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龍谷大学佛教学研究室年報 第16号(2012) 004吉田 哲「Pramanasamuccayatika第一章 (ad PS I 6 - 8ab & PSV) 和訳」

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(1)

PramO1Jasamuccaya(i.脂 第 一 章 (811陀,6・ 紬 & 問V)和 訳 ( 吉 田)

Pr

am

asamuccaya

{

i

初 第 一 章

(adPS 16・8油 &PSV)

和訳

吉 田 哲

《和訳について》 本稿は Prama1J.asamuccaya

(

P

S

)

第一章の第六備から第八偏

a

b

句までと、及び それらに対するディグナーガ

(

D

i

g

n

a

g

a

)

の自注 (vr似,

P

S

V

)

と、それを注釈対 象 と す る ジ ネ ー ン ド ラ ブ ッ デ ィ (

J

i

n

e

n

d

r

a

b

u

d

d

h

i

)

の複注 Prama1J.asamuccayap,焔

(

P

S

T

)

の和訳である白この部分では、意知覚、ヨーガ行者の知、概念知の自己 認識、擬似知覚、について論じられる。 ジネーンドラプッディの注釈について注目すべき点としては、まず、諸種の知 覚が列挙されることについて、それらの特定の種類の知覚が列挙されるのは他派 の異論を考慮してのことであり、ディグナーガの自説に関していえばあらゆる種 類の知覚は f概念的構想を欠くJという定義によって包括されているということ が挙げられよう。これはダノレマキールティにより知覚の定義に

"

a

b

a

n

t

a

"

という 限定要素が加えられたことを知りつつ、ディグナーガの定義だけで知覚を包括す ることが可能と考えていることを示すものであろう。 意知覚の解釈においては、ジネーンドラプッディはディグナーガの用いる語句 に対して分析を施しつつ、ディグナーガの表現とダルマキーノレティ説とを整合さ せようと努めている。 ヨーガ行者の知については、ジネーンドラプッディが「解脱の原因Jと呼ぴ、 「主要なものj と表現する点は簡潔にではあるがこのヨーガ行者の知の性格をよ く表している。 擬似知覚についての注釈では、まず最初にダノレマキールティ説に忠実な解釈が 示された後で、概念的構想を欠くにもかかわらずダノレマキールティが知覚から除 外した所調 f眼病知」などを知覚に含め得る解釈が併記される。 意知覚についてのジネーンドラプッディの注釈の仕方や、擬似知覚について示 される見解については興味深い点が多いが、これらについては稿を改めて検討さ せて頂きたいと思う。

(2)

健谷大学悌教学研究室年報第 16号 2012年 3月

《 科 段 》

2.111知覚の定義〔結論〕

A

r

まずJという語は感官知以外の知覚の存在を示唆するものである 2.112知覚の定義の補足 2J 1201本知覚の定義を補足する理由 A知覚の定義を補足する理由について B'定義の補足に関する別解釈とそれに対する批判 2.1121各種の知覚 2.11211意知覚(対象認識と自己認識とヨーガ行者の知)(PS 1 6) 2.1121101*意知覚(対象認識と自己認識) (PS I6ab) A意 知 党 総 説 :"artharagadisvasaTflvitti"の分析 B対象認織 Bl対象認識としての意識の認識手段性に対する難点 B2対象認織としての意識の対象 B3対象認識としての意識の生起について:"anubhavakarapravrtta"の 分析 C食などの自己認識 Cl自己認織に概念的構想がないことの理由(言語協約の不可能性) C2基体の不成立(誕rayasiddha)を指摘する反論とそれに対する答論 :楽は知であるか否か D 余 論 : (1)五種の感官知(五識身)が「意知覚J と呼ばれない理由 / (2)自己認識が「意知覚Jと呼ばれる理由/ (3)意知覚に「知 覚J(pratya!cya)という語が適用される理由 21121102*ヨーガ行者の知 (PSI6cd) A総説 B

r

のみJ(matra) という言及の理由 2.112111概念知の自己認識 (PS1 7ab) A論証式の提示、及び、自己認識の言語協約不可能性 2.1122擬似知覚 (PSI7cd・8ab) A擬似知覚が特に規定される必要性についての間

(3)

Prama1]osamuccaya{ika第一章 (ad問16・ 馳 & 問v)和訳(吉 田) B錯誤知と世俗有知 C特に世俗有知について D特に世俗有知と錯誤知との違いについて E推理と推理結果について F "sataimiram"は第四の擬似知覚を述べたものである H 推理などが擬似知覚として述べられる理由:錯誤知と世俗有知が擬似知 党であることを成立させる実例のため I第四の擬似知覚:概念的構想をもたない擬似知覚に関する例外規定 J第四の擬似知覚に概念的構想がないことについて K第四の擬似知覚についての別解釈 L別解釈に対する反論とそれに対する答論 M "sataimiram"の別解釈:第四の擬似知覚に対する別解釈の結論 《 和 訳 》 2.111知覚の定義〔結論〕 (PS) 以上のように、まず、五感官より生じる知覚という知は概念的構想のないもの である。 (PST)

A

r

ま ずj と い う 語 は 感 官 知 以 外 の 知 覚 の 存 在 を 示 唆 す る も の で あ る

[

4

9

.

1

4

-

1

6

]

r

以上のように、まずJ云々は、結論である。ここで f以上のよう に、まず、五感官より生ずる〔知覚という知は)Jと言うことによって、さらに、 「まずJという語によっても、五感官より生じるのではない別の〔知覚〕も存在 し、そして、それの特殊な定義は、個別に語られるであろう、というこのことが

(4)

龍谷大学悌教学研究室年報第16号 2012年3月 示唆されている。 2.112

知覚の定義の補足

2

.

1

1201

*知覚の定義を補足する理由

(PS) また、ここでは他派の説を考慮しての〔定義の〕限定要素があるけれども、す ベて〔の知覚〕は、概念的構想のないものに他ならない。 (PST) A

知覚の定義を補足する理由について

[49.16・50.12J また、そのすべて〔の知覚〕が概念的構想のないものに他なら ぬ、ということは、『ニヤーヤムカ』において理解される。それ故に、ある抜け 目のない者の問題提起を〔ディグナーガは〕予想するのである。その場合の諮問 はこうである。一一「そのすべての異なる知覚は概念的構想の無いものに他なら ない。従ってまた「知覚は概念的構想を欠くjと云うこの〔定義〕だけで〔すべ ての知覚は〕包含されているではないか。それというのも、『ニヤーヤムカ』に よって〔すでに〕これら〔種々の知覚〕の定義は別個に与えてられているのだか ら。そうであるのに、何の・目的があって、この (W プラマーナサムッチャヤ~) におし

1

て、別個にこの特殊な定義が述べられるのかJ と。【答】これに答えるべ く「またここでは他派の説を考感しての (p紅 側ata句 e!q;am) (定義の〕限定要素 (vise号BQa)があるJと〔ディグナーガは述べたのである )0

r

限定要素J(vise与問a) と「特殊J(vise~a) と「個物 J (bheda) とは同義語である。そして、それ(

r

限 定要素J)は、論述の流れからして、「知覚の定義の〔限定要素)Jと理解される。 「ここでJ、とは本論番で、の意味である。 (r他派の説を考慮しての定義の限定

(5)

Pramat}asamuccaya,結 第 一 章 { 必 問i{ 16・ 紬 & 陀V)和訳(吉 田) 要素Jとは、〕この個別になされる特殊な定義は、他派の者たちの、誤解を特徴 とするところの学説を考慮Lたものである〔ということである〕。それら〔種々 の知覚〕のうち、意識という知覚に関しては「それが感官知によって直接経験さ れたものに他ならぬ対象を把握するJと或る者たちは誤解するのである。食等の 自己認識に関しては「それ(食等の自己認識)は決して存在しないJ(という誤 解がある〕。ヨーガ行者の知に関しでも同様のそれ(誤解)がある。そのように 他派の者たちの誤解があるから、それを考慮して、「知覚は概念的構想を欠くJ という〔定義〕によって五感官より生じるのではない知覚も包含されているのだ けれども、他派の誤解を否定するために、別個に特殊な定義が語られる、という 趣旨である。 B定 義 の 補 足 に 関 す る 別 解 釈 と そ れ に 対 す る 批 判 [50.13・51刀 ところで、他の者たちは一一

r

r

五感官より生じる〔知〕で概念的構想を有するものがあるのか?もし あるとすればこの『限定要素J (vise切りa)が〔必要でも〕あろうがjという ので〔それに対して) .rまた、他派の説を考慮してj云々と〔ディグナーガ は〕述べたのである。他派の者たちは「感官より生じる知の或るものは概 念的構想を有するが、それは言語活動に習熟している者の〔感官知〕であ る。或るものは概念的構想がないが それは反対〔に言語活動に習熟して いない者〕の〔感官知〕であるJと考える。だから、感官知に対する「概 念的構想を欠くJというこの限定要素は、それ(=他派の説)を考慮、した ものであり、他派によって想定された概念的構想を有する感官知を排除す るためであるJ と説明する。この限定要素(=

r

概念的構想を欠く J)が他派の説を考慮して述 べられたのだとすると、彼らにとって、この他派の説を考慮する限定要素が現に 用いられないときは、〔知覚の〕定義は自説として述べられていないとになろう。 しかし、それ以外に知覚の定義が何かあるのであろうか。「これは適当ではない 言いがかりだろう Jということは正しくない。「けれども、すべて〔の知覚〕は、 概念的構想のないものに他ならないJ と云う〔この)

r

けれどもj という語によ

(6)

龍谷大学備教学研究室年報第16号 2012年 3月 って、「この個別的に述べられた特殊な定義は自説を考慮するものではない。〔自 説に対する〕誤解などないのであるからJという意味を表している。「知覚は概 念的構想を欠いている J というこの限定要素だけですべての定義されるべきもの は包含される。

2.

11

2

1各種の知覚

2.

11

2

1

1意知覚(対象認識と自己認識とヨ}ガ行者の知)

2

.

1

1

2

1

1

0

1

*意知覚(対象認識と自己認識) (

P

S

1

6

a

b

)

(PS) また、意より生じるものも、対象と食等の自己認識は、概念的構想の ないものである。 (PSI6ab) 意より生じるものも、色等の対境 (vi~aya) を所縁(五lambana) とし、概念的構 想がなく、直接経験という形で生起する。そして、食等に対する自己認識は、感 官に依存しないから、意知覚である。 (PST) A

意知覚総説:

11

a

r

t

h

a

r

a

g

a

d

i

s

v

l

ω

a

f!l

v

i

t

t

i

"の分析

[51.8・12] 「また、意より生じるものも……J云々。「またJ(ca) という語は 並列 (samuccaya)の意味で〔用いられている〕。この (PS1 6 abでの]f対象(町伽)J という語は“知られるべきもの" (jneya)の同義語である。「食等の自己 J と云 うのは食等にとってのそれ自身である。この「自己 (sva)Jという語は自分自身 を述べるものである。 (f対象と食等の自己J(artharagadisva)という語は]

r

対象」 と「食等の自己jと〔という dvandva]であって、それの「認識Jが〔すなわち〕 f対象と食等の自己認識Jである。「認識J(samvitti)とは、認識する (S8111

'vid)

(7)

Prama1}asamuccaya(i/ca第一章{“時16・8ab&PSV)和 訳 ( 吉 田 ) ための、〔すなわち〕知る(均筒)ための手段、という意味である。「認織J(s8.Ipvi抗i) 〔という語〕は(f対象J(紅白a) という語と「食等の自己J (語gadisva) という 語に〕それぞれ結びつく。概念的構想の無いものであるそれ(認識)が意知覚で ある。 B

対象認識

Bl対象認識としての意識の認識手段性に対する難点

[51.13・52.3] それ(意知覚=意識)について、“意識は感官によってすでに把 握されたのと同一の対象を把握する"または“〔意識は〕それ(感官によってす でに把握された対象)とは別の〔対象を把握する

J

"

というこ通り〔の〕が想 定される。もし〔そのうちの〕前者であるとすると、そのこと(対象が感官によ ってすでに把握されてしまっているということ)によって、それ(意識という知 覚)は認識手段ではないことになろう。すでに把握されたものを〔再度〕把握す るのであるから。想起等のように。他方、後者であるとすると、その場合、盲人 等にも対象の把握があることになろう。何故ならば、意識は感官知に依存しない のだから、もし外界対象に対して生起するのだとすれば、その場合、眼等が害わ れた者にも〔外界対象を〕見ることがあることになってしまう。だから、それ(意 識という知覚)は〔その〕どちらなのか、ということが語られねばならないから 〔ディ.グナーガは)

r

意より生じるものも……」云々と述べたのである。

u

色等 の対境J(rüpãdivi~aya) とは)

r

色等jであって、また、それらは「対境Jである、 という kannadharayaである。

B2対象認識としての意識の対象

[52.4-17] 【問】しかし、色などは対境 (vi担ya)に他ならないではないか。そ の「対境J (吋aya) という言及は何のためなのか。 【答】現に所縁とされていない色等を排除するためである。というのも、現に 認識されていないものは対境ではないからである。転義的適用によって、同種の

(8)

飽谷大学備教学研究室年報第16号 2012年3月 ものとして「対境J(vi~aya) と呼ばれることがあるかもしれないが、第一義的な 対境としてではない。 【問】ではまた、それら

u

色等の対境J というものは〕は何の対境なのか。 【答】〔それらは〕直前の感官知の〔対境である)0 (一連の〕議論の主題であ るということにもとづいて

(

p

t

a

t

v

a

t

)

、まさにそれ(感官知)の〔対境である と理解される〕。色等の諾対境の変化

(

v

i

k

a

r

a

)

(すなわち)

r

色等の対境Jの変化、 それが、あるものの「所縁J(剖

a

m

b

a

)

である、〔という

b

a

h

u

v

r

i

h

i

として〕そ のように

c

r

色等の対境を所縁とするJと〕述べられているのである。「また、 集合と変化〔を意味する〕第六格〔に終わる語が後の要素となる〕所有複合語が 形成される。そして、後の要素は脱落するJという規定にもとづいて、〔この「色 等の対境を認識対象とするJ(而pãdivi~ayãlambana) という語は〕複合語であり、 後 の 語 (

v

i

k

a

r

a

)

が脱落しているのである。「黄金の飾りJ(SUVarI}剖組踊

r

a

)

とい う場合と同様である。 【問】ところで、対境の変化とは何なのか。 【答】それ(特定の対境)によって生み出された特殊な直後の瞬間が、それの 変化である、-と言語表現される。しかし、基体が恒常的に存続していて、一方の 属性が隠れ、他方の属性が顕れるというのではない。サーンキャ学派が想定する 展開 (paril)

a

m

a

)

は否定されるのであるから。したがって、次のように述べられ ていることになる。

r

(意知覚は〕感官知の対象の直後(等無関)に生じた色等 の瞬間を所縁とするJ と。このことによって〔意知覚が〕認繊手段ではないと いう過失は排除されている。もしも「それでは、どのようにしてそれ(意知覚) の対象は限定されるのか」というならば〔以下のように答えよう〕。どのように してかというと、それ(意知覚)に或る特殊な等無関縁〔となる感官知〕がある 場合、その〔感官知〕はまさに〔その感官知〕自身の対象から生じた直後の色等 の瞬間〔のもの〕と同時に作用し、それ(意知覚)を生起させるのである。だか ら、それ(意知覚)はまさに上述のもの(感官知の対象の直後の対象)を対象と する、と理解せよ。

B

3対象認識としての意識の生起について:"

a

n

u

b

h

a

v

a

r

a

p

r

a

v

r

t

t

a

"の分析

(9)

Prama1}asamuccaya{ika第一章 (00PS 16・紬&:PSV)和訳(吉 田) [53.1・8]

r

直接経験を形相とするものによって生起するJについて。 「直接経験J(anubhava)とは、直接経験 (anu-%hu) するための手段という意 味である。「形相J(akむa) とは顕現である。-しかし、それ(形相)は直接経験 を性質としないものもある。たとえば想起等のそれ(形相)である。だからそれ (直接経験ではない形相)を排除するために『直接経験Jという言及があるので ある。 (anubhava-放五raという語は)

r

直接経験Jという「形相Jをもっ “それ"、 と〔し、う bahu町耐iとして〕述べられているのである。 【問】ところで「それJ とは何なのか。 【答】先に述べた道理により、まさに感官知である。その「直接経験Jを f形 相j とするもの(感官知)によって『生起するj、〔すなわち〕生み出されるも のが、「直接経験を形相とするものによって生起するJものである。〔つまり〕 次のように述べられていることになる。〔意知覚は〕感官知という等無関縁によ って生み出される、と。このことによって、『盲人等も〔外界〕対象を把握する はずだJ、と述べられた〔過失〕が排除される。何故ならば、それ(意知覚)は 諸々の外界の対象に対して独力で生起するのではないからである。ではどうなの かというと、感官という原因に依存〔して生起〕するのである。そして、盲人等 には感官知は存在しないから、それ(外界の対象を認識する意識)はない。 C

食などの自己認識

Cl 自己認識に概念的構想がないことの理由(言語協約の不可能性)

[53.9・ 54.9]

r

また食等の自己認識も……Jについて。 f自己J(sva)の「認 識J(組pve白na)が「自己認識J(svぉ3Ipve白na)である。「認識J ( saIpvedana) とは認識 (sarp-"vid)するための手段という意味である。「能取相J(gr剖,lakakara) と呼ばれ、直接経験を本性とするものである。というのも、まさに〔その〕直接 経験を本性とするものとして、食等は、直接経験そのものとして顕現しつつ、自 己を認識させるのである。だからまた "atm邸 側vedana"(自己認識)とも呼ばれ る。従って、それが直接経験を本性とすることが、それら(=食等)にとっての 認識手段である。他方、自己理解を本質とする(svadhigamatmaka)認識 (S仰 ved叩 a) が 存 在 の 形 (bhavarupa) をとる場合、それ(認、識)はそれ(認識手段)の結果

(10)

飽谷大学悌教学研究室年報第 16号 2012年 3月 であると理解せねばならないが、それら〔食等の自己認識〕の認識対象 (prameya) は〔食等〕自身である。 「食等Jの言及は〔自己認識であることが〕明瞭な認識を示すためである。あ らゆる知について〔それらの知の〕自己認識は知覚〔されるもの〕だからである。 しかし、〔その食等の自己認識が〕概念的構想のないものであるということは、 それ(食等の自己認織)が〔言語〕協約不可能なものであるということによる。 というのも、対象となっているものに対しては〔言語〕協約を為すことが可能で あるけれども、〔自己〕認識

(

s

a

r

n

v

i

i

)

は未だ生起していない食等自身を対象と するのではない。〔自己認識が〕食等自身であることにより、〔食等が生起して いないときは〕それ(食等の自己認識)もまた未だ生起していないのであるから。 食等自身がすでに生起した場合でも、認識は言語表現 (abhilapa) と結びつかな い。それというのも、それ(認識)は言語表現を受けて後に〔その言語表現を〕 それ(食等)に結びつけるはずだけれども、言語表現を抱擁する時には、利那滅 性の故に、それ(認織)は〔すでに〕無く、また食等も無いので、〔一体〕何が 何と結びつけられるのであろうか〔。結び付けられるものは無い)0 (したがっ て、〕言語協約が不可能であるから、食等の認識は言語表現を伴わない。 【遍充関係】 甲によって乙に対する言語協約が把握されないならば、 甲は 語と乙を結びつけてから〔乙を〕把握するのではない。例えば 眼識が香を〔把握しない〕ように。 【主題所属性】そして、それ(食等)の認識によって食等自身に対する言語協 約は〔把掻され〕ない。 ((結論} 食等の認識は語と食等自身とを結び付けてから〔食等自身を〕 把握するのではない。〕 【証因】 原因の非存在〔の認識〕

C2

基体の不成立(aS

r

a

y

a

s

i

d

d

h

a

)

を 指 摘 す る 反 論 と そ れ に 対 す る 答 論 : 楽

は知であるか否か

[54.10・ 56.2] この点について、ある者たちは言う。-【反論】基体の不成立があ る。つまり、〔目下〕自己認識が概念的構想のないものであることが論証される

(11)

PramO1Jasamuccのati厄 第 一 章 { 必 陀, 16・8必 & 陀v)和 訳 ( 吉 田 ) べきことなのであるが、まず、知にさえもそれ(自己認識)はない。それなのに、 知という性質をもたない楽等に、どうして〔楽等の自己認識があろう〕か。とい うのも、それら(楽等)は、同一のアートマンに知とともに内属 (samavaya)す る こ と に よ っ て そ の 同 ー の も の ( ア ー ト マ ン ) に 内 属 し て い る 〔 知 〕 (eka-artha・samavayin)によって把握されるからである。というわけで〔楽等は〕 それ自身としては、認識対象 (prameya)であるのみである。従って、それら〔楽 等〕は他に対しでも認識者ではない。ましてや自己に対してどうして〔認識者で あろうか〕。 【答論】彼ら〔反論者〕は、その(楽等の)知が楽等の形相をもっということ を必ず承認せねばならない。さもなければ、それ(楽等の知)にとってそれら(楽 等)が知られるべきものでないことになろう。何故ならば、諸対象の認識が知で あるという性質 (jnan鎚倒的だけを有することは不合理だからである。それ(知 であるという性質)は、全て〔の認識〕において区別がないのだから、〔そのよ うな性質をもっ認識は〕全ての対象を把握することになってしまうからである。 〔論証式〕 【遍充関係】 知甲が乙の形相を欠くならば、申は乙を認識するものではな い。牛の知が馬の〔形相を欠くので、馬を認識するものでは ない〕ように。 【主題所属性】 そして、楽等の知は楽等の形相を欠く。 〔【結論】 楽等の知は楽等を認識するものではない。〕 {証因】 能遍と矛盾するもの {反論】知がそれ(楽等)の形相をもっにせよ、そのことにもとづいて何が〔帰 結するの〕か。 {答論】そのことにもとづいて、喜悦や苦悩等の形相を伴うもの、それこそが楽 であるということであるから、楽等が知を性質とすることが成立.する。何故なら ば、満足等を形相とする事物が知 (bodha)を性質とすることは彼ら〔反論者た ち?]にとっても成立しているからである 。それに対して、知、楽、苦、等々 の名称が望みに応じて用られてよい。誰も〔そのことを〕止めないだろう。喜悦 等として知られる形相が知を性質としない楽等によって作られるのではない、と いうように、別の場所で説明されているけれども、ここでは文章が多くなること を恐れて、取り上げない。 また、「楽等は内的なものでもなく、心的なものでもない。ではどうなのかと

(12)

龍谷大学悌教学研究室年報第16号 2012年3月 いうと、それと逆〔の、外的、非心的〕の本性を有する認識対象に他ならないj と述べる者にとっても、上述の理論によって、〔楽等は〕喜悦等を形相とする知 を本性とする事物として成立している。そして、その〔楽等〕の自己認織が知覚 であると述べられたのであり、反論者が想定している、それと異なる楽等の〔自 己認識が述べられたの〕ではない。そして、その〔知を本性とする楽等の〕自己 認識が論証されようとしているのである。だから、基体の不成立はない。 D余 論 :(1)五種の感官知(五識身)が「意知覚

J

と呼ばれない理由/ (2) 自己認識が「意知覚J と呼ばれる理由/ (3) 意知覚に「知覚J (pratya/cya)という語が適用される理由 [56ふ10] 【反論]実に感官より生じるすべての知にとっても、意は所依だと もいうではないのか。それら五識身は〔五つの物質的感官のいずれかーっと意と の〕二つの感官を所依とする、と言われるからである 。だから、どうしてこれ (意知覚)のみが意より生じるものと言われるのか。【答論】〔ディグナーガは〕 f感官に依存しないからJと述べている。物質的感官に依存しないから、という 〔のがその〕意図である。およそ或るものの所依が意だけであり、物質的感官で はないならば、それは意より生ずるもの

(

m

a

n

a

s

a

)

とされる。 【問】ところで、およそ五織身、及び、それと相応している食等、それらの自 己認識が意知覚である〔とされる〕のは何故か。【答]自己認識一般として、同 種だからである。 【問】ところで、〔意知覚は〕感官に依存しないのに、どうして f知覚J

(

p

r

a

t

y

a

k

羽) という語が適用されるのであろうか。【答】「知覚J(pratyak~a) という名称が、 感官(誌与

a

)

を〔適用〕根拠とするかぎり〔ではそうでもあろうが〕、これ

(

p

r

a

t

y

a

k

伊) は特殊な知に関する術語 (sanjna)である、ということはすでに述べた。あるい はまた、意も感官 (a均a)であるから、他の立場でも過失はない。

(13)

Prama1Jasamuccaya(i/ca第一章{“問16・ 紬 & 時V)和訳(吉 田) 21121102*ヨーガ行者の知 (PS1 6cd) (PS) 同様に ヨーガ行者たちの、師の教示をまじえない、対象のみの認識〔も知覚 である)0 (PS I6cd) ヨーガ行者たちの、教説に対する概念的構想をまじえない、対象のみの認識もま た知覚である。 (PST)

A

総説 [56.11・57.2]

r

同様に、ヨーガ行者たちの……jについて。概念的構想のな い意知覚と同様に、ヨーギン行者たちの〔知〕もまた〔概念的構想がなく、知覚 である、という意味〕である。精神統一(定,sama品i)がヨーガである。それ(ヨ ーガ)を有する者たちがヨーガ行者である。「師の教示をまじえないJについて。 この〔文言〕では、対象によって対象を有するものが表現されているので、「師 の教示J という語によって f(師の〕教えに対する概念的構想jが述べられてい るのである。それを「まじえないjとは、欠いている、という意味である。この こと(概念的構想を欠くこと)によってそれ(ヨーガ行者の知)が明瞭に顕現す るということも理解される。概念的構想がないということは〔顕現の〕明瞭性と 非逸脱的関係にあるからである。「のみJ(-m加a) という語は〔概念的に〕付託 (増益)された対象を〔ヨーガ行者の知の対象から〕排除するためである。従っ て、聖なる真理の認、織の如く、実在を対象とするもののみが正しい認識手段なの であって、非実在を対象とする惑乱された地遍処等〔は正しい認識手段〕ではな い。

(14)

龍谷大学備教学研究室年報第 16号 2012年 3月

B

r

の み

J

(matra) という言及の理由 [57.2・7] 【反論】しかし、この〔上述の〕意味内容は、〔これ以降に〕述べる であろう例外規定だけで理解されるのではないか。従って、「のみJという言及 に何の用があろう。【答論】これはもっともであるが、そうであっても、主要で あることを知らしめるため〔に「のみJ という言及がある〕のであり、この〔ヨ ーガ行者の知に関する〕定義文においてこそ、この意味が明らかにされるのであ る。また、〔ヨーガ行者の知は〕解脱の原因であるから主要なのである。また、 それ(ヨーガ行者の知)は反復実践(修習)の完成の結果であるから、概念的構 想のないものであり、かつ、明瞭に顕現するものである。 〔論証式一一〕 [遍充関係】 およそ或る知が反復実践の完成の結果であるならば、その 〔知〕は概念的構想のないものであり、かっ、明瞭に顕現す るものである。たとえば、〔愛する者に対する〕愛欲や憂悩 等に惑わされている者たちの、愛する者を対境とする知のよ うに。 【主題所属性】 そして、ヨーガ行者の知もまた同様〔に反復実践の完成の結 果〕である。 〔【結論】 ヨーガ行者の知は概念的構想がなく、かっ、明瞭に顕現する。〕 [証因】 本性因 2

.

1

12111概念知の自己認識 (PS1 7ぬ) (PS) もし、食等の自己認識が知覚であるならば、概念知もまさに知覚ではないか。 確かにそうである。 概念知もまた自己認識である場合は〔知覚であると〕認められる。対 象に対しては〔知覚〕ではない。概念的構想があるから。 (PS1 7ab) その対象に対しては、食等のように、知覚ではないけれども、自らを認識すると

(15)

Prama,J1asamuccaya{i焔 第 一 章 { 凶 悶 16・紬&:PSV), 和訳(吉 田) いえば〔知覚であるといっても〕過失はない。まず、知覚は以上のようである。 (PST) A論 証 式 の 提 示 、 及 び 、 自 己 認 識 の 言 語 協 約 不 可 能 性 [57.8・15]

r

概念知もまさにJについて。この〔文言〕の意味は以下のように 〔論証式化される〕。 〔論証式一一〕 【遍充関係】 およそ或るものが自己認識されるならば、それは自己を知る という点では (sva品igamaqlprati)知覚である。食等の知の知 し。 【主題所属性】 同様に、概念知も〔自己認識される〕。 〔【結論】 概念知も自己を知るという点では知覚である。〕 【証因】 本性因 「確かにそうであるj云々〔の文言〕によって、〔ディグナーガは以下の〕望 ましいことの成立を示している。〔ディグナーガは〕次のように考えるのである。 「対象乙に対して、或る知甲が言語協約を把握するならば、〔知〕甲は乙に対し て語を介することによって乙についての対境認識なのであるから、概念的構想を 有するものとなる。しかし先に述べたように〔その知〕自身は言語協約が不可能 である。したがって、それ(知自身)が認識されるべき場合は、全ての知は知覚 に他ならない" ということである。 「まず、知覚は以上のようであるjについて。「まずJという語は順序の意味 で〔用いられている〕。知覚を述べた後で擬似〔知覚〕に言及する、という順序 である。

(16)

龍谷大学悌教学研究室年報第16号 2012年3月 2

.

1

122擬 似 知 覚 (PS1 7cd・8ab) (PS) 錯誤〔知〕と世俗有知と、推理と推理結果と、 (PS1 7cd) 想起と欲求とは、眼病知/虚偽知とともに、擬似知覚である。 (PS1 8ab) そのう.ち、錯語知は、陽炎等に対して水等の概念的構想が起こるから擬似知覚で ある。〔世俗有知は〕世俗有に対して他の対象を付託することにより、その〔他 の対象の〕形相をもった概念的構想が起こるから〔擬似知覚である〕。推理とそ の結果等の知は、過去に直接経験したものを概念的に構想することによるから、 知覚ではない。 (PST) A擬 似 知 覚 が 特 に 規 定 さ れ る 必 要 性 に つ い て の 問

[

5

8

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3

]

【問】しかし、〔ディグナーガは]

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知覚は概念的構想を欠くj と言 っているのだから、擬似知覚は概念的構想を有するものであると述べたことにな る。そして、それ(概念的構想を有するということ)はまさに先の箇所で「名称 や普通等と結合させることJ(という文言〕によって述べられているのではなか ったのか。だから、再度それについて語ることに何の目的があるのか。 【答】どういう目的があるかを、後の箇所で説明するであろう。 B錯 誤 知 と 世 俗 有 知

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錯誤〔知〕と世俗有知……j云々について。「そのうち、錯誤知はj というこの〔言葉〕によって、まず、別のものを対象とする概念知の一つが述べ られたのである。それというのも、〔人々が〕非存在に他ならない水という別の ものを、言語協約によって陽炎などに付託(噌益)させるとき、〔水の〕概念知

(17)

Prama1Josamuccaya{i結 第 一 章 ( 叫 問 16, ・8ab&:陀v)和訳{吉 田) が生じるからである。 く諸々の世俗有に対してJ云々〔という文言〕によって、第二の、言語協約に よる付託による概念知が起こる。 【問!ところで、諸々の「世俗有に対するJ知が「擬似知覚Jであるのはどう してか。 【答】「別の対象を付託するからjと〔ディグナーガは〕述べている。色を始 めとする諸々の(仮設の実在)(p

刈筋.p

tiv邸側)に対して、別のものである〈壷〉 などを付託するのだが、〈仮設の実在)(prajnaptiv部tu)のみが理解されるのでは ないからである。 【問】ところで、どのようにしてそのことは知られるのか。 【答】「その形相をもった概念的構想が起こるからである J と〔ディグナーガ は〕述べている。つまり、それら世俗有を、別の対象として概念的に構想すると き、〔世俗有知は〕生起するのである。世俗〔有〕知は壷等を〔仮設の実在に〕 付託する。付託された対象の形相の概念的構想によって活動が起こされるからで ある。しかし、それ(世俗有知)は仮設の実在のみを理解するのではない。 C特 に 世 俗 有 知 に つ い て [58.14・59.7J まず、その〔錯誤知と世俗有知〕のうち〔世俗有知については〕、 諸々の色等が、水の把捉等の同一の結果をもつことにより、それ(水の把捉等を 結果とするもの)以外から区別さた[それらの〕全体の、〔それら〕自身の結果 に対して、それに対する世間の人々の言語協約にもとづいて、壷等という別の対 象を欠いているにもかかわらず、諸々の色等に対して、別の対象(壷等)を実在 するものとして付託し f壷だj、「布だ」等の概念知がはたらく。同様に、集合 等の排除を結果とする語の適用に依拠して、単一性等を適用する〔概念知が起 る〕。同様に、 (1)別の場所に生じるものや、 (2)存在するものや、 (3)同一の 結果をもっ多数のくのものからなる諸々の集合体や、 (4)無間隔であること等 の段階、に対して、そのようではないものを排除するために、言語協約にもとづ いて、別の対象である (1)運動、 (2)存在性、 (3)壷性等、 (4)結合等、を順 次に付託し、概念知が生じる。従って、以上のように様々に、言語協約に依拠す

(18)

龍谷大学悌教学研究室年報第 16号 2012年 3月 るものは語の概念的構想に他ならない。これが第二の概念知(=世俗有知)であ る。 D特 に 世 俗 有 知 と 錯 誤 知 と の 違 い に つ い て [59ふ 13] 陽炎等に対する水等の概念的構想は、水でないものの排除のために 水に対して為された言語協約のみにもとづいてはたらくというのではない。もし 〔言語協約のみにもとづいて起るの〕であれば、〔陽炎等に対する水等の概念的 構想は〕同じ言語協約に依拠する〔概念知〕に含まれるのだから、それが別個に 述べら.れるべきではないだろう。ではどうなのかというと、非存在に他ならない 水等という、過去に経験した全く別の対象を、言語協約にもとづいて、そこにあ る実在 (bhuta)の集合体に付託して〔水の概念知が〕生起するのである。まさ にその故に、「水等の概念的構想が起こるからJと〔ディグナーガは〕述べたの である。しかし、壷などは〔壷〕自身の質料因 (upadana)と別に存在し得ない。 〔従って)

r

言語協約のみを原因としてそれを付託する概念的構想jと、先の〔錯 誤知〕とは区別して述べられたのである。 E推 理 と 推 理 結 果 に つ い て [59.14 -60.5]

r

推理やそれの結果の知などJについて。「推理Jとは推理する ための手段〔の意味〕で〔用いられて〕あり、〔換言すれば〕証相 (linga)であ る。それ(=証相)に対して、「この煙はあれに他ならないj というように関係 付ける時に「直接経験したjものについての「概念的構想Jによって引き起こさ れる「知J[が「推理の知J)である。「それの結果J、〔すなわち〕証相を有する ものり知にも、「かつて直接経験したものについての概念的構想jが存在する。 「ここにある火はあれに他ならないJ というように普遍(共相, s加lanya) として 推理するからである。「想起Jにも、「このように私はそれを直接経験したJと いうように、かつて経験したものの形相をもっ概念的構想がある。「欲求J も、 かつて直接経験したものについての概念的構想を超えるものではない。それ(=

(19)

PramO1)asamuccaya{ika第一章 (ad問16・8ab&:陪V)和 訳 ( 吉 田 ) かつて直接経験したものについての概念的構想)がなければ欲求は存在しないか らである。「などJ という語によって疑惑知に〔も〕言及している。それ(=疑 惑知)にも、 fこれはあれに他ならないのか、それとも別のものなのかj という ような形の、かつて経験したものについての概念的構想が生じるからである。以 上が第三の、かつて直接経験したものについての概念知である。 F

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"は第四の擬似知覚を述べたものである

[60.6・7]

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眼病知をともなうJ(sataimiram)とは、この〔語〕によって、感官 の欠陥より生じる眼病知等の知という第四の擬似知覚が述べられている、という。 G

錯誤知と世俗有知が擬似知覚として述べられる理由:概念知が知覚で

ないことを明示するため

[60.8・61.3] その〔上述の四種の擬似知覚の〕うち、前の二つは概念知であっ て知覚ではないと明示するために述べられている。 【問】ところで、どうしてそれら二つ〔の擬似知覚〕に、知覚であるという疑 いがあろうか。〔もしそのような疑いがあれば〕それによって、その否定のため に努力がなされもしようが。 【答】それら二つ〔の擬似知覚〕は知覚の〔瞬間に〕近接して生起するものだ からである。それ故に、生起の時間の微細なちがいが判定し難いことによって、 或る者は、〔そのちがいを〕観察出来ずに、それら二つ〔の擬似知覚〕はまさに 知覚であると、考えるかもしれないのである。また、ある者たちには『壷等とい う世俗有における知や、陽炎等における知は知覚に他ならないJというような誤 解が見られる。それというのも、陽炎等におけるまさにその水等の知の排除のた めに、〔ニヤーヤ学派の〕知覚の定義 に「逸脱しないものJ(avyabhic盈泊)とい う限定要素が用いられているからである。〔そうではなくて]

r

損傷した感官に よって生じる知を否定するためにそれ (r逸脱しないjという限定要素)がある J というならば、そうではない。〔ニヤーヤ学派の知覚の定義における]

r

対象と

(20)

龍谷大学悌教学研究室年報第 16号 2012年 3月 の接触J(arthasannik町卵)という言及のみによって、対象なくして生じたこつの 月等の知〔が知覚とされること〕は止められるからである。そうでなければ、〔彼 らの知覚の定義は]

r

感官より生じるJとだけ言われるべきである。 H

推理などが擬似知覚として述べられる理由:錯誤知と世俗有知が擬似

知覚であることを成立させる実例のため

[61.4・8] しかし推理等の知は、たとえ、過去に直接経験された言語協約の想起 によって起こるのであり、知覚ではないとまさに成立しているから、それ(推理 知)は知覚ではないと成立していても、ここで〔推理知に〕言及するのは、まさ に前述の二つの概念知が知覚ではないことを成立させるためである。 〔論証式一一〕 【遍充関係】 過去に直接経験された言語協約の想起によって起こる〔知〕 は、知覚ではない。たとえばこの推理知等の知のように。 【主題所属性】 そして同様に前述の二つの知も〔過去に直接経験した言語協 約の想起の力によって起こる〕。 〔【結論} 前述の二つの知は知覚ではない。〕 【証因】 能遍と矛盾するもの 以上のように、概念知は〔上述の〕三種のみである。〔これら三種の概念知は 「知覚は概念的構想を欠く J という知覚の〕定義を述べることによって、含意的 に〔知覚から〕排除される。 I

第四の擬似知覚:概念的構想をもたない擬似知覚に関する例外規定

[61.9・13] しかし第四の擬似知覚は、この〔四種の擬似知覚の〕うちでは例外 と見ねばならないのであって、〔知覚の〕定義を述べることによって合意的に〔知 覚から〕排除されるものの例ではない。さもなくぱ、定義の逸脱があるであろう 。したがって、その例外を述べることによって、外的及び内的損傷という原因に よって損なわれた感官による知は、概念的構想を欠いてはいても、擬似知覚と言

(21)

Prama1}asamuccaya{i.版第一章(3dPS' 6・ 紬 & 問V)和訳(吉 田) われるのである。ところで、「眼病知を伴うJという〔語について〕は、「ここ では「眼病J(という語〕はただあらゆる感官の欠陥の原因の代喰にすぎないと 見るべきであるj と言われている。 J第 四 の 擬 似 知 覚 に 概 念 的 構 想 が な い こ と に つ い て [61.14・62.9] しかし、或る者が「二つの月等の知は感官より生じる〔知〕で は決してない。そうではなくて、意より生じる〔知〕に他ならないJ と言うなら ば、〔そう言う〕彼によって「感官より生じる〔知〕の特徴は何かJが述べられ ねばならない。もし「感官の有無に従うことである J と言うならば、それはこれ (二つの月等の知)の場合も〔感官があれば二つの月等が見られるが、感官がな ければそのようなものは見えないのだから〕同じである。もし「それ(感官)の 変異によって変異することであるJと言うならば、これについても、全く閉じく 答えられる。さらにまた、もし〔二つの月等の知が感官より生じるものではなく、 意より生じる知=概念知〕であるならば、蛇等の錯誤〔知〕の如く、〔消滅させ たいという〕意欲によって消滅するであろう。何故ならば、概念知は冷静な思考 によって消滅させることが出来るのだから。さらにまた、〔二つの月等の知が意 より生じる知であるとすると〕感官が変異している者が〔感官の〕変異が無くな るときも、概念的構想するときには〔二つの月等の知〕は無くならないはずであ る。しかし〔二つの月等の知は〕そのようではない。だから、これ(二つの月等 の知)・もまた感官より生じる〔知〕にほかならない。また、師〔ディグナーガ〕 は

(

W

プラマーナサムッチャヤ』自註において )

r

実にそれら〔対象〕も真実に は、別様に存在しているが、二つの月等として顕現したり青等として顕現したり する知の原因となるJと述べている。〔今は〕この点に立ち入るべきではない。 そのように、感官より生じていても誤謬〔知〕であることもある。まさにその故 に、「錯誤J云々ということによって述べられた概念的構想の一群が、「と (iti)J という語によって区別されているのだから、師〔ディグナーガ〕は別個に、概念 的構想のない擬似知覚を「眼病知を伴う J と述べたのである。

(22)

龍谷大学悌教学研究室年報第 16号 2012年 3月

K第四の擬似知覚についての別解釈

[62.10・63.15] これについて、〔次のような見解が〕提起される。 【或る者たちの見解】ここ(認識手段の考察)においては欺かないものとして 〔認識者を〕活動させる知が認識手段であると認められている。「何故ならば、 これら二つ〔の認識手段=知覚と推理〕によって対象を決定してから活動すると き、効果的作用について欺かれないからJ、といわれるからである。 さらにまた、感官の欠陥によって生じるとしても、望まれている何らかのもの に対して、欺かないものであり、かっ〔認識者を〕活動させるものであるような 何らかの知も存在し得る。したがって、これが毛髪等が顕現する眼病知等の知で あり、実在する毛髪等が望まれている場合は、欺かないものではないから、〔そ の知〕が認識手段であってはならないが、他方、これが、目が黄痘に冒された者 にある、白い貝等に対して黄色い貝等が顕現する〔知〕であり、また、長期間眼 病に目を覆われていることによってか、あるいは遠く離れていることによって、 明瞭な背等に対して、不明瞭な青等の形相をもっ〔知〕であり、また、船の航行 や〔体内の〕不調和によって与えられた、動かない樹木等に対して動くという運 動をもった樹木等として顕現する錯覚、そのような類いのそれ以外のものも、甲 でないものにおいて甲を把握するから迷乱であるけれども、諸々の実在に対する 関係により、ある場合には、望まれている対象について欺かないものであるから、 まさに認搬手段であるのは妥当である。 それというのも、それ(上述の知)にもとづいて現に活動する者は、障害がな ければ、必然的に、貝等という実在一般に由来する効果的作用能力のある、望ま れている対象を獲得するからである。ところで、これらは欺かないものではある けれども、実在とは異なって (vitatha0 )顕現するものであるから認織手段であ るとは認められないとすれば、推理さえも、まったく閉じ理由で〔認、織手段であ るとは〕認められるべきではないだろう。しかし認められないことはない。した がって、それら〔の知〕も、貝等という実在一般が、効果的作用能力をもつもの として望まれている場合、それに対して欺かないなら、それに対しては認識手段 であることは矛盾しないと我々は考える。また〔次のように〕言うことができる。

(23)

P7GUnãQasantucc~ap厄第一章{凶陪 16 ・ 8必&問V) 和訳(吉田) 〔論証式一一〕 【遍充関係】 およそ或る知にもとづいて活動する人聞が、障害がなければ、 必然的に、望まれている対象を獲得するならば、その場合、 その〔知〕は彼にとって、それ(望まれている対象)に対す る認識手段である。例えば〔認識手段であると〕認められて いる知覚と推理とのように。 【主題所属性】 そして、上述のような知にもとづいて活動する人聞は、障害 がなければ、必然的に、望まれている員殻等という事物一般 を獲得する。 〔【結論】 上述のような知も、それにもとづいて活動する人聞にとって、 その人間によって望まれている対象に関して、認識手段であ る。〕 【証因】 本性因 L別 解 釈 に 対 す る 反 論 と そ れ に 対 す る 答 論 [64.1・7] 次〔のような反論〕が〔この見解に対して〕あるかもしれない。 【反論】貝等一般という実在が〔或る人によって〕望まれている場合は、欺か ないのだから、その〔白い貝に対して黄色い貝が顕現する知〕が知覚であるとい うことは、認められるけれども、黄色等の形相を有する特殊〔な点〕については、 欺くものであるから、〔知覚と〕認められるのではない。 【答論】では、

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眼病知を伴うJ

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というこの例外によって、外的 及び内的欠陥という原因によって損傷した感官による知は、概念的構想を欠いて いても『擬似知覚であるJと言われ、その「眼病知を伴うJという表現における 眼病は、単に、すべての感官の損傷の原因の代日敢にすぎないJ というように説明 されるべきでもないだろう。損傷した感官による知でさえ、或るものは知覚なの だから。また、“無迷乱"

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という限定要素は用いられるべきではない。 迷乱であっても、ある場合に、知覚であると認められるものもあるからである。

(24)

龍谷大学悌教学研究室年報第16号 2012年 3月

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の 別 解 釈 : 第 四 の 擬 似 知 覚 に 対 す る 別 解 釈 の 結 論 [64.8・65.6] したがって、「眼病知を伴う J (sataimiram)というこの例外規定 句は別様に説明される。この「眼病J(timira)という語はここでは「無知J(吋nana) を表現するものである。たとえば「愚者たちの無知の破壊 J (timirag加 問1 ca mandanam)云々という文におけるように。旬imira とは「無知J(timira)のなか にあるもの、〔という意味で timiraに 旬ddhita接尾辞 aが適用された語〕である 。そして、文は排除を結果とするから、全ての文は制限を有する。だから、無 知〔の状態〕にのみある、という制限を有する文の意味で、 taddhita 接尾辞が適 用されて〔“taimira" という語形が形成されている〕。ところでこれ (taimira) とは何か。欺きである。もしそれが存在するならば無知(吋nana)にのみ存在し、 〔正しい〕知(jnana)には存在しない。それ(正しい知)は常に欺かないもの であるから。そしてこれ(正しい知が欺かないものであること)は世間の人々の 聞で周知のことである。その偽き(凶mira) とともにあるから「虚偽を伴うj (sat剖miram)というのである。欺くものというほどの意味である。そして、概 念的構想を伴った欺くものが「錯誤〔知)J云々の語によって述べられているの だから、〔それらとは区別されている〕これ(sataimira)は概念的構想を欠くも のであると決定される。 f想起と欲求とjという〔語句〕については、「と (ca)J という語は並列の意味であり、そして語順が置き換わったものである。〔正しく は) r[想起と欲求〕と虚偽を伴う J というように見るべきである。したがって、 次の意味となる。“・・・と欺く知とは擬似知覚である" と。そのように、錯 誤〔知〕もまた概念的構想を欠き、或るものに対して欺かないならば、それに対 しては知覚であるが、一方、或るものに対して欺くものであるならば、それに対 してはそれ(知覚)に似て非なるもの(擬似知覚)である、ということが成立し ていることになる。そして、そのようであるならば、どんな矛盾もない。概念知 のように。概念知は、自らを知るという観点からすれば知覚であり、外界の対象 の観点からすればそれ(知覚)に似て非なるもの(擬似知覚)であって、矛盾は ないのであるから。同様に、上述の知(異常な感官より生じる知等)にもまた、 対象のちがいに依拠してその〔知覚と擬似知覚との〕二つがある。

(25)

PramO7}asamuccaya,i(崎第一章{“同16・8ab& PSV)和 訳 ( 吉 田 ) 《資料・略号》 AKBh 恥IBh PS PSV PST PVin PVP PVT 桂 [1982] Abhidharmakosab~ya : Abhidharma-Koshabhasya. Ed.by P.Pradh佃 . K. P. Jayaswal Research Institute, Patn,a1967.

M油五bh~a : The ~品arQ1Ja- Mahab

l

z

a

.

D

l

a o[ Patanjali.Ed.by F. Kielhom. Govemment Cen仕alPr回s,Bombey, 1909.

Pram~asamuccaya : cf. PSV Pram両部amuccaya可制:cf. Steinkellner [2005], Hattori [196句. Pram~asamuccayatikã : ( サ ン ス ク リ ッ ト 語 テ キ ス ト ) Jinendrabuddhi's ViSalamalavati PramO1Jasamuccaya(ika Chapter1, Part 1 : Critical Edition, by Emst Steinkellner, Helmut Krasser, Horst Lasic. China Tibetology Publishing House, Austrian Academy of Sciences Press, Beijing -Vienn,a2005. / (チベット語訳テキスト)デルゲ 版 No.4268,北京版 No.5766.

Pram~aviniscaya : Dharmalarti'sPramO1Javiniscaya Chapter 1 and 2. Critically edited by Emst Steinkellner. China Tibetology Publishing House, Austrian Academy of Sciences Press, Beijing -Vienn,a2007. Pramal}avarttikapanjika (by Devendrabuddhi) :デノレゲ版 (D)No.4217, 北 京 版 (p) No. 5717. (D, Pともに本稿での番号は Che-) Pramal}av訂ttikatika(by Sakyabuddhi) :デルゲ版 (D) No. 4220,北 京 版 (P) No.5718. (D, Pともに本稿での番号は Nye,・) 桂 紹隆「因明正理門論研究[五]JCW広島大学文学部紀要

J

42, 1982, pp. 82・99.)

(26)

久間 [2008] 小林 [2008] 桜部 [1975] 戸崎 [1979] Funayama [1999] Hatto司[1968] Steinkellner [2005] 龍番大学備教学研究室年報第16号 2012年3月 久間泰賢「ジネーンドラプッディにおける『意における知覚J と「自己認識J

(

W

論集.!I13,三重大学人文学部哲学思想学系,三 重大学教育学部哲学倫理学教室,2008, pp. 91・100.) 小林久泰「仏教論理学派における知覚の分類再考J

(

W

印度学仏 教学研究.!I56-2,日本印度学仏教学会,2008, pp. 928・924) 桜部建『倶舎論の研究界・根品.!I,法蔵館,1975(第二刷) . 戸崎宏正『仏教認識論の研究 上巻』大東出版社, 1979. Toru Funayama.“Kamalasila's Interpretation of 'Non-erroneous' in白e Definiton of Direct Perception and Related Problems."Dharmakirti's Thought and lts lmpact on lndian and Tibetan Philosophy (Osterreichische Akademie der Wissenschaften. Philosophisch・historische Klasse Denkschriften, 281). Verlag der OsterreichischenAkademie der Wissenschaften, Wien, 1999, pp. 73・99.

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(27)

丹'Qma1}asamuccaya{ikii第一章 (ad時16・8帥 馴 和 訳 ( 吉 田 ) me吋dp仰ayin y叩g“…….“. シヨン 2.112の冒頭に「意知覚jや「ヨ-ガ行者の知jなどに関する諸規定についての 説明が PSVにあるが、それと内容的に連続していることを意識した訳であると言えよう。 またジネーンドラプッディの説明においても、この 2.111末尾部分が 2.112以降で扱わ れる各種の知覚を予想するものと解釈すべきである旨を述べている。 )PSV: eVaql tavat pancendriyajarppratya/cyaj崩na1!lnirvikalpam.印.3,1.4) cf. Hattori [1968] p. 27

ll. 8・9.

PSV: paramatapek寺 卸c五回vis句抑制,S31Ve tv avikalpaka eva.(p.3, 11. 4・5.) cf.H~ttori [1968] _p. .27

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8・ 12~pp. 91・92

note l.~4. 5 Cf.

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因明正理門論

J

(

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大正]-32,p. 3bc);桂[1982]pp. 84・91. 晶Cf.Hattori [1968] p. 92, ll. 8・17(note 1.44). 7 PST校訂テキストでは "t句拘1"(p.51, 1.1) に下線がないが、この "te~äIp"は "apare" を指 しているのではないだろうかd Eサンスクリットテキストは "etaccodyam齢 制 油itarp町五dity a:抑止tametad" (p. 51,江3・4)で あるが、ここで"∞dya"というのは「他の者たちJのいった内容というよりも、それに 対するジネーンドラプッディの批判のことだと解した。また、チベット訳は "rtsodpa 'di yang mnyam p訂 mabzhag par 'gy町 m油 回pa'di ni mi rigs 50"であり、チベット訳の "y釦g"

に当たるものがサンスクリットテキストにはない。

9 PS 1 6ab

&

PSV :

man前 田pc盈thar音頭disv笛arp吋ttir北a1pika(pS [ 6ab)

man邸 創napi品padivi号ay剖amb叩amavika1pakam anubhav誌面ヨ.praηtt創pragadi号uca svasarpve也namindriyanapek担tvanman路 間1praty北署釦1.(p.3, 11. 6・8.)

cf. Hattori [1968] p. 27, 11.13・21.

10Hattori [1968] pp. 92・93,note 1.45,なおこの部分は、久間 [2008]p. 93.にすでに訳出されて

いるので参照されたい。

11PST校訂テキストは "nahya吋jñãyamänav~ayäbhav佃ti"[52.5]であるが、チベット語訳は "mamp訂 shespar bya bzhin pa ma yin pa mams yul du 'gyur ba ma yin no" (D25al・2,

P28a8・bl)である。 日MBh1 pp. 423-424 : sarnudaya'吋 陥m与向thyaSca11 V-artika13 on P匂・2.2.2411samuday碕 碕thya vi焔m拘 thy誕cabahuvnnir vaktavya ut同rapadasyaca lopo v紘tavya1)1 kesaI}盈psam拍車rascfi

4

a

踊yakeaacfi4a1;ll suvan,asya vikaro 'laq武aro'可asuvar写副arpk街地H "直前の“anubhava-紘ara"という複合語の分析で使用された“t説 "(それ)のことであろ う。この複合語は所有複合語であると分析されたので、それではその“anubhava-誌面ョ" を所有するものは一体何なのか、という問であろう。 "食等の自己認織という場合、認織手段 (pramaJ).a)は「それの直接経験を本性とするこ とJ(tad・ 加.ubhava-草 加atva)、認識対象 (prameya)は食自身、そして認識結果 (phala)は 「自己の理解J(sva-a曲igama)である。そして、ジネーンドラプッディは、『食等の自己 認識Jという場合の「認識jを手段の意味とし、それを「能取相と呼ばれるものjと説 明している。これは PS1 10でディグナーガが「認職手段は能取相であるjと述べる点 と一致する。 PS1 10では認識手段・認識対象・認識結果にそれぞれ能取相・〔対象の〕 顕現'自己認識が配当される。 ISチベット語訳ではrgyumi dmig5 pa (kお 初a-anupa1abdhi)となっている。: 16従ってジネーンドラプッディの論証式では「食等の自己認識は食等自身を言語表現と結 合して把握することはなしリが結論となるが、デーヴェーンドラプッディの場合 (PVP, D203a

ι

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7, P237b3-4)は遍充関係が f甲が乙に対して言語協約を把握しないならば、甲は 乙に対して概念的構想するものとならない。香に対する眼織の如しJ(gang zhig gang la brda mi ・也inpa de ni de la mam par rtog p訂 mi 'gy町 te1 世ila mig gi mam par she5 pa lta bu'o

1/ )となっており、主題所属性は「食等の自己認織もまた言語協約を把握しないJ(dod chags la sogs pa'i rang rig pa yang brda・也inpa ma yin no)であるから、結論は「食等の自己認識 は概念的構想するものでないjになり微妙に異なるが、趣旨は変わらないであろう。概

(28)

飽谷大学備教学研究室年報第16号 2012年3月 念的構想は言語表現との結合可能性をその特徴とするからである。 "デーヴェーンドラプッディによればこれはサーンキャ学派からの反論を予想したもので ある。 cf.戸崎 [197勾p.362.. "肯定的な遍充関係は「甲が乙を認織する知であるならば、甲は乙の形相をもっ』である。 そして能遍は「甲は乙の形相をもっJである。この論証式では『知甲が乙の形相を欠 くJというこの能遍と矛盾したものであるということ。 19PST p. 55, l.6.の吋句amapy siddham"の中の "te平面1"はPST校訂テキストにアンダーラ インがないが、このようにも訳することが可能ではないだろうか。 20PST校訂テキスト (p.55, 1.12)では nant盈劫であるが nant訂碕に訂E。 21AKBh on AK 1 44 ; cf.桜部 [1975]pp.230・231. nジネーンドラプッディのこの「自己認識一般として同種だから意知覚と呼ばれるJとい う捉え方については、すでに久間 [2008]p. 94・95にも指摘されているので参照されたい。 n Cf.PST p.39,江 11・12;これはこれ以前の箇所、すなわち知覚の命名根拠に関する箇所 (PS 4ab & PSVについての注釈部分)を指す。 "“praty政事a"とb、う語は、 PSにおいては“凶.panapoQha"という定義にもとづいて使用さ れる名称・術語 (sanjna)に過ぎないのであり、その定義中に感官に関する言及はないか ら、感官に依存しない知覚が存在するとしても問題はない。では何故ジネーンドラプッ ディはここであえて“意も感官であるから"ということに言及しなければならないのか。 小林 [2008]によれば、楽等を“感官から生じるもの" とダルマキールティが述べるこ と、そして、それはディグナーガの言明に矛盾すること、その矛盾を解決するためにプ ラジュニャーカラグプタは“感官から生じるもの" という穏によって“意から生じるも の"(man錨a)が転義的に述べられているのだという。この箇所のジネーンドラプッディ の言う“意も感官であるから" 及び“他の立場" という発言は、ディグナーガとダノレ マキーノレディとの聞の矛盾を意識したものかもしれない。 おPS1 6cd & PSV : ta曲

a

yoginaql gurunirde錨.vyav樹 町 加ham富岡<frk.(pS 1 6cd)

yoginam apy agamavikalpavyav.北irQam町出amatradarsanll1l1pratyak~am. (p. 3, 11. 9・11.)

cf. Hattori [1968] p. 27,払22・28.

お擬似知覚に関する規定 (PS1 7cd・8ab& PSV)を指すのであるう。 27PS 1 .7ab & PSV :

yadi ragadisvasa1flvittil) pratyalcyam

kalpa崎jnanamapi n面na. satyam etat. kalpanapi sv部 出pvittavi~tã narthe vikalpanat (PS I7ab)

ta回 vi~ayer量.gadivadevaapraty~atve 'pi sVaql sll1l1vettiti na do草地.eVaq1 tav拭praty拠am.

(p.3

11. 12・15.) cf. Hattori [1968] p. 27, 1. 29・p.28, 1. 4. 21ジネーンドラプッディが提示するなataimiram"という梧の複数の解釈を反映した。 29PS 1 7cd・8ab& PSV: bhrantisll1l1vrtisajjn五namanumananumanikam (PS 1 7cd) sm盈tãbhil~ikarpcetipraty北~ãbh8qlsataimiram (pS 1 8ab) ta回 bhrantij油laq1m沼崎抑制事utoyadikalpanapraηttatvatpratyak~ãbhãsam, sarpηtisatsu 紅白ant釘adhyむopatta命日:pakalp加apra'可ttatvat.組 問1盈latatphalad討直面l8ql pfuvanubhutakalpanayeti na praty政事am.(p. 3, 11.16・20.) cf. Hattori [1968] p. 28

11. 5・15. 30 Cf.W因明正理門論~ (!r大正~ 32, p. 3b26-cl):由此即説。憧念比度悌求疑智惑乱智等鹿 愛等皆非現量。随先所受分別転故。如是一切世俗有中瓶等数等挙等有性瓶性等智。皆似 現量。於実有中作余行相仮合余義分別転故。;桂 [1982]p. 90・91.;ジネーンドラプッデイ はこの PS1 7cd-8ab& PSVにおいて『因明正理門論』の『疑惑知J(疑智,saq1say吋踊na) も併せて理解されるべきだとしている。

31テキストは“tehi praty北 側yasll1l1可U凶"であるが、チベット語訳は“dedag ni mngon sum nye bar~ug pa dag ste"であり、また、テキスト脚注に指示されているように、ここは

参照

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