って孤立化の運命を免れよ うとする‐ これによ ってなるほど, 全体と人格 との連携は実現されるだろうが しかしそれは 「人 , 間と人間と の連携」 ではない 「各個人の全体を要求する 〈全体社会〉 は 当然の帰結として 生命 . , , 「他人との共感を求める・かのしな 体との一切の結合を制 限し, 無効に し, 無価値にし一 かくて , , やかな人間の側 面は, 次第に抹殺されるか, さもないけ れば鈍化される 人間の孤立化は 克服され . るのではなく, むしろ粉らわされる‐ 孤立の認識は抑圧されるが 孤立の事実は深みにおいて抜き , がたく 作用しており, ひそかに一種の残 忍性にま で高められて 幻想の四散すると共に姿をあらわ , す.一個人主義も集団主義もともに 「人格は他人への突破を遂行することができない 5 6 )「 .」 単独者は, 他の単独者との生きた関わりに ふみこむ限りにおいて 実存的事実 である 全体社会は 生きた関 , ‐ , わりの単位によっ て自らを構成する限り において 実存的事実である 人間的実存の基本的事実は , . , 11.

(13) . 西 岡 孝 治. 人間と共存しつつ ある人間である. 何ものにもまさ っ て, 人間世界の固有性を特徴づけているのは, 実在者と実在者との間に, 自然の中には類例がないよう な, ある事実が生じているということであ る. (…)この事実によっ てはじめて, 人間は人間となる. しかし, この事実は, 単純に発展すると 7 5 ) は限らない. 時には腐敗し萎縮することもある.」 いずれにせよ 「人間に関する科学の 中心的対象は, 個人でも, 集団でもなく, 人間と共存しつつ ある人間であり, 人間と人間との生きた関わりの中においてのみ, 人間の本質, 人間に固有なもの が, 直接に認識される. ゴリラさえも個 であり, 白蟻の国さえも集団である. しかし, 我と汝とは 我々の世界にのみ存在する. なぜなら, 人間は, つまり 自我は, 汝との関係に基づいてこそ, はじ めて存在するからである. この 〈人間と共存しつつ ある人間〉 という対象の考 察から, 人間学と社 5 7 } 会学とをつつむ人間の科学は出発しなければならない.」 以上が, 彼の 「人間とは何か (Da sProblem des Menschen,1948)」 の 展 望 と して の 結 論 で あ る. (つ づ く). )王. r 6 1) P1 ato .1 .229e パイ ドロス」 (岩波) p ,Phdr r 5 2) K.L欲駈th 世界と世界史」 (岩波) p .2 3) DK.22BIOI お‘動〆 α彩りリe鰹の“oシ ー z シ o 6が碗.金海ゆ βαβ御 ぇる知りez”. 4) DK‐22B45 声α秋 ”e pα α ぬり o無 祷り る姿ipo乙o,zαぴαジcm筋熊切彩e. 5) プラトン 「パイ ドン」 (筑摩) p.74. i ’ t esdu monde les esPar re i tincaPabl rout lver i tcombi edePasse ti tud eni ai ra ‐(…)l 6) Pensees ;Sil hommegき ’ ’ ’ l d 罰 b t re1 1 r I rol sl t1 uneavec1 aut PO懲 e econnai lenchai r equeiec lraPPo忙 e l 窯 l en tunte ne ttoutesunte on ’ t I i ’ 1 h e s げi t t ( … ) mm e tat T ma o 1 C O ou ceq tsansl ‐ etout ree unesansl aut .じ hommeparexemPearappor tenCore i tquecorpse lnepeu tconcevo rce que ご es ig i tdel ie anature al eu× ob epi usprod ui -memel ,cari ’ ’ i i t ’ ’ t ne Spr te V h t a e cu r eu n o s e u i n u nc i ec omme t n o s r p P t eC .C t a u u e 酷 l o n s u q q l r l ol nscequec es qu espr , 「 t tsonpropree re パ ンセ (上)」 (新 潮) p i f f i tese tcependantご es .55一57 tl al cul edesesd ecombl es. n 「人間の哲学」 1968 7) 岩波識座 哲学l .1 ,p. i l t n mi r ldbermi zi scheGese i runddasmora t V e Himme rnt 8) Kanrs Werke .161:derbes .p .V‐S ,Band K.d 2 3 8p.251一25 9) 「カントと形而上学」 (佐藤慶二訳 三笠書房 19. l ls ) Bandl 10 .522 l i l ) iona theo ik und Nat e og V l ab M t h s i k Log ) 1 ) BandIX S‐25( 1 ,BandV S.533( ore却Qngen er eap y i las ミ湖ho t h i i l c o P h i l i i s ns e n u t s e o o i c o l h i p V 2 P h i o o S 3 c o s m l ; B d 5 e n ≦ m e ns p o s o ) an p 2 1 ‐ bd )i 13 ‐S .533 tmum ) opusPos 14. )p 4 1 ) 「カント哲学」 (白水社, 197 15 ‐14 ) 前掲書p 5 16 ‐14 4 8 17 ) 前掲書p ‐1 ) 前掲書p 3 18 ‐14 1 p 8 ) 「人間とは何か」 (理想社, 児島洋訳)196 19 .4 一 ) 前掲書p 4 9 5 0 20 . ) 7 3 ) 「人間の条件」 (志水速雄訳, 中央公論社 19 21 hifaC i tussum t ) quaes 22 o mi. 前掲書p .12 i ) inus t s onesx es 3 (Auき罫ls ) 前掲書p 23 .6 ,17 ,Conf .2 i tor t: Hi s caIReason se 24 ) josを 。【ega y Gas W. W、 Nor ton & Company ◎ 1984. 12.

(14) . - 人間とは何か -(その1) 序論 bid 25 )i ‐p ‐100. 2 )ibid‐p‐117perhaps manhasnonature i 6 ty snoident ‐ ,thati i i tory;becauseh ] hem toryi i p sh i s s t tythati st ・ odeofbe ngoftheen ‐118△江anhasnonature;whathehasi s i i f d 云 ー t tu t l b i l i f t d h l t co l s onary u n am e n m 2 2 o a n c a n c 3 e y y p g , ・ ‐. , landrec i le×i ingof manand wor ld tence Wi tht超ngs t ) 27 ) ibid.P.52 cf s s proca .mycoexi . (p ‐82 , 菌e mutua bi d ina i f i feofeachoneofusasthef t E ndamenta lreal i inc i l 28 )i tyandpr rydayl e e -γ,eve p ‐p ‐53 ourord ,伍el i lreason ta ofreason ‐ ,as▽ b id )i 29 ‐p ‐97 bi d )i 30 p ‐ ‐223 ミぬut一72 Redl 31 ) Ludwig Andreas FeuerbaCh(1804Land ) enberg ) L.Feuerbach,頓rerkeinsechsBanden,Suh士ka 32 iner ・ ゴ ロpl975S t war me terG L i じ l t s edanke e Ve tnun ‐224Got ,d. i i b i ter terundl t t me lnzwe 2 丈er Gedanke nd e ]Band4 ,der Mensch me -[1843一44 i b i d D i G f S t t 2 2 4 i i tde ) i 33 rば Ende chti t《 s r A国F angder we ti she ch . - 》 e o esur ‐ ,abern S‐227 Ke ine Re l i i l i客on; Ke t me ine Phi l i ine ph i l on! -i s ne Re i osoph e! -n gi l e ] osoph e .[1843一44 i ) Band 3 S‐223 Das Gehei 8i 34 i l n ー n s der Z脳oお客Z td G e h i i s d e Amたため〆増発 e mn s aber der 幼輔彰如あり a E粥 , s P隊Z i O客2 8一 d i 〆にがりe Theo o sの りた定 一d logi e Z彩りZ e竪琴ね ] e ,[1843. ) Band4S‐418一転Qdenkenan Eduard Au≦犯s tFeuerbach [1843 i i f 35 l ] Undn i tes tdu daran ezwe e eErde ,daBd. di i hens bendeSt餐t i i ted i f los tenSi ebl e 3 en獣 l 団 ( sM[ ; f ≧ ni ・ nt e s rmeanspl teundvermi8te 粗e 「 uch f 渇 ▽Vesenbege r ‐De i l e nen Hin l l ne .. l i tderl l ) Band3S‐279Die Hegelsche Phi 36 t osoph ei s e such ztegroBa比ige Ver r orene ergegangene ,dasve ,unt }ms h l i C G l l t d t d P i l h i t d z kunf te [ さ osoph e wi en um durchdie Phi ederher zus r u n s en e e t1843 z r o s o e e ] r u p , 「 37 ) 「フォイエルバッハ全集」 第三巻 (船山信一訳) 福村出版 197 4 p 2 9 9 2 9 8 遺された諸餓言 p ‐ 」 . i ) Band3S f 38 t 比雑だ 〆をeme ni s zdg粥 “8 切れ 依粥 肪彰g ! 京 島 観 鱗欄 粥Z eれ のZだれ”彰だγβ馨れ o鱒 .288DasSe ,z 愈.取Sistnur mittelbardenkbar(S27)S.282sie(die HegelschePhilosophie)hatdas Wesendeslchat”3erdas lch gese t t tv z i om lch,alsSubstaI拷,als Gottvergegenstandl cht ,abgesonder bi d S 3 1 5D i )i 39 尺 メ メ e d s 磯 i 雄 Zd 花 d 順 た D たdenkt ち 毎 β a t s ” 舜 の 畑 ” “ s n u r e r 硲 e .‐ 8 c‐ r肌g郡c ,nichtdaslch,nicht i d t ) S51 e Vemunf ‐( bid 40 )i i l i Z 彰mi eneuePh osoph emachtd i tEf郡c協”β 能γ対鰭” alsderBas en 朋8郡乾そ sdes Menschen ‐S .319Di , l l i i z皿 〆を勿愈e“ l osop lh e - d リ 8 7 sde“ “”d た&応云靭 G碧ぽ硲z e A煽れ〃リメ増” a r Phi Q”d de t s o , ””ダ , mi E!俗物加野 dB γP毎綿〆塘迄 zw び煽り ) 「全集 第二巻 P 157 8将α加療雛窮加呪 ( S55. . 」 . , l口he i ia l i ti t wederder Mate i l i i 41 ) Band4S‐179 Wa i i s r sn コusnochderldea smus ol og e Phys enochd e ,wederd Psychol i i i ti t nur d og e ; Wahrhe Z d S d k W l Zおゆo d s i l i h k i i h s e Aれ t t d i 名 t t n e u r r a n l = l e o r 皿 c e e a r e p g , r Anschauung i i bt mi ・ l nnurd eserStandpunktg rZ o加鳶加fund 虚直り緩姻瓦翁乙[Wi smunvon ede rden Duali ,de Le i b und see l i d Ge i t1846 e ] e sch u l l s ,E1 l in l ) Band3 S‐306-307 Nichtal bander kon 42 f e tuberhaupt lmt manzu Begmf i en rnunf ,nurse ‐Zwe ,zur Ve N[ hengehbrenzurErzeugungdesM[ i i t i en鰍 : enschen - d inschaf f e sge s t edesphys s にhen:Di eGeme gensogutwi hen mi des N1 tde inz tdaser i en叔 : d it i l n N1 te Pr enscheni ; 1 「 he i I iahe i s tund AI s er t u um der▽Vah l 工 l e p un K1 ge ‐. 「全集」 第二巻 p 41 .1. . b id )i 43 洗 耐 圧鑑“ 肌o7 i郡α粥8れ D雛鰹符 m〆 i f 2 oZ og dg se fs叱ろ s餌毎も s ‐S ‐321 肋g wαゐ陀 D海豹Z e 盗ま e % D如め客 Z た 膨 た zw s c ” “7 2α D賜 筆6 ) 4. 「全集」 第二巻p1 ‐ 60 ) K.レ ー ヴィ ッ ト 「ヘ ー ゲルか らニ ー チ ェ へ 44. i 1」 p ) 1941 Zur ch ‐100 (岩波) 1967 (. ) 「マルクス=エンゲルス全集」 第3巻 大月書店 1 45 96 3 序文P .IX i )》 FeuerbachsAphorismens 46 nd mi rnuri i t ndem Punktni chtr ig ech e Naturundzuwen ,daBerzusehraufd i ikh inwe i t t i aufdedPol taberdase igseBt i s i s i losoph nz t i lロhe i ndn s eie twerden z e wa ‐Dasi gePhi ,wodurchdi ka lm 《(MEGA,1 ) ‐Abt . - .3 -308 ,1 ,Bd ,S 「 ) 前掲 書 p 47 ‐16 ドイ ツ.イ デ オロ ギー」 p ‐31一32 , 34 , 38 , 41 ) Feuerbach Band4S.227Eins 48 t war mi rdasDenken ZweckdesLebens t ti t mi z s rdasLebenZweck ,aberje 「 desDe nkens 全集 第二巻 2 7 2 p ‐ 」 . S i l i ePh osophi zzu machen ezu工 Sα (角e deγ”彰z iners z sc兎ねg tesBes i l t -227Di reben rwere n ma 1 ,daswarme -Abe di inschl a罫,kon esen Wr igzul ege in ・ l ntnotwend d M tz tdah h S h d P h i l e h i e n h e n s c e nz u r a c e e r o s o ez u ma c e n p , 13.

(15) . 西 岡 孝 治 ゴ ヒ ー i br t i t eebenauf i enschhe bS rdnurdadurchSachederh[ l l tauf ewi , e zuheben osphi es ,daBs ephi unddi ,denns 「全 身」 第 二 巻 p i in 2 7 2 l Phi e ezus osoph ‐ ‐. 「遺された諸巌言」 ) ) 「全集」 第三巻p 49 .345( ig i l 6se 6s tdasre rbach1 rbach6:Feue l l in enuberFeue ag rke ) Ma l メ ー Engels We 5 0 ,1958 Thes ,Ber ,Dietz Ver. i i 、 パd lnen lnd i un n in dem e t ke l i nZe li s se l ch che VVe 【 l e l s l Z Zた6 VVese ▽Vesen i l l auf , 2 sc姦Z n das 粥g . Aber das n ‐ l ‐ge ha tn漆器e i l I bl de Scha代l chen ve l d i s e m e k l i h k 1 n ti 総 ▽ V i se s e 1 ‐ i e s a e c e n e r r 1s t i丑wohnendes Abs 1 raktu匡n “ 45 i 8 )「全集」 第3巻 p r も i h j a脳 1 (Geschr ebenim F .4. 6 ) レーヴィットによる序文P 71 .3 ) W.ポーリン 「フォイエルバッハ」 (福村出版 19 5 1 i )p i i ng Co ssh ck Ungar Publ .23一24 Mar×saw that ‐ ) E.Fromm: Marズs Conceptof Man(Freder , ⑥ 1961 2 5. l i l i i t ioninthesoc ca aland po chtherehasbeennopreparat l i i lf ngfor whi t ca orcecannotproduceanythi po h h i l d t ht h l k l α ー e n w c e v e o t t i s oa t p e a s u a o n i f l ・ e f s o os t c a n v e p H h y t n p t e c e s s a g , ry, ミ 渇. ence a orce , pr。ce , aa “ ” i d l sthe ng tru thi lace l ti tcan neverproduce any l y new. Force hasvi l ,i l tua readytaken p , hesa ya ,bu “ ) l. ta th anew one i f dsoc typre e midwi eofevew ol .c ・ -824 妾 ロ .ant wi ・(Capi ,1 ,p. 3 ) 前掲書p 5 3 ‐8 1 ) 前掲書p 0 5 5 .7 ) 前掲 書 p 56 .171一172 ) 前掲 書 p 57 ・174 , 178. 14. 助教授‐ 函 館分 校) (本 学主.

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参照

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