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『宗教研究』新第10巻第2号(*74号)

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(1)

――目次――

1,

ロマ書第七章とパウロの回心の問題,佐野勝也,Katsuya SANO,pp.1-23.

2,

唯識哲学の称呼について,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.24-35.

3,

イスラエルにおける預言者運動の興起と国難,松井了穏,Ryōon MATSUI,pp.36-47.

4,

嘉祥大師の波若観,中田源次郎,Genjirō NAKATA,pp.48-74.

5,

造寺司の社会経済史的考察,造東大寺司を中心として,竹内理三,Rizō TAKEUCHI,pp.75-101.

6,

安慧の識転変説について(承前),長尾雅人,Gajin NAGAO,pp.102-116.

7,

景教研究の歴史と現状,佐伯好郎,Yoshiro SAEKI,pp.117-143.

8,

現代宗教社会学の動向,フランス学界を中心にして,古野清人,Kiyoto FURUNO,pp.144-162.

9,

宇井博士著『印度哲学史』,山本快龍,Kairyū YAMAMOTO,pp.163-165.

10,

金倉教授の近業『吠檀多哲学の研究』,桜井善晃,Teruyoshi SAKURAI,pp.166-177.

11,

初期大乗経典の原形について,椎尾辨匡博士著『仏教経典概説』を読む,塩見徹堂,Tetsudō

SHIOMI,pp.178-188.

12,

オツトーにおけるヌミノーゼの感情,竹園賢了,Kenryō TAKEZONO,pp.189-197.

13,

壷月渡辺海旭君,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.198-200.

14,

壷月渡辺海旭君,椎尾辨匡/荻原雲来,Benkyō SIIO / Unrai OGIWARA,pp.201-205.

15,

新刊紹介,pp.206-220.

(2)

∴ 使徒。ハウロの同心の状態に就いては、使徒行倦にも詳細なる記述があけ∴.ハウ甘自身も簡単ながらガラテヤ書 中に記述して居り、犬髄の推定を下すことは不可能では無い。然しながら、同心へ壷るまでの彼の心理過程如何 の問題となれば、これを詳細にすべき直接の資料は、遺憾ながら輿へられて居ない。従って、これに封しては. 極めて保守的な考へから、全然問題そのものを成立し得難いものとして否定する立場もあ▲り縛る。・例へば最近で 二︶ は、ビーバーやカトリックの拳者ポーマンの如きは、か⊥る立場に立■つものと云ふことが出来る。 然しながら、私は、か1る立場に賛城し得ない蕃である。私共は、回心へ至るまでの心的過程を研究する場合. 同心着日身の述べるところを資料としなければならないことは云ふまでも無いが、そのことは、必ずしも、同心 者の述べるそのま1の寄食を、単に表面からのみ解挿しなければならないと云ふ意味では煙い。同心者はト多く の場合、同心の動機を、外からわ超越的力に節する。首分には何等心に期するところが無かったのに、外部から. 転地的力が突恐的に作川Lて、無意識の聞に心の婚換を成就さしてくれたのだと.去ふ自覚は、殆んどすべての回 心者に共通な自覚であると云ふことが川東る。然しながら、近代の宗教心理輿は、幣適の意識困内の意識の外に. ロマ書妨七輩と.ハウロの回心の問題

ロマ書第七茸とパウロの同心の問題

作 野

膠 也

(3)

副意識と僻し得べき意識野があることを明らかにしてくれた。それは.回心育〓身には充分に百億されてゐない が、然も、同心者の意識には棚連無い。かくの如き副意識とも栴すべき意識の括動は、意識者自身がこれを目覚 しないのであるから、従って、同心着日身これに就いて叙述すること無く、時とLては、その反封の意識活動に 就いて叙述することさへあり得るわけである。然しながら.か1る場合さへ、同心者の記述せる表面の事算を更 に深く掘り下げて行くことに依って、所謂る副意識とも解すべき意識所動を蟄見することは、決して不可能では 無い。宗教意識の畿動過程の研究は、主として、かくの如き意識下の意識の研究に向丘なければならない。 使徒パウロの同心の動機−−その直接の動機は、ダマスコ途上で異象を見たことにあるは云ふまでも無い。然 し私が今問題とするのは、此の直感の動機で無くして、此の具象を見るまでの彼の心的過程である。此の問題の 研究に封しては、直接の資料が輿へられてゐない。それは既に述べた一般同心者の例と同じく、.ハサロ自身がそ のことを白魔してゐなかったからである。けれども、たとひ。ハウロ自らが目覚してその事に閲して記述してゐな くても、無目覚の聞に、彼が具象を見るに至る迄の自己の心理過程に就いて述べて居りはしないか。もし何事か そのことに就いて述べて居るとするならば、それは如何なる内容のものであつたらうか。 .ハサロの同心の動機に掬する研究において、度々問題となるのは、ロマ書第七草である。そこに記された一個 の悩めるたましひは、果して、.ハウロ自身を指すであらうか。それとも︰ハウロは、自己の経験を語るが如くし て、貨は、一般人閏のなやみを物語ってゐるに過ぎないであらうか。吏に問題となるのは、輌者のいづれである としても、それは、キリスト教徒のなやみであらうか、それとも・キりスト教徒となる以前の状態であらうか。蜘 ロマ音節七車とパウロの同心の問題

(4)

最近此の岡野に閲して極めて詳細な研究を試みたのはキュムメルである。彼に伐れば、。マ書第七草中の﹁我﹂ 凱 は、パウロ白身を指すものでは無い。パウロは、ロマ書第七華第七節以下で、恰も自己の牌験を物語るが如く. ′ ﹁我﹂に就いて語少、聖なる律法と内なる我との草間に就いて物語り∴最後に、此のなやめる我が、キリストに依 って救済されたことを述べてゐる。ところが、次章の第八草第二節には、突如として﹁キリスト・イエスに在る ヽヽヽ 生命の御冤の法は、なんぢを罪と死との法より解放したればなり﹂と云ってゐる。こ1の﹁なんぢ﹂は、云ふま でも無く、第七草の主題となつてゐる﹁我﹂と同一人物である。さすれば、此の﹁我﹂は、.ハウロ自身で無くし ︵〓︶ て、むしろ修郁的に、一般人のことを云ってゐるものと見なければならない。 次に、 それに反封する。.ハサロは、ガラチャ書︵一〇一三、一四︶、コリント前書︵一五〇九︶ ロマ書︵一一〇こコ ザソト後菩︵一一〇二二︶ビリビ書︵三〇五、六︶等において、自己が熱心なるパりサイ教徒だつたことを述べ てぉる。パワサイ教徒の療法に封する立場と、ロマ書第七草に描かれてゐる一個の人間の律法に封する立場とは、 倒底両立し得ない。.ハリサイ教徒の律法に対する態度は、ロマ菩第七草のそれのように、決して悲観的では無い。 詩篇第二九篇に描かれてゐるように、ユダヤ人にとつて律法は喜ばしきものでこそあつたれ、決して呪ふべき ︵三︶ ものでは無かった。 キュムメルの以上の主張に封して、私は、次のような考を有ってゐる。なるほど彼が云ふように、ロマ書第七 草中の﹁我﹂は.必ずしもパウロ一仙人を指すものではあるまい。然しながら、第七草第七節以前において、パ ロマ蕃帝七草とパウロむ同心れ問題

(5)

ロマ番卒七草と.ハウPの同心の問題 ..1 国 サロは主として集合的に﹁我ら﹂として語ってゐる。それが、第七節となつて、突如として﹁我﹂として語って ゐる。たとひそれは修那的な﹁我﹂であるとLても.何故に特に此の場所で﹁我﹂として語ってゐるかに就いて は、何等かの説明が必要である。 第二に.たとひ.ハリサイ教徒の律法に封する態度は、楽天的だつたとしても、.ハサロのような複雑な性格の所 有者は、倦兢的な律法親以外の思想に支配されたかも知れない。それは必ずしも倦統的な律港観と矛盾するわけ では無く、それ以上に出.でるものであるかも知れない。同じく.ハリサイ教徒と云っても、その間には種々なる人 があり得る。教理上の統一はあつたとしても、教理に封する人々の態度が常に同一であるとは断定し難い。・ハサ サノ教徒にしてヘレニズム、即ちギリシア的文化の影響を比較的多く受けた者と、然らざる者との問には、律法 に封すむ態度にも相違がある。後に述べるように︰ハウロは、その青年時代から−此のギリシア的文化の影響を 多分k受けた着である。さすれば、彼の律法に封する態度も、必ずしも俸統的な。ハリサイ教徒のそれと同一だつ たとは云ひ難い。 〓 私も、ロマ書第七草は、そのま1では、パウロの鰭駿として採用し得られないと思ふ。然しながら、その中に・ .ハゥ。自身の鰭胎が全然含まれて居ないとするキュムメルの立場を採用することは出来ない。むしろ私は、その ぅちに.パウロ自身の饅騒が、可なり多く物語られて㍍ると信する者である。然もそれは、戎単著の如く、キリ スト教徒となつて後の.ハウロの牌騒が物語られてゐると云ふのでは無く.キリスト教徒たる以前、・ハリサイ教徒 372

(6)

たりし時代の.ハウ。の慣翰を、音スト教徒となつて後の立場から述べたものであると主張する着である。 調 かゝる私の主張に封しては、次のような反封が橡悪される。パウロは、どリビ音節二重第五、ふハ両部で﹁我は 八日めに割緒を受けたる者にして、イスラエルの血統、ベニヤミソの族.ヘブル人より椚でたるへブル人なり。 律法に就きては。ハリサイ人、執芯につきては教倉を迫害したるもの、律法によれる養に就きては責むべき所なか りし者なり。﹂と云ってゐる。即ち、.ハリサイ教徒としてのパウロはT律法によれる義に就きては責むべきところ なかりし者﹂と云ってゐるでは無いか。然るに、。マ書第七草に措かれたる一個の悩める人間は﹁われ中な鳥人 にては紳の律法を悦べど、わが肢牌のうちに他の法ありて我が心の法と戟ひ、我を肢髄の中にある罪の下に虜と するを見る﹂︵二二、二三︶と云つてゐる。此の一個の悩めるたましひと、律港によれる義忙就きては茸むべき所 へ円︶ が無かったと堅一日してゐるパウロとが、同一人であるとどうして云へようか。か1る反封は、有力なる単著に依 って主張されてゐるところであるが、それにも拘らす私は、これに屈服することが出来ない。 私共は、パウロのような㌫教家の記したものを取教ふ場合は、同一な言草も、時と場合が異なれば、可なり異 なつた意味内容を有するものであることを濠想してか1らなければならない。パウロは哲聾者でも無ければ、赫 ︵丘︶ 単著でも無かった。彼の書斡は.手紙であつて、著述では無かった。手紙であるから、これを受取る人々の常時 の素描が初めから複想されてゐるし、何か特別の目的があつて記されたものである。従って同一な文字を使用七 ても、時と場合で、その意味内容に多少の推移があることは、常然のことである。そこで、ヒリビ書で.ハウロが ﹁律法によれる義に就きては青むべき桝なかりし者﹂と云つてゐる場人〓の﹁律法﹂と、ロマ書で﹁われ中なる人 ロマ沓集七草とパウロの何心山問題 五

(7)

ロマ音節七草と.ハウロの同心〃問題 六 にては紳の律法を悦べど.わが肢饅のうちに他の法ありて我が心の法と職ひ、我を蚊牌の巾にある罪の法のFに 虜とするを見る﹂と云ってゐる場合の﹁律準﹂とは、必ずしも同二息味内容を有するものと解する必要は他⋮い。 第﹁.ハリサイ数的に云へば、紳の律法の外に、紳の律法に反封するが如き別な律法が存在する筈が触⋮い。首 本澤聖書は、此の困難を僅かれんが為に、既に引用したように.紳の場合は﹁律法﹂と詳し、非の場合は﹁法﹂ と諾して両者を直別せんとしてゐるが、原文では、両者はいづれもr甘Oh即ち律法であつて怖別は無い。さす れば、私共は、ロマ書における律法の意味は、箪に狭養のパワサイ的律法を意味せホ、それより遥かに購い意味 を有するものと解樺しなければならない。これに反し、ヒリビ垂における律法は、極めて狭養のもので、純然た るパリサイ的律法である。.ハウロは、そこセ、異端を排撃し、自己の使徒職を主張せんとしてゐる。。ハウロがイ エスの直弟子で無く、異教徒への使徒であるところから、彼を排斥せんとする一派は成然として絶えなかった。 .ハウロは、これに封して、自己が純然たるへブル人で、且つ。ハリサイ人であり、律法を遵守したことを主張して ぁる。ユダヤ的キリスト教徒へ対するには、自己がユダヤ的に見て炊くるところの無いことを主張する必要があ る。彼は決して、そこセ、あらゆる道徳的規準に照らして完全無紋だつたとは云って居ない。﹁律法につきてはパ ヽ︳ヽヽ︳ヽ りサイ人﹂而して、その﹁律法によれる﹂義に就いて云つた場合、貴むるところが無かったと云ふに過ぎない。彼 は、明らかに、こ1に云ふところの律法が、狭義の律法であることを窒息してゐる。狭養の律法の立場から見て 黄むべきところが無かったからとて、庚巷の律法の立場から見て、同じく責むべきところが無いと昼蚕ひ難い。 従って、一方ビリビ書でパリサイ的律法観から見て責むべきところが無かったと叫んだ.ハサロが、更に焼い意味 3ア4

(8)

を有する律法の立場からほて、自己心中の苦闘を語ることは、必ずしもオ盾することでは無い。私は.今、.ハリ サイ数的立場からする律法、釦ち狭義の律法が、如何なる意味を有するものであるかを蘭澤に述べて退かう。 純然たるパリサイ教徒的立場から見た律法には・、祭儀的、形式的方面と、道徳的、内面的方面と、此の両方面 ︵六︶ がある。第一の祭儀的、形式的方面の相法中、最も重重なのは割糟である。これ沓にユダヤ人をして眞のユダヤ 人たらしめる貴重なる聖緒﹁S旨rPme−1t︶である。これと結合して挿々なる他の規定を生する。即ち剰楷ある者と 姐割蘭の者との交際の問題、雑婚の問題、異教徒との交際及び商衷に朗する秤々なる制限等である。なほその外 に、安息日及び祭日を翌日として守ること、潔きものと汚れたるものとを直別すること、飲食、屠殺及び食物の 準備、病束、死、誕生等に閲する規定などがある。 律法の第二の方面は、律法が有する特殊の性質から、叉特殊の道徳的内容を有して来る。我々は、イスラエル 入の道徳観念を見る時に、普過的道徳観念を以てしてはいけない。彼等の律法が偏狭なように、その道徳観念も 叉偏狭である。彼等の道徳は、図表的制限を配することがHi水ない。ストイック流の普遍的、人道的道徳観念と﹂ 彼等の道徳諷念とのー1日には、著しい距離がある。隣人とは誰ぞの疑問をイエスに投げかけたユダヤの教法単著の 態度は、かくの如き白岡中心主義の道徳観の上に立つ者の態度であり、隣人とはサマリア人なりと答へたイエス の態度は、以上の倦統的迫徳観を破壊するものであつた。 .ハリサイ教徒の道徳観の第二の特徴は、著しい約梯的性質である。律法は、一般の法律のように、主として禁 止的のものだつた。即ち、律法は、何を残すべきかを教へないで、何を篤す可からざるかを教へた。イエスは﹁然 U マ審訊七草とパウロの同心空間臨 タフ‘∂

(9)

。マ沓第七草土.ハリuの回心の問題 八. らば、凡て人にせられんと思ふことは.人々も亦その如くせよ﹂と教へたが︰ハリサイの道徳はT人が汝に焉す ことを汝が欲しないようなことを、汝も亦他人に為す勿れ﹂と教へた↓彼は非を恐れる﹂とは、最上の賞潜の言 葉であつた。怒る勿れ、にくむ勿れ、報復する勿れ、偽る勿れ、中傷する勿れ、恥しむる勿れ、害ふ勿れ、その 他すべて此の種の禁止命令である。従って、忍耐、謙遜、柔和、冷静等の諸徳が、大に貴誌された。 以上述べ氷ったような意味の律法が、.ハリサイ的律法である。.ハウロは、此の種の律法を完全に遵奉したと信 じてゐた。パウロの時代のパリサイ教徒にして、。ハウロと同じ自覚に到達し得た者はl、・必ずしも稀なわけでは無 かったと思はれる。イエスのもとに訪ね来った一人の青年は、イエスが汝、誠を守れ、殺す勿れ、姦姪する勿れ、 盗む勿れ∵慣許を焦す勿れ、汝の父母を敬へ、汝の隣人を愛せよと教へた時、それ等悉くを守ってゐると明言し ︵ヒ︶ たと悼へられてゐる.彼も又パウロと同じ自覚を有する青年だつた。だが、それにも拘らす彼は、イエスからそ れ以上のことを要求され﹁悲しみつ1去﹂らなければならなかった。即ち、狭義の律法の命するところは遵奉し 縛ても、更に高き命令は之れを守り得なかった。パウロも叉彼と同一なる心理状態にあつたのではあるまいか。 勿論、かく云へばとて︰ハウPが、キリスト教徒たる以前、キリスト教の教へるところの道徳観念を熟知し、そ れに依って煩悶したと主張するわけでは無い。然しながら、.ハリサイ教徒だつた頃のパウロの心を支配したもの が、狭養の。ハリサイ教徒的道徳観念のみであつたと、だうして断定し得られようか。 三. 然らば.パリサイ教徒にして果して、ロマ書第七草に記されてゐるような善悪二元の封立に悩むことがあり得 β7β

(10)

へ八︶ るであらうか。此の時代のユダヤ教の研究に剖期的筆述を馬したムーアは.次のように述べてゐる。ユダヤ教に 伐れば、人聞には、#への本能と、悪への本能と、相反する二佃の本能がある.紳は入園に、善意二偶の本能を 創造してくれた。而して、悪の本能はぃ華のそれに比べて一般に強い。だから、人間は、常に書の本能を覚醒さ して、意に封抗しなければならない。即ちムーアに依れば、ユダヤ教においても善意二元の封立の思想は確立し てゐたのである。 然らば、。ハウロのロマ書第七草は、純然たるユダヤ的思想を述べたものであるかと云ふ忙、さうでは無い。ム ーアに依れば∵それは﹁キリスト教化されたギリシア主義的形式で﹂︵in C11ristian叫zedHeuenistich胃m︶述べ たものである。肉牌的組織が意の起源であると云ふような考へは、ギリシア的文化の世界では、廉く行き亘つた 思想であるが、パレスチナのユダヤ教には、かくの如き思想は存在しなかつた。だから.ハサロが寮内二元の争闘 として描き糾してゐるところは、極めて通俗的な形式を借りて、ギリシア的二元論を云払表はしてゐるも・のと云 ふべきである。かくの如き考へは ー その悲観的調子を除けば11ギりシア的雰同気中に生活してゐたユダヤ人 の問では.極めて普通のことであつた。但しそれはラビの心理では無かった。 ムーアに依れば、ロマ書第七章に記されたパウPの稚法観も、純粋なユダヤ的律法観では無い。ユダヤ人に とつては.パウロのように、紳の律法に完全に一致するところに正蓑があるとするようなことは、到底考へられ ないことである.何となれば、紳は本乗入聞を弱く追ってゐる。﹁エホバは我らの法られし状態を知り、われらの 囁なることを念ひたまへばなり﹂︵詩篇一〇三−一閃㌔人間の小には悪の本能も植ゑつけられてゐる以上は、人 ロマ苦節七孝とパウロの同心.山岡毯 九 3プア

(11)

間が軸の律法に完全に一致するが如きことは、刑慧り紹ないJ軸はか1る不可能なことむ人肌に雫るほど不 一 ︵几﹂ 合珊では無い。これが純粋なユダヤ教的律法搬であ■る。

即ちムーアに依れば、ロマ吉宗小、羞二元の封諾思想は・純粋なユダヤ的溜であるが、これ姦肉

二元の封立として述べてゐる鮎は、ギリシア砦の影響を受けたるユダヤ人の問に蓋的な思想で、純粋なユダ

ヤ的思想セは竿そこでもしパウロが薯時代においてギリシア怒の影響を受けて居つ雪とが確められ1

ぱ、ロマ書第七草中の胃の争闘の鰭験は、多少弛められた稚欝おいてゞはあるが・パ‡イ教徒としてのパ

ウロに、あり得べからざるものでは無いと云は誇ればならなくなる。

.ウロ

ハが所謂るへレニスト・ユーデ︵宣2nis−去e︶であつたことは、種々なる鮎から疑ふことが出誓い事

警あるゥ男第﹁警、その誉れた彼の書翰が示すように、雷シア雷自由に記すことが出来た。彼の

ギリシア語は、古典のそれとは異なるが、彼はーその有するすぐれた宗教的鰭警述べんが焉に、彼に梵喜

警諾し、古いギリシア語に、全然新らしい調子塞ぎ込んだ。彼の董には、アツテカのギリシア語の掌

る優警や、なめらかさは無いが、彼の熱列有る豪的鱒験が芸Lてゐる〇彼には文拳的技諾無いが、然も、 彼の人格的力に讐て.彼の文華は生命に溢れ、充分なる量的効蒼放めてゐる。 ︵︰○︶ ︵一.︶ ダイスマンの壷畏れば、パウロはSe盲gilヱuJ2だつた。セプチユアギンタ自身は、一偶のギリシア化

されたユダヤ裏芸に外た差い一ユダヤ教わギリシア化を混も推健に成就し允ものは、葦七言芋ぜン

タであ毛孟は衡に束と西とをづたぐ掛け梼となつか㌔・ハ.ウPが・凱野鼠謝乱数掛憩掛掛掛凱徽卜紳− ロマ背第七草と.ハウロ出回心ん問題

(12)

琵のセプチユブギンタのそれであーつたことに依っても明らである。 。ハウロは、恐らく、直接ストアの雷撃者に就いて撃ぶことは無かったであらう。然しながら、・常時の世界におい ては、ストアの哲拳は衛頭へ進出し、一般人の常識化して居り、彼自身も、ギリシア的文化都市にしてストア珊撃 の盛んなクルソで生れたと言はれて居る程だから、恐らく青年時代から、之れ等の滑車斉と接幌する横倉を有し たであらう。.ハウロは少なくとも一個所で、︵コリント前書一五〇三三︶ギリシア詩人の言葉よ引用してゐる■U 要するに、。ハウロがその青年時代、ギリシア的文化の影響を多分に受けたことは、疑ふことの出水ない事嘗で ある。而して、此のことは、パウロの律法に封する紺野が、偏狭なるパリサイ教徒の域を配してゐたであらうこ とを推定せしむるに充分である。然しながら、かく云へばとて私は、今此麗で、パウロの道徳観念が、ストア常 襲者のそれに依って、著しく影響されたと主張するわけでは無い。私は、パウロにおけるストア的道徳観念の影 響を可なり重く見る着であるが、今は、その間恕に慣れる飴裕が無いから、それは他日の問題として穣さなけれ ばならない。だから、私は、今、ユダヤの文献の中からだけ、パウロ的思想を探し出して見よう。 四 ユダヤの宗教文献■房両工ズラ⋮の、.土姿なる部分は、紀元前の著述だと云はれてゐるが、そのうちには、次の 祝しみを有してゎたかは、彼の引川する粥約聖#は、多くはーヘブラ ようた文句が含まれてゐる。 ∵.二 かくて射きは根強くなつた ロマ雄解七尊−∴ウロ山国心の問題 嘩

(13)

四、一二 これ等のことを聞いた時、私はうつ伏せにたほれて云った 罪と管しみの中に生き 何故に苦しむか知らないで此の世に来る上野か 創造きれなかつた万が一屠良かつたらうにと 五.三国 かくて私は云った、否.主よ.その悲痛のことを私は云ったのです いと高き者の蓮を理解し、その節剰の命ずるところを探し出きうモ努めて いつも/1私は.心の苦悶になやみます 三五 彼は云ひ給ふた﹁汝能はず﹂土、私は云った.何故に、主よ.なぜ私は生れたのでせう なぜ私の母の胎が私の墓場とならなかつたのでせう きすれば私はヤコブの悲惨も イスラエルの民の悲惨な苦悩も見な∴ですまされたでせうのに 七.六八 此?世に生れたものナぺては ロマ番熟七専とパウロの同心わ閃摩 ︳︳ 律法は正しく国民の心中にあった だが、それは窓の芽と共に かくて昔なるものは過ぎ去って 悪が確留した 卸

(14)

不正に汚きれ 罪に充ち 各を負はきれてゐる これを以て見れば、ユダヤ人も、必ずしもすべてが律法に封して楽天的では無かったと云はなければならない。 ︵一三︶ そこにはラビの心理は示されてゐないであらうが、民衆の心には、かゝる暗影も存在してゐただらうと思はれる。 紀元前五十年から紀元後十年迄の聞に、アレキサンドリアのユダヤ人に依って、ギリシア語で記されたと思は れる﹁ソロモンの知慧書﹂のうちには、.ハウロのロマ書の思想の前駆となるものがあることは、疑ふそとの出奔 ︵一日︶ ない寄算である。今左にこれを例拳すれば ︵なほ知禁書五.一入−二〇とエペソ六、一四−一七と類似す︶ これを以てしても、.ハウロが、知慧書を諌んだことは疑ひ無い寄算であるが、私は史にロマ書第七草と知禁書 知 葉 書 一三、一−九 一三、一〇以下 一四、二l一以下 〓﹁一ニ ー五、七 ロマ音節七草とパウロの同心の問題 ︼、二〇 一、二三 一、二八以下 九、一九、二〇 九、二一 P マ 書 8βJ

(15)

P†音第七睾と.ハウロの回心の関越 中の先の文句とに、非常な難似の存することを主張せぎるを柑たいし 八、 二 私は青年時代から彼女︵知恵︶を愛し求あた 私は彼女を私の花嫁とし皮かった 私は彼女の美に心奪はれた 四 汝の三坐の傍に坐してゐる彼女、知慧を私に輿へ給へ 汝の僕たちの閃から私を棄て給ふ勿れ 五 私は奴隷忙して汝の僕姉の子 弟く寿命短き者 ヽヽ 審判と律法とを理解する力足らぬ者なれば 知慧書の知慧は、云ふまでも無くパウロにおける小仲川に相撤する。ロマ#第七草における悩める人聞と、こ、に記 ● されたる悩める人間との聞に存する類似は、否定し難い。ソ′ロモンの如意審における知琴彗罪を清める力を有 ニーだが私は紳が私に輿へ紛はなければ知審を得経いことを知って 主に乞ひ求句 仝心から云った 九.一高物をその御言にて造り給ひ 慈愛を垂れきせ給ふ童子開発たちの紳よ おβ

(16)

する︵﹁四︶。知慧を獲得するこを掛って.議を堆絹し、義を縛ることに依って不滅を得る︵T、三.∵とは. / 調 プラトーン的思想の影轡を著しく受けたと忠はれる此の書の記者Ⅵ瓜想である。従って如意苦の知潜は、著しく 道徳的内容を有する。そこに記された煩悶には、哲単著的な認識のなやみも無くは無いが、その秋本に存するも のは、依然として義を求めて止まぬ者のなやみである。此の意味において、ロマ苦節七章と﹁ソロモンの知葉書﹂ の思想との類似は著Lいと云ばなければならない。即ち、ロマ害第七茸におけるなやみは、ヘレニスト・ユーデ だった。ハウPにおいて、あり得可からざるなやみでは無いと云はなければならない。 使徒パウロが、その青年時代において、ギリシア的思想の影響を受くることが多かつたことは、既に述べたと ほりであるが、疲は叉その同心直前、キリスト教徒迫害の時代にも、ヘレニズムの影響を受くべき環境に在った と私は信じてゐる。元来、ヘレ一芸ムは、常時の世界的主要潮流であ少、如何なる地方と雄も多かれ少なかれ. その影響を受けたのであるが:ハレスチナ本国におけるユダヤ人と、外囲に移住せる所謂るDiaspOraとの問に は.ヘレニズム文化の影響を受ける程度に、可な少な相違があつたように思はれる。ヘレニズム文化に封する樺威 ︵一五︶ ある単著ヱントランドも云ってゐるように、異国文化を排斥すべLとの原理を固守したパリサイ教の指導者の下 に在ったエルサレムのユダヤ教徒には、ギリシア的精神が深遠な影響を輿へたとは思はれない。使徒行倦に依れ ば、.ハサロは主としてエルサレムに在って、キリスト教徒を迫寄したかのように思はれる。さすれば、パウロは. その頃、ヘレニズム文化の家相束から可なり遠ざかつて居たのではあるまいかとの疑問が起る。 然しながら、私轄は、偵は行悼の記事をそのま1に信頼することは、あらゆる他の場合においてと同じように∴ ロマ訳解七車とパウロの陶心の問題

(17)

▲一 ・ ロマ各節七草と.︵りりの同心の問題 二二〇 これを慎まなければならない。私はブルトマンやパルニコルなどのように..ハウロのエルサレムにおける迫害活 動を金然香淀L去る立場には、賛成し得ないが、然も、使徒行俸のように、迫害活動の主要舞萎をエルサレムと ︵一七︶ することには賛成し碍ない。私は、むLろパルニコルの主張するように、彼の迫害級数は、主として、海岸のカ イザりア、ダマスコ、アンテオケ、此の三都を結合する三角形中の地方において行はれたものと思ふ。これに就 いて詳細なる論述を試みる飴裕を有しないから、簡単に、その理由を述べて棍き庇い。 晩た述べたように、使徒行俸を根嘘としないとすれば.同心時のパウロの生活は、ガラチャ書第一章第一二節 以下の。ハウP白身の記述に依って之を知るより外は無い。そこで.ハサロは、次のように云ってゐる。 兄弟よ、われ汝らに示す、わが俸へたる福音は、人に由れるものにあらす。我は人より之を受けす、また教 へられす、唯イエス・キリストの獣示に依れるな少。我がユダヤ教に於ける桑の日の挙動は、なんぢら既に粗 け少、即ち烈しく紳の教倉を責め、かつ暴したり。叉わが国人のうち、我と同じ年輩なる多くの者にも勝りて ユダヤ教に進み、わが先祖たちの言倦に封して甚だ執芯なりき。然れど母の胎を出でしより我を選び分ち、そ の思惑をもて召し給へる者、御子を我が内に顛Lて其の宿昔を異邦人に重爆へしむるを可しとし給へる時.わ れ直ちに血肉と謀らす、我より前に使徒となりし人々に逢はんとてエルサレムにも上らす、アラビヤに出で往 きて速にダマスコに返れり。その後三牛を歴てケ.ハを尋ねんとてエルサレムに上少、十五日の聞かれと階に留 りtが、主の兄弟ヤコブのほか執れの使徒にも逢はぎりき.︵故に書きおくる事は、見よ紳の前にて慣らざるな り︶その後シザヤ、キリキヤの地方に往け少。 融和

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即ち.ハウ。は、同心後、直ちに、血肉とも謀らす、エルサ︸Åに.も行かす、7ラ羊へ行つ七、後〆芸ニ、瑚 ︳︳ヽヽヽ 掃って釆た。.ハウロの報するところをすなほに諌めば、ダマスコこそはパウロの本嬢だつたと推定せざるを得な い。もし私共が仮に使徒行俸を所有Lてゐなかったとしたら、何人も、.ハサロがエルサレムで迫害活動をLたな・ どとは考へ及ばないであらう。それから後のパウロの行動も、彼とエルサレムとの関係が極めて稀薄だつたこと を推定さ廿る。即ち、彼は、同心後漸く三年にLて初めてエルサレムへ上って行つ冤然も、此の時も、僅か十 五日間しかエルサレムに滞在せす︰ヘテロと主の兄弟のヤコブだけにLか合ってゐない。即ち彼は回心後の三年 間をダマスコその他のシザヤの地方に生活してゐたらしい。その後も彼はシりヤやキサキヤ地方で生活Lてゐる。 もし彼が、エルサレムの人々と個人的閲係が深かったとするならば、何故に彼は回心後エルサレムと遠ざかつて ゐたのか理解出来ない。 要するに、.ハウPの迫害活動の主要舞茎は、エルサレムで無くしてシタヤ地方だつたらう。かく解樺すること に依って初めて、同心後の彼の行動も理解され、彼の教誼が異邦人を中心とLて費展Lて釆た理由も納得される。 即ち、.ハウPは、その回心時、ギリシア的思想の影響を︰ハレスチナ本国よりもより多く受けてゐる地方におい 二八︶・ て生活Lてゐたと云はなければならない。パル⋮ル一は次のように云つてゐるごハウロは、ダマスコに定住して ゎたように思はれる。ダマスコの町には樺山のユダヤ人が居住して居り、ダマスコの町はヘレニズムの文化と革 教の変速に対して、重要なる意義を有する町だつたから、ユダヤ教の擁護に熱心だつたパウロの活動舞壷として は、極めて過骨⋮な場所だつた。さすれば、此のグマスコの町がパウロに輿へた影響は、その生れたクルソの和が ロマ苛酷七草と.ハゥロの回心の問趨 l七

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ロマぷ 七草と.ハウロの回心竺問題 彼に輿へた影響にぢらぬものがあつたであらうと。

なほこゝに少しく︰拝意して起き廉いのは、使徒行倦自身も、。ハウロのダマスコに於ける迫害活動を否定してゐ

るわけでは無いことである。即ち、使徒行低は、第二六章第一一節において、。ハウロをして﹁・我は外囲の町々に

至るまで迫害したり﹂と云はLめてゐる。日本詩聖書は、一般に原語の複数藍卑故に請出してゐるので.此の場 合も、原語では﹁外国の町ヱ︵叫㌣盃∈乱だエと明らかに種々なる町を経廻って迫著したように記してゐる ︳ のを、只一つの町ダマスコのみにて迫害満勤を為したかのような印象を輿へる。然しi事賛は、多くの外聞の町 を迫審Lたと、使徒行倦も記してゐる。

以上の考察に依って明らかなように..ハウロは、その同心時においても、純粋なユダヤ教よりか、むLろ、ギ ザシ7文化化されたユダヤ教の雰囲気中に生活して居つたわけであるっさすれば、ロマ書第七草を、迫害者時代

のパウロの心理を示すものと見ることに、困難は無いわけである。勿論パウロは、そこで昔日せんが為に昔自し

てゐるのでは無い。元来ロマ書は、パウロの書翰中で手紙の色彩を帯びること極めて稀薄なものである。他の書

翰は、パウロと親交ある人々に封して記されたものであるが、ロマ書は未だパウロが個人的親しみを有しない≠

マ教身の人々に封して記されたものである。従って、。ハウロの書翰としては、比較的饅系的に、客勧的に記され

たものである。ところが、彼は、第七草以前に於て.律法の無力に囲して述べ氷って、第七草においてクライマ ックスに到達した。彼は、記しながら、過去のたやましい苦闘を思ひ出でた。今や紳単著らLい冷静さを保ち絡 βββ

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なくなつた。客観的な問題の取扱ひをしながら、忽然として自己を語らぎるを縛なくなつたごマ書の文章は.脚 全般的に云へば、、ハウロの他の害翰のそれに比べて生硬な感じを輿へる.然し、第七草第七離以下は、それとは 異なつて、ガラテヤ書などに見るような生来が躍動してゐる。それは、そこで、疲自身の牌騒が中心となつてゐ るからに外ならない。特に﹁瞭われ悩める人なるかな、此の死の牒より我を救はん者は誰ぞ﹂の悲痛なる叫びを﹂ 単に客敬的に、一般人類に就いて語ったものと解することは、如何にも不自然である。勿論そこで語ってゐるの︰ はキリスト教徒パウロであつて、.ハササイ教徒パウロでは無い。だが、そこには、.ハリサイ教徒.ハウヤの苦悩が ︵一九︶ にじみ川てゐる。 これをキリスト教徒としての悩みを述べたものと見ることは、如何にも無理である。キャスト教徒となつ七後 も、なやみが全然無いとは云ひ難いが、第七草をかく見ることは、その内容上如何にも困難である。これを非キ 乳スト教徒としての悩みを記したものと解して初めて、次の第八草も理解し得られる。即ち.ハサロは、し第八草第 ヽ︳ ︸節以ドで﹁此の故に今やキリスト・イ土スに在る者は罪に定めらるることなし。キリスト・イエ、スに凝る生食 の御媒の法は、なんぢを罪と死との法より解放したればなり﹂と云ってゐる。即ち、今やイエス′・キリストに救 はれて:ハリサイ教徒としての煩悶は終結した。キサスト教徒となつて後の蟻悶は、それ以前の傾悶のように腐 望的では無い。そのことは﹁我らは望みによりて救はれたり﹂︵二凶︶とか﹁斯くの如く御窺も我らの弱きを助け 姶ふ﹂ハ二六︶と云ふが如き文句が、これを示トてゐる。 勿論、屡々云ったように、ロマ書第七章は、キリスト教徒とトての.ハウロが、非キリスト教徒だつた時代を同 Pマ苔靡七聾とパウロの伺心の問題 ︼九

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ニ音節七草と.ハウロの同心の問趨 二〇.

想して記したものである。だから、キサスト教徒的立場からの律法観も、含まれてゐることは、云ふまでも無い。

例へばT律法は非なるか﹂︵七︶と云ふが如き疑聞が、。ハリサイ教徒だつた時代の.ハウロに、そのま1の形で規は れたとは思はれない。史に、自己心中に存する非が、誠命を手段として自己を欺くと云ふが如き考︵一一︶も果L て。ハササイ教徒としての彼に起ったかは、頗る疑はしい。律法の下に在った自分は、死んでゐた︵九︶と云ふが如

き自覚やキリスト・イエスに依って永遠の生命を獲得したとの自覚あつて初めて生じ得べきものであらう。従

ってT此の死の饅より我を救はん者は誰ぞ﹂と云ふ悲痛な叫びも、そのま1の形でぺウロに起つた叫びでは無か

つたであらう。彼は、自己の苦闘を救済する何物かゞ存在することすら、その昔時は、考へ及ばなかったかも知

れない。それはキリストた救はれた経験から、過去の絶望状態を回想することに依って、云はれた表現であらう

然しながら、そこに記された粟肉の封立観は、ムーアも云ふように、ヘレニスト・ユーヂにはむしろ普遍的なも

のだつたのだから、パリサイ教徒パウロにも、必ず存在したところのものだつたらう。但し、そこに記されたそ

のまゝでは無く、多少弱められた程度においての封立だつたかも知れない。何となれば、肉の弱さは1キリスト

教徒となつて後のパウロにも依然感ぜられたであらうし、更に、他方において、キリスト教的道徳観は、罪に封

する自覚を︰ハリサイ教徒時代よりも、一盾深酷ならしめたであらうことを、推定し得られるからである。然七

ながら、キリスト教徒としての.ハウロは、中なる人と、外なる人との直別を考へ得ない筈である。キリスト教徒

としての彼は、徹底的に自己の無力を信じてゐる。彼は如何なる他の場所ででもーそこに記されてゐるように二

軍の我があるとは記してゐない。我自身が、我を善ならしめんと欲求L、我うちの罪と戟ふと云ふが如き心理は/脚

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キリスト教徒パウロの心理ではあり縛ない。従ってこれは、ギリシア的思想の影響を受けた.ハリサイ教徒パウロ の心理に外ならない。何となれば、キリスト教徒パウロをして云はしむれば、人−親自身の中に存するものは絶封 に無力であり、低劣であり、イエス・キリストの塞が注ぎ込まれることに底つでのみ、人は救はれるからであ ︵二〇︶ る。プライデレルもすでに云ってゐるように、その鮎にこそギリシア思想とパウロ思想との相違があるのだか ら、此の鮎から見ても、ロマ書第七草を、ギリシア化されたパリサイ教徒.ハウ。の心境を述べたものと云はぎる ︵二こ を得潅い。 これを要するに、・任マ書第七草第七節以下に記されてゐるところは、キリスト教徒的立場から、非キりスト教 徒の精神状態を記したものである。絶って、そこに記されてゐるところは、同心前の。ハウロの精神状態そのま1 では無い。同心前の精神状態を一同心後の来待で再現したもαである。然も彼は、告白せんとして告白してゐる のでは無く、非キリスト教徒の一般的精神状態を叙述せんとして、無意識の裡に自己を語ったのである。従って これを。ハウロの告白として見ることに反封する聾者も跡を断たないであらうが、同時に、たとひか1る単著に賛 成しながらも、然も.ハイロの同心の問題を取扱ふ者は、依然として此の貴重な資料を無税し得す、結局これに辟 ︵二二︶ り来るであらう。私は、その好個の例をキトチイヒの近著﹁。ハサロの同心﹂に見る。彼は、ロマ書第七草を資料 とする.ハウロの同心の研究を、道徳的理解であるとし、充分な註梓輿的根藻を有しないものとして否定しながら 結局最後の結論には、此の章を採用せざるを得なかった。 ︵一︶ 戸猿女坤氏評、ポーマン原著﹁丑.ハゥロし八七質以下参蛸。 ロマ音節七串と.ハウロの同心”関越 ニー 3βタ

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へ五︶ ︵六︶ ︵七︶ ︵八︶ ︵九︶ ︵岩︶ ︵一一︺ ︵三︶ ︵〓l〇 ︵︼e ︵ニ︶ ロマ苦痛七摺と.ハウロの同心の問題

K・ヨe−萬エー〆已us−Seine写sVi〇nPre Persぎーi≒ハeit uコ阜ノ芋一ハSl−ご一︵阜l篭¢.申賃率

−ハFヨme−二㌫ヨerご⋮Jdle︸宕cトー11コれ︵−e=ぎーus.一語李s﹂−¢1・−⋮−くOn l︶〇bsc三芳こWirund Ic−1bei勺邑声

︵P f㌢Ty賢⋮裟sche、コleCl。gieこ器♪−O Ja︼長.柏Hert︶ ドブシュツツはバウ。の﹁我﹂が場合に依っては.一般人を集合的に哀し.又他の場合皿は.一何人を示すことを注意 して居る。そして、ギu′シア的に考へる場合は多く、個人的に記されてゐるど云ふ。 −ハ㌢ゴーーle−こbid.s.ごO r. Wrede”PP已us︶−文苛・S.㌶・− Pltm冒n‖2u−us︵R●G.G.︶旭 − l▲ ︳ −、iet呂冒。美音e.b.i。︹ − ぎndle︰D−︰e−igi富L。b。n豆sAp。蔓sP邑usこ箆∽−∽・−や−﹂等何れも以上の瑚由 から、ロマ音節七草をパウロの橙鹸として採用することに反射してゐる一U

Oei∼∼mぎゴいPa已us−Eine Ru−tur占nd旦igiOn品eレCEcht詳11e SkiNNe︼旭・AuP−¢崇︶S・¢芦

W・ぎ房SetいDieRe−igi。n de∽Judentumsi−ゴSp警Fe︻−enistiscl−enNeita−ter.−甚ヂヂ仁平−た●

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DeissmpnnいDie H昌ellisier≡品des Seコ寮schen MOnO〓leism已−−父訪.s﹂ヾ旭.

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︵一吾

︵一六︶

︵一七︶

︵一∧︶

︵一九︶

胃マ題辞七草と.ハウn=㌣回心の関越 ぎltm買n”Pau−us︵R・G・G・︶柏−⊥ぎnikO−二しi仁一、へ︶rCl−・isこic訂und手写c︼弓ぎ〓c︼−e詳it des P已usこ箆つ. We已どふib己●S●l一等

︼︼賀コi一ハ○−いib己.s.ヾ㌢ P−nikO−こbid・S・笠P − P W・−〃Ob訂s〇nこnぎencニeadiコg−OWard−1−eCOnくer∼iOnOr才阜AS−udyO︻S〇Ci已 Enくir。nment︵慧s昏b。詳A・ウ。iss−己コnこ琵Ps・−哀詩︶ロビンソンの論文は、むしろ使徒行博の記事をそぁまま に深川してゐる鮎.私の首肯し得ないところであるが、同心直前の.ハウPの生満環境をヘレンズム文化の世界にあp とする鮎.私と同一意見であうと云へよう。但し一般的に云って氏の論文をパルエコルと同列に僚くことば、私の好 まないところである。 Wel邑盲ib旨heTh邑。giedes写uenTes−賀entSこ箆−こ.色石−−︼ぎssetこes亡S des詳rr.−誓言−S.警f.−仁

Sydney C雪e“TFe GOSpe−鼠St・Pぎーこ¢諾−p・裟r・なども同一意見である。

一式eidererいOps Urc−1ristent仁m−詫ine Sc︼︳rさen仁nd Lel一r♪l臼d︰S.碧苛.

⋮t。S。一lmitN昌宏L。b。nSg。r彗desI−邑j︼箆柏・S・︼00罪は、此の問題に就小て、すぐれた叙述をして七る。

○●買etNig”Die謬kehr宕g des才已us−−¢詑−S・票き∼●坪忘∵声

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愈伽行波と唯識波 加数哲拳−更に戟密に云へば、大束沸教哲畢− の代表とも云ふべき無着世親の彿教思想は、碓釆普通に唯 放と云はれる斯から、私はこれを宗教哲撃として取扱ふ場合に、常に唯識哲撃と僻して釆た。然るに近来これと 稔伽行状の野草と解する傾向があるやうに思はれる。恐らくは宇井氏がこれを唱へ出してからのことでもあらう か。無論この俳教哲拳は、苗木唯識と云はれると共に、玲伽とも云はれた。然し私はその柄呼としては、壌伽よ りは、唯識の方が、避雷であると信する。このことを明にするのが、この小論攻の自的とする所である。

ぎつと考へた所では、唯識曹畢は、支那や我国では、唯識で迫って釆たやうであるが、印度では、概してそれ は稔伽と科して屈つたのであららう。このことは、西紀七世紀に印度を鮭遊した義浮の南海寄辟俸第一巻 ︵大正 蔵聖ニ.二二〇五下︶に、常時の大乗を記して、 併云大乗無過二凝′︶ l則中紀︶ニ乃喩伽。

唯濱野曖山科呼に就いて

唯識哲学の稀呼に就いて

鈴 木

宗 忠

∂5柁

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と云った有名な章句を見れば明であらう。更に俳教以外の他笹沢の印度興斡を見ると.初めて唯識常襲に確定し た稀呼を輿へたのは、西紀八世紀頃のシャンカラの﹁吠梗多軽註樺﹂︵宕dぎtasぎa、㌘才村≒旨h抑唱a︶であらう ︵龍山寧農民.印度に於ける彿敦批評の塑、宗教研究新第九琴竺二披︶。こ1では小乗哲挙が外境派︵醇旨y巴haく打計︶と 云はれるのに封して、大乗の唯識哲挙が識派rくij試naく釦計︶と稿せられる。けれども他拳派の印度輿特に於ては. 唯識哲畢は一般に玲伽行波︵YOg腎PLra︶と呼ばれるやうに思ふ。その模本的典籍として、単著の普通に引照する ものは、西紀十l叫世紀頃の作と云はれるマーダブの﹁一切単派集成﹂︵冨註haくa−Sarくadar訂na由昏grahP︶であ る。こ1では彿教に四次があるとして居るが、この中の二派が小乗で、他の二派が大乗である。小乗のT一派は、一は 有部︵ざibh旦ka︶で、他は軽部︵Sautrantika︶である。大乗の二派は、義浮と等しく、一は中取次︵E邑hyamika︶ で、他は旅伽行波︵YOg覧l腎a︶である。然し龍山氏に依ると、他車派で、彿教をかやうに四派に分けて批評する ことは、﹁一切虫詮集成﹂︵SarくaSiddhplnt慧a計graha︶が初めであつて、乙の書は西紀十せ紀乃至十二世紀の作と せられる。この以後は.これが併教批評の型となつたと見へ、ラーマヌジャの﹁吠博多経註樺﹂︵RP.man且a−幹㌣ bh忍ya︶にも.乃至前述の﹁一切拳採集成﹂にも、叉その後の典籍にも、これを蛸聾するとのことである・。これ で見ると、唯識野拳は、印度に於ては、普通に喩伽行瀬と呼ばれて居たと云うてよからう。 諭伽行派の稀呼は、漢詩では、南海寄辟倦にあるやうに、常に稔伽となつて居るが、これは勿論略解であつて、 唯識哲輿の溶呼としては、印度の他拳藩の輿頼にあるやうに、それは壌伽行派でなければならぬ。然らば唯識督 畢は、如何にして諭伽行波と呼ばれるやうになつたかと云ふに、それは恐ら︿鰯勒誰と柄する旅伽痛から氷たも 唯革哲嬰の礪呼に就いて 二五 ■ 1 ト川下﹂r‖ポリル叩J粛﹁り、L 39β

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唯準哲革の梶呼に就いて 二六 一 のであらう。そこで穂伽行派の意味を明にする鵠めに、喩伽諭そのものに就いて、少しく考へて見よう。この諭 は、その金牌としては原木はなく、その存在するものは、僅に一部分のどdlli邑tく旨hぎiだけである。これは 先年荻原博士が東京で第一巻を出版した。然し繹としては、完全なものが漠誰にもあり、西赦誰にもある。漢詩 は玄弊の稔伽師地諭であ少、西城繹は守j賢くarmaロ、Ye・笥SSd2等のrnaT写yOrSpyOd・pahisaである。玲伽師 地と云へば、その原語はY。ga・抑c許ya・bhumiであつたに達ひないが、西痛ではrnaT写y。r SpyyOd・pahi岩rの梵 語は.YOga・Cary㌣bhぎiとなつて居る。これは正しく稔伽行地・である。けれどもこb場合の稔伽打YOg眉ary抑 は、言語の上から云へば、唯識哲拳の通解である稔伽行波YOgg.腎aと同一ではない。これは如何にしたことで あらうか。私見に依ると、玲伽論の書名は、初にはY。g狩野abhロmiであつたものが、後にYOga・Cary詳hぎーiと な少、それからYOga・腎腎ya・bhロmiとなつたものではなからうか。それが初にYOg抑cra・bであつたと如何にし て推測するかと云ふに、西蔵にもこの書はYOga・Cary甲の外に、YOg抑c冒aとも呼ばれるとある。支部ではこれ を壕伽行地諭と解したことはないやうであるが、詩経の中に、YOg抑c許abhnmiを題名としたと思はれるものが、 二種も存する。一は西晋の竺法護の諾した衆護道修行道地経であるが、これはその序で見るに︵大正威第十五.一 八︼。︶、原名は倫迦避︵−︶復軸であるから、YOg詫.腎abhロmi であつたに違ひない。他は束晋併陀抜陀薙の詳 した達摩多羅稽経であるが、これは出三赦記集第二に、挿経修行方便二審として、一名庚迦避羅浮迷、謹言修行 造地とあるから、前経と同株に、その梵語がYOg紆抑rabhニ.n︼iであつたことも明である︵宇井氏印度骨堪研究第一、 三七〇−一、伺祭六、五〇二塁紹︶。そうして見るとYOg許計旨−1訂已 と云ふ語は、印度に於ては和常に古く行はれ ∂9ヰ

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て居たのであらうから、瑞伽諭の著者が、これを探ってその題名としたとしても、別に不円心議なことではない。か やうに考へて、私は玲伽論の般初の名はYOg腎許abhロmiであつたと推定するのである。然し YOg許冒a は、そ の意味から云ふと YOgaCary打 と同一であるから、玲伽論は、西赦諸にあるやうに YOgp.C許abhロmi から YOgaCary詳hロmiとなつたものであらう。更にこのYOgaCary抑bh引miは、言語の上から見ると、YOg訂腎yabhこ.mi に樽化するの可能性がないとは云へない。これが玄焚繹にある玲伽師地論の題名であらう。勿論この特化は、1 ルヂエも云ふやうに、或る意味に於ては、明に誤謬ではある︵憎・C。rdier・Catal。g完d仁訂ndst蒙巨n・≡・p・彗00︶。 けれどもこの書名は西赦にもあ少、その註樺者最勝子もこれに従って題耽を挿して居るから、玄葵の誤諸に出た のでないとは無論、彼よ少も相雷以前に行はれて居たものであらうと思ふ。猶ほ玲伽師と云ふ語も俳教では、全 く用ひられなかったものではない。例へば大鹿婆抄諭には、この語は時よ現れて来るが、唯識哲畢書の中にも、 現に棟大乗諭第一巻の如き、この語がある。更に考へると、玲伽行は所観の行であゎ、玲伽師は能観の人であつ て、その間には唯能所の匿別があるのに過ぎないから、玲伽行地と云ふも、稔伽師地と云ふも、その内容は同 一である。かくして玲伽帥は、又稔伽行にも通するのである。それは何れにしても、玲伽論の本名は、玲伽行 . 地諭であつて、それから稔伽行派と云ふ名柄の起って衆たことは、以上の所論に依って、推定し得られるであ らう〇 既に掠伽行派が稔伽論から起つて水たとすれば、その枕木義が喩伽諭に基くものであることは、多く諭するま でもなからう。壕伽論は、人の知るやうに∵本地、擁決撞、撤絆、楯異〓、独尊の五分に分れて居るが、彼の三 堆識斬畢の鞘呼に就いて 罰拍

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唯識野草の稀呼に就いて _− 二八 分は謂はゞ附庵的なもので.撥伽諭の本領を示すものとして.重要な部分は、初の二分である。初の二分の中で. 唯級哲堕の根本養である唯識思想は、確に第二分の柿決梓分に現れて居るとも考へられるが、この思想は玲伽論 の根本義であるとは云はれないやうに思ふ。稔伽論の根本養は、第一本地分の中心をなす思想で、それは論題に も示されるやうに、壌伽行であると考へる。本地分は玲伽行の境地として、五識身掛應地、意地、乃至有飴依地、 無飴依地の所謂十七地を詮いて居る。稔伽論が十七地論若くは十七地経と云はれるのは、これが薦めである。勿 論この本地分にも、その根砥に於ては、阿頼耶識を中心とする唯識思想が裸想される。然七その表面に現れ、従 うて玲伽論の根本義ともなるものは、何歳までも玲伽行思想であると云はねばならぬ。唯識と云へば、理論的で あつて、それは哲畢の原理となるにふさはしい感じ.がするが、壕伽待と云へば、貰践的であつて、それは哲畢の 原理ではなくして、全く宗教牌除の義解である。 尤も唯識思想も、玲伽行思想も、その淵汝を尋ねると、同一であつて、二者は等しく深密軽から出たものでは なからうか。深密経には、原本は存在しないが、諸は西蔵本もあゎ、漢詩になると、四本もある。今その完本で ある玄突繹解深密経に就いて見ると、分別壕伽品第六には、唯識思想もあ少、玲伽行思想も現れて居る。特にこ の品が稔伽行を主題として居ることは、その品名からも知られる。勿論こ1に壌伽行と云ふのは﹂馨摩他Samathp 止︶及び枇鉢合邦︵≦pa血官n抑貌︶のことで、これに依って菩薩地に到りl如来地に蓮する。即ちそこに藤伽行 地が詮かれるわけである。けれども深密経の諭伽行地は、菩薩地及び加水地の二地だけであつて、稔伽論のやう に.十七地を列草することはない。然し壌伽輪は.稔伽行地として、十七地を敷へるとは云っても、結局は菩薩 盈裕

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如兼の両地恰好潜すをことにはなる。この粘から考へると−漁伽諭の壌伽行は、探密軽の玲伽行から由粥したも 膠 のであると云へやう︵し

かやうに玲伽論の根本養である玲伽行忠恕は、その背景をなす唯識思想と共に、探密軽から再来したと考へら

れるが、然し唯識思想は、玲伽論に取っては、単にその背景をなすに過ぎないものであつて、常にこの諭の表面

に現れ、何虚までもその根本義となるものは、稔伽行思想であるから、.稔伽給は、少くともその結構の上から見

ると、理論的なものではなくして、賛践的なものであると云はねばならぬ。けれども賢践的なこの玲伽徐にも・

理命的な色彩がないわけではない。何故なれば、唯識普拳の髄系的形態をなすものは、私見に依ると境行果であ

ると思ふが、それが既に稔伽諭の中心である第一本地分に存すると見ることが出来るからである。唯識常襲に封

して.境行果の解樺をなしたものは、最勝子の稔伽師地論繹が、その初めであらう︵大正読三〇・八八三下︶。然し 景勝子はこ1では単に

正偽書陸。令於許薬境行果専。皆待暮巧。云々

と云って居るに過ぎないから、その意味は玲伽諭が漠然と請来の境行果を説いたことになるのである。故に最勝

子の考を付慶すると、玲伽命は唯識野草として、境行果を傍系的に祝いたことにならないわけである。然らば如

何にしたな丞ば、稔伽給が唯識野草として、境行果を憾系的に説いたことになるかと云ふに、十七地に境行果を

はつきりと配肯することが川水れば、さうとも見られ得るであらう。かやうな方向へ進んで来たのが、玲伽師拙

論搾の精面を根元した意思の諭伽師地論略基である。同書第一巻︵大正蔵望﹁三下︺には−明に 唯鱒哲邸の耗呼に就いて

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と云って居る。遁倫の玲伽諭記第一巻︵大正戴由〓﹁三三中︶も、そのま1にこれを受け、同様に ブスレバユ′︵ 此中墳行敬三輸伽配こ十七地可前九地云々

と述べて居る。

今こ⊥でこれを略解すると、境の九地は、或はこれを四分し、或はこれを三分することが相席る。噴を四分す

るとは、第一、五識身相應及び意の二地は1境の腰である。親行の封填たるべき一切法は、識を豆て腰とするか

らである。第二、有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺の三地は、一切法の相である。この三は、一切法の粕の鹿よ少

細に至る直別を示すものセあるからであるJ第三、三摩咽多、非三摩咽多の二地は、一切法の用である。定心に

入る場合と散乱心に任する場合とでは、一切法の用に異りがあるからである。第四、有心無心の二地は、一切法

の位である。有心即ち意識的状態と無心即ち無意識的状態とでは、一切法の位が攣るからである〇更に境を三分

するとは、初の二地を鰭とし、次の三地む相とすることは、四分の場合と同言ある。唯異る朗は、川分に於て

は、用と位を別にしたが、三分.に於ては、これを合して用とするのである。定散の別も・有心響沙別も、等し

く用かち起ると考へちれるからである。次に行の六地の中で、閉息修の三地は、三乗の行に通する。聾聞猫覚菩

薩の三乗は、共に三悪行を修するからである。後の草間礪覚菩薩の三地は別行である。根横の異るに従ってノ修

法も自ら異るからである。最後に果の二地は、若し二釆に依らば、円亡び果喪はれて、異に有徐俵触⋮飴伏の二門

を立て、若し菩薩に依らば、菩拉と浬繋が分れて、再興となるのである。

ヽ 唯識哲準 稀呼に就いて ′ヲスルトハ

一ノハレノ′ヘレ′′︵レ′

場行果輸伽配こ 十七地叫前九塑些二乗境。次大地些二乗行。後二地些二乗果。 三〇. βタ∂

(32)

本地分の十七地は、かやうに唯識背革め粘色とも云ふべき境行基を倍系的に説いて居る。この鮎から見ると、

漆伽諭は、普通に謂ふ所の唯識哲撃と同二じあるやうに恩はれる。けれどもこれは形式的のことで、内容の上か

ら考へると、決してそうではない。玲伽論の境行果は、本地分に於ては無論のこと、叉糠決韓分に於ても、請来

に通するの境行果であつて、唯識哲単に於けるやうに、大束特有の境行果ではないのである。先づ噴から述べる

と、その腰を説ける識地は、種子俵である阿頼耶識を中心とするものであ少、殊に識地に閲する棟決持分も、専

ら阿頼耶識の解繹であるから、これだけは大乗特有の境地であると云ってもよからう。けれども境の相を説ける

有尋有何等の三弛も、その用を設ける定敬二地、有心等の二地も、何れも特に大束に限られた境地ではない。次

に行に就いて考へると、菩薩地のみが大乗に特有な行で、啓開地や猫覚地は、無論非大乗の行であり、閉息修の

三地も、亦三乗共通の行である。最後に果に就いて云ふと、有飴依無飴依の二地はその形式から見ると、明に二

乗の果であつて、大乗の果ではないのである。

既に稔伽諭の境行男が、三乗共通の境行果であつて、大乗特有の墳行果でないとすれば、玲伽行も、三乗共通

の行であケて、唯識哲拳の行に限られたのであるとは云べない。この鮎から見ると、唯識哲拳を玲伽行派と和す

るのは通常ではなからう。勿論唯識は、既に述べたやうに、これを玲伽わに比較すると、理論的な女郎ではある

が、唯識哲拳も、彿教習畢の一として、理論哲拳ではなく、瞥践哲単であるから、その鰭系を示す喘行基の中で

は、行を中心とするものであることは多く云ふまでもない。然しその行は稔伽行ではなくして、唯識行である。

故にこの鮎から見ても、唯識哲拳は、稔伽わ涙と云ふよりは、唯識派と糾する方が、適切であると考へる。

唯諒軒駿の純正に就いて 399

(33)

唯識軒興が唯識派とムはれるのは、無、椚世親の唯識論に塞くのである。世親の唯識論︹≦j試ptimぎat訝iddhi︶ には二和が存する。一は二十論︵≦−ど註k釦︶であり、他は三十論︵Tri計恥ikどである。現在の梵文を見ると、二 十論には裸文と共に、世親白身の註樺がある。然るに三十論になると、世親作としては、唯頭文が存するのみで その註樺は安禁作である。この事情に基くのでもあらうか、古米支那や我邦では、二十諭は、世親が前に作少、 三十諭は後に、而かもその咄年に作ったものであるとせられる。尤もこの詮は、眞締諾の婆野琴且法師博にはな いっそれには唯﹁叉造唯識論﹂とあるだけで︵大正叔五〇、一九一上︶、唯識論に二柾あることは述べて居らぬから 三十翰晩年作と云ふ詮は、虞諦所倦の印度の憶説にはなかつたものであらうか。この誼の現れるのは.玄奨所懐 である。意思の成唯識論速記第一巻本︵大正裁四三.二三二上︶に、 此諭本朝唯有正訟。世親菩薩臨終時造。乗馬長行廣繹便卒。敢無初後二分也。 とあるのが、恐らくはそれが典籍に現れた初であらう。唯識三十論が果して世親臨終の時の作であるか香かに就 いては、この憶説をそのま1に信することは出来ないが、二十諭が三十論よりも前に机たであらうことは、世親 自身の註樺の存否の外に、漢詩の上からも、これを立許することが出来る。三十論に就いては、玄焚の新講唯識 三十諭頚の外に、培澤相識諭の存したことが、今より二十数年前に、林貴明氏の立許に依って明になつた。そこ でこの相識諭が琵諦の鐸であるとすると、一一十諭は西紀五六〇年頃には、支部へ博来したことになるわけである。 然るに二十翰に就いては、玄焚の新繹唯識二十諭の外に・薯繹として・虞締の大束唯識論と菩捉流支の唯識論の 仰 唯頚骨挙わ桐呼に就いて 〓

(34)

二本が#する。尤もこの二本の中で、展諦諦は菩憎の後記に依ると.内総革ハ三年の川であるから.この鮎だけ 拙 で見ると.二十論の支弗への博粟は∵相識論に依る三十給の悼塞と、同時であつたと見るべきである。然し北‖捉

流支の唯激論諸肌は、二十諭の支那博雅が、二、十論のそれよりも、邁に斗かったことを立許する。この唯識摘は、

罷赦には後魂儲曇般栗流支繹とあるが、采元明諸撒から見ても叉烹恒の虞諦諾後記から比ても、それは菩提流支

繹であつたに達ひない。そうして見ると、世親の唯誠二十論は、菩提洗支が初めて束夏に発た西紀五〇八年頃に

は、支部へ倦水したことになるわけである。かやうに一方世親白身の註樺の存否に考へ、地方課経史上の事苦か

ら考へて、私は世親に在っては、二十諭が三十論よりも以前に作られたものであるとするのである。

進んでこの二柾の唯識論の偵俄に就いて考へて見よう。唯識哲畢の鰹系書として見ると、二十諭と三十論とは、

固より同日の論ではない三一十論は諸種の外難に答へて、唯識無境の義を成立するのが、その目的であるから、

それは決して唯識哲拳の鱈系書であると云ふことはH水ない。然るに三十諭は、その名の示すやうに∵二十の頒

文から成り、論赦としては極めて簡罫なものではあるが、然しそれは唯識の教義を包括的に説いたもので一瞥に

唯識普畢の立派な鰹系書である。それは如何なる意味に於て、唯識哲畢の牒系書であるかと云ふに、その内容の

結構に就いては、意思の成唯識論速記第一本︵大正戒望﹁二三七中下︶に一二解繹が挙げてある。科二此本数一有三 樺二ごと.ムふのがそれである。第一の。一は、相性位で、前の二十川雄は唯識相を明し、第二十五頒は唯識性を明し、 後の五頒は唯識位を明すと云ふのであろ。第二の三は、和中後で.初の一碩学は、略して唯識相を舛じ.中の二 †一頭牛は、兢く唯蔵相を明すと址へに、唯識性を明す、後の五州は、筑二の.二の場人〓に於けると等しく、唯識の 昨識軒餅の稗呼に就いて

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