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経済学の再建と経済教育の未来

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要旨  経済学の危機はひじょうに深い。それは経済の諸問題に対し,経済学が有効な対策を提示できないという 範囲に止まらない。問題の深さは,理論を根本から作りなおす必要,需要供給の法則を理解しなおすことに まで及んでいる。この事態は,しかし,経済学教育を真に教育的なものにする基盤をも与えている。既成の 知識を教え込むのでなく,深く考える仕方を教えるには,論争をベースとする教育がふさわしい。経済学が 危機にあること,その危機が乗り越えられつつあることは,経済学を「わくわくする」ものにしており,そ れは経済学教育を「わくわくする」ものに作りかえる基盤でもある。 キーワード:多元的な教育,論争的な教育,需要供給の法則,可能性の限界,反省の種  本大会(第 32 回全国大会)の「大会趣旨」には 「経済学の第 3 の危機」が指摘されている。その理由 として,経済学が「財政再建の正しい処方箋を示せな い」こと,経済効率重視の志向が世界経済の不安定性 を招いていること,新たな貧困や格差の問題が生じて いることなどが指摘されている。経済学が適切な経済 思想・経済政策を示すことができていない現状にたい する疑問・いらだちと言えよう。経済政策や経済思想 と理論としての経済学とは,切り離して考えるべきも のであるが,経済理論のあり方が政策を考える「想像 の枠組み」を与える意味では,現在の「危機」に対す る経済学の責任は重い。  第3の危機の背景には1970年代後半から主としてア メリカ合衆国で進んだ合理的期待にもとづくマクロ経 済学がある。「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」と いう研究プログラムは,当初はケインズ経済学のミク ロ的基礎付けを目指したものであったが,合理的期待 の展開としての動学的確率的一般均衡モデル(DSGE モデル)により,景気変動は技術ショックに対する調 整と理解されるようになった。

  な が く IMF の Chief Economist を 務 め た Oliver Blanchard は,リーマン・ショックの直後(2009 年 5

月)に”The State of Macro”という論文を発表した が,その中には”The state of macro is good.” とあっ

た1)。ショックの前に頼まれて執筆し,修正すること

ができなかった悲運にちがいない。

 リーマン・ショックとそのあとに続く経済状況は, こうした能天気な経済学に対する反省の機運を生み出 した。世界では Rethinking Economics や Pluralism in Economics を求める大学院生を中心とする運動が広 まっているほか,主流に近い経済学者をふくむ Insti-tute for New Economic Thinking といった動きもあり, 経済学の基礎に関する反省も広がっている。Evonom-ics という website では,Change the Econom経済学の基礎に関する反省も広がっている。Evonom-ics を標 語として,毎回,主流の経済学と経済政策に批判的な 記事が掲載されている。  リーマン・ショックから 10 年近く経ついま,「のど 元すぎれば」の喩えの通り,一方では,経済学者の大 勢には「反省するほどでもなかった」という気分が 戻ってきている。先の Blanchard は 2016 年のノーベ ル経済学賞の有力候補であったが,それ自体こうした 気分を象徴的に表している。  多くの専門経済学者を支配しているこの気分は, けっきょくは経済学(あるいは経済理論)に関する無

基調講演

経済学の再建と

経済教育の未来

The Journal of Economic Education No.36, September, 2017

The Reconstruction of Economics and the Future of Economic Education

SHIOZAWA, Yoshinori

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力感に基づく。経済学者の中には,もちろん,現在主 流の経済学の正しさと有効性とを信じて疑わないもの がたくさんいる。かれらに何を言っても変らない。20 世紀の初頭,アインシュタインの相対性理論とプラン クの量子力学が出たとき,古典力学に固執して新しい 物理学を理解しようとしなかった物理学者はたくさん いた。経済学でも,同様のことはとうぜんある。しか し,ここでは主流の経済学の中でいちおう仕事をして いるけれども,現在の経済学に漠然とした不安をいだ きながらも,それに代わる経済学をみいだせない,あ るいは代わりうる経済学などない,と思っているひと たちのことを考えてみたい。  彼らを支配しているものは, (限界革命とも呼ばれ る)新古典派革命後の経済学の枠組みにある。これを 作りなおす見通しなしには,現在の無力感を抜け出す ことはできない。このことを考えるとき,経済学の第 第 3 の危機は,第 1 と第 2 の危機より,はるかに深い。 第 1 の危機は,1930 年代の世界的大不況を背景とした ものであった。第 2 の危機を唱えたジョーン・ロビン ソンによれば,それはケインズにより解決された。第 2 の危機が何であったのか,今となっては想像しにく いが,たしかに 1970 年前後は,経済学の現状に対す る不満と反省とが噴出した時期であった。この時期の 特徴は,この不満と反省が,若い学者の造反というよ りも,むしろ会長講演などの形を取ったことにある。 1950 年代から急速に進展した数理経済学の発展が一 段落し,その「可能性の限界」が見えてきた時期で あった。第 1 の危機も第 2 の危機も,新古典派経済学 という枠組みの中でおこった。  第 3 の危機も,おなじ枠組みの中で起こっている。 ということは,第 1 の危機も,ロビンソンが想像した ように,ケインズにより「解決した」ものではなかっ た。ケインズの『一般理論』には,大きな革新の種が あったが,その枠組みはかなり不器用な新古典派経済 学であった。ジョーン・ロビンソンは第 2 の危機を唱 えたが,それを解決することはできなかった。第 2 の 危機は,むしろその後の反ケインズ革命を用意するも のとしてさえ機能した。経済学の第 3 の危機は,第 1・第 2 の危機のときのような,中途半端な解決はで きない。すべきでもない。そうしたとしても,危機の 解決にはならない。経済学は,新古典派革命以降の全 枠組みを反省しなおすことを求められているのである。 その意味では,第 3 の危機は,第 1・第 2 の危機と比 べ物にならない,深刻でかつ根本的な解決を必要とし ている。多くの経済学者を支配している無力感は,危 機がそれだけ深く,理論のより根底的な再建が求めら れていることの反映でもあろう。  では,出口はないのか。ブレークスルーは見えてい ないのか。わたしはそうは考えていない。経済学再建 の目処は,すでにかなり立っている。  これは,新古典派以外の多様な経済学の学派が現存 し,新古典派の経済学の一部に異議を申し立てている こととは,すこしちがう。多様な経済学のなかには, 新古典派の「家族」の一員というべきものが多数ある。 Andy Denis (2009)の例示に従うと,新古典派ケイ ンジアン,マネタリスト,ニュー・ケインジアン,新 しい古典派理論とリアル・ビジネス・サイクル理論, 新制度派,新経済地理学,アナリティカル・マルクス 派などがある。Denis は上げていなけれども,多くの ゲーム理論家たちも,この中に数え上げられるだろう。 Denis は,これとは別に,真の異端派ともいうべきい くつもの理論流派を挙げている。ポスト・ケインジア ン,マルクス派,オーストリア学派,(旧あるいは正 統)制度派,ジョージスト(Henry George の考えを うけて,土地単一課税に解決策を見ようとする人々), アソシエーション派,フェミニスト,クリティカル・ リアリストなどである。このほか,ムスリム,クリス チャン,仏教者たちをも挙げているが,これらの人た ちに宗教上の心情とは別の経済理論があるかどうか, わたしには分からない。  もっと深刻なのは,新古典派「家族」と異端派との 違いがかならずしも明確でないことである。たとえば ニュー・ケインジアンとは対立するポスト・ケインジ アンたちが,マーシャル流の経済学をどこまで拒絶す るのか,はっきりしない。オーストリア学派や正統制 度派も,その経済観や分析手法の違いはあるが,問題 を需要供給の法則にまで掘り下げるとき,これらの経 済学が新古典派とどこまで異なるのか疑問である。  わたしが経済学再建の目処というのは,これら多様 な経済学のどれかに出口があるというのではない。わ たしの立場は,上に挙げられたどれでもない。偶然で あろうが,わたしが自分の立場を説明するのにもちい る,進化経済学・複雑系経済学は,なぜか Denis のリ ストからは漏れている。わたしの理論的立場は,リ カードの生産費価値説を基礎に古典派経済学を再建し ようというものである。もちろん,それはリカードな いし古典派経済学に戻ればすべてが解決するというも のではない。基本の枠組みをそこまで戻し,その上で 各分野・領域に理論展開していこうという提案である。 その骨格は,Shiozawa (2016, 2017a)に説明してあ

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るので,詳細には入らない。なお,この提案は,古典 派とされる経済学をすべて肯定することではない。  この提案は,天動説から地動説への転回にたとえれ ば分かりやすいだろう。時間順序が逆ではと思われる 方もいるであろうが,そうではない。1870 年以降の 新古典派経済学は,たとえていえば紀元 2 世紀に成立 したプトレマイオスの天動説 (地球中心説)にあたる。 リカードは,プトレマイオス以前のサモスのアリスタ ルコス(紀元前 3 世紀)に喩えられよう。かれが地動 説(太陽中心説)を唱えたことは知られているが,残 念ながらそれを主張した論文は伝わっていない。プト レマイオス体系は,そのご千年以上にわたり世界で もっとも精密な体系として発展した。コペルニクスが 地動説を唱えたのは,予測精度の問題ではなかった。 精度としては,ケプラーが楕円軌道を発見するまで, 地動説は天動説にかなわなかった。それにもかかわら ず地動説がガリレオの実験とともに近代物理学の出発 点を記すのは,太陽中心説の総合的な説明力・整合性 だった。  プトレマイオス体系は,離心円や周天円により修正 を重ね,基礎となる物理観を欠いていた。プトレマイ オス体系と同じように,新古典派経済学は精緻な体系 ではあるが,経済の基本的な作動原理を根本的に見 誤っている。それは表面的にのみ近代科学を模倣する 神官たちの体系となっており,コペルニクスやガリレ イの時代(およびそれ以前)の天動説に類似している。 経済学の再建はこのような大きな認知枠組みの転回を 必要としている。  古典派と新古典派の違いを簡単に説明するには, John Hicks(1976)のもちいた対比が事態の本質を衝 いていると思われる。Hicks は,1870 年代に起こった 経済学の大転換を「限界革命」と特性付けることに反 対し(それは,分析手法の革新に過ぎない),新古典 派経済学への革命は,生産の学(plutology)から交 換の学(catallactics)への視点の交代であった,と指 摘している。この指摘は,新古典派革命の本質をよく 表現している。  交換の学への転換が産業革命後に起こったことに注 意すれば,この革命の異常さがよく分かる。新古典派 の経済学は,じつは産業資本主義にも,ポスト産業資 本主義にも対応しない。それは,砂漠でぐうぜんで あったふたりの旅人か,あるいは共同体と共同体の間 に生まれる交換経済を記述するものにすぎない。その ような状況において交換比率は必要の度合いに関係す るかもしれないが,工業的生産の対象や規格化された サービスについては,提供者(あるいは販売者)が価 格を設定し,需要者はその価格で購入するかどうか決 めるのが基本である。この価格設定には,さまざまな 議論や分析の余地があるが,現代経済は定価販売が基 本である。需要と供給が一致するように価格が設定さ れるという状況は,ワルラスが典型と考えた証券市場 や,古美術のオークションのような例外的世界をのぞ けば,現代経済には存在しない。新古典派経済学の欠 陥は多々あるが,基本的には,この経済学の理論枠組 みが生産の論理をじゅうぶんに反映できていないこと にある(形式的には生産は導入されるが,それは自然 との交換といった読み替えに基づいている)。  産業革命後の世界において,なぜいわば逆向きの枠 組みの転換が起こったのであろうか。よくあるエクス ターナリストたち(学問の進歩を外的影響から説明す る)の説明とちがって,私見によれば,この変化は古 典派価値論が国際貿易状況に適用できなかったことに よる。なぜそれが交換の学に導いたかについては, Shiozawa (2017b)を読んでいただきたい。近く日本 語でも,より詳しい説明を単著として出版する予定で ある。古典派のこの弱点は,しかし,すでに克服され ている(Shiozawa, 2017a)。新しい国際価値論によっ て,グローバル化の進展や国際価値連鎖を分析する基 礎はできている。  国際貿易理論にも,さまざまな系統がある。最近で はクルーグマンらの新貿易理論,メリッツらの新々貿 易理論,重力モデルなどがあるが,これらは新古典派 理論の部分的拡張にすぎない(重力モデルは,その理 論すら疑わしい)。しかし,いかなる国際経済学の本 にも,リカードの比較生産費の理論の説明がしてある ように,貿易理論は,新古典派一般均衡理論に特化す ることが難しい領域でもあった。貿易理論は,特化の 分析を必須とするが,それには限界分析が基本的には 適用できない。あえて行なおうとすれば超限界分析 (inframarginal analysis)に訴えなければならない。 文化大革命時代の異端者で 10 年もの服役を余儀なく されたXiaokai Yang (楊曦光,のち楊小凱と改名)が 偉大な挑戦意欲をもって超限界分析を開拓し,一時は ノーベル賞候補に擬せられたが,2004 年に癌で彼が 死ぬと,超限界分析の研究はほとんど停止してしまっ た。新古典派一般均衡理論の枠内において超限界分析 を進めることには,基本的な限界があるからである。 国際価値論にも類似の困難があったが,長年の模索と 多くの幸運があって,新古典派理論を凌駕する理論と なっている。さきにわたしは,基本をリカードの生産

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費価値説にまで戻して再出発することを提案したが, この提案はすでに大きな成果を上げている。21 世紀 の古典派経済学は,19 世紀の古典経済学ではない。  さて,経済学の危機と,その打破への展望はこのあ たりで切り上げて,話を経済学教育に進めよう。経済 学教育といっても,中等教育・学士課程・大学院教育 と大きく分けて考える必要があるが,いずれの経済学 教育においても,現在が「経済学の危機」あるいは 「経済学の再建」が叫ばれる時代であるという認識を 抜きに考えてはならないだろう。すくなくとも,現在 主流である新古典派経済学をもって,経済学という学 問を代表させることができない時代になっているから である。  冒頭に紹介したように,海外では Rethinking Eco-nomics や Pluralism in EcoEco-nomics を求める大学院生の 運動,主流の経済学者を含む Institute for New Eco-nomic Thinking といった試みがある。より古くは, フランスの 2000 年の経済学教育改革に端を発した Post-autistic Economics という運動もある。この名に 含まれる”autistic economics”とは,新古典派経済学 を指す。現在では「ASD(自閉スペクトラム障害)」 と呼ばれる発達障害に関連したことばであるが,ここ ではこの語の「自閉的」という語感から,新古典派を 揶揄する意味で使われている。現実経済との関連に乏 しく,内的論理整合性にのみよって閉じた世界を作り あげている経済学という意味である。この名称は現在 では使われていないが,すでに 2000 年から,自閉的 な経済学から脱却しようと訴えた学生たちの運動が あったことは注目される。これは後に学生たちに賛同 する専門経済学者たちの運動として展開し,Real World Economics Review という WEB 上の雑誌が出 されている。これらの運動は,そうじて多元的な経済 学教育をと訴えている。先に参照した Denis の編集前 記も,日本での参照基準問題と同様の事態を受けて, AHE(異端経済学者集団)の提案で,シティ大学ロン ドンでなされたシンポジウムを基礎に編集された特集 号への Editorial である。  参照基準問題に際して日本でも多くの経済学者たち が多元主義経済学教育を主張したが,ふしぎなことに 日本では学生たちにその動きが見られない。日本には, 新古典派以外に,ケインズ派もマルクス派も多いこと を反映した事態であろうが,だからといって日本で多 元主義的な教育が実現しているとはいえない。あえて 表現すれば,日本ではいくつかの経済学が「自閉的 に」教えられているというべきであろう。  Denis (2009)は,多元的な教育には 2 段階あり, いくつかの経済学を並行的に教えるというのは,その 第一段階にすぎないと指摘している。かれによれば, 真に多元的な経済学教育は,論争的なもの,より正確 にいえば,「論争をベースとする教育」でなければな らない。経済学が対象とするような事態,あるいは理 論には,それを巡って対立する複数の学説がある。 Denis は,このことが経済学教育を真に教育的なもの にする基盤であるという。すくなくとも,学士課程教 育をふくむ高等教育では,そうあるべきであろう。こ の観点が中等教育にも適用できるかどうか,後に議論 したい。  高等教育の目的は,まだ真偽・当否が明らかになっ ていない事態について教えることだ,とわたしは思っ ている。すくなくとも高等教育では,なにが真理か定 まっていない多くの考えるべきことがあることを体得 してもらう必要がある。  高等教育は,ある特定分野について,人類最高の知 識を教授することだと言ってもよいが,その「最高」 のうちには,真偽・当否が定まっていない知識が含ま れなければならない。さらにいえば,こうした知識に ついて中心的に教えるかいなかで,高等教育と中等教 育とが分けられるとも言えよう。もちろん,これは程 度の問題であり,高等教育といっても,学士課程では まだ真理と信じられている知識の伝達と獲得が教育の 大部分を占めるだろう。これにたいし,大学院,とく に博士課程では,現在,真偽が定まっていない事態, まだ発見されていない事実について研究し,それらの 真偽・当否を判別していく努力に参加することが中核 的に求められる。中等教育でも,すべての生徒に強制 するものでなければ,教育時間のいくらかをこうした 種類の知識に向けることもありうる。  いささか抽象的な定義を行ったので,現実の教育場 面で考えてみよう。対比を法学教育と経済学教育とに 取ってみよう。エラスムスは,かつてこう手紙に書い たという。「法律の勉強には,真の学問と共通した点 はほとんどないが,イギリスではそれに成功したもの が高い地位を得ている。それも理由のあることで,貴 族階級の大多数はそのような地位のもので占められて いるのだから。」2)この事態は,いまの日本でもあまり 変わっていない。それが縁故によるものなのか,法学 が統治の装置であり,社会の支配者層にそれが必要で あるからか今は問わない。そうした必要からほぼ中立 的と思われる私的企業の経営者たちを取ってみても, 法学部出身者と経済学部出身者とを卒業者数との比率

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で比較して,どちらの教育効果が高いだろうか。統計 的数値を調べたわけではないが,法学の方に歩がある のではないだろうか。  エラスムスのいう「真の学問と共通した点」につい ても議論の余地があるが,常識的な学問像からいえば, 経済学の方が法学より,はるかに近代的学問の様相を 呈している。しかし,それを教育(あるいは専門職教 育)という観点から捉えなおしてみると,逆転した様 相が見られる。法学の訓練には,既成知識の獲得とい う性格とともに,対立する学説(多数説 vs. 少数説) について考えるという側面がある。これは個々の判例 研究にいたるまで貫徹している。これに反し経済学で は,教育はどうしても体系教育的なもの・頭から教え 込むものになりやすい。頭の中に一定の体系を作り挙 げることで初めて経済という巨大で複雑な対象を捉え られるということもできるが,現実はその複雑さを教 えるよりは,既成の体系をただそのものとして教える 傾向がつよい。  既成の体系を教えるだけでも大変だという言い分は よくわかる。とくに新古典派ミクロ経済学では,偏微 分など基礎的な数学準備のない学生を一定の水準にま で教育するのは容易ではない。しかし,大学教育で既 成の体系を真理として教えることは,高等教育の目的 からいえば,やや程度が低いといわなければならない。 高等教育では,既成の知識を超えて新しい知識を獲得 する訓練がなければならないが,経済学教育を熱心に 行なえば行なうほど,そうした機会を奪ってしまうジ レンマがある。  しかし,経済学においても,教育を論争的なものに する可能性はじゅうぶんある。学問の現状と教育の効 果の二重の観点から,むしろそのような経済学教育へ の転換が望ましいと思われる。現在主流の経済学のみ が真理であり経済学であるという狭い学問観から教員 が解放されれば,経済学教育はより高等教育にふさわ しいものに転換できるし,「わくわくしたもの」にな りうる。  Denis (2009)は,経済学に多数の学派・学説の並 存することが,経済学教育を論争的なものとすること を可能にすると指摘している。わたしはそこに,経済 学の「危機」と「基礎からの再建」を重ね合わせて考 えている。現在主流の理論を唯一の真理として教える ことには,確率的に考えても,大きなリスクを伴って いる。もう 10 年か 20 年もすれば,経済学は大きく変 化する可能性がある。そのときにも,「先生の教えは, いまも考える基礎になっている」といってもらえるよ うな教育ができるだろうか。高等教育は,過去・現在 の真理についてだけでなく,未来の真理についても道 筋をつけるものでなければならない。  経済学教育を論争的なものにすることは,教育の新 しい要請にも応えるものである。近年の教育の動向に 「アクティブ・ラーニング」や「クリティカル・シン キング」があるが,論争をベースにする教育は,そう した要請に応えるものでもある3)。教師としては,ま ず現在の中心的な考え方を教え,次いでそれに対し, 問題がないか,学生に考える機会を与えることができ る。社会にあふれている通説に疑問を提起することは, 真にクリティカルな思考である。それはまた創造的な 頭脳を養成する基礎訓練にもなろう。論争的な経済学 教育の基本形は,教師が主流を体現する反面教師(悪 のヒーロー)となり,それを攻撃する正義の味方に学 生を仕立てることにあろう。こうした転換により,経 済学教育は魅力あるものになる。  経済学の危機は,新しい経済学へのチャンスであり, 教育においても新しい可能性を開いている。これまで 考えられてきた以上に,より深いところ・基本のとこ ろから,理論の組み換えが始まっている。経済学再建 への私の提案は,経済学を「リカードの生産費価値説 にまで戻して再出発する」というものであった。これ は次の 2 点を含意している。(1)需要曲線・供給曲線 の概念の否定,(2)その交点において価格が決まると いう需要供給の法則の否定。これらが中学校や高等学 校でも取り上げられる概念であるという点からいえば, 論争的な教育は,経済学教育の第一歩から可能である。  経済学の深い危機は,中等教育にもあたらしい可能 性を開いているといえよう。需要曲線・供給曲線につ いて教える際に,そこに「反省の種」をしこむことは 可能だからである。もちろん,中等教育では,論争の 前に,多くの概念を使いこなせる訓練が必要であり, そこに時間をとらなければならない。そのような場合 にも,法学教育を参考にすれば,社会や経済に関する 概念を教えるには,その概念的な定義だけでは不充分 であることに気づく。高等教育への準備としては,概 念の曖昧さや両義的な部分について注意することも重 要である。  学会での報告のあと,懇親会に参加させてもらった。 何人かの発言のなかに,需要曲線・供給曲線に問題が あるとしても,それにより需要供給の法則まで否定す ることはできないというものがあった。古典派価値論 も,この法則内容のすべてを否定しているわけではな い。経済の自己調節機構の中には,需要と供給とを大

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きく乖離させないメカニズムがある。しかし,それは つうじょう説明されているように,価格の上下による 調節ではない。では現実にはどのような調節機構が働 いているのだろうか。ここから教育を始めることがで きるが,それが可能になるためには,表面的な経済学 の知識では不充分であり,教員の側に深い知識が要請 される。  経済学教育には,経済の現状や経験とともに,経済 学の現状に対する深い理解が必要である。もちろん, それは経済教育を行なうものにとって必要なことで あって,生徒にちょくせつ教えるべき内容ではない。 しかし,経済問題を考える枠組みとしての経済用語の 中にも,問題の発生理由や政策に対する説明にも,新 古典派の考えが深く浸透している。そのような用語体 系やその背景理論にたいする理解と反省ないし自戒な しに現在の経済教育は成り立たない。その意味で,現 在,経済と(部分的であれ)経済学を教えるものはき わめて難しい状況に立たされている。  淺野・山岡・阿部の調査によれば,高等学校あるい は中等教育学校の後期課程で公民科を教える教員の中 で,大学ないし大学院で経済学を専攻したものは 4 分 の 1 以下であるという。これに経営・商学・政治・法 律を専攻したものを加えても,全体の 53% に止まる4 ) 公民科が新設されてすでに 4 半世紀たつにもかかわら ず現状がこうした状況なのは,公民科教員の養成に政 府がまともに取り組んでいない証拠であろう。大学で 2 単位あるいは 4 単位の経済学を履修しただけで,高 校生に経済を教えてよいものだろうか。もちろん, 個々の先生方はそれぞれ努力されているであろうが, それによって体制の問題を解決することはできない。 とくに日本では,教員が勤務時間内に取れる研修時間 がすくない。それではいくら意欲のある先生方でも, じゅうぶんな素養を身に付けることはできない。(学 制の多少のちがいはあれ)修士修了を初等・中等教育 教員の標準とするヨーロッパ諸国の常識と比べて,教 育に対する社会的投資があまりにも欠けているといわ ざるをえない。まずは中等教育の全教員が,修士課程 の教育を受ける必要があろう。学士課程修了直後では なく,数年の教育経験を積んだあとにその機会を設け るのがよいだろう。サバティカルのような制度により, 給料をもらいながら,1 年ないし 2 年の自己研鑽の機 会が設けられるべきである。もちろん大学の方にも, 改革すべきことがある。経済学研究科の何分の一かは, 教員養成を重点とするものであってほしい。  経済学を専門として 40 年以上たつ経験からいえば, 現在は経済学の権威が地に落ちた時代である。書店に 行っても,経済学の本は片隅に追いやられ,自己啓発 本に近い経営学の本が経済学の面積の何倍かを占めて いる。このような状況は,生徒たちの科目選択にも反 映され,政治・経済(と近く導入されるだろう公共) は,科目や知識のおもしろさ・重要さによってではな く,もっぱら入試での有利さを基準として選択されて いる。経済学の危機は,逆説的にも,そのような現状 を変える好機である。人類最高の知的営みが経済学の 世界でもなされつつあることを知ってもらうことがそ の第 1 歩と思われる。 註

1) Blanchard, O. (2009) The State of Macro, Annual Review of Economics 1: pp.209-228. 2) ブロノフスキーとマズリッシュ『ヨーロッパの知的伝統』 みすず書房,1969,p.41。 3) 2 つの標語とも,経済教育学会第 32 回全国大会大会趣旨 に言及されている。 4) 淺野忠克・山岡道男・阿部信太郎「高等学校公民科教員 の研究 : 経済教育の視点から(2)」『山村学院短期大学紀 要』第 24 号(2014 年 3 月),p.4,第 2 表による。 参考文献

[1] Denis, A. (2009) Editorial: Pluralism in economics educa-tion, International Review of Economics Education 8(2): pp.6-22.

[2] Hicks, J. (1976) ‘Revolution’ in economics. In S. Latsis (Ed.) Methods and Appraisal in Economics, Cambridge :

Cambridge University Press. Chap. 8, pp.207-218. [3] Shiozawa, Y. (2016) The revival of classical theory of

values, Yokokawa, et al. (Eds.) The Rejuvenation of Po︲ litical Economy. London: Routledge.Chapter 8, pp. 151-172.

[4] Shiozawa, Y. (2017a) The new theory of international values: An overview. Shiozawa, Oka, and Tabuchi (Eds.) A New Construction of Ricardian Theory of International Values : Analytical and Historical Approach, Singaporp : Springer. Chap. 1, pp. 3-73.

[5]Shiozawa, Y. (2017b) An origin of the neoclassical revolu-tion: Mill’s ‘reversion’ and its consequences. Ibidem. Chap-ter 7, pp. 191-243.

参照

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