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(1)

新生「上田市」発足

1周

年記念事業

古 代 信 渤

の 文 字

(2)

『古代信濃の文字』正誤表

正 2341試 = 筆順 も二字 目の「九

Jを

除いて現在 と同 じ 頁 行 誤 9 上か ら9行日 243点 24 上1から17行 日 筆順 も現在 と同じ また則天文字 「青」(正)が 1点出土 した。 │ 38 上か ら9行日 (文献

20の

後に右 の文 を追カロ 38 下段写真説 明 則天文字「嵐i」 53

Ti'

b

Ll'frtr

(則天文字) 53

Ti.

b

L4'fr4

(lll天文字) 54 下か ら2行日 (則天文字)

(3)

―一新生「上田市」発足

1周

年記念事業――

古 代 信 濃 の 文 字

(4)

仏鉢形土器 佐久市聖原遺跡出土 (佐久市教育委員会所蔵) 郡符木簡 千曲市屋代遺跡群 出土 (長野 県立歴史館所蔵) 多数 出土 した墨書土器 千曲市社 宮司遺跡 出土 (長野県埋蔵文化財 セ ンター所蔵) 国符木簡

(5)

朱墨書「田家?」 (長野市南宮遺跡 。長野市教育委員会所蔵) 銅印「長良私印」 (松本市三間沢川左岸遺跡出土・松本市立考古博物館所蔵) 銅印 「宍来 (未

?)私

印」 (上田市法楽寺遺跡出土 。当館所蔵)

(6)

中国や朝鮮半島か らもた らされた漢字 を用いて、古代 の人々は板、紙、土器、陶

器、瓦、銅印などに文字を記 し、様 々な意味を込めました。信濃では弥生時代後期の

木島平村の根塚遺跡か ら「大」字様刻文のある土器片が発見 され、現在 までの ところ

国内では最 も古い文字資料の一つ とみ られています。奈良時代 には、信濃国分寺跡か

ら「伊」、

「更」の文字 をヘラ描 きした文字瓦が出土 してお り、これ らは「伊那郡」、

「更

級郡」の郡名 を表示 したものであろうと考えられています。

平安時代前期の

9世

紀か ら10世 紀 にかけては、墨で文字 を土器 に記 した墨書土器

が東国を中心 に多数出土 しています。 こうした文字は一文字だけが記 されたものが多

く、村落内での祭祀や儀礼 に際 して使用 されたものであることが、最近の研究か ら解

明されて きました。佐久市の聖原遺跡では、「佛」の文字などをヘ ラで描いた仏鉢形

の土器が出土 してお り、当時の仏教信仰 に関わる貴重な資料 とみ られます。また、松

本市の下神遺跡では、中国の唐代 に則天武后 によって制定 された則天文字 とみ られる

文字が発見 され、注 目されました。

千 曲市の社宮司遺跡か らは、「八千」 など多数の平安時代の墨書土器が出土 してい

ます。 また飯 田市の恒川遺跡群は、古代の伊那郡の役所である伊那郡衛跡であったこ

とが、調査成果か らほぼ確定 していますが、役所の台所 を示す「厨」の墨書土器が発

見 されています。 さらに古代の信濃では、文字が表現 された鋼製や石製の印が出土 し

ています。松本市三間沢川左岸遺跡出土の「長良私印」、千曲市更埴条里遺跡出土の

「王

強私印」などの銅印は信濃の古代史を解明する上で、重要な資料 とされています。

こうした資料 を通 して、古代信濃の文字文化の一端をご理解いただければ幸いに存

じます。最後 に今回の特別展開催 に際 しまして、貴重な資料 をご出展いただきました

皆様方、 またご指導、 ご協力 を賜 りました関係各位、諸機関に対 しまして、厚 くお礼

申し上げます。

平成 19年 9月

上田市立信濃国分寺資料館

(7)

「遺跡出上の墨書土器 が語 るもの」………1

1

漢字の始 ま りと伝来 ……… ………。

14

Ⅱ 弥生時代 か ら古墳時代 の文字資料 ………

15

1木

島平村根塚遺跡出土 「大」字様刻文の ある土器片 ………。

15

2二

重県松阪市片部遺跡出土の墨書土器 …

18

Ⅲ 古代 の役所 や国分寺 で使用 された 文字資料 ………

20

1千

曲市屋代遺跡群 出土木簡 ………。

20

2飯

田市恒川遺跡群 出土文字資料 …………

22

3上

田市信濃 国分寺跡 出土文字瓦 と 刻書土器 ………

24

Ⅳ 県内出土の墨書土器・刻書土器・古代印 …

26

1南

信地方の遺跡 出土の文字資料 …………

26

(1)飯

田市恒川遺跡群 ………。

26

(2)箕

輪町中道遺跡 ………・

28

(3)諏

訪市十二 ノ后遺跡 ………。

29

2中

信地方の遺跡出土の文字資料 ………-31

(1)塩

尻市平 出遺跡・和手遺跡 …………31

(2)塩

尻市吉 田川西遺跡 ………… ……。

33

(3)松

本市三間沢川左岸遺跡・ 平 田本郷遺跡 ……… ……。

34

(4)松

本市小原遺跡・小池遺跡 … ………

36

(5)松

本市下神遺跡・三の宮遺跡 ………

38

3北

信地方 の遺跡 出上の文字資料 … ……¨

40

(1)千

曲市屋代遺跡群 ……… ……。

40

(2)千

曲市社宮司遺跡 ………・

40

(3)長

野市南宮遺跡 ………。

42

4東

信地方 の遺跡 出土の文字資料 … ………

45

(1)佐

久市聖原遺跡 ……… ……。

45

(2)上

田市明神前遺跡 ………・

47

(3)上

田地方の遺跡出土の文字資料 ……

48

特別展「古代信濃の文字」関係遺跡位置図 …¨

50

展示資米斗目録 ¨………。。………。51 引用・参考文献………・

57

「長野県内出土・伝世の古代印の再検討」… (1) ∼(20)

ロ つ D   И 4 1。 本書 は平成 19年 9月 15日CLlから平成19年 11月 4日lE)まで を会期 とす る特別展「古代信濃 の文字」 の展示概説 として作成 した。

2.本

書 を作成す るにあた り、多 くの書籍 を参考 ・引用 させていただいた。厚 く御礼 申 し上 げる。 なお、巻末の引用 0参 考文献の番号 と本文中の文献番号 は同一である。 紙面の都合 で展示 資料 の うち図録 に掲載で きなかった資料がある。 掲載写真 は所蔵者 か ら提供 を受 けた り、調査報告書等か ら許可 を得 て転載 させ ていただいた。 また当館職員が資料調査 に際 して、許可 を得 て撮影 した写真が含 まれている。 本書の執筆 は、「遺跡 出土 の墨書土器が語 る もの」が高島英之氏 (財団法人 群馬県埋蔵文化 財調査事業 団専 門員 0主 幹)、「長野県 内出土・伝世の古代 印の再検討」が平川南氏 (国立歴 史民俗博物館館長)、 解説文の執筆 は第 Ⅱ章第1節が川上元氏 (上田市文化財保護審議会委 員)、 その他 の解説文の執筆 。編集 は倉沢正幸 (当館館長

)が

担 当 した。 5。

(8)

遺 跡 出上 の墨 書 土 器 が語 る もの

財 団法人 群馬県埋 蔵文化財調査事業団専 門員 (主幹

)高

島 英 之 は じめに一墨書・刻書土器 とはなにか 周知のように、奈良 0平安時代の集落遺跡 を発掘調査すると、たまに、文字が記 された遺物が 出土することがある。その多 くは、土器の器面に墨で文字が記 されたものや、文字が刻みつけら れたものである。これ らは墨書土器・刻書土器 と言われ、貴重な古代の文字資料 として注 目され てきた。最近の研究によって、 これ らは、村落内での祭祀や儀礼 にあたって用い られたものであ ることが、次第にわかって きた。 これは、全国各地の遺跡か ら出土する膨大な量の墨書土器の文字に、ある程度の共通性が認め られることや、特定の種類の文字や特殊な字形が頻繁に使用 されていること、あるいは、1遺跡 における墨書土器の出土量が 1000点 を越 える例す らあるにもかかわ らず、如何 なる遺跡 におい ても墨書土器の比率は、その遺跡か ら出土 した土器全体の数パーセン ト程度にしか過 ぎないこと、 また、文字 を記入するに当たって、特殊 な材質・作 り、 もしくは器形の土器 を意識的に選択 した 様子が無いこと、などの特色か ら導 き出された結果である。 すなわち、土器に文字 を記す行為 は、 日常什器 とは異なるという非 日常の標識 を施すことであ り、祭祀 に用いる土器 を日常什器 と区別 し、疫神・祟 り神 。悪霊・鬼等を含んだ意味においての 「神仏」に属する器であることを明記 したもの と言 うことになろう。

奈良 0平 安時代の集落遺跡出土の墨書土器は、 とりわけ関東地方での例が非常に多い。 これは ただ単に、発掘調査の件数が抜 きん出て多いか らという理由だけではな く、その時期の東国村落 の特質である。それ らは、一文字だけが記されたものがほとんどなので、文字の意味はどのよう にで も解釈 で きるものが多い。 また、早 く、八世紀前半の もの もあるが、村落内で本格的に広 まってい くのは九世紀になってか らである。九世紀か ら十世紀にかけて飛躍的展開を遂げ、早 く も十世紀の内に急速に減少 していって しまう。 また、古い時期の ものには、墨で記 された ものよ りも、土器 を焼 く前の、粘土が生乾 きの段階で、箆のような工具で文字が刻みつけられた ものが 多い。 さらに八世紀代の墨書土器の文字は、一般的に小振 りで、端正な書体であるのに対 し、九 世紀以降の ものは、文字 も太 く大 きくな り、字形が崩れ、いかにも稚拙 な書体の ものが多 くなっ てい く。明 らかに文字を記す人びとの層が拡大 している様子が うかがえる。 また、 こうした大 まかな傾向を指摘できる反面、それぞれの集落の移 り変わ りに伴って、墨書

(9)

土器の分布や量、記 されている文字の種類 などの傾向が変わってい くというような、細かな推移 を追 うこともで きる。 墨書土器の使われ方は、それぞれの土器に文字を書いた人びとそれぞれが果たしていた当時の 社会的な役割 と密接 に関わるのだか ら、墨書土器が どのような使われ方をしたのか と言 うことを 解 き明かす ことが、当時の社会の しくみやあ り方の解明につながるわけである。つまり、それぞ れの墨書土器の用途や機能を解明することによって、そうした人的関係の背後 にある律令官司制 のシステムや、村落構造 を明 らかにすることが可能であ り、 さらにはそのような諸関係のまとま りとしての古代社会像の解明に繋がってい くのである。 ここでは、主に、全国で最 も墨書土器が多 く出土 している関東地方における墨書土器のあ り方 や特色 を紹介 し、信濃地域か ら出土 した墨書土器の使われ方や、記 された文字の意味などを解明 する上での手がか りとなる材料 を提供 したい と考える。 1.墨書土器 は神 (仏

)の

依代 近年、千葉県 の八千代市か ら印西市 0印 藩村 0本埜村 にかけての地域、す なわち古代 の上総国 武射郡か ら下総国印藩郡 0香取郡・埴生郡一帯 を中心 に、複数の文字 を記 した墨書土器が多数 出 土す るようにな り、特 に村落祭祀 の実態 を端的に示す ような資料 も相次いで発見 されている。 そ うした墨書土器群のなかには、(地名

)十

人名 十「形 (方 0召 0身

)代

(+「

奉 (進上)」) という書式の ものや、「某神 (仏

)奉

(上・進)」 と記す もの、あるいは「竃神」・「国玉」の よう に祭祀の対象 となる神の名のみ記 したもの、などがあ り、記 されたこれ らの文字によって、それ らが祭祀 に使用 されていたことがわかる。これ らの墨書土器が、神 に対 して「招代 (お ぎしろ)」

=依

り代 (神霊の依 り憑 く物

)と

して奉献 されたもので、墨書土器 を招代 として神 を招 き、そこ に供物 を盛って、神 を饗応 したもの と考えられる (図

1参

照)。 このような「人名

+召

(形 0方 。身

)代

(替

)+奉

(進

)上

」 と記 された人面墨書土器 は、千 葉県西北部地域 にとどまらず、近年では宮城県多賀城市の陸奥国府多賀城周辺都市遺跡や福島県 いわき市の荒田目条里遺跡、静岡県三島市箱根田遺跡、静岡県浜松市伊場遺跡など、各地域か ら の出土例 もごく少数なが ら相次いでお り、地域的な広が りをみせてきている。いずれにして も疫 神や崇 り神・冥界の使いの鬼 まで も含めた意味における「神仏」 を祀る際に、神霊を招来する「形 (方

)代

(かた しろ

)0召

(招

)代

(おぎしろ)。 身代 (みのしろ

)=依

代 (よ りしろ)」 である土 器 を、 自分 自身の身体や命 を依代 として捧げる代 (替

)わ

りに捧げたもの と考 えられる。 土器の外面に人面 と「器」 という文字がそれぞれ

2箇

所 に記 され、底部外面に「代」 とい う文 字が

2箇

所記 された土器が山形県飽海郡平田町の山海窯遺跡か ら出土 している。文字の読み方 と

(10)

しては、「器代」あるいは「代器」いずれ も考 えられるが、「形代である (と しての

)器

」である ことを意味する文字 と考 えることがで き、土器が形代であることを如実に示す記載内容 と言える だろう。 器 自体 に神が依 ます ことが文献史料 にみえる例 としては、『日本書紀』崇神10年条に、三輪山 のオオモノヌシノカミが小蛇 に姿を変えて妻のヤマ トトトヒメノミコ トの箸箱の中に姿を隠 して いた という伝承や、『常陸国風土記』那賀郡茨城里条に、神の子の「小蛇」 を土器に入れて安置 するという伝承などがある。 『常陸国風土記』那賀郡茨城里条 茨城の里。此 よ り〕ヒに高き丘 あ り。名 を哺時臥の山 とい、S、。苦老のいへ らく、兄 と妹二人 あ りき。(中略

)時

に、妹、室 にあ りしに、人あ り、姓名 を知 らず、常に就 て求婚 ひ、夜 来 た りて昼去 りぬ。遂 に夫婦 と成 りて、―夕に懐妊め り。産 むべ き月に至 りて、終 に小 さ き蛇 を生め り。明 くれば言 とはぬが若 く、間れば母 と語 る。是に、母 と伯 と、驚 き奇 しみ、 速 に神の子な らむとお もひ、RFち、浄 き杯 に盛 りて、壇 を設 けて安置せ り。一夜の間に、 已に杯の中に満 ちぬ。更、ひ らかに易へて置けば、亦、ひらかの内に満 ちぬ。此かること 二四 して、器 を用いあへず。(中略

)盛

りしひらか と瓶 とは、今 も片岡の村 にあ り。 なお、 この説話では、依代 として供献 した器が まず杯であ り、次いで瓶であったという′点も注 目に値する。集落遺跡か ら出土する祭祀関連墨書土器の

9割

以上が杯型の土器であ り、甕型の も のがそれに次 ぐという出土状況は、 こうしたほぼ同時代の説話に見 える祭祀の具体像 と合致 して いる。特に一般的な墨書土器は、その大多数が杯型土器であることや、東国の集落遺跡出土の人 面墨書土器 には杯型の ものが多 く見 られると言 う点 も、依代 という機能か ら説明で きる。東国の 集落遺跡出土の人面墨書土器に杯型の ものが多 く見 られるのは、集落遺跡に特に顕著な、文字の み記 された墨書土器 に杯型の ものが圧倒的に多いことの影響であろう。 なお、土器 を含む容器が神の依代 として使用 されたことを端的に示す史料は他 にもい くつか存 在 している。 中世の 『類衆神祇本源』(元応

2年

(1320))に は、伊勢神宮の外宮別宮の土宮の神体 に関 して、 土宮 在下神官与二高宮_中 上。東面座。(中略)倭姫命世記曰、宇賀え御魂神、土乃御祖神、形鏡坐、 費瓶坐。 二所太神官御鎮座本紀曰、(中略

)注

曰、大土祖、霊鏡坐。大田命、霊銘石坐。宇賀魂、 霊瑠璃壺坐也。 豊受皇太神鎮座次第麗気曰、(中略

)大

土御祖―座。御体瑠璃壺―口、霊鏡二面、鮫 略) とあ り、神体が「宝瓶」あるいは「瑠璃壷一口」であるという記述が存在するが、 これは、土器 ではない ものの、おそ らく依代 として供献 された「瑠璃壺」に、神が宿ったことによって、依代 か ら神体その ものに転化 した と言えるだろう。壺その ものが神体 としてまつ られているケース と

(11)

言える。 なお、この史料の中で、神が依 ります鏡 を「鏡坐」、石 を「石坐」 と称するの と同じニュア ンスで、 神が依 ります器のことを「瓶坐」。「壺坐」 と称 されているところも注 目で きよう。それ らが磐座

=「

石坐」 と同 じく「坐」 と称 されていること自体、依代であることを端的に示 している。 土師器甕形人面墨書土器 と共伴 して斎 串 0人 形・馬形 0刀 形などの木製形代類が祭祀遺構か ら まとまって出土 し、律令祭祀に関わる一括資料 として名高い山形県飽海郡八幡町の俵 田遺跡 は、 出羽国府城輪柵 に関わる祭祀遺跡 と考えられているが、 ここか ら出土 した土師器甕形人面墨書土 器 には、体部外面に「磯鬼坐」 という文言が記 されている。「磯鬼」の実態 については明確 に し がたい部分があるが、祭祀・呪術 に際 して鬼神 を神降ろしした ときの「坐」すなわち依代 と解釈 することが可能であ り、土器である甕が、形代であることを示 していよう。 また、同書 に引用する『丹後国風土記』逸文に関わる記事 として、 (前略

)丹

後国与謝郡 レヒ治山の頂 に丼 あ り。其の名 を麻那井 と号す。此所 に居 る神、すなわ ち竹野郡奈具神是な り。(中略

)洒

造天え瓶―口は大神の霊器な り。 とあ り、 ここにみえる「酒造天之瓶」は、大神愛用の醸造の「霊器」であるのか、あるいは大神 が籠 もる「霊器」であるのか、 この文章 を読む限 りにおいては定かではないが、 もし後者の解釈 が成 り立つ とすれば、 ここに見 える「酒造天之瓶」は大神の依代 と解釈できることになる。 また、 いずれにしても「霊器」 として「瓶」が「敬拝 して祭る」対象 となっているわけであ り、 この史 料 も、器が祭祀 0信仰の対象 とされたことを明白に物語る例の一つ として、墨書土器あるいは祭 祀関連土器の機能を考 える上で重要な示唆を与えるもの と言えよう。 さ らにはいわゆる 『神 道五部書』(建保

2(1214)∼

永仁

3年

(1295)成立

)の

一つ である 『豊受皇太神御鎮座本紀』 には、 (前略

)天

平金 を造 り、諸神 を敬い祭るは、宮燿1にノ\十口。柱の下、並びに諸木の本に置 く。 (中略

)諸

神 を納め受ける費器な り。 と「天平釜」が「諸神 を納め受ける賓器」であることが明白に述べ られている。「天平釜」に関 しては、 『古事記』、『日本書紀』神武即位前紀、『住吉大社神代記』の中の「天平翁を奉る本記」などにみ えるところであるが、 この史料では「諸神 を納め受ける宝器」 と明確 に規定 されていることに注 目したい。「諸神 を納め受ける」 とは、まさしく天平釜 を依代 として神 を降ろす ことに他な らない。 『播磨国風土記』託賀郡条には、 (前略

)昔

、丹波 と播磨 と国 を堺 ひ し時、大甕 を此の上に掘 り埋 めて、国の境 とな しき、故 に甕坂 とい、S、。(後略) と、境界祭祀 として甕が埋納 されていることが見て取れる。 また万葉集には、ひもろぎを立て斎 瓶 (いわいべ

)を

掘 り据 えて神 に祈 ると言 う記述が しばしばみ られる。 これ らの史料 に見 える記 述は、神の依代 としての土器の使用方法を明確 に物語るものと言えるだろう。

(12)

千葉県芝 山町の庄 作 遺跡か ら出土 した人面墨書土器 には、「丈部国依甘魚」と記 されてお り、「甘 魚」 とはす なわち「甘菜」、つ ま り「御馳走」 の意であるか ら、土器 に供物 を盛 って神 を饗応 し たという使用法 も一面 として考えるべ きであろう。しかしなが ら饗応 という目的のみにとどまら ず、杯型土器 自体が依代 と考えられるわけだから、供献されたのが空のまま土器であった可能性 も少なくない。 このように、土器は、供物を盛って神霊に供え、神霊を饗応するという意味を有するにとどま らず、食物供献 という目的から発展 し、祭具として、ある時は依代 として、さらには神体 として の機能まで付加 されることさえあったのである。 このような村落祭祀の実体を直接物語るような多文字の墨書土器は、全国の集落遺跡出土の墨 書土器全体の中では、まだ少数であ り、また出土地も、現段階においては、古代の下総国印藩郡 から香取郡 0埴生郡および上総国武射郡にかけての地域一帯に集中してお り、一見すると極めて 特殊な事例であるかに見受けられる。しか しながら、これら多文字墨書土器が出土 した遺跡から これらと共伴 して出土 した墨書・刻書土器の圧倒的多数は、1文 字書 きのごく一般的に見 られる タイプのものである。それら

1文

字書 きの墨書0刻書土器 も、多文字墨書土器 と同様の目的・用 途で使用されたと見てよいだろう。すなわちこうした多文字の墨書土器は、1文 字ないし

2文

字 の墨書・刻書土器の用途・機能をも敷行 して解明することができるような貴重な資料なのである。 2.「住所」が記されるわけ さきにみたように、「形 (方 0召・身

)代

を奉 (進上

)る

」 と言う文言が記 された墨書土器の 多 くには、その土器を供えたとみられる人物の名前ばか りではなく、彼 らの居住する場所が、あ たかも荷札木簡の記載のような書式で、国郡名から記されている。一見すると、租税や貢 ぎもの の納付に関わるかのようである。 しかしながら、これらを捧げる先は、現世の役所ではなく、神 仏あるいは疫神・邪神 0悪霊の類なのであろう。 『日本霊異記』巻中 第

25話

に「閻羅王の使いの鬼の、召 さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁」 という説話がある。 讀岐国山田郡に、布敷臣衣女 とい、S、ひと有 りき。聖武天皇のみ代に、衣女忽に病 を得たりき。 時に、偉 しく百味 を備けて、門の左右に祭 り、疫神に賂ひて饗 しぬ。閻羅工の使いの鬼、来 たりて衣女 を召す。其の鬼、走 り疲れにて、祭 りの食 を見て、おもね りて就 きて受 く。鬼、 衣女に語 りて言は く。「我、汝の饗 を受 くるが故に、汝の恩を報いむ。若 しは同 じ姓同 じ名 の人有 りや」 とい、S、。衣女、答へて言はく、「同 じ国の鵜垂郡に、同 じ姓の衣女有 り」 とい、S、。 鬼、衣女を率て、鵜垂郡の衣女の家に往きて対面 し、印ち緋の嚢よリー尺の彗を出して、額

(13)

に打 ち立 て、RFち召 し将 て去 りぬ。 鉄 略)。 この説話 と墨書土器 の記載 内容 をは じめて関連づ けたのは平川南氏 である。卓見 と言 うべ きで あろう。 この説話 は、讃岐国山田郡に住む布敷臣衣女 という女性が急病 になったので、疫病神 にお供物 を供 えて、 自分の元か ら立ち去って くれるよう祈 ったところ、地獄か ら彼女のことを召 し連れに 来た鬼がそれを御馳走 になって しまい、そのことを恩義に感 じた鬼 は、それに報いるために、 自 分に施 しして くれた女性の命 を助 け、その代わ りに別の所 に住む同姓同名を地獄へ連れていった という内容である。 鬼が賄 を受けた代償 として、同姓同名の人物を身代わ りにした というような説話がつ くられた 背景には、当時の人びとが、何 らかの賄行為 をすれば、神仏 はおろか、疫神・邪神 0悪 霊や地獄 の使いの鬼 に至るまで、必ず何 らかの代償をして くれるもの という発想や、供物や よりしろを捧 げてまつったのが どこに住む誰であることを神 0仏 、 または疫神 0邪 神 0悪 霊や地獄の使 いの鬼 等に対 して示す ことによって、利益 を確実に自分のものにする必要があるとする思想があったか らにほかならない。すなわち、当時の人々の意識では、神仏 に対 して自分 を特定 させることがで きないと、同姓同名の人の元に利益が行って しまうことや、あるいは逆に、同姓同名の人のせい で、思わぬ不利益 をこうむって しまうこともまたあ り得 えたわけである。祭祀に関わる土器 に自 分の住所・姓名などを書 き入れるのは、祭祀の代償 としての利益が、確実に自分の元に受け られ るよう、神仏 に対 してアピールする必要があったか らだ と考えられる。 長野県内では、佐久市の聖原遺跡か ら、僧侶が托鉢の時に携行する容器によく似たスタイルの、

8世

紀後半か ら

9世

紀初頭頃の土師器の内面に「佛」の1文字が、 また外面には「甲斐国山梨郡 大野郷戸□

/乙

作八千

/此

後□佛□為

/八

千体□」 と、国郡郷戸主姓名 と仏に対する願いごとの 文章のようなものが、箆のような工具で文字を刻みつけて記 されたものが出土 している (図

2参

照。佐久市教育委員会 『聖原 (第二分冊)』)。 この土器 自体 は、甲斐国内 (現在の山梨県地域

)で

作 られた土器の特徴が顕著であ り、 甲斐国 か ら信濃に持ち込まれたものであることに間違いない。外面に記 された文章の内容 とも辻複が合 う。今の ところ、国・郡・郷・戸主姓名が記 された多文字墨書刻書土器の、長野県内における唯 一の出土例であるが、残念なが ら、信濃国内で記されたものではないようである。 土器のス タイル自体が、まぎれ もない仏鉢型であ り、 また、「佛」の文字や、「此後□佛□為」 などの文言がみえるので、仏教信仰 に関わるものであることも確実であろう。諸国を巡歴する僧 侶 によって甲斐国か ら持ち込 まれたのか もしれないが、記 されているのが国・郡 0郷 ・戸主姓名 であ り、僧侶の名前そのものではないことなど、この土器が出土 した背景を解明するには、 まだ まだわか らないことが多い。記 された文字の内容 と、 この土器 を持っていたと考えられる僧侶 と の関係 についても不明である。記 された国 0郡 0郷 :戸 主姓名は、僧侶 にこの仏鉢 を寄進 した人

(14)

物 なのだろうか。いずれにして も、今後、類例や出土遺跡一帯の歴史を考慮 しなが ら、研究 を進 めてい く必要があ りそうである。 ただ、 この佐久市聖原遺跡出土の仏鉢型土器に、国・郡 0戸 主姓名が記 されているのは、それ を書いた人物が 自分のことを仏 に対 して明示することによって、仏縁 を結んだ り、あるいは仏の 守護や利益 を期 してのことであったと考 えられる。 3.墨 書土器 に記 された独特 な字形の文字 ―則天文字 を記 した墨書・刻書土器 近年、全 国的に、則天文字が記 された墨書土器 の出土例が増加 してお り、東 国出土の墨書土器 の中で も特徴的な例 として注 目されるようになっている。 則天文字 とは中国・唐時代 の女帝 0武則天 (武照、則 天武后、聖神皇帝、624∼ 705、 在位 690∼

705)が

制定 した独特の文字群である。武則天は、唐朝第

3代

の皇帝 0高 宗 (李治

)の

皇 后で、病弱な夫に代わって政治の実権 を握っていた。夫帝の死後は、帝位 を継いだ子供たちを次々 に廃 してみずか ら帝位 に就いて国号 を「周」 と改め、新王朝 を創始 した、中国史上、空前絶後の 女帝である。その武則天が、載初元年 (690)│こ、新 しい王朝 を開いたことを象徴す る意味を込 めて、独 自の新 しい文字を創製 させ、従来か らある文字の代わ りに使用を命 じたものである。中 国では、古来 より、文字や字体の制定は、絶対権力者のみに許 された専権事項であった。 この則天文字が何文字作 られたかは、実際のところあま り明確ではないが、現在確認 されてい るのは17文字である (図

2参

照)。 天・地 0人 0日 0月 などの重要な概念 を示す文字のほか、皇 帝に関わる文字や、年号や詔勅・公文書などで頻繁に使用 される文字が多い。 自らが制定 した新 しい文字 を使用 させることによって、最高の権力者 となった自分の権威 を天下に示 したわけであ る。「一」 と「忠」 をあわせて「一忠」(臣)、 一生 と書いて「一生」(人)、 「山」・「水」0「土」 を あわせて「山水土」(地

)な

ど、ほとん どの字が、既存の漢字の偏や労 を合成 して意味を持たせ て創作 したものである。 この則天文字は、武則天治政下にあっては、その強大な権力 によって強制 されたため、社会に もある程度定着 したようである。ただ、彼女の死後、中国では直ちに使用が禁止 されたのだが、 けいうん わが国で は後世 まで使用 された文字 もある。わが国へ の則 天文字の伝来 は、正倉 院宝物 の慶雲 4 年 (707)書写の 『王勃詩序』 に「天」・「山水土」 な どの文字が用い られている ところか ら見 て、 大宝 の遣唐使 (慶雲元 0704年帰 国

)に

よって もた らされた もの との見方があるも また、養老律 の写本 に もみ えるので、やは り奈 良時代初期 に唐律 の写本 によって伝 え られた とみ られる。 これ 以降、一部の文字の使用例 は、中 0近 世 にまで及 んでいる。 以上 の点 をみて も、 この則天文字が、 わが国内においてかな り広 く伝来 していた ことが わか る

(15)

のだが、その ことを裏付 けるのが、近年、各地で出土例が増 えつつある、則天文字が記 された墨 書土器 である。現在 までの ところ秋 田県か ら鹿児 島県 まで、全 国約70箇所 の遺跡 か ら200点以 上が出土 している。 ただ し、刻書土器 の方 は、現在 までの ところ、 わずか

3点

に過 ぎない。 則天文字が記 された墨書土器の出土遺跡の性格 や出土状況、記 されている文字の数、記 されて いる土器の器種、文字が記 されている場所 ・位置 0方 向な どは、他の一般的な文字が記 された墨 書 。刻書土器 と比べ て特 に きわだった特色があるわけではない。 また、 ほ とん どが1文字 のみの 記載である。 この点 もわが国の古代 の墨書土器 の一般的特徴 と共通す る点であ り、則天文字 の墨 書土器 のみが特別の用 途や 目的があって、特殊 な状況の下 に使用 された とい うわけではな く、一 般的な墨書土器 と同 じ範疇で捉 えることがで きる。墨書土器 の例か らみれば、「天」(天)0「千 山」 (正)。「一生」(人

)な

どは則天文字17文字 中で も比較 白,よ く普及 していた文字 と言 うこ とが 出 来 るだろ う。 また、一つの遺跡か ら複数種類の則天文字が出土する例はまれで、おおむね一つの遺跡か らは 同一の文字が出土 している。地方においては則天文字の数種類が群 として伝 わっているのではな く、そのなかの数文字がほとんど単発的に伝来 しているに過 ぎないのだろう。 則天文字が地方社会 にもた らされたルー トとしては、い く通 りかが考えられる。 まず、一つに は武則天治世下の中国で作成された経典には則天文字が多数使用 されていたか ら、唐か ら請来さ れた経典 を写経 してい く過程で、則天文字 も経文 とともに寺院や僧侶 を媒介 として各地に広 まっ ていったと考えられる。これと同様 に、仏典の音や文字の注釈書や字書の類か ら参照 される場合 もあったであろう。 また、第2のルー トとしては、先にも述べたように養老律の写本に則天文字 がみえることか ら考えれば、地方の役所 とそこに出入 りする人々を経由しての伝播 というルー ト も想定できるところであろう。また、 これは全 くの想像であるが、早 くも奈良時代 に東国の村落 にまで出現 しているところか らみれば、第3のルー トとして渡来人あるいはその子孫たちによる ダイレク トな流入 といったケース も考 えてお くべ きかも知れない。 武則天は、人一倍文字に神秘 を感 じていたふ しがあるせいか、則天文字は従来の字形 よ り画数 が多 く、装飾的かつ示威的であ り、一種の妖 しささえ漂わせている。文字 自身に呪的な魔力や権 威が付帯 されていたとみ られる古代社会においては、則天文字のような特殊な字形 こそ、吉祥句 や呪句 としてはより効果的であったとみ られよう。 また、同様に、 日常的には使われることのな い象書体の字が記された墨書土器についても、古めか しい異形の文字 として採用 されたと考えら れる。 実際、わが国古代の辞書や字書では、則天文字 も象書体の字形の一つ として採録 されているケー スが多い。則天文字 というグループで認識 されていたわけではな く、あ くまでも古様の家書体の 一字形 として捉えられていたのである。それにしてもこのような特殊な文字が、早い時期か ら地 方の村落で も用い られたという、その急速な伝播 0浸透には驚嘆の念 を禁 じ得 ない ところである。

(16)

長野県内で も、い くつか則天文字 とおぼ しき字形が記 された墨書土器が出土 している。 また、 松本市の下神遺跡では、中央 自動車道の建設に伴 う発掘調査 において、「而」 と記 された墨書土 器が50点以上 も出土 している (図

2参

照。

0長

野県埋蔵文化財セ ンター『中央 自動車道長野線 埋蔵文化財発掘調査報告書

6-松

本市内 その

3-下

神遺跡』1991)。 これなどは、字形その も のか らは、 まぎれ もな く「而」 とい う文字 としか考 えに くいが、「而」 という文字 自体 にさほ ど の意味がない ということや、全国における墨書土器の類例がほとんどないことか ら考えるな らば、 これは則天文字の「天」 という文字 を記 したもの と考えるべ きなのか もしれない (平川南「下神 遺跡出土の墨書土器について」同報告書)。 また、 この遺跡か らは、則天文字に非常によく似た特徴的な字形のものが243点 も出土 してい る (図

2参

照)。 この字形 については、そのままみる限 り、既存のいかなる文字の字形 ともまっ た く異 なってお り、釈読することが不可能 とされて きた。ただ、則天文字 との字形の類似か ら、 関連性やそのヴァリエーションとする見方が従来は強かった。 しか しなが ら象書体の「万」 とい う文字 と「主」 という文字 との組み合わせ文字 として解釈することが可能なのではないだろうか。 「万」 と「主」の組み合わせで、意味はよくはわか らないが、「万」 も「主」 も、各地における墨 書土器の類例 としては非常にポピュラーな文字であ り、墨書土器に記 された文字 として、 まった く不 自然ではない。墨書土器に非常に多い、一種の吉祥句的な文字でもある。 一見、荒唐無稽 に見 えるような字形であった として も、それを書いた古代の人びとの側 には、 何 らかの意味やメッセージが込め られているわけであ り、意味のない文字や記号が記 されること はあ り得ない。則天文字、象書体、草書体、異体文字、梵字など、さまざまな字形 を想定 しなが ら、 文字を解読 し、それを記 した人びとがそこに込めた願いや意図を解明 してい くことが肝要 なのだ。 おわりに それぞれの墨書土器1点 1点はあまりにも断片的であ り、それだけでは何 を意味するのかわか らない場合 も少な くない。 しか しなが ら多 くの例 を積み重ね、単に文字面だけでな く、文字が書 かれている遺物の形や大 きさ、出土状況、文字がある位置・方向などのデータを含めた総合的な 検討を経ることによって、そこに込め られた歴史情報 を最大限に引 き出すことが重要なのである。 そうすれば、いずれ、あたか もクロスワー ド0パ ズルを解 くように、地域の歴史像 を解明するこ とが可能 となって くるか もしれない。 往 々にして、土中か ら次々と発見 される出土文字資料か らは、直ちに新 しい情報や見解が得 ら れるかのように錯覚 して しまうことがある。確かに、各種 の出土文字資料か らは、 日新 しい、 こ れまでの史料 とは異なった、あるいは既存の史料か らは得難い情報を引 き出すことが可能であ り、

(17)

そ こに出土文字資料研 究の大 きな魅力があることは否定で きない。 しか しなが ら、既存 の文献史 料 によって緻密 に構 築 されて きた これ までの研 究成果 と無 関係 に、 出土文字資料か ら新 しい情報 が読み とれる訳 はない し、 また各種 の出土文字資料 の発見 によって得 られた新知見 をもとにす る ことで、既存 の文献史料 の読み方や解釈 が変 わる とか、新 しい解釈 の可能性が生 まれた りす るわ けである。つ ま り、 出土文字資料 と既存 の文献史料、それぞれに記 された内容 を照合 し、検討 し なが ら、それぞれ を読 み直す ことによって、相互 を補完 してい くことにこそ、 出土文字資料 を調 査 0研 究す る意義があ るのだ。 よ く知 られている とお り、古代史の史料 は非常 に限 られてお り

tと

くに古代 の地域史 に関す る 史料 となると、都 に上 申された何 らかの報告書類 で、た また ま彼 の地で残 った ものか、あ るいは 都 の人 々、中で も貴族 階級 の 目を通 して語 られた もの しかない と言 うのが現状 である。それ に対 して地中か ら続 々 と発見 される文字資料 は、地域社会 に根 ざした生 の史料 であ り、既存 の史料 で は明 らか に しえない地域の古代史像や古代社会 の深層 に迫 りうる最大かつ最良の史料 とい えるだ ろう。 しか も、それ らは全 国各地 の土 中に、 まだ まだ無尽蔵 といえる くらいの量が眠ってい るは ずである。 これか ら発見 される資料か ら、 どんなあた らしい歴史の事実 を解 明で きるのか、そ う 考 えるだけで胸が躍 るではないか。 (参考文献) 岡田正彦 「墨書 ・刻書土器小考 一長野県下出土例 を中心 として 一」(『信濃』25-4 1973) 桐原 健 「ネ申儀 を盛 る土器 0家神 を祀 る土器」(『信濃』31-1 1976) 上 田市立信濃 国分寺資料館編 『信濃 出土の土器 に書かれた文字』 1986 金原 正 「長野県 内の古代集落遺跡 と墨書土器」(『信濃』43-4 1991) 平川 南 『墨書土器の研究』 吉川弘文館

2000

神村 透 「木 曽の墨書土器」(『伊勢湾考古』15 2001) 佐藤 信 『出土史料 の古代史』 東京大学出版会

2002

平野 修 「長野県佐久市聖原遺跡出土の甲斐型土器 について」(『山梨県史だ よ り』

27 2004)

笹生 衛 『村落 と村景観の考古学 一地域環境の変化 と信仰の視点か ら一』 弘文堂

2005

荒井秀規 「神 に捧 げ られた土器」(平川南 0沖 森卓也 0栄 原永遠男・ 山中章編 『文字 と古代 日本

4

神仏 と文字』 吉川弘文館 2005) 高島英之 『古代 出土文字資料の研究』東京堂出版

2000

高島英之 『古代東国地域史 と出土文字資料』東京堂出版

2006

(18)

1

祭祀 に関わる内容 が記 された墨書土器 (図

1参

照) 遺 跡 名 墨書土器名 ・部位 。方向 釈 文 福島県いわき市荒田目条里遺跡 土師器杯体部外面正位 「磐城郡

/磐

城郷

/丈

部手子麿

/召

代 × 9 “ 千 葉 県 芝 山 町 庄 作 遺 跡 土師器杯 (8C前)底部外面 「看畳ネ申」 9 0 土自雨署予存 (9C言市)底部内面/体部外面正位「丈部真

/次

召代

/国

/奉

」 4 // 土師器瓶 (9C前)胴部外面正位 「罪ム国玉神奉」 5 // 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「上総□・秋人歳神奉進」 6 // 土師器杯(9C前 )底部内面/底部外面「国玉神奉」

/「

手」 7 ク 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「夫□□女奉」 8 土師器杯 (9C前)底部外面/体部外面倒位「#」

/「

仏酒」 9 千葉県八千代市権現後遺跡 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「村神郷丈部国依甘魚」 10 千葉県八千代市北海道遺跡 土師器杯(8C中 )体部外面横位 「丈部人足召代」 土師器杯(8C中 )体部外面横位 「丈部乙刀自女形代」 12 千葉県八千代市白幡前遺跡 土師器瓶 (8C後)体部外面横位 「罪司進上代」 つ J 千葉県富里町久能高野遺跡 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「丈尼」

/「

丈尼」

/「

丈部山城方代奉」 14 千葉県印西市鳴神 山遺跡 土師器杯 (8C後)体部内面横位 「同□□丈部刀自女召代進上」 15 土師器瓶 (8C後)体部外面正位 「国玉神上奉

/丈

部′島万呂」 16 土師器瓶(9C前 )体部外面横位 「大国玉神□× 17 // 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「□□□□□命替神奉」 18 土師器杯(9C前 )体部外面横位 「□□□□□命替神奉」 (文献

)1 0い

わ き市教育文化財 団 『荒田 目条里遺跡 出土木簡略報』1996

2∼

8

小 原子遺跡群調査会 『小原子遺跡群』1990

9 0千

葉県文化財 セ ンター 『八千代市権現後遺跡』1984 10∼

11 0千

葉県文化財 セ ンター 『八千代市北海道遺跡』1985

12 0千

葉県文化財 セ ンター 『八千代市 白幡前遺跡』1991

13 0印

謄郡市文化財 セ ンター 『久能高野遺跡』1988 14∼

18 0千

葉県文化財 セ ンター 『印西市成神 山遺跡』 Ⅳ

2005

(19)

キ鶏た

l

5

´ ヽ ノ iち

1

祭祀 に関わる内容が記 された墨書土器

一糾

ご一

(20)

山 形 …道 伝 遺 跡 ︵ 布 目 潮 諷 。 栗 原 益 男 ﹃ 中 国 の 歴 史 4   隋 唐 帝 国 ﹄ 講 談 社 、 昭 和 56 年 ︶ 跡 遺 一 原

o 一 爪 ∩

∽・ 

  

  

  

τ

神奈川 1.佐久市聖原遺跡出土刻書土器 2.則天文字一覧表 (布目潮汎・栗原益男 『中国の歴史4 3.則天文字 「而」 を記 した墨書土器の例 4.5.松本市下神遺跡出土墨書土器 6.柏書房刊 『異体字解読字典』 より「万」の項 7.神奈川県海老名市本郷向原遺跡出土墨書土器 図 2 隋唐帝国』 よ り)

Jl ttj IE I[ ム!. 1也

福島・ 御山千軒遺跡

(21)

漢 字 の 始 ま りと伝 来

漢字の起源 漢字は中国で古代か ら使用 され、 日本 に伝 えられて表記の中心 となった文字である。漢字伝 来以前 の日本 には文字が無 く、漢字の伝来によってはじめて表記が可能となった。漢字の起源は、紀元前15 世紀か ら前 1060年 頃まで中国の華北 を支配 した殷王朝で使用 された甲骨文字 とされている。甲骨文 字は神か らの託宣 (神に祈 って受けたおつげ

)を

得 るために亀 甲や牛骨 を用いて占いをし、そこに占 いの内容、結果が刻書 されている。河南省安陽市 に所在する殷王朝後半の王者5であった殷墟か らは、 彩 しい数の甲骨文字が発見 され、約三千種 の漢字 を用いて占いの記録が残 されている。漢字 の造字 法は、ほとんどこの殷 の末期には完成 したとみ られている。(文献1) しゅう 殷 を減ぼ した周王朝 は殷の甲骨文字 を引 き継 いで文書 を作成 し、漢字で官職や機構 の名称 を定め ている。紀元前770年か ら前 403年 の春秋時代 には大象 (だいてん

)の

書体 の漢字が使 われた。 こ の頃には青銅器の外側の目立つ位置に象嵌で文字が記 され、神の読む文字か ら人間に読 ませるための 文字へ変化 したとみ られている。(文献

2)紀

元前

6世

紀頃か ら漢字は読書人である士の教養 の基礎 となり、思想家である諸子百家が漢字によってその論説 を記 している。紀元前 221年 には、秦 の始皇 帝が小象 (しようてん

)の

書体 に漢字を統一 した。始皇帝は度量衡の統一 も行い、漢字が政治の道具 として使用 され、不特定多数の人間を対象 に漢字が使用 されたと考えられている。 こうして中国で発達 した漢字文化 を背景 にして、紀元前 108年 、漢の武帝による楽浪郡、玄菟郡、 臨屯郡、真番郡の

4郡

の設置以降、朝鮮半島にも中国か らの漢字文化 の流入が進行 した。韓 国昌原 の紀元前1世紀 の茶戸里遺跡か らは、筆が

5本

、木簡 に記 した文字 などを訂正す る際に木簡 を削っ た鉄製環頭刀子が出土 した。こうした文房具の筆、墨、硯などは中国ですでに盛んに使用されており、 朝鮮半島でも文房具が使用されていたことを示 している。こうした文房具を用いた漢字の使用は中国 人や中国から渡来 した人々によって担われていたとみられている。 日本への漢字の伝来 紀元前1世紀の頃か ら中国の史書に倭人が登場 し、漢字文化の中心の中国との交流があったこと が推測される。中国との交流には漢文の文書が必要で、外交文書や金印の形で漢文や漢字が伝来し たとみられている。現在、最古の文字資料 としては

2世

紀前半とされる三重県安濃町大城遺跡出土の 刻書土器「奉」、三重県松阪市片部貝蔵遺跡の

2世

紀終末とされる「田」の墨書土器、福岡県前原市 三雲遺跡出土の

3世

紀中葉とされる甕の線刻「克」、長野県木島平村根塚遺跡出土の3世紀後半 とさ れる「大」の刻書土器、三重県松阪市片部遺跡出土の

4世

紀初頭 とされる「田」の墨書土器 (文献

3)な

どが知られている。こうした漢字はいずれも記号的に使用されたとみられている。5世紀にはい ると中葉の千葉県市原市稲荷台1号古墳出土鉄剣銘、後半の埼玉県行田市稲荷山古墳出土鉄剣銘な どがあり、漢字の文章が記され、漢字に依拠 した日本語表記の萌芽がみられるとされている。(文献4)

(22)

弥生 時代 か ら古墳 時代 の文 字資料

1

木島平村根塚遺跡出土 「大」字様刻文のある土器片 長野県北部の下高井郡木島平村に所在する根塚遺跡は、平成

7年

度から11年 度にかけて

5次

にわた る発掘調査が実施され、縄文時代から中世にかかわる多くの遺構と遺物が検出された。遺跡は平坦な水 田面のほぼ中央部に位置する東西105m、 南北58m、 水田面からの高さ約

10mの

根塚丘陵と呼ばれる 小丘上にあるが、とくに弥生後期にはこの丘陵全域が墓域としての性格を帯びていることが確認された。 発見された遺構は、「根塚弥生墳丘墓」と名付けられた弥生後期の円形墳丘墓があるが、この墳丘墓 の墳頂部に埋葬された木棺内から舶載鉄剣一振 りと多量のガラス小玉・管玉類が検出された。また、こ の木棺を囲むように弥生後期の土器類が出土している。さらに別地区からも

2本

の鉄剣が発見されたが、 とくに3箇所に渦巻文を有する「渦巻文装飾付鉄剣」が注目される。この渦巻文装飾の文様構成や鉄素 材の成分分析などから、発見された

3本

の鉄剣はいずれも朝鮮半島製であることが確認された。(文献5) このような弥生期の遺構・遺物のほかに、弥生後期の土器に「大」という文字様の刻文が施された土 器片3点が、円形墳丘墓内あるいは墳丘に貼石を施したその下部あたりから発見され、その特異な筆順 から、これらも朝鮮半島に関係ある資料であろうという想定がなされている。 その一つは、焼成前に器内面の底部に近い部分にヘラ状工具で鋭利に線刻したもので、おぼろげな がら「大」と判読できる土器である。その二は、焼成後に器外面にヘラで線刻したもので、やはり「大」 の文字とみられ、第三画目の筆順が右から左となっていることが注意される。このことは平成 10年 度の 第

3次

調査で確認された「大」字様刻文土器も同様な筆順であることが分かった。この刻書土器は、弥 生後期の壺形土器かあるいは無頚壺の肩部の部分に、やはり「大」の文字が焼成後線刻で描かれて、 その筆順が朝鮮半島南部の伽耶地域の5∼

6世

紀の刻書土器に類似性があるということで、検出された 鉄剣とともに朝鮮半島との関連性が指摘されている。 「大」字様刻文のある土器片 (刻文は

3世

紀後半に推定されている)

(23)

根塚遺跡全景 (第

5次

調査)

根塚遺跡 円形墳丘墓 (第

5次

調査)

(24)

根塚遺跡 円形周溝墓 (中央部 は木棺墓)

(25)

2

二重県松阪市片部遺跡出土の墨書土器 平成

7年

12月、三重県松阪市 (旧嬉野町

)の

片部遺跡か ら出土 した小型丸底土器の口縁上端 部に、

4世

紀初頭 とされる「田」の墨書が発見 され、広 く注 目された。当時は日本最古の文字 と して、報道機関を通 じて全国に報道された。 この墨書土器は大規模 な溝内部の堰のそばか ら短期 間に埋 まった土器約20点 と共に出土 し、1点だけ墨書が認め られた。「田」は筆墨で書かれ、筆 順か らも国内で作 られた土器 に国内で書かれたもの と考えられている。(文献3) 平成

9年

には片部貝蔵遺跡か ら「い」の字状墨書土器や朱線 を記 した土器片、人面 (鬼面

)を

墨描 した壷形土器が発見 され、

3世

紀初頭 に位置付 け られた。平成11年には、同 じ片部貝蔵遺 跡か ら

2世

紀終末に位置付 けられる弥生土器の壺の胴上部に、「田」の文字が墨書 された土器が 発見され、現在最古の墨書土器の一つ とされている。 さらにこの片部貝蔵遺跡 と津市 をへだてた北側にある安濃町大城遺跡の弥生時代の住居跡柱穴 か ら、

2世

紀前半の高不脚部の破片で、「奉」の文字が刻書 された土器が出土 した。 この住居跡 の上部には古墳が築造 されてお り、

2世

紀前半の刻書土器 と位置付けられている。 このあた りは 伊勢津 (いせのつ

)の

前身である安濃津 (あのうのつ

)と

呼ばれる特 に大 きな港が古代 にはあ り、 大阪の難波津 (なにわのつ)、 福井の敦賀津 (つるがのつ)、 福岡の灘津 (なのつ

)と

ともに国家 が管理する「大津」 とされていた。 こうした大津には中国大陸や朝鮮半島か らの渡来人が訪れ、物資、文化、情報などがいち早 く もたらされたとみ られている。 こうした港 を管理する人々も早 くか ら文字を使用 した渡来系氏族 であった と推測 されている。ただ し、これ らの弥生時代か ら古墳時代の遺跡 より出土 した刻書土 器や墨書土器の漢字は一字のみであ り、いずれも記号のようにして用い られた と考えられている。 片部遺跡出土墨書土器「田」(4C初 頭 。松阪市教育委員会写真提供)

(26)

前頁の墨書土器「田」の拡大写真

片部員蔵遺跡 出土墨書土器 「田」

(27)

古代 の役 所 や 国分 寺 で使 用 され た文 字 資 料

古代の役所跡 とみ られる千曲市屋代遺跡群 (埴科郡衛跡や初期の信濃国府跡の推定地

)出

土木 簡や飯田市恒川遺跡群 (伊那郡衛跡の推定地

)出

土の「厨」や「美濃」の文字資料、また古代の 信濃の国分寺跡である信濃国分寺跡出土文字瓦や刻書土器などについて、次に紹介 してみたい。

1

千曲市屋代遺跡群出土木簡 千曲市屋代の屋代遺跡群 は、千曲川中流域の右岸の自然堤防上に位置 している。平成

6年

、上 信越 自動車道の建設事業に伴なう屋代遺跡群⑥区の調査が長野県埋蔵文化財センターによって実 施 され、126点を数える木簡や多数の木製祭祀具が出土 し、

7世

紀後半か ら

8世

紀前半の官衛 的 な配置をもつ建物群が検出された。こうした調査成果か ら遺跡群周辺に、埴科郡衛跡や初期の信 濃国府跡が推定されている。出土 した多数の木簡の中には信濃国司が更科郡司等にあてて発給 し た「国符木簡」が含 まれていた。 この国符木簡は信濃国司の命令が更科郡 に出され、そこか ら水 内郡―高井郡―埴科郡へ と順次送 られて、最終的に埴科郡の屋代遺跡群で廃棄 されたと考 えられ ている。この最終の廃棄地は埴科郡衛か、発給元の信濃国府 と推測されている。(文献6・ 7) また埴科郡司が屋代郷長・里正 に対 して、郡衛で行 う神事のために「敷席」(し きむ しろ

)や

人夫などの調達を命 じた「郡符木簡」があ り、郡郷里制下の西暦715年か ら740年の間に出され た木簡 と考 えられている。 さらに松本地方 を示す「束間郡」(つかまぐん 。筑摩郡

)と

記 された 木簡 も見つか り、郡衛 間の交流や郡の上に立つ国府的機能の存在が推測 されている。

7世

紀末か ら

8世

紀初頭 までの初期国府については、国司は独立 した庁舎 を持たず拠点的な郡衛 に駐在 した り、諸郡衛 を巡回 して任務 を行っていた とも考 えられている。(文献

8)屋

代遺跡群の初期国府 については、今後の調査・研究の重要な課題 とされている。

126点

にの ばる木簡 が出土 した屋代遺跡群 の調査 (長野県立歴史館写真提供)

(28)

0

5cm

l

郡符木 簡 (屋代木簡

114号

) 埴科郡 司が屋代郷長・里正等 に対 して、郡 衛 で行 う神事の ために敷席 (しきむ しろ)。 鱒 (ます)・ 芹 (せ り

)な

どや人夫 の調達 を命 じた命 令 書。 郡郷 里 制 下 (715年∼

740年 )の

木簡 とみ られている。 (長野県立歴史館所蔵) 国符木 簡 (屋代木簡

15号

) 信濃 国司が更科郡司等 に対 して発給 した命 令書。命令 の内容 は欠損 していて不明 であ るが、国司の命令 である国符 に木簡 を使用 した例 と しては全国初 の出土。 出土層位 か ら

8世

紀前葉の資料 とされている。 (長野県立歴史館所蔵) □ 物 令 火 急 召 □ □ 者 宜 行 敷 席 二 枚   鱒 □ 升   芹 □ 符   屋 代 郷 長 里 正 等   匠 丁 根 代 布 五 □ ︿マ こ ^勘 夫 一 人 馬 十 二 疋 ︵芭 □ 宮 室 造 人 夫 又 殿 造 人 十 人 ︹ 出 ︺ ︵致 ︺ 名 符   更 科 郡 司 等   可 □ 口 H ﹁ ﹃   冒 ∠ □ ¥ ∠ 聯 色 ‘ Y 熙 同 国 □ ﹄ .         ﹃   □ ∠ Y ¥ ‘ Y 熙 □ ﹄

(29)

2

飯 田市恒川 遺跡群 出土文字資料 飯 田市 の恒川 (ごんが

)遺

跡群 は飯 田市座光寺 に所在 し、 田中倉垣外 。恒川A・ 恒川B・ 阿弥 陀垣外 。新屋敷 。薬 師垣外 の各遺跡 で構 成 されて いる。 昭和52年には国道153号座光寺 バ イパ ス建設工事 に伴 なって発掘調査が実施 され、 田中倉垣外地籍か ら大型 の掘立柱建物跡

3棟

が ほぼ 南北方 向に主軸 をそ ろ えて発 見 された。 この地域 は以前 か ら伊那郡衛跡 の推 定地 とされてお り、 特 に注 目された。 これ以降、大型 の掘立柱建物跡 は各所か ら出土 してお り、官衛的な建物跡 とみ られている。 これ らの建物跡 は総柱 の建物が少 な く、側柱 の建物が多 い ことが特徴的であ る。 恒 川遺跡群 か らは40点 を超 える須恵器の円面硯 (えんめんけん

)が

発見 され、郡 の役所 で使 用 された可 能性 が考 え られている。 また皇朝十二銭 の一つである「和 同開称」(わ どうかいちん) の銀銭が出土 して注 目された。 この「和 同開称」銀銭 は発行の翌年の709年には銀銭禁止令が出 された数が少 ない貴重 な資料であ り、郡司な どの役人の所有物 と推測 されている。 墨書土器 では

9世

紀 後葉 の灰釉 陶器不 の高台部 に、墨書 の「厨」(く りや)カミ記 された資料が 薬師垣外遺跡の溝跡 か ら出土 してお り、郡衛 の食物 を調理す る厨 房 (ち ゅうぼ う

)を

示す墨書 と み られてい る。 また

8世

紀前半 に美濃 国で焼 成 された刻印須恵器 の「美濃」が出土 した。 これは 美濃 国の官窯である岐阜市の老洞古窯跡群 (おいぼ らこようせ きぐん

)で

焼成 された須恵器 を示 す刻 印の「美濃」が押 されてお り、役 人な どが持 ち込んだ もの とみ られている。 さらに役 人が朱 書 きに使用 した朱墨 を溶いたパ レッ トとみ られ る、朱墨の付着 した灰釉 陶器の底の高台部が出土 した。 この ように伊那郡衛跡 とされる恒川遺跡群か らは、墨書土器や刻印須恵器、大量の硯 な ど が 出土 し、古代の役所 と文字 との関係 を示す貴重 な資料が発見 されている。(文献9・ 10) 恒川遺跡群 出土 の大型 の掘立柱建物跡

(30)

墨書土器 「厨」(く りや) 郡衛の食物 を調理する台所 を 示 した墨書 とみ られる。 刻印須恵器 「美濃」 美濃国の官窯の岐阜市老洞古窯跡 群で焼成 された須恵器 を表 わす。 朱墨パ レッ ト 朱書 きに用 いた朱墨 をといた パ レッ ト。灰釉陶器 の底の高 台部 を転用 している。 朱書 きは税金 を納入する際に、 数量 と帳簿 を照合 するために 用 い られた と推測 される。 円面硯 (古代 の役所 。寺院 などで使用 された)

(31)

3

上 田市信濃国分寺跡出土文字瓦 と刻書土器 信濃 国分寺跡 は上 田市 国分字仁王堂、字明神前 を中心 に所在 している。昭和38年か ら46年ま で

8次

に渡 る発掘調査が行われ、僧寺跡、尼寺跡のほぼ全容が解明 されている。 この信濃 国分寺 跡 で は、焼成前 にヘ ラで文字が平瓦 に刻書 された「文字瓦」が出土 し、注 目された。

8世

紀後半 の尼寺金堂跡か らは文字瓦「伊」が出土 し、平安時代初期の国分寺 1号瓦窯跡 か らは文字瓦「更」 が出土 してい る。(文献

11)そ

れぞれ「伊那」、「更級」 の郡名 を示 し、武蔵国分寺跡 出土 郡名文 字瓦 な どの事例か ら各郡が税制の負担体系 に基づ き、瓦 を生産す る瓦屋 (がお く

)に

直接 発注 し て経費負担 を した ことを示す もの とみ られている。(文献12)ま た国司か らの命令 な どで郡が仏 教的作善行為である知識 として瓦 を寄進 した こ とを示す もの ともみ られている。(文献13) 平 成12年、14年 に実施 された信濃 国分寺跡僧寺北東域 の調査 で は、「佐久」、「大」、「 井」 と 刻書 された須恵器が 出土 した。(文献

14)こ

の うち「佐久」 は佐久郡 を示す とみ られ、

8世

紀後 半 か ら

9世

紀 前葉 にか けての須恵器 に刻 書 されていた。 また11世紀 の土 師器 の羽釜 (はが ま) 上部 に「上」 の刻書がある資料が出土 した。 さ らに平成18年に実施 された僧寺西 門跡付近の調 査 で出土 した

8世

紀 後半の平瓦 (縦 11.Ocm、 横 11.3cmで 、凸面 は斜状平行叩 き目、 凹面 は布 目 痕が残存)の凹面 に、「七九六十三」と九九算 とみ られる刻書があることが平成19年に確認 された。 九九 は中国か ら奈良時代以前 にわが国に入 って きた とみ られ、万葉集 にも「十六」 と記 して「 し し」 と読 ませ る箇所が ある。 この文字 は比較 的熟達 した もので筆順 も現在 と同 じであ り、文字の 意味 を理解 して九九算 を焼成前 に刻書 した可能性が考 え られる。 こうした九九算 を記 した資料 と して は、平城宮跡 。平城京跡や藤原宮跡出土の木簡がある。 また千 曲市屋代遺跡群出土木簡に も

3点

九九算 を記 した木簡が出土 し、いずれ も習書 した もの とみ られている。 信濃 国分寺金堂跡北側雨落溝遺構の調査状況

(32)

文字瓦「伊」 文字瓦「伊」 実測 図 文字瓦「更」 刻書土器「佐久」 僧寺跡 出土 円面硯 九九算の文字瓦「七九六十三」

(33)

県 内 出土 の墨 書 土器・ 刻 書 土器・ 古代 印

1

南信地方の遺跡 出土の文字資料 (1)飯田市恒川遺跡群 恒川遺跡群で は、前述 した「厨」の墨書土器 の他 に、 跡群新屋敷遺跡 の溝 か らは「信」 の墨書土器が 出土 し、 てい る。 また新屋敷遺跡の須恵器 に刻書 された「上」 も が

9世

紀代 とみ られている。(文献10) 多数の墨書 土器が出土 している。恒川遺 比較的古い

8世

紀前半 の墨書土器 とされ

8世

紀代、その他 の墨書土器 はほ とん ど 「六?十」 「万1?」

(34)

「官?」 「未か本?」 「大田?」 「国か同?」 (この墨書土器のみ堂垣外遺跡出土) 飯 田市恒川遺跡群 出土墨書・刻書土器 刻書須恵器「上」

(35)

(2)箕輪町中道遺跡 箕輪 町の中道遺跡 は、 中箕輸大 出の天竜川西方の扇状地 に所在 し、南側 には深沢川が東流 して い る。 中央 自動車道建設工事 に先立つ昭和

48年

の発掘調査 によ り、奈 良・平安 時代 の竪 穴住居 跡

69棟

、掘立柱建物 跡

31棟

、土坑18基な どが発見 された。出土遺物 は多量 の土 師器・須恵器 や奈良三彩小壺、灰釉 陶器、刀子、鎌、馬具 な どが出土 した。 こうした多数の遺構・遺物か ら、『倭 名類衆砂』(わみ ょうるい じゅしょう

)に

記 された郷や東 山道の駅家 (う まや)、 古代 の牧 な どと の関係が推測 されている。(文献15) 中道遺跡 か ら出土 した文字 資料 は、墨書土器が「宮見」、「三合」、「□五」、「石」、「見」、「玉」 な どで、深沢川 をはさんだ対岸 の堂地遺跡か らも「豊足」の墨書土器が発見 された。 この うち「三 合」 は須恵器 の杯 に墨書 され、量 をはか る升 として用 い られた可 能性 が考 え られてい る。(文献 16)ま た堂地遺跡 の「豊足」 は、土器 を所有す る者の名前 を記 した もの とみ られている。 「三合」 箕輪町中道遺跡 出土墨書土器

1警

が ず

(36)

中道遺跡 出土墨書土器 「豊足」 (箕輪町堂地遺跡出土) (3)諏訪市十二ノ后遺跡 諏訪市の十二ノ后 (じゅうにの き

)遺

跡 は、豊田有賀の中沢川西側の扇状地に所在 している。 中央 自動車道建設工事 に先立つ昭和49年、50年の発掘調査により、縄文時代か ら平安時代 まで の遺構が検出された。特 に奈良時代の竪穴住居跡11棟、平安時代の竪穴住居跡

48棟

などが発見 された。出土遺物 は土師器 。須恵器 。灰釉陶器 。鉄鏃・刀子・鎌 。馬具などの大量の遺物が出土 した。 この遺跡のある有賀峠口付近は、千鹿頭社 (ちか とうしゃ

)遺

跡、金鋳場 (かないば

)遺

跡、女帝垣外 (じ よていがい と

)遺

跡などの古代の遺跡が続 き、古代か ら交通の要所 として繁栄 していたと考えられている。(文献17) 十二ノ后遺跡か ら出土 した文字資料は、墨書土器が「中」、「万」、「施」、「供」、「神」、「嶋」、「本」、 「長」、「山」、「居?」 などで、20点の墨書土器が発見 された。諏訪地方ではこの十二ノ后遺跡の 文字資料の数が、一遺跡か らの出土数 としては最多である。墨書土器の時期 は

9世

紀中葉か ら 11世紀 までで、10世紀代が 12点 と最 も多いとみ られている。この遺跡の古代 における存続期間 は

7世

紀後半から12世紀 までで、古代の諏訪地方の重要な大集落であったと推測 されている。

(37)

「中」 「収」 、 =│‐ r● 「万」 「嶋」 諏訪市十二 ノ后遺跡 出土墨書・刻書土器 ,

︸  

  

  

由 甲 「本」

(38)

2

中信地 方の遺跡 出土の文字資料 (1)塩尻市平 出遺跡・和 手遺跡 塩尻市宗賀 の平 出遺跡 は、奈良井川 の扇状地上 に所在 してい る。昭和25年、26年にか けて 4 次 にわたる発掘調査が行 われ、縄文時代 の竪穴住居跡群や、古墳 か ら平安時代 にか けての竪穴住 居跡が

49棟

発見 され た。 昭和

27年

には約15haが国史跡 に指定 され、学 史上重要 な遺跡 であ る。 (文献

18)そ

の後 も継続的に調査 が実施 され、史跡整備が進 め られている。平安時代前期 の墨書 土器 は「冬」、「苓」 などが出土 している。 また広丘高出の和 手遺跡 は平安時代の住居跡が130棟 出土 した拠 点集落であ り、墨書土器 の「 隆」、「利 ?」、「几 ?」 な どが 出土 してい る。 さ らに桟敷 (さ じき

)の

五 日市場遺跡 か らは「井」の墨書土器が多数出土 して注 目された。 この他 に田川端遺跡 か ら「仁」、二本木遺跡か ら「 同?」、俎 原 (ま ないたば ら

)遺

跡か ら「 目」、丘 中学校遺跡か ら「□ 色寺」の墨書土器 な どが出土 している。 塩尻市平 出遺跡出土墨書土器 塩尻市和手遺跡 出土墨書土器

(39)

「禾」?」 和手遺跡 出土墨書土器 「ネ羊?」 「井」(五日市場遺跡出土) 「周?」(二本木遺跡出土) 「風?」 (和手遺跡出土) 「仁」(田川端遺跡出土) 「目」(俎原遺跡出土) 「□色寺」 (丘中学校遺跡出土)

表 1  祭祀 に関わる内容 が記 された墨書土器 (図 1参 照 ) 遺   跡   名 墨書土器名 ・部位 。方向 釈 文 福島県いわき市荒田目条里遺跡 土師器杯体部外面正位 「磐城郡 /磐 城郷 /丈 部手子麿 /召 代 × 9 千 葉 県 芝 山 町 庄 作 遺 跡 土師器杯 (8C前 )底 部外面 「看 畳ネ 申」 9 0 土自 雨署 予存 下 (9C言 市 )底 部内面 /体 部外面正位 「丈部真 /次 召代 /国 神 /奉 」 4 // 土師器瓶 (9C前 )胴 部外面正位 「罪ム国玉神奉」
図 3  新潟県江向遺跡出土 銅印「高有私印」 図 4  茨城県小野遺跡出土 銅印「丈永私印」対岸に位置する台渡廃里寺︵水戸市渡里町︶から同じく﹁丈部 里 ﹂ と書かれた瓦が出土しており︑この地は和﹃名類衆抄﹄の那賀郡阿波郷で︑郷里制下に﹁丈部里﹂が設けられてたいこと分がかてっいる︒したがてっ︑同地方には丈部姓が多く分布してたいと考えられ︑銅印﹁丈永私印﹂の﹁丈﹂は丈部を意味し︑永﹁﹂は名の一文字と見なすと ︑﹁丈永﹂は﹁丈部永○﹂の略と考えられる︒以上よのうに︑四文字私印のうち︑個人名に関わる印文は︑その
図 7  銅印「王強私印」 建 物 跡 ︑ 井 戸 跡 ︑ 土 坑 な ど 検 が 出 さ れ ︑ 本 遺 跡 は で I 地 区 を 中心に︑ 一〇世紀代の集落展が開してるいこと判が明した︒なお ︑その他の遺物として注目されるのは︑住居と溝から出土した越州窯青磁で︑県内はで六例目あでる︒② 銅印の概要印面 一二・○×三・二cm︑高さ四・一Cm︑重さ六一0九g本銅印の印面は方形で︑鉦は脊鉦有孔あでる︒その陽刻された文字は︑ 一文字ずつが横方向に凸状を呈している点︑きわめて特異形な状鋳で出されているとえいる︒
図 8  千葉県柳台遺跡出土 銅印「王酒私印」 E口    景 多 ・ ﹂︱ トザ 拓   本 を 統 領 す る も の で ﹁ 三 百 長 ﹂ と も 称 さ れ た ︒ 千 ﹁ ﹂は地名と考えられる︶︒の採集地点ときわめて近接している︒﹁王酒私印﹂は火を浴びており︑全体に印字等も崩れて丸くなり︑保存状態は非常に悪い︒鉦部は低く︑ズングリした脊鉦有孔あでる︒特筆すべき点 は ︑その陽刻された文字は︑ 一文字ずつ横方向に状凸を呈しており︑更埴条里遺跡出土の王﹁強私印﹂と全く同特じ異な形状あでる︒また︑印文
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