• 検索結果がありません。

Vol.65 , No.1(2016)001蓑輪 顕量「止観研究の歴史とその現代的意義」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.65 , No.1(2016)001蓑輪 顕量「止観研究の歴史とその現代的意義」"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

印度學佛敎學硏究第六十五巻第一号   平成二十八年十二月

止観研究の歴史とその現代的意義

 

 

はじめに

  仏 教 は 体 験 の 宗 教 と 言 わ れ、 悟 り の 体 験 が そ の 出 発 点 に あ っ た。 や が て 経、 律、 論 の 三 蔵 が 成 立 す る と、 仏 教 の 伝 統 と し て経 典 を担 う 者 ganthadhura と 瞑 想を 担 う者 vipassanādhura の 二 つ の 区 分 け が 登 場 し た。 そ の 区 分 け は 東 ア ジ ア 世 界 へ も 伝 え ら れ た と み え、 日 本 の 仏 教 で も 学 と 行、 教 と 行 な ど と 対 比的に用いられた。 仏教は基本的に二つの側面を有しており、 こ こ か ら 考 え れ ば 学 と 行 の 双 方 に 公 平 に 焦 点 を 当 て て 研 究 す る こ と が 望 ま れ る。 し か し な が ら、 実 際 の 研 究 は 教 理 や 思 想 に 焦 点 が 当 て ら れ る こ と が 多 い。 そ れ は 仏 教 が 日 本 に 伝 え ら れ た 時、 経 論 の 講 説 を 中 心 と す る 南 朝 の 仏 教 が 輸 入 さ れ た こ と に 淵 源 し よ う。 な お、 こ こ で 述 べ る 行 の 研 究 と は 具 体 的 に は 止 観 ( 心 の 観 察 ) に 関 す る 研 究 に 限 定 す る。 そ こ で、 考 察 の 対 象 を 過 去 五 〇 年 程 度 に 絞 り、 研 究 と 社 会 の 動 向 を 明 ら か に し、 次 い で 実 際 の 現 場 か ら 出 さ れ て い る 問 題 に 焦 点 を 当 て て、 日 本 の 中 世 の 文 献 か ら、 そ の 解 決 へ の 糸 口 を 探 っ て み よ うと思う。

 

過去から現在への研究と社会の動向の変化

  そ も そ も 止 観 に 関 す る 研 究 は、 そ の 成 立 地 で あ る イ ン ド を 対 象 に 文 献 学 的 な 研 究 が 幾 つ も な さ れ て い る (( ( 。 止 samatha は 心 の 働 き を 静 か に す る 方 向 の 観 察 の 総 称 で 三 昧 か ら 禅 定 そ し て 滅 尽 定 へ と 心 の 働 き を 静 め る も の と さ れ、 観 は 心 の 働 き 全 て を 気 づ い て い く 方 向 の 観 察 で 基 本 は 四 念 処 に あ っ た と 考 え ら れ る が、 重 要 な 点 は 名 色 の 分 離 と 無 分 別 に 至 る た め の 観 察 であると位置づけられるところであろう。   そ の よ う な 観 察 の 全 般 を イ ン ド の 瞑 想 の 文 脈 の 中 で 捉 え た も の が Johannes Bronkhorst の 研 究 で あ る (( ( 。 本 書 は Veda か ら Upanishad 、 仏 教 に 渡 る イ ン ド に お け る 瞑 想 の 歴 史 を 総 体 的 に 捉 え た も の と し て 注 目 さ れ る。 日 本 人 に よ る 研 究 も 幾 つ か 見 ら れ、 パ ー リ 文 献 の Visuddhimagga を 対 象 と し た 一 九 九 三 年 の

(2)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 田中教照の研究が挙げられ る (( ( 。   さ て、 東 ア ジ ア 世 界 に お け る 止 観 の 研 究 は、 一 九 五 四 年 以 降 の 関 口 真 大 の 研 究 が 注 目 さ れ る (( ( 。 一 九 七 五 年 に は 天 台 の 止 観 と 浄 土 の 念 仏 行 の 関 連 に つ い て 安 藤 俊 雄 が 言 及 し て い る (( ( 。 関 口 真 大 編 の『 仏 教 の 実 践 原 理 』 ( 山 喜 房 仏 書 林、 一 九 七 七 ) も 重 要 で あ る。 密 教 に 関 す る 瞑 想 の 概 説 書 と し て 山 崎 泰 廣 も 注 目され る (( ( 。しばらくして山内舜雄は一九八六年に曹洞禅と 『天 台 小 止 観 』 の 関 連 を 問 う 研 究 を 出 し て い る (( ( 。 天 台 の 止 観 に 関 す る 文 献 学 的 研 究 は 菅 野 博 史 (( ( や 大 野 榮 人 (( ( 等 に 継 承 さ れ、 木 村 清 孝 も 止 観 に 関 す る 文 献 学 的 な 研 究 論 文 集 を 編 纂 し て い る ((1 ( 。 いずれにしても日本の研究は文献学・注釈学的なものが多い。   さ て、 二 〇 〇 〇 年 代 頃 か ら 文 献 学 を 踏 ま え つ つ も、 外 の 領 域 に 出 る 研 究 が 表 れ て く る。 そ の 最 初 が 井 上 ウ ィ マ ラ ((( ( や 影 山 教 俊 で あ る ((1 ( 。 井 上 や 影 山 は 僧 侶 で も あ り、 か つ 止 観 の 持 つ 心 理 療 法 と し て の 側 面 に 焦 点 を 当 て る。 こ の 頃 に は 蓑 輪 顕 量 が 仏 教 の 瞑 想 の 歴 史 に 焦 点 を 当 て ((1 ( 、 北 尾 隆 心 も 密 教 の 瞑 想 に つ いて言及する著作を世に問うてい る ((1 ( 。   ま た 最 近 の 仏 教 学 の 成 果 と し て は 佐 久 間 秀 範、 山 部 能 宜、 Kongkarattanaruk Phurapongsak 、 高 橋 晃 一 等 の 諸 研 究 が 注 目 さ れ る ((1 ( 。 Phurapongsak は パ ー リ の 経 典 や 論 書 に お い て 止 と 観 の 内 実 と そ の 展 開 の 歴 史 を 追 い か け、 佐 久 間、 高 橋 は 瑜 伽 行 派 の 研 究 に お い て 止 観 の 実 践 が 背 景 に 存 在 す る こ と に 留 意 し、 山 部 は 中 央 ア ジ ア に お け る 禅 観 経 典 の 展 開 を 見 据 え た 研 究 を 進 め て い る。 こ の よ う に 仏 教 学 分 野 か ら の 止 観 へ の 関 心 は、 関 口、 安 藤 の 後、 暫 く 空 白 の 期 間 が あ っ た よ う に 思 わ れ る が、 二〇〇〇年代頃より徐々に増大している。   さ て、 そ れ よ り も 若 干、 先 行 し て い る よ う に 思 わ れ る の が、 上 座 仏 教 の 世 界 に 伝 わ る samatha, vipassanā の 日 本 へ の 紹 介 で あ っ た。 そ の 時 期 は 一 九 九 〇 年 代 初 頭 で あ り、 そ の 事 情 は 青 野 貴 芳 の 研 究 ((1 ( に 詳 し い。 東 南 ア ジ ア 出 身 僧 侶 に よ る 瞑 想 の 実 習 紹 介 か ら 始 ま り、 や が て 東 南 ア ジ ア に 学 び に 行 っ た 日 本 人 僧 侶 に よ る 実 践 が 始 ま っ た 。 ミ ャ ン マ ー の Goenka の 瞑 想 を 紹 介 す る 支 部 が 設 立 さ れ 、 タ イ の タ ン マ ガ ー イ の 瞑 想 が 日 本 に 紹 介 さ れ る の も こ の 頃 で あ る。 や が て samatha, vipassanā を 教 え る 任 意 の 団 体 が 成 立 し、 仏 教 の 瞑 想 で あ る こ と を 正 面 に 出 し て 広 ま っ て い っ た ((1 ( 。 な お、 こ れ ら の グ ル ー プ の 中 に は 止 行 者 と 観 行 者 の 二 つ の 流 れ が 存 在 し て い る こ と に 注 意 が 必 要 で あ る ((1 ( 。 プ ラ ム ヴ ィ レ ッ ジ は テ イ ク ナ ッ ト ハ ー ン を 指 導 者 と し て 仰 ぐ グ ル ー プ で あ り、 同 じ く 瞑 想 を 大 事 に す る が 、 そ れ は 大 乗 仏 教 も 伝 え て き た も の と 主 張 し 、 mindfulness と い う 言 葉 で も 紹 介 す る と こ ろ に 特 徴 が あ る。 ま た、 日 本 人 ( 僧 侶 ) の 中 に も samatha, vipassanā に 関 心 を 示 し 活 躍 す る 者 が 複 数 名 登 場 し た が、 中 に は 既 成 の 仏 教 界 と 軋 轢 に な り、 僧 籍 を返上する事態に至った者も生じている。 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪)   さ て、 二 〇 〇 〇 年 代 以 降 は 彼 ら の 活 動 と は 若 干 異 な り、 宗 教 性 を 薄 め て 技 法 と し て 紹 介 す る 機 運 が 生 じ、 そ れ が 社 会 的 な 関 心 を 惹 起 す る よ う に な っ た。 そ の 代 表 が マ イ ン ド フ ル ネ ス で あ る。 こ の マ イ ン ド フ ル ネ ス は、 米 国 マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 大 学 医 学 大 学 院 教 授 で あ っ た Jon Kabat-Zinn ( 一 九 四 四 ―) に よ っ て 初 め て 唱 え ら れ た が、 彼 は 大 学 に マ イ ン ド フ ル ネ ス セ ン タ ー を 創 設 し、 初 代 の 所 長 を 務 め た。 彼 は ケ ン ブ リ ッ ジ 禅 セ ン タ ー の 創 設 メ ン バ ー の 一 人 で も あ り、 仏 教 僧 侶 に 修 行 法 や 教 理 を 学 び、 そ れ ら を 西 洋 科 学 と 統 合 さ せ、 ス ト レ ス 低 減 方 法 と し て マ イ ン ド フ ル ネ ス 瞑 想 を 始 め た と い う ((1 ( 。 ま た 二 〇 一 四 年 に は 一 般 社 団 法 人 と し て 日 本 マ イ ン ド フ ル・ リ ー ダーシップ協会が東京都下に登場している。   こ の よ う な 実 際 の 動 き に 対 し て 仏 教 学 以 外 の 分 野 か ら も 研 究 が 始 ま っ た の が 二 〇 〇 〇 年 代 の 後 半 頃 か ら で あ る。 仏 教 学 と 関 連 し た も の と し て、 二 〇 〇 八 年 一 一 月 に 日 本 仏 教 心 理 学 会 が 武 蔵 野 大 学 の ケ ネ ス 田 中 の 主 唱 に よ っ て 創 設 さ れ ( 二 〇 〇 九 年 に 第 一 回 年 次 大 会 を 開 催 ) ま た 心 理 学 の 分 野 か ら も 二 〇 一 三 年 に 日 本 マ イ ン ド フ ル ネ ス 学 会 が、 早 稲 田 大 学 の 文 学 部 心 理 学 科 の 教 授 陣 の 提 唱 で 始 ま っ た (11 ( 。 ま た 臨 床 の 現 場 で も 貝 谷 久 宣 が マ イ ン ド フ ル ネ ス の 実 践 を 論 じ (1( ( 、 ま た 行 動 医 学、 認 知 行 動 療 法 の 分 野 で も 熊 野 宏 昭 が 扱 っ て い る (11 ( 。 さ ら に は教育心理学の分野でも関心を示す研究者が登場してい る (11 ( 。   以 上、 一 九 九 〇 年 代 か ら samatha, vipassanā と い う 専 門 用 語 を 介 し て 社 会 に 紹 介 さ れ 始 め た 仏 教 の 瞑 想 が、 若 干 遅 れ て 宗 教 性 を 薄 め た 形 で の マ イ ン ド フ ル ネ ス と い う 名 称 で も 受 容 さ れ る よ う に な り、 次 い で 二 〇 一 〇 年 代 頃 か ら、 研 究 者 の 世 界 で も 感 心 を 持 っ て 議 論 さ れ る に 至 っ た と 位 置 づ け ら れ る。 そ れ は 純 粋 に 文 献 を 中 心 と し た 研 究 だ け で は な く、 社 会 の 中 で の 応 用 を 視 野 に 入 れ た 研 究 が 心 理 学 や 行 動 医 学 な ど の 分 野 か ら も 行 わ れ る よ う に な っ た こ と を 意 味 す る。 そ し て 今、 実 際 に 社 会 の 現 場 か ら 聞 こ え て く る の は、 パ ー リ 聖 典 の 翻 訳 語 に 起 因 す る と 推 定 さ れ る が、 「 正 念 」 と「 正 知 」 の 語 が ど の よ う な心の働きを指しているのかという疑問であった。

 

正念・正知を考える

  こ の 訳 語 が パ ー リ 聖 典 の 翻 訳 に 登 場 す る も の で あ る こ と は 周 知 の 通 り で あ る。 そ の 原 語 を 示 せ ば sammāsati と sampajañña で あ る が、 そ の 意 味 す る 心 作 用 は ど の よ う な も の で あ ろ う か。 この疑問に早くに取り組んだ研究者は西義雄である。西は 『原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 』 で い ち 早 く こ の 問 題 に 取 り 組 み (11 ( 、 後 に は 大 衆 部 に お け る 般 若、 さ ら に は 智 と 止 観 の 関 係 を 論 じ て い る (11 ( 。 そ の 後、 こ の 問 題 を 論 じ た 研 究 者 は 水 野 弘 元 で あ る (11 ( 。 水 野 は 智 と 慧 が 同 一 視 さ れ る こ と が 多 く「 ぼ ん や り し た り、 う っ か り し た り 」 し な い の 意 が あ る こ と を 明 ら か に す る。 ま

(3)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 田中教照の研究が挙げられ る (( ( 。   さ て、 東 ア ジ ア 世 界 に お け る 止 観 の 研 究 は、 一 九 五 四 年 以 降 の 関 口 真 大 の 研 究 が 注 目 さ れ る (( ( 。 一 九 七 五 年 に は 天 台 の 止 観 と 浄 土 の 念 仏 行 の 関 連 に つ い て 安 藤 俊 雄 が 言 及 し て い る (( ( 。 関 口 真 大 編 の『 仏 教 の 実 践 原 理 』 ( 山 喜 房 仏 書 林、 一 九 七 七 ) も 重 要 で あ る。 密 教 に 関 す る 瞑 想 の 概 説 書 と し て 山 崎 泰 廣 も 注 目され る (( ( 。しばらくして山内舜雄は一九八六年に曹洞禅と 『天 台 小 止 観 』 の 関 連 を 問 う 研 究 を 出 し て い る (( ( 。 天 台 の 止 観 に 関 す る 文 献 学 的 研 究 は 菅 野 博 史 (( ( や 大 野 榮 人 (( ( 等 に 継 承 さ れ、 木 村 清 孝 も 止 観 に 関 す る 文 献 学 的 な 研 究 論 文 集 を 編 纂 し て い る ((1 ( 。 いずれにしても日本の研究は文献学・注釈学的なものが多い。   さ て、 二 〇 〇 〇 年 代 頃 か ら 文 献 学 を 踏 ま え つ つ も、 外 の 領 域 に 出 る 研 究 が 表 れ て く る。 そ の 最 初 が 井 上 ウ ィ マ ラ ((( ( や 影 山 教 俊 で あ る ((1 ( 。 井 上 や 影 山 は 僧 侶 で も あ り、 か つ 止 観 の 持 つ 心 理 療 法 と し て の 側 面 に 焦 点 を 当 て る。 こ の 頃 に は 蓑 輪 顕 量 が 仏 教 の 瞑 想 の 歴 史 に 焦 点 を 当 て ((1 ( 、 北 尾 隆 心 も 密 教 の 瞑 想 に つ いて言及する著作を世に問うてい る ((1 ( 。   ま た 最 近 の 仏 教 学 の 成 果 と し て は 佐 久 間 秀 範、 山 部 能 宜、 Kongkarattanaruk Phurapongsak 、 高 橋 晃 一 等 の 諸 研 究 が 注 目 さ れ る ((1 ( 。 Phurapongsak は パ ー リ の 経 典 や 論 書 に お い て 止 と 観 の 内 実 と そ の 展 開 の 歴 史 を 追 い か け、 佐 久 間、 高 橋 は 瑜 伽 行 派 の 研 究 に お い て 止 観 の 実 践 が 背 景 に 存 在 す る こ と に 留 意 し、 山 部 は 中 央 ア ジ ア に お け る 禅 観 経 典 の 展 開 を 見 据 え た 研 究 を 進 め て い る。 こ の よ う に 仏 教 学 分 野 か ら の 止 観 へ の 関 心 は、 関 口、 安 藤 の 後、 暫 く 空 白 の 期 間 が あ っ た よ う に 思 わ れ る が、 二〇〇〇年代頃より徐々に増大している。   さ て、 そ れ よ り も 若 干、 先 行 し て い る よ う に 思 わ れ る の が、 上 座 仏 教 の 世 界 に 伝 わ る samatha, vipassanā の 日 本 へ の 紹 介 で あ っ た。 そ の 時 期 は 一 九 九 〇 年 代 初 頭 で あ り、 そ の 事 情 は 青 野 貴 芳 の 研 究 ((1 ( に 詳 し い。 東 南 ア ジ ア 出 身 僧 侶 に よ る 瞑 想 の 実 習 紹 介 か ら 始 ま り、 や が て 東 南 ア ジ ア に 学 び に 行 っ た 日 本 人 僧 侶 に よ る 実 践 が 始 ま っ た 。 ミ ャ ン マ ー の Goenka の 瞑 想 を 紹 介 す る 支 部 が 設 立 さ れ 、 タ イ の タ ン マ ガ ー イ の 瞑 想 が 日 本 に 紹 介 さ れ る の も こ の 頃 で あ る。 や が て samatha, vipassanā を 教 え る 任 意 の 団 体 が 成 立 し、 仏 教 の 瞑 想 で あ る こ と を 正 面 に 出 し て 広 ま っ て い っ た ((1 ( 。 な お、 こ れ ら の グ ル ー プ の 中 に は 止 行 者 と 観 行 者 の 二 つ の 流 れ が 存 在 し て い る こ と に 注 意 が 必 要 で あ る ((1 ( 。 プ ラ ム ヴ ィ レ ッ ジ は テ イ ク ナ ッ ト ハ ー ン を 指 導 者 と し て 仰 ぐ グ ル ー プ で あ り、 同 じ く 瞑 想 を 大 事 に す る が 、 そ れ は 大 乗 仏 教 も 伝 え て き た も の と 主 張 し 、 mindfulness と い う 言 葉 で も 紹 介 す る と こ ろ に 特 徴 が あ る。 ま た、 日 本 人 ( 僧 侶 ) の 中 に も samatha, vipassanā に 関 心 を 示 し 活 躍 す る 者 が 複 数 名 登 場 し た が、 中 に は 既 成 の 仏 教 界 と 軋 轢 に な り、 僧 籍 を返上する事態に至った者も生じている。 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪)   さ て、 二 〇 〇 〇 年 代 以 降 は 彼 ら の 活 動 と は 若 干 異 な り、 宗 教 性 を 薄 め て 技 法 と し て 紹 介 す る 機 運 が 生 じ、 そ れ が 社 会 的 な 関 心 を 惹 起 す る よ う に な っ た。 そ の 代 表 が マ イ ン ド フ ル ネ ス で あ る。 こ の マ イ ン ド フ ル ネ ス は、 米 国 マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 大 学 医 学 大 学 院 教 授 で あ っ た Jon Kabat-Zinn ( 一 九 四 四 ―) に よ っ て 初 め て 唱 え ら れ た が、 彼 は 大 学 に マ イ ン ド フ ル ネ ス セ ン タ ー を 創 設 し、 初 代 の 所 長 を 務 め た。 彼 は ケ ン ブ リ ッ ジ 禅 セ ン タ ー の 創 設 メ ン バ ー の 一 人 で も あ り、 仏 教 僧 侶 に 修 行 法 や 教 理 を 学 び、 そ れ ら を 西 洋 科 学 と 統 合 さ せ、 ス ト レ ス 低 減 方 法 と し て マ イ ン ド フ ル ネ ス 瞑 想 を 始 め た と い う ((1 ( 。 ま た 二 〇 一 四 年 に は 一 般 社 団 法 人 と し て 日 本 マ イ ン ド フ ル・ リ ー ダーシップ協会が東京都下に登場している。   こ の よ う な 実 際 の 動 き に 対 し て 仏 教 学 以 外 の 分 野 か ら も 研 究 が 始 ま っ た の が 二 〇 〇 〇 年 代 の 後 半 頃 か ら で あ る。 仏 教 学 と 関 連 し た も の と し て、 二 〇 〇 八 年 一 一 月 に 日 本 仏 教 心 理 学 会 が 武 蔵 野 大 学 の ケ ネ ス 田 中 の 主 唱 に よ っ て 創 設 さ れ ( 二 〇 〇 九 年 に 第 一 回 年 次 大 会 を 開 催 ) ま た 心 理 学 の 分 野 か ら も 二 〇 一 三 年 に 日 本 マ イ ン ド フ ル ネ ス 学 会 が、 早 稲 田 大 学 の 文 学 部 心 理 学 科 の 教 授 陣 の 提 唱 で 始 ま っ た (11 ( 。 ま た 臨 床 の 現 場 で も 貝 谷 久 宣 が マ イ ン ド フ ル ネ ス の 実 践 を 論 じ (1( ( 、 ま た 行 動 医 学、 認 知 行 動 療 法 の 分 野 で も 熊 野 宏 昭 が 扱 っ て い る (11 ( 。 さ ら に は教育心理学の分野でも関心を示す研究者が登場してい る (11 ( 。   以 上、 一 九 九 〇 年 代 か ら samatha, vipassanā と い う 専 門 用 語 を 介 し て 社 会 に 紹 介 さ れ 始 め た 仏 教 の 瞑 想 が、 若 干 遅 れ て 宗 教 性 を 薄 め た 形 で の マ イ ン ド フ ル ネ ス と い う 名 称 で も 受 容 さ れ る よ う に な り、 次 い で 二 〇 一 〇 年 代 頃 か ら、 研 究 者 の 世 界 で も 感 心 を 持 っ て 議 論 さ れ る に 至 っ た と 位 置 づ け ら れ る。 そ れ は 純 粋 に 文 献 を 中 心 と し た 研 究 だ け で は な く、 社 会 の 中 で の 応 用 を 視 野 に 入 れ た 研 究 が 心 理 学 や 行 動 医 学 な ど の 分 野 か ら も 行 わ れ る よ う に な っ た こ と を 意 味 す る。 そ し て 今、 実 際 に 社 会 の 現 場 か ら 聞 こ え て く る の は、 パ ー リ 聖 典 の 翻 訳 語 に 起 因 す る と 推 定 さ れ る が、 「 正 念 」 と「 正 知 」 の 語 が ど の よ う な心の働きを指しているのかという疑問であった。

 

正念・正知を考える

  こ の 訳 語 が パ ー リ 聖 典 の 翻 訳 に 登 場 す る も の で あ る こ と は 周 知 の 通 り で あ る。 そ の 原 語 を 示 せ ば sammāsati と sampajañña で あ る が、 そ の 意 味 す る 心 作 用 は ど の よ う な も の で あ ろ う か。 この疑問に早くに取り組んだ研究者は西義雄である。西は 『原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 』 で い ち 早 く こ の 問 題 に 取 り 組 み (11 ( 、 後 に は 大 衆 部 に お け る 般 若、 さ ら に は 智 と 止 観 の 関 係 を 論 じ て い る (11 ( 。 そ の 後、 こ の 問 題 を 論 じ た 研 究 者 は 水 野 弘 元 で あ る (11 ( 。 水 野 は 智 と 慧 が 同 一 視 さ れ る こ と が 多 く「 ぼ ん や り し た り、 う っ か り し た り 」 し な い の 意 が あ る こ と を 明 ら か に す る。 ま

(4)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) た 後 に 塚 田 貫 康 は 寂 天 作 の『 入 菩 提 行 論 』 の 菩 提 心・ 正 知・ 数 習 を 検 討 す る 中 で、 第 五 章 一 〇 八 偈 に「 身 体 と 心 の 状 態 を く り 返 し く り 返 し 省 察 す る こ と、 こ れ が 方 に 簡 潔 に 言 え ば 正 知 の 定 義 で あ る 」 と あ る 文 章、 お よ び 同 じ く 第 五 章 二 四 偈 に 「 病 気 に 害 さ れ た 人 が 一 切 の 行 為 に 適 し て い な い よ う に、 こ の ( 憶 念 と 正 知 ) 両 方 を﹇ 欠 く ﹈ 混 乱 し た 心 は 一 切 の﹇ 静 慮 等 の ﹈ 行 為 に 適 し て い な い 」 と あ る 文 章 を 引 用 す る (11 ( 。 こ の 二 四 偈 の 記 述 か ら 推 定 す れ ば、 正 念、 正 知 の 双 方 と も 静 慮 す な わ ち 心 の 観 察 に 関 わ る 用 語 で あ り、 一 〇 八 偈 か ら は 知 は「 省 察 」 と 訳されていることがわかる。   ま た 仏 教 語 彙 の 定 義 的 研 究 で あ る 「 バ ウ ッ ダ コ ー シ ャ 」 Bauddha kośa でも、 prajñā は知または慧と訳され「法を識別す る こ と 」、 一 方 の smṛti は 念 と 訳 さ れ「 認 識 対 象 を 忘 れ 去 ら な い こ と 」 と 定 義 さ れ て い る (11 ( 。 ど ち ら も、 静 慮 等 の 状 態 と 密 接 に 関 連 す る 語 で あ る こ と が 言 外 に 彷 彿 さ れ る。 つ ま り、 「 念 」 も「 知 」 も 静 慮 す な わ ち 心 を 観 察 す る 状 態 の 中 で 経 験 す る、 あ る 種 の 心 の 働 き を 表 現 し た 言 葉 と し て 使 用 さ れ て い る と 考 えられるのである。   で は、 具 体 的 に そ れ は ど の よ う な 心 の 働 き で あ る と 捉 え ら れ て い た の か。 此 処 で は 日 本 に お け る 中 世 法 相 宗 の 資 料 を 対 象 に、 彼 ら が ど の よ う に 理 解 し て い た の か、 特 に「 知 」 に つ いて考察を進めたい。

 

実範、良遍による「知」の理解

  南 都 仏 教 の 伝 統 の 中 に も 止 観 の 実 践 が 存 在 し た こ と は 意 外 に 注 意 さ れ て い な い。 古 代 の 止 観 の 実 践 に 関 す る 資 料 と し て 注 目 さ れ る の は、 七 世 紀 の 道 昭 の 卒 伝 と、 九 世 紀 初 頭 の 得 一 の 「止観論」 と命名されたものの二つのみであろ う (11 ( 。しかし、 院 政 期 か ら 鎌 倉 期 に 掛 け て は 興 味 深 い 資 料 が 法 相 宗 の 中 に 幾 つか存在する。中川実範 (生年不詳―一一四四 ) 、貞慶 (一一五五 ― 一 二 一 三 ) 、 良 遍 ( 一 一 九 四 ― 一 二 五 二 ) 等 が 残 し た 資 料 で あ る。 ま ず 良 遍 の『 真 心 要 決 』 に は 注 目 さ れ る 記 事 が 存 在 す る。 それは無分別と関連した記事の中に見えるものである。 何 ぞ 況 ん や 余 の 種 種 の 有 相 の 色 声 等 の 念 に 於 い て を や。 但 だ 全 く 知 ら ざ る に は 非 ず。 霊 霊 と し て 之 を 知 る 。 見 る を 待 た ず と 雖 も 見、 聞 く を 待 ず と 雖 も 聞 く。 見 る と 雖 も 見 ざ る が 如 く、 聞 く と 雖 も 聞 か ざ る が 如 し。 見 る に 任 せ 聞 く に 任 せ 分 別 を 挙 げ ず。 全 く 無 生 の 浄 心 に 違 背 せ ず。 此 の 心 は 即 ち 是 れ 本 来 の 所 得、 修 し て 得 る に は 非 ず。 一 切 の 凡 夫 乃 至 田 夫 野 人 等 の 類、 皆、 已 に 之 有 り。 是 の 故 に 名 づ け て 本 来 菩 提 と 為 す。 然 る に 諸 の 愚 夫 は、 自 ら 此 の 妙 覚 の 心 有 る を 知 ら ず、 亦、 其 の 動 念 の 身 に 容 り、 恣 に 妄 念 を 挙 げ、 惑 を 起 こ し 業 を 発 し、 流 転 五 趣 に 流 転 す る を 知 ら ず。 悲 し む 可 し 痛 む 可 し。 ( 大 正 七一、九〇上 )(傍線、筆者付す、以下同じ。 ) こ の 記 述 は 良 遍 が 悟 り の 境 地 を 表 現 し た 箇 所 で あ る が、 そ れ 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) は 心 の 働 き が 全 く 無 く な っ て し ま っ た も の で は な く「 霊 霊 と 知 る 」 状 態 で あ る と い う。 こ の 場 合 の「 知 る 」 は「 見 る と 雖 も 見 ざ る が 如 く 」「 聞 く と 雖 も 聞 か ざ る が 如 し 」 で「 見 る に 任 せ 聞 く に 任 せ 分 別 を 挙 げ ず 」 と 明 瞭 に 記 述 し、 明 ら か に 分 別 の な い 所 謂「 無 分 別 」 の 状 態 で 対 象 を 把 捉 し て い る 事 態 を 指 し て い る。 ま た 次 の 記 述 は 分 別 を 伴 わ な い 認 識 を 別 の 言 葉 で 表現したものである。 真 実 を 論 ぜ ば 不 生 不 滅、 改 易 有 る こ と 無 し。 有 に 非 ず 無 に 非 ず、 言 慮 は 皆、 絶 す。 故 に 此 の 一 心 は、 一 切 位 中 に 常 住 周 遍 し、 一 味 平 等 な り。 色 等 を 見 る 時 、 鏡 の 形 を 照 ら す が 如 く 、 分 別 も て 見 る に は 非 ず 、 分 別 も て 聞 く に は 非 ず。 只 、 自 然 に 見 、 自 然 に 聞 く 。 明 了 な り、湛湛なり、深妙なり、難思なり。 (大正七一、九一上 ) 鏡 は 判 断 や 了 別 な く 物 事 を 捉 え て い る 状 態 を 譬 え る も の と し て 使 用 さ れ る が、 こ こ で は そ の 鏡 の よ う に「 分 別 も て 見 る の で は な く 」、 「 分 別 も て 聞 く の で も な い 」 と 明 瞭 に 答 え て い る。 そ し て「 た だ 自 然 に 見、 自 然 に 聞 く 」 と 表 現 し て い る の で あ る。 良 遍 が 目 指 し て い た 境 地 は 伝 統 的 な 用 語 で 示 せ ば「 無 分 別 」 で あ っ た こ と は 間 違 い な い。 し か し、 「 無 分 別 」 の 言 葉 に は 注 意 が 必 要 で あ る。 論 理 的 に 考 え て 字 義 通 り に 全 く「 分 別 が 無 」 い 状 態 に な っ て し ま っ て は「 自 然 に 見 」 る こ と も「 自 然 に 聞 く 」 こ と も で き な い は ず で あ る。 つ ま り 見 た り 聞 い た り し て い る の で あ れ ば、 何 ら か の 心 作 用 は あ る と 考 え ら れ る か ら で あ る。 と こ ろ で、 「 無 分 別 」 に 関 し て は 少 し 時 代 が 遡 る が、 中 川 実 範 に も 興 味 深 い 言 及 が 存 在 す る。 次 に こ れ を 検 討 しよう。

 

実範に見る無分別と「知」

  日 本 大 蔵 経 に は『 真 理 鈔 』 な る 短 編 の 資 料 集 が 収 載 さ れ て い る が、 そ れ は 中 世 初 頭 の 法 相 宗 僧 侶 が 記 し た 真 如 に 関 す る 記 事 を 集 成 し た も の で あ る。 本 書 は 三 帖 か ら 構 成 さ れ、 第 一 帖 が 貞 慶、 第 二 帖 が 実 範、 第 三 帖 が 良 算 撰 述 と 伝 え ら れ、 日 本 大 蔵 経 編 纂 の 際 に 一 つ の 名 称 で 纏 め ら れ た。 そ の 中 の 第 二 帖、 実 範 の 記 し た「 貪 即 真 如 性 」 と い う 表 題 を 持 っ た 文 章 の 中 に、 無 分 別 に 関 す る 興 味 深 い 記 述 が 散 見 さ れ る。 ま ず は 戯 論に関する記述である。 問 う。 戯 論 と は 何 な る も の な る や。 答 う。 疏 に 云 く、 戯 論 と は 、 謂 く 、 分 別 の 相 ・ 名 言 の 相 ・ 尋 思 の 相 な り と 。 戯 論 に 由 る が 故 に 染 浄 に 執 着 す。 分 別 す る 所 有 る が 故 に、 生 死 し 死 生 す、 と 文。 ( 鈴 木 学 術財団版日本大蔵経六四、四七下、以下、鈴木日蔵と記す。 ) 戯 論 は 人 間 の 心 に よ っ て 作 ら れ た 働 き で あ り、 そ れ ら の 内、 「分別の相、名言の相、尋思の相」 を指すと定義するのである。 此 処 に 用 い ら れ る「 疏 」 は 慈 恩 基 の『 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 般 若 理 趣 分 述 讃 』 の 文 章 で あ り、 ほ ぼ 同 文 で あ る ( 大 正 三 三、 五 一 上 ) 。 ま た、 「 真 如 の 本 性 に は 戯 論 が な い 」 と し た 次 の 記 述 も

(5)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) た 後 に 塚 田 貫 康 は 寂 天 作 の『 入 菩 提 行 論 』 の 菩 提 心・ 正 知・ 数 習 を 検 討 す る 中 で、 第 五 章 一 〇 八 偈 に「 身 体 と 心 の 状 態 を く り 返 し く り 返 し 省 察 す る こ と、 こ れ が 方 に 簡 潔 に 言 え ば 正 知 の 定 義 で あ る 」 と あ る 文 章、 お よ び 同 じ く 第 五 章 二 四 偈 に 「 病 気 に 害 さ れ た 人 が 一 切 の 行 為 に 適 し て い な い よ う に、 こ の ( 憶 念 と 正 知 ) 両 方 を﹇ 欠 く ﹈ 混 乱 し た 心 は 一 切 の﹇ 静 慮 等 の ﹈ 行 為 に 適 し て い な い 」 と あ る 文 章 を 引 用 す る (11 ( 。 こ の 二 四 偈 の 記 述 か ら 推 定 す れ ば、 正 念、 正 知 の 双 方 と も 静 慮 す な わ ち 心 の 観 察 に 関 わ る 用 語 で あ り、 一 〇 八 偈 か ら は 知 は「 省 察 」 と 訳されていることがわかる。   ま た 仏 教 語 彙 の 定 義 的 研 究 で あ る 「 バ ウ ッ ダ コ ー シ ャ 」 Bauddha kośa でも、 prajñā は知または慧と訳され「法を識別す る こ と 」、 一 方 の smṛti は 念 と 訳 さ れ「 認 識 対 象 を 忘 れ 去 ら な い こ と 」 と 定 義 さ れ て い る (11 ( 。 ど ち ら も、 静 慮 等 の 状 態 と 密 接 に 関 連 す る 語 で あ る こ と が 言 外 に 彷 彿 さ れ る。 つ ま り、 「 念 」 も「 知 」 も 静 慮 す な わ ち 心 を 観 察 す る 状 態 の 中 で 経 験 す る、 あ る 種 の 心 の 働 き を 表 現 し た 言 葉 と し て 使 用 さ れ て い る と 考 えられるのである。   で は、 具 体 的 に そ れ は ど の よ う な 心 の 働 き で あ る と 捉 え ら れ て い た の か。 此 処 で は 日 本 に お け る 中 世 法 相 宗 の 資 料 を 対 象 に、 彼 ら が ど の よ う に 理 解 し て い た の か、 特 に「 知 」 に つ いて考察を進めたい。

 

実範、良遍による「知」の理解

  南 都 仏 教 の 伝 統 の 中 に も 止 観 の 実 践 が 存 在 し た こ と は 意 外 に 注 意 さ れ て い な い。 古 代 の 止 観 の 実 践 に 関 す る 資 料 と し て 注 目 さ れ る の は、 七 世 紀 の 道 昭 の 卒 伝 と、 九 世 紀 初 頭 の 得 一 の 「止観論」 と命名されたものの二つのみであろ う (11 ( 。しかし、 院 政 期 か ら 鎌 倉 期 に 掛 け て は 興 味 深 い 資 料 が 法 相 宗 の 中 に 幾 つか存在する。中川実範 (生年不詳―一一四四 ) 、貞慶 (一一五五 ― 一 二 一 三 ) 、 良 遍 ( 一 一 九 四 ― 一 二 五 二 ) 等 が 残 し た 資 料 で あ る。 ま ず 良 遍 の『 真 心 要 決 』 に は 注 目 さ れ る 記 事 が 存 在 す る。 それは無分別と関連した記事の中に見えるものである。 何 ぞ 況 ん や 余 の 種 種 の 有 相 の 色 声 等 の 念 に 於 い て を や。 但 だ 全 く 知 ら ざ る に は 非 ず。 霊 霊 と し て 之 を 知 る 。 見 る を 待 た ず と 雖 も 見、 聞 く を 待 ず と 雖 も 聞 く。 見 る と 雖 も 見 ざ る が 如 く、 聞 く と 雖 も 聞 か ざ る が 如 し。 見 る に 任 せ 聞 く に 任 せ 分 別 を 挙 げ ず。 全 く 無 生 の 浄 心 に 違 背 せ ず。 此 の 心 は 即 ち 是 れ 本 来 の 所 得、 修 し て 得 る に は 非 ず。 一 切 の 凡 夫 乃 至 田 夫 野 人 等 の 類、 皆、 已 に 之 有 り。 是 の 故 に 名 づ け て 本 来 菩 提 と 為 す。 然 る に 諸 の 愚 夫 は、 自 ら 此 の 妙 覚 の 心 有 る を 知 ら ず、 亦、 其 の 動 念 の 身 に 容 り、 恣 に 妄 念 を 挙 げ、 惑 を 起 こ し 業 を 発 し、 流 転 五 趣 に 流 転 す る を 知 ら ず。 悲 し む 可 し 痛 む 可 し。 ( 大 正 七一、九〇上 )(傍線、筆者付す、以下同じ。 ) こ の 記 述 は 良 遍 が 悟 り の 境 地 を 表 現 し た 箇 所 で あ る が、 そ れ 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) は 心 の 働 き が 全 く 無 く な っ て し ま っ た も の で は な く「 霊 霊 と 知 る 」 状 態 で あ る と い う。 こ の 場 合 の「 知 る 」 は「 見 る と 雖 も 見 ざ る が 如 く 」「 聞 く と 雖 も 聞 か ざ る が 如 し 」 で「 見 る に 任 せ 聞 く に 任 せ 分 別 を 挙 げ ず 」 と 明 瞭 に 記 述 し、 明 ら か に 分 別 の な い 所 謂「 無 分 別 」 の 状 態 で 対 象 を 把 捉 し て い る 事 態 を 指 し て い る。 ま た 次 の 記 述 は 分 別 を 伴 わ な い 認 識 を 別 の 言 葉 で 表現したものである。 真 実 を 論 ぜ ば 不 生 不 滅、 改 易 有 る こ と 無 し。 有 に 非 ず 無 に 非 ず、 言 慮 は 皆、 絶 す。 故 に 此 の 一 心 は、 一 切 位 中 に 常 住 周 遍 し、 一 味 平 等 な り。 色 等 を 見 る 時 、 鏡 の 形 を 照 ら す が 如 く 、 分 別 も て 見 る に は 非 ず 、 分 別 も て 聞 く に は 非 ず。 只 、 自 然 に 見 、 自 然 に 聞 く 。 明 了 な り、湛湛なり、深妙なり、難思なり。 (大正七一、九一上 ) 鏡 は 判 断 や 了 別 な く 物 事 を 捉 え て い る 状 態 を 譬 え る も の と し て 使 用 さ れ る が、 こ こ で は そ の 鏡 の よ う に「 分 別 も て 見 る の で は な く 」、 「 分 別 も て 聞 く の で も な い 」 と 明 瞭 に 答 え て い る。 そ し て「 た だ 自 然 に 見、 自 然 に 聞 く 」 と 表 現 し て い る の で あ る。 良 遍 が 目 指 し て い た 境 地 は 伝 統 的 な 用 語 で 示 せ ば「 無 分 別 」 で あ っ た こ と は 間 違 い な い。 し か し、 「 無 分 別 」 の 言 葉 に は 注 意 が 必 要 で あ る。 論 理 的 に 考 え て 字 義 通 り に 全 く「 分 別 が 無 」 い 状 態 に な っ て し ま っ て は「 自 然 に 見 」 る こ と も「 自 然 に 聞 く 」 こ と も で き な い は ず で あ る。 つ ま り 見 た り 聞 い た り し て い る の で あ れ ば、 何 ら か の 心 作 用 は あ る と 考 え ら れ る か ら で あ る。 と こ ろ で、 「 無 分 別 」 に 関 し て は 少 し 時 代 が 遡 る が、 中 川 実 範 に も 興 味 深 い 言 及 が 存 在 す る。 次 に こ れ を 検 討 しよう。

 

実範に見る無分別と「知」

  日 本 大 蔵 経 に は『 真 理 鈔 』 な る 短 編 の 資 料 集 が 収 載 さ れ て い る が、 そ れ は 中 世 初 頭 の 法 相 宗 僧 侶 が 記 し た 真 如 に 関 す る 記 事 を 集 成 し た も の で あ る。 本 書 は 三 帖 か ら 構 成 さ れ、 第 一 帖 が 貞 慶、 第 二 帖 が 実 範、 第 三 帖 が 良 算 撰 述 と 伝 え ら れ、 日 本 大 蔵 経 編 纂 の 際 に 一 つ の 名 称 で 纏 め ら れ た。 そ の 中 の 第 二 帖、 実 範 の 記 し た「 貪 即 真 如 性 」 と い う 表 題 を 持 っ た 文 章 の 中 に、 無 分 別 に 関 す る 興 味 深 い 記 述 が 散 見 さ れ る。 ま ず は 戯 論に関する記述である。 問 う。 戯 論 と は 何 な る も の な る や。 答 う。 疏 に 云 く、 戯 論 と は 、 謂 く 、 分 別 の 相 ・ 名 言 の 相 ・ 尋 思 の 相 な り と 。 戯 論 に 由 る が 故 に 染 浄 に 執 着 す。 分 別 す る 所 有 る が 故 に、 生 死 し 死 生 す、 と 文。 ( 鈴 木 学 術財団版日本大蔵経六四、四七下、以下、鈴木日蔵と記す。 ) 戯 論 は 人 間 の 心 に よ っ て 作 ら れ た 働 き で あ り、 そ れ ら の 内、 「分別の相、名言の相、尋思の相」 を指すと定義するのである。 此 処 に 用 い ら れ る「 疏 」 は 慈 恩 基 の『 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 般 若 理 趣 分 述 讃 』 の 文 章 で あ り、 ほ ぼ 同 文 で あ る ( 大 正 三 三、 五 一 上 ) 。 ま た、 「 真 如 の 本 性 に は 戯 論 が な い 」 と し た 次 の 記 述 も

(6)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 注目される。 問 う。 煩 悩 性 を 観 じ て 能 く 其 の 悪 の 義 を 降 伏 す、 と は 如 何。 答 う。 疏 に 云 く、 此 は 六 根 の 本 に し て、 真 如 の 本 性 な り。 真 如 の 本 性 に 戯 論 無 し。 故 に 能 く 分 別 を 離 る。 心 の 本 性 に 契 い、 分 別 を 離 れ 戯 論 無 し 。一切の悪報、悉く能く降伏す、と文。 (鈴木日蔵六四、四八上) こ こ で も「 疏 に 云 く 」 と し て 引 用 さ れ た も の は『 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 般 若 理 趣 分 述 讃 』 ( 大 正 三 三、 五 一 上 ) で あ り、 実 範 が 拠 り 所 と し た 資 料 の 一 つ に 本 書 が あ っ た こ と は 間 違 い な い。 ま た 法 性 が ど の よ う な も の で あ る の か に 関 し て 次 の よ う な 議 論 が続く。 問 う、 諸 の 法 性 は 何 故 に 分 別 を 離 る る 耶。 答 う、 法 性 と は 真 如 の 理 な り。 真 如 の 妙 理 は 、 分 別 名 言 の 及 ぶ 所 に 非 ず 。 故 に 論 に 曰 く、 一 切 相、 一 切 の 分 別 を 離 れ、 尋 思 の 路 は 絶 え、 名 言 の 道 は 断 ず。 唯 だ 真聖なる者 、 自由に 証 する所なり 、と文。 (鈴木日蔵六四、四八上) 此 処 で は 法 性 は「 真 如 の 理 」 で あ り、 そ れ は「 妙 理 」 と 置 き 換 え ら れ、 分 別 や 名 言 の 及 ぶ も の で は な い と す る。 ま た こ こ の論は 『成唯識論』 巻一〇 (大正三一、五五中) の記述であり、 ほ ぼ 同 文 で あ る (11 ( 。 で は、 そ の よ う な 真 如 の 本 性 が 戯 論 を 離 れ 分 別 を 離 れ て い る と し た ら、 ど の よ う に し て 真 如 の 本 性 を 了 解することができるのだろうか。問答は次のように続く。 問 う、 若 し 爾 ら ば、 真 如 は 都 て 不 可 知 な る 歟。 答 う、 仏 菩 薩 の 智 は 、 能 く 真 如 を 知 る。 其 の 智 を 名 づ け て 無 分 別 智 と 為 す。 分 別 を 離 る る が 故 に 、 能 く 法 性 を 証 す る な り。 証 と は 証 知 な り 、 冥 会 な り 。 (鈴木日蔵六四、四八上) 真 如 は ま っ た く 知 る こ と が で き な い の か と い う 問 い に 対 し、 仏 や 菩 薩 は 真 如 を 知 る こ と が で き、 そ の 真 如 を 知 る 智 慧 を 無 分 別 智 と 名 づ け る の だ と 答 え て い る。 そ し て 分 別 を 離 れ て い る の で、 法 性 を 証 す る こ と が で き る と も 述 べ る。 こ こ で は そ の よ う な 形 で「 証 」 す る こ と を「 証 知 」 と 言 葉 を 置 き 換 え て い る。 し か し、 無 分 別 の 智 で 外 界 を 捉 え て い る 状 態 を「 知 る 」 と 表 現 す る の は、 一 体、 ど の よ う な こ と な の で あ ろ う か。 そ の疑問を解く記述が、次の文章である。 問 う、 既 に 無 分 別 な れ ば、 猶 お 非 情 の 如 し、 又、 虚 空 の 如 し。 何 ぞ 能 く 甚 深 の 真 如 を 証 知 せ ん 耶。 答 う 、 麁 の 分 別 無 き が 故 に 、 無 分 別 と 名 づ く。 細 了 の 知 有 り 、 故 に 智 慧 と 名 づ く 。 若 し 非 情 の 如 け れ ば、 何 ぞ 心 と 名 づ け 智 と 名 づ け ん。 諸 仏 菩 薩、 豈 に 瓦 石 草 木 等 に 同 じ か ら ん 耶。 当 に 知 る べ し、 微 細 微 妙 の 智 慧 は 、 法 性 に 通 達 す 。 譬 如 え ば 世 間 の 者、 禅 定 を 得 る こ と 有 る が ご と し。 其 の 身 は 不 動、 其 の 心 は 寂 静、 猶 如 お 木 像 の ご と し。 麁 動 散 乱 の 心 無 き と 雖 も、 寂 静 な る 定 心、 極 め て 明 了 な る が 故 に、 能 く 世 間 を 知 る。 十 方 の 界、 三 世 の 事、 知 ら ざ る こ と 無 く、 ま た 弁 ぜ ざ る こ と 無 し。 大 聖 出 世 の 智、亦復た是の如し。 (鈴木日蔵六四、四七上~下) こ こ に「 麁 な る 分 別 が な い の で 無 分 別 と 名 づ け る、 そ し て 細 了 の 知 が あ る の で 智 慧 と 名 づ け る 」 と い う 興 味 深 い 記 述 が 存 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 在 す る。 さ ら に は「 微 細 微 妙 の 智 慧、 法 性 に 通 達 す 」 と も 述 べ、 実 際 に 法 性、 真 如 に 通 達 す る 智 慧 ( 心 的 働 き ) が 存 在 す る と 主 張 し て い る の で あ る。 こ の 時、 通 達 さ れ る 対 象 と し て 真 如、 法 性 が 存 在 す る と 考 え ら れ て い た 点 は 重 要 で あ る。 で は 「 麁 な る 分 別 」 と は ど の よ う な も の で あ っ た の だ ろ う か。 ま た 「 微 細 微 妙 の 智 慧 」 は「 微 細 な る 分 別 」 と 置 き 換 え ら れ る が、 それはどのようなものであったのだろうか。   「麁分別」 との用語が登場するのは 『大乗起信論』 (以下、 『起 信 論 』 と 略 記 ) や 遁 倫 の『 瑜 伽 論 記 』 が 知 ら れ る が、 『 起 信 論 』 で は 覚 と 不 覚 を 論 じ る 中 で 登 場 す る。 二 乗 の 観 智 と 初 発 意 の 菩 薩 等 は、 念 異 と 念 無 異 の 相 を 自 覚 す る が、 「 麁 の 分 別・ 執 着 の 相 を 捨 つ る を 以 て の 故 に 相 似 覚 と 名 づ く。 法 身 の 菩 薩 等 は 念 住 念 無 住 の 相 を 覚 す、 麁 の 念 相 を 分 別 す る を 離 る る を 以 て の 故 に 随 分 覚 と 名 づ く 」 ( 大 正 三 二 、 五 七 六 中 ) と 有 る 。 し か し 、 具 体 的 に 麁 の 分 別 が 何 を 指 す の か は 明 ら か で は な い。 一 方、 遁倫の『瑜伽論記』巻一二之上では次のように述べている。 基 の 云 く、 微 細 の 分 別 有 る に 由 り て 了 知 す 可 き こ と 難 し。 麁 の 分 別 無 き が 故 に 名 づ け て 無 相 と 為 す。 前 の 地 等 に 麁 の 分 別 、 名 有 の 相 有 り 。 此 れ 皆、 菩 提 の 分 別 に 随 順 す る が 故 に 捨 離 せ ず。 妙 善 に 無 生 法 忍 の 顕 支 す る 所 を 修 治 す る 者 に し て、 長 く 無 生 法 忍 を 真 観 す る に 入 り 念 念 に 増 明 す。 故 に 無 生 法 忍 を 善 修 す と 言 へ り。 無 生 法 忍 は 即 ち 正しく 無分別智を 証 す 。(大正四二、五七三中 ) 「 基 云 」 と し て 慈 恩 の 文 章 が 引 用 さ れ る が、 こ の 文 章 は 基 の 『 瑜 伽 師 地 論 略 纂 』 ( 以 下、 『 略 纂 』 と 略 記 ) 巻 一 二 ( 大 正 四 三、 一 六 三 下 ) の 文 章 で あ り、 そ れ は「 捨 離 せ ず 」 ま で で あ る が、 遁 倫 は『 略 纂 』 の 記 事 を 引 用 す る。 麁 の 分 別 は「 名 有 の 相 」 と 述 べ て い る 点 が 注 目 さ れ る。 「 名 有 」 は 名 称 が 存 在 す る こ と、 す な わ ち 名 称 が 付 さ れ る 事 態 が「 麁 の 分 別 」 と さ れ る 理 解 が あ っ た こ と を 物 語 る の で あ る。 ま た 無 生 法 忍 は ま さ し く 「 無 分 別 を 証 す 」 と 述 べ て お り、 無 分 別 は「 証 」 す る も の と し て表現されている。   こ こ で、 先 の 実 範 の 記 述 に 戻 ろ う。 真 如 に 通 達 す る 智 慧 の 働 き が 存 在 し て い る 時、 そ の よ う な 心 の 働 き を 指 す 言 葉 と し て「 知 」 や「 証 知 」 が 用 い ら れ て い る こ と が 注 目 さ れ る の で あ る。 ま た 実 範 の 後 に 登 場 し て 活 躍 す る 貞 慶 の 場 合 も、 『 真 理 鈔』 では 「離言法性とは聖位所証なり」 (鈴木日蔵六四、三八下) や「 遍 行 真 如 を 証 す べ か ら ず 」 ( 鈴 木 日 蔵 六 四、 四 〇 上 ) な ど と あ っ て、 言 語 を 離 れ た 把 捉 は「 証 」 で 表 現 さ れ て い る。 い ず れ に し て も、 管 見 の 範 囲 で は、 こ の よ う な 状 態 を 捉 え る 時 に 「念」という言葉は使われていない。

おわりに

  最 近 の 止 観 に 関 す る 研 究 と 社 会 の 動 向 と い う 二 つ の 視 点 か ら 整 理 を 試 み て み た が、 そ こ で 問 題 と な っ て い る も の は「 正

(7)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 注目される。 問 う。 煩 悩 性 を 観 じ て 能 く 其 の 悪 の 義 を 降 伏 す、 と は 如 何。 答 う。 疏 に 云 く、 此 は 六 根 の 本 に し て、 真 如 の 本 性 な り。 真 如 の 本 性 に 戯 論 無 し。 故 に 能 く 分 別 を 離 る。 心 の 本 性 に 契 い、 分 別 を 離 れ 戯 論 無 し 。一切の悪報、悉く能く降伏す、と文。 (鈴木日蔵六四、四八上) こ こ で も「 疏 に 云 く 」 と し て 引 用 さ れ た も の は『 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 般 若 理 趣 分 述 讃 』 ( 大 正 三 三、 五 一 上 ) で あ り、 実 範 が 拠 り 所 と し た 資 料 の 一 つ に 本 書 が あ っ た こ と は 間 違 い な い。 ま た 法 性 が ど の よ う な も の で あ る の か に 関 し て 次 の よ う な 議 論 が続く。 問 う、 諸 の 法 性 は 何 故 に 分 別 を 離 る る 耶。 答 う、 法 性 と は 真 如 の 理 な り。 真 如 の 妙 理 は 、 分 別 名 言 の 及 ぶ 所 に 非 ず 。 故 に 論 に 曰 く、 一 切 相、 一 切 の 分 別 を 離 れ、 尋 思 の 路 は 絶 え、 名 言 の 道 は 断 ず。 唯 だ 真聖なる者 、 自由に 証 する所なり 、と文。 (鈴木日蔵六四、四八上) 此 処 で は 法 性 は「 真 如 の 理 」 で あ り、 そ れ は「 妙 理 」 と 置 き 換 え ら れ、 分 別 や 名 言 の 及 ぶ も の で は な い と す る。 ま た こ こ の論は 『成唯識論』 巻一〇 (大正三一、五五中) の記述であり、 ほ ぼ 同 文 で あ る (11 ( 。 で は、 そ の よ う な 真 如 の 本 性 が 戯 論 を 離 れ 分 別 を 離 れ て い る と し た ら、 ど の よ う に し て 真 如 の 本 性 を 了 解することができるのだろうか。問答は次のように続く。 問 う、 若 し 爾 ら ば、 真 如 は 都 て 不 可 知 な る 歟。 答 う、 仏 菩 薩 の 智 は 、 能 く 真 如 を 知 る。 其 の 智 を 名 づ け て 無 分 別 智 と 為 す。 分 別 を 離 る る が 故 に 、 能 く 法 性 を 証 す る な り。 証 と は 証 知 な り 、 冥 会 な り 。 (鈴木日蔵六四、四八上) 真 如 は ま っ た く 知 る こ と が で き な い の か と い う 問 い に 対 し、 仏 や 菩 薩 は 真 如 を 知 る こ と が で き、 そ の 真 如 を 知 る 智 慧 を 無 分 別 智 と 名 づ け る の だ と 答 え て い る。 そ し て 分 別 を 離 れ て い る の で、 法 性 を 証 す る こ と が で き る と も 述 べ る。 こ こ で は そ の よ う な 形 で「 証 」 す る こ と を「 証 知 」 と 言 葉 を 置 き 換 え て い る。 し か し、 無 分 別 の 智 で 外 界 を 捉 え て い る 状 態 を「 知 る 」 と 表 現 す る の は、 一 体、 ど の よ う な こ と な の で あ ろ う か。 そ の疑問を解く記述が、次の文章である。 問 う、 既 に 無 分 別 な れ ば、 猶 お 非 情 の 如 し、 又、 虚 空 の 如 し。 何 ぞ 能 く 甚 深 の 真 如 を 証 知 せ ん 耶。 答 う 、 麁 の 分 別 無 き が 故 に 、 無 分 別 と 名 づ く。 細 了 の 知 有 り 、 故 に 智 慧 と 名 づ く 。 若 し 非 情 の 如 け れ ば、 何 ぞ 心 と 名 づ け 智 と 名 づ け ん。 諸 仏 菩 薩、 豈 に 瓦 石 草 木 等 に 同 じ か ら ん 耶。 当 に 知 る べ し、 微 細 微 妙 の 智 慧 は 、 法 性 に 通 達 す 。 譬 如 え ば 世 間 の 者、 禅 定 を 得 る こ と 有 る が ご と し。 其 の 身 は 不 動、 其 の 心 は 寂 静、 猶 如 お 木 像 の ご と し。 麁 動 散 乱 の 心 無 き と 雖 も、 寂 静 な る 定 心、 極 め て 明 了 な る が 故 に、 能 く 世 間 を 知 る。 十 方 の 界、 三 世 の 事、 知 ら ざ る こ と 無 く、 ま た 弁 ぜ ざ る こ と 無 し。 大 聖 出 世 の 智、亦復た是の如し。 (鈴木日蔵六四、四七上~下) こ こ に「 麁 な る 分 別 が な い の で 無 分 別 と 名 づ け る、 そ し て 細 了 の 知 が あ る の で 智 慧 と 名 づ け る 」 と い う 興 味 深 い 記 述 が 存 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 在 す る。 さ ら に は「 微 細 微 妙 の 智 慧、 法 性 に 通 達 す 」 と も 述 べ、 実 際 に 法 性、 真 如 に 通 達 す る 智 慧 ( 心 的 働 き ) が 存 在 す る と 主 張 し て い る の で あ る。 こ の 時、 通 達 さ れ る 対 象 と し て 真 如、 法 性 が 存 在 す る と 考 え ら れ て い た 点 は 重 要 で あ る。 で は 「 麁 な る 分 別 」 と は ど の よ う な も の で あ っ た の だ ろ う か。 ま た 「 微 細 微 妙 の 智 慧 」 は「 微 細 な る 分 別 」 と 置 き 換 え ら れ る が、 それはどのようなものであったのだろうか。   「麁分別」 との用語が登場するのは 『大乗起信論』 (以下、 『起 信 論 』 と 略 記 ) や 遁 倫 の『 瑜 伽 論 記 』 が 知 ら れ る が、 『 起 信 論 』 で は 覚 と 不 覚 を 論 じ る 中 で 登 場 す る。 二 乗 の 観 智 と 初 発 意 の 菩 薩 等 は、 念 異 と 念 無 異 の 相 を 自 覚 す る が、 「 麁 の 分 別・ 執 着 の 相 を 捨 つ る を 以 て の 故 に 相 似 覚 と 名 づ く。 法 身 の 菩 薩 等 は 念 住 念 無 住 の 相 を 覚 す、 麁 の 念 相 を 分 別 す る を 離 る る を 以 て の 故 に 随 分 覚 と 名 づ く 」 ( 大 正 三 二 、 五 七 六 中 ) と 有 る 。 し か し 、 具 体 的 に 麁 の 分 別 が 何 を 指 す の か は 明 ら か で は な い。 一 方、 遁倫の『瑜伽論記』巻一二之上では次のように述べている。 基 の 云 く、 微 細 の 分 別 有 る に 由 り て 了 知 す 可 き こ と 難 し。 麁 の 分 別 無 き が 故 に 名 づ け て 無 相 と 為 す。 前 の 地 等 に 麁 の 分 別 、 名 有 の 相 有 り 。 此 れ 皆、 菩 提 の 分 別 に 随 順 す る が 故 に 捨 離 せ ず。 妙 善 に 無 生 法 忍 の 顕 支 す る 所 を 修 治 す る 者 に し て、 長 く 無 生 法 忍 を 真 観 す る に 入 り 念 念 に 増 明 す。 故 に 無 生 法 忍 を 善 修 す と 言 へ り。 無 生 法 忍 は 即 ち 正しく 無分別智を 証 す 。(大正四二、五七三中 ) 「 基 云 」 と し て 慈 恩 の 文 章 が 引 用 さ れ る が、 こ の 文 章 は 基 の 『 瑜 伽 師 地 論 略 纂 』 ( 以 下、 『 略 纂 』 と 略 記 ) 巻 一 二 ( 大 正 四 三、 一 六 三 下 ) の 文 章 で あ り、 そ れ は「 捨 離 せ ず 」 ま で で あ る が、 遁 倫 は『 略 纂 』 の 記 事 を 引 用 す る。 麁 の 分 別 は「 名 有 の 相 」 と 述 べ て い る 点 が 注 目 さ れ る。 「 名 有 」 は 名 称 が 存 在 す る こ と、 す な わ ち 名 称 が 付 さ れ る 事 態 が「 麁 の 分 別 」 と さ れ る 理 解 が あ っ た こ と を 物 語 る の で あ る。 ま た 無 生 法 忍 は ま さ し く 「 無 分 別 を 証 す 」 と 述 べ て お り、 無 分 別 は「 証 」 す る も の と し て表現されている。   こ こ で、 先 の 実 範 の 記 述 に 戻 ろ う。 真 如 に 通 達 す る 智 慧 の 働 き が 存 在 し て い る 時、 そ の よ う な 心 の 働 き を 指 す 言 葉 と し て「 知 」 や「 証 知 」 が 用 い ら れ て い る こ と が 注 目 さ れ る の で あ る。 ま た 実 範 の 後 に 登 場 し て 活 躍 す る 貞 慶 の 場 合 も、 『 真 理 鈔』 では 「離言法性とは聖位所証なり」 (鈴木日蔵六四、三八下) や「 遍 行 真 如 を 証 す べ か ら ず 」 ( 鈴 木 日 蔵 六 四、 四 〇 上 ) な ど と あ っ て、 言 語 を 離 れ た 把 捉 は「 証 」 で 表 現 さ れ て い る。 い ず れ に し て も、 管 見 の 範 囲 で は、 こ の よ う な 状 態 を 捉 え る 時 に 「念」という言葉は使われていない。

おわりに

  最 近 の 止 観 に 関 す る 研 究 と 社 会 の 動 向 と い う 二 つ の 視 点 か ら 整 理 を 試 み て み た が、 そ こ で 問 題 と な っ て い る も の は「 正

(8)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 知 」 と「 正 念 」 す な わ ち「 知 」 と「 念 」 と い う 言 葉 で 表 現 さ れ た 心 的 作 用 が、 一 体、 何 を 指 し て い る の か と い う も の で あった。 この二つの言葉は、パーリ聖典の時から伝統的には、 瞑 想 状 態 の 中 の あ る 種 の「 心 的 作 用 」 を 指 す も の で あ っ た こ と は 間 違 い な い。 両 者 の 相 違 を 日 本 の 中 世 法 相 宗 の 文 献 を 手 が か り に 探 っ て み た が、 そ れ は「 麁 な る 分 別 が な い 」、 す な わ ち「 微 細 な る 分 別 は 存 在 し て い る 」 無 分 別 の 状 態 で 世 界 を 把 捉 し て い る と き に「 証 知 」「 知 」 と い う 用 語 が 用 い ら れ て い る こ と が 知 ら れ た。 ま た 触 れ る こ と が で き な か っ た が、 麁 な る 分 別 の 背 景 に は『 俱 舎 論 』 に 説 か れ る 三 種 分 別 も 存 在 す る と 思 わ れ る。 分 別 界 品 の 中 に 分 別 に 自 性 分 別、 計 度 分 別、 随 念 分 別 の 三 種 が 挙 げ ら れ、 「 五 識 身 に 由 り て、 自 性 有 り と 雖 も 余 の 二 無 き を、 無 分 別 と 名 づ く。 一 足 の 馬 を 名 づ け て 無 足 の 馬 と 為 す が 如 し 」 ( 大 正 二 八、 八 中 ) の 記 述 が 影 響 を 与 え て い る 可 能 性 も 指 摘 で き る。 計 度 と 随 念 の 分 別 が 存 在 し な い、 す な わ ち 自 性 分 別 の み が 存 在 し て 外 界 を 捉 え て い る 状 態 が、 と り も な お さ ず 無 分 別 と 一 般 に は 呼 ば れ た の で は な い だ ろ う か。 そ れ は、 換 言 す れ ば、 言 語 機 能 が 働 い て い な い 状 態 で 外 界 を 把 捉 し て い る こ と に 他 な ら な い。 そ の よ う な 状 態 を「 証 知 」 ま た は「 知 」 と 表 現 し た の で は な か っ た だ ろ う か。 と す れ ば、 「 念 」 は 反 対 に 言 語 機 能 が 働 き、 随 念、 計 度 の 分 別 が 起 き て い ることを示した言葉であったことになろう。   修 行 は、 現 時 点 で の 問 題 と も 密 接 に 関 わ り う る も の で あ る。 仏 教 学 に お け る 研 究 も、 そ の 点 で は 現 在 の 問 題 と 密 接 に 関 連 す る こ と に な り う る。 此 処 に そ の 研 究 の 現 代 的 な 意 義 が あ る と言えるのではないだろうか。 1   An ag ari ka Go vin da , C re ati ve M ed ita tio n a nd M ult i-d ime nsi on al Consciousness (London: Geor ge

Allen & Unwin, 1977); Henepola

Gunaratana,

The Path of Ser

enity and Insight:

An Explanation of the

Buddhist

jhānas

(Delhi: Motilal Banarsidass, 1985);

Tilmann Vetter , The Ideas and Me dit at iv e P rac tic es of E arl y B uddhi sm (Le ide n: E . J. Bri ll, 1988); W inston L . Ki ng, Therav āda Me di tat ion: The B uddhi st Transformation of yoga (Delhi: Motilal Banarsidass, 1992); Gyana Ra tna , The W ay of P rac tic ing Me di tat ion in The rav āda Buddhi sm (T

okyo: Sankibo Busshorin, 2001).

2   Jo ha nne s B ro nk ho rst , Th e T w o T ra dit ion s o f M ed ita tio n i n A nc ien t India (Stuttgart: F . Steiner Verlag, 1986). 3   田中教照『初期仏教の修行道論』 (山喜房仏書林、一九九三) 。 4   関 口 真 大『 天 台 小 止 観 の 研 究

初 学 坐 禅 止 観 要 門 』( 理 想 社、 一 九 五 四 ) に 始 ま り、 天 台 の 止 観 を 正 面 か ら 扱 っ た 研 究 と し て、 『 天 台 止 観 の 研 究 』( 岩 波 書 店、 一 九 六 九 ) が、 そ し て イ ン ド 仏 教 も 含 め て 止 観 を 全 般 に 扱 っ た 編 著 が『 止 観 の 研 究 』( 岩 波 書 店、一九七五)である。 5   安 藤 俊 雄『 天 台 学 論 集

止 観 と 浄 土 』( 安 藤 俊 雄 先 生 遺 稿 集 刊行会編、平楽寺書店、一九七五) 。 6   山 崎 泰 廣『 密 教 瞑 想 法

密 教 ヨ ー ガ   阿 字 観 』( 永 田 文 昌 堂、 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 一九七四) 。 7   山 内 舜 雄『 禅 と 天 台 止 観

坐 禅 儀 と『 天 台 小 止 観 』 と の 比 較 研究』 (大蔵出版、一九八六) 。 8   菅 野 博 史『 一 念 三 千 と は 何 か 』( レ グ ル ス 文 庫、 第 三 文 明 社、 一九九二) 。 9   大 野 榮 人『 天 台 止 観 成 立 史 の 研 究 』( 法 蔵 館、 一 九 九 四 ) 及 び 大 野 榮 人・ 伊 藤 光 壽・ 武 藤 明 範『 天 台 小 止 観 の 訳 註 研 究 』( 山 喜 房仏書林、二〇〇四) 。 (0   木 村 清 孝 監 修『 仏 教 の 修 行 法   阿 部 慈 恩 博 士 追 悼 論 集 』( 春 秋 社、二〇〇三) 。 ((   井 上 ウ ィ マ ラ『 呼 吸 に よ る 気 づ き の 教 え

パ ー リ 原 典「 ア ー ナーパーナサティ・スッタ」詳解』 (佼成出版社、二〇〇五) 。 ((   影 山 教 俊『 仏 教 の 身 体 技 法

止 観 と 心 理 療 法、 仏 教 医 学 』 (国書刊行会、二〇〇七) 。 ((   蓑輪顕量『仏教瞑想論』 (春秋社、二〇〇八) 。 ((   北 尾 隆 心『 密 教 瞑 想 入 門

阿 字 観 の 原 典 を 読 む 』( 大 法 輪 閣、二〇一〇) 。 ((   佐 久 間 秀 範「 瑜 伽 行 唯 識 思 想 と は 何 か 」『 シ リ ー ズ 大 乗 仏 教 7   唯 識 と 瑜 伽 行 』( 春 秋 社 、 二 〇 一 二 、 一 九 ― 七 二 頁 )、 同「 唯 識 思 想 解 析 の た め の 修 行 者 の 視 点 」( 『 三 友 健 容 博 士 古 稀 記 念 論 文 集   知 慧 の と も し び   ア ビ ダ ル マ 仏 教 の 展 開 』 イ ン ド・ 東 南 ア ジ ア・ チ ベ ッ ト 篇、 山 喜 房 仏 書 林、 二 〇 一 六、 一 九 〇( 七 七 五 ) ― 一 六 九 ( 七 九 四 ) 頁 )、 高 橋 晃 一 『『 菩 薩 地 』「 真 実 義 品 」 か ら 「 摂 決 択 分 中 菩 薩 地 」 へ の 思 想 展 開 』( Biblioteca Indologica et Buddhologica, no. 12 、 山 喜 房 仏 書 林、 二 〇 〇 五 )、 山 部 能 宜「 観 仏 経 典 研 究 に お け る『 観 仏 三 昧 海 経 』 の 意 義 」( 『 東 隆 眞 博 士 古 稀 記 念 論 集   禅 の 真 理 と 実 践 』 春 秋 社、 二 〇 〇 五、 四 〇 一 ― 四 二 三 頁 )、 同「 北 宗 禅 文 献 に み ら れ る 唯 識 教 義 の 影 響 」( 『 加 地 伸 行 博 士 古 稀 記 念 論 集 中 国 学 の 十 字 路 』 研 文 出 版 、 二 〇 〇 六 、 五 七 一 ― 五九一頁)などである。 ((   青 野 貴 芳「 日 本 の ヴ ィ パ ッ サ ナ ー 瞑 想 史 」( 『 別 冊 サ ン ガ ジ ャ パ ン   一   実 践

仏 教 瞑 想 ガ イ ド ブ ッ ク 』 サ ン ガ、 二 〇 一 四、 三一二―三三三頁) 。 ((   日 本 ヴ ィ パ ッ サ ナ ー 協 会( 一 九 八 九 )、 日 本 上 座 仏 教 修 道 会 ( 一 九 八 九 )、 日 本 テ ー ラ ヴ ァ ー ダ 仏 教 協 会( 一 九 九 四 )、 プ ラ ム・ヴィレッジ(二〇一〇)など。 ((   止 を 先 行 さ せ る 観 を 修 習 す る 者 が 止 行 者、 観 を 先 行 さ せ る 止 を 先行させる者が観行者と言われる。 Phrapongsak ( 2009 )を参照。 ((   Jon Kabat-Zinn,

Mindfulness for Beginners: Reclaiming the Pr

esent Moment―and Your Life (Boulder , Colorado: Sound True, 2012); Kabat-Zinn, Full Catastr ophe Living (Revised Edition): Using the W isdom of Your Body and Mind to Face St ress, Pain, and Il lne ss (Ne w Y ork: Bantam Books, 2013). (0   春 木 豊、 越 川 房 子 な ど。 越 川 房 子「 日 本 の 心 理 臨 床 に お け る マ イ ン ド フ ル ネ ス 」( 『 人 間 福 祉 学 研 究 』 七 ― 一、 二 〇 一 四、 四 七 ― 六二頁) 。 ((   貝 谷 久 宣・ 熊 野 宏 昭・ 越 川 房 子 編 集『 マ イ ン ド フ ル ネ ス   基 礎 と実践』 (サンガ、二〇一六) 。 ((   熊 野 宏 昭『 実 践

マ イ ン ド フ ル ネ ス

今 こ の 瞬 間 に 気 づ き 青空を感じるレッスン』 (サンガ、二〇一六) 。 ((   東京大学教育学部の中に関心を寄せる研究者が存在する。 ((   西 義 雄『 原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 』( 大 倉 山 文 化 科 学 研 究

(9)

止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 知 」 と「 正 念 」 す な わ ち「 知 」 と「 念 」 と い う 言 葉 で 表 現 さ れ た 心 的 作 用 が、 一 体、 何 を 指 し て い る の か と い う も の で あった。 この二つの言葉は、パーリ聖典の時から伝統的には、 瞑 想 状 態 の 中 の あ る 種 の「 心 的 作 用 」 を 指 す も の で あ っ た こ と は 間 違 い な い。 両 者 の 相 違 を 日 本 の 中 世 法 相 宗 の 文 献 を 手 が か り に 探 っ て み た が、 そ れ は「 麁 な る 分 別 が な い 」、 す な わ ち「 微 細 な る 分 別 は 存 在 し て い る 」 無 分 別 の 状 態 で 世 界 を 把 捉 し て い る と き に「 証 知 」「 知 」 と い う 用 語 が 用 い ら れ て い る こ と が 知 ら れ た。 ま た 触 れ る こ と が で き な か っ た が、 麁 な る 分 別 の 背 景 に は『 俱 舎 論 』 に 説 か れ る 三 種 分 別 も 存 在 す る と 思 わ れ る。 分 別 界 品 の 中 に 分 別 に 自 性 分 別、 計 度 分 別、 随 念 分 別 の 三 種 が 挙 げ ら れ、 「 五 識 身 に 由 り て、 自 性 有 り と 雖 も 余 の 二 無 き を、 無 分 別 と 名 づ く。 一 足 の 馬 を 名 づ け て 無 足 の 馬 と 為 す が 如 し 」 ( 大 正 二 八、 八 中 ) の 記 述 が 影 響 を 与 え て い る 可 能 性 も 指 摘 で き る。 計 度 と 随 念 の 分 別 が 存 在 し な い、 す な わ ち 自 性 分 別 の み が 存 在 し て 外 界 を 捉 え て い る 状 態 が、 と り も な お さ ず 無 分 別 と 一 般 に は 呼 ば れ た の で は な い だ ろ う か。 そ れ は、 換 言 す れ ば、 言 語 機 能 が 働 い て い な い 状 態 で 外 界 を 把 捉 し て い る こ と に 他 な ら な い。 そ の よ う な 状 態 を「 証 知 」 ま た は「 知 」 と 表 現 し た の で は な か っ た だ ろ う か。 と す れ ば、 「 念 」 は 反 対 に 言 語 機 能 が 働 き、 随 念、 計 度 の 分 別 が 起 き て い ることを示した言葉であったことになろう。   修 行 は、 現 時 点 で の 問 題 と も 密 接 に 関 わ り う る も の で あ る。 仏 教 学 に お け る 研 究 も、 そ の 点 で は 現 在 の 問 題 と 密 接 に 関 連 す る こ と に な り う る。 此 処 に そ の 研 究 の 現 代 的 な 意 義 が あ る と言えるのではないだろうか。 1   An ag ari ka Go vin da , C re ati ve M ed ita tio n a nd M ult i-d ime nsi on al Consciousness (London: Geor ge

Allen & Unwin, 1977); Henepola

Gunaratana,

The Path of Ser

enity and Insight:

An Explanation of the

Buddhist

jhānas

(Delhi: Motilal Banarsidass, 1985);

Tilmann Vetter , The Ideas and Me dit at iv e P rac tic es of E arl y B uddhi sm (Le ide n: E . J. Bri ll, 1988); W inston L . Ki ng, Therav āda Me di tat ion: The B uddhi st Transformation of yoga (Delhi: Motilal Banarsidass, 1992); Gyana Ra tna , The W ay of P rac tic ing Me di tat ion in The rav āda Buddhi sm (T

okyo: Sankibo Busshorin, 2001).

2   Jo ha nne s B ro nk ho rst , Th e T w o T ra dit ion s o f M ed ita tio n i n A nc ien t India (Stuttgart: F . Steiner Verlag, 1986). 3   田中教照『初期仏教の修行道論』 (山喜房仏書林、一九九三) 。 4   関 口 真 大『 天 台 小 止 観 の 研 究

初 学 坐 禅 止 観 要 門 』( 理 想 社、 一 九 五 四 ) に 始 ま り、 天 台 の 止 観 を 正 面 か ら 扱 っ た 研 究 と し て、 『 天 台 止 観 の 研 究 』( 岩 波 書 店、 一 九 六 九 ) が、 そ し て イ ン ド 仏 教 も 含 め て 止 観 を 全 般 に 扱 っ た 編 著 が『 止 観 の 研 究 』( 岩 波 書 店、一九七五)である。 5   安 藤 俊 雄『 天 台 学 論 集

止 観 と 浄 土 』( 安 藤 俊 雄 先 生 遺 稿 集 刊行会編、平楽寺書店、一九七五) 。 6   山 崎 泰 廣『 密 教 瞑 想 法

密 教 ヨ ー ガ   阿 字 観 』( 永 田 文 昌 堂、 止観研究の歴史とその現代的意義(蓑   輪) 一九七四) 。 7   山 内 舜 雄『 禅 と 天 台 止 観

坐 禅 儀 と『 天 台 小 止 観 』 と の 比 較 研究』 (大蔵出版、一九八六) 。 8   菅 野 博 史『 一 念 三 千 と は 何 か 』( レ グ ル ス 文 庫、 第 三 文 明 社、 一九九二) 。 9   大 野 榮 人『 天 台 止 観 成 立 史 の 研 究 』( 法 蔵 館、 一 九 九 四 ) 及 び 大 野 榮 人・ 伊 藤 光 壽・ 武 藤 明 範『 天 台 小 止 観 の 訳 註 研 究 』( 山 喜 房仏書林、二〇〇四) 。 (0   木 村 清 孝 監 修『 仏 教 の 修 行 法   阿 部 慈 恩 博 士 追 悼 論 集 』( 春 秋 社、二〇〇三) 。 ((   井 上 ウ ィ マ ラ『 呼 吸 に よ る 気 づ き の 教 え

パ ー リ 原 典「 ア ー ナーパーナサティ・スッタ」詳解』 (佼成出版社、二〇〇五) 。 ((   影 山 教 俊『 仏 教 の 身 体 技 法

止 観 と 心 理 療 法、 仏 教 医 学 』 (国書刊行会、二〇〇七) 。 ((   蓑輪顕量『仏教瞑想論』 (春秋社、二〇〇八) 。 ((   北 尾 隆 心『 密 教 瞑 想 入 門

阿 字 観 の 原 典 を 読 む 』( 大 法 輪 閣、二〇一〇) 。 ((   佐 久 間 秀 範「 瑜 伽 行 唯 識 思 想 と は 何 か 」『 シ リ ー ズ 大 乗 仏 教 7   唯 識 と 瑜 伽 行 』( 春 秋 社 、 二 〇 一 二 、 一 九 ― 七 二 頁 )、 同「 唯 識 思 想 解 析 の た め の 修 行 者 の 視 点 」( 『 三 友 健 容 博 士 古 稀 記 念 論 文 集   知 慧 の と も し び   ア ビ ダ ル マ 仏 教 の 展 開 』 イ ン ド・ 東 南 ア ジ ア・ チ ベ ッ ト 篇、 山 喜 房 仏 書 林、 二 〇 一 六、 一 九 〇( 七 七 五 ) ― 一 六 九 ( 七 九 四 ) 頁 )、 高 橋 晃 一 『『 菩 薩 地 』「 真 実 義 品 」 か ら 「 摂 決 択 分 中 菩 薩 地 」 へ の 思 想 展 開 』( Biblioteca Indologica et Buddhologica, no. 12 、 山 喜 房 仏 書 林、 二 〇 〇 五 )、 山 部 能 宜「 観 仏 経 典 研 究 に お け る『 観 仏 三 昧 海 経 』 の 意 義 」( 『 東 隆 眞 博 士 古 稀 記 念 論 集   禅 の 真 理 と 実 践 』 春 秋 社、 二 〇 〇 五、 四 〇 一 ― 四 二 三 頁 )、 同「 北 宗 禅 文 献 に み ら れ る 唯 識 教 義 の 影 響 」( 『 加 地 伸 行 博 士 古 稀 記 念 論 集 中 国 学 の 十 字 路 』 研 文 出 版 、 二 〇 〇 六 、 五 七 一 ― 五九一頁)などである。 ((   青 野 貴 芳「 日 本 の ヴ ィ パ ッ サ ナ ー 瞑 想 史 」( 『 別 冊 サ ン ガ ジ ャ パ ン   一   実 践

仏 教 瞑 想 ガ イ ド ブ ッ ク 』 サ ン ガ、 二 〇 一 四、 三一二―三三三頁) 。 ((   日 本 ヴ ィ パ ッ サ ナ ー 協 会( 一 九 八 九 )、 日 本 上 座 仏 教 修 道 会 ( 一 九 八 九 )、 日 本 テ ー ラ ヴ ァ ー ダ 仏 教 協 会( 一 九 九 四 )、 プ ラ ム・ヴィレッジ(二〇一〇)など。 ((   止 を 先 行 さ せ る 観 を 修 習 す る 者 が 止 行 者、 観 を 先 行 さ せ る 止 を 先行させる者が観行者と言われる。 Phrapongsak ( 2009 )を参照。 ((   Jon Kabat-Zinn,

Mindfulness for Beginners: Reclaiming the Pr

esent Moment―and Your Life (Boulder , Colorado: Sound True, 2012); Kabat-Zinn, Full Catastr ophe Living (Revised Edition): Using the W isdom of Your Body and Mind to Face St ress, Pain, and Il lne ss (Ne w Y ork: Bantam Books, 2013). (0   春 木 豊、 越 川 房 子 な ど。 越 川 房 子「 日 本 の 心 理 臨 床 に お け る マ イ ン ド フ ル ネ ス 」( 『 人 間 福 祉 学 研 究 』 七 ― 一、 二 〇 一 四、 四 七 ― 六二頁) 。 ((   貝 谷 久 宣・ 熊 野 宏 昭・ 越 川 房 子 編 集『 マ イ ン ド フ ル ネ ス   基 礎 と実践』 (サンガ、二〇一六) 。 ((   熊 野 宏 昭『 実 践

マ イ ン ド フ ル ネ ス

今 こ の 瞬 間 に 気 づ き 青空を感じるレッスン』 (サンガ、二〇一六) 。 ((   東京大学教育学部の中に関心を寄せる研究者が存在する。 ((   西 義 雄『 原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 』( 大 倉 山 文 化 科 学 研 究

参照

関連したドキュメント

 分析には大阪府高槻市安満遺跡(弥生中期) (図4) 、 福井県敦賀市吉河遺跡(弥生中期) (図5) 、石川県金

R., Existence theorem of periodic positive solutions for the Rayleigh equation of retarded type, Portugaliae Math.. R., Existence of periodic solutions for second order

We include applications to elliptic operators with Dirichlet, Neumann or Robin type boundary conditions on L p -spaces and on the space of continuous

In [13], some topological properties of solutions set for (FOSPD) problem in the convex case are established, and in [15], the compactness of the solutions set is obtained in

In this section we consider the submodular flow problem, the independent flow problem and the polymatroidal flow problem, which we call neoflow problems.. We discuss the equivalence

The theme of this paper is the typical values that this parameter takes on a random graph on n vertices and edge probability equal to p.. The main tool we use is an

and Kameoka,T(1992): STRAIN SPACE PLASTICITY MODEL FOR CYCLIC MOBILITY, SOILS AND FOUNDATIONS, Vol,32, No..

「大学の自治l意義(略)2歴史的発展過程戦前,大学受難