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エドワード6世期財務府出納部の支払い関係記録について : E405/484の分析を中心として

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(1)

エ ドワー ド

6世

期財務府出納部 の支払 い関係記録 について

―E405/484の 分析を中心として一

歴史学教室

1

は じ

bに

従来 のテューダー財政史研究 を振 り返 って見 る時

,ヘ

ンリー

7世

時代か ら1554年 の財政改革期 ま でのテューダー財政機構 な らびにその運営において

,財

務府 の果 た した役割 はかな り低 い もの と見 倣 されて きた。 16世紀前半期のテューダー財政史 は

,ま

ずヘ ン リー

7世

時代 にチェンバーを中心 とした財政機構 が発達 してい くが

,こ

れ はそれ までの古めか し くて衰微 していた財務府か ら財政運営上の主導権 を 獲得す るものであった

,

という叙述か ら始 まる。すなわちそ こで は

,テ

ューダー財政機構 は発展的 で国工 にとって きわめて融通性 を兼ね備 えたチェムバー と12世紀 に創設 されて以来,およそ400年の 歴史 を持つ保守的で古 めか し くて

,財

政運営 において も非効率的 な財務府 とい う基本的に相反する システムの もとに捉 えられ るのである(1ち その後1530年 代 になる とクロムエル(ThomaS CrOmwell) のイニ シアチプの もとに行政機構 の改革が実施 され

,一

連 の財務裁判所

(1536-42)が

新 たに設置 されることになる。そ して財務行政 もチェムバーを中心 とする基本的に国王個人 に支配 され融通性 を備 えていたハ ゥスホール ド財政か ら

,ハ

ウスホール ドか ら独立分化 した部局 を中心 とする財政運 営 (departmenntalization)へ と質的変化 を遂 げることになった。 しか もこれ ら新部局 はチェムバー とは違 って非個人的で実質的に官僚制 (bureaucracy)に 基づ くものであ り

,従

ってチェムバー とは その制度的特徴か らみて全 く相反す るものであった とされ る12J。またこの時点で も財務行政の中心 に

あったの は増加収入裁判所 (The court Of Atlgmentations)で あ り

,あ

くまで も財務府 は二次的

な財務裁判所で しかなかった。 ところが1540年代末か ら1550年代初 めにかけて財政危機が深刻化す ると

,財

政改革 の気運が急速 に高 まり状況 は一変す ることになる。すなわちこの時期 にテューダー 財政 を健全化 させ るために様々な改革が試みられることになるが

,そ

のクライマ ックス として部局 の統廃合が行 なわれ

,最

終的 には1554年に増加収入裁判所 と初年度・ 十分一税裁判所 (The court of First―

Fruits&Tenth)が

財務府 に統合 された。 それによって

,財

務府が再 び財務行政の中心 に 位置す るとともに●ち初 めて財務府内に効率的な会計業務方法が導入 され,る ことになった,とい うの である律ち ところで

,こ

のような一連 のデューダー財政史研究の流れを追 ってみると

,そ

の中にい くつかの 共通の暗黙の前提があったように思 える。それは第一 に

,そ

の間ずっ と財務府 は伝統的かつ非効率 的な諸手続 きに基づ く保守的な財務裁判所であった とい うこと

,第

二 に全般的に見てテューダー財 貞[ 太

(2)

井内太郎:エドワー ド6世 期財務府出納部の支払い関係記録 について 政機構 の主要機関であった財務府 とハ ウスホール ド

,さ

らに一連 の新財務裁判所が

,制

度的にかな り相違 し競合 してお り

,ま

たある程度 まで不完全 な財政部局であつた とい うことである。本稿 の目 的の一つは

,16世

紀半 ばテューダー財政 の分析 を軸 にまさにこの共通 の前提 を再検討 してみるとこ ろにある。 というの も

,こ

れ までの研究が財政機構 の拡大期 に関す る部分 に集中 してお り

,1540年

代末以降の収束期 に関す る研究 は十分 とは言 えないため

,そ

れを全体 として捉 え直 してみること, また財務行政の分析が会計業務 の理論的部分 に偏 ってお り

,実

務過程 の分析 に基づいて各財務部局 の諸手続 きを比較 してみる作業が残 されているか らである0。 そこで本稿では,最近徐々に研究成果があが りつつある16世紀半ばの財務府出納部(the Exchequer

of Reciept)の財務行政について°ち とくにオールソプが編集 した支払い幸艮告書(the deClaration of

issues,E405/484)の 分析 をもとに17j支払い業務について分析 しなが ら

,上

述の問題についての考察 を行ないあわせて今後のテューダー財政史研究のありかたについて も展望 してみたい。

2

財務府出納部の支払い関係記録について

(1)デ

ィーツの研究 とその問題点 まずエ ドワー ド

6世

期財務府出納部の財務行政について知 ろうとする時

,そ

の先駆的な研究 とし てディーッ (Dietz,F.C。

)の

研究を挙げることができる(1ち 彼の研究 はテューダー期から初期ス テュアー ト期 までの財務府に限 らず政府財政を全般的に扱ったものであった。 もっとも彼の関心 は 主に財政収支の面におかれていたがために

,た

とえばイ固々の財務部局内の具体的な運営状態 。諸手 続 きについて知 ろうとする場合にはあまり役に立たない。また彼の分析方法・ 統計数値 についても い くつかの問題点が指摘されていることも事実である。しかしその後同時期に関してこれ程 まとま つた研究がでてきておらず

,ま

た依然 として高い有用性を持っていることか らも

,

ここで彼の研究 について振 り返 りその問題点についてい くつか指摘 してお くことか ら始めることも意味のないこと ではなかろう。 さて

,彼

がエ ドワー ド

6世

期財務府出納部 の分析 に用いた史料 は主 に次の三つ,

① 1609年 に作成された1547-55年 の出納官会計検査簿の要録

(動

(the eight folos summary of the views of the tener's accounts for 1547-55)

1550-1年

の経常収支報告書

(0

(the fair cOpy of the declaration of the state of the treasury 1550-1)

エドワード6世治世の支払い報告書

K41

(the declarations of issues for the entire reignl

であった。彼 はまず① と② をもとに1547年イースターか ら1552年ミクルマスまでの財務府 の各会計

年度 ごとの総収入額 と

1552-4年

2年

間 をひ とまとめにした総収入額,1548年 か ら1553年 にかけて

の各年度 ごとの税収入額 な どを示 している15j。 また③か ら各年度 の総支出額,さ らにその支払い項 目

として

15501年

を除 く各年度 の財務府 の俸給,1550年までの各年度 のハ ウスホール ド費

,大

納戸部 費 (the great wardrobe)のいわゆる経常費 と

,各

年度の非経常費 を算出 している16J。

こうして彼 はエ ドワー ド

6世

期財務府 出納部 のほぼ各年度の総収入・ 支出額 を示 そ うと試みたわ

けである。確かにそれによって

,そ

の概要 について は十分 に知 ることはで きるものの

,そ

の個別具

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

2号 (1989) 61

ツが示 している各年度 の税収入額 のなかに1547年 のサプシディ

,lo分

1・ 15分

1税

収入額が含 まれ

ていないが

,こ

れ はエ ドワー ド

6世

期財務府で受領 された税収入額 のほぼ

3分

の1を占めていた こ

とか ら,彼 の示 した税収入 に関す る情報が不十分 な ものであることが知れ る17J。 また各年度 の総収入

額 については示 されて はいるものの

,そ

の細 日とりわけて もその中で財務府 の経常収入 の中心的部

分 を占めていた国王の古来の収入 (血e ancient revenues of the crown)や

,裁

判収益 (prOfitS Of

iuStice)の額 について は何 ら具体的な数値 は示 されていない。一方

,収

入部門 に比べ ると支出部門

はよ り包括的な もの となっていたが

,そ

の場合 にもデ ィーツは支払い報告書の中か ら重要な部分の

みを取 り出 してお りその支出項 目全体 の約半分 を示 したにす ぎなかった。

さらに

,彼

が用いた史料 の性格 とその問題点 について も若千の指摘 をしてお く必要がある。現在

公文書館 (the Ptlblic Record Office)が 所蔵 しているエ ドワー ド

6世

期財務府 出納部 の会計業務

に関す る史料 としては (図表

-1)に

示 した ものがある。 そこか らまず気づかれ ることは

,彼

が直 接・ 間接 に用いた史料 はそのうちのわずかに3つにす ぎなかった とい うことである。 さらに現在史 料① の基 となった出納官会計検査簿 は公文書館 に残 っているにもかかわ らず

,彼

が用 いたのはほぼ 半世紀後 にそれをもとに作成 された要録 であった。 もち ろんその要録 はオ リジナルな史料 ほ ど詳細 な報告書 とはなってお らず,ま た転写 の過程で生 じた誤 りもい くつか散見 され るのである。しか し, 史料② の問題 はより深刻 といえる。当時

,枢

密院 は政府財政 の状態 を把握す るために財務府 を含 む 各財務裁判所 に対 して毎年経常収支報告書 を提 出させていた。 しか しこの制度 は1505年 ごろ確立 さ れて以降急速 に衰微 してい き

,16世

紀半 ばまでに時代遅れで殆 ど当初 の目的を果 た さな くなってい

た。ち 財務府で はこの経常収支報告書 は割 り符局 の割 り符局書記 (the writer of tallies)に より作

成 されてお り

,ま

ずその草案が作成 され

,次

にそれを基 に正式な年次報告書が作成 され国王・ 枢密 院に提出 されていた。重要な ことは

,草

案部分 の作成 の段階ではその記録 に正確 さが期 されてお り, またそのために十分が配慮 と調査がなされていたにもかかわ らず

,い

ざ正式な報告書 の作成 の段階 になると,不正確 ない しは不完全 な箇所が度々認 め られ るということである。ちこれ は先程 の経常収 支報告書 の制度 自体 の衰徴 を裏付 けるもの と言 える。 さらに割 り符局書記が同報告書 とは対照的に 出納官会計検査簿や支払い報告書 といった他 の正式な会計報告書の作成 の際 にはその正確 さに十分 な配慮 をしていた ことか らも

,彼

ら自身すでにこの正式な経常収支報告書 に重要性 を認 めていなか った ことが知れ る。従 って

,財

務府内部で同報告書が十分 な監査 を受 けていた とは考 えられない し, ましてや国王・ 枢密院でそれが監査 された り

,ま

たそれ を基 にかれ らが財務府出納部 の財政状態 に ついて十分な情報 を得ていた とは見倣 しがたいのである。 このように史料② を用いる場合 には史料

上の信憑性 の点か ら慎重 さを要す るのであ り,少な くともその車案部分,受領記録(the reCiept roll),

出納官会計検査簿

,等

の関連史料 との照合作業が必要 となるのである。 こう考 えて くると

,彼

が用いた史料 のなかで財務府 の財政状態 を示す とい う目的 に最 も適 した史 料 は史料 の正確 さ・ 残存状況か らみて支払 い報告書 とい うことになる。 しか し

,即

述 の ように

,支

払い報告書 に基づ く彼の支払いに関す る情報 は限 られてお り

,ま

たその具体的な内容 の検討 。当時 の支払 い手続 きのあ り方 については殆 ど触 れ られていない。 ゆえに

,い

まだに当時 の財務府出納部 の支払いに関す る包摂的な分析が残 されているのであ り

,本

稿で この支払い報告書

405/484を

基本 史料 としつつ財務府出納部 の会計業務・ 財政状態 について分析す る理 由のひ とつ もそ こにあるので ある。

(4)

(図表

-1)財

務府出納部の財政収支関係史料 terln christian and regnal year Hilary 1547 1 Easter 1547 1 Mich 1547-8 1-2 Easter 1548 2 WIich 1548-9

2-3

Easter 1549 3 生ich 1549-50

3-4

Easter 1550 4 Mich 1550-1

4-5

Easter 1551 5 WIich 1551-2

5-6

Easter 1552 6 Mich 1552-3

6-7

Easter 1553 7 Э tellers'bills E 402 2 tellers'books E 405 Brigham Shelton 」oskyn&Darknall Chaloner&Farnham 電)teners rolis E 405 ⊆)reCiept rOIs E 401 teasurer's Chamberlains' ⑤ tallies E 402 ⑥ eW Of tdlers' accounts ⑦ deClaration of state of treasury (COpy) 〃 (dra■) ()deClaration of issues ⑨ taX reciept 101p 100p 101p 102p E405/4〔 │ ――-485 , │

-482:

1181 ■82ゎ 103p 12;E407 491-―――

493-1183 1184p 104p /60/3,4 105p 106p 107,233p 108p E407 109p 60/3p 110p E407 11lp 112p E407/60/6,7 182p E407/61/1p 18 485 482p 1 1174 1175 1187 1188p 7 1199 1200 1201Xp 16 1176 1177 1178p 1179 1180p 1185 1186Xp │ :I:│― p 1405/490 1192 1193 1194p 1195 ■96神 1197p l 1198 E405 E40〔 1/498 E401 E401 ソ212 │ ,/497 E40[ 496p E405/560p 半 団 ≫ 壌 ︼ H ラ ミ ー ラ φ 蒔 選 即 酪 郵 辟 奮 義 ⑤ 料 丼 ゲ 溺 熟 訓 勲 再 も , ヽ (1)p=部 分的に残存するもの

X=破

損がひ どく殆 ど使用が不可能なもの (2)すべて公文書館

(P.Ro O)の

整理番号による (3)Alsop,Exchequer,p.297よ り作成

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 40巻 第

2号

(1989) 63

(2)財

務府 出納部の支払 いに関する会計報告書 について

当時

,財

務府 出納部 において支払いに関す る正式 な会計報告書 として は

,支

払い報告書

,出

納官

記録 (the teller's roll),経 常収支報告書

,出

納官会計検査簿 の計4つあった。 ここでは

,こ

の四つ

の報告書 の特性 について個々 に概観 してお くことにする。 まず出納官記録であるが

,こ

れ は四人の出納官の収入 。支出について記録 した報告書であった。 同記録が初 めて現われて くるのは15世紀初 めの ことと言われてお り

,当

初 それ は出納官の金銭処理 事項 の非公式な控 え簿 として用い られていた(10ち しか しその後

,次

第 に書式 も定型化 され正式 な報 告書へ と発展 してい く。少 な くともヘ ンリー

7世

の時代 までには出納官 は彼 らの金銭処理事項 をま

ず控 え簿 (the rough paper book)に 記録 し

,後

にそれ を正式な報告書である出納官記録 に清書す

るとい う制度が整 っていた。1ゝ そして控 え本 は出納官の会計記録 として彼 らのもとに保管 されてい たが

,出

納官記録 は割 り符局へ送付 され

,割

り符局書記 による会計監査 を受 けた後 に同局内に保管 された。出納官記録 は半年期 ごとに割 り符局書記 による会計監査 を受 けてお り

,そ

の監査が終わ る と割 り符局書記 は同記録 を基 にその要録 を作成 したが

,こ

れが出納官会計検査簿であった。 経常収支報告書 の導入 に至 る事情 についてはよ くわかっていないが

,そ

れが最終的に定型化する のは

,お

そらく1505年ごろの ことであろうと言われている。 もともと同報告 は出納部の各会計年度 のすべての収入・ 支出

,ア

サイ ンメン ト(assignment)を含 む完全 な会計報告書であったが

,1514

年以降すべての課税収入 。支出が除外 されたため

,以

後同報告 は経常収入 。支出に関する会計報告 書 として落ち着 くことになった。り。そして同報告書 は1557年 ごろに継続 されな くなるまで正式な会 計報告書 として割 り符局書記 によって作成 され続 けたのである。9。 次に支払い報告書 についてであるが

,こ

れ は枢密院か ら財務府 に対 して支払 い令状 として送付 さ

れたすべての枢密院への権限授与書 (the pr y council warrallt,以 下「権限授与書」略記

)の

録であった。つ まり

,同

報告書作成 の最大の目的 は支払い命令書 の権限の帰属先 を記録 してお くこ とにあったのであ り

,残

りの三つの報告書のように現金 の支払い額 について記す という厳密な意味 での会計報告書 とは

,も

ともと性格 の異 なるものであった。同報告書の中にはまず権限授与書 に基 づいて枢密院か ら請求 されたすべての非経常費の細 日と額 とが記録 されていた。そしてさらに重要 なことは

,経

常費 について も要約 された形で記録 されていた ことであ り

,そ

れ は先程 の経常収支報 告書 を基 に作成 された ものであった。ゆえにわれわれ は

,

この支払い報告書 を利用す ることによっ て

,財

務府出納部 の各会計年度 の支出の概要 についてほぼ完全 に (アサインメン トを除いて

)知

る ことがで きるのである(14)。 さて

,そ

うす ると次 に

,こ

の四つの支払いに関す る報告書が相互 にどのような関係 にあったのか が問題 となる。全般的 に見て

,

もともと財務府出納部 の各会計報告書 は財務府の長い歴史の中で, ある特定 の時期 の会計業務上 の必要 に対応 させ るべ く個々 に明確な目的を持 って導入 された もので あった。 しか しその後 の財務府 を取 り巻 く状況の変化

,財

務府 内部の諸手続 きの改革

,等

を通 じて エ ドワー ド

6世

の時代 までにそれ らの報告書のい くつか は当初 の目的を果たさな くなっていたにも かかわ らず

,存

続 していた(15ち この四つの報告書 についてみて も

,そ

れ らはもともと相互補完的関 係 にあった とは見傲 しがた く

,ま

た多 くの部分でオーバーラ ップ していることがひ とつの特徴 をな していた。 また こうした事情が財務府会計業務 を複雑化する要因のひ とつ となっていたことは言 う まで もない。

(6)

井内太郎:エドワー ド6世期財務府出納部の支払 い関係記録について

(3)財

務府出納部 における支払 い手続 き(10 ① 支払 い令状 について 財務府か ら支払い を受 ける場合

,ま

ずその受領予定者 (ない しはその代理人

)は

財務府 にやつて きた時

,そ

の支払 いの認可状 として次 ぎの五つのうちのいずれかの令状 を財務府 に提出せねばな ら なかった。

まず国璽令状 (the great seal writ)は

,通

,俸

給や年金 の支払いを認可す るのに用い られた

,そ

れ はさらに,dOrmant great seal writと current great seal writの二つに分かれていた。前

者はた とえば財務府 の役人 の俸給や年金の支払いの場合 に用い られてお り

,そ

の支払いが行 なわれ

ている間ずつと法的に有効 であつた。 またその四半期

,あ

るい は半年期 ごとの支払い額 も固定 され

ている時 に用い られた。後者 はた とえば俸給が 日当で計算 され る場合のように

,そ

の支払い額が一

定でない ような場合 に用い られた(lD。

次に王璽令状 (the pr y Seal writ)は 譲渡割 り符 (tallieも of assignment),権限授与書 に基づ

く支払いや諸々の支払いの認可のために用い られた。王璽令状 による支払いはヘ ンリー

7世

時代 ま では財務府出納部 の主要な支払い手続 きとして用い られていたが

,し

か しヘ ンリー

8世

の時代 に入 ると次第 に用い られな くなっていつた。オール ソプによればエ ドワー ド

6世

期財務府出納部 に送 ら れた全175の工璽令状 の うちその大半の140が譲渡割 り符 に関す るものであ り

,直

接王璽令状 に基づ いて出納部か ら現金 の支払いが行 なわれた例 は減少 してお り

,年

平均 にしてわずか5つの令状が発 行 されるに とどまっていた°働。

また御璽令状 (the signet writ)も ヘ ンリー

7世

時代 に度々用い られていたが

,こ

れ もヘ ン リー

8世

時代 には用い られな くな り

,エ

ドワー ド

6世

の時代 には財務府 の通常 の支払い方法で はな くな っていた(1働 。 この王璽・御璽令状 に代わつて16世紀半ばまでに一度限 りの特別 な支払いの認可状 として度々用 い られたのが

,権

限授与書であつた。ヘ ンリー

8世

は枢密院 のメンバーにこの権 限授与書 に署名す る権限を与 えるい くつかの授権書 (COmmiSSiOn)を発行 したが

,同

治世最後 の ものである1546年の 授権書 を見 ると

, 6名

の枢密顧問官 (pr y COuncillors)と こその権限を付与 している°の。そして, この枢密顧問官の署名入 りの権限授与書が枢密院か ら財務府 に送 られ

,そ

れ に基づいて支払いがな されたのである。 しか しその際

,支

払い手続 き上ひ とつの重要な問題が残 っていた。 とい うのは, 枢密院 は1556年まで固有 の印璽 をもってお らず91)この ような印璽 を伴わない枢密顧聞官の署名 のみ か らなる権限授与書 による支払い とい う手続 きの急激 な変化 は

,財

務府 のように伝統 を重んじる所 では認 め られ るもので はなかった。つ まり

,そ

れだけで は支払 い令状 としての法的根拠が簿 い と見 倣 されたのである。そのため財務府側 は支払い後 にその手続 きを正式 に記録す るために

,い

わば事 後承認のかたちで枢密院 に対 して王璽令状 を請求す ることによ り法的根拠 を充足 させ るとい う方法 をとったのである・ 劾。 ところで国王・枢密院がなぜ権限授与書 によるこのような支払い手続 きを好 んで用いたのか とい う点 について

,さ

きほどの1546年 の授権書 と1549年(20に発行 ざれた授権書 によ

れば「国王の城塞や砦の費用の支払いを目的 とする権 限授与書 の発行が国王の署名(hiS OWn signing)

を待つ間に遅れて しまうことを防 ぐため」の処置であるとしてい る。確かにそうした戦費 の迅速 な

支払いのために発行 された場合 もあるが

,し

か し実際 には多 くの権限授与書が軍事費 とは関係 のな

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 40巻 第

2号

(1989) 旧来の方法 よりもよ り効率的かつ迅速 な ものにす ることにあった と考 えられ るのである。 これ まで 財務府 の支払い手続 きについて は

,そ

の理論的部分 のみに基づいて財務府 は他 の財務部局 と比べて 旧態依然 としてお り遅延 しがちである と考 えられて きた。 しか し実際 には財務府で も権 限授与書 に よる支払 い方法の導入 によ りある程度 まで非公式な財務行政 を行 なう機会が増カロしていたのである。 もちろん伝統的な部分 も残 していたが

,財

務府がそうした要求 に対応す るだけの融通性 を備 えてい たことは注 目に値す るであろう。最後 に財務府か らの支払いは財務府 の大蔵卿 ない し大蔵卿補佐の 発する令状 (Exchequer order)に よ り行 なわれることもあった。 これ は財務府 内部 の支払いに限 ら れてお り

,そ

の支払いの多 くは譲渡割 り符 に関す るものであった90。 ② 支払 い手続 きについて 財務府 における財務行政の基本的な手順 の理論的部分 はすで に12世紀 に作成 された「Dialogus de Scaccario(財 務府での対話)」90の 中に示 されていたが

,実

際 にはその手続 きはその後 の400年 の間 にかな りの変化 を示 していた。

まず理論的には財務府 における財務行政 は大蔵卿 (the treasurer)と二人 の侍従 (Chamberlains)

を中心 に運営 され ることになっていた。 しか し15世紀初頭 までに大蔵卵Ⅱは出納部での実際の業務か ら退 き

,そ

の仕事 を彼 の書記官 に任せ るようにな り

,そ

の間に彼 の地位 は大蔵卿補佐 (the under treasurer)へ と上昇 していった90。 また同 じように侍従 の財務行政 に占める重要性 も低下 していっ たため

90,以

,出

納部 における会計業務 は大蔵卿補佐 の監視下 にすすめ られ ることとなった。 し か し

,16世

紀 に入 るとこの大蔵卿補佐 も実際に財政行政 に携わ ることをやめ

,出

納部 の財務行政の 監視 とい う役割 を割 り符局書記 に任せ るようになった。9。 こうしてヘ ン リー

8世

治世末 までに

,出

納部の会計業務 は大蔵稟‖補佐 の名 目的な監視 の もとに

,実

際 には割 り符局書記 と出納官 を中心 にし て行なわれるようになったのである。9。 さて

,受

領予定者 (ない しはその代理人

)が

支払 い令状 を携 えて出納部 にやって くると

,ま

ず理 論的には大蔵卿 と侍従 の ところへ出頭す ることになっていたが

,か

れ らは稀 にしか財務府へ登庁 し てこなかったため

,そ

れ は全 く儀礼的な ものにす ぎな くなつていた。従 って

,多

くの場合

,か

れ ら は直接割 り符局書記の もとに出頭 した もの と考 えられ る。同書記 はまず彼が提示 した支払 い令状 を 記録 し

,最

終的にはそれ らの令状 もすべて同局 に保管 された。そ して同書記 は諸手続 きを終 えると 彼 を支払いを行な う特定の出納官 の もとに送った。受領予定者 は出納官の もとにやって くると

,出

納官の控 え簿 に必要事項 の記入 を行 なった後 に出納官 より支払 いを受 けたのである。O七 その後 出納 官 は半年期 ごとにその控 え簿 をもとに出納官記録 を作成 し,割 り符局書記 による会計監査 を受 けた。 その監査が終了す ると

,割

り符局書記 はその出納官記録 をもとに出納官会計検査簿 を作成 し

,こ

う して一連 の支払い手続 きが完了 した。 このような支払い業務 を見 て まず気づかれることは

,そ

の間割 り符局書記が きわめて重要 な役割 を果た していた ということである。 さらに彼 は出納官の会計業務 を監視 していたのみな らず

,正

式 な会計報告書である経常収支報告書

,支

払い報告書

,出

納官会計検査簿

,税

収入記録 (the register of tax reciepts)の 作成 に関 して も責任 を持つ ようになっていた。1ち こうして割 り符局書記の仕事 は15世紀半 ばには殆 ど割 り符への受領金 の明細 の記入 に限 られていた ものが

,16世

紀 に入 る と事実 上

,大

蔵卿・ 侍従 に代わって財務府会計業務 において中心的役割 を担 うようになったのである。

(8)

66

井内太郎:エドワー ド6世 期財務府出納部の支払い関係記録について

3 The Dectaradon of issues,405/484の

分析

(1)支

払い報告書の概要

ここで は

,支

払い報告書 にかかわ るこれ までの論点 を整理 しなが ら

,そ

の概要 について示 してお くことにす る。 即述のように支払い報告書 の第一 の特徴 は

,そ

れが権限授与書の記録 を目的 とす るものであつた とい うことである。 このように同報告書 はもともと実際の支払いの言己録 を目的 とはしていなかった ため

,た

とえば各支払いに国王収入 と課税収入 のいずれが用い られたのか

,ま

た実際 に支払いを行 なった出納官の名前 について も記 していなかった。 また同報告書 はすべての臨時の支払 い とともに経常支出の要約 も含 む ことか ら

,財

務府 の各会計 年度の財政収支の全般的状況 について十分 に知 ることがで きる。ただ

,経

常支 出部門 について は経 常収支報告書 をもとに作成 された こともすでに述べたが

,し

か しそれをそのまま含 んで しまったの では同報告書 の中に重複部分が生 じて しまうことになる。 とい うの も

,国

王収入 の うちの一部 も非 経常費 の支払いのために用い られてお り町 その部分が再び支払い報告書の中に権限授与書の記録 と してあ らわれて くるか らである。 そのため同報告書で は経常支出部門か ら非経常費 にかかわ る部分 が削除 されてお り

,こ

うして文字 どお り経常・ 非経常費 とが完全 に分離 され る ことになった。 しか し他方で このような区分方式が

,出

納官記録

,出

納官会計検査簿や経常収支報告書 に見 られ るよう な

,国

王収入か らの支出 と課税収入か らの支出 とい う収入源 に基づ く伝統的な支払 い項 目の区分法 を犠牲 にす ることになった ことは注意すべ きであろう。 ところで具体的な報告書 の検討 にはい る前 に

,最

後 にもう一点触 れておかねばな らない ことがあ る。それはここで「経常費」,「非経常費」概念 をいかに捉 えてお くのか とい う問題 である。 この間 題 は近年の手ル トンの提言 を機 に起 こった「議会課税」 に関する論争 における争点のひ とつ ともな ってお り,その取 り扱いには慎重 を要す るのであるC21。 ただ この問題 の理念的な部分 はひ とまずおい

,こ

と16世紀財務府の会計業務

,い

わゆる実務 レベルにおける両者 の取 り扱 い方 について定義す るとすれば,それ は比較的容易である0。 まず経常費 として処理 された ものは基本的 にその支払いが

常設の ものであ り

,毎

年定期的に発行 され る支払い令状 (annual dOrmant or current warrant)

に基づいて支払われ る費用 をさしていた。財務府で はすべての俸給

,食

費 (dietS),年 金な らびに毎 年枢密院か ら割当て られていたハ ウスホール ド費

,大

納戸部費が これにあたる(図表

-2を

参照)。 一 方

,非

経常費 とは

,そ

れ以外の特別かつ個別 の支払 い令状 によるすべての支払 いをさしてお り, この中には王室家政費か ら平時・ 戦時の政府の統治費 まで様々な費用が含 まれていた。ただ し

,必

ず しも非経常費 は一時的な費用 とい うわけで はな く

,事

実上

,常

設 の ものであったが

,た

だ法的・ 慣 習的に経常費 としてい まだに認 め られていない もの も含 まれてお り

,通

常 これ らの費用が経常費 として認 め られ るためにはかな りの時間 を要 した。財務府で は平時 にはまず経常収入 によって経常 費 の支払いが行 なわれ

,さ

らにその余剰分で経常収支報告書 に示 されているような非経常費 の支払 いがなされた。つ まりこれ は理論的 には「国王 は平時 には独力で生活すべ きこと」が期待 されてい た ことを示す ものであ り

,た

だ戦争等の「非常 の必要」 により生 じた費用 について は

,そ

の余剰分 と非経常収入一課税収入― をもって支払 いに充て ることを建前 としていたのであるω。ではこのよう な財政理念 は16世紀半 ばの財務府 出納部 の実務 レベルで どのように取 り込 まれていたのだろうか。

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 40巻 第

2号

(1989) (図表 ―

-2)Ordinary expenditure

A/1ich.ter11 1546-7 Easter terll1 1547 A/11546-A/11547 h/1ich.terHl 1547-8 Easter terrn 1548 A/11547-A/11548 Mich.terrn 1548--9 Easter terrn 1549 A/11548- 11549 A/fich.ternl 1549--50 Easter term 1550 W[1549- 【1550 A/1ich.terHl 1550-1 Easter terln 1551 A/11550- 【1551 Ⅳ[ich.terrl 1551-2 Easter term 1552 A/11551- 生1552 A/fich.term 1552-3 Easter terrn 1553 A/11552-W[1553 total reign

(excluding Mich.term 1546-7)

salaries&

penslons 7,338 6,505 13,837 5,592 5,352 10,945 5,201 5,165 10,336 6,692 6,443 13,135 9,284 7,393 16,677 6,808 7,137 13,945 8,295 11,628 19,923 91,496

Great

wardrobe

150 150 300 150 150 300 150 150 300 150 150 300 150 150 300 150 150 300 150 150 300 1,950

household

5,198 5,198 16,328 16,328 3,000 5,143 8,143 4,235 10,353 14,588 3,000 3,000 6,000 484 1,349 1,833 3,000 2,222 5,222 52,114 (1)単

位 はポン ド

(2)Alsop,Exchequer,p.233,table 13よ

TT成

(10)

井内太郎:エドワー ド6世期財務府出納部の支払い関係記録 について 以上の論点を念頭に置 きつつ

,経

常・非経常支出について順次みてい くことにしよう。

(2)経

常支出 ① 俸給 と年金 エ ドワー ド

6世

時代 には財務府内外の官職保有者 をはじめとする様々な人々か らなるおよそ340人 の人々が毎年財務府か ら俸給 を支給 されていた。支払 い項 目を各ユニ ッ トごとに見てみると

,最

も 支払い額 の大 きな ものは軍需部 (the ordnance)の 将校・砲手 ら約84名に対す る支払いであつた0。 軍需部への支払 いは

1541-2年

には£850であったが

,1550-1年

には£1,237に上昇 してお り

,ま

た1545-54年の支払い額 の平均 をとってみて も£1,175とかな りの上昇 を示 していた0。 他 に主な も の として

,財

務府内の官職保有者への支払い は年平均で監査部へ £

715,出

納部へ £620が支払われ てお り,その額 自体 には大 きな変動 はな くずっ と安定 していた°ちしかし,支払い額の点か らすると, ナイ ト・ エスクフイアや他 の人々 と題 されたユニ ッ トが最 も多 く

,そ

の中には官職保有者 をはじめ とす る実 に様々な人々が含 まれてお り,その数 はざつ と130名に達 した$)。

1541-2年

には£1,465が 支払われていたが

,そ

の後

3年

以内に£4,900に上昇 してお り

,こ

の額 は

1552-3年

に£7,900とこ跳 ね上が るまで大体 において維持 されていた°ち 以上

,

エ ドワー ド

6世

時代 に財務府出納部か ら支払われた俸給額 は年平均で約 £9,900となった が

,こ

れ は同時期 の財務府 の総支払い額 の年平均 £78,121の 約12.4%(アサイ ンメン トを除 く

),ま

た財務府 の年平均経常収入額 (非課税収入

)£

26,635の 約

37.4%に

あたっていた°の。 このように16世紀半 ばの財務府出納部か らの俸給支払い額 はエ ドワー ド

6世

の時代 にか けてず つ と上昇傾 向にあった ことが知れ るが

,財

務府の経常財政 をさらに圧迫 していたのが年金 の支払 いで (図表

-3)財

務府 出納部か らの 年金支払 い額

1541-2年

+ 42人

1,073 iと

_:¬

│ i:う

0こ iと

'_意

│ :b l

:五

I

1548-9 1 59 1 2,862

1549-50 1 X I X

1550--1 1 114 1 7,100 1552--3 1 143 1 7,792 あった。財務府か らの年金の支払い額 はすでに1540 年以降上昇傾向にあったが

,エ

ドワー ド

6世

治世 半 ばにはいると急上昇 してお り(図表

-3),エ

ド ワー ド

6世

時代の年金支払い額 は

,年

平均約 £5,

050,財

務府の年平均支出の約

6.3%に

あたつた。 また一人 あた りの年平均供与額 になお してみて も,

1541-2年

には£26であった ものが

1552-3年

に は£54に上昇 してお り,また

1548-9年

には£100 以上 の年金支給 を受 けていた者 は■名 にす ぎなか

(1)AIsop,Exchequer,pp.2345よ

り作成 ったが

1550-1年

には30名に増加 していた(11)。

)X印

は史料 な し。 の ように16世紀半 ばに年金の供与額 と受給者数 は 増加傾向にあったわけだが

,当

時すでに政府 の側 もこの年金の支払 いが経常財政 を圧迫す る一要因 となっていることに気づいていた。た とえば1551年 7月10日付 けの枢密院法令 において

,以

後新 た な年金の供与 を制限す ることを定 めているし(1か

,ま

1552年の財政委員会 の報告書 も経常財政 の健 全化 のために年金 の供与 を制限す る必要があると勧告 してい るように(19,この問題 は当時の財政改 革の際の重点項 目のひ とつに数 えられていたのである。最後 に俸給 と年金支払い額 の合計 について エ ドワー ド

6世

治世 の間 に限ってみると

,年

平均 £14,950と なった。 この額 は財務府 の経常収入 の 約

56.4%,財

務府 の総支出額 の約

18.6%(ア

サインメン トを含 める と約19。

3%)に

あたつていた。

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

2号

(1989) 69

ハウスホールド

,大

納戸部

(the great wardrobe)費

財務府は俸給 。年金の他に経常費 として毎年ハウスホール ドと大納戸部へも一定額の支払いを行

なっていた。

もともと財務府 はエドワー ド

4世

治世以来

,ハ

ウスホール ドの維持 のために毎年 アサインメン トとこ

よる支払 いを行 なっていた。O。 しか し

,1540年

の制定法 によ りそれが大幅 に改革 され ることになっ

た(15ち すなわち政府か ら財務府

,増

収裁判所

,ラ

ンカスター公領裁判所

,初

年度・十分一税裁判所,

に対 してdOrmallt warrantsが発行 され,以後 それに基づいて各裁判所がハ ウスホール ドの金庫役(the

cofferer of he household)へ支払いを行 な うことになったのである。 その際

,毎

年 この四つの裁 判所 に対 して総額 £30,000が 割 り当て られてお り

,そ

の うち財務府への割 り当て は当初 £10,000で あったがエ ドワー ド

6世

の時代 に£6,000に減額 されている(19。 しか し,実際には財務府か らの支払 い状況 を見 るか ぎり(図表

-2),そ

れが支払い期限内に全額納 め られた とは見倣 し難 い。た とえば,

1551-2年

のミクルマス会計年度 にはすでに£6,000に減額 されていたにもかかわ らず,金庫役Rither へのかつての未納分 £1,349に £483を加 えた£1,833しか支払われてお らず

,ま

た次年度 の£5,222 のうちの£922も Ritherへの未納分の支払いであり,実質的には£4,300しか支払われていなかった(1つ このような状況 は他の財務裁判所 にも見 られたようで

,枢

密院 は1549年 5月 7日付 けで各財務裁判 所 に割 り当て額 を期限内に迅速 に支払 うように督促 しているのである(18ち 一方

,大

納戸部への支払 いはアサインメン トによる£1,175.19.■ とともに現金で£300が毎年支 払われていた(19。 これ はイースター・ ミクルマス期 に分割払い されてお り

,ま

た額 自体 も小額であ ることもあって順調 に支払われていた。 従 って,エドワー ド

6世

期 の財務府か ら政府への定期的な現金 の支払い額 は理論的 には£6,300に なるべ きものが

,実

際 にはオール ソプの計算 によると年平均 £4,722で しかなった ことにな り,こ れ は年平均経常収入額 の

17.8%に

あたちていた。 ③ 経常支出総額 以上のことから我々は

,次

のようなエ ドワー ド

6世

期財務府出納部の経常支出の数値 を得ること ができる。すなわち

,俸

給 。年金 として£

91,496,政

府への定期的な支払いとして£

54,064,従

っ て経常支出総額 は£145,560と なる。 この額 は経常収入総額 £180,938の約

80.4%に

あたっていた。

(3)非

経常支出 ① 軍事費 エ ドワー ド

6世

時代に軍事費 は財務府のみならず政府財政そのものの最大の負担 となっていたこ とは疑いない(図表

-4)。

とくに財務府に固有の妻 晴として

,原

則的に課税収入が軍事費 に用いら れるべ きものである以上

,財

務府か らの軍事費の支払いが増 えるのも当然のことといえた。それを 項目別 に見ると

,そ

の最大の負担 は対スコッ トランド戦費であり£62,715であった。それ とほぼ同 額の重い負担 となっていたのが対 フランス戦費でありその額 は£60,539とこ達 してお り

,そ

の大部分

(12)

井内太郎:エドワー ド6世期財務府出納部の支払い関係記録 について

はカレー・ プローニュの城塞建築費 に充て られていた。 また海軍費 として£

40,700,軍

需部費 とし

ては£12,785が支払われていたが その大部分 は1547年に支払われていた。最後 に国内の城塞 。砦の

費用 として£12,065が支払われたが

,そ

の内の£7,212はポーツマス とフイ ト島(the ISle Of Wight)

の城塞の費用であ り

,そ

の残 りはすべてオールダニー島 (Alderney)の費用 に充て られた°ω。従つ て,この時期 に財務府 は軍事費 として総額 £189,802を支払 ってお り,それ は財務府 の全支出額 の36.

4%を

占めていた。これ を年平均支出額 になおす と£29,200となるが

,し

か し実際 には各年度 によっ てかな りばらつ きがあ り

,1548-9年

には£45,963とい う最大支払い額 を示 していたのに対 して,

1552-3年

にはその支払い はわずか に£1,947とこす ぎなかった。 さてそうすると

,こ

れ ら戦費 と課税収入 との関係 についてであるが

,そ

れ はわれわれの意 に反 し て課税収入 の約

56.5%に

しかす ぎなかった。 そしてその残 りのかな りの部分が次 に検討するそれ以 外の非経常費のために用い られていたのである。 ② 軍事費以外の非経常費 軍事費以外の非経常費 は実 に様々な費用が含 まれていたが

,主

な もののみを挙 げてみると次の も のがある。 まずユニ ッ トごとに見 ると

,そ

の うち最 も多かつたのはヘ ンリー

8世

時代 の負債 の返済 費であ り財務府 は

1547-8年

に総額 £21,733を政府 に支払 ったが

,そ

のうちの大部分 は国王 の使用

する奢修品の代金 を前払い していた大納戸部や財宝部(the ieWel house)の債権者への返済 に充て ら

れた。り。また様々な報酬 として(図表

4-⑤

)£

5,629,1550-1年

にはフランス大使への贈呈品の

代金 として£7,422が支払われていた°う。さらに

,プ

リビ・パース (the pr

y purse)の

金庫役へ

も支払いが行なわれた (図表

4-④

)。 1549年のプリビ・チェムバーの改組以降

,同

局の四人のプリ

ンシパル・ジェン トルメン (fOur principal gentletten)がその管理に責任 を負つていた力部

20,1550

年イースターから1552年ミクルマスまでその支払い額自体は河ヽ額であつた。しかし,オズボーン(OSbOrne,

Peter)が

彼 らの書記に任命

(1551-3)さ

れ(24)事実上のプリビ・ パースの管理者 となって以降そ の額は急増 しているが

,そ

れは主に次の理由によっていた。 まず

,1552年

2月 8日付 けで枢密院は 財務府をはじめとする

5大

財務裁判所に対 して法令を発 してお り

,こ

れまでの滞納金 を徴収 しそれ をオズボーンヘ支払 うよう命 じている9う。財務府 自体の支払い額 は相対的にみて少なかったようで あるが

,さ

らに枢密院 は財務府に対 して1552年 4月 と5月に

,議

会課税であるレリーフ(relief)の 収入より£

7,4797s7%dを

オズボーンに支払 うように命 じているのである9°。しか し,レ リーフに 限ってみると

,さ

らに多 くの支払いが造幣局(the Mint)の財務官(the treasurer)のペ ッカム(Sir

Edmond Peckham)と

こ支払われてお り

,1550年

イースター期に£

6,000,1553年

イースター期に£ 11,291が支払われた。つ。 また財務府 は時々アイルランドの諸経費 (図表

4-⑬

)も

支払つていた。 以上の諸経費 は

,

ともか くも非経常的費用 として理解することがで きる。 しかし

,次

のような費 用は非経常費 として扱われてはいるが

,実

際には明 らかに平時の政府の経常的な負担であつた。 まず財務府は,ハウスホール ドと大納戸部 に追加支払いを行なっていた(図表

4-①,②

)。これは 両局における諸経費が財務府 をはじめとする各財務裁判所か らの毎年の割 り当て額 を上回る程に増 大 していたために,政府がその不足分の支払いを各財務裁判所に命 じたものであった。そのうち財務 府に関するものとしては大納戸部 に対 して£14,802,ハ ウスホール ドに対 しては£13,392が支払わ れていたが

,さ

らにチェムバーに対 して も£17,000が支払われていた(図表

4-③

)。 また貴金属の 購入代金 (図表

4-⑥

)と

して£

8,469,非

軍事的施設の建設費 (図表

4-⑦

)と

して£5,078,メ

(13)

Milぬ,teFm 154(■ 7 East∝ term l開7 1M154a―M1547 Mich.term lF。47■8 醜 er term 15鶴 IMl誡 士M1548. Wfich.term 1548■ 9 Btt teF14 1549 M1549-M1549

MIぬ

tαれ 154弊50 Easter teFm l弱0 Ml.549M155,

Mi工

teFm l蜘■1 Easter term 1551

MI劇

Ml“

1 螂 ぬ ternt l蒟1.2 Easter ter中 lS躍

M1551M15「

●2

Miぬ

.teF14“52■3 Ea載針 term 15粥

M15認

―M15開 Total Feign 廻 表

-4)Extrao

0

Gx・

eat i

WardFObe 11,000 111000 3,000 31000 14)S02 観   . 観

leXCluding Mtthi teFm lrD46-り

鞭 

勒 

一紳

硼   の   一 ③ ポン ド │

(14)
(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

2号

(1989)

ア リ。エ リザベス両王女の家政費 として£1,000,ノ ーサムバーラン ド

(Northumberland)公

が組

織 した騎馬隊 (the mOunted band)の 費用 として£5,000が支払われていた98ち 他 にも様々な費用

が挙 げ られるが これだけ見 て も財務府か ら政府 の平時 の経常的費用のうちのかな りの部分が会計処

理上

,非

経常費 として

,支

払われていた ことは容易 に推測で きる。

以上

,軍

事費以外 の非経常費 は総額 £

172,252,年

平均 になおす と£26,500と なった。

ではこれ らの費用が財務府か らどのようにして支払われていたのか とい うことだが

,す

でに見て

きた とお り経常費 の増大 のために経常収入の多 くは経常費 の支払いに充て られてお り

,ま

た経常収

入 自体 も請 け負い料

(farmS&fee farms)の

免除O働

,関

税収入 の減少●ωな どの理由か ら将来的 に

も大幅 な収入の増加 は見込 めない状況 にあった。 そのため財務府で は経常収入 の うちわずかの部分 しか非経常費 の支払 いにまわす ことがで きず

,そ

の不足分 を非経常収入―議会課税収入― により支 払 うことを余儀 な くされていた。 こうしてオール ソプの計算 によると少 な くとも課税収入 のうち約

25%が

平時の政府 の経常的費用 の支払いのために用い られ ることになったのである・ D。

(4)財

務府における経常費・ 非経常費の捉 え方 ここまでの支払 い報告書 の分析 を通 じて

,わ

れわれ はエ ドワー ド

6世

期財務府出納部の財務行政 に関す るい くつかの特性 を知 ることがで きた。 しか し

,こ

こで もう一歩踏 み込 んで考 えてお きたい のは

,財

務府 にお ける経常費・ 非経常費 の提 え方の問題 である。 とくに

,政

府 の平時の統治費 の増 加分が財務府 において は非経常費 として処理 されていた ことの意味である。 とい うの も

,こ

の問題 がおそら く財務府 のみな らずテューダー財務行政 その ものをも規定す る重要な問題 となって くる と 考えるか らに他 な らない。 政府財政全体 としてみて も

,す

でに1529年ごろには経常収入 は政府 の統治費 を賄 うのには不十分 であった といわれているが。め

,1530年

代以降 もクロムエルがイニ シアチブをとって実施 した行政改 革による統治機構 の拡大,またインフレーションによりそうした傾向 はさらに深刻 な もの となった。 そしてエ ドワー ド

6世

時代 までに政府 はもはや各財務裁半J所へ毎年割 り当て られた固定収入 のみで は

,平

時の政府財政 を運営 してい くことは不可能 となっていたため

,各

財務裁判所 に対 して追加支 払いを請求 したのである。3ち しか し

,こ

のような財務府への追加支払いの請求 は政府 の経常的費用 に関す るものであったにもかかわ らず

,財

務府で はその間ずっ と経常費 とは1540年代半ば以降の財 政危機以前の法的・慣習的に認 め られた常設の費用 として捉 えられてお り (図表

-2),そ

の基準 を 超 えるものは殆 どない し全 く含 まれてお らず

,そ

うした費用 は明 らかに非経常費 として処理 されて いた。 このような狭盤な経常費概念 は1527年の財務府 の会計報告書 にもすでに採用 されていた こと が確認 されてお り

,そ

こで もヘ ンリー

7世

時代 の基準 を超 える経常的費用 はすべて非経常費 として 扱われていた。4ち 従 って

,政

治 。経済上の変化 にもかかわ らず

,そ

れ以後 もず っと財務府会計業務 イまこのようにいわぼ保守的な財政理念 の もとで行 なわれていた もの とも見 ることがで きよう。確 か に政治 。経済的に安定 してお り

,経

常的費用 の増カロが一時的な ものであれば

,こ

のような経常・ 非 経常費 の捉 え方 は財政運営上必ず しも非論理的 とい うわ けで はなかったが

,エ

ドワー ド

6世

時代 ま でずっ と政府 の統治費が増大 していったことは

,次

第 に二元論的な経常・ 非経常財政 区分制度 その ものの理念 と実態 とを乖離 させていった。すなわち

,経

常収入→経常支出

,非

経常収入→非経常支 出の関係 は理論的 には維持 されていたが

,実

際 には課税収入 によって政府 の平時の統治費 のかな り の部分が支払われていたのである。

(16)

74

井内太郎:エドワー ド6世期財務府出納部の支払 い関係記録 について

4む

す び

では最後 にこれ まで に明 らか となった財務府出納部 の会計業務 の諸特徴 をもとに

,当

時のテユー ダー財務行政の中に財務府 の全体的位置付 けを行 ないつつ

,今

後 のテューダー財政史研究 の展望 を 試みてみたい。 これまで初期 テューダー財政機構 は基本的に二つの競合す るシステムのもとに捉 えられて きた。 すなわち時代遅れで非効率的な財務府 と発展的で融通性 を兼ね備 えたチェムバー という構図である。 確かに16世紀前半 に財務府 に根本 的な改革 は起 こらなかったが

,し

か しその間状況の変化 に対応 し て

,財

務府出納部 の会計業務 にも修正が加 えられていったのである。当時実際 に会計業務 に携わつ ていたのは

,主

に割 り符局書記 と四人 の出納官であ り

,

とくに前者 はその間 に低級 の書記職か ら事 実上

,同

局内で最 も影響力 を持つ官職 とな り

,大

蔵卿補佐 の名 目的な監視 の もとに会計業務全般 に 責任 を負 うことになった。 また出納官記録の発達 により受領記録。支払い記録 は次第に当初の機能 を果たさな くなってい き

,1514年

以降支払い記録 の作成 は行 なわれな くなった。 さらに財務府 は新 たに枢密院か ら発行 され るようになった権限授与書 に基づ くある程度 まで非公式な支払い請求 に応 じる融通性 をも有 していたのである。 このように財務府で もい くつかの効率的で相対的にみて簡潔 な会計業務が行 なわれ るようになっていたのであ り

,ま

た この時期 に特徴的であつた (国王・ 枢密 院 との)親密性 と融通性 をチェムバー とともに共有 していたのである(1ち 従 つて

,こ

れ までのように 会計業務 の諸手続 きに基づいて財務府 とチェムバー を競合す るシステム として明確 に区分 して捉 え ることはで きず

,今

後 テューダー期 の財務行政 を理解す るうえで新 たなフレームワー クを設置す る 必要があるように思われ る。 第二 に枢密院が各財務裁判所 に対 して発行 した権 限授与書 に基づ く支払 い方法が一般化 していつ たことは

,次

第 に枢密院が財政収入の徴収・統制能力 を備 え財務行政 のイニ シアチブをとるように なっていった ことを示 している。ただ し枢密院の財務裁判所 に対す る統制 とは

,殆

ど会計報告書 の 提出 と権限授与書 に基づ く支払い命令 とに限 られてお り

,財

務裁判所 の内政 に干渉す ることはなか った②。しか しサマセ ッ ト公 の時代 には枢密院の財務行政上の中央統制機能 はかな り弱 まってお り, そうした影響力 さえも十分 に及ばせな くなっていた°ち そこでノーサムバランド公

(the duke of

Nothumberland)の

もと財務行政 を正常化せん とす る注 目すべ き試みがなされ ることになるω。す なわち財政機構 の改革 に向けて一連 の財政委員会 (rOyal COmmission)が設置 され るとともに0, 枢密院内部で も枢密顧 間官 (pr y COunclllors)か ら構成 され る小委員会 (a committee)を 通 じ て政府財政 を統制せん とす る試 みがなされるのであるC61。こぅして1554年に財政機構の改革が行 なわ れた時

,再

び財務府が中心的財政部局 となるとともに

,枢

密院が財務行政 を統制 してい く体制が整 うことになったのである。ち 第二 に16世紀財務府出納部 の会計業務 は伝統的な二元論的財政区分制度 に基づいて運営 されてい た。 しか し

,そ

の間の政治・ 経済上 の変化 にもかかわ らず

,ず

っ と狭惨な経常財政の理念が維持 さ れていた ことが

,結

果的にその理念 と実態 とを乖離 させて しまったのである。 また このような保守 的な財政理念 は財務府 のみな らず,当時の政府の中で も支配的な考 え方であつた0。 た とえば,1552 年の財政委員会が各財務裁判所 の経常財政の状態 を調査 しようとした時

,彼

らが問題 としたの も伝 統的な経常財政部門のみであうた0。そ して このように委員会が伝統的な財政理念 に基づいていたこ とは

,結

果的にその調査 をある程度 まで非現実的な もの として しまったので ある。 ところで

,当

(17)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第40巻 第

2号

(1989) 75

このように二元論的な部門別財政 区分制度が維持 された ことの理由のひ とつ として非経常収入の中 心的部分が議会課税 によ り占め られていた ことがあげ られ る。すなわち「 国王 は戦争等 の ワF常の必 要'の生 じた際にのみ課税要求がで き

,そ

れ をもって支払 いに充てることがで きる」とい う課税原則 は議会側 に とって は

,国

王 の恣意的な課税

,臣

民財産権への不当な介入 を防 ぐ防波堤 の役割 を果た していたのであ り

,こ

の原則が有効 である限 り部門別財政区分制度 もまた維持 されねばな らなかっ た。 しか し上述のように課税収入 の運用面 を見 るか ぎり事実上

,そ

の うちのかな りの部分が政府 の 経常費 の支払いのために用い られていたのである。で はその間に理論的にもそれが正当化 され

,課

税原則 も変化 したのか どうか とい うことだが

,こ

の問題 は現在 も論争が継続中である。ω。このよう な課税原則 の理論面か らの分析 は本稿 の分析範囲 を越 えるものであ り今後 の課題 とす る他 ないが,

少な くとも

,課

税 原則 は1610年 の「大契約 (the great contract)」 (11)論争時 まで決 して安定 してい

たわけで はな く

,す

でに16世紀半 ばか ら政治・ 経済上 の諸変化 の圧力の もとに揺 さ振 られ続 けてい たことだ けは確認で きた もの と思われ る。従 つて

,今

後 はさらにそれ らの諸変化が16世紀半 ばか ら 17世紀初頭 の「大契約」論争 の時期 にかけて課税原則 の理論 。運用面 に どのような影響 を及 ぼして いたのか

,ま

た両者の関係 について も具体的 に検討 してい く必要があるであろう。 ≪追記≫ 本稿 は

,平

成元年度文部省科学研究費補助金奨励研究

(A)課

題番号

01710206(研

究代表者・ 井 内太郎

)の

研究成果の一部である。

はじbに に

)G.R.Elton,勁

σ角蒻″ Rιυο肋肋η 力 働 υι解物θガ(以下R¢υο励肋η略記),(Cambridge,1953),pp.13,20 30,1609,W C Richardson,角 蒻″C励%う″,〃物″ 's施 肋η′F85-ヱ

,7r以

下C励 物う″略記),(BatOn

Rouge,1952),chapter H,;A P Newton,`The King's Chamber under the Early Tudors',や り ″gぬ力rFr9

ゐわEcα′rR9 9υヵ銑32(1917),pp 348 72. (2)な かで もエル トンはその間にクロムエルが果たした役割 を高 く評価 してお り,それ らは1530年代の革命的な 行政改革の産物であった としている。Elton,R?υ肋蒻ο″,pp.160-259,415-27.エ ル トン説 についてはそ の後い くつかの批判がよせ られているが,同論争については以下を参照。栗山義信「テユーダー革命論争」 『史林』49-3。 越智武臣『近代英国の起源』 ミネルブァ書房,1966年 。C,COleman&D,Starkey(ed), 買♂υο励ん η父¢盗sass″ 買¢クλ力ηsカ カ♂助 η げ 働″″Gοク¢物″♂ガ αηグ4″物力 'st確 肋ηrメ下■.R略 言己),(OXfOrd,1986). (3)1554年 の財政改革については以下 を参照。Elton,■9ク0励肪″,pp.23851;Richardson,効ηb″ ,pp.432「 40 ′ (4)EltOn,29υ ο励″ο″,pp.229-30,237,242,250,257-8;Richardson,効 空ノげ 洗ち♂Cο″″Q′4斃塑η効力″οηs ヱ5θδ―Z5σ `r以下4終吻ση″肋″略記)(BatOn Rouge,1961),pp 211 2,4434,460 Dο 修功 石勁¢只ψοオ げ

励ι々押′ωηη益力″ヱ552(以 下Rψοガ略記),(WeSt Virginia,1974),pp xXX― i ,M.D.George,`Notes on the Origin of the Declared Actount',Eコ 「R,XXXI(1916)pp 41-58

)た

とえばオールツプは,当時の代表的な財務官僚の経歴

,活

動を分析 しなが らチェムバー も1530年代 までに 次第に官僚制的性格をおびていった こと,またチェムバーが有 した融通性 を備 えた会計業務 も行政機構の拡 大する中で広 く用いられるようになった という。従って彼 は,この時期の諸手続 きの変化 をもって この時期 の財務行政を官僚制的なものとハウスホール ド的なものとに明確に区分することはできないとする。J D Alsop, `The Structure of Early Tudor Finance,c15091558(以 下Structure略記)',in R.資,pp.135 162 Do,`The

(18)

76

井内太郎:エドワー ド6世 期財務府出納部の支払い関係記録 について

Exchequer in late medieval Governmellt and Society(以 下Government略記)',in」.G Rowe(ed),4ψπぬ

げ Lクル ザИヮ″θυα′Gοクσ%η♂ガ αηプ SO'9炒,(Tront,1986),p.195

16世紀半 ばの財務府 出納部 に関す る最近 の研究 として は以下 を参照。Richardson,買 砂ο″,passim.;Elton, `The Elizabethan Exchequer:War in he Reciept(以 下Exchequer略記)',in Do,S紘 グゲ公 ″ 角″γ αηブ

δ激クオ帰 脱cζρηブ働 ν″″物

9"劾

ん(Cambttdge,1974),vol I,pp 355 88.;Alsop,η 壮Ю Exchequer of Reciept in the Reign of Edward vI(以 下ExchequerIIa記)',(University of Cambridge,Ph.D.thesis,1978)iC.

Coleman,`Artifice or Accident P The Reorganization of the Exchequer c 1554-1572',in買 . R,pp 163 -198

Alsop,Exchequer,p 233,Table 13

第二草

(ll F C.Dietz,Finance of Edward Ⅵ and Mary(以下Finance略記),9"脇 Cわ′′τ♂S物″ゲ♂s tt Я

's力

り,no H,

(Northampton,Mass,1918);Do,助 g鵜力Gοクη物″♂ηチ

Fぬ

ク″θらZ485-7558,(Urbana,1921;repr

London,1964)

(2)(B)ritiSh(とうibrary,Landsdown Mass.156,fos.16-75,

(3) (E)xchequer 405/212 (4)E405/484 (5)Dietz,Finance,pp l19-23. (61 乃ゲブ

(n

ェ ドヮー ド6世期(Hilary1547 Michaelmas1553)の税収入総額 は£335,988で あったが,その うち1547年 ミ クルマス までの収入 は£91,734で あった。AIsop,Exchequer,p225,Table 10 18)rb″,p282. 19)"″,pp.1714

lo J L Kirby,`The lttues of the Lancastrian Exchequer and Lord Cromwell's Estimates of 1433(以 下ISue

略記)',rDP′ル賜 げ J7T¢

0容

″物姥 ゲ rr9港ヵヵθ,r rR9盗2π力,XXIV(1951),p123.

lo AIsop,Exchequer, pp.83-5,130-1.し

か し後 に出納官 は控 え簿 の記録 をさらにa fair paper book

に写 しか え,それ をもとに出納官記録 を作成す るようになった。 その時期 については定 かで はないが,割り

符局書記 フェル トン(Felton,Thomas)が 出納部 の手続 きについて論 じた記録 の中でそれ について言及 して

いる ことか ら,それが記 された と考 え られ る1557年 か ら1566年 の間 には定着 していた もの と考 え られ る。 こ

のフェル トンの記録 はオール ソプが付録 として収録 してい る。Appendix B,in

AIsop,Exchequer,pp.304-13.

121 R,S,Schofield,IParliamentary Lay Taxation 1485-1547',(Unpub■ ed Ph.D dissertation,Cambridge

Univ,1963),p345

131 AIsop,Exchequer,pp.149-50.

10 支払 い報告書 の文頭 は次 の ような言葉 か ら始 まっていた。`it iS a declaration of an suns of money paid out of the reciept by the teners upon warrants from the privy Councilto the treasurer and chamberlains Of tlle Exchequer,and also of all fees,wages,and annuities payable at the Reciept'

10

た とえば16世紀 まで に出納官のT/FEす る明細書 (bill)や出納官記録が発達 したため

,割

り符 や受領記録・支

払 い記録 は当初 の機能 を果 たさな くなっていた。 そのため1514年 には支払い記録 の作成が行 なわれな くなっ

た。 しか し受領記録 は割 り符 の記録 として残 ることになる。rb″,pp.188-92,Do,GoveFnment,pp 186

90

10 筆者 は未見であるが,この時期 の支払 い手続 きに関す る当時 の最 も早い記述 は1606年 の もの(BL,Lansdowne

Mass 171,fo.358)といわれてい る。Alsop,Exchequer,p.111,(n14.ま た これ までテ ューダー期 の受領手続 きに関す る研究 に比べて支払 い手続 きに関す る研究 はオール ソプの ものを除いて全 くとい つていいほ どなさ

れて こなかった。オースウェイ トがわずか にそれについて言及 してい るが,それ も1554年 の改革以降 に関す

るものである。ゆえに,以下の支払 い手続 きに関する記述の多 くはオール ソプに依拠 している。R.B.Outhwaite

(19)

Lands,1572-側 ⑪ ⑩

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第40巻 第

2号

(1989) 77

1603',(Unpublished Ph.D.dissertation,Univ.of Nottingham,1964),p.353ま た篠塚信義「 テュー ダー,

初期 ステュアート朝期 の財政収支関係史料 について『イギ リス中世社会 の研究』,山川出版社,(1985年 ),335 -56頁,もあわせ参照。 Alsop,Exchequer,p l12 fιゲブ,p.112. Elton,R♂クο励肋 η,pp.27981.;DE.Hoak,Ttt Kケ タτ

%η″′力 協珍クを″ゲ

Eぬ

a″ブ Ⅵr以下 ωクη'′ 略記),(Cambridge,1976),p 149 R H Brodie,rds,L冴形容 ク″′Я″ιtt Яο窪怒ηαη′つ0″盗″ら げ 肋♂影響 げ Frpηヮ Ⅷ,xxI,pt. ,pp 128, 159

9o Elton,買 ιυο励″ο″,p295,;Hoak,θοク″,′,p148.;J R Dasent,4じ港 げ 力θP笏りCο %″ιタ ヮrf%g物 ″プ

(以下

APC略

記),H,pp 88 9.

1221 HOak,ω%ηιガ,p148;AIsop,`Protecter Somerset and Warrants for Payment',a五 ユ 几 LV(1982),

p.103

4,PC,H,pp.889;Brodie(ed),attη

冴″ 9′ 脆 カガ Rο′ん ど″VI,ユ5を8θ ,pp 250 1ただ し1546年 の授権書 はヘ ンリー8世の逝去 により効力 を失 ってお り

,一

方 その次 に発行 された この1549年 の もの はサマ セ ッ ト公の失脚直後 に発行 された ものであった。従 つてサマセ ッ ト公 の時代 には国王 の授権書 を得 る ことな く

,枢

密院か ら権 限授与書が発行 されていた ことにな る。 この点 についてホー クはサマセ ッ ト公 の行政権 限 の拡大 の一環 として捉 えるが,その点 について はオール ソプ は否定的である。HOak,♂0クη功,pp 148;Alsop, 9ク. θ力,,pp. 103-5 AlsOp,Exchequer,p. 114

C.JOhnsOn(ed),】α′9g夕s,,S♂クccaηο,(London,1950)

Kirby,`The Rise of the Under treatterer of the Exchequer,aコ「

R,LXXⅡ

(1957),pp.666-77. J F Willard,`The Treasurer's lssues Roll and the Clerk Of the Treasurer, Edward I― Edward IIP,上1 五′打 R,vⅢ (1930-1),pp 129-38.;Kirby,Issue,pp 126-7.

EttOn,R¢ク励蒻ο″,p219;Richardson,4先騨 珍η力励 ″,p452.と く│こSir JOhn Bakerが 大房売卿布ヨ佐 に就任

した (1543-58)時 にその地位 は最 も低下 した。Alsop,Exchequer,pp.624. 紙数 の関係上,16世紀 の割 り符局書記の会計業務 については十分 に論 ず ることがで きなかった。別稿 にてあ らためて論 じてみたい。 しか し実際 には必ず しも受領予定者がや つて きて控 え簿 に署名 した時 に全額支払われたわ けで はなか った。 AIsop,Exchequer,pp 89 90,1324.多 くの場合かれ らは,これ を前払いのかたちで数度 にわけて支払 われ ていた。すなわち現金 の受領・ 支払 いは

,全

く出納官 の裁量 に任 されてお り,また出納官記録 も当時 の会計 報告書 が一般 にそ うであったように,実際の現金 の受領・ 支払 いの記録で はな く,その責任 の所在 をCharge とdischargeと して記録 してお くことを目的 とす るもので あったのである。 AIsop,Exchequer,pp. 121-34,138-62 第二章 徹

)経

常収支報告書 の支払 い項 目は大 き く分 けて四つに分 かれていた。

・the cofferer of the household ・ the master of the Great Wardrobe

・al salaries and pensions(knights,esquires,and diverse persons i heralds and pursuivants i ecclesiastics i serJeants at arms i yeoman of the crown i offisers,clerks and gunners of the Ordnance i officers of the Exchequer Of the Audit i officers of the Reciept)

・payments for extra― ordinary and diverse causes

(2)Etton,`Taxation for War and Peace in Ealy― Tudor Elagiand(以下taxation略 記)t in Do,S蕨融岱 カ 角蒻ογα″,S妨オ 島 励 ω α″グGου¢η物物 ちv01.III(Cambridge,1983),pp.216-33な おエル トン説への判

批 として は以下 を参照。G.L.Harris,`Thoman Cromwell's``new principle"of taxation',22R,vol XCIII,no 369(1978),pp 721-38.;Do,`Theory and Practice in royal taxation i some observations',a 側

働 側 仰

参照

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