井上円了の思想(四)
著者名(日)
針生 清人
雑誌名
東洋大学史紀要
号
7
ページ
1-28
発行年
1990
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002585/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja井上円了の思想
྾
針生
清 人
一
円了は、その名を高からしめた﹃仏教活論序論﹄︵明治二〇年︶に於いて、仏教改良を決意するに至ったこと について重要なことを述べている。円了は﹁もと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の ︵1︶ 教育を受けた﹂が、仏教に真理を見出せずにいた所、﹁大政維新に際し一大変動を宗教の上に与え、廃仏穀釈の 論ようやく実際に行わるるを見るに及んで﹂、学を世間に求めて儒学を五年修めたが儒学も純全の真理とするこ とのできぬことを知った。そして﹁真理はかえってヤソ教中にありて存する﹂かと思い、﹁ヤソ教を知るは洋学 によらざるべからず﹂として英学を専ら学ぶが、﹁ヤソ教また真理とするに足ら﹂ぬことも知ったのである。も っぱら力を用いたのは﹁哲学の研究﹂であり、﹁これよりますます洋学の緬奥を究め、真理の性質を明らかにし て、心ひそかに他日一種の新宗教を立てんことを誓うに至﹂ったというのである。しかし真理は哲学の中にのみ 存することを見出すが、この哲学によって見るとき、キリスト教も儒教も真理ではなく、﹁ひとり仏教に至りて一
1
一はその説大いに哲理に合するをみる﹂のであった。﹁しかして余が幼時その門にありて真理のその教説に存する を知らざりしは、当時余が学識に乏しくしてこれを発見するの力なきによる﹂ためであった。ここに至って﹁新 たに一宗教を起こすの宿志を断ちて、仏教を改良してこれを開明世界の宗教となさんことを決定するに至﹂った というのである。﹁これ実に明治十八年のことなり。これを余が仏教改良の紀年﹂とするというのである。ここ では﹁仏教﹂と一般的にいわれているが、それは具体的には真宗大谷派末寺慈光寺に生育したことから見て、 ﹁真宗﹂を指して言っていると思われる。事実、円了は後に、﹁真宗ハ我邦宗教歴史二於テ理論上並二実際上二於 ︵2︶ イテ比類ナキ﹂ものといっていることからも明らかであろう。 宗教を哲学に照らしてその真理性を問い、仏教を開明世界の宗教たらしめようとする﹁仏教改良紀年﹂として の明治十八年は、円了が﹃破邪新論﹄を刊行し、排耶論を以って論壇に登場した年である。﹁仏教の改良﹂とは ︵3︶ ﹁今日ノ僧侶ノ風習ヲ改良﹂するだけでなく、﹁日本人ノ仏教二対スル感覚ヲ改良スル﹂ことを必要とするもの である。そのためには、ω仏教がキリスト教に卓絶していること、②仏教が実際に便益あること、③仏教は今日 の日本の教法であること、ω仏教を日本で保護しなければ世界中で滅すること、㈲仏教が廃滅すれば将来﹁真正 ノ真理ヲ構スベキ一大元素﹂を失うこと、⑥キリスト教の理論は﹁論理哲学ノ思想﹂を満足するものでないから、 仏教の真理を西欧に伝うべきこと、ω日本固有の宗教を西欧に伝えることは我国の思想を伝えるということ、こ れらのことを国民に知らしめることが必要であるというものである。 ﹁仏教の改良﹂が単に仏教に対する﹁感覚の改良﹂を意味するのは、すでに仏教が哲学に合致するからである。
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それ故、円了は﹁仏教ハ之ヲ学理二考ヘテ信スベキアリ之ヲ実用二試ミテ利スベキアリ之ヲ他教二比シテ卓絶ス ル所アリ之ヲ将来二計リテ亦大二期スル所ナリ加フルニ東洋固有ノ性質日本従来ノ精神皆其中二包容スルアルヲ ︵4︶ 以テ之ヲ今日二改良拡張スルハ我邦学者ノ一ハ国家二対シ一ハ真理二対シテ尽クササルヲ得サル義務﹂であると 述べるところである。その述べることは、仏教を哲学に照らして考え、実益・国益を有するもの、円了の強調す る﹁護国愛理﹂と結びついて、排耶論を展開して行こうとするものである。円了の仏教真理説は理学、哲学に照 らしてのことであるから、その排耶論も哲学に基づくところに特色があるといえる。円了の排耶論以前はどのよ うなものであったであろうか。 二 円了の排耶論と護国愛理のスローガンは真宗の護国思想とそれに依拠する排耶論の延長にあることが指摘され ︵5︶ ている。 維新時の仏教界全体にとってキリスト教布教と廃仏殿釈の政策が重大問題であったが、特に真宗教団はキリス ト教に対して激しい拒絶反応を示して、様々な対策と排耶論を展開している。真宗大谷派はすでに文久二︵一八 六二︶年耶蘇教防禦懸、慶応三︵一八六七︶年耶蘇教取締掛を設け、明治元︵一八六八︶年、キリスト教研究を 主目的とする﹁護法場﹂を設けている。又、本願寺派も慶応三年にキリスト教防禦研究を始め、明治元年に破邪 顕正掛、学林に外学科を設けており、真宗教団に共通した認識のあることが伺える。真宗教団のいう﹁護法﹂は
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事実上は﹁排仏やキリスト教への対抗を意識したものに他ならず、⋮⋮仏法を守る意味よりも、教団を護る意味 が強﹂かったといわれる。破邪護法のための研究は﹁破邪学﹂といわれたが、それは純粋にキリスト教を研究し たものではなく、﹁破﹂が先行し、それを前提とし、護法意志に根ざした研究である。そこにはキリスト教が邪 教であり日本を亡ぼすものという伝統的な邪教観が伺えるが、それ以上に、排耶論を展開することによって廃仏 段釈の圧力を回避すると共に、キリスト教拡大から国を守るという護国論がある。それは﹁国家による教団護持 を期待するねらい﹂を示すものであった。そのような意味での護国論の展開は国家による教団護持を企図しての 政治的効果をねらった﹁護法﹂に他ならない。そこには国家権力との癒着の姿勢が伺えると共に﹁邪教観を基盤 とした排他的な国粋主義的志向が内在している﹂こと、.排耶を行なう過程で、伝統に拠る現状維持が絶対的で あることと、国家への貢献を第一義的に考える保守的な性格を強固に生成していったLことが指摘される。その ことが﹁国策順応最優先の姿勢を示﹂す﹁明治真宗教団の方向と性格﹂を示す証左だとされている。しかし排耶 を行なう教義的根拠が存在せぬことからすれば、真宗が行なった排耶は教義とは別次元の事柄に根拠があったと いわざるを得ぬ。すなわち、廃仏殿釈による生活基盤の喪失、キリスト教拡大のもたらす生活基盤の侵蝕という 危機感が深まるとき高揚した教団護持の意識であろう。それ故、真宗教団は伝統的な撰夷主義に依拠しつつ、国 家と癒着しての護国論を展開する理由があったのである。 円了はこの真宗の排耶論と護国論を継承しつつ、哲学によってキリスト教と仏教とを見直すことによって、従 来のそれらとは異なった排耶論と﹁護国愛理﹂論に発展させたのである。しかし円了は﹃破邪新論﹄がなお真宗
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の排耶論と護法護教としての護国論の延長にあると考えていたと思われる。というのは、真宗教団のように.仏 ︵6︶ 教と国体との合致を説く以外に仏教教理の再評価が要求されLるとき、それに応えて円了は.仏教活論序論﹄を 刊行するが、﹁著者が従来護法愛国と云って居たのが、本書の序論で護国愛理として、⋮⋮井上博士の主張を標 幟する言葉とな・.垣﹂と指摘されるように、・破邪新論﹄における排耶の姿勢は変らぬが、教団護持を目指して の国家との癒着を深める教団の方向とは異なって﹁仏教教理﹂そのものの真理を問うことになるという点で、大 きく変って来ているからである。そこに円了が哲学に依拠しつ・護国愛理の一つの具体化として行なった排耶論 の特殊性、新鮮さがあったといえる。それについては、.明治二十年から三十年頃の間は、智識ある人の趨向は、 真理の根底に本づける信仰を求めた、この時代に井上円了氏は﹃仏教活論﹄を著はし、自己の論ずる所が、真宗
霧悪薯雰亮る繧亮で予め本山当局に脱宗届を出垣﹂︵圏点董︶・指摘・れ⋮うから
も明らかなように、﹃仏教活論﹄を境にして円了は仏教そのものの立場に立っての護国論を展開するに至ったと いえるだろう。 明治仏教が何かにつけて護国論にかかわらざるを得なかったのは、その社会的背景に理由がある。それを明治 仏教の置かれた環境において見る必要があろう。三
明治仏教は維新政府の宗教政策の変遷の中で荊棘の道を歩んだのであるから、一方においてその受難史を見な一5一
ければならぬが、他方において失地を回復し新生面を開拓したその復活史ともいうべきことも見なければならな い。その両面を見ることは、単に仏教の変遷史を見ることに終るのではなく、明治の精神史全体の変遷史を見る ことでもある。明治という時代を客観的に観察し得るようになったとき、明治文化の研究が盛んになるが、それ に応じて明治仏教の史的研究も明治文化研究の重要な位置を占めるものとなっている。その中で、井上円了はど のように捉えられ、位置づけられるのか。特に、その排耶論はどのように解されているかが問題である。 維新初頭は大動乱の後を受けて人心も安定せず、加えて内には﹁神国思想の拾頭に伴ひ、飽くまで廃仏殿釈の 実現計らんとするの気勢﹂があり、外には・鎖国思想の解消と倶に警外国の文明を謳歌せんとするの褒﹂を 生じたところである。このような歴史的社会状況において高楠順次郎︵東洋大学第八代学長︶は仏教から見た明 治の時代を次のように区分している。 第一、仏教迫害時代。幕政末期に、門跡法親王の復飾、内裏仏式の廃止︵慶応三年十二月︶による反仏教運動 の峰火があがり、次いで、﹁神仏判然の布令﹂︵明治元年三月︶は地方によってはやがて徹底した廃仏殿釈の実現 となって行く。しかし、仏教寺院の衰退にもかかわらず国家財政の窮乏が重大であるとき、政府の唯一の頼みは 東西両本願寺、興正寺等の献金、献納にあった。﹁衰弱せる精神界より物質的救助を求むるまで洞渇せる日本は 根本的改造を要するは申すまでもなく、内国の疲弊に気を腐らした愛国の士は、何れも知識を海外に求めんとす る風潮を生じたのは亦自然の勢﹂であった。明治仏教迫害の歴史は二期に分けられる。 第一期、明治元年より五年まで。この時期の迫害は神道思想よりの報復的行為と見るべきもので、これを直ち
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に﹁仏教撲滅の政策と見るは甚しき謬解﹂であり、迫害は﹁仏教の形式破壊﹂の方向に向かっていたというべき であるといわれる。そのある意味での不徹底さは、仏教界になお献金支援の実力が存することから見て﹁普遍的 に迫害を徹底し得ざる﹂ことにあったからである。しかし明治五年の教部省設置、﹁三条の教憲﹂の布告、教導 職十四級の設置は﹁形式破壊﹂の迫害から﹁内容破壊﹂の迫害を準備するものであった。 迫害の第二期、明治六年から一〇年まで。それは仏教の内容破壊の迫害を実行するもので、その中心問題は ﹁大教院﹂の神祭執行にあった。神仏判然の令は僧侶の神祭参加を禁ずるが、大教院公職にある僧侶にはそこで の神祭に参加し神撰供奉の詞掌と化さざるを得ぬという矛盾があったが、明治一〇年の教部省廃止を以て仏教迫 害の歴史は終わり、いうならば政府の仏教政策は失敗に終ったというべきである。 第二、仏教陣容整備時代。明治一一年から三〇年までは仏教の陣容を整え常態に復するときであったが、教学 の方面では﹁多くは啓蒙的著述か、宣伝的文書か、若くは概括的綱要に止まるものであって特筆すべき進歩もな かった﹂とされるが、井上円了が活動したのはこの時期における啓蒙書の多数の刊行に著るしいところである。 第三、仏教教義完備時代。明治三一年より四五年までは真に学術的な意味で教義の準備がす、められたといわ れる。従来、﹁印度哲学﹂とは仏教に限られて用いられていたが、この時期に、印度哲学は﹁印度在来の婆羅門 教的実在主義の哲学そのもの﹂を指し、仏教は﹁仏の人格に現はれたる理想主義宗教を指し、殊にその東洋全般 的発展を指すもの﹂と区別される。つまり、﹁仏教の背景たる印度思想がその全容を研究舞台の表面に出現﹂し て来たということであり、それに依って仏教学も世界進出の礎石を得たのである。それはまた中央アジア探険、
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発掘の事業を行なわせて行くのである。 四 さらに、高楠は維新の混乱に関して、日本の将来を考える﹁日本救済﹂の方途を見定める方法を求めたものを 三つあげている。 ω物質文明。その第一は福沢諭吉によって﹁西洋の物質文明を以て日本を救はん﹂としたもので、その﹁精神 ママ の権化﹂が慶応義塾である。時には個人の財政的独立を鼓吹するの余り、﹁日本個有の精神を軽んずるかの感を 与﹂えることもあったが、結局は﹁自主的精神に乏しい我国の財界に、翁の﹃独立自尊﹄の標語に依って異常な る健全の動向を示すに至﹂ったものである。 ω精神文明。日本を救うのは物質文明の﹁裏面に横はる精神文明の力﹂であり、西洋文明の偉大さは物質方面 にではなく、その精神方面にあるとして﹁基督教を以て日本を救はん﹂としたのは新嶋裏である。その﹁根本道 場は京都の同志社﹂である。しかし﹁日本の事情は他の東洋諸邦とは異なり、一般に西洋崇拝の心に囚はれ、本 来宗教的無関心の人々多く、宗教の何たるを問わず、少しも吟味することなくして、信ずる風習がある﹂といわ れるように、キリスト教入信、教会に出かけることも真の信仰というよりは外国思想に接する窓口としての利用 ︵10︶ であった場合が多く、自らは信じないがその児童をキリスト教の学校に通わせることも多い。キリスト教が日本 の精神界に対して何らかの功績があったとしたら、それは﹁日本全体を支配して居る仏教界を甚しく覚醒せしめ
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たLことにあるといえる。が、キリスト教の興隆は日本の精神界にとって多大の影響を与えたのであって、それ 故に対抗の思想が生じたのである。 ③東方の光。﹁東洋には古来西洋に勝る精神文化の見るもの﹂がある。法律は西洋より来るが、﹁光明は東方よ り出る﹂のである。﹁東方の光﹂として仰がれるものは様々にあるが、一般に﹁東洋文化の中心として西洋文化 の風潮に対抗せんとするのが当時新興の仏教界の思想﹂であったというのである。 その第一は京都を中心にした大谷光尊に見られるような教団大学林に普通学科を置くなどの教育制度の改革、 仏教々学の組織的近代化、一般化を企図しての社会的普及、海外宣教会、海外仏教事情、英文雑誌の刊行を行な うなど新運動を展開し、西洋精神文化の移入に対して対抗した。 これに対し、﹁東洋哲学思想を代表し、帝都に於いて新精神運動を起し、大声叱呼した﹂のは井上円了であり、 その﹁根本道場は哲学館、後の東洋大学﹂であった。所謂﹁四聖の像﹂を通して円了の思想を考えるとき、﹁釈 尊と孔子とは、実際の方面に於ける行の指導者たるものである。ソクラテスとカントは理論の方面に於ける解の 指導者たるもの﹂と見なし得る。すなわち、﹁行信の実生活に於て仏教や儒教を重んずると同時に哲学研究の方 法としてソクラテス、カントの思索法を学ばんとするにあった﹂と思われるといわれる。要するに円了の哲学的 思索の鼓吹は仏教にとって﹁その教義に於ける再認識の機を与へたもの﹂であり、ここにおいて、一般に﹁仏教 は宗教として実際に生き、哲学として理想に生き、日本文化の要素として永存の意義を有するものとして確認﹂ されるに至ったのである。
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﹁仏教の哲学的価値﹂を認識せしめる功労を考えるとき、その﹁創造的努力に於ては、井上円了博士を推し、 その宣伝的躍動に於ては大内青轡博士を推﹂し得るとして、仏教にとって、円了が哲学に依拠したことは﹁創造 的﹂と評価されたのである。
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高楠順次郎と同様に、明治仏教は﹁維新の廃仏殿釈の破壊否定の素地に芽生へたものを基調として論ずべき﹂ ︵H︶ だというのは宮本正尊である。廃仏穀釈という時代の風潮に耐える明治仏教には﹁反動的気運﹂が充ち、それを 貫くのは﹁護法愛宗の伝統精神﹂である。それは﹁護法愛国の撰夷精神﹂を反映して﹁護国愛理を標識とした井 上円了博士の﹃仏教活論﹄の如き愛国憂仏の文字﹂となって現われるものである。それ故、円了の﹃仏教活論﹄ も、円了の後を受けた村上専精﹃仏教一貫論﹄﹃仏教統一論﹄その他によって、護国愛理の実を真にあげ得たと いえ、﹃顕正活論﹄の意義と内容を全うし得たところだといわれる。何れにしても仏教排撃論の根底には、﹁仏教 は異国の道であり、釈氏は神国の遊民無用有害の徒なりと断ずる所にある。故に明治初年、一般に仏徒の努力が 仏法国益を強調し、仏徒又皇国の臣民たるを明示する事に払はれたのは当然である。明治当初に於ける総ての仏 ︵12︶ 教徒活動の根拠は即ちこの点の将外に出ずるものではない﹂と指摘されるところである。 宮本正尊によれば、円了の護国愛理による﹃仏教活論﹄の唯一の武器は、﹁真理、哲理を表明する﹃哲学﹄と 云ふことであり、哲学書院を経営し、哲学館大学を起し、哲学一夕話を著し、妖怪哲学・外道哲学等、その他凡一10一
てが哲学づくしであり、仏教紀年ではなく﹃哲学紀年﹄を称する程であったから、当時に於ける哲学の流行は博 士に倹つものであり、博士はまた哲学によって時代の寵児となったと云ふてよい﹂と述べ、円了の思想界に及ぼ した影響の大きかったことを伺わせている。 円了の﹁哲学啓蒙運動﹂は仏教哲学発達の基礎を築くものであるが、このことは仏教そのものにとっては、 ﹁廃仏穀釈の跡を受けた明治時代の仏教は、哲学の虎の皮の威を借りたものであり、⋮⋮先ず哲学の魅力によっ て時流に投じつつその荊棘の道を開拓した﹂といわざるを得ぬように、明治仏教はそれ自体の力によっては維新 以来の思想界の混乱に対処し得なかったことを意味するものといえる。 明治維新における国学国粋と開化欧化、復古と進歩の対立、矛盾は大学教科にも大きく関わっている。開成学 校は明治一〇年に東京大学と改称されるが、そのときの﹁開成﹂とはあくまでも文明開化の欧風万能の風潮の下 で、英語で講義を行なうことに見られるような極端な﹁開化ぶり﹂を示すものであった。このような過重な欧化 を自重反省する気運が東京大学の改称をもたらし、東洋固有の文化を尊重するという意図から﹁和漢文学科﹂の 新設を見たところである。明治一四年には哲学が独立してその内に﹁印度哲学﹂と﹁支那哲学﹂の科目が加えら れた。これによって﹁東洋哲学研究の気運は勃興した﹂のである。明治一六、一七年度の東洋哲学史の聴講生の 内に円了、三宅雄二郎、棚橋一郎らの名が見られるが、円了は後に哲学館を﹁日本主義の大学﹂となさんとして 東洋哲学の講座を重視した根はすでにここにあったといえよう。 何れにしても、明治思想史を顧みるとき、その大部分は西洋思想の吸収と反嬢であるが、明治仏教もその動向
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の余波を受けて様々な改革を行なう時、仏教が東洋固有の思想、哲学であることを主張する円了もこの動向にお いて捉え得るが、円了にあっては特にそのことを主張するのに西洋伝来の﹁哲学﹂によって為したところに特殊 性があったのである。 西洋思想が明治仏教に及ぼした影響の一つは、仏教が社会事業に力を入れ始めたということだろう。 幕藩時代の仏教寺院は法要、寺小屋、宗門帳によって、庶民に対する葬祭、小学校、村役場︵戸籍︶の役割を 兼ねていたが、維新以来、寺院は学校、役場の仕事から離れて、所謂﹁葬式仏教﹂に堕したのも煎じつめれば西 欧思想の影響であり、布教方策を時代の風潮に合わせ社会事業に力を入れるようになるのも、西洋近代にならっ ︵13︶ ての社会機構の変化に対応してのことである。それ故、仏教界にあっては、外来の新思想に接触することに努め 仏教の刷新を計る者のうち、渡欧する僧も多く、円了の渡欧︵第一回目、明治二一年︶もこの視点で見ることが でき、仏教寺院の教育機関としての復権を早くから説き、社会事業の必要性を強調したことも円了の活動の主軸 となっていたのである。しかもそのことは単に主張し口舌の徒として終わったというのではない。官途に就くこ とも十分に保障されていたにもかかわらず、円了は生涯の半分を費す三〇年も全国巡講という実践を行なったの である。﹁アカデミー哲学よりして、街頭に出で社会を相手に哲学啓蒙行脚をなすに、一身を捧げられた功績は ︵14︶ 充分認めねばなるまい﹂と評価されるところであるが、このような庶民を対象とする円了の運動の影響は大きか った。村上専精は﹁仏教講話所﹂を開き︵明治二二年︶、仏教の街頭啓蒙運動に従事した。また、後に共に東洋 大学学長となる境野黄洋、高島米峰らの﹁新仏教﹂の宣伝、実践の精神も円了の仕事に続くものであったといえ
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よう。 西欧の近代思想に対抗して、日本在来の仏教を回生するための方途の一 論ー護国論であったといえよう。 .L ノ\ つは社会事業であり、他の一つは排耶 明治時代における仏教徒及び寺院によって行なわれた﹁社会事業﹂とは、今日的な意味のものではなく、なお ﹁慈善的救済事業﹂と呼ばるべきものに止まっていたかのようである。それは、本質的に﹁純真なる︿宗教﹀精 神の必然的現れであった。宗教が真に生きて社会に働く姿は、まことに、かかるソリダルテ.ソシャールの其れ ︵15︶ に於て見出されたのである﹂という語が示すように、仏教が真に﹁上求菩提、下化衆生﹂を実践するとき必然的 に発現するものとしての慈善救済に始まるものである。明治一〇年代中頃の社会状況、特に農村の状況を考える と、松方財政政策の行なう産業資本の創出は、農村の疲弊、自生的産業の破壊をもたらしたが、その荒廃した農 村を再建するため、共同体を支える精神的秩序を確立する必要に迫られていた。さらに、日清戦争以後の﹁急速 な資本主義の発達は、必然的に又、巨大な要救護者群を発生﹂させており、それに伴なって多くの﹁社会事業法 規﹂が制定されるに至った。その意味からすれば、明治仏教の社会事業についても、明治体制整備のために要す る膨大な資本搾取の結果、貧民貧農を形成する社会、経済の分析が必要である。政府による救貧対策、社会事業 法規の制定に加えて、﹁民間に於ても小規模ながら救貧、救療、育児、貧児教育、感化等救済事業を行なふに至
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・た所以のものは、何つれも維新以来の社会的経済的変動による困窮の集団化に其の起因を錠﹂といわれるよ うに民間篤志家も立たねばならぬほどの﹁困窮の集団化﹂は激化しており、社会の重大問題となっていた。しか し、当時の仏教界にあっては、社会事業に向かわざるを得なくなったのは内発的なことというよりは、キリスト 教教会の活動に刺激されてのことのようである。キリスト教は西洋文化を背景に語学教育を通して近代化の窓口 となっていたが、それ以上に、貧民街に進出しての医療事業、募金等を行なって救貧事業をシステム化していた。 このことを有力な宣教の武器として教勢の拡大を見ていたのである。それ故、仏教界に向かって慈善事業の必要 を説き、洋行中に見聞した教会の社会的活動を評価していた円了についても、﹁﹃仏心者大慈悲是﹄のイデオロギ ーの実践のためから出発するのみではなかった。それは実に﹃教敵﹄ヤソ教との勢力争ひからも刺激せしめられ たものであり、むしろ・馨なく﹄せしめられたものでさへあるかの感があ・.口﹂と指摘されるところである・ 一般的にいって、明治二〇年代には救済施設は少ずか六五ヶ所に過ぎず、社会事業は極めて貧弱といわざるを得 なかったが、﹁特に仏教社会事業に於て然るものがあった。実際、明治時代を通じて云ふならば、宗教社会事業 ︵18︶ はむしろ基督教徒によって新式に着手されたやうである﹂といわれるところである。 しかし、刺激するものが何であれ、仏教回生のための社会事業への仏教界の進出は大きくなっていた。﹁全国 慈善団体総数二七三の内仏教に属するものは△一言・て、曇教に属するもの蚕﹂とその位置関係は逆転し たのである。このような逆転に至るには、井上円了の発言は大きかった。 円了の﹃僧弊改良論﹄︵明治三一年一一月刊︶は、社会事業を奨励して次のように主張しているが、その主張
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することは仏教の隆盛が目的であり、社会事業はそのための手段であることは明らかである。 ﹁軍隊布教、監獄布教を始めとし、工場布教、会社布教を開かねばなりませぬ。病院布教、貧民布教、海外布 教、植民布教も着手せねばなりませぬ。其中軍隊布教と監獄布教丈は手が着きてあるけれども、其布教の方法に 至っては随分不完全であらうと考へます。工場布教、会社布教、貧民布教等に至っては、全く着手してないと思 ひます﹂︵五四頁︶。これによって当時の仏教界の布教の様子の一端を知り得るが、その様な状況において円了は ﹁慈善の方法を論ず﹂るのである。 ﹁仏教各宗に於て、仮令不充分にもせよ、勧学布教の一端丈は設けておりますも、慈善の一段に至っては、全 く着手してないと申して宜しい。元来仏教は慈善を本とし、仏心とは大慈悲なりとまで解してありて、慈悲的で あるのに、実際上の慈善事業の欠けて居るは、実に了解し難きことに考へます。⋮⋮是れは仏教家の大欠点であ らうと考へます﹂︵五八頁︶。それ故、仏教の欠点を補い、真に宗教として立つにはキリスト教と﹁互に慈善事業 を以って競争せねばなりませぬ﹂︵六一頁︶と述べるように、円了にあっても、、キリスト教の活動を念頭に置い ての社会事業の奨励であったのである。
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円了の真の本領を示すのは三〇年に及ぶ全国巡講であるが、その事は明治の思想界にほとんど影響を及ぼさな い。その事に若干ふれるのは境野黄洋、高島米峰ら円了に学んだ身近な人に限られている。円了が明治の思想界、仏教界に影響を及ぼしたのは排耶論、哲学啓蒙の文筆活動と学校経営の精神とによるところが大きかったといわ ざるを得ない。明治二〇年前後から秀れた仏教関係書が多く刊行され始まるが、﹁井上円了は矢張り著書の多い ︵20︶ 点で、また議論が斬新な点で人気を集めていた﹂といわれるのは、哲学に依拠して仏教を論拠づける方法のその 新しさにあったからである。 明治初期における哲学のもつ.新しさLと哲学と仏教の関わりについて、哲学者紀平正美は次のように述べて いる。.西洋文明の外形に眩惑を感ぜしめられた明治初期の人々は、特にアングロ・サクソンと我が日本とが所有 る点に於て対礁的であると云ふ様なことには、気付き得る力はなかった、一切のものを彼の模倣をすることを以 ͡21︶ て、天地の公道に基くものなりと考Lえていたところである。そのような状況にあっては﹁基督教を信ずるのが 所謂当時の進歩的思想であった。即ち基督教にしなくては西洋のやうになれぬと思ふ﹂のは当然のことであった。 従来、宗教という語も存在しなかったとき、キリスト教の布教に出会ったとたん﹁それを以て最高の宗教なりと 考へたのも尤なことである。無力なる仏教は勿論それとの相異を抗弁するだけの力はな﹂かったのである。 、宗教Lの語と同じように、﹁哲学﹂という語も新しいものであった。紀平正美自身、哲学を学ぼうとしたのは、 ﹁認識論だの論理隅予心理学だのと云ふ、全く新らしき名称﹂に心を魅かれたからだという。これが世間一般の動 ︵22︶ 向であって、紀平自身も﹁哲学の意義を知ってから、之を学ばんとしたのではない、此の新奇なるものが何んで あるかとの好奇心よりして、之を学ばんとした﹂からであり、更に.何んでも西洋のものが尊い偉いと考へたが 故に、それを学ばんとしたLからであるという。このような一般的な事情がある他に、我国が当初導入した哲学
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は英米哲学が主流であり、﹁スペンサーの﹃綜合哲学﹄の如き経験論的、功利主義的のもの以上には出て﹂いな かったという事情がある。この実証主義的な哲学を基準にすれば、仏教は当然のこととして不合理なものとされ るところである。 これに対して井上哲次郎らによるドイツ哲学の輸入は英米哲学の勢力を失墜させたが、それ以上にドイツ哲学 の深淵さを示す性格が歓迎されたのである。当初英米哲学の実証主義こそが近代ヨーロッパの近代性を支える科 学的合理主義の根底だと確信して英米哲学を受容していたが、ドイツ哲学を知るに及んで、その根底にある神秘 主義的傾向が我国本来の儒教や仏教で長らく鍛えあげられていた者にとっては、ドイツ哲学に潜む宗教性と仏教 との類似性を感得するのは必ずしも奇異とするところではない。仏教者はドイツ哲学を次のように見ている。 カント以前にあっては、﹁真理と云へば、外物の有りの儘を知る事と思うて居たのに、真理は吾人主観の構成 する所で、直観より得たる材料を、思惟を以て整理構成するものとなった。かかる学問が人心の間に伝播するに ︵23︶ 至っては、信仰を求むる者が、真理を標準とするのは当然﹂というのであり、﹁ドイツ哲学こそ、我が国人に適 応した﹂ものだというのである。すなわち科学的な英米流の哲学に対して、ドイツ流の哲学も哲学と呼ばれるな らば、﹁わが仏教にもある、否それ以上のものもあると云ふ自覚が仏教者にも起った﹂、﹁西洋哲学の輸入によっ ︵24︶ て刺戟せられて、そんなものならば、俺の内にもあると云ふ様なことで仏教全般の最初の立ち挙りが出来た﹂の である。仏教それ自体が所謂哲学に合致するという円了の主張は文字通りその道を進んだものである。哲学の真 理と仏教の所説とが合致するかどうかが問題であったが、円了は合致する以上に、仏教そのものが哲学に他なら
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ぬというのである。 円了によれば、仏教には唯物︵倶舎︶、唯心︵唯識︶、唯理︵天台︶の哲学に対応する段階があり、﹁阿頼耶の 絶対心はカントやフヰヒテの絶対主観と同一で、天台の中道はへーゲルの相対絶対不離の考へと同一﹂︵﹃仏教活 論序論﹄︶だといわれるところであり、明治仏教がその教義と哲学の比較をすることが一つの流行をなすに至る がそれは円了に始まる・とであり、そのことがまた、・仏教を哲学として復活せしめる事に努窪﹂と評される ところである。円了は﹁仏教を哲学上より復活せしめんとしたのであり、創立の学校を哲学館と呼び、自己の著 述中に、哲学の名を加えた仏教関係のものが幾つあるか分らぬ程﹂であり、円了のこのような努力によって、 、世上の識者は、仏教に哲学あるを知・て、之を知らんとするに心を撰﹂るところとな・たが・さらにこの要 求を一歩前進させたのが村上専精や清沢満之であった。 すなわち、﹁明治十三四年頃、東京に於いて、寺田福寿や江村秀三の諸氏が、社会に向って仏教を紹介したの は、︿仏教の社会化﹀の初めである。其の次に井上円了博士が﹃仏教活論序論﹄を著はしたのは、︿仏教の哲学 化﹀の初めである。其次に清沢満之師が﹃精神界﹄を出したのは、︿仏教の人生化﹀の初めである。それより已 ︵27︶ 前は仏教と言へば、死後の救済に限られた観﹂があったにすぎなかったところである。また、円了は﹁破邪の 雄﹂といわれるなら、村上専精は﹁顕正の雄﹂といわれ、仏教は﹁円了師の哲学的注射、専精師の達意的看護﹂ によって復活したといわれてもいるところである。
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後に東洋大学学長となった境野黄洋は朱子学者の家に生まれたが、﹃仏教活論序論﹄を読んでそれに感激し、 ︵28︶ 東洋大学に学び﹁生涯を仏教に捧げしむる発端﹂となったという。円了に身近かに接した一人である境野は井上 円了と哲学館について次のように語っている。円了は日本で哲学というものを﹁ポピラライズせられた最初の 人﹂であり、日本人は哲学というものをどうにかこうにか一般に知るに至ったのは円了の力によるものである。 しかし、円了の行なう﹁哲学の一般化は、後に鹸りに極端になった憾みもあり﹃哲学道中記﹄までは、論理の誤 謬などを面白可笑しく説いたもので、まだよかったとしても、﹃戦争哲学﹄から、哲学将棋なんていふものを作 られたに至っては、少々閉口の点なきにしもあらずである﹂といわれている。このことは円了が益々仏教普及あ るいは仏教に基く道徳の確立のために、啓蒙の対象を庶民に向けて行ったことを示すものであり、ある意味では このため、円了の名が次第に忘れられていくことに結びつくことの指摘である。 黄洋は、円了が仏教はいうに及ばず儒教、道教、諸子、神道も﹁皆是れ一種の哲学﹂であり﹁東洋にも立派な 哲学がある﹂と主張したという点では他の多くの円了評価と同じであるが、哲学館に学んだ黄洋の円了評価はや や他と異なって哲学館設立に強調点を置いていると思われる。すなわち、﹁東洋にも立派な哲学がある。然るに 之を哲学として研究することを知らざるは遺憾であるといふ所から、東洋哲学ということを主題とし兼ねて西洋 哲学を参考科として、邦語にて之を教授するといふ意味で此の学校を開かれたものである。兎も角も哲学を私立一19一
学校で教授したのは、日本ではこれが最初であったし、特に東洋にも哲学があるといふことは、大いに人々の好 奇心をそ、り、これから⋮⋮東洋哲学といふ言葉も一般に行はれLるに至ったのである。このように東洋哲学の 研究をすることによって、﹁今まで極度に卑められて居た仏教が、始めて復活更生した﹂のであるから、哲学館 は﹁仏教にとりては、相当に重い位置を占めて﹂おり、﹁宗教界には相当の影響を与へてることは、否むべから ざる事実﹂だというのである。哲学館が重要な存在であったことは、円了がその﹁開設旨趣﹂︵明治二〇年六月︶ に述べるところからも明らかである。しかし、西洋哲学の強調、仏教の改良、東洋哲学の振起という点から見る と哲学館設立、その拡張に応じて、哲学館の目的というものが微妙に変化して行くことに気づくところである。 維新以来の欧化主義とその反省とに関連しての変化であると思われる。 ω﹁哲学館開設旨趣﹂︵明治二〇年六月︶ ここでは諸学の中、最も重要なものは哲学であるから﹁哲学専修ノ一館ヲ創立シ之ヲ哲学館ト称﹂し、﹁哲学 速歩ノ楷梯ヲ設ケ﹂﹁論理学、心理学、倫理学、審美学、社会学、宗教学、教育学、政理及法理学、純正哲学、 東洋諸学及ヒ是等ト直接ノ関係ヲ有スル諸科ヲ研修スルノ捷径便路ヲ開﹂くというものである。これからすれば、 西洋︵哲学︶が主で東洋は従であることは明白である。 ②﹁哲学館開館旨趣﹂︵明治二〇年九月︶ この﹁開館旨趣﹂はωの﹁開設旨趣﹂と同じく﹁哲学ヲ研究スルノ今日二必要ナルコト﹂をより精しく述べる と共に﹁道徳宗教ハ皆ナ哲学ヲ実際二当嵌メタ上デ起ツタモノ﹂と見なし得るから、﹁哲学ハ学問中ノ学問﹂で
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あり、諸学の基準である。しかも、﹁東洋学問ノ短所ヲ補﹂ひ﹁東洋ノ学問ノ弊ヲ救フ﹂に適しているという点 では哲学を上に置いているが、﹁西洋哲学ト東洋哲学ヲ兼修スルコトカ必要﹂というように変わってきている。 ③﹁哲学館改良の目的﹂︵明治二二年七月︶ 欧米旅行より帰国後、哲学館を.改良振起センコトヲ経画Lするに至る。それは、西洋諸国は各々の国に固有 の学問芸術を振起している。それ故、﹁日本国固有ノ学術宗教アル以上ハ先ツ之ヲ講究シ傍ラ西洋ノ学術ヲ講究﹂ すべきであり、このことはしかも﹁学術研究ノ順序ナルノミナラス一国独立上二於テ最モ必要ナル条件﹂だとい うに至る。また日本には﹁印度支那ノ古学ハ皆尽ク存シ之ヲ講究スルコト﹂は容易であると同時に﹁日本ノ学ヲ 起スニ最モ必要﹂なことだという。従来の学科は﹁西洋哲学ヲ主トシ東洋哲学ヲ属トシタルモ今後ハ漸々二東洋 哲学ヲ正科トシ西洋哲学ヲ副科トスルノ方向ヲ取﹂るというように、全く逆転するところとなる。 ω﹁哲学館将来ノ目的﹂︵明治二二年八月︶ ﹁日本固有ノ学問﹂を﹁愛護シ之ヲ専攻スルノ方法ヲ設ルハ日本従来ノ学問ヲ振起スルニ必要﹂である。ここ において﹁日本主義ノ大学ヲ設立スル必要起ル其大学ハ日本固有ノ学問ヲ基本トシ之ヲ補翼スルニ西洋ノ諸学ヲ 以テシ其目的トスル所ハ日本国ノ独立、日本人ノ独立、日本学ノ独立ヲ期﹂することにある。ここでいう日本固 有の学とは神儒仏三道及び我邦固有の哲学、史学、文学だとされるが、従来は円了によって仏教が日本の哲学と いわれていたのに、それ以外に﹁我邦固有ノ哲学﹂という語で示されるものが新たに指摘されている。しかし日 本主義に立つ﹁日本大学﹂は基礎を起し大成をその後に見なければならぬから、現に存する.哲学館ヲ以テ其目
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的ヲ達スル楷梯﹂とするというのである。 ⑤﹁哲学館改良目的について﹂︵明治二二年一〇月︶ 従来、哲学館は﹁一般ノ哲学﹂の教授を目的としていたからとりわけて﹁主義等ヲ明言﹂することはなかった が、﹁本館ノ主義タルヤ素ヨリ暗々裏二包蔵﹂していたところである。それは﹁日本主義ヲ以テ立チ日本ノ言語 歴史宗教ヲ完全ナラシメ﹂ることであるが、日本主義とは﹁一国ノ独立ヲ堅固ニスル﹂ことであり、表面の目的 にすぎない。その裏面にある、より大きな目的は﹁宇宙主義﹂であり、﹁宇宙間ノ真理若クハ哲理ヲ研究スル﹂ ことである。教育家、宗教家、哲学家の養成を目的とする。 ㈲﹁哲学館専門科開設趣意﹂︵明治二一二年九月︶ これは﹁哲学館将来の目的﹂とほぼ同じ内容であるが、﹁宇宙主義﹂の目的は欠けている。 m﹁哲学館の目的﹂︵明治二六年四月︶ 哲学館の目的は教育家、宗教家の養成︵哲学家の養成は脱落する︶にあり、教育の方の方針は﹁日本主義﹂、 宗教の方は﹁仏教主義﹂を採るが、教育勅語換発により教育方針が一定したので、﹁殊更に日本主義を唱ふるの 必要﹂はなくなった。また﹁我国固有の学﹂に関しては﹁国学漢学仏学﹂というように﹁神儒仏三道﹂の呼称が 変わった。さらに、﹁余か護国愛理の二大義務に関係する者にして﹂とか﹁余の教学に関する事業は大小種々あ れとも総て護国愛理の二大目的を実行するに外ならさるなり﹂というように、哲学館設立の目的の内に初めて ﹁護国愛理﹂の語が現われている。
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⑧﹁東洋学の再興と哲学館の由来﹂︵明治四三年二月︶ これによると、社会の潮流は極端から極端へと動くもので、維新前の撰夷主義が欧化主義の反動を起こし、そ の欧化主義に対する反動が東洋主義、国家主義、国粋主義である。これと同じく東洋学の再興も社会風潮の所産 だとされる。これに関連して東洋学も西洋崇拝の影響によって起こったものといわれる。 ﹁哲学館を立てたる本意は東洋を本とし、日本を主とするの方針であった﹂。また﹁哲学館の方針は東洋の学を 主とし、西洋の学を客とし、彼我、主客を合せて研究する主義にして、而も国教などと云ふ宗教主義でなく、単 に学問研究の方面より将来東洋学を発揮しようと云ふ目的﹂であったという。ここに於いて、哲学館開設当初の 目的にあった西洋哲学専修ということは全く隠されてしまい、﹁宇宙主義﹂に見られた﹁宇宙間ノ真理若クハ哲 理ヲ研究スル﹂という普遍主義に代って、より強く﹁東洋主義、国家主義﹂の性格が示されるのであり、円了の 本来の主張であった﹁仏教主義﹂は否定されて宗教主義を採らぬことが述べられている。 以上見てきた変化は、日清・日露の両戦争を経て社会の風潮が国粋主義的、国家主義的傾向を帯びたことと、 私立学校も文部省の指導監督の下で次第に自由を失っていたこと、まして哲学館事件を経験したことと無縁では ない。しかし、円了のこの表面的発言に微妙な変化は見られるが、円了が大学経営を離れて﹁修身教会﹂を拠点 にしての、建て前は﹁教育勅語﹂とするも本尊は﹁良心﹂だといいながら仏教11道徳を全国に巡講したそのこと には、変化はない。
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九 ﹁哲学館開設旨趣﹂以降の数点を見るとき、その目的とする事柄に変化があり、表面的には明治国家の目的に 合致していくことが伺える。それは、基本的には公を優先させ、私は公に従わねばならぬという時代的な風潮が あったであろうが、次のことも考えておかねばならぬと思われる。第一に、円了は寺院に育ち、幼くして既に仏 典に親しみ、石黒忠恵の漢学塾に学んで伝統的教学の価値を知っていたこと、第二に、円了が哲学という新しい 学問によって近代的合理性を主張したが、それは維新以来の﹁旧弊一洗﹂の時代精神の延長上にあるもので、そ の向かうところは国家の指導する近代化の内にあった。従って、その国家の近代化の過程に応じて、哲学の批判 すべき対象が変ること、第三に、円了は哲学に基準を置き思想の真偽を判定するが、真なる思想は国益に合致す ると確信し、世間も又、そのことを円了の﹁護国愛理﹂と結びつけて受け止めていること、第四に、何よりも円 了が﹁排耶論﹂によって論壇に登場したように、円了の根底には仏教あるいは教団を護持しようとする伝統指向 の精神が強くあったこと、第五に、円了は仏教に関わるといっても、仏教の教学を体系的に研究しそれを深化す るということよりも、庶民に仏教を啓蒙、普及するというプロパガンダの仕事を主にしており、時代のそのつど そのつどの世間的な問題にふりまわされる感がいなめぬこと。これらのことを考え合わせる時、円了の活動は明 治という特殊な時代に特有な問題を専らにしたが、その収敷する所は仏教の護持であり、それに目覚めたのも西 洋に刺激されてのことであったといえよう。このことは円了もよく自覚しており、﹁即ち西洋でも此の如くであ
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︵29︶ るから、我国でも此くせねばならぬと云ふのは、矢張り西洋崇拝の主義と申さねばならぬ﹂といい、東洋学の設 置を西洋崇拝の影響に求めている。 このことは﹁排耶論﹂を行なうときも同じである。円了は﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂を問い、キリス ︵30︶ ト教は﹁今日ノ実験二基﹂つく哲学に照らして﹁古人ノ空想二基﹂くから偽であるというが、﹁耶蘇教者の実際 に尽くす所の精神﹂を見る時、﹁法に尽す所の心を以て能く国に尽し国に尽すの心を以て能く法に尽す所の心は 一にして対する所の義務は二なり﹂﹁此護法愛国の両義を実際に尽して死して猶ほ余栄あるもの其れ唯、耶蘇教 者にあら鐘﹂といい・キリスト教の今日の繁栄は理論にではなく実際にあると結論している。この・とから円 了は仏教の実際的活動の必要、そのための仏教の改良の必要、を学んだのである。それによって﹁能く民利を興 し国益を進め近くは一家の安全を保ち遠くは一国の富強を助け﹂るのだというのである。そしてそれに基づいて ﹁他日耶蘇教と共に雌雄を地球上に争はんと欲せは務めて我邦の富強独立を計らさるべからす乃ち護法愛国の二 ︵32︶ 道相離れ﹂ぬことが明らかだとする。 このように円了は、﹁護法愛国﹂の実際をキリスト教に学び、その実際を仏教に応用して仏教界の覚醒を求め、 さらに進めて﹁護国愛理﹂論へと一般化して行ったのである。
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註 ︵1︶ ﹃仏教活論序論﹄井上円了選集第三巻 東洋大学 三三六頁以下︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ A A
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) ) ) ) ﹁真宗哲学序論﹄明治二五年 一六一頁。﹁其信仰を自白すれば、表面には、哲学を信じ、裏面には真宗を信ずるものである、 ⋮:.幼時に信仰の根抵を真宗の地盤に植付けてあるから、我心眼の前には真宗となって現はるるのである。﹂︵高島米峰﹁井上 円了先生を憶ふ﹂﹃東洋大学と学祖井上先生﹄東洋学苑特別号 昭和八年 一〇頁︶ ﹃破邪新論﹄二〇六頁以下 同前二=二頁。また﹁真理金針﹄続=一八頁に﹁仏教は東洋の精神思想を含有し日本の人情気風も其中に包入﹂すると述べて いる。 上場顕雄﹁排耶論にみる明治前半期の真宗﹂﹃仏教史学研究﹄第20巻第2号 三〇頁以下 明治二〇年二月、第二編﹃破邪活論﹄同年=月、第三編﹃顕正活論﹂明治二三年九月刊 矢吹慶輝﹁明治仏教と外来新思想﹂﹁現代仏教﹄一〇五号 昭和八年 四六頁 安藤州一﹁浩々洞の懐旧﹂﹃現代仏教﹄四八九頁 高楠順次郎﹁明治仏教の大勢﹂﹃現代仏教﹄六頁以下 日本人の宗教的な無関心については、維新時に来日した多くの外国人も指摘する。確かに彼らは日本の宗教を神儒仏三道に認 めて分析するが、神仏混渚などからこの無関心を取り出している。例をあげてみると、﹃スイス領事の見た幕末日本﹄ルドル フ・リンダウ︵森末英雄訳︶新人物往来社、昭和六一年、﹁彼らが容易にキリスト教に近付き得るということは、⋮⋮彼らが無 関心であることの結果にすぎない﹂︵四七頁︶、﹁日本人自身も自分達の宗教をよく知らない﹂︵四八頁︶。﹃ドイツ貴族の明治宮 廷記﹄○.モール︵金森誠也訳︶新人物往来社、昭和六三年、.日本人の宗教観がいかに寛容であるか﹂︵三七頁︶、﹁日本人が 妥協的な宗教観しか抱いておらず、そもそも日本に国家宗教がない﹂︵三八頁︶。﹁明治滞在記﹄A・ベルソール︵大久保昭男 訳︶新人物往来社、平成元年、﹁珍妙なものと超自然なもの、怪物と神を必ずしも区別しない﹂︵一七頁︶。﹃江戸幕府滞在記﹄ E.スエンソン︵長島要一訳︶新人物往来社、平成元年、﹁日本人はこと宗教に関してはまったく無関心﹂︵三七頁︶。﹃イタリ ア外交官の明治維新﹄A.ヒューブナー︵市川慎一、松本雅弘訳︶新人物往来社、昭和六三年、﹁宗教心は消え失せかけてい一26一
22 21 20 19 A A A A A A 18 17 16 15 14 13 12 11 ) ) ) ) ) ) ) ) ︵23︶ るL﹁信仰心も宗教心もまったく欠除している﹂︵ 〇一頁︶。︵信仰の有無について︶﹁そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ﹂ ︵同︶。﹃亡命ロシア人の見た明治維新﹄メーチニコフ︵渡辺雅司訳︶講談社、昭和五七年、﹁昔から徹底した宗教的無関心﹂ ︵六二頁︶。﹃ドイツ宣教師の見た明治社会﹄ムンチンガー︵生熊文訳︶新人物往来社、昭和六二年﹁宗教観の微妙な違いなど 理論的にも実際的にも分かりはしない﹂︵六九頁︶、﹁日本人というのは非常に実際的な人間で、宗教的人格はやや弱いようで ある﹂︵一五二頁︶。このような日本人の宗教的無関心にキリスト教の宣教の可能性を見ていくのである。 宮本正尊﹁明治仏教教学史﹂﹃現代仏教﹄一八∼三〇頁 山辺習学﹁明治時代に於ける仏教伝道布教について﹂﹃現代仏教﹄三〇五頁 矢吹慶輝﹁明治仏教と外来新思想﹂﹃現代仏教﹄三一頁以下参照 宮本正尊﹁明治仏教教学史﹂二〇頁 浅野研真﹁明治時代の仏教社会事業し﹃現代仏教﹄二六六頁以下 海野幸徳﹃日本社会政策史論﹄一六頁 浅野研真﹁明治時代の仏教社会事業﹂二七四頁 同前二七〇頁 三好退蔵﹁慈善事業﹂﹃開国五十年史 下﹄︵大隈重信編、同刊行会、明治四一年︶八六三頁 明治三六年七月内務省調査 禿氏祐祥﹁明治仏教と出版事業﹂﹃現代仏教﹄一七八頁 紀平正美﹁明治時代の仏教と哲学﹂﹃現代仏教﹄六五頁以下 日本にゲシタルト心理学を紹介、普及した東洋大学元学長佐久間鼎博士も若き折、﹁哲学に進む﹂と申されたのに対し、鉄鋼 商の御父君は﹁やっと鉄屋になる気になったか﹂と喜ばれたという余談を語られ、哲学に対する世間の無理解の例とされたこ とがあった。 安藤州一﹁浩々洞の懐旧﹂四八九頁
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32 31 30 29 28 27 26 25 24 紀平正美﹁明治時代の仏教と哲学﹂六五頁以下 常盤大定﹁明治仏教と印度哲学講座﹂﹃現代仏教﹄八七頁以下 紀平正美﹁明治時代の仏教と哲学﹂六五頁以下 安藤州一﹁開導新聞の発行﹂﹃現代仏教﹄五一一頁 境野黄洋﹁追憶雑談﹂﹃現代仏教﹄五二一頁以下 井上円了﹁東洋学の再興と哲学館の由来﹂﹁修身﹄明治四三年二月一日 井上円了﹃破邪新論﹄六頁 ﹃真理金針﹄続、二八頁 同前=二頁 ︵文学部教授︶