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古代日本人の價値觀--『古事記』中巻・下巻の内容の價値現象學的一考察---香川大学学術情報リポジトリ

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本稿は、最近刊行の﹃日本精紳の根本間塩﹂申に偽録されてゐる﹁純日本鯖翻の慣値鵜﹂の組篇たるの意味を有つもの である。該縞の内容の大略の婁鮎は﹃日本謂攣駆輿委員合切究報晋﹄︵倖由毎二歯豊 中忙銀戟されてゐる﹃古事記に於け る面詰内容の慣値単軌考究﹂に及べられてゐるが、それは﹃古事記﹄ヒ巻紳代之谷即ち古事記の榊詔内容忙硯はれてゐる 慣値的存在への偵値現象撃的解明の試みであつた。そこには、日本民族綺桝の鶉藍たる紳話の申に深き意味に於て象徴さ れてゐる﹁純日本満紳の償億親﹂が、あるが蚤まの姿態に於て全醍的に開明されてゐる笥である。絶ってその宿篇の意味 を有つ本稿は、有の僧侶鵜の必然的展開と解きれるところの﹁古代日本人の償値覿﹂であり、そしてその内容ほ、﹃古事 記﹄中怨⋮下巻に示されてゐるところの惜値的存在の考究である。即ち国史上に現はれた最古代の日本人の惜値瀾であ り、神話内容忙盛られてゐる如き象徴的なるものの解得ではない。それほより多く賃詮的性質を具へてゐる。併Lなが ら、さればといつてそれは膵史撃的立場の考究であるのでほない。それ招どこまでも紳話内に象徴されたものの自らなる 自己開展であり、それとの調聯を離れて意味を有つものではない。それ故に、その考究の仕方も亦、慣値現象撃的立攣 即ち暫撃的立野のものである。即ち上掲の如き副題を添へた所以である。 高校廿同等商輩撃校紀元こ千六百年記念論文集

舌代日本人の慣傍観

−−﹃古事記﹄中森・下奄の内容の偵値現象蓼的〓学祭−−

高 階

二七〇

(2)

一倍倍的存在自鰭

凡そ償値的存在自鰻は、それが虞的なるもの、書的なるもの、美的なるもの、染的なるもの等の何れたるとを

間はす、最高の償値的存在即ち理想的なるものの自己表現であも、常に金存赤的壷性として存在するものであ

る。併しながら、畢的究明の必要上憤りにこれを分析的に考へて見る繁っば、そこに我々は情借主傭・償兢客観

慣値作用の三構成要東の存在すること霊㈹めぎるを得ない。随って慣値的布衣自鰭の孔明は、肖らこれら三成素

﹁鈍日本鯖綿の偵値朝﹂の要鋸を王事るならば、孝こ竺茄きれた何倍的存在の償値義朝は綿々であり、僧侶客哉は仝存

在白鰻であり、慣値作用は摘明心の働きであるといふととである。これら三成素が惜値的存在自鰻を櫓成してゐる。さて

その償借主観たる神々を高めて粗野化してゐる根基は天ツ紳であられ、その天ツ紳の現世的願胡は﹁あきつみかみ﹂で在ら

せられる。差その慣儀容観た挙全存衣自髄に先天的妖言輿へてゐる唯苗心は﹁あまつひつぎ﹂であられ、何倍作川

たる清明心の最純粋の働尊は﹁しろしめし﹂であられる。それ故に最高の侶値的存在自警、﹁あきつみかごとして

﹁あまつひつぎ﹂を洒たし、常に﹁しろしめし﹂をなきれるところの、﹁すめらみこと﹂▼であらせられることとなる0こ

こ蒜聖警備値的存在自髄が蔓化せられ、他の僧侶のすべては、この紳慧晶値的存在自膿忙蓼輿ナる限りに於て

のみ∵初めて自らの存慧意警有つととと冨。こと竺君説艮の原理も青森するとするのである。以上の如晶備硯

の自らなる白己開展たるの意味を有っものが、即ち漆稿の内容である。

者代月表人の鱒値親 二七山

(3)

の方面より各々なさるべきであり、それらの分析的究明を快つで初めてその全称尭的仙鰐悼も明かとなb、埋想 的なるもの﹂般の本質も金的に解明し得られるものと侍するのである。 さて、苗代日本人の世界観、即ち宇宙観と人生観、▼随ってまたその低値桝をも最も細枠に結晶せしめてゐると 瓜はれる﹃古事記﹄に於て、その上巻即ち押詰の部分は今は暫く措き、歴史的部分として認められるその中巻・ 下谷の中に琴ボまには暗示されてゐる理想的なるもの、即ち最高の低値的存在臼鰭は如何なるものであらうか。 ﹃古事記﹄の中巻・下巻を心して謹む者は何人も先づ、その中に仙賀してゐる低値的理念が、完美なる表現に うねび かりやまといは才1ぴ− 於て明示せられてゐる番驚を、直ちに感得し得るであらう。それは例へば、﹁紳倭伊波糟屋盲′命︵紳武天皇︶、庸火 しろ くだ のかしはら 之白梼原ノ宮にましまして、天ノ下治しめしき﹂といふ如きである。尤も、紳武天皇の件りに於てはこのままの表 現はなく、 二♪l一む まつろ ﹁かれかくのどと、荒ぶる紳笹を苫向けやはし、伏はぬ人どもを編ひ平げたまひて、畝火之白梅庶ノ営几蓄しまして、天ノ下 拍Lめしき﹂ と叙ぺられてゐるが、中巻絞靖天皇の件ちより、下巻の路ら、即ち推古天皇の・件りに至るまでの問すべてー尤も その間に御在位年数を附加して透るところもあるがー右の如き克美なる衣瀕に於て、全巻に共通の慣値的櫻念が 明示せられてゐるのである。即ち次の如くである。 しろ かむぬたかはム包みこミ かつら辛たかをかみや ﹁酌払河瓦′命︵敵将天皇︶、麗城′高槻′宮に空しまして、天ソ下流しめしき。﹂ 高怒嵩箪蘭稟感校紀元二千大官年記念論文集 二ヒ二

(4)

なにはたかつ レはれのわかさくら ﹁伊都本和雪命︵腐中天畠︶、伊波摘之若槻ノ宮冒しまして、天ノ下流しめしき。﹂

みづはわけ

たちひのしはがき ﹁水歯別ノ命︵反正天蓋︶、多治此之柴垣′常にまし射して、天ノ下治しめしきO﹂ をあさっ ヰれわくごダくねル疲あナか ﹁男嘩浮間ノ君子ノ宿欄ノ命︵允怨天空、逮ヅ飛鳥ノ宮にましまして、天ノ下治しめしき。﹂ あなはみこいそのかみのおなほ ﹁穴秘ノ御子︵安康誉豊、石ノ上2穴ぬノ宮に吉しまして、天ノ下治しめしき。﹂ わか喪らしひこ ﹁著筍日子ノ天白宍成蓼天皇︶ らしなかひこ ッ日ノ Lきつひこたまでみ かたしほうきあな. ﹁帥木韓日手玉手見ノ会慧買畠︶、片盛ノ浮穴′常に訂し宣して、犬′下治しめしき。﹂ 謳ほやまとひこす魯ともかるのさかひむか ﹁大儀 日宇鈍友雰︵盛徳天皇︶入軽之墳約言にましまして、天′下治しめしき。﹂ みまつひこか象Lね ﹁御眞捧督子御意志添ノ受孝昭天草が撃撃鳥遠にましまして、東ノ下治しめしき。﹂ ぉぼヤ宏とたらしひこくにおしぴと かつらぎむろのあきつL料 ﹁大倭滞日予圃押入ノ命︵孝安誉実篤城ノ誌之鉄蹄島ノ宮にましまして、天′下汚しめしき。﹂ ぉほや急ミね■蒜こふとに 、くろだいほど ﹁犬僚機子日子親斗過′食違東天畠︺、黒田ノ墟戸′常にまし臥し′て、天′下治しめしき。﹂ ぉはやまミねこひこくに くる かるのさかひばら ﹁大俸板子日子固玖琉ノ命︵肇芸き、轍2墳原/宮粧まし吏して、天ノ下流し・めしき0﹂ ゎかやまとわこひこお挨びび 写加のレぎかは ・ ﹁若倭根子日子大毘長ノ命︵細化天畠︶、ノ春日之伊郭河′宮にましましてJ天ノ†治Lめしきご み まきいりひこいに鼠 しきみづかぎ ﹁御眞木入日子印窓′命︵崇紳天皇︶∵師未ノ品7軍にましまして、・天ノ下治しめしき。﹂ いくめいりひこいさち ﹁伊久米伊理碧伊佐知ノ命︵垂仁歪︶、酎ヂ肇撃宮にましまして、天ノ下流しめしき〇﹂ おはたらしひこお ・しろわけナめら合︼と ま魯むくのひしろ ﹁大将日子淡斯呂和気ノ雷宍素行天皇︶、絹向2日代ノ常にましまして、天′下治しめしき。 ら 古代甘本人の横倍親 かあふみのしがたかあなは 近ッ淡海之志賀ノ高大楷′宮に空し草して、天ノ下治しめしき。﹂ あなとの モ;ら つくし か し ひ .く■tサ∼−し■し

ノ′

二七三

(5)

はつけあさくら ﹁嘉耶ノ如射撃交雄略天白〇、芸ノ敵今宮筈しまして、天ノ下流しめしき。﹂ いはれのみかくり ﹁如撃ポ猷郎γ命︵活寧天鳥︶、伊波櫨之麗東ノ宮にましまして、天ノ下治しめしき。﹂ をけのtはすわけちかあすゎ ﹁京都之石選別ノ命︵鮫宗天畠︶、 ぃそかみひろたか おほけ ﹁意笛那ノ命︵仁賛天皇︶、石ノ上ノ鹿高′宮叱ましまして、天ノ下流しめLき。﹂ ほつせの′たみ亨 をはつせわかささ登 ﹁小長谷ノ著雀ノ命︵武烈天皇︶、長谷之列水ノ常にモ射し いはれのた監ほ なほど ﹁菜木棺′命︵取組天恵︶、伊波礁之玉穂ノ宮忙ましまして、天ノ下流しめしき。﹂ ひろくにおしたけかなひまがりのかなほし ﹁靡国押娃金日ノ命︵安閑矢島︶、勾之金恕′宮忙ましまして、天ノ下治しめしき。﹂ ひのくまのいほりぬ たけをひろ′這おしたて ﹁建小厨陸押楯ノ命壷化天皇︶、檜摘之蛮人翫ノ常にまし哀して、天せ苧レめ.しき。﹂ あめくにおしはあきひろにはしきし魚の ﹁天成押波疏岐脳磨/天草欽明天皇︶、師太畠之大宮にましまして、天ノ下給しめしき。﹂ ぬたくらふとた貧しき盈さだ ﹁沼名倉大玉数ノ命︵敏速大畠︶、飽田ノ嘗に草しまして、豊拾囲歳、天ノ下治しめしき。﹂ たちば微きよひいりべ ﹁椅ノ登日′命︵用明大畠︶、池ノ速ノ宮忙督しまして、参歳天ノ下流しめしき。﹂ くらはししばかき はつせぺわかささ磨 ﹁長谷部ノ著雀ノ天真崇峻天皇︶、倉椅′柴垣′富にましまして、四歳天′下治しめしき。﹂ とょみけかしきやひめをはりだ ﹁豊御食炊屋比琵′命︵推古天皇、小治出ノ官忙管しまして、蓼拾七歳天ノ下泊しめー︶誉﹂ 以上列車のこれらの叙述、それが﹃言寄記﹄の申奄・下巻に盛られ仁甚だ遵口易彩にしTまた多岐錯綜せる外 貌・円貨に、確ヰ盤顔王る妖言輿へてゐる客質を、我々は看過することができない。否、そこにこそ、古代日 本人の低値観の上に於て畢患蒜売る意味の存することを、我々は歓待せざるを得ない。何故ならば、該全巻を 通じて例へば針の縫目の如くに鮎綴的に掲揚せられてゐるこれら劃定形式の叙述の中に、まさしく我々は、そこ 高松専⋮等商業数枚紀元二千干草牢記愈論文集 二七四

(6)

に﹂賀して明かなる慣偲的理念を見出し得るからである。名は圃より蜜を伴ふ。以上の簡明先夫なる表現によつ て朗示されに事驚の中に、我々は、﹃竜寄託﹄の中巻・下巻に明示されてゐる理想的なるもの、即ち最高の償欄的 春本臼鰭を泡蝕し把捉することができると考へる。 事賢に於て、﹁紳倭伊波渡艮苗′命、畝火之白梼原ノ冨にましまして、天ノ下治しめしき﹂といふこの表現の中 に.、我々は故も具倍的なる慣佑の創造・驚硯の働き、或はまた最も先金なる償低利断的事象を搬得することがで きる。そしてこの場合、﹁紳倭伊波相良苗ノ命﹂は叫切を債依づけられる敢高恵汝る慣借主観と考へ得られ、﹁畝火 之白樺鹿ノ官﹂はその慣借主観の於て存廃せられる場所であり、﹁天′下﹂が濃包括的低位客槻であり、そして﹁治 し倒し﹂は故純粋の慣他作用と考へられるのである。即ち上述の償値的存春構成のこ要素が、この簡明なる表現 の裡に、先発に顕示されてゐると思ふのである。こゝに於で、冨寄託﹄の中巻・下谷を根城としで苗代日本人の 低値朋を明かにせんとする我々の意抱の連行は、由然にも以上の三構成要素の慣値現象拳的即ち解経由的吟味か ら始めちれなければ甘らぬ。 椅、以上の価値的三成東が完全なる統叫に於て最高の憤値的布衣自醍卸も理想的なるものを成立筐現せしめる 時、それはやがて我が閥鰐の精龍を成立磨滅せしめる桝以のものとなるで㊦らう。何故ならば、我が開催の精能 ■ ナもみま は、いふ′までもなく﹃日本苔紀﹄に掲げられてゐる天阻の御紳助に明示されて居り、そしてそれは結局、﹁皇孫が葦 しら 争功 原の千五古秋の瑞穂団にまとなbて無窮にこれを治される﹂といふところに、その中接があると解されるが、そ 苗代日本人の償値親 二七五

(7)

のこよが、以上の、例へば﹁神像伊波祀屁苗′命、畝火之白梼原ソ瞥にましまして、天ノ下治しめしき﹂なる袈硯の 中.王二部葉に、遺す与しろなべ挿示されてゐると軍服れ牒からである。即ち二重孫﹂は﹁紳倭毎波祀度量ノ命﹂で あられ、﹁葦原の千五百秋の瑞穂閥﹂は﹁天、′下﹂であり、 る。されば初めに列拳せ一る聞二形式の表瑛の根本的なる慣伯的理念は、結局天通の御軸勅のそれと同仙のもので あり、そしてそれが我が国魔の精髄的なるものを示現するが故に、以上の情値的亭成東を究明することば、やが て我が閥濃の蹄能を塾閃的に開明する所以の遣ともなり得るであらうことを、我々は侶サるのである。別冒する な あり、そして﹃古事記﹄上巻仲代之奄に示されたそれは、や.はう天甜の御神勅に明かされてゐるもの∼漸静的確立 といふところにあつたが故に、終局﹃古事記﹄の中巻・下巻Ⅵ内容は、上巻に示されに理念そのもの∼自己開展に コスモス カオス 外ならぬと、常然にもいはれ得るのである。渾沌的紳話の宇宙的自己開展、そこに所謂膝兜が開け来っにのであ る0 ■ ゾルレンゲイエンデ久 S已ien00のi昌de小であると共にまたザィンイブルレンデス SeinsO−訂nd認である償備的存 祐自慢の、そのノエシスーー○乳s的象面はゾルレン的性質の所謂偶依主観であり、そのノエヤnOe⊇a的象面は 高松高等南米壁校紀元こ千ふハ百年記念論文珠

〓 慣 借 主

二七六

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ゲイン的慣兢客観であり、またそれら両者間の志向的相闘関係そのものがノエシス的=ノエマ的−−Oetiscビ= ≡巾matisc㌢なる慣他作用そのものやあるとするならば、最初に列車した表現が示すところの慣値的布衣自偲に ひめふこヾ− みことナめらみ,︼せみこ 於て、ノエシス的象面としてのゾルレン的慣胤主観に懲られる布衣は、﹁命﹂︵﹁天畠﹂も﹁御子﹂も﹁比票′命﹂も御脚将 に申上げる。−以下同様←であらせられる。そしてノェマ的象簡としてのゲイン的債億客観は、﹁天′下﹂であり、 その間のノエシス的=ノエマ的慣値作用は、﹁治しめし﹂である。併しながら、これらの三成索は結局叫つであり、 最朝より不可分割的に仝存在的酬鰭性を威して、最高の慣低的春窮即ち理想的なるもの、即ち我が開憾の精鹿的 なるものを結成してゐるのである。次に兜づ償値主観について見る。 雪古事記﹄上巻紳代之巻に於て、償値主顧は紳々としで表現せられ、その最も純粋にして鼓高なるものは天ッ紳 々の﹁命以ち﹂としての﹁あきつみかみ﹂上して仰がれた。い中巻・下巻に於ける上述の﹁命﹂はいふまでもなくこの ﹁あきつみかみ﹂であらせら斬る。そこには二京した連結のみがあり、神代と人皇時代との問に些の間際もあるの ではない。天孫の御降臨と神武天皇の御即位とは改段に連結しでゐるのであ・る。それ故に、紀元二千六百年とい ふも、それは紳武天皇の御即位以来二千六百年といふ意味であつて、我が闊が初まつてから二千六百年といふの はない。我が囲の初ょりは悠遠なる神代の昔にあり、その極るところを知るに由がない。只、﹃古事記﹄では紳 で 俸伊波蔑見苗ノ命︵鯛武天皇︶から中巻とされ、﹃日本苔紀﹄では翻日本磐飴濠天皇︵和式天曳︶から奄第三とされ、そ して天皇の御即位の年から年月を記してあるが故に、この年を紀元元年とし、これを基として賛辞の無窮を敬へ 古代南本人の倍値親 叫一ヒヒ

(9)

高松高等商業牽校紀元二千六百年記念論文簸

二七八

てゆくことにしたのである。三宅彗晶生も明言して居られた如く、我が紀元元年は我等の知わ得る限りの蓬苗

した暦年の始であるといふに過ぎす、それが建国筑二乍であるといふ意味のものではない。今日さう考へられて

ゐるとしても、虞蟹の建固はそれ以前にあり、少くともそれは天孫の御降臨にまで遡って考へられなければなら

ない。その晦を肇図といつて、建図と区別はしてゐるが、その肇囲と建国との閑に些の間隙もあるのではない。

ナめらみこと 神代に於ける天ッ紳々の﹁命以ち﹂が直ちに人畠時代の﹁天皇﹂であられるのである。その間の連緯関係が﹃古事記﹄

上巻の経りには次の如く述べられてゐる。

﹁是の天管管子汲限建鵜聾軍費不今年鵬封依毘衰ノ命に嬰ひモて、鑑みませる由子の名は、晶′命。誉村泳ノ

命。次に御電招′命。次に若御宅沼ノ命、またの名は豊御電沼ノ命、またの名は紳棲伊波践毘古ノ命︹四桂︺。﹂

かく瞭然たる御系譜によつて、紳代と人畠時代との連盤幽係が示されてゐるのである。そしてこの御系譜が今

日に至るまで連綿として紙いてゐることは、固よりいふまでもない。換言すれば、血系の皇孫によつて承け哨が

せられる賓昨は、神代の甘より確立されて届有■、そしてその確立は、天地初輩以釆の神々の活動によつて漸暦的

に完成されたものであるが故に、我が囲憾の淵泌は天地初蟄の時に、即ち天之御中主′紳に繋すを有つこととな

り、焚酢の精封牲・神変性の基づくところ、拘に悠遠であるといはなければならぬ0

この賓所確立の漸暦的尭成は、紳代の初めにありては、重く天然自然に無意識の神になされ乗っ﹁如くであ

る。それが漸く日覚的になされるに至つて、天沌の御神勅も硯はれるに至つたと思はれる。そのやうな和白慢は

(10)

人畠時代に至つて愈々明かとなり、そしてそれによつて賓詐の絶対性・神聖性も愈々確乎不披のものとされるに 至ったのである。 最も純粋にして高憩なる倍値童胡としての、即ち﹁治しめし﹂を驚行されるその、肇照としでの﹁命﹂の御自覚は、 ﹃古事記﹄の中巻・下巻に於ては、例へば次の如き叙述の中に明かであらうと思ふ。 いろせ亡ころ ︵イ︶蒜倭伊波鴫毘古′命、その間母兄五瀬ノ命と二枚、高千穂ノ宮にましまして試りたまはく、何れの地にまさばか、天ノ下 ひむかたた の政をば早けく聞Lめさむ、猶東のかたにとそ、行でまさめとのりたまひて即ち日向より賛して、筑紫に革でまLき。﹂ 志 ︵こ﹁かれここに詔りたまはく、菅は日ノ紳の御子としで日忙向ひて戦ふことふきはず。﹂ Uほぎ甘みあらか ︵ハ︶1ここ忙天皇詔りたまへるは、奴甲、已が家を、天白芸御合に似て造れりとのりたまひて、即ち人を遣はして、その衣 の.み を焼かしめた吏ふ時に、その大願重機東風㌫て、稲首白さく、釈にあれば、奴ながら覚らずて、過ち作れり。いと畏しと まをしき。﹂ 雲ま ︵ィ︶に於て、﹁天ノ下の汲をば平けく閲しめす﹂こと、即ち﹁治しめし﹂に常っての御苦心の御状が明かであり、 ナがな ︵こに於て盲ノ紳の御王、卸ち天関大御紳の直系としての御反省の御貌が明かである。これらは何れも、紳倭伊 波紹毘苗ノ命の﹁天ノ下﹂を﹁治しめす﹂その主餞としての御自覚の結果と思はれる。︵ハ︶は大長谷ノ著建′命が皇 おほ常み 屈に似せて私宅を浩作してゐた志茂之大頗主を御懲戒になつた物語であり、﹁天皇﹂としでの奇蹟な御地位を強く 御自覚なされてゐたことの詮とせられ得る。かくの如き御自覚は、智羅を先天的に根墟づけてゐるところの天ッ 細々の﹁命以ち﹂の御自覚の上に、二坪弛められ凍ったものと思はれるC﹁命以ち﹂なる言葉は中巻にも蒐々に 古代日本人の僧侶覿 二七九

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よ さ 二八〇 高瓶詰奪商魂轟校紀元二千大官牢記念論文集 く貪ぬ 使用されて屈う、例へば、紳倭伊波憺鬼石ノ命の御簡征の物語に於て、熊野ノ村にいでまして、天皇始め全軍悉く たも たかくらじ 毒気に解れて病み伏.された時、熊野の高倉下が献った叫振の構刀を御受け取り嘩ばすことによつてその熊野の山 の荒ぶる紳共を慣切り介された七と、またそれによつて全軍悉く葦就から窮められたことが記されてゐるが、そ の横刀を高倉下が献った抑々の初因は、﹁天照大神高木ノ紳二庄の紳の命もちで、姪御笛ノ紳を召して詔りたまは もはらハまし やくさ いたさや く一葉庶/中ッ閣は、甚く騒ぎてありけり。我が御子たち不平みますらし。かの葦原ノ中ッ図は、専汝が言向けつ る固なり。かれ汝超御笛ノ紳降りてよとのりたま﹂はったことにあるとなされてゐ牒。また八僅鳥の郷導に従ひ さと 給ひしことも、﹁高木ノ大紳の命ももで、覚し白したまはく、天ッ紳の御子、ここーら喚つ方にな入りよしそ。荒 ゎこ しり ぷる紳いと多かり。今天より八爬鳥を遺さむ。▼かれその八爬鳥導きてむ。その立にひ後より宰でますべしと、兇 しまをしたまひ﹂しに一月つてゞあるとなされてゐる。卸ち、﹁命﹂の﹁治しめし﹂の背後には、常に天ッ神々の﹁命 以ち﹂がめり、この﹁命以ち﹂がその﹁治しめし﹂を愈々正常化し、絶封化し、神教化するものとなつTゐ告と解さ れるのである。かく﹁命﹂の背後に犬ッ細々あり、その﹁治しめし﹂は常に天ッ帥々の停示、加護或はまた天謹と忍ば れるもの\下にあることゝなる。このことは到底に見られる神学紳助・或はまた懲戒と仰されるものの物語によ お摺たが って明かであらう。右の高倉下の館邪魔車戯も、八爬鳥の轡苛も、伸示。紳助の意味を有つものと解される。息長 くさぐさたカら こがわ﹀ろがね たらしひめ 禰日壌ノ命︵紳功曳眉︶の新羅征伐五、﹁酉の方に問ぁり。金銀をはじめて、目の耀く種麓の珍賀その囲に多なる あまかみくに力み 々。嘗今その圃を辟せにまはむ﹂﹁今定にその閥を求めむと思ほうば、天ッ油粕ッ賦、よに山′伸海河′紳たちに悉

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蚤き ひ一りで ひさこ みr、ぐら に幣桶奉り、我が御魂を御船の上にませて、眞木の衣を観に納れ、よた第と薬殺首多に作りて、鱒々大海に散ら わた し浮けて、盛りますべしと詔りたまひ﹂し天照大輔並に転椅′男=・中筒′男・上筒′男のこ詣の大輔の言教へ発し おひか甘 に基づいにものであり、またその、﹁順風盛りに吹きで、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波、新辣の

あがなか

粘 ら えや・項 の力はまに時に天認力となっても瑛はれた如くである。例へば、御掲木入日チ即題ノ命の御せに、﹁役柄多に起 おぼたたわこ おほふたからう り、人民死せで轟きなむと﹂せるは、大物童ノ大神が﹁意富多多泥苗をもて、我が御前を麗らしめたまは﹂ぎり まごと わ丑さ9 しためとせられ、また伊久米伊理屈苗伊佐知ノ命の皇子本卑智和束′御子が、﹁八拳覧心前に至る′まで御言とはす おけ℡丸み︷やりか ⋮︰︰:物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかり﹂しは、出雲ノ大神の﹁我が富を大畠の御合のごと 迫りたまは﹂ぎりしための崇であるされ、或はまた背中タロチノ天皇の早く崩御遊ばしたのは、新羅征伐の紳託に いたレ、か 信を授かれなかつたために、﹁神大く怠らし﹂た結果となされてゐるのである。以上の如き紳示・紳助・懲戒と思 いつ はれるものに傲へる遣は、仙に誠心誠意紳を矯き祭ることでなければならぬ。紳への奉肇がかくて﹁命﹂の課嬰 ▲三人ナナ な務めの叫つとなる。かくで、御虞木入日子印惑′命の御世には、触豊組比褒′命をして ﹁伊勢の大輔の宮を いつ おぼみわ いつ 輝き祭りたま﹂はしめ、また﹁意富多多泥苗ノ命を、神主として、御諸山に、意富莫和之大輔の御前を斎き祭り やまと たまひ﹂、その他諸々の紳々を祭りにまはつた。また伊久米伊理屈苗仰佐知′命の御せにも、偵比求′命をしで﹁仰 をろが 勢の大輔の官を揮き祭りたま﹂はしめ、またその御子本牟智和気ノ御子をして﹁出雲′大神S宮を窄ましめに巡り 古代江本人の僻値朝

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高松高等商業撃校紀元二千六昔年記念論文集 二八二 うたか私 こと たまひ﹂、﹁売上ノ王を返して、紳ノ宮を迫らしめたま﹂はったのである。倭建ノ命は、東夷の竃向け和しの﹁命を受 みかど けたまはりて、罵り行でます時に、伊勢′東沖の宮に参りまして、紳の朝廷を拝みたまひ﹂、また息長野日貨ノ命 が新羅征伐に成功された折には、﹁墨江′大神の荒御塊を、固守ります紳と窮め祭りて、還り渡−りまし﹂、偽、伊 在ろが はらひ 邪本和気ノ命が曾嗟加里を討上れ給ふた際にも、﹁祓疎して﹂﹁紳ノ冨を弾ま﹂せられに。かくの如く、神々を奉賭 し、油と御剛偲になられることによつて、﹁命﹂は﹁治しめし﹂ の御、‡膿としての科白党営愈々強められ、賛締 の絶対性∴鱒翠鮭を愈々確乎不抜のものとなされ乗ったのである。 ﹁治しめし﹂の御室攫としての御自覚は、やがて臣民との問の傭たる分を明かに榊意識せられることを意味する であらう。前述の、大長谷ノ君達′命が志茂之大願主の膝上を御懲戒になつた物語に於ても、君田の分を明かにせ られた意味が汲み取られ、また天皇が為城山に登り垂でませる時に、﹁既に天皇の頗辞に等しく、その琳の状、ま あ才l た人どもも、相似て別れ﹂ぎるを 天皇が見遣らして、﹁このー倭の問に、吾を除きてまた卦明は無きを。今誰ぞかく さ魔人 て行く﹂と問はしめられたことの中にも、臣下の分として大君に擬へることの非を強く御脊めになつに継が明か カIは舶たがあ空か である。男庸雄閲ノ若干ノ宿禰ノ命が﹁天′下の氏氏、名名の人どもの、氏姓の杵ひ過てることを愁ひょしで、味白 しことやそまがつさきくカべ やそともお 楷の音八十鍋韓日ノ前に、歌詞食を据ゑて、天ノ下の八十友緒の氏姓を定めたま﹂はつにことも、人民問の分を明 かにせられたことで、、この常臣明分の事に囲聯づけ.て考へ得ることゝ思はれる。 この君臣の分の自らに明かであることの審理は、樹よぅ臣民によつても愈々強く意識せられるに至ってゐたこ

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小 みこ やつこ ︵イ︺﹁古より今忙至るまで、臣連の王の常に罷ることは▲聞けど、王手の臣の家に隠りませることは未だ開かず。是を以て思 やっこおほみ ふ忙、膿奴意富実は、カを鴇して戦ふとも、鑑にえ勝ちまつらじ。﹂ のみ のみ ︵ロ︶﹁その大願主催ぢ畏みて、槽昔日さく、奴軋あれば、奴ながら覚らずて、過ち作れり。いと畏しとまをしき。かれ帝首 ゐやじり の御解物を徹る。﹂ ひとへ ︵ご1然れどもかの犬養谷ノ天畠は、⋮︰︰夷ノ下治しめしし天真にますを。今認に父王の仇といふ志をのみ取りて、末ノ下 治しめLし天蓋の御陵を悉忙壌りなば、後の世の人必ず誹りまつりてむ。﹂ を囲み給ひし折、その家の主都犬良意富焚が﹁自らまゐ出で、楓ける兵器を解きT、八鹿拝みて、白し﹂上げた 言葉であるが、題下としての分をよく白兜した上での言上と解される。︵こは前述の志幾之大腰主が、犬長谷ノ $藻 若建′命の御懲戒密受けた際の恐曜し†放であるが予臣下として名分を素し左軍曹悔いるの態度が、よく表明さ おぼけ れてゐる。︵ハ︶に於ては、意富郁ノ命が御陵に勤し奉って特に敬惟の怖壁不されたことを硯はしてゐるのである。 おほみたからしじむ 左たて み亡ともち また自棄′大倭板子ノ命の御世、山部ノ蓮小楯が﹁針間ノ図の宰に罷れる時に、その観の人民名は志自卑が新宝に到 うたげ うたなかはっいでへ りて審﹂し、その﹁盛りに禦げて、鮒なるとき、次第のままに常俄ひ、﹂竃の傍に居た二人の童にも僻はしゆたの であるが、その二人の塞こそ、さきに穴穂ノ御子の御せ、市′遼之忍薗ノ王の殺されし折に逃げ去りし二王子、患 苗代日本人の僧侶覿

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高恋高等商業畢校紀元二千六甘年記念論文集 二八四 欠ろ ひだりJ.撃汐、ま きで、昧よう断ち輔びて、 lま姶まつかひ ま 泣き悲みて、民どもを集へて、椴官を作りて、その椴宵に坐せまつり置きて、駆使上りき﹂と叙べられてゐる。 この二王子はやがて、塞那ノ王は顔宗天皇た、意宮部ノ王は仁賢天皇に茂られるのであ・るが、右の小網蓮の驚き さヰ鵬 憐れし鋸は、儲時の人々の蟹酢に勤し奉って有ってゐた恭敬の念や態度をよく示すものといへるであらう。かく の如く臣民も、撃砕の紀封牲・紳蛮性をよく自慢して固より疑ふことがなかつた。 賛辞の絶封性・紳聖性は、元々紳代以来不抜に確立されてゐたのであるが、それに封する﹁命﹂の御自覚、並に おはみたから 人民の自覚も以上の如く次紡に明かなるものとなり来ったのである。随って賛辞に労ります﹁命﹂も、故純粋・般 高恩なる慣依主観としで、償他の別学驚現、即ち﹁天′下﹂の﹁治しゆし﹂に、御白魔的に全身仝窪を打ち込めら れるに至ることは自然の勢ひであつたと思はれるC先にも攣ぺた如く、神像伊波相見苗ノ命は、﹁何れの地にょさ ところ まつろ ばか天ノ下の政をば窄けく閲しめさむ﹂と宣はせられて東のかたに向はせられ、﹁荒ぶる紳等窒品けやはし伏は ぬ人どもを掃ひ窄げたきはったのである。御眞木入日子印琴命の御世、役柄流行に常りては、雲覆の外愁 おほふたから ひ給ひて、盛に天紳地租を祭り給ひ、﹁天ノ下平ぎ、人民集えなむ﹂ことを御紛念遊ばされ、﹁天′下平ぎ、人民富 み柴﹂ゆるに至って、﹁ここに初めて男の弓瑚の調、女の手末の調を壷らしめたま﹂はつたのである。また囲清滴 寅つろ 軍の御派遣も、﹁その伏はぬ人ども豊品け和さしめ﹂るたあに外な宣なかつた。大琴命の御仁慈についてほ人 皆のよく知るとこウつ、射ちその.叙適は次の如くになされてゐる。

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ひ 微 ょも <ぬち ﹁こどに天皇∵高山に篭りまして、四方の圃を見したまひて、諮りたまひつらく、国中に姻たたず国営資し、かれ今よMここ やこぼ の ひじり え〃ち みつ曹えだちおほ 富めりとおもほして、今ほと課役科せたまひき。是を以て百姓巣えて、神位忙苛まぎりき。かれその御世を栴へて璽の御世と 空をすO﹂ ひLり ひじり この空は即ち﹁日知﹂であり、天ッ日嗣を知らす る。神変性がこヽに明たり依たりといはぢければならぬ。 ナめら孟こと かくの如く、賛稚は絶判、締盟であらせられ、﹁天′下﹂﹁治しめし﹂の御大柴は、﹁天皇﹂にる﹁命﹂によつて、天 ッ赫々の命以ちによつてことよさせられたる至重至大の御発として御自覚遊ばされた。それがために、特に洗き 御反省の結果御即位の御譲渡を念とせられる ﹁命﹂も赤らせらるるやうになつた。紳倭伊波躇毘盲′命の御子紳 八井耳ノ命は、弟蓮沼河耳′命に御釦位蟹お譲りになつて、﹁蕗は仇を得殺せす、汝が命既に得葦せたまひぬ。かれ かみ あれ いはひびと 吾は見なれども、上とあるべからす、是を以て汝が命上とまして天′下治しめせ、僕は汝が命を放けて、忌人と なカて仕へまつらむ﹂と白された。また前述の市遼之忍薗ノ王の御子意富那ノ命も、その弟蓑郭ノ命に御即位を試 しじむ られて、﹁針周の志自牟が家に任ゆりし時に、汝が命名を嶽はしたまはぎらましかば、更に天ノ下知らさむ君とはな このかみ いさ変 らざらょしを。既に汝が命の功にぞありける。一かれ吾れ旦にはめれども、忽汝が命先づ天.下を治しめしてよ﹂ 音武勇本人の惜値親 ニ八五

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け うぢの と申されてゐる。大富ノ命と手近能和紀郎ッ子との二庄も亦、永く相互に﹁天ノ下﹂を相法り給つに。穴柑′命も初め あうちは いな ﹁我は打延へたる病し有れば、臼砲え知らさじ﹂と詔り給はれて御酎まれた。これらのことすべで、療詐の絶対 性・紳資性、コ天ノ下﹂﹁治しゆし﹂の至重至大性を御自発遊ばされての御者と思はれる。 かく故純粋・最高蓑の低値主観としての﹁命﹂が、天ッ紳の﹁命以ち﹂即ち硯御紳として、紹封。紳教の賓昨を減 じして辟初より麗られた故に、低値づけの作用、即ち侶値の創学資現の作用はすべてここにその根源を有ち、 眞・蕾・芙・盈なる横槌的償櫨と偏∵銀・醜・俗なる消極的慣倍との僅別も亦自らここにその標準を有つこととな ぐぷつっレレし︵一フい るのである。例へば、頚椎石椎をもらて土買八十建を撃?﹂とは﹁菩じ﹂とせられ、目ノ紳の御子として日に向ひ まっろ 嘉はみたからえひめおとひめ て哉ふことは﹁ふさはす︵不文︶﹂とされるのである。﹁命﹂に随順なるものは﹁浮き公民︵見比琴弟比褒︶﹂であり、伏は 丈つろはぬひミやつこ ゐp ぬものは﹁悪人・鳩奴・荒ぶる紳︵土彗八十建‖登発見古山熊曾毯・出雲娃り蝦夷等︶﹂﹁祀なき人︵熊曾攣一人=竺紫ノ苗 レはわきたな倉こころ きたなきわぎ 石井軍︶﹂﹁邪心を起せるもの︵造披適安ノ王︶﹂であり、己が君を殺せまつれるは﹁不轟︵官軍村里の所璽﹂とされ、謀反 ー⊥∵▲ 心は﹁具しき心﹂﹁汚き心﹂なとゝされるのである。そ なる投高の償倍的存在者であり、即ち﹁恐み﹂の封象として存在されでゐるものである。

三 億 債 客 観

最純粋・最高畳の慣値主観としての﹁命﹂即ち硯御紳の慣低づけの対象となるものは、最初に列車した叙述に 高松高等商業堪校紀元二千六百年記念論文集

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明かである如く、﹁天ノ下﹂・でぁる。﹁天ノ下﹂・は最包括的なる償値客概と解される。﹂畠﹁天り下﹂なる青葉は、上

奄断ち紳串の中には見出され得ない。併しながち、その意味の上から観じて、これが面詰の中の﹁菅原ノ申ヅ図﹂

た雷ることはいふまでもないであらう。尤もこの場合その中ッ図とは、高天ノ原並に蔑泉困に相封立した意味のそ

れでは亨、それらすべてを統合した意味の中ッ固であるb大国童ノ命の拍貨車稟によつ毒づ封立的意味の中ヅ図

ことむやは と黄泉囲とが大慣に於て統合せられ∵攻・に天麿大御神の申感の雷同け干しによつて高天ノ原と中ッ閲とが完全に

蓮般し、そ←てその警、天孫降慨の署によつて以上三踵の世界が完全に統合されたので雪が、こ∼に賛砕

が名蟹共に不抜に疎音れるに莞たので雪。冒膚記﹄紳碧哀して存する慣偽的理念は、かくの響究

極に到達せんが志のものであつ‡思はれ、る。かくして統合された三揺の算が、炭質の露に於ける中ヅ観

であ㌔そしてこの意味の中ッ閏は自ら大学雫あり、即ち八紘である︵前漂着﹃是蹄紳の雲間撮﹄票﹁親日本 綺紳畏け怠納富もの﹂莞︶ごしれが中学下巻に潮謂﹁天′→﹂として叙ぺられてゐるものせ解される。偵り

に布衣撃的に観やる時∵﹂れは公布泰そのものであるともいひ得られるであらう。

併しかくはいつても勿論、その皆時の人々が、今日我々が存在革的立場に放で仝存在といつでゐる如きものを

意識的に考へてゐ窒馨ものではない・。ロハ、重義直感の裡に諾あ手も、そのやうな泉のを全軍持とし

て、八紘として、即ち﹁天ソ下﹂として感得し、それが﹁命﹂に真七治され′るものと信じ、.至に此方疑惑をも

起きなかったといふのである。元来布衣拳的轟舞の生存在といふも、それは我なる中心を斬れて超越的に璽止に

古代闇本人の慣碓親 二八七

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存在してゐる如きものではない。むしろそれは中心たる我の認識の及ぷ限り、我の感得の達する限りの全世兇と いふが如きものであるといふことができる。縫ってそれはその限極が〓疋に不動的に固定してゐるやうなもので はない。我の認識が採大し、我の感得が豊富になるた給って、漸次成長し蟹展してゆく性質のちのである。即ち それは常に叫定の限界は有つが併し永速に固定附な限趣は有つことのなき世界といはなければならぬ。刻々に我 を中心としてゐる、我が認識の及ぷ限ケ我が感得の達する娘トぁその金せ界が、所謂全席在として、我々にと つで存壷拳的に間趨となるのである。かくて仝存在は、刻々に成長し蟹展しゆくものでなければならぬ。﹃古事 記﹄神託の中の﹁中ッ観﹂は、繭速の加く、かくの如き意味の世界として考へ得られるが、その中巻・下巻の中の 所謂﹁天ノ下﹂も亦、かくの如き意味の成長的・教展的せ界として観ぜられるのである。鰭つでそれは﹁命﹂の 赤られる場所を中心として次第に演がれる、桝謂常に㌦定の限界はあるが併し決して何定的眼穣のない世界と 心て考へられる。随ってそれは例へばインド・アリアン民族の中国風想や、漢民族の中図・中京思想に於ける﹁中 園﹂とは自ら興るところのぁのとならなければならぬ。何故ならばインド・ア∴リアン民族の中国は、北はヒマラ ヤ山1南はダインドヤ山、西はダイナシャナ、東はプラヤーガを以て限局されでゐる固定的〓疋地域であるとさ れ、また漢民族の中国なるものも、東夷・西戎・南攣・北欧によつて限定せられたる固定的局限的地域となされ てゐるからである。そこでは蟄展や成長は決して考へ得られない。二足の局限的固定的地域のみである。然るに 我が﹁天′下﹂は中心を看ち、限界は常に有ってゐながら、その限界の刻々に婆展し成長しっゝある世界でゐ 高松高等商菜袋校紀元二千六官軍記念論文集 二八二八

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る?例へ・ば先づ紳倭伊波趨虎苗′命が日向に由られし時は、﹁天′→﹂はそれ冨心音る表の地であつたと思 はれ、そしてそれが吹管、.品よ基紫へ、竺警り晋備へ、吉備よ晶速へと中心が遷るに臨つで伸び菰が

り、熊野よ豊野に及び、歌火之白樺原′官㌢し貴賢は、その﹁天ノ下﹂げ大和を中心とせる、そして日向

富合賢叫園の地であ言と忍はれる。それが苺纂識の慧限り、感得か達する限すの全世界、即ち八放

であつたと思はれるので雪。併し㌣れが、風景菅H琴倉新辣征伐や品陀和気ノ命の欝栂㌢臍ノ固に求誓 に至った墳にな㌢、その﹁天ノ→﹂は讐践がつて=蕗富包警るせ誓誉に警たのでみる。かくの如く

限極の簸い仝存空してノ、刻々に成長牽展する八管して、﹁界ノ→﹂は常に蓋してゐたと思はれる。成長し

教展するものには常に催告中心が必雷管。中心を明かにすることば﹁天′下﹂を明かにすることであ畠。

各御閻々々に特に皇居を明承されてゐる所以と忍はれる。

﹁治しめし﹂の野卑即ち慣低審賢しでの﹁天ノ→﹂の内容とし基づ竺に人民がある。百姓・公艮∵ま ぉはみたからおほみたからおはみたから

たはうつし毒人警呼ばれてゐる。この﹁おほみたから﹂または﹁帝人草﹂が、紳裔にまし与﹁命﹂と傭乎

之霞肛夫との物語の中に、﹁我が御悪事、能くこそ紳習はめ、美うつし毒人若へや。その物償はぬ﹂と

いふ貢があ㌢とによつて晶かであらう。即ち償ふべきもの富償はないといふが如き所為は、紳の御桝行

古代白本人の僻値鶴

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二九〇

恵高富墓校慧二千六百年記念論纂

完全なる育人草も、﹁す苦みこと﹂の→﹁おはみ苦から﹂として、、常に限姦基恩・由仁警浴し、そして、 もと

ひじり 御世々々を励へば﹁空相﹂と柄

招か用

主に

真綿、御夢曇れて、⋮緒細川善しめ喜ば、紳′賢ず㌔謂なむとの蓋ひ車︰

芸大く歓びたまひて夫ノ塞ぎ、人民警なむと詔りたまひて⋮⋮天ツ所地ツ舐の雷雲まつ豊吉き。﹂ 肋はづみつ雪たなすえたてまつ ︵ロ︶﹁かれヌ′下冨、相避ポ養毛とこに初めて男の弓璃の訓、女の憲の習去らしめた孟き。﹂ 蒜豊から みつ芝だち違 え言 ︵〇﹁かれ首姓富め呈雷ほして、今はと課役刺せた忍き。是を以て是讐て琵芸を芸。﹂ ︵イ︶︵ロ︶は共に御栗入日子印意ノ命の御世の御雫あり、人民の愁を愁とし、その歓び姦びとせさせ給った 御仁慈が明かである。︵こは前にも述べ誌く、大牢命蒜仁愛を明かにし富のである。

﹁天ノ下﹂の中に鼻白莞が雪。これがまた﹁治しめし﹂の封象として蒜心の讐御慧・御同情の下に

雪G荒蕪の地が池や田や港に作られ2とは、例へば、伊久米伊埋足首知抜知ノ命、大管チ状斯呂和束ノ天皇、

大雀′命の御世等に記されてゐる事響雪。太陽露呈も守暮されたことは﹁円に何等警ことふさは

ず﹂の∵旬に明白であるが、草木鳥獣に閲しての厚姜御心の軌語塞警通じで到る研に存してゐる。

しぬ 倭琴命が﹁能焼野に到り怠る時、図思ばして歌ひにきへ.る御歌、 や諷と ﹁倭は、圃のまほろば、たたなづくー宵垣山、隠れる、倭し、英L。﹂

・へぐりくまかしぅ少 ﹁命の、詳む人は、塵琴平群の山の、隠白梅が其を、撃慧挿竿芸子。﹂

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﹁はしけやL、吉家の方.よ、雲居起ち来も。﹂

これらの中には、郷土たる固土に封する切、々の情思が放浪せられてゐる。また鳥津ノ前のて松の許でよませられた

﹁尾張に、鮎㍍首尾時の崎な三つ奄、管見を二つ聡、人にあ豊ば、大刀掘けまtを衣著せまLを、三松、菅 £ 1...し.、.. ナぬ

軋を、し﹂

にはか の中に粛、叫樹に寄する情懐が示されて居り、御病魚になりし時によまれた御歌

をとめ

﹁煉女の、床の逸に、吾碇きし、つるぎ大刀、その大刀牒や0﹂

に於ては我々題∵表りの大刀に勤して有たれた命の限う無き愛情の情を観得することができる。或は大雀ノ命

ときじくかくこのみ

﹁この御世忙、鮎評の西の方k、高槻あサげり、その磯の影、朝日に治れば、淡驚K観び、夕日還れば、高安山を過 たかき ぇ、き9かれとの樹を切りて船町作れる忙Jいと撞く行く贈にrぞあ.りけり。時にその舶の名を枯野とぞ謂ひける。かれこの 音偶日本人の僧値鶴

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〓九こ 高空偽等商菓撃校紀元二千六百年記念論文集 あぷよひもひ 船を以て、、日歩に淡恵良の清水を酌みて、大御水蹴りき。玄の舶の填れたるもて、堕を焼き、、その填け造れる太古取り ななさと 七、琴k作牒たりしに、その昔七厘に聞えたりき。﹂ あらゆる人民並に自然物に到される犬御心が既にかくの如くであるとすれば、人民並に白然物の≠切が﹂﹁命﹂ に封し奉って絶対随順の誠を披癒せんとすることも、慧しまた常熱といはなければならぬ。 わた さた みとも ︵イ︶﹁また微忙仕へまつらむ甲と.問はしければ、仕へまつらむとまをしき。かれナなはち楕を指し度して、その御船忙引き 入れて、禍根津日子といふ名を賜ひき。﹂ いはおしわく ︵ロ︶﹁汝は誰ぞと間はせば、僕は圃ッ碑名は石神分の子、今天ソ紳の御子革でますと聞ける故に、まゐ迎へまつる忙こそと まをしき。﹂ たぢまもりかげほlし ︵ご﹁ここ忙多過産毛理、綬四踵矛四矛む分けて、大府忙蹴り、綬四拉矛凹矛を、天畠の御陵の戸忙蹴り置きて、その木ノ およ ときじくかくlあみ ささおら 賓を挙げて、叫び異びて、労世′圃の非時ノ菅′某を持ちまゐ上サて停ふとまをtて造に異び死忙き。﹂ かひかぜ ︵こ﹁海原の魚ども、大藩なる小き、悉に御船を窺ひて波りき。とこ忙順風盤り忙吹きて、御船涙のまにまにゆきつ。かれ あがなから その御船の汲、新羅の掛忙押し携りて、既忙国政塵で到Ⅵこ撃﹂ うづひこさま ︵ィ︶は神像伊波榎魔笛′命御束征の際、∴干豆長石が海路御案内の状であぁ、︵ロ︶は石押分の子が御出迎への折の 模様である。心からの随順を示すものと思はれる。︵ハ︶は多遅腕毛埋が勅命を奉じて漸くに非時′苓′薬を求め締 りしに、伊久米伊瀾戌苗伊佐和′命既に紳去り給ひてあらしため、悲しみの飴り、御陵に至りて泣き死に、死に しことであり、その至訴純忠側々として人を打つ牒のがある。︵ニ︶は息長澤旦讐命の新羅御征伐の折に、魚や 風や波などの自然物さ、へもよく随順性を好示したことを明かにしたものといへる。﹁おぼみたからしのみでなく、

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﹁山川も依りてつかふる榊の御代﹂が、常に硯驚的であつたのである。 ち すわら?︼ミ かくの如くに、﹁天ノ下﹂は悉く﹁天皇﹂に﹁まつらふ﹂ものとして存してゐる。それは﹁治しめし﹂によつ て限り無き御仁愛に照し患まれた自らなる反映である。慣借主槻と慣儀容観とはもと′1相関的脚係に於て結合 せられてゐるのでみる。債借主観の統一性がかくて慣備客観に統二あ庖へ電ものとなる。﹁天ノ下﹂の統叫は、ま さしく賓稚によつで初めで可能であるといはなければならぬ。かくて憤値客観個々に於ける慣倍の有無、即ちそ れが眞・善・芙・患・滑′・吉なせの積極的慣値を有つか、はたまた偏・惑・醜・樽・汚・凶などの消極的慣値件 のものかは、以上の統叫そのものに適合するか香かによつて自らに決定される事柄となる。かくて例へば皇軍の こや ﹁をえ伏し﹂を﹁痛め﹂しめた横刀は着きもの占され、為に勇む久米のチはみつみつしとされ、﹁命﹂の御意に適 さかしびと おほみたから えをとめ ふ人々は愛媛女・清き公民などゝいはれ、論語や千字文を罵れる人は賢人といはれるのである。また反封に、 いや やつこ まっろはぬ 反逆の心は披き心・具しき心といはれ、その人は柑なき人・蔑奴・悪人荒ぶる紳などいはれ、蛮鍋蹴錯・椚耶・ け みぞうめ 播種等々の所為は綾はしき罪とな㌢れるのである。併しこれらの消極的慣他の保持者即ち慣他無きものと錐も、 最純粋の慣他作用としての﹁治しめし﹂によつては、やがて有慣借着にまで樽換せしめられ得るものとして存存し てゐた。﹁治しめし﹂によつて救済されぎるものは凝り得ぬとされるのである。

四 億 倍 作 用

古代日本人の鹿値親

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﹁治しめしき﹂の﹁治しめし﹂は、清明心の働きによつで驚甥せられる最純粋の慣倍作用といへる。﹁治しめし﹂は ﹁知らす﹂ことであり、﹁知らす﹂といふことは不完全な部各的佃存在を包容・純化・更生せしめて完全なる粂標的 仝存在性たらしめそしと、即主祭蓉・莫化の作用を葦現することである︵前抱﹁純日本締紳の横倍覿﹂象照︶。現 質的には御稜威・御仁愛によつての世界光被として規は.れる。﹁天′下﹂はこれ七よつて﹁自ら照h明るき﹂世界と ところ なるのである。﹁何れの地にまさばか、天ノ下の政をば平けく閲しめさむ﹂といふとき、その政を平けく閲しめす ひむかた1 といふことが、﹁知らす﹂ことであノり、﹁治しめす﹂ことである。この﹁治しめし﹂のために﹁日向よト賛して∵⋮∴荒 ぶる紳等を富向わやはし、伏はぬ入どもを滞ひ尊けたまひ︵紳倭伊汲砲毘古′命︶﹂﹁大吉備淫月子′命と著観音備繹 とは会川 日子ノ命とは︰■⋮晋備り闊皇一一り向け和しご﹁大鹿苗′命をば二鱒志ノ迫に造はし、その子鹿沼河別′命をば、東の方† ひこい史ナみこ ふたやわ 二道に迫はして∵その伏はぬ人ども登呂向け和さしめ、また日子攣‡をば、見波′闘に迫はしで、玖賀之御室を ことむ 殺らしめたまひ︵御眞大入町子印癒ノ命︶、﹂﹁西東の荒ぶる軸、伏はぬ人どもを平けたまひ︵小碓ノ命即ち倭建ノ倉︶、﹂ま つ∴、“ い た﹁軍を整へ、御船を饗めて、度ら挙でまし︵息長符月琴′命︶﹂などせられたのである。またこの﹁治しめし﹂のた さかて めに、﹁血沼ノ池を作り、ま圭狭山′池ぉ作り﹂よた日下之高津ノ池を作り︵伊久米伊現毘古伊佐知ノ色﹂′﹁坂争′池を作 よさみ ゎに みやけ まむた りて、その捉に竹を格えしめ︵大背日子湛新和免ノ天白琶﹂﹁安田ノ堤、茨田/三宅を作りたまひ、また丸適′池、依綱′ 設接し 池を作りたまひ、′また難波の堀江一ぎ掘りて、渥に通し、また小椅ノ江を掘り、また還′江の津を定めたまひ︵大軍ノ ノ命︶﹂もせられ、或はまた﹁意富多多泥苗ノ命を、神主として、御諸山に、意富莫和之大神の御前を所き祭り︰⋮・ 高堅偽称商葉畢校紀元二千六官年記念論文集 ニ九四

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びらか 伊迎賓色許男′命に仰せて、天の八十干食、を作り、天ヅ帥坤ヅ舐の祀を定めまつりた真ひ︵中眞大入日子印琴命︶、﹂﹁伊 みかど 勢の大紬の富を弾き祭りたま具倭比貸ソ命︶、﹂﹁伊勢ノ大御神の官に重りまして品の朝廷を拝みたまひ︵倭建′命︶、﹂ やまと はらひ ﹁倭に上か到 繭官を拝ましめ︵大雀′命︶﹂たまひ、或はまた﹁百済ン閥に、著し賢人 りまして、⋮⋮祓喫しで、︰・︰ あらば貢れと仰せによひ︵晶陀和魚ノ命︶﹂等々のことをもなし給はつにのである。これら倍すべて清明心の純粋な る恐劫によるものと解し奉ることができると思はれるのであるが、その滞阻心は時には知的に作川して概略縦頗 の戦法ともなり﹂時に情的に張路しで実的なるものの迫進ともなり、また時に意的に牽勤して、勇武なるものへ の憶憬及びその賀硯ともなると思はれる。到曝に物語られてゐる知謀恐輝の戟巻物語、莫なる人や例へば歌才な ど塾術的なものへの讃実の物語、勇気や武断や琶行カの尊揮やそれに対しての萬抑憧憬の物語などが、このこと を明かに示してゐるといへる′であらう。これらは結局はすペて﹁治しめし﹂のためのものであり、眞・善・巽・醇 満・音等々の掛廠的償値の創造驚現の働きに外ならぬと.思はれる。そしてか、る意味の﹁治しめし﹂が遵紬として 緩いて、今日にまで及んでゐるのである。﹁おほみたから﹂た、るもの∼﹁切の自然的埜活も文化的活動も、結局の ところ、この﹁治しめし﹂を翼賛し奉るためのものに外ならぬ。これが﹃古事記﹄全巻の内容が自ら語るところの慣 低的理念と思はれる。 この﹁治しめし﹂を資現遊ばす絶封にして紳翌なる最高の慣低的存在日膿即ち理想的存在者そのものは天ヅ紳で 在らせられ、天り紳の紳裔にます﹁すめらみこと﹂で在らせられることはいふまでもないが、この青春者に酎し奉 古代日本人の何個鶴 ニ九五

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二九六 高撃向琴南米華校紀元〓干六百年療念論文集 った場合の﹁おほみたから﹂の心的態度の音義は、上巻に於ける場合と同様に、﹁恐し﹂ぢる言葉によつで硯ほされ てゐると思はれる。 ︵イ︶﹁てこ忙天書芸て白したまはく、恐し、我が.大紳。現御身まきむとは、覚らぎり望と自して、大御刀また弓矢を始め け あいかめさもら ︵ロ︶﹁ここ忙父が日ひけらく、こは大君忙ましけり。恐し、我が子仕へまつれといひて、その家を施しく飾りて、候ひ待て て、首官の人どもの服せる衣服を脱がしめて、拝み蹴りき。﹂ ひこやこ ︵ロ︶﹁かれ建内′宿.掴、恐し我が犬鯛、その紳の御腹にます御子は、何の御子ぞもとまをせば、男子ぞと諮りたまひき。﹂ ︵ご﹁かれ富碍ぎて、恐し、命のま忙ま忙御子の御名を易へまつらむとまをしき。﹂ 上れらは大神に封し奉って、如ち︵イ︶は葛城之小言壷′大紳に封し奉って大長谷′若建′命が御自ら﹁恐し﹂と小さ れ仁のであり、また︵ロ︶は天照大神に封し奉って建内ノ宿痛が、︵ハ︶は伊肇沙和第ノ大神之命に封し奉つで建内′ 宿弼がかく巾されたのである。 おほきみ ︵イ︶﹁ここに建内ノ宿禰ノ大臣白しけらく、恐し、我が天皇。猶その大御琴あそばせと牢ご記し尊。﹂ またのひ ば、明日入りましぬ。﹂ おはくさかと ︵ご﹁ここに大日下ノ王四たび丼みて白したまはく、若しかかる大命もあらむかと思へる故陀、外忙も出さずて置きつ。これ 恐し。大命のまにま忙戯らむとまをしたまひき。﹂ わにのひふれの ︵ィ︶に於ては滞中ッ日子ノ天皇に封し奉つで盤内ノ宿摘が、︵こに於ては品陀和束ノ命に封し奉って丸適之比布祀能 おほみ 意富美が、また︵ハ︶にあつては穴穏′御子に封し挙って大日下′王が、何れも﹁悲しjと申して居られるのである。 ひじり これが﹁讐釦ち絶対にして神教なる存在に封し奉る﹁おぼみたから﹂臥心的態度即サ清明心の張露であ・り、それ寮

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以上に於て我々は、﹃首巻記﹄中奄・下巻の内容内に表現されてゐる償値挙的なるもの、即ち僧他的布赤白餞を 慣櫨達観−慣佑客観・慣偶作川の方面よ隼、その酋啓白髄をしで語らしめるといふ、最初の金閣を犬憾に於で界 し得たやうに考へるりそしてそれによつて得た我々の論結は、そこに盛られでゐる慣他項念は結局に於て上等の カオス 軋容に盛られてゐるその理念の鹿長・磯展に外ならないと′いふことである。換言すれば、﹃古事記蒜串門に沖縄的 コスモス に含蓄せられてゐた理想的甘るものが、自己内面の必然性に於て、学績的に展開したもの、それが中巻・下巻の 内容であるといふことである。そしてそれが要すβに、例へば﹁神像伊波鰻属古′命、歌火之白樺原.官にましま して、天′て治しめしき。﹂といふことの中に、その根幹的なものが存してゐるといふことである。その内容を満 たしてゐる複雑多彩なる事象も、要するにこの一貫して存する根幹を増蕃するところの、或はその根幹より派生 せるところの、副式的枝葉的のものであるに過ぎぬと忍はれる。勿論その多岐多端に亘れる内容の中には、例へ ば激闘魔に見られる反逆の物語などの如く、以上の償檎的甥念に背反すると解されるものもないことはない。併 しながらこれと揮も、決してその根幹的理念を脅かすものではなく、むしろそれらの結末が常にこれを示す如く、 その根幹的理念を益々強化し明化する役目をのみ、それらが果してゐると、遅疑なく明言し得るのである。例へば そのまゝに今日にまで及ムでゐることも固よりいふまでもない。

五 紳∵謡の臆長螢展

昔僻目本人の僧備親

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建波適安ノ王の乳︵御炭水入日子和姦ノ命の御世︶ に於ても、そこには却って大鬼石′命・闘犬玖′命の忠誠が明かにせ られ、皇軍の威力と御稜威の伸長が物語られてゐる。抄本長石/壬の反︵大背日ヰ釈斯呂和気ノ命の御世︶に於ては、 おはぎみ 抄本鹿⋮異の弱く悲しき至誠純情と毘更に封する天皇の限り無き御愛情とが此の上もなく人の心を強く打つものと して春してゐる。大山守′命の非撃︵品陀利嵐ノ命の尉後︶の物語に於ても、表面に明かにきれてゐるものは、要す みこと るに字遅能和紀郎つチの智誠に優れてゐること∼、敵命ぉも愛するその御仁愛とである。更に墨江ノ中ヅ王の乱︵伊 那本和気ノ命の御世︶にあつでは、附知ノ直の忠誠や・水歯別′命の純忠と、曾婆詞理に卸するその功賞と罰烹との梅 まよわ 欺に他する合理性などが物語の中心となつでゐるのであるα鼠後に目朗ノ王の欒︵穴槌ノ御子の御世︶の物語に於て おぼはつせ は、そこに物語の中心と、なつでゐるものは、却って犬長谷ノ王の比類なき御武勇であり、都夫良意富実の條埋ある 忠誠の仕方である。以上の如き反乱は、不動不抜の賢所に野し奉っては、大樹に封する微風の如きものに過ぎな かったといへる。而も伸それらの反乱の革具すべて臣下ではあられなかったといふことも、大義名分の上・から 特に注意さか訂き事柄であ・らう℃紳代以来確立され乗った賛辞は、かくて茶々備然にり、﹃吉夢記﹄中巻・下巻の 内容は上巻町内容の必然的自己展開といび得るのである。 併しながら、その展開は単なる展開ではなくしで、成虫であり、蟹展であるところに、中巻・下巻の特別なる 盈要性があるものと思はれる。成長蟄展といふことは、外貌に於て多岐となり、内瞥に於て豊富となることであ る。より一厨多岐なる外貌と豊富なる内驚とを自らの桝有として有つに至ることは、期謂摺澄洪的綜合を刻々 高松高嶺商治学校撃空一千六甘牢記念論文壌

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に完了しゆくことに於て初めて結果されることゝ恩はれ告摺語法的にこそまさしく歴史は1唯物史観や観念史 観は固より誤謬であるが1訂己を形成しゆくものであらチャ榊謹法的綜合のためには措定に封する反指定が不可

馳のも﹄セある。壁兜も亦自己形成のために、反措定的要素を必要としで有づであらう。そしてそれは決しで措

定的要素を脅かすものとしてゞはなく?それに成長蟹展の動力を輿へゑ契機的要素として﹂必然的に有たねばな らぬであらう。かくて﹃古事記﹄上巻の成長恐展的自己開展たるの意味を有づ中学下巻の中に∵Jの反措定的

安東も、由定的要素の多岐豊富になるにつれて次第に多く甘るといふことも、あり得る常然といはなければなら

ぬ。上述の反乱の如きも、かくの如き反措定的意味を有つもの上して、解鐸し得られぬことはないであらう。

未だ綜合されぎる、或は既に綜合されつゝも伺封立的に考へられたる指定と反指定との問には、矛屑の悶係が

布衣してゐる。多岐愚富になるといふことはかくて矛盾をも多く有っに至るといふことである。﹃古事記﹄中巻・

下巻が上巻よりもより多くの矛盾的要事曾も有っといふことは、かくて常然ともいはぬばならぬであらう。奉賛

に於て㌣の内容内には、上巻に於ては提出し得往かつ㍗如き多くの矛屑的要素が存在しでゐる。反乱がその一つ

と麟され得ることは今述べた如くである。

生命と死との寧ひは、神訴の中にも殊に著るしきものとしてr多く放べられてゐる。併しながらそこには未だ自 殺といふ現象は現はれなかつたやうでみる。生命と宛と.への白魔が強められなかつた放であらう。然るに中巻・

下巻に於ては数筒虚にこのことが記されでゐる。倭建′命の后鼻楠比更′命の崇高にして而も悲批なる御入水は人

古代日本人の侶借親

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ぅ 三〇〇 高松高等蘭菓蓼校紀元二千六百年記念論文集 常によく知られた至情純忠の莫しき物語であるが、こ∼に教げる例としては適切でない。それは生命と死との葛 藤といふよりは、むしろ悲壮写る死の勉服であり、崇高放る生命の凱歌である。併しそれよりも少し以前に物語 まとぬひめ さが られてゐる園野比東′命の、顔の挽きを恥ぢて、﹁梯の故に取り懸うて、死なむとぞしたまひ﹂て果さす、途に搾 いほながひめ き淵に殴りてぞ死せたまひ﹂たるは、かの紳代の巻の石長比貸の場合と比較して、我々はそこに並々ならぬ人間 岳なしのかるみこのそJと いろも 苦の葛藤を見ることができる。また木梨之軽ノ太子とその同母妹軽︰大郎ッ女とが相互に歌ひ交しっゝ遮に﹁共に自 生上わ ら死せたまひ﹂しことは、人生に敗れし人の悲劇的最後を示してゐるものといふべく、避に目弱ノ壬の乳に於で、 みこもみこ 王の御憶りを王子なるが故にとて最後まで庇ひし都犬艮意富美が、カを喝して戦ひたる末、﹁僕は痛手負ひぬ。失 ナベ も轟きぬ。今は得戟はじ。如何にせむ﹂とまをしたるに封しての玉子の御答へ、﹁然らば更にせむ術なし。今は宵 し を殺せよとのりたま﹂へるに應じて﹁刀もでその王子を刺し殺せまつりて、乃ち己が頚を切句て失せにし﹂その ことの中に、我々はやはり生命と死との問の深刻なる葛藤むも見ることができるのである。まに例へば理性と感 情、即ち義理と人情の寧剋も、上奄にないことはない。併しそれが中巻・下巻に於ては.甚だ深刻性を有ったも のとしで現はれて来る。その故もよき例は、既にも述べ㍍、抄本毘苗′王の反に於ける抄本尾吏ノ命の切々たる衷 情である。向人かこれを浜なくしで読み得るものがあらう?またこれも前述の、水薗別′命の曾婆詞里に封する浜 あり候理ある功賞・罰責の中にも、我々は義理と人情との葛藤を、そしてこゝではそれに対する明快なる虚断を 見ることができる。また愛情の物語にしても、⋮単なる官能的愛に堕することはなく、されに相野する節操を、次

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あかゎこ 第に庖覚的に有つやうになり乗ったことは、例へば赤祐子の物語などにも、これを見ることができると思はれ る。その他まに例へば、血肢に紳を鰭き祭ることの多くなつたことは、紳人分離を意識的に考へることの多くな つに.ことの意味を有ち、また御仙代毎に都を超されたことは、繍と持との封立を益々強く意識されるに至った結 兼、汚絨なる古都を逃れて、清明なる新都に超られるといふ意味を有ったものとも解し得られるであらう。これ ら諸々の矛眉封立的要素が、その内容の如何なるものにもせよ、﹃古事記﹄中春・下巻の外貌・内葦を頗る多岐豊 富なものとしてゐる寄驚は、これを見逃し得ないと考へる。 併しながら、以上の如き多様は、慣値塾的に見て決しで、統﹁なき多様ではない。、そこには、唯〓琴南の慣低 理念による至完至美の統二㌢ある。この統叫は、紳代以釆﹂賞して存するものであり、﹃古事記﹄仝奄を通じて明 かなるものである。かくて、﹁多様の就ここそ、﹃古事記﹄全巻の内琴の慣値現象拳的形態といへる。そして、 その芙しき統一を成立せしめてゐる中棲的唯一最高の慣低的理念、それが如何なるものであつたかは、・本稿の眼 目としで、以上既に明白ならしめ得たところと考へる。︵叫五・九・仙川︶ 古代日本人の偶値朝

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