ベラスケス作《彫刻家モンタニ
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(2) で描かれた︑今︑制作中の彫刻家の肖像﹂はどうして描かれたのか︑隠. 一〇六 ^4︺ 語に翻訳されて専門家たちの間で流布し始めていた︒スペインでは. ゴン山の葛藤とその超克︵あるいは融合一といった文脈で解読しな. されたメッセージは何であろうか︒十七批紀前半のスペインにおけ. 第一の理由としては︑やはり歴史的環境の違いが大きかったであ. がら︑結局のところ︑スペイン・バロックのレアリスム様式のルー. およそ一世紀以上も遅れて美術理論が成立してゆくという︑この大. ろう︒カトリック両王のもとでの国家統一の実現と︑イスラム教王. ツがトリエント教令的美学と神秘主義のみならず︑﹁生けるがごと. る彫刻制作の実態や美術理論の動向︑絵両・彫刻をめぐる叩パラン. 国の完全な終焉とが一四九二年のことであり︑それはフィレンツエ. く﹂を理想としたパランゴン的競争の所産でもあったことを試論と. きな落差はどこに由来するのであろうか︒. でのルネサンスの擁謹者ロレンツォ豪華王の死の年である︒一方︑. して考察するものである︒. 今日︑プラド美術館所蔵の︽彫刻家マルティネス・モンタニエー. 王の西家による︑制作巾の彫刻家. ようやく十五世紀後半に始まるイタリア美術の導入とその消化は︑. 確固たる古典古代美術の遺産と伝統が表面的には見え難かったイベ. リア半島において容易に進捗するものではなかった︒しかも皮肉な ことに十六世紀も後半に入れば︑北ヨーロッパのプロテスタントに. 向けての在来のカトリック教世界における反抗とw興︑いわゆる対. 王侯貴族の宮殿という世俗的トポスを例外として公的には排除して. リック擁護王は異教的な主魍や物語︑古典古代を理杣心とする美術を︑. ︵スペイン王カルロス一枇一や︑その息子フェリペニ世の歴代カト. ﹁縦一バーラと三分の一︑横一バーラ︒彫刻家の肖像で︑ベラスケ. あった王室管轄の建物︑アルコ公爵別荘について作成された一七八 一5︺ 九年作成の美術品台帳に当該作品の記載が認められる︒すなわち︑. るのは十八世紀も末のことで︑マドリード郊外のエル・パルドに. −8×o.o.o員汕彩︑両布一が初めて記録に登場す. いった︒しかしながら︑こうした特殊な環境において︑レアリスム. スの真作︒査定三千レアル﹂︵一バーラは約O︒ω.⑦O昌であり︑サイズ. スの肖像︾︵図1. と神秘主義︑聖と俗の混交︑そして〃パッション山︵受難と禁欲一を. からもプラド作とほぽ一致する一︒. 抗宗教改革運動が進展するなかで︑神聖ローマ帝因皇帝カール五世. その精髄とする美術作品が培われたのである︒. 革の腰帯を巻き︑顔を絹の白いカラーで際立たせた品格のある老紳. 両面は︑ピロードのように光沢のある黒い衣裳と外衣に身を固め︑. ルティネス・モンタニェースの肖像︾︵以下〃モンタニェースの肖. 士を表わしている︒有手は粘土用の箆を握りしめ︑左手で着手した. 本稿では以上の前提条件を踏まえ︑ベラスケス中期の︽彫刻家マ. 像〃と略す︶が提起︑内包する諦問趣を︑再検討する︒﹁宮廷両家の手.
(3) ベラスケス「彫亥■」家マルティネス・モンタ ニェースの肖像」1635年 プラド美術館. 貨族か司祭のように︑彫刻家としては異例の気品ある装いで登場し ている︒. 彫刻家はだれであろうか︒一八一九年︑王室美術館として開館し. た当時のプラドのカタログでは単に﹁彫刻家の肖像﹂とのみ記され. た後︑一八二八年の同館のカタログで﹁逸名の彫刻家の美しい肖像︑. アロンソ・カーノと推定される﹂として︑初めて特定の個人と結び. 一7︺. 付けられた︒このカーノ説を積極的に支持したクルサーダ・ビリャ. ミルは︑ベラスケス特有の晩年様式で描かれ︑〃司祭の平常服〃を着. 用している点で︑そのモデルは当時六十歳に近かった美術家カーノ. 以外にはあり得ないと推論したのである︒. アロンソ・カーノニ六〇一−一六六七年一はグラナーダ生まれ. ばかりの胸像を支え︑一瞬︑厳しい視線を前方に投げかける︒知的. ニハ三八年以降の箔一次マドリード時代︵1ニハ五三年一では︑バ. コの工房に入門した︒その意味ではベラスケスの弟弟子にあたり︑ ^R︺ その後生涯を通してこの宮廷両家と交流を重ねていくことになる︒. の両家︑彫刻家︑建築家で︑セビーリャに出てニハ一六年︑パチェー. 営為と︑右手に凝縮される技の輝きとが融和する瞬閉であろう︒人. に先だち︑作者とそのモデル一両面に現われず一と彼の作品︑こち. 彫刻家は誰の前に立っているのか︒ここでは︽ラス・メニーナス︾. 帰還した郷坐グラナーダでも聖職者たちと訣別する︒こうしてニハ. かし一六四四年には妻■殺害の嫌疑をかけられて宮廷から放逐され︑. 相オリバーレス伯−公爵の侍従代︵凶着註宗g昌饅轟︶を務めた︒し. ケスと共に旧カスティーリャ地方を旅行したし︵一六四〇年頃︶︑宰. ら側にいてその全体を描く両家というあの図式が想定されている︒. 一〇七. 五七年︑再びマドリードヘ︒国王に懇請してようやく聖職者集団の. 資格を回復することができた︒またその頃︑ベラスケスのサンティ ベラスケス作︽彫刻家モンタ一一エースの肖像︾をめぐる諸問題. しかも本凶では︑︿ラス・メニーナス︾両中のベラスケス自身や伝工 一6︺ ル・グレコ作︽ポンペオ・レオー二︵?一の肖像︾︵凶2︶と同様︑. い︒. リャドリードに残された王室所蔵の絵画を回収せんがためにベラス. 図1. 物像の立体性が強調されると同時に︑材質感の描写も忘れてはいな. 后.
(4) エル・グレコ帰属 図2. 査に際して︑彼に有利な虚偽. アゴ騎士団への入団資格審. つか存在するのである︒. たに彫刻家モンタニェースに結びつける視覚的︑・文献的資料がいく. ○年代の中葉に年代付けるべきである︒その上カーノ説を退け︑新. 一〇八. ^9︺ の証言を残している︒. カーノが描かれているとす. いう記録も現存しない︒もし. ペ四世の彫像を制作したと. しく︑さらにカーノがフェリ. 常服﹂だと断定することも難. それに似ていることに着口︒続いて︑当時セビーリャの王立美術ア. 国王の容貌︵図4一が本両面中の︑輸郭のみが縁どりされた彫像の. 十七世紀のイタリア人彫刻家ピエトロ・タッカによるブロンズ製大 ^H− 彫刻︽フェリペ四世騎馬像︾︵図3︑九ぺージ掲載一を研究中︑その. ﹃ベラスケスとその時代﹄︵一八八八年一の刊行に先立つこと十年︑. ユスティは︑今では古典とされるベラスケス研究の記念碑的労作. 十九世紀の第三3半期︑ペドロ・デ・マドラーソ︑ポール・ル. れぱ︑その容貌︵優に五十歳. カデミーに所蔵されていたフランシスコ・バレーラ筆︽彫刻家マル. しかしながら︑カーノの確. を越えている一からして一六. ティネス・モンタニェースの肖像︾︵図5一を見るに至り︑両絵画の. フォールは従来のカーノ説に対して疑問を抱いていたが︑モンタ. 五〇年代の作ということに. モデルのあまりの類似に︑モンタニェース説は仮定から確信に変. 実な両像は伝えられておら. なろうが︑現在のベラスケス. ニェース説を理論的に構築したのはカール・ユスティ︑アウレリ. 研究では︑先のクルサーダが. わったと告白している︒ベルエーテもやはり︑このバレーラ作を根 一H一 拠にモンタニェースがモデルだと断じている︒. ず︑またカーノ説の最大の根. 主張するような晩年様式と. 要するに︑フィレンツェ在住のタッカが一面識もないフェリペ四. 一m一 アーノ一デ・ベルエーテによる両モノグラフであった︒. 合致しない︒全体に薄塗りで. 世の騎馬像を制作するにあたり︑その際不可欠とされる国王の胸像. 拠である︑衣装が﹁司祭の平. 地肌が透け︑的確で無駄のないタッチやニュートラルな背景の処理. の制作がモンタニェース︵一五六八−一六四九年︶に委嘱されるこ. 一螂一. は︽狩猟隊長フアン・マテオスV︵−−宛㎝冒︶や︽道化師パブロ・デ・. とになった︒本作は︑セビーリャから宮廷に招聰されたその彫刻家. 「ポンペオ・レオー 二(?)」個人蔵. バリャドリード︾一−由おω︶に著しく近く︑これらと同じく一六三. 図3の頭部 図4 苦行の聖ヒエロニムス 図6.
(5) 畠生・. 牝j. ■二1.■三一. I1.;. 1・・.︑ソ. \. ■ 1 ■ 一 ■■ ■ ■ ■. ■ ■. に. マドリード 団. ≠. バ〜・.〃∴!1ξ1..〜.1︑ぜ ︷ 1o ・. .. ・・^. 像」ラーサロ・ガルディアーノ財. フランシスコ・パレーラ「モンタニェース の肖像」1616年 セビーリャ市庁舎. ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸問題. i■≡o⁝≡■. ⑳. 勘. 図5. パチェーコ「モンタニェースの肖 図7. !. の制作風景を宮廷両家ベラスケスが描いたというのである︒ 一H−. 実際︑セビーリャで活躍した両家フランシスコ・バレーラ︵一五. 八○/八五−一六四五年一による肖像と比較すれば︑髪と髭の色こ. そ違え︑同じ人物に違いない︒かつての若さ︑醜さは本作ではベラ. スケスの筆力もあって厳格で教盤豊かな老紳士に変わり︑顔には二. 十年近い歳月の流れとその研籏の跡が刻まれている︒セビーリャ時. 代︑ベラスケスは一六一六年の作とされるバレーラの作品を見︑記. 憶に留めていたのであろうか︒ポーズや右手の持ち物は共通してお. り︑違いといえばバレーラ作の場合︑サンティポンセ一セビーリヤ. 市近郊一の︑サン・イシドー口・デル・カンポ修道院に今日まで伝. わるモンタニェースの代表作︑主祭壇衝立装飾一ミ§﹄σq・−ω9を. なす一体で︑ベラスケスの岳父パチェーコが賦彩を担当した︽苦行. 一 一 の聖ヒエロニムス︾一ニハ一一年︑図6︶の雛形を左手に載せている︒. さらに本肖像と結びつけることが可能なもう一枚の︑今度は素描. 一肺一. 肖像の沓しとして刊行することを目的に素描と略伝を. 一図7一が存在する︒それはパチェーコが︑﹃著名貨紳肖像名鑑﹄︵未. 刊行︑略称. 収録していった紳士録のための扉絵の一つである︒肖像の下の人物. 名欄が空白となってモンタニエースとは特定できないにせよ︑素描. のほうがいくらか若く︑モデルの容貌により忠実に描かれているが︑. 本肖像との類似は明白である︒アロンソ・カーノはグラナーダの出. 身であり︑故人も含めてセピーリャの著名人を収録しようとした 肖. 像の書山に加えられるであろうか︒またカーノは︑この素描が描か. 一〇九.
(6) れた可能性の下眼である一六四四年︵パチェーコの没年一でも四十. 一〇. に私が都マドリードに行なった旅行費用の援助として﹂四百ドゥ. 一些 カードが授けられたとあり︑具体的である︒. さらに両料としては︑ナオ船一大型外洋船一でコロンビア. 三歳を越えておらず︑素描の年齢と明らかに矛盾する︒しかも︑パ. チェーコがかつての弟子カーノを著名賞紳のひとりとして描くこと. めの渡航権利を授けられたものの︑一六三六年︹彫像制作の年︺以. ︵■9S宰目巴かメキシコ︵Z亮竃−穿寝3一に渡って出稼ぎするた. ていなかった一︒素描のモデルがカーノでなければ︑当然︑油絵︵プ. 来今日︹同訴状のニハ四八年︺に至るまで待たされたこと︑今では. はおよそ考えられないだろう︵愛弟子で婿ベラスケスをさえ予定し. ラド作︶のそれもカーノではない︒. 老いと貧窮の身で多くの子供を抱え︑しかも何年も前のことゆえこ. の権利が破棄されようとしており︑早急にナオ船を用船するよう認. 嘆願訴状はここで終わる︒それから一年後︑モンタニェースは新. 彫刻家モンタニェース モンタニェースがフェリペ四世の胸像を制作することになる経緯. 世界への夢を実現させないまま没した︒さらに十年後︑彫刻家の寡. 可願いたい︑と印し出ているのである︒. やその前後の箏情に関しては︑セアン・ベルムーデス著﹃スペイン. 婦は残された国王からの渡航権利証を千エスクード価の銀の延べ棒. い︑七ヶ月以上宮廷に逗留︒固王がいたく満足された︹等身大以上. 王から書簡で要諦され︑︹モンタニェースは︺急遮マドリードに向か. 制作されている騎馬像のためにフェリペ四泄の肖像を作るよう同国. リャ︑通商院文奔館に保管一によれば︑﹁フィレンツェ大公の注文で. 一六四八年九月十九日付けで白筆著名がある嘆願訴状︵セビー. スの肖像. それ以前には帰遺していた︒従って︑ベラスケスの叩モンタニェー. リャを出発︒翌ニハ三六年二月六日の旅費代受領書に署名があり︑. タニェースは六十七歳という高齢ゆえに妻に遺言書を託してセピー. あって初めて実班したものであろう︒一六三五年六月十四日︑モン. ともあれ︑このマドリード行はベラスケスによる国王への推挙が. 一 ︺. 著名美術家歴史辞典﹄︵一八○O年︑通称﹃美術家辞典﹄一に収録さ. と交換に売却したという︒. の︺その肖像は直ちにフィレンツェの大公に発送された﹂と白ら告. の塑像︵決して蛾型ではない︶は︑宮廷でかなり評判となったので. ^η一. れた興味深い資料に閉らかである︒. 白している︒さらにこの旅行の口的については︑ニハ三九年三月二. あろう︑〃アンダルシーアのリュシッポス山として同彫像を賛美した. 宮廷詩人ボカンヘルの碑文がすでに一六三五年︑﹁塑像で彫られたマ. はその問七ヶ月余りの間の制作になるだろう︒他方︑そ. 一2〇一. 十二日付け同王付き会計官に渡されたモンタニェースの受領証に︑. ﹁フィレンツェに送られた国王陛下の頭部および肖像の制作のため.
(7) ^引一. ルティネス・モンタニェースによる国王陛下の肖像に献げる﹂と魍 して公刊されており︑当然ベラスケス作の方も一六三五年の後半に. 描き上げられていたと推断することができるだろう︒しかし本両面 での︑フェリペ四世の胸像は未完のままである︒ 一 亡. セアン・ベルムーデスの﹃美術家辞典﹄に先だち刊行された大著 ﹃スペイン美術紀行﹄︵一七八五年一の中で︑アントニオ.ポンスは. ブエン・レティー口の離宮に言及した際︑ベラスケス白身もタッカ のために︑騎鵬像制作の手本となる肖像両を描いて送ったと述べて. おり︑この宮廷両家が等身大以上の巨大ブロンズ像制作という重要 なプロジェクトの中心人物であったことを想像させるであろう︒. ﹁彫刻家にして建築家﹂︑セアン・ベルムーデスがそう呼ぶフア ン・マルティネス・モンタニェースは一五六八年︑アルカラニフ・ 一讐 レアル一ハエン県一で刺繍職人の家に生まれた︒グラナーダに出︑ 彫刻家兼聖像両師ペドロ・デ・ローハスのもとで徒弟修行をした後︑ 一五八七年以降はセビーリャに移佳して結婚︒一五八八年︵二十歳︶ に彫刻家︑彫板家一g巨一ぎo﹃一︑建築家組合の資格試験に合格し︑. 壮大な祭埴衝立とそれを飾る彫刻群一すべて木彫︶を担当する美術 家として旺盛な活動を閉始する︒その﹇取盛期は︑すでに当時から評. ・ソ. ︑■一﹂も︑.千・プ. モンタニェース「クレメンシアのキリ スト礫刑」1603−1606年 セビーリャ 大聖堂. 図8. ベラスケス「十字架上のキリ スト」プラド美術館. 図9. 判の高かった︽クレメンシアのキリスト礫刑︾一ニハ〇三−一六〇六. 年︑凶8︶に始まるおよそ二十年間であり︑先述したサンティポン セやセビーリャのサンタ・クラーラのような︑修道院付繍礼拝堂の. 主祭壇を飾る記念碑的作品群でピークを迎える︒しかも︑先の礫刑 ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸問題. 「.
(8) だそうとしていた若きベラスケスも︑一時代はセビーリャの美術界. 人は支払いをめぐって係争さえ経験一︒折しも徒弟から独立へと歩み. チェーコも彩飾両師として協作している︵後述するように︑逆に両. 像やサンタ・クラーラの祭壇彫像の制作には︑ベラスケスの師パ. れるメッセージは決して表面的なものではなく︑特殊な美術的環境. ス. リュシッポス山と称えられた彫刻の大御所と︑〃スペインのアペレ. 人物の描写︵絵画一とはあまりに対照的である︒〃アンダルシーアの. もりだったのだろうか一トラピエ一︒ともあれ︑それは完壁なまでの. 一二. に君臨したこの大彫刻家に目を奪われたことであろう︒︽東方三博士. が背景には隠されていたのである︒. フェリペ四世騎蝿像︑絵西から彫刻へ. と称えられた絵両の魔術師とが共生する空間︒そこから発せら. の礼拝︾︵−由3をはじめ︽無原罪の御宿り︾︵−︷N−一︑︽福音書家. 聖ヨハネの幻視VP−竃9やそれ以前のいわゆる叩ボデゴン山にも彫 一四一. 刻による感化を認めることができる︒初期作品は厚塗りで彫塑的量 塊感にあふれ︑聖母の表情︑紋切型の福音書家のポーズ︑さらに人. 三三頃−ニハ○八年一とは対照的に︑ひたすら木彫の宗教図像しか. もつぱらブロンズか大理石を扱ったイタリアからの宮廷彫刻家レ. ︽十字架上のキリスト﹀︵図9一では︑ポーズと表情︑血の流れ方に. 手がけたことのなかったモンタニエースがフェリペ四世という現身. 物グループの緊密な構成においてもモンタニェースの祭壇彫刻の影. ︽クレメンシアのキリスト礫刑Vが刻印されている︒しかも祭壇衝立. の人問を粘土から塑像か石膏模型へどのように仕上げたのか︑フィ. オーネとポンペオのレオー二父子︵父一五〇九−一五九〇︑子一五. は十七世紀前半以降︑彫刻のみならず︑建築︑絵画︑装飾をも擁し. レンツェに送られたそのモデルが現存しない以上︑ベラスケスの本. 響が指摘できる︒その記憶は宮廷両家となってからも消えず︑名作. た総合芸術となり︑スペインだけではなく中南米世界においても隆. 両面とタッカによる完成作との間で想像するしかない︒しかしタッ. カは︑頭部の彫像モデルとは別に平面の絵両をも手本として制作を. 盛を極めようとしていた︒. 以上のようなバロック美術の文脈にたてば︑その肖像を描いてい. 愛の情を抱いていたに違いない︒両面には﹁芸術家による芸術家へ. 注と困難すぎる制作の経緯に関しては先のポンスの﹃スペイン美術. タッカによるブロンズ製巨像︽フェリペ四世騎篤像︾︵図3︶の発. 進めていったようである︒. の親愛のしるし﹂一ベルエーテ一がにじみ出ている︒とはいえ︑彫刻. る画家は︑彫像を手がけつつあるモデルの彫刻家に対して特別に敬. 家による両中の胸像は輪郭線︵イタリア語の2ω鍔昌鶉8;〇一の状. 紀行﹄以降︑ユスティや︑ブラウンとエリオットの共同研究によっ 一∬一 てほぽ完全に復元することができる︒. 態にすぎない︒彫像が完成した段階で︑その部分を描き上げる心づ.
(9) 貴.. 図3. ︷蚤 ㌔・. ︸正. 廿よ. 一縫一. ピッティ美術. 四世騎馬像」. 一嚢. 一爵. 図12ベラスケスエ房作「フェリペ 一聖. 終えていた︒. 諦王国の間 を飾る︑︽フエリペ四世騎馬像︾︵図. 一三. 三五年の前半︑すなわちモンタニェースの上京する頃までには描き. 10一を始めとする一連の王家騎馬像や大作︽ブレダの開城︾を一六. はレティー口内. のポーズはギャロップか︑クールベットという後四半部で立つ︑まっ 一㎎一 たく先例のない騎馬像が想定されていた︒それと同じ頃ベラスケス. り決められると同時に︑スペイン側では国王白身の希望により︑馬. に贈るようトスカーナ大公に要請する︒その際︑一︑ルーベンスの 一η一 肖像のタイプ︑二︑フェリペ三世騎馬像をモデルとする︑ことがと. 四世を顕彰する大騎馬像を最上の美術家に委嘱して制作させ︑国王. 一%一. オリバーレスは同離宮の大庭園︵王妃の庭︶にその創設者フェリペ. ブエン・レティー口の造営がほぼ竣工した一六三四年五月︑宰相. 館フイレンツェ. ︸︑玉. ・ら黒︑. ベラスケス「フェリペ四世騎馬像」 1634−1635年 プラド美術館. 図10. オリエンテ広 ブロンズ 1636・1640年 場 マドリード I£, 1二_二;:ご二二1. .㍗︑︸盈. I醐一 ^帆1岨凶棚 ピエトロ・タッカ「フェリペ4世騎馬像」. 鐙 ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像Vをめぐる諸間題. 〆.
(10) 一六三五年の夏︑タッカは騎馬像模型の制作に着手し︑その似姿 が完全なものとなるように﹁国王の肖像︵a一と︑衣裳や武具の素 描﹂をスペイン側に要求︒数週間後の九月︑ベラスケスの手になる. 歩. それらの作品がフィレンツェに発送された︒ところがこの時点で︑ ようやくタッカは︑スペイン側の希望がすでに出来上がっていた. 行する馬山ではないことを悟り︑前脚を空中にあげるタイプの騎馬 一30一. 像模型を新たに作らざるを得なくなったのである︒. 一方︑騎手のフェリペ四世については︑そのモデルとしてルーベ. マドリード. 国立図書館. 稿. .一1 、..・ ・ .. 』f}}・一、}^山■. 忘!箏二鰍 1久1蝋淋1おζ. 「二ま鮒■1:1ド. 桁へ. のための技術案」マドリード手. 一一四. フォルツァ記念騎馬像のため. にこの数倍もあるブロンズ像. を計両していた︵図11︶︒フェ. リペ四世の宮廷はこの万能の. 天才による未完の騎馬像の再. 現を意識していたのであろう. か︒レオナルドによる実験と. 鋳造法の詳細を記した手稿. ︵いわゆる〃マドリード手. 稿︒一は当時は. もうマドリード. の貴族フアン・. 一珊一. デ・エスピーナ. の所蔵となり︑. カルドゥーチョ. は﹃絵両問答﹄. の中で﹁偉大な. する斬新かつダイナミックな騰躍姿勢の騎馬像は︑いくつもの試行. 一聾. しかしベルニー二等︑これ以後バロック時代のヨーロッパで流行. してその存在を知らないはずはなかったであろう︒. 奇と博識にみちた二冊の書﹂と絶賛している︒ベラスケスも宮廷人と. 一引一. るレオナルド・デ・ヴィンチの手になる素描と手稿の︑ とりわけ好. ペ四世騎馬像」ウフィッィ 美術館 フイレンツェ. ンスによる肖像や︑前章で言及したモンタニェースの頭部彫像がす. でにフィレンツェには届いていたであろうが︑一六三八年の末︑頭. 部のモデルをタッカから改めて求められ︑ベラスケスの描いた国王 の頭部一b一が一六四〇年一月二十七日に引き渡された︒要するに︑. タッカに送られたベラスケス作品︵工房作かも知れぬが一はおそら 一引一. くポンスが記しているように︑﹁騎馬像の同王の絵﹂︵a一と﹁国王 の半身像﹂︵b一の二点であったに違いない︒. こうしてニハ三九年三月までには︑当時フィレンツェに居たガリ レオ・ガリレイの技術協力まで仰いで大ブロンズ像の鋳造を完了︑ 馬の腰帯に..勺①R冨↓曽S守o岸ヨ昌①昌ざ鶉饅目昌竃三巨ωζOO套... ︵ペトルス・タッカ作︑フィレンツェの人︑祝すべき年一六四〇一の 一珊一. 銘文を付し︑青銅彫刻史上﹇収初の﹁後脚のみで立つ﹂記念碑的騎馬 像が実現されたのである︒. それより約一世紀半前︑あのレオナルドがフランチェスコ.ス. 図13ルーベンスエ房作「フェリ. レオナルド「スフォルツァ騎馬像. 図11. 叩 1 ・一 π『一、}■→、■. 川}r・抑一・・川・宝コr伽一^ ・1・…,一i・,・・.
(11) は半キログラム︑従って約九トン一もあるプロンズ製の︑しかもクー. 鏑誤を重ねての成果であった︒およそ岬一万八千リブラ︒︵一リブラ. たものと考えて間違いない︒. ケス絵画︵たとえピッティ作ではなくとも︶を忠実に再現していっ. ニェースの彫像をモデルとしながら︑騎馬像全体は何らかのベラス. スペインにおける騎嶋像の伝統はルーベンスによる︽レルマ公爵. ルベット一正しくはルバード︶という均衡を欠く閑難な姿勢を後脚 のみでどう立たすことができるのか︒その当時︑フィレンツェの専. 騎篤像︾︵ニハ〇三年︑プラド美術館一あたりから始まる︒ベラスケ. ところでポンスに記された︑ベラスケスがタッカに送ったという. サン・フェリペ修道院の前で公開されて称賛されたという︒その後. 像﹂二七三四年の火災で焼失︶を描き︑翌年三月にマヨール通りの. スはニハニ五年︑﹁蝋爽とした姿の︑勇壮かつ軽快な国王陛下の騎馬 一讐. 二点︵a︐b︶はユスティの資料発掘による﹁国王の肖像︹騎馬像︺﹂. 同作は︑﹁カトリック信仰と神聖口ーマ帝国にとって救世主のイ. 門家たちの間でもおよそ勢物語として批判されたこの難事業に解決 一邪一 法を授けたのが物理学︑天文学者のガリレイであったという︒. ︵a︶と﹁国王の頭部﹂︵b一に結び付けられるだろう︒前者が現在︑. メージ﹂︵パノフスキー︶とされるティツィアーノの︽ミュールベル. サロン・ヌエーボ山︵後の 鏡のサロン〃一を飾って. いた︒しかしニハニ八−ニハニ九年︑ルーベンスが二度目にマドリー. 一39一. ︵旧王宮一内︑. クの皇帝カール五世騎馬像︾︵プラド美術館一と共にアルカーサル. フィレンツェのピッティ美術館にある︽フェリペ四世騎鳩像︾一図 一η一. 12︶であるか否かはともかくとして︑注口されるのは彫刻と絵両の 著しい類似である︒. ベラスケス作ではほぼ完全な右側面鋤で描かれているが︑顔のタ. を操りながら真正面へ楓爽と疾駆せんとするその勇姿はブロンズ製. 図13一︑ベラスケスの騎馬像は同サロンの壁からはずされてルーベン. 七三四年に焼失︒ウフィツィ美術館の同題作はそのコピーとされる︑. ドを訪問した際︑﹁フェリペ四世の騎馬像﹂を制作するや︵やはり一. の騎馬像とほぽ完全に重なるであろう︒風に流れる飾り帯︑甲冑の. イプ︑被った帽子と指揮棒を握る右手の位置を除けば︑左手で手綱. デザインや馬の背の鞍や敷布︑短ズボンや脚の位置︑鐙まで︑さら. ス作がティツィアーノと梱対して飾られることになった︒この時︑ 一ω一 ベラスケスは画家として初めて屈辱を味わったはずである︒. そっくり模倣したかのようである︒特に注目されるのは︑動きの中. ン種の馬それ白体の特徴に至るまで︑彫刻はベラスケスの絵画を. の騎馬像であった︒その意味では強い決意を秘めて挑んだに違いな. 国し︑再度騎馬像に挑戦したのが︑今論じているレティー口のため. その後ベラスケスは最初のイタリア遊学に出発︑研鍍を積んで帰. には白い鼻面と黒い蟹︑栗毛という一彫刻では色はないが︶スペイ. で一瞬︑静止するという馬と騎手の姿勢である︒反対側の左側面は. い︒完全なる側面観は︑イタリアで目にした古代の皇帝騎馬像を踏. 一一五. タッカによる再創造であるだろう︒こうして国王の頭部はモンタ ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸間題.
(12) ルバードニ一①奏宗︶と. 襲して神聖さ︑厳粛さを演出する一方︑後脚で低く立ち︑馬体を四 十五度の姿勢で保ちながら前脚を抱え込む. ^仙︺. いう︑乗蝪術でもとりわけ困難なポーズを意図的に採用したので ある︒それが宮廷の要望であったのだろう︒ルーベンスのような寓 意的︑装飾的モティーフは両面からすべて排除され︑フェリペ四世 は現実に叩生けるがごとく山太陽と自然の中に存在する︒しかも同 時に︑ ルバード︒の姿勢でさえも難なく馬を操る姿を通して︑君主. に必要な政治的手腕と白己規律が象徴的に表明されている︒. ニハ四〇年代に入って︑同じモデル︑ほとんど同じポーズの騎篤 像が︑絵両︑彫刻となって諦王国の間︑王妃の大庭岡にそれぞれ飾 られ︑離宮レティー口というトポスの内と外を占めることになった︒. 宮廷人たちはそれらをどう批評し︑比較したであろうか︒しかも諦 王国の閥には︑ベラスケスや他の両家による様々な馬のポーズの︑ 王家騎馬肖像両が並んでいたのである︒. ブロンズ製巨像︽フェリペ四世騎馬像︾の制作はフィレンツェの 彫刻家ピエトロ・タッカは無論のこと︑絵両︑彫刻の分野でそれぞ れスペインを代表するベラスケス︑モンタニェースが駆り出された 上︑科学者ガリレイをも巻き込む大変な事業であった︒ベラスケス はこれを機にモンタニェースやタッカの彫刻に対してのみならず︑. ティツィアーノ︑ルーベンスという絵画の先推に対しても自らの絵. パランゴン︷の伝統が生きていた︒. 画芸術を誇らしく提示しようとする意図が働いたと推察できるだ 一〃一. ろう︒その奥には. 触覚の寓意からパランゴンヘ. 一一六. ︽彫刻家モンタニェースの肖像vがもつ意味や制作の動機を︑再検. 討する際︑何がしかの糸口を提供してくれるのが﹁盲人と古代彫像﹂. というテーマ︑特にジュゼッペ・デ・リベーラ︵一五九一−一六五. 二年︶の︽盲口の彫刻家一触覚一︾︵凶14︑プラド美術館一であるだ. ろう︒署名と一六三二の年記一従って︑ベラスケス作の三年前一を. もつ同作は︑賛しい装束の老いた盲人がアポロンのような古代彫像. の頭部を両乎でまさぐり︑その隣には絵両として︑肖像の一部が置. かれている︒特典な︑モティーフとしてもあまり先例を見ないこの. 作品に対してこれまで様々な解釈が試みられてきたが︑納得のいく. 結論はまだ得られていない︒しかし︑同作を論じるには︑これと似. たモティーフを含む同じ両家の﹁五感の寓意﹂連作から始めるべき である︒. 聴覚︒は. 初期リベーラの様式形成を知る上でも貴重なこの連作は一六一五 一㎎一 年から一六一六年︑すなわちローマ滞在中の作とされ︑︽視覚︾︵図. 15︶︑︽嗅覚︾︑︽味覚︾︑︽触覚︾︵凶16︶の四点が現存し︑. そのコピーでしか伝わっていない︒すべて半身像で︑人物は質素な. 衣裳をまとうも活力にあふれている︒また光と影の激しいコントラ. ストや簡潔で力強い事物の描写はカラヴァッジォの革新を吸収して. の土臭いリアルな画風であり︑早くにセビーリャにもたらされたと.
(13) 美術館. リベーラ「盲目の彫刻家 (触覚)」1632年 プラド. ヤン・ブリューゲル他 「聴覚、触覚、昧 覚」(部分)プラド美術館. ベラスケス作^彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸問題. デナ. 図17 ゲント美 ロンバウツ「五感」1632年 術館 図18. 図14 リベーラ「視覚」フラン ツ・マイヤー美術館 メ キシコ市. 図15 リベーラ「触覚」ノート ン・サイモン財団 パサ 図16. すれば︑初期ベラスケスの も否定できない︒. ボデゴン への橋渡しを演じた可能性. 従来︑〃五感の寓意山の表現はその快楽を享受する世俗的な題材と. 一川一. して︑特に十六世紀後半あたりから版両を逓して広く流布するよう. になり︑そこではヤン・ブリューゲル︑ファン・バーレン共作の︽聴 一柵一. 覚︑触覚︑味覚︾︵凶17一のように風俗画的︑寓意画的な傾向が強い︒. 一方︑十七枇紀における〃五感の寓意山は︑一︑リベーラのように. それぞれが独立した五点の連作︑二︑ロンバウツ一図18一のように︑一. 場面に五感を総合して快楽を楽しむ︑二つの系譜があり︑ヴァニタ. ス画的傾向が強い後者は特にオランダ等の北ヨーロッパで流行した︒. こうしたなかで︑リベーラによる連作は様式はもとより図像学的に. もそれらとは大幅に異なるもので︑何か別の伝統が存在したか︑さ. もなければ十七世紀初頭の新たなる創造と考えざるを得ないであろ. う︒実際今日まで︑リベーラ以前にあってはこの種の〃五感山の表 現は確認されていない︒. ︽触覚︾︵パサデナ作と略称︶では︑帽子を被る嶺面の盲人が左横. を向いて坐り︑古代風彫像の背年の頭部を左手で支え︑右手の指で. 口や鼻をまさぐっている︒テーブルには一枚の画布が置かれ︑そこ. に描かれた人物が盲人の行為を冷たく見つめている︒こうして彫刻. 固有の触覚性は︑盲目という〃無視覚 でも肌ざわりで認識できる. 五感・連作の一枚である同図を︑彫刻の絵画に︑また逆に絵. こと︑さらに絵両という視覚性との対置により際立つのである︒し. かし. 一七.
(14) 一一八. 三−一六六四年︶︑通称ガンバッシであると伝統的にみなされてきた︒. ツェではタッカの工房を訪れるが︑過労のために二十八歳で視覚を. 画の彫刻に対する優位︑すなわちパラゴーネの一つである︑絵画・. 一方︑同じモティーフのプラド作一図14︶の場合︑その来歴から. 失った︒その後は郷里に戻り︑手︵触覚一のみで聖人や肖像を粘土. ゴメツリはトスカーナ地方の小村ガンバツシに生まれ︑フィレン. すれば〃五感︒連作の一枚ではなかったようである︒人物はパサデ. で制作できるようになり︑トスカーナ大公フェルディナンドやウル. 彫刻優劣論争の視覚的メッセージとして解釈できるのだろうか︒. ナ作と比較すれば額が広がり︑︑韻も白く︑歳老いており︑ベルヴェ. バヌス八世の庇護を得︑︑H一〇ポ82Ω螂昌訂色..︵ガンバッシの盲人一. 一珊一. デーレのアポロンを思わせる彫像頭部は共に右首の付け根を一部欠. として称えられた︒. しかし︑プラド作に記された年記〃ニハ三二︒を信じるならば︑. き︑同一のものと見える一もしそうなら︑リベーラの両房に置かれ ていた彫像と考えてよい︶︒さらにパサデナ作と同様ここでも︑人物. 一六〇三年生まれのこの彫刻家は当時二十九歳となり︑画面上の老 一㎎一 人と年齢的に一致せず︑ガンバッシ説は否定されるようになった︒. いる︒すなわち︑. ユークリッド山︑〃アルキメデス〃で︑手に地球儀. リベーラの五枚の真作があり︑諦科学・学芸の偉人たちを表わして. ﹁王家寝所の第一室の作品︒⁝祈晴用の絵の他にもジョセフ・デ・. オスによれば︑一夜で突然盲口となり︑牧神の仲間パニスコス︵小. 新アカデミーを創設した哲学者である︒ディオゲネスニフエルティ. ストア派のバビロンのディオゲネスに学び︑アテネに第三の︑通称. キレネ生まれのカルネアデス︵前二一四/三1=一九/八年一は. を描いた両布がテープル上に置かれ︑彫像と対比される︒. プラド作が初めて記録に登場するのは︑一七六四年にアンドレ. その後新しく提唱されたのが︑古代ギリシアの哲学者カルネアデ. やコンパスを持ち︑自らの微妙な態度を観想するかのようである︒. パン︶の胸像を触覚で識別したという︒ダービィの提唱したカルネ. 一. ス・ヒメーネス神父が刊行したエル・エスコリアル修道院に関する. ス説である︒. 彫刻の世界で有名な〃ガンバッシの盲人山は︑やはり両手にもつ︑. アデス説は︑プラド作の容貌が現存するカルネアデス頭部︵図19一. 一. 一〃一 以下のような報告においてである︵抄訳一︒. なかば描きかけの頭部の均衡や顔形を触覚によって推量している︒. 脈︑上述の﹁諸科学・学芸の偉人たち﹂にうまく合致するであろう︒. 一50一. と似ていなくもなく︑エル・エスコリアルに収集された諦作品の文. プラド作は来歴からしてエル・エスコリアルに由来する〃ガン. とはいえ︑手前の青年の彫像はパニスコスには見えず︑しかもパサ. のようで⁝﹂. バッシの盲人山に当り︑従って描かれた人物も︑バルディヌッチが. デナ作とも共通する両中の絵︵肖像一の説明がつかない︒. 他の二点は〃イソップ山︑〃クリュシッボス. 伝えるイタリア十七世紀の彫刻家ジョヴァンニ・ゴメツリ一ニハO.
(15) の盲目の彫刻家(触覚〕」. キアヴォーナ」1511年. ローマ時代の模刻. な彫像との対置︑そ. 表面が実になめらか. 縮された無骨な手と. 情や︑その行為が凝. 集中させた盲人の表. のは︑手に全意識を. て注口しておきたい. ここで︑筆者とし. ラッセル一︑絵画・彫刻比較論争のトポスとして提示し︑論争白体の 一∬一. 刺した絵両優位の図というよりも︑﹁パラゴーネの舞台化﹂︵エスト. 両を見ることはできない﹂︵ヘヒト︶として盲人の努力の虚しさを風. 覚で彫像を楽しむことはできても︑我々が楽しめるテープル上の絵. まれたものと考えるべきである︒とはいえ︑プラド作は︑﹁盲人は触. 図21︶の系譜の延長上に︑バロックという新しい時代環境の中で育. 一 一 ︽ラ・スキアヴォーナ︾やマンテーニャの古代彫刻を配した諸作品︑. いに高まる絵両・彫刻パラゴーネ論争︵例えばティツィアーノ作. でにヘヒトが指摘したように︑十六世紀前半からイタリアの地で大. 作に共通する特別な. の人物といった︑両. 両者の長所を認め合い︑互いを容認する道をたどったようである︒. 紀におけるパラゴーネ論争はバロック時代に入ってからは︑むしろ. 無意味さ︑蛾かしさを訴えているのではなかろうか︒事実︑十六世. 一肥一. れを見つめる画中両. 要素である︒リベー. ︑彫刻に対する絵両の絶対的優位という時代の趨勢が. その背景として︑一部の例外︵例えばベルニー二等︶を除いては︑ 降︑﹁盲人︑古代風彫. この新しいバロック的位梱を具体的に例証する資料が︑ガリレイ. 作用したことも見逃してはならないだろう︒ いう紐み合わせの絵. が友人で両家ルドヴィゴ・チゴーリに宛てた一通の書簡である︒ガ. したことがうかがえ. 種の主魎が人気を博. られ︑一部ではこの. 与﹂︵パノフスキー一と評された同書簡において︑次のように注目す. た教養人で︑﹁レオナルド以降のパラゴーネ論争への唯一独創的な寄. リレイは天文・物理学者として高名だが︑絵画︑音楽︑詩作も愛し. 一一九. ガリレイは︑﹁彫刻は三次元で︑はるかに現実に近い﹂という十六. べき見解を表明している︒. これらの作品は︑す. るだろう︒おそらく. 一引一 一凶20一が複数伝え. 像︑画中の絵画﹂と. 〃絵画の勝利. ラと同時代かそれ以. フィレンツェ 個人蔵. ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸問題. リー、ロンドン. メヒューズ「ガンバッシ 図20 ナショナル・ギャラ 頃. バーゼル. ティツィアーノ「ラ・ス 図21. 図19「カルネアデス」. ノー.
(16) 絵両の優位を力説する︒そして彫刻のような三次元の像は︑光の下. を暗く塗れば︑その程度に応じて凸凹を持つことになろう﹂として. 能力だと私は理解している︒しかるに彫刻は︑一部を明るく︑一部. 現されるからである⁝⁝絵両とは︑光と影を用いて自然を模倣する. なぜなら︑我々が彫刻に認める凹凸は彫刻ではなく︑絵両として表. では幻影効果の意味︶の点で優っている以上︑著しい誤謬である︒. まさしくその理由ゆえに絵画が彫刻よりも驚異︵ヨ彗婁亘旺︑ここ. 画がもたないという理由から絵両よりも称賛に値するという見解は︑. レイはこうした論争が︑﹁優れて実践されるならばかくも称賛すべき. の意義を訴えていると考えられなくもない︒ともあれ最後に︑ガリ. それとは対照的に磨きあげられた彫像︵図22一は視覚に対して触覚. なはだ示唆的である︒プラド作において︑盲人の手の荒れた肌や雛︑. 一邪一 つ望遠鏡がガリレイが発明したタイプのものであるという事実はは. 十分に考えられるだろう︒︽視覚v︵図15一において︑男が両手にも. たローマにおいて︑知己の両家チゴーリを介して接触した可能性は. かは推測の域を出ないが︑一六一〇年代中葉にかけて数年間滞在し. リベーラがガリレイのこうした一種の美術批評を読んでいたか否. 一一〇. にさらして︑明るい面を全体の色調が統一されるまで暗く塗れば三. もの︹絵両と彫刻︺になるのに︑これら両芸術のいずれをも職とし. 領分に収まる一抄訳一﹂と記している︒. 次元性を失い平板に見えるように︑凹凸は視覚の法則に従属してい. ない人たちにとっては衡学的遊戯にすぎず﹂︑あまり深人リすること. 世紀以来の主張に反論し︑﹁彫刻は︑それが凹凸︵﹃=2o︶をもち︑絵. るにすぎないと言う︒彫刻の立. のないよう親友チゴーリを諭して書簡を終えている︒. 軟と硬質︑温かさと冷たさ︑な. しながら︑﹁凹凸のみならず︑柔. 固有の認識力︵触覚値一を強調. リレイは︑視覚値とは別に触覚. けるのである︒さらに一方でガ. 芸術︵彗邑の力で光と影を授. ﹁絵画の彫刻への優位を決するために盲人と愚者を呼び︑まず盲人 中ポラ の前に人物や風景が美しく描かれた絵を置いて触れさせるが︑平板. 手稿からの覚え書きの中で︑. 後に パラゴーネ山と表題が付される﹁諸芸術比較論﹂へのマゼン 一 一 タ拾遺のエピソードに求められるのではなかろうか︒レオナルドの. 音楽︑彫刻よりも優位におこうとするレオナルドの﹃絵画論﹄中︑. 典拠は古典古代にその起源があろうが︑より直接的には絵画を詩︑. ところで盲人と︑触覚を媒体とする彫刻へのアナロジーの文学的. めらかさと荒々しさ︑重々しさ. ゆえにそこに動物や森が描かれているとは︑ロドヴィコ・イル・. 一聖. と軽快さもこの感覚︹触覚︺の. 自然に負うのに対して︑絵両は. 体性は光と影によるが︑それは. .〜. リベーラ(図14の部分) 図22. !.
(17) .一..︑. 二一︑一︑・. L一.﹁一. 二・二二. .. 一旬. ■ ・. 免一.. ..︷. ピソードの後半部をなす︑愚者に絵筆︑粘土の情景︵彫刻の劣位の. 風刺︶こそないが︑エピソードにあるように︑盲人が杖を片手に美. しい彫像の頭部を右手でまさぐり︑一方︑人物︑裸婦︑森の描かれ. た絵がその下に置かれている︒上方には..U向−−>OnO○−↓<窒Oo−. \o向−−>雲昌<窒オq.^彫刻はよい︑絵画は駄目だ︶と宣した. 銘板がある︒しかしこれを︑彫刻の絵画に対する優位と字義通りに. 解釈することはできない︒レオナルドの文脈に沿えばその逆︑つま. りは絵画の彫刻に対する優位を︑絵画︵視覚︶を鑑賞できない盲人. とその触覚の隈界を提示することを通して主張していると解釈でき. まみれ︑ボロをまとって制作するという︵﹃絵画論﹄︶︒しかし同時に︑. .. モー口公がそれを誓約するまでは信じられなかった︒続いて彫像が. 全体にみなぎるパロディー的︑風刺的なムードは︑この種の議論︵パ. るだろう︒レオナルドによれば︑画家は優雅に装い︑彫刻家は壊に. 置かれると︑それに触れ︑直ぐに人物が表わされていると理解した︒. ンダの覚え菩きの出典とその受容の歴史は不詳ながら︑十七世紀前. でに広まっていたのか︑またどのように認識されていたのか︒マゼ. ツァ時代か︶が︑十六︑十七世紀におけるパラゴーネ論争の中です. 今でこそよく知られるこのエピソード︵レオナルドのスフォル. ずれが優位であるかよりも絵画は絵画︑彫刻は彫刻︑すなわち﹁素. にアレンジしたものと考えることができる︒そこでは絵画︑彫刻い. の伝説を絡ませながら︑十六世紀以来のパラゴーネ論をバロック風. に﹁盲人と彫像﹂というレオナルド流のエピソードやカルネアデス. に対して新しい図像形式を開拓する一方︑その一つである﹁触覚﹂. 以上の考察を踏まえる時︑リベーラによる二作は〃五感の寓意. 半までには一部識者の間で周知の事実となっていたであろう︒グェ. 描という父から生まれた実の姉妹﹂^ヴァザーリ︶として評価すべき. 一躯一. ルチーノ派とされる一枚の素描︵図23︶はおそらく︑このエピソー. であると主張されると同時に︑この種の論争の不毛と愚かしさが表. 一59一. ベラスケス作^彫刻家モンタ一一エースの肖像︾をめぐる諸間題. 一一. ドに基づくか︑何らかの派生によるテーマであると考えてよい︒エ. 完全に自然なままの形体を造り上げた︵抄訳︶︒﹂. ラゴーネ︶自体の虚しさ︑その不毛を訴えようとしているのではな. 画はだめだ」ルーヴル美術館. 今度は愚者の前に絵筆と粘土を置くと︑彼は何も描くことはできな. ・ラ〃∵{ク. かろうか︒. f. 一.芦口︑. .︑ ︑・. 一1 =. かったが︑粘土を用いて優れたレリーフにふさわしい手足や顔等︑. .. 忙玲︑一. 「彫刻はよい、絵 グェルチーノ派 図23. !.
(18) 明されているだろう︒一方︑本稿のテーマであるベラスケス作︽モ ンタニェースの肖像︾は︑盲人でなく︑未完の彫像が置かれていて. も対置される両中両はなく︑彫刻家は宮廷風の気品ある衣裳で制作 に向かおうとしている︒ここには︑ナポリで活躍したリベーラとは. また別の︑十七世紀スペインはセビーリャならではの美術的環境か ら発せられるメッセージが隠されてはいないだろうか︒. 彫刻・絵面の共作へ︑現突とイリュージョン. 絵両・彫刻パランゴンにおけるスペイン的特性を考察する際︑ど. うしても見逃してはならない領域は大聖堂︑修道院礼拝堂や教区聖. 史を省察する必要があるだろう︒. 二一一. 興隆をみせた着彩彫刻はイタリア・ルネサンスの進展と共に姿を消. ヨ註①soo=qoヨぎ巴の存在である︒かつて中世を通してあれほど. な信仰の対象となって人気を集めた多色彩飾彫像一鶉2巨冨箒. が設計図か図面を必らず作成する︒建具師︵s亘旦胃o︶の手で柱. 建築家か︑多くの場合は彫刻家︑あるいは組立師︵g竃昌⊆邑o﹃︶. 一㏄一 職︵o︷巨o︶の美術家・職人集川の協力体制による大事業であった︒. 理石とかブロンズの材料に恵まれない風土ということもあろうが︑. ゲーラ一族はほんの一例にすぎない︒その理由としては︑高価な大. ナンデス︑ペドロ・デ・メーナ︑さらに十八世紀にまたがるチュリ. モンタニェースやアロンソ・カーノ以外にも︑グレゴリオ・フエル. 彩にそれぞれ専門の両家が参加していることである︒多色彩飾一ポ. ここで重要なのが︑キリストや聖人を表わした彫像やレリーフの賦. 宗馬冨⊆〇一と同時に彫刻の制作一昌竃ω言oぎ鍔ヲ雪〇一も担当した︒. 作する︒モンタニェースの場合︑しばしば祭壇の設計︵彗ρ巨①go. 層におよぶ階の各区両に置く彫像や︑壁面を埋めるレリーフ板を制. ︵﹄o冨庄oH︶が表面を輝かしい金箔で塗り装飾する一方︑彫刻家は数. 根本的にはスペイン人の宗教的感性と異教徒︵イスラム一支配の歴. 退するどころか大流行を見︑今日に至るまで広く支持されている︒. や枠組ができ︑彫り師︵g↓竺註冒︶が模様や装飾を刻み︑金箔師. 複雑な構造と多彩な装飾を誇るこれら祭壇衝立の製作は︑様々な. タ・クラーラ修道院附属聖堂 主祭 壇衝立 1621−1625年 セビーリャ. していった︒だがスペインにおいては︑バロック時代になっても衰. 堂に設置された雅麗で壮大な祭壇衝立装飾と︑一般民衆の間で熱烈. サン. モンタニェース設計、彫刻制作. 図24.
(19) リクロ︑︑︑1︶は衣裳の賦彩︵28︷弩︶と顔や肌の賦彩︵雪8;胃︶. の二種の作業に区別されていた︒一体の彫刻をめぐっての彫刻家と 画家の微妙かつ難しい関係を明らかにしてくれる最高の材料として︑ 一61一. モンタニェースとパチェーコとの有名な係争が挙げられるだろう︒. 一六二一年十一月六日︑セビーリャのサンタ・クラーラ修遣院の. 巨大な祭壇衝立装飾︵図24︶の制作に際して︑彫刻・建築親方 ︵昌罵ωRo窃昌ぎ﹃<曽o⊆まgo︶に指名されたモンタニェースは︑. 従来であればそれぞれの職の親方が分担して契約すべきところ︑組 立︑彫り︑彫像︑金箔︑衣裳と肌の賦彩すべての責務を契約書にお いて委嘱された︒そればかりか支払いも︑六千ドゥカードの祭壇衝 一舵一. 立製作費の四分の三を自らが︑その残りを両家にと決定したのであ 一伍3一. る︒この契約内容に対して︑おそらく両家たちの側から何らかの訴. えがあったのだろうが︑モンタニェースはすでに契約書においてそ の正当性を主張している︒すなわち︑﹁絵両は︑全作品が見事に完成. されるためには精綴に塗ってはならず﹂︑﹁そうした下塗りがなされ. たように見えるよりも︑彫刻家の手から生まれる時のように描かれ るべきである﹂と︒結局八ヵ月後︑パチェーコは一種の訴訟に持ち. 込もうとして︑ニハニニ年七月一六日の日付と署名がなされた﹁絵 画芸術の教師たちへ﹂と題された反駁の文書が起草されたようであ る︒. 庄言にあるように︑絵画が自由学芸︵昌⊆①敏o阜ぎ︶であること︑ ^引− そして絵画と彫刻の違いを明確に区別しようとして執筆され︑﹁古代 ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸間題. 性︵>昌管&邑︶﹂︑﹁貴族性︵オO⊆①墨︶﹂︑﹁相違θ序HgO邑﹂︑﹁法. 令︵Oa昌彗墨ω︶﹂︑﹁理由︵寄N0烏ω︶﹂の五項目が挙げられた︒本. 稿に関わる内容として特に注目されるのが﹁相違﹂と﹁法令﹂であ. り︑要約してみたい︵尚︑煩雑になるので︑多くがイタリア十六世. 紀美術理論に求められるその典拠はここでは問わない︶︒. 絵画︑彫刻の﹁相違﹂では︑﹁絵画は線︹デッサン︺と色彩により. 模倣するのを伝授する芸術である﹂との原則を踏まえ︑色彩のもつ. 重要性を力説︒そして﹁色彩は魂の苦悩︵o邑o烏ω︶と情愛︵民①goω︶. を表明する﹂がゆえに︑大理石や木材による彫像は生命を得るため. に画家の手を必要とするのに対して︑絵画はそのために何人の助け. も必要としないと論じて︑多色彩飾の画家という自らの職への道を 開くのである︒. 一砺一. 一方﹁法令﹂の項では︑モンタニェースの契約内容が︑カトリッ. ク両王時代にまでたどる一具体的には一四八O年一画家組合の法令. 絵画は四つの職に区分され︑ある職の資格試験に合格し. 一㏄一. に違反していることを立証する︒. 法令一. 法令三. 職人が四つの職の一つに合格しても︑合格していない職. 金箔師は丸彫り彫刻の顔を賦彩してはならない︒. ても他の職を実践することはできない︒. 法令八. 法令十六. いかなる彫り師︑建具師︑また他の資格をもつ親方も. 金箔師は絵画や丸彫り像に装飾することはできない︒. を実践できず︑他の職に合格した職人を使うことはできない︒. 法令十八. 一二三.
(20) その職の試験に合格した親方以外は︑どのような絵画に手を染める こともできない:⁝・︒もし違反する者あれば彫り師は六百マラベ. ディ︑建具師は千二百マラベディ︑その他は千二百マラベディと九. 一一一四. てより自然で加筆もでき︑美的効果も抜群であり﹂︑﹁優れた彫刻に 一69一. 新しい意義と生命を授ける﹂として自ら称揚している︒. パチェーコの見解では︑彫刻は賦彩されて初めて完全な作品とな. るのであり︑多色彩飾彫刻は︑いわぱ﹁彫刻と絵画の総合﹂一マルティ. ン・ゴンサーレス︶なのである︒﹃絵画論﹄の中でも︵︑sぎ8一. 日間の牢獄刑に罰せられる︒. パチェーコは以上の法令を根拠に︑モンタニェースに残された道. 〇﹄⑩o︒︶︑︽苦行の聖ドミニクス︾︵ミ§一︷昇巽︶︑︿聖イグナチウス.. いうか︑極めて実利的︑実践的な要求から発したものであった︒. 的なものにすぎず︑また純粋な理論闘争とは別次元の縄張り争いと. こうして見れば︑モンタニェースに対するパチェーコの係争は一時. ︵きo︑§oら・s㎝︶等︑﹃絵画論﹄の中で敬愛を込めて呼んでいる︒. て我らが同時代人フアン・マルティネス・モンタニェース﹂. ︵︑s︑竃8ら讐N︶とか︑﹁有名なキリスト︹クレメンシア︺におい. また共作とは別に︑パチェーコは﹁私の友人で著名な彫刻家﹂. 年頃︶が挙げられる︒. 一m一. タ・イサベル修遭院のための︽最後の晩餐︾︵一六一〇1ニハ一四. タニェースの祭壇枠組が飾った共作の例として︑セピーリャのサン. いずれ劣らぬ芸術性を称えている︒一方︑パチェーコの絵画をモン. に関しては︑本稿冒頭に掲げたよう塗言葉で彫刻と絵画︵賦彩︶の︑. サン・イシドー口・デ・カンポの︽苦行の聖ヒエロニムスv︵図6一. リスト礫刑︾︵図8︶等︑艶消し法で成功した作例を挙げ︑とりわけ. フランシスコ︺︾の両頭部︵ミ實﹄①q・ミ9H轟一︑︽クレメンシアのキ. デ・ロヨラ︾と︽聖フランシスコ・ザビエル︹正しくはボルハの聖. は絵画の試験に合格するしかなく︑そこで初めて絵画を用いること ができるのだと訴える︒続く﹁理由﹂の項でも非難されるように︑. モンタニェースは片方の資格しか有さないのに︑彫刻と絵画の両方 を独断で契約してしまったというのである︒. この係争はグティェレス・デ・ロス・リオスに始まり︑セスペデ ^㎝一. ス︑ハウレギ︑何よりもカルドゥーチョにより展開される︑イタリ ア系パラゴーネ論争の系譜上に単純に位置づけることはできないだ. ろう︒パチェーコは実際︑モンタニェースのような偉大な彫刻家に 画家として協力することにむしろ誇りのような自負を抱いていたし︑. 反駁は木彫に対して︑多色彩飾と肌を賦彩する一竃8昌胃一という ^68一. 画家側の領分が侵害されたことに危機感を募らせたにすぎないので はなかろうか︒しかもパチェーコには︑後に刊行する﹃絵画論﹄で 詳述されるように︵︑§ぎ8一暑﹄8−串①︶︑従来からの光沢ある乳白. 艶消し のくすんだ肌色の様式を少なくともセビーリャでは初めて. 色の肌の仕上げ︵君=冒98︶に対して︑一六〇〇年以来 ︵昌讐①︶. 開拓したパイオニアとしての自負があった︒ニスで仕上げる光沢法 は︑光を反射して肉体の質感がでにくいが︑艶消し法は﹁絵画とし.
(21) ところで︑モンタニェースに代表される多色彩飾木彫は︑絵両一. 辺倒に傾きがちの宮廷や貨族社会一十六世紀後半のレオー二父子を 例外として︶ではおよそ歓迎されることはなかった︒それらはむし ろ巷閥の民衆を対象としており︑聖堂内で祭壇衝立装飾を構成する. 聖像として置かれただけではなく︑聖週脚の間は山班︵パソ一に載 せられ︑信者たちを激しい㎜ハ梅と脱魂︵エクスタシー︶に導いたの. である︒この絵画と彫刻との︑受ける側の階胴の違いをどう考える. べきだろうか︒彫刻︑それも彩飾された彫像の方が素朴な民衆の眼 にはより現実的︑触覚的であり︑知性で想像しながら︑再現する比重. ^η−. 一︵旧. ル︶ ンカ蔵. 二五. セビーリャ美. 1600年頃. がはるかに大きい絵画よりも圧倒的に訴えるものが強烈であったに. 違いない︒説教師フェルナンデス・ガルバンが﹁絵画は影と︑色に 一㍗ 色を重ねることで成立するが︑精神的には偽善の臭いがする﹂と記し たように︑特に宗教図像は彫刻の方がはるかに効果的だったようで ある︒. モンタニェースに関して︑︽クレメンシアのキリスト礫刑︾の契約. 菩では﹁息を引きとる前の生きた状態で﹂一ミ§らヒO︶とか︑パ. チェーコ自らの手で賦彩した︽聖イグナチウス・デ・ロヨラ︾への 批評での﹁本当に生きているようだ﹂︵︑§︑ミ8もさ9といった言 葉が認められる︒ 生けるがごとく山︑としてその表現を称えた言葉 は絵画においても同様︑よく語られた︒例えば︑サンチェス・コター ンの︽キリスト礫刑v一図25︶は︑キリストの肉体があたかも実物で. あるかのように︑その影が背景の風景に落ちているように描かれた ベラスケス作︽彫刻家モンタ一一エースの肖像︾をめぐる諸問題. 術館. サンチェス・コタ 「キリスト礫刑」 トゥジオ会修道院 グラナーダ美術館. ルム. 図25. パチェーコ「聖母マリア. 図26. ストックホ. 国立美術館. と聖ヨハネ」(彫刻は別). 醐1■1. スルパラン「聖骸布(ヴェ ロニカの布)」1635年頃. 図27.
(22) 特異な作品︵同様に影を闇に落としたベラスケス作︑図9や照明さ. 一術一. 一二六. それが真実であるよう見る者を完全に信じさせる必要のあることを. ︵Eニアサウロ一といった言説は︑絵画がフィクションでありながら︑. れた︽クレメンシアのキリスト礫刑v︑図8と比較せよ︶であるが︑. 画家側が強く意識していたことの表明ではなかろうか︒しかし︑あ. 一η一. パロミーノは︑同作が飾られたグラナーダのカルトゥジオ会修道院. えようとするものであったことを忘れてはならない︒. まりにも当然すぎるこうした絵画の使命は︑実際上の強い要請に応. を訪ねた際︑﹁黄金色の半円形から十字架の両腕が浮かび上がるかの 一 一 ようで︑絵筆というより彫刻の像のように見える﹂と印象的に記して. をマリアとヨハネの間に置くように構成された︒同様にスルバラン. 図26︶に至っては︑キリストの肉体を描くかわりに︑実物の礁刑像. 文学は十六世紀の後半︑対抗宗教改革の運動と連動するかのごとく. 脱魂︵エクスタシー︶を通しての︑いわゆる神秘主義体験の思想や. デ・グラナーダ︑イグナチウス・デ・ロヨラ等の幻視︵ヴィジョン一︑. アビラの聖テレサをはじめ十字架の聖ヨハネ︑修遺士ルイス・. の作品についても︑パロミーノは︑︽キリストの礫刑︾一ニハニ七年︑. 展開されるが︑絵画や彫刻の︑他のヨーロッパ・バロックでは類例. いる︒さらにパチェーコの︽聖母マリアと聖ヨハネ︾︵一六〇〇年頃︑. シカゴ美術研究所︶が当時安置されていたセビーリャのサン・パブ. なっている︒ロヨラは実践の書﹃霊操﹄において︑﹁十宇架につけら. のない土俗的レアリスムはこのような宗教的︑精神的土壌が基盤と. それを見︑知らなければ誰もが彫刻だと信じてしまう﹂と記したし︑. れたわれわれの主キリストを眼前に想像しながら︑主と対話する︒. ロ修遭院の聖具室を訪ね︑﹁鉄格子が閉じられ︵光がほとんどなく一︑ 一花一. 何点かある︽聖舷布︵ヴェロニカの布︶v︵図27︶や︽縛られた仔羊︾. 創造主でありながら人間になられ︑永遠のいのちからこの世での死. 去に至るまで︑私の罪のために十字架上の死を遂げられたことを思. も同じ意凶を込めて描かれたものであろう︒. このようなイリュージョニスム︑あるいはトロンプ・ルイユ的描. うとしているのである︒十七世紀の文献にしばしば散見され至言葉︑. よって見る者を信仰への帰依や脱魂へ誘い込む擬似空間を生み出そ. 歩み寄りを認めることができる一方で︑その迫真的リアリティーに. 失われた事件^例えば受難物語︶の生々しい再現であって︑スペイ. に身を置く山ように努めて追体験がなされてゆく︒ヴィジョンとは︑. 字架上のキリスト︑降誕︑最後の晩餐といった聖なる事件の〃現場. こうして自らの神秘本験に導かんがために黙想︑観想において十. い起こしながら対話するのである︒﹂一門脇佳吉訳︶. 例えば﹁絵両は見せかけで偽りである﹂︵パチェーコ︶︑﹁絵画は生け. ン・バロックにとりわけ特徴的なリアルな様式は必然的な要請で. への. るがごとく作る﹂︵同︶︑﹁絵画は知性の中に心地よい罠と偽りによる. 一U あった︒すなわち︑﹁描かれた説教としての絵画﹂である︒その前提. 写は︑パランゴンを意識しての立体性︑いわば〃彫刻的絵画. 驚嘆を育んで︑その見せかけが真実であるよう信じさせるものだ﹂.
(23) となっているのが︑トリエント教令の精神であったことは一言うまで もない︒. 一五六三年十二月三︑四日トリエント公会議の閉幕に臨んで決議 禿一 された﹁聖遺物︑聖画像の祈念︑崇敬に関する教令﹂︵第二十五部会︶ において︑. あったであろう︒神秘主義と現実的描写︑ヴィジョンとリアリティー. ︵イリュージョニズム︶︒この不可思議な共存にこそスペイン・バ. ロックを説く鍵が隠されている︒. ⁝⁝こうして同時にあらゆる聖画像の偉大なる成果が得られる⁝⁝. 語を通して民衆は信仰諦ヶ条を説かれ︑確信し︑祈念し︑崇敬する. 意と古代風彫刻︑パチェーコによる係争︑ヴィジョン︵幻視一とレ. の同定と制作時期︑騎馬像制作をめぐってのパランゴン︑触覚の寓. ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾について︑モデル. 終わ. というのも︑聖人やその健全なる善行を通して神により実現された. アリスム等の諸問題を論じてきた︒最後にもう二度本作を前にして. ﹁⁝⁝絵画その他の表現で表明された我らが罪の賊いの神秘の物. 奇賊は信者たちの目のもとに置かれ︑その結果⁝⁝神を礼拝︑敬愛. 強く感じるのは︑ロペスレイ以降注目されてきたように︑彫刻家の. 人物に認められる完壁なまでの仕上げと︑粗描きのまま未完で残さ. すると同時に信仰を実践するよう鼓舞されるからである︒﹂︵傍点訳. この精神は宗教美術の功罪を説く理論において踏襲され︑﹁図像. れた彫像部分との対照である︒顔の描写や衣裳は︑モンタニェース. 鋭く真撃な視線と繊細で巧み気な右手との不思議な照応関係であり︑. の主たる口的は人々を敬虞なる信仰に導き︑神に帰依させることに. がいま手がけ始めたフェリペ四世の頭部の︑いまだ荒削りな段階と. 元一. まるで手で触れ得るかのように生々しい〃言葉山によるヴィジョン. る﹂︵︑§ぎ8ら・N竃︶と定義される︒あたかも実際にそこに現れ︑. 通して︑篤信にふさわしい教えを心に思い抱くように導くことであ. 成を指示する﹂とあるように︑絵画同様︑彫刻においても〃素描〃が. は︑レオナルドに﹁輪郭線によって︑絵画は︑彫刻家に︑彫像の完. あったのではないか︑とする解釈は表面的にすぎない︒実はそこに. る︒実際に彫刻が完成した暁に画中のその部分を補完する予定で. ︵o冨ま﹃︶のように︑民衆に︹神の教えを︺諭すべく精進し︑絵画を. は︑バロック時代に民衆の間で大いに流行をみた多色彩飾彫刻のみ. 必須であることが示唆されていると考えることができるのではなか. 節一. ならず︑サンチェス・コターン︑リベーラ︑ベラスケス︑とりわけ. 一二七. ろうか︒. ベラスケス作︽彫刻家モンタニェースの肖像︾をめぐる諸間題. スルバランの神秘的︑土俗的レアリスムが生まれる精神的瓜土で. は違い︑見事に描き上げられて三次元的なイメージを授けられてい. あるだろう﹂︵パレオッティ︶︑﹁カトリックの画家の目的は説教師. 者︶. に.
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