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中等教育段階にあるべき主体的な学び

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Academic year: 2021

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16 シンポジウム 論 考 投稿原稿 会務報告 大会報告 要旨  中学校や高等学校などからなる中等教育学校は,2017 年度大きな変革を迎える。中学校では,学習指導 要領が告示され,高等学校でも一年遅れて告示される予定である。育成すべき資質・能力が明確化されるよ うになり,「深い学び」「対話的な学び」と並んで,「主体的な学び」に向けた学習・指導の改善充実が求め られているのである。よって,本稿では中等教育段階での経済教育において,中高生が多面的・多角的に考 察し,社会的な見方や考え方を成長できるような主体的な学びついて理性的認識と感性的認識という視点か ら考察し,この学びが日本全国の学校で広がるように,分析,報告するものである。 キーワード:主体的な学び,中等教育段階,経済教育,理性的認識,感性的認識

Ⅰ.はじめに

 経済教育学会第 33 回全国大会の全体テーマは,「な ぜ,経済教育に主体的学びが必要なのか─制度・理念 と実践の接点を探る─」である。これからの経済教育 がどうあるべきなのかを,初等,中等,高等教育界の 垣根を越えて,追究していこうとするものであろう。 現実として,いまだ経済へのイメージは,子供たちだ けでなく,大人たちも距離を置きたいものになってい る。なぜなら,私が「中学校や高校で,経済を教えて いるのですよ。」と話してしまえば,ほぼほぼ,「へぇ 〜,すごいですね。自分なんか,全く経済なんか,分 からなかったですよ。」というような反応ばかりが 返ってくる。ここに,全体テーマの答えが見え隠れし ている。おそらく,ひと昔,ふた昔前の経済教育を含 むほとんどの教育は,じっと座席にすわり,ひたすら 教師の話を聞き,制度や仕組みなどを一斉注入的に聞 かされ,訳が分からなくなっても,永遠と聞くことを 強制されていたのであろう。少なくとも,筆者はそう であった。主体的な学びのかけらもなかったのかもし れない。  教員生活を長く続けて,経済学者に囲まれるよう なった筆者は,経済を難しく感じることをすっかり忘 れてしまっている。しかし,周りにいる大人と変わり なく,中学生・高校生の経済への印象は,依然として 難しいものになっている。経済教育の在り方を考えよ うとしても,子供たちに拒否反応を示されてしまえば, 元も子もない。知識注入,一斉授業的な授業展開ばか りでは,どのような工夫をしても,居眠りをはじめて しまう生徒が出てきてしまうというのが,現場での実 感と結論である。よって,本稿は従来型の教育の意義 が再評価されていることがあることを理解しつつ,中 等教育段階で,どのような形にすれば,主体的な学び が広がっていくようになるかを考察していく。

Ⅱ.理性的認識と感性的認識

 本全国大会における基調講演者佐々木隆生は,知識 を得ることを,現在という時点にたって,過去の知恵 を自己の財産にし,その上で自分の思考を作り出す準 備を行うこと1)としている。よって,高校生段階から, 古典名著と触れ合うことを勧めているのである。知識 の獲得については,著書の此岸に立って耳を傾け,わ からないところや自分の考えと突き合わせながら彼岸 から著者に問いかけることから始まる2)とも述べてい

中等教育段階にあるべき

主体的な学び

理性的認識か感性的認識か

The Journal of Economic Education No.37, September, 2018

Proactive learning at the secondary education stage: Rational cognition or intuitive cognition

TAKAHASHI, Katsuya

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経済教育37号  17 る。この作業は,同じ古典名著を読んだ仲間と対話す ることにつながり,自己の思考を新たに作り出してい くことになるのであろう。多くの授業が教科書的な 「死んだ知識」の獲得に傾いているとの批判も展開し ており,以前の自分の授業実践がけなされているよう で,耳を覆いたくなる。本稿では,佐々木の考え方を 理性的認識と位置づけたい。理論的な主張を対立させ ることで,知識を得て,思考を発達させるものと言え るからである。  一方,この理性的認識を授業で活用することを否定 的に見ている3)のが,橋本勝である。美しい風景や感 動的な話が人間の心に訴えることを理屈で説明するこ とはできないとして,学びにおいては仲間との対話に よって「同意する」のではなく,「共感する」ことを 大切にしたいというのである。もちろん,古典名著で 感じることを否定していないが,家族との会話や友人 との談笑であっても感じられるし,雑誌や漫画,ゲー ムも有用であるとしている。あらゆるものが役に立つ というのである。このことを橋本は,理性的認識に対 して,感性的認識と位置付けている。自らの経験の豊 かさや他者との交わりによって,思考を育んでいると 考えて,感性的認識と呼んでいるのであろう。  本稿では,この理性的認識と感性的認識を比較,対 照しながら,筆者の実践を交え,中等教育段階にある べき主体的な学びについて検討していく。

Ⅲ.理性的認識を活用する授業の在り方

1.佐々木隆生の場合  北海道大学教授などを歴任してきた佐々木は「高校 生のためのリベラルアーツの会〜名著との対話による 自由と思索への案内〜」を開催している。この活動は, 中等教育における主体的な学びを用いた学習活動に多 くの示唆を与えるものとなっている。「高校で学ぶ哲 学者,思想家の著作を実際に読む機会がありますか。 この会では,古今東西の思想家の著作を講師と一緒に 読み,参加者で本について議論します。教科書に出て くる人々の思索に直接触れながら,未来に向けて自分 自身の考えを創りましょう。一緒に古典的名著を読み, 『自分を想像する読書』をしてみませんか。4)」と直接 的に高校生へ呼びかけ,有益な教育活動を展開してい る。「本を読むこと」が「対話」であり,特に著者の 語る論理を軸にした「対話」を経験してほしいと訴え ている。主体的な学びを導くためには,未知の世界へ の強い好奇心と問題意識の誕生,そこから生まれる必 要な知識や技術の習得への意欲とともに,論理的で反 省的な思考が求められ,読書の中での著書との対話, 自己との対話,他者との対話を通じた論理的で批判的 な思考な形成が不可欠であると指摘している5)。佐々 木は参加する高校生のために,リベラルアーツの会通 信を配布し,丁寧な指導をしている。簡単にまとめる と,[①パラグラフごとに,内容をまとめることに挑 戦しよう。一つ一つのパラグラフごとに,何を言おう としているのかを理解する。②パラグラフとパラグラ フとの関係を分析して,テーマごとにまとめる。パラ グラフのかたまりをはっきりさせることで,著者の思 考を導いている論理を理解する。③最後に全体で何が 言われているのか,課題は何であり,著者はどのよう な回答を出していくのかをまとめていく。]としてい る。これであれば,高校生でも理解できるであろうし, やってみようという気持ちを引き出すこともできよう。 以上のことを経て,高校生に理性的認識を形成してい ると考えられる。  一方,筆者の中学校・高等学校における実践も共通 項が多くなっている。次に紹介する。 2.筆者の場合  筆者も同じような実践を勤務校している学校の中学 生・高校生を対象に行っている。彼らはいつの日か, 自分たちを「高橋ゼミナール」と呼んでくれている。 現在は,募集案内をしなくとも,先輩が気合の入った 後輩を連れ込んできて,熱心に語り合う,異年齢集団 が形成されるようになった。「高橋ゼミナール」の運 営は,次のようにしている。  ①筆者がある書籍を指定して,「読書会を行いま す!」と呼びかける。②希望制で集まった生徒たちに, 一回につき 1 章ごとにレジュメを作ってきてもらい, 書いてある内容について発表してもらうと伝える。 よって,相互で各回の担当者を決めてもらう。③各回 (原則,週一回,朝会前の早朝に実施),レジュメを用 いて,発表が行われると,その後は自由議論になる。 自由議論は,非常に活発なものになる。筆者はできる 限り,口を出さないようにしている。  その著書に関する最終会合は,著書との対談するお まけになっており,生徒たちにはハイレベルな刺激に なるようである。彼らが卒業して,大学生,社会人に なり,再会すると,パワーアップしていることを実感 する。大きくなった自分の姿を見てもらいたいのであ ろう。あらゆる形で,私に成長した姿を誇示すること

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18   シンポジウム 論 考 投稿原稿 会務報告 大会報告 が証左である。彼らは,自ら現代社会の課題を発見し, 実際にその課題を解決するために就職先を決定してい る。これは,教師冥利に尽きるものである。「大企業 に就職すれば,一生幸せに暮らしていける」という幻 想から解放され,これから激変する社会における生き る力を有した人材を育成できたと,手前味噌ながら考 えている。

Ⅳ.感性的認識を活用する授業の在り方

1.橋本勝の場合  橋本勝は,2000 年から「橋本メソッド」を開始し ている。いわゆる多人数討議型授業であり,最大で約 260 人で実践したこともある6)。通常の討議型授業と は次の 3 点で異なる特徴が挙げられる。①全体討議の 活発さと時間の長さ,②グループ活動の自由度の大き さ,③交換日記的なシャトルカード対応7)である。① は授業時間の 3 分の 2 は教室全体での討議に充ててい るとのことである。潜在的な発言本能を引き出すこと でクラスのあちらこちらで発言を求める手が上がると いう。②は学生が友人関係や関心テーマの重なりで 3 〜 4 人のチームに分かれ,固定メンバーとなるという。 発表のためのレジュメ案を作成することになるが,発 表チーム数に制限を加えることで,競争原理とゲーム 的感覚盛り上がりで,自然にレベルがアップするとい う。つまり,対応は各チーム次第という自由さがある。 ③は各回の感想や疑問などを授業の最後 5 分間で最低 50 字程度記してもらうものであるという。橋本が丁 寧に手書き返信コメントを入れて,翌週に返却してい るという。多人数授業では築きにくい一人ひとりとの 信頼関係を構築する術になっているのであろう。テー マは原発再稼働,北朝鮮問題から,富山の欠点と魅力 まで幅広くなっている。学生が自分の関心の高いテー マを選べるようにしているのであろう。チーム名も自 分たちで決めさせ,チーム内でのテーマ選定において 駆け引き的な要素が加わることで,ゲームに参加する ような意識を上手く作り上げているようだ。  前述の橋本メソッドについては,橋本の玉稿『ライ ト・アクティブラーニングのすすめ』を参考に記した。 しかし,筆者は橋本にインタヴューをした経験がある。 そのときには感性的認識を意識するがゆえに,次のこ とが脳裏に残っている。「講義に事前学習(予習)は 課さない。」「学生は自らの経験や既得知識だけを用い て,授業を展開する。」「自らを愚者と考えてしまって いる学生は,自信を失い発言することに臆している場 合も多くなるので,彼らにも存在する潜在的な発言欲 求を引き出す工夫が施す。」である。これは学習理解 度の早い,遅いなどという生徒や学生の特性をあまり 気にすることなく,勉学や学問に取り組ませることを 可能とする手法になろう。初等,中等教育段階におけ る大きな課題である学力差のある学級での指導に,必 要不可欠なものとなろう。 2.筆者の場合  筆者も同じような実践をしている。中学校,高等学 校の教室には,様々なレベルの生徒がいる。よって, 誰でも自らの経験や既得知識だけで考えを表現できる ような題材を提供して,活発な議論を促している。例 えば,①「放射能汚染産業廃棄物処理場を自分たちの 街に受け入れるか否か」②「肥満税(ポテチ税・ソー ダ税など)の日本への導入の是非」③「都心の大学の 入学者規制を受け入れるべきか」④「アファーマティ ブ・アクションを日本に導入するべきか」⑤「ベー シック・インカムを日本に導入するべきか」等である。 議論の進行は,ペアや小グループ,クラス全体など, 抑揚をつけている。説明は短時間で,議論と発表をメ インとしているため,授業中に居眠りをする生徒は見 かけたことがない。これは,メリットであろう。また, 題材を丁寧に説明すれば,教育困難校でも実践が可能 となろう。 3.まとめ  筆者の結論として,佐々木実践も橋本メソッドも, 中等教育において実践が十分に可能であるので,中等 教育段階の先生方への徹底的な周知や普及の方策を考 えていくべきと考える。  しかし,佐々木実践を,仮に中等教育段階の若い先 生方に紹介したとき,「高尚ですね。」との反応が予想 される。例えば,先生の「ホッブズとロックの違い (ホッブズが戦争状態を自然状態と考えたのに対し, ロックはそれを否定した)程度の知識を持つだけでは 意味がありません。」のお言葉に,多くは愕然とする ことに違いない。つまり,「私の学校では,レベルが 低くて,とても無理である」と言いたいのである。中 堅校以下の半数を超える学校では,その程度の知識さ えを扱えない,理解させられないという現状があるこ とは,考慮してあげなければならないかもしれない。 一方,筆者の現任校のような学校におけるリーダー育 成という視点からは,抜群の効果が期待できる。よっ

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経済教育37号  19 て,現代社会における生徒の知識・思考の二極化とい う新たな問題を避けては通っていけないというメッ セージも見える。  橋本メソッドは,中等教育段階の多くの教室におい て可能であり,広がりが期待できる。教師の「私の学 校では,できない。」という言い訳をも封じることも できよう。成績上位者の不満の声が聞こえてきそうで もあるが,それは,佐々木実践が解決してくれるに違 いない。  本稿では,中等教育段階にあるべき主体的な学びに ついて,理性的認識と感性的認識を用いながら考察し てきた。両者とも,これからの学校現場で求められ続 ける主体的な学びに必要不可欠な概念になることを, 実践的かつ理論的に論じてきたつもりである。人間の 思考には完成はあり得ない。しかしながら,毎日の授 業を長期的な経験によって,完成させたと思い込んで いる知識注入型授業に頼る中堅・ベテラン教師が少な くはない。日々,進化し続ける現代社会で,教師が AI に取って代わられないようにするための,示唆を 本稿が与えられていれば幸いである。 註 1) 経済教育学会ホームページ 「佐々木隆生インタヴュー」  http://ecoedu.jp/2017/07/post-39.html 2) 同上 3) 橋本勝の理性的認識に対する批判的な見方は,本全国大 会シンポジウムを司会者として運営するために筆者やシ ンポジストとやり取りしたメールで発信されたものであ る。これについては,シンポジウムにおいても,語られ た。 4) http://npocan.jp/archives/1151 NPO 法 人 CAN ホ ー ム ページより。 5) http://ecoedu.jp/2017/07/post-39.html 経済教育学会ホー ムページを参照。 6) 『ライト・アクティブラーニングのすすめ』ナカニシヤ出 版 橋本勝編 2017 年 12 月 p.9 7) 同上 pp.11,12

参照

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