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Academic year: 2022

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洞海湾における護岸構造物の現況基礎調査に基づく歴史性の把握 * The research of history based on basic investigation of current state

of shore protection structure in Doukai-bay*

西嶋崇氏**・樋口明彦***・仲間浩一****

By Takashi NISHIJIMA**・Akihiko HIGUCHI***・Kouichi NAKAMA****

1.研究の背景と目的

 近年、歴史や文化に根ざした土木施設に対しての建設 や活用への要求が高まり、1990年代からは近代土木遺産 に対する調査・研究や、それらの成果に基づいた制度の 整備が行なわれた。その中で、九州地方には縄文期から 近世まで多彩な歴史的・文化的な資産が存在している。

 本研究では、日本の近代化を担ってきた、福岡県北九 州市の北部に位置する洞海湾を対象地とする。洞海湾は 豊富な筑豊炭田の炭積出しのために近代港湾としての道 を歩み始めた。そして、近代工場群の集積と埋立て等の 港湾開発とが同時に且つ急速に行なわれていった。また、

沿岸一帯を様々な民間事業者が占有したまま、現在でも 工業港湾として利用されている性質を持っている。故に、

石積み護岸や煉瓦積み護岸が現存しているにもかかわら ず、現在まで護岸構造物の連続した調査はほとんど行な われていないのが現状である。従って日本近代工業の幕 開けを担ってきた洞海湾の歴史的な調査を行うことは、

産業という観点ではない、新たな近代土木遺産という観 点から評価できることとなる。また、2004年(平成16 年)12月に景観法が施行されたことで、今後の近代化遺 産のあり方が大きく変化することが考えられる。特に、

土木遺産の活用については、所有者の理解と協力を得て 住民と共同で行なうことができるようになると考えられ る。そこで、本研究では以下の3点を目的とする。

1)洞海湾の港湾埋立て事業を中心とした開発の歴史に ついて、開発の主体毎に把握する。

*キーワーズ:土木史、護岸構造物、近代化遺産、景観法

**学生員、九州工業大学大学院

     工学研究科建設社会工学専攻

***正員、工博、九州大学大学院工学研究科        建設デザイン部門     (福岡県福岡市東区箱崎6-10-1、

     TEL&FAX092-642-3265)

****正員、工博、九州工業大学工学部建設社会工学科     (福岡県北九州市戸畑区仙水町1-1、      TEL093-884-3112、FAX093-884-3110)

2)湾内の護岸構造物の現況を調査し、一次資料を探索 することで施工技術や工事過程を明らかにする。

3)洞海湾を例に、景観法に基づく近代土木遺産の活用 方法について考察する。

2.洞海湾の空間変遷に着目した歴史の把握

 明治期からの洞海湾の開発は、1879 年(明治 12 年)

の漁業者による埋立てから始まった。特に 1888 年(明 治 21 年)に若松築港会社が設立してからは、大規模な 築港が行われる。この築港は1955年(昭和30 年)の第 4次拡張計画が終了するまで続き、洞海湾全域に大きな 空間変遷をもたらしている(図-1~図-2)。本研究で は、洞海湾開発における利害関係が最も緊密であった若 松築港会社、官営八幡製鐵所、筑豊興業鉄道( 1897 年

(明治 30 年)九州鉄道株式会社に吸収合併)の 3 企業 と行政との関わり方に着目し、洞海湾の空間変遷の歴史 を整理した。

図−1 1900年(明治33年)洞海湾平面図

図−2 2000年(平成12年)洞海湾平面図

(2)

 当初は、若松築港会社がデベロッパとして洞海湾に大 きな影響を与えており、九州鉄道株式会社は石炭荷役の ために若松築港会社から土地を購入した主要企業であっ た。また官営八幡製鐵所構内の岸壁取り付け工事及び浚 渫工事は、若松築港会社による委託施工であった。なお、

1907 年(明治40 年)以降、官営八幡製鐵所は独自に埋 立て・浚渫を行ない、工業港湾としての洞海湾を造り出 していった。そして、1938 年(昭和13 年)に洞海湾が 福岡県に移管されてからは、県や市(旧若松市、旧戸畑 市)、内務省等による洞海湾開発が進められ、若松築港 会社は施工請負者として開発を行っていたことが文献調 査やヒアリング調査により明らかとなった。このような 3企業の関わり方を中心に調査を行い、約 70 年にも及 ぶ大規模な埋立て・浚渫を始めとした築港工事の概要を 把握した。

3.他の近代港湾と洞海湾の比較

洞海湾の近代港湾構造物としての歴史的位置付けを 行なうために、代表的な近代港湾との年代比較を行なっ た(表-1)。その結果、埋立てられた地域によっては、

他地域の港湾と同時期に築港された部分が洞海湾岸には 現存することが判明した。さらに他地域の代表的な近代 港湾と比較すると、洞海湾は長期に及ぶ築港の歴史や、

明治の三大築港のすぐ後に築港されているという特徴を もつことがわかる。また、重要文化財として指定されて いる四日市港(三重県)や、登録有形文化財として登録 されている油津港(宮崎県)よりも早い時期に築港され ていたことがわかる。そして、洞海湾は現在においても 工業港湾として機能し続けているという特徴があること が明らかとなった。これらにより、洞海湾が今後近代土 木遺産として、北九州市のみではなく、全国的に重要な 役割を担っていく可能性があることが明らかとなった。

4.洞海湾岸における護岸構造物の調査

 洞海湾岸の護岸・岸壁の現況について構造や建設年等 を調査した結果、建設当時の構造が現在まで残っており、

また利用されている護岸・岸壁が多数残っていることが 確認された。特に現在の若松区岬ノ山~藤ノ木付近、戸 畑区牧山~天籟寺川付近、八幡東区松ヶ島~西田岸壁付

近には、石積み・煉瓦積みで施工された明治・大正期の 護岸が連続して現存している。洞海湾における上記の3 地域の場所を図-3に記す。

 そこで、上記の地区における護岸構造物の施工に関わ る一次資料の探索を目的に、若松築港会社(現若築建 設)の史料館である「わかちく史料館」の協力を得て図 面調査を行なった。その結果、施工当時の一次資料があ る程度は現存し、該当区域の詳しい埋立て経緯や、護岸 構造の詳細が一部明らかとなった(図-4、図-5)。そ れらの調査結果と、文献調査による土地の歴史を(1)

若松区岬ノ山~藤ノ木、(2)戸畑区牧山~天籟寺川、

(3)八幡東区松ヶ島~西田岸壁のそれぞれについて以 下に述べる。

図−3 洞海湾における3地域の位置

表−1 比較対象の近代港湾と洞海湾の築港期間

図−4 岬ノ山付近施工当時の護岸断面図1)

(3)

(1)若松区岬ノ山〜藤ノ木

 現若松区の岬ノ山地区から藤ノ木地区にかけて、土地 の埋立てが竣工したのは、1891年(明治24年)から1921 年(大正10年)にかけてである。またこの地域は、鉄道 貨車で送り込まれる大量の石炭の受け入れを行っていた 土地であり、大規模な貯炭場としても利用されていた。

そのため、大型船に石炭を積込む荷役桟橋や、日本初の 石炭船積用水圧ホイストクレーンといった積込み機械が 整備されていた。この地域に連続して現存する明治・大 正期の護岸構造物の状況と、その地域の埋立て竣工年を 表-2に記す。

(2)戸畑区牧山〜天籟寺川

 現戸畑区の牧山地区から天籟寺川河口付近にかけて、

土地の埋立てが竣工したのは1900年(明治33年)から 1926年(大正15年)にかけてである。この地域は、前述 した岬ノ山から藤ノ木付近の地域と同様に、貯炭場や鉄 道貨車で送り込まれる大量の石炭の受け入れを行ってい た土地であった。また、1905年(明治38年)に建設され た牧山桟橋(ホイスト汽船積)に始まる石炭荷役の機械 設備の充実により、戸畑の着炭量は1912年(明治45年)

に177万t/年となり、洞海湾における着炭量の26%を占 めることとなった。この地域に連続して現存する明治・

大正期の護岸構造物の状況と、その地域の埋立て竣工年 を表-3に記す。

(3)八幡東区松ヶ島〜西田岸壁

 現八幡東区の松ヶ島岸壁から西田岸壁付近にかけて、

土地の埋立てが竣工したのは1906年(明治39年)である。

この地域の護岸構造物は、官営八幡製鐵所(現新日本製 鉄株式会社)が創業当初の時代に使われていた岸壁であ る。また、官営八幡製鐵所が所有していた約9.3kmの岸 壁(現八幡区間5.9km、現戸畑区間3.4km)の中で、多 孔質な材料である石や煉瓦を材料としたものは、この区 域のみである。この地域に連続して現存する明治・大正 期の護岸構造物の状況と、その地域の埋立て竣工年を表 -4に記す。

5.法制度に基づく歴史的土木構造物の保全・活用    手法の把握と今後の展望

 現在、土木遺産を法制度により保全・活用する方法と して、文化財保護法に加え、新たに制定された景観法へ の期待が強い。文化財保護法の登録に土木構造物が少な い理由としては、産業としての重要性と文化遺産として の重要性の線引きが難しいということが挙げられる。ま た、土木構造物の多くは単体としてだけでなく、地区の 街並や景観要素としての役割を果たしており、それは都 市の記憶であり、地域住民にとっての共有財産といった

「面」としての重要性が大きい。しかし、文化財保護法 では構造物がメインであるために「点」としての保存が 大多数である。

 加えて洞海湾は、工事が長期間かつ大規模であり、図 面や施工記録等の把握が困難であることや、水際線を占 有する民間事業者が多岐にわたるといった問題により、

文化財保護法への指定は難しいと考えられる。さらに、

北九州市では2002年(平成14年)に「海辺のマスター プラン2010」を策定し、多様な水際線の利用を目指 している。現在、若松区南海岸は昭和期の護岸を活用し た海沿いのウォーターフロントとして整備されているが、

図−5 牧山付近施工当時の護岸断面図1)

表−2 若松区岬ノ山〜藤ノ木付近護岸状況

表−4 八幡東区松ヶ島〜西田岸壁付近護岸 状況

表−3 戸畑区牧山〜天籟寺川付近護岸状況

(4)

洞海湾全域で見ると、水辺を市民が歩ける区間は少ない。

そのため、地域の歴史資産を活用するために、事業者と 住民とが協力した取組みを行なえる制度の枠組みが現在 求められている。

 そこで、景観法の制度を活用することが今後考えられ る。その背景として、景観法は自治体が景観行政団体と して景観計画を策定し、住民等が計画の提案をできる。

景観法の枠組みと、洞海湾を景観法で活用していく一例 を図-6に記す。例えば、洞海湾を核として景観計画区 域を指定し、歴史的護岸構造物を景観重要公共施設や景 観重要建造物として指定する。それにより、管理者であ り占有している事業者と行政、住民とが関わりを持てる 景観協議会を行う事ができる。そこでは水際の情報共有 等を含めたルールづくりを行なうことができ、地域とし ての様々な保全のあり方が広がっていくことが期待でき る。

6.結論と今後の課題

本研究では、以下のことが明らかとなった。

1)洞海湾の創成期における歴史として、開発における 企業と行政の関わり方を基本とした、新たな観点による 洞海湾の歴史が明らかとなった。

2)洞海湾の現況護岸構造物の構造と管理実態を把握す ることにより、明治・大正期に造られたものが現存して いることが明らかとなった。

3)明治・大正期に造られた護岸構造物についての一次 資料の探索を中心とした調査を行ったことにより、施行 当時の図面等の資料が残されていることが明らかとなり、

特定の地域の詳しい空間変遷の様子を明らかにした。

4)景観法という新たな法制度による洞海湾の活用につ

いてのメリットを明らかにし、今後の活用の方向性を提 案した。

 加えて、現在北九州市は歴史的土木構造物が点在して 現存している。そのような発展した都市の中にありなが ら、洞海湾には広い範囲で明治・大正期の護岸や岸壁と いった護岸構造物が連続して現存している。これらをさ らに利活用していくことにより、洞海湾を通した北九州 市の歴史的都市構造をかいま見ることができると言える のではないだろうか。しかし、本研究では埋立てや浚渫 工事の際における当時の一次資料が体系的に保管・整理 されていない状況も明らかとなった。そのため、網羅的 に洞海湾の護岸構造物の歴史を把握できたとは言えず、

引き続き資料の探索・整理を行なう必要がある。

謝辞

本研究は、歴史研究ということもあり、多くの方々の協 力を得てまとめたものです。調査のために貴重な資料を 提供して頂き、またヒアリング調査にご協力頂いた、北 九州市港湾空港局整備課の喜州淳哉氏、松山洋氏、「わ かちく史料館」の方々の諸氏には心より御礼申し上げま す。

参考文献

1)「わかちく史料館」による提供図面を解読し、図面 より抜粋

2)北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会土 木支部会:北九州土木史,1998

3)北九州市産業史・公害対策史・土木史編集委員会土 木支部会:北九州産業史,1998

4)若築建設株式会社:若築建設百十年史,2000 5)若松築港株式会社:

     七十年史若松築港株式会社,1960 6)洞海湾港湾研究会:

     洞海湾要覧 若松港八幡港,1954 7)北九州開港百年史編纂実行委員会:

       北九州の港史,1990 8)土木史編纂委員会:八幡製鐵所土木史,1976 9)北九州市北九州港HP:

   http://www.kitaqport.or.jp/index.html

10)景観まちづくり研究会:景観法を活かす-どこでも できる景観まちづくり-,2004

図−6 景観法の枠組みと洞海湾における適用例

参照

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