角市家の墓守として
角市家の墓守として
市 島 真 二
角市家の六代目である市島謙吉︵春城先生︶は︑晩年東京新宿の東五軒町に居を構えていたのですが︑この家は昭
和二十年四月に戦火で消失しております︒
謙吉は︑昭和十九年四月に亡くなっていますので︑一年後の戦災で家が燃えるのを目の当たりにしなくて済んで︑
一回も火災の厄に遭わなかったことを仕合せに感じていた本人の気持ちを思えば何よりだったと考えます︒
東五軒町に謙吉と同居していた末娘のミツは︑その後︑市島宗家の膝元である新潟県北蒲原郡の天王へと転出しま した︒ 天王で謙吉の次男昴の籍に入っていたミツは︑昭和二十三年六月に島根県人重栖健に嫁いだ姉静︵昭和十四年没︶
の長男康之を養子に迎えて︑養親として北蒲原郡中浦村大伝一〇一三番地の四に戸籍を編製し︑兄昴の籍から独立し
ました︒昭和三十四年三月に七代目昴没後ミツが八代目となってからこの戸籍は︑角市家の本籍として現在にいたっ
ております︒
ミツは︑昭和二十二年の学校教育法の制定により新生中学として中浦村立中浦小学校に新たに設けられた中学の教
員として教鞭をとる事になりました︒
早稲田大学の草創期に奔走していた父謙吉を見︑尊敬していたミツとしては︑中学の教育はやりがいがあったそう
ですが戦後の地方の教育方針との違いで旧教育者との間に軋轢があったと︑晩年説明してくれました︒
ミツが戸籍を編製した大伝一〇一三番四は市島宗家が大伝農園として所有しており︑ブドウなどの果物をはじめ農
作物の品種改良と種の取得を目的に耕作していました︒
九反程度の農地内に二十七坪の住居があって︑ミツはそこに居を構えて︵春城荘と表札に明記︶中学へ通勤していま した︒ この農園を昭和初期から管理運営していたのが橋本栄太郎︵私の祖父︶で︑昭和十三年五月没後に橋本栄︵私の実父︶
が後を継いで耕作していました︒
ミツが戸籍を編製する昭和二十三年に戦後の農地改革で市島宗家から中浦村農地委員会が買収後に︑橋本栄が大伝
農園を購入して所有者となりました︒
しかし︑住居は市島ミツの名義として残してあったので新潟にいる間は︑そこを生活の拠点として過ごしておりま した︒ 翌年の昭和二十四年六月に私︵真二︶が生まれた際に︑橋本栄は名前について中学の教師であるミツに相談した結果︑
真二にしなさいと言われて決まったあたりに私と角市家がつながる歯車が回りはじめた様です︒
私が︑小学校へ入るまでは両親に連れられて大伝農園に毎日の様に行っていましたので︑度々おやつを頂けるミツ
の顔は幼い私の記憶にしっかりと刻まれました︒
現在︑大伝農園は橋本栄が没後に長男の勝太郎︵私の兄︶が継承していますが︑兄は中学時代の三年間しっかりと
ミツに教わっており︑情熱的な教育であったと話しています︒
その後角市家では︑先に養子に迎えた康之が大阪で生活を定着させる事になって将来ミツとの同居が叶わないと判
角市家の墓守として 断されたため︑昭和二十七年四月に橋本栄太郎の五男栄治︵私の叔父︶を︑ミツの次男として養子にする事になり角
市家の存続を計ったと聞いております︒
養子となった栄治は︑その年の五月に身内を頼って上京して製造会社に勤めるのですが︑これが東京生まれのミツ
と一緒に東京で住む基盤を創るスタートとなったわけです︒
その後︑住いを目黒区鷹番︵現在の住所︶に定着させてから昭和三
十六年にミツを東京へ呼んで親子一緒の生活が始まります︒
その前年にミツは︑長男康之と次男栄治を伴って早稲田大学主催の
春城生誕百年記念祭に招待されており︑戦後ではミツの最も誇らしい
時期でもあったと思われます︒
ミツと同居した栄治は︑家電販売店︵目黒サウンド︶を興して当初
は一階が店で二階が住いの小規模店でスタートしたのですが︑昭和四
十四年に通りを挟んだ前に二十四坪の店舗を借り︑メーカーのチェー
ン店として規模を拡張して営業を始めました︒
私も昭和四十五年から四十八年の三年間学生時代のアルバイトとし
て店の手伝いをしていましたが︑このバイト時代にミツの手料理を
度々食べさせてもらっていました︒
その後︑就職して仕事の合間をぬって会いにいく度にミツに熱烈に 口説かれて︑昭和五十三年十月に栄治の養子︵ミツの孫︶として籍に
筆者とミツ(昭和47年6月撮影)
入った経緯です︒
籍に入る前に常日頃言われていたのは︑角市家として残す財産はあ
りませんが春城先生という歴史に名前を刻んだ人の子孫として︑墓を
しっかり守って欲しいという事でした︒
養子に入ってから間もなくミツの体に異変があらわれ検査すると癌
と判明し︑闘病生活の甲斐もなく昭和五十四年五月に他界しました︒
当時私は宇都宮へ転勤中で︑一緒に住むために栄治が計画中の新居
︵現在の住いで同年十二月に完成︶をミツは楽しみにしていたのですが
基礎工事を見る事もなく亡くなってしまいました︒
市島ミツ・長男康之・次男栄治の順で納骨をしました角市家の墓は︑
現在の新潟県新発田市五十公野の浄念寺に在ります︒
浄念寺は︑市島一族の菩提寺で宗家はじめ各分家の祖先の墓があり︑
角市家も初代から四代まで別々に境内と天神山上に点在しています︒
六代目謙吉が五代目の墓を作った際に墓地の狭小を考えて︑合葬式
に代々の墓︵墓碑銘无量壽國︶を生存中に建立して先に亡くなった長男機を始め三女澄︑三男芳雄の骨を埋葬したと︑
早稲田大学編集の﹃春城八十年の覚書﹄に記述があります︒
春城先生の家族から後の角市家の遺骨は︑全てこの代々の墓に納められ眠っており︑早稲田大学の総長始め皆様方
に事ある毎に︑墓参していただき感謝の心で一杯です︒
角市市島家墓碑
角市家の墓守として 私は︑お盆と春の彼岸には墓参りに帰省しておりますが近い将来︑本籍のある新潟へ住まいを移して︑角市家の墓守としての役目を全うしたいと考えております︒
︵いちしま しんじ 角市市島家現当主︶