経済と経営 45−2(2015.3)
研究ノート>
農業経済学の根本問題
農業経済学の方法と小農概念の再検討
岩 崎
徹
はじめに . 狭義の経済学 と 広義の経済学 1) 広義の経済学 の提唱 2) 広義の経済学 と農業経済学 3)経済学における自然 . 自然と人間の再生産 としての農業 1) 農の営み と 産業としての農業 2)農業労働の特性 ⑴ 農業労働の特性 ⑵ 農業労働における 業 .農業衰退論と小農没落論 1)本源的蓄積論と農業経済学 2)農業衰退論 3)マルクスの小農没落論 ⑴ 小農没落の必然性 ⑵ 労農同盟論と小農没落論 ⑶ マルクス未来社会論と小農没落論 .小農概念の再検討 1) 過渡的存在論 からの脱却を 2)資本主義体制にとっての小農 3)小農と 合理的農業 4)いわゆる 土地国有化論 と大規模農業論 . 農業の基本的価値 と小農 1) 農業の基本的価値 2)小農の行方 3)小農と共同体 むすびに代えて➡
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はじめに 世界の農業,とりわけ家族農業は大きな岐路に立たされている。アグリビジネスと世界の グロー バル資本 は,農業市場を 残された巨大市場 として位置づけ,各国農業を グローバル資本 の傘下に収め,従来の農業構造の解体とりわけ家族農業の解体を狙っている。それとともに,今日 農業・食料汚染 や 農業における自然破壊 が地球大の問題となっている。 今日ほど,農業の役割そして家族農業の役割が問われている時代はない。 2014年は国連の 国際家族農業年 であった。 農業グローバリズムが,猛スピードで地球上を駆け巡っている。農業グローバリズム推進の主役 はアメリカのアグリビジネスであり,経済グローバリズムの名のもとにアメリカン・スタンダード を地球大に押しつけようとしている。農業グローバリズムは 農業の工業化 と一体である。従来 の 農業の工業化 といえば,農業生産手段における機械化・施設化や石油製品資材の利用等を意 味していたが,今や 生命活動の工学的利用 (バイオテクノロジー), 生命体の核 そのものの 工 業化 をも意味するようになった。資本の活動領域は, 生命体そのもの までにも及ぶようになっ たのである。バイオテクノロジーの最先端技術は遺伝子組み換え,クローン技術であり,これら最 先端技術が作り出した食品は フランケンシュタイン食品 と呼ばれている。アメリカのアグリビ ジネスが生み出した 家畜工場 ,そして各国・各地に広がる 野菜工場 も今日の 先端技術 を 駆 した 農業の工業化 である。農産物は, 農業の工業化 により大量生産・大量流通と食生活 の極度の商品化・市場化,効率化を可能にした。しかしこれらの技術は,生命の連鎖,自然の循環 を断ち切った技術であり,人間・自然に決定的な負荷を与え,自然と人間の危機・破壊を伴う。ま た,農業グローバリズムと 農業の工業化 は,農産物輸入国・輸出国を問わず家族農業の存立を も危うくさせている。 資本にとって自然と人間は究極の存立基盤であり,自然と人間の破壊は資本の活動領域を自ら破 壊することを意味する。ここに,資本主義の歴 的・過渡的性格をみることが出来る。ともあれ, 最も自然とのかかわりが強い 生命の営み である農業が 工業化 し,最も自給的,地域的な特 徴をもつ農業がグローバリズムの波に飲まれる,という 人類 の危機 をどう捉えるのか。経済 科学の役割が問われている。 本稿の課題は,農業生産の意義を問い直すとともに,農業経済学の方法と小農概念の再検討を試 みることにある。経済学は,暗黙のうちに農業の衰退,小農の没落を歴 的進歩とし,共同体を 前 近代的 なものとしてきた。そして,こうしたとらえ方は従来の経済学の方法にも起因するものと 思われる。 なお,家族農業という用語は日常語であるが,経済学や歴 学としての用語は 小農 概念であ る。小農とは,マルクス所有論では 自己労働にもとづく私的所有 のことである。本稿では,引 用文献との関係もあり,状況に応じて小農,家族農業,小経営的生産様式(含手工業),小経営, 割地農民,農民等と様々に表現するが,ここでは基本的に同一の概念とみる。 もちろん,一口に小農といっても,階層 化を内包した様々な農民層が存在するがここではその
ことは問わない。 本稿前半で多用する玉野井の引用は, 玉野井芳郎著作集2 生命系の経済に向けて (学陽書房, 1990年)による。原著は個別論文であるが,個別論文名はあげず著作集の頁で示す(玉野井,p ○○)。 また,マルクス・エンゲルスの引用は注記せず,本文中に示す。 資本論 は新日本出版訳を 用し, ( 資本論 ○巻,p ○○)のように, マルクスエンゲルス全集 は大月書店版を 用し(全集○巻,p ○ ○)のように示す。なお,全集以外のマルクス・エンゲルス文献の引用も文中に典拠を( )で示す。 訳は変えているところがある。 注 1) 天笠啓祐 食卓を脅かすフランケンシュタイン食品 (市民フォーラム編 WTOが世界を変える 現 代企画社,2001年)p40 Ⅰ. 狭義の経済学 と 広義の経済学 1) 広義の経済学 の提唱 今までの農業経済学(理論研究)は,農業生産の構成要素(土地,労働力,生活・生産手段)や 生産物の商品化・市場化を前提とする(あるいは擬制化した) 析,いわゆる 狭義の経済学 を 対象としてきた。 狭義の経済学 とは,もっぱら市場経済や商品経済を対象とする経済学である。 これに対し,市場経済を前提としない 非市場領域 をも対象とするのが 広義の経済学 である。 玉野井芳郎は,すでに 1970年代後半に 広義の経済学 , 生命系の経済学 を提唱した。 非市 場領域 とは, 人間の生活・生産の再生産様式 を包含する。 これからの経済学は,社会の生産 と消費の関連をこれまでのように商品形態または市場のワク内でのみとらえることをやめ,あらた めて自然・生態系と関連させて,したがって広義の物質代謝の過程としてとらえ直さねばならなく なってきた (玉野井,p 18)のである。 人間労働の観点から, 広義の労働 と 狭義の労働 との区別を指摘したのは内山 節である。 内山は自らの群馬県の山村生活での体験から,住民は 1970年代までは 仕事 と 稼ぎ とを明確 に い けをしていたことを述べている。 仕事 とは,必ずしも収入とはかかわらない労働,社会・ 共同体,生活過程にかかわる労働全般をいう。 稼ぎ とは,直接収入にかかわる労働であり,賃労 働・雇われ労働をいう 。 仕事 は 広義の労働 であり, 稼ぎ は 狭義の労働 である。社会 的に価値化されない労働,すなわち家事,育児,介護,生活のための仕事,共同体の仕事,ボラン ティア活動はしばしば シャドーワーク と呼ばれる。 シャドーワーク は市場システム社会では 陰の労働 であるが,本来の生活社会では 陽の労働 である。 広義の農業経済学 は,農業の生産過程,農村の生活過程を 括する土地自然,社会,家族,共 同体という 非市場領域 を網羅し 析する 。また, 広義の農業経済学 によってこそ,人類 の視点より経済と農業の関連を 析しうる。経済グローバリズムの本質が,資本の領域拡大のため の 自然と人間の再開発 , 自然と人間の究極の破壊過程 であるとすると,地球的規模の格差拡 大や環境・資源問題は 広義の農業経済学 の視点でしかその本質は捉えられない。 とはいえ,経済学は古典派経済学以来,玉野井のいう 広義の経済学 から出発したのである。
経済学は, 自然と人間と市場 との関連 析, 素材的富の源泉 , 富と価値の関連 を明らかに しようとしてきた歴 でもある 。したがって, 広義の経済学 の提唱は経済学の 発展 がとも すると 狭義の経済学 に純化してきたことへの反省であり,古典派経済学やマルクス文献の読み 手の問題,読み方の問題を提起しているともいえよう。 2) 広義の経済学 と農業経済学 玉野井は問う。今日われわれがエコノミーまたは経済というこの言葉を日常語で述べる時ですら 気がつくことは,この言葉が市場経済=商品経済を指すのか,それとも非市場経済をふくめたもの, つまり市場経済の枠を乗り越えた広義の経済を意味するのかを区別して用いなくてはならなくなっ ていることである。経済学においてはこれまで,この両者はしばしば無造作に混用されてきた。と いうよりむしろ,経済といえばただちに市場経済とみなされ,経済システムといえば暗黙に市場経 済の 長上にとらえられてきたのであった (玉野井,p 34∼35)。 市場経済は,人類 的にみれば社会関係のほんの小さな一部にすぎなかった。資本主義経済シス テムが,非市場システムを包摂し市場システム中心の社会に変えた。カール・ポランニーの表現に よれば 社会関係の中に埋め込められていた経済システムに変わって,今度は社会関係が経済シス テムに埋め込められてしまったのである 。とはいえ,どんなに市場システムが発達し,社会を包 摂しようとも,市場経済が完全に社会を席巻し, 埋め込められ尽くす ことはない。それどころか, 市場経済だけが孤立した人間社会はあり得ないし,非市場領域(人間の生活・生命の再生産様式) の存在があってこそ市場経済は成り立っているのである。 資本主義の発展 とは,非市場領域の市 場経済化過程でもある。今日の経済グローバリズムの特徴は,市場経済になじまない 野,あるい は本来市場化してはならない 野,つまり農林漁業,食料,医療・介護,教育,地域そして水・エ ネルギーといった自然や人間生活の根底をなす 野を権力によって強引に市場に組み入れようとす ることに本質がある 。ともあれ,新しい経済学の課題は,市場経済をも包摂した非市場領域の 析 をすること,市場経済の歴 的限界を人類 の視点より明らかにすることにある。 ひるがえって日本の場合,明治維新以来今日にいたるまで市場経済化が近代化であり,歴 的進 歩であるという国民意識が知識人を中心に醸成されてきた。経済学をはじめ社会諸科学がそれを支 えた。また,このような近代 観・市場主義 観は,戦後改革時における民主化運動の時,鮮明に 現れた。当時の農村社会の現実は, しさからの解放 が焦眉の課題であり,それが民主化運動, すなわち封 遺制からの脱却運動と結びついていた。封 遺制からの脱却は,当時は共同体一般か らの脱却を意味していた。およそ民主化=封 遺制の打破=共同体の打破=近代化=西洋化(といっ ても西洋の一面的・断片的把握)というそれぞれ異質の概念が同一視化され,そうした歴 観が理 論化されてきたからである。そのような遺産の 長線上に,今日の経済理論・農業理論が形成され たことは否定できまい。 資本主義の発展は,非市場領域を序々にあるいは急激に市場経済に巻き込 み,やがて市場経済が社会を席巻する ,そしてそのことが 歴 の進歩 であるというのが暗黙の 近代 観であつた。戦後日本の高度成長は, 非市場領域の市場化 と重化学工業化が一体となって 進み 豊かな社会 を実現した。今日のグローバリズムの時代は, 非市場領域の市場化 が明らか に 人間と自然 に大きな負荷(格差社会と自然破壊)を与えている。にもかかわらず,国民意識 の中に 非市場領域の市場化 が 豊かな社会 を実現するという 成長神話 が根深く存在する
のは,こうした理由のひとつであろう。 もっとも,今日の思想潮流は共同体については, 前近代の象徴としてではなく むしろ未来へ 向けた言葉として われのようになってきた 。しかし,近代 観が社会の底流に潜んでいる状況 は変わらない。したがって,今日の経済グローバリズムの時代においても, 自然と人間の開発(破 壊)=近代化=歴 的進歩という成長神話が,経済グローバリズムの思想を受容していることは注 意すべきであろう。 さて,以上の歴 観からみると,家族農業や共同体の存在は 遅れた社会の残 である。確か に,戦前の地主制が 軍国主義の温床 であり,家族農業や共同体がそれを支えていた。また,戦 後の農村社会にはその残 が継承された。しかし, お湯と一緒に赤ん坊を流してはいけない 。人 類 の中で,農業の役割,家族農業の役割が今日ほど問われている時代はなく,そして共同体は家 族農業と密接,不可 の関係にある。内山 節は, 共同体とは何かという問いは歴 的,あるいは 時代的文脈の中で語るべき課題 と述べたが,同じように,農業や家族農業も 歴 的,あるいは 時代的文脈の中で語るべき課題 である。 議論を戻そう。先述の市場万能志向に警告を鳴らしたのはカール・ポランニーであり, 時代遅れ の市場志向 に対して新たな 析の枠組みの必要性を説いた。ポランニーは, 市場そのものをその 一部として理解することができるような,より広いフレーム・オブ・レファレンスを発展させるこ とに社会科学が成功しない限り,一般的なフレーム・オブ・レファレンスとして市場を乗り超える ものはあらわれないであろう。…これが,まさに経済研究の 野における今日におけるわれわれの 主要な知的任務である 。 ポランニーは, 自己調整的市場経済 を設定し,人類学や歴 学をふまえた社会の実態の側から 市場経済の特異な姿をみる。そしてポランニーは,根源的な問題として土地,労働力,貨幣は本来 的商品ではなく,フィクションであるという。労働は,生活それ自体に伴う人間活動の別名であり , 土地は自然の別名でしかなく人間によって生産されるものではない 。最後に 現実の貨幣は,購 買力を示す代用物に過ぎない。原則としてそれは生産されるものではなくて,金融または国家財政 のメカニズムをとおして出てくるものなのである。労働,土地,貨幣はいずれも販売のために生産 されるのではなく,これらを商品視するのはまったくの擬制である。にもかかわらず労働,土地, 貨幣の市場が現実に組織されるのはこの擬制のおかげなのである 。 ポランニーは,労働,土地,貨幣のそれれぞれが 商品ではない ことを述べたにすぎず,三者 の内的関連を解き明かにしてはいない。これに対してマルクスは,土地,労働力,貨幣の擬制的性 格を 市民社会の解剖学 により,経済的細胞である商品を解剖することを通して明らかにした。 そしてマルクスは,土地・労働力・貨幣が商品化するメカニズム(物神性の解明)とそれぞれ相互 の関連を明らかにした。資本主義的生産様式が成立するためには,労働力の商品化とその相補の関 係にある土地の私有化・商品化が必要である。その労働力と土地が商品化する過程は歴 的であり, いわゆる本源的蓄積過程によって生じた。農業は 非市場領域 が広汎に存在し,その市場経済化 はたえず進行している。つまりこの本源的蓄積過程は,資本主義社会の全歴 過程を通じて行われ る。このことは農業問題論の要点として留意したい。ともあれ,市場主義的経済学は,労働,土地, 貨幣が擬制であることを反省することなく 転倒した市場化 を前提に 析し続けてきたのである。
3)経済学における自然 広義の経済学 を議論するに際して,経済学における自然の位置づけを明らかにしておく必要が あろう。 生産における自然の役割をめぐる,アダム・スミスとデヴット・リカードウの有名な古典的 論 争 がある。重要な論争なので立ち返ってみよう。 まず,アダム・スミスは言う。 農業においては,自然もまた人間とならんで労働するのであって, しかも自然の労働には何の経費もかからないけれど…その価値をもっている。…しかもあらゆる労 働を加えたところで…その仕事の一大部 は自然によってなしとげられるべきものとしてのこるの である。…製造業においては,自然はなにもしないで人間がいっさいのことをなす 。これに対し てリカードウは,痛烈にスミスを批判する。 製造業では,自然は人間にたいして何もしないのか。 われわれの機械を動かし,航海を助ける風力や水力は,はたして何物でもないのか。最も巨大な機 関の運転を可能にする気圧や蒸気の弾力は,自然の賜物ではないのか。まして金属を柔軟にしたり 溶解する熱素の効果や,染色よび発光の過程における大気の 解効果については,いうまでもない ことだ。自然が人間に援助を与えていない,しかも気前よく無償で与えていない製造業など,およ そ挙げることはできない。 。 ここでリカードウは,事実上,素材的富の源泉が自然にあることについて,スミスのように農業 の特性として例外扱いせずに一般化すべきとしている。この限りにおいてリカードウは正しい。し かし,リカードウは 別の方向に,つまり自然の生産における役割は農業も工業も同じなのである から特に自然の役割を強調する必要はなく,生産物価値は労働のみに還元されるという方向に誘導 してしまう のである。 スミスが農業における自然の役割を強調するあまり,リカードウが批判したように 製造業では, 自然は何もしない というのは明らかな間違いである。しかし,スミスが農業における自然を工業 における自然とは異なることを明らかにしたことの意味は大きい。もっとも,スミスにあっては自 然の役割を強調するあまり,重農主義学派的色彩の強い 自然的地代 概念の析出という混乱も含 まれてはいる。 したがって問題は二重である。第一は,素材的富の源泉は労働と自然である。第二は,素材的富 の源泉が自然にもあるとして,農業と工業における自然の役割は違う。 第一の, 素材的富の源泉は労働と自然である という点に関して。 スミスの論述は,ウィリアム・ペティの 土地は富の母であるように,労働は富の であり,そ の能動的要素である という古典派経済学のよき継承である。マルクスも ゴーダ綱領批判 では, 労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に 用価値の源泉である(全集 , p 15)と述べ, 資本論 ではペティの言葉をそのまま引用している。しかし, スミスからリカード ウへと古典派経済学の理論が発展するにつれ, 富 と 価値 との混同が解き放たれるとともに, 富 ではなく 価値 を主題する理論が体系化されてきていることである。同時に,リカードウ の場合は,富という言葉も wealthから richesとかわってきたことも見のがされてはならない。それ は 狭義の経済学 としては当然の理論的発展の姿である (玉野井,p 70)。マルクスも, 資本論 では市場における価値の世界を正面にすえて,第一章 商品 から,市場経済の転倒した物的世界 の論理的解剖をはじめている。本来,経済学は wealthと richesとの関連の解明こそ必要なのであ
る。マルクスは, 素材的富の源泉 は 自然と労働 であるとしつつも,価値の源泉は労働である とした。ここで注意すべきは, 価値 によって,商品は 換され販売されるのであって,したがっ て 用価値 の源泉をなす自然は無視され,人間と自然との物質代謝…がほかならぬ商品 換を 持って実現されるという面は忘れさられる ことである。資本制的富も労働によって規定される ように見えるのであり,資本家の目には自然の価値は存在しない。資本にとっては自然のコストは 排除されるのであり(労働力も単なるコストと認識される),自然環境破壊は 資本の論理 から必 然的に導かれたものである 。 マルクス 資本論 は,冒頭で以下の有名な叙述から始まる。 資本主義的生産様式が支配してい る諸社会の富は 商品の巨大な集まり として現れ,個々の商品はその富の要素形態として現れる。 それゆえ,われわれの研究は商品の 析から始まる ( 資本論 ,p 59)。(商品の) 用価値は,富 の社会的形態がどのようなものであろうと,富の素材的内容をなしている 。そして われわれが 察しようとする社会形態においては,それは同時に 換価値の素材的担い手をなしている のであ り( 資本論 ,p 61),マルクスは商品の 用価値の捨象 によって価値概念を導くのである。以 降,マルクスは 用価値の捨象 によって貨殖の秘密を明らかにしていく。マルクスにあっては 価値論の完成こそが主題であり,資本主義という体制の 特殊歴 性 を明らかにすることが経済 学の課題であるとして,価値から剰余価値や資本という概念を発展させるべく 貨殖の秘密 資本 の蓄積 の解明に力を注いだのである。 もちろんマルクスは,生産=労働過程が 人間と自然との物質代謝 の過程であることを重視し ていたため,絶えず価値の上向過程でその都度,価値と 富の源泉 である 用価値との関連(矛 盾)について振り返っている。しかしながら,マルクスは労働過程を工業も農業も同じ富の形成過 程としてとらえ価値を析出した。元田厚生は,メイヤスーを援用し,マルクス価値論の難点を 具 体的労働の抽象的労働への還元とは本来,同一単位に還元することのできない具体的労働を,擬制 的に同質化することを意味するから,その同質化の過程で,資本収益に組み込まれない労働は捨象 されることになる としている。そもそも,農業は工業とは 同質化 できない 具体的労働 を 有する。農業経済学の任務は, 同質化 できない農業の 具体的労働 を 析することから始めな ければならない。 第二の, 農業と工業の自然の役割は違う という点に関して。 工業生産は,歴 的には農業生産手段ならびに農産物の加工から始まった。つまり工業生産は農 業より 離し,独立し独自の展開を遂げ,やがて今日の重化学工業・情報化社会を作り上げた。そ して産業革命を起点に,今日の資本主義システムを作り上げてきた。その意味で,同じ工業生産と はいっても,衣食住という生活手段における工業生産は農業生産の紐帯を維持している。例えば醸 造業は, 生きた有機体 である原料や酵母を 用し,その生産過程は農業生産と類似の過程を る。 しかしここでは工業化社会が作り上げた経済システム・市場システムを前提に議論する。先の冒 頭での玉野井の引用 経済システムといえば暗黙に市場経済(とみなされてきた) は,同時に 経 済システムといえば暗黙に非農業社会 とみなされてきたのである。経済学における 生産 とい う概念は, まさに一般であるがゆえに農業でもなければ工業でもないといっても,農業の特性が捨 象されている限りにおいて,農業から 離された 工業 をとおしてつくられた概念像というほか ない (玉野井,p 71)。
市場では,市場的領域で生産される非農業を律する市場のルールがひとしく適用される。経済学 は,その理論対象から農業を次第に捨象してきた。これに対して, 生命系の経済学 を対象にしよ うとすると,農業と工業との本質的差異という根源から出発する。 では,農業と工業との本質的差異とは何か。 農業は,生命体を生産するのみならず,労働対象も労働手段(容器的労働手段,一般的労働手段) も自然(太陽,空気,大地・水)そのものを利用する。これら自然は,単なる生産手段ではなくトー タルな自然,日本では 風土 と呼ばれてきたものである。農業の持続的生産のためには, 風土 という自然全体の循環を必須とする。 人間は自らエネルギーを作り出すことができず,他の生命体のエネルギーを転換することによっ て,すなわち,動植物を捕食することによって自らの生命を維持している。農業生産とは,太陽エ ネルギーを植物→動物(人間)→微生物の順に転換を遂げる過程であり,農業における自然素材は, 植物,空気,土,水,微生物などである。農業は,エネルギー連鎖の繰り返しを担うのであるから, 自然の循環,持続的農業を必須とする。農業は, 命の連鎖 を繫ぐ。 命の連鎖 とは,①捕食の 連鎖(植物・動物,人間,微生物)②人間活動の維持・再生③命の世代への連鎖という三つの連鎖 である。 農業は,土地自然を主要な生産手段(単なる生産手段ではないが)とする。工業生産における土 地は,一般的労働手段にしか過ぎない。しかるに農業生産における土地は,土地が生産過程の真っ ただ中に入り込むのである。シューマッハーによれば, 土地は,目的そのものであり,超経済的な もの なのである。そして 農業の基本 原則 は,生命,つまり生命のある物質を扱うというこ とである。生産物は生命過程,すなわち生長の結果であり,生産のための手段は,これまた生きた 土壌である。一立方センチの肥沃な土壌には何十億もの生物が宿っており,そのすべてを知ること は人間の能力を超えている 。 マルクスも 築地地代。鉱山地地代。土地価格 の中で農業と工業の土地の違いを指摘してい る。 農業では,大地そのものが生産用具として作用するので,順次的資本投下が実りをもたらすも のとしてなされうるが,そうしたことは…工場では見られない ( 資本論 ,p 1361)し 大地は正 しく取り扱えば,絶えず改良される (同,p 1362)。 さらに種子である。 農業生産における種子は農業上の原料にほかならないが,種子がまさしく種 子になるのは胚の内部にある生命の原点である 。農業は,土壌微生物,種子の胚という 生きた 有機体 の活動に依拠している。 農業は,労働過程においてトータルな自然と向き合う。もちろん農業が対象とする自然は,自然 とはいっても原生的な自然そのものではなく, 人間化した自然 ,第二次的自然である。人類は, 土地や河川・水利を改良・改修し,今日では灌漑施設を利用しての農業生産が行われている。種の 品種や生産資材も改良を重ね,また鍬や鎌,農業機械等の労働手段も改良の積み重ねである。今日 先進国では,農業生産における機械化・施設化,石油化,遺伝子工学等の技術革新は日進月歩であ る。 これらの改良は,もちろん労働の社会的生産力を発展させる限りで 社会の進歩 といえるが, 同時に,人間と自然に負荷を与える場合は 社会の進歩 とはいえまい。 人類の英知 が, 資本 の生産力 に転化するのである。例えば,アメリカのアグリビジネスが生み出した 家畜工場 は,
家畜の人工化とホルモン剤・添加剤を多用し,狭い 家畜工場 の中で家畜の生理・生態を無視し た飼育を行う。また,土(土壌)を 用しない水耕栽培,礫耕栽培などの 野菜工場 は,土壌微 生物の循環という生命循環を経ない 農業 である。さらにまた,生命体の核そのものを人間の手 で改造する遺伝子組み換え,クローン技術でできた生産物は 農業生産 といえるのか。これら遺 伝子工学で作られた生産体は,共通して子孫を残せず, 命の連鎖 を断ち切った 生命生産 であ る。さらに先進国農業技術といわれる,化学農薬・化学肥料,農業機械,人工添加物,石油化学で できた施設も生命循環,自然循環を無視する限り自然と人間に負荷を与える。農業生産における環 境破壊,人間破壊は枚挙にいとまもない。 注 1) 内山 節 自然と人間の哲学 岩波書店,1988年,p12∼13 2) 林業,漁業も同じく 生命系の生産・採取 である。もちろん,林業,漁業の生産・採取システム, 自然とのかかわりは農業と異なるが,ここでは農業を 生命系 の代表とし林業,漁業をも含めた概念 としたい。 3) ハンス・イムラー 経済学は自然をどうとらえてきたか 栗山 純訳,農文協,1993年 4) カール・ポランニー 経済の文明 玉野井芳生編訳,ちくま新書,p 65 5) 堤 未果 困大国アメリカ 三部作(岩波新書,2008年,2010年,2013年)と 沈みゆくアメリカ (集英社新書,2014年)は,食料,医療・介護,教育 野の市場化拡大のみならず,軍隊・自治体・刑 務所といった 聖域 にまで市場化・株式会社化したアメリカ社会の実態を告発している。アメリカ社 会は,すでに食料,医療,教育の 野ではビジネス化,民営化が社会の深部を捉え,寡占化したそれぞ れの企業が市場を席 し,それをまた金融商品によってウォール街が利益を吸い上げている。 6) 内山 節 共同体の基礎理論 農山漁村文化協会,2010年,p2 7) 内山 節 同上,p22 8) ポランニー,前掲書,p407 9) ポランニー,前掲書,p39 10) アダム・スミス 諸国民の富 (二)岩波文庫,大内兵衛・ 川七郎訳,第二編第五章,p396∼397 11) デヴット・リカードウ 経済学および課税の原理 上 ,羽鳥卓也・吉沢芳樹訳,岩波文庫,p114 12) 元田厚生 経済学のパラダイムチェンジ 風社,1998年,p52 13) ウイリアム・ペティ 租税貢納論 大内兵衛・ 川七郎訳,岩波書店,p 119 14) 椎名重明 農学の思想 マルクスとリービッヒ 東京大学出版会,1976年, まえがき p ii 15) 元田厚生は 素材的富の源泉が自然および労働して規定されるのに対して,その資本制的源泉が労働 としてのみ規定される,とマルクスが見なしていた (前掲書,p26)とし,資本制富=価値 析におい て,自然(環境破壊)コストは排除されていることを述べている。 16) 元田厚生,同上,p205 17) E・F・シューマッハー スモール イズ ビューティフル 小島慶三・酒井惣一訳,講談社学術文 庫,p 139 18) E・F・シューマッハー,同上,p 143∼144 19)エヂュワード・ダヴィト 社会主義と農業 (玉野井からの引用 p67)
Ⅱ. 自然と人間の再生産 としての農業 1) 農の営み と 産業としての農業 農の営み (生命の営み)と 産業としての農業 (商品化のための農業)とは概念として異なる。 いうまでもなく,前者は 広義の経済学 の,後者は 狭義の経済学 の対象である。 農の営み は,人類が農業を発明して以来の歴 を持つが, 産業としての農業 は近代社会になってからの概 念である。かつて日本では,農業(林業・漁業,手工業)の営みを なりわい と表現してきた。 なりわい は,引き継がれるべき家業であり, 産業としての農業 というよりも 農の営み を 基本とした表現である。 今日の日本では,新規参入農業や定年帰農,都市住民の農村生活,休日農業の希望者が増えてい る。これらの人たちの多くは, 農の営み , 自給的農業 , 農的暮らし やコミュニティ再生にそ の目的の力点がある。もちろん,これらの人たちも多かれ少なかれ現金収入は必要なので 産業と しての農業 にも取り組む。現実の農村生活者は,両者を意識して区別することなく日々の生活を している。 元田厚生は, 近代社会は, 用価値・質・友愛が支配する生活世界と,商品価値・量・収益が支 配する資本の世界とから構成されている と述べた。元田の表現になぞらえれば,農の営み は 用価値・質・友愛が支配する生活世界 であり, 産業としての農業 は 商品価値・量・収益が支 配する市場の世界 である。 農業は,自然と人間の再生産を担うものであり,農村空間である自然(森林,河川・湖沼・水利, 農地,敷地,道路・畦畔,雑地)は,生産・生活空間であるとともに地域社会・地域文化を形成する。 いわゆる 農業の多面的機能 といわれるものは,農業のもつ自然循環機能,社会的人間が生き る基礎条件を表現しようするものである。 農水省 HP によれば,農業の多面的機能とは 国土の保全機能,水源のかん養機能,自然環境保 全機能,良好な景観の形成機能,文化の伝承機能,保 休養機能,地域社会の維持活性化,食料安 全保障 を包摂する。 食料安全保障 とは政治的次元の問題であるから 多面的機能 に含めるこ とに違和感があるが,農水省 HP は農業のもつ自然的機能,社会的機能を網羅している。 農業の多面的機能とは, 人間の生活・生産の再生産様式 そのものの全面把握である。ただし, 多面的機能 という表現は,農業のもつ機能を有機的・統一的に表現しておらず 副次的 に い ろいろある機能 というニュアンにもとれ,むしろ 本源的機能 とでも表現すべきであう。とも あれ現実の生産者・農村生活者は,農業・農村の 多面的機能 の中で生活し,その機能を再生産 している。 すべての 用価値生産は,自然を素材とする限り地域性をもっている。労働力商品は,歴 的に も理論的にも土地所有を媒介にして生み出されるものであるし,労働力は,土地・農業生産の紐帯 を多かれ少なかれ持っている。発達した資本主義諸国での賃労働は,土地所有から切り離されてい るようにみえるとはいえ,生活手段の根源である農林水産物は地域的なものである。 農業生産は,はじめから地域性・多様性をもつ。地球上の一片の土地は,様々な自然素材の組み 合わせでできており,地域の 風土 を形成する。玉野井によれば,地域のもつ自然的基礎は 原 理的に,大気系と水系と土壌生態系より構成されている という。農業は 風土産業 とも呼ばれ,
風土 の違いによって異なる作目が組み合わされ,同じ作物でも地域によって品種,生産手段, 作業適期とその幅は異なる。農業は 風土に生かされて 営まれているのである。ちなみに,北海 道標津町の新規農業参入者である三友盛行の著書 マイペース酪農 の副題は, 風土に生かされた 適正規模の実現 である。 農業は,自然素材,自然風土,人間労働という地域性そのものから生み出された地域的な営みな のである。 次に,農産物における 商品特性 について触れておく。 農産物は 生きた有機体 であり,季節性,地域性,多様性を本質とする。 生きた有機体 は,やがて生物学的 解(腐食)を遂げる。したがって,長期の保存は不可能で ある。また,農産物は生命体であるから,個々の生産物は本質的に非 質なものである(ふぞろい が本質)。 もちろん,製造工業品にも耐用期間,償却期間がある。製造工業品の物理・化学・生物的,およ び社会的磨滅の期間である。また,製造工業品も 用価値生産である限り季節性・地域性を持つ。 とくに,生活手段である食・衣・住に関しては季節性・地域性を色濃くもつ。 農産物は,自然・天候に依存しており豊凶差は激しく生産量は不安定,品質は不 質である。し たがって生産物の価格は絶えず変化し,ときには投機性を伴う。工業製品のような, 大量生産・大 量流通 , 定量・定出荷 , 規格化 は困難である。しかし,市場では非農業を律する市場のルー ルがひとしく適用される。 大量生産・大量流通 , 定量・定出荷 , 規格化 は農業の摂理を無視 しているが,市場社会では当然のように強要する。そこに様々な歪みが生まれる。 農業の工業化 は,大量生産・大量流通をある程度まで可能にさせ,食生活の極度の商品化・市場化と効率化を図 る。農業グローバリズムは,農業の市場化を地球規模にまで強制する。こうした市場社会の論理の 長線上に遺伝子組み換え食品が存在する。 農産物は人間の生命・生活の基礎であり, 用価値のもつ季節的・地域的・多様的・不 質的性 格は市場システムの中にあってもなお, 半商品 としての性格をもっている。 半商品 とは,渡 植彦太郎が唱え ,内山 節によって補強された概念である。渡植は芸人,職人の仕事は 商品 を 度外視した性格をもつことを指摘した。 半商品 は,市場で流通していても,市場の論理だけで規 定されないものであり,農産物はどんなに市場システムが進んでも 半商品 としての性格を捨て るものではない。 さらに市場システム社会では,自然のコストは計算されず,市場条件は非農業の論理が強要され る。しかし,本来の生活社会では,自然のコストは社会全体で負担し,市場条件も異なったシステ ムが求められる。自然コストの問題は,剰余価値概念の再検討を要請する 。 2)農業労働の特性 ⑴ 農業労働の特性 農業と工業とは本質的に異なり,農業労働は工業労働とは異なる性質をもつ。農業は,動植物と いう生命体を扱い,その生産物は生命活動によるものである。したがって,農業労働は動植物の生 理生態に依存し,動植物の季節性と生産周期に依存した作業・労働が求められる。また農作業は,
人間が土地と結合した動植物に合わせて移動する移動労働である。 動植物は,季節性と地域性を持つ。穀物は,通常春(秋)に播種し秋(春)に収穫する。その間, 生育過程に合わせた作業・管理が不連続に続く。動物の繁殖は季節的であり,これまた生育過程に 合わせた作業・管理が不連続に続く。農業においては季節間断性が激しいし,生産期間と労働期間 とは 離している。しかし,直接労働が加わらないように見える 生産期間 といえども,昼夜を 問わず人間による周密な観察と管理が必要である。 穀物の生産周期は,資本主義の母国である温帯では1年である。家畜の妊娠期間は大動物は約1 年,中動物は約3か月,小動物は1カ月未満である。作物や畜産を収穫・生産した後も,加工,選 別,出荷などの作業があり,さらに次年度以降に向けての準備作業がある。 農業労働は,動植物の生育段階に合わせて作業するので季節ごと毎日・毎時間ごとの作業は異な り,しかも不連続である。同じ作物でも,地域によって作業適期とその幅は異なる。農業生産は, 複数の動植物を組み合わせて(大家畜生産は飼料生産と家畜の管理)生産するのであるから,季節 ごと毎日・毎時間ごとに複数の作業を同時に行う。気象条件は,毎年毎時刻々と変化する。時とし て病害虫の発生や災害に襲われる。マルクスは,リービッヒの 農業では時間という要因以上に重 要な要因はない ( 農業における理論と実践 )という叙述を引用している( 資本論 ,p 572)。 土地の形状,土壌の性質は一片ごとに異なるから,一片ごとの周密な観察と管理が必要である。 こうした一連の労働をこなす農民を,ダヴィトは 労働芸術家 と呼んだ。 ところで小農・家族農業は就業形態が多様であるし,それが家族経営の生計を支えるが,農業労 働の季節性,労働の間断的,不連続性格がそれを可能とさせる。農業は,生産・生活における自給 的要素が多く,小農の場合は生産と生活との区 はない。さらに,農業労働として欠かせないのが 共同体の仕事である。農業労働には,個別経営の仕事とともに共同体の仕事がある。農業は,動植 物を生産するだけでなく自然条件を再生産する。自然と立ち向かうには, 孤立した個人 の力だけ では如何ともしがたく共同体全体での仕事が不可欠である。先述したように,内山 節は農業労働 には 仕事 と 稼ぎ とがあるとした。 仕事 とは,必ずしも収入とはかかわらない労働,社会・ 共同体,生活過程にかかわる労働である。 ⑵ 農業労働における 業 農業は,動植物の生理生態に依存するのであるから,農業における 業の性格は工業生産におけ るそれとは本質的に異なる。工業においては連続する作業を 担しうるし,20世期にはいるとテイ ラーシステム,フォードシステムという 業化体系を作り出した。しかし,農業においての 業化 は限定的である。 アダム・スミスは言う。 農業においては,その性質上,製造業ほど労働を多数に細 する余地は ないし,またそれほど完全に 化する余地もない。ふつう大工の職業がかじ屋のそれから 化して いるように,牧畜業者の仕事を穀物耕作者のそれからまったく 化させてしまうことは不可能であ る。紡績工と織布工とはほとんど別人であるが,すきで耕す者,種をまく者,収穫する者が同一人 であるばあいはよくある。そういうさまざまな部類の労働をおこなう機会は,年間のさまざまのう つり変わりとともにまわってくるものであるから,一人の人が終始一貫してそのどれか一つの仕事 に従事するのは不可能なのである 。農作業の専門化は,一部の作業にのみ可能であり, 製造工業 の 業に就いてという意味での職業的専門労働者 ではない 。
ちなみに農業の大規模経営は,農業の単作経営が効率的であり,そこでは単作経営と部 業化 がある程度推し進められる。小農経営は,今日でいう複合経営が基本であり多様な作目の組み合わ せで営まれてきた。それが 合理的農業 を形成してきたのである。複合化によって,農業の 業 化はますます限定的となる。 注 1) 元田厚生 富と資本の経済理論 中央経済社,1995年,p229 2) 農水省 HP www.maff.go.jp/j/nousin/noukan/nougyo kinou/-3) 玉野井芳郎著作集3 地域主義からの出発 1990年,p78 4) 三友盛行 マイペース酪農 風土に生かされた適正規模の実現 農山漁村文化協会,2000年 5) 渡植彦太郎 仕事が暮らしをこわす 用価値の崩壊 農山漁村文化協会,1986年 6) 剰余価値を不必要労働=搾取論に固執する限り自然のコストの源泉はとらえられない。不必要労働と は,労働者にとって 不必要 という規定だが,社会にとっては 必要 なのである。剰余価値の一部 は,自然の循環財源,保険財源,共同体成員の社会的再生産財源に充てられるという理論の構築が必要 である(元田厚生 経済学のパラダイムチェンジ 風社,p202∼210参照) 7) エヂュワード・ダヴィト講述・森 力訳 社会主義と農業 社会文庫,1932年,p 15 8) アダム・スミス 諸国民の富 (一) 第一編第一章,p102∼103 9) エヂュワード・ダヴィト,前掲書,p 18 Ⅲ.農業衰退論と小農没落論 1)本源的蓄積論と農業経済学 日本において,農民層 解論は長い間農業経済学の理論的中核の位置を占めていた。それは,農 民層 解が農業資本主義化の発展程度,農業・農民の商品化の浸透度を示す指標であったし,労農 同盟論の立場から農民諸階層の階級的性格を表す指標でもあったからである。 生産・生活過程に自給的要素(非市場領域)を多く残した 中間階級 である農民層が,市場経 済に巻き込まれれば 解していくのはある意味では必然であろう。とはいえ,農民層 解は,さま ざまな 解阻止・阻害要因,制約を孕みながら進行する。そのため,農民層が農業資本家と農業労 働者とに文字通り 両極 に 解 することは稀である。農民層が農業資本家になるのは 緩慢 な,何世紀にもわたって繰り返し続いた過程 ( 資本論 ,p 1271)であったし,しかも歴 的には イギリスを除いてはない。また,農民層が一挙にプロレタリア化することも稀であり,多くは多様 な形態を持つ小農層として残存する。そして,先進国(特に大陸ヨーロッパと日本)においても今 日の高度資本主義の段階にまで小農が生産者の多数を占め,小農問題として社会問題化しているの である。したがって,農民層 解論とはいっても,①農民層の文字通りの 両極 解 によって農 業資本主義者とプロレタリアの 出するのを検出すること② 両極 解 ではなく専ら 下層 解 , 小農の残存・没落を検出すること③ 両極 解 でも 下層 解 でもない,農民層の多様な存在形 態を検出すること,の大きく けて三つの内容が含まれている。日本の学界において,多くは③の 農民層の多様な存在形態を巡る論争が行われてきた。日本の戦前・戦後において 小農(中農)標 準化 , 中農肥大化 , 大型小農化 , 小企業農 等の新しい用語・概念が生まれ,激しい論争に なったことは周知のとおりである。
ともあれ,農民層 解論は理論的には本源的蓄積論に帰着する。そこで,本源的蓄積論の今日的 意義を 察し農業経済学とのかかわりを見ていく。マルクス本源的蓄積論は,農民層 解にかかわ る広範な問題を含んでいるのみならず,資本主義の発展 (生成―発展―死滅)にかかわる重要な 論点を含んでいる。そして,その中で小経営は決定的な役割を果たしている。 では,マルクス本源的蓄積論とは何か。 資本の蓄積過程において,資本は剰余価値を生み,剰余価値は資本に転化する。ひとたび成立し た資本は,資本蓄積によって資本関係を再生産する。さらに資本・賃労働関係の再生産循環は,市 場を,資本の領域を拡大する。しかし,そもそも資本・賃労働の 出は如何にして成し遂げられた のか。ここに資本関係の始源の問題,資本の本源的蓄積の問題に突き当たる。本源的蓄積とは,資 本・賃労働関係の歴 的 出過程にほかならない。しかし,萬谷 廸が指摘するように,そもそも 基本的生産要素である労働力と生産手段とが旧体制の解体に伴い 離 される過程と,それらが 市場を介して新たに 結合 される過程とは本来,別々の過程である。 巨視的に 離 = 結合 とされてしまう長期的過程でも,具体的な歴 的過程としてみれば,同一なものとしてはとうてい 言えないことなのである 。しかも,賃労働の 出は, 奴隷および農奴の賃労働への直接的転化, したがって単なる形態変換 ではない限り( 資本論 ,p 1303),小経営すなわち 自己労働にもと づく私的所有 の成立と解体とがそれをなしうる,というのがマルクス本源的蓄積論の要点である。 小経営の解体には,それを補完する共同体の解体を伴う。したがってマルクスの本源的蓄積論は, ①旧体制の崩壊,②小経営的生産様式の成立と解体,③資本関係の成立(資本主義市場の成立),と いう三つの階梯が存在する。この三階梯にはいずれも,歴 性(偶然性)を秘めた 国家的暴力の 過程 と 経済的過程 とが重なりあって進行する。 産業の騎士たちは,自 のまったく関与しな い事件を利用することによってのみ剣の騎士たちを駆逐することができた ( 資本論 ,p 1225)の であり,それをマルクス 資本論 ではイギリスを例に証明したのである。 しかし, 資本論 は,資本関係の基本的要素の歴 的 生だけを問題にしており,その論理に必 要な限りで取り上げたのであった。したがって,本源的蓄積論に即して論じる際の留意点は次の二 点である。 第一点。マルクス本源的蓄積論は,すぐれて地域的規定であること。 第二点。本源的蓄積は,資本主義の 成期だけの問題ではないということ。 第一点。マルクスの例証はあくまでも 19世紀の 特殊なイギリス であって,ヨーロッパ一般, ましてや世界 一般ではない。先に述べた三つの階梯は,それぞれの地域に固有の歴 的事情にあ る。農業問題論で取り上げる②の 自己労働にもとづく私的所有 の確立と解体は,典型的にはイ ギリス,せいぜい西ヨーロッパでの歴 にしかない。マルクスも,私的所有の 解した後の 資本 主義的借地農場経営者 の 生は 世界市場を支配している国々においてだけ ( 資本論 ,p 1396) であり,(土地収奪が徹底的におこなわれたのは) イギリスにおいてのみ典型的な形態をとって(い る) ( 資本論 ,p 1226)と注意を喚起している。 つまり,当時イギリスは 世界の工場 として工業製品の比較優位を誇り,周辺諸国を農業国と してイギリス経済の再生産圏に編成した。当時のイギリスは小麦の輸入国であった。また,特殊な 共同地の存在と解体が行われ,農業革命と囲い込みが徹底された。したがって,近代的土地所有の 成立も借地農業経営者の 生も,イギリスの特殊事情が重なっている。これらの条件を勘案せずに
農業資本主義化論を一般化することは厳に慎まなければならない。 なお,マルクスは本源的蓄積論を解くにあたって,本源的蓄積は世界市場の国民経済への編入を 諸契機としている。 資本主義的借地農場経営者 の 生は 世界市場を支配した国だけ であり, 世界市場の網のなかへのすべての国民の編入,したがってまた市場体制の国際的性格が,発展す る ( 資本論 ,p 1306)のである。本源的蓄積機能の地域性と世界性との関連 析は,今日のグロー バリズム 析に欠かせない。 第二点。資本の本源的蓄積は 成期だけでの問題ではない。 資本論 における本源的蓄積論は, 基本的要素の歴 的な 生だけを問題にするという,極度に抽象的な 理論上の一定の限定 のも とに取り上げた。したがって現実の資本主義 析にあたっては, その理論上の抽象的位置から来る 制限を外して世界 的現実的なものへ,少なくとも社会的な規模のものへと拡張,拡大する必要が あろう 。資本主義社会は,非市場領域である人間と自然をたえず市場関係に取り入れることに よって存続するのであり,本源的蓄積は資本関係を継続するための基盤である。土地,労働力が商 品化する過程は歴 的であり,資本主義の 成期に暴力的・集中的に現れるので 本源的蓄積期 として歴 に登場するのではあるが, 非市場領域の市場経済化 は絶えずおこなわれる。市場経済 は非市場領域の存在があってこそ成り立っているのであるから,それは資本主義の全歴 過程を通 じて行われる。しかも, 非市場領域の市場経済化 は絶えず国家的暴力を伴う。今日の経済グロー バリズムの時代には, 国際的な強制 を利用しての国家的暴力が必然化する。いわゆる新自由主義 的経済政策は,むきだしの 国家的暴力 とともにある。 マルクス本源的蓄積論はすぐれて地域的規定であること,また本源的蓄積は資本主義の 成期だ けの問題ではないということの確認は農業問題 析には重要であり,その意味で今日における経済 グローバリズムの 析は現代版本源的蓄積の研究と重なる。 2)農業衰退論 従来の経済学は,学派を問わず暗黙のうちに農業の衰退を歴 的進歩とした。ここでは,コーリ ン・クラークとカール・マルクスの学説を取りあげる。 まずはコーリン・クラークである。19世紀以降の近代社会は,非生命系の第二次産業が出発点と なって,第一次産業の就業人口と所得を縮小させる形で,工業化社会を作りあげてきた。クラーク は, 経済進歩の相異なる水準は,労働人口の 布の割合と非常に緊密に結びついている とし,ウ イリアム・ペティの 農業よりも製造業による方が,さらに製造業よりも商業による方が利得がは るかに多い という ペティの法則 を援用して 経済進歩の条件 を産業構造論から説いた。つ まり,第一次産業から第二次産業へ,第二次産業から第三次産業への発展の順が 経済進歩の条件 だとしたのである。だが,このことは逆に,第一次産業の衰退(相対的縮少)こそが社会発展の指 標になるという 法則 を導きだす。クラークの観察は, この移動の原動力が第二次部門における 資本主義工業化にあることを明確に認識しないかぎりにおいて,まったく皮相である(玉野井,p 13)。 つまりこの理論も, 非農業社会の論理 から導き出されたものであり,第二次産業という非農業の 原理を産業全般へと一般化する図式に他ならない。 かくて第一次産業とは無関係に,それゆえにま たこの部門を縮小させる効果を伴いながら成長をとげた第二次産業は,今日では,…重化学工業と してわれわれの前にあらわれている (玉野井,p 14)。
このような学説がもつ根本的な問題は,なによりも第一次産業の意義を完全に欠落させているこ とにある。 農・林・牧畜・漁業の活動は,どれもみな“生きているもの”にかかわる人間の活動で あり,そしてそれはとりも直さず人間の生命を維持・ 新する産業活動にほかならない (玉野井, p 153)。 ひるがえってみて,資本主義社会は 生命体を核とする生態系をふまえて,農業を基礎とするよ うな工業の社会をつくりあげたのではなかった。まさにその反対である(玉野井,p 12)。資本主義と 呼ばれる近代社会の経済体制は,農業から 断された工業を基礎として,いいかえると,非生命系 の基礎の上に,自立的な市場経済という世界をつくりあげてきた。 未来社会は,このような非生命系の世界を無自覚に踏襲するのではなく 産業構造そのものが, なによりもまず自然・生態系に適合した形へと転換すること,農業・第一次産業を核とする産業構 成とする経済システムをつくることが要請される (玉野井,p 22)のである。シューマッハーは,(こ れからの社会は) 中間技術 つまり先進国の技術(先端技術)をそのまま取り入れるのではなく, 地域や社会制度に見合った技術,先端技術と伝統的技術の 中間 の 技術 ,人間的技術(人間能 力の全面的発揮)の開発の必要性を説いた 。シューマッハーの問題提起こそ,未来社会は単なる 資 本主義の成果 の生産力的 長ではなく,新しい社会システムの中に生かす生産力・技術のあり方 を指し示しているように思われる。 3.11(2011年3月 11日・東日本大震災と福島原発過酷事故)の教訓は,次のことを示している。 すなわち,エネルギー,食糧,水という 生命の源 を司る産業(営み)は,大規模・集中型,遠 距離輸送型生産では人間と自然に負荷をあたえるものであるから,それらの産業(営み)は自然・ 生態系に適合した小規模 散型の循環システムが必要性であるということ。未来社会は, 物質代謝 の撹乱 を防ぎ 農村と都市の対立をなくす 循環型社会を展望することでしかない。 したがって,未来社会は社会システムの変革( 領有法則の転変 )と,生態システム・生産力の 転換という両者が相まっていなければならない。 ともあれ従来の経済学は,暗黙のうちにコーリン・クラークの理論とその思想を踏襲してきた。 このような思想の背後には,工業進歩への信仰のみならず,生産力信仰,大規模信仰,大都市信仰 があるように思われる。 問われているのは, 農業の衰退は歴 的進歩である という歴 観である。 そしてこれからの経済学は,こういった歴 観からの脱却が求められているのである。 次にマルクスの農業論である。マルクスの農業論といってもそのほとんどが歴 論,本源的所有 論,労農同盟論・階級論等の視角からの農業論,あるいは農民論と結びついた農業論である。マル クスにあっては農業論と農民論は一体である。また,マルクスは生産=労働過程は 人間と自然と の物質代謝 であるから, 人間と自然 の視角から見る農業論がある。ここでは,マルクス農業論 を農業・農民論として取り上げる。マルクスの 人間と自然との物質代謝 としての農業論と,本 源的所有論・階級論としての農業・農民論にはかなりの違いがある。 資本論 の 大工業と農業 (第1巻第 13章第 10節)においては,マルクス自然観と本源的所有論とが 錯する。重要な論点なの で少々長い引用になるがお許し願いたい。 農業の部面において,大工業は,それが古い社会の堡塁である 農民 を破滅させ,彼らを賃労働者と置き換える
限りにおいて,もっとも革命的に作用する。こうして,農村の社会的変革要求および社会的諸対立は,都市における それらと 等化される。陳腐きわまる,また非合理きわまる経営に代わって,科学の意識的な応用が現れる。農業お よびマニファクチュアーの幼稚で未発達な姿態にまとわりついていた両産業の本源的な家族のきずなの解体は,資本 主義的生産様式によって完了される。しかし,資本主義的生産様式は,同時に,農業と工業との対立的に形成された 姿態を基礎とする,両者の新しいより高い 合,両者の結合の物質的諸前提をつくり出す。資本主義的生産様式は, それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って,一方では,社会の歴 的原動力を蓄積するが, 他方では,人間と土地との間の物質代謝を,すなわち,人間により食料および衣料の形態で消費された土地成 の土 地への回帰を,したがって持続的な土地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する。こうしてこの資本主義的生産様式は, 都市労働者の肉体的 康と農村労働者の精神的 康とを,同時に破壊する。しかしそれは同時に,あの物質代謝の単 に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて,その物質代謝を,社会的生産の規制的法則として,また完全 な人間の発展に適合した形態において,体系的に再 することを強制する。農業においては,製造業におけると同様 に,生産過程の資本主義的転化は同時に生産者たちの受難 として現れ,労働手段は労働者の抑圧手段,搾取手段と して現れる。…資本主義的農業のあらゆる進歩は,単に労働者から略奪する技術の進歩であるだけでなく,同時に土 地から略奪する技術においての進歩でもあり,一定期間にわたって土地の肥沃度を増大させるためのあらゆる進歩は, 同時に,この肥沃度の持続的源泉を破壊するための進歩である。ある国が,たとえば北アメリカ合衆国のように,そ の発展の背景としての大工業から出発すればするほど,この破壊過程はますます急速に進行する。(マルクス注, 自 然科学的見地からする近代的農業の消極的側面の展開は,リービッヒの不滅の功績の一つである。)それゆえ,資本 主義的生産様式は,すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程 の技術および結合を発展させる( 資本論 ,p 867∼869。アンダーラインは引用者)。 大工業は, 農民を破滅させ , 家族のきずなを解体 する限り 革命的に作用する が,この過 程は 生産者たちの受難 として現れる。そして,資本主義農業の弊害は 人間と土地との間の 物質代謝を , 持続的な土地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する 。しかるに, 陳腐きわまる,ま た非合理きわまる経営に代わって科学の意識的な応用が現れる と,資本主義農業の進歩の側面を 指摘する。さらに,資本主義的生産様式は, 土地および労働者を同時に破壊することによってのみ 社会的生産過程の技術および結合を発展させ , 社会の歴 的原動力を蓄積 する高次の社会への 物質的基礎を作るとしている。 つまり,マルクスは大工業と農業との関連を 物質代謝の撹乱 という弊害の側面と, 科学の意 識的な応用 , 高次社会への物質的基礎を作る 社会的進歩の側面という二面的把握を行っている。 田代洋一は,以上の叙述に関連させ 労働の社会的生産力の発展 の見地からは小規模農業・小土 地所有がもっぱら批判されたのに対し,… 地力 , 合理的農業 の観点からは,むしろ大規模農 業・大土地所有が批判の対象になる と述べている。田代の指摘は重要である。しかし,田代も指 摘しているように小規模農業の批判は 社会的生産力の発展 という見地からのものであり,大規 模農業の批判は 合理的農業 (今日の持続型農業,循環型農業)という見地からのものである。あ きらかに問題とする見地や次元は異なる。 3)マルクスの小農没落論 土地所有,農業・農民に関するマルクスの 所説は通常,小農没落論,土地国有化論に 括され る とされる。そこで,まず,マルクスおよびエンゲルスの農民論(小農論,小経営的生産様式論)
を検討する。ここでは 資本論 における土地所有論といわゆる労農同盟(農民論・農業政策論) にかかわる著作とを取り上げる。田代は マルクス土地所有論と農民論はもとより不可 な関係に あるが,どちらかといえば土地所有論が革命的高揚期の合間に 察されたのに対し,農民論,農業 政策論は,革命的高揚期に飛躍をみることが多い という。また,星野 中によれば,マルクス・ エンゲルスの農民論・農業政策論は①1848年革命前後②第一インターナショナル期(1862年起点) ③1890年代の農業綱領論争,の三つの時期に集中しているという 。 ⑴ 小農没落の必然性 マルクス小農没落の論理は様々な観点から説かれているが,大きくは次の3点にまとめられよう。 第一は,小農が存立する資本主義の歴 段階,過渡期としての制約である。 第二は,小農のもつ生産力的限界である。 第三は,私的所有・小土地所有という所有の弊害である。 第一の,小農が存立する資本主義の歴 段階,特に中世的生産力基盤の喪失という歴 的過渡期 の持つ限界である。それには,小農を取り巻く社会関係による経営の重圧,租税制度,封 的諸負 担,高利による収奪や裁判費用がのしかかる。 割地農民(その近代的諸国民の場合)は, 封 的土地所有の解体から生まれてくる諸形態の一 つ であり,①過半が農村人口②相対的に低い資本主義の段階③農民の生産物は自給中心の階段で ある。記述にはないが,農業の機械化は端緒的であり手労働中心の生産力段階である。こういう過 渡期での 割地農民は,この過渡性が崩れると必然的に没落する。①この土地所有の補足である農 村家内工業が大工業の発展によって滅びること②家畜の飼養を可能にする共有地が大土地所有に横 領されること③大規模耕作(プランテションや資本家的経営)との競争が激化すること④農業上の 諸改良―これは一方では農産物価格の低下を招き,他方ではより大きな投資とより豊富な生産条件 を必要とする。 第二の,小農のもつ生産力的限界である。小規模・零細で 散的な所有と経営は労働の社会的生 産諸力の発展を阻害する。 割地は,その耕作に 業を用いたり,科学を適用したりする余地がな く , そこでは,多様な発展も,さまざまな才能も,豊かな社会関係も,生まれてくる余地がない ( ルイ・ボナパルトのブリュメール 18日 (1852年)全集⑧,p 194)。 割地所有は,その性質上,労働の 社会的生産諸力の発展,労働の社会的諸形態,資本の社会的集中,大規模な牧畜,科学の累進的応 用を排除する( 資本論 ,p 1410)。 第三の,私的所有・小土地所有という所有の弊害である。 割地農民の土地が借地であれば地代負担,自作地であれば土地購入負担が経営を圧迫する。 自 由な土地所有と結びついているところでの小農業の独特の災いの一つは,耕作者が土地の購入に資 本を投じることから生じる ( 資本論 ,p 1411)。 土地購入価格における資本の支出は,この資本 を耕作から奪い去る (同,p 1410)し それゆえ再生産の経済的基盤をせばめる (同,p 1416)。さら に 割地所有が優勢な場合は,(信用問題,資本形成の弱さ,土地所有に対する需要の高まりによっ て)土地価格は騰貴する。 生産者にとっての費用価格の要素としての土地価格と,生産物にとって の生産価格の非要素としての土地価格(の衝突)(同,p 1419)が引き起こされる。 また, 割地農民は自らが土地所有者,労働者,経営者の 三位一体 であるが故に,いわゆる 自己搾取 を強いられる。