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再び擁護している︒ 以上︑この重目の大綱を要約した︒ @ しかり重目 が︑ ハ @ インⅠ ニ ーやウェーバーからすすんで︑
新 らたな
宗教を中心とする文化が ︑ 他の文明に土着することに 関する 者 察 である︒文明の水平的な接触は闘争に終始する 非創 造 的なも のであるが︑それは宗教によって超克される︑と著者 は 主張す る ︒﹁西洋文明のなかに西洋を超えたもの︑つまり
しかし︑ある文化が﹁おる文明から︑他の文明に移植 とおも う ︒﹂と云う︒ つくならば︑西洋化の問題が創造的に解決されるので なり︑日本なり︑中国なり︑イソ ド なりの土着へ注入 されて 根 は るってもなお成り立ち ぅ るようなものがあり︑それ が ロシヤ 西 洋 をとり さ れて︑
土着すること﹂は︑文化の変質︒すすんでは︑ 異 たっ た 文化の 誕生と︑どれほど異なるの て あろうか︑シュベ ソダラ ンビーがら︑どれだけ歩を進めているのか︑明確でな いように 思われる︒著者のトインビーへの心酔は︑彼自身の意 見と︑ト イ ンビーを紹介または引用する部分とが︑ 判殊と 区別 されない なっている ト イソビーの諸蕃 は ︑著者の意図が祖述者 たるにあ るのでないとすれば︑厳密に著者の立場の外に置かな るまい︒この点の酸味さが︑この 書 全体に顕著である この書は︑トインビ 一 への入門書として︑あるいは
ト イソ
ビ l0 解説書として読まれると き ︑よりはっきりした
焦 点と興味
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この書については︐すでに﹁宗教研究︒二六八号の展望 欄 で︑ 上
田 賢治氏が︑アメリカにおける宗教心理字の現況をの べられた
さいに︑精神分析学派の分野の一成果として紹介され た ︒著者
エリクソンは︑アメリカの有名な心理子者で︑精神力 析 学派に
属する児童心理学・発達心理学・教育心理学の専門家 として︑
以前からわが匡でもこの分野の研究者たちには︑広く 名 な知ら
‑ いる人である︒児童の発達についての教育心理 @ 字 の 一曲Ⅱ め冊
的 研究者として︑比較的地味な分野で活躍してきた ェ り クソン
が ︑世界的な思想家マルティン・ルターを研究対象に 選んだこ
とは︑そのこと自体がきわめて興味あることがらであ る ︒たし かに︑心理子者によるルター研究が︑これまでにもいく っ か行な
われたことは事実である︒しかし︑それらのほとん どすべて
が ︑今日なんらの積極的な評価も得ていないとい 5 こ とも︑ ま
た ルター研究の分野での常識となっている事実である 0 エリク
ソン の研究も︑それらの無益な徒労のひとつに数え も れなけれ
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曲が ロド Ⅰ 叶ゴのぺ(542)
115
ばならないものなのであろうか︒
世界史的な思想家のなかで︑ルターほど︑それについ ての 評 価 が分裂し︑対立し︑しかもいまなお不分明な問題を
残して︑全体がひとつの白熱したるう ぼ のなかで沸騰
というような思想家は︑あまり見当らないであろう
ノン
は ︑いわばまだなまなましく現代に生きているのでお る ︒それ どころか︑むしろ︑いよいよ拒否しさることのできな
現実性を主張しつつ︑現代人の思想的混乱のなかで 生 ぎっ づ け
るのであろうと思われる︒その語の真の意味での思想 家 とは︑
この ょう に現代に生きている思想家でなければならな ぃ はずで ある︒従って︑そのような思想家を研究の対象とする ことは︑ その思想家をまず殺してから解剖するような︑いわゆ る 純粋 客 観 的研究であってはならないだろう︒なによりも︑ そ の ︑思想 史的に生きている思想家を︑現実に生かす ょ >r> な 研究 でなけれ
ば 意味がないのである︒
テスタ ソト 派の神字的研究がそのほとんどを占めてい るのであ 思想の研究︑とくにある個別具体的な思想家の研究に おいて は ︑研究者とその思想家との関係︑つまり︑なぜその 研究者は その思想家を研究対象としたのか︑がもっとも根本的 な 問題と なる︒四百年余にわたるルター研究 更 にあっては︑ 当 然に イ ンロ 許 るが︑これは︑ルターを始祖と仰ぐ彼らキリスト 者たちが︑ 自 分らの依拠する思想的・神学的根拠を ︑ ルターの体験 と 思索の
なかに見出すからである︒そして︑キリス卜者の一典 型 として
書の
ルターの苦悩と歓喜を追体験することによって ︑自己をキリ ス 卜者として高めようとするところに マ 彼らのルター 研究の根本的 副用が根ざしているのである︒
心理学者 ヱ リクソ ソ のルター研究は︑いうまでもなく ︑神学 的ではなく心理学的であり︑精神分析学的なものであ
し ︑従来の精神分析字の系統の ニ ・三の字者のルター 研究が ︑ ルターを︑異常な精神病者として︑もっぱら病理学的 観点か ら︑ 彼の行動の大部分を占めるノーマル な 部分を無視 して︑ ア グ ノーマルと彼らが認識した部分だけを︑特に取りあ げて論じ たようなふ う には︑ ヱりクソソ の研究は︑精神分析 @ 字 的ではな い ︒エリクソンの問題関心にとって ︑ ルターは︑冷静 に 分析の メスを入れることのできる客体的対象ではなく︑ ヱリ ク ︐ソン 自 身の思想のありかたにかかわりをもち︑現代人とし ‑ ︐︑ の彼の全 人間存在が対決している︑現代的・時代的問題につい ての関心
0 対象にほかならないのである︒
彼は︑この木を書こ うと 思いたった根本的動機につい て︑そ れは︑若い時代に体験したある出来事への寄与をした い 気持で あると︑序言でのべている︒その体験というのは︑ 彼 ぷ Ⅰ土日 午時 代に ︑上部ライン地方のある村の友人宅で一夜すごし た 翌朝︑
友人の父でも 石 改革派教会の牧師が ︑ ルター訳のド 々 ッ 語で主 の 祈りをあげるの 甘 聞いたと き ︑それまで幾度となく 耳 にして いるその言葉のひびぎに︑突然非常な感動を覚えた︑ という 出 来 事である︒彼は ︑ " 美的なものと倫理的なものとが 融 げこん 鱒 でいる詩文のなかに生きている︑ひとつの全体的な精 神 " を感
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ある人なら︑私の云っていることを 分 ってくれるだ る ラガと彼 は 書いている︒この体験は若い ェ リクソ ソ の心の奥底 に 沈み︑ 彼がそのことの本来の帝主我に気づくことができるほど に 成長す るまで︑彼の心のなかに身をひそめている︒それは︑ ヱりクソ ンの 成長を糧としてそれ自身成長し︑やがて時を得て ︑ひとつ の姿を帯びて現われでてくる︒ " 宗教改革は︑われわれの時代の初まりであり︑われ ほ ︑その宗教改革を完全に生 き ぎってもいなければ︑ 生 ぎぬ ぃ てもいない︒そういう宗教改革の︑なにかあるエッセ ソス を 把 揖 したいというひとつの試み " がこの著書となった ︑ と 彼は云 二 ・︑いる︒ ェ リクソ ソ のルター研究が︑従来までの 心 理学者の それとは︑いかに本質的に異ったものとなるかという ことは︑ この舌口七車 @ からあ ま @ Ⅰらかで古兵 りろとコソ ︒ ェ リクリ @ ン にとっ て ︑心理 学 ︑特に精神分析 学は ︑あくまでも方法なのであり︑々 下散改革
エリクソンの意識のなかで大きな位置を占めていた︒ だ ろ う こと は ︑よういに想像できることである︒一九二五年に初 版 のでた
この " 若きルター " は ︑ ルター研究史上において︑ 不 動の地位㎎ を 与えられている︒ルターの生涯についての史料的 考 証は︑この 研究書をもってほとんど完了したとされ︑史料文献
これ以上に評価されるものはほか仁はない︒ ヱリグソ ソの 研究
においても︑ 新 らしく発見された史料はほとんど見当 らず︑ 研
究 資料だけを問題にした場合︑全面的にべ 一 マーに 負 ぅてい
る ︒ ニ リクソンの研究の新らしさ︑ルター研究史上に おけるそ
の 意義は︑新史料の発見というようなことにあるので はなく︑
ひとえに︑史実的に確定されたルターの諸行動の解釈 の新 らし
さとその学問的・客観的な説得陸にあるのである︒
歴史上の諸人物の多くがそうであるよ う に ︑ ルター おいて も︑ 特にその生涯の前半については︑ごく限られた︑ しかも 大 部分は漠 妹 とした資料が残されているだけである︒ そ れゆえ︑
その人物の生活を可能なかぎり再現し︑その人物の﹁ 人間 1 一に
ついてひとつのイメージを得ようとすると き ︑いかな る 研究の
立場に立とうとも︑多かれ少なかれ︑推察的操作をほ ︒とこすこ
とを免がれることはできない︒ある時間の経過を置い ‑ ﹂二つの
行動があり︑そのさい︑それらの二つが︑表面的・ 常 識 的な論
理の文脈の う えでは︑どうしても非連続であるとしか 考えられ
ないような場合︑当然そこに︑それらの 一 ちの行動を 結びつけ
ることが可能となる︑ 新 らしい論理が登場してこなけ ればなら
ない︒ここで問題となるのは︑その新解釈のよって 立 つ ︑人間
行動についての理論が︑どの程度に普遍的な宿運 性を 主張しう
る 仮説であるのか︑ということである︒