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西蔵への旅、西蔵からの旅 : 久生十蘭論Ⅲ

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Academic year: 2021

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Title

西蔵への旅、西蔵からの旅 : 久生十蘭論Ⅲ

Author(s)

須田, 千里

Citation

須田千里: 叙説(奈良女子大学國語國文学研究室), 1996, 第23号, pp.

87-117

Issue Date

1996-12-01

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/2045

Textversion

publisher

Nara Women's University Digital Information Repository

(2)

西

西

論III

取 の 様 相 を 検 討 し な が ら 作 品 の 内 実 に 迫 り た い 。 一 二 久 生 十 蘭 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ ( 初 出 昭 25 ・ 12 ﹁ 別 冊 文 芸 春 秋 ﹂ 。 昭 27 ・ 9 文 芸 春 秋 新 社 刊 ﹃ う す ゆ き 抄 ﹄ 所 収 。 以 下 の 引 用 は こ れ に 拠 り 、 主 な 異 同 を 注 記 し た 。 三 一 書 房 版 ﹃ 久 生 十 蘭 全 集 1 ﹄ に 収 録 ) の 主 た る 材 源 が 、 芥 川 龍 之 介 ﹃ 第 四 の 夫 か ら ﹄ (大 13 ・ 4 ・ -﹁ サ ン デ ー 毎 日 ﹂ ) と 同 様 に 、 河 口   チ ベ ッ ト ロ 慧 海 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 上 ・ 下 (明 37 ・ 3 、 5 博 文 館 刊 ) に 拠 る こ と を 、  ユ   か つ て 述 べ た こ と が あ る 。 す で に 種 村 季 弘 ﹃ 書 物 漫 遊 記 ﹄ (昭 54 ・ -筑 摩 書 房 刊 、 昭 61 ・ 5 ち く ま 文 庫 版 ) ﹁留 学 の 成 果 ﹂ に 、 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ の 主 人 公 山 口 智 海 の モ デ ル が 河 口 慧 海 で あ り 、 そ の 旅 行 の 記 録 は ﹃西 蔵 旅 行 記 ﹄ に く わ し く 語 ら れ て い る こ と が 述 べ ら れ て お り 、 橋 本 治 編 ﹃ 日 本 幻 想 文 学 集 成 12 久 生 十 蘭 海 難 記 ﹄ (平 4 ・ 3 国 書 刊 行 会 刊 ) ﹁解 説 ﹂ も 、 山 口 智 海 の モ デ ル が 河 口 慧 海 で あ る こ と に 言 及 し て い る 。 本 稿 で は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ の み な ら ず 広 く 材 源 を 解 明 し 、 そ の 摂 ﹃新 西 遊 記 ﹄ に 、 智 海 の ﹁黄檗 山 時 代 の 写 真 ﹂ と し て 、 ﹁衣 の 裾 の す ぼ け た 貧 相 な や う す で 珠 数 を 持 つ て 立 つ て ゐ る ﹂ ﹁痩 せ て 眼 ば か り 大 き い 、 機 転 の 閃 き の な い 印 象 稀 薄 な 風 態 で 、 ど こ か 怯 惰 の 感 じ さ へ あ る 凡 々 と し た 顔 つ き の 男 ﹂ だ と あ る の は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 初 版 上 巻 口 絵 の 写 真 ( ﹁慧 海 師 出 発 当 時 の 肖 像 ﹂ ) を 形 容 し た も の で あ ろ う (但 し 僧 衣 は 立 派 な も の で あ る )。 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ は 、 昭 和 十 六 年 七 月 に 山 喜 房 仏 書 林 か ら 、 元 版 の 第 八 十 ∼ 百 六 回 を 省 略 す る な ど し て 回 数 を 再 編 し 、 本 文 に も 若 干 手 を 入 れ た 改 訂 一 冊 版 (六 六 一 頁 ) が 出 版 さ れ て い る が 、 こ れ に は 口 絵 が 全 く な い 上 、 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ の 材 源 と な っ た 部 分 も 省 略 さ れ て い る か ら 、 久 生 十 蘭 が 依 拠 し た 本       文 で は な い 。 従 っ て 、 以 下 の 引 用 は 博 文 館 版 の 初 版 に 拠 る 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ は 、 主 と し て 西 蔵 に 関 す る 百 科 事 典 的 解 説 で あ る 前 半 と 、 八 七

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 主 人 公 山 口 智 海 の 西 蔵 行 を 語 っ た 後 半 と か ら 成 る が 、 以 下 本 稿 で は 便 宜 的 に 二 節 に 分 け 、 各 々 の 話 題 に 沿 っ て そ の 材 源 を 検 討 す る 。 1 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で 、 ﹁宇 治 黄檗 山 の 山 口 智 海 と い ふ 二 十 六 歳 の 学 侶 ﹂ が 西 蔵 へ 行 っ て 西 蔵 訳 の 大 蔵 経 を と っ て 来 よ う と 思 い 立 ち 、 ﹁五 百 三 十 円 の餞 別 を 懐 う に 、 明 治 三 十 年 の 六 月 十 五 日 、 神 戸 を 発 つ て 印 度 の カ ル カ ッ タ に 向 つ た ﹂ と い う の は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 第 一 ∼ 三 回 (以 下 、 回 数 を 漢 数 字 で 示 す に 留 め て 題 を 略 し 、 引 用 文 中 の 小 見 出 し も 注 記 し な い ) に 拠 る 。 相 違 点 は 、 慶 応 二 [ 一 八 六 六 ] 年 生 ま れ の 慧 海 の 年 齢 が 出 立 当 時 数 え 歳 三 二 で あ っ た こ と 、 六 月 二 五 日 に 大 阪 を 出 立 、 翌 日 神 戸 か ら 乗 船 し た こ と く ら い で あ る 。 前 者 は ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ か ら は わ か り に く く 、 後 者 も 、 実 際 の 乗 船 が 翌 目 で あ っ た こ と は 見 逃 さ れ 易 い 。 入 蔵 の 動 機 が 、 サ ン ス ク リ ッ ト の 原 書 に 対 し て 漢 訳 の 経 文 は 幾 つ も あ り 個 々 に 相 違 も 見 ら れ る た め 、 原 書 に 拠 っ て そ れ ぞ れ の 真 偽 を 明 ら か に す る 必 要 を 感 じ た こ と 、 大 乗 仏 典 は 印 度 で 早 く 滅 ん だ も の の 、 西 蔵 語 に 訳 さ れ た 経 文 は 文 法 上 ・ 語 法 上 漢 訳 よ り も 確 か だ と さ れ て い る こ と 、 そ こ で 西 蔵 語 を 学 ん で 漢 訳 と の 比 較 研 究 を し よ う と 思 っ た こ と 、 等 で あ る こ と は 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ の 記 述 に 重 な る 。 実 際 、 慧 海 は 数 多 く の 経 文 を 日 本 に 持 ち 帰 っ た が 、 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ で も ﹁そ れ を 持 ち だ す こ と が で き れ ば 、 八 八 仏 教 伝 来 千 三 百 年 に し て 、 は じ め て 釈 迦 所 説 の 正 念 に 触 れ る こ と が で き る ﹂ と あ る 。 但 し ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ で は 、 大 乗 仏 典 が ネ パ ー ル 或 い は 西 蔵 に 存 在 し て い る こ と 、 従 っ て そ の 研 究 の た め だ け な ら ば ネ パ ー ル で も 構 わ な い の だ が 、 せ っ か く 出 家 し た 甲 斐 に 、 ﹁彼 世 界 第 一 の 高 山 比 馬 羅 耶 山 中 に て 真 実 修 行 を 為 し 得 る な ら ば 、 俗 情 を 遠 く 離 れ て 清 浄 妙 法 を 専 修 す る こ と が 出 来 る だ ら ふ と 云 ふ 、 此 願 望 ﹂ が ﹁入 蔵 す る 主 な る 原 因 ﹂ で あ っ た と 言 う (な お 、 四 回 で ﹁私 は 西 蔵 語 学 者 と し て 尊 崇 を 受 け る 為 め に 西 蔵 に 行 く の ぢ や ア 御 座 い ま せ ん 、 仏 法 修 行 の 為 め で す か ら ﹂ と い い 、 二 九 回 で も ﹁仏 法 修 行 の 為 に 此 国 に 進 入 し て 来 た 目 的 も 達 せ ず に 高 山 積 雪 の 中 に 埋 れ て 死 ぬ と 云 ふ の も 因 縁 で あ ら う ﹂ と あ る ) 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ は 、 ネ パ ー ル で も よ か っ た こ と に 触 れ な い こ と で 、 入 蔵 の 必 要 性 を 強 調 し た の で あ る 。 2 ﹃新 西 遊 記 ﹄ に お け る 漢 訳 仏 典 の 種 類 の 提 示 や 、 日 露 戦 争 当 時 満 訳 大 蔵 ・ 蒙 古 大 蔵 を 東 京 帝 大 に 下 附 し た こと は ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ に 見 え な い 。 こ れ ら は 、 平 凡 社 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ (昭 6 ・ 11 ∼ 昭 10 ・ 10 刊 、 昭 11 ・ 11 ∼ 昭 14 ・ 4 新 装 分 冊 版 刊 。 以 下 の 引 用 は 、 ﹁別 刷 及 び 写 真 網 版 を 少 な く し た 、 人 物 肖 像 の 摸 写 図 の 一部 を 写 真 に と り か へ た 位 の 相 違 ﹂ (第 一 巻 巻 頭 、 下 中 彌 三 郎 ﹁新 装 普 及 版 刊 行 に 際 し て ﹂) で あ る と い う 分 冊 版 に 拠 る ) ﹁ 一 切 経 ﹂ の 項 に 、 ﹁宋 版 ﹂ 以 下 ﹁卍 蔵 版 ﹂ ま で 全 て 名 前 が 見 え 、 か つ 、

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蒙 古 訳 及 び 満 洲 訳 は 翻 訳 年 代 不 明 で あ る が 共 に 奉 天 府 の 黄 寺 に あ つ た の を 、 日 露 戦 争 当 時 、 明 治 天 皇 の 叡 慮 に 依 り 御 買 上 を 得 、 東 京 帝 大 に 御 下 附 に な つ た が 、 大 正 の 震 災 で 焼 失 し た 。 と あ る の に 拠 る ( 同 様 の 記 事 は 同 書 ﹁ 大 蔵 経 ﹂ の 項 中 、 ﹁ 大 蔵 経 編 纂 表 ﹂ の ﹁ 蒙 古 ﹂ ﹁満 洲 ﹂ の 部 や ﹁ 仏 教 ﹂ の 項 中 ︹支 那 の 仏 教 ︺ に も 見 え る が 、 内 容 的 に ﹁ 一 切 経 ﹂ の 項 の 方 が 近 い ) 。 久 生 十 蘭 が こ の ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ を ︵3︶ 利 用 し て い た 可 能 性 の 高 い こ と は 、 か つ て 述 べ た (な お 、 念 の た め に 言 え ば 、 こ の ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ 以 前 の ﹃畑 百 科 大 辞 典 ﹄ 第 六 巻 (大 1 . 8 三 省 堂 書 店 刊 ) ﹁大 蔵 経 ﹂ や ﹁仏 教 ﹂ で は 、 東 京 帝 大 に 下 附 し た 記 載 が な い ) 。 以 下 さ ら に 触 れ る よ う に 、 細 部 の 一 致 、 類 似 す る 記 事 の 多 さ か ら 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ は 主 要 な 知 識 源 で あ っ た と 思 わ れ る 。 続 く 、 仏 教 が 印 度 で は 形 骸 も と ど め て お ら ず 、 梵 語 経 論 の 一 部 が セ イ ロ ン 島 や ビ ル マ 地 方 に 残 っ て い る だ け 、 と い う 記 事 は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁仏 教 ﹂ の ︹密 教 の 興 起 と 仏 教 の 衰 微 ︺ の 項 に 、 印 度 教 即 ち 婆 羅 門 教 の 再 興 は [略 ]。 婆 羅 門 教 の 再 興 に よ つ て 打 撃 を 受 け た 仏 教 は 更 に 八 世 紀 か ら 十 二 世 紀 に 亙 る 回 教 の 印 度 侵 入 に よ り 最 後 的 致 命 傷 を 被 つ た 。 [略 ] 特 に 印 度 に 盛 ん で あ つ た 仏 教 淀 対 し て は 猛 烈 を 極 め 、 あ ら ゆ る 寺 塔 及 び 仏 像 経 巻 を 破 壊 し 、 僧 尼 を 虐 殺 し 寺 宝 を 掠 奪 し 信 徒 を 害 し 、 幸 に 難 を 脱 れ た も の は 四 方 に 離 散 し 、 終 に 仏 教 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 は 印 度 に 形 骸 を 留 め 得 ず 、 辛 う じ て 雪山 中 及 び 錫崙 、 ビ ル マ 地 方 に 余 喘 を 保 つ 有 様 と な つ た 。 と あ る の に 拠 る 。 3 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で ﹁大 乗 仏 教 が 西 蔵 へ 入 つ た の は 七 世 紀 頃 の こ と で 、 ト ン ミ [初 出 で は ﹁ト ン ミThon-mi﹂ と ア ル フ ァ ベ ッ ト を 併 記 ] と い ふ 僧 が 印 度 か ら 大 蔵 の 原 典 を 持 つ て 帰 つ て 西 蔵 語 に 翻 訳 し 、 つ い で 蓮 華 上 座 師 が 仏 教 の 密 部 を 西 蔵 の 原 宗 教 に 結 び つ け 、 [略 ] 一 千 万 の 信 徒 を も つ西蔵 仏 教 の 基 を ひ ら い た 。 ﹂ は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁喇嘛 教 ﹂ の 項 の 西 蔵 を 中 心 と な し 、 満 洲 、 蒙 古 等 に 信 者 を 有 す る 一 種 の 仏 教 で あ つ て 、 西 蔵 仏 教 と 呼 ぶ を 正 確 と す る 。 [略 ] ︹教 史 ︺ 仏 教 が は じ め て 西 蔵 に 輸 入 さ れ た の は 第 七 世 紀 の こ と で あ る 。 即 ち ト ン ミThon-mi な る も の 王 命 を 奉 じ て 印 度 に 入 り 、 梵 語 を 学 び 、 仏 典 を 将 来 し て こ れ を 翻 訳 し た 。 つ い で 第 八 世 の 中 頃 に は 那 燗 陀 寺 に あ り し 蓮 華 上 座 師 な る も の 、 [略 ]。 蓮 華 の 奉 ず る 仏 教 は 秘 密 仏 教 で あ り 、 彼 は こ れ を 本 地 垂迹   の 説 に よ つ て 、 西 蔵 元 来 の 宗 教 と 結 合 せ し め て 布 教 の 便 を と つ た が 、 [略 ] 。 教 徒 所 在 の 範 囲 は 広 大 で あ る が 、 人 口 稀 薄 の 土 地 の こ と と て 一 千 余 万 で あ る 。     ソ に 拠 ろ う 。 ま た 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で ﹁西 蔵 語 な る も の は ト ン ミ が 梵 語 の ラ ン ツ ァ 体 を と つ て つ く つ た 国 語 だ か ら ﹂ と あ る の は 、 ﹃大 百 科 八 九

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 語 ﹂ の ﹁西 蔵 で は そ の 国 語 を 記 す に 、 梵 字 の ラ ン ツ ァ Lantsha 体 か ら 籍 り 来 つ て 、 ト ン ミ ・ サ ム ブ ホ l タThon-mi Sambhota が 七 世 紀 ス ロ ン ツ ァ ン ガ ム ポSron-btsansgam-po 王 の 時 に 造 つ た も の で あ る ﹂ に 拠 ろ う し 、 ﹁梵 語 仏 典 の 写 本 の 校 合 す ら 西 蔵 訳 の 助 け を か り る く ら ゐ の も の だ か ら ﹂ も ﹁梵 語 仏 典 写 本 の 校 合 に は 西 蔵 訳 経 論 の 助 け を 籍 ら ね ば な ら ぬ 。 ﹂ に 拠 ろ う 。 西 蔵 大 蔵 の ﹁甘 珠 爾 ﹂ 正 蔵 千 四 十 四 巻 、 ﹁丹 珠 爾 ﹂ 続 蔵 四 千 五 十 八 巻 の こ と も 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁仏 教 ﹂ ︹西 蔵 の 仏 教 ︺ に 見 え る 。 そ   マ マ   の 読 み 方 は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁甘 珠 爾 ﹂ ﹁丹 殊 爾 ﹂ の 項 に ﹁カ ン ジ ュ ー ル ﹂ ﹁タ ン ジ ュ ー ル ﹂ と 見 え る 。 4 岡 本 監 輔 ・ 福 島 中 佐 ・ 郡 司 大 尉 ・ 野 中 至 夫 妻 ら の 行 動 に 見 ら れ る ﹁愛 国 心 の ブ ー ム ﹂ に つ い て は 、 岡 本 以 外 は よ く 知 ら れ た も の で あ る 。 な お 、 初 出 で は そ れ ら の 前 に ﹁片 岡 侍 従 の 千 島 差 遣 ﹂ を 語 っ て い る が 、 こ れ は 、 岡 本 監 輔 の 千 島 義 会 結 成 ・ 郡 司 大 尉 の 千 島 探 検 の 記 事 と も ど も 、 広 瀬 彦 太 ﹃ 郡 司 大 尉 ﹄ (昭 14 ・ 10 鱒 書 房 刊 ) に 拠 ろ う (但 し 、 明 治 天 皇 の ﹁御 沙 汰 ﹂ の 文 章 に は 四 個 所 の 小 異 が あ る )。 な お 、 片 岡 侍 従 一 行 が ﹁占 守 島 で 冬 籠 り ﹂ し た こ と は ﹃ 郡 司 大 尉 ﹄ に 見 え ず 、 久 生 十 蘭 が 実 際 に 多 羅 尾 忠 郎 ﹁千 島 探 検 実 紀 [﹃ 新 西 遊 記 ﹄ で は ﹁千 島 探 検 実 記 ﹂ ]﹂ (明 26 ・ 7 、 石 塚 猪 男 蔵 発 行 。 国 会 図 書 館 蔵 本 に 拠 九 〇      る ) を 参 照 し た 可 能 性 が あ る 。 なお ﹃新聞集成 明 治 編 年 史 ﹄ (昭 9 ∼ 11 ) 所 引 ﹁朝 野 新 聞 ﹂ (明 26 ・ 3 ・ 2 ) に も 、 郡 司 大 尉 の ﹁千 島 拓 殖 の 壮 図 ﹂ に 触 れ つ つ 、 千 島 拓 殖 の 事 に 就 て は 岡 本 監 輔 翁 最 も 人 に 先 だ ち て 之 を 主 唱 し 千 島 義 会 な る 者 を 設 け 、 東 奔 西 走 一 た び 千 島 に 渡 り た る も 心 事 多 く は齟齬 し て 行 は れ ず 、 遂 に 空 し く 壮 図 を 抱 き て 帝 城 の 西 隅 に 蟄 居 す る も 、 雄 心 勃 々 自 ら 禁 ず る 能 は ず 、 ハ     云 々 と 記 さ れ て い る 。 続 く 玉 井 喜 作 の シ ベ リ ヤ 徒 歩 横 断 は 、 確 か に 作 品 発 表 当 時 余 り 知 ら れ て い な い 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ の 記 事 は 、 そ こ に 名 前 を 挙 げ る "Karawanen-Reise in Sibirien (ベ ル リ ン 一 。。㊤ 。。 ) に 拠 ろ う 。 ド イ ツ 語 原 書 の 扉 に は ﹁大 日 本 玉 井 喜 作 著 / 附 録 / 百 年 前 日 本 人 西 比 利 亜 / 経 由 世 界 周 遊 紀 行 / 西 比 利 亜 征 嵯 紀 行 ﹂ と 木 版 印 刷 さ れ 、 著 者 の 写 真 を 載 せ る (﹃ 新 西 遊 記 ﹄ で は ﹃西 比 利 亜 征 嵯 旅 行 ﹄ と 記 す 。 こ れ が ﹁独 逸 地 理 学 協 会 の 紀 行 文 庫 ﹂ に 収 録 さ れ た 、 と い う の は 未 詳 )。 同 書 は 、 ﹃世 界 ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 全 集 ﹄ 47 (小 林 健 祐 訳 、 昭 38 ・ 10 筑 摩 書 房 刊 ) に ﹃ シ ベ リ ア 隊 商 紀 行 ﹄ と し て 収 録 さ れ て お り 、 そ れ に 拠 れ ば 記 載 内 容 は ほ ぼ 正 確 で あ る と わ か る (な お 、 和 訳 ・ 英 訳 等 の 存 在 を 確 認 で き な か っ た ) 。 玉 井 の ド イ ツ 到 着 は 明 治 二 八 年 で は な く 二 七 年 で

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あ り 、 ま た ﹃新 西 遊 記 ﹄ で 引 用 さ れ る 玉 井 の 旅 行 の 動 機 ﹁汽 船 の 船 室 に 閉 ぢ こ も つ て 欧 羅 巴 へ 行 く の は 月 並 だ か ら 、 わ ざ と か う い ふ 道 を え ら ん だ ま で ﹂ も 、 ﹃ 世 界 ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 全 集 ﹄ 版 に 拠 る と ﹁だ が 、 イ ン ド 経 由 や ア メ リ カ 経 由 の 平 凡 な 道 は と ら な か っ た 。 今 日 よ く 利 用 さ れ て い る 、 客 間 つ き の 快 適 な 汽 船 に は 乗 ら な か っ た 。 初 め か ら 終 わ り ま で 一 人 で 、 旅 の 目 的 地 、 ヨ ー ロ ッ パ の 中 心 で あ る ベ ル リ ン を は っ き り 念 頭 に お き な が ら 、 シ ベ リ ア と ロ シ ア を 経 由 し て 旅 行 し た の で あ る 。 ﹂ と あ っ て 、 文 意 を 汲 ん だ 強 調 が な さ れ て い る 。 玉 井 の 履 歴 は 、 ﹃ シ ベ リ ア 隊 商 旅 行 ﹄ で は 確 か に 出 身 地 以 外 明 ら か で な い が 、 小 谷 茂 夫 ﹃ 日 独 親 善 の 人 柱 / " 私 設 公 使 " 玉 井 喜 作 を 憶 ふ ﹄ (昭 17 ・ 10 ・ 18 ﹁サ ン デ i 毎 日 ﹂) に 拠 れ ば 、 ド イ ツ 到 着 後 マ ー ス 商 会 に 勤 務 、 日 清 戦 争 に 際 し 東 亜 事 情 を 新 聞 に 載 せ 、 や が て 貿 易 雑 誌 ﹁東 亜 ﹂ を 発 刊 、 ベ ル リ ン で 知 ら れ る よ う に な る 。 在 独 邦 人 の た め に 努 力 を 惜 し ま ず 、 日 露 戦 争 時 に は 情 報 収 集 に 成 果 を 挙 げ た が 、 ふ と し た 病 気 に よ り 明 治 三 九 年 九 月 二 五 日 四 ︼ 歳 ハ    で 死 去 し た 、と い う 。 ﹁そ の 後 誰 も 逢 つ た も の は な い ﹂ は 、 知 識 不 足 ゆ え の 誤 り と も 、 あ え て そ の 履 歴 を 神 秘 化 し た も の と も 取 れ る 。 な お 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で い う ﹁歌 に も う た へ な い や う な ﹂ 旅 行 と は 、 ﹃西 蔵 旅 行 記 ﹄ で 慧 海 が そ の 時 々 に 歌 を 詠 ん だ こ と と 対 比 さ せ 、 旅 の 激 し さ を 強 調 し た も の で あ ろ う (し か し 慧 海 の 旅 も 劣 ら ず 激 烈 な も の で 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 あ っ た 。 歌 を 詠 む と い う の は 、 彼 の 性 癖 や そ の 自 由 な 精 神 と 関 係 が あ ろ う )。 以 上 、 全 て 実 在 の 人 物 の 行 為 を 紹 介 す る こ と で 、 続 く 山 口 智 海 の 西 蔵 行 も 事 実 と し て 読 ま れ る こ と を 狙 っ た も の と 思 わ れ る 。 ま た 、 初 出 の 片 岡 侍 従 の 話 を 省 略 し た の は 、 事 実譚 が 多 す ぎ て く ど く な る の を 避 け た た め で あ ろ う 。 5 山 口 智 海 の 西 蔵 旅 行 を ﹁無 益 な 消 耗 ﹂ ﹁無 意 味 な 目 的 ﹂ と す る 概 括 に つ い て は 、 作 品 の テ ー マ と 関 わ る の で 後 述 す る 。 6 西 蔵 が 、 国 境 の 二 万 六 千 尺 か ら 三 万 尺 に 及 ぶ 山 脈 ﹂ を 利 用 し て 鎖 国 し て い た と い う 記 事 は 、 青 木 文 教 ﹃秘密之国 西 蔵 遊 記 ﹄ (大 9 ・ 10 内 外 出 版 株 式 会 社 刊 。 以 下 角 書 を 略 す ) に 西 蔵 の ﹁四 境 を繞 ら す に 海 ブ イ   ト 抜 一 万呎 乃 至 三 万呎 に 垂 ん と す る 峻 峰 ﹂ ゆ え に 国 内 の 大 部 分 に ﹁文 明 人 ﹂ の 足 跡 が な い と い う 部 分 や 、 北 部 の 高 地 の 平 均 高 度 が コ 万 五 千呎 よ り 一 万 六 千呎 ﹂ と い う 部 分 (第 二 編 第 一 章 一 ﹁世 界 の 屋 根 ﹂) を 参 考 に し た か 。 他 に も 、 北 部 の 高 地 (﹁ チ ヤ ン タ ン ﹂) の 面 積 が ﹁我 ほ ゴ 国 本 部 の 略 三 倍 に 匹 敵 す る ﹂ こ と 、 ﹁六 、 七 、 八 の 三 箇 月 に は ﹂ ﹁遊 牧 民 の 見 舞 ふ 所 と な る ﹂ こ と 、 ﹁西 蔵 本 部 ﹂ は チ ャ ン タ ン 南 方 一 帯 に 横 た わ り 、 ﹁我 国 の 全 面 積 に 比 べ て 大 差 を 見 な い ﹂ こ と 、 ﹁最 も 低 い 部 分 は 海 抜 八 九 千 択 の 渓 谷 地 方 で 、 そ れ か ら 段 々 一 万 四 五 千 沢 の 高 度 に 達 し て ﹂ い る こ と 、 ﹁ 二 万 九 千 余 沢 の エ ヴ エ レ ス ト 峰 ﹂ の お よ そ こ と (以 上 、 同 前 ) 、 西 蔵 ﹁全 国 の 人 口 約 二 百 万 ﹂ で あ る こ と (二 編 九 一

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 一 章 二 ﹁総 人 口 二 百 万 ﹂。 但 し ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁喇嘛 教 ﹂ に 拠 れ ば 、 教 徒 の 数 は ﹁西 蔵 四 百 万 ﹂ と 、 相 違 が み ら れ る ) 、 西 蔵 人 は ﹁自 国 を 以 て ﹁仏 法 相 応 刹 土 ﹂ と 信 じ ﹂ て い る こ と (二 編 二 章 二 。 以 下 、 節 の 題 を 略 す ) 等 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ に 同 じ か 、 近 い 記 述 が あ る 。 な お 、 チ ャ ン タ ン で は ﹁冬 は 零 下 四 十 八 度 ま で 下 る ﹂ と あ る 材 源 は 未 詳 だ が 、 改 訂 版 ﹃ 世 界 地 理 風 俗 大 系 ﹄ ﹁中 央 ア ジ ヤ ・ 西 ア ジ ヤ 篇 ﹂ (昭 13 ・11 誠 文 堂 新 光 社 刊 ) に 拠 れ ば ﹁西 蔵 高 原 に お け る 冬 の 最 低 気 温 は 、 零 下 四 十 度 に 達 し ﹂ (四 二 頁 ) と あ る 。 ま た ﹃西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 二 章 一 に は 、 一 七 二 〇 ア ン パ ン 年 西 蔵 が 中 国 領 と な り 、 四 年 後 ﹁駐 蔵 大 臣 ﹂ を 任 命 し て 属 国 の 実 を 挙 げ よ う と し て 以 来 鎖 国 主 義 に 傾 い た が 、 ﹁千 七 百 九 十 二 年 隣 邦 ネ ボ ー ル の 強 兵 が 西 蔵 に 侵 入 し た 時 ﹂ か ら 西 蔵 の 封 鎖 は 厳 重 に な っ た 、 と あ る 。 こ う し た 鎖 国 の 歴 史 は 他 書 で も 同 様 で 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ の 、 鎖 国 が 乾 隆 十 五 ( 一 七 四 九 ) 年 に 始 ま っ た と す る 根 拠 は 未 詳 で あ る 。 な お 、 鎖 国 の 終 わ り を 民 国 三 年 ( 一 九 一 四 ) の シ ム ラ 会 議 と す る こ と は ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁ 西 蔵 ﹂ の 項 に 記 事 が あ る 。 鎖 国 の 間 、 ラ ッ サ は お ろ か 西 蔵 本 部 へ の 潜 入 に 成 功 し た 欧 米 人 は 一 人 も い な い 、 と い う の は 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ 前 半 末 尾 の 、 ユ ッ ク と ガ ベ ェ 、 サ ラ ッ ト ・ チ ャ ン ド ラ が 潜 入 し た と い う 記 事 と 矛 盾 す る 。 初 出 の ﹁公 然 と 入 国 し た も の も な け れ ば 、 潜 入 し て 生 き て 出 て き た も の も な い ﹂ は 、 ﹁潜 入 し て ﹂ と い う 語 句 を 除 け ば 理 解 で き る 言 九 二 い 方 で あ る 。 西 蔵 が 唐 代 に 西 域 を 侵 略 し ﹁ 長 駆 し て 長 安 を 攻 め ﹂ た 吐 蕃 (初 出 ﹁吐 蕃Bod-yul ﹂) の 国 で あ る こ と も ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 ﹂ に 見 え る 。 な お 、 ﹁カ ン チ ェ ン ジ ュ ン ガ ﹂ の 標 高 を 二 万 八 千 尺 と す る の は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁カ ン チ ン ジ ャ ン ガ 山 ﹂ に ﹁海 抜 八 五 八 〇 米 ﹂ と あ る の に 拠 っ た か 。 後 で 、 印 度 か ら ラ ッ サ へ 入 る の に ﹁カ ン チ ェ ン ジ ュ ン ガ の 西 の 鞍 部 、 二 万 三 千 尺 の ユ ン グ リ ン グ リ ラ 越   マ マ   え を し て ﹂ と あ る の が 、 同 項 の ﹁ ユ ン グ ソ ン グ リ ラ 越 (海 抜 約 七 〇 〇 〇 米 ) は こ の 北 を 横 断 し 、 ネ パ ー ル に 入 る 重 要 交 通 路 で あ る ﹂ と い う 記 述 に 拠 る と 思 わ れ る か ら で あ る 。 な お 、 ﹁今 な ら ﹂ ダ ー ジ リ ン か ら ラ ッ サ ま で 自 動 車 を 利 用 す れ ば ﹁ 五 日 ぐ ら ゐ で ﹂ (初 出 で は ﹁自 動 車 で 二 日 で ﹂) 行 け る 、 と い う 記 事 の 出 所 は 未 詳 。 但 し 、 前 出 ﹃ 世 界 地 理 風 俗 大 系 ﹄ に 拠 れ ば 、 拉 薩 ∼ ダ ー ジ リ ン 間 は ﹁僅 に 六 百 キ ロ ﹂ で 、 ヤ ク で も ﹁ 二 週 間 で 達 せ ら れ る ﹂ ( 一 九 八 頁 ) と い う が 、 瞼 岨 な 峠 を 越 え ね ば な ら ず 、 ﹁車 は ど ん な 小 さ い も の で も 、 解 体 し な け れ ば 通 ら ぬ 場 所 が 次 々 に あ る ﹂ (二 〇 六 頁 ) と い う 。 薬 師 義 美 ﹃ 雪 の 中 の チ ベ ッ ト ﹄ (平 1 ・ 10 小 学 館 刊 ) に 拠 れ ば 、 ラ サ ∼ シ ガ ツ ェ ∼ ギ ヤ ン ツ エ ∼ ヤ ー ト ン 間 に 幹 線 道 路 が 開 通 し た の は 一 九 五 七 年 一 月 で あ る か ら 、 初 出 と の 異 同 を 含 め 、 こ の 部 分 は 創 作 と 思 わ れ る 。 7 ラ マ 教 の 説 明 も 、 3 で 述 べ た ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁喇嘛 教 ﹂ の 記 事 と ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 九 章 一 な ど を 適 宜 撮 合 し た も の で あ ろ う 。

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続 く 土 葬 ・ 火 葬 ・ 水 葬 ・ 風 葬 の 説 明 は 、 ﹃西 蔵 旅 行 記 ﹄ 八 六 回 の ﹁不 可 思 議 な る 葬 式 ﹂ ﹁死 骸 の 料 理 ﹂ に 拠 る 。 8 ラ マ 教 徒 の 加 虐 性 を 記 す 、 伊 太 利 の 耶 蘇 会 士 イ ッ ポ リ ー ト . デ シ デ リ の 旅 行 記 の 記 述 は 、 デ シ デ リ の 書 に は 見 え な い (な お 、 ト ル ケ マ ダ の 紹 介 は 正 し い が 、 ア ル ベ に つ い て は 未 詳 )。 デ シ デ リ ﹃ チ ベ ッ ト の 報 告 ﹄ (平 3 ・ 12 、 4 ・ 1 平 凡 社 東 洋 文 庫 5 4 ぽ   2 、 5 4 3 。 薬 師 義 美 訳 )に 拠 れ ば 、 細 心 で 注 意 深 い 審 理 を 経 て 執 行 さ れ る 判 決 は 、︵ネ パ ー ル や イ ン ド で も 行 わ れ て い る が ) 以 下 の と お り で あ る 。 第 一 に 、 煮 え た ぎ っ た 油 を 入 れ た 瓶 に 白 と 黒 の 二 つ の 石 を 入 れ て お き 、 も し 火 傷 す る こ と な く 白 い 石 を 取 り 出 せ た ら 、 被 告 人 は 潔 白 だ と さ れ る 。 第 二 は 、 赤 く 焼 い て お い た 鉄 を 舐 め て 、 も し 舌 が 火 傷 し な け れ ば 、 被 告 人 は 潔 白 だ と い う も の 。 第 三 は 、 被 告 人 を 山 の 頂 き に 連 れ て 行 き 、 土 地 の 守 護 神 に 誓 い を た て さ せ 、 も し 嘘 を つ い た ら 彼 や 家 族 を 懲 ら し め る よ う に 守 護 神 に 祈 願 す る と い う も の 。 死 刑 に は 、 打 ち 首 の 他 、 川 に 水 漬 け し た 後 、 絞 首 台 に 繋 が れ て 死 ぬ ま で 矢 を 射 ら れ る 方 法 が あ る 。 泥 棒 に は 、 公 け の 場 で の 殴 打 か 、 手 を 失 う ・ 額 に 焼 印 を 押 し て 流 罪 に す る 、 な ど の 刑 罰 が 課 さ れ 、 告 発 さ れ て い な い 重 大 犯 罪 人 に は 、 口 を 両 側 に 裂 か れ る と い う 刑 罰 が 課 さ れ る 。 以 上 か ら 、 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ の 記 事 が 、 デ      シ デ リ の 報 告 に 拠 っ て い な い こ と は 明 瞭 で あ る 。 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 八 四 ∼ 五 回 に 拠 れ ば 、 西 蔵 の 拷 問 と 刑 罰 は 以 下 の 如 く で あ る 。 す な わ ち 、 窓 し か な い 石 牢 に 閉 じ 込 め る 。 割 竹 を 肉 と 爪 の 間 に 刺 し 込 ん で 爪 を 剥 が し 、 さ ら に 肉 と 皮 の 間 に 割 竹 を 刺 す 。 石 で拵 え た 帽 子 を 頭 に 載 せ る (五 ∼ 六 個 載 せ る う ち に 仕 舞 い に は 眼 の 球 が 外 に 飛 び 出 る 程 に な る )。 柳 の 太 い 生 棒 で 三 百 も 五 百 も 叩 く (仕 舞 い に は お臀 が 破 れ て 血 が迸 り 、 血 尿 が 出 る ) 。 余 程 楽 な 獄 屋 で も 土 塀 に 板 の 間 で 、 昼 も 殆 ど 真 っ 暗 、 食 物 も 一 日 一 度 、 麦 焦 し の 粉 二 握 り ず つ だ け で あ る 。 眼 球 を 挟 り 抜 く 刑 や 、 繰 り 返 し 泥 棒 し た も の に は 、 手 首 を 半 日 振 っ て 痺 れ さ せ た 上 で 手 首 を 切 断 す る 刑 も あ る 。 姦 夫 姦 婦 は 耳 剃 ・ 鼻 剃 の 刑 。 流 刑 に は 、 或 る 地 方 に 放 任 し て お く 場 合 と 、 牢 の 中 に 入 れ て 置 く 場 合 が あ る 。 死 刑 に は 、 生 き な が ら 皮 袋 に 入 れ て 水 中 に 放 り 込 む も の と 、 船 で 川 の 中 流 に 運 び 、 石 の 重 錘 を 付 け て 沈 め る も の が あ る 。 首 だ け 持 っ て 帰 り 、 瓶 に 入 れ て 或 る 堂 に 放 り 込 む 場 合 も あ る が 、 こ の 堂 に 入 れ ら れ る と 再 び 生 ま れ 変 わ る こ と が で き な い 。 死 後 ま で 制 約 す る 残 酷 な 刑 で あ る (後 述 )。 他 書 を 参 照 し て も 、 西 蔵 の 拷 問 ・ 刑 罰 に 関 し て こ れ 以 上 の 記 述 は 見 出 せ な か っ た 。 デ シ デ リ の 引 用 の 後 の (な お 、 初 出 で は 以 下 ﹁西 蔵 式 の カ ロ リ ナ 刑 法 ﹂ の 説 明 ま で が デ シ デ リ の 引 用 中 に 含 ま れ る ) 、 ﹁西 班 牙 や 独 逸 で は 、 石 炭 の 火 を 入 れ た ア イ ロ ン で 身 体 を 撫 で ま は す と 九 三 '

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 か 、 蝋 燭 の 火 で 気 長 に 腋 を 焼 く ぐ ら ゐ の こ と し か し な い が ﹂ は 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁拷 問 ﹂ の 、 欧 州 で は ﹁長 い 梯 子 の 上 に 囚 人 を 緊 縛 し て 、 烈 火 を 盛 つ た 鉄 鍋 で 体 部 を 撫 で ま は し ﹂ や ﹁中 世 末 期 以 来 の 欧 洲 の 拷 問 に は 、 両 手 足 を 梯 子 の 上 下 に 引 張 り 縛 し 、 そ の 両 手 の 腋 下 を 蝋 燭 の 火 で 焼 く 火 拷 問 の 法 が あ つ た ﹂ に 拠 ろ う 。 続 く ﹁西 蔵 式 の カ ロ リ ナ 刑 法 ﹂ の 説 明 で 、 ﹁カ ロ リ ナ 刑 法 か ら 餓 死 の 部 を 引 き 去 り 、 そ れ に ハ ン ブ ル グ の 鎖 拷 問 と 西 班 牙 の 拘 搾 拷 問 を 附 け 加 へ た も の で あ る ﹂ と す る の も 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁刑 罰 ﹂ の ﹁ 一 五 三 二 年 ﹁カ ロ リ ナ 刑 法 ﹂ の 永 久 的 拘 禁 の 如 き は 徐 に 死 に 導 く 手 段 に 外 な ら な か つ た ﹂ と 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁拷 問 ﹂ で ﹁駿 河 間 状 ﹂ を 説 明 す る 際 の ﹁西 洋 に 於 け る 圧 迫 拷 問 に 吊 し を 加 へ た や う な も の で 、 ド イ ツ の ハ ン ブ ル グ 拷 問 の 鎖 拷 問 に 比 す べ き も の ﹂ と い う 記 述 を 撮 合 し た も の で あ ろ う 。 カ ロ リ ー ナ 刑 法 と は 刑 事 法 典 の 名 称 で あ り 、 そ の 内 の 永 久 的 拘 禁 の 説 明 を 久 生 十 蘭 は 刑 罰 の 一 種 と 誤 解 し た の で は あ る ま い か 。 西 蔵 関 係 の み な ら ず 、 (宮 武 ) 外 骨 ﹃私 刑 類 纂 ﹄ (大 11 ・ 10 半 狂 堂 刊 。 大 12 ・ 6 再 版 )、 沢 田 撫 松 ﹃変 態 刑 罰 史 ﹄ (大 15 ・ 7 文 芸 資 料 研 究 会 刊 ) 、 坂 ノ 上 言 夫 ﹃ 拷 問 史 ﹄ (大 15 ・ 8 坂 本 書 店 刊 )、 ジ ヨ ン ・ ス ウ ェ イ ン 著 、 大 場 正 史 訳 ﹃ 西 洋 拷 問 刑 罰 史 ﹄ (昭 43 ・ 7 雄 山 閣 出 版 刊 )、 名 和 弓 雄 ﹃拷 問 刑 罰 史 ﹄ (昭 62 ・ 12 雄 山 閣 出 版 刊  、 桐 生 操 ﹃美 し き 拷 問 の 本 ﹄ (平 6 ・ 九 四 7 角 川 書 店 刊 ) な ど を 参 照 す れ ば 、 例 え ば 歯 を 抜 く 拷 問 は ル ネ サ ン ス 時 代 の ロ ー マ で 、 窮 屈 な 暗 い 部 屋 で 身 体 を 折 り 曲 げ さ せ る 拷 問 は ロ ン ド ン 塔 で 、 各 々 行 わ れ た 例 が 見 出 せ る 。 し か し 、 父 子 が 互 (10)   い に 歯 を 抜 き 合 い 、 さ ら に 脳 天 へ 金 槌 で 打 ち 込 む と か 、 硫 黄 の 溶 体 を 身 体 に 塗 り 付 け 、 受 刑 者 が 消 そ う と す れ ば す る 程 面 積 が 広 が る と か 、 橿 の 中 で 鎖 に つ な が れ た ま ま 五 年 か ら 二 十 年 も 生 か さ れ  こ る と か い う よ う な 、 ﹁刑 僧 は 直 接 な に も し な い ﹂ で ﹁受 刑 者 の 自 由 意 志 に 任 か せ る ﹂ と い う や り 方 は 、 類 例 を 見 出 し 難 い 。 実 際 の デ シ デ リ の 旅 行 記 に 見 え な い こ と 、 そ の 引 用 の 終 り が 初 出 と 底 本 と で 相 違 す る こ と 、 他 の 文 献 か ら も 類 似 の 記 述 を 未 だ 見 出 せ な い こ と か ら 、 こ の 部 分 は 久 生 十 蘭 の 創 作 で は な い か と 思 わ れ る 。 9 カ プ チ ン 派 の 伝 道 士 フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ に よ る 、 ラ マ 法 皇 の 悲 劇 的 な 境 遇 に つ い て の 報 告 の う ち 、 初 め の 部 分 は ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 ﹂ に 拠 る 。 す な わ ち 、 そ の ラ マ 教 中 に は 、 旧 教 た る 紅 教 と 、 新 教 た る 黄 教 と が あ り 、 [略 ] 達Dalai, 班 禅Panshen の 両 大喇嘛 は 黄 教 の 貫 主 を 以 て 政 治 上 の 首 長 た る 位 置 を 占 め て ゐ る 。 内 政 上 は 達 頼喇嘛 を 首 長 (王 ) と す る 拉 薩 政 府 が あ つ て 西 蔵 の 政 務 を シ ガ ツ エ   掌 り 、 下 に 副 王 た る 班 禅喇嘛 が あ つ て 、 日 喀 則 の 札 什 倫 布 廟Tashilumbo に 政廰 を 有 し 、 [略 ] 。

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パ ス パ ク ビ ラ イ 元 朝 の 初 め 高 僧 発 思 巴 出 で 、 世 祖 忽 必 烈 の 厚 遇 を 受 け 、 [略 ] 。 世 祖 は 発 思 巴 を 尊 ん で 国 師 と な し 、 封 じ て 大 宝 法 王 と な し て 西 蔵 の 地 を 領 せ し め 、 政 教 の 大 権 を 統 治 せ し め た 。 そ れ 以 後 、 西 蔵 に 於 て は 法 王 が 国 政 を 執 る こ と と な つ た 。 フ ビ ラ イ ﹃新 西 遊 記 ﹄ で は ﹁忽 必 烈 が ラ マ 新 教 に 帰 依 し ﹂ と あ る が 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ で は 、 明 朝 の 懐 柔 政 策 に よ っ て 僧 侶 が 奢侈 怠 惰 に 流 れ た の で ﹁宗 喀 巴 ﹂ と い う 者 が 宗 教 改 革 を 行 い 、 新 派 た る 黄 教 を 開 い た と あ り 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁喇嘛 教 ﹂ ほ か に 拠 っ て も こ れ が 正 し い 。 続 く 部 分 も 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 ﹂ の そ の 後 、 国 王 た り し 者 出 家 し て 第 一 世 達 頼喇嘛 と な つ て か ら こ こ に 政 教 全 く 一 致 し 、 爾 来 達 頼喇嘛 は 国 王 と 法 王 と を 兼 ね る こ と と な つ た 。 清 朝 に 入 り て 、 聖 祖 は 康 煕 五 十 九 年 に 西 蔵 の 内 乱 に 乗 じ て 拉 薩 に 攻 め 入 り 、 内 乱 を 平 定 し た が 、 [略 ] 。 こ れ よ り 以 後 、 清 は 鎮 撫 を 名 と し て 二 千 の 支 那 兵 を 西 蔵 国 内 に 駐 め 、 ま た 駐 蔵 大 臣 を 拉 薩 に 置 い て 国 政 を 監 督 せ し め 、 清 の 領 土 と し て こ れ を 確 保 せ ん と し た 。 に 拠 る (但 し 、 ﹁駐 蔵 大 臣 ﹂ の こ と を ﹃新 西 遊 記 ﹄ で は ﹁督 弁 政 務 使 ﹂ と 称 す る が 、 そ の 出 所 は 未 詳 )。 ま た 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で ﹁五 世 貫 主 は 政 教 を 統 一 し て 大 僧 正 と 国 王 を 兼 ね る 事 実 上 の 法 皇 (ダ ラ イ ラ マ ) 第 一 世 と な り ﹂ は 、 さ き の ﹁西 蔵 ﹂ の 記 事 と と も に 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁劇 噺 教 ﹂ の ﹁徳 行 派 は い は ゆ る 黄 帽 派 で あ る が 、 次 第 に 教 勢 を 拡 張 し 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 第 五 代 の 法 王 ナ グ ワ ン ・ ロ ー ツ ァ ンNagwan Lozang に 至 り 、 全 く 西 蔵 の 政 教 を 統 一 し て 法 王 と 君 主 と の 両 権 を 併 せ ﹂ と あ る 記 事 に 拠 っ た も の で あ ろ う 。 す な わ ち 、 新 教 第 五 代 法 王 が 国 王 を 兼 ね る よ う に な っ て 第 一 世 達 頼喇嘛 と な っ た 、 と 久 生 十 蘭 は 考 え た の で あ る 。 し か し こ れ は 誤 り で 、 ﹁達 頼喇嘛 ﹂ は 新 教 の 指 導 者 の 称 で あ り 、 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁喇嘛 教 ﹂ の い う よ う に 第 五 代 法 王 (達 頼喇嘛 ) の と き に 国 王 を 兼 ね る よ う に な っ た 、 と い う の が 正 し い 。 国 王 が 出 家 し て 第 一 世 達 頼喇嘛 に な っ た 、 と い う ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 ﹂ の 記 事 を 信 じ た 上 に 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 九 二 回 で 薪 教 第 五 代 の 法 王 が モ ン ゴ リ ヤ の 王 か ら 権 を 与 え ら れ た (﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 七 章 一 を も 参 照 ) と い う の を ﹁忽 必 烈 ﹂ の こ と と 誤 解 し た 結 果 で あ ろ う 。 つ づ く フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ の 報 告 の 引 用 も 、 注 (9 ) のC, R, Markham の 著 書

のAppendix III "Brief Account of the Kingdom of Tibet, by Fra Francesco Orazio della Penna di

Billi,1730" に は 見 え な い 。 こ の 部 分 の 記 述 は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 九 二 ∼ 三 回 に 一 致 す る 。 第 四 代 ま で は 自 分 の 生 ま れ 変 わ る 所 を 言 い 残 し て 死 ん だ が 、 第 五 代 以 降 そ れ が な く な っ た の で 、 四 つ に 寺 に 神 下 し を 置 い て そ れ に 尋 ね る よ う に な っ た 。 と こ ろ が 四 人 の 神 下 し の 言 う こ と が 区 々 で 、 生 ま れ 変 わ り の 候 補 者 が 三 ∼ 四 人 で き る と 、 五 歳 に な る の を 待 っ て 拉 薩 に 迎 え 、 高 位 高 官 立 会 い の 下 、 ﹁欽 差 駐 九 五

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 蔵 大 臣 ﹂ が 黄 金 の 甕 の よ う な 物 の 中 に 入 れ て あ る 名 を 象 牙 の 箸 で 一 つ 摘 み 出 す 。 子 が 法 王 に な れ ば 財 産 も 多 く 得 ら れ る の で 、 首 尾 よ く 自 分 の 子 が 摘 ま れ る よ う に 賄 賂 が 横 行 し て い る 、 と い う 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ と の 異 同 は 、 名 を 書 い た 紙 が ﹁繭 玉 ﹂ に 封 じ 込 ん で あ る と す る 点 と 、 摘 み 出 す 人 が ﹁督 弁 政 務 使 ﹂ で あ る 点 の み で あ る 。 な お 、 ﹃西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 七 章 に も ほ ぼ 同 内 容 で 載 せ る が 、 ﹁ 二 、 法 王 位 は 降 生 的 に 継 承 ﹂ と い う の が ﹃新 西 遊 記 ﹄ の ﹁降 生 的 に 法 皇 の 位 を つ ぐ ﹂ に 近 い こ と 以 外 、 こ の 部 分 は 概 ね ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ と 重 な る 。 法 王 が 聡 明 だ と 近 臣 が う ま い 汁 を 吸 え な い の で 、 ﹁ 三 代 か ら 七 代 ま で 、 五 人 の 法 皇 ﹂ (初 出 で は ﹁+ 二 人 の 法 皇 ﹂ ) が 二 五 ま で に 毒 殺 さ れ た ら し い と い う 部 分 は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 七 〇 回 末 尾 で 、 ﹁八 代 か ら 前 十 二 代 ま で ﹂ の 法 王 (慧 海 の 会 っ た 法 王 は 第 ± 二 代 ) が 皆 ﹁歳 二 十 五 ま で ﹂ に ﹁毒 殺 ﹂ さ れ た 、 と あ る の に 拠 ろ う 。 初 出 は ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ に 近 い が 、 フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ の 入 蔵 時 期 ( 一 七 一 九 ) に よ っ て 繰 り 上 げ た も の で あ ろ う 。 ﹁法 皇 は 観 音 菩 薩 の 化 身 ﹂ と い う の も 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 一 一 八 回 に ﹁法 王 其 人 は 活 き た る 観 世 音 菩 薩 と 信 ず る ﹂ な ど と あ る の に 拠 ダ ラ イ ラ マ ろ う ( ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 一 編 七 章 八 に も ﹁ 達 頼喇嘛 は 観 音 菩 薩 の 化 身 ﹂ と あ り 、 ポ タ ラ ニ 編 五 章 一 . 十 六 章 二 に も 同 内 容 の 語 句 あ り 。 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁ 布 達 拉 ﹂ の 項 に も ﹁ 達 頼喇嘛 は 自 ら 観 音 の 化 身 な り と の 信 念 を 抱 き を る 故 に 、 ﹂ な ど と 見 九 六 え る ) 。 感 冒 を こ じ ら せ た だ け に 見 え る 八 代 の 法 皇 (初 出 で は ﹁+ 二 代 の 法 皇 ﹂) が 、祈祷 と 治 療 の 末 逝 去 し た 話 は 、 主 と し て ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 一 〇 五 回 に 拠 る 。 す な わ ち 、 病 気 は 悪 魔 、 厄 鬼 、 死 霊 に 因 る も の で あ る か ら 、 ま ず祈祷 の 秘 密 法 に よ っ て 悪魔 を 払 わ ね ば な ら ラ ク シ ャ キ な い 。 そ こ で ラ マ が ﹁郎 苦 叉 鬼 ﹂ (な お 八 六 回 末 尾 で は ﹁羅 苦 叉 鬼 ﹂ と ク ハ ン ダ キ 表 記 ) 或 い は ﹁鳩 盤 陀 鬼 ﹂ の 崇 り な ど と 判 断 し て 、 秘 密 の 法 を 三 日 な り 四 日 な り 修 め 、 五 日 後 に や っ と 医 者 を 迎 え る 。 今 日 医 者 を 迎 え れ ば 助 か る 病 人 も 、 そ の た め 死 ぬ こ と に な る 。 医 者 も 殆 ど 病 気 を 治 す 方 法 を 知 ら ず 、 聞 き 伝 え で や っ て い る 。 そ の 薬 の 中 に は す べ て ツ ア ー 、 ツ ク と い う 草 の 根 の 毒 が 入 っ て お り 、 こ れ は 一 種 の 興 奮 剤 で あ る た め 、 多 量 に 服 用 す る と 身 体 の 各 部 に 痺 れ が 、 少 量 で も 非 常 な 下 痢 を 生 ず る こ と が あ る 。 こ れ は 病 人 に 何 ら か の 変 化 を 与 え 、 利 い た よ う に 見 え る か ら 、 医 者 は ど ん な 薬 に も ツ ア ー 、 ツ ク を 入 れ る の だ が 、 病 人 は 堪 っ た も の で は な い 。 む し ろ 、 自 然 療 法 或 い は 信 仰 的 療 法 の 方 が よ い 、 と あ る 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で 、 厄 鬼 の 逃 げ 道 を 作 る た め 窓 を す べ て 開 け る と い う の は 、 祈祷 に よ っ て 病 気 が 悪 化 す る の を 強 調 す る た め の 改 変 で あ ろ う 。 続 く瀉 血 の 方 法 、 下 剤 ・ 吐 剤 ・ 鎮 咳 剤 ・ 下 熱 剤 ・ 強 心 剤 の 成 分 に 関 す る 材 源 は 未 詳 。瀉 血 療 法 は 、 後 述 す る ユ ッ ク ﹃   鞄 ・ 西 蔵 ・ 支 那 旅 行 記 ﹄ 下 に も 記 述 が あ る 。 ま た 薬 剤 に つ い て は 、 鈴 木 孝 之 助 訳 補 ・ 刊

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﹃改正増補 詳 約 薬 物 学 ﹄ (明 14 ・ 1 版 権 免 許 、 明 31 ・ 8 六 版 )、 森 島 庫 太 ﹃ 薬 物 学 ﹄ (明 45 ・ 5 初 版 、 大 11 ・ 4 増 補 第 = 版 、 南 江 堂 書 店 刊 )、 斎 藤 菊 寿 ・ 松 島 実 ﹃ 薬 草 漢 薬 民 間 療 法 ﹄ (昭 5 ・ 3 初 版 、 昭 10 ・ 6 一 二 版 、 三 省 堂 刊 ) 以 下 、 ﹃ 薬 用 植 物 学 提 要 ﹄ (昭 35 ・ 4 医 歯 薬 出 版 株 式 会 社 刊 )、 ﹃ 薬 用 植 物 事 典 ﹄ (昭 41 ・ 12 福 村 出 版 株 式 会 社 刊 )、 ﹃ 原 色 牧 野 和 漢 薬 草 大 図 鑑 ﹄ (昭 63 ・ 10 北 隆 館 刊 ) 等 を 参 照 し た が 、 芥 子 (発 泡 膏 ) ・檳 榔 子 (駆 虫 薬 ) ・ タ マ リ ン ド (下 剤 ) ・ 印 度 大 麻 (興 奮 剤 ) ・ 樟 脳 精 (強 心 剤 ) 以 外 は 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で 述 べ ら れ た 薬 効 を 認 め が た い 。 な お 、 ヤ ク の 糞 ・ 芸 香 ・ 銭 苔 ・羚 羊 の 生 血 ・ 猿 の 脳 エ キ ス の 薬 効 は 未 詳 。 計 量 単 位 に つ い て も 未 詳 。 ま た 、 本 節 8 の 囚 人 の ﹁延 命 薬 ﹂ に つ い て 、 初 出 は ﹁麝 香 精 と 鹿 耳 を 混 合 し た 延 命 薬 ﹂ と す る が 、麝 香 精 に は ろ く じ ょ う 強 心 剤 の 作 用 が あ る も の の 、 ﹁鹿 耳 ﹂ は 未 詳 。 ﹁鹿 茸 ﹂ (雄 鹿 の 幼 角 を 乾 燥 さ せ た も の ) な ら 強 精 作 用 が あ る 。 或 い は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 九 七 回 の 、 ﹁支 那 で は 身 体 を 壮 健 に し て 寿 命 を 長 く ﹂ す る 効 き 目 を 持 は う ろ く け つ か く つ と い う ﹁ シ ヤ ー 、 イ 、 タ ク ラ i 即 ち / 宝 鹿 の 血 角 ﹂ を も 意 識 す る か 。 10 キ ル ヘ ル の ﹁支 那 図 説 ﹂ 中 に 収 録 さ れ た ル イ ・ ド ル ヴ イ ル の 旅 行 記 の 引 用 も 、

。"La Chine d'Athanase Kircher De la

Compagnie de Jesus, Illustree de plufieurs Monuments Tant

西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅

Sacree que Profanes, Et de quantite de Recherches de laNature & de l'Art",Amsterdam,(1664 Jean Paul Oliva

の 序 文,1970刊)のCHAP,IV ( 91 ∼104 項 ) に 収 録 さ れ

た"Des diverses Coustumes, Moeurs, & habits que ces deux Peres Albert Dorville, & le P.Grubere ont observees, & depaintes en (12)

passant dans ces Royaumes"

に 拠 れ ば 、 該 当 す る も の は 見 え な い 。 引 用 が 始 ま る 直 前 の ﹁周 囲 約 一 マ イ ル 、 延 長 三 十 八 マ イ ル の 廻 廊 を め ぐ ら す 大 宮 殿 ﹂ に つ い て は 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 五 章 一 の ﹁達 お よ そ マ イ ル 頼喇嘛 の 宮 城 は 、 [略 ] 全 周 [略 ] 約 一 哩 に 及 び ﹂ と 、 二 編 六 章 六 の ﹁拉 薩 市 街 、 ポ タ ラ 宮 城 及 び チ ヤ ポ リ 山 等 を 含 め る 地 域 を 不 正 楕 円 形 に 一 周 す る 循 環 路 ﹂ の ﹁延 長 は 約 六 哩 あ る ﹂ に 基 づ く か (﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 八 九 回 に 拠 れ ば ﹁リ ン コ ル (廻 道 ) ﹂ は ﹁凡 そ 三 里 程 あ る ﹂ と い う )。 ﹁ 二 万 の 学 徒 を 収 容 す る 三 つ の 大 学 ﹂ と は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 六 三 回 に 、 レ ー ブ ン ・ セ ラ ・ ガ ン デ ン の 三 大 学 の 人 数 を そ れ ぞ れ 七 千 七 百 ・ 五 千 五 百 二 二 千 三 百 、 計 一 万 六 千 五 百 と し つ つ 、 レ ー ブ ン 寺 で 最 大 九 千 人 の と き が あ る よ う に 増 減 が あ る 、 と 言 っ て い る こ と か ら 、 概 数 二 万 と し た も の か 。 後 述 す る ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁拉 薩 ﹂ で も 、 こ れ ら 三 大 学 と ﹁仏 教 大 学 の 学 侶 (約 七 千 )﹂ を 併 せ て ﹁ 一 万 九 七

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 数 千 に 達 し ﹂ と あ る 。 ド ル ヴ ィ ル の 旅 行 記 の 引 用 は 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ に 見 え る 、 拉 薩 の 美 し さ を 語 っ た 部 分 や ポ タ ラ 宮 の 説 明 に 拠 っ て 、 久 生 十 蘭 流 に 創 作 し た も の と 思 わ れ る 。 例 え ば 、 現 在 人 口 に膾 灸 せ ら るゝ ポ タ ン マ ー ボ (赤 王 宮 ) は 王 城 の 中 央 宮 と し て 、 他 の 城 塁 か ら 特 立 し て 高 壁 紫 紅 の 光 を 放 ち 、 金 蓋 燦 然 と し て 天 を 摩 せ ん と し 、 大 理 石 の 様 な 白 壁 の 城 郭 と 照 映 え て 壮 麗 を 極 め 、 荒寥 た ラ ツ サ る 万 里 の 山 野 を 蹟 渉 し て 拉 薩 に 入 れ る 中 亜 及 び 蒙 蔵 の 仏 徒 を し て 憧 憬 た ま も の 讃 仰 せ し む る は 彼 の 執 権 が 畢 生 の 努 力 の 費 で 、 ( 二 編 五 章 三 ) 正 面 (南 面 ) か ら す れ ば 東 、 西 、 南 の 三 つ の 大 門 が あ つ て 、 ( 二 編 五 章 四 ) や ま い は う が す く な 山 巌 を 深 く 穿 ち て 基 礎 を 固 め た 裾 の 方 の 城 壁 は 砂 く と も 二 間 乃 至 三 問 の 厚 さ を 保 つ て 居 る で あ ら う 、 ( 二 編 五 章 六 ) そ ば い な づ ま が た 道 は 城 内 の 石 柱 の 側 か ら 石 段 を 拾 う て 電 光 形 に 本 城 の 門 口 ま で 登 り 詰 め る (同 ) 本 丸 内 に 入 れ ば 薄 暗 い 覆 道 や 階 段 が 上 下 四 方 に 通 じ て 複 雑 を 極 め て 居 る の で 数 十 回 往 復 し た 者 さ へ 時 々 方 向 を 誤 つ て 迷 路 に マ ゴ つ く さ う で ポ タ ン マ   ボ ほ か あ る 、 所 謂 赤 王 宮 に は 宮 殿 の 外 に 霊 廟 、 仏 殿 、 拝 殿 等 が あ る 、 玉 殿 は 新 旧 二 箇 所 に 分 れ 、 旧 殿 に は 方 十 間 許 り の 広 間 が あ つ て 天 井 は 割 合 に た い と は り ゑ が 低 く 丹 塗 柱 の 大 斗 と 梁 と に は 草 花 の 模 様 を 画 き 、 神 獣 な ど を 彫 刻 し た 九 八 き り は め ざ い く 外 に剪 嵌 細 工 を 為 し 、 極 彩 色 を 施 し て あ る 、 黄 色 の 壁 に は 神 仏 聖 者 、 曼 茶 羅 、 草 花 禽 獣 な ど の 壁 画 が あ る 、 ( 二 編 五 章 七 ) 拉 薩 の リ ン コ ル (界 環 道 ) に 沿 う て 右 廻 り に 進 む と 幾 多 の 僧 俗 男 女 [略 ] に 交 つ て 例 の チ ヤ ツ エ ル ( 五 体 投 地 稽 首 作 礼 ) を 行 ひ 、 一 礼 毎 に 自 分 た け ま み の 身 の 長 だ け 進 み 砂 塵 に 塗 れ な が ら 苦 行 を 意 と し な い 篤 信 徒 を も 目 撃 す る で あ ら う 、 (二 編 六 章 六 ) な ど は 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ に お け る ﹁ポ ン タ マ ー ・ ホ (玉 の 宮 殿 の 意 ) ﹂ ﹁電 光 形 の 石 階 と 、 迷 路 の や う に 上 下 八 方 に 通 じ て ゐ る 暗 道 ﹂ ﹁大 斗 ﹂ ﹁神 獣 ﹂ 等 の 語 句 を 含 み 、 ま た は 近 い 記 述 を 持 つ か ら 、 こ れ ら に 拠 っ ハお   た こ と が 明 ら か と な る 。 11 ト ン ブ ゥ ク ツ ー の 記 述 の 材 源 は 未 詳 。 拉 薩 の 大 学 の 名 を ﹁デ プ ン 、 セ ラ 、 ガ ル ダ ン ﹂ (初 出 で は そ れ ぞ

れDepung, Sera, Galdan

と ア ル フ ァ ベ ッ ト を 併 記 ) と す る の は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁拉 薩 ﹂ に 拠 る 。 そ れ ぞ れ ﹁別 蛙 寺 ﹂ ﹁色 劇 ﹂ ﹁甘 丹 ﹂ の 字 を あ て る が 、 発 音 は そ の ア ハ ぬ リ ル フ ァ ベ ッ ト 表 記 に 拠 っ た も の で あ ろ う 。 続 く 三 つ の ﹁ タ ー サ ン (部 ) ﹂ 、 各 々 十 八 の ﹁ カ ム ツ ァ ン (科 ) ﹂ は ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 六 四 回 末 尾 に 拠 ろ う 。 但 し ﹁ ン ガ ク 、 バ 、 タ ー サ ン ﹂ に は カ ム ツ ア ン が な い 。 学 生 数 ﹁ 二 万 五 千 ﹂ と い う の も 、 先 の ﹁ 二 万 ﹂ と い う 数 値 と齟齬 し 、 不 審 (但 し 、 初 出 の よ う に 、 ド ル ヴ イ ル の 引 用 が 、 次 の 、 世 界 宗 教 の 経 典 が 原 本 の ま ま 残 っ て い る と い う 部 分 ま で

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だ と す る と 、 一 七 世 紀 の 記 録 で あ る か ら 矛 盾 は な い )。 学 生 が 、 ブ ラ ー フ ミ i ・ ゾ ク ト 語 ・ ウ ィ ー グ ル 語 な ど の 死 語 で 仏 典 や 経 論 の 研 究 を し て い る と か 、 唐 拓 ・? 教 ・ 摩 尼 教 ・ 景 教 ・ ザ ラ ツ シ ト ラ 教 等 世 界 宗 教 の 経 典 の 原 本 が あ る と い う の も 、 諸 書 に 見 え な い 。 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ に 拠 れ ば 、 ﹁ブ ラ ー フ ミ ー 文 宇 ﹂ は ﹁梵 字 ﹂ の 一 種 で あ り 、 ﹁北 方 セ ム 系 文 字 の 最 古 系 か ら 派 生 し た も の で 、 西 紀 前 三 世 紀 頃 に は 既 に 十 分 な る 発 達 を 遂 げ て ゐ た が ﹂ 云 々 と あ り 、 西 蔵 文 字 は ブ ラ ー フ ミ ー 文 字 の 北 方 系 に 属 す る ﹁ナ ー ガ リ ー 系 文 字 ﹂ に 属 す る と い う ( ﹁梵 字 ﹂︶ 。 ﹁ ソ グ ド 語 ﹂ は 中 世 ペ ル シ ャ 語 に 属 す る (同 ﹁ペ ル シ ャ 語 ﹂) 。 ま た? 厭 教 は ﹁ペ ル シ ャ の 拝 火 教 の 支 那 に 入 つ た も の ﹂ (同 ﹁厭 教 ﹂) で あ る (拝 火 教 は ﹁ザ ラ ツ シ ト ラ 教 ﹂ に 同 じ )。 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 七 九 回 冒 頭 で 言 う よ う に 、 西 蔵 人 が 怠 惰 で 、 五 百 人 中 四 百 五 十 人 が ﹁屑 の 方 ﹂ で あ る と す れ ば 、 こ の 部 分 は 西 蔵 の 大 学 を 神 秘 化 し た 創 作 と 思 わ れ る 。 12 ル ネ ・ ヵ イ エ が ア フ リ カ の ト ン ブ ゥ ク ツ ー を 見 て 帰 っ た 後 、 世 界 地 図 の 空 白 部 は 西 蔵 だ け に な っ た と い う の は 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 一 章 一 で ﹁阿 弗 利 加 も 、 中 央 亜 細 亜 も 殆 ど 探 険 し 尽 さ れ 、 [略 ] 独 り 西 蔵 の み は [略 ] 今 尚 太 古 に 等 し い 未 開 の 状 態 に 放 置 せ ら れ ﹂ に 拠 る か 。 但 し ル ネ ・ カ イ エ の 話 に つ い て は 未 詳 。 マ イ エ ン グ を 始 め と す る 西 欧 人 が 鎖 国 下 の 入 蔵 に 挑 戦 し た と い 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 う 部 分 は 、 初 出 で は 以 下 ヘ デ イ ン ま で 、 年 次 と 名 前 が 列 記 さ れ て い る 。 す な わ ち 、 ト ー マ ス ・ マ イ エ ン グ ( 一 八 = ) 、 ア レ キ サ ン ダ ー ・ ヨ ロ ス ( 一 八 二 〇 ) 、 ユ ッ ク 及 び ガ ベ ェ ( 一 八 四 四 ) 、 モ ン ト ゴ メ リ i 少 佐 の 探 険 隊 ( 一 八 六 六 ) 、 プ ル ジ ェ ワ ル ス キ i 将 軍 ( 一 八 七 三 ) 、 ベ ラ ・ ス ゼ チ ニ ー 伯 爵 ( 一 八 七 三 ) 、 グ ロ ム チ ェ フ ス キ ー ・ ヴ ト ソ フ 、 ル イ ・ ボ ン ヴ ァ ロ ォ 、 ヘ ン リ ー ・ ロ ッ ク ヒ ル ( い ず れ も 一 八 八 九 ) 、 パ ウ ェ ル ・ リ i 及 び ト ゥ ロ イ ド 博 士 ( 一 八 九 一 ) 、 ア ン ニ i ・ テ ー プ i ( 一 八 九 二 ) 、 オ ゥ ト レ ル ・ ド ・ ラ ン ス 及 び ル ネ ・ グ ル ナ ル ド ( 一 八 九 三 ) 、 ジ ョ ー ジ ・ リ ッ ト ル デ ー ル 夫 妻 ( 一 八 九 五 ) 、 ウ ェ ル ビ ー 大 尉 及 び デ シ ー 大 尉 、 ス ウ ェ ン ・ ヘ デ イ ン ( い ず れ も 一 八 九 六 ) で あ る 。 こ れ ら に 、 前 出 の イ ッ ポ リ ー ト ・ デ シ デ リ (初 出 ﹁イ ッ ポ リ ! ト ・ デ シ デ ル リ ﹂ ) 、 フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ (同 ﹁ フ ラ ン シ ス コ ・ ラ ・ ペ ン ナ ﹂ ) 、 ル イ ・ ド ル ヴ イ ル と キ ル ヘ ル ( 同 ﹁ ル イ ・ ド ル ヴ ェ ー エ ﹂ 。 キ ル ヘ ル の 名 は な く 、 ド ル ヴ ェ ー エ が ﹁ 百 五 十 年 後 の 一 八 〇 二 年 、 ﹁蜃 気 楼 の 国 ﹂Pay de mirage と い ふ 表 題 で 複 刻 さ れ た ﹂ 旅 行 記 を 書 い た と す る ) の 名 を 加 え た 、 そ の 出 所 は 未 詳 で あ る (さ き に 述 べ た よ う に 、 ド ル ヴ ェ ー エ の ﹁蜃 唇 気 楼 の 国 ﹂ な る 書 は 創 作 ) 。 但 し 、 そ の い く つ か に 言 及 し た 文 献 は 存 在 す る 。 例 え ば 、 ヘ デ イ ン ﹃ 禁 断 秘 密 の 国 ﹄ ( 田 中 隆 泰 訳 。 昭 18 ・ 7 青 葉 書 房 刊 ) に 記 さ れ た 名 の 内 で 、 関 係 す る も の を 古 い 方 か ら 順 に 挙 げ る と 次 の と お り で あ 九 九

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 る ( 適 宜 原 綴 を 記 し た 。 括 弧 内 は 入 蔵 ま た は 関 係 す る 年 号 ) 。 耶 蘇 会 士 グ リ ュ ー ベ ル と ド ル ヴ イ ユ 。 一 六 六 一 北 京 出 発 。 旅 行 の 記 述 は ア タ ナ シ ウ ス ・ キ ル ヘ ル (Athanasius Kircher ) の ﹁ 支 那 図 説 ﹂ (China Illustrata 1667 ) に 編 輯 収 録 。 カ プ チ ン 派 の 僧 デ ラ ・ ペ ン ナ ( 一 七 〇 八 入 蔵 ) 。 彼 は 宮 廷 に 取 り 入 り 、 勢 力 争 い の 末 、 耶 蘇 会 士 イ ツ ポ リ ト ・ デ シ デ リ ( 一 七 一 五 拉 薩 入 り 。 ﹁ 西 蔵 ﹂

(Il Tibet, Geografia Storia,Religione, Costumi 1729

) の 著 が あ る ) を 国 外 追 放 ( 一 七 二 九 ) 。 ヘ ユ ー ク (Huc, E. R. 1813-1860 ) と ガ ベ ー ( 一 八 四 六 拉 薩 到 着 。 そ の 旅 行 記 は ﹁韃靼 、 西 蔵 及 び 支 那 旅 行 記 ﹂ 上 下 ) 。 プ ル ジ ェ ブ ル ス キ イ ( 一 八 七 〇 1 三 、 七 六 -七 、 七 九 ー 八 〇 、 八 三 -五 、 八 八 。 何 度 か 入 蔵 す る も 拉 薩 に は 到 達 せ ず ) 。 、 G ・ ボ ン ヴ ア ロ 、 ア ン リ ・ ド ル レ ア ン 公 、 デ ・ デ ツ ケ ン ( 三 者 と も に 一 八 八 九 i 九 〇 西 蔵 を 通 過 ) 。 デ ュ ト ル イ ユ ・ ド ・ ラ ン ス (Dutreuil de Rhins 。 一 八 九 四 年喇嘛 僧 に 暗 殺 ) 、 F ・ グ レ ナ ー ル (F. Grenard. ド ・ ラ ン ス の 同 行 者 ) 。 ハ マ マ ロ W ・ W ・ ロ ッ ク ヒ ル ( ﹁ 一 八 八 八 八 九 年 1 一 八 九 一 ー 九 二 年 ﹄ ) 。 リ ッ ル デ ー ル 。 ま た 注 (4 ) の ﹃ 西 蔵 ・ 印 度 の 文 化 ﹄ の ﹁ 欧 西 諸 国 の 西 蔵 探 検 ﹂ か ら 挙 げ る と 、 以 下 の 通 り 。 へ 一 〇 〇 耶 蘇 会 士 ヨ ハ ネ ス ・ グ リ ュ ー ベ ル 師 と ア ル ペ ー ル ・ ド ル ヴ イ ユ 師 ( ﹁ ア タ ナ シ ウ ス ・ キ ル ヒ ェ ル 師 ﹂ は 提 供 さ れ た 記 録 を 編 輯 し て ﹁ 絵 入 の 大 著 ﹁支 那 ﹂ ﹂ に 発 表 ) 。 デ シ デ リ 師 と フ レ ー ル 師 ( 一 七 一 五 -六 入 蔵 。 二 九 年 ま で 拉 薩 に 滞 留 ) 。 カ プ チ ン 派 オ ラ チ ォ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ ( 著 書 に ﹁西 蔵 管 見 ﹂ 嵩 N ㊤ が あ る ) 。 ト ー マ ス . マ ニ ン グ (Thomas manning , 一 八 一 一 入 蔵 ) 。 ラ ザ リ ス ト 教 派 ユ ッ ク 師 と ガ ベ ー 師 ( 一 八 四 四 。 ﹁韃靼 ・ 西 蔵 及 支 那 行 記 ﹂ 上 下

(Souvenir d'un Voyage dans la Tartarie, et le Thibet,

et la Chine, Pendant les annes 1844-46

) が あ る ) 。 プ ル ヂ ェ ブ ル ス キ ー 将 軍 ( 一 八 八 〇 1 五 。 八 一 ー 二 に 拉 薩 入 ) 。 ロ ッ ク ヒ ル (W. W. Rockhill. 一 八 八 八 ー 九 、 一 八 九 ︻ ー 二 年 調 査 旅 行 ) 。 ガ ブ リ エ ル ・ ボ ン プ ロ オ 、 ア ン リ ・ ド ル レ ア ン 公 、 デ ・ デ ッ ケ ン 師 の 一 行 ( 一 八 八 九 -九 〇 年 ) 。 モ ン ト ゴ メ リ ー (Montgomery ) 大 佐 、 ウ ェ ル ビ ー (Welby ) 大 尉 、 デ シ ー (Deasy ) 大 尉 。 テ イ ラ ア 夫 人 ( 一 八 九 二 入 蔵 ) 、 デ ュ ト ル イ ユ ・ ド ・ ラ ン ( 一 八 九 四 暗 殺 ) 、 同 行 者 は フ ェ ル ナ ン ・ グ レ ナ ー ル 。 ノ ス ウ ェ ン ・ ヘ デ ィ ン ( 二 十 世 紀 初 頭 ) 。 西 蔵 研 究 会 編 ﹃ 西 蔵 ﹄ (明 37 ・ 9 嵩 山 房 刊 ) は 、 前 二 者 に 漏 れ た リ ッ

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ツ ル ダ ー ル 氏 、 そ の 妻 及 び 甥 ( 一 八 九 五 ) を 挙 げ る ( 以 上 は ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ の 記 事 に 沿 っ て 掲 げ た た め 、 網 羅 は し て い な い 。 ま た 、 ﹃ 西 蔵 ・ 印 度 の 文 化 ﹄ の 記 事 中 、 入 蔵 年 な ど で 相 違 が な い 場 合 は 適 宜 略 し た ) 。 以 上 に 見 え な い 人 名 は ア レ キ サ ン ダ ー ・ ヨ ロ ス ( 一 八 二 〇 ) 、 ベ ラ ・ ス ゼ チ ニ i ( 一 八 七 三 ) 、 グ ロ ム チ ェ フ ス キ i ・ ヴ ト ソ フ ( 一 八 八 九 ) 、 パ ウ ェ ル ・ リ ー 及 び ト ゥ ロ イ ド 博 士 ( 一 八 九 一 ) の 四 名 。 名 前 に 小 異 の あ る も の 、 マ イ エ ン グ 、 フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ 、 オ ゥ ト レ ル ・ ド ・ ラ ン ス 。 フ ァ ー ス ト ネ ー ム が 異 な る も の 、 ル イ ・ ド ル ヴ ィ ル 、 ル イ ・ ボ ン ヴ ァ ロ ォ 、 ヘ ン リ ー ・ ロ ッ ク ヒ ル 、 ル ネ ・ グ ル ナ ル ド で あ る 。 薬 師 義 美 ﹃ 雲 の 中 の チ ベ ッ ト ﹄ の ﹁ チ ベ ッ ト 探 検 史 年 表 ﹂ に 拠 れ ば 、 ベ ラ ・ ス ゼ チ ニ i (Bela Szechenyi ) が 一 八 七 七 -八 〇 年 に 、 W. G. Thorold が 一 八 九 一 ー 二 年 に 探 検 し た .こ と 、 テ ー ラ ー 夫 人 の 名 が"Annie" で あ る こ と 、 リ ッ ト ル デ ー ル の 名 が"George" 、 で あ る こ と が わ か る 。 従 っ て 、 こ れ ら に は 別 に 出 所 が あ る は ず だ が 、 未 だ 詳 ら か に し な い (前 掲 ﹃ 世 界 地 理 風 俗 大 系 ﹄ に は 、 ハ ン ガ リ ヤ の ﹁ ベ ラ ・ シ ェ チ ェ ー 二 i 伯 ﹂ の 名 を 挙 げ る ( 一 二 六 頁 ) が 、 表 記 の 異 同 が 大 き く 、 関 係 あ る と は 言 い 難 い 。 な お 、 西 蔵 探 検 史 と し て 著 名

なGraham Sandberg "The Exploration of Tibet Its History and Particulars from 1623 to

1904 "Calcutta, London 1994, 、 も 参 照 し た ) 。 フ ラ ン シ ス コ ・ デ ラ ・ 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 ペ ン ナ と い う 名 前 も 、 さ き に 述 べ た フ ラ ン チ ェ ス コ ・ オ ラ チ オ ・ デ ラ ・ ペ ン ナ に 拠 る か 。 た だ 、 以 上 か ら 虚 構 の 人 物 も 交 っ て い る こ と は わ か る 。 ま た 、 フ ァ ー ス ト ネ ー ム が 異 な る の も 、 久 生 十 蘭 が 知 ら な い た め に 勝 手 に 作 っ た 場 合 と 、 知 り な が ら 敢 え て 変 え た 場 合 の 両 方 が 考 え ら れ る (そ の 内 、 オ ゥ ト レ ル は 語 頭 のD をO と 読 ん だ た め の 錯 誤 か ) 。 ﹃新 西 遊 記 ﹄ 本 文 で 、 入 蔵 時 期 は イ ッ ポ リ ー ト ・ デ シ デ リ 一 七 〇 六 年 、 デ ラ ・ ペ ン ナ 一 七 一 九 年 、 ド ル ヴ イ ル 一 六 二 八 年 で あ り 、 そ の フ ァ ー ス ト ネ ー ム の 有 無 は ﹃禁 断 秘 密 の 国 ﹄ の そ れ に 近 い 。 入 蔵 の 時 期 は 幾 分 ず れ る が 、 無 稽 な 数 字 で は な い (彼 ら の 入 蔵 時 期 は 他 書 に 拠 っ て も ほ ぼ 同 じ ) 。 こ れ ま で ﹃新 西 遊 記 ﹄ で 語 ら れ た 拉 薩 は 、 実 際 の 拉 薩 を 神 秘 化 し た 、 い わ ば 実 在 と 非 在 の 間 の 都 市 で あ っ た か ら 、 或 い は 、 フ ァ ー ス ト ネ ー ム を 作 り 出 し (ま た は ﹃西 蔵 ・ 印 度 の 文 化 ﹄ な ど に よ っ て 本 名 を 知 り な が ら 、 敢 え て 別 の 名 を つ け ) 、 入 蔵 の 時 期 を わ ざ と 変 え る こ と で 、 非 在 の 伝 道 家 ・ 探 検 家 と し た の か も 知 れ な い 。 前 半 末 尾 で 、 ボ ン ヴ ァ ロ が ﹁ラ ッ サ を 距 る 百 哩 ば か り の テ ン グ リ 海 の そ ば ﹂ ま で 、 ま た リ ッ ト ル デ ー ル 夫 妻 が ﹁ ラ ッ サ を 指 呼 の 問 に 望 む 、 あ と わ づ か 五 十 哩 と い ふ と こ ろ ﹂ ま で 迫 り な が ら 失 敗 し た 、 と い う の は 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 二 章 五 ﹁ 入 蔵 せ る 探 険 家 ﹂ で 、 ﹁米 人 ロ ツ ク ヒ ル 氏 ﹂ が 一 八 八 九 ∼ 九 二 年 入 蔵 の 目 的 を 達 し 、 ﹁拉 一 〇 一

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西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 薩 の 北 方 百 余 哩 の テ ン グ リ ノ ル 附 近 迄 潜 行 し た ﹂ 、 ヘ デ イ ン が 一 九 お よ モ ○ 一 年 ﹁拉 薩 の 北 西 約 百 五 十 哩 の 所 ま で 近 づ い た ﹂ と あ る 記 事 や 、 ﹃ 西 蔵 ﹄ の ﹁英 人 リ ッ ツ ル ダ ー ル 氏 、 其 の 妻 及 び 甥 と 倶 に 拉 薩 府 の 前 四 十 哩 の 点 に 達 し ﹂ ( ﹁輓 近 の 旅 行 者 ﹂) と い う 記 事 、 ﹃ 禁 断 秘 密 の 国 ﹄ で ﹁プ ル ジ ェ ブ ル ス キ イ ﹂ が ﹁拉 薩 よ り 一 七 〇 哩 手 前 の 地 点 迄 到 達 。 ﹂ な ど と あ る 記 事 を 参 考 に し た も の か 。 13 印 度 か ら ラ ッ サ へ 入 る 道 筋 に つ い て は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 六 回 に 拠 る (但 し 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で は 初 出 で ﹁ ニ ャ ー ト ン ﹂ と し た の を 、 底 本 で ﹁ヤ ー ト ゥ ン ﹂ と 表 記 。 ﹃大 百 科 事 典 ﹄ ﹁西 蔵 ﹂ の ﹁産 業 ﹂ の 項 に ﹁ヤ ー ト ン ﹂ と あ る の を 用 い た か ) 。 ﹁二 万 三 千 尺 の ユ ン グ リ ン グ リ ラ 越 え ﹂ に つ い て は 6 参 照 。 西 康 省 ・ 青 海 省 は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ に 拠 れ ば 広 義 の 西 蔵 に 入 る 境 界 領 域 で 、 ﹁西 蔵 ﹂ の 項 の 地 図 か ら も お お よ そ の こ と は 分 か る 。 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 編 十 二 章 四 に も ﹁北 方 青 海 蒙 古 を 経 て 甘 薫 、 新 彊 及 び 蒙 古 地 方 よ り す る 所 の 通 路 に は 平 坦 な る 高 原 多 く 通 行 の 困 難 甚 だ し く は な い が ﹂ と あ る 。 ト ル キ ス タ ン 方 面 や 西 寧 経 由 の 入 蔵 路 に つ い て は 出 所 未 詳 。 ど ん な 間 道 を 通 っ て も い つ か 公 道 に 出 て し ま い 、 道 関 で 食 い 止 め ら れ る と い う の は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ 八 回 末 尾 に 拠 る 。 そ の 結 果 、 ﹁ 五 体 投 地 稽 首 作 礼 ﹂ の 刑 に よ っ て 、 潜 入 し て き た 国 境 ま で 摩? (ラ マ 教 の 真 言 ) を 唱 え な が ら匍匐 さ せ ら れ る と い う の は 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ 二 一 〇 二 ぷ つ 編 四 章 七 、 六 章 六 に 拠 ろ う 。 ﹁五 体 投 地 稽 首 作 礼 ﹂ は ﹁仏 に 対 す る 最 敬 礼 の 一 ﹂ で ﹁五 体 を 地 に 着 け て 敬 拝 す る も の ﹂ で あ り 、 ﹁ 一 礼 た け 毎 に 自 分 の 身 の 長 だ け 進 み 砂 塵 に 塗 れ な が ら 苦 行 ﹂ す る も の で あ る 。 一 度 起 立 し て 礼 拝 し た の ち 投 地 し て 礼 拝 す る も の で 、 信 者 の 中 に は 一 日 二 千 回 に 及 ぶ も の も い る が 、 著 者 青 木 文 教 が 試 み た と こ ろ で は 二 時 間 で 疲 労 し 、 一 日 五 百 回 以 上 で き れ ば 成 績 の よ い 方 で あ ろ う と 言 う 。 国 境 ま で 旬 旬 さ せ ら れ る と い う 記 述 は ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ に な い が 、 こ う し た 苛 酷 さ ゆ え に 、 ﹃新 西 遊 記 ﹄ で は ﹁ 五 体 投 地 稽 首 作 礼 ﹂ を 刑 罰 に 転 化 し た の で あ ろ う 。 ま た ﹁ マ ニ の 宝 輪 筒 を 右 ま は 手 に 転 し 、 念 珠 を 爪 繰 り な が ら 、 ﹁オ ム マ ニ ペ メ フ ム ﹂ の 六 字 呪 を 連? ﹂ (二 編 六 章 六 ) す る 僧 俗 男 女 も あ る 。 両 者 は 別 の 礼 法 で あ る が 、 ﹃ 西 蔵 遊 記 ﹄ に は 続 け て 書 か れ て い る た め 、 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ で は 一 緒 に 為 さ れ る よ う 改 変 さ れ た の で あ ろ う 。 国 境 で 足 の 裏 に 漆 を 塗 り 、 一 日 行 程 の 所 に 水 が あ る と 言 っ て そ の 方 向 を 教 え て 釈 放 す る 、 と い う の は 出 所 未 詳 だ が 、 長 沢 和 俊 ﹃ チ ベ ッ ト i 極 奥 ア ジ ア の 歴 史 と 文 化 i ﹂ (昭 39 ・ 9 校 倉 書 房 刊 ) ・ ﹃ 日 本 人 の 冒 険 と 探 検 ﹄ ( 昭 48 ・ 11 白 水 社 刊 ) に 拠 れ ば 、 密 入 国 者 に 重 い 首 枷 を は め 、 足 の 裏 に 漆 を 塗 り 、 四 つ ん ば い に さ せ て 国 境 ま で 追 い 立 て た の で 、 彼 等 は 暑 さ と 漆 の か ぶ れ で 苦 し み の う ち に 死 ん だ 、 と い う か ら 、 実 際 に あ っ た こ と と 思 わ れ る 。

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14 ラ ッ サ に 入 る た め の 五 ヵ 所 の 内 関 の 記 事 (反 坐 法 ) は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ = 二 一 回 の ﹁ 五 重 の 関 門 ﹂ に 拠 る 。 但 し 、 慧 海 は こ こ を ラ ッ サ か ら 帰 る 時 に 突 破 し た の で 、 順 番 が 逆 に な る 。 以 下 相 違 点 を 記 す と 、 保 証 人 は 独 り で よ く 、 ﹁ 区 長 と 五 人 の 村 民 ﹂ は 必 要 な い 。 第 二 関 で は ﹁西 蔵 語 の 書 試 と 口 試 ﹂ が な く 、 単 に 取 り 調 べ を 受 け る の み で あ る 。 第 四 関 で 仮 通 過 の 許 可 証 を 貰 い 、 第 五 関 で そ れ と 引 き 換 え に 書 面 を 貰 っ て 第 四 関 に 戻 り 、 二 通 の 書 面 を も ら っ て 第 三 関 ま で 引 き 返 し 、 う ち 一 通 を 支 那 文 字 の 書 面 に 換 え 、 そ の 二 つ を 示 し て 第 五 関 を 通 る 、 と い う 手 順 と な る 。 第 五 関 以 降 は 五 -三 -四 -五 で は な く 、 五 ー 四 -三 -五 の 順 で た ど る の が 正 し い 。 ど ん な に 急 い で も 通 過 に 二 十 日 は か か る と い う の も 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ = 二 七 回 の 、 ご く 旅 慣 れ た 西 蔵 商 人 で さ え 通 過 に ﹁七 目 以 上 十 四 五 日 掛 る と 云 ふ 予 定 ﹂ に 拠 っ て 、 誇 張 し た も の で あ ろ う 。 な お 、 ﹁反 坐 法 ﹂ は ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁刑 罰 ﹂ に ﹁目 に は 目 を ﹂ 式 の 刑 罰 と し て 紹 介 さ れ ( ﹁反 座 法 ﹂ と 表 記 ) 、 こ こ の 用 法 と は 異 な る 。 ﹁護 照 ﹂ と い う 語 の 出 所 は 、 次 節 で 触 れ る ユ ッ ク の ﹃  鞄 ・ 西 蔵 ・ 支 那 旅 行 記 ﹄ に 拠 る 。 以 上 、 一 つ 一 つ 細 か に 検 討 し て み た 。 1 で 山 口 智 海 の 入 蔵 の 動 機 付 け を 強 調 し た こ と 、 2 ∼ 7 の 西 蔵 に 関 す る 説 明 は 概 ね ﹃大 百 西 蔵 へ の 旅 、 西 蔵 か ら の 旅 科 事 典 ﹄ ﹃西 蔵 旅 行 記 ﹄ ﹃西 蔵 遊 記 ﹄ な ど に 拠 る こ と 、 4 の 記 述 は 殆 ど 事 実 に 基 づ い て い る こ と 、 次 い で 8 ∼ 10 の 記 述 は 、 提 示 さ れ た 依 拠 文 献 と 内 容 と が 別 で あ る こ と 、 ま た 一 部 に 創 作 が 交 じ っ て い る こ と 、 11 以 降 で も 部 分 的 に 創 作 ・ 改 変 さ れ た 個 所 が 認 め ら れ る こ と 、 等 が 明 ら か に な っ た 。 前 半 で 概 観 さ れ た 西 蔵 は 、 ﹁禁 断 秘 密 の 国 ﹂ と い う 神 秘 的 側 面 を 強 調 し た も の だ っ た の で あ る 。 三 ﹃ 新 西 遊 記 ﹄ 後 半 は 、 ﹃ 西 蔵 旅 行 記 ﹄ に 拠 る 部 分 が 多 い 。 こ こ で も 話 題 別 に 材 源 と の 比 較 を 行 う 。 1 後 半 冒 頭 部 の 、 近 年 ウ ー ヘ ッ ド が ﹁ 支 那 年 鑑 ﹂ で 、 西 蔵 の 面 積 は 一 、 一 九 九 、 九 九 八 粁 、 人 口 約 六 、 五 〇 〇 、 ○ ○ ○ と 発 表 し た が 、 [初 出 で は 以 下 に ﹁ (China Year Book, 1930 ) ﹂ と あ る ] そ れ に も い ろ い ろ 異 説 が あ る く ら ゐ だ か ら 、 と い う 部 分 は 、 ﹃ 大 百 科 事 典 ﹄ ﹁ 西 蔵 ﹂ の 項 の 面 積 や 人 口 は 頗 る 明 瞭 を 嵌 い て ゐ る が 、 ウ ー ド ヘ ッ ドH. G. W. Woodhead は 面 積 を 一 、 一 九 九 、 九 九 八 ・ 八 粁 、 人 口 を 六 、 五 〇 〇 、 ○ ○ ○ と し

(China Year Book, 1930

) 、 そ の 他 異 説 も 頗 る 多 い 。 と あ る 部 分 に 拠 る 。 一 〇 三 !

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