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ドキュメント内 『宗教研究』171号(35巻4輯) (ページ 118-129)

  

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再び擁護している︒  以上︑この重目の大綱を要約した︒  @ しかり重目  が︑  ハ @ インⅠ  ニ ーやウェーバーからすすんで︑ 

新 らたな 

  

   宗教を中心とする文化が  ︑ 他の文明に土着することに  関する  者  察  である︒文明の水平的な接触は闘争に終始する  非創  造 的なも  のであるが︑それは宗教によって超克される︑と著者  は 主張す  る ︒﹁西洋文明のなかに西洋を超えたもの︑つまり 

しかし︑ある文化が﹁おる文明から︑他の文明に移植  とおも  う ︒﹂と云う︒  つくならば︑西洋化の問題が創造的に解決されるので     なり︑日本なり︑中国なり︑イソ  ド なりの土着へ注入  されて  根  は るってもなお成り立ち  ぅ るようなものがあり︑それ  が  ロシヤ  西 洋  をとり  さ れて︑ 

土着すること﹂は︑文化の変質︒すすんでは︑  異 たっ  た 文化の  誕生と︑どれほど異なるの  て あろうか︑シュベ  ソダラ     ンビーがら︑どれだけ歩を進めているのか︑明確でな  いように  思われる︒著者のトインビーへの心酔は︑彼自身の意  見と︑ト  イ ンビーを紹介または引用する部分とが︑  判殊と  区別  されない  なっている  ト イソビーの諸蕃  は ︑著者の意図が祖述者  たるにあ  るのでないとすれば︑厳密に著者の立場の外に置かな     るまい︒この点の酸味さが︑この  書 全体に顕著である     この書は︑トインビ  一  への入門書として︑あるいは 

ト イソ 

ビ  l0  解説書として読まれると  き ︑よりはっきりした 

焦 点と興味 

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この書については︐すでに﹁宗教研究︒二六八号の展望 欄 で︑ 上 

田 賢治氏が︑アメリカにおける宗教心理字の現況をの べられた 

さいに︑精神分析学派の分野の一成果として紹介され た ︒著者 

エリクソンは︑アメリカの有名な心理子者で︑精神力 析 学派に 

属する児童心理学・発達心理学・教育心理学の専門家 として︑ 

以前からわが匡でもこの分野の研究者たちには︑広く 名 な知ら 

‑ いる人である︒児童の発達についての教育心理 @ 字 の 一曲Ⅱ め冊 

的 研究者として︑比較的地味な分野で活躍してきた ェ り クソン 

が ︑世界的な思想家マルティン・ルターを研究対象に 選んだこ 

とは︑そのこと自体がきわめて興味あることがらであ る ︒たし  かに︑心理子者によるルター研究が︑これまでにもいく っ か行な 

われたことは事実である︒しかし︑それらのほとん どすべて 

が ︑今日なんらの積極的な評価も得ていないとい 5 こ とも︑ ま 

た ルター研究の分野での常識となっている事実である 0 エリク 

ソン の研究も︑それらの無益な徒労のひとつに数え も れなけれ 

谷口 

茂 

  

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㊥Ⅱレガ 出 ・㊥円円 岸 ㏄ 0 局 @ ぺ 0 

由品ワ 

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(542) 

   115 

     

  

  

  

    

ばならないものなのであろうか︒ 

世界史的な思想家のなかで︑ルターほど︑それについ ての 評  価 が分裂し︑対立し︑しかもいまなお不分明な問題を   

  残して︑全体がひとつの白熱したるう ぼ のなかで沸騰   

というような思想家は︑あまり見当らないであろう 

ノン 

は ︑いわばまだなまなましく現代に生きているのでお る ︒それ  どころか︑むしろ︑いよいよ拒否しさることのできな   

現実性を主張しつつ︑現代人の思想的混乱のなかで 生 ぎっ づ け 

るのであろうと思われる︒その語の真の意味での思想 家 とは︑ 

  この ょう に現代に生きている思想家でなければならな ぃ はずで  ある︒従って︑そのような思想家を研究の対象とする ことは︑   その思想家をまず殺してから解剖するような︑いわゆ る 純粋 客  観 的研究であってはならないだろう︒なによりも︑ そ の ︑思想  史的に生きている思想家を︑現実に生かす ょ >r> な 研究 でなけれ 

ば 意味がないのである︒ 

テスタ ソト 派の神字的研究がそのほとんどを占めてい るのであ  思想の研究︑とくにある個別具体的な思想家の研究に おいて  は ︑研究者とその思想家との関係︑つまり︑なぜその 研究者は  その思想家を研究対象としたのか︑がもっとも根本的 な 問題と  なる︒四百年余にわたるルター研究 更 にあっては︑ 当 然に イ ンロ  許 るが︑これは︑ルターを始祖と仰ぐ彼らキリスト 者たちが︑ 自  分らの依拠する思想的・神学的根拠を ︑ ルターの体験 と 思索の 

なかに見出すからである︒そして︑キリス卜者の一典 型 として 

書の 

ルターの苦悩と歓喜を追体験することによって ︑自己をキリ  ス 卜者として高めようとするところに マ 彼らのルター 研究の根 

本的 副用が根ざしているのである︒ 

心理学者 ヱ リクソ ソ のルター研究は︑いうまでもなく ︑神学  的ではなく心理学的であり︑精神分析学的なものであ   

し ︑従来の精神分析字の系統の ニ ・三の字者のルター 研究が ︑  ルターを︑異常な精神病者として︑もっぱら病理学的 観点か  ら︑ 彼の行動の大部分を占めるノーマル な 部分を無視 して︑ ア  グ ノーマルと彼らが認識した部分だけを︑特に取りあ げて論じ  たようなふ う には︑ ヱりクソソ の研究は︑精神分析 字 的ではな  い ︒エリクソンの問題関心にとって ︑ ルターは︑冷静 に 分析の  メスを入れることのできる客体的対象ではなく︑ ヱリ ク ︐ソン 自  身の思想のありかたにかかわりをもち︑現代人とし ‑ ︐︑ の彼の全  人間存在が対決している︑現代的・時代的問題につい ての関心 

0 対象にほかならないのである︒ 

彼は︑この木を書こ うと 思いたった根本的動機につい て︑そ  れは︑若い時代に体験したある出来事への寄与をした い 気持で  あると︑序言でのべている︒その体験というのは︑ 彼 ぷ Ⅰ土日 午時  代に ︑上部ライン地方のある村の友人宅で一夜すごし た 翌朝︑ 

友人の父でも 石 改革派教会の牧師が ︑ ルター訳のド 々 ッ 語で主  の 祈りをあげるの 甘 聞いたと き ︑それまで幾度となく 耳 にして  いるその言葉のひびぎに︑突然非常な感動を覚えた︑ という 出   来 事である︒彼は ︑ 美的なものと倫理的なものとが 融 げこん 鱒  でいる詩文のなかに生きている︑ひとつの全体的な精 神 " を感   

  

たことのⅡ 

  

  

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ある人なら︑私の云っていることを  分  ってくれるだ  る  ラガと彼  は  書いている︒この体験は若い  ェ リクソ  ソ  の心の奥底  に  沈み︑  彼がそのことの本来の帝主我に気づくことができるほど  に  成長す  るまで︑彼の心のなかに身をひそめている︒それは︑  ヱりクソ  ンの  成長を糧としてそれ自身成長し︑やがて時を得て  ︑ひとつ  の姿を帯びて現われでてくる︒  " 宗教改革は︑われわれの時代の初まりであり︑われ     ほ  ︑その宗教改革を完全に生  き  ぎってもいなければ︑  生  ぎぬ  ぃ  てもいない︒そういう宗教改革の︑なにかあるエッセ  ソス  を  把  揖  したいというひとつの試み  "  がこの著書となった  ︑  と  彼は云  二  ・︑いる︒  ェ  リクソ  ソ  のルター研究が︑従来までの  心 理学者の  それとは︑いかに本質的に異ったものとなるかという  ことは︑  この舌口七車  @ からあ  ま @ Ⅰらかで古兵  りろとコソ  ︒  ェ リクリ  @ ン  にとっ  て  ︑心理  学  ︑特に精神分析  学は  ︑あくまでも方法なのであり︑々  下散改革 

    

エリクソンの意識のなかで大きな位置を占めていた︒  だ  ろ  う  こと  は  ︑よういに想像できることである︒一九二五年に初  版  のでた 

この " 若きルター " は ︑ ルター研究史上において︑ 不 動の地位㎎   を 与えられている︒ルターの生涯についての史料的 考 証は︑こ 

の 研究書をもってほとんど完了したとされ︑史料文献   

これ以上に評価されるものはほか仁はない︒ ヱリグソ ソの 研究 

においても︑ 新 らしく発見された史料はほとんど見当 らず︑ 研 

究 資料だけを問題にした場合︑全面的にべ 一 マーに 負 ぅてい 

る ︒ ニ リクソンの研究の新らしさ︑ルター研究史上に おけるそ 

の 意義は︑新史料の発見というようなことにあるので はなく︑ 

ひとえに︑史実的に確定されたルターの諸行動の解釈 の新 らし 

さとその学問的・客観的な説得陸にあるのである︒ 

歴史上の諸人物の多くがそうであるよ う に ︑ ルター おいて  も︑ 特にその生涯の前半については︑ごく限られた︑ しかも 大  部分は漠 妹 とした資料が残されているだけである︒ そ れゆえ︑ 

その人物の生活を可能なかぎり再現し︑その人物の﹁ 人間 1 一に 

ついてひとつのイメージを得ようとすると き ︑いかな る 研究の 

立場に立とうとも︑多かれ少なかれ︑推察的操作をほ ︒とこすこ 

とを免がれることはできない︒ある時間の経過を置い ‑ ﹂二つの 

行動があり︑そのさい︑それらの二つが︑表面的・ 常 識 的な論 

理の文脈の う えでは︑どうしても非連続であるとしか 考えられ 

ないような場合︑当然そこに︑それらの 一 ちの行動を 結びつけ 

ることが可能となる︑ 新 らしい論理が登場してこなけ ればなら 

ない︒ここで問題となるのは︑その新解釈のよって 立 つ ︑人間 

行動についての理論が︑どの程度に普遍的な宿運 性を 主張しう 

る 仮説であるのか︑ということである︒ 

ドキュメント内 『宗教研究』171号(35巻4輯) (ページ 118-129)

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