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南船北馬集 : 第九編 利用統計を見る

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南船北馬集 : 第九編

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

14

ページ

9-126

発行年

1998-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002955/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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︵ 4.刊行年月日   底本:初版 大正3年7月31日 5.発行所   国民道徳普及会 1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   188×127㎜ 3.ページ   総数:129   目次: 1   本文:128

鞍灘躍覇難

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山口県巡講第二回︵周防国︶日誌

南船北馬集 第九編  大正二年十一月十六日︵日曜︶ 快晴。暁霧あり。午前八時半、新橋発、特急に乗り込む。東海道は刈稲最中な り。尾濃地方は大演習の最終日にして、兵なお各所に屯在す。楓葉は霜を経て二月の花よりも紅に、柿樹は葉す でに落尽して、紅実のみを枝上にとどむる期節なり。  十七日 晴れ。午前十一時、山口県豊浦郡小月駅に着し、随行来島好間氏とともに車行一里半、小嶺を上下し て豊東村︿現在山口県豊浦郡菊川町・豊田町﹀字田部に着す。会場および宿坊は延竜寺なり。その前隣、教念寺泉鉄崖 氏は先年来の旧識たり。農家の麦まきも大半終了せり。主催は助役藤本嘉右衛門氏、校長河本亀寿氏、医師石丸 又蔵氏等の有志とす。晩に池田旅館にて会食を設けらる。   霜風一路入豊東、穫稲時過野色空、幸有残楓猶未尽、紅於花続梵王宮、   ︵霜をふくんだ風のなかを、一路豊浦郡の東の地に入った。稲の刈り入れも終わった野の色はむなしい。幸   いにして名残の楓葉がなおまだ落ちつくさず、花よりもあかい色をもって寺院をめぐっている。︶  十八日 快晴。小月駅に出でて乗車、吉敷郡大道村︿現在山口県防府市﹀に移る。当方は麦まきいまだ終わらずし て農繁期なり。会場譜光寺住職松本同三氏はもと九郎と称し、哲学館に在学せしことあり。氏は妖怪的天然石を 有し、余に題詩をもとめらる。よって一詠す。   此石元何物、河原漂泊身、有人来救汝、咄勿作魔因、

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  ︵この石は元来なにものであったのか。河原にさまよう身となっていたものを、ある人がきて汝を救いとっ   たのである。さて、もはやあやしげなるもののもととはなるなかれ。︶  当夕は当地の旧家にしてかつ多額納税者たる上田寧二氏の宅に泊す。その屋名を不昧居という。庭前に薩州侯 手植えの松樹あり。これを延齢松と名付く。昔時、頼山陽九州行の途次、この宅に滞留して松樹の記を作れりと て、その墨跡、今なお存す。余は山陽所吟の周防途上作の次韻を試みて当家に贈る。   延齢松下独低回、吟賞満庭翠色堆、最好清風明月夜、蒼竜握玉入窓来、   ︵薩摩侯が手植えという延齢松のもとで、ひとり立ち去りがたい思いで歩き回り、庭園に満ちあふれるよう   なみどりが、うず高くもり上がっているのをじっくりとめでる。清らかな風と明月のこの夜は最もこころよ   く、東方の神が玉をいだいてきたごとく、窓より差しこむ月の光はいよいよ明るい。︶  その夜、清風明月、この詩意を実現す。主催は大道会にして、村長高和一氏、神職林豊宣氏、助役能野源治郎 氏等の発起にかかる。この地は故大村兵部大輔の出身地なり。  十九日 穏晴。午十二時、大道村を発し、湯田駅に降り、これより車行一里、吉敷村︿現在山口県山ロ市﹀小学校 に至りて開演す。本村は教育および青年会、大いに発展せりと聞く。主催は村長佐々木正一氏、教育会副会長谷 川熊五郎氏等なり。夜に入り、円正寺にて更に開演す。宿所は田中甚吉氏宅なり。  二十日 晴れ。朝気︹華氏︺五十度。車行二里強、山口町を経て宮野村︿現在山口県山口市﹀常栄寺に休泊す。この 寺は雪舟の築きたる林泉あるをもって世に知らる。往古、大内氏全盛時代、京都金閣寺に擬して築営せしものな りという。池形は心字状をなす。池畔に一株の楓樹あり、その色、三春を欺く。日々来観者あるよし。余、一詩 10

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南船北馬集 第九編 をとどむ。   三呼嶺下有禅堂、泉石自含般若光、聞説雪舟揮妙手、築斯色即是空荘、   ︵三呼嶺のもとに禅院があり、泉も石もおのずと悟りの知恵の光をたたえている。聞くところでは、雪舟が   その妙手をふるって庭園を作ったという。築造はまさに色即是空︹万物は本来空無︺のみちを示している。︶  三呼嶺は庭外の高峰なり。会場公会堂は村役場と棟を同じくし、教会堂の形を有す。主催かつ尽力者は村長中 島丹氏、助役藤野莞爾氏、校長国重音之進氏、および長井徳次郎氏、沖田治郎氏、桑原秋成氏、山崎金蔵氏等の 諸有志なり。朝鮮総督寺内︹正毅︺伯の旧家は本村にあり。  二十一日雨。常栄寺より二里、坂路を経て仁保村︿現在山口県山口市﹀に入り、小学校にて開演す。この日、青 年会発会式あり。途上の村落なお秋色をとどめ、銀杏黄、楓葉丹、その間に菜緑柿紅を交え、また、離辺に残菊 の霜に傲るあるは、いささか吟賞するに足る。その夜、信行寺に宿し、かつ各宗寺院の依頼に応じて夜講を開く。 住職桃林皆遵氏は哲学館大学出身にして、今回大いに尽力あり。その他、発起および尽力者は皇徳寺住職井原道 隆氏、村長吉富恒輔氏、青年会長山根勝一氏、信用組合長吉富寅市氏、および西島治三郎氏、岡田幾三郎氏等な り。山口県にてはミコロ寄せのことを仏呼び出し、または仏起こしというが、本村にその術に熟練せるものあり て、遠近よりきたりて亡者の音信を聴くとの話を聞けり。  二十二日 晴雨不定。渓川に沿いて下行二里、大内村く現在山口県山口市∨に至る。渓頭の秋色、松竹の間に紅葉 の点々たるは愛すべし。本村には大内氏の遺跡多しという。佐々木旅館に少憩し、小学校講堂にて開演す。主催 は青年会にして、村長荒川信介氏、校長今井勇熊氏、助役佐田実蔵氏、青年会幹事宮原恒一氏等の発起にかかる。

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当夜、宿坊光円寺にて更に講話をなす。順教会の主催なり。山口町より戸田、岡原、佐波、名護谷諸氏来訪せら る。その距離一里ありという。  十一月二十三日︵日曜兼新嘗祭︶ 晴れ。車行約一里、小鯖村く現在山口県山口市v景好寺にて開演す。主催および 尽力者は住職滝沢清行氏、村長篠原栄之進氏、村会議員渡辺清治氏、助役矢野植之進氏等なり。当夕、同寺の書 院に宿す。その洗手鉢の台は天然石の角柱、その高さ一丈二尺なるは驚くべし。山口県七不思議の一に加えて可 なり。佐波郡役所より書記佐内令作氏きたり迎う。この界隈は麦まき終わりを告げ、朧頭芽色青々たり。  二十四日 晴れ。景好寺を発し車行三里、佐波郡三田尻駅に向かう。郡界まで桂木郡視学の送行あり。氏は先 後約二週日の間、各所へ案内の労をとられたるを深謝す。ここに佐波山洞道あり。その長さ約二百間、洞中数十 カ所に点灯あり。洞道を一過して佐波郡内に入れば、気候寒温を異にし、風光したがって明媚、冬より春に転じ たる心地をなす。途上吟一首あり。   二百余間洞道長、行過身入佐波郷、水明山紫冬猶暖、霜月防南未見霜、   ︵二百余間のほら道は長く、ここを通過して佐波郡に入った。山紫水明の風光美しいこの地は、冬も恐らく   暖かいのであろう、十一月の周防の南部はまだ霜もおりていない。︶  農家は目下麦まきの最中なり。三田尻駅前石田旅館三層楼上に一休したる後、郡視学河村敏衛氏の先導にて車 行一里、華城村︿現在山ロ県防府市﹀光宗寺に至り開演す。郡長水野尚一氏も来会せらる。当寺は防州屈指の大坊に して、檀徒千戸以上を有す。住職神保達元氏は哲学館館賓にして、副住職神保達見氏は東洋大学出身なり。また、 本村は模範村にして、かつ民家豊富なるよし。村内の田地平均一戸一町歩以上に当たるという。主催は信用組合 12

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南船北馬集 第九編 にして、その長は徳光良策氏なり。しかして村長は吉武虎太氏とす。当夕点灯後、石田旅館に帰りて宿す。  二十五日 晴れ。車行約二里、華城村を経て西浦村︿現在山口県防府市﹀に至り開演す。途上、一望群山起伏する も、松樹これに冠し、樹間に赤土を露出し、紅葉の目に触るるなきは秋色の乏しきを感ず。会場信行寺副住職久 保玄又氏は哲学館大学出身なるも、目下京都にあり。当住職は奇石を好む。一石その形、観音に似たるものを自 ら拾得したりとて、これを愛重することはなはだし。余、その嘱に応じて一首を賦す。   主人愛奇石、拾得聖観音、如笑又如語、対来養道心、   ︵住職はめずらしい石を好み、聖観音に似た石を拾って大切にしている。その姿は笑うがごとく、また語り   かけるがごときようすで、この石に対していよいよ求道の心をつちかうのである。︶  村内には製塩を業とするもの多し。主催は村長柳寛三郎氏、助役柳雅利氏、収入役椎木東一氏等なり。夜中、 寒風に対抗して石田旅館に帰行す。  二十六日 曇晴。車行一里半、中関村く現在山口県防府市v小学校に至りて開演す。校舎美ならずといえども、校 内清潔にして諸備整頓せるを見る。本村はいわゆる三田尻塩の本場にして、その産額は全国中第二に位す。すな わち第一は香川県坂出、そのつぎは本村なりという。村名を中関というは、昔時、防長米を運出する海関に上中 下三関ありし、その一なるによる。主催は村長加藤勉二氏、助役吉武丑雄氏、校長奥田乙治郎氏等なり。当夕、 村内の富豪家尾中郁太氏の宅に宿す。主人は大阪藤沢門下より出でて、詩文をたしなむ。  二十七日 晴れ。この日再び三田尻に帰り、防府町︿現在山口県防府市﹀成海寺において開会す。その寺もと宝成 庵と称せしを、故伊藤︹博文︺侯爵より授かりし額面の文字に基づきて成海寺と改め、住職有田玄法氏の托鉢の力

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によりて大伽藍を新築せり。主催兼発起は郡長、郡視学をはじめ、町長長野範亮氏、有志家下瀬真輔氏、山内和 輔氏等なり。山内氏は旧知にして、もと哲学館館賓たり。演説後、宮市天満宮前の大明閣三層楼上において晩餐 を供せらる。眺望、大いに佳なり。防府町は三田尻、宮市二町より成り、宮市は天満宮をもって知らる。その大 祭は毎年十一月中の望日︹陰暦十五日︺をもって行う。昔時、遠州見付の天満宮祭と同じく裸体なりしが、近年は 下に白シャツを着け、その上を白木綿にて巻き付くることになりて、白衣祭りに変ぜり。しかし、万余の男子み な同装をなせる情態は勇ましきものなりという。当日は遠近より来観するもの山を築くに至る由。宿泊所はやは り石田旅館なり。  二十八日 晴れ。車行一里、佐波川を渡り右田村︿現在山口県防府市﹀に至りて開会す。本村は農村なるも比較的 士族多く、大村なるもよく円満を保ち、産業組合最も発達せりと聞く。会場は乗円寺、主催兼尽力者は村長山本 喜熊氏、助役藤井安熊氏、信用組合理事大尾敏尾氏、実業家中村源兵衛氏等なり。当夕は村内の富豪田中稔氏の 宅に宿す。主人不在、老母その齢八十に近きも嬰錬たれば、主人に代わりて来客の接待をなす。  二十九日 晴れ。朝気︹華氏︺四十五度、地上霜を見る。水野郡長来訪あり。宿所を出でて行くこと十余丁、右 田小学校の背面に奇嵩突兀として屹立し、行人をして顧視せしむる奇山あり。これを石船山という。これより更 に行くこと十余丁にして毛利男爵の邸宅あり。会場は小野村︿現在山口県防府市﹀小学校なり。行程二里に余る。佐 波川にそいてここに至る。開会は助役岡村久一氏、校長吉田京亮氏等の発起にかかる。当夕、校側の宿舎に宿す。  十一月三十日︵日曜︶ 雨。河村郡視学の案内にて堀駅を過ぎ、島地村︿現在山口県佐波郡徳地町﹀に至る。渓山の 間に渓川にそいて一条の駅道ありて、車行自在なり。行程約四里。本村は故島地黙雷師の住せられし地なりとて、 14

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南船北馬集 第九編 村内の有志相集まりて紀念堂を造営せり。これを雨田草堂と名付く。その堂は方丈に過ぎざる小庵なるも、渓崖 の上にありて自然の風致に富み、蒼々たる山色顔前にかかり、濃々たる水声枕頭に鳴る、これ小仙関なり。同師 の遺作を次韻して二首を賦す。   浜渓遍遠境途清、泉石作媒詩自成、今夕吟身何処寓、白雲堆裏雨田城、   ︵谷をさかのぼることいよいよ遠く、あたりのようすはますます清らかとなり、泉石の自然さは詩作のなか   だちとなって、詩はおのずから成る思いがする。今夕、この吟遊の身をいったいどこに寄せようか。ここは   白雲がうずたかくかさなるところの雨田荘である。︶   渡水崖頭草径斜、雨田荘在此渓涯、水声洗浴心還浄、知是上人遺愛家、   ︵水べの崖を渡ったあたりに草しげる道がななめにつづき、雨田荘はこの谷のきわみにある。谷川の水の音   は洗うがごとく、心は清浄になる思いがして、こごこそが上人遺愛の家なのである。︶  黙雷師の出生地はこれより更に三里の山奥なる和田村字升谷なりしも、本村にきたりて妙誓寺に住職せられし という。会場は小学校、宿所は雨田草堂なり。主催かつ尽力せられたる人々は村長宇多田都二郎氏、助役田中要 蔵氏、書記永村孫三郎氏、藤田助一氏等とす。宇多田村長は大いに雨田草堂の経営に尽力し、目下、堂背の高所 に一大紀念碑を設置することに着手せり。村内の副産業は製紙なり。その紙を徳地紙と呼びきたる。また、茜蕩 玉を産出す。都濃郡よりは郡視学斎藤彦一氏、ここにたずねきたりて迎えらる。  十二月一日 雨。島地村を発し、途中、人夫を雇いて先引きをなさしめ、郡界嶺を登り、車行二里半、都濃郡 湯野村く現在山口県徳山市∨に入る。雨ますますはなはだし。本村は四面山をめぐらし、すりばち形の地勢なり。天

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然の温泉あるも温度低しという。会場は常照院、主催は住職田中鉄道氏なり。氏は哲学館出身者たる縁故をもっ て会主となられたり。しかして村長永末雄次郎氏、校長御手洗祐氏等これを助く。ときに一首を案出す。   華尽佐波渓上峰、泥途衝雨入都濃、時尋禅寺傾般若、酔後忽為円悟宗、   ︵佐波の谷をよじのぼって峰にいたり、泥深い道を雨のなか都濃郡に入った。ときに禅寺をたずねて般若湯   ︹酒︺をかたむけ、酔った後はたちまち円満に真理を悟る第一人者となったものである。︶  山号を円悟山という。故に結句、これに及ぶ。大雨、夜を徹す。  二日 雨。車行二里、渓頭なお霜後の残葉をとどめ、紅点々たり。︹福川町︿現在山口県新南陽市﹀に入る。︺宿所は 停車場前中村旅館、会場は曹洞宗真福寺なり。その寺は防州三福の一なりという。その意は、山口町の竜福寺、 防府町の長福寺と、この寺とは、防州における曹洞宗内の大寺院なるによる。開会は町長田中栄太郎氏の発起に して、校長河村卯作氏これを助く。本町の生産は農、商、漁の三業より成るという。  三日 曇晴。この日、雨やみて風寒し。ときどき微雲雪片をもたらしきたる。車行約一里、富田村︿現在山口県 新南陽市、徳山市﹀善宗寺に至りて開会す。村長道源権治氏、助役久楽東一氏、書記徳原甚造氏の発起なり。道源氏 はもと貴族院議員たり。善宗寺は故香川菜晃氏これに住せり。宿所は新設劇場の正面なる丸万客舎なり。  四日 晴れ。朝寒︹華氏︺四十二度。昨日以来、にわかに冬に入りたる心地をなす。途上、はるかに高嶺に白雪 の積めるを望む。実に本年の初雪なり。車行一里、富田より徳山町︿現在山口県徳山市﹀に移る。午後零時半より中 学校に至りて一席の講話をなし、ただちに無量寺︵浄土宗︶に転じて開演す。時間属行なり。主催は町長粟屋鉄 太郎氏にして、助役吉田乙雄氏、書記藤井為次郎氏、ともに尽力あり。粟屋氏は余の旧識たり。当地は昔遊の地 16

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南船北馬集 第九編 なれば、多額納税者野村恒造氏、私立高等女学校長赤松照瞳氏等、みな旧知たり。当町小学校は萩に次ぐ大校に して、生徒二千三百人を有す。この地方の名物は沢庵漬けの大根なりとて、野外一面に青し。また、当町は故児 玉︹源太郎︺大将の出身地なれば、紀念図書館を開設せりと聞く。宿所は広瀬旅館なり。  五日 晴れ。ただし風ありて寒し。徳山を発し、馬の先引きにて栄谷の嶺に登る。嶺頭十余丁の間、道路改修 のために徒歩して須々万村︿現在山口県徳山市﹀に入る。この道程三里。村外に八幡社あり、社前に妖怪石あり。直 立約七尺、なにびとその下に立つも、身長の高下にかかわらず、その頭上に余すところの石の高さは同一なりと 伝う。本村は地位高きために、郡内最寒の地とす。故に田はみな一毛作なり。田間に藁塚︵これを山口県の方言 にてノウまたはトシャクという︶の林立せるは一奇観たり。会場は善徳寺、主催は郡役所、発起は助役竹村一農 夫氏、校長伊藤駿馬氏等とす。一農夫といえる名は希有なり。宿所小松屋には各室炬燵を設く。もってその寒気 の程度を知るべし。前日までは地上に雪の点在を見たりという。室内に、旅宿料は特等一円、上等七十銭、中等 五十銭、下等三十五銭と標示す。また、もって生活程度を推測するに足る。この日、途上吟一首あり。   霜気満天風裂顔、路懸菜圃麦田間、嶺頭一望前峰白、初雪已侵防北山、   ︵霜のきびしさが空にみなぎり、つめたい風に顔も切りさかれるかと思われた。道を行けば野菜をかけた畑   に麦の田がまじる。嶺の頂きに立って望めば、前方に見える峰々は白く、初雪はすでに周防の北部の山々を   そめているのである。︶  この地は三百年前の古戦場なりという。これより更に山間に入ること三里、鹿野村より招聰ありしも時間なき をもって謝絶せり。

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 六日 晴れ。朝気︹華氏︺三十九度、瓶水やや氷を結ばんとす。須々万より米川村を経て末武北村︿現在山口県下 松市﹀字花岡に至る。途中一里余、道狭くしてかつ険、車馬を通ぜず、よって徒歩して下る。行程三里、会場小学 校は八幡社の前にあり。社は岡上に立ちて門堂ともに風致に富む。なかんずく多宝塔は国宝に編入せらる。午時、 急雨一過す。開会主催は交誼会にして、その会長は郡内の富豪文学士堀正一氏なり。村長堀喜代彦氏、助役田村 寿美彦氏、校長原田多寿雄氏等助力あり。哲学館館賓石津太助氏、米川村より来訪せられ、郡長法学士田中省吾 氏、徳山より来会せらる。この地は徳山をへだつること二里、農家は昨今、麦耕最中にて繁忙を極む。  十二月七日︵日曜︶ 晴れ。花岡より車行一里、下松町︿現在山ロ県下松市﹀に移る。会場周慶寺は浄土宗なり。主 催は郡役所にして、町長岩本五郎氏、助役上利玖逸氏、校長林友之氏等助力せらる。哲学館出身宝城崇仁氏、久 保村より来訪あり。この町内の妙見社は前に鳥居を構えて一見神社のごときも、鷲頭寺これを有し、真言宗の所 属たり。郡内巡講一週の間、斎藤郡視学の各所へ伴行の労をとられたるを謝す。宿所は停車場前磯本旅館なり。  八日 快晴。下松より乗車、破窓より虹ケ浜の絶勝を傍視す。下松より室積に至る三里の間、浜頭一帯の白砂 青松あり。肥前唐津の寛林と東西相対抗す。松林の広くして樹幹の大なるは虹︹ケ︺浜は寛林にしかず、松林の細 くして長きは彼これに及ばず、しかして風光の秀霊なるは両者伯仲の間におる。車中吟一首あり。   冬晴今暁穏如春、村外麦田霜色新、路入熊毛海開書、松青沙白是虹浜、   ︵冬晴れの今朝はおだやかで、あたかも春のようであったが、村外の麦畑にはあらたに霜のおりたようすで   ある。道は熊毛郡に入り、海は画巻をひろげたように展開した。この白砂青松の美観は虹ケ浜である。︶  島田駅に降車し、熊毛郡視学木原茂也氏の先導にて三丘村︿現在山口県熊毛郡熊毛町﹀に至る。この地には前日三、 18

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南船北馬集 第九編 四回の降霰ありとて、山上に雪痕をとどむ。開会主催は村長有馬荘助氏を筆頭とし、小川恵次氏、小幡武祐氏、 三輪慶二郎氏、沢米吉氏等、村内の有志家なり。会場は小学校、宿所は有馬真氏の宅にして、氏は郡会議員たり。 村内円満、教育上の成績ことによしという。もと毛利家支藩の所在地なり。地勢水利に便なるがために水車多し。 終夜、その転々の声、睡媒をなす。この地方にては、米のモミを脱するに水車を用う。本村より二里を隔つる郡 内の最北村なる八代村には、年々期節を定めて白鶴群来すという。  九日 晴れ。午前、約一里、周防村︿現在山口県光市、熊毛郡熊毛町・大和町﹀西恩寺にて開会す。主催は同寺および 真行寺と村長樋山嘉七氏なり。水木宇一氏の宅に一休して塩田村に向かう。その距離二里あり。途中、故伊藤︹博 文︺公爵誕生地の前を過ぐ。車をとめて邸内に入れば、松樹をいただける小円邸の傍らに古井あり。碑石に﹁伊藤 公うぶ湯の井、天保十二年九月生﹂と刻せり。紀念館として一棟の西洋館あり。公の旧姓は林と称せり。その村 内に今なお林姓を有するもの七十五戸ありという。所感の詩一首を浮かぶ。   防山一路入寒郷、停杖松轡円処荘、探得藤公誕生跡、碑陰古井有余光、   ︵周防の山波に一路寒村に入り、杖を松の小丘まどかなるところの別邸にとどめる。伊藤公誕生の跡をたず   ね、いしぶみの裏やうぶ湯の古い井戸にも何か残りの光があるようであった。︶  村名は束荷と呼ぶ。随所松轡起伏し、渓狭く道迂なり。塩田村︿現在山口県熊毛郡大和町﹀の会場は小学校、主催 は青年会、宿所は正讃寺とす。しかして発起かつ尽力者は村長田中邦五郎、校長石川健輔、住職矢田観浄、素封 家熊野久兵衛、医師井上栄、助役田熊吉之進等の諸氏なり。夜また、婦人会のために一席の談話をなす。  十日 晴れ。正讃寺より車行三里、光井村︿現在山口県光市﹀真福寺に至る。寺は丘上にありて虹︹ケ︺浜を一敵す

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るによし。本村は実に青松白砂三里の中間にあり。村長渡辺義雄氏は文をたしなみ詩をよくせるをもって、虹︹ケ︺ 浜紀勝を編集する計画ありと聞く。開会主催は渡辺村長にして、住職金山蒙恩氏、僧侶浪山清真、渡辺流情、医 師中本慎吾、山田一甫、教員相本相助、村吏中野文右衛門等の諸氏、みな大いに尽力せらる。金山氏の父は桃谷 と号し、画をよくせるも、すでに隔世の人となる。同氏のもとめに応じてその遺墨に題す。   桃谷投毫去、今猶遺墨存、主人懸一幅、相対憶親恩、   ︵金山氏桃谷は筆を投じて世を去り、いまもなお遺墨が残されている。主人はその一幅を掛け、これに向か   って親の恩愛を思うのである。︶  本村および近村は醸酒のトウジの産地にして、近県および九州はトウジの供給をここに仰ぐ。全国中にてトウ ジを出だすことは丹波に次ぐという。  十一日晴れ。虹︹ケ︺浜を一過し、松影波光の間を一走すること里許にして、余の旧遊地なる室積町︿現在山口 県光市﹀に達す。海上に島喚隣接せるは大いに風光を助く。会場および宿所は長安寺なり。門側に喬松一株ありて、 その標木となる。室内の装飾品は多く台湾産を用う。農家は麦作最中なり。地気すこぶる温暖、ために十二月中 旬、蒼蝿なお群をなす。主催は住職村上達玄、町長小川英作、校長生駒芳雄、僧侶志熊勝道、助役福間直輔等の 諸氏にして、みな大いに尽力せらる。本郡に入りて以来、連日揮毫に忙殺せられんとす。郡内の山田は芸州式に して、絶頂に近き所まで耕作を施せり。  十二日 雨。夜来暖気に過ぎ、ために雨を催しきたるも、午後に至りて晴るる。早朝、長安寺隠宅楼上にのぼ るに、全湾眼下に落つ。峡角の突出せる所を蛾眉山という。これより車を駆り、熊毛半島の南端を一巡して曾根 20

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南船北馬集 第九編 村く現在山口県熊毛郡平生町∨に至る。その間海上の風景絶佳なるも、列島半ば雲煙に遮られて望むことを得ず。車 上の所見を詩中に入るる。   虹浜尽処室湾開、挟水松轡翠影堆、遺憾朝来雨粛颯、雲姻為壁鎖蓬莱、   ︵虹ケ浜の尽きるところに室積湾が開け、水をへだてて松の山、みどりの茂る姿がうず高く望まれる。ただ   残念ながら朝からの雨がものさびしくさっとばかりにふりしぶき、雲ともやが壁のごとくたちふさがって、   神仙が住むようなところをかくすのである。︶  この地方は気暖にしていまだ霜を見ず、故に離菊なお残る。行程三里、麻郷の渡船を経て曾根村字水場教相寺 に入りて開演す。青年会の主催なり。住職宝城行仁氏、村長加藤彦作氏、会長布浦松太郎氏、ともに尽力あり。 晩食に鯛飯を食す。これを長州にて鯛茶といい、この地方にてヒュウガという。日向国より伝えしによるならん。 もし茶の代わりに味噌汁をかけるときには薩摩という。宿寺は海に面し、海潮門前に寄せきたる。深夜起きて庭 前を歩すれば、月まどかに風白く、一輪霜月照寒潮の趣あり。ときに旧十一月十五日なり。  十三日 晴れ。車行約一里、佐賀村︿現在山口県熊毛郡平生町﹀に移る。これより二里半にして室津港に達す。こ の港と相対する所に防長三関の一たる上ノ関あり。佐賀の会場浄福寺は山腰にありて、風光明媚、眺望絶佳なり。 一帯の峰轡海をめぐりて大湖のごとく、天然の大庭池をなす。この地、冬最も暖にして、その温度、防州第一と 称す。主催者住職伊東慈薗氏、村長岡本五麓氏、校長白坂精一氏、僧侶中尾真了氏、佐竹霊瑞氏等、みな多大の 尽力あり。本村は郡内において模範とすべき村なりという。聴衆、堂に満ち外にあふるるの盛会を得たり。その 夕、浄福寺の別亭に宿す。夜に入れば晴空片雲を認めず、明月独朗を極む、あに一吟せざるを得んや。

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  峰轡断続海相従、雲水無心自作容、況復今宵一輪月、室津岬角照仙縦、   ︵峰々が断続するに従って海が現れ、雲と水は無心におのずからかたちつくる。ましてや、また今夜の一輪   の月は、室津岬先端の仙人が住み暮らした跡かと思われる地を照らしているのである。︶  十二月十四日︵日曜︶ 晴れ。午前、佐賀村を去り、東行二里、郡役所︹所︺在地たる平生町︿現在山口県熊毛郡平生 町﹀に至る。途中、塩屋ありて製塩の煙を吐くを見る。主催は青年会、会場は習成小学校の講堂なり。その堂内に は千数百人をいるるべき面積を有す。郡長岡村勇二氏も出席せらる。開会につき特に尽力ありたる人々は、町長 平田昌之進氏、校長浅海香一氏をはじめとし、佐々木諄氏、土谷太次郎氏、西田小一氏、西川馴治氏、その他七 名の諸氏なり。  十五日 晴れ。木原郡視学に送られて玖珂郡柳井町︿現在山口県柳井市﹀に移る。里程一里、柳井町は近年大い に発達し、その盛況は馬関に次ぐという。玖珂郡役所より郡書記福光禎太郎氏、ここにきたりて迎えらる。主催 は青年会にして、会場は小学校講堂なり。着駅および開会を煙火をもって報ぜらる。長さ十八間、幅七間の大講 堂なるにもかかわらず、満場立錐の地なく、その数少なくも千五、六百人以上の目算なり。発起かつ尽力者は青 木栄太郎氏︵町長︶、佐村清一氏、土肥敏雄氏、平井国三郎氏、その他十一名の諸氏とす。当地は甘露醤油をもっ て特産とす。また、大島郡の商権はここにて握るという。晩に至り雨を催す。中国旅館にて晩餐を喫し、ただち に大雨をつきて車を走らせ、半里余を離れたる新庄村︿現在山口県柳井市﹀小学校に転じ、講堂にて夜講を開く。 風雨ともに強き中、聴衆よく集まりきたる。本村は旧来の模範村にして、ときどき通俗講話を開催すという。主 催は同窓会にして、発起者は校長上司主計氏、村長森本今次郎氏、助役清水誉治氏とす。しかして宿所は志熊旅 22

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南船北馬集 第九編 館なり。  十六日 曇り。車行三里、渓間を上下して伊陸村︿現在山口県柳井市﹀小学校に至り、講堂にて開演す。主催は仏 教青年会、発起は会長兼重宇佐槌氏、村長星出斎氏、助役榎田政記氏等なり。この辺りの山田は二毛作をなす所 いたって少なし。演説後、車を走らすこと二里、祖生村︿現在山口県玖珂郡周東町﹀善徳寺に移る。日すでに暮れて、 寺門の前路数丁の間の田頭には、青年会の寄付にてろうそくを点火しおけり。当夕、開演。聴衆の半数は女子な り。室内には炬燵の設備あり。  十七日 曇晴。雲間ときどき日光を漏らすかと思えば、たちまちまた雪花をもたらしきたる。そのありさまは 北国の天候に同じ。この山間の地勢は山ようやく高く、谷ようやく広く、したがって米田多し。午前、小学校に おいて談話をなし、午後、宿坊において講演を開く。青年会の主催にして、住職井上将興氏、村長玉井修氏、郡 会議員高林太次郎氏、軍人会長藤中高次郎氏、校長田中浩介氏の発起にかかる。三時より雪にわかにくだる。郡 書記河野栄氏とともに車を連ねて雪をおかし、走ること二里、玖珂村を経て高森村︿現在山口県玖珂郡周東町﹀に達 す。その前すでに地ことごとく白く、衣もまた白し。   一路天寒客跡稀、朔風醸雪晩罪々、玖珂渓上駆車去、未達村時白満衣、   ︵一路は天気寒く、道を行く人もまれである。北風は雪をもたらして、夜にははげしいふりようとなった。   玖珂の谷のほとりに馬車を駆って行けば、いまだ村に到着せぬうちに、雪は白くわが衣をそめかえてしまっ   たのであった。︶  宿所は受光寺なり。夜に入りて天全くはれ、風かえって寒く、雪気凛として衣蓑に徹す。

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 十八日 晴れ。暁窓よりうかがうに地みな白く、水すでに氷を結ぶ。しかして室内の寒気︹華氏︺三十五度に下 る。午時開会。主催は藤島豊良氏なり。収入役三坂浦助氏、書記長倉、杉本、玉井、坂本等の諸氏、みなともに 助力せらる。演説後、更に車を駆り一嶺を上下し、二里半を走りて錦川沿岸杭名渡頭に至る。これより軽舟に樟 し清流にさかのぼる。水路一里強、二時間を費やせり。両岸は断崖千偲、山峻に渓深し、故にその水は灌概の用 をなさず。ただしその風光は﹁蘭亭記﹂のいわゆる﹁崇山峻嶺茂林修竹﹂︵高い山、けわしい嶺、うっそうたる林、 長くのびた竹︶、また清流の激濡するの趣を有す。ときに舟中吟一首あり。   雪後更加錦水寒、舟中坐擁火炉看、風光自似蘭亭記、修竹崇山爽激濡、   ︵雪の降った後はいよいよ錦川は寒く、舟中に座って手あぶりをかかえるようにして周辺を見る。景色は王   義之の﹁蘭亭集序﹂に述べられるありさまに似て、長くのびた竹、高い山が激しい流れをはさんでいる。︶  薄暮、北河内村︿現在山口県岩国市、玖珂郡周東町﹀天尾に着し、岸頭なる郵便局長広田伝太郎氏の宅に泊す。当夜 の会場は宿所より七、八丁を隔つる小学校なり。その主催は校長浴一良、高木直太郎両氏とす。  十九日 晴れ。朝気氷を結ぶ。舟中に炬燵を設け白幕を張り、箪食瓢飲を携え、郡役所農業技手林豊助氏、桑 根村長重野小六氏とともに錦川をさかのぼる。寒中の舟遊なり。舟子一人は樟を握り、一人は縄を引く、船徐々 として進む。天尾より桑根村︿現在山口県玖珂郡美川町﹀字南桑まで二里弱の間、二時間を要す。目下、車道開整中 にて陸上通行し難し。錦川は本県第一の大川にして、往々奇巌突兀、茂林薔葱、最も風光に富む。両岸の奇勝三 十三カ所ありという。その山勢の屹然として林色の蒼然たるは、紀州熊野山中の趣あり。この日の舟中吟、左の ごとし。 24

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南船北馬集 第九編   構炉船底樟渓流、温酒蓬窓磯吟眸、三十三奇看未尽、南桑繋績入仙楼、   ︵手あぶりを船底に用意して渓流をさかのぼり、酒をあたためて、とま舟の窓から詩情の目をこらして眺め   る。両岸に点在する三十三ヵ所のすぐれた景勝を見尽くすことなく、南桑村にともつなをつないで、仙人の   いるような楼閣に入ったのであった。︶  南桑に入る所に岩腹をうがてる燧道あるも、いまだその名を有せず。よって重野村長のもとめに応じ、碧雲洞 と命名せり。その意は、洞門の対岸に植林茂り、その樹影錦水に映じ碧雲の色を現ずるによる。会場は小学校、 宿所は平田屋旅館、主催は村長の外に河村禎蔵氏、田立俊 氏等の村内有志なり。この日、正午の寒暖︹華氏︺四 十四度以上にのぼらず。  二十日 晴れ。南桑より広瀬村︿現在山口県玖珂郡錦町﹀中央なる市まで三里の間、腕車を通ず。錦水にそいて進 行するに谷狭く山急に、ときどき岩石の累々たると杉、檜の蒼々たるを見る。また水底に赤石の敷けるあり。こ こを赤瀬と称す。村役場所在地に至りて、はじめて耕野麦田を見る。本村は、面積長さ七里、幅四里、人家千三 百戸、学校十一校、寺院九力寺、開業医四人あり。物産は薪炭、材木、山葵、両蕩玉等とす。村外の山上にはみ な雪を冠す。その最も高きものを馬糞山と呼ぶ。奇名なり。その山上の地質馬糞に似たるより、この名を生ずと いう。数年前より石州津和野および日原に通ずる車道開通しおれり。よって鹿足郡内の竹木は本村まで車送しき たり、これより筏を造りて錦川に流すよし。便船も広瀬より岩国まで八里の間通ずべし。客中の所見を詩に寓す。   山経水緯路相縫、踏破渓頭雲万重、積雪昨来埋馬糞、錦源十月已深冬、   ︵山をたて糸、川をよこ糸とするような地に、道はたがいに交錯しており、谷をゆきつめて雲の幾重にもか

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  さなる所を踏破してきた。昨日からの積もった雪に馬糞山はうずもれ、錦川の源となるこの地の十月は、す   でに冬にふかぶかと入っている。︶  当地開会は会場長栄寺、主催青年団、発起村長堀江転氏の外に堀江保氏、隅精作氏︵校長︶等なり。しかして 宿所は素封家堀江茂一氏の宅なり。当夕、分外の厚遇に接す。堀江村長は山葵漬けをもって本村の一物産となさ んと欲し、その命名を嘱せらる。よって余は錦漬と名付け、狂歌一首をつづる。   たべて見よ広瀬ワサビの錦漬、辛味ほどよく風味たつぷり、  この辺りの渓流にはヒラメと名付くる魚を産す。その形、海産のヒラメと全く異なりて、皮膚に斑紋を有す。  十二月二十一日︵日曜︶ 雨。未明早起き、暁寒を破り馬背にまたがりて峻嶺を祓渉す。道険にしてかつ狭く、 雪泥いまだ乾かざるに雨泥また加わる。随行来島氏は不幸にして落馬の悲劇を演じたるも、余は幸いにその厄を 免れ、三里の山道をつつがなく一過して本郷村︿現在山口県玖珂郡本郷村﹀に達し、小学校において開演し、米沢旅 館において休憩す。たまたま村長水谷治作氏病死の際にて、助役馬頭哲氏代わりて主催せらる。午時、本郷を発 し、更に馬上に駕し峻坂を上下し行程二里、郡内の北海道と称せらるる秋中村︿現在山口県玖珂郡美和町﹀に移る。 屋上および田野には点々︹と︺雪のなお残るあり。しかして山上は鎧々の色をとどむ。会場は小学校、主催は村長 玉田竜作氏、校長坪井三郎氏、玉田専一氏、助役貝嘉作氏等、宿所は広兼佐兵衛氏宅なり。終日雨やまず、四面 車道いまだ開通せず。交通すこぶる不便なるも、山隈渓頭には米田ありて、その量、村民の糊口を支うるに足る という。一反の収穫高はおよそ一石五斗にして、俵は三斗をもって一俵とするよし。風俗淳朴にして一仙郷なり。  二十二日︵冬至︶ 穏晴。早農、天いまだ全く明けざるに旅装を整え、馬蹄厳霜を踏みて宿所を発す。ときに残 26

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南船北馬集 第九編 月霜と相映じて白し。いわゆる﹁鶏声茅店月、人跡板橋霜﹂︵暁を告げる鶏の声とかやぶきの店を照らす残りの月、 板橋の上の白々とした霜に人の通った跡が残る︶の光景を現ず。行程七里、その間、坂路を登降すること数回、 最後に松尾坂を下る。峻坂険路二十丁の長きに及ぶ、県下第一の難路と称す。一名これを眩︹メマイ︺坂と呼ぶ。 坂路のあまり峻急なるによる。嶺下に腕車の余行を迎うるありてこれに転乗し、右方に天下に名高き錦帯橋を望 見しつつ岩国町︿現在山口県岩国市﹀市街に入る。ときに午後一時半なり。六里馬背、一里腕車を用う。本県に入り し以来、この両三日ははじめて南船北馬を実現せり。岩国会場は小学校なり。その建築費十万円を費やし、校舎 の壮麗なる県下第一のみならず、山陽第一の評あり。旅館松声館は昔遊当時の宿舎にして、熊谷最勝氏および二、 三の有志はそのときの旧知なり。当夕、郡長松浦誠氏、中学校長金子幹太氏、町長森生惟輔氏、高等女学校長太 田義弼氏、裁縫女学校長隅竜童氏、小学校長山県有氏等と会食す。発起は教育会長大塚謙三郎氏等の諸有志にし て、吉田泉氏、雑賀実氏等尽力あり。郡視学岡乙熊氏は昨今退職せられたり。朝夕、日蓮太鼓枕上を襲う。  二十三日 晴れ。錦帯橋は遊覧するの時間なきも、先年一見せしにつき、詩を賦してその一斑を模す。   誰教厳島芸陽驕、伯仲相争錦帯橋、此寛喩竜猶未尽、吾疑唇気架雲審、    ︵だれが厳島の景観は安芸︹広島︺のほこりであるとつげたものであろうか。その優劣は錦帯橋と争う。橋は   にじにくらべ竜にたとえるも、なおいい尽くせるものではなく、私には蟹気楼の大空にかかる姿と思われた   のだった。︶  午後一時、岩国を去り、腕車一里半にして灘村︿現在山口県岩国市﹀に達す。会場小学校は高燥の地にありて、海 に面し島に対し、眺望大いによし。主催は村長村重虎之助氏、助役木村幸太郎氏、藤本加図太郎氏、井上要蔵氏

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等の村内有志にして、ともに尽力あり。晩景に至り北風寒く、晴天に雪片を散らしきたる。村内は漁家多く、ナ マコをもってこの地方の特産とす。宿所は藤生駅前藤洋館なり。旧儒にして陽明家の泰斗なる東沢写翁は、この 地に居住せられし縁故をもって、所在その門生いまなお多し。  二十四日 晴れ。灘より由宇村︿現在山ロ県玖珂郡由宇町﹀まで二里の間汽車にて移り、丘上の社側なる小学校講 堂において開演す。建築壮麗なり。今より旬日前に新築落成式を挙行せりという。海山の眺望また佳なり。主催 は青年会にして、尽力者は村長山本元太郎氏、助役高本喜代助氏、校長井本為熊氏、および玉田隆義氏等とす。 宿所三国屋別館は旅館風にあらずして別荘風なり。軒下に古色を帯びたる小庭池あり、その閑雅愛すべし。余は これに苔香庭と命名す。本村は岩国、柳井両町の中間にありて、いずれへも四里を隔つ。人家相集まりて市街の 形をなす。村内の特色は、神葬祭を行うもの比較的多き一事なりという。由宇駅より二十八町を離れたる所に大 将軍と名付くる神社あり。福島県田村郡の元帥神社と好一対の社名なり。  二十五日 晴れ。農業技師林氏は一週間渓山を祓渉して、案内の労をとられしが、今朝手を分かち、汽車に駕 して再び熊毛郡に入り、田布施︿現在山口県熊毛郡田布施町﹀駅に降車し、円立寺婦人会に出演す。会場および宿所と も同寺なり。住職および吉見延次郎氏奔走せらる。この日、寒温、朝︹華氏︺三十六度、午後︹華氏︺五十一度なり。  二十六日 快晴。朝八時半、田布施を発し、大島駅に降車す。これ大島郡渡海の津頭なり。郡視学岡乙治郎氏、 小松志佐︿現在山口県大島郡大島町﹀村長吉田紋治郎氏の和船をもって迎えらるるあり。これに同乗して対岸に移る。 この海峡の最も狭き所はわずかに八丁なりという。約一時間にして開会地に着岸す。会場は明新小学校なり。宿 所は収入役長久素彦氏宅にして、村役場とその棟を同じくす。村内塩田多く、製塩を主なる物産とす。県立商船 28

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南船北馬集 第九編 学校は本村内にあり。気候暖かなれば、農家いまだ麦まきを終わらず。主催は村長吉田氏にして、屋代村長西村 庄兵衛氏、同助役村田栄太郎氏これを助く。西村氏は明治二十一年、余の米国渡航の際、同船に乗り込みしとい う。  二十七日 穏晴。小松志佐より久賀町の間、陸路三里、海路汽船の便あれども、未明四時の出航なれば陸行に 決し、朝八時、草鮭をうがち、橋霜を踏みて出発す。坂路を上下すること三回、渓谷の間には村落あり田畑あり。 民家は瓦屋白壁のみなれば、生計の豊かなるを知るべし。海山の風光、画図を欺く。厳島および能美島、眼前に 蒼々たり。午前十一時、久賀町︿現在山口県大島郡久賀町﹀に着す。これ本島の首府にして、郡役所ここにあり。会 場覚法寺は故大洲鉄然氏の寺にして、鉄也氏、今その住職たり。宿所は福田屋なり。主催は郡長横山素輔氏、県 会議員秋本孝太郎氏、町長升井五郎左衛門氏にして、尽力者は岡郡視学および郡書記児玉徳太郎氏、林年若氏、 太田鶴一氏等とす。当地の名産は温鈍と饅頭なり。温鈍は油を用いずして製するを特色とし、饅頭は大阪虎屋の 本元なりという。大島郡の本島を古来、屋代島と称せし由。丘山多く平地少なく、力作勤耕するもなお生計を立 つるに困難なりしが、今より数十年前、外国出稼ぎを開始して以来、年々巨額の金を送りきたり、目下すこぶる 富裕の郡となる。勤倹にしてよく労働に耐うるは郡民の特性なりとす。全郡七万人余の人口に対し、五、六千人 は今なお海外にありて労働に従事する由。婦人、小児に至るまで、故郷を去りて海外に遠航するをいとわざる風 あるは、他県人の及ばざるところなり。よろしくこの風を模範とすべし。  十二月二十八日︵日曜︶ 晴雨不定。早朝六時、起床。七時、微雨の中汽船に駕し、志佐、柳井、室津の諸港を 経由して平郡村︿現在山口県柳井市﹀の一離島に向かう。ときに風強く波高く、船体大いに揺動せるも、幸いに無事

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にて東部落に着岸す。岸上多数の人々に迎えられて宿所浄光寺に入る。時針、一時を報ず。少憩の後、小学校に て開演す。老弱男女群集し、校内にあふれて校外に及ぶ。その聴衆と戸数とを比算するに、= より三人ずつ出 席せる割合となる。当夜、宿寺において更に開会す。これまた満堂なり。本村は他所にてヘグリと呼ぶも、当所 にてはへーグンという。周回七里半、面積二方里、本島を去る最近の所にても海上約二里を隔つ。戸数五百戸、 東西両部に分かる。東部三百戸、西部二百戸、その部落は島の両端にありて、中間二里八丁の間人家なし。村役 場は年度を定めて東西転換する規則なり。東部に五年間、西部に四力年を置く。かくのごとき役場の転換は、ほ かにいまだ聞かざるところなり。産業は農業と畜産なるも、農業は山険にして地狭く、畑一枚ごとに一方に石垣 を築きてこれを平らかにするほどなれば、肥料の運搬すこぶる困難なり。わずかに麦と薯とを作りて食料となす。 昨今、山田麦色すでに青し。その名を平郡と呼ぶも平地なきは奇というべし。牧牛は第一の物産にして、一年の 輸出三百七十頭に達す。従前はいわゆる切り替え作の方法を用い、牧場と畑とを五、六年目に転換し、畑には肥 料を施さざりし由なるも、今日はようやくこれを廃するに至る。一村の美風として伝うるところは、牧牛に与う る草はなにびと所有の山林に入りて刈り取るも自由なる一事なり。本村は毛利家の当時御船手役を命ぜられ、水 兵に備えられし由来より、今日にても全村みな士族にして、一戸の平民なきは全国中無類ならん。村民概して体 格よく、軍人なかんずく海軍志望者多しという。寺院は東部にニカ寺、真宗と禅宗あり、西部に一力寺、浄土宗 あり。学校、東西おのおの一校ありて、尋高︹尋常高等小学校︺を併置す。開業医は東西おのおの一人あり。人気 は一般に淳朴なるもやや偏執の風あるは、地勢の影響上やむをえざるなり。一言にて評すれば、防南の小蓬莱な り。ここに一奇談あり。ある年、徴兵検査に壮丁の学術試験を行いたるに、山口県には何々の郡ありやと問う。 30

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南船北馬集 第九編 某壮丁答えて曰く、熊毛郡、大島郡、平郡の三郡ありと。また、平郡に郡役所、郡長ありやと問うに、答えて曰 く、郡役所も郡長もなき郡なりと。これ伝聞のままを記するのみ。井水に白色を帯ぶるは地質のためならん。山 林に松樹のみなるは、石質にして潮風強きためならん。山腹には石骨を露出せる所多し。小学校の生徒名を探る に、ハルヨ、キクヨ、ウメヨなどの、ヨの字を添えたるもの三割の多きを占むるは異例なり。  二十九日 晴れ。午前十一時半、汽船に駕す。壮丁二隻の端船を競漕して送行せるは一大快事なり。平郡主催 は村長井上豊治氏、伊藤孫太郎氏、生田蔵之助氏、伊藤嘉十郎氏、宗野金槌氏等なるも、井上村長前後とも迎送 し、最も尽力せらる。宿寺住職神代知聞氏も主唱者なり。郡役所よりは児玉書記案内の労をとらる。午後二時、 柳井町に着し、駅前亀田旅館に休憩し、来島随行と東西に相わかれ、余は十時半の特急にて帰東に向かい、三十 日午後、新橋に安着す。  ここに大島郡を一括して述ぶるに、その本島すなわち屋代島は周囲二十六里、面積十四方里、全郡の町村数は 一町十一村、校数は二十三、外に分教場十五あり。その特色の一は、全郡に一個の腕車なき一事なり。従前は薯 畑多かりしが、今は大抵柑園に変ぜり。ただしカンコロと称する名物あり。薯を乾燥して粉にしたるものなり。 これを固めて団子となし、更にふかして食用に備う。外国出稼ぎは本郡の特色なるは、前すでに述べたり。家室 西方村字外入︹とのにゅう︺にて日露戦争以来、目に一の字の竪横を知らざる老婆の教育を開始せる一事も特色な り。今日なお継続す。その生徒数七、八十人ありて、その中には七十歳以上の老婆も加われる由。新年正月に各 戸の神棚に懸くるに、掛鯛と名付くるものを用うるも異例なり。その物たるや、縄をもって二尾の乾鯛を大の字 の形に結ぶものなり。東京のウラ白の飾りに比すべし。また、郡内は一般に酒の流行する所にて、その地にて製

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する酒はアルコール分強き故に、鬼殺しという由。宴会の席にはその鬼殺しを、一人平均一升あてにのむと聞く。 ただし、いくぶんか誇大の話ならん。また、本郡にて魚を商うに、婦人が藍を頭上にいただきて行く、これをノ ジと名付く。阿武郡にてはカネリという由。本郡客中作二首あり。   纏隔潮流一島長、風清気暖是仙郷、民家勤倹自成俗、進向天涯万里航、   ︵わずかな距離で潮流にへだてられた島が横たわり、風は清らかに気候は温暖で、これは仙人の住むような   里である。民人は勤勉で倹約を重んずることがおのずからならわしとなり、進んで天のはてのような遠い外   国に万里の海をわたって働きに行く気概の風があるのである。︶   屋代島南平郡浮、崇山一帯麦田稠、一村生計冬猶暖、半在耕雲半牧牛、   ︵屋代島の南に平郡島が浮かび、高い山の一帯は麦畑がしげる。村の生活は冬なお温暖で、半ばは雲に耕す   ように高い土地をたがやし、半ばは牛を飼っているのだ。︶  方言、俗謡のごときは、対岸地方と別に異なるところなし。  ここに四カ月を費やして山口県各郡を巡了したり。その風土、人情もまた一括して述べざるを得ず。まず本県 の特色を挙ぐるに、食物の鯛茶、サシミの酢醤油、馬車の黒塗り、風呂の大釜、鍋に三角形の口の付きたるもの、 腕車台の両側に網を張ること、俵に縄を結び付けて輻に代うることなどなり。これ防長の七不思議ならんか。釜 風呂は東京にて長州風呂というが、本県にては金︹かね︺風呂という。昔時は大甕を用いしと聞く。俵輪も、昔時 山中旅行に用いしも、今は車道の開けしためにほとんど用うるものなきに至れる由。本県人の言語は判明にして 難解の点なく、ハイおよびゴザリマスの語調にて、すこぶる丁寧の語に聞こゆ。そのうち方言の独特なるものを 32

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南船北馬集 第九編 挙ぐれば、歌調にて綴りたるものあり。   山口なまりはアノソニコノソ︵あれこれの義︶、オヌシヤドウカチウカ︵君はドウデスカの義︶、ウチヤイヌ   ル︵私は帰るの義︶、チュウニゴツポーサバケン︵チュウは宙にして非常または大ソウというがごとく語を強   むる言葉なり、ゴツポーとはたくさんの義、サバケンとはツマラヌの義︶、ニーマニネーマニゴーマニ︵二ー   サン、ネーサン、嬢サンの義︶、ツバイシヤンスナイケンチーヤ︵フジャケテワイケヌの義︶、インダラオカ   カニユウチヤゲル︵帰ったならば母にいいてやるの義︶、ホートクナイニヨーソケナイ︵キタナキありさま︶、   ヤニクモ︵たくさん︶、ホロケタ︵たおれたこと︶国なまり、長州防州。  その他、萩町に限れる独特のナマリにワとアとの相違あり。ワタクシをアタクシといい、鷲をアシというの類 なり。独木水車をサコンダという。浜茶をザラ茶といい、間がわるいを符がわるいというがごときも、その県の 方言なり。ゾウの発音がドウに聞こゆるも一種のナマリならん。冬日朝、客が寒をおかして出発せんとするとき に酒を出だす習慣あり、これを霜消しという由。されば夏時はなんと名付くるかと問えば、汗消しという由。つ ぎに、姓につきては、伊藤、井上、犬の糞と称して最も多し。名に槌の字を付くると、スケに介または亮の字を 用うるとは、ほとんど防長人に限る。教育につきては、校舎の設備は広島県よりも大いによし。小学校に講堂を 別置せるもの多き、校内に図書館を併置するものの多きも本県の特色ならん。広島県は靴のままにて校内に入る をいとうも、本県は兵庫県のごとく、靴を脱せずして出入するを許す。宗教につきては、長州に真宗多く、防州 に曹洞宗多し。したがって仏教信仰の力は長州にあり。防州は吉敷郡と熊毛郡の南部とを除くの外は、神道かえ って勢力あり。真宗は本派のみなるも特色の一なり。その寺院数七百力寺のうち百力寺以上は玖珂郡内にありな

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がら、その郡内にかえって真宗の振るわざるも一異例ならん。神社に八幡社最も多く、ほとんど七、八分を占め、 しかもその社のいずれも比較的美大なるは、また特色の一に加うべし。迷信に至りては、犬神すこぶる多し。そ の源は四国より伝えたるものなれども、その本元よりもかえって盛んなるもののごとし。以上、旅行中見聞に触 れたる諸点を叙記せるのみ。  つぎに、山口県人の産業および性格を述べ、かつ将来に望むところを一言するに、本県は一般に農業本位、米 麦主産にして、蚕業いまだ発達せず、工業の著しきものあらず。しかし民家の生計はいたって豊かにして、かつ 財産も比較的平均せる方なり。衣食住ともに、これを他県に比するに上等に位す。したがって書画美術に対する 趣味も大いに発達しおれり。その人となり概して機敏怜酬なるは、衆評の許すところなり。しかして長州人は比 較的武にして防州人は比較的文なるは、気候地形の影響ならん。その県人が王政復古の先鞭をつけ、明治維新の 成功を遂げたるは、将来ながく天下に向かいて誇るに足るべき至大美事なるが、必ずその性格に起因せるところ なかるべからず。余、これを薩州人に比するに、かれは石のごとく、これは泉のごとし。かれは薩摩薯に似て、 これは夏蜜柑に似たりといわんとす。もしその意味のいかんに至りては、読者の判断に任せんのみ。もしその欠 点を挙ぐれば、忍耐の精神に乏しき一事ならん。従来、政治家および軍人に偉大なる人物を輩出し、その方面に 大成功を現じたりし割合に、実業家に成功者なきがごときは、その長所短所の存するを知るに足る。ただし自彊 やまざるの忍耐力に乏しきは日本人一般の弱点なり、なんぞ防長人のみに限らんや。  今日までのわが歴史上には防長二州の名は赫として全巻を照らすも、今後果たしてその光輝を継続し得るやい かんは一疑問ならん。余かつて曰く、己の歴史をもって誇る国民は衰亡の兆しなりと。インドのごとき、ギリシ 34

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南船北馬集 第九編 アのごとき、スペインのごとき、みなしかり。この事実は日本国内につきてもたやすく証明するを得べし。余、 先年、三州岡崎に遊び、康生町において演説せしことあり。町名を康生と名付けしは、家康公の誕生せし事実を 紀念するためなり。余、ときに明治時代における三州出身の人物を問いたるに、主催者答えて曰く、むかし家康 公があらゆる三州人の知恵をしぼり取りて世に出でられたるために糠粕のみ後に残り、今日に至るも更に人物な しと。これ家康公が知恵をしぼり取りたるにあらずして、三州人がその歴史をもって自ら誇りたるために人物な きに至れるのみ。しかるに防長人士に対して万々かかる杞憂を述ぶるの必要なきを知るも、青年の人々に一言を 呈せんとす。諸氏は明治維新の歴史をもって自ら安んずべからず。明治は維新の柱礎のみ、これに屋壁を加えて 大成せしむるは大正年間にありと自覚し、始めあるものは終わりをよくするを要す。よくその終わりを全うする の任は山口県今日の青年にありと自信し、感奮一番、属声厭起し、勇往遭進して、先輩の成功をもって足れりと せず、自彊やまざるの精神を発揮して、戊申詔書のいわゆる国運発展の大任をまっとうせられんこと、これ余が 邦家百年のために渇望してやまざるところなり。防長巡講百日間、各所において分外の優待と深大の厚誼をかた じけのうせるに対し、ここに一片の婆心を述べて謝辞に代えんと欲す。賢明なる防長人士が海天の寛量をもって、 無礼なる余の蕪言を快受せらるるあらば幸甚。    山口県開会第二回一覧  市郡   町村    会場 豊浦郡  豊東村    寺院 席数   聴数    ・王催 二席  六百五十人  村役場

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都同同同同同同佐同同同同同同同同吉

濃      波        敷

郡      郡        郡

徳島小右中西華防小同大同仁宮同吉大

山地野田関浦城府鯖 内 保野 敷道

町村村村村村村町村 村 村村 村村

寺小小寺小寺寺寺寺寺小寺小公寺小寺

院学学院学院院院院院学院学会院学院

 校校 校     校 校堂 校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

四百人 四百人 百五十人 四百五十人 六百五十人 四百人 六百人 二百人 五百人 七百五十人 四百五十人 三百五十人 五百五十人 八百五十人 二百人 七百人 七百五十人 大道会 村長および青年会 有志者 村長 青年会 各宗連合 青年会 順教会 同寺 同町 村役場および信用組合 村役場 同村 同村 同村 同村 町長 36

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南船北馬集 第九編

同同同同同同同同同熊同同同同同同同

         毛

         郡

同 福川町 下松町 湯野村 富田村 須々万村 末武北村 平生町 室積町 三丘村 周防村 塩田村 同 光井村 曾根村 佐賀村 田布施村

寺寺寺寺寺小寺小寺小小寺寺寺寺寺中

院院院院院学院学院学学院院院院院学

     校 校 校校     校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

四百人 五百人 六百五十人 五百人 五百五十人 七百人 五百人 七百人 七百五十人 六百人 四百五十人 七百人 四百人 七百人 七百人 千二百人 四百人 校友会 同町 郡役所 同寺 同村 郡役所 交誼会 青年会 有志者 同村 村長および寺院 青年会 婦人会 村長 青年会 同村 婦人会

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同同大同同同同同同同同同同同同同玖

  島       珂

  郡       郡

岩国町 柳井町 新庄村 伊陸村 祖生村 同 高森村 北河内村 桑根村 広瀬村 本郷村 秋中村 灘村 由宇村 久賀町 小松志佐村 平郡村

小小寺小小小小寺小小寺小寺小小小小

学学院学学学学院学学院学院学学学学

校校 校校校校 校校 校 

校校校校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

千人 千六百人 五百人 五百五十人 六百五十人 二百人 五百五十人 五百人 六百人 八百人 三百人 七百五十人 六百人 六百人 六百人 四百五十人 九百五十人 町内有志 青年会 同窓会 仏教青年会 青年会 校長 村長 小学校 同村 青年団 同村 同村 同村 青年会 有志者 村長 同村 38

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同    同      寺院   一席  五百人    同寺  以上合計 七郡、四十六町村︵九町三十七村︶、五十三ヵ所、九十九席、       間︵東京往復日数を除く︶       ︵この七郡中、豊浦郡を除くの外はみな周防国なり︶ 演題類別  詔勅および修身に関するもの  妖怪および迷信に関するもの  哲学および宗教に関するもの  教育に関するもの  実業に関するもの  雑題︵旅行談︶等に関するもの 三十九席 二十四席  十六席  十一席   五席   四席 聴衆三万一千百人、日数四十二日 南船北馬集 第九編

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大正二年度報告

40  余の本年度における事業を報告せんに、著述の方にては左の二種の小冊子あるのみ。   哲界一瞥 全一冊 大正二年六月二十八日発行  大正菜根諌 全一冊 大正二年十二月十八日発行  哲学堂経営としては、小講堂︵宇宙館、皇国殿︶を建築せり。外に石門を新設せり。なお引き続きて図書館の 建設に着手する予定なり。  つぎに、巡講の方は前掲の合計を再掲せんに、   六郡、二十五町村、二十五カ所、五十席、一万一千人︵埼玉県第二回︶   一市、九郡、十町村、十四カ所、二十五席、六千五百五十人︵徳島県︶   六郡、十三町村、十四カ所、二十七席、六千三百五十人︵兵庫県第二回︶

六一一一一一

郡市市市市市

八郡、五十三町村、五十八カ所、百十五席、三万一千四百五十人︵広島県第一回︶ 一郡、一町、四カ所、六席、一千九百人︵帰行途上︶ 八郡、五十九町村、六十五カ所、百二十五席、三万八千七百人︵広島県第二回︶ 一郡、一町、四ヵ所、四席、二千百人︵近江国一部︶ 一郡、一村、五カ所、十席、二千五十人︵馬関および付近︶ 四十八町村、六十一カ所、百十八席、三万七千八百七十五人︵山口県第一回︶

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南船北馬集 第九編   一市、一郡、三町村、七カ所、十席、四千百三十人︵大阪市および三河国一部︶   七郡、四十六町村、五十三カ所、九十九席、三万一千百人︵山口県第二回︶   ︵この表中に豊浦郡、吉敷郡の重複せるところあれば、これを除きて総計す︶    総計 七市、五十一郡、二百六十町村、三百十カ所、五百八十九席、十七万三千二百五人  すなわち演説五百八十九席を重ねて、十七万三千二百五人に対し、精神修養上の講話をなせり。   ︵付︶哲学堂会計報告 収入、金八千九百七円二十六銭       金八千八百六十五円七十六銭    揮毫謝儀       金四十一円五十銭         篤志寄付 支出、金四千二百十四円七十一銭

  

@内

差し引き、金四千六百九十二円五十五銭  以上  大正二年十二月三十一日決算 前年度不足分 建築費、修繕費 書籍、報告、規則印刷代 事務費︵俸給、手当、郵税等︶ 過剰 この剰余金は大正三年度より着手する図書館建設費中にあてはむべし。

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湘南春遊記

42  年末より持病再発したれば転地療養せんと思い、大正三年一月三日東京を発し、相州湯河原温泉に入浴す。途 中、電車および軽便は非常の雑沓を極む。湯河原は今より三十四年前および十年前、両度入浴せしことあり。そ の都度ごとに大いに発展せるを見る。三十四年前には小田原より五里の間、腕車いまだ通ぜず、客舎四、五軒あ りしもみな茅屋、内湯なくして共同湯のみなりしが、昨今は小田原より軽便に駕し、湯河原駅︵門川︶に降車し、 これより上等馬車ありて約十里の間二、三十分にて往復するを得。客舎十四戸、おのおの内湯ありて五、六百人 をいるるの設備あり。天野屋、中西屋、藤屋、伊藤屋のごとき、その・王なるものなり。余は先年両度藤屋に止宿 せしが、今回は中西に滞留す。知人としては古市公威氏、古賀貞長氏、片山国嘉氏、土子金四郎氏等、同時に入 浴中なり。この地は神奈川県相模国足柄下郡土肥村中の一部落にして、戸数七、八十戸漢流の岸頭に隣列す。散 歩としては清滝、不動滝、養生園をよしとす。別に公園あれども庭園の設備いまだ成らず、保善院、土肥兼平墓 所、屏風滝等へも杖をひきて可なり。健足のものは日金山へ登るもまたよし。その里程三十丁あり。温泉場とし ては海に近くして海を望むことを得ざるを遺憾とす。また、その地の特色としては、旅館の屋根が大抵瓦ぶきに あらずしてトタンぶきなる一事なり。地気暖にして野梅すでに開くも、ときどき日金山頭より吹き下ろす風の強 くしてかつ寒きを一欠点とす。   また今日もさむき日金の山おろし、腹の底まで冷え渡りける、

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南船北馬集 第九編  当地客中作二首あり。   地僻漢深境自閑、湯河原亦一仙簑、霊泉浴後無他事、臥聴泉声坐視山、   ︵ここは僻地にして谷は深く、おのずからしずかであり、湯河原もまたひとつの仙人の住むような所である。   霊妙な温泉に入ったあとにはなにこともなく、臥しては泉の音をきき、座しては日金山をながめるのであっ   た。︶   迎年大正第三回、養病湘南湯谷隈、半夜客楼人定後、一痕梅月入窓来、   ︵大正三年の春を迎え、病をこの湘南の温泉湧き出す谷の一隅に養生す。夜も半ばの旅館では人の寝静まっ   たあとは、ただわずかに梅の香と月の光が窓より入ってきたのである。︶  このとき毎夜月明に会す。別に東京より大内青轡氏の所吟を寄せられたるに対し、その韻に和して新年所感を 述ぶ。   世路重迎暦日新、寿山猶遠幾由旬、身錐衰去心常壮、書毎読来気自伸、欲見渥藥峰頂暁、却迷生死渡頭春、   今賢古聖皆吾友、何与風花雪月親、   ︵世道は重く、暦の新たなる日々を迎え、いのち長きはなおとおく、どれほどの道のりであろうか。身は衰   えに向かうとはいえ、心は常にさかんに、書は読むごとに気宇はおのずからのびやかとなる。浬磐の峰頂に   暁を見ようとして、かえって生死に迷いを生じてこの春を迎えた。古今の聖人、賢人はみなわが友であり、   なんぞ風月雪花に親しむことがあろう。︶  また客中、﹃本朝三字経﹄に擬して、﹁大正三字経﹂を作る。

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我日本、在大東。 俗醇厚、克奉公。 昔神武、開皇基。 徳川末、覇政衰。 勤王士、決死生。 五条文、誓神明。 敷鉄路、置郵電。 武威震、国光遍。 挙俊才、皿窮民。 寿未久、遽崩姐。 賢良臣、下相扶。 一其心、奉君命。 使万邦、致崇敬。 忠礼武、此三徳。 義是重、死乃軽。 於教育、別有言。 其徳中、倫常存。 地膏膜、気和融。 有皇室、万古隆。 数千載、星霜移。 唱開港、論撰夷。 内証治、復昇平。 破随習、立府県。 発憲法、設議院。 帝勲業、洵絶倫。 普天下、率土浜。 百姓哀、如身屠。 改暦号、為大正。 防外患、助内政。 襲先帝、下詔勅。 加信質、為五則。 守之者、真干域。 皇祖宗、養道根。 凡百行、是為元。 人勇敢、克尽忠。 与天壌、永無窮。 四方海、無敵窺。 民心動、国将危。 明治帝、察民情。 起学校、開知見。 前清役、後露戦。 徳比聖、智如神。 誰不仰、其至仁。 今上帝、継大護。 五千万、本同姓。 我国運、必当盛。 諭軍人、以護国。 其精神、在一誠。 以張軍、 以錬丘ハ。 以忠孝、為徳源。 在平常、研智術。 44

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項目 浮間 赤羽⻄ 赤羽東 王子⻄ 王子東 滝野川⻄ 滝野川東 指標②ー2 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 減少. ランク 点数 浮間 赤羽⻄

代表研究者 小川 莞生 共同研究者 岡本 将駒、深津 雪葉、村上

2001 年(平成 13 年)9月に発生したアメリカ 同時多発テロや、同年 12

善良ノ注意ヲ以テ管理スルトキハ空シク消尽 原告ノ生活資料トシテ敢テ寡少ニアラス荀モ

疎開先所在地 勢多郡大胡町 群馬郡総社村 群馬郡総社村 勢多郡黒保根村 勢多郡富士見村 群馬郡古巻村 群馬郡古巻村 勢多郡北橘村