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村山籌子研究上の若干の資料について-香川大学学術情報リポジトリ

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村山等子研究上の若干の資料について

山 崎

怜 はじめに 以下でほ四つの問題,すなわち第一は年譜の問題,第二は葬儀における弔辞の 問題,第三に遺稿の問題,そして最後に水泳の問題を資料としてとりあげる。 まず年譜のことである。かの女の年譜はこれまで私によって作成・公表された はるぷ出版の『日本児童文学大系』第26巻(1978年11月刊)巻末のものが唯一の ものである。もともと年譜というものは生経と作品の研究が周到に手をつけら れ,しかも首尾よく完結しないと,信頼のおける,いいものほ作成できない。し かし,また年譜を手がかりに研究をすすめなければ暗夜に針穴に糸を通すという ことにもなりかねない。また,かの女の生涯と仕事を記す人名事典や児童文学事 典,郷土人名録塀の執筆のうえでも正確かつ詳細な年譜は必須のものといえよう。 ところが既刊の事典類やかの女の業蹟にふれた文章,記事の多くがまったくそう した準備作業なしにかかれているため,あやまり,不注意,誤伝に充ちており, おどろくはどの初歩的なミスをくりかえしてきた。私ほ従来それらの−・々を指摘 することは避けてきたので今回もその方針でのぞむのではあるが,それぞれの執 筆老が可及的にあやまりを払拭してもらいたい。生穀年のかきあやまりや墓碑銘 の誤記,発表作品名や掲載誌紙の明白なミスほとりわけ是正されなくてほならな い。そのための資料として,私は私なりに全力をつくしてこの年譜を編んだつも りである。 年譜作成上,重要な欠落部分は二つある。ひとつほ県女卒業後の1年間のこと である。自由学園高等科入学は翌年であり,この1年間のブランクほ「浪人」で はない。自由学園高等科の創設は1年後のことであるからである。豊子の県女時 代の同級でほとんど唯一・の親友であった松本キヌ(のちに川井姓)ほ,豊子ほ薬 専に入学して薬学を勉強したはずであり,県女卒業後,数カ月して夏休みに東京 から帰省し,諷爽と断髪した薬学生の姿容としての豊子の想い出をかたられた。 しかし,松本は薬専の記憶はかならずしも自信ほないといい,家族や関係者にた

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しかめてもらいたいといわれた。私が現在たしかめるべく接しうる家族の方でこ の記憶を有する方ほおられない。■また,その事実を否定される方もおられない。 おききできる方々が若すぎるからでもある。松本は「星薬専」ではないかといわ れたが,今のところ確認されていない。ただ家業の隆盛をねがう祖父の啓三が孫 である長女の進学先に薬車を選び,不承不承の章子を無理矢理に進学させ,高松 を「脱出」したい一念をもつ進取の舞子がこれにしたがうという筋書はけっして 不自然ではない。そうして共学に無志向のかの女が結局ほ退学して高松に舞い戻 るということも自然なことである。したがって私はときに「一・説には薬学専門学 校に進学し,表すぎに退学する」とかくこともある。年譜では,一切この点には 関説しないことにしている。松本がその夏に西洋風に断髪したモダンガールの簿 子の帰郷に接して目を見張ったことはたしかなことのようである。 もうひとつは結婚式の日取りである。舞子と知義の結婚が大正13年の夏である ことは明白であり,その7月か8月のはじめであることもー応の状況証拠(舞子 は発表誌の8月号から岡内姓を村山姓に改めている)からあきらかなのである が,何月何日であるかが未だに確認されていない。梶本楠郎の章子追悼の文章に は読売新聞に知義と豊子の結婚がほなやかに報ぜられているかの1文があり,私 ほこの年の読売新聞を東京大学新聞研究所において精細に辿ってみたが,その記 事を発見できなかったし,他の新聞も調べてみたのだが,同様に成果はなかった。 媒酌の労をとった羽仁もと子ほ「吉凶一・如」という文章で両名の結婚についてや やくわしくふれており,じつに住いエッセイであるが,日時についてはかかれて いない。しかし,窮余の∬策として,この貴重なエッセイから,ひとつの推定が 可能であることを指摘したい。それはこの文章が大正13年6月11日(水)のミス ・ハートの訪問と12日の見送りにふれたあと,その翌々日の土曜日の山根照子と 戸城みち子の記念会,さらに,その翌日に当る日曜日に知義と豊子の結婚式が明 日館でおこなわれたことを詳述しているので,両名の式は6月15日(日)と計算 できる。そうであれば,「夏」というのほ適切でなく「初夏」という表現に変更す べきであり,豊子ほまさにジューン・ブライドだったことになる(「年譜」では従 来どおり「夏頃」のままとした。)。なお,羽仁善一・,もと子夫妻の媒酌という形 で年譜では記入されているものの,章子の自由学園時代の親友,松井志づ子ほ私

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村山静子研究上の若干の資料について 119 宛の手紙で「媒酌人として選ばれた羽仁善一L先生が司式をして結ばれた」という 方が正しいとおもう,とかかれている(これは羽仁もと子の前出「吉凶仙如」の 説明に沿った理解である)。言うまでもなく,キリスト教の結婚式には媒酌人は いないので何々夫妻の媒酌というのはありえないのであるが,年譜はわかり易い ように日本の慣例で表現されている。 ところでミスター羽仁を司式をされた人と明記すると,知義の『演劇的自叙 伝』第2巻(268ペ・−ジ以下)が藤井武師に司式をおねがいし,それを引きうけて くれたとする経緯をくわしくのべているので具合がわるいのである。私は上記の 理由のはか,積極的には,むしろこの点から,司式には言及しないで「媒酌人」 のみを記入し,それが本来は「立合人または証人」とするべきなのだが,日本風 の表現にとどめている次第である。知義の記述が正確であれば,藤井武の名を逸 することはできない(上記,羽仁もと子のエッセイでは「藤井武氏が所感をのべ また祈稲して下さった」とある)。また,知義はミセス羽仁を「仲人」というよう に表現している(上記,『自叙伝』第2巻,268ページ)。 第二に弔辞の問題である。かの女の葬儀ほ友人たちが設営した純然たる無宗教 の告別式であり,「村山芳子さんにお別れする会」と名称されたうつくしく手作 りの,こころのこもった集いであった。いまでこそこういう名の告別式もみられ るが,当時としてほ珍しい葬儀であった。手作りといえば,案内状(官製はが き)の1枚1枚を仲間が手分けして直筆で執筆し,献花の花の一・つ一つを各自が もちより,墓碑銘の青菜を関忠亮が作曲し関鑑子がその場で独唱するというよう な文字通りの手作りであり,虚礼的なものほ微塵もない会であって,弔辞もまた その意味で一字−・字,かの女をたたえ,いつくしむものばかりであり,ここに印 刻したいずれのものも作為のない見事な,鳴咽にたええない文章である。村山家 にのこされている弔辞ほすべてここに掲載した。1946年8月9日という日付をも つ,これらの弔辞は当時の歴史的背景と「救援」に生きた豊子のひたむきな受難 の生涯を想うとき,その資料としての重たさにほ,ほかり知れないものがある。 なお,資料提供について,いつもひろやかな村山亜土氏に謝辞を申しあげたい。 第三に遺稿である。遺稿ほ「ウミベ ノ マヒゴ」と「ポリシネロ」の2点が 確認されており,前者ほ私の編集した上記,ほるぷ出版の「村山豊子集」ではじ

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めて公表された。これは小品ながら,水泳を得意としたかの女ならではの名作と いってよいであろうし,高松という瀬戸内の風土と文学という観点からも私は重 視したい作品のひとつである。後老は大作であり力作であるが,「お城シリ・−ズ」 の途絶で未発表におわり∴紙幅の関係と出自が不明確であったことの,ふたつの 理由で,「村山豊子集」でも未収録におわった。今回も,のちにのべるように出自 は茫洋としているのだが,あえて公表して,その点での解明の手だてともしたい し,との殊玉のような作品に光をあてたいと念じたのである。1924年の時点で, このようなユーモアとペイソスの創作に渾身の力をこめた21歳前後の若き女性 「作家」のいたことを,遅すぎた今の時点ではあるが,強調しておきたい。岡内 家の人たち,そして成人後のかの女に共感した友人,同志たちはみな異口同音に 「豊子ほ時代を先取りしてうまれすぎた」とのべているが,それに首肯せざるを えないような作品であるとおもう。 さて最後は水任流という日本泳法と豊子との関係である。かの女の小学校(と くに高学年)時代と女学校時代の重要事件は水泳への没頭であり,高松港の泳法 である水任流の会得であって,のちに詳細に記録するように,選手のひとりとし て県女水泳部の名をたかめただけでなく,コゼンセイ(小先生)として後進を指 導しつづけたのである。たとえ,のちに児童文学に筆を染めなかったとしても, このティ−ソニイジ時代のことは高松の地域史のひとつのエビソ・−ドとして記録 されてよい出来事であった。かの女が,死に臨んで,その道言のなかで碑文とし て「ここに泳ぎ」の追加をとくに要請し,水泳場の大的場近く,祖父母や父母の 墓の近くに自分も埋葬されることを希望したことは,海辺の港町にう産れ,海に 育ち,海辺に眠るという章子の生涯を象徴するものであり,その生き方,その作 品群をこの視点から見なおすことにも意義深いものがある。若き日の豊子の原風 点は,何といっても夏の瀬戸内海であり,灼けつく大的場の海岸であった。

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村山語子研究上の若干の資料について 121 Ⅰ 年 譜 村山豊子年譜 やまさき・さとし編 明治36年(1903) 11月7日,高松市にて,父岡内徳次郎(25歳),母寛(23歳)の長女として出生。 長男は兄昌三(明治35年1月5日生)。家業は祖父岡内喜三の創業した岡内千金 丹本舗であり,漢方薬を製造販売する全国的にも著名な商家。創業以前の専三は 高松藩士。寛は喜三と祖母タカの−・粒種で父徳次郎は香川県大川郡石田村大字石 田東甲381番地の多田家より筋養子として迎えられた(明治33年12月7日)。多田 家は医家である。 明治38年(1905) 2歳 2月25日,弟敏三,うまれる。 明治40年(1907) 4歳 5月12日,弟順三,うまれる。 明治41年(1908) 5歳 4月,高松市中央幼稚園(園長,岡内情太)に入園。 明治42年(1909) 6歳 7月29日,弟桂三,うまれる。 明治43年(1910) 7歳 3月20日,高松市中央幼稚園の保育修了。4月,高松尋常高等小学校尋常科に入 学。

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明治44年(1911) 8歳 3月27日,第一学年修了時,学術優等により三等質をうける。11月15日,妹

すえ 詩衛,うまれる。

明治45年(大正元)年(1912) 9歳 3月27日,第二学年修了時,学術優等により三等質をうける。 大正2年(1913)10歳

くに 12月4日,妹京,うまれる。

大正4年(1915)12歳

あや 4月12日,妹章,うまれる。

大正5年(1916)13歳 3月10日午前10時,妹章,死去。25日,高松尋常高等小学校尋常科の教科を卒業。 卒業証書第457号,授与老,同小学校長三好今三郎。卒業に際して∴運動勉励によ り特別賞をうける。4月,香川県立高松高等女学校に入学。5月14日,弟弘三, うまれる。 大正6年(1917)14歳 7月30日,遠泳大会の参加により質をうける。また,この日,香川県教育会高松 市部会より所定の水泳技術を履修し課程を卒えた証書を授与される。12月19日,

ひろ 妹尋,うまれる。

大正7年(1918)15歳 1月,投稿和歌,『新少女』(婦人之友社)新年号に入質し掲載される。4月,投 稿和歌,『新少女』4月号に掲載される。12月∴短文「幼き日の事」,『晩翠』誌上

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村山章子研究上の若干の資料について 123 に掲載。

大正8年(1919)16歳

1月,『新少女』誌上に440点をえて少女三十六歌仙15位にえらばれる。12月,『晩 翠』誌上に短文「節米」,短歌(2首),および俳句(1句)掲載。

大正9年(1920)17歳

3月18日,香川県立高松高等女学校を卒業。第二十七期,同期生148名,西鼠に属 する。卒業台帳一九四一・号。

大正10年(1921)18歳

5月,東京雑司ヶ谷の自由学園高等科(園長,羽仁もと子女史)に第一・期生とし て入学。以後,2年間,同女史の薫陶をうける。同級生に松井志づ子,秦(のち に近藤姓)きよ,田中(のちに石垣姓)綾子,千葉貞子,中嶋静江がいた。入学 生は62名。

大正11年(1922)19歳

12月,『婦人之友』(婦人之友社)に羽仁もと子女史のすすめでルポルタージュ 「ミセス安仁大森の有隣園を観る」を発表。 大正12年(1923) 20歳 3月末−4月初旬,−・期生一周とともに,横浜港発,欧州航路伏見丸の劇等船客 となり神戸に上陸,奈良周辺見学。4月18日,自由学園高等科卒業,証書授与 老,園長羽仁もと子。卒業生を代表して感謝のことばを朗読し感銘をあたえる。 卒業証書番号,第一九号。卒業生36名。卒業と同時に婦人之友社言己者となる。6 月,作家訪問記「高村光太郎氏の印象」を『婦人之友』に発表。以後,毎月のよ うに徳田秋声,島崎藤村,佐藤春夫などの訪問記を同誌に発表し,とくに佐藤春 夫訪問記ほ本人より激賞されたという。

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〔この年の1月末,村山知義,ドイツより帰国し,個人展覧会(日本初のアヴァ ンギャルドの個展)を開催。美術団体「マヴォ・」を結成,雑誌を出す。『子供之 友』,『まなびの友』に童画,挿絵,童話,童謡を多く発表する。〕 大正13年(1924) 21歳 この年のほじめより『子供之友』(婦人之友社)に童謡,童話を発表し,同誌の編 輯に従事する。1月,童謡「ハヤクコイコイオシヤウグワッ」,『子供之友』誌に 発表。6月,『子供之友』誌上に童話「プリンス・アド」発表。「アド」の名は− 粒種,亜土の名を先取りするものとして注目される。 夏頃,媒酌羽仁善一・,もと子夫妻によりライトの設詔した自由学園講堂にて村山 知義との結婚式をおこなう。自由学園高等科卒業生の結婚第一・号。式場,披露宴 の演出と実行はすべて学友たちの協力による。学友の中嶋静江が結婚行進曲のピ アノを奏し,松平里子女史,学友の平岡武子が独唱,マヴォ・同人が合唱し,この 同人が花嫁をおいてきぼりにして花筋を自宅に連れかえる。以後,みずから各誌 上の筆名名を岡内姓から村山姓に変更。12月13日,賂姻届,落合町長川村辰三郎 受付。住所,東京府豊多摩郡落合町大字上落合186番地(のちに東京市淀橋区上落 合1−186に町名変更)。この年,童話「ポリシネロ」(退稿)を執筆する。 大正14年(1925) 22歳

1月6日,祖母タカ死去。4月12日,長男亜土,うまれる。6月,長編の詩「一

つの大なる目的,即ち一・匹の悼馬に捧げられたる詩」,『マヴォ』誌に発表。10 月,「赤坊のキ・モノとオシメ」,『婦人之友』誌に発表。 〔9月,知義,河原崎長十郎らと「心座」結成。〕 大正15(昭和元)年(1926) 23歳 3月,童話作家協会,秋田雨雀,虚谷藍村,小川未明,押野岩三郎らによって結 成され,会員となる。同月「恋人の家を見る」,『文党』に発表。同月,童話「こ ぐまとゆきだるまのお母さん」,『子供之友』誌に発表。「三匹のこぐまさん」シ

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村山章子研究上の若干の資料について 125 リーズの初回をかざる。4月,童話「ある機織りの話」,『少女文芸』誌上に発 表,12月,「みじかいお話四つ」,『日本童話選集』第一・輯(丸善株式会社)に掲載 される。 〔この年,知義,帝大の「マルクス主義芸術研究会」のメンバー (林房雄,大河 内信威,久板栄二郎,佐野碩ら)と知りあい,また「先駆座」,「トランク劇場」 の人々(佐々木孝丸,八田元夫,秋田雨雀ら)と交わり,コムミュニズムに近寄り はじめる。10月,それらの人々と「前衛座」を結成。〕

昭和2年(1927) 24歳

1月,「三匹ノコグマ」,『子供之友』誌上に発表。以後,コグマを主題とする童 謡,童話の作品がふえる。7月,「犬とくもとかへる」(初出,『子供之友』大正 15年10月),菊池寛編『幼年童話集』(上)に収録される(文芸春秋社刊)。12月, 『日本童話選集』第二韓(丸善株式会社),出版される(「かざぐすり」,「犬さん と,くもさんと,かへるさん」,「せんたくやさんと,がてうの子供」「リボンと, きつねと,ごむまりと月」を収録)。

昭和3年(1928) 25歳

3月,童話「髪床やの大根さん」,『子供之友』誌上に発表。12月,『日本童話選 集』第三輯(丸善株式会社),出版される(「川へおちた玉ねぎさん」,「かくれん ぼ」を収録)。 〔4月,知義,左巽劇場結成。〕

昭和4年(1929) 26歳

2月,日本プロレタリア作家同盟創立大会,同盟員となる。3月,童話「しんせ つなあひるさんのおかあさん」,『子供之友』誌上に発表。「あひるさんとにほとり さん」シリ鵬ズの初回をかざる。この月,「私を罵った夫に与ふる詩」,『女人芸 術』に発表。5月,『少年戦旗』,『戦旗』の付録として創刊。7月,「部屋の中の 散歩」,『女人芸術』に発表。同月,「サロジニ・ナイブ詩抄,村山豊子澤」,『婦人

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之友』誌に発表。9月上蓋話「こほろぎの死」,『少年戦旗』に発表。10月,『少年 戦旗』,『戦旗』より独立。同月,童話「ライオンの大損」,『子供之友』誌上に発 表。同月,「健康な女の子」,『女人芸術』誌上に発表,グラビアにかの女の全身に 近い肖像掲載。12月,「にはとりのをばさん」,『日本童話選集』第四輯(丸善株式 会社)に掲載。 〔2月,プロレタリア劇場同盟(略称プロッ仁巨結成,知義,同盟員となる。〕

昭和5年(1930) 27歳

5月20日,知義逮揺され,戸塚,水上,杉並の各警察署を盟廻しのあと,豊多摩 刑務所にはいり,12月22日に出所。この間,知義をほじめ,同事件で検挙された 小林多喜ニリ 中野蛮治らに差し入れと手紙執筆に奔走する。寧日なしの生活で あった。

6月,『少年戦旗』,新聞型となる。同月,童話「ゾウ ト ネズミ」,『子供之

友』誌上に発表。9月,童話「ひつじさんと あひるさん」,『幼年倶楽部』誌上 に発表。10月,『少年戦旗』休刊。12月,童話「のんきなお撃著さん」,「あはれな 兎さん」,「ライオンの大損」,『日本童話選集』第五輯(丸善株式会社)に掲載。

昭和6年(1931) 28歳

2月11日に山を越えてハルビンにつき,3日位のちに帰国して馬場哲哉(外相史 郎)の家についた蔵原惟人を富木憲舌の家に案内して2ヶ月位かくまい,その 後,数々の連絡をとりながら,1年間以上の非合法活動を実現しえたのは専ら章 子の英知と献身による。 5月,『少年戦旗』復刊。7月,童話「ネコ ノ オバアサン」,『子供之友』誌上 に発表。11月23日,保釈出所した山田清三郎を蔵原惟人のかくれ家に案内する。 アニメイショソ(線画映画)「三匹のコグマ」(監督,岩崎親,撮影,並木晋作), この年の秋,婦人之友社家庭合理化展で上映。 12月,『少年戦旗』廃刊。同月,線画映画「三匹の小熊さん」(梗概),『婦人之 友』誌上に発表。なお,この年,小林多喜二と立野信之をひそかにゾダニトから

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村山語子研究上の若干の資料について 127 帰国した蔵原惟人にひきあわせる。すでに上落合時代の立野と親しかったが,立 野が昭和5年6月に検挙されて以来,とくに留守居の立野の妻・春江を激励し, 立野家を足繁く訪問する。春江.の童話作品は豊子の影響による。 昭和7年(1932) 29歳 1月,イタリア語からの翻訳「ピノッキオの冒険」,『婦人之友』誌上に達哉をは じめる(11月まで)。この翻訳をふくめて彼女のイタリア語ほ若き日の山崎功の 指導による。4月,知義逮描され,昭和8年12月に保釈出所するまで豊多摩刑務 所に収監される。この間も知義,蔵原惟人,中野重治らへの差し入れと手紙執筆 に身を挺する。8月11日,蔵原,章子宛手紙でイタリア語勉強の持続をすすめる。 童話理論にもふれ,豊子の童話集をまとめることをいざなう。4月7日,母・寛 死去。葬儀のため高松に帰郷。 〔知義,検挙の前後は,プロッt中央執行委貞長,左翼劇場執行委貞,国際革命 演劇同盟中央委員をつとめていた。〕

昭和8年(1933) 30歳

2月20日,小林多喜二逮揺され,同日,拷問により死去。悲報をききふかく賠 咽,赤いバラの花を購入して小林家を弔問,これをささげる。3月,童話「ねず みさんとそのおかみさん」,『週刊朝日』誌上に発表。4月,童話「ザウサン サ ルサン」,『幼年倶楽部』誌上に発表。6月,この月に発行された『蔵原惟人吉簡 集』(日本プロレタリア作家同盟出版部)の編集と発刊に協力する。7月15日,こ の日に発行のレールモントフ『悪魔』(蔵原惟人訳)改造文庫版の編集と発刊に協 力する。11月,童話「川の中へおつこちたお猫さん」,『子供之友』誌上に,作者 の名を示さずに発表。 〔知義,1年中獄中にあり,年末に保釈出所。〕 昭和9年(1934) 31歳 1月,童話「毛を染めかへたお猫さん」,『子供之友』誌上に発表,筆名古川アヤ

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となる。以後,この筆名を昭和10年2月の童謡「ユキノトンネル」までつづけて 用いる。 2月,日本プロレタリア作家同盟解体。2月20日,この日に発行されたゴーゴ リ1−・ほか『五月の夜』(蔵原惟人訳)改造文庫の出版に協力する。3月15日,知 義,東京控訴院で懲役2年,執行猶予3年の判決をうける。4月,知義,小説 「白夜」執筆,『中央公論』5月号に発表(小説『白夜・劇場』竹村書房,昭和 10年5月20日刊)。4月21日,この日に発行の蔵原惟人『書簡旅行記』文化集団社 刊の編集と出版に協力する。7月,童話「ウササンノオモヒチガヒ」『幼年倶楽 部』誌上に発表。11月,童話「ネズミサン ト リスサン」,『家の光』誌上に発 表。 〔9月,「新協劇団」が結成され,知義,第一回公演「夜明け前」第一・部の脚色を おこなう。〕 昭和10年(1935) 32歳 2月11日,童話劇「三匹の小熊さん」10景。兄弟座により上演(第一・○七回アサ ヒ・コドモの会)。2月21日,豊子のよびかけにより「小林多喜二を偲ぶ会」,神 田大雅榎にて開かれる。3月,童話「カハイイ 山羊サン」,『子供之友』誌上に 発表,筆名・落合ユキ子となる。以後,この筆名を同年5月の「ミミヅクサン」 までつづけたあと,同誌上の発表は中止される。 7月,この月に公刊された『小林多喜二膏簡集』ナウカ社刊の出版に協力する。 昭和11年(1936) 33歳 8月,「児童劇について」,『児童劇場』創刊号(東京童話劇協会)に発表。12月, 童話「ブイコサント音太郎」、『コドモノクニ』(婦人画報社内,コドモノクニ)誌 上に発表 昭和12年(1937) 34歳 1月,童話「百匁サン」、『家の光』誌上に発表。2月,童話「毛糸のモンモコさ

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村山豊子研究上の若干の資料について 129 ん」,『日本童話名作選』第一・輯(金の星社)に掲載される。4月,知義,戯曲 「初恋」執筆,登場人物の高松弁ほ章子の協力による。同戯曲の初演ほ前進座に より大阪浪花座で翌月に上演。初演に際し,同座員に高松弁を教える。 5月,童話「オ寝坊ナ ジャガイモサン」,『コドモノクニ』誌上に発表。6月, 「初恋」新橋演舞場にて前進座匿よる再演。6月18日,祖父,喜三死去。葬儀の ため高松へ帰郷。9月10日,劇団ドゥゲキ,「お鼻を噛られたお猫さん」,大阪朝 日会館で上演。10月17日,劇団ドゥゲキ,同劇再演。11月,童話「きりぎりすの かひもの」,『コドモノクニ』誌上に発表。この年,夏から秋にかけて微熱を訴 える。 昭和13年(1938) 35歳 2月,童話「ゴボウ君と大根君」,『コドモノクニ』誌上に発表。8月13日,劇団 ドゥゲキ「お鼻を噛られたお猫さん」再々浜。なお,この年の作品発表はきわめ てすくない。本年に,「初恋」,新協劇団による再々演(本郷座)があった。 昭和14年(1939) 36歳 1月,童話「オヤカン ト オナベ ト フライパン ノ ケンクワ」,『コドモ ノクニ』誌上に発表。この作品に服部正は曲をつけ楽譜と共に掲載。4月24日, 父・徳次郎死去。6月,童話「あめくん」,『コドモノクニ』誌上に発表。7月, 東野映軋新協劇団提携作品,知義,シナリオ・演出・監督,映画「初恋」封切。 11月,童話「オマツリ」,『コド・モノクニ』誌上に発表。なお,本年と昭和15年は 毎月のように作品を発表した。 昭和15年(1940) 37歳 1月,童話「おにんぎやうさんのおうち」(1),『コドモノクニ』誌上に掲載,以 後,毎月のように連載する。8月19日,知義逮描され拘留,昭和16年2月に起 訴,巣鴨刑務所に移される。入獄中の知義のために差し入れ,手紙執筆,留守居 の生活保全に没頭する。

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昭和16年(1941) 38歳 1月16日,貴司悦子の告別式に出席する。 〔4月,知義,母元子の死に.より,10時間保釈出獄し,火葬する。〕 昭和17年(1942) 39歳 〔6月10日,知義,公判。保釈出所。〕 昭和19年(1944) 41歳 〔4月,知義,控訴院判決。懲役2年,執行猶予5年。執筆も演出もすべて禁止 され,肖像画を描いて生計をたてる。〕 昭和20年(1945) 42歳 〔3月,知義,朝鮮に亡命。〕 5月25日,東京空襲にて戦災にあう。その打撃により回復していた肋膜炎を再発 し,以後,重症の身となる。とくに看病について,画家藤川栄子の世話をうける。 かねて間借り契約のおわっていた小田急沿線の鶴川に疎開する。12月,知義,朝 鮮より帰国,鎌倉長谷に借家する。住所,鎌倉市長谷大谷戸235。 昭和21年(1946) 43歳 〔2月,知義,第二次新協劇団を創立。〕 2月頃より慢性の大腸カタルを併発し下痢がとまらず臥床,衰弱の度を加える。 2月1日−27日,「初恋∴前進座による上演(帝国劇場)。3月26日−28日(毎日 2回),「初恋」,前進座上演(飛行館)。4月1日−3日(毎日2回),同,前進座 上境(共立講堂)。5月19日−28日(毎日2回),同,前進座上演(大阪朝日会 館)。3月,日本児童文学者協会創立,会員となる。協会内に設けられた児童文学 粛正委員会の委員となる(秋田雨雀,江口換,平塚武ニリ猪野省三,菅忠道,中 野重治,奈街三郎および語子の8名)。6月,松井志づ子に速達(書留)で童話の

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村山母子研究上の若干の資料について 131 印税を前借りして贈る。7月中旬一下旬より重態におちいる。8月3日,知義の 手をにぎり,しきりに「死にたい」と訴え,「こんな苦しみをして,こんな世の中 にはもう生きていたくないの。私はもう人間のエゴイズムにはとても耐えられな い」という。8月4日,午後1時,知義を枕辺によび,長い造言をのべ,とくに 墓碑銘を口述筆記させる。同EL 午後7時45分,死去。富本一枝,藤川栄子,原 泉,東京より通夜に参加する。8月5日−6日,隣人,演劇関係者,友人,鎌倉 アカデミア 大学学生など多数の弔問暑がある。8月6日,小壷にして火葬。火葬場に同道 し,さいごまで居残ったのは知義,亜土,彼女の二人の友人。 8月9日,児童文学者協会および新協劇団合同による告別式「村山告子さんにお 別れする会」,保険協会講堂(麹町区有楽町)でおこなわれる。葬儀委員井上正夫 (委員長),井汲卓−・,岩崎瀬,鹿地亘,蔵原惟人,関鑑子,壷井栄,宮本一枝, 原泉,久板栄二郎,藤川栄子,山岸しづ江。 1..司会老の挨拶一原泉。 2.故人についての報告。 3弔辞一葬儀委員長井上正夫,新協劇団一周,日本児童文学者協会代表 猪野省≡,前進座代表河原崎長十郎,日本童画会,俳優座−・同。 4故人の思ひ出を語る一富木一・枝,壷井栄,久板栄二郎,鹿地亘,蔵原 惟人。 5,故人の童話朗読三編一三島雅夫,信千代,土方つま子。 6.独唱一小守唄,小野光子。 7 挨拶一知義(代読,宇野重吉)。 8り墓に彫る言真の歌一作曲・関息亮,独唱・関鑑子。 9弦楽合奏一松本弦楽四重奏団。 10閉会の言葉一 山岸しづ江。 全集者のお別れ(献花)。 (以上は主に当日配布されたとみられるプログラムによるが,知義の「亡き妻 の記」によると,童話三編の朗読者のうち,信千代は河原崎しづえとなり,「思 ひ出を語る」では藤川栄子がくわわり,久板栄二郎と蔵原がぬけているし,プ ログラムの粗稿では「故人についての報告」に藤川栄子と井上正夫があたり,

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「弔辞」にほ.前出のほか東芸,新日本文学会,新演劇人協会の名が挙っている が,前記プログラムには,それらの名はなく,すべて空欄である。ただし井上 正夫および日本童画会は粗稿の「弔辞」欄にもその名はない。「弔辞」について ほすべてのこされている現物に依拠した。)会場には,知義の希望により,台紙 に貼られた童謡,童話作品が飾りつけられた。 8月30日,病床でみずから補訂した退著であり,最初の単行書『きりぎりすのか ひもの』(教養社),出版される。収録作品ほ,「ねずみさんの失敗」,「凌〉めく ん」,「犬とくもとかへる」,「こぼうと大根」,「お鍋とお皿とか−テン」,「ライオ ンの大ぞん」,「かめさんのさうだん」,「かみ床やの大根さん」,「お寝坊なじゃが いもさん」,「きりぎりす の かひもの」の10点,いずれも童話であり,装帳と さしえは知義が担当している。 昭和22年(1947) 4月10日,知義,『亡き妻に』(桜井書店)出版。10月1日,童話『おねこさんと きんのくつ』(こ・。L−フレンド),出版される。挿絵は知義。10月25日,『ありし日 の妻の手紙』(桜井書店),出版される。編集と校訂などすべて知義による。 昭和23年(1948) 2月25日,童話集『川へおちた玉ねぎさん』(ニューフレンド),出版される。装 偵と挿絵ほ知義。3月15日,童話集『のんきな犬さん』(ニュ1−フレンド),出版 される。装幌と挿絵は知義。4月15日,童話『あひるさんとにわとりさん』 (ニューフレンド),出版される。挿絵ほ知義。 昭和30年(1955) 6月,『日本児童文学大系』3(三一・書房),出版される(「こおろぎの死」を収 録)。11月,『日本幼年童話全集』3(河出書房),出版される(「犬とくもとかえ る」,「かくれんぼ」,「かみどこやのだいこんさん」,「かめさんのそうだん」,「ご ぼうとだいこん」,「おねばうなじゃがいもさん」収録)。

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村山語子研究上の若干の資料について 133 昭和35年(1960) 10月15日,『世界児童文学全集』30,石井桃子編(あかね書房),出版される(「川 へおちた玉ねぎさん」収録)。 昭和40年(1965)

9月,『世界の童話』12,鳥越信編(講談社),出版される(「赤くなった赤だいこ

ん」収録)。10月9日,小林多喜二記念碑(文学碑),小樽市旭山展望台に建立さ

れ,昭和5年11月11日,村山豊子宛の多壱二の手紙文の一蘭が刻まれる。受信者

の語子の詩人的感受性を意識して多喜二が物した小樽回顧の名文のひとつ。

昭和41年(1966)

11月5日,童話集『ママのおぼなし』(童心社),出版される。解説・周郷博,装

本・北田阜史,画・村山知義,北田卓史,富永秀夫。はじめのことば・羽仁説

子,おわりのことば(「豊子のこと」)・村山知義,村山童話の特色・掘尾青史。

昭和43年(1968) 4月1日,「かくれんぼ」,「ねずみさんのしっばい」(初出は『子供之友』),日本 標準の小学生文庫第一・集に収録される。6月1日,紙芝居『きたない手をして』 (童心社),出版される。知義画。7月,絵本キンダーブック『とこやのだいこん さん』(フレ・−ベル館),出版される。挿絵は知義。 昭和45年(1970) 1月,絵本『しっぼをなくしたねずみさん』(小蜂畜店),出版される。挿絵ほ小 野かおる。この絵本には「ライオンのおおぞん」,「凌〉めくん」も収録されている。 昭和46年(1971)

9月1日,紙芝居『おねぼうなじゃがいもさん』(童心社),出版される。絵ほ知

義。

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昭和47年(1972) 9月1日∴絵本『かくれんぼ』(フレーベル館),出版される。挿絵は知義。 昭和48年(1973) 白月1日,絵本『あめくん』(フレーベル館),出版される。原作・繁子,文・知 義,挿絵は林義雄。 昭和49年(1974) 1月,月刊『絵本』まるごと絵本紹介欄に村山豊子作・村山知義画『あひるさん とにわとりさん』(ニューフレンド),原形のまま,収載される。7月,紙芝居 『おねこさんと金のくつ』(教育画劇),出版される。 昭和51年(1976) 6月,紙芝居『おなべとやかんとふらいばんのけんか』(童心社),出版される。 昭和52年(1977) 10月,紙芝居『だいこんのとこやさん』(童心社),出版される。 〔3月22日午前6時17分,知義,代々木病院307号室で死去。最後のことば「演劇 運動満歳」。病名,横行結腸癌。翌23日午後1時より東京芸術座にて密葬,葬儀委 員長蔵原惟人。4月3日午後1時より青山葬儀所にて告別式(東京芸術座劇団 葬),葬儀委員長蔵原惟人。密葬および告別式ともに演劇,美術,文学,政治など 各界から多数参列。会場には語手の作品のために描いた童画も展示された。同 日,『演劇的自叙伝』第四部,東京芸術座出版局より公刊,祭壇に飾られる。〕 昭和53年(1978) 11月,「村山章子集」(『日本児童文学大系』第二六巻,ほるぷ出版)刊行される。 編集・解説・年譜・参考文献・やまさき・さとし。

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村山章子研究上の若干の資料について 135 昭和61年(1986) 3月,絵本,『三匹のこぐまさん』(婦人之友社),刊行される。絵は知義。 3月14日から26日にかけて子供之友原画展がひらかれ,竹久夢二や知義の絵によ る語子の作品が直筆の原画とともに展示される(西武アート・フォ1−ラム)。7 月1日,県女同期生,今雪ヤスヱ,−時帰国に際し,同期有志の会が高松市内で 開かれ,そのうち今雪(在ブラジル),鴨田貞子(香川在住),松村マサ(大阪在 住)の3人は章子の墓にもうでて,花を供える。 昭和62年(1987) 1月4日から3月29日にかけて村山缶子作・村山知義画「ナクナックアカイヨウ フク」の原画,弥生美術館の「郷愁の童画家たち」の−・環として,ほじめて一腰 に公開された。但し忠子の文章そのものは今のところ発見されていない。 この年,前年に.ひきつづいて子供之友原画展が次の日程で催された。5月8日− 13日,岡山(天満屋),6月12日−16日,盛岡(川徳),6月23日−29日,札幌 (友の家),7月17日−8月16日,大阪(ナビオ美術館),8月25日一30日,福岡 (福岡市美術館)。原画展の会場でほ日本初のアニメイション映画,豊子原作・知 義画の「三匹のコグマ」がビデオ化され1日に何回となく,来場者の任意操作で 上映される。 昭和63年(1988) 10月25日,「十五夜のお月様」(初出は『子供之友』),『幻想文学』第二四号に収録 される(幻想文学会出版局刊)。 平成3年(1991) 7月13日,村山知義生誕90周年を記念する「偲ぶ集い」行事,ビデオ上映「人に 歴史あり」,講演会(菅井幸雄「村山知義の仕事と作品」,千田是也「国定忠治の 演出」),座談会「人となりを語る」,北林谷栄,千田是也,下条正巳,開きよし,

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活洲すみ子,映画会(「初恋」および「三匹のコグマ」),東京朝日新聞社講堂にて 閃かれ,会場に章子の数点の童話作品(知義の挿絵)が展示される。 平成4年(1992) 3月13日−21日,「初恋」,前進座(演出・十島英明,美術・高木康夫,照明・寺 田義雄∴効果・小倉潔)により久々の公演があった(前進座劇場)。8月3日,村 山亜土,母 語子の知義の生前およびその後も村山家に安置されていた残りのお 骨の納骨を了える。参加者,村山亜土,水谷尋,岡内弘子,石屋さん,山崎。11 月,高松市立図書館の新築落成開館行事の−・環として,知義の映画「初恋」,3度 (8日,22日,29日)にわたって上映される。

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村山豊子研究上の若干の資料について 137 Ⅱ 弔 辞 弔 辞 故村山缶子さんの御蛋前に謹んで申上げます。慶〉なたほ長い困難な時代を文字通 り悪戦苦闘され漸く新時代の黎明を前にして惜しくもイトれられました。どんなに あなたのお胸の中ほ.口惜しかったことでありませう。私たちはあなたと共に萬斜 の涙を呑みます。しかし,あなたが御生前,繰り返し繰り返しやさしく話しかけ られた日本の子供たちは必ずあなたの御期待に沿って,たくましく成長してゆく ことでせう。何とぞ安らかにお休み下さい。 一九四六年八月九日 葬儀委員長 井 上 正 夫 村山語子さんにお別れする言葉 児童文学老協合を代表して,骨員村山章子さんにおわかれの富美を申上げます。 あなたは進歩的な童謡作家として,ことに幼年童話に新らしい道をひらいて下 さいました。かつて,最も進歩的だった「少年戦旗」の編輯をなさったりして, はんとうに民主的な子供をはぐくむために,苦難の中に努力して下さいました。 だが戦争は野蛮な暴力で私共に襲ひかかつてきました。多くの作家が戦争文化 におもね,けがれた流れに身を投げかけて行った時に,あなたは純潔を守り通し ました。そうです。純潔を守り通したたった一人の女性の童話作家でした。 重圧がとり[の]ぞかれて,私達に明るい窓が開かれた時,私達はそれ故にこ そあなたに期待することが大きかったのです。私達が,待ちに待った解放のおと ずれをよろこんだ時,はからずも あなたは,御病気に苦しんで居られたのでし た。そのことを知った私達は一・日も早くよくなられて,新らしい児童文学創造の ために,私達の力になって下さることを心からねがってゐました。そのことは, 今となってほ,全くのぞめないことになってしまひました。かけがへのない作家 を失ってしまひました。残念でたまりません。 あなたの作品をつらぬくものは,純潔さでした。比類のない純潔でした。まじ り気のない純潔さでした。子供に対する愛情が,こんなに情潔に結晶した作品 は,他に求められないものでした。それは,あなたの人格が,どんなに措く尊い

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ものであったかを示すものです。 その作品集が出版されやうとしてゐましたのに,それをも待ちきれず,あなた の肉体は永遠に去ってしまひました。 けれども,あなたののこされた作品ほ,美しいものに飢えてゐる多くの幼い子 供達の胸の中に花を開き,新らしい民主日本建設のために,あなたの意志通りの 賓を結ぶに達ひありません。 私達ほ,あなたのねがひであった新しい民主的児童文学創造のために,私達の 仕事のなかにあなたの精神を生かし発展させることにつとめます。それが今ほ亡 きあなたのみたまに.答へ得るおわかれの言葉であり誓ひの言葉であると信じます。 一九四六年八月九日 児童文学者協食

代表 猪 野 省 三

御別れの言葉 村山章子さん 今日このやふな御別れの言贋を捧げなければならぬことは私達新協劇国にとって 大きなかなしみです。 三月からのあなたの病気ほ私達に深い憂ひを興へて居りました。そして少しでも 経過がよいときくとほつと胸をなでおろして居た次第です。 この間のトムさんの言葉に云へぬ心志しも亜土ちやんの甲斐々々しい看病も空し く貴女ほ病気との戦にたふれて行きました。 貴女も矢張あの愚劣な戦争の犠牲者の一人だったと云へます。予後療養の身をも ってトムさんの留守を守り戦災の火とたゝかはねばならなかったし,それにつゞ く疎開の不自由な生活がすつかり貴女の身体をむしばんで了ったのでした。 村山知義夫人としてのあなたはよりよき半分とか内助の功などと云ふ言葉で云ひ あらはせない村山芸術に対する群棲的役割をもって居ました。村山芸術を今日あ らしめる為に生活への芸術への協力,或時は同志としての鞭打は傍目にはうらや ましい位の心姦しでした。トムさんの三度五年の日数をこえる投獄の間を留守を 守り通した努力も私達の記憶にあざやかです。 その貴女の協力は村山演劇を通して新協劇園には母とも姉ともなってあらほれて

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村山舞子研究上の若干の資料について 139 居ました。今私達は御別れに際し新協劇圏のお母さんと云ふ言葉をおくります。 貴女は単に村山芸術への協力者だけでなく貴女自身すぐれた児童文学者でした。 恵まれた才能が心の歌となってあなたの作品は日本の小さい同志に大きなおくり ものをして釆ました。少年戦旗の編締着としての貴女,それに前後する児童雑誌 にトムさんの美しい挿絵と相待[倹]ったゆたかな童話や童謡,それは封建的お 伽噺の域を脱しない日本の児童文学の中で一脈情新な清水の如き存在でした。 丁度御通夜の晩あなたの作品を拡げて居たところ傍に居た若い劇圏点が あ,こ れ覚えてるわ,子供の時にとても好きだったあれが奥さんの作だったとはしらな かったと歓声をもらしました。そんな言葉からも貴女の作が童ノ[涌こ大きな影響を 興へそんな人達がもう日本の文化の大事な働き手として育って居ることを知るこ とが出来ます。 そのやうな子供の言葉でかゝれた子供たちへのうつくしいおくりものも三五六年 以後の反動の嵐の中では発表出来ない日がつゞきました。そして永い迷蒙が跡か たなく破壊され私達の本当の仕事がほじまらうとする日私達ほ貴女せ失はなけれ ばならなかったのです。 貴女は御自分の作品集の刊行の日もまたずに.逝ってしまはれました。村山演劇の 完成の日もまたずに逝ってしまはれました。病気だった貴女ほ幸福の家にはじま る新協劇圃の再出発さへ見ないで逝って了はれたのです。 今日私達はこの席上で貴女の残された言葉を生かしあなたの村山知義を守って村 山演劇の完成へ向っての同志としての協力をすることを暫ひます。 限りない悲しみの中に花をさゝげ音楽をさゝげ貴女の逝去を深く深くいたみます。 一九四六年八月九日 新協劇囲一周 弔 詞 村山先生が 新劇を通して困難な解放運動に幾度か園田の苦難をなめられ乍ら 闘ひ抜かれたその蔭には奥様のたゆまない内助の効のあった事ほ今更云ふまでも ない事であります。 そして御自身も亦,童話,童謡の作家として,詩人として尊いお仕事に活躍され

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て居りましたのにこの無法な戦争が一層奥様の御心努を深め今日のこの悲しいお 別れに追ひ込んだ事に限りない憤激を感ぜずには屠られません。 前進座創立以来先生には数々の御指導を頂きましたが奥様のお力添えも私共の 心に銘じて居ります。殊に「初恋」上浜の時にほ奥様御自身高松耕を教へて下 さった事など 終戦後東京大阪の舞台で好評を博する度に思ひ出されます。 終戦後の日本の文化活動ほ最もむづかしい,しかし,前途はかゞやかしい光明 に充ち充ちてゐるこの時,亡くなられた事は返す返すも残念に思ひますが 奥様 の意志を生かす道は只一つ 志を同じくする人々がそれぞれの立場から日本文化 のために精進し闘ひ抜く事であり 私共前進座もその線に添って日本演劇のため に邁進することをお曹ひするものであります。 奥様どうぞ安らかにお休み下さい。 一九四六年八月九日 前進座 代表 河原崎長十郎 弔 辟 ナガイ間,子供ノタメノ文学ニックサレテキク治子サンヲ失ツタコトヲ大変悲 シク思ヒマス。 下ヅミニ サレ,シイタグラレタ貧シイ家庭ノ子供タチニ,一項シテフカイ愛情 ヲモチッヾケテキク告子サンガ,イマソノ子供タチニ対シテ,アマスt・コロナク ソノ愛情ヲ傾ケツクスコトノデキル時代ヲムカへナガラ,突然ナクナラレタコト ハ,籍子サンニトツテモ心残リノコトデセウガ,日本ノ子供タチ,日本ノ新ラシ イ児童文化ニトツテモ,大切ナヒトツノトモシビヲ失ツタヤウニカナシイコトデ

ス。然シ語子サンノカ、ゲタトモシビハ,新ラシイ人タチガサラニ高クカ、ゲテ

ユクデセウシ,又ソウアラネバナラナイト深ク考テヰマス。私タチモソノタメニ 心ヲアノ\セテユクコトヲチカツテ,オ別レノ言葉トシマス。 一九四六年八月九日 日本童画会

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村山豊子研究上の若干の資料について 141 弔 辞 僚友「新協劇団」の中枢として活躍しつゝある村山知義氏夫人繁子氏の逝去に.当 り謹んで弔意を表します 昭和二十−・年八月九日 俳優座一周

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Ⅲ 遺 稿 『ポリシネロ』(遺稿)について やまさき・さとし 帝子研究を志して,夫君の村山知義(敬称を略す)にお逢いした際,その初対 面のおりに,「章子には未発表の作品が二点あり,そのうち長文のものもある」と いわれ,それが『ポリシネロ』というタイレレのものだとつぶやかれた。そし て,発表場所をみつけるべく思案中だが,適当な出版社がみつからないでいると つけ加え.られた。しかし原稿そのものをみせていただく枚会がなく,やがて知義 ほ入退院をくりかえされ,この未発表稿に私から言及することはほぼかられたの である。 知義ご逝去のあと,亜土民より原稿の提供をうけ,はるぷ出版の『村山章子 集』に収録したいと念じたのだが,ひとつには分盈の点で,ふたつほこの原稿の 出自が不明確であったために断念したのであった。 出自というのは,このポリシネロがイタリアのプルチネルラ,すなわち人形劇 による道化芝居にその語源があり,この原稿が完全に独自の創作によるのか,あ るいほ何かの翻案によるのか,ということをつきとめたいということである。私 はイタリア問題研究家,そして哲子にイタリア語を指導した今は亡き山崎功酎こ この原稿をおあづけして,氏および氏のご友人,知己の方に.おねがいして,調査 をしていただき,この物語が特定の「原作」あるいは原作に近いと推定されるも のを有するかを点検してもらったのであるが,これをさぐりあてることができな かった。山崎氏は登場人物にイタリア語やスペイン語による氏名の混用があり, 作者による慈恵的な名称づけをおもえば,これは浩子の創作ではないか,といわ れた。亜土民も「お袋の作品」であって翻訳や翻案でないとおもうといわれてい る。私も,原稿のマス目にかかれた文字の形や,方々に追加された文言,走りが きめいた文字の乱れなどをみると創作である可能性はきわめてたかいと考える。 しかし,プルチネルラ,イギリスのパンチネロ系統の道化師という寓話にはヨー ロッパで長い伝統があり,何かのヒントを童話(洋書)からえ.たのではないかと いう推定を捨てきれないのである。 それにはつぎのことも起因している。知義のメモと添書から,この『ポリシネ

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村l圧豊子・研究上.の若†」の資料について 143 ロ』は知義の企画した童謡集「 ̄ぉ城シリ−ズ」の第六巻にあてられることを予定 し,その準備がなされた。「お城シリ−ズ_lの1は『ロビン・フッド』 ,2ほ 『リップ・ ヴァソ・ウヰンクル』(一九二二年)となっており,順序は明記はない が,3,4,5に『ウィルヘルム・テル』,『プリンス・プリジオ』,『或るコック の話』(『婦人之友』誌上の広告ほすべてこの順序で示されている)が予定され, いずれも婦人之友社刊であった。しかし,1,2ほ公刊されたが,何かの理由で シリt−ズは中断,そのあおりで『ポリシネロ』は原稿のまま残されたのである。 この場合,みられるように,いずれも「原作」があって,日本人による純粋の創 作作品ではない。したがって「お城シリーズ」はすべて「原作」をもつものとも 判断されるとすれば『ポリシネロ』も例外ではないとも推定されるのである。 ストラヴィソスキ・一に『プルチネルラ』なる作品があり,そのレコ1−ドをあっ めたり,またその原曲のペルゴレージの作品をしらべて粗筋を照合したりしてみ たが,話ほ豊子の『ポリシネロ』とはことなっている。 それほそれとして,この原稿の表紙には知義の筆爵(とおもわれる)によって 「一・九二四年頃」とあり,「村山昏子作」と記入され,原稿用紙−・枚目には,舞子 または知義の筆蹟で「お城シリーズ 6」とあり,「ポリシネロ」「村山浩子作 村山知義 装宣」としるされている。以下すべて豊子自身のペソによって二百 字,一九七枚,かの女の作品としてほ,大作がつづられているのである。 原稿は一応,完結したものとみなしうるのであるが,ポリシネロがポル1ンネロ とかポリシネルとか表記されている部分もあり,また,ルを消して,ロと訂正し ている箇所もあり,完全原稿とはいい難い。それにもかかわらず,何度も修正を くわえて訂正,推敲,挿入したとおもわれる箇所も多く,また抹消された部分も 多く,章子が何度もみなおしたと推定され,全体としてかの女のおもい入れはふ かく,若き章子の力作であり,童話作品のなかでも主作品といってよいとおもわ れる。おそらく,かの女の愛した『ピノッキオ』,かの女の訳した『ピノッキオ』 の系列に属するこの『ポリシネロ』に賭けた章子の傾倒,心情をおもうにつけ, これを未公刊とした斯末を残念におもうのだが,天衣無縫であっけらかんとした かの女の生渡はこれを公刊すべくあくせくした証拠を全く示していないのである。 私ほここにはじめて私家版とし,これを公表したいとおもう。出自について,さ らに探究のうえ,ひろく公刊の機会をもちたいと念じている。

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ポリシネロ 村山窯子 作 村山知義 装歪 一つけひげ・や, つけひげやのポリシネロ。 お前さんの顔にもよく似合ふ。 君の顔にもよく似合ふ。 私の顔にはなほ似合ふ。− ポリシネロ 1‖ ドメニカ婆さんのひろった木の人形 2..橋から飛びおりたポリシネロ 3役者になったポリシネロ 4.水に溺れたポリシネロ 5.芝居を見たポリシネロ 6… 本も時計もなくしたポリシネロ 7.木にしばられたポリシネロ 8.つけ轄屋になったポリシネロ 9小 つめたくなってしまったポリシネロ 1小 ドメニカ婆さんのひろった木の人形 [コ アントニオ酒場は,伊太利の,小さいある町の,また,特別に,色んな,物の

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村山豊子研究上の若干の資料について 145 くさった匂いだの,食物の匂いだのする汚い町の横町にありました。虞異になっ た看板が,低い軒から下ってゐました。 「アントニオ酒場。」と書いてあるのですけれども,黒くなって,さっばり読め ません。けれども,字なんぞ認める人ほ,このあたりには一人もゐませんから, それは大した不便にもなりませんが,たゞ,入口があまりせますぎました。 一人のお姿さんが,前かけに.,何か小さいものを包んで,息をせきせき表口を 走ってきて,この入口にたちどまって,着物のふくれたところを,たゝきつけ て,肩をすぼめました。このお姿さんは特別肥ってゐたので,ふだんでも,横に ならなければ,這入れませんでした。半分身体をねぢ込んで, 「これ,マリアさん。お前さんにいゝものを持って釆たよ。」と申しました。お かみさんのマリアは,丁度,皿を洗いながら,横目で,コックのボツチヨニを睨 みつけてゐました。そして, 「馬鹿め,何をく∼づぐづしてゐやがるんだ!」と,叱り飛ばさうとしてゐまし た。ボツチヨニは,にたにた笑って, 「ドメニカ婆さんが来たよ。」と,いって,奥へ逃げこみました。おかみさんの マリアは,愛想のいゝ丸い顔を,なほ丸くして, 「まあ,ドメニカ婆さん。此間は留守でしてね。ほんとに。うちの洒倉に,空 瓶が,ごろごろしでたのに。おしいことをしたね。すっかり,泥棒にもっていか れちまって,折角婆さんにあげようと思ってゐたのにねえ。」と,手をふきふきド メニカ婆さんのそばに寄って釆て, 「まあ,これほ,何ですねえ。おや。」と,おかみさんは自身の鼻をつまんで, 笑ひ出しました。 「わしもこれを見たときにほおかしくってね」と,二人で,笑ひこけました。 コックのボツチヨニが,また奥から,こっそり忍びよって,ひょいと眺めて,ふ き出してしまいました。

「やあい。おかみさん。さわると,キャソといひますぜ。おかみさん。犬っこ

ろが大きらひなんだからね。」 「何をまた,ギャアギャア笑ってるんだ。少し静かにしろ。ボツチヨニの奴, 今晩は,少しどうかしてゐる。酒を,こっそり,盗んで飲んだんだらう。」と,主 人の,アンtこオが酒倉から,のっそりと,はいってきました。ボツチヨニは,

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「いゝえ,旦那。わしや,酒屋の小僧でも,酒は大嫌ひだ。ちょっと,これを 見てやって下さい。」と,ボツチヨニが,アントニオの手をひっぱって,ドメニカ 婆さんのそばへつれてきて, 「そらっ」と大きい声を出して,アントニオの手を放しました。アントニオ は,びっくりして, 「ひやあっ.」ととびのきました。そして, 「何だい。何だい。静かにしあがれ。_」と,アントニオは,誰を叱ってゐるのか 見当のつかないやうなことを言ってそっとのぞきました。そして, 「ふうん。なるほど。こいつあ面白い。実に面白い。」と手をたたきました。ド メニク[カ]婆さんは,おかみさんの顔と,アントニオの顔を,五分五分に眺め ながら, 「どうですねえ。」と,顔を戯赤にしました。 「得意になってらあ。」と,ボツチヨニが,ドメニカをからかふと,ドメニカ は, 「この,おしゃべり小僧奴。お前なんぞに,この面白味が分かるものかい。ね え マリアさん。」と,おかみさんの顔を,覗き込みました。 「さうとも。」マリアは,ボツチヨニに,さっきから,腹が立ってたまりませ ん。ボツチヨこは,こそこそと,逃げだしてしまいました。ドメニカは,こゝぞ と言った顔をして, 「この子供を,もらってやっておくんなさい。かわいさうな奴ですよ。どこで 生まれたんだかわかんないのだけれど。私が,ほら,あすこの,塵捨場を通り かゝると,何だか,ピイピイって泣く声がするんでせう。これがこいつさ。お前 さんたちは,子供がないないといって,しょっちゅう,口癖のやうに言っでたん だから,育てゝおやりよ。」と,ドメニカ婆さんは,ひいひい息をつきました。ア ントニオと,おかみさんほ,しばらく考へて,ゐました。そして, 「よろしい,育でてやらう。こんな木っころの,せむしの,鍵鼻の,出来損い の人形でも,俺は,かわいがって,育ててみせる。」と,アントニオが,小さい 木の人形を,ドメニカの前掛のなかからつまみあげて,おかみさんの優に,押し 込みました。

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村山響子研究上の若干の資料について [] 147 これが,ポリシネロといふ木の人形でした。まだ,まゆもなければ,頭の毛も ありません。アントニオと,マリアほ,ポリシネロといふ名をつけたものの,心 配になって釆ました。 「こいつあ,ひょっとしたら,たゞの木の板かも知れない。昨日から,笑ひも しなければ,泣きもしない。−−・体,どこに冒があるんだか 興があるんだか分 りゃしない。」と,アントニオは,ポリシネロをちょっとつめってみましたが矢張 り,じっとしてゐるので 「泣いてゐた所をひろったと,ドメニカ婆さんが言ったが,ありゃ嘘かもしれ ねえ。」 「まあ,お待ちよ。生きてゐる人間にも病気があれば,人形にだって,病気は あるよ。ちょいとお欝者に見せて来よう。」と,マリアは,ポリシネロを抱いて, 街の方へかけ出し■ました。 マリアは,お襲名様のところへ行って,そのことを話しました。お固着ほ, 「はゝあ。成程。成程」と,ポリシネロの脈をみて, 「よろしい。ちょっと待っておくれ。」かう言って,ポリシネロを,小さい部屋 につれてはいりました。何をしたのだか,マリアには分りませんでした。 「なほりましたよ。これから,ずんずん大きくなりますよ。さあ。」といって, ポリシネロを出して釆ました。まあ,何て,可愛いゝ人形でせう。ちょっと,せ むしで鼻がまがって,目が大きすぎますけれども∴頬っぺたほ,赤ぐなって,唇 ほ,ぴかぴか光ってゐました。そして,頭にほ,金色の巻毛が,くるくると,ま きついてゐました。 「まあ。」とマリアは,驚いて, 「これは,どこの天皇陛下さまだろか。」と,言ひました。そして,それが,ポ リシネロだとわかると,お欝者に,何度も何度も頭を下げて,とんで帰りました。

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「あのお欝老様は,はんとに偉いお力だ。ポリシネロが,こんなにきれいに なった。」と,マリアはアントニオに,ポリシネロを見せました。 「はんとに,我が子ながら,見とれるやうだ。」と,アントニオは,言ひまし た。 「ボツチヨニ,ちょいと,おいで。これが,お前の小さい御主人様だ。よく見 ろ。」 ボツチヨニほ,店さきから飛んで来て, 「へえ。これが,あのお人形ですか。せむしの。」と言ひました。アントニオ は, 「馬鹿をいふな。お前も少し大きくなったんだから,おもちゃをすっかり,こ のポリシネロにやっておしまい。」と,ボツチヨニを叱りつけました。 「いやですよ。旦那。わっしは,」 「わっしはとは何だ。これから,ポリシネロと仲よくするんだ。」アントニオ ほ,コックのボツチヨニに言ひ渡しました。 ポリシネロの評価がひろがったので,この町の人たちは,我も,我もといっ て,アントニオ酒場へのぞきにまゐりました。そして, 「へえ? あいつですか。あれが,ポリシネロですか。」と一人の男が言ひます と, 「なかなかかわいゝわね。まあ,あの笑ってる所ったら,ありゃしないわ。」 と,どっかのおかみさんが,言ひました。 「これから,うちの子供も,あんな風に,髪をちゞらせてやりませう。ほんと に,あの頬っぺたの色のいゝこと。うちの子供も,あんな風に,頬っぺたを塗っ てやりませう。」と,もう一人のおかみさんが,滞り言をいひながら,急に口をお さへて, 「誰にも,聞こえなくてよかった。早く,うちの子供だけに,してやりませ

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村山章子研究上の若干の資料について 149 う。」そのおかみさんは,サパロといふ子供のお母さんでした。そしてその亭主と いふのは,アントニオを目の敵にしてゐた同じ衝の酒屋でした。おかみさんほす たこら,家に走って帰りました。 ポリシネロは,かうして,皆に可愛がられました。ポリシネロが通ってゐる と,誰でも振向いて, 「凌,,あ,今日は,ポリシネロさん。」と言ひました。ポリシネロは,かういは れると,すぐ,その人の所へいって, 「えゝ。今日は。どこへおでかけですか。」とたずねました。すると,誰でも, ポリシネロの頭をなでゝ, 「早く大きくなって,立派な人におなり。かわいゝポリシネロ。」と言ひまし た。 或日のことでした。ポリシネロは,いつものように,街へあそびに出てゆきま

した。すると,むかふから,丁度,自分と,同じ,頭をして,同じ,服をきて,

同じやうに,頬っぺたを赤くした,子供に出あひました。ポリシネロは, 「やあ。君。」といって,そばへゆきますと,その男の子は,赤くなって,しり ごみをしました。そこへ,その子供の,お母さんが釆て, 「おい,サパロや。お前は,あんな奴より,美しくって,きれいなんだよ。 しっかりおし。」といって,子供を,つきとばしたので,その子供ほ,大きい声で 泣き初[姶]めました。ポリシネロは,その子供が,かわいさうで堪りませんで したので, 「ねえ。君,泣かなくたっていゝよ。君は僕より,ずうっとえらくて,きれい なんだからね。」と申しました。すると,そのお母さんは, 「さうとも」といって,ポリシネロをにらみつけました。

「やあい。泣き虫。弱虫。お前んとこのお酒は水がまじってらあ。だから,い

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つも,あんなに.,貧乏してるんだよ。」と,その子供は,ポリシネロが,泣きさう になってゐるのを見て急に,いばり出しました。ポリシネロは,悲しくて堪りま せんでした。そして黙ってうちへ帰りました。 帰ってから,間もなく晩の御飯になりましたが,ポリシネロは,御飯がのどに 通りません。だまって考へてをりました。アントニオ・と,マリアとは心配して, 「どうおしだい? ポリシネロ。犬にでも,ほへつかれたのかい。」ときゝまし た。ポリシネロは,元気をだして, 「いゝえ。僕,詩人にならうと思って,考へてるんです。」 「詩人たあ,歌よみのことかい。」アントニオは,おかしくなって笑ひました。 「えゝ。ですから僕に,本を買って下さい。僕,え.らい人になりたいんです。」 と言ひました。マリアは,自分のもってゐた,古い本を出して,ポリシネロに渡 しました。ポリシネロは,それを持って,早速,外にとび出して行きました。 [コ ポリシネロは,その本を,古本屋にもって行って,お金にかへてしまひました。 そして,それで,フロックコ・−トを買って,すました紳士にばけて,とことこ得 意になって歩いてゆきました。すると,むかふから,ボツチヨニがやって来まし た。ボツチヨニは,アントニオ酒場のコックでポリシネロの友達でした。それ で,ポリシネロは,そばへかけよって, 「おい,ボツチヨニ,俺の恰好をみておくれ。」といひました。ボツチヨニは, おどろいて, 「これは,私の知らないお方。なかなか立派だなあ。」といひました。ポリシネ ロは, 「おい,大きく目をあけろ,俺ほ,ポリシネロだ。」といきなり帽子を脱ぎまし た。 「おや,ポリシネロさんか。いやあ,立派になったなあ。」と,ボツチヨニは,

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