千葉県恩田原遺跡出土 銅印「王泉私印」
図 9
区 中 央 の遺 物包 含 地 から 出 土 し た のが 銅 製 の印 あで る︒ 出 土層 位 は弥 生時 代 の遺 物 出が 土 す る面 よ り 若も 干 高 い
︵七
〜八 cm︶ 位 置 で︑ 印 面 を 下 にし て検 出 され たも ので 当︑ 該 期 の遺 構
・遺 物 は全 く 伴 てっ いな 銅
印 は
﹁王 泉 私 印
﹂ と判 読 きで
︑ そ の書 体 は︑ 私 印 の通 例 に合 致 す る楷 書 体 あで る︒ 以 上 の三 点 の
﹁王
○ 私 印
﹂ は︑ 王氏 に関 わ る 私印 と判 断 きで る︒ 王 氏 は︑ 例 え ば︑ 高 麗 国 人 の陰 陽家
﹁王 伴
﹂文 翁続 日本 紀
﹄養 老 二 年 正 月条 等
︶ な ど の高 麗 国
・百 済国 の渡 来 人 と し て みえ る人 々を はじ め︑ 相 模 国 史 生 王﹁ 善 徳
﹂
﹁大 日 本 古 文 書
﹄ 一︱ 六 四
〇︶︑ 越 前 国 大 目
﹁王 叙 忠
﹂ 亀大 日本 古 文 書
﹄ 五
︱ 四 七 七
︶ な ど︑ 国 府 官 人 と し ても 活 躍 し て いる
︒ 従 てっ
﹁王 強 私 印
﹂ は
﹁王 強
○ 私 印
﹂︑
﹁王 酒 私 印
﹂ は
﹁王 酒
○ 私 印
﹂︑
王﹁ 泉 私 印
﹂ は 王﹁ 泉
○ 私 印
﹂ を 意 味 し て いる 判と 断 きで る︒ 当時 の銅 製 私印 は︑ 主 とし て公 使印 用 に関 わ る国 司 o郡 司等 の地 方 官 層人 自が ら欲 し て所 有 し たも のと 理解 きで る︒ 従 てっ
︑ 渡 来 系 氏 族 あで る王 氏 おが そら く は国
・郡 行 政 に深 く関 わ てっ いた も のと 推 測 さ れ る︒ 古 代 の信 濃 国 と︑ 下 総国
・安 房 国 な ど の いわ ゆ る房 総 地方 か ら そ れ ぞ れ出 土 し た王 氏 に関 わ る銅 印 の︑ 一文 字 ず つ横 方 向 に凸 状 を 呈す る 特 異 な鋳 出 し方 法 は︑ 他 例に を 見 な いだ け に︑ 注 目 に値 す る資 料 あで る と いえ うよ
︒
四
︑ 銅 印 大﹁ 畔
□
□
﹂
︱ 長 野 市 篠 ノ 井 遺 跡 群 出 土
︻図 10︼ 0 退泣 跡 の概 要
︹︵ 財
︶ 長 野 県 埋 蔵 文 化 財 セ タン ー 中﹃ 央 自 動 車 道 長 野線 埋 蔵 文化 財 発掘 調 査 報 告 書 16︲
長 野市 内 そ の4 1 篠 ノ井 遺 跡 群
﹄ 一九 九 七 年︺ 本 遺 跡 は︑ 千曲 川左 岸 の自 然 堤 防 上 の高 所 に位 置 す る︒ 奈 良
・平 安 時 代 の遺 構 は
︑ 竪穴 住 居 跡 o掘 立 柱 建 物 跡
・井 戸跡 な ど 検が 出 さ れ た︒ 竪穴 住 居 跡 は 二 六九 軒 にも のぼ り 遺︑ 構
・遺 物 数 はで 他 の時 期 を 大 き
く 上 ま わ てっ いる
︒ 遺 物 の年 代 は平 安 時 代 の中 もで 九
〜 一〇 世紀 に か け て の資 料 が ほ と ん ど あで たっ
︒ 注 目 さ れ る遺 構 とし て は︑ 一辺 約 九
〇 cmの 掘
γ 方 もを つ大 型 の掘 立 柱 建 物 跡 があ げ ら れ る︒ 総 柱建 物 を 含 む七 棟 以 上 南が 北 方 向 を 基 軸 と し て並 列 し た状 況 を 示 し てお り
︑ そ れ れぞ が建 て替 えを お こな てっ い た︒ 遺 物 は︑ 土 器 以外 はで
︑ 銅 印
︑ 石製 丸 輌 o金 銅 製 巡 方 の帯 金 具 な ど 注が 目 さ れ る︒
② 銅 印 の概 要 印 面 長径 四
・ 一 Cm︑
重 さ四 五
・四 六 g 本 銅 印 は︑ 竪 穴住 居 跡 S B七 一〇 九 出 土 のも ので
︑ そ の年 代 は九 世 紀 第 2四 半 期頃 と みら れ て いる
︒ 印面 は円 形 で︑ 右側 三 分 の 一の 残 存 あで たっ が︑
﹁大 畔
﹂ と刻 ま れ た文 字 が 認 めら れ る︒ 大﹁ 畔
﹂ は︑ 本 来
﹁大 伴
﹂ と記 さ れ て いた と考 え ら れ る︒ 字文 と つま み部 分 が鋳 潰 さ れ て いる
︒ 文字 刻の 部み 分 に は︑ わず か に朱 が残 てっ たい と され て いる
︒
○丸 印 の類 例
﹁笠 百 私
﹂印
︱ 京 都 府 舞鶴 市 浦 遺入 出跡 土 舞︹ 鶴 教市 育 委 員会
﹃浦 入遺 跡 群発 掘 調 査 報 告 書 遺 構 編﹄ 二
〇
〇 一年
︺
︻図 11︼ 印 直 径
︵内 径
︶ 三 o 一 Cm 本 遺 跡 群 舞は 鶴 市 北 東 の大 浦 半島 西 側 の舞 鶴 湾 入 口部 に位 置 す る︒ 浦 遺入 跡 はで 奈 良時 代後 半 から 製 塩 見が 受 け ら れ︑ そ の中 もで 全 国 的 にも 類 例 のな いほ ど の大 規 模 な 製 塩 の中 心 は平 安 時 代 にも と めら れ る︒ 製 塩 土 器 の構 造 は︑ 海 水 を 入 れ て いる 椀 部 と そ れを 乗 せ る中 実 支 脚 の 二 つの 部 品 を セ トッ 使で 用 し て いる
︒
﹁笠 百 私 印
﹂ を 刻 印 し た製
図10 銅印「大□半□□」
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5cm[-+--r--r . +-l
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塩 器土 支 脚 出が 土 し た が︑ 支 脚 は︑ 層下 の包 含 層 から 八 世 紀中 頃
〜 一
〇世 紀 中 頃 ま で の遺 物 共と に出 土 し た︒ 支 脚 は そ の形 から
︑ 若 狭編 年 に よ る傾
︵か た ぼ こ︶ 式 あ る はい 吉 見 浜式 の支 脚 に該 当 す ると 考 え ら れ る が︑ 支 脚上 半 部 が や や細 いこ と か ら九 世 紀 代 に下 るも のと 考 え ら れ て いる
︒ 印 の材 質 は︑ 本 印 か銅 印 か決 定 し が た い︒ 法 隆 寺 献 納金 銅仏
︑ 観 音 菩薩 立像 の台 座 枢 に刻 ま れ た 辛﹁ 亥 年
︵六 五 一︶ 七 月 十 日記 笠 評 名君
□ 古 臣
⁝
︵下 略 と に み え る
﹁笠 評 君
﹂ は︑ 笠 評
︵加 佐 郡
︶ の君 と 理 解 さ れ おて り︑ 笠 氏 は丹 後国 加佐 地 方 の有 力 豪 族 判と 断 さ れ る︒ す な わ ち
﹁笠 百 私印
﹂ は︑ 銅 製 私 印 によ く みら れ る︑
﹁丈 龍 私 印
﹂
︵福 島 県 岩 瀬 郡 栄天 村 志 古 山遺 跡出 土︶ を 丈″ 部龍 麻 呂
″ な ど の略 とす る様 式 を参 考 にす れ ば︑ 笠″
︵加 佐
︶ 百継
″ な ど の略 解と す る こと が きで る︒ こ の丸 印 に みえ る
﹁大 伴
﹂ の信 濃 国 北 部 の分 布 例 と し て は︑ 大 伴 連 忍勝 信 濃 国 小 県 郡 嬢 里 の人
︒ 名日 本 霊 異 記
﹄ 下 巻
︱第 二 十三
︶ な ど 知が ら れ て いる
︒ こ の丸 印 の推 定 復 原 は 大﹁ 伴 私 印
﹂ と さ れ︑ 印 文 と し て は︑ 群 馬 県 高 崎 市 矢 中 村 東 遺 跡 出 土 銅 印
﹁物 部 私 印
﹂
︵九 世 紀 代
︶ な ど と同 様
︑ 先 にあ げ た四 文字 私印 の様 式①
﹁ウ ジ 十私
﹂印 に 該 当 す る 考と え ら れ る︒ 五
︑ 銅 印 物﹁ 部 格 丸
﹂
︱ 伝 世 品
︑ 南 佐 久 郡 臼 田 町 上 原 政 彦 氏 所 蔵
︻図 12︼
① 伝 来 の経 緯
︹長 県野
﹃長 野 県 史 美 術 建築 資 料 編 全 一巻
︵一
︶美 術
図11 施印土器「笠百私印」
・ T 上士 下﹄
︺ 本 銅 印 に は︑ 戸江 時 代 佐の 久 方地 郷の 土史 家 あで たっ 井 出 道 貞 文が 化 十 四 年
︵一 八 一四
︶ に書 いた さと れ る 銅﹃ 印記
﹄ 明の 治 四 十 年 の写 し が添 え ら れ て いる
︒
﹁明 和 三 年
︵一 七 六 六
︶丙 成 春の
︑ 清 川村 上 原 居氏 家 を 改 め 作 ら ん と 前栽 の庭 を 築 き 平 めけ る時 に︑ 二尺 五寸 かは り上 下 に平 石 の有 し きを 穿出 し け れ 其ば 下 よ り古 き銅 印 一箇 出 たり
︑ 物 部猪 丸 の四 字 あ り
︑ 字 鎧高 古 にし て雅 趣 あ り︑ 責 に近 世 の物 にあ らず
︒
︵後 略 ご
② 銅 印 の概 要
︹同 前 書
︺ 印 面 一 二
・一 と 二
︒ Cm一
︑ 高 さ 二
︒六 cm 本 銅印 の印 面 は方 形 で︑ 四周 内 制 り は大 ま か で︑ 幅 の狭 い郭 を め ぐ ら し て いる
︒ 鉦 は合 鉦有 孔 で︑ 端頭 を 角三 形 に と らが せ て いる
︒ 印 文 は 二行 構で 成 され ︑ 一行 に 二文 字ず つ
﹁物 部﹂
︑
﹁猪 丸
﹂ あ る い は 猪﹁ 丸
﹂ と読 め る︒ 個 人 の姓 名 が 四文 字 の フ ネル ー ム 印で 文 とな たっ 例 は現 存 す る大 和 古印 はで 他 に例 が くな
︑ 正倉 院 文 書 に残 る印 影 に みら れ る こと から
︑ 奈 良 時 代 に流 行 し た古 い印 文 形 式 と考 え ら れ る︒
右 の県 史 の記 述 に つ いて は︑ いく つか の問 題 点 三︵ 点︶ あが る ので
︑ 次 に指 摘 し てお き た い︒
① 名﹁
﹃猪 丸
﹄ あ る いは
﹃﹁ 猪 丸 L とし た部 分 は︑ 偏 は
﹁木
﹂ 間で 違 いな い ので
︑
﹁猪 丸
﹂ と みて よ い︒
② 個﹁ 人 姓の 名 が 四文 字 の フ ネル ー ムで 印 文 とな たっ 例 は現 存 す る大 和 印 で は他 例に がな く
﹂ とあ る が︑ 次 よの う に類 例 確が 実 に存 在 す る︒
︻図 13︼
○ 佐﹁ 伯 万善
﹂ 印︱ 福 岡 県 太宰 府 市 御 笠 川南 条 坊 遺 跡
︵遺 構 等 の年 代 一〇
〜 一二 世紀
︶ 印 面 一一
︒九
×三
・O cm︑
高 さ 二
・九 八 cm O参 考資 料
﹁己 西首 丸
﹂ 印
︱ も と は伊 勢 皇 大神 宮 祠の 官 を 務 め た家
︵荒 木 田 二門
︶ に
﹁神 主 石敷
﹂ 印 共と に保 管 され て いた と うい 説 あ り
︵村 田氏 実
﹁古 銅印 記 し 印 面 一一 生 ハ× 二
・六 cm︑
一局 さ 三
・O cm︑
重 さ三
・一 八 八 g た だし
︑ 本 銅印 は伝 世 品 で︑ 製 作 年代 は不 明 あで る︒
③
﹁正 倉 院 文書 に残 る印 影 に みら れ る こと から
︑ 奈良 時 代 に流 行 し た 古 い印 文形 式
﹂ とす る が︑ 次 の点 から 本︑ 銅 印 年の 代 は九 世 紀以 降 と
し デ
図12 銅印「物部楢丸」
①
銅印「佐伯万善」
②
銅印「己西首丸」
図13「ウジ+名」印の例
判断 きで る︒
○本 銅印 の人 名 は
﹁椿 丸
﹂ とあ る が︑ 人 名
○﹁
○丸
﹂ は︑ 管 見 の限 り 最で も 早 い実 例 が藤 原 宮 跡 出 土 の初 期 荘 園 に関 す る 弘仁 元年
︵八 一
〇︶ の木 簡 に数 例 みえ る︒
○藤 原 宮 木簡
︵﹃ 飛 鳥
・藤 原 宮 発掘 調 査 出 土 木簡 概報 七し
︵釈 文 部 分︶
﹁弘 仁 年元 月十 十 日収 納 稲事
︵略
︶
使 石 川魚 主 葛 木 寺進 者 上 二 月丸 弟
□建 丸 定 残 千 四 百 八十 玖 束 浄 丸 福丸 等 九 八
・二
×五
・七
×〇
・五 m O 一 一
〇岩 手県 黒 石薬 如師 来 像 の胎 内 墨書 銘 中 貞﹁ 観 四 年
︵八 六
︶二 十 二 月
﹂ の年 紀 と とも に
﹁物 部 哀 黒丸
﹂ と うい 名人 が みえ る︒ 福○ 島 県 いわ き市 荒 田目 条 里遺 跡 出 土木 簡
︵九 世 紀 半
︶ば o 郡﹁ 符 里︑ 刀自 手︑ 古 丸 黒︑ 成 宮︑ 澤 安︑ 継 家 貞︑ 馬 天︑ 地 子︑ 福 積 奥︑ 成 得︑ 内 宮︑ 公 吉︑ 惟 勝︑ 法 園︑ 隠 百︑ 済 部 於 用丸 真︑ 人 丸 奥︑ 丸 福︑ 丸 模︑ 日 丸 勝︑ 野 勝︑ 宗 貞︑ 継 浄︑ 人 部 於 日 丸 浄︑ 野
△︑ 口人 丸 佐︑ 里 丸 浄︑ 継 子︑ 浄 継 丸︑ 子 部 福 継
﹃不
﹄ 足 子 家 壬︑ 部 福 成 女 於︑ 保 五 百 継 子︑ 机 本 家 太︑ 青 女 真︑ 名 足 不﹃
﹄ 子於 足
﹃合 汁 四
﹄人 右 田人 為 以今 月 二 日上 面 田令 殖 可底 稜 如 件
﹂
・
﹁ 大 領 於保 臣 奉 距 馴 鵬 一 女口唯
□
﹂ 五
・九 二
×四
・五
×〇
・六 cm
O 一 一 従 てっ
﹁物 部 椿丸
﹂ は九 世紀 以 降 のも のと 考 え ら れ る が︑ 年 代 的 に は書 体
・鋳 造 方 法
︵彫 り方
・針 の形 状 な
︶ど か ら推 し て︑ 九 世 紀 を そ れ ほ ど 下 るも のと は みら れ な いで あ うろ
︒ ま た︑ 正倉 院 文 書 な ど 八で 世 紀 後 半 に は
﹁生 江 息
﹂鳴
﹁丸 部 足 人
︸ な ど のフ ネル ー ム の私 印 が確 認 さ れ て いる
︒ し かし
︑ フ ヤ 不︱ ム私 印 は︑ 県 史 指で 摘 し て いる うよ な
﹁奈 良 時 代 に流 行 し た古 い印 文形 式
﹂ で はな く︑ 正倉 院 文書 中 の 丸﹁ 部 足
﹂人 な ど の私 印 東が 大寺 写 経 所 内 個の 人 に関 す るも ので あ る点 に留 意 す べき あで る︒ 筆 者 はす にで
︑ 古 代 の地 方 社 会 に お いて はウ 名ジ 重を 視 し た事 実 を多 様 な資 料 によ てっ 立 証 し て いる
︵﹁ 古 代 に おけ る人 名 の表 記
︱ 最新 の木 簡 か ら発 し て︱
﹂
﹃国 史学
﹄ 一六 一︑ 一九 九 六 年 十 月二
︶︒
こ こで そ の要 旨 を簡 略 に紹 介 し た い︒ 六 八〜 世 紀 初 頭 段 階 の資 料 に︑
﹁氏
﹂ のみ 表 記 し たも のと
︑ 同 一の
﹁氏
﹂ の下 略 方 式 のも の が目 立 傾つ 向 は︑ ウ ジ のも つ政 治 組 織 と同 族 組 織 の二 面 性 を 重視 し た記 載 様 式 判と 断 きで る︒ し かし 律︑ 制令 下 に お いて は国 家 によ る個 別 人身 賦 課 を 目 指 し︑ 戸籍 制 導が 入 され た段 階 で︑ 名人
を ウ﹁ ジ 名+
﹂ と いう 形 個で 々に 戸籍 に登 録 し︑ 課税 象対 者 と し た の で あ る︒ そ し て 八 世 紀 以 降
︑ 籍 帳 制 の浸 透 に よ り
︑ ウ″ ジ
︵ま た姓
︶ 名と
〃記 載 が 一般 的 とな る の あで る︒ と ころ が︑ 荒 田目 条 里遺 跡 出 土 の郡 符 木簡 で は︑ 都大 領 名が を記 し て いな い︒ 令 制 以前 の