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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー

(Hedeby)の諸相

著者

原 征明

雑誌名

東北学院大学論集. 経済学

90

ページ

17-39

発行年

1982-12-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1204/00024422/

(2)

ヴァイキング期デンマークにおける

ヘデビュー(Hedeby)の諸相*

征明

目 次 はじめに ヘデビューの位髄, その地理的特質 へデビューの成立史について 集落構造と考古学的諸結果 へデビューの存在意義 一結びにかえて 1 9 ︼ 3 4 5 1. はじめに 中世初期においては,北海とバルト海によって洗われる諸国相互間の交 易関係が活発であった。因みに,筆者はそうしたことを前提として, ヴァ イキング時代にあるスウェーデンの主要な交易拠点ビルカ(Birka)につい て考察する機会を既に有した!)が,以下本稿で検討を試みるヘデピューも 上述のピルカとならぷ同時代の北欧における第一級のヴィク (“た),即fr] 交易拠点なのである。ハイタブ(Haithabu)とも呼ばれ,あるいばまた「フ ランクの年代記』 (A7''IqZEFR電刀jFrα鉦“ずz4瀬)にスリェストルプ(Slies. thorp)として最初に登場してくるこの場所は.北欧および西欧の諸市場を 結ぶ交易拠点として機能し, ほぼ250年余りにわたり存続したといえる商 業都市集落である。 ところで, このヴァイキング時代の商都一以下へデヒ'1−と記す− *本稿は, 1981年度よりの文部省科学研究補助金をえた研究成果の一部である。 l) 拙稿「ヴァイキング期スウェーデンの交易拠点一ビルカ(Birka)の盛衰に ついて−」 (I東北学院大学論築」経済学.第84号所収), 3153頁。 −17−

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相 については, それを囲む半円形の防壁が,その西方に延びて連なる大規模 な防禦複合体たる「ダーネヴィルケ塁壁」 (Danevirke)2)の一部であると 従前みなされていたために,少なくともデンマークにおいては例えばトル レボー(Trelleborg)やフィアカート (Fyrkat)3)などと同種の, ヴァイキン グ時代に属するいわば軍事キャンプ(militarycamp)の一つであると考え られてきたいきさつがある。 ところが,前世紀の末(1896年)に到ってへ デビューを軍事キャンプとみていた従前の説にかわり, この場所をヴアイ キング時代の商業都市輿落跡に他ならぬとする主張が,デンマークの先史 学者ソーフス・ ミュラー(SophusMiiller)により初めてなされたわけであ る。以来, それを契機とし今世紀に入り本格的な発堀が開始され, ミュラ ー説の正当性が種々の考古学的証拠によって立証されることとなった↓〕。 2) この「ダーネヴィルケ塁壁」についても上記の『フランクの年代記」の中で 述べられている。それによると,元来この塁壁はスラヴ人の交易都市レリック (Reric)を掠奪・破壊したディーン人の王ゴトフレッド(Godfred)の命令に基 づき,サクソン人の土地との境界線をなすものとして808年に構築されたとい われるが, さらにその350年ほど後にヴアルデマール王(Valdemar, 1157-1182 在位)の時代に煉瓦壁で般終的に完成されたものとみなされている。北欧諸地 域でも鰻大規模のものとみなされているこのダーネヴィルケ塁壁は, スリー・ フィヨルド(SliefiCrd)からトレーネ川(Trene)とその支流ライデ川(Rheide) の河口まで,いわばユトランド半島の根元を東西に横切る形で走っており, 当面の考察対象であるヘデビューの港と築落を保護した半円形の防壁につな がっているのである。ダーネヴィルケ塁壁については,例えばCf. jOhannes Brendsted,TIIFVi鰯"g3 (PenguinBooks,1978),pp.166-171.,GwynJones, A狩越oryqj JAごVMrim9s (Oxford,1969),pp.99-102,104-105.,HClger Arbman,T/jEVf""gs (ThamEs&Hudson,1970),P.85.,HErbertJankuhn, ""J/ifz6", EinHandelsplatz derWikingerzeit (KarlWachhcltzVerlag, 1976), S、 69-80., JamesGraham-Campbell, DEJLE6"dEF-WI駐瓦gFF (KristallVerlag, 1980) ,S.208-209.,Kla,,sRandsbOrg,TAどVi暉刀g」4gef"

DE"榊α殿(St.Martin'sPress,1980),pp、80-82, 102-103.

3) トルレポー(Trelleborg)やフィアカート(Fyrkat)といったヴァイキング時代

の軍事キャンプについては, Cf. Poul NDrlund,Tr‘"ebor-g (TheNational

MuseumofDenmark, 1968),pp 1-40 ,OlafOIsen,Fy'-A",TheViking

ぐampnearHUbrO (TheNational MuseumofDenmark, 1975), pp. 1-16, JohannEsBrGndsted, 。/う. ご〃-, pp. 173-178, 180-182-, GwynJones,". r"., p.101n,pp.360-364""D/g"Ar6"1iz'!、" rjr.,pp.31-32.,KlavsRandsborg,

". r"-, pp.96-101、

4) GUstavFaber, Djr ノVD〆加α"“、 Priraten, Entdecker, StaatengrUnder

(4)

-18-ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相 そして,調査はクノル(F.KnOrr), シュヴァンテス(G.SChwanteS)へと 引き継がれ,大戦中は一時期中断を余儀なくされたものの, その後とりわ け1962年-1969年にかけてヤンクーン (H.Jankuhn) , シーツェル(K. Schietzel)等の先達諸学者の手で大規模な発堀が行われ,縞力的に研究さ れてきた‘)。 もとより, そのような考古学的調査研究によってこのヘデヒ' 1−は単なる交易拠点にとどまっただけでなく , そこで貨幣鋳造や手工業 的営みが展開されていた形跡のあることも明らかとなった。 さらにまた, この場所ば当時の北欧におけるキリスト教布教の要衝であった考えられる ように,都市集落としてのヘデピューはL、<つかの機能的側面を有したも のとして位置づけられる必要がある。首記のような標題にしたこともその 理由によるのだが,以下順次考察をすすめてL、くことにする。 2. へデビューの位置その地理的特質 さて,極めて大づかみにいえば当面の考察対象であるヘデヒ'1−(He-deby,Haithabu)が位置したところは図lにみるユトランド半島のつけ根 に相当する部分である。 もともと, ヴァイキング時代におけるこのつけ根の地帯は, その北側に ディーン人(Danes)が. また南側にはザクセン人(Sachsen)とスラヴ民族 が居住するという, その双方を分割する辺境地帯(frontier)唾なし, いわ ばディーン人にとっての「マルク」(Marc,Mark)6)ないし異民族地域に対 (VerlagggruppeBertelsmanGmbH, 1976) ,岡・戸叶訳『ノルマン民族の秘 密」 (佑学社, 1977年) , 35頁参照。 5) 谷口幸男「ハイタブのこと−シュレスヴィヒにのこるヴァイキング時代の 商都について−」 (「北欧」 jVORDEN,第8号,北欧文化通僧社. 1974年) , 6667頁。MagnusMagnusson、 r/A"噌s1 (Else,・ier-Dutton,198()),p.68.な お,ヘデヒ'1−の研究史に関わる上記先達の諸業績については. V91 、Hebert Jankuhn, 4J."O .S.310-311. 1i) 因みに,経済史上の述語として「マルク」 (Marc,Mark)が川いられる場合, ○ a 色 白 白 い ■ 通例はケルマン人の定住地における入会地,即t]彼らによってその共同使用が 認められてL、た森林・沼地・牧草地・原野を意味するものとして扱われる。 と ころが, このマルクなる語の起源は, もともと 1.人の居住しない境界地帯」

(et uhぐl)cEI gr(En患Eiand)にある, という。村井誠人一ヴィーキンク'時代とデ

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ヴァイキンク期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相 ロ ロ■1 回 鯛

画 囲 麺

、旦狸 図1 Ci[、,H.REllisDavidson,TAgWA"19R。α"”B雄“Jr加 (GeorgeAllen&Unwin,1976),P.18. する「境界削方地」 (Gr=nseforland)を意味していた7)といわれる。 そのようなユトランド半島基部の地帯を少し<明確に示したものが図2 に他ならないが. それでみると分かる通り, へデビューはそもそもバルト 海から深く切れこんだ狭陰であるが航行可能なシュライ (Schiei.slie) フ ンマーク」 (『北欧」 jVORDEiV,第17号.北欧文化通信社. 1977年), ,ISr[ 参照。 7) P.LauridsIFI,、 1'・rrFo【鮎鞠I“'‘!'""(SEErtrykafDanielBruUn,Danmark, LandDgFolk),S- "12",村井誠人・前掲論文, .15頁。 ‘1 −20−

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 図2 TheHollingstedt-Hedebyisthmu9 Cit,RudoifPoertner, Tノ1超V蝉汀gJ (S[. JamesPress, 1975) , P. 199. イヨルドの奥端にあ!) .後述の図3から明l、JかなようにⅢ ハッデピー潟 (HaddebyNoor)の水辺に面し, その西岸の傾斜地に位置していた。 因みに, この場所は今日のドイツ最北部にあるシュしスヴィヒ (Schles. wig)州の東側であってデンマーク国境から30kmほど南ドしたところな のである。そしてまた, ここはドイツ側から入ってユトランド半島をその 突端にむかって南北に走る有名な旧街道ヘールヴァイ (Hfervej)上にある ために, いわば陸路の要衝でもあった。この旧街道はその起源が古くロー マ時代にも遡る「軍道」で,支道の一つはヴァイキンク'時代の王の居住地 イエリング(Jelling)を通過している凶》のである。 ところで,一方このユトランド半島基部の西海岸側には遡行可能なアイ ダー川(Eider)が北海に注いでいるが, この川を経由してその支流たるト リーネ川(Treene)へと進んだところにホリングステッ卜 (Hollingstedt)が 位置していた。そして, ニニからへデビューまでばおよそ1Oマイル半(= 17km)程度の短い陸路を川いて移動することが可能であったから, それ は当時としてば北海側か『>7、ってパルト海側へとぬけることのできる理想 8) JaC[luelineSimps・11, 7,/Jt' 17""gll.p//</ (Batsford. 1980), p- 108. 一望’一 5

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相 的なルートを形づくっていた,)ことになるだろう。因みに,北海とバルト 海を鍛短経路で結ぶというこの方法は,今日このルートの南にあるキール (Kiel)運河に生かされているのだが, いずれにせよこの点はヘデビューを してヴァイキング時代の主要な交易拠点たらしめた最大の地理的条件なの であった。 もとより,当時このルートが使用される場合には河川を遡行しなければ ならないという性質上,およそ喫水が浅くしかも比較的小型の船にとって 都合のよいものであったといわねばならない。 この同じ理由は,バルト海 へとぬける際に通過する長さ約22マイル(=35km)のシュライ ・フィヨ ルドについても多かれ少なかれあてはまったに相違ない。 他方,西欧市場からバルト海へと到達する際の海上ルートとして,ユト ランド半島の西海岸を迂回する方法もあった1,〕.けれども,一般にこの海 9) Cf. P.HSawyer, TノzeAgEQ/f/ieVj鮭"gs (EdwardArnold, 1975), p.187.,J.Simps。n,". 亡"., p、88.,HolgerArbman,TJIeW""g$ (Thames &Hudson,1970),p.35. 10) ヴァイキング期デンマークのいくつかある都市築落の中で,注目されるべき ものの一つがこのユトランド半島西海岸の河岸砂州にあった。へデビューより も起源が古いと考えられているリーベ(Ribe)がそれであって, この場所も北海 にむけて,あるいは西欧一フリージア, ラインラント, イングランドーと 容易に接触しうる位温にあったため,当時の交易拠点として繁栄した。それら 西欧諸地域から到来したと思われるものとして,例えばひきうす(millstone) ・ 壷・ガラスなどの考古学的出土品が認められるが. とりわけ興味をひくのは, 貨幣史上いわゆるシアッタ(5“α"“)と呼ばれる銀貨28枚の出土である.他方, このリーベでも手工業的営みを有した証跡が認められる。號珀加工・輸入ガラ スを素材とした色つきビーズなどの宝飾品,鉄および青銅の加工.あるいは製 靴・ くし・織物製造などの存在を立証する出土品をみているのであって,それ らはスカンジナヴィア市場での闇品をなしたと考えられている。因みに. ここ には司教座(theseatofBishopric)が題かれ.へデビュー同梯デンマークに おける初期キリスト教布教の拠点となったところなのである。Cf・Da,「idM. Wilson(ed.),Tlie八brrノiej-・FIWDF-/ff,ThEHistcryandHeritageofNorthern

Europe, A、D.400-1100 (HarryN・Abrams, 1980), pp、 152-153-, Gwyn Jones, 、4"""J' oハノIEVi"''gS (Oxf・rd, 1969) #p. 108, 125.,H.J・Madsen, A"Sgα''Sご"y,missionary to theVikings (ForhistoriskMuseum,M・esgArd, 1977), pp.6-7., ArchibaldR. Lewis, 7ソIFN。〃/ler-"S"S, Shippingand

CommerceinNorthernEuropeA.D.300-1l00 (OctagonBooks, 1978), p.

308.

一一リ?〕 −−−

(8)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 上路ではしばしば海賊の出没に遭遇するのみか,時には暴風にも見舞われ るスカケラーク(Skagerrak), カテガート (Kattegat)の両海峡を通過する 際の危険を不可避皿)なこととした。それゆえに,当時北海沿岸の低地地帯 やインク'ランドの諸地域とスウェーデン, バルト海沿岸さらにロシアの東 方諸地域とが結びつく交易関係の活発な存在をふまえると,ヘデビューー ホリングステットを介して行われる最短経路の輸送が極めて有利なもので あった'盟)ことは明らかである。 ただし,前述したような船に関わる制約と一部陸路づたいに移動する必 要性は, このルートを重量物の大量輸送ではなく,むしろ比較的軽量の価 値ある商品を輸送するのに適するものにしていた'芯)わけである。 3. へデビューの成立史について ところで, このヘデピューはいつの頃からいかなる形で発達したといえ るのか。 11) A.9.rypeBHu,noxo,mblBIIKIII{「oB(1966),グーレヴイチ著,中山一郎訳『バ イキング遠征誌」 (大陸番房,昭和46年), 78-79頁, J Simpson, Op."J.,pp. 125−126. 12) ラトゥーシュ(R.LatOuche)いわく, 「− . . .かくしてへデビューは, フリージ ア人の海上覇樒時代に始まった西欧とバルト海域との交流を発展させたのであ る」と。RobertLatouche,L"Or-jgi"EsαどJ'E"灯。流jEO"""""(Albin

MiChel, 1956),EngliSh tranSlatiOnbyE.MWilkinSOn,TIIgBか俄邸的e WEsJ"':E"'!o"U',EconomicAspectof theDarkAges (MethuenLibrary

Riprint, 1981) , p.231.

13) 因みに, このことをふまえたソーヤー(P,H・ Sawyer)IX11世紀中葉にヘデ

ピューが破壊されたといわれるその以前から, この地の交易拠点としての役割

が,比較的喫水線の深い船も到逮しえた他の商業都市集落,即ちシュレスヴィ

ヒ(Schleswig)によって温きかえられたと考えている。Cf.P.H. Sawyer, Op,

c"., p. 187. しかしながら, より広い視点に立っていうならば,いずれにせよ 両者とも同じ狭幡なシュライ ・フィヨルドに位瞳した限り,大重輸送が一層重 要となる後の時代一いわゆる「商業復活期」−の北欧商業と結びつく重量 帆船の使用に適合するような港湾の機能を果しえなかったといえよう。いわば 外海から遮断せられた場所にある交易拠点の, このような制約ないし限界につ いて,筆者は同じくヴァイキンク・時代にあるスウェーデンの交易拠点ピルカ (Birka)についても妥当したことを既に述べておいた。拙稿・前掲論文, 5253 頁参照。 −2;サー 7

(9)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 およそヴァイキング時代のデンマークにふれる数少ない文献史料の一つ たる前述の「フランクの年代記」 (A刀"""R電"jFFrα証”r嘩榊では, ま ず804年にヘデピューの別名スリェストルブ(Sliesthorp) としてこの地の ことが初出する14)という。 しかし, その成立に本格的に関わる出来事とし て指摘されてよいのは, それから4年後のこととして同じくこの文献史料 で語られている808年の記述である。 即ち, この牢にディーン人”王ゴトフレッド(Godfred)がバルト海沿岸 のオボトリート人(Obotrites,Abodrits)の領土に侵入し, スラヴ人の交易 都市し 'ノック(Reric)を掠奪・破壊した後に, そこの商人達を彼の軍隊と 共に船でスリェストルブの港に強制的に移住させた15)7 とあることに他な らない。その場合, このレリックが一体どこに相当するかということにつ いては諸説があって'‘jその正確な位置は分からないが, いずれにせよ当該 交易拠点に対するゴトフレッド王の行動は重要な意味を有していたものと 解される。 なぜならば, 当時はそもそもフランク族がその勢力を有し,一方ではフ リージア人に対して, また他方では同盟関係にあったオボトリート人の領 土に対しても拡大することにより,いわば西欧沿岸地帯とバルト海沿岸地 14) Reichsannz,lE[,,S、78, [4 l"Jg""/'"eQ"f//t'〃零脚〆企zMsc/1"C"E/Ji(/雌曾Jes

』V"“α"ぜ". Bd.V.], Hans Plani上z,Djどα“JSC/IESZaaZ j"IMj"どjα"〃

(KO1n, 1954) ,S.49 ,RudolfPoermer,TルヒWAi"gs,RiseandFall of the

NorseSfaKings, trans. &IhdJIIJtedbySophicWilkins (St. JamesPress, 1975), p. 199.

15) ReichHannalen, S.88., IIolgcrArbman, 7./IEV""gs(Thames&Hudson,

1970),p,35-,R.PcErtner,". ご〃 , p.21、,Johr,nnesBrondsted,T/IEW魔河93 (PenguinBooks, 1978), p 166.、 JacquelineSimpson,T/leWA加gWbr" (B.T.BaIsford, 1980), p 88. 15) 例えば, アッブマン(H・ATbman)はこのレリックなる場所が口ストック (Rostock)なのだろうかとしており, シンブソン(J. SimpsOn)は今日のリュー ベツク (Lubeck)付近と岨われるという。Cf. 11.Arbman,".r",, p.35-, J. Simpson, Qpf・"., P.88.−ノj, ジョーンズ(GwynJones)は正確なことは分か らないとしながらも.おそらくその場所がヴィスマル湾(BayofWismaT)の AItGaarzか. もしくはリューベッグ付近かも知れないという。Cf.G・Jones, l〃“・心, 。/〃JEI'/"'Jg3 (Oxford,1968),p.99. 8 −24−

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデヒ'1−(Hedeby)の諸相 帯の双方にまたがる交易全体を統制しうる状態にあったが, レリックの破 壊と商人移住をともなった.' トブレッド王によるヘデビュー掌握は,従前 の在り方に今や模をうちこむ結果になった, と考えられるからである。西 欧諸市場からユトランド半島の基部を最短経路で横断し, バルト海諸地域 の主要交易拠点一ビルカ, ヴォーリン(Wollin) . トゥルソ(Truso)など −と結びつく中継地でもあり, さらにまたそげ)ルートと交又して半島を 北進し, カテガ-} (Kattcgat)海峡やノルウェーへと向かう陸路ヘールウ ァイ (Hrrvej)上の要衝にもあたるヘデビューCn掌握には, ゴトフレッド 王の意図が明確に示されていた'ア)。即ちそれは,彼の指示による意識的な 防禦政策たる「ダーネヴィルケ塁壁」の購築をも併せみるならば, その段 階でヘデビューをディーン人の領土とする一方, そこからあがる交易から の収益に関与する意志のあることを明示したものともいえるだろう'5)。 いずれにせよ, このようにして先の文献史料上で9世紀初頭に関わるこ ととして記録せられた出来事が, あるいは従前目だたなかったかも知れな L、ヘデヒューの地のその後の発達に疑いもなく強い刺激を与えることにな る。 しかし逆説的にいうならば, そもそも文献史料上にその名が登場する のであるから, それ自体へデビューの交易機能の実態が始源的にばさらに 古くから存在していたことを想起すべきなのである。その理由を改めてく り返す必要はないかも知れなL、が,交易上の格好なる地理的条件を有する この場所が,事実上8世紀前半の時代か'、,重要性をもf) 'U). いわば物資の 集積地ないし積みかえ港として利用されてL、たことを考古学的証拠は示し ているからである。例えば, ホリングステッ卜 (Hollingsted) とへデビュ 17) C(.G. Jones,必止/,、 pp.9899. 18) R. POcrtner,OP. L・//. , pp. 198-199. 19) B. Rohwer,D"FF-/f'""・ノIfHα"f/『〃′〃J)・"/If'1 .Vi"ど/α""(Kiel, 1937) 、

S. 12-16.、Higrbert Ja,,kuhn,E'・gr6r"師""[/ j"JU6/(リ"f・ ‘Jf7・"(1〃紬6型Gノー‘J‐ ZJ""摩〃 (Kiel, 1939)、S-51,78-80.,HaakoIIShelelig,ざα"J戒"αwα〃.』lr[・ノI‘』ぜ‐ c/イ]gy (OXfDrd, 1937) , P.275., ArChibaldR- LewiS, 7、/1FNU'・"IfTFTISE&J.J, ShippingandComm"ce inNorthernEuropcA.D.300-1100 (OcIagon

BookS,1978),p,147,

(11)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 一の間の陸路沿いには8世紀に帰属する埋葬墓が点在するといわれるが, それらは当時荷運び労働に従事して間接的に遠隔地貿易に関与した人びと のものとみられており苫0),従って比嚥的にいえばそれらは古くから存荘し た商品流通の無言の証言者をなしている。 ところでその場合,へデビューの発達に関わるそれら初期的段階の主要 な交易の担い手として, フリージア人の存在を強調しておくことが必要で ある翌')。 もとより,前述の交易ルート発見については彼らのみでなくフラ ンクの商人も考慮されようが,今このようにいう主たる理由は, 7世紀中 葉以降のライン・バルト海貿易でいわばその「海上覇権時代」を築きあげ ていくのが, フリージア商人に他ならないからである。即ち, そもそもこ の頃を境としフリージアは交易上の通過地点という従前の受動的性格から 脱皮し, その商人達がより能動的な役割を演じていく。 その証拠としては,例えばフランク産の青銅製の鍵, ラインラントのガ ラス容器と刀剣類その他の産物を当面の考察対象であるヘデビューや, ス ウェーデンのウブランド(Uppland)にむけて運んだとみられているのも彼 らフリージア商人なのである当》。 20) R.POertner, D/>.r". , p.201. 21) 周知の通り, フリージア人は中世初期の時代に今日のネーデルラント. (Ntj-Iherland)を中心に活寵した海洋民族ないし商業民族である。 とりわけ彼らが 集住し, 7世紀中葉に擬頭したフリースランド(Friesland)-Weser・Swin両 川にはさまれた地方一では. ドレスタッ ト(DoresIad)が8−9世紀における 西欧の主要な交易拠点をなした。因みに. この地方においてキリスト教の布教 がなされていくのも7世紀末葉からであり, その後ぼぽ一世紀を経て大部分の 人びとの改宗(cDnveTsion)が達成されたとみられる。その主要な自国産商品は, 肥沃な湿地帯で飼育された羊から得られる羊毛・羊皮それに塩であるが,交易 の発違とともに扱われる商品の穂類は増大してl‘ 、った。当面の考察対象たるス カンジナヴィア地方とフリージア人との関係を論じているものは少なくないが, さしあたり次のものをあげること力:できよう。B.ROwer.DIff,'・“(‘/』ぜ〃".

〃虚〃"】〃"/l""""/"""(Kiel, 1937iElisWadstein、 "On therela[ions

betweenScandina,・ iansandFrisians in early timefSfILrLI二〃。⑪XJ Q//ノィ(, W灯"gSod."v/ひrlVひ〃ん〃'1R""r/1 v01.XI, 1928-36, pp. 'f-25、

22) G,Arwisson, Ir('"dt'/.W./fE"Jα〃["』(ICZ"""J 7-H,ノ‘J/"・/i""ヒノ《リ・I (UppHala, 1912) , S, 101-105-,Archibal(I R、 Lewis. ""(・ノ/. , p, 1. 1(1.

(12)

ヴァイキンク期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 一方,対イングランドとの関係でいうならば, ベーダ(Beda)の記述か らロンドンで取引していたフリージア人の奴隷商人のことを知るのもこの 頃(=679年)獣3)のことである。 こうした事例も示しているように, フリー ジア商人は次第に能動的な方向へと転じたが, と!)わけ8世紀前半の時代 から9世紀にかけてそのスカンジナヴィア地方との関わりを一層増大せし めていった。スカンジナヴィア地方にルーディメンタルな形でいくつかの 交易拠点が出現するのもまさにその頃なのであり,主要なものの一つがへ デビューに他ならなかった。 このほかに, その創設が800年頃とされてい るものとしてスウェーデンの上'ルカ(Birka)やノルウェー南部のスキリン グスサール(Skirlngssal)即ちカウパング(Kaupang)などがあり. いずれ もヴァイキング時代を代表する交易拠点なのである割》。従って,以上鍬た ように始源的存在としてのヘデピューはその格好の地理的莱件に支えられ, おそらくはフリージア商人による物資の集積地ないし積みかえ港として創 始されたものと考えられるのである。 4. 集落構造と考古学的諸結果 さて,図3は今日までの考古学的発堀で明らかとなったところにもとづ いて,へデビューの集落構造を図示したものであり,図4はその最も繁栄 をきわめた頃の状態を想定し再現が試みられたものである。 これらから分 かるヴァイキング期へデヒ'1−の第一の特徴は, その都市巣落の陸側が半 円形の防壁で囲まれており,他方ではハッデビー潟に面し開かれて位置し たことなのである。 ところで, この半円形の防壁ばへデビュー存立の当初から櫛築されてい たものでない。前述したように,交易拠点としてのヘデヒ'1−は当初フリ ージア商人による商品集積地ないし積みかえ港として出発したことにその 23) CharlesPlummer (ed.) Vf"〃α〃//s"""EO/jfr-α月鍼。r/"(Oxford, 1956),IV.22.畏友栄三郎訳『イギリス教会史』(創文社,昭和40年), 324-325

頁参照。

24) H. Shetelig, 。〃(、""p. 178. ,ArchibaldRLewiH, fJP. L."、 , pp. 146-147.

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデヒ'1−(Hedeby)の諸相

図3 TheVikingtradecenterofHedeby,ne団rSlegvig

Cit,>ku(lolIPUGrlner, o/>. r"., 1). t」()6.

−28−

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ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeb)')ぬ諸相

図4 11edeb)「 in thetenth"ntur)「 APict')rial l(f['mEitruftilm、1 Cil,Gw)" ']ルnEg, [)/) (",, p、

178-起源を有すZ)こみらオlを,が.繁栄が始まる9 11t紀ゾ)段階に到っても、 ま だこのような形でば防壁が築かれていなか-)たと考え'、』れる ]なぜな「, ば.例えばこしノ)ヘデヒューにつL 、て語る他‘ハ虻献史料,即fjリンバート (Rimberl) 、ノ) Iアンスガル伝」 (VI、/LIルz、wg&" 〃) コネ) 870年 でも,

ヘデヒ 1−を無防備ソ)場所とし必らずしも防壁し乃存狂については伝えてい ないといわjlるからである〔]防壁‘刀桶築がいつの二とであるのか止確虹と ころはf明だが‘ 因みにシュしスカィヒーホルスタイン州立博物館のヴァ 25) ノLイ敬虐王(LOL' ig [IIEPiOuR)に」ミ凸北欧へのキリスト教布教の命をうけ, ス カンジナヴィア地域に派遣された伝道者聖アンスガノL (Ansgar) のfルハ バートが記録・執筆│_たもしノ)ロ今[]のデンマープとスウェーデンの布戦を祖っ たアンスガルは ヴァイキングによる襲撃の危険を経職しなから’ ヘデビニヒー を拠点にJ( )年しノ)間隔をおき郡I )年頃rEH5()年頃内二度にわたってヒノLf7 (Bir ka) を訪れた‘因みに‘ こしノ)伝記の中て' 1ンパートは当時のパ几ト海諸地域と

西欧との交易関係につL 、てもふれてL 、るとL 、う点で 価値ある史料の一つとさ オ'ている, 」アンスガル伝1 (刀要旨やその生涯における布教活動については

例えば[{Ru(I()11 PUIgrl IIど「. .ノ、〃{、 1'J・"".哩瓦、 Rigt。 fII](1 }ral l nl I IIENDTReg" Kin鐸、 1m' ' '・i¥ &i'(lal'IIEI(1 1)NH()phi("Wi lk加高 !HL la]1'(、R I)「<、Rs1975Lpl' 28() 2H1" (;wl n _lo]]Es, . l〃本JUハ' 「j/7/j(' 1 f〃ノ頓.R (()]ILI('rd. 19(i91 , pp7ト、

l( )1 1 11 )私.

(15)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 イキング部長を務めたクルト ・シーツェル(KurtSchitzel)氏は,その防壁 が「定住開始後一世紀を経て構築された患6〕」と述べているという。 また, 9世紀末から10世紀の中葉にかけへデビューは一時期スウェーデン王室 の支配下にあった辿了)ことが知られているところから, その構築をスウェー ド人の手によるものとする説が有力である藍a)。いずれにしても, この防壁 の北門の断片を考古学的に検討した結果, ′」、なくともぼぼ9回の建築時期 のあったことが確認されており,従って完成には数世代にわたる人びとが 関与したことが分かっている。 さて, この防壁は土塁の他に頑丈な木の擁壁を有するなど後年の補強も あって,周辺にめぐらされた窪地状の濠を含めると高さ30フィート (= 9m)にも及んだ。そして東西550m,南北600mにわたる部分を防壁で 囲まれたこの集落は,面積にして約24ヘクタール(=60エーカー)の規模 に達している当り)。まさにそれは,例えばスウェーデンにあるビルカ(Birka) との比較でも約2倍近くの広さを有するのであって,その点からもヘデピ ューはヴァイキング期スカンジナヴィア地方における最大級の規模をもつ 交易拠点であったとみなしうる。 一方,図3および図4が示しているように,へデビューの都市巣落にあ っては,ほぼ中心部を通過して南北に道路が走っている。 これが既に述べられたヘールヴァイ (H=rvej) と称されるローマ起源の 旧道なのである。 いうまでもなく, この道路が防壁を横切る部分には門が設置されていた。 門は防壁の西側にも存在したとみられるが, その付近から集落内を通過し 26) Cf.R. PDertner,". c",, p.201. 27) あ錘-,p.200.>G、Jones,Op. ご"., pp.lll-112.,P.H.Sawye「,TIIEAgEQf ZIzEV蝉期9s (EdwardArnold,1975),p.143,189.

28) Cf. JohannesBrBndstedⅢ γ准Vi""gS (PenguinBooks, 1976), p. 153., JacquelineSimpson,TIIEV/"'!gWor"(B,T.BatSfbrd, 1980) , p、88. 29) Cf J.Brondsted, CP r" , p・ 150.,G. JoneS, OP. c". , p. 178., R、Poertner,

qp. r"., p.201.,HolgerATbman,TheW庫吋gs (Thames&Hudson,1970), p.35,

(16)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 て,」、川(rivulet)が流れているのもヘデビューの特徴である。 もともと小川 は淡水であったから,住民に飲料水を提供した30)ものと考えられている。 この集落における最古の住居牡は,図3にみる通り南側防壁の外にある 一部8世紀の時代に遡るものであったといえようが、永続的ではなかった らしく, とりはらわれた後に埋めつくされ大きな墓域(Gravefield)を形 づくっている。おそらく, ここがへデビュー発達の最早期の段階に休息地 が設けられた場所かも知れない。 従ってそれを別とすれば,防壁内にあって海岸線に面した9世紀の住居 趾が古いものとみなされる。因みにこの場所は,周辺の湿潤地と比べると 砂地の土壌からなる集落形成の好適地をなしており,種々の家屋があるも のの31)r比較的大型家屋の存在したことが認められるのもここである。そ れゆえに,入江に面したこの場所は富裕な商人によって利用された居住区 域をなし3:〕, いわばヘデビューの「旧市」に相当したところと考えられて いる。 ところで,図3では明示されておらないが,上述の富裕な商人の居住区 と考えられる場所に隣接する形で, その西側には手工業者が集住する区域 30) 因みに, この'」、川はヘデピューに関する後年の考古学的研究にも重要な役割 をはたしてきている。 というのは,第1に, この小川の河床は分析可能な種々 の堆積物が層をなしていることが認められるからである。また, ′」、川に沿って 建てられた家屋の位置力xいくつかの局面において変更されていることが分かる など,築落の利用の仕方を解明する一つの手がかりをなしている。J・BrOndsted, "."Z-, pp、150=151.これらのことはもとより,へデビューの集落に関わる考 古学的研究を代表する業績は,ヤンクーンのそれである。HerbertJankuh,B, Hα"/z"", EinHandelsplatz derWikingerzeit (KarlWachholtzVerlag,

NeumiinSker, 1976).

31) 発掘によってあらわれた基礎部分から判断すると,家屋としては縦板張り

(closevertical planking)の堅固なものを含む木造家屋をばじめとし,柱間を

縄み枝としっくいで固めたもの,その他丸太小屋などがあったことが確認され

ている。Cf. J.Brcndsted,". ご江, p」51-,C. Jones, Op.ご〃. , p. 180, FIgure

24.HOuseSatHedeby,ApictOrial recOnstructicn., また,比較的大型の家屋 についてはCfKlavsRandsborg,T/lEVMfF轤八gef"DErz"1(J'・A(Sk.Martin's Press, 1980), p.88,Figure24.Reconstructionofninth、centuryhousefrom thecentral settlementatHedeby. 32) Cf.R・ PDermer, Op. ‘". , p.201. -31- 15

(17)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 が存在した33>こと力(分かっている。従って,そのことばへデビューがそれ 自体,手工業者の営みを有していたことの証拠なのである。へデビュー においては, とくに青銅を用いた鋳造技術が開花し,輸入せられた素材 で亀形の青銅ブローチ(tortoise-shapedbrooch)*, クローバ葉形の留金 (clasps) といった,当時の繊細巧纈な装飾品の製造を行なっていたとみら れる。また,鉱津が多盆に出土していることから,何らかの鉄製器具が製 造されていたことも分かっている。因みに, その際に使用されたとみられ る原料鉄はこの地方産出の劣質なものでなく,ほとんどがスウェーデンか ら到来した良質の水鉄鉱(lake-ore)からなっていた34)・ その他,重要なものとして貨幣鋳造35)AP900年以降の北ヨーロッパで普 及した金銀線条細工(iiligreework)をはじめとし,ガラス製造,製陶,獣 (鹿)骨細工一櫛類,装飾針, ,」、刀の柄一ケーム.ストーン,そして織 機分銅(loomweights)や手動紡錘(handspindles)の出土からみて考えら 33) この点については,HJankuhn, fr."0.,S、82ないしH.Arbman,op. f・"., p.36の図を参照。 34) Cf J.Simpson,QPr", p.90. 35) スカンジナヴィア地方における支払手段としては, 8世紀末までいわゆる 「刻み銀」 (hacksilver)ないし棒状銀が大部分をしめていた。 9世紀の初頭にな って, ドレスタットで鋳造されたカロルス貨(CAROLUS)の流入がみられる が,それも830年のドレスタット破壊で補給が停止され,以来アラビア貨幣た るディルヘム貨(αかAど"J)がスカンジナヴィアで優勢となる。 しかし,へデビ ューはその例外であり, ドレスタット硬貨の模倣からはじまって,や顔て独自 の貨幣鋳造が開始された。即ち, 10世紀中葉(=940年頃)からのいわゆる「半 フ'ラクテアート貨」 (half-bracteateS) と呼ばれる片面のみの薄い銀貨がそれで ある。そればデンマーク地方のアラビア貨幣を駆逐したのみか, さらにバルト 海沿岸諸地域とりわけユムネ(Jumne) ・ヴォーリン(Wolin)周辺のオーデル川 (Oder)流域に広まっている。因みに. この「半プラクテアート貨」は年号も 製造地も刻まれていないところの,いわば沈黙貨幣(Silentc・in)であるが,へ デビュー内とその周辺において多数かたまって出土するところから、考古学的 にはこの場所でそれ力製造されたと考えられている。 しかし, この貨幣が製造 されるのは10世紀末(=980年ないし990年)頃までである。 Cf. J・Brcndsted,0p. Fだ. , p. 186-187., P.H.Sawyer, QP. ご〃., p.189., R. Poertller,QPL、",pp,212-217.,H.Jankuhn,α,α.0,,S.215-234.,KRandsbcrg, Qp-ぜ〃., p. 149ff. 16

(18)

-32-ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 れる織物の生産など,種々の手工業的営みが存在していたu6)ことが認めら れる。 さて,既にわれわれはゴトフレッド王によるレリック (Reric)からの強 制的な商人移住がヘデピューの発達に刺激を与えたことをみてきたが,商 人以外の人口がその後において増大したものと思われる。 もともと,へデ ビューは諸民族の境界地に位置するところであったからユトランド半島の ディーン人はもとよりのこと, フリージア人, ザクセン人あるいはノルウ ェー人など, いわば外来者の流入も少なくなかったろう37〉。 また, この地 のスウェーデン支配の時代にばそこからの移住があったに相違ない。要す るに, へデビューの住民ば各地の出身者からなるいわば混合体として増え ていったといえようが,それに対応し居住区域が西側へと拡大したと考え られる。 へデビューにおいては海岸線から遠ざかるにつれて地盤が高くなる傾斜 地をなすのだが,西側の防壁に近い住居牡では編み枝としっくい塗りの'」、 規模な穴居家屋(3×4ヤード程度)が当時の支配的形態をなしていた38)こ とが知られている。それゆえに,一方で前述のごとく海岸線に近い旧市で 比較的大型の家屋が存在したことが認められ,他方,傾斜地の高地で'」、規 模な家屋が支配的であったというこの相違は,へデビューの住民に階層分 化があったことを示唆するものとして興味ある・ もちろん, このような階層分化の存在は単に家屋の比較からのみ説明さ れる事実ではなく,へデビューの墓域における埋葬形式や副葬品の相違か らも確認されるところなのである。 さて,埋葬墓地についていえば,富裕な商人たちの墓ではないものの. その形式からみて特に注目されるのは,図3に示されているような一群の 36) C{. J.Brendsted, GPc"., p. 152.,RHSawyer, DP- r". , pp186-187-,R. Poertner, oP. r・"., p.207.,G-Jones↑DP. r"., p, 180-,J.Simpson,".r"-, p.89, photogr・aphof"Brooches,pendantsetc.

fcundaIHedeby"&p.90-37) Cf.R_Poertner, op.ご〃 , pp.200-201.

38) Ibid. , p.201,207., J.Brendsted, op.r〃., p. 151.

(19)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 いわゆる「室墓地」 (chambergrave),および少数の「船型墓室」 (ship-chambertomb, ;Boot-kammergrab')の存在であろう。明らかに,賛を尽 して築かれたといえるそれらの墓は宝飾品に加えて副葬品の多くに刀剣や 楯などの武器を有したが, その様式からみて10世紀のもの39)と考えられ ている。先に述べたように,その頃はヘデピューにスウェーデン王室の支 配があったから,おそらくそれらの墓はスウェード人の首領たちを葬った ものと推定される。 もちろん, これら際立ったもののばか副葬品も有しな い埋葬が多数あった。全体として,へデビューの墓域では年代的にも異な る数千体もしくはそれ以上にのぼる人骨が発見されている。そして,それ ら多数のものの中には明らかに女性と子供のものとみられる人骨が少なか らず含まれていた‘O)。特定の季節にこの交易拠点を通過した商人のみでな く,家族をなしてこの場所で定住生活を送った人びとが多数存在したこと が, それによっても立証される41〉のである。 しからば,当時のへデビュー がどれ程の人口をかかえていたかということもいささか興味あることとい えようが, もちろんその数の正確な算定が実際上は困難な問題の一つとな っている。 しかし,埋葬の数と当時の平均的な寿命から大づかみでばある が人口数を推測することも可能とされており,最近の一研究では10世紀 の最繁栄期にヘデビューで少なくとも1,000人を下まわることのない常住 人口があった“)とみなされているようである。 なお,本節最後に指摘されるべきへデビューの特徴は, この集落を囲む

39) R. Poertner, op・cit-, p、201., J.BrOndsted,".ご"., p.152.

40) K.RandSborgによれば,へデビューの墓域では人骨100体の無作為抽出を 行なうと,成人に達したもののうち62%が男性, 38%が女性によってしめら れるという。艇耕的な定住地ならいざしらず、ヘデピューのようにとりわけ女 性労働を必要としたとは考えられぬところで多数の女性が包摂されていたのは, 出産時における死亡の危険性,従ってそれと関わる女性の短命さの結果である ともみられる。Cf.KRandsborg, (ゆ.ど". , pp、80-82. 41) Cf. J・ Simpsun,"・仁〃‘, p、90. 42) ヘデューの人口規模は次のような方式で推定されている。Populationsize=

Nc. o(graves(1UOOO)×average lifeexpectancy(30, 0r,perhaps40years)/ Periodof。cCupalion (250-300years)Cf.K・ Randsborg,"r"., p.80.

(20)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデビュー(Hedeby)の諸相 防壁の北側にみられる要塞ないし丘砦(Hochburg,highfortress)の存在 なのである〔図3参照〕。 この場所は土塁で囲まれた高台をなしており, その規模は約200×50m で醗頂部の高さが25mあった。 しかし, ここからは考古学的発堀によっ て居住の形跡を示す出土品を全くみていないといわれている。 しからぱ, それが当時いかなる役割を有したのかということになるのだが,交易拠点 としての重要な機能をふまえれば,おそらくそれは海賊などの襲来に備え た見張所, もしくは住民の避難場所であったに相違ない。筆者がかつて考 察したことのあるスウェーデンの交易拠点ビルカ(Birka)でも,同種のも のがあったのである。 5. へデビューの存在意義 一結びにかえて− 既述のように,西欧とスカンジナヴィア諸地域を結ぶ理想の地理的位置 を得て, へデビューは元来フリージア商人の商品積みかえ地もしくは休息 地として出発したと考えられようが, 9世紀初頭にはデンマーク王(= Godfred)による商人の強制移住をともなって,やがて定住民を有する都 市集落としての発達をみた。 従って, この場所は彼の経済的関心と政治的・軍事的配慮を背景として 本格的な発達への契機を与えられたのである。 けれども,へデビューの支配をめ<・るその後の政治的抗争には複雑な経 緯があったと思われる。先ず, 9世紀の末葉から10世紀にかけてスウェー デン王室の支配をうけていたことは前節でみた考古学的証拠によっても明 らかになっているが,同じく10世紀の934年にはザクセン王家出身のハ インリッヒ1世(Heinrich)が大軍を率いてエイダー川(Eider)国境をこえ, へデビューを征服している。そして彼はクヌーバ王(Knuba,Chnuba)を 受洗させ,同時にまた当時は降伏者の慣行となっていた貢納金の支払いを 強制した。 もっとも, この段階では貢納支払義務を負担する綴かな従属関 -35- 19

(21)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 係にとどまっていたのだが, 974年には再びデンマークを攻撃してハラル ド青歯王(HaraldBluetooth)を破ったオッ トー(Otto)Ⅱ世によって併合 されている。 ところが, 10年後には再度ハラルドの子, スヴェイン双韓王 (SveinForkbeard)がこの場所を奪回することに成功し, デンマーク領と したのである43〕。 こうした政治的抗争にあって, へデビューを破壊しその終焉をもたらす ような決定的な出来事は1l世紀の中葉に生じた。即ち,それは1050年に おけるノルウェー王ハラルド (HaraldHardrada)の攻撃である。彼の軍 勢はスヴェイン王(SveinEstridsson)の手薄をついてへデビューを掠奪し, さらに火を放ちこの都市巣落を灰壗に帰せしめた4‘)からである。 もっとも,文献史料上ではブレーメンのアダム(AdamofBremen)が 「ハンブルグ教会大司教伝』 (G"""α碗擁α6灘噌ど"sjsE"'""EP・諏嘩一 “”の記述中, ヴェンド人(Wends)による1066年のへデビュー掠奪を 伝えているといわれるが,既にノルウェー王ハラルドによる上述の破壊後 に残存した住民は, その大部分がスリー・フィヨルドの他の地点,即ち今 日のシュレスヴィヒ (Slesvig,Schleswig)へと移動した“)というのが通説 である。 以上のように, へデビューの衰退と関わったこの地をめぐる政治的抗争 は無視のできないことなのであり,例えば前節でみたような当該地での手 工業的営みも, そのすべてが1,000年以前のものとされ,およそ11世紀 43) へデビューをめぐるこのような政治的抗争については,例えばCf.Gwyn

Jones, '1"i,/oryqff/leV蝉"gs (Oxford, 1969), pp.lll-113, p. 128ff., PalleLauring, rl"isZOryqfDEM加αア良 (HBSt&SBn, 1976), pp.49-51., RUdOlfPOermer,TAGWAi"9s,RiseandFallof theNDrthSeaKingS(St.

JamesPr"5,1975),pp・ 198-200, KiavsRandsborg, TノleW""gAgEj" DE"禰口rA (StMarti ,)'sPress, 1980), pp.12-14.

4。1) Cf. JDI'annesBrondsted,"IEVj腕河gs (PenguinBooks, 1976) , p・ 153., G. Jones, 0/D. r". , p. 181, pp407-408., R, Poertner,"-f,". , p.200、,Herbcrt

Jankuhn,〃α"/』α"、 EinHandelsplatz derWikingerzeit (KarlWachhOltz Verlag,1976),S,273.

45) Cf. J. Br9ndsted,". r〃., p. 154., R・ Poertner,".r"-, p.200.,G Jones,

".r"., pp,387-388.

(22)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 以降に帰属せられる考古学的証拠は認められないイ6〕という。従って,おそ らくそれは激い、政治的抗争による混乱を経験したヘデビューの住民が極 度に減少したために,手工業的生産が停止を余儀なくされたことの結果で あると思われる。 もっとも, ジョーンズ(GwynJones)などの指摘にもあるように,へデ ビューの主要な存在意義についていうならば一時的には確かに繁栄をみた 手工業的営みにとりわけ重点をおいて考える必要はないかも知れない‘"・ 実際, この場所が占めた最大のウエイ トは他ならぬ交易にあったからな のである。 スカンジナヴィア諸地域で発見されるヴァイキンク'時代の出土品のうち, 西欧に起源を有するものの多くがへデビューを経由した‘6)といわれるが, まさにこの場所はその創始から衰退に至るまで短命でばあるが少なくとも 250年余りの間そうした遠隔地貿易の中継地たることに主要な意義を有し たわけである。そのことの例証については第三節でも少しく述べた通りだ が, さらにいうならば, ラインラントの陶器類をはじめとし, ワイン,ガ ラス容器と刀剣類,それに当時第一級の市場品目とされるフリージア産の 毛織物, その他多くの西欧商品が取引のためにヘデビューに到来し,ある いはここからバルト海沿岸地方へと運ばれている‘9)。 他方においてへデビューは, スウェーデンのビルカやノルウェー南部の スキリンク.スサル(Skiringssal,Sciri"gESJl"Z)即ちカウパング(Kaupang) 46) H. Jankuhn,α、α.0.,S、245. 47) ジヨーンズ(GwynJoneS)は, この地で作り出された手工業製品が当時の国 際商品に対抗しえるほどのものであったとは考えていない。彼はヘデビューの 手工業製品がこの都市築落の居住者,あるいはそこを通過した富裕な人間をい わば直接の消費対象としたものかも知れない, という。Cf.G. Jones, Op・ 亡〃” p. 180.

48) V91.Herbert Jankuhn,D/C』鰹噌J-fz6""gffrl j"Hα"んα"1937-39(Berlin-Dahlem,1943),S.53-88.,P,H, Sawyer, 7./lfJ J1geq/zAEVIAi"9s (Edward

Arnold,1975),pp、187-188.

49) C{,R.Poermer,妙. ご〃., Pp、 210212,, HolgerArbman, 7'/lfPWA2"9s (Thames&Hudson,1970),platel7andthecommentaries,p.198.,Jacqueline Simps0n,TThEVj睦涯gW。γ"(B.T. EatsfCrd,1980),P.90,pp 92-94

(23)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 など.共に当時の北欧で主要な交易拠点をなしたところと相互に結びつき, それによって形づくられるいわば三角形の交易ルート上にある終点として, 逆にスカンジナヴィアから西欧へとむかう商品の仲介をした。因みに, ス カンジナヴィア商人が西欧市場に提供しえた主要な商品に,例えば毛皮や 暁珀,石材製品そして奴隷などがある。 これらのもののうち,毛皮についてはビルカがその代表的な築積地をな しており,北欧スウェーデンで得られた良質のものが, ここから輸出さ れ‘。〕へデビューの市場で取引の対象となったろう。また,石材製品の取引 で中心地をなしていたのがノルウェーのカウパンク'である。 この地方が豊 富に産出した滑石ないし石鹸石(Steatite, soapstone)は, その自然的特質 一切削加工の容易さと耐火性一を生かして例えば調理容器や碗,ある いは金属を鋳造する際の鋳型などに多用せられたが, それらの石材製品が 扱われた主要な市場の一つをなしたのもヘデピューなのである‘'〕。 しかしまた, スカンジナヴィア商人は奴隷商品の取引を活発に行なった ことでも注目に値いする。およそヴァイキング時代における奴隷の調運は, 当時の東方交易ルートーいわゆるアストゥルヴェーグ(astrvegr)−を 中心に, スラヴ人を主要な供給源として行なわれ,ほぼスウェーデン系ヴ ァイキング商人ルス(Rus)ないしヴァレーク' (Varもgue,zj"-yfzg)の独占す るところであったとみなさ説る5型)。 そうした奴隷商品は,多くがアラビア世界にむけて売却されたといえよ うが, その他農耕・漁携の労働力として, あるいは時に異教時代の神々の 犠牲に供される対象としてスカンジナヴィア地方にあっても舗要を有した と考えてよい。因みに, その販路の一つ力:北海・バルト海経由の古い奴隷

50) Cf.R.Poertner, 。ID r"., pp.218-219, J.Simpson, OP. r"-, p-94. また, 拙稿「ヴァイキンク期スウェーデンの交易拠点一ピルカ(Birka)の盛衰につ いて−」 (「東北学院大学論築』経済学,第84号所収) , 42頁参照。

51) R. Poertner, OP. c". , p'219., J.Simpson,". L・"., pp、 87-88. , Haakon Shetelig,S""錨"aTJja〃A〆仁/l4"JDgy (OxfOrd,1937),p、276.

52) 拙稿・前掲鵠文, 47-48頁参照。

(24)

ヴァイキング期デンマークにおけるヘデピュー(Hedeby)の諸相 ルート即ち「濡れた道」 (wet route)であり53)7奴隷市場としてのヘデビ ューがまたそこに位置していたのである。考古学的にみた場合, この地で 鋳造された貨幣一とりわけ, いわゆる「半プラクテアート貨」 (half-bracteates)−が広範囲にわたり散在し出土する‘‘)ことも, そうした奴隷 商品の売買が活発であったことを関接的に示唆するものと思われる。 いずれにせよ, これらの理由からへデビューはまさに北欧における第一 級のヴィク(”た)であったのはもとよりのこと,おそらく当時の西欧諸地 域に存在した他の交易拠点と比べても劣ることのない国際性をおびていた とさえいえるだろう。 (1982.9.25) 53) R.POermer,QP.r".,p 220.,J.SimpsOm,OP.C", pp.90-91. 54) Vgl.HerbertJankuhn,a.g.0.,S.229,Abb. 57V"6ref""gfffrscg"αか "JEFIHE生む二""6〃α趣巴““. −39− 鐙

参照

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