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Vol.65 , No.2(2017)069酒井 真道「ダルマキールティのブッダ観考察の一資料」

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全文

(1)

ダルマキールティのブッダ観考察の一資料

――阿羅漢の最後心に関する議論について――

酒 井 真 道

1.はじめに――本稿の目的――

ブッダがプラマーナたる所以は彼の四聖諦の知にあり,一切知にはない.ダル マキールティ(= DhK)が Pramāṇavārttika 第 2 章(PV 2)第 31 偈から第 33 偈1) かけて示したこの良く知られたブッダ観は,多くの研究者の注目を集めてきた. それは,一切知に対する当該箇所の DhK の態度と,後代,特に 8 世紀以降の彼の 後継者たちのそれとの間に,「温度差」が見られるからである.すなわち,シャー ンタラクシタ(= ŚR),カマラシーラ(= KŚ),プラジュニャーカラグプタ(= Praj) らは,四聖諦を知るブッダ(後代に upayuktasarvajña の名で呼ばれる者)ではなく,一 切を知るブッダ(後代に sarvasarvajña の名で呼ばれる者)に重きを置くようになって いく.彼らは,ブッダの全知を要請し,その知の内容を吟味し,更にブッダが全 知者であることの証明をも行っている2).この動きを護山 2012: 239 は「八世紀の 思想家による全知者概念の復権作業」と表現する. しかし,一方で,DhK の諸著作には,彼が,ブッダが一切知者であるというこ とそれ自体については容認していると解釈できる箇所3)が存在する.そして,彼 がブッダの全知に言及する箇所で,内容的に重要で尚且つ後代への影響という点 で見逃せないのが,Pramāṇaviniścaya 第 2 章(PVin 2)における刹那滅論証の傍論 として展開される,阿羅漢の最後心(caramacitta)についての議論(PVin 2 79,5–13) である(チベット語訳 PVin 2 のこの部分に対するシュタインケルナー博士の訳註研究は Steinkellner 1979: 89–93 にあたる.なおこの部分を解読するにあたり,シュタインケルナー 博士はシュミットハウゼン博士から書信による協力を得ており,その書簡が Steinkellner 1979: 150–151 に Anhang III として収録される.).この箇所に注目した McClintock 2010: 136 は,この議論を,DhK が sarvasarvajña の観念を擁護する議論を少なくとも認めて はいたということを示唆するものとして理解している.更に,Moriyama 2011: 336–337 は,この議論の中に,後代の思想家たちが挙って sarvasarvajña の観念を TAV 中にも確認できる.以上のように TSP は,有分別状態での世尊の説法を慈悲 という観点を中心に捉えていることが分かる. 1)Cf. TSP [1067, 20–23].   2)Cf. TSP [1068, 9–11].   3)Cf. 川崎[1992: 253–254], McClintock[2010: 355, n. 770].   4)Cf. TSP [1068, 17–21].   5)刊本では “na, nāmakaraṇe kiñcid aniṣṭam āpadyate” となっているが写本に基づき,“na nāmakaraṇe kiñcid aniṣṭam āpadyate” と読んだ.   6)Cf. PVSV [9, 1–18].   7)Cf. Taber[2011: 445].   8)Cf. TSP [1116, 24–1117, 12].   9)TA の偈の数については,検討の余 地が指摘されている(cf. 小林[1984: 93])ため,本稿では偈の番号を記さない.    10)Cf. 小林[1994: 94].   

〈略号〉

PVSV Pramāṇavārttika-svavṛtti. The Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with Autocommentary. Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed

Estremo Oriente, 1960.

TA (TAV) Tattvāvatāravṛtti. D no. 3892; P no. 5292.

TS (TSP) Tattvasaṃgrahapañjikā. Tattvasaṅgraha of Ācārya Shāntarakṣita with the Commen-tary ‘Pañjikā’ of Shrī Kamalashīla. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. 2 vols. Bauddha

Bharati Series 1, 2. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968. 〈参考文献〉 川崎信定 1992『一切智思想の研究』春秋社. 小林守 1984「シュリーグプタ作『真実への悟入』――和訳研究(上)――」『論集』19: 75–94 (37–56). ――― 1994「シュリーグプタ作『真実への悟入』――和訳研究――」『密教文化』185: 80– 99.

McClintock, Sara L. 2010. Omniscience and the Rhetoric of Reason. Boston: Wisdom Publication.

Taber, John. 2011. “Did Dharmakīrti Think the Buddha Had Desires?” In Religion and Logic in

Buddhist Philosophical Analysis: Proceedings of the Fourth International Dharmakīrti Conference Vienna, August 23–27, 2005, ed. Helmut Krasser et al., 437–448. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften.

(本研究は JSPS 科研費 16J06691 の助成を受けたものである.) 〈キーワード〉 vikalpa,慈悲,Tattvasaṃgrahapañjikā

(2)

「[世尊が]注意を向けない場合には,[最後のものである心の瞬間は]効力を欠く.」と言 うならば,否.なぜならば,[彼が]注意を向けないということはあり得ないからである. というのも,たとえたった一つのダルマについても[彼がそれを]知ることがないなら ば,[彼は]他者の為の実践的活動について,[何が]為されるべきこと[で],[何が] 為されるべきことではない[か]を識別判断することが[でき]ないということになる のだから――というのも,そうなる理由は[たとえたった一つのダルマについても彼が それを知ることがないならば,彼には]あらゆるものひとつひとつについて[それは捨 てられるべきものであるのか,或いは,取られるべきものであるのか,という]疑惑が 生じるからであって,なぜならば,そうなる理由は,あらゆるものひとつひとつは,或 る何らかのもの――[為されるべきことであれ,為されるべきでないことであれ]――に とって,何らかの仕方で,役に立っているから――それ(=最後のものである心の瞬間) を[彼が]知ることがないならば,それ(=他者の為の実践的活動の全き遂行)の成立 要件を欠くということのために,全き遂行が不可能となるからである.(PVin 2 79,8–11)6) 想定反論は,「注意を向けること」(ābhoga)という観念7)に訴え,阿羅漢の最後 心が効力をもたないことを主張する.世尊が無色界中の最後のものに注意を向け なければ,世尊は最後のものを認識しないことになり,その場合,最後のものは 世尊の認識を生ぜしめるという効力をもたないことになる,という反論である. これに対し DhK は,世尊が,たとえたった一つの対象――最後のものである心 の瞬間――でも,それに注意を向けないことなどあり得ない,と回答する.とい うのも,そのようなことがあれば,世尊は,衆生の為の実践的救済活動の全き遂 行ができなくなってしまうからである.あらゆるもの一つ一つは,或る何らかの もの――為されるべきことであれ,為されるべきでないことであれ――に,直接 的又は間接的に役に立っている.従って,たった一つのものでさえも,世尊がそ れを知らないならば,世尊は,何が捨てられるべきものであり,何が取られるべ きものであるかについて,疑惑をもつことになってしまう.すなわち,一切を知っ てこそ初めて世尊は何が捨てられるべきものであり,何が取られるべきものであ るかを教示できる,ということである.ゆえに,阿羅漢の最後心という,たった 一つのものについても世尊が注意を向けないということはあり得ない.以上が DhK の回答である.この理論の存在論的背景には,Moriyama 2011: 337 が指摘す るように,因果の無限の連鎖,或いは,縁起の思想がある.因果が無限に連鎖す る世界では,全てが全てに何らかの仕方で必ず関わっている.この関わりの中で は,取られるべきもの,捨てられるべきものは,それとして独立して存在するも のでは決してない.阿羅漢の最後心もそれらに何らかの仕方で関わっているのだ から,世尊はそれに必ず注意を向ける,ということである. 固守し,その再評価に全エネルギーを費やした理由を求めている. 本稿では,当該箇所に対するシュタインケルナー博士の訳註研究に加え,仏教 論理学派の一切知者論を論じた諸先行研究の成果を発展的に継承する形で,PVin 2 おける阿羅漢の最後心についての議論に詳細な考察を加えたい.その際,筆者 が注目するのは,DhK が理解していた,ブッダの「四聖諦知」と「全知」の関係 である.結論を先取りすれば,PVin 2 における阿羅漢の最後心についての議論を 見る限り,DhK は,ブッダの一切知を,ブッダが四聖諦知を獲得するための前提 条件と考えていたと理解できる.すなわち,一切知を根拠/条件としてブッダは 四聖諦の教示者となったという理解である.この関係は上述した PV 2 での議論 からは読み取れないものである.本稿の後半部では,この関係を考察の軸に,DhK から彼の後継者に至る,ブッダ観をめぐる思想史を筆者なりに考えてみたい.

2.阿羅漢の最後心に関する議論

この議論は,対論者が DhK のいわゆる sattvānumāna を論駁する文脈で登場す る.対論者は,DhK による存在の定義,因果効力をもつことが,問題を孕んだも のであることを,般涅槃時の阿羅漢の最後心を持ち出して指摘する.すなわち, 彼の存在の定義に従えば,言語表現されることが可能なものだけが存在するもの とされるが,或るものが言表される際,その根拠となるのはそれがもつ因果効力 である.しかし,般涅槃時の阿羅漢の心は,次の瞬間の生存を生み出さないので, 因果効力をもたないことになり,非存在ということになってしまう.この反論に 対し DhK は,欲界,色界の二界では阿羅漢の最後心は多くのもの4)の役に立ち, 更にまた,たとえ無色界中であっても,それは所知( jñeya)を遍満する(vyāpin)( jñāna),すなわち世尊の知を生ぜしめるという効力をもつ,と回答する. [反論:]しからば,最後のものである瞬間には言語表現されないという不都合な帰結が ある.[よって,最後のものである瞬間は非存在である.][回答:]否.なぜならば,最 後のものであるということは,有情として数え上げられる次なる瞬間の質料因ではない ということを特徴としているのだから.すなわち,それ(=最後のものである瞬間)に も,所知を遍満する知に対して,いろ・かたちを離れた世界(=無色界)の中であって も,効力が僅かばかり必ず存在する.他方,[それには],別のふたつの世界(=欲界と 色界)の中では,他ならぬ多くの役に立つことがあるであろう.(PVin 2 79,5–8)5) この DhK の回答に対し,更なる想定反論が立てられ,それに対する回答の中 に,DhK が考える,四聖諦知と一切知の関係が示される.

(3)

「[世尊が]注意を向けない場合には,[最後のものである心の瞬間は]効力を欠く.」と言 うならば,否.なぜならば,[彼が]注意を向けないということはあり得ないからである. というのも,たとえたった一つのダルマについても[彼がそれを]知ることがないなら ば,[彼は]他者の為の実践的活動について,[何が]為されるべきこと[で],[何が] 為されるべきことではない[か]を識別判断することが[でき]ないということになる のだから――というのも,そうなる理由は[たとえたった一つのダルマについても彼が それを知ることがないならば,彼には]あらゆるものひとつひとつについて[それは捨 てられるべきものであるのか,或いは,取られるべきものであるのか,という]疑惑が 生じるからであって,なぜならば,そうなる理由は,あらゆるものひとつひとつは,或 る何らかのもの――[為されるべきことであれ,為されるべきでないことであれ]――に とって,何らかの仕方で,役に立っているから――それ(=最後のものである心の瞬間) を[彼が]知ることがないならば,それ(=他者の為の実践的活動の全き遂行)の成立 要件を欠くということのために,全き遂行が不可能となるからである.(PVin 2 79,8–11)6) 想定反論は,「注意を向けること」(ābhoga)という観念7)に訴え,阿羅漢の最後 心が効力をもたないことを主張する.世尊が無色界中の最後のものに注意を向け なければ,世尊は最後のものを認識しないことになり,その場合,最後のものは 世尊の認識を生ぜしめるという効力をもたないことになる,という反論である. これに対し DhK は,世尊が,たとえたった一つの対象――最後のものである心 の瞬間――でも,それに注意を向けないことなどあり得ない,と回答する.とい うのも,そのようなことがあれば,世尊は,衆生の為の実践的救済活動の全き遂 行ができなくなってしまうからである.あらゆるもの一つ一つは,或る何らかの もの――為されるべきことであれ,為されるべきでないことであれ――に,直接 的又は間接的に役に立っている.従って,たった一つのものでさえも,世尊がそ れを知らないならば,世尊は,何が捨てられるべきものであり,何が取られるべ きものであるかについて,疑惑をもつことになってしまう.すなわち,一切を知っ てこそ初めて世尊は何が捨てられるべきものであり,何が取られるべきものであ るかを教示できる,ということである.ゆえに,阿羅漢の最後心という,たった 一つのものについても世尊が注意を向けないということはあり得ない.以上が DhK の回答である.この理論の存在論的背景には,Moriyama 2011: 337 が指摘す るように,因果の無限の連鎖,或いは,縁起の思想がある.因果が無限に連鎖す る世界では,全てが全てに何らかの仕方で必ず関わっている.この関わりの中で は,取られるべきもの,捨てられるべきものは,それとして独立して存在するも のでは決してない.阿羅漢の最後心もそれらに何らかの仕方で関わっているのだ から,世尊はそれに必ず注意を向ける,ということである. 固守し,その再評価に全エネルギーを費やした理由を求めている. 本稿では,当該箇所に対するシュタインケルナー博士の訳註研究に加え,仏教 論理学派の一切知者論を論じた諸先行研究の成果を発展的に継承する形で,PVin 2 おける阿羅漢の最後心についての議論に詳細な考察を加えたい.その際,筆者 が注目するのは,DhK が理解していた,ブッダの「四聖諦知」と「全知」の関係 である.結論を先取りすれば,PVin 2 における阿羅漢の最後心についての議論を 見る限り,DhK は,ブッダの一切知を,ブッダが四聖諦知を獲得するための前提 条件と考えていたと理解できる.すなわち,一切知を根拠/条件としてブッダは 四聖諦の教示者となったという理解である.この関係は上述した PV 2 での議論 からは読み取れないものである.本稿の後半部では,この関係を考察の軸に,DhK から彼の後継者に至る,ブッダ観をめぐる思想史を筆者なりに考えてみたい.

2.阿羅漢の最後心に関する議論

この議論は,対論者が DhK のいわゆる sattvānumāna を論駁する文脈で登場す る.対論者は,DhK による存在の定義,因果効力をもつことが,問題を孕んだも のであることを,般涅槃時の阿羅漢の最後心を持ち出して指摘する.すなわち, 彼の存在の定義に従えば,言語表現されることが可能なものだけが存在するもの とされるが,或るものが言表される際,その根拠となるのはそれがもつ因果効力 である.しかし,般涅槃時の阿羅漢の心は,次の瞬間の生存を生み出さないので, 因果効力をもたないことになり,非存在ということになってしまう.この反論に 対し DhK は,欲界,色界の二界では阿羅漢の最後心は多くのもの4)の役に立ち, 更にまた,たとえ無色界中であっても,それは所知( jñeya)を遍満する(vyāpin)( jñāna),すなわち世尊の知を生ぜしめるという効力をもつ,と回答する. [反論:]しからば,最後のものである瞬間には言語表現されないという不都合な帰結が ある.[よって,最後のものである瞬間は非存在である.][回答:]否.なぜならば,最 後のものであるということは,有情として数え上げられる次なる瞬間の質料因ではない ということを特徴としているのだから.すなわち,それ(=最後のものである瞬間)に も,所知を遍満する知に対して,いろ・かたちを離れた世界(=無色界)の中であって も,効力が僅かばかり必ず存在する.他方,[それには],別のふたつの世界(=欲界と 色界)の中では,他ならぬ多くの役に立つことがあるであろう.(PVin 2 79,5–8)5) この DhK の回答に対し,更なる想定反論が立てられ,それに対する回答の中 に,DhK が考える,四聖諦知と一切知の関係が示される.

(4)

あったとしても,この[選択肢]は,「プラマーナになった」(*pramāṇabhūta)というこ れに関しては認められるものではない.そうではなくて,第二[の選択肢]だけが[認 められるの]である.(PVṬ [D] 87a5–6; [P] 106a5–7)8) ここで ŚB は,所知の全てを遍満する知をもつことが世尊のプラマーナたる所以 であるとするオルタナティヴを立て,さらに,「たとえそう考える根拠があったと しても」と述べている.これは ŚB が PVin 2 における議論とそれから派生する解 釈上の問題点を知っていた証左となると思われる. また,デーヴェンドラブッディ9)や ŚB とは異なり,DhK 後継者の中で,全知 にブッダのプラマーナたる根拠を置いた,或いは寧ろ,プラマーナであるならば 全知者でなければならないとした10)Praj の理解は,PVin 2 における DhK のブッ ダ観に整合的である.すなわち,Praj は,PV 2.280 の註釈でブッダの徳目である 「救済」(tāya)と「善逝」(sugata)の関係を論じる際,ブッダの善逝性を認識論的 意味に解し,それは「全ての事物の全ての形相の知覚」でなければならないとす る.若原 1985: 69 はこの Praj の理解を評して,「彼の理解では,仏陀が四諦とい う有益なことの教示者であり直観者であることは彼が一切種智即ち全ての全知者 (sarvasarvajña)であることの結果であることになる.」と述べている.この Praj の 理解は,PVin 2 における DhK のブッダ観に整合的であると言える. 他方,ŚR,KŚ にもまた,同様の考え方が見出せる.彼らによれば,凡夫は所 知障の影響により,捨てられるべきものと取られるべきものについての真理を知 ることができないでいるが,ブッダによって示される,あらゆる一切の事物に行 きわたっている真実相についての知,すなわち無我性についての知によって,所 知障は除去されるという.そして,所知障が除去された結果,捨てられるべきも のと取られるべきものについて人は理解することができるようになる.ここでは 一切知が四聖諦知の根拠となっていることが分かる11) 3.3. DhKの真意 では,ブッダの知についての DhK 自身の真意はどこにあったのだろうか.諸先 行研究が指摘するように,註釈者たちによれば,PV 2.31–33 にかけての議論の対 論者はミーマーンサー学派である12).一方,PVin 2 における阿羅漢の最後心を巡 る議論は,その対論者説が説一切有部の教義に良く一致する13)ことから,仏教内 部の議論であったことが分かる.ゆえに,前者は対外的な見解(外面的見解)であ り,後者は対内的な見解(内面的見解),すなわち彼の真意である可能性が高いの ではないだろうか.このように考えれば,Sarvajñasiddhi 冒頭部におけるラトナ

3.考察

3.1. PVin 2におけるブッダ観と PV 2.31–33 におけるブッダ観の関係 以上の議論から,一切について知ることは四聖諦を知ることの前提となってい るということが理解できる.このことを,「ブッダは四聖諦を説いた」という歴史 的事実から見れば,ブッダは全知者であったからこそ四聖諦を説くことができた, すなわち,全知の結果として四聖諦知が生じた,ということが理解できるだろう. ここで明らかになった四聖諦知と全知の関係は,序論で述べたように,PV 2.31– 33 の議論には見られない.PV 2 で示された DhK のブッダ観とここで示される彼 のブッダ観は如何なる関係にあるのだろうか. 既にこの問題についてはシュタインケルナー博士が論じている.博士は,以下 のように述べて,双方のブッダ観の会通を図っている. 「現時的で完全なる全知性はブッダに必ず付与されるべきであり,なぜならば,さもなけ れば,彼は救済のために必要であるもの全てを知ることができないということにもなる から.」という,ここで与えられている論拠は,[ブッダの知に対する]双方のアプロー チ[すなわち,PVin 2 におけるものと PV 2 におけるもの]を合わせて考えることの可能 性を与える.すなわち,現時的で完全なる全知性は,救済のために必要であるものと有 用であるものとに関する全知性の前提として推断されなければならないだろう.たとえ [それが],全知性に関する論争の中で巻き起こった諸々の困難さを理由に,直接的には 理解されないとしても.(Steinkellner 1979: 92[Anm. 322])([ ]内は筆者の補い.) しかし,このように考えたとしても,ブッダのプラマーナ性という観点から見 れば,ブッダがプラマーナたる所以を彼の全知ではなく四聖諦知に置く PV 2 の 記述と,四聖諦知の前提として全知を要請する PVin 2 での記述とを整合的に理解 するのは難しい.というのも,論理的且つ原理的に考えれば,全知が四聖諦知の 前提となる以上,ブッダがプラマーナたる所以は四聖諦知にではなく,全知に求 められねばならないと理解されるべきだからである. 3.2. DhK後継者たちの解釈との関連性 恐らくこの解釈上の困難さを PV 2 に副註を施した,DhK 後継者の一人シャー キャブッディ(= ŚB)は理解していたと思われる.すなわち,PV 2.30 を導入する にあたり,ŚB は以下のように述べている. 所知の全てを遍満する認識をもつという理由で,或いは,実践されるべきものをその対 象とする認識をもつという理由で,プラマーナたるものである[と言う]ならば,その [二つの選択肢の]うち,第一[の選択肢]に関しては,たとえ[そう]考える根拠が

(5)

あったとしても,この[選択肢]は,「プラマーナになった」(*pramāṇabhūta)というこ れに関しては認められるものではない.そうではなくて,第二[の選択肢]だけが[認 められるの]である.(PVṬ [D] 87a5–6; [P] 106a5–7)8) ここで ŚB は,所知の全てを遍満する知をもつことが世尊のプラマーナたる所以 であるとするオルタナティヴを立て,さらに,「たとえそう考える根拠があったと しても」と述べている.これは ŚB が PVin 2 における議論とそれから派生する解 釈上の問題点を知っていた証左となると思われる. また,デーヴェンドラブッディ9)や ŚB とは異なり,DhK 後継者の中で,全知 にブッダのプラマーナたる根拠を置いた,或いは寧ろ,プラマーナであるならば 全知者でなければならないとした10)Praj の理解は,PVin 2 における DhK のブッ ダ観に整合的である.すなわち,Praj は,PV 2.280 の註釈でブッダの徳目である 「救済」(tāya)と「善逝」(sugata)の関係を論じる際,ブッダの善逝性を認識論的 意味に解し,それは「全ての事物の全ての形相の知覚」でなければならないとす る.若原 1985: 69 はこの Praj の理解を評して,「彼の理解では,仏陀が四諦とい う有益なことの教示者であり直観者であることは彼が一切種智即ち全ての全知者 (sarvasarvajña)であることの結果であることになる.」と述べている.この Praj の 理解は,PVin 2 における DhK のブッダ観に整合的であると言える. 他方,ŚR,KŚ にもまた,同様の考え方が見出せる.彼らによれば,凡夫は所 知障の影響により,捨てられるべきものと取られるべきものについての真理を知 ることができないでいるが,ブッダによって示される,あらゆる一切の事物に行 きわたっている真実相についての知,すなわち無我性についての知によって,所 知障は除去されるという.そして,所知障が除去された結果,捨てられるべきも のと取られるべきものについて人は理解することができるようになる.ここでは 一切知が四聖諦知の根拠となっていることが分かる11) 3.3. DhKの真意 では,ブッダの知についての DhK 自身の真意はどこにあったのだろうか.諸先 行研究が指摘するように,註釈者たちによれば,PV 2.31–33 にかけての議論の対 論者はミーマーンサー学派である12).一方,PVin 2 における阿羅漢の最後心を巡 る議論は,その対論者説が説一切有部の教義に良く一致する13)ことから,仏教内 部の議論であったことが分かる.ゆえに,前者は対外的な見解(外面的見解)であ り,後者は対内的な見解(内面的見解),すなわち彼の真意である可能性が高いの ではないだろうか.このように考えれば,Sarvajñasiddhi 冒頭部におけるラトナ

3.考察

3.1. PVin 2におけるブッダ観と PV 2.31–33 におけるブッダ観の関係 以上の議論から,一切について知ることは四聖諦を知ることの前提となってい るということが理解できる.このことを,「ブッダは四聖諦を説いた」という歴史 的事実から見れば,ブッダは全知者であったからこそ四聖諦を説くことができた, すなわち,全知の結果として四聖諦知が生じた,ということが理解できるだろう. ここで明らかになった四聖諦知と全知の関係は,序論で述べたように,PV 2.31– 33 の議論には見られない.PV 2 で示された DhK のブッダ観とここで示される彼 のブッダ観は如何なる関係にあるのだろうか. 既にこの問題についてはシュタインケルナー博士が論じている.博士は,以下 のように述べて,双方のブッダ観の会通を図っている. 「現時的で完全なる全知性はブッダに必ず付与されるべきであり,なぜならば,さもなけ れば,彼は救済のために必要であるもの全てを知ることができないということにもなる から.」という,ここで与えられている論拠は,[ブッダの知に対する]双方のアプロー チ[すなわち,PVin 2 におけるものと PV 2 におけるもの]を合わせて考えることの可能 性を与える.すなわち,現時的で完全なる全知性は,救済のために必要であるものと有 用であるものとに関する全知性の前提として推断されなければならないだろう.たとえ [それが],全知性に関する論争の中で巻き起こった諸々の困難さを理由に,直接的には 理解されないとしても.(Steinkellner 1979: 92[Anm. 322])([ ]内は筆者の補い.) しかし,このように考えたとしても,ブッダのプラマーナ性という観点から見 れば,ブッダがプラマーナたる所以を彼の全知ではなく四聖諦知に置く PV 2 の 記述と,四聖諦知の前提として全知を要請する PVin 2 での記述とを整合的に理解 するのは難しい.というのも,論理的且つ原理的に考えれば,全知が四聖諦知の 前提となる以上,ブッダがプラマーナたる所以は四聖諦知にではなく,全知に求 められねばならないと理解されるべきだからである. 3.2. DhK後継者たちの解釈との関連性 恐らくこの解釈上の困難さを PV 2 に副註を施した,DhK 後継者の一人シャー キャブッディ(= ŚB)は理解していたと思われる.すなわち,PV 2.30 を導入する にあたり,ŚB は以下のように述べている. 所知の全てを遍満する認識をもつという理由で,或いは,実践されるべきものをその対 象とする認識をもつという理由で,プラマーナたるものである[と言う]ならば,その [二つの選択肢の]うち,第一[の選択肢]に関しては,たとえ[そう]考える根拠が

(6)

結が生じるだろう.[回答:]有情の数[に入る]性質のものとして,次の瞬間[によっ て]取られるべきものではないものは,他ならぬ有として母胎に入らないがゆえに,最 後の有と言われるのであって,偉大な覚り(*mahābodhi)に対して心を起こすことによっ て別の道(*anyanaya:大乗の道)によって[輪廻の世界に]留まることが望まれるので ある.所知の一切を遍満する[者]が尊き一切知者である.その[彼の]認識作用に対 して効力が存在するのである.なぜならば,[一切知者が]それ(=最後のもの)につい て[知りたいという]願いを起こしたら(*praṇidhāya)[それの]知が[彼には]直接経 験されるのであるから.別のふたつの世界[において]とは,[すなわち]欲,或いは, いろ・かたち[の世界]において,である.その二つの[世界]に関して言えば,他者 の心の知,すなわち,一切知者ではない者たちの心に対しても[最後のものには効力が 存在する]のである.」   6)対応するダルモーッタラ註は PVinṬ 2 19,9–20,5.他方, ジュニャーナシュリーバドラ註では,想定反論部分のみが註釈されている.PVinṬ(J), (D) 218b1–218b2; (P) 259b5–6 参照.   7)ābhoga の観念については,川﨑 1992: 83–85 を 参照.   8)拙訳は稲見 1996: 88 に多くを拠っている.   9)デーヴェンドラブッ ディの立場については,Jackson 1988: 349 および Jackson 1991: 235,稲見 1996: 87 を参 照.   10)Jackson 1991: 235–236 参照.   11)ŚR と KŚ における,四聖諦知と 全知の関係については,McClintock 2010: 138–141, 223–226 が論じている.また,川﨑 1992: 251–252 では,煩悩障と所知障を除去するものとして,一切のものの無我性と刹那 滅性が機能することが言及されている.   12)稲見 1996: 82–83(文末註 4)参 照.   13)シュミットハウゼン書簡を参照.   14)SJS 1,13–15 参照.翻訳は Bühnemann 1980: 1–2 を参照.この RK の弁明については若原 1985: 65–66 が詳しく論じて いる.なお,この弁明のニュアンスをめぐり,若原 1985: 75(文末註 35)は川﨑 1984: 326 の見解に対し異を唱えている.筆者としては,四聖諦知ではなく「全ての一切知」に ブッダのプラマーナ性の根拠を置く立場が DhK の真意であった可能性を指摘しておきた い.   15)ブッダのプラマーナ性の根拠が四聖諦知に置かれることがミーマーンサー 学派を想定してのことであることは,Krasser 2001 が主張する,プラマーナのいわゆる第 二定義である「未知の実在を明らかにすること」(ajñātārthaprakāśa:内容的に四聖諦の 教示に相当)がクマーリラの教説を念頭に置いた上での DhK の対応策であることに対応 する.   16)筆者は上記註 5 で訳出したジュニャーナシュリーバドラの言明からこ の着想を得た.また,生井 1996: 374–375, 389–391, 397–398, 534–535 が指摘する,ŚR・ KŚ 師弟による,一乗思想の観点からの,阿羅漢の般涅槃否定についての議論も参照.    〈一次文献〉

PV 2 = Pramāṇavārttika (chap. 2). Miyasaka, Yūsho, ed. “Pramāṇavārttika-kārikā (Sanskrit and Tibetan).” In Acta Indologica II, 2–41. Narita: Naritasan Shinshoji, 1971/1972. PVin 2 = Pramāṇaviniścaya (chap. 2). Steinkellner, Ernst, ed. Dharmakīrti’s Pramāṇaviniścaya: Chapters 1

and 2. Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences

Press, 2007. PVinṬ 2 = Pramāṇaviniścayaṭīkā (Dharmottara) (chap. 2). Sakai, Masamichi, ed. In Sakai 2010: 1–23. PVinṬ(J) = Pramāṇaviniścayaṭīkā (Jñānaśrībhadra) (Tibetan). Derge no. 4228; キールティ(= RK)の弁明,すなわち,「先生(= DhK)も,虚空に至るまでの世界

が全ての全知者の御足の埃によって守護されていることを主張しているけれども」 (ācāryo ’pi sarvasarvajñacaraṇareṇusanāthaṃ yāvad ākāśaṃ jagad icchann api),四聖諦を知る

者としてのブッダを論証することでも,ヴェーダ聖典類の教説を主要なものとす る,あらゆる邪悪な教説は十分に打ち倒せると考えて,先生は PV 2.32 を述べた のだ,という弁明14)が整合的に理解できるのではないだろうか15)

4.おわりに――結論に代えて――

直前に述べたように,PVin 2 における阿羅漢の最後心をめぐる議論で DhK が示 したブッダ観は彼の真意であった可能性がある.そして,これが後代のいわゆる sarvasarvajña の概念の根拠となったと思われる.しかし,筆者の知る限り,阿羅 漢の最後心の問題を解決するなかで披露された,この DhK のブッダ観が DhK 後 継者たちによって言及されることはなかったようである.その理由を考えるに, 恐らくその理由は,般涅槃した阿羅漢は次の瞬間には生存しないという,この議 論の大前提が,大乗仏教の救済論に抵触するものであったからだと思われる16) すなわち,大乗の救済論によれば,阿羅漢といえども死後は輪廻の世界に留まり, そこで生死を繰り返す中で菩薩行を行じ,最後は他ならぬ仏として完全なる涅槃 に入る.そして,この大乗的涅槃観の根幹にあるのは,声聞或いは独覚を救済せ んとするブッダの慈悲に他ならない.そして,この慈悲こそがブッダのプラマー ナ性をその根底で支えるものであることはディグナーガ以来の仏教論理学派に共 通する思想であろう.以上の理由から,PVin 2 において示された,阿羅漢の最後 心の問題に由来する DhK のブッダ観はその重要さにもかかわらず,皮肉にも後代 の思想家たちによっては敢えて触れられなかったものと考えられる. 1)翻訳は稲見 1996: 78–79 を参照.   2)ŚR,KŚ の見解については川﨑 1992 並びに McClintock 2010 を参照.Praj の見解については Jackson 1988: 349 並びに Jackson 1991: 235–236 が簡潔に纏めている他,Moriyama 2014 及び護山 2012: 237–239 が詳論している. また,upayuktasarvajña と sarvasarvajña の分類については Bühnemann 1980: 92–93(Anm. 9) を参照.   3)例えば,Santānāntarasiddhi の最終スートラを参照.   4)Steinkellner 1979: 91(Anm. 329)参照.   5)対応するダルモーッタラ註は PVinṬ 2 18,7–19,4. 一方,ジュニャーナシュリーバドラ註は以下の通り.PVinṬ(J), (D) 218a5–218b1; (P) 259b2–5.「[反論:]因果効力を欠くものが非存在であるのであれば,そうであれば,い ろ・かたちのないところに[すなわち]残れるもののないところに存している最後のも のの瞬間は,自らの結果を生じることがないのだから,非存在であるという不都合な帰

(7)

結が生じるだろう.[回答:]有情の数[に入る]性質のものとして,次の瞬間[によっ て]取られるべきものではないものは,他ならぬ有として母胎に入らないがゆえに,最 後の有と言われるのであって,偉大な覚り(*mahābodhi)に対して心を起こすことによっ て別の道(*anyanaya:大乗の道)によって[輪廻の世界に]留まることが望まれるので ある.所知の一切を遍満する[者]が尊き一切知者である.その[彼の]認識作用に対 して効力が存在するのである.なぜならば,[一切知者が]それ(=最後のもの)につい て[知りたいという]願いを起こしたら(*praṇidhāya)[それの]知が[彼には]直接経 験されるのであるから.別のふたつの世界[において]とは,[すなわち]欲,或いは, いろ・かたち[の世界]において,である.その二つの[世界]に関して言えば,他者 の心の知,すなわち,一切知者ではない者たちの心に対しても[最後のものには効力が 存在する]のである.」   6)対応するダルモーッタラ註は PVinṬ 2 19,9–20,5.他方, ジュニャーナシュリーバドラ註では,想定反論部分のみが註釈されている.PVinṬ(J), (D) 218b1–218b2; (P) 259b5–6 参照.   7)ābhoga の観念については,川﨑 1992: 83–85 を 参照.   8)拙訳は稲見 1996: 88 に多くを拠っている.   9)デーヴェンドラブッ ディの立場については,Jackson 1988: 349 および Jackson 1991: 235,稲見 1996: 87 を参 照.   10)Jackson 1991: 235–236 参照.   11)ŚR と KŚ における,四聖諦知と 全知の関係については,McClintock 2010: 138–141, 223–226 が論じている.また,川﨑 1992: 251–252 では,煩悩障と所知障を除去するものとして,一切のものの無我性と刹那 滅性が機能することが言及されている.   12)稲見 1996: 82–83(文末註 4)参 照.   13)シュミットハウゼン書簡を参照.   14)SJS 1,13–15 参照.翻訳は Bühnemann 1980: 1–2 を参照.この RK の弁明については若原 1985: 65–66 が詳しく論じて いる.なお,この弁明のニュアンスをめぐり,若原 1985: 75(文末註 35)は川﨑 1984: 326 の見解に対し異を唱えている.筆者としては,四聖諦知ではなく「全ての一切知」に ブッダのプラマーナ性の根拠を置く立場が DhK の真意であった可能性を指摘しておきた い.   15)ブッダのプラマーナ性の根拠が四聖諦知に置かれることがミーマーンサー 学派を想定してのことであることは,Krasser 2001 が主張する,プラマーナのいわゆる第 二定義である「未知の実在を明らかにすること」(ajñātārthaprakāśa:内容的に四聖諦の 教示に相当)がクマーリラの教説を念頭に置いた上での DhK の対応策であることに対応 する.   16)筆者は上記註 5 で訳出したジュニャーナシュリーバドラの言明からこ の着想を得た.また,生井 1996: 374–375, 389–391, 397–398, 534–535 が指摘する,ŚR・ KŚ 師弟による,一乗思想の観点からの,阿羅漢の般涅槃否定についての議論も参照.    〈一次文献〉

PV 2 = Pramāṇavārttika (chap. 2). Miyasaka, Yūsho, ed. “Pramāṇavārttika-kārikā (Sanskrit and Tibetan).” In Acta Indologica II, 2–41. Narita: Naritasan Shinshoji, 1971/1972. PVin 2 = Pramāṇaviniścaya (chap. 2). Steinkellner, Ernst, ed. Dharmakīrti’s Pramāṇaviniścaya: Chapters 1

and 2. Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences

Press, 2007. PVinṬ 2 = Pramāṇaviniścayaṭīkā (Dharmottara) (chap. 2). Sakai, Masamichi, ed. In Sakai 2010: 1–23. PVinṬ(J) = Pramāṇaviniścayaṭīkā (Jñānaśrībhadra) (Tibetan). Derge no. 4228; キールティ(= RK)の弁明,すなわち,「先生(= DhK)も,虚空に至るまでの世界

が全ての全知者の御足の埃によって守護されていることを主張しているけれども」 (ācāryo ’pi sarvasarvajñacaraṇareṇusanāthaṃ yāvad ākāśaṃ jagad icchann api),四聖諦を知る

者としてのブッダを論証することでも,ヴェーダ聖典類の教説を主要なものとす る,あらゆる邪悪な教説は十分に打ち倒せると考えて,先生は PV 2.32 を述べた のだ,という弁明14)が整合的に理解できるのではないだろうか15)

4.おわりに――結論に代えて――

直前に述べたように,PVin 2 における阿羅漢の最後心をめぐる議論で DhK が示 したブッダ観は彼の真意であった可能性がある.そして,これが後代のいわゆる sarvasarvajña の概念の根拠となったと思われる.しかし,筆者の知る限り,阿羅 漢の最後心の問題を解決するなかで披露された,この DhK のブッダ観が DhK 後 継者たちによって言及されることはなかったようである.その理由を考えるに, 恐らくその理由は,般涅槃した阿羅漢は次の瞬間には生存しないという,この議 論の大前提が,大乗仏教の救済論に抵触するものであったからだと思われる16) すなわち,大乗の救済論によれば,阿羅漢といえども死後は輪廻の世界に留まり, そこで生死を繰り返す中で菩薩行を行じ,最後は他ならぬ仏として完全なる涅槃 に入る.そして,この大乗的涅槃観の根幹にあるのは,声聞或いは独覚を救済せ んとするブッダの慈悲に他ならない.そして,この慈悲こそがブッダのプラマー ナ性をその根底で支えるものであることはディグナーガ以来の仏教論理学派に共 通する思想であろう.以上の理由から,PVin 2 において示された,阿羅漢の最後 心の問題に由来する DhK のブッダ観はその重要さにもかかわらず,皮肉にも後代 の思想家たちによっては敢えて触れられなかったものと考えられる. 1)翻訳は稲見 1996: 78–79 を参照.   2)ŚR,KŚ の見解については川﨑 1992 並びに McClintock 2010 を参照.Praj の見解については Jackson 1988: 349 並びに Jackson 1991: 235–236 が簡潔に纏めている他,Moriyama 2014 及び護山 2012: 237–239 が詳論している. また,upayuktasarvajña と sarvasarvajña の分類については Bühnemann 1980: 92–93(Anm. 9) を参照.   3)例えば,Santānāntarasiddhi の最終スートラを参照.   4)Steinkellner 1979: 91(Anm. 329)参照.   5)対応するダルモーッタラ註は PVinṬ 2 18,7–19,4. 一方,ジュニャーナシュリーバドラ註は以下の通り.PVinṬ(J), (D) 218a5–218b1; (P) 259b2–5.「[反論:]因果効力を欠くものが非存在であるのであれば,そうであれば,い ろ・かたちのないところに[すなわち]残れるもののないところに存している最後のも のの瞬間は,自らの結果を生じることがないのだから,非存在であるという不都合な帰

(8)

『如実論』について

小 野   基

真諦(Paramārtha)訳『如実論反質難品』(大正蔵 32 巻 no. 1633 =『如実論』)は,梵 文原典も蔵訳も伝わらず部分訳の可能性さえ指摘されているが,陳那(Dignāga, ca. 480–540)以前の仏教論理学の思想史を跡づける上で貴重な典籍である.同書は因 明学の主流では左程研究されなかった模様だが,近代になって改めて注目され, 諸碩学により研究された.しかし近年の桂紹隆博士グループによる Pramāṇasamu-ccayaṭīkā(= PSṬ)第 3・4・6 章梵文原典研究やエリ・フランコ博士による Spitzer 写本の解明は,陳那以前の仏教論理学の理解に新たな光を投げかけている.本稿 では,それらを顧慮しつつ,『如実論』の思想史的位置づけを再考したい.

1.

『如実論』の原題

『如実論』の梵語題名に関しては 1290 年成立の『至元法宝勘同総録』の『如実 論』の項目に「怛囉二合迦沙悉特囉」と漢字音写が記載されていることが議論の出 発点となる.南条文雄博士は,この記述に従って英訳『大明三蔵聖教目録』で『如 実論』に Tarka-śāstra という梵語名を充てた.これは漢訳名以上にこの論書の内容 に良く合致するものと言えるが,『至元録』で『如実論』に付せられた tarkaśāstra という名称は,特定の論書を表わすというより,討論術・論理学の書一般を表わ す普通名詞として原題が不明な『如実論』に仮に充てられたものと見られる. 一方,インド撰述の仏教論理学文献に tarkaśāstra への言及がある.ジュゼッペ・ トゥッチ博士は陳那の Pramāṇasamuccayavṛtti(= PSV)の蔵訳に tarkaśāstra に当た る語が現れる点を指摘した.彼はこれを直ちに『如実論』に同定はしないが,陳 那が tarkaśāstra の名の下に具体的な論書を念頭に置き,それに特定の学説を帰し ているとした(Tucci 1929: ix–xi).この仮説を支持し,エーリヒ・フラウワルナー 博士(以下 F 博士と略記)は PSV の蔵訳が示す複数形が正確な翻訳とは限らないと した上で単数形の tarkaśāstra に言及する法称の註釈者等の用例を指摘して,PSV Peking no. 5728. PVṬ = Pramāṇavārttikaṭīkā (Śākyabuddhi) (Tibetan). Derge no. 4220; Peking

no. 5718. SJS = Sarvajñasiddhi (Ratnakīrti). Thakur, Anantalal, ed. Ratnakīrtinibandhāvali

(Buddhist Nyāya Works of Ratnakīrti). 2nd ed. Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute,

1975: 1–31.  〈二次文献〉

Bühnemann, Gudrun. 1980. Der Allwissende Buddha: Ein Beweis und seine Probleme;

Ratnakīrtis Sarvajñasiddhi, Übersetzt und kommentiert. Wien: Arbeitskreis für Tibetische und

Buddhistische Studien, Universität Wien. Jackson, Roger. 1988. “The Buddha as

Pramāṇabhūta: Epithets and Arguments in the Buddhist ‘Logical’ Tradition.” Journal of Indian Philosophy 16: 335–365. Jackson, Roger. 1991. “Dharmakīrti’s Attitude Toward Omniscience.”

In Aspects of Jainology. Vol. III, Pt. Dalsukh Bhai Malvaniya Felicitation. Volume I, ed. M. A. Dhaky and Sagarmal Jain, 230–246. Varanasi: P. V. Research Institute. Jackson, Roger. 1999. “Atheology and Buddhalogy in Dharmakīrti’s Pramāṇavārttika.” Faith and Philosophy 16 (4): 472–505. Krasser, Helmut. 2001. “On Dharmakīrti’s Understanding of pramāṇabhūta and His Definition of pramāṇa.” Wiener Zeitschrift für die Kunde Südasiens 45: 173–199. McClintock, Sara. 2010. Omniscience and the Rhetoric of Reason: Śāntarakṣita and Kamalaśīla on

Rationality, Argumentation, and Religious Authority. Boston: Wisdom Publications. Moriyama,

Shinya. 2011. “pramāṇapariśuddhasakalatattvajña, sarvajña and sarvasarvajña.” In Religion

and Logic in Buddhist Philosophical Analysis: Proceedings of the Fourth International Dharmakīrti Conference. Vienna, August 23–27, 2005, ed. Helmut Krasser et al., 329–339. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften. Moriyama, Shinya. 2014.

Omniscience and Religious Authority: A Study on Prajñākaragupta’s Pramāṇavārttikālaṅkāra-bhāṣya ad Pramāṇavārttika II 8–10 and 29–33. Zürich: Lit Verlag. Sakai, Masamichi. 2010. “Dharmottaras Erklärung von Dharmakīrtis kṣaṇikatvānumāna (Pramāṇaviniścayaṭīkā zu Pramāṇaviniścaya 2 vv. 53–55 mit Prosa).” PhD diss., Universität Wien. Steinkellner, Ernst. 1979. Dharmakīrti’s Pramāṇaviniścayaḥ. Zweites Kapitel: Svārthānumānam. Teil 2, Übersetzung

und Anmerkungen. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften. 稲見正浩 1996「『プラマーナ・ヴァールティカ』プラマーナシッディ章の研究(5)」『島根県立国 際短期大学紀要』3: 77–100. 川﨑信定 1984「一切智者の存在論証」平川彰・ 梶山雄一・ 高崎直道編『講座大乗仏教 9 認識論と論理学』春秋社,293–339. 川﨑信定 1992『一切智 思想の研究』春秋社. 護山真也 2012「全知者証明・輪廻の証明」高崎直道監修,桂紹隆 他編『シリーズ大乗仏教 9 認識論と論理学』春秋社,227–257. 生井智紹 1996『輪廻の論 証 仏教論理学派による唯物論批判』東方出版. 若原雄昭 1985「アーガマの価値と全知者 の存在証明――仏教論理学派に於る系譜――」『仏教学研究』41: 52–78.  〈キーワード〉 阿羅漢,最後心,一切知,sarvajña,sarvasarvajña,upayuktasarvajña (関西大学准教授,Dr.phil.)

参照

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