1吐繊の利D1i減
世親の系
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那滅
芳 村 博 実
序
この論文で述べようとする主題は.インドの初期瑞伽行唯識学派の教理に 言及するに当たって.一般に「識が'1:じるJ (識生)と云われたり r分別が 生起するJ(分別生起)といわれるものが.一体なにを意味しているのかを 探ろうとするものである。更に.論究を進めるに'Iiたっては,従来すでに発 表済みの以下の考えを基として考察を進める。 ①『摂大乗論』以降.日佐識教学の同体系化が新たになされ,顕現 (abhasa. pratibhasa)とln]レベルで用いられたvijnaptiを「純粋 な識の働き」と理解している。これは.それ以前にあった球伽行唯識 学派の宗教体験を述べる二つの説述形態"すなわち識 (vijnana)を 中心概念とする入無相 j'jf
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キ11の説述と虚妄分別 (abhutaparikalpa) を中心とする三性の説述形態との教理的統合を図ったものである。 ②分別(特に虚妄分別)と識 (vijnana)とはー『中辺分別論』において 異なった概念である。 ③『摂大乗論』以降、それ迄の分別がvijnaptiによって言い換えられ ている。 ④世親は『唯識三十碩』においてvijnaptiを識転変の一つに数え.vij -naptiを識(vijnana)とも顕現とも異なったものとして使用している。 以上である。これらのほとんどは『仏教学研究』第三四・四三号に発表した ものである。そこでは,これら以外にも郁々論じているが,今は現在の主題 -19-世親の剃那減 に関わるもののみを挙げておく。また,引用が従来発表のものと重複するが, 内容が世親の識転変の概念の導入の理由の重要な一面を示唆するものである 点,あえて本論文にも掲示することにする。さらに,以ドに論究する文章の 内容をよくIl"tl床すると,現在,諸処で問題となっている部分に一つのヒント を与えてくれるものと考えられる。特に,職伽行H佐識学派における「界」
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の問題について,またアーラヤ識の問題について,それをLocus
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と見るのかどうかと云う点で重要な示唆を与えるものと 考えられる。 まず,大乗仏教の諸概念を扱うについて問題点がある。一つの概念が使用 されているからといって,それを同ーの意味内容のものと断定した│二で,あ らゆる場合にその怠1,*をもって理解することには問題がある。概念は,時と 環境に従って色々な表情を兄せるものだ,と言える。それだからこそ,一つ の概念の意味内谷の変遷を追うことにより,ある忠氾!の歴史的変避を追うこ とも可能であり,それが,テキストの時代的同定の助けともなりうる。 特に,大乗仏教諭書:において経証の為に,テキスト内容の権威づけの為に, 又は一つの習慣としておいテキストからの引用を行なう場合がある。この場 合,その文字而のみで内容を理解することには危険が伴う。普通,例証とし て何か別のテキストから文が引かれたりする場合には,その文字通りの意味 でヲ│く場合と,新たな解釈をそこに示そうとする場合との両者が考えられる。 また,言い慣わされた「いいまわしJ,今岡取りー│二げる「識が生じること」 または「分月IJ が生じること」と言っても差し支えないが,この様な r~ ,いま わし」についても,その文脈,前後の内容との関係から, jI雌な怠~が求め られねばならないであろう。更には,我々がインドやチベットやq
I [l~の古典 から日本語にそれを置き換えるという作業をしているということを考慮、に入 れねばならない。1忙殺の ~IJlJlí減 「識が生じる」という衣現には,二而が考えられる。一つは1•• ]1時的{JlI]ifJI、で あり.二つには異時的側
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でIi"摂大乗論』第一;本卜九に;iili.べられる①分別 自性縁起と②分別愛非愛縁起に代表されるものである。この場介の分別は 「区別する」と¥,.-"¥う怠l床で,今,取り上げようとする分別とは異なる概念で ある。これから分析の対象とする「分別が生じる」または「識が生じる」と いうことは,むしろここでいう「縁起」もしくは「縁起すること」の概念に 当たるもののことである。このJ:~I,①は珠伽行唯識学派のし、う瞬I
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,瞬間の 対象認識に代表されるような.認識の同時的側而に言及するもので,②は呪 在の生から次の生へと転生する場合のあり方,~言及するものであるから,異 時的側i
耐に言及するものである。これら二つの側而が.同じ「縁起」または 「縁起することJ・とし、う概念で述べられる点に,言い回しのレベルと教理 本来の意味するところとのギャップが読み取れ.注意を引く点である。結論 的に言えば,純粋に教理として見て行く場合,これら二両が,結局, 1,
1]じ構 造を指示していることである。が,今回は.これらの内.①の同時的側面に 言及する部分を出発点に論じてみたい。その場合,「識が生じるJr分別が生 じる」という言い回しの「生じる」という意味が,特に問題となろう。一般 に r生じる」とは運動に言及することであり.運動は.あるものからある ものへ, という異時的な概念であろう。それであるからこそ,時間の定義が 哲学において運動としEう概念によって示されるわけである。 しかし初期瑞伽行唯識学派の人々によって.このl時間の概念を成立させ る根拠は「変イヒ」であり,その「変化」は距離をもった異時的なものではな い。そのことが,この「生じる」ことの意味を探る内に明らかとなる。便宜 上.それを①その「変イヒ」の概念になんら距離が合まれない, という点と② その「変イヒ」が異時的なものではない. と言う点とに分けて諭'先してみたい。 ①その「変イヒ」の概念になんら距離が含まれない, という点 -21-111:視の手IJm)減 まず, If'
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識二十諭』の以下の文を兄たい。これは地獄の獄卒の手を振り 挙げたりする変化が,「識のはたらきのみ」において,どうして可能で、ある のかを3
命じたものである。karma
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彼業黒習理慮許在識相績中不在除慮。有黒習識汝便不許有果鱒襲。無黒 習慮翻執有果。此有何因。 業の習気と[その]果とが別々の場所にあると考え. 習気のある,その同じ所にこそ[その果]もあると 認めないのは,一体いかなる理由であるのか? 地獄の衆生達のある業によって,そこに上に述べたような大穂が生じ. 転変することが考えられるが.彼らの業の習気は識の相続','
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也 の場所ではない。習気のあるまさにそこにこそ,その[間気の]果であ るところの以上のような識転変があると何故認められないのか?習気の ないところにその[習気の]果が考えられるというこのことに何の論理 的根拠があるのか? と.いうものである。明かにここでは習気(種子)と識との!日j一場所性が説 かれている。しかも,ここで識転変という「変化」をしめす概念が!日いられ ている点.注意を要すると思われる。 ②その「変イヒ」が異l時的なものではない, と言う点 このことを見る上で,少し恒l
り道になるが,桜・境・識の同時的和合といtu:観の手JI郷減 う考え}jを見ることから始めたい。
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具合論』は,.
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二縁起中の「触」を述 べるに当たって司以下のように記述する。 trayal}arp sarpnipataj jata indriyarthya-vijnananam / yuktarp tavat pancanam indriyal}am artha-vijnanabhyarp sarpni -pataJ.:t / sahajatvat / [六種の触は]根・境・識の和合に基づいて生じたものである。 その内.五稀の根と境・識との和介は合理である。倶生するものである から。 と‘いうものである。勿論,そうでない異時の場介にも干IJ合ということが 根・境・識のあいだで言われる場合もある。意根は過去で法は未来の場合も ある.又その場合,意識は現在であるから倶時とは言えないが,この場合は 意根と法とが囚となって意識を生ずるという因果の怠昧から和合といわれ, 別に同ーの果をもたらす怠味でも和合ということが『倶舎論』の次の議論と なっている。しかし五種の根・境・識の手!I合の場合は同時のものとして述 べられている点を認めねばならないであろう。『倶合論』のこの様な記述は, 仏教の一つの伝統的理解を示していると兄れる。 しかも,注怠を引く点は同一著者,世親の子になるとみなされる『唯識二 十論』の内に,この根・ 1克・識の同時的和合の考えを前提とした記述がみら れる点である。慨に発表済みの論文にもう│いたことのある第九備とその釈で ある。 yataJ.:tsva-bijad vijnaptir yad・abhasapravartate / dvi-viclhayatanatvena te tasya ml1nIr abravit / / kim l1ktarp bhavati / rupa-pratibl}asa vijnaptir yataJ.:tsva-bijat paril}ãmavise~a-prãptãd l1tpadyate司 tacca bijarp yat-pratibhasa ca sa te tasya vijnaptescak~ü-rüpãyatanatvena yatha-kramarp bha -gavan abravit / -23-世組の華IJlJIS減 1 '1己の種子からある顕現をもったvijnaptiが生じる。 これら二つ[種子と顕現]をその[vijnaptiの]二処として牟尼は お説きになられた。
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が説かれているのか? 転変の特殊な状態に達した自己のある種子か ら色の顕現ある[限]識 (vijnapti)が生起する。その種子と顕現との その両者がこの[版]識 (vijnapti)にとっての限[根]と色との処で あるとして順次,世尊がお説きになられた。 『倶合i諭』に述べられていたような根・境・識の同時的和合に反対する立 場からの記述が見られない以上,ここでも根・境・識の三者に相当する種 子・顕現・識のはたらき (vijnapti)の三者が同時のものとして語られてい ると考えられる。「識が生じる」または「分別が生じる」という言い回しの レベルで三えば,アーラヤ識と顕識との同時的存在性が述べられていること になろう。II'lIf
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識三十頒』では「識のはたらき」を意味するvijnaptiが転変 (変化)の一種に数えられるから,この変化は異時間的なものではありえな ~\。 さて『似合i諭」の根・境・識の三者の同時性を前提とした『唯識二卜論』 の説述を凡たわけであるが, この rイ倶具f
合守論』の根が所依(伍亙gむrayaω)と呼ば れるふ,点E もまた所イ依衣と H呼乎ばれるカか、らである。I!'{具合論』一章第四五偽とその釈 I~I には, 似と識との関係に言及して以下の様に説く。 kirp pllnal
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karal)alI111bhayadhinayarp vjnanotpattallCak~llr-ãdayal) evasraya llcyante na rupadayal
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tad-vikara-vikaritvad asrayascak~ur-ãdayal)/ dhatava ity adhikaral
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cak平llr-adinarphi vikarena tad-vijnal)al)arp vikaro bhavaty1止親の利郎滅 どんな理由で[根・境]の両者に基づいて識が生じる場合に限[恨]等 のみが所依 (asraya)と呼ばれて.色[境]等はそうではないのか? その[根]の変化によって[識]が変化するから,眼[恨]等は, [その識の]所依である 「界である」と続くのである。限[根]等の変化によってその識に変化 がある。 ここでは変化を与える別の同時的変化物を所依とよんでい,それを界とみな している。このような「所依」の考えがあったのであり,世親の『唯識二十 論』における宵気と識転変との関係もその様な考えの線上にあるものと理解 できる。「識が生じる」とは云われはするが‘それが直ちに「なんらかの基 体から,ある何物かが生じるJ ことを意味しない。むしろ,ここにいう「生 じる」とは「変化があること」を意味している。 ここで,先に見た『唯識二十論』第九備の記述をもう一度振り返ってみた いι 上に見た諸点を念頭に置きながら見直してみると,大変重要な意味が浮 かぴ上がってくる。つまり,そこでは種子・顕現・識のはたらきという三者 の同時を,根・境・識 (vijnana)の同時に理論的根拠をおいてはいるもの の,それら三者が同定的で静止的に遍計される対象となる十八界の「、法Jの レベルで語られていない点である。そこには,レベルの違いが明確に読み取 れる。だからこそ,同じ卜偽の釈中では「過去から蓄積された潜在的力(穂 子)に基づいて,ある顕現をもっ識のはたらきが生じる」という,それら種 子・顕現・識のはたらきの三者的分裂を「純粋な意味での一つの識のはたら きJ (vijnaptimatra)と云う点から捉え直し法無我への情入が説かれてい るのである。もちろん, r純粋な意味での一つの識のはたらき (11佐識)J (vij -naptimatra)も,それがなんらか固定的姿において捉えられる限りは否定 の対象となることはs"u住識三十頒』の第二七儲からも明かである。ここで は.先の三者的分裂が,結局のところ「純粋な識のはたらきJ(vijnapti) のー者にまとめ込まれることに論の主眼があると見るべきであろう。『倶合 論』に読み取れた同時的変化物としての根に相当する種子もまた「純粋な識 -
25-t吐親の剃 IJIS滅 のはたらき」の中に取り込まれている。っきつめて述べるならば{具合論にい う「線・境・識 (vijnana)Jのレベルを「種子・顕現・識のはたらき (vij -napti)Jのレベルで捉え直した上に,さらにそれら三者が,結局「識のはた らき」そのものの中に包摂されるのだ, と述べているのである。
結論
.先の機会に『大乗荘厳経論』の中の文(第十一章三二・三三,第九章三七 の偽と釈)を取り挙げ,アーラヤ識と如来蔵とが,どの様な関係にあるのか を論じた。そこでは,真如の無差別性に論理的根拠をおいて如来峨が述べら れている。さらに,その真如が r1'--1界J(svadhatu)として弓及され,アー ラヤ識もまた「白界」と言及されることから,喰伽行"1f~識字~i}氏の言う真如と 請は-の│羽係が,同時的で重層的な関係であると誤解されがちである。これは, 分別 (kalpa,vikalpa, abhutaparikalpa)と云う概念を「識J(vijnana)と 同ーの概念として捉え,また同様に「識」と漢訳されはするが rt~t大乗諭』 以降, r純粋な識の働き」を意味する vijñapti とそれらとを il~llil して埋解す るために生じる誤解であろう。その様な誤解に立てば,真如1と諸法の関係は, アーラヤ識と諸分別(または顕現)の関係,あるいは種子と顕現(または 法)の関係を,同時的でしかも重層的な関係と短絡的に捉えた上で,結局, 構造的にはそれらと同じ関係にあるものと,見ることとなる。 しかしそこでいう真知は「諸分別の真如J (vikalpanarp tathata)と釈 中に定義されることから明らかなように,アーラヤ識と諸分別との軍用的構 造が,一度そこで決定的に否定されていることを意味する。アーラヤ識と諸 分別の重層的構造と見られるものは,つまるところ所取・能取の対立に基づ き,分別の真如とはその所取・能取の対立の否定である。アーラヤ識と諸分 別との重層的対立の構造と見られるもののr
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じ言葉が使則されな¥ lt織の利郎減 がら.その rl'l界」の怠昧内容が決定的に転換されている。 従って,真如と諸法の関係を明らかにするには,所取・能取である二取の 無と諸法の関係のi付にそれが探られねばならない。所取・能取はとりもなお さず法を怠昧するから,その関係は法の無と法の関係である。これが,アー ラヤ識と諸分別の関係や.種子と顕現との関係でないことは論をまたない。 もちろん,それは諸法とその諸法が生じるためのFoundationという関係で もない。 上にみた種子・顕現・識のはたらきとしての三者分裂のレベルから更に昇 華したレベルでの唯識が実質的には.そこで問題となっているのである。 r唯識二十論』の最初に,「この唯識が無なる義 (artha)を顕現せしめるか ら」と説かれることに関連して述べるならば.この無と顕現の関係、が問題と なっているのである。 確かに r諸分別がI'l界から生じるJ(svadhatuto"'vikalpal) sarppravar -tante)と云う言い阿しには.そこに生じる為の基体と生じたものとの二者 対立的重層構造が読み取られがちである。そこに,『唯識二十論』や『唯識 三十頒』に述べられる識転変としての「識のはたらきJ(vijnapti)に匹敵 する概念が明確に示されていないからである。「分別」という名詞で示され るものと「生じる」とし寸動向で、示されるものとの断絶が見て取れる。そこ には教;lHとしての論坦的不完全性が汲み取れる‘と云わざるを得ない。そし て‘この論.fl
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にこそ.世測が識転変という概念を導入した一 つの.I:JH山も兄れるのでは無L、だろうか。 註 (1) 万村博実 rvijoaptiについての一考察(1)J. r仏教学研究』第三i凹号,一九 七八年 "i)r vijoaptiについての一考察(2)J.r仏教学研究』第四三号,一九八七年 (2) S. Levi ed.. Vimsatika. K. 7 & com. (3) P. Pradhan.Abhidharmakosabhã~yam of Vasubandhu. 111.30 (4) S. Lεvi ed.. Vimsatika. K. 9 & com. -27-1[1:税の利jJfl滅
(5) P. Pradhan, Abhidharmakosabha!?yam of Vasubandhu.1.45 & com.