• 検索結果がありません。

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "イコノクラスム以後のビザンツと教皇権"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

史観第一八一冊八六

はじめに東西キリスト教世界の分離と発展のプロセスは、絶えず多くの研究者の関心を惹きつけているテーマである。かつては一〇五四年の相互破門が分離の起点とされていたが、現在ではローマ=カトリック=ラテン世界とビザンツ=正教会=ギリシャ世界の分離は一事件の帰結によるものではなく、言語、文化、慣習、教会を取り巻く政治的環境などの違いによって生まれた差異が長い期間をかけて徐々に大きくなり、ヨーロッパを二分する教会世界が生まれたと考えられている

。この長期に渡る分離の過程の中で、八世紀から九世紀にかけて東西教会の関係性が一つの転機を迎えたと捉える研 究は数多く存在する。定説によればレオン三世の勅令に始まるイコノクラスムによって皇帝とローマ教皇の関係性が薄れ、ラヴェンナ総督府の陥落と「ピピンの寄進」によってローマ教会とフランク人勢力の政治的同盟関係が成立する前後に、ローマ教会はビザンツ帝国の政治的な影響下から徐々に離れていったとされる

((

。また、九世紀後半には「フォティオスのシスマ」と呼ばれる論争がローマとコンスタンティノープルの間で行われた。これは東西教会の分離史において、数世紀後に起こる東西教会の分裂の先駆的な現象として捉えられている。F・ドヴォルニクによってなされた基礎研究ではフォティオスを分裂の責任者とする見方が否定されたが、その後の研究においてはローマ教会側の首位権の主張とビザンツ教

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権

岸   田   菜   摘

(2)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権八七 会側のフィリオクェ批判のそれぞれの始まりとして評価され、それぞれ多数の論考が執筆された

。近年ではH・チャドウィックが東西教会分離史研究の著作の中で九世紀の対立を東西教会の教会法理解の差異が露わになった事件として評価している

((

。またビザンツ側によるフィリオクェ批判という側面についてはT・コルババが異端学の視点から、九世紀のシスマをビザンツが西方教会の慣習を異端と呼んだ最初の事件であると論じた

。一方、古代末期から初期中世にかけてキリスト教世界そのものが変化を遂げる、その一つの事例としてローマとコンスタンティノープルの関係性を論じる研究も存在する。J・ヘリンはキリスト教世界で最も重要な五つの総主教座の合議により教義と慣習を定めるペンタルキアの制度が七世紀から九世紀の間に緩やかに崩壊し、ムスリムの支配下に置かれた三つの総主教座が有名無実化する一方、首位権を主張するローマとビザンツ皇帝のもとにあるコンスタンティノープルの二つがキリスト教世界の中心となったと論じた

。また、A・ルースはそれぞれの教会によるスラヴ宣教によってキリスト教世界が拡大したことが、ローマとコンスタンティノープルがキリスト教世界の二つの中心として競い合う背景に存在していたとする

((

。七世紀から九世紀に起こったキリスト教世界の変化は、 ヨーロッパ世界全体の大きな変化の一要素として捉えることができる。ローマ教会とカロリング朝の関係に加え、七世紀から九世紀にかけてのビザンツ帝国に関して言えば、七世紀のアラブ人勢力の台頭による領土の縮小と国内の混乱の後、八世紀の半ばから徐々に国内の混乱を収め、かつての領土の一部を回復しマケドニア・ルネサンスに至る文化的、経済的な復興期が訪れることを背景に、帝国の制度や社会そのものも中期ビザンツのそれへと再編されていった

((

。しかしその一方、先行研究ではビザンツからのローマ教会ないし西ヨーロッパのキリスト教世界の分離が強調されるが、実態として両者が常に対立していたわけでは決してない。例えばバシレイオス一世はロドヴィコ二世との政略結婚を用いて軍事同盟を結び、バーリからムスリム勢力を排除している

((

。またローマ教会そのものもイコン崇敬やフィリオクェなど教義に関してビザンツの教会と協調し、八七九年にコンスタンティノープルで開催された会議を最後の普遍公会議として認めている。この時代のローマとコンスタンティノープルは二つの断絶した世界というよりも、多くの要素を共有していたと考えるべきである。日本国内においても、東西教会の関係性に関しては少なからぬ数の論考が存在する。特に九世紀の「フォティオス

(3)

史観第一八一冊八八のシスマ」については、岡崎実の論考でローマ教会の首位権という観点からの分析が行われ、ビザンツ側がローマ教会の名誉上の首位権を認めていたことが論証された (1

。また、西暦八〇〇年前後のローマ・ビザンツ・カロリング朝の三者関係については、五十嵐修によりビザンツ側がカールの皇帝戴冠に対して必ずしも敵対的な反応を示さなかった理由がカールの皇帝権の実態と共に分析されている ((

。十一世紀以降の東西教会の間の交渉に関して言えば、一〇五四年の相互破門については関連史料が作成された歴史的背景を分析した都甲裕文の論考と総主教ケルラリオスに焦点を当てた松下昌弘の論考が存在する ((

。十二世紀の教会合同を巡る議論については甚野尚志のいくつかの論考が東西教会の間でなされたローマ教皇の首位権に関する議論を扱っている ((

。また十三世紀以降の教会合同の試みに関しては橋川祐之による第二リヨン公会議を分析したいくつかの論考が存在する ((

。これら近年の西洋中世史研究では、十二世紀までの東西教会を単に敵対的な関係の進展であるとは理解していない。むしろ近年の政治史の文脈においては西ヨーロッパ諸勢力とビザンツ帝国の関係性は慣習の差異、皇帝称号の問題や南イタリアの支配権をはじめとするいくつかの対立を抱えながらも、その一方では協調的な関係性が存在してい たことのほうが注目されている ((

。このような関係性を考慮すると、十一世紀までのビザンツ帝国にとってローマ教会とは宗教的な確執を強調するよりも、むしろそれとの一体性をこそ強調するべき存在だったと考えられる ((

。本研究ではローマに協調的なビザンツ人による教皇権の利用と描写の仕方から、彼らがキリスト教世界のなかのローマ教会の地位についてどのような見解を持っていたのかを考察する。先行研究ではビザンツ側もまたローマには名誉上の首位権を認めていたとされるが、その意味するところを個々の事例から探り、当時のビザンツ人が教皇権として認めていたものの実態とその変遷をたどる。そのためにまず、イコン崇敬擁護派のローマ教会に対する認識を主にイコン崇敬擁護派の歴史叙述の代表例である『テオファネス年代記』とローマ教皇との交渉を模索したテオドロス・ストゥディテスの『書簡』といったビザンツ側の史料から分析する ((

。さらに、「フォティオスのシスマ」におけるニコラウス一世の言動と彼に与したイグナティオス派と八六九年の公会議の言説を、八六九年の公会議の際に作成されたイグナティオス派の文書や十世紀初めに執筆された『聖イグナティオス伝』などを取り上げてその教皇権への言及を分析する ((

(4)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権八九

 

1

八世紀以前のビザンツと教皇権

キリスト教を国教化したローマ帝国の教会論の基礎をなすのはペンタルキアの制度である。これは帝国領土を地位の等しい五つの総主教区に分け、最も重要な事項は皇帝の主催する公会議に総主教座の代表が出席して合意に至るというものだった。コンスタンティヌス一世のもと三二五年のニカイア公会議でペンタルキアの概念が登場した後、ユスティニアヌス一世の主催する四五一年のカルケドン公会議では政治的な理由からコンスタンティノープルが首都として第二の地位に上昇し、栄誉の高い順からローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの序列が定められた ((

。その一方でローマ教会はペンタルキアとは異なる、ペテロの後継者としての独自の特権を主張していた。教皇ダマススからレオ一世に至る四、五世紀のローマ教会では首位権の原型とされる思想が発達したとされる (1

。また教会会議は教皇の同意なしには有効とならないという三七一年のローマ教会会議の決議によって、教皇は教会会議の正統性を担保する存在となった。特に教皇レオ一世は、司牧の長であるペテロに由来する ものとしてローマ教皇の特権を論理展開し、普遍教会の長としてのローマの首位権の原型を形作った。カルケドン公会議で政治的な理由からコンスタンティノープルがローマに次ぐ地位を認められたことに抗議したレオ一世は、使徒ペテロがその創設に関与したローマ・アレクサンドリア・アンティオキアとそれ以外の教会の地位は異なると主張している ((

。ペテロの後継者としてのローマ教会の主張は四、五世紀には東方にも受け入れられていたようである ((

。東方で教義論争が継続的に行われた五、六世紀にはローマ教会は度々東方の論争の調停役としての役割を期待されたことがその要因であるとされる。またキリスト教会の一体性という理念からも、ローマが代表する西方地域との教義的な一致が重視された。七世紀にはローマ教皇としてギリシャ語話者が即位する、いわゆる「ギリシャ教皇時代」が到来するが、近年の研究ではこれは必ずしもローマ教皇の皇帝に対する隷属を意味するものではないという見解が提示されている ((

。むしろ教義論争における教皇の独立性という点では七世紀にさらなる進展が見られた ((

。そのよく知られる例がローマ教皇マルティヌス一世によるビザンツ皇帝による単意論の支持への批判である。彼は

(5)

史観第一八一冊九〇六四九年にギリシャから亡命してきた神学者マクシモスと共にラテラノ教会会議で単意論を弾劾した。このラテラノ教会会議は単なる地域的な教会会議ではなく、普遍公会議であると主張するものであった ((

。ローマ帝国の皇帝が持つ公会議開催の特権を脅かすこの主張が当時受け入れられることはなく、教皇マルティヌス一世と協力者のマクシモスは流刑の処分を受けている。単意論を批判してコンスタンティノープルからローマに移住した証聖者マクシモスは、ギリシャ人でありながら教皇の特別な権威を認めていた初期の例として名高い。彼は自身の関与したラテラノ教会会議を「第六の公会議」と呼び、カルケドン公会議に次ぐ教皇によって開催された普遍公会議であるとした ((

。また、エウロギオスやソフロニオス、ヨハネス・モスコスといった神学者たちも、ローマに対しては使徒座としての敬意を持っていた ((

。このマクシモスの例はかつてカトリックの神学者によりギリシャ人が教皇の首位権を認めた例として取り上げられてきた。しかしA・ルースをはじめとする近年の研究者の見解によれば、マクシモスはローマ教皇の現実的な権力を認めたのではなく、あくまで教義の模範として他の教会に優越するローマ教皇の首位性を強調したとする。マクシモスの例からは、ローマ教会の権威は七世紀の教 義論争における調停役、ないし皇帝による圧力に対する対抗権威として機能していたと言える。これに対して、ビザンツ側は最終的には六八〇/六八一年の公会議でローマ側の言い分を認める形の決議をなしている。

 

2

イコン崇敬擁護派とローマ教会

−2

  『テオファネス年代記』の中の教皇描写1

八世紀に始まるイコノクラスムもまた、皇帝によるキリスト教の教義論争への介入の一例であると言える ((

。第一次イコノクラスム、すなわち七三〇年にレオン三世がイコン崇敬を禁止する勅令を発して以来、ローマ教会はビザンツ国内の動向には従わずイコン崇敬擁護の態度を取り続けていた。『テオファネス年代記』が紹介している教皇グレゴリウス二世がレオン三世に宛てたイコノクラスム非難の書簡や教皇グレゴリウス三世によりローマで開催されたイコン崇敬擁護の教会会議以降、ローマ教会はイコノクラスト派皇帝と決別する姿勢をとっていた ((

。総主教タラシオスおよびコンスタンティノス六世と摂政エイレーネーによって七八七年に開催された第二ニカイア公会議は、イコノクラスト派皇帝の宗教政策を過ちとして

(6)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権九一 認めることによってビザンツとそれ以外の間に生まれた亀裂を埋め、損なわれた皇帝の宗教的権威を回復させるための公会議であったとされる (1

。特に西ヨーロッパ地域を代表するローマ教会との関係回復は、政治的にも重要な意味を持っていた ((

。結果として第二ニカイア公会議の成功はコンスタンティノープルと他のキリスト教世界の断絶を埋め、エイレーネーの政治的地位を確かなものとしたが、イコノクラスト皇帝の断罪や当時の軍事的・政治的な国内の不安定により、「神に選ばれた皇帝」としてのビザンツ皇帝の威信はこれ以降も動揺することとなる ((

。七世紀から九世紀にかけてのビザンツ史は同時代史料の極めて乏しい「暗黒時代」として知られているが、その希少な例外がイコン崇敬擁護派の証聖者テオファネスの手による『テオファネス年代記』である。この年代記は友人であるシュンケロスのゲオルギオスによる『年代記』の続篇となるべく執筆された世界年代記であり、二八四年から八一五年までの世界史上の出来事をイコン崇敬擁護派の視点から叙述している ((

。また、八世紀末に執筆された年代記史料の中ではとりわけローマ教皇のイコン崇敬擁護活動に関する記述が多いため、本研究ではこの年代記の記述を主にとりあげて分析する。『テオファネス年代記』からは、第二ニカイア公会議 以降にコンスタンティノープル周辺のイコン崇敬擁護派がローマ教会をどのような存在と捉えていたかがうかがい知れる。たとえば『テオファネス年代記』の七世紀以降の記述ではもっぱらビザンツ内部で発生した異端論争、すなわち単性論・単意論とイコノクラスムに関連して、異端と対立したローマ教会の働きが賞賛されている ((

。『テオファネス年代記』ではイコノクラスムにおける教皇の活動について、教皇によるイコノクラスムへの非難と公会議の参加の二つを主に記述している。ローマ教会に対する『テオファネス年代記』の関心である公会議への参加については、年代記ではヒエレイアで行われたイコノクラスト派による会議を

同年、不信心なるコンスタンティノスがヒエレイアの宮殿に不法な会議を招集し、尊敬すべき聖なるイコンに反対させた。二三八人の主教が参加し、その指導者はエフェソス主教テオドシオス(アプシマロスの息子(とペルゲ主教パスティラスだった。彼らは自分たちにとっては良いように思えた教義を公布したが、普遍の座から、すなわちローマ、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムから参加した者は誰もいな

(7)

史観第一八一冊九二かった。会議は二月十日に始まり、同第七インディクティオンの八月八日まで続いた ((

と記述するのに対して、八七五年の記事では総主教タラシオスの招きに応じてローマをはじめとする四総主教座からの使節がコンスタンティノープルを訪れたことを記述し、第二ニカイア公会議の正統性を強調している ((

。『テオファネス年代記』ではペンタルキアと公会議の権威の根拠としてだけではなく、ローマ教会それ自身の「正統信仰の擁護者」としての活動を描写している。年代記では教皇グレゴリウス二世について

この年、不敬なる皇帝は聖なる尊いイコンを弾劾する命令を下した。ローマ教皇グレゴリウスはこれを聞くと、ローマとイタリアからの貢納金を止め、レオンに信仰に関する命令を下す、あるいは聖なる教父たちによって作られた古代からの教会の教義に改変を加えるのは皇帝に相応しくないという趣旨の書簡を送った ((

また、グレゴリウス三世については

ビュザンティオンでは正統教義の代表者である、驚く べき聖なるゲルマノスがその盛りであり、レオンという名前の獣やその手先と戦っていた。ローマではグレゴリウス、ペテロが有していたのと同じ座を持つ聖なる使徒的人間が、ローマとイタリア、そして西方地域全てをレオンとその帝国に対する教会と国政における服従から分離させた。シリアではダマスカスのヨハネス・クリュソロアスというマンスールの息子の修道士にして司祭がいて、優れた教師であり、その生と言論において輝いていた ((

。〔( (内は訳者注〕

というように、ローマ教皇たちがイコノクラスム開始直後から皇帝の振る舞いを批判し続け、なおかつそれがイタリア半島が帝国から離脱していく原因であるとしている。またコンスタンティノープルやシリアといった地域での批判と併記することによって、帝国全体でイコノクラスムへの抵抗が始まったことを印象付けている。このような『テオファネス年代記』のローマ教皇描写は、イコノクラスト派皇帝の不徳が帝国を政治的に分断してしまったとする作者の意図のために挿入されたように思われる。テオファネスは他にも暗殺されかけた教皇レオ三世がカールを頼ったことによりローマ教会がフランクの支配下に入ったとしているが、これも帝国の版図縮小を強調

(8)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権九三 した描写の一つととれる ((

。テオファネスにとって、ビザンツと教皇との不和はペンタルキアに代表されるキリスト教世界の政治=宗教的な統一性の崩壊を示す事例だった。

−2 してローマを訪れ、八一五年から八二〇年の間滞在した (1 チリア出身のメトディオスは総主教ニケフォロスの使者と イコン崇敬擁護派がローマに難を逃れたとされている。シ 八一五年に始まる第二次イコノクラスムでは、何人もの ローマ教皇権  2ストゥディオス修道院長テオドロスと

。第二次イコノクラスムでイコン崇敬擁護派として最も活躍したとされるのがレオン五世に罷免された元総主教ニケフォロスとストゥディオス修道院長テオドロスであるが、特にテオドロスは第二次イコノクラスムが始まる前からローマ教皇に訴えかけることで自身が巻き込まれた論争を有利に進めようと試みたことで知られている。コンスタンティノス六世の再婚問題に始まる「姦通論争」では、レオ三世に論争への介入を頼むために八〇九年から八一一年の間に教皇レオ三世とローマに存在するギリシャ系修道院の長(アルキマンドリテス(バシレイオスに宛てて三通の書簡を書き、修道士にローマまで届けさせた ((

。第二次イコノクラスムでテオドロスは教皇パスカリス一 世、ローマの修道院長バシレイオス、サケラリオスのレオに加えて、アレクサンドリア総主教とエルサレム総主教、聖サバス修道院などキリスト教世界全体に書簡を送ってイコノクラスムの再開を知らせた ((

。これに対してはパスカリス一世はレオン五世にイコノクラスムを批判する書簡を送り、その期待に答えている ((

。テオドロスはローマ教皇レオ三世に「聖なるキリストはまさしく偉大なるペテロに天の王国の鍵と牧者としての地位を与え、ペテロに対し彼の後継者として普遍の教会の中の正義を見失った者たちによる異変という牢獄を解き放つように定めた」とペテロの後継者としての地位を認めている ((

。かつてはこの発言によって彼は教皇の首位権を認めていた存在と考えられていたが、しかし現在ではテオドロスの教会理念は強固なペンタルキアの思想に基づくものであったとされる。テオドロスのペンタルキアに関する発言で最も有名であるのがキリスト教会が「五つの頭を持つ身体」であるという発言だが、サケラリオスのレオ宛書簡の

命令する者たちとはどんな者たちだろうか?  それは使徒とその後継者である。つまり第一の座としてのローマ、第二の座としてのコンスタンティノープル、アレクサンドリアとアンティオキアとエルサレムであ

(9)

史観第一八一冊九四る。これらが教会の五つの頭であり、これらに従って聖なる教義の判決が下る。期待されているのは王と支配者の承認と助け、世俗への拡散を媒介することである ((

というところからも、テオドロスの主張が教会の問題は皇帝による干渉ではなく、五つの総主教座の合議で決めるべきとしていたことがわかる。このようなペンタルキアの重要視の背景には、イコノクラスムによって再びコンスタンティノープルが他の四つの総主教座から分離してしまったことに対する批判があると推測される。皇帝ミカエル二世に対する書簡でテオドロスはローマをはじめとする総主教座との合同を勧めている ((

。テオドロスはローマに対してしばしば「第一の座」(πρωτόθρονος(という形容詞を使用しているが、これは彼がローマ教会に与えていた重要性を表す言葉と考えることができる ((

。当時ローマ教会と直接交渉を行ったという意味ではテオドロスは特異な例であるが、イコン崇敬擁護派としては元総主教ニケフォロスもまた、ローマ教会の権威については度々言及している。例えばニケフォロスはイコノクラスト派の異端は第一の座であるローマによる裁定を経ずにコ ミュニオンに参加してはならないとしている ((

。ニケフォロスやテオドロスにとってローマ教会は、ペンタルキアの第一位としての象徴的な価値を有していた。しかし第二次イコノクラスムの解決に関してテオドロスは、かつて提案されたような公会議の開催だけではなく別の方法を模索している。それは例えば教皇が直接皇帝を非難して異端の行いを改めさせることや、あるいはコンスタンティノープル内部のイコンを巡る対立をローマの仲裁で解決することだった。サケラリオスのレオ宛書簡でテオドロスは

もしそのようなこと(ニケフォロスを総主教に復位させること(が皇帝に受け入れられそうにないのであれば、曰く、私と共に正義の人である総主教ニケフォロスが赴き、そして両派閥から信仰の避難所であるローマへと(使者が(送られることが受け入れられるべきである ((

と主張している。テオドロスの行動は教皇をペンタルキアの一員としてだけではなく、教皇権にビザンツ内部の対立を仲裁する機能を見出したという点で、『テオファネス年代記』の教皇認

(10)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権九五 識とは少し異なるように思われる。しかし、テオドロスはそれがどのような教会法的根拠の元にあるのかは明らかにせず、ペンタルキアの第一位としての権威とイコノクラスムにおける正統信仰の支持者としての立場を強調するに留まっている。また教皇の側もテオドロスの要求に応じてビザンツに教皇権の主張をするには至らず、イコノクラスムそのものの解決には間接的な効果しかもたらさなかったものと考えられる。

  「フォティオスのシスマ」における教皇権

3

−3 ていた (1 ではローマ教会の裁判権主張をめぐる新たな対立が生まれ かしこの時代、総主教イグナティオスと教皇レオ四世の間 びコンスタンティノープルの主導権を握ることとなる。し ン崇敬を復活させることで終結し、イコン崇敬擁護派が再 第二次イコノクラスムは八四三年に皇后テオドラがイコ  1レオ四世とシチリア大主教グレゴリオス

。総主教イグナティオスと対立して罷免されたシチリア大主教グレゴリオスは、サルディカ教令を根拠にレオ四世に訴え、ローマで罷免を無効とする裁判を起こそうとした。『聖イグナティオス伝』ではグレゴリオスの行動をコンス タンティノープル教会からの分離としてこのように記述している。

彼はグレゴリオス・アスベスタスを聖なる典礼における師にして模範としていた。彼らはグレゴリオスのことを一度はシラクサの主教だったとしているが、コンスタンティノープルでとある罪に問われ、ローマでも教会法に反するとして罷免されていた。イグナティオスが

脱した (( 名な聖職者と一緒になり、善なる理由なく教会から離 ペテロス、アパメイアのエウランピオス、その他の無 (中略(彼は「哀れ」という名で知られるサルデスの かったが、正しい行いであった。 の一つであり、多数の人に受け入れられたわけではな を送った。これは彼が総主教として最初に行ったこと より正しく決定されるまで、取りやめるように知らせ 認められるのを然るべき時まで、彼曰く、彼の案件が (度目に即位した時、彼はグレゴリオスの叙階が

レオ四世はイグナティオスに対して、「汝は前述の人々の(後継者が(そうしていたように、余の同意なしに主教たちの集まりで罷免を行っていたが、余の使者や書簡を欠

(11)

史観第一八一冊九六いたままに決してそのようなことを行ってはならない」という書簡を送っている ((

。またニコラウス一世は八六六年のミカエル三世宛書簡で、レオ四世とベネディクト三世はグレゴリオスと対立する意見を聴く必要があるために裁判を中断していたとしている。皇帝の教義論争への介入に対する抵抗だったテオドロスの例とは異なり、グレゴリオスがローマと接触したのはコンスタンティノープル総主教との対立という教会行政における問題を解決するためだった。そのため公会議という手段に訴えないのは当然のことであるが、教義以外の問題、とりわけ教会法の根拠としてローマ教皇権を頼ろうとしたという点において、グレゴリオスの件はイコノクラスム期間中のビザンツ人聖職者によるローマ教会との接触とは異なる意味を持っている。グレゴリオスの問題は八六六年頃にニコラウス一世によって論争の途中から再び取り上げられ、ビザンツ側が教皇権を軽視していた証拠として非難の対象となった。フォティオスのシスマとグレゴリオスの問題は直接関連する案件ではないが、教皇権がビザンツ内部の対立で優位を得るために利用され、教皇自身もそれを自らの特権性を主張する切っ掛けに利用していたという点では類似した事件と言える。

−3 皇の同意なしには効果のないことを主張した (( 決定が教会会議に優先されること、いかなる教会会議も教 ス教令集』をはじめとする教会法の法令集を用いて教皇の 首位権を主張したことで知られている。彼は『偽イシドル 世は、九世紀後半のローマ教皇としては非常に強力な教皇 フォティオスのシスマの当事者である教皇ニコラウス一  2教皇ニコラウス一世とイグナティオス派

。しかしニコラウス一世の教皇権の主張には西ヨーロッパの中でも様々な形の批判があり、彼の構想した教皇を頂点とする秩序は現実のものだったわけではない。ビザンツとの間で論争をする一方、皇帝ロタール一世の再婚問題に関してはトリーア大司教テオトガウトとケルン大司教グンターと対立し、ローマ教会のライバルであるラヴェンナ大司教ヨハネスやランス大司教ヒンクマールとも対立していた ((

。ヒンクマールとの対立は、ヒンクマールに罷免されたソワソン司教ロタドが八六四年にローマを訪れてニコラウス一世に訴えたことに始まる対立であった。彼は自身の主張の根拠として偽イシドルス教令集をローマにはじめて持ち込んだとされている ((

。ロタドの件からは、九世紀後半当時のローマ教皇権が上からその権威を主張したというよりも、むしろ地域の上位権力と対立した聖職者のイニシアチ

(12)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権九七 ブによって利用され、その中で教皇権の理論化が行われたという実態を示している。いわゆる「フォティオスのシスマ」と呼ばれるローマとコンスタンティノープル教会の対立は、八六一年の公会議に始まったとされている。この公会議は正式には八四三年にビザンツ国内では終結したイコノクラスムを異端として裁き、キリスト教世界全体にその終結を宣言するために開催されたものであったが、同時に総主教フォティオスの即位を宣言するためにも利用された ((

。八五八年の総主教イグナティオスの退位と続くフォティオスの即位は、ビザンツ宮廷内部のクーデターを反映した出来事である。もともとイグナティオスはテオドラの後ろ盾により総主教に即位したが、八五六年にミカエル三世と叔父のバルダスは母后テオドラを失脚させると、イグナティオスもまた失脚を余儀無くされ、その後釜にはバルダスの縁者である俗人のフォティオスが任命された ((

。しかしイグナティオスの派閥に属する聖職者たちはこれに反対して聖エイレーネ教会で集会を開くなど、コンスタンティノープル教会は内部に大きな分裂を抱えていた ((

。ニコラウス一世の介入により、八六一年の公会議は長期の論争をもたらすこととなった。彼は八六一年から八六六年の間、およそ十六通ほどの書簡をコンスタンティノープ ルに宛てて送り、フォティオスの総主教即位という公会議の決議に対して異議を唱えている ((

。ローマとコンスタンティノープルの間の緊張は八六七年には最高潮に達し、フォティオスは東方の三総主教座に対して総主教回勅を送り公会議でニコラウス一世の罷免を決議した (1

。ニコラウス一世が派遣した教皇勅使のザカリアスとラドゥアルドスは八六一年の公会議でフォティオスの即位に同意したが、その後ニコラウス一世は同年の八六一年にビザンツ皇帝ミカエル三世とフォティオスに対して書簡を送っている ((

。その書簡の内容は、同年の公会議の決定には同意しないこと、またフォティオスが世俗の人間から直接総主教に即位したことが過去の公会議の決定と教皇の命令に違反していること、そしてレオン三世によってローマの裁治権から奪われたイリュリクムとシチリア・カラブリア地方の教会の返還の要求といったものである。世俗の人間がコンスタンティノープル総主教に即位することについては、既に第二ニカイア公会議の際にハドリアヌス一世が総主教タラシオスに対して同様のことを非難している ((

。また、シチリアやカラブリア地方の裁治権の返還についてもハドリアヌス一世の頃からローマ教皇によって主張されていた問題である。この時点でのニコラウス一世の主張はローマ教会による既存の主張に則ったものであっ

(13)

史観第一八一冊九八たと言える。この書簡に対するビザンツ側からの応答としてはフォティオスの書簡が現存している ((

。ここでフォティオスは過去のローマ教皇の例を挙げて非難するニコラウス一世に対して過去の総主教、特にイコノクラスムへの批判で功績のある総主教タラシオスとニケフォロスが世俗の人間から総主教に即位した例を挙げて反論している ((

。フォティオスは教皇からの非難に対して、俗人から総主教に即位するのが許されるか否かは断食日や司祭の妻帯や髪型のように、ローマとコンスタンティノープルの慣習の違いであると弁明している。彼は二つの教会の差異を正当化するのに、

割礼を受けたアブラハムは神の命令によって法典に従い割礼を受けた。一方神の息子の似姿であり種族の支配と知られざる働きをするメルキセデクは割礼を受けていない ((

と、教皇と総主教がアブラハムとメルキセデクという性質の異なる同等の存在であると主張した。この返信に対して、八六二年にニコラウス一世は再びコンスタンティノープルに対して三通の書簡を送っている ((

。教皇はコンスタンティノープルにおける宗教的な責任者で ある皇帝ミカエル三世に対してイグナティオスとフォティオスの件についての取り成しを依頼し、この問題を教皇使節が調査すると宣言した ((

。ニコラウス一世とフォティオスの全面的な対決を避ける姿勢からは、八六三年までのローマとビザンツ間の交渉は比較的穏やかな応酬にとどまっていたことが伺える。しかしその後八六三年にローマで開催された教会会議でフォティオスは弾劾され、両者の緊張は徐々に高まっていったと考えられる ((

。ニコラウス一世とビザンツの関係が非常に強い緊張状態に達するのは八六五年のことである。ニコラウス一世がミカエル三世に送った書簡によれば、ミカエル三世はラテン語を「スキタイ人の言葉」と呼ぶほどに激昂していたことがわかる ((

。理由について書簡の内部では明らかにされていないが、一般的にはその理由としてローマ教会と当時ビザンツ側のキリスト教布教を受け入れていたブルガリアのボリス汗との接触が推測されている (1

。このニコラウス一世による八六五年のミカエル三世宛書簡は一連のシスマに関連する文書の中で、教皇の首位権の根拠として十二世紀以降の教会法学者や教会史家の注目を浴びた書簡として有名である ((

。それに従ってドヴォルニクをはじめとする近代以降の教会史研究者も、この八六五年

(14)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権九九 の書簡をニコラウス一世のビザンツ世界に対する主張の核心部分だと解釈している。この書簡の内容は、おおよそミカエル三世の書簡の内容に対する批判、イグナティオスの罷免に対する不同意、ミカエル三世が公会議に干渉したことへの批判、ローマ教会の特権を軽視することへの批判、裁判のための資料請求、テオグノストスの身柄引き渡しについて、イグナティオス派とフォティオス派の裁判、の七つの話題で構成されている。主張の大まかな点は八六一年の書簡と変わらないが、ミカエル三世側の主張への批判や裁判の要求が加わり、教皇とビザンツの論争における具体的な争点がはっきりと見えるようになっている ((

。書簡の中でニコラウス一世は皇帝に対して、教皇権の尊重の義務をコンスタンティヌス大帝と教皇シルウェステルをはじめとする過去の皇帝たちの例を挙げて説いている。また、教皇による単意論やイコノクラスムへの非難をビザンツ側とも共有できる教皇の「正統信仰の守護者」としての権威の事例として挙げた。ニコラウス一世とミカエル三世およびフォティオスの対立の争点は教皇の裁判権と公会議の地位であるが、八六五年のミカエル三世宛書簡で最終的に提案されたのはローマ教会によるフォティオス派閥とイグナティオス派閥の仲裁 だった ((

。八六五年のミカエル三世宛書簡では、八六二年までのニコラウス一世による記述には無い八五八年のイグナティオスの罷免の様子やイグナティオス派のメンバーに関する詳細な言及があるので、ローマによる仲裁の提案というのもイグナティオス派との接触の後に考案された可能性が考えられる ((

。公会議をめぐる対立は、八六六年の交渉でさらに明確になっている。ニコラウス一世はミカエル三世、フォティオス、イグナティオス、その他コンスタンティノープルの聖職者と宮廷に宛てて多数の書簡を送っている ((

。ニコラウス一世が執筆したビザンツ宛の書簡としては八六六年の書簡が最後のものである。書簡の中で彼は八六三年のローマ教会会議の決議に基づいてイグナティオスの復位とフォティオスの罷免を求め、八六一年の公会議で決議されたフォティオスの即位が複数の理由から有効でないことを主張した ((

。八六五年の書簡で提案された両派閥の仲裁は姿を消し、代わりにニコラウス一世の関心は八六一年の公会議をいかに無効とするかに注がれている。ニコラウス一世は八六一年の公会議が無効であることを、ローマ教皇の同意を得ていないこと、教皇の特権により八六三年の「西方地域の教会会議」と呼ばれるローマ教会会議で八六一年の公会議が無効とされたこと、フォティ

(15)

史観第一八一冊一〇〇オスを司祭として祝福したグレゴリオス・アスベスタスの聖職者としての資格が疑わしいことを理由に論じた。一連のニコラウス一世による議論からは、彼の教皇権の主張そのものも同時代の西方での議論やビザンツ内部の議論を取り入れつつ徐々に緻密化していったということがわかる。

ローマ教会  

4

マケドニア朝創始以降のビザンツと

−4 あったとされる (( はローマ教会とコンスタンティノープルが和解する必要が ロドヴィコ二世と軍事同盟を締結していたが、そのために レイオス一世はイスラーム勢力を共通の敵として西の皇帝 加したアナスタシオス・ビブリオテカリウスによればバシ 年にコンスタンティノープルで公会議を開いた。会議に参 とその派閥の排斥という形で問題の解決を試みて、八六九 態を一気に変化させた。バシレイオス一世はフォティオス マケドニア朝の創始はビザンツとローマ教会の間の膠着状 八六七年に起きたバシレイオス一世のクーデターによる  1八六九年の公会議と教皇権

。また、クーデターで帝位に就いたバシレイオス一世には 自らの権力の正統性を強調する必要があった。公会議の場でバシレイオスは自らを「新しいコンスタンティヌス」と呼ばせ、またローマとの関係回復によりキリスト教世界の一体性を蘇らせたことを強調している ((

。イグナティオス派自身によるローマ教会への言及は、八六九年の公会議でイグナティオスの名の下に提出されたエンコミオンで初めて史料上に登場する。そこではイグナティオスがローマ教会に訴え出た経緯が書かれているが、

余とともにある人々がこのような声を上げ、そして前述の書簡を運ぶように求めた。教皇インノケンティウスによってクリュソストモスのために定められた教会法、すなわちヨハネスは裁判に参加しなくてもよく、その座に復帰するべきであるというものがある。またサルディカ教会会議の第四条では、もしとある主教が罷免され、また再び弁解して復帰するのであれば、先にかつての地位に復帰するのではなく、ローマ教皇の決定を待つべきであるとされる ((

と、サルディカ教令をコンスタンティノープル総主教区にも適用しうる教会法とし、その根拠として過去の教皇の権威を持ち出している。

(16)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権一〇一 しかし、八六九年の公会議が教皇権の法的な特権性を認めたかどうかはあまり明確ではない。決議の中にローマ教会の特権を尊重するという文言はあるものの、それ以上に五つの総主教座の間の同等性とそれぞれの総主教座への敬意が強調されている (1

。八六九年の公会議はあくまでもビザンツ側の利害に基づいて開催されたものであった。

−4

  『聖イグナティオス伝』と十世紀初頭のビザンツ2

テオグノストスをはじめとする同時代の史料よりも少し時代は下るが、イグナティオス派に関連した著作としてはパフラゴニアのニケタスが著した『聖イグナティオス伝』が存在する。ニケタスは同時代の神学者アレタスの弟子として知られ、皇帝レオン六世の「四婚問題」では当初から皇帝の再婚に対する批判派グループの主要人物だったと推測される ((

。この聖人伝は八六九年の公会議の決議録やイグナティオス派の著作を情報源として、おそらくは暗に「四婚問題」を批判する意図を込めて執筆されたと推測されている ((

。ニケタスがこの聖人伝を執筆した当時のビザンツ教会は、「四婚問題」を原因とした前総主教ニコラオス・ミュスティコスとレオン六世が登用した修道士エウテュミオスの対立が続き、ニケタス自身もエウテュミオスと対立して いた ((

。このような現実世界の状況を下敷きに、『聖イグナティオス伝』はイグナティオスとフォティオスの対立という政治的なテーマを中心に据えた作品として執筆された。この聖人伝では八六一年の公会議の目的について以下のように記述されている。

彼はローマに使者を送って教皇ニコラウスからの使節を求めることを決めた。その目的は一つにはキリスト教徒からイコノクラスムの残りを完全に根絶するためとされていたが、実際はローマ人たちの手によってイグナティオスの罷免をより明確にするためだった ((

実際にミカエル三世が公会議そのものではなくローマ教会からの承認を欲していたのかはわからないが、少なくともここからは聖人伝の作者が公会議ないしそれに準じたものが開催されたことよりも、ローマ教会の同意を重要視していることがわかる。また聖人伝では八六一年から八六七年までのニコラウス一世の行動が描かれているが、これらは教皇の自発的な行動と解釈されている。

その時、前述のローマの使節がフォティオスからの贈

(17)

史観第一八一冊一〇二り物を受けて帰ってきた。教皇ニコラウスは彼らを尋問して、総主教イグナティオスについてのことを明らかにし、彼らの口によって彼ら自身を正しい公会議ではなく盗賊たちの反乱集会のようなものに参加していた罪で裁き、永遠のアナテマと罷免の罰を下した。そして彼らだけではなく、教皇はフォティオスを簒奪者そして姦通者としてアナテマを下し、正式な公会議の前にローマ教会全ての決議によって罷免し、彼が神学者グレゴリウスと対立して教会を混乱に陥れたキュニコスのマクシモスの例に他ならないとした。それゆえに彼を醜聞の責任のゆえに、また彼によって叙任された人々を彼に同意した罪で、使徒的な裁きのもとに処罰した。それだけではなく、フォティオスとコイノニアを交わした人々、皇帝とその臣下全てを書簡で破門した。ニコラウスは聖なる熱意で持ってこれを行い、東方の総主教たちにこの法に従った裁きを伝えた ((

ここでは教皇の裁定が公会議に先立つものとして描かれている。テオドロスの主張したようなペンタルキアの思想についての言及は全くなされず、ニコラウスが審問の結果としてイグナティオスの正しさを認めたような描写である。 ローマ教皇に対して好意的な一方、『聖イグナティオス伝』ではコンスタンティノープルで開かれた公会議について肯定的とはいえない描写をしている。イグナティオス派に有利な決議を下した八六九年の公会議は正統な第八回目の公会議として描写されているものの、作者はフォティオス派を根絶できなかったことがその欠点であると考えていた。聖人伝では公会議の前後に不吉な災害が起こったこと、またこれがイグナティオスの責任ではないとされているが、ここではおそらく八六九年の公会議を開催した皇帝バシレイオス一世がフォティオス派と妥協したことが暗に批判されている ((

。むしろ『聖イグナティオス伝』の中で公会議の正しさを担保するのは、公会議の決議がローマ教会の決議に従っていることだった ((

。イグナティオス派および『聖イグナティオス伝』の言説からは、ローマ教会のペンタルキアの一員としての評価はあまり見られない ((

。むしろ『聖イグナティオス伝』の関心はもっぱらビザンツ国内における教会の対立にある。彼らにとってローマの教皇権とは帝国を構成するペンタルキアの一員というよりも、教会法や使徒の伝統を共有しつつ、ビザンツ内部の主流派と対立している彼らの主張の正統性を保証する権威だったと言える。

(18)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権一〇三 おわりにコンスタンティヌス大帝によるニカイア公会議(三二五年(での規定以来、キリスト教帝国の支配者としてのローマ皇帝は教会の統一を維持するために、五つの総主教座が等しい地位を分かちその上に皇帝が君臨するというペンタルキアを宗教的なイデオロギーの基盤に据えた。ペンタルキアの思想自体はその後のローマおよびビザンツ帝国に受け継がれ、正教会の歴史を通じて長く存在し続けることとなる。その一方で皇帝によって形成されたイデオロギーとは別に、ローマ教会は自身の教会の地位について独自の思想を保有していたが、ローマ教会による使徒座としての主張は少なくともこの時点ではローマとキリスト教世界の他の部分を分離させたわけではない。四、五世紀には東方のキリスト教共同体の中でもローマ教会のペテロの後継者としての地位が認められ、ローマへの巡礼や嘆願も珍しいことではなかった。教義論争を皇帝による介入で収めようという七世紀の試みは六八〇年の第六回公会議で単性論・単意論が異端とされて頓挫したが、八世紀には再びイコノクラスムという形 で皇帝がキリスト教の教義に干渉する試みが続けられた。しかしこれも第二ニカイア公会議で頓挫し、皇帝自身が異端や反キリストの名で排斥される結果に終わった。イコン崇敬擁護派にとってのローマ教会とはコンスタンティノープルを他のキリスト教世界から分離させようと目論む皇帝に立ち向かう正統信仰の守護者であり、公会議の正統性とキリスト教世界の一体性を保証する存在だった。第二ニカイア公会議以降、ローマ教会は単に公会議の構成要素というだけではなく、より広い意味でペンタルキアの一体性を象徴する存在として捉えられた。イコン崇敬擁護派の亡命先としての人的交流の他に、テオドロスはローマ教会の助言や仲裁という形で皇帝の政策を動かそうと試みている。イコノクラスムが終わった九世紀半ばでも、正統信仰の守護者としてのローマ教会の評価やコンスタンティノープルとの人的交流そのものは残っていたと思われる。しかし、教皇とビザンツ人聖職者の接触の中身は公会議で解決するべき教義の問題から教会行政の問題に代わり、ペンタルキアの筆頭という地位に関する言及は少なくなる。イグナティオス派にとってローマ教会とは、総主教との対立に際して教会法に基づいて利用できる対抗権威だった。ペンタルキアに関する言及が減るとともに、ローマの権

(19)

史観第一八一冊一〇四威は単独で表されるようになる。例えば『聖イグナティオス伝』ではフォティオスの即位を確かなものとするためにローマの同意を求めたとしている。これはコンスタンティノープルの教会で起こる対立の中心が皇帝から総主教に、また教会内部の対立へと変化したことと関係があるように思われる。序列で言えば教皇がコンスタンティノープル総主教より上に存在することは、ビザンツ人の間でも共有された認識だった。また九世紀後半からローマ教皇はその特権性を主張したが、ビザンツでも西ヨーロッパでも同様に、その実態とは権力と対立したそれぞれの地域の聖職者のイニシアチブによる在地の権力への対抗手段としてのものだったということも指摘できる ((

。ニコラウス一世による首位権の主張とは、彼らのローマ教皇に対する需要を汲み取った上に成立しえたものだった。

註(

前後のビザンツと西ヨーロッパの外交交渉に関する近年 Centuries,Oxford,((((.などが挙げられる。一〇五四年 and the EasternChurches During the XIth and XIIth Runciman,The Eastern Schism: A Study of the Papacy S.((東西教会の分離についての古典的な著作としては ( (11(.などがある。 sogenannte Morgenlandische Schisma von 1054,Köln, A.Bayer,Spaltung der Christenheit: das の研究としては

( 680– 825,Philadelphia,((((. The Republic of St Peter: The Birth of The Papal State T.F.X.Noble,((ローマ教会の政治的な独立については

( Cambridge,((((. F.Dvornik,The Photian Schism: History and Legend,((

( the Church,Oxford,(11(. H.Chadwick, East and West: The Making of a Rift in ((

( the Filioque in the Ninth Century,Kalamazzo,(11(. T.M.Kolbaba,Inviting Latin Heretics: Byzantine and ((

( (((. across The Byzantine Empire,Princton,(1((,pp.(((– NinthCentury,”inMargins and Metropolis: Authority JHerrin,“ThePentarchy:TheoryandRealityinthe((

( 681-1071,NewYork,(11(,pp.(((–(((. A.Louth,Greek East and Latin West: The Church A.D. (( 論じている。また、日本国内の研究としても中谷功治『テ Iconoclastic Era, c.680 – 850, Cambridge,(1((.が詳しく L.BrubakerandJ.Haldon,Byzantium in the ついては ((七世紀から九世紀にかけてのビザンツ社会の変化に

(20)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権一〇五 マ反乱とビザンツ帝国:コンスタンティノープル政府と地方軍団』大阪大学出版会、二〇一六年や小林功「

( 「軍隊」「戦争」像―帝国・国家・地域社会と武装する民衆 (のテマと小アジア―ビザンツ国家の再生特集変容する (世紀

( はじめとする多数の論考が存在する。 (((」『歴史学研究』八八〇、二〇一一年、二〜一一頁を

( BasilIin(((,”Cithara((,((((,pp.(–((. BetweenFranciaandByzantium:TheLetterofLouisIIto S.C.Fanning,“ImperialDiplomacyとが知られている。 てて執筆された書簡では西の皇帝称号が問題となったこ ((八七一年のロドヴィコ二世からバシレイオス一世に宛

(1(岡崎実「

問題」『関西学院史学』( (世紀の東西教会分離におけるローマ首位権の

( (((、四九〜六四頁、一九七一年。

科学論集』( 〇年(直後のフランク・ローマ・ビザンツ―」『人文・社会 (((五十嵐修「「帝国」のゆくえ―カールの皇帝戴冠(八〇

( (((、一〜二二頁、二〇〇三年。

(東洋大学白山史学会( (((都甲裕文「一〇五四年の『シスマ』再考」『白山史学』

シー」『紀尾井史学』 松下昌弘「総主教ミカエル=ケルラリオスのテオクラ ((、一九八九年、三八〜六一頁。

( ((、一九九七年、一五〜三三頁。

(((甚野尚志「

ハーフェルベルクのアンセルムス『対話』の考察―」『エ ((世紀の教会知識人による東西教会の対話― クフラシス』

( ミネルヴァ書房、二〇一四年、四三〜六五頁。 スト教世界の統一性と多元性―』甚野尚志・踊共二編著、 権をめぐる論争―」『中近世ヨーロッパの宗教と政治―キリ 「ローマはキリスト教世界の「頭」か?―東西教会の首位 (、二〇一一年、八二〜九五頁。同著者 学』 (((橋川裕之「ビザンツの隠修士とリヨン教会合同」『西洋史

ツの正教信仰とリヨン教会合同」『洛北史学』 (1(、二四〜四六頁。同著者「魂を脅かす平和―ビザン

( 年、一〜二八頁。 (1、二〇〇八

( Practices,”Aureus,Athens,(1((,pp.(((–((1. FocusingonZweikaiserproblem,AnOutlineofIdeasand theWestandByzantium(Ninth-TwelfthCenturies): ((A.Kolia-Dermitzaki,“ByzantiumandtheWest–(例えば

( ((. andtrans.,byRJenkinsandL.G.Westerink,Ep.((,((,((, NicholasIPatriarchofConstantinople,Letters,ed.いる。 題」に関してローマ教会へ再三教会合同の要請を送って (((例えば総主教ニコラオス・ミュスティコスは「四婚問 A.d. 602-813,H.Turtledove,(11(.;TheodorosStudites, The Chronicle of Theophanes: Anni Mundi 6095-6305,は Leipzig:Teubner,(((((repr.Hildesheim:Olms,(((().英訳 ((Theophanis Chronographia,ed.byC.deBoor,vol.(,(

(21)

史観第一八一冊一〇六

Theodori Studitae Epistulae (Series:Corpus FontiumHistoriae Byzantinae – Series Berolinensis 31),vols.(,ed.byG.Fatouros,BerlinandNewYork,((((.(

( Epistolae(.Berlin,((((.NicolausI,Ep.(以後と略( Karolini aevi 4. Monumenta Germaniae Historica, papae epistolae, edited by E. Perels, 257-690. Epistolae ((NicholasI.Nicolai I (ニコラウス一世の書簡については

( ((J.Herrin,op. cit.,p.((1(

( ((((,p.(1. Present,tr.byJ.A.OttoandL.M.Marlony,Minnesota, (1K.Schatz,Papal Primacy: From Its Origins to the (

( p.((. Catholic Dogma,trans.byR.Defferari,Fitzwilliam,(11(, ((“DecretumGelasianum,”H.Denzinger,Sources of (

( (11(,p.((. Gregory the Great to Zacharias, A. D. 590–752,Lanham, Eastern Influences on Rome and the Papacy from ((A.J.Economou,Byzantine Rome and Greek Popes: (

( and History of a Debate,Oxford,(1((,p.(((. ((A.E.Siecienski,The Papacy and the Orthodox: Sources (

( ((Ibid.pp.(((–(((.(

((A.J.Economou,op. cit.,p.(((.( (

( Church,(:(,(11(,pp.(1(–((1,esp.p.(((–(((. Confessor,”inInternational Study of the Christian ((A.Louth,“TheEcclesiologyofSaintMaximosthe(

( ((A.J.Economou,op. cit.,p.((.(

( Byzantium, Cambridge,(11(,pp.(((–(((.が詳しい。 Dagron,Emperor and Priest: The Imperial Office in ((G.(イコノクラスムとビザンツ皇帝権の関係については

( いる。 Travaux et Mémoires(((((():pp.(((–(1(.は真正として originesdel›iconoclasme:letémoignagedeGrégoireII?” Ibid.pp.(((–(((.J.Gouillard,“Auxは偽書としているが (((グレゴリウス二世の書簡の真正性については諸説あり、

( (1L.BrubakerandJ.Haldon,op. cit.,p.(((.( Dumbarton Orthodox Papars,vol.((,(11(,pp.(((–(((. RelicsandReliquariesbetweenByzantiumandtheWest,” H.A.Klein,“EasternObjectsandWesternDesires:ては 架」を西ヨーロッパに贈与した事例についての研究とし ((((–((((,vol.(11,col.((1–(1(.ビザンツが「真の十字 J.P.Migne,PatrologiaeCursusCompletus.SeriesGraecae, 深い聖遺物である「真の十字架」の断片を贈与している。 する書簡を送るばかりではなく、ビザンツ皇帝権と関係の (((総主教ニケフォロスは教皇レオ三世にイコン崇敬を支持

(22)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権一〇七 (

( pp.(((–(((.;The Chronicle of Thephanes,pp.(((–(((. Theophanes Chronographia,年の戦死などが描かれている。 難だけではなく、皇帝ニケフォロス一世の十の悪行と八一一 (((『テオファネス年代記』ではイコノクラスト派皇帝への非

( ((The Chronicle of Thephanes,pp.viii–XX.(

( Thephanes,p.((. ((Theophanes Chronographia,p.(((.;The Chronicle of (

( Chronicle of Thephanes,p.(((. ((Theophanes Chronographia,p.(((–(((.;The (

( Chronicle of Thephanes,p.(((. ((Theophanes Chronographia,p.((1–(((.; The (

( Thephanes,pp.((–((. ((Theophanes Chronographia,p.(1(.;The Chronicle of (

( Thephanes,p.(11. ((Theophanes Chronographia,p.(1(.;The Chronicle of (

( Chronicle of Thephanes,p.(((. ((Theophanes Chronographia,p.(((–(((.;The (

( ofDurhamUniversity,(11(,p.(((. Churchman, Politician and Confessor for the Faith,Diss. (1G.P.Bithos,Methodios I Patriarch of Constantinople: (

((Theodorus Studites, Epistulae,Ep.((–((.((以下

Theodorus.Ep.と略( (

( ((Ibid.,Ep.(((–(((,(((.(

( ((Ibid.,Ep.(((,((–(1.(

( ((Ibid.,Ep.((,(–(.(

( ((Ibid.,Ep.(((,((–((.(

( ((Ibid.,Ep.(((,((–((.(

( Byzantion),(((1,pp.(-pp.(((,esp.p.((. (Bibliothèque de Byzantion 3. Brussels: Éditions de Hayter,Vita Euthymii patriarchae Constantinopolitani P.Karlin-く、単に首位という意味の言葉である。例えば (((この単語自体はローマ教会を表す特別な単語ではな

( ((Bithos,op. cit.,p.(((.(

( ((Theodoros,Ep.(((,((–((.(

( Karolingerzeit,Stuttgart,((((,pp.(1(–(((. und Grenzen päpstlicher Herrschaft in der späten in der Mitte des 9. Jahrhunderts : Möglichkeiten K.Herbers,Leo IV. und das Papsttumて位置付けている。 対立をフォティオスのシスマに先立つ性質を持つ事件とし (1(K・ハーバースは教皇レオ四世と総主教イグナティオスの

( Washington,D.C.,(1((,pp.((–((. TranslationbyA.SmithieswithNotesbyJ.M.Duffy, ((NicetasDavid,The Life of Patriarch Ignatius; Text and(

((Monumenta Germaniae Historica, Epistolae 5,ed.by(

(23)

史観第一八一冊一〇八

A.deHirsch-Gereuth,LeoIV,Ep.(,p.(((.(

( op. cit.,pp.((–(1(. Chadwick,進状』をニコラウス一世が利用したと主張する。 成された『偽イシドルス教令集』、『コンスタンティヌスの寄 ((H.Chadwick(は当時カロリング朝聖職者の手によって作

( (((1,pp.(((–(((. First Age of Papal Independence,diss.ofColumbiaUniv., J.C.Bishop,Pope Nicholas I and the 立の詳細については (((フォティオスを含めた聖職者たちとニコラウス一世の対

( ((((,pp.(((–(((,esp.p.(((. accordingtoHincmarofReims,”Theological Studies((, ((G.Tavard,“EpiscopacyandApostolicSuccession(

( している。 ムよりフォティオスの即位の方が主眼であったとして非難 (((特にニコラウス一世は八六一年の公会議をイコノクラス

( に非難されている。 会議ではフォティオスの世俗の後ろ盾としてバルダスが主 ((Dvornik,Photian Schism,pp.((–(1.(後に八六九年の公

( ((F.Dvornik,op. cit.p.((.(

NicolausI,Ep.((–((.る。 世の東方関係書簡として一連の書簡が纏めて収録されてい ((Monumenta Germanicae Historiae(ではニコラウス一 (

( Westerink,vol.(,Ep.(. Constantinopolitani,ed.byB.LaourdasandL.G. (1Photius,Epistulae et amphilochia PhotiiPatriarchae(

( ((NicolausI,Ep.((–((.(

( ((A.Louth,op. cit.,p.((.(

( ((Photius,Ep.((1.(

( ((Ibid.,(((–(((.(

( ((Ibid.,(((–(((.(

( ((NicolausI,Ep.((–((.(

( ((NicolausI,Ep.((,p.(((.(

( Dvornik,op. cit.,pp.((–((.かな内容が推測できる。 ていないが、八六六年のニコラウス一世書簡からその大ま (((八六三年のローマで行われた教会会議の議事録は伝来し

( ((NicolausI,Ep.((,p.(((.(

( NicolausI,Ep.((.て書簡を執筆している。 (1(八六六年にニコラウス一世はボリス汗からの接触に応じ

( ((F.Dvornik,op. cit.,pp.(1(–(1(.(

( ((Dvornik,op. cit.,pp.(1(–(1(.( の関与を疑っている。彼は八六九年の公会議で読み上げら 修道院の長(アルキマンドリテス(であるテオグノストス 特に八六五年の書簡で言及されたローマ市内のギリシャ系 ((Dvornik,Photian Schism,pp.((–(1(.(ドヴォルニクは

(24)

イコノクラスム以後のビザンツと教皇権一〇九 れたイグナティオスへの讃頌を執筆し、また八六七年以降もローマとコンスタンティノープルの間を使節として行き来した。Ibid.,pp.(((–((1.(

溺死したことによって審議は有耶無耶になったとする。 たが、フォティオス派の使節であるペテロスは航海中に オス派の仲裁は八六九年の公会議直前に実際に企画され 「聖イグナティオス伝」ではイグナティオス派とフォティ (((八六五年の書簡で提案されたローマでの仲裁に関して Nicetas,op. cit.,pp.((–((.『教皇の書』のハドリアヌス二世の伝記でも同様のことが書かれている。The Lives of theNinth-Century Popes (Liber Pontificals),tr.byR.Davis,Liverpool,((((,pp.((1–(((.(

( ((NicolausI,Ep.(1–((.(

( ((NicolausI,Ep.(1.(

( Epp.(,((((-((((,p.(((-(((,esp.p.((1. (Monumenta Germaniae Historiae),ed.E.Caspar,e.a., ((AnastasiusBibliothecarius,Epistolae sive Praefationes (

( Collectio,vol.((,((((,col.(((. ((J.Mansi,Sacrorum Conciliorum Nova et Amplissima (

( ed.byJ.P.Migne,col.((1. ((Patrologiae Cursus Completus. Series Graeca,vol.(1(,(

(1(八六九年および八七九年の公会議で議論された各総主教 ( しく論じられている。 CanonicalCollections,”The Jurist((,(11(,pp.((–((.に詳 andtheWestintheFirstMillenium.AStudybasedonthe C.Gallagher,“CollegialityintheEast座の地位については

( LeidenandNewYork,((((,esp.pp.(((–(((.がある。 S.Tougher,The Leign of Leo VI: Politics and People,は (((レオン六世と「四婚問題」について近年の研究として

( 筆を「四婚問題」より以前とする異説も存在する。 ((Nicetas,op. cit.,pp.xi–xii.(なお、ニケタスの聖人伝執

( ((Ibidem.(

( ((Ibid.,pp.((–((.(

( ((Ibid.,pp.((–((.(

( ((Ibid.,pp.((–((.(

( ((Ibid.,pp.((–((.(

( S.Tougher,op. cit.,p.(((.を招いて会議を開催している。 世は自身の再婚を認めさせるために五つの総主教座の代表 ない。作者ニケタスが経験した「四婚問題」ではレオン六 (((その一方で、ペンタルキアの原則自体が廃れたとは言え 関係の中で形成されたものとして描いている。B・シンメ 権は自明のものだったわけではなく、政治的な諸勢力との で、とりわけ十世紀以前のローマ教皇権についてその首位 (((シンメルペニッヒは自身のローマ教皇庁史の概説の中

参照

関連したドキュメント

第1款 手続開始前債権と手続開始後債権の区別 第2款 債権の移転と倒産手続との関係 第3款 第2節の小括(以上、本誌89巻1号)..

[r]

を占めている。そのうち 75 歳以上の後期高齢者は 1,872 万人(14.9%)、80 歳以上は 1,125 万

変容過程と変化の要因を分析すべく、二つの事例を取り上げた。クリントン政 権時代 (1993年~2001年) と、W・ブッシュ政権

2(1)健康リスクの定義 ●中間とりまとめまでの議論 ・第

[r]

主権の教義に対する政治家の信頼が根底からぐらつくとすれば,法律家の