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『宗教研究』171号(35巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

近代におけるイスラムについて, 加賀谷寛, Modern Developments of Islam–An Interpretation, Kan

KAGAYA, pp.1-20.

2,

宝蔵論の思想史的意義, 鎌田茂雄, On the Historical Significance of Pao-ts”ang-lun (宝蔵論), Shigeo

KAMATA, pp.21-46.

3,

イザナキ・イザナミの婚姻, 小島瓔礼, Myth of the Marriage of Izanaki and Izanami, Yoshiyuki KOJIMA,

pp.47-64.

4,

仏教における「空」思想の検討:般若経・龍樹を中心として, 増田英男, Some Reflections on the

Buddhist Conception of Voidness (

Śūnyatā): in the Prajñāpāramitā-sūtra and in Nāgārjuna, Hideo

MASUDA, pp.65-84.

5,

小呂島における部落祭祀, 宮地治邦, Oro Island, Harukuni MIYAJI, pp.85-106.

書評

6,

玉城康四郎著『心把握の展開―天台実相論を中心として―』, 勝又俊教, Shunkyō KATSUMATA,

pp.107-113.

7,

山本新著『文明の構造と変動』, 阿部美哉, Yoshiya ABE, pp.113-116.

8, Erik H.Erikson, Young Man Luther : a Study in Psychology and History,

谷口茂, Shigeru TANIGUCHI,

pp.116-119.

(2)

二近代におけるイスラムについて イスラム研究史において、近代、現代におけるイスラムの発展という課題ほきわめて新しく、とくに第二次大戦後 学界の注目を集めている研究分野である。ヨーロッパのイスラム学が学問として確立された時期は、東洋学一般と共 通して、十九世紀末であった。しかしヨーロッパのイチフム学の主たる関心ほイスラムのいわゆる古典時代、すなわ ちモンゴル族の東方イスラム世界への侵入以前のイスラム神学、法学の形成期から確立期にわたる時期にむけられ、 すでに十九世紀末からアジア、アフリカの各地域において現実に展開されはじめていた同時代のイスラムの発展の研 究という分野は一般にイスラム学プロパーの外部のものとみなす傾向が強かった。このような問題点ほ、すでに一九 〇六年、国際的にしられる宗教学、宗教史学の講座たるHaske〓Lectureにおいて、アメリカのイスラム学者D. B−Macdβa−dがイスラム研究の将来に残された研究領域として、H教祖マホメット︵なおイスラムの側でほマホメ ットに教祖という概念を適用することに反対し、彼らは﹁アッラーの予言者﹂とよぶ︶の精神病理学的研究、国後期 のスーフィー諸学派にみられる汎神論の発展の研究、害ムスリム︵イスラム教徒が自身をよぶ語︶の今日の宗教的態 ︵1︶ 度と宗教運動、の三つを挙げて、その研究の重要性を強調していることによって示される。イスラム学者としての立 場からイスラムの近代的発展の基本的諸問題をはじめて正面から取り挙げて、綜合的に分析した劃期的研究は上述の MacdOロa−dの講演から約四〇年後の一九四五年 Hら●Rわibb教授︵現在アメリカに移っている︶が同講座におい

近代におけるイスラムについて

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費 谷

1(427) \ ●・

(3)

︵2︶ て発表した研究であり、これをもって近代におけるイスラムを取り扱う研究の暮夜が確立されたとみなすことに大き な異論はないであろう。同教授は同講演の出版にあたってその間の研究史を回顧して、この分野のイスラムの展開を取 り扱った注目すべき研究成果としては、わずか二つの著書が挙げられるのみである、と述べ、イスラム学界に反省を 促した。同教授によると、その一つはエジプトのカイロのAmericanUniくerSityのC.C.Adams教授著のお訂S 塗料≧g百獣芸こ記 b好学 ︵F︶ロd呂−謡∽︶であり、他はカナダの当時新進の研究者W.C.Smith著の≧ぎ訂喜 ︵3︶ お計室=㌻∴訂料訂︵LaFOre−芝∽−LOロdOn−芝の︶である。いずれも書名が示しているように前者はエジプト、後者は インドというように地域が限定されており、イスラム世界全体にわたる全般的研究とほいえないが、イスラムが近代 においてもっとも目ざましく発展し、他地域にも大きな影響を与えたエジプト、およびインドにおけるイスラムの近 代的運動をそれぞれ明かにした意義は大きいといわなければならない。またイスラムの地域的発展の個々の特殊的問 題についてほ、東インド地域ほオランダ、北アフリカおよび西アフリカの地域ほフランス、インドはイギリスの学者 というように、主として旧植民地支配圏の学者の手で研究が進められてきた。地域的発展の概観として、北アフリ カ、エジプト、インド、インドネシアの各地域におけるイスラムの発展を集成した H.A.R.Gibb 編、.等ぷ泣声守 訂訂S二LOロdOロー認N︶をみおとすことはできない。それらイスラム学者の手による研究のほか、キリスト教ミッシ ョンの側からなされる資料紹介、研究現地報告も重要な参考となる。この種のものとしてもっとも信頼しうるものほ 一九一〇年以来発行されている定期刊行物旨訂註ヨーヨ箋迂である。他方ムスリム自身の側ではイスラムの近代的発 展という自分たちの問題を十分歴史的に明かにしているであろうか。しかしギブ教授ほ上掲書序文でムスリムによる 著述がいずれも特定の前提をもつ apO−Ogeticなものであって、学問的信頼をおくことが全くできないといって、厳 しくしりぞけている。このことは後に論ずるように、西欧側とムスリムの▲インテリとのあいだのmisunderstanding を反映している。 (428) 2

(4)

近代におけるイスラムについて イスラムの近代的発展の研究が新しい段階に入るのは第二次大戦後のことで、戦後の動向を代表するものとして、 ︵1︶ 一九五〇年代にあらわれた前記W−C■Sm昏による㌢ぎ鳶㌻こ霹冬SこS鼓さ ︵PriロCetOロUniく・Pressこ誤可︶ を挙げなければならない0 同書ほギブが前掲書で取り扱った以後のイスラムの発展、とくに第二次大戦後のイスラム に中心をおいていることが特色となっている。この 近代イスラム研究のセンターとして、その動向を注目しなければならない。戦後の近代イスラムに関する研究の著し い発展の条件として、アメリカにおけるアジア、アフリカの地域研究、綜合研究の促進がとりあげられる。そこにお いてはイスラム学は伝統的な東洋学の一部門から脱して、政治科学、社会科学と緊密に協力する地域研究に組みこま

れている。アメリカのMidd−e East Institute にみられる研究システムがこれを示している。

﹀ 次の問題として第二次大戦を境いとして、戦前と戦後とでほ欧米のイスラム学者の例のイスラムに対するアプロー チが変化したことが注目されなければならない。戦前は西ヨーロッパの資本主義の優越した立場から、アジア・ムスリ ムの社会、歴史を﹁停滞的﹂としておおむね固定的にとらえがちであったが、戦後においては西ヨーロッパ、アメリ カの東洋社会観そのものが変化して、それを﹁過渡的﹂または﹁変動的﹂な過程においてダイナミックにとらえよう ︵5︶ とするアプローチに変化している。この第一の動機ほいうまでもなく、もほやヨーロッパ世界の手に負えなくなった アジア・アフリカのナショナリズムの発展に直面して、視点をおそまきながら修正せざるをえなくなったことにもと められる。これと関連して、近代におけるイスラムの発展についても、従来西欧側で常識的な見解となっていた一方 的に消極的、ないしは否定的な観方が成り立たなくなり、ギブ、スミスが強調しているように、近代、現代における イスラムの活力、あるいほイスラムが近代化とともに分裂した社会を安定させる役割をもつことを再評価する傾向に 変化してきた。、さらにまたイスデム.とキリスト教を対立する関係におかずに、両者の相互理解の促進をとくに強調す るようになったことも、戦後の基本的動向ということができる。このようなイスラムに対する新らしい関心を背景に、 音・塁づ1,1 芦 、∴ 3 (429)

(5)

イスラムの代表的な入門として定評のあるHOmeUniくerSityLibraryの毛﹄きぎSS邑Q乱的ミ、、の全面的な書き 改めがなされた。一九一一年、D・S一MargO︻iOuth著の同文庫旧版から約四〇年後の一九四九年、その弟子のギブ教 授は同一の題名のもとに、﹁歴史的研究﹂という副題を附して新しい角度から書き下さなければならなかった。その 序文でギブは、これまでイスラムの取り扱い方に二つの一般的偏向があったと述べ、それらのいずれをも排除する。 その一つはapO−Oget山cな視角であり、ムスリムの側の著作に一般的にみられるものである。自分たちの信仰および 宗教と結びつく文化に対するそれらの忠誠的態度は尊重しなければならないが、宗教的文献として重要であっても、 問題点の解明としてほ不適当であると述べている。もう一つのアプローチは、イスラムを低級の宗教とみるもので、 とくにミッションの側に内在する偏見であるが、従前のような素朴な外面的な攻撃は最近ではすくなくなって、相手 のムスリムの側の宗教体験正岡情的理解を示すようになったと述べている。著者は自らのイスラム理解の視点とし て、Hイスラムが自律的な宗教経験の表現であること。したがってイスラム白身の原則と基準を尊重しなければなら ない、︰望ホ教の実践面はその最高の理想にたっしていないことが多い。外部の観察者はわれわれと同じ人類の失敗に力 点をおきやすいが、その宗教が実現しようとする理想に力点をおくようでなければならない、の二点を示唆している. このようにイスラムを自分と対等の主体的なものとして理解しょうとする欧米側の新しい方向は、いうまでもな く、第二次大戦後の国際関係の変化を具体的条件として生れたものである。すなわち、第二次大戦後イスラムをもっ て主要な宗教、文化とする西アジア地域の国際的条件が変化して、古い型の植民地主義支配に代って、国際的リーダー シップがアメリカに移り、同地域の国際関係が再編成されたことである。第一次大戦直後のように植民地再分割の対 象として同地域をみるのでなく、経済的、軍事的に重要な同地域を﹁自由主義﹂陣営に同盟たよってつなぎとめておく ため、この地域の安定、ないし統合がアメリカを中心とする西側の国際関係の基調となった。このことほ当然西側とイ スラム地域との相互接触を増大させることになった。このような国際関係の緊密化ほ、アジアとヨーロッパ、アメリカ 1 .ニー.﹂ 一 ︼ 、...∵.、⊥ − ヽ. (430) 4 町

(6)

こ、・丁

r)L 近代におけるイスラムについて との間の疎通の困鮭が大きな克服されるべき問題であることを気づかせた。ギブ教授ほこの問題を再検討して、四つ ︵6︶ の接触の面を区別している。その二つほ外面的で、ノヨーロッパの例の対西アジア政治と経済政策、および西アジアの 側の対西欧政策であるが、この接触の面は二つで、一つではなく、交叉することほあっても、多くの場合異ったレベ ルの上で、また別々の手段をもって作用する。これらの基底に二つの内面的な接触面がある。すなわち西欧の側のア ジアの文化に対する態度、およびアジアの側の西欧文化に対する態度とである。この二つは外的接触から独立してお り、政治的関係の成立する以前にすでに存在していたし、政治的関係が断絶しても存在する。このような二つの接触 のタイプが数世紀間存在したが、わずかの例外を除いて理解をうむことがなかった。一方の側から相手の側の価値の 理解に接近する試みがなされるとしても、相手からのそれにこたえるような接近に出あうことがなければそれ以上そ ︵の接近ほ進まないし、相互作用なしに、どのような接触も真の出あいとならない、と論じている。その理論ほアジア がヨーロッパに近づき同化されるという西側の手前勝手な考え方でなく、両者ほ立場が同一でない主体であることを 認めた上での相互理解の提案である点が重要である。同じくヨーツパの側からのイスラム理解の新しい方法の提案と ︵7︶ してE・E・C巴くer首の説が注目される。そのなかで、他宗教の批評ほいかなる特定の体系にも準拠してはならず、他 の人文科学部門の批評の基準と共通して其、善、正義、美が基準とならなければならないこと、それとならんで、新しい 手続きとして、神学的問題をアジア人と共同で研究する試みを提起している。このようにして方法論と経験をわかち あうことによって、共同の責任で信積できる研究がつくりだされるであろうと期待している。スミス教授もまた、前 掲書において、欧米側とムスリムとの相互理解の促進という試みを大胆に狙っている。この前書きに述べているよう に、これまでムスリムの知識人の例の主張と、イスラム研究者も含めて西側のイスラム理解との間にほ大きな差異が あり、相互のコミュニケイションほ甚だ不満足な状態にあった点を現実認識の出発点として確認し、この二十世紀の 荊立主義を打破するために、著者は同書を欧米の読者にあてるとともに、とくに英語を解するムスリム知識人の読者 ....▼ 、ノ′. 5 (431)

(7)

を意識して書いたと宣言している。同書はアラビヤ語に訳されたが、アラブ世界から反応がどのようにあらわれた か、それが相互理解の足場となったかはきわめて興味ある問題である。これらの見解にみられるように、軍側の指導 国においてほ、社会主義諸国との緊張と平和共存の課題と劣らず、アジア・アフリカ地域との異質の緊張が改めて切 実に認識されはじめ、それがイスラムへのアプローチに鋭敏に反映しているのである。しかしながらアジアとの緊張 の基礎ほ歴史的に考察するならば、十九世紀末に世界的に確立された帝国主義体制とそのもとにおけるアジア・アフ リカの従属化を条件につくられたものである。西側イスラム再評価の提唱の背景にほ、帝国主義支配の歴史的認識と その切実な反省を明確なかたちでみることほできない点を指摘しなければならない。このようなアジア認識こそアメ リカの社会科学、文化科学に共通する基本的な問題点であろう。 他方ムスリムの側からも、アジアのムスリムと欧米のキリスト教徒との相互理解が提唱されており、一九五八年第九 回国際宗教学宗教史大会におけるムスリムの学者たちの発表ほこの線に治ったものであった。彼ら発表者たちほイス ラムの根本的な立場にたつとき、キリスト教ほイスラムとidentica−な宗教であることを進んで確認した。エジプトの Husaini教授ほ現代エジプト文学の代表作品から実例を挙げて、現代アラブのキリスト観にほヒューマニズム的、﹁社 会主義的﹂な側面があることを示した。同教授は両教徒間の溝は宗教から生れたものでなく、近代に主として政治的 理由から拡まったのではないかと述べて、ヨーロッパの既成のイスラム観に反論している。政治的対立が解消すると き、イスラム宗教の側には相互理解を阻害するような要因ほなにもないということほ、当然の結論というべきであ る。しかしながら、なお、イスラムの側ではpersOn巴re厨iOnへの脱皮が本格的になされていないし、いまだにそれ ︵8︶ に対する社会的抵抗が強いことが指摘されている。また西側とアジア・アフリカとの政治的対立、輿張も解消されて いない。このようにいまだ相互理解の試みは現実的条件を十分もっていないといわなければならない。 本論に入るまえに、われわれにとって混乱をひきおこしやすいイスラムの概念について明確に規定しておくことが (432) 6

(8)

近代におけ卑イスラムについて 必要であろう。いうまでもなく、狭義にはイスラムはまとまった教義と実践の体系をもった一つの宗教として取り扱 うことができるが、広義にはイスラムは宗教と社会、法律、文化との複合機念として取り扱われている。このように して、﹁イスラム社会﹂、﹁イスラム史﹂、﹁イスラム文化、さらに﹁イスラム世界﹂などの成語が便宜的なタイトルと して、ヨーロッパのイスラム学者、東洋史学者によって一般化されている。またムスリム自身の側でもd讐aTIs−抑m ︵イスラムの領域︶と、d讐aTharb︵非イスラムの頭域︶というように伝統的にイスラムをもって世界的フロンテ ィアーとみなし、イスラム内部を一つの精神共同体的世界と考えてきたが、そのような伝統的な観念から出発して、 近代における歴史、社会、文化の概念の導入とともに、ヨーロッパのイスラム学にならって、イスラム史、イスラム 文化、さらにはイスラムを一つの社会体制とみなサイスラム・イデオロギー︵とくにパキスタン︶などの概念を一般 ︵10︶ に用いている。これらの概念は、スミスによって﹁制度的、ないしは社会学的に自己を実現させる宗教﹂として特色 づけられるようにイスラムの全体主義的、ないしほ全社会的な性格を反映している。このようにイスラムは極度に拡 大解釈されうるものであるが、イスラムがすべてであるということほ、逆にいうと、イスラムは実体としてなにもの でもなくて、社会現象、文化現象のなかに解消しているといわなければならない。イスラム社会というような宗教と 社会との複合概念はイスラムの場合のみに限られるものでなく、インドの場合、ヒシドゥーイズムを単なるインド教 という宗教の体系としてだけでなく、社会関係を律する社会規範、ないしほ規範意識とみるヒンドゥーイズム論が掟 ︵11︶ 起されているように、それに対応した考え方ほ他宗教にも有効であろう。本論ほイスラムを狭義の宗教現象に限った 上でその時殊宗教史を意図するものでなく、近代、現代における西アジア地域を中心として、社会、政治、文化との ︵12︶ 全体的関連のもとにイスラムの歴史的なあり方を総合的に解明しようとするものである。それはスミスのようなイス ラムの観念の笥ne岩ニiBtiOロから出発するものでない。またイスラムを特殊具体的に把握する場合、そのような歴史 的アプローチとともに、地域的なアプローチがとくに必要である。これはいわゆるイスラムの統一性と多様性の問題 7 (433)

(9)

であり、イスラム世界はイスラム法によゥて西ほ北アフリカから東は東南アジアまで統一肘に支配されるが、他面地 方慣習︵ごrf㌧乳at︶を尊重する。多様性はイスラムの中心地域のアラブ・ムスリム地域から遠ざかるとともに大きく なり、イスラムはより民族化された形態であらわれる。なお中世イスラムにおいては都市はその社会、文化構造が此 較的均一化されたが ︵いわゆるイスラム都市︶、農村でほイスラム以前の社会慣習が大きく変らなかったと指摘され ている。またイスラムを地域的に把握する場合には.宗派の問題︵イランほ一二イマーム派で地域的にまとまってい る︶を見おとすことができない。また全人口に対するムスリムの比率から、その地域のムスリムが多数派であるか、 小数派であるかが割り出され、とくに代議制との関連において注目する必要がある。 正統的イスラムの基本原理 近代におけるイスラムの動向を論ずるまえに、イスラムの法学、神学の全構造を支えるイスラムの基本原理︵u晶−︶ を明かにしておかなければならない。それはイスラムの側の分け方によると、次の三の源泉からなりたっている。H コーラン、崗スナン、肖イジュマー、がそれであり、宗教的真理、イスラム法の無謬の源泉とみなされる。それらほ イスラムの宗教、法律、社会の発展の仕方を特徴づけるもので、正しくイスラムの枠組をつくるものである。それら は歴史的にみるとき、初期イスラムに形成され、古典時代︵十世紀前後︶に確立された宗教的、法律的概念である。 それ以後の後期イスラムは、そこに一旦確立された古い世代の見解を尊重し、その不動の枠のなかでのみ狭い発展が 許される、と正続派イスラムはみなす。このようにそれらほ正統イスラムの全構造の基準︵理想型︶をつくる。それ らが現実に、意識と実践と場面でどのように無視されたか、またほ歪められたか、ほ歴史の問題である。それら三つ の基本原理の相互関係をみると、コーランはいうまでもなく最終的啓示としてイスラムの第一の真理の基準である。 しかしそこに明白に示されていない信仰および笑顔の事柄については、マホメットの言行とみなされるスンナが、コ シ. 小.い・ ﹂.. (434) 8

(10)

近代におけるイスラムについて

ヱフンを補助し、疑義を明白にする。コーランは本来宗教的啓示の産物であり、意図的に社会立法を述べていると考

えられる部分ほ僅かであって、コーランにおけるマホメットほ何よりも神の使徒、予言者であったが、神学者、法

学者でほなかった。このようにして、イスラム法ほ現実にはコーランよりも後代の立法者の手で整理されたスンナに

立っていると論じられる ︵スンナほマホメットの言行と信じられているが、大部分ほマホメット没後しばらくして

初期イスラムの世代が自分たちの見解に好都合のようにつくりあげたものがマホメットのものとして伝えられたと

いうことが文献批判から明かになった︶。琴二のイジュマーほ、コーラン、スンナから規定されない新しい事柄を社 会的に規定する方法である。イスラムからみると、第一のコーランは全くdiくineなもので、ざ舛Dei であり、第 二のスンナほ本来啓示と区別される、人類のなかでえらばれた予言者の.ざ舛Pr。phetaeであり、それに対して第三 ︵13︶ のイジュマーほギブ教授によって、ざ舛pOpu−iとよはれるように、全く社会的な性格をもっている。イジュマーの 合法性ほイスラムの学説でほ、問題を判断処理するための知識と経験を備えた資格あるイスラムの学者︵宣am巴に

限って認められる、とされるが、現実にはムスリム社会全体の総意のあらわれとみるべきであると、ギブは論じてい

る。イジュマーはイスラム社会の発展、向上の時期にほイスラムに本来異質的な要素を自らのなかに社会化して行く

CathO−icity の原理であり、適応性の論理でもあったが、他方、既存の考え方、制度を頑強に崩すまいとする姿勢で ︵14︶ あり、近代的改革に対しては、もっとも強力な抵抗をする。イスラム法学研究の権威であるJ・Schactによると、そ れほ一度COnSenS宏として是認されると、無謬とみなされ、再び廃棄できない︵すくなくとも理論上でほ︶性質の もので、シャリーヤ︵イスラム法︶を伝統的な形態のままに保持する力であり、イスラムにおけるもっとも強力な保

守的要素となっている。近代におけるイスラム改革運動の多くは、イジューマをイスラム最初の世代に限って認め、

法学派成立後︵十世紀以後︶のイジュマーを排撃する傾向がみられる︵例えば Wa旨蟄竜.a−Sa豆仙ya︶。さらに自

由な立場をとるムスリムの﹁モダニスト﹂たちほ、スンナ、イジュマーを放棄して、ただコーランのみをイスラムの

9(435)

(11)

γT∵ 基本原理としてみとめる場合が多い。彼らはそれぞれ自分の立場から、自由主義者は自由主義の思想を、ナショナリ ストはナショナリズムの原理を、社会改革者ほ社会改革の根本思想を、コーランに見出して、近代、現代におけるイ スラムのあるべき姿を指し示す。このような意味から、﹁モダニスト﹂のコーフン解釈こそ、近代、現代の新動向を ︵15︶ 反映するもっとも重要な手がかりを与える文献である。 既述の三原理のほかに、イジュマーと対をなすイジュティハードの原理がある。これは社会全体の是認というイジ ュマ一に対して、個人の学者の﹁判断の行使﹂︵祖師から独立してイスラム法を適用する権利︶を指すが、﹁モダニス ト﹂が主張するように自由の原理ではなく、本来はコーランとスンナを特定の問題に正しく適用するために、﹁自ら努 力すること﹂で、イジュマ一にさからうものでなかった。古典的教義にょると、イジュティハードの許される範囲は 時代が降るにしたがって、すなわち、イジュマーが積み重ねられるにつれて、教理と法律の体系にあった空所が埋め られて行き、最後に埋められるべき空所が残されなくなって﹁イジュティハードの門﹂が閉ざされるのである。今日 にいたるまでこの原理の再開は公認されていない。このような正統派の見解に対して、﹁モダニスト﹂の多くほ、イ ジュティハードの権利を主張した。この埋もれた原理を、パキスタンの精神的建国者とよばれる現代思想家の故イク バールは﹁イスラムの運動の原理﹂とよび、中世的なイスラムが近代においても進歩することを可能とするイスラム 本来の発展の原則とみなした。﹁モダニスト﹁ および西欧の学者はィスープムがイジュティハードの門戸を閉鎖してい ︵16︶ ることに批判的であるが、それに対して、エジプトの l●ゴusaini は次のようにその理由を説明している。 ﹁帝国主義支配のもとでは、イジュティハードの行使は、帝国主義に利益を与えるような分派の発生をうながした であろう。その場合、分裂と混乱の危険をおかすことよりも、また合理主義的信仰よりも、原始的な素朴な信仰の方 がよいと感じられた。しかしイジュティハードの再開ほ将来、ムスリム世界が自分たちをとりまく悪から脱け出し、 独立をとりもどすときがやってくるとき、不可避となろう﹂ (436)10

(12)

近代におけるイスラムについて この反論はイスラムの発展を窒息させたものが帝国主義支配にあることを明らかにした発言として興味深い。また イスラムの側でも、イジュティハードの再開によって内的発展をとげるためにほ、それが少数者の見解でなく、輿論 =イジュマ一に支持されるような形をとらなければならないが、現代の変動期にはこのような輿論がつくられる条件 はできていないようにみうけられる。 イスラム内部の緊張 イスラムの宗教と社会の発展は、正統派神学、法学のみをもって、一面的におさえることほできな㌧それほ一つ の主要な側面であるが、イスラムの内部で正統的イスラムとは区別される他の側面がある。これをイスラムの二つの ︵17︶ 形態と表現してもよいし、またほ二つの宗教運動といってもよい。ギブの説によると、一神教は、他者なる神の超絶 性という契機とともに、宗教経験における神の内在の契機を、緊張を含みながら宗教意識のなかに統合したものであ る。この緊頚はコーラン白身にみられるところであって、コーランは神の超越性を繰り返して強調する一方、神と 人との変、近接した関係を排除していない。イスラムはこの二つの極の間を振幅するものとして把えることができ る。前の極が厳格な正統的イスラム神学、法学のものとすると、後の極にスーフィズムが属する。これは正統派神 ︵18︶ 学、法学に対する反動という性格をもち、スミスほ両者を次のように対照している。すなわち正統的イスラムでほ社 会が中心となるが、スーフィズムでは個人の救いに重点がおかれる。また前者ほ歴史的、時間的であるが、後者は永 遠のものに、また前者のように神の権力でなくて、神の愛が、また前者のように実践でなく、人間の心情に重点がお かれる。とくに律法観に相違が甚しく、スーフィズムは法をもって神との神秘的合一に達するための個人の規律とみ なすものである、とその特質を明かにしている。スーフィズムは歴史的にみると、イスラム史の転換といわれるモン ゴル侵入後、イスラムの主要な宗教的形態となった。イスラム内のこの二つの景教思想系親ほすでに十一世紀末から 11(437)

(13)

十二世紀ほじめにGhaN邑坤.によって正統派の体系に綜合する読みがなされたが、その後の発展のなかでスーフィズ ムへの傾向はしばしば極端に走ることがあった。しかし社会全般には正統派神学、法学と均衡をとってスーフィズム が遼遠して行.ったと考えられる。ギブの見解によると、十七、八世紀にかけて両者が協調して発展しており、このよう に相互に高まったという点から、この時代をイスラムの衰退と看倣す一般論に反論して、むしろイスラムの内的な活 ︵18︶ 力=創造力を示すものと考えている。しかし十九世紀にかけて両者の緊張がゆるみ、神学、法学側の抵抗力が弱まり、 全体に活力の雫失があらわれる。この全般的衰退に対する反動現象として、宗教=社会改革運動としてのWabh洛干 ya がおこった、と論じている。同道動ほスーフィズムを非イスラム的要素として激しく排除し、イスラムを原始 教会時代の活力にあふれたテオクラシーに回復させることを目指したfuロdamenta︼isヨであった。ギブ、スミスほ これをもって近代における最初の重要な衝撃とみなし、それが外部からのものにに先行し、内部からの衝撃であった 点に注目している。一方スーフィズム自身イスラムの新開拓地域で活力を示し︵サハラ、西アフリカのT告nギa、 東部スダンのA邑rghaniya︶、現代においてほ、アフリカ化に適合したイスラムの形態として、黒人アフリカ地域に 目ざましく湊透している。なお今日キリスト教とイスラムの相互理解に好都合なイスラムの側の人間主義的思想とし て、スーフィズムが見直されている。

復 興 運 動

イスラムの近代的発展の始点ほ十八世紀半ばにおこった上述のワッハーブ運動 ︵WaFh診iya︶ において考えるこ とができる。十八、九世紀のイスラームほ、発展の活力が尺、きてしまい、自然的な崩壊の一歩まえというイメージで 把握されがちであ牒が、このような衰退のなかから、イスラムの﹁堕落﹂に対する強力な反動として、復興運動がお こっていた。これはイスラム内部からの活力を示すものとしてとくに注目される。従来の学説を貫く考え方は、イ (438)12:

(14)

_近代におけるイスラムについて スラムの近代が、外部=ヨーロッパからのインパクトによってはじめてひきおこされたとして、外部的条件を一方 的に過大視する偏向をもっており、イスラムの内部の自己発展の力を無視しがちであったことを、ギブ、スミスが 新しく批判している。この運動ほ復興運動の形態をとったが、その内容にほ正統的イスラムに対する改革主義がふく まれていることを見おとすことほできない。この新しい挑戦がイスラムの近代をつくりだしたものかどうかによって これをイスラムの宗教改革運動ともみることができるが、ムスリムの側も、西欧のイスラム学者も、これを指すた めイスラムの宗教改革という新しい宗教史、社会史のカテゴリーをこれまで提起していない。ワッハーブ運動の創掟 者M官﹂bn.AbdaTWahh註︵−ゴ慕T−謡ゴの思想ほイスラムの公認された四学派のなかでももっともピューリタ ン的な Hanba︼i学派に立つもので、後期イスラムのイジュマーを排除し、スーフィズムを反イスラム的要素として きに結びについて、、同運動ほ一八五七年﹁セポイの反乱﹂の主要な勢力となった。このようにこの運動はイスラム改 激しく攻撃し、聖廟の打ちこわしを行った。歴史的にみるとオスマン帝国の解体期を背景に、同帝国の権力の及びが ■ たいところの、西アジアでほもっと後進的なアラビア奥地が拠点となった。イスラム復興運動ほ、十九世紀にかけて イスラム各地で政権と教権をともに獲得してその一体化を目指す地方的叛乱に発展した。リビアのaTSan訝iの運動 ︵−∞畠︶、東部スダンのMahdi運動︵−∞∞−︶、インドのWahh筈運動がいずれもパラレルな性格をもっている。後者 の提唱者Sh告Wa−ギu︼︼叫h︵またほWa−iyuニ告−↓吉⊥謡N︶ほきわめて独自な建設的な思想家で、﹁時代の変化から おこる新しい条件に適合した形式をもって、しかも本来の基礎に合致する法と神学を再建するもの︵mOjadded︶﹂と称 ︵19︶ され、分立する宗派のスンニーとシーア派、および相反する傾向のイスラム法とスーフィズムの綜合を試みた。その 思想にはアラビアの宅ahF裟思想のような反スーフィー、反シーアの厳格さほない。この神学はムガール帝国の衰 退期を背景としたもので、のち、政治的反抗運動︵jih乳︶に発展したが、イギリスの史家によって、彼らは暴徒、反 抗者としてとりあげられてきた。没落した手工業者、農民を担い手とし、また一方で解体期の旧支配層の失地回復の動 ユ3 (439) ㌢■ _

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、、小I−1. ′叫〉1Lt/ † /∫ 草=復興運動であると同時に、植民地支配開始期のインド・ムスリムの抵抗運動であった。同運動の指導者たちほ、 パキスタン独立後の新しい歴史叙述のなかで、反スイク、反英の先駆的な民族的﹁殉教者﹂に位置づけられ、パキス ︵加︶ タン獲得にいたるインド・ムスリムの解放闘争史の第一章において光輝を与えられている。 ナショナリズムの開始期とイスラム アジアの近代が近代となったのは、全面的な帝国主義支配体制にくみこまれたことによってである。アジアの近代 が帝国主義支配によって条件づけられたという点が、西ヨーロッパの近代とほことなるし、また曲りなりにも帝国主 義の道にすすんだわが国の近代ともことなるといわなければならない。西アジア地域ではすでに十九世紀前半からヨ ーロッパ資本主義の打撃によって旧い支配構造と、旧い文化が瀕死の状態におちいっていたが、十九世紀末からいず れも植民地、ないし半植民地の地位におちこんだ。西アジアの社会、文化の近代的発展の基本的条件がここに出来上 った。他方帝国主義支配と同時に、西アジアの側でほそれに対する抵抗としてのナショナリズムが開始された。十九 世紀末のイスラムの新しい動向ほこのような歴史の転換にこたえるものであった。ワッハーブ運動以来うけつがれた 内部の純化、主体の教化が一層進められて反専制運動に発展するとともに、外部=ヨーロッパからの本格的支配に抵 抗するため、イスラムの擁護に訴えて民族的エネルギーを結集しなければならなかった。このような新しい方向を代 ︵21︶ 表した指導者がアフガーニー︵lam巴a−よぎaTAfgh矧n坤、−00∽讐1彗︶であった。十九世紀末ほ近代的ナショナリスト のリーダーシップが確立される以前であり、彼は反帝、反専制の運動の指導をウラマ﹂にもとめた。ウラマーほムス リム人民︵いまだ国民でなかった︶の指導者としてうけいれられていたため、この民族運動方式はとくにイランで成功 した。しかしこ打ために彼が伝統的イスラムの基盤を擁護し、近代的進歩に反対したとみることは余りにも一面的で ある。ヨーロッパを親しく見た彼はイスラムが弾力的であり、自主的に新しい歴史的条件に十分適応できるという白 (440)14

(16)

■ 近代におけるイスラムについて 信をもつようになった︵﹁ルナンに対する反論﹂︶。また近代西洋世界に対置されるイスラム世界というムスリムによる 近代世界史の独自の自覚形式ほ彼によってはじめ見出されたといわれる。彼ほまたコーランの旬﹁まことに神ほ人民 が自分の状態を変えない限り、人民の状態を変えほしない﹂︵十三章十二節︶を引用して、イスラムの衰退をムスリ ム自身の受動的態度の責任として、ムスリムに新しい自主的努力︵acti≦.Sm︶を鼓舞した。また萌芽的な地域的ナシ すナリズムを促進するとともに、イスラム共同体の理念のもとに、ナショナリズムの連帯を提唱した︵パン・イスラ ミズム︶。彼の新しいイスラムの理念ほこのようにつねに政治的革命行動と切㌢離すことができない。それは今日にい たるまでムスリムの伝統的タイプのナショナリストに基本的に共通する近代の指導理念であるということができる。 イスラム・モダニズム ﹁イスラム・モダニズム﹂の語は伝統的イスラムに対して、それと区別されるムスリムの近代改革運動を指す歴史 的概念で、ヨーロッパのイスラム学者によって一般に用いられるが︵Lammens、GO−dziher:Gibb.etc.︶、ムスリ ム自身の発想による語でほない。それと伝統的イスラムの問の区別も必ずしも明確でなく、それ自身いぐつもの傾向 を含む幅広いものであるが、一般的に、近代思想、近代的社会関係とイスラムの積極的な綜合を試みる近代的改革運 動とみることができる。伝統的イスラムと対照的に、イスラムの基本原理を自由に検討する権利、すなわち正統派に 公認された神学、法学の体系にかかわりなく近代思想をイスラム解釈に適用することを主張する。このためモダニズ ムほ個人的で、正統派のような教会組織をもたない、といわれる。プロテスタントは自分たちの教会をもち、またそ の牧師はブルジョアジーの一部を構成するのに対して、イスラムの場合、教会ほ伝統的イスラムのウラマーで占めら ︵22︶ れ、モダニズムの教会はみられない。このモダニズムは、十九世紀末、帝国主義の植民地支配確立のなかから、それ までのような政治的抵抗から離れて、近代改革に重点をおく新道動であった。その担い手として近代的な﹁中間階級﹂ 15 (441)

(17)

の登場が挙げられる。近代アジアの社会構成のなかで﹁中間階級﹂とほ何か、ということは社会科学の新しい大きな課

題であろうが、社会層として全体のなかではきわめて薄く、また経済的性格からも自らブルジョアジーの社会秩序を

つくり出す革命的な主体でなかっね.︵新官僚、大地主︶。モダニズムの思想的基調は自由主義である。しかしその自

由主義は社会のなかで限られたモダニスト個人を特色づけるとしても、それがムスリムの広い運動となるとき、自由

主義的側面が脱落したり、稀薄になるとスミスは批判している。その登場期には啓蒙的運動で、インド・イスラムの

モダニズムの初期を代表する Sir Sayyid Ahmad 只h抑ロ︵−00ー?浣︶ ほ、理性と自然法則に則ってコーランの啓示

を解釈した。これは伝統的イスラムとの遊離によって、また十九世紀イギリスの自由主義をモデルとしたことによっ ︵23︶ て特色づけられる。これとは姿勢を異にするエジプトのモダニズムの代表、Mhd●.Abduh︵−哲黙丁−害∽︶は﹁イスラ ムの基本的観念をすてることなく、西洋文明に内的に同化し、西洋的要素との綜合をなしとげようとするものであっ ︵24︶ た﹂。このような両者の差違はインドとエジプトの社会発展の差にもとづくものか、さらに具体的に前者が新官僚を 背景とする運動であったのに対し、後者がクローマ一時代に形成され上向しつつあった豪農層を背景としたためであ 想がほやくもやぶられる。西欧的自由主義が指導理念となりえたのほ、アジアでほおそくともナショナリ ︵25︶ るのか、同時代の社会史の一層の比較検討が必要であろう。なおこれらモダニズムは、教育、倫理、政治を含む何よ りも全体的な近代化改革運動であり、イスーフムの問題はその一側面にすぎず、切り離すことができない。モダニズム 初期は、自由主義がバラ色の幻想であった時代をあらわしている。政治的には今世紀初頭、近代的ナショナリストの 指導のもとに、トルコ ︵青年トルコ党︶、イラン ︵立憲革命︶、アラブ地域で、近代的国家を目指す運動が昂揚した。 しかし帝国主義は直ちに干渉し、改革の国民的な成果ほ外部の力によって奪いとられ、アジアにおける自由主義の幻 ズムが新し い歴史的段階を迎えた第一次大戦までであった。 (442)16

(18)

一I毀P ’ 「 近代におけるイスラムについて 現代におけるイスラムの発展 イスラムの現代がいつからはじまるかは、同地域の現代史がどからはじまるかということになる。その始点を第一 次大戦後のアジアのナショナリズムの劃期的なたかまりに求める見方が歴史学では一般的である。現代アジアにおけ る経済、政治、文化の思想史的特色ほ西欧的自由主義の後退としてあらわれている。アジアの現代の方向は、世界に 不均等な発展をもたらした帝国主義体制のもとでおこなわれたアジアの近代史を、今度はアジアの側から是正しょう とするもの、と考えることができる。これは第二次大戦後、世界史の新方向として一層明白になったということがで きるであろう。さて第一次大戦後の国際関係の変動のなかで、半植民地トルコほケマル体制を確立し、内部分裂して いたスルタン=カリフ帝国から近代的国民国家の建設に努力した。トルコ共和国は、はじめ政治権力としてのスル タン制をついで精神的統一の象徴、カリフ制を廃止してイスラム世界から離れ、sec已arizatiOnのコースに進んだ。同 様の方向ほイランにおいても、レザー・ハーン︵シャー︶独裁制のもとに進められた。しかしイランの場合、近代的 改革はトルコほど徹底しなかった。この時期にトルコ、イランではすでに弱体化していた伝統的碁盤︵ギルド、ウラ ︵26︶ マー、スーフィー教団︶が近代的国家統制によって大きな打撃をうけた。このケマリズムとレザー・ハーン体制は第二 次大戦において連合国の圧力で挫折し、イスラムについてみるとゆるやかな逆コースが指摘される。両大戦の間、イン ド・ムスリムは全インド的民族解放運動の発展のなかでインテリの間に、ムスリムとしての﹁民族的﹂︹もはや﹁コミュ ナリズム﹂ということほできない︶自覚がおこり、一九四〇年以降のパキスタン運動に発展する。この運動はMhd・ ︵27︶ Iqb巴︵−00諾⊥浩00︶に代表される。彼は近代西欧哲学をもってイスラムの基礎を現代的に再建する構想を提起した そのイスラム思想は保守化した古い世代のリベラルのものでなく、近代的機構のもとでフラストレインョンを感じて ︵28︶ いた青年インテリ層の未来の社会をつくる要求をあらわした。西アジア、およびパキスタンの現代を特色づける危機が 17 (443)

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明白になゥてくるのは琴一次大戦以後である。半世紀以上の歴史をもつリベラリズム︵社会思想と社会制度︶は大衆に 定着化せず、逆に多数の国民から反撥され、議会ほ保守的大地主のみによって占められ、進歩的改革︵とくに土地改革︶ を阻止するものであることが明白となった。一九五〇年代にはエジプト、シリヤ、イラク、パキスタン、トルコであ いついで﹁近代的﹂と考えられていた自由主義政府が軍部によってもろくも打倒されたことがそれを示している。現 代アジアのナショナリズムについては対外的な契機の重視とともに、国内の社会変動の表現として把握しなければな らないが、西欧側のイスラム学者︵ギブ、スミス︶ はこのナショナリズムの思想性格を一方的に否定的に評価しがち で、建設的な新しい力としてはみていない。西欧側からの批判は、ムスリムのインテリの、apO−Ogetics−に集中し、ア ︵29︶ ジアの知識人の歴史意識、文化意識の ﹁浅薄さ﹂、﹁ゆがみ﹂ を強く指摘する。スミスはそのようなムスリムの﹁混 迷﹂を、歴史家的態度をもってでなく、心理学的に分析するにすぎない。西欧のイスラム学者の間ではかって期待され たイスラム・モダニズムほその未完着が改めて認識され、またナショナリストによる上からのセキュラリゼーション 強行は社会のまとまりを破壊することが厳しく批判され、それとともに社会倫理を統合し、維持するものとしての伝 統的な正統的イスラムのもつ現代的可能性がギブによって改めて評価されている。イギリス的漸進主義からの発想に よるものであろうが、このギブの結論ほイスラムの現代の自主的な発展の可敵性を見出そうとする現実主義的な態度 をもっている。ヨーロッパ、アメリカのイスラム学者ほおおむね彼の基本線を支持しているように見受けられる。わ が国の研究者も近代、現代のイスラムに既成の宗教史、さらに社会史の観念ないし方法論をあてはめるだけでは現実 の在り方をとりにがすことになることを反省し、アジア・アフリカ地域の近代史、現代史の綜合的研究の発展のなか で、現代イスラムの新しい理論構成にとりかからなければならないであろう。西アジアのイスラムに関するこれま﹁で のわが国の研究の蓄積ほわずかであるばかりか、いまもって研究を統合し推進する中心機関を欠いたままである。宗 教学の側においても、他の社会科学の諸部門の研究者と相たずさえて、このための研究態勢をめざして積極的に準備 (4揖)1&

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近代におけるイスラムについて しなければならない。 経︵1︶ この講演はひきつづき寧黄昏恵ゝきき計畢已卜葺こ旨をざ︵ChicagO−芝這︶として出版された。なお同書はイスラ ムの宗教心理学的研究として基本的なものである。 ︵2︶ 竜乱電送 ↓ヽ芸詠町道 訂訂S︵ChicagO−軍マ フランス語訳、ト謡叫昌計莞内切SQ札内⋮内的計〓已白き tr・par寧 くernier︵Paris−冨豊. ︵3︶ イギリスのインド支配終末期のもので、﹁インドに輸入できない﹂本の一つであった。書評、拙稿﹃インド・イラン評論﹄ 三号︵一九五四︶ ︵4︶ 書評、拙稿﹃東洋学報﹄第四二巻四号︵昭三五・二こ。 ︵5︶ 西アジアの研究テーマに、最近は﹁変動﹂、﹁過程﹂、﹁発展﹂などの用語が一般に用いられるようになった。例えば、S・

N.Fisher︵ed.︶−桓害、已訂3叫3罫申㌧5q已内向e叫㍉知鼠QヽS,知昌Q、叫§q Cぎき琶︵WashingtOn−誤写 W・E↑aqueur

︵ed.︶−ゝ豊年慧灯h㌢婆ご言∴コ言豆乳法ミ ︵LOndOn−講書一その他。

︵6︶ H.A.R.Gibb−≧賀こ冒已旬等号邑ぎ禁句岩室ミS邑b已彗♪旨こ雷電﹂ぎ註≧ Cミ訂言 §q 哲c訂ぎ 邑.ざ

C.﹃Q常道喝︵Princet呂−冨−︶−pp.NN﹃−甲

︵7︶ 訂、白邑c知註乳Q記in Op.Cit.−p﹂−∽.詳しくは旨良き知註官軍こS室温慧−≧昌∴金蔓萱旨ぎⅥ首 Lざ写§単

︵PrincetOn Uniく.Bicentennia−COnference On Near Ea芝ern C亡言ure and SOCiety−冨ご.

︵8︶ Gibb−ゝ含計QSS乱白已旬S−p﹂芝. ︵9︶ 小口偉一﹁イスラム社会の結合様式﹂︵﹃宗教社会学﹄︶。 ︵10︶ ヽ巴軒S⊥ざ.迂ざ計3貞出芽き占 の序論。 ︵11︶ 荒松雄﹃インドの政治と社会﹄︵昭三四︶。P.Spear.ト已ざ∵さ鼓宴芸:§乱撃∑ヨ邑︵○已−器N︶, ︵12︶ 近代におけるイスラムの発展に関する思想史的アプローチについては、拙稿﹁近代酉アジアにおける思想運動とイスラム の役割﹂︵﹃近代アジア思想史講座﹄三巻、昭三六︶ ︵13︶ 旨訂冬空≦いコ馬琴慧−p﹂−. ︵14︶ 3岩㌣芸云?夢こ寿司§邑き買挙訂巨星∵㌻こ冒風習室邑きご誉よ⊇翠訂巨星−︵COrnel−Uniくー誤O p﹂器・ ︵15︶ 1.GOldziher−蟄c已§篭3軋.C篭彗岳邑ざ官長︵Leip已g−−讐岩︶の研究を継続したBa︼jOnの最近の研究。Man習連動 19 (445) .\ 賢 …−_

(21)

︵20︶ ︵21︶ ︵22︶ ︵23︶ ︵24︶ ︵25︶ ︵26︶ ︵27︶ ︵銅︶ ︵29︶ ︵19︶ ︵18︶ ︵17︶ ︵16︶ のコーラン解釈については、lJOmier−ト亀CQS§亀ミ乳ヽb Cミ§葺罠札家 宅§餌ミ 叫芸q§C設 営Q計⊇認 qm ∼.告知乳完 ⊇言已苫も空こ好這母 ︵Paris−冨£ の詳細な分析がある。 訂訂S叫c Cミぎ忘㌣:ギ已鱒温こ貫き岳 Cq麗3、ヽ叫缶切.−叫3、已QS・詩句哲⊇音更七已ぎed.byK.W.MOrgaコ︵N.Y﹂誤00︶. ≧ざ訂⊇∴﹁ pp−♪−00. −bid︸ p.Nひ. 代表的な著書、空畏ぎ∵聖㌫計 9・出巴肯ぎ︵CairO A−H﹂∽ひN︶.思想面の紹介として、L慧乳.亀b計叫、●−内包已Q⊇Q3軋 弓認叫箋33−﹂二 art.〇n Wa−iuニah.その宗教哲学について、A↑Ha−epOta−旬已、己息ぎミh訂計司已㌻、、註Part.− ︵Sindh Uni<.−諾∞︶. Paki芝an Hごt.SOC.︵ed一︶−染芝.ミ∴誉/ヨ恵き責﹄き慧表芸㌣h支倉こ訂∴ぎ三三ヽ遼計≒Sりぎ重さござこ ﹃ヽ完軋QSミ.ト訂3軋−b首料㌣蒜声道﹂宍−﹂﹀−ゴご﹁−00∽−︵Karachi−讃ご. 拙稿﹁西アジアのナショナリズムーアフガーニーのパン・イスラミズムを中心として﹂﹃思想﹄︵一九六〇・十二号︶ インド・イスラムについて、W.C.Smith.ゝき丸亀⊇訂訂S叫3︸3慧Q︸ p.N冨.

︼bid−Chap﹂−The MOくemeコt in faくOur Of COnteヨpOray出ritish Cu−ture.

望岩ミ.b≡ぢ箪息亭aぎごく﹂ヒ§き art.〇n Mhd.、Abduh.C.C.Adamsて㌢ざS串已二き峯等温芸:どh暫卓

中岡三益、﹁帝国主義と地主制﹂︵﹃アラブの現代史﹄、昭三国︶

A一K.S.Lambt雪ご ﹂オ訂さき∵妙音訂豆二言こ㌔羊孔 ︵Ldn.−誤£一J一M.UptOn−誤認.ミ∴弓已ぎ⊇﹂ざ芸︵HarくardMidd−e

Eastern MOn品raph Ser.−蓋−︶

率買ミ注ぎ告ぎ芸bヽ知丈おき垂∴コ訂長官ごg∼已璧.−悪声

W.C.Smith.ゝき札内⊇、乳.叫3、3丸首 chap.戸ヲ

G.E.くOn Grunebaum,訂、QS︵Lddこ一芸∽︶こhap這㍉詮ざ尽き急こ瓦工まぶ冒さ註芸㌻C芸、屯営甘言ヽk、已QS、

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六∴」ノしJ −● 斗 ㌧ぺ 宝蔵論の思想史的意義

一はしがき

宝蔵論ほ憎肇撰として伝えられているが、憎肇の真作でないことほ学界の定説となっている。宝蔵論の偽作の理由 ︵1︶ についてほ、湯用形教授をほじめとして、多くの学者によって論ぜられている。偽作の理由を要約するとつぎの五点 になるであろう。 射 出三蔵記集、歴代三宝紀、大唐内典録、由元釈教録、隋書・新旧唐書経籍志などに著録されていない。通志巻 六十七、宋史芸文志にはじめて著録された。 ② 宗密の禅源諸詮集都序などに、ほじめて引用されている。 ㈲ 日本比丘円珍入唐求法日録にはじめ七記載されている。 ㈲ 偽作の法旬経を引用している。 ㈲ 宝蔵論の思想の中にほ、華厳思想が含まれている。 以上の理由によって、宝蔵論の成立が唐代であろうと推定され、その選述者についてほ、明代の刊本に、﹁上部章 敬寺懐悍﹂の序文が附せられていること、禅宗の典籍に多く引用されている点などから、禅宗またほ禅宗に関係のあ

宝蔵論の思想史的意義

鎌 田

茂 雄

7 ■l一 ■l一 1 2 書一押隠

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る思想家であろうと推定されている。しかし宝蔵論がどのような思想的背景のうえに成立し、その撰述年代は何時で・22 ぁるか、またいかなる系統の人によ▲つて撰述されたか、何故に僧肇の名が用いられたか、などの理由については、何 嘲 “ らの解明がなされていない。わたくしほ宝蔵論の成立をめぐるこれらの問題を論ずるとともに、その思想史的意義を 明らかにしたいと思う。 二 宝蔵論の内容 宝蔵論の成立を論ずる前に、本論の内容と性格を簡単に紹介しておこうと思う。宝蔵論ほ、﹁広照空有品﹂﹁離徴体 浄品﹂ ﹁本際虚玄品﹂の三晶から成立している。宝蔵論は自らこのような名称の三晶をたてた理由について、 夫れ何を以て広照晶と名くならば、所謂、智鐙冤通し、悪日円照して物理を包含し、万霊を虚洞す。故に広照と言 う。何をか離徴品と謂うならば、所謂、性ほ真理を該ね、玄源を究責す。実際は沖虚本浄にして、染にあらざる故 に離徴と日う。何をか本際品と請わば、所謂、天真の妙理は、体豊にして修に非ず。性は本より虚通にして、万物 を含収す。故に本際晶と言うなり。この故に前の三晶を合して、一義に該収して、用を出すこと窮りなきを総じて 宝蔵と名く。 とのべている。宝蔵論の三晶はおのおの独立しているのでなく、三晶は宝蔵の一義の宜たらきにすぎない。宝蔵を冠 ,、︵3︶ ,,︵2︶ した名には、竺法護訳﹃仏説文殊師利現宝蔵経﹄や、元就吉迦夜共曇曜訳﹃雑宝蔵経﹄などがあるが、宝蔵論の﹁宝 ︵1︶ 蔵︻はこれらの経典の意味とは異なって、禅家の用法に近いと思われる。宝蔵は一切を具足し、しかも使用自在なる ︵5︶ ものであった。宗密は﹁蔵とほ宝性−法界蔵・起信心真如﹂であるといっている。宝蔵論ほ自ら﹁宝蔵一について、 ヽヽ 夫れ天地の内、宇宙の間、ヰに一宝あり。形山に秘在し、物の霊照を識り、内外空然、寂寛として見ること難し。 其を玄玄と号す♪ ∵.

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宝蔵論の思想史的意義 とのべている。さらに宝蔵論では、宝蔵を﹁真一﹂ ﹁離徴﹂という言葉であらわしている。しからば宝蔵論ほ、いか なる目的で善かれたのであろうか。論は自らその理由をのべて、 夫れ迷者は無我に我を立て、内に我倒を生ず。内に我倒を生ずるが故に、即ち聖理通ぜず。聖理通ぜざるが故に、 外に所立あり。外に所立有らば、即ち内外に擬を生ず。内外に凝を生ずれば、即ち物理通ぜず、遂に諸流を妄起し て、疑照に混じ、万象沈没して真一の宗乱る。諸見競い興って、乃ち流浪をなす。故に離徴の論を製して、体の幽 玄を顕わさん。学者深く思うべし。 とのべている。﹁真この宗が乱されることをおそれて、離徴の諭すなわち宝蔵論を説いた。宝蔵論の目的が、真一、 離徴の開顕であることは、この一文によって明瞭である。 ﹁広照空有品﹂とほ、真一が一切の物理を包含するとともに、その智が一切を照すからこの名がある。その冒頭に おいて、 空の空とすべきほ、真空に非ず。色の色とすべきほ真色に非ず。真色は形なく、真空は名なし、無名は名の父、無 色は色の母なり。万物の根源となり、天地の太祖を作れり。 とあって、﹃老子道徳経﹄の﹁道可道非常道、名可名非常名、無名天地之始、有名万物之母﹂の一文を、仏教的に変 容して用いている。宝蔵論の冒頭がこの一旬ではじまることは、論の性格を適切に示していると云うべきであろう。 宝蔵論には老荘思想が多く採用されていることは、常識であるが、さらに﹁五行﹂についてもの.べられている。ちなみ ︵6︶ に、この﹁五行﹂は六祖薯能説﹃金剛経口訣﹄にもあらわれている。つぎに ﹁真﹂ を無相として把握し、莫妄不二を ︵7︶ 説いている。真妾不二を説明するに、仏教経典でなされている水と氷の比喩を用いている。真妄不二は大乗仏教思想 の根本をあらわすものであり、﹁託公和尚十四科頒﹂のなかには、菩提・生死・真俗・迷悟の不二などが説かれてい る。なお蔦葛に濁する諸濠の学説ほ、﹁貴賓頗﹂をめぐる問題として、ヰ唐において重要な一課題であっ七。ついで 23 (449)

(25)

宝蔵論は、真に入るための真、隣、聞の三学道について論じた8 これはおそらく仏教の閉息修あたりからとりて、道 教的に変容したものであろう。ついで学道の道を説明するに、無心、無根、無体、無事、無意、非内非外、非小非 大、非一非異などの否定詞によっている。道は無限定的なものとして把握され、それに限定を加えるところに道を失 ぅ所以があるという。この道を体得し七人を真人というとのべ、道教の真人の語を用いている。 つぎの第二離徴体浄晶ほ、離微を説明したもので、離徴の本性を否定詞によって表現し、椎摩の黙然に相当すると なし、あるいは老荘の沖虚寂実にあてはめ、さらに離と徴を区別して、離を真空、徴を妙有的に理解した。つぎの第 三本際虚玄品では、本際を説いたのであり、この本際は、仏性と同義語とされ浬欒︵n山rく眉a︶、法界 ︵dFarma− dh警n︶、如来蔵 ︵tatF園内ata−garbha︶ などとも同一である。本際はまた ﹁真この異名であり、論は真一につい て説く。また第三晶にほ、念仏が説かれている。これは.、鳩摩羅什訳 ﹃仏蔵経﹄ 巻上に説かれた念仏・念法・念 ︵8︶ 僧品 ︵大正一五・七八四a以下︶ などの思想にもとずくのであろうか。因みに禅宗では、﹃達摩禅師観門﹄や、﹃暦 ︵9︶ 代法宝記﹄などにも説かれているので、これらの思想と宝蔵論との類似が見られるであろう。 以上のべたように宝蔵論の目的ほ、本際、真一、離徴を説いたのであり、用語は老荘的なものを多く用いている が、その思想ほ明らかに一乗仏教にもとずく。その点を明確にするために、修道論を見てみよう。論は邪見によって 真一の宗が隠れることをのべ、そのあとに、 是を以て離に迷て妄に染する者は、所謂凡夫なり。染に迷て妄に離する者は、所謂二乗なり。本性の離に達する者 とは、所謂菩薩なり。了了として三乗無異なりと見知する者ほ所謂平等の真仏なり。 とのべている。三乗異なることなしと知るものこそ真仏であるといっているが、これは明らかに一乗の立場をあらわ す。本際品では、.﹁一切衆生皆一乗より生ず﹂といっている。華厳学でいえば、同数一乗の思想である。なおここに ︵10︶ 用いられている﹁真仏﹂とは、超越的な仏でなくて、識心見性した人を意味するのであろう。宝蔵論の一乗は、法華 (450) 2塵

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宝蔵論の思想史的意義 経などの伝統にもとずくのであろうが、心の空なることを究明する立場を一乗としたのである仏心を一乗とする思想 ︵11︶ ︵12︶ ほ、慧光の﹃大乗関心顕性頓悟真空論﹄などにもあらわれ、また三乗の所説でなく一乗であるとは、﹃横伽師資記﹄ にも見られる。おそらく宝蔵論ほこれらの影響によったのであろう。また宝蔵論は、絶対的な立場から小乗の棄つべ きでなく、旗悩の断ずべきなき点をのべて、 夫れ道を修する者の煩悩を断じて、菩提を求め、小乗を棄てて大用を窺わずと云うこと莫れ。然も妙理の中、都て 此事なし。離を体する者、本、煩悩の断ずべき、小乗の葉つべきなく、微を体する者、菩提の求むべき、大用の窺 うべきなし。 といっている。史実でほないが、憲能の侶と伝えられる﹁菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵填﹂ ︵大 正四八二二四九a︶の一旬を想起せしめる。ここに宝蔵論の立場が明確にでていると思う。僧肇の肇論ではとうてい到 達し得ない境地を、宝蔵論ほ喝破していると云えよう。 三 宝蔵論に引用された詩経 宝蔵論の性格や、成立を究明するためにほ、宝蔵論の背景思想を考察しなければならない。背景思想の究明には、 いろいろな方法があろうが、ここでは主として引用経典について論究したいと思う。宝蔵論に引用された経典を明ら かにすることが、第六節の宝蔵論の撰述問題と深い関係をもち、重要な意義をもつのである。 宝蔵論には、三十四回にわたって経典が引用されているが、経名をあげているのほ絶無である。引用された経典が いかなる経典であるかを検出することほ、わたくしのように経典の知識がないものには、きわめて困難であるが、わ たくしに分った範囲においてこれを論ずることにしたい。 宝蔵論に引用された経典は偽経が多いのでほないかといわれているが、必らずしもそうではなく、正経の文句を正 25 (451)

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確に引用している。そこでまず正緩からの引用を検出して見ると、もっとも多く引用されているのが推摩経である。 まず広照空有晶の末尾にある 経云、随其心浄、則仏土浄、 ︵13︶ とあるのほ、鳩摩羅什訳﹃椎摩詰所説経﹄仏国晶第一の言葉と完全に符合する。この維摩経の一文は、﹃樗伽師資記﹄ ︵14︶ ︵大正八五二二八三b︶ の中にも引用されている。この推摩経の思想は、華厳の李通玄に影響を与えた。また、つぎ に宝蔵論第二晶のなかに、 経云、色即是空、非色滅空、 とある文は、維摩経入不二法門品︵大正一四・五五一a︶ の書見菩薩の言葉として、 ヽヽヽヽヽヽヽヽ 書見菩薩日、色色空為二、色即是空、非色滅空、色性自空、如是受想行識識空為二、識即是空、非識滅空、識性自 空、於其中而通達者、是為入不二法門、 とある中からとったのである。そのあとにつづいて、 経云、起唯法起滅唯法滅、 とあるのは、同経巻中の﹁文殊師利間疾晶﹂ ︵大正一四・五四五a︶ の ヽヽヽヽヽヽヽヽ 応作是念、但以衆法、合成此身、起唯法起滅唯法減、 のなかから引用したもので、その引用は正確である。また第三晶中に、 又云、一念知一切法也、 とあるのは、同じく巻上﹁菩薩晶﹂ ︵大正一四・五四三a︶ の ヽヽヽヽヽヽ 一念知一切法、是道場成就一切智故、 である。ただし、この句ほ采の法賢訳﹃仏説仏母宝徳蔵般若波睾蜜経﹄巻中︵大正八・六八OC︶の、 (452) 26

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宝蔵論の思想史的意義 ヽヽヽヽヽヽヽ 於一念知一切法、信仏所説及他説、 とある文からの引用であるかも知れない。つぎに第三品中に、 経云、彼見諸仏国土、及以色身而有若干、其無凝慧無若干也、 とあるのは、維摩経巻下二菩薩行品﹂ ︵大正一四・五五四a︶の 阿難、汝見諸仏国土、地有若干、而虚空無若干也、如定見諸仏色身、有若干耳、其無擬慧、無若干也、 ︵15︶ とある文を取意して引用したものにほかならない。この練磨経の一文ほ宗密も引用している。つぎに第三晶に、 経云、誓如根敗之士、其於五欲、不能複利、 とあるのは、同経巻中の﹁仏国品﹂ ︵大正一四・五四九b︶ の、 ヽヽヽヽヽ 我等今者不復堪任発阿縛多羅三貌三菩提心、乃至五無間罪、猶能発意生於仏法、而今我等永不能発、響如根敗之 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 士、其於五欲、不能複利、 とある文からの引用である。そのほか第三晶の、 経云、観身是相、観仏亦然、 は、阿閑仏品第十二︵大正一四・五五四C︶の 観身実相、観仏亦然、 の引用であることは、明らかである。この一句ほ、第五節でのべるが、牛頭法融の絶観論に引用されている。以上ほ 羅什訳椎摩経から正確に引用している七例をあげた。これを見ても宝蔵論の経典引用が正確になされていることが明 らかである。宝蔵論が維摩経を数多く引用している点から見て、両者には共通の面があったのであろう。老荘思想の 伝統の強い甫地の人々が、維摩居士の自由な境地にあこがれた雰囲気と、宝蔵論の思想には類似が認められるであろ ぅ。雁摩経入不二法門晶︵大正一四・五五一。︶において、不二法門に入るにほ、無言無説でなければならないと説い ソ、 , /′ −・l ㌧.. 27 (453)

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ているが、この思想ほ、宝蔵論にもあらわれており、また絶観論などに見られる払 ちなみに浄衆宗において酸鼻経 ︵16︶ の註釈が多く読まれたことなどは、椎摩経仏国晶に説かれた直心、探心の浄土観の影響でもあろうか。宝蔵論が維摩 経を多く引用していることほ、後にのべる如く、中庸の椎摩経の註釈に、僧肇が数多く引用されていることと深い関 係があるように思う。 つぎに金剛般若経からの引用を指摘しょう。第二品に、 経云、仏説非身、是名大身、 とあるのは、鳩摩羅什訳の﹃金剛般若波羅蜜経﹄︵大正八・七四九C︶ の、 ヽヽヽヽヽヽヽヽ 須菩提言、甚大世尊、何以故、仏説非身是名大身、 とある経文の引用である。金剛経の引用ほこの一句しか見当らない。つぎに第二品に、 経云、随宜説法、意趣難解、 とあるのほ、羅什訳﹃妙法蓮華経﹄方便品第二︵大正九・七a︶ の、 諸仏随宜説法、意趣難解、 である。ちなみにこの言葉ほ、道教思想の混入がみとめられる敦燈本﹃真言要訣﹄巻三︵大正八五・一二三一b︶の なかにも引用されている。また、第三晶に、 経云、三界虚妄不実、唯一妄心変化、 とある文ほ、ただちに華厳経十地品の偽を想起せしめるが、これに相当する句ほない。竺法護訳︵大正一〇・四七六b︶ では、 其三界者、心之所為、其計於斯十二縁起、 とあり、羅什訳︵大正一〇・五一四C︶でほ、 (454) 2&

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