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哲学的制作論(VIII) : 技術の基礎概念としての制作

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Academic year: 2021

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(1)Title. 哲学的制作論(VIII) : 技術の基礎概念としての制作. Author(s). 野辺地, 東洋. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 10(1): 1-10. Issue Date. 1959-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3692. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 10 巻 第 1 号. 北海道学芸大学紀 要 (第一部). 哲. 学. 的. 制. 作. 昭和34年7月. 論 (皿). -- 技術の基礎概念としての制作 -- 野. 辺. 地. 東. 洋. 北海道学芸大学岩見沢分校哲学研究室. . ・ . . ・ . . ・ ● . ● ● . ● . ・ . .. ・ r ’ ‘ . ・. Toyo NORRcHI: Ph [ l i I Theory of N【 aking osophi aking 一 M ca as the FundamentaI Principle of Technics .. カントは技術と自然とのあいだに明かな一線を劃 している. 彼はその説明のために蜜蜂の例をあ げて, ひとは好んで蜜蜂の所産を, すなわち規則的に 建造された蜂房を技術作品と名づけようと も, それはただ類比的にそうするにすぎない, といっている, 蜜蜂はその働きを理性の考慮のうえ に基礎 づけているのではないということに気がつくならば, それは自然の所産, いいかえれば本能. の所産であるといわざるをえないのである, カ ントはさらにこれとは逆の例をあげて 説 明してい る, ひとが沼地を探し廻ったあげく, 削りあとの ある木材の一片を見つけた場合, それは自然の所 産であるとはいはないで, 技術の所産であるという. このように自然と技術とはたがいに異なるも のであり, われわれは自由による制作, いいかえれば, みずからの行動の基礎に理性をおくところ の窓意による制作のみを, 技術と名づけるべきなのである. そして技術の所産ないし 結 果は作品. ) であり, 自然のそれは成果 effectus で あ る, と カ ン トは考え て い る.1 このように技術は人間の理性にもとづくところの制作なのであり, 自然の没理性的な成とはまっ. opus. たく 異 なっ た も の で あ る. か か る い み のこ とは 古 く ア リ ス ト テ レス が 述 べ た とこ ろ で あ る, 彼 は 技 ) こ く ””☆ 届γoリ ィスガβoG( 冗o句””““ と な した.2 術をもって “ 真の理に従った制作状態 鯖ご の こ とは カ ン トに お い て 理 性 に も と づ く制作と 考 え ら れ た も のと同 じ で あ る と 思 わ れ る, そ して こ の 特 質規定 は ま た そ の ま ま 自 然 と の 区別 につ ら な る も の で ある, す な わ ち ア リ ス トテ レス に よ れ. ‘在ることもありえ ないこともありうる何か或るもの ば, 技術は ‘ , , しかもその端初が制作者に 存して被制作物には存しない何か或るものが, いかにす れば成りたちうるかということを巧み考え ) そ の理由 は 技 術 は “ 必 然 的に存 しま た は 生ず る も の ” に か か る こ と ” に か か わ る も の で あ る.3 , ) こ のよ う に わ りも しない し, “ 自然に存しまたは生ずるも の” に か か わ りも しな い か らであ る.4. 彼においても自然から技術は明かに区別されているのである. 技術は成を性格とする自然にかかわ まならない, 自然それ自身も りをもつものではなく, あくまで制作にかかわりをもつものでなけれ{ ,. 技 術 的 なも の で あ る と す る 見 方 も あ る が,これ はカ ン トも いった よう に, 人 間 の制作 か ら の ”類比. Analogi e“. にすぎないのであり, も し自然の創造主なる人格神がありとすれば,“ただ創造主にだ. ) な の で ある. け 帰 せ られ る こ と “5. このようにカントは技術は制作にかかわるものであって自然とは関係のないことを説いているの であるが, 他方において ”自然の技巧 die Technik der Natur” と い う 言 葉を用 い て, 自 然 に も. f 技 術 の存するが ご と き こ とを 述 べ て い る (カ ン トが と く に 技 巧 Technik と し て の 技 術 Kuns - 1 ー. . ・ ● ● . ● . ● r . ● ● . 1 . ● . ● 1 ● . 1. ・ . ・ ● ‐ . ・ . ・. ・ 1 . ● ●.

(3) . 野. 辺 地 東 洋. について論じている点は, べつに後述する), それには二つの場合が考えられる がその第一の場合 は, 自然美に関するものであり, われわれはそれをもって形式的な, つまり単に主観的な合目的性. の概念の表現とみなすことができる, またその第二の場合は, もろもろの自然目的に関するもので あり, われわれはそれを実在的な, つまり客観的な合目的性の概念の表現とみなすことができる.. -方を趣味によって美的に判定し, すなわち快の感情によって判定し, また他方を われわれはその‐ 6 ) そこで第一の 悟性と理性とによって論理的に, すなわち諸概念にしたがって判定するのである.. 自然美についていうならば, 独立の自然美なるものは, われわれに自然の技巧 eine Technik der Natur を現わしている そしてわれわれがその技巧によって自然を表象するときは 自然 はわれわ , , れの悟性能力全体のうちには発見されないような原理をもつところの法則にしたがう体系として現. われる.すなわち諸現象が単に無目的的な機械関係にある自然に属するものとしてのみならず,また 技術との類比に属するものと しても判定されなければならないという結果になるように, 諸現象に たいして判断力を用いるに当 って合 目的性の法則にしたがう体系として現われるのである, といっ て自然美は実際に自然物に関するわれわれの認識を決して拡張はしないが, われわれの概念を単な る機械関係としての自然の概念から, 技術としての自然の概念へと拡張する. このことはまたかか 7 ) 第二の自然目的 については次 る形式の可能性に関する深き考えに, われわれを誘うものである.. のように考えられる, 目的によ る自然の結合関係と形式との概念は, 自然の単なる機械関係による 因果法則が不充分な場合に, かわって自然の諸現象を規則のもとにもたらすところの原理である, けだ しわれわれは客体の概念にたい して客体に関する因果性を与えるのであるが, それはあたかも. この概念がわれわれのうちにではなく, 自然のなかに存在しているかのごとくに与えるのである. あるいはむしろ, われわれがみずからのうちに見いだすがごとき因果性の類 比によって, 対象の可. 能性を表象する, したがって自然を独自の能力による技巧的なものとして考えるのである. これ一 つの目的論的根拠というべきものである, もしこれに反してわれわれが自然にたいして, このよう な働きかたを与えないとすれば, その因果性は盲目的機械主義として表象されなければならないで ) あ ろ う.8. か く の ご とく カ ン トに よ れ ば, 自 然 の 目 的 論 的 見解 の展 開 に お いて, 自 然 に技 巧 が 存す る こ と が. 認められるのであるが, これは合目的性が一方において自然美を理解せしめ, 他方においてもろも ろ の 自然 現 象 を 規 則 の も と に もた らす の に 役 立 つ もの で あ る こ と を, 主 張 して い る も の で あ る, こ. の場合, 自然が技巧的であるというのは, 技術が自然のなかに存在するものであるかのごとくとい ‘構想力の論理” のなかで “人間の う, 類比によるものなのである. かつて三木清氏はその著 ‘ , ) し か しそ みでなく自然も形を作るものである限り技術的であると見ることができる ” と 述 べた.9 ” “ もそも自然には 作る という性格はまったく存しないのである. それは純粋の成ない しはそれ の変容であって, 制作ないし創造とは原理的にまったく違ったことがらなのである, ハイ デッガー. t sogar も “ ピ ュ シ ス (自然) は 最 勝 義 に お い て ポイ エ シス (制作) で す ら ある Di e 御ぴK 1 s ” l o ) i s t こと こ っ さ と て る 解 た い と ろ な 冗メガ口K im h6chs い は 了 れが で けれ ば な らな en nne い , ’ ’ ” といっ い, しかしここに注意しなければならないことは, 三木氏が 形 を作 る も の で あ る 限 り ” ” ” ” とい う こ と が論 理 的 に 技 術的 で あ る 作る て い る こと で あ る, こ の 場 合 に先立っている. あ る い は優 先 して い る. こ れ は ま こ と に重要 な こ とで あ る, こ れ か ら こ の 点 を 中 心 と して, 考 えを 進 め て みよ う と 思 う.. i ik der Ur igl くant i i l t te t 1) 1 r kおn r Wjss ens en, chen A1 ( ademi e de chaft skraf ・v ・de , Kr , W wり hrsg Bd . . V. S . 303. ika Nik 2) Aristoteles V, 1140 a . . , E〔h , Z,I ,lo ”- 1 4 3) ibid. . ,. ー 2 【.

(4) . 「十 - i. 哲 学. 的 制. 作 論 (m). 4 ) ibid. . ,14一15. i d 5) Kant . .303 . ,ib ,S i i b d S 3 . . , . 19 i i b d . . , S.246. 6) 7) 8 ) 9) 1 0 ). i i d b . .360 . ,S. 46年 三木清, 構想力の論理, 第一, 19. 第2荊, 222頁.. … i i i Hei degger t r ze s ge und Auf , Vort ,1954 ,. S .19 .. 2. 技術は制作 に関するものであるが, さきに述 べたごとく制作と行為 とがその根本において同一で. ある と 考 え る な ら ば,. 技 術 は 行 為 に か か わる も の で ある とい う こ と も で き よ う,. ア リ ス トテ レス. )それは制作と行為とがたがい は “技術は制作にかかわり, 行為にはかかわらない“ といったが,1 に異なるものであるとの前提のもとにおいてのことである. いずれに しても技術は人間の活動の領 域に 属 す る も の で あ っ て, そ のい みに お い て ア リ ス トテ レスも ” その端初が制作者に存する ” と いっ た の で あ る, と こ ろ で こ の 技 術 な る も の が 問題 の 中 心 と なる こ と に よ っ て, しば しば これ こそ. が制作の基礎概念であるかのごとく振舞われることがあることに, 注意しなければならない, われ われはいまここにいちいちの実例をあげることのわずらわしさをいとわなければならな いが, 前述 ‘生産 (註--ここでは制作のいみでいわれている) の概念は技術の概念にと の三木氏です らが, ‘ ’ これ は ま さ しく 逆 に ”技術の概念は制作の概念にとっ って 構 成的 な 要 素 であ る ” と い っ て い る.2 ” て構成的な要素である といわれるべきである, 三木氏自身そのいみを考えていることが, 前後の ・了解されるのである. しかしながら問題は, このように技術概念の方が制作概念に優越す 女脈から るがごとくに思いあやまられているということである, ここに十九世紀後半以来, いわゆる“技術 哲学“ の興隆に比して制作哲学のいちじるしい立遅れがみられた原因も存するとおもわれる, さきに引用 した論女においてハイ デッガーは, その独自の見地から技術について論じているので. あるが, 彼は制作概念の優越のもとにおいてのみ技術を考えている点で, 注目されなければならな い. そもそも波によれば, 制作とは ” も ってく る こ と Bringen“ である, 在るものをあらわな姿 にも っ てく る こ と で ある, プ ラ ト ンも “ 饗 宴 ” で い っ てい る よ う に, “ 在 らぬ もの か ら 在 るも の へ と移 る こと の た め の あ ら ゆ る 働 き が ポイ エ シスで あ る.“ それは ”もち出すこと Her‐vor‐bringen (制作)“ で ある, こ の “ も ち 出 し“ と して の ポイ エ シ スは, さ き に 触 れ た よ う に ハイ デ ッ ガー. にあっては, 単に工作や芸術制作のみならず, 自然にまで推し及ぼされる. 彼によれば自然もまた “ 自己からの立ち現われ das von‐s ich‐her Aufgehen” と して 制 作 であ る , た と え ば 花 が開 く 場. ’ の 発現 で ある 工作 や芸 術 制 作は こ 合 で あ り, そ れ は みず か ら の う ち での む きαりて@ “ も ち出 し’ . ‘もち 出 し “ の 発現 それみずからのうちではなく 他のもののうちでの ≧し 傷ス@ ‘ れに反して. , , 3 ’ ハイ デ ッ ガー は こ のよ う に い う の で あ る である. すなわち工作者や芸術家における場合である.. が, 実 は こ の “ 他 の も の の う ち で “ 制 作 が 起 因 す る こ とこ そ,ア リ ス トテ レス の言 葉 で い え ば “ そ の端初が制作者に存する ” と いう こ と こ そ, 制 作 の 本性 に適 合 して い る の で あ って, 自 己 目身 の. うちに展開の起因をもつものは決して制作とはいわれえないものである ことは, すでに制作の原理 と して 述 べた と こ ろ で あ る,. このようにハイデッガーにおいて制作概念のいまだ確立せざるものをわれわれは見る の で あ る と と しよ う, 彼 は “ も ち 出 し “ に つ い て 次 の が, そ れ は と も かく と して さ らに 彼 の論 旨 を追 う こ ・ ” “ よ う に 説 明 して い る, も ち 出 し は 隠 され て い る こ とを あ らわ な こ とに も た らす Das Her‐vor “現わす ingen bringt aus d br er Verborgenheit herin di e Unverborgenheit vor . それ は ま た - 3 -.

(5) . 野. 辺. 地. 東. 洋. bergen” で あ り, ギ リ シャ 人 が 畝 が”α (真 理) と 呼 ん だ と こ ろ の も の である. こ と Ent. 技術は. 実に “現わし” の一つの仕方であり, その点に留意するならば, 技術の本質にとってまったく新た な る 領 域 が 開 け て く る の で あ る. つ ま り そ れ は 真理 の 領 域 で ある. か か る も の と して の技 術 は “ も. i 燈 かり ち出し“ , すなわち制 作に 属 す る も の で あ る, D e. geh6rt zum. ingen, zur Her ‐vor ‐br. . さ ら に ハイ デッ ガー に よれ ば テ ク ネ (技 術) は エ ビ ステメ (知 識) と と も に, も っと も 広 い い み での 認 識 を い い あ らわ して い る, そ れ は 何 か に通 じ て い るこ と で あ り, 何 か に 詳 しい こ と で あ る, ) と こ ろ でア リ ス トテ レ ス は 認 識 は 開示 を 与 え る. 開 示 す る も のと して そ れ は “ 現 わ し” で あ る.5 ) ハイ デッ ガーも い う よ う に, そ れ は そ れ らが 何 を, ま エ ビス テメ と テ ク ネ と を 区 別 して い る が,6 た い か に して 現 わす か と い う こ と に つ い て の 区 別 で あ る,. モ スリヴ6おと テクネは ‘ し の 一 つの 仕 方 で あ. る, それは自分自身で自己をもち出すことのないものを, またいまだ眼前にない ものを現わすもの で ある, か か る “ 現 わ し “ は外形や素材を完全にできあがったものにまとめてみて, その点から 存え よう を き め る の で あ る. こ こ に おい て テ ク ネ の 決 定 的 な こと は, 決 して 手 足 を 動 か した り 走 り. ま わ った りす る こ と に あ る の では なく, ま た い ろ い ろ の 手 段 を適 用 した りす る こ と に あ る の で は な ‘現 わ し ” に あ る ので あ る テク ネ は こ の よ う に “ 現 わ し ” で あっ て た く, 上 に述 べ たよ う な ‘ , , ‘現 だョ 存える こ と で は な い の で あ る か ら, そ れは “ も ち 出 し (制 作)“ な の であ る, 実 に テ ク ネ は ‘ “ “ “ “ “ わ し の一つの仕方であり α (真 現わし と あ ら わ が生ずるところ すなわち 畝 和8 と. ,. ) 理) の 生 ず る と こ ろ に, そ の 本質 を 有 す る の で あ る.7. ,. ingen ‐ ‐br vor ハイ デ ッ ガー は か く 制 作 を 考 え, 技 術 を 規 定 して い る, 彼 に よ れ ば “ 技 術 は Her ingen (制 作) で あ る ” の で あ る, こ こ に ‐br ‐vor 飾り作)に属する” のであり, また “技術は Her. 技術に関する二つの命題がみいだされるわけであるが, 前者はまさに技術概念の制作概念にたいす る従属関係をいいあらわしたものであり, 後者は客語が主語の属する対象を明らかにするところの. 説明判断であり, あるいは客語が主語の上位概念となっている包接判断であると考えられることが で き る で あ ろ う.. このようにハイ デッガーは一方, 自然も技術的であることを述べている点ではわれわれを納得せ. しめないが, 他方, 制作にたいする優位については明白な判断をくだしている点において, われわ れを充分満足せしめていると思われるのである, 実に技術は制作の地平において論じられなければ ならないものであって, 決してその逆ではありえない. 技術は制作における技術であって, 技術に おいて制作があるのではない, また技術が制作と同等ないLは同義であるのではない. 技術は ” 制. ‘テク ネ は ‘現 わ し’ の 一つ の 仕 方 “ でな 作 の技 術 ” な の で あ っ て, ハイ デ ッ ガー も い う よ う に,‘ け れ ば な らな い, さ ら に ア リ ス トテ レス の “ 或 る も の が, い かに す れ ば 成 りた ち う るか と い う こ. と”にかかわるものである, 実に技術は制作の概念に含まれるものであり, 制作論のうちにはじめ てその論理的位置づけをうるものなのである, i i d. i t 1) Ar es s ot e . ,ib ,17 2) 三木清, 前掲書,174頁.. idegger id b 3) He . .19 . ,S ,i i b i S 2 d 0 . . . , i i b d . . .21 ,S i Ar i d. l tot ー {,1139b e es s . ,ib , Z, 1. 4) 5) 6) 7). idegger i d He . .21 , ,ib ,S. - 4 【.

(6) . ー l. 哲 学. 的. 制 作. 論. ( ~ m). 3. しかしながら現実においては制作と技術とは相即不離のものである, 技術のない制作はありえな いし, また制作のない技術はありえない, 技術は現実存在としての有限的な人間が制作する場合. に, 必ずつきまとうものである. 制作が時間においておこなわれ過程的なものである以上, 必ずや それは技術的に実現の経過をたどらなければならない, ヤーウェの宇宙制作においてさえ, 六日の 1 ) 真に万能 tlux“ と叫ぶ技術を要したのである. 時間が必要であった, その制作は “光あれ 6a の制作者 であれば, 瞬間において天地を成立せしめなければならなかった, ア ダムを制作するため に泥をこねる必要はなかった, われわれは一方においてヘブライ人のもつ神話的構想力の偉大さに. 感嘆せざるをえないのであるが, 他方において万能神ヤーウェを描写する力のいまだ充分ならざる を思わざるをえないのである, いずれにしても泥をこねる技術は有限的な人間のものである. 技術 は ホ ドス(道)で あ り, 道 に 従 っ て (メ タ ・ ホ ドス) 制 作 は 実現 さ れ る. つ ま り はア リ ス トテ レスの “ いか に す れ ば 成 りた ち う る か ” と い う こ と で あ る , そ れ は 有限 者 の よる べ き道 程 で あ る, こ れ. は時間的現実的なる制作とともにあるものである, 技術が制作を現実にもたらすもの, ,いいかえれ ” ば制作を実現するものであるからには, それは実現の手段である. いかにすれば けたの(” とは手 段に 関 す る こと で あ る. さ き の ハイ デッ ガー の 言 葉 で いえ ば, テ ク ネ は “ 現 わ し” の一 つ の 仕方 である. いいかえれば ” 何 らか の こ のも の を, ま た は か のも の を, こ のよ うに か, ま た は 他 の よ う に か, 存 在す るも の へ と 現 われ しめ る こ と etwas als dieses oder jenes so oder anders. “ in das Anwesende erscheinen lassen “ な の であ る 2 ・ .ノ この よ うに か, また は 他 の よ う に か so oder ande rs” と い う こ と は “ い か にす れ ば おヵの ” と い う 問 題 で ある,. ハイ デッ ガ← は ”技術 1 ” 現 わ し ” の 一 つ の 仕 方 で あ ると い う こ と をい う が “ 現 わ は 単に 手段 で ある のみ で は なく,“3 ,. し“ 自身が実現, すなわち現われたものを 目的とするところの手段でなければならない, このい. み か らい うな らば 技 術 も 手 段 であ ること に は 相 異 な い, な る ほ ど ハイ デ ッ ガ←は さ き に も み た ご と. く, テ ク ネ の決 定 的 な こと は決 して 手先 を 動 か した り 走 り ま わ った りす る こ と に あ る の で は な い , ま た い ろ い ろ の 手 段 を 適用 した りす る こ とに あ る の で は な い, と い って い る, かか る 些 末 な こ と. に手段といういみを限定すればともかく, 目的実現のための働きをすべて手段と称するならば, こ の “ 現 わ し “ もまた当然手段なのである, さ て こ の “ 現 わ し“ は 制 作 す る こと で あ り, “ 現 われ た も の ” と は 制 作さ れ た も の に ほか な ら. ない. 手段としての制作が目的としての制作されたものにたいする関係が, ここにみられるのであ る, 制作が手段 であるかぎり, それとともにある技 術も手段でなければならない, これはまことに. 当然なことである. あらゆる種類の効用財の制 作が, 制作された効用財を 目的とする手段であり , 各種の芸術作品の制作が, 芸術作品を目的とした手段であることは明かである. しかしわれわれは. す でに, ,制作には手段と してのもののみではなく, それ自身目的であるところの第三種のものが存 す る こと を みた の で ある. す な わち 制 作す る こと と 制作 さ れ た も の と が同 なるがごとき制作にお いては, 制作はそれ自体 目的であって手段ではない, このような制作にあっては制作とともにある 技術もまた目的であって手段ではない. すなわちすでにみたごとく舞台芸 術であるが, ここにおい. ては舞踊から演劇までの種目において舞台の空間流を形成していくことが制作であり, このものを おいて他にこの種の芸術の目的はないのである, この種の芸術の制作はそれ自身が目的であり, そ の制作の技術もまた目的とともにあるのである, それは舞技をも含めての広いいみでの演技とよば. れるものである, これはたしかに技術の一種には相異ないが, それ自身目的としての芸術作品でな ければな らない, この種の芸術における制作は演技そのものであり, かかる技術がすなわち作品で - 5 -.

(7) . 野. 辺. 地 東. 洋. あ る, も ち ろ ん こ こ で いわ れ る 演 技 と は, か な らず しも 日 常 い わ れ る と ころ の 断 片 的な 個 々 の技 術. のことではない. む しろ第一義的にいわるべき演技とは, 舞台上における技術組織の全体のことで あ る.. このように技術そのものが目的である場合は, 舞合芸術においてはじめてみられるのである. 効 用財の制作においてはもちろん, 他の種の芸術においても制作することと制作されたものとは分離. しており, そのかぎり技術は制作されたものには存しない. この分離のみられない, すなわち制作 することが作品であるところの舞台芸術にあってのみ, はじめて 目的としての技術は存在す るので ある, ” 技術は単に手段であるのみではない” とは, われわれにおいてはかかる場合にのみ, いわ れ うる こ と でな けれ ば な ら な い, さ らに こ の 点に つ い て 詳 しく 考 え よ う, i ber Genes 1) Li s .3 . ,1. i d 2) Heidegger . .160 . ,S ,ib S 2 0 3) ibid. , . .. 4 技 術が 自 然 と は 異 な る と い う こと を 説 明 した カ ン トは, さ らに 第 二 の 区 別 と して, 技 術 Kunst. ssen か ら -- い う ま でも なく この 語 はk6nnenに 由 来 して い る-- は 能 K6nnen で あって, 知 Wi 区別 され る も の で あ り,技 巧 -- こ の 場 合 とく に Technik という言葉を用いる--を意味するもの. i e Kunst と労賃技術 Lohnkunst とが区別 で あ る こ と を指 摘 し, 第 三 の 区 別 と して, 自 由 技 術 fre. 1 ) この場合は労賃技術が単に労賃を目的とした不快な仕事であるのにた されることを,述べている. い して,自由技術はあたかも “遊び” のごとく, それ自身快適なる仕事として合目的的に仕上るも の のよ う に 思 わ れ る の で あ る,. と こ ろ で こ の合 目 的 的 zweckmassig というのは, 他方が強制的. といわれるのにたいしての言葉であるが, 後者が外在する目的に奉仕し, このた めに強いられているというのにたいして, 前者はそれ自身に内在する目的のた めに, すなわち強い られることなく自由に, ということであると考えられる. それゆえにこそそれが自由技術とよばれ. ig zwangsmass. るのである. 労賃を目的とする労賃技術という考えかたは, あまりにも象徴的であって論理的には 適切でなく, むしろ外在する効用を目的とするといういみで効用技術とし・つた方が妥当のようにお. ) もわれる, これはまたカントによって機械的技術 mechanische Kunst と よ ば れ る も の で あ る.2 美感的技 しかし何らの拘束のないようにみえる自由技術は, それが快感を直接に目指す場合には,. 術. ische Kunst asthet. とよばれる. そしてこれがさらに二つに分類される. すなわち単に慰みを. t“ と いわ れ, 快 が単 な る 感 覚 と し て の 表 象 目 的 と す る 場 合 に は ” 快 き 技 術 angenehme Kuns. に 伴 う こと を 目 的 と して い る,. た と えば 食 卓 を 楽 しい も の と す る た め に 朗 か な 談 話 を工 夫 す る が. ごときことである, また快が認ー識様式としての表象を伴うことを目的とする場合は “美しき技術 3 ) この最 sch6ne Kunst“ とよばれ, それはそれ自身において合目的的なる一つの表象様式である. ” “ 後の技術はすでに 芸術 --これも一 種の Kunst で あ る---と よ ば れ る も の であ り, ある 場 合 に はそ れ 自身 が 目 的 で あ る と こ ろ の技 術 で あ る,. しか し カ ン トが正 当 に も “ す べて の自 由 技 術. においても強制的な或るもの,または機械関係というものが必要であって,これがなくては技術にお いて自由なるべき精神が, また作品を専ら活かすところの精神 が, その体を保ちえずに空 しく発散 ) 自 由 技 術 の 内 部 に も 制 約は あ る の で あっ て, こ し去 って しま う で あ ろ う ” と 述 べ て い る と お り,4. の制約なるものとこれに従うということにおいて, 技術の技術たるゆえんが, すなわち道ないし t にお chtkuns 方 法 と して の 性 格 が 存 す る の で あ る, カ ント が あげ て い る 例 でい えば, 詩 作 技 術 Di 5 ) この場合の制作は内的 ける用語の正しさと豊かさ, ならびに詩形や韻律の問題のごときである. - 6 ー.

(8) . 哲. 学. 的 制. 作 論. (m). 必 然 に よ る と ころ のも の で あっ て, そ れ に 従 う こ と は決 して 自由 に 反す る こ と で は な い の で ある ,. そしてかかる制約の強制が観照者に感ぜられず, 作品があたかも自然であるかのごとく見えること をも っ て, 理 想 と す る の で あ る, カ ン トが ”芸術 sch6ne Kuns t は そ れ が同 時 に 自 然 で ある と み えるかぎりにおいて一箇の技術. ” Kunst で あ る ” と い い 6 ,) 芸 術の 所 産 に お け る 合 目的 性 は, た と. え意図的であるにしてもなお意図的にみえてはならない, すなわち芸術は技術として意識されてい ながらも, なお自然とみなされなければならない, しかし技術の産物が自然であるとみえるのは, 次 の ごと き こ と が らによ る, す な わ ち こ の 産物 が 専 ら従 う こ と によ っ て 当 然 あ る べ き も の と な りう. るゆえんの規則とまったく正確に合致するにはしても, その場合苦悩があってはならないし, 教則 形式が看破されてはならない. すなわち規則が技術家の眼前に浮んで彼の心情の力に束縛を与えた ) とい う痕をみせてはならないのである” と述 べ て い る と お り であ る.7. ところで技術は効用技術においても自由技術においても, 機械的技術においても美感的技術にお いて も あ るい は ま た ”快き技術” においても “美しき技術 (芸術)“ においても, いずれにあ ってもそのほとんどすべては, 制作が被制作物を実現へともたらすための手段であることには変り はない. ただ制作と被制作物とのあいだに隔りのまったく存しないような制作にあってのみ, 技術. はそれ自体目的なのである. ところで上の諸技術のほとんどにおいては, 道の到達点が制品なので ある. すなわち食衣住に関する被制作物からもろもろの道具にいたるまで, また工芸・建築 (これ. らは衣住に関係はするが) から各種純粋芸術作品にいたるまで, それらのほとんどは到達点ガ制品 であり, それにいたる技術はそこに導くまでの手段なのである. ひとは完成された制品ないし作品 を第一義的に問うて, そのものをそこに導いた技術を主としては問わない, しいて技術を問題とし. たい場合は, 作品を分析的に観照することによって,技術の痕跡を発見しようとする.そのものとし てはそれ自身 完成されたものとして永遠性を主張する制品ないし作品を, 時間的な成立過程に分解. しようとする. しかし効用的制品においてはともかく, 芸術作品にあってはかかる操作を容易に許 さないものほど優れたものである, それはあたかも何ら技術を要しなかった自然のごとくに, そこ に存在するであろう, “天衣無縫” とはこのことである, これに反して技術的制約を意識せ しめ, これにたいする服従の忍苦を訴えるがごとき作品は, 決して優秀とはいえない, “苦心の痕がよく うかがわれる“ とはこれである. 時間的契機を含まない空間芸術としての造形芸術については, こ のようなことが典型的にいえるので ある,, しかるに時間的契機によってなりたつ時間芸術や時間的 契機をそのままのものとして含む舞台芸術のごときいわゆる綜合芸術にあっては, 当然制作の経過 が含まれていなければならない, したがって技術がそのままに存在しなければならない, ところで 制作は身体の動きによって実現するものである, もちろん身体の動きは内なるものの表現であり,. 単に外面的なるそれだけのものではないが, すなわちそれは構想力の問題であって, 単に神経の伝 達や筋肉の伸縮の問題ではないが, ともかく制作の働きの核心的なるものの一 つである, 制作にお. いてはこの身体の動きは, また技術をともなわなければならない, さて時間芸術たる音楽において, この身体の技術は高度に用いられる. 声楽は身体そのも のの一 部分を音響の源泉とし, これの技術的運動によって制作がおこなわれ, 器楽は音響の源泉は身体以. 外の道具にあるが, これを身体によって操作することにより, またある場合には身体を触れあうこ とにより音響を制作する. ここに身体による技術が存する, 女芸は身体による言語の発声が土台と なってはいるが, 意識内部における表象の世界で展開されるものであるから, 身体による制作の働 きは問題とならない, したがって時間芸術においては音楽の身体技術が代表的なものであろう. 音 楽制作すなわち演奏にあっては, 制作されたものは制作することとともに, すなわち同時に存する. の で あ る, した が って制 作 さ れ た も の は, 制 作 す る こ と と 同一 で あ るが ご とく に, 思 わ れ る かも し - 7 ー.

(9) . 野. 辺 地. 東. 洋. れない, しかしそ うではないのである, 音楽の制作には身体が, そして身体の技術が重要な契機を なしている. しかるに作 られたも のすなわち実現された音響組織には, 身体的要素が含まれてい ない. それは音だけが問題なのである, したがって制作する ことと制作されたものとが, 同じもの であるというわけにはいかない. 身体の技術は身体の動きとともに, 制作されたものから排除され てしまう, した がって技術は手段として しか認められないわけである, それはそれ自身としては, 音響を発生せしめる手段であって, 決して目的ではないのである. さて, 時間的契機と空間的契機とをともに含む綜合 芸術においては, 身体による制作は空間流を 制作しなければならない, ここにおいては, 制作することがそのまま制作されたものである. 両者 はあいともない, また同時に存するのみならず, まったく同一のものなのである. 身体的契機 はそ が の ま ま, そ の 一 部 分 た り とも 排 除 さ れ る こ と な く, 作 品 の 内 容 を構 成 して い る の で あ る, し た っ. て身体の空間的な動きの技術は, また作品内容でもある, これは身体の動きのみを問題とした純粋 舞踊において, もっとも典型的にあらわれ, これの本質的契機を中心と して変形し, また音楽的, 文芸的, 絵画彫刻的契機を加えて, 各種のものに展開 していくのである, かかる種類の芸術にあっ ては, 技術は単に作品実現のための手段であるのではなく, それ自身目的 でなければならない. す べて制作することが手段であり制作されたものが目的であるような制作にあっては, 技術は手段で あるが, 制作すること自体が制作されたものであるような制作に あっては, 技術はもはや単な る手 段ではなく, 目的それ自体なのである, 1、 ′ ′ id Kant i b . . .303f ,S 2、 ′ ′, i S 3 0 5 ib d . , . ′ 3、 ′ . i bi d, S 305 f . ′ . 4、 ′ . ib i d S 304 . . . , 、 ′ / 5 i i d,S 304 b . ′ . 6、 ノ . i d S 306 ib . . . , 7、 ノ ′ ib i d . 306 .f . , ,S. 5. 最後に, これまでとり残しておいた点であるが, しかし身体の面に関 するかぎり幾分はこれまで T h ik に触れてきた点でもあるが, カントによる第二の区別をとりあげてみよう. それは技巧 ec n に関することである, 効用的制作においてはす べての制作は手段であり, 技術もまた手段であるこ と は い う ま で も な い, 制 作 さ れ た も の は制 作 す る こ と の 目的 と して 存 す る か ら で ある. か かる 制 作. においては手段としての身体の動きがまた制作 することの重要な内容をなしている. そしてそれと ともに構想力 が根抵的な働きをなしている, いまその事情を 歴史的に省みてみよう, 人類は手が地 上から離れて自由になったときから, 本来の制作活動を始めた, 身体のなかでも手による動きが制. 作活動の中心をなしてきた. 大部分の道具は手によって作られ, 手によって持たれ, 手によって扱 われた, 道具は身体の延長としてのいみをもち, 身体部分の形態を投射したものであった, そして 都合 のいいことには交換のきくものであった, 道具が発 達するにつれて, これが複雑な機械組織と な り, 身 体 を 動 力 と し た 動 き に 他 の 自 然 エ ネ ル ギー が 動 力 と して と っ て 代 る よ うに な っ た. それ 以. 来, 道具の形態は必ずしも身体の投影ではなくなり, ベルトや歯車や電線が動力 伝 達の手段とな り, それにふさわしい装置が発達するようになった. この装置は人間 の身体的運動の様相を変えて しまった, 作られるべきものの形と, それが作られる過程の運動とは, まったく関係のないものと な っ た, さ ま ざま の形 の も の が,. ボタ ンを 押 す と い う ,同 一 の 動 き に よ っ て,. 作 ら れ る よ うに なっ. た, 装置の活動はまったく人間の身体を離れておこなわれ, その開始と終止とのために, 人間のタ ッチが必要とされるだけとなったのである, その結果は, 身体の技術はかならず しも高度のもの - 8 -.

(10) . 哲 学 的. 制. 作 論. (皿). が, また多種のものが要求されなくなった, ボタ ン一つを押すだけの簡単な技術ですむのである, それは技術の退化ではない, 構想力による客観的知識のより高度の応用がそのようにさせたのであ. る, つまり技術は身体のうえから退いて, そのかわりに構想力による知識の応用の側にますます発 展していったのである, このようにして人間の身体のもつ素質的優秀と熟練とは不必要となり, 一般に技巧としての技術. は, この方面の制作では問題とならなくなっている. 力ソトは実際的能力である技巧としての技術 について論じ, ”われわれが単になさるべきことを知るやいなや, したがって単に欲求された結果 ) 彼 を充 分 に 知 る や い な や, た ち どこ ろ に な しう る こ と は, 技 術 と は よ ばれ な い ” と い っ て い る.1. は靴を作る技術を例にあげ, もっともよい靴を作る方法を知っていても, それだけでは不可であっ て, 作る技能がそなわつていなければそのような靴はできあがらない, したがってかかる技能が技 術である, ということを述べているのである, しかし現代の機械工業にあっては, かかる技能は本. 質的なものではなくなっているであろう, それは知識の応用という構想力の問題に席を譲ってしま って い る,. かつ て は こ の 知 識 の応用 と い う こと が “ 発 明 ” と い う言 葉 で よを れたことがあった, 発明とは. 既存の知識のあらたなる領域への適用, ないしあらたなる組合せによって, いまだ存せざるあらた な る種 類 の も の を 存 立 せ しめる こ と で ある,. こ こ に 構 想力 の 問 題 が ある, 発 明は ^ あ らえ な る 構. 想” による制作である, かつては発明は人類の女明を 急速に進めるための劃期的なでき ごとと考 えられた. それまでは家畜の労力のほかは, 水力や風力だけが自然動力であったときに, 蒸気力の. 利用がおもいつかれ たことは人類の驚異であった, しかし今日では発明は日常の茶飯事である, 発 明という言葉すらが, 時代遅れのものとなっている, 蓄音器や電燈についてはいえたであろうが, 人工 衛 星に つ い て これ を用 い ると き は,. む しろ お か しくさ え 感 ぜ られ る. しか しこれ も ま た “ 発. 明“ でなければならないことはたしかである, それはその昔の水車の出現と同じ性質のものであ る.. ・. 身体のもつ素質的優秀と熟練とはかくのごとく, 効用財の機械的制作にあたっては問題とならな い, これが効用的制作において問題となりうるのは, 身体の延長としての道具が操作されるかぎり. での, 手工的制作においてである, もっとも技巧は単に身体だけの問題ではない, 身体の働きの基 礎に構想力が働いていなければならない, それには知識の応用・組合せという点でも働く が, また. 身体にたいしての働きの方法を指示するものとして不可欠のものである. かかる構想力の働きは,. 手工的制作に あっては主として身体的の領域に, 機械的制作にあっては主として 知的の領域に働く ものということが, 上述のことからいえるであろう. 次に芸術的制作における技巧の 問 題で ある. が, それは身体的技巧をも含めての, 美に関する構想とその表現の技術である, こ れ が カ ン ト e“ と よ ん だ と こ ろ の 才能 Talent であって, “技術に規則を与える ” と こ ろ の も が ”天才 Geni } す な わ ち ”それぞれの技術は或る規則を前提している, そして一つの作品が人工的と の で ある.2 よばれるべ きであるかぎりは, その規則による基震づけによってはじめて, それが可能的と表象さ れるのである, しかしながら芸術の概念は, その作品の美にたいする判断が, 概念を規定根拠とし ても つ と こ ろ の 何 ら か の 規 則 か ら, した が っ て そ れ が どの よ う に して 可 能 で あ る か と い う こと の 概 念を 根 抵 に おく と こ ろ の 何 らか の 規 則 から, 導 き ださ れ る と い う ことを 許 さ な い. した が って 芸 術. はその作品を成りたたせる規則を, それ自身で考えだすことはできない, しかもなお先行する規則 なしには, 作品は決して技術とよそまれえないのであるから, 主観における自然が (そして主観の諸. 能力の調和によって) , 技術にたいして規則を与えなければならない, すなわち芸術はただ天才の ) 作 品 と して の み 可 能 な の であ る.”3. - 9 -.

(11) . 野. 辺 地. 東. 洋. ところでこの芸術的制作は, 機械を含めての広いいみでの道具による制作が参与することを拒む. も の で は な い. い な, か か る 参 与 の な い 芸 術 的 制 作 と い う も の は, ほ とん ど あ り えな い で あ ろ う,. しかしながらた とえ芸術的制作が, 道具による制作を不可欠のものとしても, 後者はあくま で前者 が成立するための条件なのであって, 芸術の条件が芸術のなかに侵入してく ること ,はな い の で あ る, 条件がなければ存在しえない芸術であっても, 条件は芸術の価値には関係がないのである, 撮 影 レンズの進歩は全体と しての映画の芸術性を高めるのに役立ちはするであろう が (映画が芸術の 独立したジャンルであるか どうかの問題はともかく) ,レンズの進歩そのものにはいさ さかの芸術問 題 も 存 しな い の で ある.. ) 写 真 は 手段 で あ っ て 芸 術 では な い の で ゼ ー デ ルマイ ヤ ー も い う よ う に,4. ある. 九代目団十郎の芸術は照明技術の進歩 した現代の役者の芸術に比 して決して劣りはしないの である, もちろん舞台照明は電気技術によって格段の進歩はしたが, 電気照明が用いられる以前に 照明の研究がおこなわれなかったわけではない. 蝋燭のツラ明かりも研究の所産であったし, 自然. 光線そのものもその方向や明暗度が研究されたのであった, そしてなぜこのような工夫研究が努力 されたかといえ ば, それがまったく芸術にとって無益であったからではなく, 何らかの貢献をなす. べきものであったからである, それは全体としての芸術の位置を高めることであったのである. い わば下駄であり, 芸術に従来よりも高い下駄をはかせて, 芸術の姿勢を高めようというわけであ る. そして下駄をはかない芸術そのものというものは, 現実には存しえないのである, いずれの芸 術も何らかの下駄をはいている, 表現手段に道具として, また素材と して, それ自身としは非芸術. 的 な も の を用 い て い る, そ して 選 択 と 改 良 と い う こ と に よ っ て, そ れ を 芸 術手 段 と して, よ り す ぐ. れたものとすることを, 制作者は工夫する, 芸術は道具や素材のうちに存するのではなく, それら のものを手段と した, 構想力による綜合的構成のうちにある. しか しながらそのなかの個々の芸術. 的要素を評価する場合には, それの他の要素とのあいだの交亙作用を考慮すべきであるとともに, またその要素を純粋に, すなわちそのものの独自性においても, 評価しなければならないことは当 然 である, 1) 2) 3) 4). Kant bi d. ・303 ・ .i ,S i b i dリ S ,307 , ib id . .307 . ,S Hans sedln i t layr e Revol on der modernen Kuns ut ・42 . , Di ,1955 ,S. - lo -.

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参照

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