• 検索結果がありません。

現代マレーシアにおける政治的リーダーシップの史的特性分析 : 政治エリートの分析を通してみたマレーシア政権の特性、1967年〜1977年 [Malaysia’s Political Leadership, 1967-1977]

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "現代マレーシアにおける政治的リーダーシップの史的特性分析 : 政治エリートの分析を通してみたマレーシア政権の特性、1967年〜1977年 [Malaysia’s Political Leadership, 1967-1977]"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東南 アジア研究 15巻 2号 1977年9月 資料 ・研究 ノー ト

現 代 マ レ- シア に お け る政 治 的 リー ダ - シップの

史的特性分析

一 政 治 エ リー トの分 析 を通 して み たマ レ

-

V ア政 権 の特 性 ,

1967*∼1977

*J ) 中 野 秀 一 郎*

Mal

aysi

a'

sPol

i

t

i

c

alLeaders

hi

p,1967・

1977

Hi

de

i

c

hi

r

o

NAKANO

Thisarticleattemptstostudythecontinultyanddiscontinultyinthecharacteror Malaysia'spoliticalleadershipfrom 1967to1977byanalyzingthepoliticalelites)mainly cabinetmembcrs・ Thisperiodwasselected becauseitwasduringthistimethatthe so-called`MayThirteellthll-Cidellt'occurredin 1969,andthecharacterorMalaysia'S politicalleadershipchangedsignificantly,fh)m theleadershipofTunkuAbdulRahman to thatorでun AbdulRazak.

Theanalysisconsistsorthreeparts:1)hisotricalexaminationorthepoliticalbac k-groundorthisnewlyborncountry,especiallyintermsorTheAlliance,Communalism andSocialistMovement,2)analysisofpoliticalelitesbefore'MayThirteenth'tochar ac-terizethepoliticalleadershipof-TunkuRahman,and3)analysisofpoliticalclitesafter 'May Thirteenth'to clarify the characteristicsofTun Razak'spoliticalleadership, which,thewriterbelieves,remainsunchangedandvividin Malaysia'Spresentrcglme orDatukHusseiI10nn.

A

s itiswidelyknowll,Malaysia'spoliticalstabilityislargelydependentuponthe successfulcoexistenceordifferentracialgroupscomposlngthismultiracialsociety,parti -cularlyMalaysalldChirleSe. TheAlliance,ltissaid,wasacompromiseorupperclass * 関西学 院大学 社会学部 I)この論 文 は ,筆者が外務省調査 員 (在 マ レ-シア E]本 国大使館)として ま とめ ,外務省調査部 に1977年3月 に提 出 した 「報告」 (現 代 マ レーシアにおける政治 エ リー トー政治 的 リーダ ーシ ップの史 的特 性分析-) に基づ いて,これ に加 筆 ・訂正を加 えて完成 した もので ある。在 勤 中 ,筆者 の調 査活動 に全面 的 に協力 を惜 しまれ なか った在 マ レーシア EJ本 国大使館 の館 員諸氏 ,特 に原栄吉 大使 には この機会 を借 りて感 謝 の意を表 明す るO また この期聞 申 ,マ レ-シア研究 に関 して内外 の諸兄 ・諸先輩 か ら多 くの御教示 を い ただいた。 ここにい ちい ち名前を掲 げる余裕 はないが ,この機会 に改 めて謝意を表 す る次第で あ る。な お ,以下 の論文 を既 に公表 してい るので,この論文 と併せ参照 して いただ けれ ば率 いで ある。 「いわゆ る コシ ュナ リズ ムと国家統合 につ いて」『外務省調査月報』第17巻 3号 ,1976年 12月 ; 「ブ ミプ トラ優先政策 と華人 の動 向

『国際経済』 (臨時増刊)通巻 158号 ,1976年 12月 ; 「第三 次 マ レー シア5ケ年計画 とマ レー シア経済学 会」『アジア経済』第18巻 4号 ,1977年4月 ; 「フセ イ ン ・オ ン-マ- テ ィール体制下 の マ レーシア」『アジア ・クオ ータ リー』第9巻3号 ,1977年7月 。 なお表記 に関 してい うと,マ レーシア関係 の地名 ,人名 はい ちお うローマ字 を用 いた.マ レーシアの 地名 申州名 につ いて はいちい ちこれ に 「州」 とい う言葉 をつ けていない. また ,現代 マ レーシア語 で は 未 だ若干 の言葉 に綴 り字 の統一 が ない (例 Tengku-Tunku,Datuk-Datoな ど)0

(2)

東南 アジア研究 15巻 2号

elitesfrom each racialcommunity,andwassuccessfulunderTunku'sleadershipuntil

'MayThirteenthIncident'in 1969. AfterthreeyearsofEmergencyduringwhichTun Razaktookpower)hispoliticalleadershipappeareddifferentfrom thatofTunkuinthe rollowmgtwopoints:firstly,hetriedto consolidatethegovernment'spowertooppress thenatiolュ'stwo enemies,Commurlalism and communism respective一y,and secondly,

hetriedveryhardtosuppoI・t`BumlputraS'toeliminatetheirdisadvarltageSineヽ・el・yday life. Thelatterpointwassetintoaconcreterorm withtheNew EconomicPolicy(era

-dication ofpovertyregardlessorraceand restructurlngSOCiety byabolishingtheold socialstructureinwhicheconomicfunctionandracialpositionareidentical),whichwas energetically carried outduring theSecond M alaysia Plan,from 1971to 1975.

AnalyzlngCabinetmembersofTunRazak'sreglmeil11975,thewriterproposesthat therearefivecategoriesofpoliticalelites,1)themodernbureaucraticelite,2)thetradi -tionalIslamicelite,3)themodern-traditionalelite,4)theadaptivetechnicalelite,

and5)theelitesfrom EastM alaysia・ Healsosuggeststhattheuprisingofthethird category orelitesmainly characterizescontemporary M alayslan politicalleadership) asevidencedbytheselectionorDr.Mahathir,atypicalfigureorthethirdcategory,as deputy prlme ministerby Datuk Hussein Onn in early 1976・

In conclusion,thewriterobservesthatMalaysia'spresentpoliticalleadership is acomplexorpluralpoliticalelitegroupswith themodernニーraditionalelitegroupas itscore・ Thisgroupisthemostpolitically-oriented,withthespecialcharacterormoder -nlty,aSWellashavingeasyaccessibilitytothelocalM alays,alldbeingsurroundedby modcrnbureaucraticelitesandtraditionalIslamicelites,whichinturnaresurrounded byotherelitegroups・

ま え が き 国家の権 力的職能機能が社会のあ らゆ る部門 におよび, しか も経済発展 に しろ国家統合 に し ろ,それが 置かれた国際状況 の中で きわめて緊急性の高い要件であ ってみれば, 「強力で能率 的な

政治的 リーダー シップの重要性 はいやが上 に も高 ま らざるを えない。 ま してや,国民大 衆の大 部分 は末 だ村落の伝統 的な生活か ら完全 に抜 け出す ことがで きず にい る状態で は,酎 め た政治的 エ リー トの手腕 が国家の存亡 に直接的 な繋が りを もっ ことは明白であ る。2) マ レー シアは,ASEAN 諸国の中で はいわ ば優等生であ るといわれ, 経 済 発 展で も国家治 安の維持 で も,独立以来着実 な成果をあげて きた と評価 しう る。 それ が主 と してマ レー人 と華 人の利害 と勢 力が括抗 す るいわゆ る多人種社会 という環境 の中での成果であ ってみれば, なん と して もこの 国を指導 して きた政治的 リ-ダ- シップの優秀 さが賞賛 され て しか るべ きであろ う 。 政治 エ リ- 卜 (主 と して閣僚) の具体的分析 を通 して,その政治的 ])-ダー シ ップの性格 と 2)今日, 「政治権力」が多かれ少なかれ 「正当な物理的強制力の独占」に基礎を置くことは否定されない にしても,これを 「政治体系の能力」とする解釈はT.Parsonsを中心に一般化しており,さらにエリー トの機能を含めてこれをサイバネティックスの観点から解釈することも試みられている。

T・Parsons,"OntheConceptofPoliticalPower,"in T・Parsons,SociologicalTheory&ModernSociety, TheFreePress,1967;GIA・Almond,"A DcvelopmcntalApproachtoPoliticalSystems,"WorldPolitics,

(3)

中野 :現代マレ-シアにおける政治的 リ-ダーシップの史的特性分析 変 化 (不 変化) を過 去10年 間 くらいの時 間幅3)で解 明 しよ う とい うの が本 稿の 目的で あ るが, 本 論 に先立 って若干 この 国の政 治全 体 につい てその特徴 的 な点 を述 べ てお きたい

4

)

い うまで もな く,- 国の政治指導 はその 国の過去 の政治 的体験 や 「政治文化」 に強 く拘束 され てい るも の なので あ る。 さて,現代 マ レー シアの政 治社会 についていえば以下の諸点 が政治的 エ リー トの性格 決定 に 重 要 な関連 を もってい る。 (1) イギ リス植民地支 配か ら漸次 的 に権 力の 委譲 が あ って独立 を獲得 す る過程で,反共 主 義 が国是 と して定 着 した こと。 (2) 植民地 政府か ら受 け継 いだ行政官僚 制 (その下部 で機能 したサル タ ン官僚制 も忘 れ て はな るまい。 半 島部一 海峡植 民地 を除 く- で は イギ リスの支 配 はいわゆ る間接支配 で あ った) が よ く機能 した こと。 (3) 多人 種 社会 (複合 民族 国家) で あ りなが らマ レー人 の伝統 が保持 され,特 にサル タ ン 制 に基 づ く王制の温存 は マ レー人 エ リ- トに有 利 な諸条件 を提 供 した こと。 (4) 軍隊 ない しは警察 (暴 力装 置) が いわ ば文官支 配の もとに置かれ て きたため, これ が (他の 国 々, 例 えばタ イや イ ン ドネ シアなどの場合 のよ うに) 政治 エ リー トを輩 出す る (あ る い は政治権 力その ものの) 主 た る源泉 とはな らなか った こと。 (5) 人種間の均衡 と調 和が与党 (国民統一 戦線) の-一貫 した 「指導 理念 」で あ ったか ら, コ ミュナ リズ ムは共産 主 義 と共 に抑 圧の対象 であ った こと。

(

6)

加 えて, イス ラム国家 と しての タテ マ工 と人種集団の 共存 を説 く 「マ レー シア ン ・イ デ オ ロギ ー」が現 実的 には しば しばいわ ば政争の具 と して問題 を起 こ した こと。 これ らの諸特 徴 が まず リーダ ー シ ップ分析 の前提 を なす と思 われ る0 次 いで,今 日の マ レー シアの政治状 況か らみ て,政治 エ リー トを と り囲む環境 とか れ らに課 せ られ る課題 を一 瞥 してお こう。 ごく大 雑把 にいえば,独立 を達成 した Rahmanの時代 は去 って, 内 に外 に現 実 的 な諸 問題 に対 処す るため職 能 的 に優れた政治的 リ-ダ-が求 め られ始 め てい る, とい ちお うは判 断 して 3)1957年の独立達成以来,いちおう一貫 していたRahmanの政治的 リーダーシップが1969年の 「5月13日 事件」によって中断し,これを引き継いだRazakが再び1976年早 々に病 に倒れて現在のHusseinOnn -と政権が引きつがれたOまた,1971年に始まる第2次マレ-シア計画以後,内政における 「ブミプ ト ラ優先政策」の実施,外交における 「非同盟中立化路線」の推進など,マレーシア社会の重要な軌道修 正がこの時期に現出して くる。私見によれば,1970年を契機としてマレーシアが大きく変わり始めてい る.196ト1977年という暗闇幅の選択はこうした認識に基づ くものである. 4)第2次世界大戦の後から1969年総選挙 (その直後に人種暴動が発生)までのマレー (マレーシア)の政 治状況をまとめたものとしては,G.P.Means,M alaJ∫ianPolitics,Hodder

&

Stough ton,1970,1976.そ れ以後についても若干触れているものに,K.YonVorys,DemocracyWit/loutCon∫en∫u∫,PrincetonUniv. Press,1975.があり参考になる。これ 以外 にマレーシアの政 治 的背景 に関して は,K・J.Ratnam,

Communali∫m andthePoliticalProce∫∫inMalaya,Univ.ofMalayaPress,1965,1967;W.R.Roff,The Origi,l∫OfMalaJNaiionali∫m,Univ・ofMalayaPress,1967,1974の2冊が必読文献である。

(4)

豪商 アジア研究 15巻2号 もよ さそ うであ る。 しか し,他方, マ レ-伝統主義の根 は深 く強い ものがあ り, それは この国 があ くまで も体制 として マ レー国家 であ り続 ける限 り,政治的正当性の根拠を ここに求め るこ とが可能 になるか らであ る。 そ こで, 世代交代 とコ ミュナ リズムとが錯綜す る政治権力闘争の 舞台装 置が,基本的 には この国の政治場面で一貫 して重要 な背景 と して存在 し続 け ることにな る。 イデオ ロギー (観念形態)の レベル に限 っていえば,知識人 ・文化人の中か ら数 は少 ないに して も社会主義者や共産主義者 など左翼的 イデオロギーの信奉者が輩 出す ることは きわめて 自 然 な ことと思われ るが,国是が反共であ るためその活動領域は限定 され ざるをえない。 また, こう した人物 に対す る処 置は しば しば権力闘争 とか らま って きわめて複雑 な リーダーシップ内 葛藤を惹起す る可能性 も少 な しとは しない。 ひ るがえ って,人種問題 に目を転 じると,各 々の人種 コ ミュニテ ィの 内部で極右 が分離 して 過激 な運動 に走 る可能性 は常 に存在 す るのであ り,政府を荷 う国民統一戦線の構成要素 (各人 種政党) が,その コミュニテ ィに対 していか に統一的な リ-ダーシップを行使 しうるかが国家 と しての マ レーシアの政治的安定 と緊密 に連 関 してい るわ けであ る。 政治的 エ リ- トに期待 され てい る具体的な国家的課題 と しては ', (1) 社会秩序の確保一犯罪者集団および共産主義テ ロ リス トによ る破壊的暴力を統制す る こと (2) 国民意識の育成-国民の (国家的) アイデ ンテ ィテ ィを確立 し,それ に基 づ く積極的 な社会活動への参加 を確保す ること (3) 国民の教育一 国民の知的 ・技術的能力の開発 と同時 に,政治権 力 (エ リー ト)への正 当性信念を揺 ぎな きものにす ること (4) 経済の発展一生産を高め, 国民 によ り豊か な生活を保障す ると同時 に,富の配分の平 等化 (社会的公正) をあた うるか ぎり実現す ること などを列挙 しうるで あろう。 以上の課題群 に対 して,いか な る政治 エ リー トが,いか なる方 法で,成功裡あ るいは不成功 裡 に対処 してきたか, またその過程で エ リー ト集団 内にいか なる種類の葛藤が生起 し,それが どのような形で終息 してい ったか。 こう した問題をやや歴史的に眺めてお くことが次の作業 に なるわ けであ る。 Ⅰ 国民統一戦線, コミュナ リズム,および社会主義運動 独立後一貫 して与党であ り続 けて きた 「国民戦線

(当初 く連合政党)Allianceと呼ばれ, 現在では拡大 して く国民統一戦線〉Barisan Nasionalと呼ばれてい る-以下 BN と略称) が, マ レー人,華人, イ ン ド人の妥協 ・協調をベースに して成 立 した ことは周知の ところであ

(5)

中野 :現代 マレーシアにおけ る政治的 T)-ダ-シ ップの史的特性分析 るが, それが また 「英 語 で二教 育 を受 け, 西 欧化の影響を もろにかぶ った各人種集団の上流階 層」を代表 していた ことも否定すべ くもない事実である。 この政体 は,基本 的には, イギ リス 植民地か らの漸次的な独立 (英連邦 内に留 まるとい う意味での容英派) とい う路線を選択 した こと, および反 日 ・反英植民地闘争の中核を荷 った 「マ ラヤ共産党」(CommunistParty or Malaya-以下 CPM と略称)を不倶戴天の敵 とした ことでその主 たる性 格が特徴付 け られて い る。

例えば

,

「統一 マ レー全国組織」(UnitedMalaysNationalOrganization-以下 UMNO

と暗称)の創設者であ り,初代総裁で もあ る Dato OnnbinJaafarは Johore保護国の首 席 大 臣 (MentriBesar)の息 子 であ り, み ず か らも 「地区行政官」(Districtofhcer)とし てサルタ ン官 僚 制 の トップ に位 置 していた。サルタ ン官 僚 制 内の 高 級 官 僚 たちはいわゆ る くPegawaiKerajaan〉 として 自他 共 に容 認す る 「上流貴族社会」を形成 していた ことは有名

であ る。5)

また, 「マ ラヤ華 人 協会」(Malaya Chinese As sociation,現在値 Malaysia Chinese Association-以下 MCA と略称)の初代総裁 TunSirTanCheongLockも富裕 な華人 ブ ル ジ ョアジーであ り,1923年 には海峡植民地 (Malacca)の立法評議会議員 に任命 されている が,1935年か ら戦 後マ ラヤに帰 国す る ま で 西 欧 に 遊 学 している。 そのひ とり息 子であ った TunTanSiew Sinは1961年以来 (1974年 まで)MCAの総裁であ ったが,かれはいわゆ る くassimilated Chinese〉といわれ, マ レー語 (英語 は もちろんであるが)以外 には,北京語 も その他の方 言華語 も話す ことがで きないので, しば しば華人を中心 とす る反対派 に攻撃 され, 榔捻 され るといわれているのである。 もちろん, こうした支配体制 に対 して 根 強 い 反 対 派の攻 勢 があ った ことは容易 に想像で き る。 それ は一つ には, ブル ジ ョアー支配 に対す る下層階級の 「階級闘争」 として現 出 した し, 他方 では人種協調 (妥協)主義 に対 す る各人種集団内部の コ ミュナ リズム として現 出 した。 前者 についていえば,今 日唯一 の有力な野党 (1977年2月現在下院議席154の うち9議 席を確 保 している) として存在す る 「民主行動党」(DemocraticActionParty-以下 DAPと略称) の政治運動が この系列 に属す るといえよう。DAPは1966年 もと 「人民行動党」(People'sAc

-tionParty-以下PAPと略称)のマ レー半島支部のメンバ ーであ ったマ レーシア市民 によ っ て創設 された。綱領的には,各人種集 団の平等な政治的権利の主張 と教育 における多言語主義

(Multi-1ingualism)を標傍 してい るか らタテマ工 としては Barisan Nasional(以下 BN と 略称)の与 党 となん ら乳畔を生 じる余 地 は な いよ うにみえるが, 現 実 的 に はマ レー 人 政 党

UMNO を中心 に してマ レー人優先政策 (あるいはマ レー」ヒ)の路 線 を とる与 党 に対 して結

5)A.K.Bador,HPoliticalAuthorityandLeadershipinMalaySocietyinPerak,Malaysia,"F昭和44年度 海外客員研究員報告書』アジア経済研究所,1970.

(6)

東南 アジア研究 15巻2号

果 的には華人 (特 に下 層 階級)の諸権利を守 るとい う役割を荷 な うことにな ってい る。 それ も,

MCAに納得 で きない華人を中心的な支持層 とす るといわれてい るか ら,社会主義的な色彩 と 華人 コ ミュナ リズム とが複雑 にか らみ合 ってい るとい うわ けである。 ちなみに, ジ ャーナ リス ト出身で 現 在 DAP の書記長であ る Lim KitSlang (1941年 Johore生れ) は元 シ ンガ ポール記者組合 の委員長で もあ り, マ レーシア青 年一社 会 主 義 者 同 盟 (Young Socialistsof Malaysia-以下 YSM と略称) の会長で もあ った。 また KualaLumpur市 区の国会議員 と

して活躍 してい る同党の副委員長 LeeLam Thye(1946年 Ipho生 れ) もYSM の創設 メ ンバ ーであ った し, またかつて全国商業労働者組合 (NationalUnionorCommercialWor k-ers)の書 記 長 (executive-secretary)とい う経 歴 が示す よ うに社 会 主 義 運 動 (労 働 組 合運 動)の流れを 引いてい るのである。

1969年総選挙では,DAPは 「人 民 進

歩 党」(People'sProgressiveParty-以

下 PPPと略称 ),および 「マ レーシア人 民運動」(Gerakan RakyatMalaysi

a-以下 GRM と略称) と選挙協定を結 び, 連邦議会で13議席, 州議会 レベルで は31 議席を獲得 して,MCA の後退, ひいて は BN の内部分裂 か ら 「5月13日事件

を惹 き起 こす く引き金) の役割を涯 じた ので ある (表 1)06) 社 会主義運 動全体 としては, 左翼 の極 に1930年 に成立す る (主 として下 層華人 を中心 に した)CPM が古い歴史を もっ て い る し, 「人 民

(People,あ る い は Rakyat)とか

,

「労働者」 あるいは 「社 会主義」を冠せ た政党名は枚挙 にい とま 表 1 1964年,1969年,1974年の総選挙結果 一連邦議会政党別議席獲得数-* 】 1964 丁 1969 ≒ 1974** Alliance UMNO MCA MIC FAS PPP DAP 89 GRM r 0 SF PA玉) UDP Vacant 2 1 1 0 66 F nu EiiZ I EiiiZ 1 3 2 2 4 5 1 1 ′\ /_\ ( 13 8 0 0

0

1

104 ) ) ) ) ) 1 0 4 4 1 9 6 2 1 ( ( ( t ( (4) Pekeams1 1 104 1 104 葛 114 * ただ しSabah,Sarawakは除 く。 **1974年選挙では,BNはUMNO,MCA,MIC のほかに PAS,PPP,GRM を含む。 なお,( )内はAllianceの票の内訳である。 Allianceは今日発展的にBNと呼ばれている。 がないが, 基本的 には こうした近代 的 ・社会主 義的 イデオ ロギ ーは,一方では知識人層の観念 的運動 として,他方で は具体 的な労働者階級の運動 として展開す るので,民衆 の大半を 占める 土着的マ レー人 (かれ らは主 として伝統的な集 落 Kampongに住居 し, 農業や漁業 に従事 し て きた) の中へ は十分な定着をみ ることがなか った とい って よい。 現在ではBNの一翼 を荷 ってい る GRM は文字通 り 「マ レーシア人艮運動」で あ り,1968 6)1969年総選挙の詳細な分析としてほ,R.K.Vasil,TheMalaJ∫ianGeneralEleclio

l

"

f 1969,OxfordUniv.

(7)

中野 :現代 マレーシアにおけ る政治的 リーダーシ ップの史的特性分析

年 に 「中庸」を志 向 した知識人 グループ によって結成 され るが, その リーダーは1958年か ら短 期間 MCA総裁 の要職 を担 った こと もあ る医師の Lim ChongEu-1919年 Penang生れ) で,1969年選挙 ではPenangの州政府を掌握 し,Lim 白身 は同州の 首席大 臣の地位 を今 日に 至 るまで保持 してい るのである。Lim は名門 Edinburgh大学 医 学 部を卒業 した知識人であ るが

,周

知の通 りPenangその ものは華人勢力の強い ところであ り,現 に Lim の 選 挙 区 も 華 人の割合が83.3% (1969年総選挙時)である。 そ こで, この場合 も, こ うした知識人の運動

と華人 コ ミュナ リズム との繋が りが ど うして も問題 にな らざるをえない とい うことにな る。

「マ ラヤ労働党」(LabourParty orMalaya)は1955年 の創立 と歴史 は古いが, マ レーシ ア連邦 の結成 に反対す るな ど政治の本 流か ら外れ るところがあ り,結果 的 には弾圧,解体 の道 を た どり, その実質 的な勢力は DAPと GRM に吸収 され る ところ とな った0

これ に対 して,現在で もシ ンガポールの政権を撮 るPAPは1954年 の創立で,50年代 には左 翼 的 労 働 組合 の 支 持 を えて急激 に伸屈 した。7)い うまで もな く, その リーダーは名門

Cam-bridge大学で法律を学 び,秀才の誉 まれ高か ったあの LeeKuan Yew(1923年 Singapore

生 れ)であ り,若 くして (主 として法律顧 問な どと して)労働運動 に従事 し, アジアにおける 社会主義運動の重要な指導者 の一人 と もくされた知識人であ った。 しか し,1960年代のは じめ には華語で教 育を受 けた左翼 の人 々が党を離れて社会主 義 戦 線 (Barisan Socialis)を結成 し た ことで も分か るよ うに, コ ミュナルな運動が ここで も統一 的な社会主義政党の完成を阻んだ といえ るのであ る。

土 着マ レー人 との閑適でいえば,この種 の社会主 義政党の運動 は1955年AhmadBoestaman

によ り創設 され た 「人民党」(PartiRa'ayat)によ って代表 され よ う。 Boestamanは過 激な

独立 の闘士 として知 られ,かれが人民党を結成 したの も英 国 による7年間 の投獄生活を終 えた 後の ことであ った。 「流血 による独立」(MerdekaDenganDarah)を も辞 さな か った この

独立 の闘士 は人民党 の結成 によ って農本社会主義 (AgrarianSocialism)を意図 した といわれ てい る。 しか し, こうした過激な社会主 義運動 は しょせん マ レー農民 の支持す るところ とはな

らなか った。1968年 にはマ レー知識 人 層を代 表 す る Kassim Ahmad (London Schoolor Economicsの マ レー学講 師で もあ った)がかれを 引き継 ぐが,知 識 人 の観 念 的 運 動 以 上の

もの にな ることがで きぬままに,Kassim はマ レーシア人民 社 会 党 の 党 首 として昨 年 (1976 年)ll月,元副大 臣のふた りのマ レー人政治家,すなわち 元 科 学 ・技術 ・環境副大臣 Datuk AbdullahAhmadと元労働副大 臣 AbdullahMajidと共 に国 内治安法 (InternalSecurity Act)によって逮捕 されて しま った。 (1977年6月現在,詳細不明のまま拘 留 中。 ちなみ に こ の法律 によると

2

年間はまず無条件で拘 留で きるのであ る。)

7)SingaporeのPAPについては,PangchengLian,Singapore'∫People'sActionPar_tγ,OxfordUniv・Press,

(8)

東南アジア研究 15巻2号 マ レーシア社会 における左翼政治家の夢で もあ る 「労農同盟

(村落 のマ レー人農民 と都市 の華人労働者 との提携- マ レーシアにおけるコ ミュナ リズム克服の道は これ しかない といい 切 る知識人 もい るほどで ある-) は,1957年 の人民党 とマ ラヤ労働党の提携 による 「社会主義戦 線」(SocialistFront)の結成 によ って一時 は現実的な政治軌道 に乗 り入れたかに もみえたが, 基本的 には前者が マ レー農民 の支持 を とりつ けるのに失敗 した こと, また 言 語 や教 育 の 問 題 (きわめて コ ミュナ リステ ィックな争点)を め ぐって両者 の問 に長い対立抗争が存在 した こと もあ って, 「労農提携」のマ レーシア版 は コ ミュナ リズムの壁の前 に もろ くも崩れ落 ちた とい うことにな る。 か くして,左翼的 ・社会主義的な政治エ リー トは,人種集団を横断す る人民的な支持をえ る ことが ほ とん ど不可能 であ った上 に, もし (政府の共産主義者弾圧を逃れて)生 き残 るとすれ ば,やや穏健化 した形で コ ミュナ リステ ィックな基盤の上 に定着す るほかはなか った と結論す ることがで きるであろ う。 従 って,第一 にあげた DAPの 事 例 は そのままマ レーシア社会 に おけるこう した運動の典型を示唆 してい るとい うことがで きるわ けであ る。 他方,典型的な コ ミュナ リズムの政党 運 動 として は 「マ レーシア汎 イス ラム 政 党」(Partai lslam SeMalaysia-以下 PASと略称)を あげ ることになにび とといえ ども異論 はあ るまい

と思われ る。

PASはェジブ トの IkwanaトMuslim や イ ン ドネシアの Darullslam のようにイス ラム 教を国家体制 に具琴=ノよ うとす る, いわばイス ラム-マ レー主義極右 といえる政党であ り,主 として マ レー人 の人 口比の高い Kelantanを 中心 にイス ラム教師 によ って 組 織 された。 当初

UMNO と協調 していたが,UMNO の MCA に対す る妥 協 に抗議 して分離。1959年 には

Kelantanと Trengganuを制 して両州の政府 を握 ったが,前者 では1964年,1969年 と引き続 きその勢力を維持 したのである。 現在 PASは BN に参加 してい るが, その過激 な メンバ ー

の中には BNの人種協調路線を弱気 とす る空気 も強 く, 目下連邦政府 の土地 ・地 域 開 発相を 務 め る DatukHajiMohd.AsribinHajiMuda((PAS総裁)がか ろ うじて これを抑 えて い るといわれてい る。 ちなみ に,PASの現党首DatukAsriは,1923年 KotaBahru生れ,

当地 の MajlisUgamalslam Schoolで教育を受 け, 日本語 も勉強 してい る。 教 師, ジャー

ナ リス トの経験を もつが, イス ラム教 の行政 に も携わ り,1973年7月 には 「同家 イス ラム問題 会議」(NationalCouncilofIslamicAffairs)の副議長 に任命 されてい る.

総 じていえば,BN政府が人種協調路線を国是 として コ ミュナ リズムの台頭 には非常 に警戒 的であ ったか ら, こうした運動 は上 にみたよ うに地域 と深 く結びつ きつつ も,全国的な勢力 と な ることは皆無であ ったOまた, マ レー ・コ ミ_1ナ リズム (例 えばPASの Kelantanおよび

Trengganu支配) と異 な り, 華人 のそれ は都市労働者 階級を中心 とした社会主義運動 と重複 す る傾 向が きわめて強い。同様 に, イ ン ド系 マ レーシア人 の場合 に も労働組合運動 は社会参加

(9)

中野 :現代 マレーシアにおけ る政治的 1)-ダーシップの史的特性分析 へ の重要なテ コであ り,今 日で も労働 組 合 運 動の指 導 者 にはイ ン ド系が多い。 これ はひとえ に,華人, イ ン ド人が近代的産業部門の労働力 とな り, また近代的イデオ ロギ ーの影響 に容易 にさ らされ る社会的状況 にあ ったか らであると思われ る。 マ レー農民 には こうした下部構造 的 基盤が存在 しなか ったことはい うまで もない。 か くして,BN は独立以来何回か上 にみたよ うな さまざまな運動の挑戦を受 けたに もかかわ らず

,1

9

7

4

年総選挙8) (これは

1

9

6

9

年 の人種暴動の教訓 と石油危機以前の経済的好況 とを踏 ま えていた)を機 に,PAS,GRM を 自らの 陣 営 に 取 り込む と共 に,東 マ レーシアにおいて も

Sabahにおける 「サバ人民統一党」(BersatuRakyatJelataSabah-以下Berjayaと略称) の結成をは じめ として,積極的に中央政府の力を強める方 向で成功裡 に政治状況を展開 させ た のである。

Rahman政権末期の政治的 リーダ ーシ ップ ーその現在への連続性 ・非連続性一

連合政党 は,かつては若干 の トップ リーダーたちの個人的な結びつ きで支 え られてい るとい われていた。 すなわ ち,Tengku AbdulRahman了run AbdulRazak,でunDr.Ismail,

Tun Tan Siew Sin,Tun Sambanthan,Tan SriTemenggongJugah,DatoStephan KalongNjngkan,DatoDonaldStephens,それ にTun Mustaphaたちのサークルがそれ であ る。 リーダー格の Rahmanは Kedahのプ リンス

(

1

9

0

2

年生れ)で,Cambridge大学 で法律を修め,

1

9

5

2

年以来 UMNO の総裁 として活躍

,1

9

5

7

年 の独立をかち取 り, そののち

1

9

6

9

年の人種暴動後 Razakに政権を 引き渡すまで終始首相の座を守 り続 けた。9) 当然 の こと なが ら,かれ にはサルタ ンの息子 としての伝統的権威,法律家 としての近代的教養,建国の父 としての国民的名声がその一身 に集ま っていたわ けである。 そのRahmanの統治末

の政権の性格を解 明す るために,次 に

1

9

6

7

年の Who'swhoによっ て内閣の構成を一瞥 し, その メンバ ーを現在 との連続性 ・非連続性の観点 か ら分析 してみるこ とに しよ う。 副大 臣を含めた

21

名の閣僚の構成 は複雑な 「雑居世帯」であ り,これはそのままRahman政 権の妥協的性格を表現す る人的構成 にな っているO もちろん この雑居性はマ レーシアのような 複合社会 における政権の性格 としては きわめて普遍的な現象であることは否定すべ くもない。 外交,国防,国内開発を 首相, 副首相でお さえたのは当然であ るが,UMNO,MCA,MIC の均衡に意を もちいているほかに,Iban族 の苗長を登用す るな ど東 マ レーシアU)抱 き込みに

8)1974年総選挙 の分析 としては

,C.

Pillay,The1974 GelleralElectioTtS inMalaysia,The Instituteof SoutheastAsianStudies,1974がある。

9)最近かれは回想録をまとめて出版した。 TunkuAbdulRahman Putra,LookingBack,PustakaAntaraタ

(10)

東南 アジア研究 15巻2号 表2 CABINET LIST(1) (AccordingtoWho'sWho1967)

TUNKU ABDULRAHMAN PUTRA ALIH

A

J

I

BNIAL-MARHUM SULTAN ABDULHAMID HALIM SHAH,氏.0.M .

TUN HAJIABDULRAZAK BIN DATO HUSSEIN AL-AJ

TUN TAN SIEW SIN,∫.P.,S.M.N.

TUN V.T.SAMBANTHAN,P.M .N.,S.M.N. TAN SRISARDON BIN HAJIJUBIR,P.M.N. TAN SRIONG YOKELIN,P.M .N.,M.P.

ENCIK MOHAMED KHIR BINJOHARI ENCIK BAHAMAN BIN SAMSUDIN DR.LIM SW EEAUN,∫.P.

TUAN HAJIABDULHAMID KHAN BIN HAJISAKHAWATALIKHAN,∫.M.N.,∫.P. ENCIK KHAW KAIBOH,PJ・K.

TAN SRITEMENGGONGJUGA ANAK BARI -ENG P.M .N.,P.N.B.S.,P.D.K.,0.B.E.

ENCIK V.MANICKAVASAGAM,J.M.N.,PJ.K. ENCIK SENU BIN ABDUL RAHMAN

TUAN HAJIMOHAMED GHAZALIBIN HAJI JAW I

ENCIKABDULRAHMANBINHAJIYA'AKUB TUAN HAJIABDULKHALID BIN AWANG OSMAN

ENCIK SULAIMAN BIN BULON,P・J.K. DATO ENGKU MUHSEINBINABDULKADIR ∫.M.N・,D.P.M .N.,PJ.K.

ENCIK LEESIOK YEW,A.M.N.,P.J.K. DR.NG RAM POH,∫.P.

PrimeMinister

MinisterofForelgnAffairs DeputyPrimeMinister MinisterofDefence

MinisterorNational& RuralDevelopment MinisterorFinance

MinisterorWorks,PostsandTelecommuni -Cat10nS

MinisterorTransport

AmbassadorExtraordinaryand Plenipote n-tiarytoUnitedStatesandMinisterwithout Portfわlio

MinisterofF.ducation MinisterofHealth

MinisterorCommerceandIndustry MinisterorWelfareServices

MinisterorLocalGovemment&Houslng Ministerf♭rSarawakA鮎 irs

MinisterorLabour

MinisterorlnfbrmationandMinisteror Culture,YouthandSports

MinisterorAgricultureandC0-Operatives MinisterorLands& MinesandJustice AssistantMinisterwithoutPortfわlio AmbassadortoWestGermany

AssistantMinisterfらrNationalandRural Development

AssistantMinisterorCulture,Youth and Sports

AssistantMinisterorEducation AssistantMinisterorFinance

も努力 して い る。 内閣 の平均年齢 は約48.9才で あ る。

さて, これ らの人物を1976年11月 現 在 の HusseinOnn内 閣 の 顔 振 れ と比 較 してみ ると (もっともこの内閣の大半 は Razak内閣を そのまま引き継 いだ格好 にな ってい るが),副教育 相 の Lee SiokYew (1924年 Selangor生れ)が今 や Tan Sriの称号を もって保健相 (覗

MCA副総裁) の地位 に, また労 相のV・Manickavasagam (1926年 Selangor生れ)が同 じ くTanSriとな って通信相 (現 MIC総裁) の地位 にあ るのを除 くと,他 はすべて閣僚 のポ ス トか ら退 いて しま った ことにな る。 もちろん,党役員や州 レベルの要職 も政治権力の観点 か らすれば決 して無視 しうる もので はないが, それ に して も現役の連邦政府 レベルの閣僚 となれ ば, その影響 力はい っそ う強 く大 きな ものであ るといい うるであろう。

(11)

中野 :現代 マレーシアにおけ る政治的 リ-ダ-シ ップの史的特性分析 MIC を代表 して終始閣内に留まっているのであ るが,かれ ら以外 に主 として UMNO の中 で今 日で も有力な人物であるとみな され うるのは以下の人 々である。 まず,Rahmanは政府のお 目付役,党の長老 としていまだ に様 々な行事 に顔 を出す。Tun Tan Siew Sin(1916年 Malacca生れ) も政府 の経 済 顧 問 として, またマ レーシアの資本 家 ・経営者のチ ャンピオ ンとして活躍 中である。 しか し, この二者の政治的権力は 「実質的に は」往年の強 さを もっていない と判断 しうるであろう。共 に 「古 き良 き時代」を代表 した象徴 的存在である。 郵政相の TunV.T.Sambanthan(1919年 Perak生れ) は1972年 に国家統一相 とな った が, その後 これが国家統一委員会 (NationalUnityBoard)とな ると共 にその委員長 とな っ た。政治権力か ら遠のいた ことは否定すべ くもなか ろう。

教育相で当時 UMNO の書記長で もあ った Mohd・KhirbinJohari(1923年 Kedah生 れ) はその後 も商工相 (1969年)な どを 歴 任 し,党 長 老 として も,UMNO の政治家 として も国民的な人気を維持す るが,1973年米国大使兼 国連大使 として転 出 してか らは政治権力の中 枢か ら離れて しまった。 一昨年帰国後 も故郷の Kedah (Kedah Tengah選挙区) 出身の国

会議員 としての地位 は保 っている。

いずれ に して も,以上の 「01dGuards」たちは1969年以降漸次政 権の中枢か らは遠 のいて い った とい うことがで きよ う。

これ に対 して,1954-65年 には UMNO 青年部の リーダーで もあ った運輸 相の Tan Sri Sardon(1917年 Johore生れ) はその後保健相, 通信相, 国連代表な どを務 めたが,現在で は Penangの Governor(サルタ ンのいない Sarawak,Penang,Malaccaではこれ に相当 す る州の元首がGovernorである。Sabahではこの要職を TheYangDi-pertuaNegaraと い う)であ り, また土地 ・鉱山相兼法相のRahmanYa'akub(1928年 Sarawak生れ) は 「5

月13日事件」の後教育相を務 めて国立大学 (UniversitiKebangsaan)を創設 し,高等教育 に おけるマ レー語 化を促進す るな どマ レー化政策の実施 に一役買 った後,Sarawakの首 席 大 臣 として故郷 に帰 った。両者 は共 に連邦政府か らほ退 いたとはいえ,地域的にはい っそ う強固な 権力基盤を もつ ようにな った といえよ う。 いまひ とりの 重 要 人 物 は,情 報 相 兼 文 化 ・青年 ・スポーツ柏であ った Senubin Abdul Rahman(1919年生れ)である。かれ は英 国 系 の 教 育が幅を きかせ たマ レーシア ・エ リー ト の中ではやや異色であ り,米国 Ca】ifbrnia大学で 政 治 学 を 修 めた 後, 在 イ ン ドネシア大使 (1957年),在 ドイツ連邦共和国大使 (1962年)を経て政界人 りした。1971年 まで UMNO 青 年部の ))-ダーであ ったかれは,現在 も UMNO 書記長 として党 の 権力 中 枢 に位 置 してい る。 もっとも,1969年総選挙で落選 したかれ は, その後Rahmanの引退 にともな う補欠選挙 で連邦議会 に復帰 したのである。

(12)

東南 アジア研究 15巻2号 以上 に述べた9人を除 くと,Razakのように死去 して しま った ものを含めて,閣 僚 名 簿 に 名前を連ねた ものの うちその大半が この約

1

0

年 の問 に政界 の中心か ら姿を消 して しまった こと にな る。 周知の通 り,Rahmanの政治的 リーダーシ ップは

1

9

6

9

年総選挙直後のいわゆる 「5月

1

3

日 事件」10)で急激 に後退 した。その理 由は,かれの各人種集団に妥協す る 「弱い権力」が結果的 には (主 として華人の) コ ミュナ リズムの台頭を許す ことにな り,BNの分裂を招いて政治不 安 (人種暴動を さえ)を惹 き起 こせ しめた とい う, 「5月

1

3

日事件」責任説である

。1

9

6

9

年選 挙 その ものの結果 は,Kelantanで相変わ らず PASが政権を保持 した こと,それ に Penang

で GRM が 勝 利 を収 めた こと,連邦議 会では DAPが伸びた ことなどは否定で きないに し ろ, よ り直接的な問題 は MCA の華人統制が後退 した結果華 人の票が コ ミュナ リズムの軸 に そ って流れた とい う点であろう (北 部諸州では これがPASへ さえ流れた, そ して PASの運 動資金 は共産主義者が提供 していた とい う観測 さえある)0

例えば,Rahmanのおひざ もと Kedahで は (従来 UMNO を支持 していた華人の離反 によって)情報相の SenubinAdbulRahmanがわずか88票の僅差で落選 したのをは じめ, Dr.Mahathirや Mohd.Zahirな どが敗退 した。 「華人信ず るに足 らず」 といきどお った Dr.Mahathir(当 時 既 に UMNO 執 行 委 員 で あ った) は この事件直後私信

(

1

9

6

9

6

1

7

目付原文 マ レー語)を党首 Rahmanに送 りつ け て,一躍反 ラーマ ン運動の闘士 として登場す る.ll)この手紙 は Rahmanにとって よほど応え た とみえて,かれは しきりにこれ に触れて 自 己 弁 護 を 展 開 している。12)要す るに,Rahman の立場か らすれば,Mahathirのた ぐいは 「intellectuals」を よそお う 「Ultra」 (極左分子) であ って, その主張は 「アジア ・アフ リカ路線

(植民地解放闘争) による 「共和国」の建設 にあると理解 されてお り,その発想は非現実的で,結局 は UMNO リーダーシ ップ内の分裂 を招 き,共産主義者 に利用 され るのがおちであ るような幼稚な議論であるとい うことにな る。 しか し, この手紙 が公開 され, その コピーが流布 され るにおよんで,Malaya大学を中心 と す る高等教 育 機 関において学 生 運 動 (知識人運動)が展開 し,UMNO 最 高 評 議 会が Dr. Mahathirを追放 した ことに抗議 し,Rahmanの辞職を要求す るまで に至 った。Rahmanは

まるで 「飼い犬 に手を噛 まれ る

思いで この状況に直面せ ざるをえなか ったが, 周知のように 全体的な政治状況の収拾作業 は非常事 態 宣 言下 いわゆる 「国家作戦会議」(NationalOper a-tionCouncil-以下 NOC と略称) に任 され ることにな った。

結果的にみれば, それが共産主義者の策動であれ,秘密結社の暗躍であれ,はたまた 「創業

10)この事件については,GohChengTeik,71heMayThirteenthITlCidelltandDeTTl0CraCy inM alaJ∫ia,0Xford UIliv.Press,1971を参照。

ll)K・vonVorys,DemocracyWithoutCoTICen∫uS,1975,pp.37ト385はこの間の事情に詳しい。

(13)

中野 :現代 マレ-シアに おけ る政治的 リ-ダーシ ップの史的特性分析

の苦 しさ」を知 らない若 い世代の台頭であれ,いずれ に して も

5月13日事件」が起 こって し ま った以上 は,Rahmanを指導者 と して独立以来 この時まで政 権を担 当 して きた政治的 リー ダー達の施策の中にこうした事態を醸成せ しめたなん らかの原因があ った ことは確かであ り, この選挙で消えてい った若干の リーダ-逮 (例えば,商工相で MCA副総裁だ ったDr.Lim SweeÅun,厚相の NgRam Pob,MCA書記長だ った Kam WooれWah,MIC書記長 だ った Murugesuな ど)を含めて,BN リーダ ーの交代が必然 的なプ ロセス として進行 して いたことは否定すべ くもないのである。

5月13日事件」以後 -Ra2:ak 政権の政治的 リーダ ーシ ップー 現 在 マ レーシアの 政 治 権 力 を 規 定 す るときに, しば しば 「Rahman-Razak体 制 か ら Hussein-Mahathir体制へ」 とい ういい方が使われ るが,私見 によれば このキ ャッチフレー ズはい ささか精密 さを欠 くよ うに思われ る。 確 か に Razakは Rahmanの片 腕 として国 防 と国 内 開 発 の 要 職 を荷 ない,後 者 の 全 面 的 な信 頼 をえていた ことは事実である。 しか し, Rahmanの 「育ちの良い理想主義」 に対 して,Razakの政 治的 リーダ-シ ップにはよ り現実 的で強引な ところがあ った。Razakが 自己の政権を

5月13日事件

の事 後 処 理か ら出発 さ せねばな らなか った ことが この政 権の性格を規 定 したであろうことは 想 像 に難 くない。 そ し て,現在の Hussein政権 はつ まるところ Razak政権の延長線 上にあるとい うことがで きる のではあるまいか。そこで次 に,Razak政権の政治的 リーダーシ ップを解 明 してお く必 要 が あ る。

5月13日事件」の教訓 は, い うまで もな く, この国では人種 的 コ ミュナ リズムの台頭 は国 家 その ものの命取 りに もな りかねないので二度 とこうした事件を起 こしてはな らない, とい う ことであ った。 基本的には,建国以来 のRahmanの信念 (人種共存主義)がそのまま継承 さ れたが, それを現実化す る戦術では若干の反 省 が 生 まれ たといい うるであろう0Razakの認 識 は ここか ら始 まる。 そ して,時あたか も第2次 マ レーシア計

の実施 が これ に具体化の契機 を与えたのであ る。

5月13日事件」の後,Razakは NOCの議長 に就任 し実質的に国家権力の中枢 に位置 し たわけであるが (非常事態宣言 は この後22カ月,1971年2月22日の国会再会 まで続 く),1970年 9月22日正式に Rahman引退 の後を継いで首相の座 についた.かれの リーダーシ ップは基本 的には次の二本 の柱を基礎 に していた。 -つは, 「強い 権力」を確立 していわば上か らコ ミュ ナ リズムと共産主義 とを抑え込む こと, もう-つは実質的にマ レー人の社会的地位を ひきあげ て真 に人種協調が可能な社会 (公正社会)を実現す ることであ った。 前者 についていえば,1970年のSeditionActを強化 した こと, 国家イデオ ロギーRukune

(14)

-東南 アジア研究 15巻2号

garaを制定 した ことが あげ られ る。すなわち NOCは国家諮問委員会 の協力 と同意の もとに 現 行の SeditionActを強化 して, 王 およびサルタ ンの権威 と特権,市 民 権 に 関 す る法 律, 国語 としての マ レー語 の地位, それ にマ レ-人 の 特 別 な 諸 権 利 に関 して公 に論ず ることを罪

(punishableoffence)とす る, と改定 した (これはFjj会再会後憲法修正

事項

TheConstit u-tionAmendmentAct1971ActA30として定着 した).い ま一つは, 同年独立13周年 にの ぞんで,すべてのマ レ-シア国民 は,神- の信仰,国王 と国家-の忠説,憲法 と法 の遵守,寡 容 と相互敬愛 とい う道徳律 の遵守を 旨とすべ Lとい う国家 イデ オ ロギ ーが国王 によ って公布 さ れた ことであ る。

後者 についていえば, これ は 「新経済政策」 (New EconomicPolicy-以下 NEPと略称) の実施 であ る。NEPその ものは, (1)人種 の別な く貧 困を追放す ること, (2)経済 的地位 と人種 とが重 複 してい る社会構造 を是正 して,公正な社会秩序を再構築す ること, とい うきわ めて常識 的な ものだが, その基底 には,他人種 に比べて経 済 的 に 劣 悪な 状 況 にあ るマ レー人 (Bumiputra)を徹底的 に援助す る とい う意図が あ った。 もちろん, この政策 の実 施 には 「経 済発展

(パ イの拡大) が不可欠で あ ったが,幸 いに して石 油危機以前 の第 2次 マ レーシア計 画実施 期 (すなわ ち1971-1973年) は景気 も順 調であ ったo開発資金の四分の- は農業部門へ 投入 され,米 の二 期作, ゴムの植え換 え,土地 開発な ど, 農民 (マ レー人が圧倒的 に多数を 占 め る) の生活基盤を改善す る努力が続 け られ る一方, 多様 な公社 ・公 団のた ぐい, それ に銀行 な どが相次いで創設 され, ブ ミプ トラ (原住民族を含む) の商業 ・工業部門-の参加が財政的 に支援 され た。それ まで華人や イ ン ド人 にいわば独 占されていた高等教育機関がマ レー人のた めに大幅 に開放 され るようにな るの もこの頃か らであ る。13) いわゆ る 「ブ ミプ トラ優先政策

13)参考までに,60年代末から1972-73年度までの高等教育機関におけるマレー人,華人の構成比を示 して お こ う。 5大学におけるマレー人,華人学生の構成比の推移 (% ) 1967/68Z 68/69 (a)芙ラ蔓 違 い 会 (b環 (C嘆 (d)夫 (e嘆 科 マレー入 学 華 人 立 マレー人 学 華 人 科 マレー人 学 華 人 業 マレー入 学 華 人 30.72 i 32.79 25.03 65.65 54.23 39.82 35.57 52.93 2.0 80.00 40.20 【 48.40 48.73 33.2 51.60 97.40 2.08 60.66 34.78 83.59 12.65 41.89 34.58 52.82 97.22 2.08 77.ll 19.88 84.25 12.21 !72/73年度 47.45 43.00 35.76 52.86 97.51 1.89 87.01 12.39 84.05 ll.73

(出所) TheMalaysian ChineseAssociation,EducationBureau,Memorandum ontheReview of ikeNationalEducation SLy∫tem inMalay∫ia,(Mimeo・),K.L・, January,1975,Appendix2,pp・7-12・

(15)

中野 :現代 マレーシアにおける政治的 リーダ-シ ップの史的特性分析

が本格的 に軌道 に乗 って作動 し始めたのであ った。14)

Razak政権初期 (例えば国会再会の年1971年) には,いまだ Rahman時代の閣僚がその まま居残 ってい るケースが多い。 すなわち,Razak自身が外相 と国防相の要職を兼任 した も のの, 副首相兼 内相 には病 身に鞭打 って暴動後の政局安定 に一役買 ったTunDr・Ismailが, さらに TunTanSiew Sin が蔵相 として, V・T・Sambanthanが国家統一相 として,Tan SriSardonが通信相 として,TanSriOngYokeLil-1が鮒 王所相 として,KhirJohariが 商工相 として,Tan SriTemenggongJudaがサ ラワク問題相 として,Tan SriGhazali Jawi(現 Perak州首席大 臣)は恩 ・漁業相 として,各 々閣僚 のポス トを維持 してい る。 しか

し,現 体 制 との 連 続 性 でいえば,次 のよ うな 顔 振 れ が 既 に 登場 して きている。すなわ ち,

MCA と MIC とを代表 している LeeSiokYew(保健相) と V・Manickavasagam (労 相)は もちろん,現首相の Hussein Onnは この時既 に教育相であ り, 現在で も法相 と検事 総長を兼ねている TanSriAbdulKadirbinYusofは検事総長,GhafarBabaは国家農 村 開 発 相,GhaniGilongが 建 設 相,Dato Hamzahが 文 化 ・青年スポーツ札 TanSri GhazaliShaBeが情報相,DatoOngKeeHuiが技術 ・研究 ・自治相,AbdulTaibが第 一次産業相 とい う具合である。 この閣僚名簿 か ら前者の古参 グループを排 して若干 の新 しい 「血」を導入す ると, それが既 に現在の Hussein政権の骨格を形成す るとい うことになる。 そこで ここでは1975年 の閣僚名 簿 (1973年8月13日に大 きな内閣改造。1974年8月 に総選挙)を手掛 りに,現政権 に直接的に 連続す る政治的 リーダーシ ップの特質を考察 してみることに しよう。 1975年当時の Razak内 閣 は 大 臣21名,副大 臣17名 よ りな り, 蔵 相 を 兼 ね た 副 首 相の

HusseinOnnが既 に 「No.2」たる位 置を 占めている。38名の大臣の 平 均 年 齢 は 約46.5才 と

1

0年 前よ りい くらか 若 返 ってい る。 なかで も特 に若 いのが33才で副農業 ・開発相 とな った

MokhtarbinHashim (現副国防相),35才で副調整 ・公団相 にな ったDatukMohd.Rahmat

(現副貿易産業相)たちであろう。 さて, こうしたエ リー ト集団への登龍門 にはい くつかの種類があるように思われ る。以下 に その類型論を披歴 し,各 々のエ リー ト型の性格を論 じ,併せて今 日の政治権力への関わ りを分 析 して,現政権 の性格診断の基礎作業 にかえたい。 まず第 1は,英 国 (例えば Cambridge大学の Lincoln'sInnな ど)で法律を勉 強 し,棉 国後官僚 ・行政官の階梯をかけのぼ り,同時に政党の中で も着実 に リ-ダーシ ップを掌握 しつ つ大 臣の椅子を ものにす るとい うタイプであ って,極端な場合 には,高級官僚 ・行政官か ら与 党 (BN)を媒介 に して一気 に議 席 を えて大臣に昇 格 してゆ くとい うケース もあ りうる。 以下

14)この間の事情については,ThirdMalaJ∫iaPlan1976-1980,Ch・H,ReviewoftheSecondMalaysiaPlan,

(16)

東南 アジア研究 15巻2号 表 3 CABINET LIST (2) (AccordingtoWIw'∫Who1975J976) TUN HAJIABDULRAZAK BIN DATUK

HUSSFJIN ALHA.I DATUK HUSSEIN ONN

ENCIK ABDULGHAFAR BIN BABA DATUK LEESAN CHOON,K.M.N.,M.P. DATUK HAJIMOHAMED ASRIBIN HAJI MUDA S.P.M .K.

TAN SRIDATUK V.MANICKAVASAGAM

,

P.M .N.,S.P.M.S.,J.M.N.,P.J・K.,M ・P.

ENCIK MOHAMED KHIRJOHARI DATUK HAJIHAMZAH BIN HAJIABU SAMAH S.M .K.,S.I.M .P.

TAN SRIDATUK ONG KEEHUⅠ,P.N.B.S.,

hl.P.

TANSRIMUHAMMADGHAZALIBINSHAFIE P.M .N.,S.Ⅰ.M .P.,P.D.K.

DATUK HAJIABDUL GHANIBIN GIIJONG P.D.K.,∫.P.

TAN SRILEESIOK YEW,P・M.N.,P・J.K.

TAN SRIABDUl.KADIRBIN YUSOF,P.M .N.,

P・J・K.,A・D・K・

PUAN HAJJAH AISHAH BINTIABDUL GHANI,∫.M .N.

DATUK HAJIABDULTAIBBIN MAHMUD P.G.D.K.

DATUK ALIBIN HAJIAHMAD

Y.M.TENGKU AHMAD RITHAUl)DEN AL-HAJBIN TENGKU ISMAIL,P・M.K・ TUAN HAJIMOHAMED BIN YAACOB,M .P.,

P.M .K.,S.M/r.

MR.MICHAELCHEN W ING SUM DATUK MUSA HITAM

DR.MAHATHIR BIN MOHAMMAD,

M .B.B.S.

DATO SRIHAJIKAMARUDDIN BIN HA.TI MOHD.ISA

DATO ABDULLANH AHMAD TAN SRICHONG HON NYAN DATUK MOHAMED BIN RAHMAT

DATO HAJIMUSTAPHA BIN HAJIABDUL JABAR,D.P.M ,S.,J.M .N.,P.∫.,A.M .N.

ENCIK MOKHTAR BIN HAJIHASIJIM TUAN HASSAN ADLIBIN HAJIARSHAD ∫.S.M.

DR.SULAIMAN HAJIDAUD DATUK WAN KADIR ISMAIL

DATUK ABDUL SAMAD BIN IDRIS,∫.M.N.,

P.J.K.,A.M .N.

MR.RICHARD HO UNG HUN

PI・imCMinisterorMalaysla MinisterofForeignAffairs MinisterofDefence DeputyPI・imeMillister MinisterorFinaIICe

Mi‡-isterorAgriculture&Development MinisterofLabourandManpower Ministeroi、Lands,MinesandSpecial Functions

MinisterorCommunications

MinisterwithoutPortfわlioAmbassadortothe UnitedStatesorAmerica

MinisterofTradeandindustry MinisterorLocalGovernmentand Environment

MinisterofHomeAffairs MinisterofTransportandWorks MinisterorHealth

MinisterorLaw andAttorneyGerleral Ministerof-welfareServices

MinisterofGeneralPlannlngand Socio-EconomicResearch

MinisterofCulture,Youth&Sports MinisterofInformation& SpecialFunctions MirlisterorPower,Technology& Research MinisterorHousingandNew Villages MinisterorPrimaryIndustries MinisterorEducation

DeputyMinistertothePrimeMinister'S Department

DeputyMinistertothePrimeMinister's Department

DeputyMinisterorFinance

DeputyMinisterorC0-Ordination orPublic Corporations

DeputyMinisterorAgricultureandRural Development

DeputyMil-isterorAgricultureandRural Development

DeputyMinisterofLabourandManpower DeputyMinisterorLandsandMines DeputyMinisterorcommunications DeputyMinisterof-HomeAffairs DeputyMinisterofTransportandWorks

(17)

中野 :現代 マレーシアにおけ る政治的 リーダーシップの史的特性分析 表 3 continued

USTAZABUBAKARBINUMAR,S.I).K. DATUKATHINAHAPPAN

ENCIKSHARIFAHMAD

ENCIKPAULLEOGNKHEESEONG ENCIKTHANSIANSUNGJ.S.M.,A.M.N.,

∫.P.,P.∫.K.

DATUK HAJIDZULKIFLIBIN DATUK HJ. ABD.HAMIDA.H.N.,A.S.D.K.,P.D.D.K.

DeputyMinisterorHealth DeputyMinisterofLaw DeputyMinisteroflrlformation DeputyMinisterofPrimaryIndustries DeputyMinisterorEduction

DeputyMinisterofDefence

これを第 1類型エ リー トと呼ぶ ことに しよ う.

これ ら 「官僚型エ リー ト」は,本来 きわめて優秀で,近代的な行政能力 と時代感覚 とを身 に つ けているので, これ に愛国心 (使命感)が加味 されれば,理想的な政治指導者 とな る可能性 があるわ けである。 首相,外相,国防相を兼ねた Razak,副首相 と蔵相を兼ねた Husseinた

ちは こうしたタイプの典 型 であるが, この 系 列に 属す る もの としては,商 工 相 の Hamzah AbuSamad(彼の妻は Razakの妹 で もある),内相の Tan SriGhazaliShaGe

,1

9

7

1年 に

DAPか ら MCA に移 った副運輸相の Richard Ho UngHun,法相の Tan SriAbdul Kadirbin Yusof,副法相の Datuk Nahappan

(

1

9

7

6

年死亡),計画 ・リサーチ相の Datuk AbdulTaib bin Mohd.(かれの場合,大学は英 国ではな くオース トラ リアの Adelaide大 学である),電力 ・技術 ・研 究相のMohd.binYaacob,住宅 ・新村相 とな ったMichaelChen WingSun,紬 酎 臼の Tan SriChongHonNyanな どがいる。

その一例 として, きわめてスマ- 卜な官僚型 エ リー トと目され る ChongHonNyanの経 歴を紹介す ると, かれは

1

9

2

4

年 KualaLumpur生れ。まず K・L のVictorialnstitutions

と Singaporeの RafnesCollegeで教育を受 け,一時 Kelangの中等学校で教鞭を とった 級

,1

9

5

0

年 海 峡 植 民 地 の 「公務」 (CivilSevirce-以下 CSと略称) に入 り,Malaccaで

A

s sistantDistrictOFICerを務 め

(

1

9

5

0

-1

9

5

2

年)

,1

9

5

2

9

月連邦奨学金をえて Cambridge

大学TrinityHallで法律を学 び M・A・を取得 す る

.1

9

5

5

年 に現在の 「マ レーシア公務組織」

(Malaysia CivilService-以下 MCS と略 称)へ昇 格 して Malaccaで AssistantState Secretaryを務 め,

1

9

5

7

年連 邦政 府 の総理府-移籍, そこで

1

9

61

年 まで働 く。 その後

1

0

年間

FederalTreasuryに務めた後,農業 ・土地省事務次官 に任命 され

,1

9

7

2

年 にFederalTre a-suryの長官 とな った。 主 として財務畑を歩いて きたかれ は, しば しば コロンボ計画, 世界銀

行, 閣際金融基金, アジア 開 発 銀 行な どの国 際 会 議 に出席 したが,

1

9

7

4

年退官oBN の候補 者 (MCA)として Malaccaの Batu Berendam 選挙 区か ら立候補 して 当選,直ちに副蔵相

に任命 された とい うわけである。

こうした主 と して 英 国 で 教 育 を 受 けた法律家 ・行政官グループ (第 1類型エ リー ト) に対 して, もう少 し土着 マ レー的な臭いのす る人 々がい る. 教 育 の 程 度 な どもー様 ではないが,

(18)

東南 アジア研究 15巻 2早

UMNO 左派か らPAS に連続す る特性を もっていて, イス ラムの教師, 教員, ジャーナ リ ス トな どの経歴を有す る ものが多 く,地域 に密着 しつつ政党機関を媒介 に要職-昇格 して きた

ものが圧倒的多数を 占め る。以下 に これを第2類型エ リー トと呼ぶ ことにす る。

例 えば, 総 理 府 の 副 大 臣 で ある Dato SriHajiKamaruddin(現紬 情報相)は1930年

Perakの生 まれであるが, マ レー系初等学校か ら教員養成学校を経て,1947年か ら1959年まで 実際に教職 にあ った。 しか し, 当初 よ り政治に強い関心を もち,1952年以来 UMNO のメン バ ー として活躍,1958年 には LarutUMNO 地 区 委 員 長 (1974年 まで16年間 この地位を維 描),Perakの UMNO連絡委員会副議長を経て全国 UMNO最高評議会委員 とな った。 こ の間1959-64年 にわた って Perak州議会議員,1970-74年 にかけては Perakの首席大臣を 務 めた。1974年選挙で連 邦議会議員 とな り,す ぐに現在 (当時)の閣僚 のポス トを手 に入れた わけである。 この経歴 は,政党 (地域活動) と地方議会 (政治) に深 く根を下 した土着 ・政党人型 エ リー トに特徴的な ものであ って, この国の政治エ リー トの型 としては一つの典型を示 していると恩 われ る。 この系列 に属す ると思われ るものには,農業 ・開発相の GhafarBaba,副農業開発

相の DatoHajiMustaphabinJabar,副労相 の HassanAdlibinAshad,土地 ・鉱 山相の

DatoMohd.Asri(PAS総裁),副通信相の DatukWanKadirlsmail,副内相の Datuk AbdulSamadbin ldris,副保健相の UstazAbuBakarbinUnar,厚相の PuanAishah bintiA.Ghani(UMNO 婦人部長)な どがあげ られよう。 以上の二 つの政治エ リ- ト類型 に対 してなお二,三の補助的類型をつ け加えておかねばな ら ない。 その一つは,主 として UMNO を中心 として 出現 して くる近代型 ・知識人エ リー トであ っ て, このグループは 「英国留学一法律専攻-高級官僚

とい うパ ターンにはま らない とい う点 で第 1類型 とは異な り,同時にその教育のバ ックグ ラウン ドか らみれば第2類型 とも異な りな が ら, しか も (比較的強い) マ レー主義的志 向によって特徴付 け られ るものである。 これを補 助類型第 1エ リー トと呼んでお こう。 その二 に,主 として MCAを中心 に出現 して くる技術型 ・実務型エ リー トであ って

,

「5月 13日事件

以後の華人の適応形式を連想 させ る(一見)非政治的な色彩を強 くもっていると思わ れ るグループがある。 これを補助類型第2エ リー トと呼んでお こう。 それに第三 としては,連邦議会 における東 マ レーシアの比重の増大 に鑑み, この地域か ら連 邦政府の閣僚 として登場 して くるエ リー トグループがあるO かれ らの基盤はい うまで もな くそ の出身地である Sabah,Sarawakの政党 ・政治活動 における リーダーシ ップではあるが,社 会的背景 とい う点ではきわめて多様であるため, ここでは仮 に一つにまとめて, この国におけ る政治エ リー トの-類型 としてお きた

い.

これを補助類型第3エ リー トと呼ぶ ことにす る.

(19)

中野 :現代マレーシアにおける政治的T)-ダ-シップの史的特性分析 さて, まず補助類型第lエ リー トであ るが,実 は このグループ こそは,特 にRahman体制 か らの UMNO を中心 とす る政治エ リー ト (その政権)の特性変化を語 る場合, どう して も 無視す ることので きない重 要性を もつ ものなのであ る。 Razakの死後,Hussein新 内閣の性格を決定す ると考 え られ た副首相 の選考 に当た って, 少 な くとも4人 の有力な候補者があ った とい うのは衆 目の一致 して認めてい るところで ある。

す なわ ち, 当時 農業 ・開発相であ った GhafhrBaba,Petronas(国営石油公社)総裁 であ った

TengkuRazale短h,教育相であ ったMahathir(以上3名 はUMNO の副総裁 であ る),それ に内相であ ったGhazaliShafiCが それであ る. 結果 的には,Mahathirが教育相を兼 ね たまま

副首相 に抜擢 された。そ して ,かれ こそがま さに この補助類型第 1ェ リー トの典型なのであるO

Mahathirは1925年 Kedahの生 まれ。Perakの Malay School,AlorStarの Sultan AbdulHamidCollegeで教育を受 けた後,Singaporeの Malaya大学 で医学を修 めた。放 郷での医務官,開業 医生活を経て,1964年選挙で連邦議会議員 とな り政界 に乗 り出す。 ところ が,次の1969年選挙では落選。 この原 因を華人が MCA,BN の支持をサ ボタージュ した こと によるとみた Mahathirは首相 Rahmanの人 種 協 調 柔 軟 路 線を激 し く攻撃 して, マ レー 知 識 人 層 の 強 い 支 持 を獲 得 す ることにな る。 1970年 に出版 され たかれ の著 作 TheMalay Dilemma15)は,基本 的には 「よ り公正 な社 会 を 実 現す るために社会的弱者を政治的 ・法律的 に保護す ることは今 日の社会では常識化 してい る

とい う主張 に立 ってい るが, それが マ レー シアの現状 (特 に土着 マ レ-人) に当て はめ られ た ときには強いマ レー主 義 (逆 に,移住民一 華人, イ ン ド人- は この土着社会 の中- 同化すべ きであ るとい う主張),すなわ ち過激 な コ ミュ ナ リズムを前面 に押 し出す ことにな る上,(い ささか物議をか もす ことにな る) 「民族 的遺伝」 (マ レー人 の価値体系 と習慣 に基づ く)を説 明原理 とした理論展開 はマ レー人 の前途 にある種 の悲観的展望を設定す ることに もな ったので,結局, この書物 は現在 に至 るまで 「発禁 」の処 置を受 けてい る。 また Rahman批判 は党 内 リーダ ーシ ップの 分 裂 を 招 くもの と判 断 された ため,党 籍 剥 奪 の 制 裁 を受 けることにな り, か くして Mahathirは1969年 か ら1972年 まで UMNO を追放 され るので ある。 その Mahathirが1972年 に党籍を回復す るや直 ちにUMNO最高評議会委員 に再選 された ばか りではな く,1975年6月21日の UMNO 総会では5人 の挑戦者を退 けて見事 に 「3人の 副総裁」のひ とりに選 ばれてい るのであ る。16)

15)MahathirbinMohamad,TheMalayDilemma,As iaPaciBcPress,1970.

16)UMNOの副総裁は5名で,3人の選出副総裁,それに青年部,婦人部の全国 リーダー (部長)があと の二つの席を占める。しかし,1975年6月21日の副総裁選挙では,問題の人Harunldrisが青年部長の まま選出副総裁のポストを求めて立候補した。全部で8人の候補者の得票数は次表のどとくとなってい る。Harun問題をここで取 りあげるいとまがないが,この時のかれの弁明は,Razakの関りに集 まり 出した 「共産主義分子」を排除することにあったという。ちなみに,選挙の結果から,第2類型エリー トであるGhafarBabaの党 内での人気 が いか に大 きいか,また第 1類型 エリートである Ghazali Sha丘Cのそれがいかに小さいかが分かる.

(20)

東南 アジア研究 15巻2号

もちろん,Hussein Onnは こうした Mahathirの過去をすべて承知の上で,第 1類型 エ リー トであ る GhazaliShafiC,第2類型 エ リー トであ る GhafhrBabaのふた りを除 けてか れを副首相 に抜擢 したのであるか ら,Hussein Onnが Razak以来の強い 「ブ ミプ トラ優先 政策」をい っそ う発展 させ る形で政権の性格固 めをお こな った ことは否定すべ くもない。従 っ て, こうした方 向が Rahmanを中心 とした穏健長老派 との乱酔を惹起す ることにな るの もま

た 自然 の ことであ った。

いわば第 1類型 エ リー トと第2類型 エ リー トを複合 した ような このエ リー トグル ープ (英語 が 達 者 で, しか もマ レー人 コ ミュニティに近 い) に 属す る もの として は,Mahathirのほか に,第一次産業相の MusaHitam,総理大臣付の副大臣 DatoAbdullahAhmad

(

1

9

7

6

11月, 国 内 治 安 法 によ って逮捕- テ レビで Pro-Communistとして の 活 動 を 告 白-。元 故

Razak首 相の政治 ・新 聞秘書官 ),それ に, この閣 僚 名 簿 には名を連ねていないが現政権への 連続性 を考 え るとき是非加えて おかな ければな らないKelantanのUMNO リーダーTengku Razaleigh(現蔵相) な どがあげ られ よ う。 かれ らは

1

9

6

9

年 の

「5

1

3

日事件」の後, 若干の

マ レー土着 エ リー ト (第

2

類型 エ リー-ト,例えば現下 院副議 長 Tan SriSyedNasir

,1

9

7

7

年 1月 UMNO青年部全国 リーダーの現職 にあ ったまま急死 した TanSriSyedJaafarAlbar

な ど) と組 んで,UMNO文配 の政府 の樹立 とRahmanの退 陣を要求す る運動を展開 したわ けで ある。 問題 の手紙 (Mahathirの Rahman宛

1

9

6

9

6

1

7

日付) は この直後 に書 かれた

(Mahathirによれば, この 手 紙 の コピーは,Tun lsmail,Musa Hitam,そ れ に

1

9

7

6

UMNO青年部 良 とSelangorの首席大臣の要職を追われ たHarunに送付 されて い る)017)結 果 的 には, 既 に述べ た よ うに, このグループは一時沈黙す ることにな る。Mahathirは

1

9

7

2

までUMNOを追放 され る し,MusaHitam もSussex大学-の留学を 口実 に国外-去 って い った (ちなみ に,Musaは

1

9

6

5

9

月以来 UMNO の Executive-Secretaryであ った)0

しか し, このグループ に代表 され る強い 「ブ ミプ トラ優先政策」が Razak政権の現実的な施

注 16)つづ き Vice-PresidentElection

UMNO GeneralAssembly,June21,1975 il GhafarBaba 838votes ♯2 RazaleighHamzah 642 i3 Mahathir 474

(以上3各当選)

≠4 Harn 427

#5 JaafarAlbar 374 葬6 HamzahAbuSamah 209 着7 GhazaliJawi 164 辞8 GhazaliShaGe 106 17)K.YonVorys,op.cit.,p.377,note8.

(21)

中野 :現代 マt/-シアにおけ る政治的 .)・-ダ-シップの史的特性分析 策 の骨子であ った ことはなにび とも疑 いを入れない ところである。 こうした強いマ レー人優先政策の中で, (一見)いわば非政治的色彩の強い技術型,実務型 とい うべ き性格を示す よ うに思われ るのが Razak政権末期 に現われ る MCAを中心 とした 華人政治エ リー ト達であ る。 補助類型第2ェ リー トに属す るかれ らは, 当然 MCA 内部での世代交代や政策論争 とも深 い関連があることはい うまで もない。MCA自体 は

,1

9

6

9

年 の

「5

1

3

日事件」直後,総逸挙 において マ レーシア華人を掌握で きなか った責任 を 痛 感 し,Rahmanに対 して 閣 僚 の 席 を い っさい辞退す るむね申 し出る (結果 的には,人種協調を強 く主張す る Rahmanに説得 され た形で3名が入閣 した)018)もっとも,でunTanSiew Sinが総裁の座を退いて,年若いかれ

の政治秘書官 であ った DatukLeeSamChoon

(

1

9

3

5

年 Pahang生れ) にその権限を引き渡 す までにはさ らに数年を要 したわ けだが,Lee自身は

1

9

5

9

年以来下院の議席を もち

,1

9

6

5

年 に は労働省政務次官 に任命 されている

。1

9

7

3

8

1

3

日の内閣改造で技術 ・研究 ・新村調整相 に 任命 された Leeは,翌年長老 たちを抑えて MAC総裁 に選 ばれた。

この系列に属す る もの としては,Le e自身のほかに, 副第-次産業相の PaulLeongKhee Seong

(

1

9

3

9

年 Perak生れ。オース トラ リアの NewS()uthWales大学 出身の化学工学士 ), 副教育相のThanSiangSun

(

1

9

3

3

年 Pahang生れ.NewZealand大学 のMasseyCollege

出身の農学士 ), この時の閣僚名簿には名を連ねていないが 現 副 公 共 事 業 柏の Goh Cheng Teik

(

1

9

4

3

年 Butterworth生れ)な どがあげ られ よう。 この うち PaulLeong(かれは

1

9

7

2

年 Perakでの連合政党 Allianceと PPP との連立政権問題 に関連 して MCAを追放 され た) とGohChengTeikは共 にGRM のメ ンバ ーであるQ ちなみに解説 してお くと,GRM は

1

9

6

9

年総選挙ではBNを激 し く揺 さぶ った野党であ ったが, その次の

1

9

7

4

年総選挙ではBN に参画 して選挙 を戦 い,四つの連邦議会議席を獲得 している。 しか し, このふたつの選挙の間 にち ょっとした物語がある。 Razak政権が強い権力 によるマ レー主義を多人 種 国 家統一のベースに置いた ことは既 に述 べた。 これは後に PASを BN に引きず り込む重要な伏線 にな った ことも事実である。そ こ で これ に対抗す る形 でMCA内部 に も一種 の華人 コ ミュナ リズムの台頭がみ られた。Dr・Lim KengYaik(かれは

1

9

7

2

1

月 に 「新村」(New Villages)を担 当す る MinisterofSpecial Functionsに任命 され, そ こに住む華人の生活水準 向上 に一役買 う)やかれを支持 した Alex Leeは,いわゆ る

1

9

7

0

年か ら

7

1

年 にか けて展開す る くChineseUnity Movement〉の指導者 たちであ った。結 果 的 には, この 運 動 は TanSiew Sin-LeeSamChoon-Ram Woon Wahグループ (MCA Old Guards)によって抑え られて しまうことにな るが, この圧力に

18)GohChengTeik,op.cit.,p.28.入閣した3名は,TunTanStew Sin,Khaw KaiBoh,LeeSiokYew・ いずれ も無任所相 (MinisterswithSpecialFunctions)・

表 3 c o nt i n ue d US TAZABUBAKARBI NUMAR,S. I ) . K.

参照

関連したドキュメント

Ⅲ期はいずれも従来の政治体制や経済政策を大きく転

Dato' Amin Shah Omar Shah Dato' Anwar Othman Dato' Elli Mohd Tahir Dato' Haji Ahmad Sidik Dato' Hassan Harun Dato' Ismail Mansor Dato' Lim Thian Kiat Dato' Lin Yun Ling Dato'

野田は、1889 年(明治 22 年)に現代につながる近代的な地方自治体が出発していた。 1889 年(明治

[r]

第3節 チューリッヒの政治、経済、文化的背景 第4節 ウルリッヒ・ツウィングリ 第5節 ツウィングリの政治性 第6節

1970 年に成立したロン・ノル政権下では,政権のシンクタンクであるクメール=モン研究所の所長 を務め, 1971 年

しかし,そのほとんどは,業務レベルなど,特定の分析レベルにおける効率性

また、2007 年 12 月の運賃改定によりタクシー市場における Total loss は、1900 円/分ほど拡大した。運賃