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子曰、賜也、非爾所及也

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(1)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要 第53号 2022年3月 抜刷 Journal of Humanities and Social Sciences

Okayama University Vol. 53 2022

孫   路 易 SUN, Luyi

Japanese Translation of “Lunyu Jizhu” (5)(Part 2)

― Xi ZHU’s Interpretation of “Confucian Analects” ―

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五 中篇)

― 『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈 ―

(2)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 第十一章子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人。子曰、賜也、非爾所及也。(「尽己之心為忠、推己及人為恕。」「施諸己而不願亦勿施於人、忠恕

之事也。以己之心度人之心、未嘗不同、則道之不遠於人者可見。故己

之所不欲、則勿以施之於人、亦不遠人以為道之事。張子所謂以愛己之

心愛人則尽仁、是也。」「『論語』顔淵「己所不欲、勿施於人。」朱子注

「敬以持己、恕以及物、則私意無所容而心徳全矣。」とあり、つまり、

孔子のいう「己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ」は「自分の心で

他人の心を測り、自分が望まないこと、これを他人に施してはいけな

い。」という意味であり、これは「恕」のことである。「問、子貢欲無

加諸人、夫子教之勿施於人、何以異。曰、異處在無字與勿字上。伊川

説、仁也。恕也。看得精。」「至之問此章。曰、正在欲字上、不欲時、

便是全然無了這些子心。且如所不当為之事、人若能不欲為其所不当為、

便是這箇心都無了、是甚地位。」とあり、つまり、子貢のいう「我れ

は人の諸れを我れに加えんことを欲せざるや、吾れも亦た諸れを人に 加うること無からんと欲す」には「無」(「無者、自然而然」、ここでは、

つまり、意識しなくても自然にそのように行われる、という意味)の

字が使われていて、為すべきでないことを意識しなくても自然に為さ

ないという状態になり、これは「仁」のこと、つまり「仁者」でなけ

ればできないことである。「子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無

加諸人。未能忘我故也。」「然夫子謂非爾所及、蓋是子貢功夫未到此田

地。」「未到這地位、便自要擔当了、便不去做工夫。聖人所以答他時、

且要它退一步做工夫。只這不自覚察、便是病痛。」とあり、つまり、

子貢の発言それ自体が、その心に「我」がまだ存在しているというこ

との現れであり、まだ「仁者」ではないのだ。だが、子貢はこのこと

を自覚しておらず、自分の「工夫」(つまり心にほんの少しの「私意」

がないように努力すること)が既に十分だと勘違いしていたのであ

る。)子貢が言った。「わたくしは、他人がわたくしにしてほしくない

ことを、わたくしもまたそれを他人にすることが無いようにしたいの

です。」孔子は言われた。「「賜」(「子貢、姓端木、名賜」、つまり子貢

の名)よ、お前のできることではないのだ。」(つまり、「工夫」が既

に十分だと勘違いしていた子貢が「工夫」をしなくなるのではないか

『論語集注』 (朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五 中篇)   ―『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈―

孫    路  易

(3)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

て願わざるを、亦た人に施すこと勿かれ。」は、「恕」のことである。「恕」

は子貢がもしかしたらこれを勉め励むことができるのだが、「仁」は

彼が及ぶところではないのだ。」私が思うに、「無とは自然にして然り

なり。勿とは禁止の謂ひなり。」(「問、此如何非子貢所能及。曰、程

先生語録中解此数段、終是未剖判。唯伊川経解之言、是晩年仁熟、方

看得如此分暁、説出得如此分明。両句所以分仁恕、只是生熟、難易之

間。」「凡己之欲、即以及人、不待譬彼而後推之者、仁也。以我之不欲

譬之、而知其亦不欲者、恕也」、つまり、子貢のいう「無加諸人」の「無」

は意識しなくても自然にそのように行われるという意味であり、孔子

のいう「勿施於人」の「勿」はしてはいけないと強く意識することで

ある。「無」の場合は「仁」のことであり、「勿」の場合は「恕」のこ

とである、ということ。)これが「仁」と「恕」の違いである。

  子貢言我所不欲人加於我之事、我亦不欲以此加之於人。此仁者之事、

不待勉強、故夫子以為非子貢所及。○程子曰、我不欲人之加諸我、吾

亦欲無加諸人、仁也。施諸己而不願、亦勿施於人、恕也。恕則子貢或

能勉之、仁則非所及矣。愚謂無者自然而然、勿者禁止之謂、此所以為

仁恕之別。

第十二章

子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也。 と孔子が思われて、彼にもっと学に励んでほしいという気持ちを表した、ということ。)

(朱子のいう「工夫」については、本稿下篇の末尾に「「工夫」につ

いて」を付録している。以下同じ。)

集注:

  子貢が「わたくしは、他人がわたくしにしてほしくないことは、わ

たくしもまたそれを他人にすることをしたくないのです。」と言うが、

これは「仁者の事、勉強を待らず、故に夫子以て子貢の及ぶ所に非ら

ずと為す。」(「子貢謂此等不善底事、我欲無以加於人、此意可謂広大。

然夫子謂非爾所及、蓋是子貢功夫未到此田地。学者只有箇恕字、要充

擴此心、漸漸勉力做向前去。如今便説欲無加諸人、無者、自然而然。

此等地位、是本体明浄、発處尽是不忍之心、不待勉強、乃仁者之事。

子貢遽作此言、故夫子謂非爾所及、言不可以躐等。」『孟子』公孫丑上

「孟子曰、人皆有不忍人之心。」朱子注「天地以生物為心、而所生之物

因各得夫天地生物之心以為心、所以人皆有不忍人之心也」、つまり、「仁

者」しかできないことで、意識しなくても「仁」の心が自然にすべて

の言行に現れるのである。子貢の「功夫」(つまり「工夫」)がまだ「仁

者」のレベルに到達しておらず、だから、孔子は子貢のできることで

はないと思われた、ということ。)程子(前出)が言った。「我れは人

の諸れを我れに加えんことを欲せざるは、吾れも亦た諸れを人に加う

ること無からんと欲す。」は、「仁」のことである。「諸れを己に施し

(4)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 五行化生万物、気以成形、而理亦賦焉、猶命令也。於是人物之生、因各得其所賦之理、以為健順五常之徳、所謂性也。」「性即天理、未有不

善者也」、つまり、天から万物や人間に賦与された「理」のことであ

るが、万物や人間がその「理」を受け入れてその「理」が人間や万物

に内在する時には「仁義礼智信の徳」と称されるから、実際、「性」

は即ち仁義礼智信の徳、ということである。)「天道」とは、「天理の

自然の本体、その実は一理なり。」(「問、集注謂天道者、天理自然之

本体。如何。曰、此言天運、所謂継之者善也、即天理之流行者也。性

者、著人而行之。」「吉甫問性與天道。曰、譬如一條長連底物事、其流

行者是天道、人得之者為性。乾之元亨利貞、天道也。人得之、則為仁

義礼智之性。」「性與天道。性、是就人物上説。天道、是陰陽五行。」「問、

孔子言性與天道、不可得而聞、而孟子教人乃開口便説性善、是如何。曰、

孟子亦只是大概説性善。至於性之所以善處、也少得説。須是如説一陰

一陽之謂道、継之者善也、成之者性也處、方是説性與天道爾。」『易』

繋辞上伝「一陰一陽之謂道、継之者善也、成之者性也。」朱子注「一

阴一阳之謂道。阴阳迭運者、气也。其理則所謂道。継之者善也、成之

者性也。道具于阴而行乎阳。継、言其発也。善、謂化育之功、阳之事

也。成、言其具也。性、謂物之所受、言物生則有性、而各具是道也、

阴之事也」、つまり、陰陽二気と五行の質が「理」に従って運動して

万物や人間を生成成長する本体のことであるが、その実体は即ち「仁

義礼智」の「理」である、ということ。)その意味はつまり、孔子の「文

章」は毎日に学ぶものであって、もともと学ぶ者の誰でも孔子から教 (「天道」とは、陰陽二気と五行の質が「理」に従って運動して万物

や人間を生成成長するということであり、「性」とは、陰陽五行が万

物や人間のその形体を形成する時に万物や人間が「理」を受けて、そ

こでそのそれぞれの「性」が備わるということであるが、ここでは、

即ち仁義礼智のことである。)子貢が言った。「先生の「吉、凶、賓、軍、

嘉」の五礼についての文辞は(教学の内容だから、)門下生の誰でも

先生から聞くことができるものですが、先生の「性」と「天道」につ

いての話は(稀におっしゃるものだから、)門下生の誰でも聞くこと

ができるものではありません。」

集注:  「文章」は、

「徳」(「聖人之徳、渾然天理、真実無妄、不待思勉而従

容中道、則亦天之道也」、つまり、「天理」「天道」であるが、即ち仁

義礼智の徳のこと)の外に現れるものであり、「威儀文辭」(「礼是那

天地自然之理。理會得時、繁文末節皆在其中。礼儀三百、威儀三千、

却只是這箇道理。千條万緒、貫通来只是一箇道理。」「礼儀、経礼也。

威儀、曲礼也。」「礼者、天理之節文、人事之儀則也。」『楊雄法言』重

黎「或問、聖人表裏。曰、威儀文辞、表也。徳行忠信、裏也。」『礼記

正義』「曲礼」孔穎達疏「所以三千者、其履行周官五礼之別、其事委曲、

條数繁広、故有三千也」、つまり「吉」「凶」「賓」「軍」「嘉」の五礼

の細々な儀式や礼儀作法の規則を書き記した文辞のこと)は、皆これ

である。「性」とは、「人の受く所の天理。」(「性、即理也。天以陰陽

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岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)(「学者有所聞、須便行、始得。」『論語』陽貨「子曰、道聴而塗説、

徳之棄也。」朱子注「雖聞善言、不為己有、是自棄其徳也」、つまり、

学に志す者は、善言を聞いたら、必ずすぐにそれを実行しなければな

らない。そうすることではじめてそれが自分のものになるのである。)

「子路は、聞いた善言を、まだ徹底的に実行していない内に、更に善

言を聞くことをひたすら恐れたのだ。」(つまり、子路は善言を聞いた

らそれをできるだけはやく実行に移し、その実行を徹底的に行おうと

する、こういう人だから、聞いた善言の実行がまだ徹底的ではない時

に、更に善言を聞くことがあってそれを徹底的に実行できないことを

心配した、ということ。)

集注:  「

前に聞く所の者既に未だ行ふに及ばず、故に復た聞く所有りて之

を行ふこと給(た)らざるを恐るるなり。」(「就此言之、見得子路勇

於為善處。他這處直是見得如此分明。」「可見古人為己之実處。子路急

於為善、唯恐行之不徹。譬如人之飲食、有珍羞異饌、須是喫得尽方好。

若喫不透、亦徒然。子路不急於聞、而急於行。今人惟恐不聞、既聞得

了、寫在冊子上便了、不去行處著工夫」、つまり、子路は善言を聞い

たらそれをできるだけはやく実行に移し、その実行を徹底的に行おう

とする、こういう人であり、それ故に、以前に聞いた善言の実行が既

にまだ徹底的ではない内に、また善言を聞くことがあってそれを徹底

的に実行できないことを心配した、ということ。)范氏(前出)が言っ わっていたものであるが、「性」と「天道」のこととなると、これは

孔子が稀におっしゃるものであって、学ぶ者には孔子からこの話を聞

いたことがない者がいる、ということである。思うに、孔子門下の教

学では「等を躐えず」(「学不可躐等、不可草率、徒費心力。」「子貢性

與天道之歎、見得聖門之教不躐等。又見其言及此、実有不可以耳聞而

得之者」、つまり、教学内容が段階によって異なり、各段階を踏んで

教学が行われ、順序を越えてはいけない、ということであるが、孔子

門下では教学において「等を躐えず」、この事実が子貢のこの発言か

ら知られる、ということ)、子貢はこの段階に到達してはじめて「性」

と「天道」について孔子から教わることができて、その素晴らしさを

嘆美したのである。程子(前出)が言った。「これは、子貢が孔子の

至論を聞いて(その素晴らしさを)嘆美した言葉である。」

  文章、德之見乎外者、威儀文辭皆是也。性者、人所受之天理。天道

者、天理自然之本體、其實一理也。言夫子之文章、日見乎外、固學者

所共聞、至於性與天道、則夫子罕言之、而學者有不得聞者。蓋聖門教

不躐等、子貢至是始得聞之、而歎其美也。○程子曰、此子貢聞夫子之

至論而歎美之言也。

第十三章

子路有聞、未之能行、唯恐有聞。

(6)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 の身分や地位が高い人物の死後に、その生前の業績や評判によって贈られた称号のことであり、「謚」は周代から始まった制度で、全部で

二十八種類の謚号があり、周代では文王と周公に「文」という謚号が

贈られたのであるが、衛国大夫の孔圉はその謚号も「文」である。し

かし、孔圉が生前に文王や周公ほどの功績を残した訳でもなくまた文

王や周公ほどの評判を得た訳でもない。それ故に、)子貢が「孔文子

はどうしてその謚号を「文」と言うのですか。」とお尋ねした。孔子

は答えられた。「孔文子は資質が聡明でありながらも学ぶことが好き

で、自分より地位や身分の低い人に尋ねることを恥じと思わなかった。

この故に、謚を「文」と言うのだ。」(「問、孔文子、孔姞之事如此不好、便敏而好学、不恥下問、済得甚事、

而聖人取之、何也。曰、古人謚法甚寬、所謂節以一惠、言只有一善亦

取之。節者、節略而取其一善也。孔文子固是不好、只節此一惠、則敏

学下問、亦是它好處。」「問孔文子之謚。曰、古人有善雖多、而挙一以

為謚。如有十事皆善、只挙一善可以包之。如九事不善、只有一善、則

亦可以一善為謚。皆無一善、而後名之曰幽、厲。凡二字謚、非礼也。

如貞惠文子、睿聖武公、皆是饒両字了。周末王亦有二字謚。」「蓋人有

善多者、則摘其尤一事為謚。亦有只有一善、則取一善為謚、而隱其他

悪者、如孔文子事是也。」『礼記』表記「子曰、先王謚以尊名、節以壹

惠、恥名之浮於行也。」正義「節以壹惠者、言為謚之時善行雖多、但

限節以一箇善恵以為謚也。」とあり、つまり、古代では謚号を付ける

にはだいたい三つ方法がある。一つ目はその者に生前多くの善行為が た。「子路は善言を聞いたら、「必ず行ふに勇み」(「子路、勇也。」「只

為子路性勇。」「夫子以是告子路者、所以抑其血気之剛、而進之以徳義

之勇也。」「子路急於為善、唯恐行之不徹」、つまり、子路の性格は勇

敢であるが、ここでは、必ずできるだけはやくそして徹底的に聞いた

善言を実行しようとする、ということ)、同門は自分が子路に及ばな

いと思い、そこで、この条を記録した。子路のようであれば、その勇

敢の性格をよい方向に発揮したと言えるのだ。」

  前所聞者既未及行、故恐復有所聞而行之不給也。○范氏曰、子路聞

善、勇於必行、門人自以為弗及也、故著之。若子路、可謂能用其勇矣。

第十四章

子貢問曰、孔文子何以謂之文也。子曰、敏而好學、不恥下問、是以謂

之文也。(「死謚、周道也。史云、夏商以上無謚、以其号為謚、如尭舜禹之類。

看来尭舜禹為謚、也無意義。堯字従三土、如土之堯然而高。舜只是花

名、所謂顏如舜華。禹者、獣跡、今篆文禹字、如獣之跡。若死而以此

為謚号、也無意義。況虞舜側微時、已云有鰥在下曰虞舜、則不得為死

而後加之謚号矣。看来尭舜禹只是名、非号也。」「周礼、謚只有二十八

字。如文字、文王謚曰文、周公亦謚為文、今孔文子亦謚為文、不成説

孔文子與文王一般」、つまり、「謚」とは君主や貴族や大臣や士大夫等

(7)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

則齊也」、つまり、衛霊公の時の衛国大夫の世叔齊のこと)にその妻

を追い出させて娘の孔姞を娶らせた。しかし、太叔疾は最初の妻の妹

と通じた。孔文子は怒って、太叔疾を攻めようとして、孔子を訪ねた

が、「仲尼対えず、駕を命じて行く。」(「『春秋左氏伝』哀公十一年伝「孔

文子之将攻大叔也。訪於仲尼、仲尼曰、胡簋之事、則嘗学之矣。甲兵

之事、未之聞也。退、命駕而行。曰、鳥則擇木、木豈能擇鳥。文子遽

止之曰、圉豈敢度其私、訪衛国之難也。」杜預注「以鳥自喩、以木喩

孔文子」、つまり、孔子は軍事のことをまだ学んでいないと答えた後、

退出して、車を用意させて衛国を去ろうとした、ということ。)太叔

疾は宋国に亡命した。「文子は疾の弟の遺をして孔姞を室とせしむ。」(『春秋左氏伝』哀公十一年伝「衛人立遺、使室孔姞。」杜預注「遺疾

之弟。孔姞、孔文子之女、疾之妻」、つまり、太叔疾が宋に亡命した後、

衛国では太叔疾の弟の太叔遺を太叔疾の後継者とし、孔文子は太叔遺

に自分の娘、太叔疾の妻だった孔姞を娶らせた、ということ)。孔圉

の人柄はこのようであったにもかかわらず、謚号を「文」と言うので

ある。これが、子貢が疑問を抱いて孔子に尋ねた所以である。孔子は

孔圉の良いところを否定しなかったのである。その意味は、「敏にし

て学を好み、下問を恥じず」、このようにできるのだから、これもま

た「文」とする条件が十分に備わっている、ということである。だが、

「天を経し地を緯するの文」(「問、経天緯地曰文。曰、経是直底、緯

是橫底。理會得天下事橫者直者各当其處、皆有條理分暁、便是経天緯

地。」「裁成天地之道、輔相天地之宜。此便是経天緯地之文。」『周易』 あれば、その中の一つだけを挙げて謚号をつけるのであり、二つ目は生前に善行為が一つしかなければ、その善行為を挙げて謚号をつけてその他の不善を隠すのであり、三つ目は生前に善行が一つもない場合は、「幽」または「厲」という謚号をつけるのである。孔文子の場合は、二つ目の事例である。)

集注:  「好」

は、去声(第四声、ここでは、つまり「好む」の意)である。「孔

文子」は、衛国の大夫であり、名は圉。だいたい人は、その「性敏」(「質

敏不学、乃大不敏。有聖人之資必好学、必下問。若就自家杜撰、更不

学、更不問、便已是凡下了。聖人之所以為聖、也只是好学下問。」「子

貢却是資質敏悟、能暁得、聖人多愛與他説話、所以亦告之」、ここでは、

つまり資質が「敏悟」つまり聡明、ということ)の人であればその多

くが学ぶことが好きでないのであり、位が高い人であればその多くが

自分より地位や身分の低い人に尋ねるのを恥じるのである。だから、

「謚」の制度には「学に勤め問ふを好む」(つまり学に勤勉に励み尋ね

ることが好きな人)に「文」という謚号を贈るという規定がある。思

うに、「学に勤め問ふを好む」こともまた人のなかなかできないもの

である。孔圉が「文」という謚号を得たのは、「学に勤め問ふを好む」、

これだけのことである。蘇氏(蘇軾、一〇三七~一一〇一、字は子瞻、

号は東坡居士)が言った。「孔文子は「太叔疾」(『春秋左氏伝』哀公

十一年経「衛世叔齊出奔宋。」伝「冬、衛大叔疾出奔宋」杜預注「疾

(8)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 孔子は子産のことについてこう言われた。「君子としての行いが四つ

ある。その自らの振る舞いは謙虚で、その君主に仕えるには慎重で、

その民を養うには人民を愛することを主要なこととし、その民を使う

には法の規定が必要と自ら強く意識してそして人民にも法のことを教

えたのだ。」(「問、子産温良慈愷、莫短於才否。曰、孔子称子産有君子之道四、

安得謂短於才。子産政事尽做得好、不專愛人、做得不是、他須以法治

之。」とあり、つまり、子産は専ら民を愛するだけではなく、法治の

必要性も十分知っていたのである。『春秋左氏伝』昭公六年伝に「三月、

鄭人鋳刑書。鋳刑書於鼎、以為国之常法。」とあり、ここのいう「刑書」

は即ち子産が鄭国の法律条規を鼎に鋳込んだ成文法のことである。)

集注:  「子產」は、

「鄭の大夫、公孫僑」(『春秋左氏伝』襄公二十二年伝「夏、

晋人徴朝于鄭、鄭人使少正公孫僑対。」杜預注「少正鄭官也。公孫僑

子產。」孔穎達疏「十九年伝云、立子産為卿。知少正是鄭之卿官名也。

春秋之時官名変改、周礼無此名也」、つまり、鄭国の卿大夫で、官位

は襄公二十二年には既に少正)である。「恭」は、謙遜のことである。「敬」

は、「謹恪」(つまり謹むこと)である。「惠」は、「愛利」(「子產之政、

不專於寬、然其心則一以愛人為主。故孔子以為惠人、蓋挙其重而言也」、

ここでは、つまり、民を愛することを主要なこととする、ということ)

である。「民を使ふや義は、都鄙に章有り、上下に服有り、田に封洫 泰卦「象曰、天地交、泰。后以財成天地之道、輔相天地之宜、以左右民。」朱子注「財、裁同。相、息亮反。左、音佐。右、音佑。財成以

制其過、輔相以補其不及」、つまり、あらゆる事に皆それぞれその適

切なところとしての「條理」(つまり「理」で、性質のこと)があり、

事の「理」に適うように余計な部分があればその部分を取り除き、足

りない部分があればその部分を補足する、これを「文」と言う、とい

うこと)ではないのだ。」

  好、去聲。○孔文子、衛大夫、名圉。凡人性敏者多不好學、位高者

多恥下問。故謚法有以勤學好問為文者、蓋亦人所難也。孔圉得謚為文、

以此而已。○蘇氏曰、孔文子使太叔疾出其妻而妻之。疾通於初妻之娣、

文子怒、將攻之。訪於仲尼、仲尼不對、命駕而行。疾奔宋、文子使疾

弟遺室孔姞。其為人如此而謚曰文、此子貢之所以疑而問也。孔子不没

其善、言能如此、亦足以為文矣、非經天緯地之文也。

第十五章

子謂子產、有君子之道四焉。其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、

其使民也義。

(「君子行之為君子之道、小人行之為小人之道。如道二、仁與不仁。

君子道長、小人道消之類。若是志於道、據於徳、方是好底、方是道徳

之正」、つまり、「君子の道」とは、君子としての行いのことである。)

(9)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

大夫臧孫氏、名辰」、つまり魯国大夫の臧孫氏のこと)の「不仁なる

者三、不知なる者三」(「山節藻梲不是僭、若是僭時、孔子当謂之不仁。」

「古人卜筮之事固有之、但一向靠那上去、便是無意智了。」『春秋左氏伝』

文公元年伝「仲尼曰、臧文仲其不仁者三、不知者三。」孔穎達疏「論

語称、仁者愛人、知者不惑。故以害於物者為不仁、闇於事者為不知。

卑下展禽而不肯挙薦、廃去六関而不設防禁、妾織蒲席而與民争利、此

三事為不仁也。無其位而作虚器、不知礼而縦逆祀、不識鳥而祀爰居、

此三事為不知也。」『論語』公冶長「子曰、臧文仲居蔡、山節藻梲、何

如其知也。」朱子注「居、猶藏也。蔡、大亀也。節、柱頭斗栱也。藻、

水草名。梲、梁上短柱也。蓋為藏亀之室、而刻山於節、畫藻於梲也。

当時以文仲為知、孔子言其不務民義、而諂瀆鬼神如此、安得為知。春

秋伝所謂作虚器、即此事也。張子曰、山節藻梲為藏亀之室、祀爰居之

義、同帰於不知宜矣。」『論語』衛霊公「子曰、臧文仲其竊位者與。知

柳下惠之賢而不與立也。」朱子注「竊位、言不称其位而有愧於心、如

盜得而陰據之也。柳下惠、魯大夫展獲、字禽、食邑柳下、謚曰惠。與

立、謂與之並立於朝。范氏曰、臧文仲為政於魯、若不知賢、是不明也。

知而不挙、是蔽賢也。不明之罪小、蔽賢之罪大。故孔子以為不仁、又

以為竊位」、つまり、柳下惠を賢者だと知りながら朝廷に推薦しなかっ

たこと、労せず利益を得ようとする遊食の人々を禁絶する為に設置し

た六つの関を廃したこと、その妾が蒲の蓆を織って売り民と利益を

争ったこと、この三つのことは不仁であり、何事も専ら卜占に頼る為

に「虚器を作り」(つまり部屋の柱の上のますがたに山を刻み、梁の 有り、廬井に伍有るの類の如し。」(「問、使民也義、是教民以義。先

生応。」「問、其使民也義、如都鄙有章、上下有服、田有溝洫、廬井有

伍之類。謂為之裁處得是当、使之得其定分也。曰、義字説得未是。義

字有剛断之意。其養民則惠、使民則義。惠字與義字相反、便見得子產

之政不專在於寬。就都鄙有章處、看得見義字在子産上、不在民上。」「吉

甫問、都鄙有章、上下有服。曰、有章、是有章程條法。有服、是貴賤

衣冠各有制度。鄭国人謂取我田疇而伍之、取我衣冠而褚之,是子産為

国時、衣服有定制、不敢著底、皆收之囊中、故曰取而褚之。」「有章、

是都鄙各有規矩。有服、是衣冠服用皆有等級高卑」『春秋左氏伝』襄

公三十年伝「子産使都鄙有章、上下有服、田有封洫、廬井有伍。」杜

預注「「国都及辺鄙、車服尊卑、各有分部。」「公卿大夫、服不相踰。」「封、

彊也。洫、溝也。」「盧、舎也。九夫為井。使五家相保」」、つまり、子

産は、人民を使役するには法律が必要だと自ら強く意識していただけ

でなく人民にも法のことを教えた。都及び辺境の町にはそれぞれ法律

があり、衣服や冠の着用には身分の高低により等級の制度があり、畑

には境や溝があり、「井」を単位とする五軒の家が互いに守り合う。

これが皆、子産が鄭国で国政を行っていた時に施した政策のその事例

である、ということ。)呉氏(前出)が言った。「孔子の、その事例を

枚挙してその人を責めるものには、当時の人々にそれらの事例は皆い

い事と思われていたものが多い(「当時以文仲為知、孔子言其不務民義、

而諂瀆鬼神如此、安得為知。」「臧文仲在当時既没、其言立、人皆説是

非常底人、孔子直是見他不是處。」とある)。「臧文仲」(「臧文仲、魯

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『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 義、如都鄙有章、上下有服、田有封洫、廬井有伍之類。○呉氏曰、數其事而責之者、其所善者多也、臧文仲不仁者三、不知者三是也。數其事而稱之者、猶有所未至也、子產有君子之道四焉是也。今或以一言蓋一人、一事蓋一時、皆非也。第十六章子曰、晏平仲善與人交、久而敬之。(「賢者狎而敬之。狎是狎熟、狎愛。如晏平仲善與人交、久而敬之。

既愛之而又敬之也。」『礼記』曲礼上「賢者狎而敬之」とあり、つまり、

賢者は人に対して、親しくする上に敬意を持ち続けるのであるという

こと。)孔子は言われた。「晏平仲は人との交際が上手だ。交際が久し

く時が経っても親しくする上に敬意を持ち続けていたのだ。」(「問、智之於賢者、或云吾既有智、則賢者必見之。此説如何。曰、

如此解、似語勢倒而不順。須従橫渠説、晏嬰之智而不知仲尼、豈非命

歟。然此命字、恐作両般看。若作所稟之命、則是嬰稟得智之浅者。若

作命分之命、則晏子偶然蔽於此、遂不識夫子。此是作両般看。」「或問、

命字之義。曰、命、謂天之付與、所謂天令之謂命也。然命有両般、有

以気言者、厚薄清濁之稟不同也、如所謂道之将行、将廃、命也、得之

不得曰有命、是也。有以理言者、天道流行、付而在人、則為仁義礼智

之性、如所謂五十而知天命、天命之謂性、是也。二者皆天所付與、故

皆曰命。又問、孟子謂、性也、有命焉。此性所指謂何。曰、此性字指 上のうだつに藻を描き、その部屋に占卜用の大きな亀甲を密かに収蔵していたということ)、礼を分からず「逆祀」(『春秋左氏伝』文公二

年伝「秋、八月、丁卯、大事于大廟、躋僖公、逆祀也。」杜預注「大事、

禘也。躋、升也。僖公、閔公庶兄、継閔而立、廟坐宜次閔下、今升在

閔上、故書而譏之。時未応吉禘、而於大廟行之、其譏已明、徒以逆祀、

故特大其事、異其文」、つまり、僖公は閔公の位を継いて君主になっ

たのだから、閔公の位牌を僖公の位牌の上位に置くのが本来の順序に

従うものであるが、夏父の話を聞き入れて僖公の位牌を閔公の位牌の

上位に置かせた、ということ)を許したこと、鳥を分からず偶然に飛

んで来ただけの爰居(海鳥の名)を神として祀らせたこと(「如祀爰居、

是見一鳥飛来、便去祀他、豈是有意智。」とある)、この三つのことは

不知である、ということ)はこの具体例である。孔子のその事例を枚

挙してその人を褒めるものには、「未だ至らざる」(「知而不能好、則

是知之未至也。好之而未及於楽、則是好之未至也」、つまり、十分で

ないという意味であるが、ここでは、即ちその事例をすべて数え上げ

たわけではない)ところがあり、「子産、君子の道四有り」はこの具

体例である(つまり、子産の君子としての行いはただこの四つだけで

はない、ということ)。現在では、よく一つの言葉でその人のすべて

を語り尽くしたり、一つの事柄で一つの時代のすべてを総括したりす

るのだが、どれも誤りである。」

  子產、鄭大夫公孫僑。恭、謙遜也。敬、謹恪也。惠、愛利也。使民

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岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

子が「善」(ここでは、つまり人との交際が上手)だと評価したのだ。」

晏平仲、齊大夫、名嬰。程子曰、人交久則敬衰、久而能敬、所以為善。

第十七章

子曰、臧文仲居蔡、山節藻梲、何如其知也。

(諸侯国の大夫が、部屋の柱の上のますがたに山を刻み(「節に山に

す」)、梁の上のうだつに水草の藻を描いて(「梲に藻す」)、卜占用の

亀甲(「蔡」、つまり蓍亀)を収蔵する部屋を作った(「虚器を作る」)

ことは、僭越な行為ではないが、鬼神を冒涜する行為であり、知者の

為すべきことではないし、また何事も専ら占いに頼るのも、知者の為

すべきことではない。それ故に、)孔子は言われた。「魯国の大夫の臧

文仲が部屋に卜占用の亀甲を密かに収蔵し、その部屋の柱の上のます

がたに山を刻み、梁の上のうだつに水草の藻を描いた。どうして知者

と言えるのだろうか。」

集注:  「

梲」は、「章」「悅」の反。「知」は、去声(第四声、つまり「智」

の意)。「臧文仲」は、魯国の大夫の臧孫氏、名は辰。「居」は、「藏」(こ

こでは、つまり密かに収蔵すること)のような意味である。「蔡」は、「大

亀」(「藏蓍亀之地」、ここでは、つまり「蓍亀」(卜占用の大きな亀甲 気質而言、如性相近之類。此命字却合理與気而言。蓋五者之欲、固是人性、然有命分。既不可謂我性之所有而必求得之、又不可謂我分可以得、而必極其欲。如貧賎不能如願、此固分也。富貴之極、可以無所不為、然亦有限制裁節、又当安之於理。如紂之酒池肉林、却是富貴之極而不知限節之意。若以其分言之、固無不可為、但道理却恁地不得。今人只説得一辺、不知合而言之、未嘗不同也。命也、有性焉,此命字專指気而言、此性字却指理而言。」とあり、晏平仲は当時でも後世でも

賢者だと一般的に認められていたのだが、この彼が孔子のことを知ら

なかったのである。このことについて張載が「豈に命に非らざらんや」

と言った。朱子はこの「命」について、「稟の命」(「有以気言者、厚

薄清濁之稟不同也」、つまり、生れ付きの稟受した気質)とすれば、

智性の浅いものを稟受したことになるが、「命分の命」(「既不可謂我

性之所有而必求得之」、つまり、智性は浅くないのだが、求めるもの

が必ず得られるとは限らないということ)とすれば、偶々孔子につい

ては知ることができなかったということになる、と理解するべきだと

説明している。朱子も晏平仲のことを賢者だと認めていたので、後者

がその原因だと考えられていたのであろう。)

集注:  「晏平仲」

は、斉国の大夫であり、名は嬰。程子(前出)が言った。「人

との交際は久しく時が経つと敬意が薄くなっていくものである。久し

く時が経っても敬意を持ち続けることができるのだから、そこで、孔

(12)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 礼家乃因此立説」、つまり、「虚室」を作ったことは僭越な行為ではな

い、ということ)は、即ちこのことを指すのである。張子(張載、一

〇二〇~一〇七七、字は子厚、横渠先生と称された。)が言った。「部

屋の柱の上のますがたに山を刻み、梁の上のうだつに水草の藻を描い

て、亀甲を収蔵する部屋を作ったこと、「爰居を祀るの義」(「如祀爰居、

是見一鳥飛来、便去祀他、豈是有意智。」『春秋左氏伝』文公二年伝「祀

爰居」杜預注「海鳥曰爰居、止於魯東門外、文仲以為神、命国人祀之。」

孔穎達疏「今海鳥至、已不知而祀之、以為国典、難以言仁曰知矣。無

功而祀之、非仁也。弗知而不問、非知也」、つまり、偶然に飛んで来

た海鳥の爰居を神と思って国人に祀らせてそれを国の法令制度(「国

典」)としたこと)、どれも「智」ではないこととするのが妥当である。」(「臧文仲無大段善可称。但他不好處、如論語中言居蔡之事、左氏言

不仁不知者三、却占頭項多了。然他是箇會説道理底人、如教行父事君

之礼、如宋大水、魯遣使帰言宋君之意、臧曰、宋其興乎。禹湯罪己、

其興也勃焉。桀紂罪人、其亡也忽焉。皆是他會説。」とあり、臧文仲

には良くないところが少なくないのだが、朱子は、「行父に君に事ふ

るの礼を教ふ。」(『春秋左氏伝』文公十八年伝)などの事例を挙げて「他

是箇會説道理底人」(彼はよく道理を説く人物だ)と、良いところも

あることを認めたのである。)

  梲、章悅反、知、去聲。○臧文仲、魯大夫臧孫氏、名辰。居、猶藏

也。蔡、大龜也。節、柱頭斗栱也、藻,水草名。梲、梁上短柱也。蓋 のこと)である。「節」は、部屋の柱の上のますがたである。「藻」は、

水草の名。「梲」は、梁の上のうだつである。思うに、卜占用の大き

な亀甲を収蔵する部屋であり、部屋の柱の上のますがたに山を刻み、

梁の上のうだつに水草の藻を描いたのである。当時の人々は臧文仲の

ことを智者だと思っていたのだが、孔子は、「彼は「民義を務めずして」(『論語』雍也「務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。」朱子注「民、

亦人也。獲、謂得也。專用力於人道之所宜、而不惑於鬼神之不可知、

知者之事也」、つまり、人々にとっての適宜なことに力を注がずして、

ということ)、「鬼神を諂瀆すること」(「如臧文仲、人皆以為知、聖人

便説道它既惑於鬼神、安得為知。蓋卜筮之事、聖人固欲使民信之。然

藏蓍亀之地、須自有箇合当底去處。今文仲乃為山節藻梲以藏之、須是

它心一向倒在卜筮上了、如何得為知。」「山節藻梲、為藏亀之室、以瀆

鬼神、便是不知。古人卜筮之事固有之、但一向靠那上去、便是無意智

了。」「他所謂敬鬼神、是敬正当底鬼神。敬而遠之、是不可褻瀆、不可

媚。如卜筮用亀、此亦不免。如臧文仲山節藻梲以藏之、便是媚、便是

不知。」『論語』為政「非其鬼而祭之、諂也。」朱子注「非其鬼、謂非

其所当祭之鬼。諂、求媚也」、つまり、専ら占いに頼ること、それから、

祭るべきでない鬼神を祭り、鬼神に媚びを求め、鬼神を敬わない、と

いうこと)、このようであり、どうして智者と言えるのだろうか」と

言われた。『春秋左氏伝』にいう「虚室を作る」(「山節藻梲不是僭、

若是僭時、孔子当謂之不仁。」「山節藻梲、恐只是華飾、不見得其制度

如何。如夫子只譏其不知、便未是僭、所謂作虚器而已。大夫不藏亀、

(13)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

も乱れに遇い、「私の斉国の大夫崔子のようなことだ」と言ってその

国を去り、更にその次に行った国も乱れている為、またその国も去っ

たのである。子張は、「仁の本体」(ここでは、つまり理に従って心に

私心がないということ)をまだ知らず、その上、その性格には軽率に

難しいことを為すのが好きというところがあるから、遂に闘子文と陳

文子の行為を見て二人とも仁者だと思ったのである。それ故に、)子

張が「令尹(つまり宰相職)の子文が三回も楚国の君主に仕えて宰相

となって、顔に喜びの感情が現れなかったし、三回宰相を辞任して、

顔に怨みの感情が現れなかったのです。宰相を辞任した時に、必ずそ

の後任者に仕事についてすべて告げて引継ぎを行っていたのです。い

かがでしょうか。」と孔子にお尋ねした。孔子は言われた。「「忠」(こ

こでは、つまり、できる限り努力しようとする心が盛んなこと)だな

あ。」「仁ですか。」とお尋ねすると、孔子は答えられた。「「未だ知らず。」

(ここでは、つまり、三回宰相に就任して三回宰相を辞任したことに

ついて、その実情を知らない為、すべて「理」(つまり事物の性質)

に適っての私心のない行為だったのかどうかは知らないのだ、という

こと。)どうして「仁」と言えるのだろうか。」(子張がまたお尋ねした。)

「崔子が斉国の君主を弑逆した時、陳文子は「井田」の六百四十井ほ

どの税収を徴収できる土地を所有していましたが、捨てて斉国を去っ

たのです。その行った他国でも乱れに遇い、「私の斉国の大夫崔子の

ようなことだ。」と言ってその国を去り、更にその次に行った国も乱

れている為、また「私の斉国の大夫崔子のようなことだ。」と言って 為藏龜之室、而刻山於節、畫藻於梲也。當時以文仲為知、孔子言其不務民義、而諂瀆鬼神如此、安得為知。春秋傳所謂作虛器、即此事也。

○張子曰、山節藻梲為藏龜之室、祀爰居之義、同歸於不知宜矣。

第十八章

子張問曰、令尹子文三仕為令尹、無喜色。三已之、無慍色。舊令尹之

政、必以告新令尹。何如。子曰、忠矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得

仁。崔子弒齊君、陳文子有馬十乘、棄而違之。至於他邦、則曰、猶吾

大夫崔子也。違之。之一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也。違之。何如。

子曰、清矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得仁。

(闘子文は、楚国の上大夫で、三回宰相に就任したが一度も喜んだり

しなかったし、三回宰相を辞任したが一度も怨んだりしなかった。宰

相を務めていた時に自分の家を滅ぼしたほど私財を国に寄付して、楚

国の財政難の状況を緩和したのであり、また、普通の人なら、仕事に

おいて少しでも長所があれば、自ら進んで軽々しくその長所を他人に

告げることはしないものであるが、三回宰相職を辞任した時に、必ず

その後任者に仕事についてすべて告げて引継ぎを行っていたのである。

陳文子は、斉国の大夫であり、斉国の大夫崔杼が当時の国君莊公を弑

逆した事件が起こって国が乱れた時、身の潔白を保つ為に、「馬十乗」

(つまり「井田」の六百四十井ほどの税収を徴収できる土地)を少し

の躊躇もなく捨てて乱れた斉国を離れたのであるが、その行った国で

(14)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 集注:  「知」

は、字の通りである(つまり「知る」の意)。「焉」は、「於」「虔」

の反(ここでは、つまり「焉んぞ」の意)。「令尹」は、官職の名称で

あり、「楚の上卿、執政者」(「今知言中有両章説令尹處、云、楚乃古

之建国、令尹為相。不知首出庶物之道。若如此、則是謂令尹為相、徒

使其君守僭竊之位、不能使其君王天下耳。」『礼記』王制「王者之制禄

爵、公侯伯子男、凡五等。諸侯之上大夫卿、下大夫、上士中士下士、

凡五等」、つまり、楚国の上大夫で、宰相を務めていたということ)

である。「子文」は、「姓は闘、名は穀於菟。」(『春秋左氏伝』宣公四

年伝「初、若敖氏娶於雲阜、生鬥伯比。若敖卒、従其母畜於雲阜、淫

於雲阜子之女、生子文焉。雲阜夫人使棄諸夢中。虎乳之。雲阜子田見

之、懼而帰。以告。遂使收之。楚人謂乳穀、謂虎於菟、故命之曰鬥穀

於菟。」杜預注「「云阜、国名。云阜、本又作鄖、音云。」「夢、沢名。

江夏安陸県城東南有雲夢城。」「告女私通所生」」、つまり、子文は父の

闘伯比と雲阜国主の娘が私通して生まれた子供であり、生後すぐに沢

の中に捨てられたが、虎がそれに乳を与えて、命が助かった。楚語で

は乳を「穀」と言い、虎を「於菟」と言う。そこで、「闘穀於菟」と

命名した、ということ。)その人柄は、「喜怒形わさず」(「今人有些小

利害、便至於頭紅面赤。子文却三仕三已、略無喜慍。」「如子文之三仕

三已而無喜慍、已是難了、不可説他只無喜慍之色、有喜慍之心。若有

喜慍之心、只做得一番過、如何故得兩三番過。」「蓋子文之無喜慍、是

其心固無私、而於事則未尽善」、つまり、喜怒の感情を顔に現さなかっ その国も去ったのです。いかがでしょうか。」孔子は言われた。「「清」

(ここでは、つまり身が潔白のこと)だなあ。」「仁ですか。」とお尋ね

すると、孔子は答えられた。「「未だ知らず。」(ここでは、つまり、そ

の内心では本当に「仁義礼智の理があらゆる事物や人間にその性とし

て内在している」という道理を会得して、超然として稟受した気質や

私欲(つまり私心)に煩わされないことができたのかどうかは知らな

いのだ、ということ。)どうして「仁」と言えるのだろうか。」(「孔子一時答他、亦未理會到他終身事。只據子張所問底事、未知是

出於至誠惻怛、未知是未能無私。孔子皆不得而知、故曰、未知,焉得

仁。非是以仕已無喜慍、與棄而違之為非仁也。這要在心上求。然以心

論之、子文之心勝文子之心。只是心中有些小不慊快處、便是不仁。」「夫

仁者、心之徳。使二子而果無私心、則其仕已而無喜慍、当不特謂之忠

而謂之仁、棄十乘而不居、当不特謂之清而謂之仁。聖人所以不許二子

者、正以其事雖可観、而其本心或有不然也。」とあり、つまり、三回

の就任と辞任の時に喜怒の感情が顔に現れなかったこととか、莫大の

私産を少しの躊躇もなく捨てて混乱に陥った斉国を去ったこととかを

「仁」ではないと判断したのではなく、その人が「仁者」であるかど

うかについての判断は、その人の為した事を見てするものではなく、

その人の心に私心があるかないかを察して断じるものである。「理に

当たりて私心無くんば、則ち仁」、ここにいう「理」は即ち事物の性

質のことである。朱子のいう「理」については、本稿下篇末尾に「「理」

と「性」について」を付録している。以下同じ。)

(15)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

てすべて告げて引継ぎを行っていた、ということ)、「未だ其の皆な天

理於り出でて人欲の私無きを知らざるなり。」(「三仕三已所以不得為

仁、蓋不知其事是如何。三仕之中、是有無合当仕否。三已之中、又不

知有無合当已否。」「問、先生謂当理而無私心則仁矣、先言当理而後言

無私心者、莫只是指其事而言之歟。曰、然」、つまり、三回宰相に就

任して三回宰相を辞任したことについて、その実情を知らない為、す

べて「理」(つまり事物の性質)に適って私心のない行為なのかどう

かは知らない、ということ。)それ故に、孔子はただその「忠」を認

めただけで、その「仁」を認めなかったのである(「蓋子文之無喜慍、

是其心固無私、而於事則未尽善」、つまり、闘子文の三回宰相に就任

して三回宰相を辞任したことについては、もともと私心がなかったと

しても、きっと善を尽くしていないところがあった、ということ)。

  「乘」は、

去声(第四声、「十乘、四十匹也」、ここでは、つまり「馬

が四頭」の意)。「崔子」は、斉国の大夫で、名は杼。「齊君」は、莊

公のことであり、名は光。「陳文子」は、また斉国の大夫で、名は須無。

「十乘」は、「四十匹」(「又如有馬十乗、也自是箇巨室有力量人家、誰

肯棄而違之。」「陳文子有馬十乗、亦是大家、他能棄而去之、亦是大段

放得下了。亦不可説他是避利害、如此割舍。」『論語注疏』公冶長「子

曰、由也、千乗之国可使治其賦也、不知其仁也。」疏「四丘為甸、甸

六十四井、出長轂一乘、戎馬四匹」、つまり、馬が四十頭のことであ

るが、ここでは、即ち「井田」の六百四十井(「十甸」)ほどの税収を

徴収できる土地を領有していた、ということ)である。「違」は、去 たことであり、三回宰相に就任したが、一度も喜んだりしなかったし、三回宰相を辞任したが、一度も怨んだりしなかった、ということ)、「物

我の間無く」(「這理是天下公共之理、人人都一般、初無物我之分。不

可道我是一般道理、人又是一般道理。将来相比、如赤子入井、皆有怵

惕。知得人有此心、便知自家亦有此心、更不消比並自知。」「利心生於

物我之相形、人欲之私也」、つまり、他人と自分の間に隔たりがない

ことであるが、即ち、私欲(つまり私心)がないということ)、「其の

国有るを知りて其の身有るを知らず」(『春秋左氏伝』荘公三十年伝「闘

穀於菟為令尹、自毀其家、以紓楚国之難。」杜預注「闘穀於菟、令尹

子文也。毀、滅。紓、緩也」、つまり、自分の家を滅ぼしたほど私財

を国に寄付して、楚国の財政難の状況を緩和した、ということ)、そ

の「忠」(「発己自尽為忠。」「尽己之心為忠。」「尽己之謂忠」、つまり、

自分の心を尽くすことであるが、ここでは、できる限り努力しようと

する心)が盛んであり、それ故に、子張が彼は仁者ではないかと思っ

たのである。しかし、その「三たび仕えて三たび已めて新令尹に告げ

る所以の者」(「有些小所長、便不肯軽以告人、而子文乃尽以旧政告之

新尹。此豈是容易底事。」「旧令尹之政必告新令尹、亦不可説他所告是

私意、只説未知所告者何事。」『国語』楚語下「昔斗子文三舍令尹、無

一日之積、恤民之故也。」集解「舍、去也」、つまり、普通の人なら、

仕事において少しでも長所があれば、自ら進んで軽々しくその長所を

他人に告げることはしないものであるが、子文は三回宰相に就任して

三回宰相職を辞任した(「三舍」)際に、必ずその後任者に仕事につい

(16)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 であり即ち「天理」「理」であり即ち「仁義礼智」のことである。そ

の内心では本当にあらゆる事物または人間に仁義礼智の「理」が「性」

として内在しているという道理を会得して)、「能く脱然として累はさ

るる所無きか」(「問、或問中云、知有未至、是気稟、私欲所累。曰、

是被這両箇阻障了、所以知識不明、見得道理不分暁。聖人所以将格物、

致知教学者、只是要教你理會得這箇道理、便不錯。一事上皆有一箇理。

当處事時、便思量体認得分明。」「蓋気稟清明、無物欲之累、則性之四

徳根本於心、其積之盛、則発而著見於外者、不待言而無不順也」、つ

まり、超然として稟受した気質や私欲(つまり私心)に煩わされない、

このことができたのかどうか)は分からない。「抑も利害の私を已む

ことを得ずして、猶お未だ怨悔を免れざるなり。」(「文子潔身去乱、

其事善矣、然未能保其心之無私也」、つまり、そもそも心に利害をこ

だわる私心がないこの状態を保つことができなくて、まだ怨んだり悔

いたりすることを免れなかったのであろう、ということ。)それ故に、

孔子はただその「清」(「潔身而去」、ここでは、つまり、身が潔白の

こと)を認めただけで、その「仁」を認めなかったのである。私は師

の李延平に「仁」についてお尋ねしたことがあり、師が言われた。「理

に当たりて私心無くんば、則ち仁。」(『延平答問』「仁只是理、初無彼

此之辨、当理而無私心、即仁矣」、つまり、仁はただ理にほかならず、

理に従って私心がなければ即ち「仁」である、ということ。)いま、

この教えによって闘子文と陳文子の二人のことを観察すると、その「制

行」(「聖人之制行不同、或遠或近、或去或不去。雖是説他心只是一般、 ることである。陳文子は、「身を潔くし乱を去る。清と謂ふ可し」(「今

人有一毫係累、便脱洒不得、而文子有馬十乗、乃棄之如敝屣然。此亦

豈是易事、常人豈能做得。」『論語』泰伯「乱邦不居」朱子注「乱邦未

危、而刑政紀綱紊矣、故潔其身而去之。」『春秋左氏伝』襄公二十五年

経「夏、五月、乙亥、斉崔杼弒其君光。」『論語注疏』疏「斉大夫作乱、

弑其君光。陳文子悪之、故家雖富有馬十乗、謂四十匹也、而輒捐棄違

去之。至於他国、亦遇其乱、陳文子則曰猶吾斉大夫崔子也、而違去之。

復往一他邦、則又曰猶吾齊大夫崔子也、而違去之。為行若此其人何如」、

つまり、斉国の大夫崔杼が当時の国君莊公を弑逆した事件が起こって

国が乱れ、陳文子は身の潔白を保つ為に、「井田」の六百四十井ほど

の税収を徴収できる土地を少しの躊躇もなく捨てて乱れた斉国を離れ

たのであるが、その行った他国でも乱れに遇い、「私の斉国の大夫崔

子のようなことだ」と言ってその国を去り、更にその次の行った国も

乱れている為、また「私の斉国の大夫崔子のようなことだ」と言って

その国も去ったのだから、「清」(つまり身が潔白であること)と言う

べきである、ということ。)しかし、「其の心果たして理義の当然を見

て」(「既能禁止其心之所発、皆有善而無悪、実知其理之当然、使無待

於自欺、非勉強禁止而猶有時而発也。」「静、謂無人慾之紛擾、而安於

天理之当然耳。」「克去己私以復乎礼、則私欲不留、而天理之本然者得

矣。」「克去己私、復此天理、便是仁。」「性者、即天理也、万物稟而受

之、無一理之不具。」「蓋性中所有道理、只是仁義礼智、便是実理」、

つまり、「理義の当然」は即ち「理の当然」「天理の当然」「天理の本然」

(17)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁、又何怨。」朱子注「伯夷、

叔齊、孤竹君之二子。其父将死、遺命立叔齊。父卒、叔齊遜伯夷。伯

夷曰、父命也,遂逃去。叔齊亦不立而逃之、国人立其中子。其後武王

伐紂、夷、齊扣馬而諫。武王滅商、夷、齊恥食周粟、去隱于首陽山、

遂餓而死。怨、猶悔也」、つまり、伯夷と叔齊の二人)のことと合わ

せてこれらの事例を見れば、「彼此交尽して」(「問、天生徳於予、桓

魋其如予何。孔子既如此説了、却又微服而過宋者、乃是天理、人事之

交尽否。曰、然。所謂知命者不立乎巌牆之下。若知命者、便立乎巌牆

之下、也何害。却又不立。而今所謂知命者、只是捨命。」「人固有命、

可是不可不順受其正、如知命者不立乎巌牆之下是。若謂其有命、却去

巌牆之下立、万一倒覆壓處、却是專言命不得。人事尽處便是命。」『論

語』述而「天生徳於予、桓魋其如予何。」朱子注「桓魋、宋司馬向魋也。

出於桓公、故又称桓氏。魋欲害孔子、孔子言天既賦我以如是之徳、則

桓魋其奈我何。言必不能違天害己。」『孟子』尽心上「是故知命者、不

立乎巌牆之下。」朱子注「命、謂正命。巌牆、牆之将覆者。知正命,

則不處危地以取覆壓之禍」、つまり、ここでは、彼此とは「天理」(つ

まり「仁」)と「人事」(つまり具体的な行動)のことであり、仁の徳

と行動が完全に合致する、ということ)、「仁」の意味が理解されるの

である。いまはほかの書籍で考察すると、闘子文の場合、楚国の宰相

を務めた時に、画策していたのは「王を僭し夏を猾る」(『春秋左氏伝』

桓公五年伝「楚国、今南郡江陵県北紀南城也。楚武王始僣号称王、欲

害中国。」『史記』楚世家「熊渠甚得江漢閒民和、乃興兵伐庸、楊蠆、 然也有做得不同處。」『孟子』万章上「聖人之行不同也、或遠或近、或

去或不去,帰潔其身而已矣。」朱子注「遠、謂隠遁也。近、謂仕近君也。

言聖人之行雖不必同、然其要帰、在潔其身而已」、つまり、行いの規

則を制定することであるが、ここでは、即ち行為のこと)の高潔さは

他人が及ぶことができないようだが、しかし二人ともまだその必ず理

に従うことを会得して、本当に私心がないというわけではなかったの

だ。子張がまだ「仁体」(「仁体柔而用剛、義体剛而用柔」、つまり、「体」

は「体用」(つまり本体と作用)の「体」であり、「仁の本体」の意で

あるが、ここでは、即ち「理に当りて私心無きは則ち仁」ということ)

を知らず、「苟しくも難きを悦び」(「子張才高意広、而好為苟難、故

常過中」、つまり、軽率に難しいことを為すのが好きで)、遂に「小者」

(つまり闘子文と陳文子の行為)によってその「大者」(つまり闘子文

と陳文子が二人とも仁者であること)を信じた。だから、孔子が(そ

の「仁」を)認めなかったのは当然である。読者はここで、更に本篇

第五章の「不知其仁」、憲問篇第十四章の「仁則吾不知」、この二語を、

「三仁」(『論語』微子「微子去之、箕子為之奴、比干諫而死。孔子曰、

殷有三仁。」朱子注「「微、箕、二国名。子、爵也。微子、紂庶兄。箕

子、比干、紂諸父。微子見紂無道、去之以存宗祀。箕子、比干皆諫、

紂殺比干、囚箕子以為奴、箕子因佯狂而受辱。」「三人之行不同、而同

出於至誠惻怛之意、故不咈乎愛之理、而有以全其心之徳也。楊氏曰、

此三人者、各得其本心、故同謂之仁。」」、つまり、微子、箕子、比干、

この三人の仁者)と「夷齊」(『論語』述而「曰、白夷、叔齊何人也。曰、

(18)

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(公冶長第五中篇)   路易 矣、然未知其心果見義理之當然、而能脫然無所累乎。抑不得已於利害之私、而猶未免於怨悔也。故夫子特許其清、而不許其仁。○愚聞之師曰、當理而無私心、則仁矣。今以是而觀二子之事、雖其制行之高若不可及、然皆未有以見其必當於理、而真無私心也。子張未識仁體、而悅於苟難、遂以小者信其大者、夫子之不許也宜哉。讀者於此、更以上章不知其仁、後篇仁則吾不知之語、并與三仁夷齊之事觀之、則彼此交盡、而仁之為義可識矣。今以他書考之、子文之相楚、所謀者無非僭王猾夏之事。文子之仕齊、既失正君討賊之義、又不數歲而復反於齊焉、則其不仁亦可見矣。第十九章季文子三思而後行。子聞之、曰、再、斯可矣。(季文子は、魯国の大夫で、魯国文公時の宰相襄仲から宰相職を引き継いで三人の国君(つまり宣公、成公、襄公の三君)に仕えていたのだが、家には絹を着る妾がいなかったし、穀物を食べる馬がなかったほど、私財を蓄積せず、「忠」と評価された人物であり、何事も「三思」

つまり三回以上その事について詳細に調べて思慮して、それから行動

する、こういう人物だと言われていた。例えば、晋国に使者として訪

問する時に、晋国の君主が病気になったということを聞いて、もしか

したら亡くなられるかもしれないと思って、その場合に備えての礼に

ついて尋ねてから晋国に行ったこと、その一例である。しかし、襄仲 至于鄂。熊渠曰、我蠻夷也、不與中国之號謚。」『春秋左氏伝』僖公二

十一年伝「蛮夷猾夏、周禍也。」孔頴達疏「正義曰、蛮夷猾夏、舜典文。

猾訓為乱、故云、乱諸夏也」、つまり、楚国の国君が僭越して自ら武

王と称し、戦争を起こして周王朝に混乱をもたらしたということ)に

ほかならないのである。陳文子の場合、斉の国君に仕える時に、「正

君討賊の義」(「天下事有大根本、有小根本。正君心是大本。其餘万事

各有一根本、如理財以養民為本、治兵以択将為本。」『論語』憲問「陳

成子弒簡公。孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弒其君、請討之。公曰、

告夫三子。孔子曰、以吾従大夫之後、不敢不告也。君曰告夫三子者。」

朱子注「孔子出而自言如此。意謂弒君之賊、法所必討」、ここでは、

つまり、国君の心を正すこと、それから君主を弑逆した賊(つまり大

夫崔杼)を討伐することが大夫陳文子の務めるべき義務である、とい

うこと)を果たしていなかっただけでなく、その上、それほどの年も

経っていない内にまた斉国に戻った。これらの事例から、二人とも「仁

者」ではないということもまた分かるのである。

  知、如字。焉、於虔反。○令尹、官名、楚上卿執政者也。子文、姓

闘、名穀於菟。其為人也、喜怒不形、物我無閒、知有其國而不知有其

身、其忠盛矣、故子張疑其仁。然其所以三仕三已而告新令尹者、未知

其皆出於天理而無人欲之私也。是以夫子但許其忠、而未許其仁也。

  乘、去聲。○崔子、齊大夫、名杼。齊君、莊公、名光。陳文子、亦

齊大夫、名須無。十乘、四十匹也。違、去也。文子潔身去亂、可謂清

(19)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第五十三号(二〇二二・三)

通常のやり方はだいたいこのようにすべきだ、という意味である。)

集注:  「三」は、去声(第四声、つまり「何回も」

「幾度も」の意)である。

「季文子」は、魯国の大夫であり、名は行父(「季文子相三君、無衣帛

之妾、無食粟之馬、到季武子便不如此、便是不能行父之政。」『春秋左

氏伝』襄公五年伝「季文子卒、大夫入斂、公在位、宰庀家器為葬備、

無衣帛之妾、無食粟之馬、無藏金玉、無重器備、君子是以知季文子之

忠於公室也。相三君矣、而無私積、可不謂忠乎。」孔頴達疏「宣公之初、

襄仲執政、宣八年仲遂卒、後始文子得政、故至今為相三君也」、つまり、

季文子は襄仲の宰相職を引き継いで三人の国君(つまり宣公、成公、

襄公の三君)に仕えていたのだが、家には絹を着る妾がいなかったし、

穀物を食べる馬がなかった。私財を蓄積せず、「忠」と言える、とい

うこと)。何事も必ず「三たび思ひて後に行う」(「三思是乱了是非。

天下事固有難易。易底、是非自易見。若難事、初間審一審、未便決得

是非、更審一審、這是非便自會分明。若只管思量利害、便紛紛雜雜、

不能得了。」「凡事固是著審細、才審一番、又審一番、這道理是非、已

自分曉。」「聖人隨時取義、只事到面前、審験箇是非」、つまり、三回

以上仔細に思慮してから行動するということである。だが、朱子が「三

思」の「思」について「目前の事に対してその事の「道理是非」(つ

まり理に適うか否か)を詳細に調べ確かめる(「審験」)こと」と解釈

している)。例えば、晋国に使者として訪問する時に「喪に遭ふの礼 が文公の嫡子を殺害して庶子を宣公と立てた時に、季文子は襄仲を討伐しなかったどころか、宣公を斉国に認めてもらう為に使者として斉国に行って賄賂を行ったのである。これは、「三思」ならば私意が生

じて反って判断が乱れる、ということの現れのようなことである。)「季

文子は、何事も「三思」の後に行動する。孔子がこのことを聞いて言

われた。「二度すれば、これで宜しいのだ。」

(問季文子三思而後行章。曰、思之有未得者、須著子細去思。到思而

得之、這方是一思。雖見得已是、又須平心更著思一遍。如此、則無不

当者矣。若更過思、則如称子称物相似、推來推去、軽重却到不定了。」

「季文子三思而後行。子曰、再、斯可矣。曰、聖人也只是大概如此説。

謂如明理底人、便思三両番、亦不到得私意起。又如魯鈍底人、思一両

番不得、第三四番思得之、無定。然而多思、大率流而入私意底多。雖

此是聖人就季文子身上説、然而聖人之言自是渾厚、占得地位闊。再、

斯可矣。是常法大概当如此。」とあり、つまり、仔細に思慮して会得

するものがあってはじめて一回の「思」になるのであり、会得してか

ら落ち着いた気持ちでもう一度思慮すること、これが二回目の「思」、

このようにすれば、不穏当がないはずである。これ以上何回も思慮す

ると、私意が生じて反って決断に迷うのである。しかし、道理に明る

い人は、「思」を三回しても私意が生じないこともあり得るし、また

思慮が鈍い人は一回、二回の「思」では会得するものがなく、三回、

四回の「思」で会得するものがあるようになったとか、こういうこと

には決まりがないのである。孔子のいう「再せば、斯ち可なり。」は、

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