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真宗研究26号 016早島有毅「戦国期本願寺における「頭」考―勤仕の性格と問題状況―」

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戦 国 期 木 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 二 ハ 四

戦国期本願寺における﹁頭﹂考

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勤仕の性格と問題情況||

室町戦国期の荘園文書や公家・寺家の日乗、あるいは幕府の引付記録などを見るとき、頻繁に登場する名称の一つ に頭あるいは頭人という言葉がある。荻原龍夫氏の指摘によれば、頭とは元来儀典つまり祭組儀礼を表象する言辞で ① あり、中世荘園制社会にあっては頭役という如く、ある種の﹁負担﹂を随伴する行為の概念にあったといわれる。管 @ かかる頭の使用例には荻原民の指摘以外の意味もあると思われる 見の範囲で戦国期の荘園文書などを検索する限り、 が、しかしこと、祭肥儀礼に関連する際にはそうした負担的行為を象徴するケ l ス が 基 本 的 に 確 認 で き る と い え る 。 その限りにおいてではあるが、頭とは中世荘園制社会の宗教的な負担の行為を表象する名称の一つと把えられてよい で あ ろ う 。 ところで、戦国期本願寺の記録や文書などを詳細に検索すると、ここにも頭あるいは頭人といった言辞が散見する のである。これは、後述する如く、斎を中心とした仏事に特定集団の坊主・坊主分を上番せしめる語として使用され

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ていたのである。だが、従来の本願寺の頭に関する研究は、その存在について注意するものがままあるものの、 ③ 一挟や真宗史の個々の課題に連関して部分的に言及されていたに過ぎない。そこでかかる研究の進捗情況と与えられ 向 た紙幅を考慮し、小稿では以下の二点に問題を留め、中世荘園制下の頭との関連のもと若干の論点を提示してみたい。 それは、頭を勤仕せしめられた一向衆集団と本願寺との歴史的関係、上番する集団の職務内容の推定を通して頭勤仕 の 性 格 を 考 察 す る こ と で あ る 。 で は 、 それに先立ち問題の所在を明確にするため、天文期を中心とした一向衆集団の 勤仕情況を概観し、対象となる仏事との関連性について一瞥しておこう。 団 名 を ﹃ 天 文 御 日 記 ﹄ 後 掲 の 別 表 は ﹃ 私 心 記 ﹄ 天 文 五 年 ︵ 一 五 一 三 ハ ﹀ 各 月 に 窺 え る 本 願 寺 の 仏 事 を 抽 出 し 、 @ ︿ 以 下 ﹃ 日 記 ﹄ と 略 す ﹀ か ら 抜 き だ し て み た も の で あ る 。 そ こ へ 天 文 年 中 、 斎勤仕の集 天 文 期 本 願 寺 に お け る 仏 事 と は 、 通 例 ﹁ 御 斎 、 汁 二 ・ 莱 六 ・ 茶 子 五 種 、

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日中如常﹂とある如く、朝の斎会・日中の勤行が揃った行事が基本の様式であり、 ⑤ それに前後の逮夜勤行とまれに﹁有風目﹂と記される通り、功徳湯が加えられる場合もあったと見られる。就中、斎 佐 々 木 孝 正 氏 の 指 摘 に よ れ ば 、 @ くらい比重の高い﹁共同飲食﹂の場であったのである。ちなみに別表掲載の斎は、吋私心記﹄天文三年︵一五三四︶二 月二十日の条に﹁御斎、初市アリ、汁二・莱三、自今日御斎アルベシ云々﹂とあるので、二月二十日の円如祥月思日 @ の 仏 事 を 契 機 に 再 開 さ れ た も の で あ る 。 天 文 元 年 ︵ 一 五 一 一 一 一 一 ︶ の 山 科 本 願 寺 の 回 禄 後 、 細 川 晴 元 政 権 と の 抗 争 が 小 康 を は仏事の様式にあって最も重視される行事であり、 天文期の仏事H斎と認識される 保ち、大坂石山本願寺移転後の体制がようやく目鼻がついた時点で本来の行事が勤められるようになったのであろう。 さ て 、 一向衆集団の勤仕情況を別表で窺うとき、関心を呼ぶのは相互に絡みあうこつの形式的特性が摘出できるこ 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 六 五

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戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 六 六 とである。その一つは、毎年勤仕する集団の斎が一定の仏事にのみ限られていたことである。この仏事とは毎年十一 月に修される親鷺報恩講、覚如・緯如・巧如・蓮如の命日忌日、 さらに親鷺・実如の毎月の命日忌日の三形態の法会 である。これらの法会はいわば宗祖親穏と代々の宗主の法事であり、当該期本願寺において浄土教の祖師たちよりも 如何に親鷺以下の﹁血の道﹂が宗教的に重視されていたかを物語るのであるが、 それはともかく、以上の限定的関係 が天文期のみの現象でなかったのは留意されるべきである。例えば、 ﹃ 空 善 聞 書 ﹄ 明 応 四 年 ︵ 一 四 九 五 ︶ 一 月 十 九 日 の 覚 如 忌 日 に 際 し 、 当年ヨリヒソヤカニ御仏事ヲ御沙汰アリタキトノ御事、頭人ハマへノ日ノボリテ、 @ と蓮如の指示があったと伝えており、さらに毎月両度の忌日についても、 ツ キ ノ 日 下 ル ヘ シ ト 御 定 ア リ 、 ﹃ 本 福 寺 跡 書 ﹄ に は 、 去程−一東山大谷殿様ニテ、毎年五月二十八日ノ御開山聖人様ノ御頭ヲ、往古ヨリ退転ナクツトメ行申ス。 ⑤ とあり、以上の関係が戦国期当初から続けられてきた事象といわざるをえない。ただ注意されるべきは、歴代宗主の 忌日仏事のうち如信・普如の仏事に勤仕の集団が定められてなく、 存 如 の 仏 事 も 天 文 五 年 ︵ 一 五 三 六 ︶ から永禄元年 ︿一五五八︶まで修されていないことである。両者の問題については、頭勤仕する一向衆集団と本願寺との関係そのも のに触れると思われるので、後述されよう。 もう一つは、別表で見る限り上番する集団の斎がそれぞれにおいて定まっていたことである。報恩講七日間の斎・ 非 時 勤 住 の 集 団 に つ い て は 、 ﹃日記﹄には存在が窺わせるものの上番表が未発見のため、別表で見られる如く分明に し 難 い 。 だ が 、 ﹃ 日 記 ﹄ 十 三 年 ︵ 一 五 四 四 ︶ 十 一 月 二 十 四 日 の 条 に 、 十 年 以 降 の こ と で あ ろ う が 、 。奈良木宗寺門徒中、廿五日非時之頭事、闘怠之由凶、然者如先々相勤度之通、望之に、 ⑪ とあり、上番期日の指定がやはり集団ごとにあったと推定される。歴代宗主の忌日斎についても、 一 例 を 三 月 二 十 五

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日 の 蓮 如 命 日 に 取 る と 、 ﹁今日之斎、如毎年六町よりつとめり﹂とある通り、大坂石山寺内六町より勤仕されていた の で あ る 。 ちなみにいえば、山科本願寺にあっては、山科寺内八町より勤仕されていた。 さらに、天文十年︵一五四一﹀に至って勤仕集団の分離と一部差替、新たに一家衆寺院を含む集団の補強といった事 象の見られる毎月両度の忌日を勤める集団にあっても、この原則は堅持されていたのである。十年以降の新規集団に ついてはさておき、九年まで一一一月二十八日の仏事勤仕集団大和衆を典型として検討すると、そのことは以下の如く如 実に理解される。すなわち、別表に示したように九年まで大和衆を構成していた曽称衆、百済衆、吉野衆の集団は十 ⑪ 年より証如の申付けにより分離し独自の頭集団となるが、 これらの勤仕する仏事は三月二十八日、 十 一 月 二 日 、 十 二月二十八日という如くなっており、決して毎月両度の忌日の仏事の範囲を逸脱していなかったのである。 かかる例 は、九月二日の忌日勤仕の西美濃衆が十年以降において性顕寺を中心とする集団と西円寺を中核とする集団に分割せ しめられたケ l ス に お い て も 、 別 表 の 如 く 、 一 貫 性 を 保 持 す る の で あ っ た 。 以上の勤仕情況から判断するとき、頭勤仕とは特定の一向衆集団それぞれが歴代宗主の三形態思日に上番せしめら れ、斎を旨とする仏事において何らかの宗教的職務を遂行する性格にあった、と予測できるのである。 ただ別表で解 される如く、特定の勤仕集団の分布地域がどうして天文九年まで畿内とその周辺諸国に限定されていたのか、あるい は十年に至ってその地域が両度の忌日集団に限って何故拡充されたのかについては、別に考察しなければならない問 @ 題があると考えられる。それで、ここではとりあえず留保しておこう。次に職務内容究明の前提として、以上の勤仕 集団がなぜ定まった仏事へ上番せしめられたのかについて、想定しておく必要がある。 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 二 ハ 七

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戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 六 八 この問題については、戦国期本願寺の文献で窺知できるものがほとんどないのが現情である。そこで、歴代宗主の 忌日勤仕集団の資格に限定されるが、慶証寺玄智が、若干この問題について解明の糸口を指摘しているので、その条 件を確定しながら上来三型態の忌日勤仕集団の資格を推定していこう。 玄 智 の 見 解 と は 、 ﹃ 大 谷 本 願 寺 通 紀 ﹄ 縛 如 宗 主 伝 で 述 べ ら れ て い る が 、 ⑬ そ れ は 以 下 の よ う な も の で あ っ た 。 河内小山妙楽寺、素為天台宗、帰師入真宗、以故毎年四月二十四日忌、本山賜斎於妙楽寺門徒三人、必以紫箕為 下 飯 、 故 称 紫 箕 御 斎 、 妙 楽 寺 と は 、 ⑬ キ﹂とあり、光宗寺と共に別表の河内小山衆の構成員であったと推定される。注目されるのは、妙楽寺への賜斎処遇 ﹃慶長日記﹄十六年︵一六一一︶の縛如忌日に﹁河内小山ノ妙楽寺モ今日ノ御頭人之由、光宗寺物語候 の歴史的論拠が﹁帰師入真宗﹂と指摘されていることであろう。帰師入真宗とは、要するに妙楽寺が室町時代初期綜 如と直弟関係を結んだことを意味すると思われる。すなわち、これより推考できるとすれば、本願寺宗主と直弟関係 にあることはとりもなおさず直参衆であって、以降の本願寺教団においては教団構成員として遇される条件にあった と 推 測 で き る の で あ る 。 と す る と 、 かかる関係が他の歴代宗主忌日勤仕の集団において検証できれば、この条件は他 の形態の集団の上番せしめる論拠ともなるので、 一例を覚如思日勤仕の集団にとって検討してみよう。 別表の如く、覚如忌勤仕の集団は瓜生津弘誓寺・石畠弘誓寺・サメ法蔵寺・日野本誓寺・湯次誓願寺といった近江 中郡と北郡の寺院で以って編成されていた。この編成自体にも重要な問題があるがさておき、これら寺院の由緒を検 索するとき、例外なく覚如との直弟関係を強調するのが留意される。例えば、瓜生津弘誓寺の所伝によれば、

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建武ノ乱ニ、覚如聖人大谷御真影ヲ御供−一テ、当寺ニ御越年ノコロ、御讃御銘ヲ書下シタマイ、井−一寺号木仏御 免ヲ蒙リ奉ル ⑮ といわれる如くにである。弘誓寺の寺号木仏免許については論外であるが、右の所伝が一定度の信溶性を踏まえてい ﹃ 常 楽 台 主 老 柄 一 期 記 ﹄ に よ れ ば 、 覚 如 が 建 武 一 ニ 年 三 三 一 二 六 ︶ か ら 四 年 に か け て 近 江 ⑮ 瓜生津の地で越年していたのは事実だったのである。しかも、近世中期にあってこれら集団の門徒も、妙楽寺と同様 た の は 確 か で あ る 。 す な わ ち 、 に覚如忌日に賜斎の栄にあずかつており、覚如との直弟関係を所縁にしなければ、 かかる処遇をうける理由が定めら れ な い の で あ る 。 以上の如くとすると、歴代宗主の思日勤仕の集団が上番せしめられるのには、直弟関係を論拠とした教団構成員に 一つの要因があったと考えるのが隠当な理解となろう。 ただ、こう断定するのには戦国期本願寺において直弟関係 H H 教団構成員という基準が以上の由縁だけで定められるものであったのか、という問題が確定されなければならない。 これについては、全体に及ぶ問題なので後に触れられるであろう。そうすると、以上の条件は他の二形態忌日勤仕の 集団の上番せしめられる論拠ともなりうるのであったのかが、検証されねばならない。 報恩講の斎・非時勤仕の集団は、別表で窺われる如く、歴代宗主の忌日か毎月両度の思日の集団とほとんど重複す る。そこで、後者の勤仕集団の位置について検討するだけで充分であろう。 さて、毎月両度の忌日勤仕の集団は先に指摘しておいた如く、天文十年に一定の﹁差替﹂と新らたな勤仕集団の補 充がなされる。これは、別稿で指摘する通り、天文期の本願寺権力の一向衆集団への宗教支配様式の強化をあからさ まに企図した意味にあって、このことにより蓮如時代以降の制度化の﹁不均衝性﹂の一定度の解消がようやくはから ⑫ れていくことになったのであるが、それはさておき、かかる集団の本願寺との関係で留意すべき点は、九年までの毎 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 六 九

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戦 国 期 木 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七

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月二日の勤仕集団が大永五年三五二五﹀ まで蓮如の毎月忌日の仏事を勤仕していたことにある。 ⑬ の﹃実如上人闇維中陰録﹄の以下の一節は、それを如実に物語っている。 大永五年三月二日 一、三月二日月忌初也、治夜日中此間之廿五日ノ如シ、鐘モナロ人ヲモ入ラル、此時ハ御斎ハコレヨリサセラル、 莱八汁三菓子七種、以後ハ廿五日ノ頭人、二日御斎可被申候云々、 ここでの﹁廿五日ノ頭人﹂とは、それまでの蓮如忌日勤仕の集団を指すと考えられるが、右の指摘によれば、この集 団が以降の実如の毎月祥月忌日の仏事を勤仕することになったというのである。ちなみに同書﹁御中陰御斎非時之次 第 ﹂ の 二 十 五 日 の 項 を 見 る と 、 ﹁毎年頭人﹂の註記に﹁誓願寺也、是加諸坊主衆﹂とある。誓願寺とは疑うことなく 別表の三月二日の忌日に勤仕した近江箕浦誓願寺を指すと思われる。そうすると、先の指摘のごとくとすれば、天文 九年までの毎月二日の忌日勤仕の集団は、蓮如没後の山科本願寺において前宗主蓮如の仏事を勤めていたと考えざる を 得 な い 。 ところで、別表の毎月二日の仏事勤仕集団の位置をこのように確定すると、そこにはやはり先述の如く一定の関係 を 予 測 し て よ い と 思 わ れ る 。 つまり、歴代宗主忌日の勤仕集団と同様に、これらの集団が蓮如との聞に直弟関係があ ったのでないか、ということである。事実、未確認のてこの集団を除き、右の関係は確かに認められるのであった。 以 下 、 正 月 二 日 ︵ 別 表 で は 十 二 月 二 十 二 日 ︶ の 仏 事 勤 仕 集 団 福 田 寺 を 例 に と り 、 直弟関係を表象する基準が何であるか を確認しながら、若干検証しておこう。 近江長沢福田寺は、周知の如く北郡きつての大寺院であり、頭勤仕の他三十日番役をも負担する著名な集団であっ た。覚如との所縁で本願寺の掌握下に入ったと伝え、南北朝期の聖徳太子略絵伝などを襲蔵する。そうすると、先述 の関係を基軸に判ずると、覚如忌勤仕の集団に属さなければならないはずである。だが、覚如との関係を徴するもの

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はほとんど見当らない。むしろ、左記の﹁大谷本願寺親鷺聖人御影﹂の存在こそが勤仕する基準と見るとき、留意さ ⑬ れ る 。 釈 蓮 如 ︵ 花 押 ︶ 大谷木願寺親鷲聖人御影 文明七歳乙未三月廿八日 江州坂田南郡長沢 福田寺常住物也 願 主 釈 頓 乗 というのは、福田寺のみならず毎月二日の仏事勤仕の集団には、上記の如く親鷲の御影が蓮如より下附されている例 が多いからである。例えば確認できるだけでも四月二日忌の正崇寺は文明八年八月四日、 八月二日の願誓寺は文明二 年五月十七日、十月二日の両河野衆は文明二年十二月十七日といった月日にそれを下附されているのである。文明年 中から明応年中にかけて親驚御影を下附される寺院や惣中は、そう多くなく、毎月二日勤仕集団以外にも確かに存在 する。このことはいずれも当該期において教団構成員としての有力な寺院であった証左であろうが、先述の地域に限 定 す れ ば 、 その地域では確認できる範囲では毎月二日の勤仕集団や後述するケ l スに限られるのである、それ故にこ そ当該期において、蓮如との直弟関係を根拠にその御影が下附されたと推定するのが自然な理解となろう。福田寺や 三月廿五日の勤仕集団箕浦誓願寺に、蓮如寿像も下附されているが、猶のことそれは右の推測を裏ずけることになる の で あ る 。 両度の忌日の勤仕集団の一方を以上の如くの基準で考えると、他方の二十八日勤仕の集団の場合にはどうであった か。これについても、先述の規準で考えると蓮如との直弟関係で以って下附された親鴛御影の下附情況で、裁断でき ると思われる。例えば、二月二十八日忌の金森衆は長享二年九月二十八日に、永正年中まで五月二十八日忌出仕の堅 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 七

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戦 国 期 木 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 七 回衆は寛正二年十二月廿三日に、閏月二十八日の水谷浄願寺は明応六年一月二十八日にといった工合にやはり下附さ しかも、これらの集団は一例を金森衆や堅田衆に取ると、蓮如との直弟関係を所縁として、戦国 @ 期本願寺の数回構成員となり、活躍していたのである。かかる情況は、天文十年に至って新たに補充せられた集団の れ て い た の で あ る 。 場合においても、加賀・一ニ河といった直轄支配地域や一家衆の君臨する地域を除いて、原則的に確認できることであ り、基本的には大過のない基準だったと思われる。 以上を要するに、戦国期の本願寺における歴代宗主の仏事三形態を勤仕する集団は、 いずれも蓮如代までの直弟関 係をひとつの基軸として、教団構成員の資格でそれぞれの由縁のある宗主や宗祖・前宗主の仏事へ上番していたと考 えられる。このように解すると、先に留保しておいた二つの問題も、ほとんど解明できる。すなわち如信・善如の忌 日仏事に勤仕する集団がなかったのは、如信の場合には別な側面も考えられるが、原則的に両宗主と直弟関係にあっ た集団が当該期において存在しなかったからであろう。 ただ、存如忌の中断は若干事情が異なる。それは、周知の如 く永正年中から堅田衆と光応寺蓮淳との確執問題が天文五年十二月十四日の証如の裁断で、本福寺の破門となったこ @ とと深く関係しよう。その影響がこのことにあったかは具体的に確証できなく、その多くを留保せざるをえないが、 このように考えてよいと思われる。それでは、次にかかる上番せしめられた勤仕の集団がその場でいかなる職務を果 していたのかが、頭勤仕の性格を確定する上で検討されねばならない。 四 さて、冒頭において指摘しておいたが、戦国期本願寺での仏事とは、 一般に午前中の斎会と日中の勤行、それにし ばしば功徳湯の設営が加えられる様式にあった。 ﹃私心記﹄の天文十一年二月二日の条に

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朝、御志二十疋上様へ進上候、 O 御 斎 、 汁 三 莱 十 一 茶 子 七 種 、 0 日 中 、 裳 付 也 、

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有風目 と記載される如くの形態である。この三様式の仏事が戦国期他宗派のそれと如何なる連関性にあるか定かではなく、 改めて考察すべきことになる。それはさておき、 まず確められるべきは勤仕集団の職務が右の三様式とどのように関 与していたのかという問題である。 勤仕集団の職務について、断片的ながら記されるものは、 いうまでもなく﹃日記﹄と﹃私心記﹄であるが、詳細な も の は あ く ま で ﹃ 日 記 ﹄ である。これは、天文期の本願寺宗主にあってそれが一つの職掌にあったことに起因するが、 これと共に歴代宗主の忌日仏事を教団全体が如何に重視していたかを示唆していよう。そこで、この職務は風呂が設 けられる際には、通例 一 一 日 ム

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斎 如 先 々 濃 州 令 勤 之 、 相 伴 二 三 人 来 人 、 ︿ ﹀ 焼 風 目 、 という記載の形式を取っている。ここでまず注意されるのは、仏事三様式のうち日中勤行に関する叙述がない事実で ある。このことは、仏事勤仕の集団に勤行という役割が求められてなく、斎会あるいは焼風呂にのみ関与するものと 報恩講の斎・非時勤仕の集団の場合であるが、 @ 寺実情は、このことについて以下の如く回顧していたのである。 認識されていたことを暗示しよう。 事 実 、 天 正 三 年 ︵ 一 五 七 五 ︶ 願 得 斎の願人のっとめは、太夜より前に非時過て候、願人の勤果候へつやかて太夜の鐘なり候、︵中略︶近年は宵の 談合の前後に斎・非時の願人の勤あり。 頭人を願人とするのは、後述する頭勤仕の性格を示唆するといえよう。これによれば、もともと仏事の勤行について 勤仕集団にはその職務が委ねられていなかったのが判明する。 つまり、法会の場での正式の勤行をするのでなく、仏 @ いわば練習的に読経していたのであろう。堅田本福寺に襲蔵されていた﹃本福寺聞書﹄には、 事 の 様 式 様 式 の 聞 に 、 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 一 一 一

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戦 国 期 木 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 回 当該期の僧がいかに読経の方法を習っていたのかを示すものがあり、 それで以ってこのことが知られるのである。恐 ら く 、 当 時 の 坊 主 分 に は 、 いわば勤式といった読経の技術習得が困難であり、 それは当初より勤行を専職とする御堂 衆がその任にあたっており、さして必要でなかったのであろう。 以上の如くとすると、勤仕集団の職責は、斎会と焼風呂に関する仕事だったといえる。 では、勤仕集団が斎・焼風 呂の何と具体的に関連する職務にあったのであろうか。まず、焼風呂との関係から検証してみよう。 このことについて ﹃日記﹄の以下の記述は注意を要すると考えられる。 二 日

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斎相伴、自頭人四人来、︿﹀為志百疋来、︿﹀風呂銭五拾疋到来、然市風呂之間近 M W 条 、 先 々 令 焼 之 、 すなわちこれによれば、焼風目との関係は湯を沸かす費用の負担であったことが理解される。 しかし、右の記述にあ る 如 く 風 呂 を 設 け る こ と 自 体 、 一定の期聞を置かれていたので、必ずしも勤仕集団の定例の負担ではなかったのであ ろ う 。 おそらく、定められた期日にのみ焼風呂があり、そのときだけ湯料が納入されたのであると思われる。 R

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中 J ヂ J 定 例 の 焼 風 自 で あ っ て も 、 ばしば見られ旬。おそらく、本願寺では中居所に湯料をストックして、何かの別な目的に使用したのであろう。とす ﹁ ︿ ﹀ 風 口 口 銭 五 十 疋 来 之 問 、 中 居 へ 出 入 ﹂ と あ る 通 り 、 納 入 さ れ た 風 呂 銭 を 浮 か す 止 湯 が し ると、勤仕集団に課せられていた職務とは、斎会に関するものが中心だったと解されるのである。 では、斎会の何を 勤めることが勤仕集団の職掌であったのか。 ﹃ 日 記 ﹄ 天 文 五 年 の 各 月 に は 、 そ れ が 詳 細 に 記 述 さ れ て い る が 、 一 例 を 挙 げ る と 左 の 如 く で あ っ た 。 一 一 日 斎、舟橋願誓寺つとめ件、如前々に、主ハ親父就行脚之儀世間障り而無上洛り問、為代官門弟之坊主分成 専 坊 の ぼ せ 川 、 い つ も の 五 十 疋 の 物 、 ロ ハ 今 ハ 百 疋 来 M W ここで当該の期日に上番せしめられるのは、勤仕集団のうち、直接の当事者のみならず代理として坊主分の者でもよ

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かったことが知られる。注意されるのは、勤仕の主とするものが斎会の何らかの経済的負担にあったということであ る。この経済的な負担とは、ここに見られる貨幣上納のみでなく、例えば ﹁ 為 来 二 日 之 頭 料 、 大 地 法 欽 跡 、 ︵ 中 略 ︶ 八尾道西跡より、米壱百、料足三貫文、荷樽一ヵ、大根百把到来﹂とあるので、共同飲食の場たる斎会に要する経費 や供御する精進物を志納する役割にあったと推定される。事実、 ﹃日記﹄を詳細に検索するとき、まれに﹁早道具共 買そろへ﹂一広々という記述があり、以上の推測を裏付けることが可能となる。換言すれば、設斎の費用を上納するこ とこそ、勤仕集団の主とした任にあったと指摘できるのである。 しかし、勤仕集団の職務がそれのみでなかったのは確かである。というのは、 ﹃日記﹄には他方において、十年以 降の記述に﹁二日

ム 八

V 斎事、初市自加州令勤之、相伴−一称仏寺井四郡番衆、合五人人﹂という形式が顕著となって 来 る か ら で あ る 。 相 伴 と は 、 いうまでもなく斎会に列席することで、慶長十六年六月二十四日の顕如祥月忌日を例に @ とると、天文期のそれも大略以下の如くの座配にあったと思われる。 一 、 御 所 様 御 相 伴 ナ サ レ 候 、 東座 広教寺殿・顕証寺殿 西 座 慈敬寺股・明覚寺殿 西 座 御 審 衆 江 州 高 野 林 向 上 ク ポ 村 祐俊・光満寺・祐賢・長得寺宗慶・専了・平ノ御門徒衆二人、 東 座 江 州 柑 子 袋 御 番 衆 キ ヤ フ 予・光林寺・祐節・宗順・泉敬寺・真教寺浄祐・同御門徒衆二人 かかる形態での斎会の宗教上の意義といったものは、別に考察すべきであるが、 一言指摘しておけば、少なくとも真 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 五

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戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 六 で 宗 あ の ろ 原 ?_@理 V 台、 そ ら れ の は も さ の て で お な き く いわば教団自体が本来否定すべき宗教意識に癒着するなかでかかる儀礼の場が生じたの かかる形態の斎会へ出席するのも、勤仕集団において主要な職務であったと考えられる。 だ が 、 先 述 し た 如 く 、 ﹃ 日 記 ﹄ の 五 年 に は 、 ﹁

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斎、明照寺より百疋為頭料、もちて来 M W ツル仁、坊主分たるより M W 間よび怜﹂とあるので、職務の主要な一面を担うようになったのは、十年以降のことであったと思われる。 以上を要するに、勤仕の集団の職務とは仏事三様式のうち斎会の費用を負担する一方、他方で斎の場に相伴し、不 定期ながら湯料を上納する任にあったことが解されたのである。 明 和 二 年 ︵ 一 七 六 五 ︶ 編 纂 の ﹃ 真 宗 故 実 伝 来 紗 ﹄ は ﹁御斎・非時モ初中後ノ寺々申合セ、五ケ所・十ケ寺組合請取之勤、 @ 是ヲ日御当人、寺々門徒中モ割合セ、御相伴一一出ス﹂と指摘していたが、それは基本的な面では他の歴代宗主忌日仏 報恩講の斎・非時の勤仕集団の職掌について、 事の勤仕集団の職務にもあてはまるものだったといえよう。 ところで、仏事勤仕の集団の職務が以上の内容であるとすれば、頭勤仕とはまさしく教団を構成する特定の直参衆 集団からの宗教的負担行為を意味していたといえる。だが、その如く確定するには、勤仕の集団が如何なる意識に基 ずき坊主あるいは坊主分を年毎に上番せしめ、設斎費用を負担していたのかが明らかにされねばならない。与えられ た紙数も既に尽きているので、最後にこの問題について簡単に検討し、中世荘園制社会における宗教的負担行為のあ り方との関連のもと、若干の問題点を指摘しておくことにする。

さて、頭勤仕の集団がどのような意識のもとで、上番していたかを示す文献は戦国期においてほとんど見あたらな い の が 現 実 で あ る 。 し か し 、 かかる情況下にあって﹃日記﹄六年︿一五三七﹀一月十八日の以下の記述は、 貴重なも

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の で あ ろ う 。 。石畠申 M W 、明日之斎、頭人牢人

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、但湯次ハ在国、其外ハ乍四人牢人人、何壱貫自五人の頭人中あげ件、牢人 ニ怜へ共、為冥加あぐるよし申て、以左衛門大夫上 M W 、 其 五 人 ハ 、 石 畠 、 ヒ ノ 木 誓 寺 、 瓜 生 津 、 法 蔵 寺 、 湯 次 是 人 、 いうまでもなく覚如忌日に上番せしめられる集団である。牢人とは、天文六年以降の佐々木六 @ 角氏と本願寺門徒との抗争で、これら寺院が近江中郡より放逐されたことを指すのであろう。注目すべき点は、設斎 費用の負担行為が﹁為冥加﹂という目的意識を根拠におこなわれていたことである。当該期本願寺において、冥加と は﹁朝夕如来聖人ノ御用ニテ候問、冥加ノ才ヲ深グ可存由シ﹂とか﹁我一人冥加ニカナプニ依テ、皆々安隠一一存∼﹂ こ こ で の 勤 仕 寺 院 は 、 という如く、如来よりの加護を意味するのである。とすると、為冥加とは如来よりの庇護を求めることになり、具体 的には来世での浄土往生を願うという意味になろう。 つまり、頭勤仕の行為とはかかる浄土往生を願う意識に立脚す る も の だ っ た と い え る 。 このような浄土往生を求める意識が、他の勤仕集団を構成した坊主や百姓・農民達の行為とどれほどからみあって 、 二 、 土 ﹄ 玉 、 で ま E 、 。 L φ J 、 刀

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サ ー し Z − A V 、 主カ ﹃ 日 記 ﹄ 一 一 十 一 年 ︿ 一 五 五 二 ︶ 十 月 二 日 の 条 に 、 。 両 川 野 依 水 損 、 餓 死 之 輩 多 之 由 件 、 ︿ ﹀ 毎 年 灯 明 料 七 口 五 百 疋 雄 上 之 件 、 依 餓 死 井 乱 世 、 唯 令 四 百 疋 わ ん の 馴 加 に 畑 酌芯上之、。頭銭毎年八百疋、御百十疋、志百疋雌出之、依不相調 M W 、 六 百 五 十 疋 曲 一 議 二 顛 一 語 出 之 、 とある現実は、勤仕集団における﹁為冥加﹂という論理性を前提として初めて理解できるのである。かかる浄土往生 への期待が天文期のみの現象でないのは、例えば、勤仕集団ではないが、以下の文明年中の土地寄進状に 口代売券寄進ニ申田地之事 ︵ 略 ︶ 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 七

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戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 八 右件之田地者、依有要用為後生菩提之、本誓寺開山聖人江永代売券寄進ニ申所実正明鏡也、 @ とある寄進行為と論理上通ずるものであり、当該期の一向衆集団にあっては一般的だったと推測されるのである。 かくして、戦国期本願寺において見られた頭勤仕とは以上の如くの来世での浄土往生信仰を論拠とすることで、 定度の自発性に基づく負担行為そのものにあったのが検出されたわけである。そうすると、 かかる行為は中世荘園制 社会で見られた宗教的負担行為の一端である頭とどのような関連性にあったのであろうか。室町戦国期社会の場合に 即して、若干の問題点を整理しておくことにする。 官頭で指摘した如く室町戦国期社会において、しばしば頭という名称が文献に登場するが、そのなかで宗教的負担 行為を示すものは寺社系荘園文書と宮座関係文書である。荻原龍夫氏は、それらのうち宮座関係文書に表出する頭に 着目し、そこには (2) (1) 斎忌に服させて司祭的地位を果させる。 祭 事 舗 設 の 責 任 を 負 わ す 。 という両様の意味の使用例がそれぞれにあり、史料的に後者の祭事舗設の行為を表象する場合が多いと指摘してい旬。 このような見解に従えば、戦国期本願寺での頭勤仕はまず明確に祭事舗設の責務を内実とした系列に属するものと考 えられることである。それは、先に見てきた如く仏事勤仕集団の職務には司祭的役割が求められておらず、もっぱら 設斎と湯料負担にあったからである。ただ、そうすると、本願寺での頭勤仕とは、中世後期荘園制社会の神事頭勤仕 と同種の範障に含まれることになろうが、必ずしもその系列に入るとばかりいえない。なぜなら、 一 方 で 旧 仏 教 系 寺 院においても斎会勤仕の頭勤仕が存続し、こちらの側との関連をも検討する必要があるからである。これには、小稿 で意識的に捨象した本願寺での斎会そのものの宗教上の意義からトータルに検討することが肝要となろう。

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次に荘園制社会の頭勤仕との関連で注目されるのは、負担的行為そのものの理解である。近年、網野善彦氏は中世 社会での年貢と公事の規定の再検討を提唱され、公事とは年貢の体系と異なり、共同体の構成員が自主的に﹁公﹂行 @ 事に要する費用を負担するものであると指摘されている。最近の研究情況のなかには、網野氏の見解を機械的に適用 仏 教 理 解 に は 、 するものが少なからずあると思われる。筆者は、網野氏の﹃無縁・公界・楽﹄で提起された方法的論拠の基抵にある @ かなりの事実誤認が存在するので、全一面的に賛成できないが、かかる公事への指摘は充分考慮すべき @ かつて金龍静氏が考察した番勤仕と共に 問題があると思われる。そこで、網野氏の指摘に従って本願寺の頭勤仕は、 改 め て 検 討 す る 必 要 が あ ろ う 。 最後に、別稿を準備中なのでここでは触れなかったが、これらの頭勤仕あるいは番勤仕が明応年聞において本願寺 の収納組織として制度化され、天文十年以降それが一向衆集団への支配制度に変貌する事実がある。簡単にいってし まえば、以上にみてきた勤仕集団内において収納組織が﹁組﹂あるいは﹁番﹂として完備してくる一方、他方で本願 寺での掌握組織も形成されてくるということである。そして、 それが天文十年以降の主要な一向衆集団の支配制度と なり、軍事蜂起の一単位を形成していくのである。かつて、渡辺澄夫氏は﹃畿内荘園の基礎構造﹄において、 か か る 事実の一端を披握されていたが、この点からも、改めて支配制度を荘園制社会での頭体制との関係で検証しなければ 内 ム ‘ コ F ム 、 。 , T F J 7 L 以上、本願寺における頭勤仕の性格が中世荘園制社会での頭との関連性のもと、 いかなる問題情況にあったかを指 摘 し て き た が 、 いずれの場合においても戦国期の本願寺権力の性格は、荘園制社会に内在する諸問題と深く絡みあっ ていたのが理解されたであろう。これより極論すれば、トータルに荘園制社会の現実と癒着していたのが戦国期本願 寺 教 団 の 姿 で あ っ た と い え る 。 かかる点から、従来の真宗史研究や一向一捺研究のあり方は、方法的にも根抵から再 戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 一 七 九

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戦 国 期 本 願 寺 に お け る ﹁ 頭 ﹂ 考 検討されねばならないことも指摘して摘筆する。 ② ① 註 荻 原 龍 夫 ﹃ 中 世 祭 組 組 織 の 研 究 ﹄ 第 四 章 三 。 例 え ば 、 引 付 頭 人 、 連 歌 な ど の 会 で の ﹁ 頭 ﹂ な ど を 想 起 す れ ば 充 分 で あ ろ う 。 か か る 情 況 の な か で 、 佐 々 木 孝 正 氏 の ﹁ 本 願 寺 教 団 の 年 中 行 事 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 儀 礼 ー そ の 理 念 と 実 践 | ﹄ 所 収 ︶ は 注 目 に 値 す る 。 だ が 、 そ の 見 解 は 民 俗 学 的 方 法 に 立 脚 し 、 斎 会 H 真宗の理念という理解に終始し、形態上の特質をあ げ た に 渇 き な い 。 そ の 点 で 、 筆 者 か ら 見 れ ば 、 も っ と も 批 判 し な け れ ば な ら ぬ も の で あ る が 、 紙 数 の 関 係 で 別 な 機 会 に そ の 任 を 呆 し た い 。 以 下 、 ﹃ 私 心 記 ﹄ 、 ﹃ 天 文 御 日 記 ﹄ は 、 北 西 弘 編 ﹃ 真 宗 史 料集成﹄第三巻所収木に依ったので、とくに註記しな 、U この点の理解は、首藤善樹﹁中世東寺の湯結香につい て ﹂ ︵ 千 葉 乗 隆 博 士 還 暦 記 念 会 編 ﹃ 白 木 の 社 会 と 宗 教 ﹄ 所 収 ︶ に よ っ た 。 ま た 、 ﹃ 本 福 寺 跡 書 ﹄ の 末 尾 に そ れ が 蓮 如 代 か ら の こ と で あ っ た こ と が 記 さ れ る 。 佐 々 木 孝 正 前 掲 稿 。 こ れ は 、 円 如 が 証 如 の 実 父 で あ る こ と と 無 関 係 で は あ る ま L

堅 固 修 編 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 。 ③ ④ ⑤ ⑦ ⑤ ③ 一 八

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︵ 八 二 ・ 一 ・ 十 三 日 改 稿 ︶ 千 葉 乗 隆 編 ﹃ 木 福 寺 旧 記 ﹄ 。 こ こ で の 本 宗 寺 と は 、 三 河 の 土 昌 本 宗 寺 で あ る 。 ち な み に 木 宗 寺 と 奈 良 衆 と が ﹁ 与 力 ﹂ 関 係 に あ っ た の は 、 本 善 寺 文 書 ﹁ 皆 成 院 実 孝 手 記 ﹂ に 詳 述 さ れ る 。 拙稿﹁天文期本願寺権力の支配構造﹂︵未発表︶によれ ば 、 こ れ ら は 天 文 十 九 年 ま で に 木 善 寺 の 与 力 衆 と な り 、 一 門 | 組 と い っ た 組 織 体 制 を と る 。 こ の 問 題 に つ い て は 、 渡 辺 澄 夫 氏 の 労 作 ﹃ 畿 内 荘 園 の 基 礎 構 造 ﹄ か ら 検 討 さ れ ね ば な ら な い 。 細 川 行 信 編 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 八 巻 。 首 藤 善 樹 編 ﹃ 慶 長 日 記 ﹄ 。 瓜 生 津 弘 誓 寺 文 書 。 千 葉 乗 隆 ・ 石 田 充 之 編 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 一 巻 。 拙 稿 ﹁ 十 五 世 紀 後 半 に お け る 仏 教 ﹃ 教 団 ﹄ 形 成 論 理 の 一 例 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 史 学 研 究 ﹄ 一 一

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一 ︶ 。 ⑬堅田修編前掲書。 ⑬福田寺蔵。 @千葉乗隆編﹃木福寺史﹄参照。 @この問題について、北西弘著﹃一向一授の研究﹄第四章 第 三 節 参 照 。 ② ﹃ 本 願 寺 作 法 之 次 第 ﹄ ︵ 堅 田 修 編 前 掲 書 所 収 ︶ 。 @龍谷大学所蔵知空書写本。 ⑬ ⑨ ⑪ ⑫ ⑫ ⑬ ⑮ ⑪ ⑬

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@ @ @ 止 湯 に つ い て は 、 首 藤 善 樹 前 掲 稿 。 首 藤 善 樹 編 前 掲 書 。 この点で、従来の真宗史研究における神祇観の問題は、 再検討されねばならない。蓮如の時代から十八世紀にい たる聞は、真宗の側には基本的に神祇否定の動きはなか っ た と 思 え る か ら で あ る 。 千 葉 乗 隆 編 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 九 巻 。 ﹃ 本 一 福 寺 跡 書 ﹄ 、 天 文 二 十 二 年 蓮 淳 書 状 参 照 。 ﹃ 蓮 如 上 人 一 語 記 ﹄ ︵ 堅 田 修 編 前 掲 書 所 収 ︶ 。 北 西 弘 編 ﹃ 能 登 阿 岸 本 誓 寺 文 書 ﹄ 。

仏事と頭集団の勤仕との関連

③荻原龍夫前掲書第四章二。 ②綱野善彦﹁日本中世の平民と職人﹂旧︵﹃思想﹄六七

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たとえば、﹁無縁﹂という語が、あたかも中世当該期の 新仏教系寺院で多く使用されたかの理解がしばしば見ら れるが、親鰐な例にとれば、親鷲は無縁を否定し、﹁有 縁 ﹂ こ そ 仏 教 の あ り 方 と 指 摘 す る 。 金 龍 静 ﹁ 三 十 日 番 衆 考 ﹂ ︵ ﹁ 名 古 屋 大 学 日 本 史 論 集 ﹄ 上 所 収 ﹀ 。 ③ @ 斎御 御信 朝 E司 , , ,, ,,

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御 時 慈 願 寺 記載なし O 非 時 石 白 田 也 戦国期本願寺における﹁頭﹂考 1 ・ 7 一 己 批 な し 1 ょ っ “ 一 吉 阿 寸 ヰ Jd ’ 可 i o 白 旬 i n r u , , ︵彼岸結願、御斎︵ 8 ・ ぉ [秋彼岸一記載なし 備 考 、 一、︵︶の中の数字は、記載年月日を主として表わす。 二 、 仏 事 忌 日 の 命 日 、 祥 は 祥 月 、 命 日 を 示 す 。 三 、 上 番 と は 勤 仕 し た こ と を 一 万 し 、 欠 番 と は 上 番 し な い ことを示す。但し頭人名が記載されない場合も、担 当 寺 院 集 団 が 上 番 と 考 え て 作 製 し た 。 一 八 五

参照

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